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寿永二年 (1183年)
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前年・養和二年(1182)の吾妻鏡     翌年・寿永三年(1184)の吾妻鏡
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吾妻鏡 写本 (伏見本) の全ページ画像 を載せました。直接 触れるのも一興、読み解く楽しさも味わって下さい。
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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に載った記事の意訳、および関連する記事と解説
  
  
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冒頭部分の記録なし(逸失か)。年代の錯誤も多数あり、日付ごとに訂正のコメントを入れた。
前後の脈絡を確認して、この年と推定できる部分を記載し、平家物語など他の史料からも引用した。
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平家物語など、日付なしの場合も他の史料との関係から推測できる場合は記載した。多少の誤差は御容赦を。
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閏月とは
 
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当時の陰暦では季節とのギャップ調節のため 3〜4年に一度閏 (うるう) 月が入る (今年は 2月の次が閏 2月)。西暦と陰暦には一ヶ月前後のズレがある事にも留意が必要、例えば頼朝が挙兵した治承四年 8月 4日は西暦では 8月26日になる。陰暦→ 西暦の変換は こちらのサイト が利用できる。
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また 2月と 7月が 30日なのもお忘れなく。十干十二支 (甲子〜癸亥まで六十種) での確認に 2時間も費やした!

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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永二年
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閏2月15日
吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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吾妻鏡は治承五年(1181年 閏2月)の記事として記載しているが、寿永二年が正しい。
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院から 頼朝追討の下文 (指示命令の公文書) が東海道の諸国に向け発行された。平重衡朝臣がこれを携え、頼朝を討つため千余騎の精兵を卒いて東国を目指した。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永二年
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閏2月17日
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吾妻鏡
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吾妻鏡は治承五年(1181年 閏2月)の記事として記載しているが、寿永二年が正しい。
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安田義定和田義盛、岡部忠綱 (忠澄の祖父) 、狩野親光宇佐美祐茂土屋義清、遠江の住人横地長重、勝間田成長らを率いて浜松の要害 橋本に到着。頼朝の命令に従い、ここで平家を迎え討つためである。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永二年
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閏2月20日
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吾妻鏡
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吾妻鏡は治承五年(1181年 閏2月)の記事として記載しているが、寿永二年が正しい。
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頼朝の叔父 志田義広は (源氏の) 血縁に繋がる事を忘れ、数万騎の兵を率いて鎌倉を攻めようと常陸国を出陣し下野国に入った旨の報告が届いた。平家軍襲来の情報があったため鎌倉の軍兵の多くが駿河国以西に派遣されており、義広の行動には思い煩わされるものがある。
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下総国には 下河辺行平が、下野国には 小山朝政がいる。両人は命令がなくとも戦って功績を挙げるだろう。
さらに今日、朝政の弟 (長沼) 宗政と従兄弟の政平などを援軍として下野国に向け出発させた。政平は頼朝に暇乞いの挨拶をした後に出発したが、頼朝は「政平には二心がある」と語った。
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果たして政平は途中で宗政と別れ、裏道を通って義広の陣に馳せ参じた。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永二年
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閏2月23日
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吾妻鏡
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吾妻鏡は治承五年(1181年 閏2月)の記事として記載しているが、寿永二年が正しい。
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志田義広は数万余騎で鎌倉を目差した。最初に誘った 足利忠綱は元々源氏に叛いているため彼に従った。
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小山一族と (籘姓の) 足利一族は同じ 藤原秀郷 (俵藤太 ) 流の同族だが同じ地域で覇権を争う間柄であり、去年の夏に 以仁王が平家討伐の令旨を諸国に送った際に小山には話があったのに忠綱にはなかった。
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その鬱憤もあるため平家に加わり、宇治川で 源三位頼政の軍と戦ってそれを破り 以仁王 を討ち取っている。
今、小山も滅ぼそうと考えたのである。
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次に義広は出陣した要旨を小山朝政に伝えた。朝政の父 政光は大番役 (皇居警護の役務) で多くの部下を連れて在京しているため手勢は少ないが、頼朝に臣従している。義広を討ち取る軍議をしたところ、歴戦の家臣が「参加すると偽って殺す機会を図るべき」と提案し、朝政は義広軍に参加する旨を伝えた。
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義広は喜んで朝政の館に向かったが 朝政は一足先に館を出て野木宮に隠れ登々呂木澤や地獄谷の樹に部下を登らせ大声で大軍を装った。
