
. . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
. 1月 1日 壬申 . 吾妻鏡 |
.
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . .卯の刻、頼朝が鶴岡八幡宮に参拝し神馬一疋を奉納、佐野太郎忠家がこれを曳いた。その後に宝前で法華寿量品 (法華経全28章の中心部) を供養した。 . ※年令: 平清盛 前年3月に病没 (享年63) 、 平時子 55歳、 平重盛 43歳、 平宗盛 34歳、 平知盛 29歳、 平維盛 22歳、
平重衡 24歳、 .. 源頼朝 34歳、 源行家 39歳、 源範頼 31歳、 阿野全成 28歳、 源義経 22歳、 木曽義仲 27歳、 北條時政 43歳、 北條政子 24歳、 北條義時 18歳、 北條時房 7歳、 千葉常胤 63歳、 三浦義澄 54歳、 足利義兼 27歳、 安達盛長 46歳、 大江広元 33歳、 畠山重忠 17歳、 梶原景時 41歳、 宇都宮朝綱 59歳、 土肥実平 56歳、 岡崎義実 69歳、 加藤景廉 25歳、 佐々木定綱 39歳、 伊東祐親 2月15日に自刃 (享年57) 、 伊東祐清 29歳、 藤原秀衡 59歳、 藤原泰衡 26歳、 藤原基成 60歳、 後白河法皇 54歳、 安徳天皇 3歳、 九条兼実 32歳、 吉田経房 39歳、 土御門通親 31歳、 丹後局 30歳、 一条能保 34歳、 藤原定家 19歳、 慈円 26歳、 法然 48歳、 . (全て1/1時点の満年令、一部の年齢は推定) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
. 1月 3日 甲戌 . 吾妻鏡 |
. . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
. 1月 8日 己卯 . 吾妻鏡 |
.
鶴岡八幡宮で長日不動と十一面観音の供養法会を奉仕した。八幡宮の供僧らがこれを担当、頼朝の念願を具現するためである。
. | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
. 1月23日 甲午 . 吾妻鏡 |
.
平時忠の次男 時家が初めて頼朝に面会した。継母の讒言※により上総国に流され流刑地の上総広常に気に入られて婿になった人物である。去年頼朝が三浦に出掛けた際に機嫌を損ねた事件があったため、広常がそれを償うために面会させた。頼朝は京都の様子を懐かしく思って歓迎し歓談した。 .. ※継母の讒言: 父時忠の後妻 藤原領子が時家と折り合いが悪く、時家が謀反に加担したという作り話を 夫に訴え、時忠と 清盛がそれを信じて流刑に処した、と伝わる。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
. 1月28日 己亥 . 吾妻鏡 |
.
伊勢神宮に奉納するべき馬や砂金などについて検討され、今日禊の済んだ者たちが献上。御所で頼朝が確認し採用を決裁した。まず金百両を千葉常胤と小山朝政が献上、次に神馬10疋※が庭に引き出され俊兼が縁先で毛色と献上者を記録した。 .. 鴾毛一頭 江戸太郎重長、河原毛一頭 下河辺四郎政義、栗毛一頭 武田太郎信義、栗毛駮一頭 吾妻八郎 (常陸の武者か) 、青黒一頭 高場次郎資幹、鴾毛駮一頭 豊田太郎幹重 (下総国豊田荘、現在の常総市の武士) 、鹿毛一頭 小栗十郎重成 (伊勢神宮領 常陸国小栗御厨、現在の真壁郡共和町の武士) 、葦毛一頭 葛西三郎清重、白栗毛一頭・河越太郎重頼、黒瓦毛一頭 中村庄司宗平、以上を決めて馬の世話人と共に生倫神主※宅に預け置いた。 .
※生倫神主: 伊勢神宮の禰宜 (宮司の補佐役) を指すらしい。. ※再び馬の話: 平安〜鎌倉期の一般的な馬は南方系の四川馬で 体高 (首と背の境目) は平均4尺2寸 (130cm弱) 程度だった。サラブレッドは160〜170cmだから 現代なら ポニー 、147cm以下に区分される。
.. 平家物語は 「鎌倉勢と 木曽義仲 が戦った宇治川先陣争いで 佐々木高綱 が跨った生月 (いけづき) は4尺8寸 (145cm) 、極めて太く逞しい」 と書いた。 それに比べても奥州の馬は四川馬より遥かに大柄で、特に良い馬なら数百束もの稲 (現代に換算すると100万円近く) もの値が付けいた、と言う。頼義や 八幡太郎義家や 頼朝が奥州を欲しがった気持ちが良く判る。 . 右は 国宝の 随身庭騎絵巻、宝治元年 (1247) 頃の騎馬姿を描いている。 画像をクリック→ 別窓で拡大表示。 . 当時の男性の平均身長は160cm前後、それに比べても馬体は相当小さく感じられる。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
. 2月 2日 癸卯 . 吾妻鏡 |
.
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 高場次郎の郎党 生沢五郎が頼朝の怒りを受け、囚人として小山朝政に預けられた。これは神馬が出発するまで大切に飼うよう命じられていたにも拘わらず手入れを怠けたためである。ただし生倫神主が「刑を課すのは神慮に叶う事ではない」と主張したため、罪は免れた。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
. 2月 8日 己酉 . 吾妻鏡 |
.