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朝政は25歳、緋威の鎧を着して鹿毛の馬に跨って走り回り多くの敵を倒したが義広の矢に射られて落馬、大きな傷にはならなかったが馬は主人から離れて登々呂木澤の近くで嘶いた。
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    右は周辺の鳥瞰図 クリック→ 野木宮合戦の詳細へ (別窓)
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ちょうど鎌倉から小山を目指していた 小山五郎 (長沼) 宗政 (20歳) 勢はこの馬を見て朝政が討死したと思い込み、義広の陣に突撃した。
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義広の乳母子 多和利山七太が馬に鞭を当てて宗政の左に立ち塞がったためこれを射落とし、小舎人童が首を獲った。義広は少し退却して野木宮の西南に陣を張った。
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朝政と宗政は東から攻め掛かり、ちょうど強風が焼け野の塵を吹き上げ義広の軍勢を襲ったため人馬共に視界が利かず、多くの兵が分断されて地獄谷と登々呂木澤に死体を晒す結果となった。
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下河辺行平と弟の 政義が古我 (古河) と高野の渡しを固め敗走してくる敵を討ち取った。足利有綱、嫡男の佐野基綱、四男の阿曽沼広綱、五男の木村信綱、大田行朝らは小手差原に陣取り、小堤などで戦った。
他にも 八田知家、下妻清氏、小野寺道綱、小栗重成、宇都宮信房、鎌田為成、湊河景澄らが朝政軍に加わり、更に後続の 範頼も加わった。
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小山朝政は藤原秀郷が天慶の乱で 平将門を追討して下野と武蔵の国守を兼任し従四位下に叙されて以降この地を支配した一族の棟梁である。義広の謀計を聞き、命を惜しまずに忠義を尽くし勝利を得る結果となった。
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   ※義広の軍勢: 頼朝鎌倉入りの際は関東の武者が次々加わり総勢2万7千騎、と吾妻鏡は書いている。
それを考えれば志太義広の兵力3万騎は明らかな誇張で、その軍勢が動員力の劣る朝政勢に敗れるのは合理性に欠ける。せいぜい千騎か、譲っても三千騎程度だろう。
ましてや鎌倉を攻めるつもりで出陣したなど、有り得ない捏造だ。
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   ※合戦の場所: 野木宮合戦の地は現在の渡良瀬遊水池東側、栃木県の野木町大字野木2404の一帯。
現在の地図は こちら、合戦の詳細と画像などは上記した野木宮合戦の明細で。
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   ※敗軍を迎撃: 古我の渡し (万葉集は「我の渡」と) は渡良瀬川の三国橋 (地図) 辺りと推測される。
江戸時代の流路大改修までの利根川は現在の昭和橋付近 (地図) で南東に下り、現在の江戸川ルートで東京湾に流れ込んでいた。利根川東遷事業 (国交省) を参照されたし。
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高野の渡しは後の鎌倉街道ルート、東武伊勢崎線和戸駅近くの古利根川 (当時は武蔵と下総を隔てる高野川) に架かる万願寺橋西詰 (地図) に案内板が建っている。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永二年
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閏2月25日
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吾妻鏡
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吾妻鏡は治承五年(1181年 閏2月)の記事として記載しているが、寿永二年が正しい。
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足利忠綱は志太義広に味方したが、野木宮の合戦で敗れたのを悔やんで上野国の山上郷龍奥に引き籠った。
家臣の桐生六郎だけを伴って数日間隠れてから六郎の勧めで山陰道を経て九州方面に落ち延びた。
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この足利忠綱は無双の勇士で抜きん出た事が三つある。その一つは百人力、二つは十里も届く大声、三つは三寸 (この場合は約3cm) もある歯 (出っ歯か?) である、と。
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   ※両足利氏の相克: 源姓足利氏の本拠である 鑁阿寺の開山和尚は、伊豆山権現 般若院を住持した理真
上人。鑁阿寺 から2km弱西にある 福厳寺足利忠綱が父母の菩提を弔って開いた謂わば菩提寺のような存在だが開山和尚は源氏に縁の深い理真上人、まだ藤姓足利氏がそれなりの勢力を保っていた寿永元年 (1182) の創建である。
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唐沢山城址と秀郷の墓所の中段やや下に記述した通りこの時点での源姓足利氏は、新田荘を開発した新田義重が宗家の足利氏を相続した義兼を補佐して足利市南部支配権奪取の意欲を高めていた。
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一方で藤姓足利氏は平家に頼って既得権を守り抜こうとし、野木宮合戦に参加して墓穴を掘る結果を招いてしまう。
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足利市を東西に横切る渡良瀬川の南東方向、館林市寄りには三か所の御厨神社がある。
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渡良瀬川南北の広大なエリアを 八幡太郎義家から相続した三男 義国 安楽寿院 (Wiki) に寄進して足利荘とした当時、つまり 藤原秀郷 の子孫 藤姓足利氏が河内源氏の家人として下司職に任じていた時代から、頼朝が東国の支配権を得つつあった時代への流れである。   詳細は上記 福厳寺 の後半部分を参照されたし。
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  右上画像は足利荘の範囲と東側の隣接地。 クリック→ 別窓の拡大ページへ
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   ※山上郷龍奥: 桐生市新里町西部の城山に 山上城跡公園 (桐生市サイト) として多少の遺構が残る。
足利の北西 約 25kmの藤姓足利氏の支配下、後発の源氏が触手を伸ばしたエリアだ。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永二年
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閏2月27日
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吾妻鏡
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吾妻鏡は治承五年(1181年 閏2月)の記事として記載しているが、寿永二年が正しい。
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頼朝が鶴岡八幡宮に参拝した。願を掛けて 7日目、満願の日である。頼朝が「志太義広挙兵の件はどうなったか」と独り言を漏らすと、太刀持ちとして控えていた 小山 (後の結城) 朝光「既に朝政に攻め滅ぼされたでしょう」と答えた。頼朝は振り返って「若者の言葉は心の思いつきではなく神託だろう。もしその通りならば褒賞を与えなくては、な」と答えた。朝光は今年15歳である。
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参拝が済んで御所に戻ると 下川辺行平 小山朝政からの使者が到着し、志田義広の敗北と逃走を報告した。
夜になって朝政からの使者が再び到着、義広に従った武士の首を持参したと報告、頼朝は 三浦義澄 比企能員に命じて腰越の獄門に晒させた。
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   ※朝光の褒賞: この合戦の功績で 結城 (Wiki) を与えられ、結城一族の祖となった。
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   ※腰越の獄門: 当時の腰越は鎌倉の外とされ、獄門があったらしい。後に義経も鎌倉入りを許されずに
腰越で足止めされ、死後 平泉から届いた首も腰越浜で首実検されている。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永二年
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閏2月28日
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吾妻鏡
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吾妻鏡は治承五年(1181年 閏2月)の記事として記載しているが、寿永二年が正しい。
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小山 (長沼) 宗政が (先日の合戦で負傷した) 朝政の代理として一族及び参戦した者を伴い鎌倉に参上し、頼朝と対面して勲功を褒められた。宗政と下河辺行平と一族は西側に、八田知家と小栗重成らは東側に列した。
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義広に従って捕虜となった者は29人、或る者は首を晒され、或る者は行平や有綱が拘留された。また常陸、下野、上野で志太義広に味方した輩の所領は全て没収、恩賞として朝政や朝光らに与えられた。
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   ※有綱: 藤姓足利氏棟梁俊綱の弟 (庶子) 。俊綱忠綱父子は義広に味方したが有綱と 基綱親子は頼朝の
挙兵直後から合流し、御家人として本領の佐野を名乗っている。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永二年
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3月
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平家物語
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木曽義仲以仁王の遺児 北陸宮を担いで信濃から北陸に勢力を広げ、頼朝と戦った 源 (志田) 義憲 十郎行家を庇護したため鎌倉との関係が悪化した。
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頼朝は10万の軍勢と共に上州を経て信濃善光寺に進出、義仲も上田市南部の 依田城を出て信濃と越後の国境に近い熊坂山 (中野市永江、地図) に布陣、ここで両者の協議があった。義仲が嫡男 義高を人質として鎌倉に送って戦う意思がない事を示し、それを受けて頼朝が兵を退く妥協が成立した。
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   ※妥協が成立: とりあえずは義仲に圧力をかけ 打倒平家のために勢力の分裂は避ける、平家を倒したら
軍事力に勝る鎌倉側が有利だ。そう計算した頼朝の政治的勝利である。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永二年
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4月 2日
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平家物語
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義仲は嫡男の義高 (11歳) を人質として鎌倉に送り、取り敢えずの和解が成立した。義高は 海野幸氏望月重隆らを伴い、頼朝の長女 大姫の婿という立場で鎌倉に入った。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永二年
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4月17日
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平家物語
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この日、義仲追討のため総大将 平維盛、大将軍 平通盛の率いる軍兵10万騎が京を出陣した。軍勢は北陸道へ進み、越前国燧城 (南越前町今庄) に籠った在地の武士団に勝利し越中国砺波山に敗走させた。5月に入ると維盛は主力7万騎で義仲軍を討つべく越中へ、平通盛と平知度は3万騎を率いて能登の鎮圧に移動した。
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   ※平家の出陣: 琵琶湖西岸の西近江路から北陸道を進軍。数年も続いた飢饉で兵糧が不足して行軍途中
での徴発が認められており、ルート上の農民はみな山野に逃げた、と伝わる。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永二年
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5月 9日
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平家物語
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越後国府 (上越市) に入った義仲は先鋒として 今井兼平の6,000騎を派遣、兼平は越中御服山 (富山市の神通川沿い) に進んだ。
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義仲の主力 1万は六動寺 (小矢部川河口付近の六渡寺、地図、般若野の10km北) に待機した。
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加賀から倶利伽羅峠 (地図) を越えた平家の先鋒 平盛俊は越中盤若野 (富山県高岡市南部) に進み兵を休めた。今井兼平軍は9日早暁に盤若野を奇襲、盛俊軍は善戦したが午後になって退却した。
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盛俊の率いる3万騎は能登国志雄山 (石川県羽咋市南部) に撤退して布陣した。一方で維盛の率いる7万騎は倶利伽羅峠の東500mの栃波山に布陣して体制を整えた。
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       右画像は倶利伽羅峠周辺の合戦場地図。 画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永二年
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5月10日
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平家物語
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義仲軍の主力は六動寺から移動し盤若野の今井軍に合流した。 (5/9の 義仲の行動地図を参照されたし。) .
西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永二年
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5月11日
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平家物語
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義仲は 源行家 楯親忠に兵を与え通盛&知度を牽制。この日は特に合戦せずに砺波山に進み、樋口兼光の兵を平家軍の背後に廻り込ませて攻撃の準備を整えた。
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義仲軍の主力は分散して数ヶ所に夜襲を掛け、退路の倶利伽羅峠を樋口勢に塞がれた平家軍は総崩れとなり唯一敵のいない南側の地獄谷に殺到して壊滅した。平家は主力の大半を失ない、総勢七万の中で都に戻れた兵は七千と伝わる。大将軍の 平維盛も辛うじて死地を脱し京に逃げ帰った。
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   ※思い出多き地: キャンピングカーで一泊して歩き回った 倶利伽羅峠の古戦場は 加賀篠原の古戦場と
併せて、再訪したい場所の一つだ。いつか、必ず。 上記の周辺地図も参考に。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永二年
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5月13日
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平家物語
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義仲は能登国志雄山を目差した行家軍の応援に2万騎を率いて駆けつけ通盛郡と知度軍 3万を撃破、京に向けて撤退する平家軍を追う。平家軍は 19日に加賀篠原(地図) に布陣して防衛ラインとした。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永二年
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5月21日
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平家物語
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義仲軍は平家軍が布陣した加賀篠原 (加賀市篠原町) を攻めて壊滅させた。平知度 (清盛の七男) が討ち死に、最後尾を守って奮戦した老将 斎藤実盛も義仲の家臣 手塚光盛に討ち取られた
実盛は久寿二年 (1155) の 大蔵合戦で殺される筈だった幼い駒王丸 (成長後の 義仲) の命を救った武者である。
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   ※斎藤実盛: 出生は越前の国 (概ね福井県) 、縁あって平宗盛が
所有する長井荘 (熊谷市北部 妻沼町 (地図) の別当 (荘官の長)を務め 優れた管理能力から宗盛に長く重用された。この恩に報いるため 平家と運命を共にする道を選んだ、とされている。
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関連情報は 大蔵合戦以外にも 班渓寺と鎌形八幡長井荘と歓喜院、更に 義仲の遺児 清水義高関連の資料なら 義高最期の地大船 常楽寺 の各ページに記述してある。
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右上は実盛の首を洗ったと伝わる加賀篠原古戦場の鏡池。クリック→ 別窓で拡大表示。
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   ※戦死者: 実盛の他 俣野景久 (大庭景親の弟) や 伊東祐親の二男
祐清もこの合戦で落命したと思われる。 平家物語にある「伊藤九郎祐氏」が伊東祐清だろう。
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1ヶ月前に出陣した平家軍は公称10万騎、5月末に都に戻れたのは通盛&知度軍の敗残兵と倶利伽羅峠の敗残兵を併せても2万だから、平家軍はこの合戦で戦力の 80%を失った計算になる。
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右は小松市の田太神社収蔵の 伝 義仲奉納の兜。
   実盛の兜と伝わるが、その真偽は不明。
    画像をクリック→ 別窓で拡大表示

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奥の細道を辿る芭蕉が立ち寄って読んだ一句  「むざんやな 甲の下の きりぎりす」
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永二年
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6月10日
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平家物語
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義仲は越前国府に入り、太夫坊覚明に命じて入京の途中にある 比叡山延暦寺(公式サイト)に書状を送った。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永二年
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6月16日
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平家物語
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平家を選ぶか、義仲に味方するか。その選択を迫る 木曽義仲の書状が比叡山に届いた。
私の進軍を妨げ 平家に味方して禍根を残すか、それとも神仏と天皇と国のため源氏に味方するか、と。

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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永二年
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7月
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平家物語
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比叡山の僧は半月の会議を経て源氏に味方する結論に達し その旨を書き送った。その直後に平家一門の公卿が連署して救援を依頼する内容の書状が届いた。憐れみを乞い願う、と。
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   ※比叡山の去就: 桓武天皇が保護し平安遷都の3年後には官寺と定めた古い由緒を持つ、平家とは縁の
深い寺なのだが、これも栄枯盛衰の一つである。
南都 (奈良) の東大寺や興福寺は治承四年 (1981) 12月28日には 重衡の率いる平家軍の焼き討ちで殆どの堂塔を焼失し多くの死者を出している仏教の教団組織が今さら味方する筈もない。京に残るのは敗残の兵のみ、南も北も敵となった。
もし清盛が生きていたらどう動いたか、想像するのも面白いと言うか、恐ろしいと言うべきか。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永二年
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7月14日
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平家物語
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平貞能が九州の反乱を鎮圧して京に戻った。貞能は「都での決戦」を強く進言したが、容れられなかった。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永二年
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7月24日
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平家物語
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木曽義仲軍 5万騎が東坂本 (大津の北) に入り行家軍数千が宇治に進んだ、との報告が京に到着。平知盛重衡は京での決戦を主張したが、棟梁 宗盛「法皇と帝を擁して西海で再起を計る」道を選んだ。
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しかし、切り札になる筈の 後白河法皇はその夜のうちに御所の法住寺殿を脱け出して鞍馬を経て比叡山へと逃げ込み、昨日までは朝敵だった義仲に平家追討の院宣を与えてしまう。
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   ※後白河法皇: 後に頼朝「日本一の大天狗」と評した法皇の面目躍如だ。流れを読んで早めに逃げた
法皇の狡賢さもあるが、簡単に逃がした宗盛の詰めの甘さは棟梁の器とは言えない。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永二年
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7月25日
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平家物語
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朝 5時、平家の公卿と殿上人70余人は六歳の 安徳天皇 建礼門院および三種の神器を伴い、七千の郎党と共に急いで都を離れた。六波羅をはじめとする屋敷に火を放ち、都の大半が焼け落ちた、という。
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頼朝と事前に連絡を取り合っていた 頼盛 (清盛の異母弟、生母は清盛の父 忠盛 (Wiki) の後妻 池禅尼) は途中で離脱し都に引き返した。 平貞能 宗盛の許しを得て平家一門と別れ、都に戻った。
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在京中だった東国の武者たちは拘留されており、中でも 畠山重能小山田有重宇都宮朝綱らは斬られる筈だったが貞能の口添えに加えて 知盛も釈放を願い、宗盛もそれを許した。重能らは涙を流して西国への供を願ったが宗盛は「汝らの心は既に東国にあり、今では魂の抜け殻に過ぎない」として同行を許さなかった。
平家一門は造営の半ばだった福原宮 (現在の神戸山裾) に一泊し、翌朝火を掛けて船に乗り西海を目指した。
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   ※貞能の行動: 仕えていた 重盛の遺骨が源氏に蹂躙されるのを防ぐため掘り返し、少量を手元に残して
高野山に送り周辺の土も鴨川に流してから重盛の妹 (姉説あり) 妙雲禅尼と重盛の妻 得律禅尼を伴って平家一門と反対方向の東国へと落ち延びた。
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そして 2年後の文治元年 (1185) 、僧形で得律禅尼を伴い 宇都宮朝綱邸を訪れて保護を願い出る。貞能は朝綱の外戚であり、拘留されていた朝綱と畠山重能 (重忠の父) ら東国の武士を気遣って帰国に尽力した、宇都宮一族の命の恩人である。
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その後の貞能の生涯については 益子の安善寺、妙雲寺、茨城城里町の小松寺 を参照されたし。【鎌倉時代を歩く 弐】 には詳細の流れを記述した)。
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   ※朝綱の外戚: 貞能の父は「平家随一の郎党」と呼ばれた家貞、母は宇都宮氏の娘。兄 (生母は不明) の
家継は翌 元暦元年 (1184) 7月に残存兵力を集めて三日平氏の乱を起こし、奮戦して一矢を報いた末に敗死している。この辺の平家残党の動きは涙なしには語れない。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永二年
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7月28日
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平家物語
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木曽義仲が入京。比叡山に逃げていた 後白河法皇は義仲率いる 5万騎と共に都に戻った。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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養和二年
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8月10日
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平家物語
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後白河法皇による除目が行われ、義仲は左馬頭 伊予守 朝日将軍、源行家は備前守が与えられた。当初は義仲に越後守、行家に備後守が与えられたが任国が不満とのことで、16日に変更となった。
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   ※任国が不満: 玉葉 (九條兼実の日記) には 「行家が義仲と同じ扱いが不満なので変更した」 とあり、義仲
の不満とは書いていない。前歴から推量するとグズグズ言ったのは行家だろうね。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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養和二年
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8月12日
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平家物語
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後白河法皇が平家に要求していた「安徳天皇と神器の返還」が拒絶された。義仲は自分が伴ってきた 以仁王の子である北陸宮の即位を要求して拒絶され、朝廷における評価を著しく悪化させた。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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養和二年
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8月17日
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平家物語
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平家一門は 筑前大宰府 (史跡 大宰府跡地図 ) に入った。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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養和二年
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9月 日
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平家物語
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平家一門は大宰府に落ち着いて御所の造営を考えたが、後白河法皇の命令を受けた豊後の 緒方惟義 (元は 平重盛の家臣) が退去を要求、合戦となった挙句に大宰府を追われてしまった。
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平家一門の移動先は、船で 清盛の知行国だった長門国 (現在の山口県西部、地図) 、国府は下関市の長門国二宮の 忌宮神社 (Wiki) 周辺) 、三年後に平家一門が滅亡を迎える壇ノ浦のすぐ北東である。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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養和二年
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9月  
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状況説明
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この年の 8月頃から、平家物語はもちろん玉葉 (九条兼実の日記) などに義仲の失態や治安維持の失敗に関する批判が多くなる。幼い時に父親を殺された境遇は似ているが、都で暮らした経験のある頼朝と違って義仲にはリーダーに求められる経験も教育も欠けており、更に都の風俗習慣にも通じていなかった。
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もちろん政治的な駆け引きや交渉事にも不慣れで、後白河法皇や頼朝にとって扱いやすい相手だったのだろう。また情勢に応じて正しい助言ができる優れた参謀役がいなかったのも致命的だった。
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松尾芭蕉はそんな義仲の一本気を愛し、遺言の通り大津膳所の 義仲寺墓所 (胴塚) の隣に葬られている。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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養和二年
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9月 7日
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吾妻鏡
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吾妻鏡は治承五年、養和元年 (1181年) 9月7日(二巻 )の記事としているが、壽永二年が正しい。
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従五位下 藤原俊綱 (足利太郎) は 藤原秀郷の後裔で、鎮守府将軍兼阿波守兼光から 6代目家綱の息子である。
足利郡の棟梁であり、一帯の数千町歩を領有している。去る仁安年間 (1166〜1168年) にある女性を殺した罪科により 平重盛が下野国足利庄の支配権を没収し、新田義重に与えた。
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俊綱が上洛して嘆き訴えたため元に戻された恩を忘れず平家に忠節を尽くし、更に嫡男 忠綱 源 (志田) 義憲に仕えて 頼朝陣営には加わっていない。頼朝にはこの不満が重なっているため、三浦 (佐原) 義連葛西清重宇佐美実政らを加えて和田義茂に追討の命令書を発行、その先発として和田義茂が本日出発した。
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   ※足利の支配権: この変遷がよく判らない。手元の資料には義家の四男 義国は 康治元年 (1142) に相続
した所領の足利を安楽寿院に寄進して足利荘とした」とある。
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安楽寿院は 後白河天皇 (後の法皇、在位1127〜1192 ) の仏堂だから本家 (最上位の荘園所有者) であり、承認もなしに勝手な管理権変更はできない筈だし...
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まして義国から相続した 足利義康は鳥羽上皇に仕えていたし。平家全盛の時代に藤姓足利氏が優遇された経緯は判るが、この辺はもう少し詳細に確認する必要がある。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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養和二年
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9月13日
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吾妻鏡
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吾妻鏡は治承五年、養和元年 (1181年) 9月13日(二巻 )の記事としているが、壽永二年が正しい。
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和田義茂の飛脚が下野国から到着した。書状に曰く、「義茂が足利に着く前に俊綱腹心の家臣である桐生六郎が頼朝への臣従を示すため主人の俊綱を殺して龍奥の山中に隠れた。捜した者の話を聞き義茂の許に来た六郎は俊綱の首を持参しておらず、鎌倉に届けたいと言う。どうするべきか」と。
頼朝は「持参させよ」と命じ、使者は直ちに引き返した。
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   ※俊綱の首: 足利の伝承では両崖山城攻撃の前日に桐生六郎が渡良瀬川の義茂陣に首を持参した、と。
両崖山散策記録は 福厳寺 (別窓) の後半に、その他の関連項目は 足利学校と鑁阿寺の末尾、善徳寺の項にも記載した。参照されたし。
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籐姓足利氏追討なら源姓足利氏、小山氏、宇都宮氏、下川辺氏などを派遣するのが合理的なのにそれをしなかったのは何故か。また「抵抗しない一族や家臣に危害を加えるな」とわざわざ指示 (18) したのは何故か。気になる部分ではある。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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養和二年
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9月16日
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吾妻鏡
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吾妻鏡は治承五年、養和元年 (1181年) 9月13日(二巻 )の記事としているが、壽永二年が正しい。
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桐生六郎が俊綱の首を持って鎌倉に参着した。先ず武蔵大路から首と共に使者を 梶原景時の許に送ったのだが鎌倉には入れず、深沢を経て腰越に向うように命じられた。
頼朝は首実検のため俊綱の顔を知る者の有無を質問したが、誰もが目を合わせた事がないと答えた。
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佐野七郎下河辺政義なら会っている筈だ」と言うため政義を呼び確認させた。「首を刎ねてから日数を経ているため顔が変わっているが多分間違いないだろう」と報告した。
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   ※佐野七郎: 承久の乱 (1221年5月) で東海道を進んだ軍勢の中に 佐野太郎、三郎、四郎、太郎入道、
五郎入道、七郎入道の記載がある。初代が 佐野太郎基綱、その父が文治二年 (1186) 6月に没した記録がある足利七郎有綱だから、七郎は基綱の弟と考えるのが年令としては妥当である。七郎から見ると俊綱は叔父だから、顔を知らない筈はない。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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養和二年
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9月18日
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吾妻鏡
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吾妻鏡は治承五年、養和元年 (1181年) 9月13日(二巻 )の記事としているが、壽永二年が正しい。
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桐生六郎 梶原景時を介して「俊綱を殺した褒美に御家人に列して欲しい」と申し出た。頼朝は「譜代の主人を殺すなど最も重い罪で褒賞に値しない、殺せ」と命じた。景時は六郎を斬り俊綱の首の傍らに晒した。
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俊綱の遺領などについて命令が下された。所領は公収し妻子については家屋敷と財産を安堵する旨を下し文に載せて和田義茂の許に送った。曰く、「俊綱の子息や家臣であろうとも降伏してくる者を罪に問わないこと、桐生の者を含めて同様に危害を加えてはならず、それらの者の住居なども損壊してはならない」 と。
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   ※桐生六郎: この年 2月25日、桐生六郎は野木宮合戦で敗れた俊綱の嫡男で19歳の 忠綱を九州方面に逃
がす手筈を整えている。もしも俊綱の首が偽物なら、六郎が主殺しの汚名を背負ったまま主人父子を助けた可能性もある。
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忠綱は実際に生き延びており、後に 頼朝に帰順した後に 義経らと共に京都で無断任官し、頼朝の悪口雑言を浴びている。頼朝も彼の生存を承知していたのか?
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元暦二年 (1185) 4月15日の吾妻鏡にその際の様子が載っているのが興味深い。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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養和二年
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9月19日
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平家物語
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後白河法皇 木曽義仲に都の治安回復と平家追討を厳命、翌20日に義仲は京の治安を 樋口兼光に任せて平家を攻めるべく山陽道に向けて出陣した。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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養和二年
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9月28日
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吾妻鏡
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和田義茂 (義重) が下野国から鎌倉に戻ってきた。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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養和二年
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10月 1日
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平家物語
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屋島に渡ろうとした義仲軍は逆に屋島から渡海してきた平家軍と備中国水島 (現在の倉敷市玉島) で合戦した。知盛 教経が率いる平家軍に部将の 矢田義清 (足利義康の庶長子) が討ち取られ、戦線は膠着状態に陥る。
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平家軍は京都奪還を視野に摂津国福原 (神戸市中央区、京都へ約70km) を経て四国屋島に渡り本拠を置いた。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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養和二年
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10月上旬
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玉 葉
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頼朝の書状が朝廷に届いた。曰く「平家が押領した院と宮家と寺社の所領は返還する。また降伏する者は斬らない計画である」、と。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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寿永二年
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10月 9日
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百錬抄
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後白河法皇は流人の立場だった頼朝を赦免し、東海道と東山道の実質的な支配権を与える宣旨を発行した。
既に義仲を見限っているのだが、事後の余計な紛糾を避けるため
(要するに「保険」のため) 北陸道の支配権は取り上げずにいる。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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養和二年
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10月14日
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平家物語
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頼朝が八幡宮で征夷大将軍の宣旨を受けた。使者は左史生 (宮廷の書記官) の中原泰定、受け取り役は 三浦義澄が務めた。中原泰定には返礼の砂金を贈り、帰路の宿場ごとに使者一行が消費し切れないほどの米を送った。(この辺が頼朝の巧みな配慮で) 結果として中原泰定は 「義仲には較べられない人物である」 と報告している。
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頼朝は「平家は私の威勢を恐れて都落ちしたのに義仲や行家の手柄だと振舞って任国の良し悪しまで言うのは存外である、また頼朝に従わない奥州の 藤原秀衡と常陸の 佐竹高義 (隆義) 追討の院宣発行を要求」した。
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中原泰定の評価は「背は普通、顔が大きく色白で立ち居振る舞いや言葉は優美、都人の雰囲気あり」だと。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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養和二年
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10月15日
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玉 葉
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頼朝の弟が数万の兵を率いて京を目指しているとの情報が届いたため、義仲は手勢のみを率いて京に戻った。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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養和二年
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10月19日
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玉 葉
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義仲が法皇や公卿と共に京を出て北陸へ向かうとの噂が流れるが、翌20日に義仲は「行家が意図的に流布した嘘」と否定した。十郎行家は義仲排除を求めて法皇に接近し、両者はきわめて険悪な関係に陥った。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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養和二年
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10月20日
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玉 葉
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義仲が後白河に対し、頼朝の上洛を求め宣旨を発した件を厳重抗議。頼朝追討の宣旨または教書 (公式文書) と志田義広を平氏追討使に任じる事を要求したが認められず、10月末には在京の源氏軍も混乱を極めた。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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養和二年
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11月 4日
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玉 葉
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行家は平家追討令を受け、少ない軍勢 (玉葉に拠れば270騎余り) で西国へ出陣した。
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   ※行家西国へ: 義仲を中傷したのが露見した行家は都に留まれない、平家に一矢を報いて 後白河法皇
評価を高めようと考えたのだろうが、この男の軍事的才能の欠如は致命的だ。墨俣川合戦以後は連戦連敗を続けている。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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養和二年
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11月 8日
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複数史料
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義経の率いる鎌倉軍が不破関 (現在の関ヶ原町、京まで 90km) に迫った。主力の 範頼は 3万騎、義経は2万5千騎の大軍を率いている。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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養和二年
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11月16日
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玉 葉
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義仲は「義経軍が少数なら入京を認める」と提案したが後白河は義仲に対抗するため延暦寺や園城寺 (三井寺) を味方にして御所 (法住寺殿) の防御を強化、義仲陣営から近江と摂津と美濃の源氏らを引き抜いて戦力を増強した。義仲に対しては「平氏追討のため直ちに西に向かえ。もし鎌倉軍と戦うなら宣旨に背いた私戦とする、もし京に留まるのであれば謀反とする」旨の最後通告を突き付けた。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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養和二年
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11月17日
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玉 葉
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義仲の返答。「君命には背かない。鎌倉軍が入京するなら合戦するが入京しないのなら西国へ向かう」と。
九条 (藤原) 兼実は「これはごく穏便な申し出であり、後白河の強硬な態度は行き過ぎである」と書いている。
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ともあれ法皇の意図は完全に義仲排除に固まり、義仲が何を願おうが妥協する姿勢は全く見られない。

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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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養和二年
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11月18日
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玉 葉
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後鳥羽天皇、守覚法親王、円恵法親王、天台座主の明雲が法住寺殿に入り、義仲軍と戦う体制を整えた。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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養和二年
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11月19日
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玉 葉
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義仲軍が法住寺殿を攻撃。御所は放火されて法皇側は大敗し、円恵法親王と天台座主明雲、主力の部将だった摂津源氏棟梁の光長と検非違使 左衛門尉だった次男光経らが殺された。後白河法皇と四歳の後鳥羽天皇は拘束され五条東洞院の摂政邸に監禁された。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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養和二年
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11月21日
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玉 葉
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義仲はアンチ平家の行動から失脚状態になり復権を狙っていた前の関白 松殿基房と手を結び、その子息 師家を内大臣兼摂政として傀儡政権を樹立した。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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養和二年
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11月28日
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平家物語
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屋島に本拠を構えた平家軍は瀬戸内海を渡り、平知盛重衡を大将として播磨国室山 (地図) に布陣。
十郎行家は少ない軍勢で攻撃を強行して大敗し、高砂 (姫路市の東) を経て舟で和泉国に逃げ、更に河内国を抜けて長野城(河内長野市、推定地に入った。軍事的才能の乏しさに反比例して逃げ足の早さは見事。

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  ※長野城: 烏帽子形城として城址が保存されている。近鉄長野線 河内長野駅の南西。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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養和二年
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11月29日
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玉 葉
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師家 (11/21参照) が下文を発行。後白河法皇の側近だった前の摂政 近衛基通の所領を全て義仲に与え、中納言 藤原朝方以下の 49人が官職を解かれた。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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養和二年
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12月 1日
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百錬抄
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左馬頭だった義仲は院御厩別当となって軍事の全権を掌握した。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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養和二年
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12月 2日
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百錬抄
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義仲は平家に書状を送り和平交渉を試みるが、実現しなかった。更に院に強要して 藤原秀衡に頼朝追討の下文を発行させるが、秀衡は動かない。
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   ※義仲の戦力: 公称数万騎で京都に入った義仲軍だったが、水島と室山で敗れてから脱落が続き既に
2千騎弱に激減している。
今さら平家が和平の申し出に応じて鎌倉軍と戦う筈はないし (宗盛は少し心を動かしたらしいが)、搦め手の大将として2万5千の鎌倉軍を率いている 義経を育てた奥州の秀衡が頼朝追討に立ち上がる筈もない。義仲の焦りと絶望が見て取れる。
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   ※合戦の場所: 11月1日の水島合戦は足利義清 (義康の長男) 率いる義仲軍と 平重衡率いる平家軍の衝突
で義仲軍は指揮官の大部分が戦死する惨敗となった。
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11月28日の室山合戦は兵庫県たつの市御津町と考えるのが一般的で、備中国万寿庄で軍備を整えた義仲は屋島の平氏を攻めようとしたが 樋口兼光の使者が「行家が 後白河院に讒言している」と報告、攻撃を中止して京都へ引き返した。
入れ違いに行家は 知盛と重衡が指揮する室山の平家本陣を寡兵で攻撃し大敗した。
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二つの合戦に勝利を得て勢いを取り戻した平家軍は再入京を目指して摂津福原 (現在の神戸市) に拠点を移し、翌年 3月の一ノ谷合戦を迎えることとなる。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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養和二年
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12月10日
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百錬抄
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義仲は源頼朝追討の院庁下文を発行させ、形式の面では官軍となった。
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   ※危機が迫る: 後白河を確保して何とか活路を見出したい義仲、水島と室山で勝利し意気上がる平家、
圧倒的な戦力で迫る鎌倉軍、静観する奥州の秀衡、義仲と不和になったので義経に接近する行家...風雲は急を告げて養和三年へ。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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養和二年
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12月20日
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史 料
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頼朝は謀反の嫌疑により、梶原景時に命じて上総広常を謀殺させた。御所で景時と双六に興じている時に斬り殺したと伝わる。嫡男の能常は自刃し、全ての所領は公収されて千葉氏と三浦氏に与えられた。
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   ※広常を抹殺: 愚管抄は 、建久元年 (1190) に上洛した頼朝が上総広常に関し後白河法皇に次の様に語っ
た、と書いている。「兼ねてから朝廷に気を遣う必要などないと主張し、平家打倒よりも関東の自立を優先させる考えだったため殺させた」、と。権力を掌握するに従って頼朝は情け容赦のない血の粛清を始める。
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西暦1183年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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養和二年
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12月30日
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吾妻鏡
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上総国御家人の周西二郎助忠ら多くが恩赦を受け、本宅を安堵された。
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   ※恩赦の経緯: これは広常粛清事件と直接の関係はない、と思われる。周西助忠は上総広常の兄である
印東常茂の子で上総国周西郡 (君津市一帯) を領有した武士。父と共に平家に従い捕虜として広常に預けられていた。この時に罪を許され家屋敷を安堵されたらしい。
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ちなみに常茂は 維盛に従って富士川合戦に加わり敗走途中を捕われて斬首された人物。兄の常景を暗殺して上総権介を強引に継承し京都で平家に仕えていたのだが、留守の間に上総の実権を弟の広常に握られて平家を最後の拠り所にしていた。
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前年・養和二年(1182)の吾妻鏡へ       翌年・養和三年(1184)の吾妻鏡へ