諸国太平と民の幸せを祈る願状を 伊勢神宮 (公式サイト) に奉じた。生倫神主は衣冠束帯の正装で御所に上がってこれを預り中原四郎維重に付き添われ出発、長江太郎義景が献納する神宝を管理するために同道した。
.. 昔日の文久五年 (1117) 10月23日に義景の先祖である 鎌倉権五郎景正が私領の相模国大庭を神宮の御厨として寄進しため、景正の三代目である義景がこの役目に最も相応しいと頼朝が決めたものである。 ・・・この後に長々と続く願文は省略。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
. 2月14日 乙卯 . 吾妻鏡 |
.
伊東祐親法師は一昨年 (治承四年10月15日) に南伊豆で捕虜となり囚人として 三浦義澄※に預けられていた。
. このたび 御台所政子懐妊の噂があり、義澄が頼朝の機嫌を窺っていたところ御前に呼ばれ 「恩赦を与えよう」 との仰せがあった。義澄がこの旨を祐親に伝えると祐親は参上すると答えた。 . 御所で待っていると郎党が走って来て、祐親が「ありがたい言葉を頂いて今更に過去を恥じる」と言い自殺※してしまった、一瞬の出来事だった、と。義澄は走って戻ったが、既に片付けられた後だった。 . ※三浦邸: 八幡宮の東隣で大倉御所西門まで200mほど、現在の横浜国立大付属の校庭北側にあった。 右は廃道となった西大路跡と西御門跡の位置 クリック→別窓で拡大表示。 .. 画像を含む西御門周辺の詳細は 宝治元年 (1247) 6月5日の吾妻鏡を参照されたし。
※祐親自殺: 吾妻鏡は「前非を悔いて御所に近い三浦邸で自殺 」
と書き、曽我物語は 「恨めしげに伊東の方を眺めつつ鐙摺の三浦邸で自殺した」 と書いている。 .. 一部の異本は斬首された、とも書いているが、私は後悔ではなく恩赦を受ける屈辱を潔しとしなかったと考えたい。曽我物語は 「欲の深い悪役」 として描いているが、己の生き方を貫いた武士の一人だ。 右は伊東の高台に残る 伊東祐親の墓、供養墓か? 画像をクリック→ 別窓で詳細ページにリンク . 伊豆半島には鎌倉時代の原点を彩る史跡が点在する。 . 左フレームの目次から【 鎌倉時代を歩く 壱 】(別窓)を開き、伊東に関連する 「その七」 や 「その九」 をクリックして興味のある部分の閲覧を。ページ全体を通読して頂くのが筆者の本懐、でもあります。たまたま南熱海に出た倒産物件 (築10年のRC三階建て) を買わなければ触れ合う事もなかった人物なですから。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
. 2月15日 丙辰 . 吾妻鏡 |
.
義澄は御所の門前で 堀籐次親家を介して祐親自殺の件を報告した。
.. 頼朝はこれを嘆くと共に心を打たれ、祐親次男の 九郎祐清※ を呼び、「祐親は大きな過ちを犯したが、その事は許そうと思ったのに自殺してしまったのは実に悔いが残る。まして、お前を罪に問うことなどできない、むしろ褒賞を与えるべきだろう」と。祐清は「父が死没しては褒賞など意味を持たない。早く身の暇を与えて欲しい」と言うため心ならず死罪とした。世間では潔い美談として語り合った。 . 頼朝が伊豆に住んだ安元々年の9月に祐親が討手を向け頼朝を殺そうとしたが、祐清の急報があったため辛うじて伊豆山へと逃がれた、その功績を忘れなかったのだが、祐清の孝心はこんな結果になってしまった。 . ※祐清の処遇: 同じ吾妻鏡は「前年 治承四年 (1180) 10月19日 (祐親が捕われた日) に祐清は釈放され、 京に上って平家軍に加わった」と書いている(つまり異なる記載が載っている)。. .一方で平家物語には「祐清は寿永二年5月11日の 倶利伽羅峠の合戦で討死」とある。 . 史料に拠れば、共に戦った 斎藤実盛は倶利伽羅峠で敗れた後の 加賀篠原の合戦 (Wiki) で最後尾を守り討死、東国から従軍した 俣野五郎景久や伊東祐清も篠原で戦死した、と。 . 更に平家物語は、俣野や斎藤らは 「平家の劣勢は覆せないが、東国で名を知られた我らが寝返るなど見苦しい真似はできぬ。」 として一人残らず討ち死にした。まことに痛ましい事だ...と書いている。 . 打算的な鎌倉御家人より武名を惜しんだ平安武士のプライドは美しいが、悲しい。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
. 3月 5日 乙亥 . 吾妻鏡 |
.
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 山田太郎重澄※は朝夕祗候人※だが、忠勤により (上野国、群馬県) 一村の地頭職を与えられた。 . . ※山田重澄: 別称を重満、美濃源氏の末裔で本領は名古屋市南区の本星崎駅近く (地図) 。義仲の入京後は 近江源氏の山本義経らと義仲に合流して平家と戦っている。 .※朝夕祗候人: 領地を持たず御所に住み込む家臣。玄米 5升/一日に相当する年俸を受ける。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
. 3月 9日 己卯 . 吾妻鏡 |
. | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
. 3月15日 乙酉 . 吾妻鏡 |
.
鶴岡八幡宮の前から由比ヶ浜までの道を整理して参詣の道※を造った。以前からの念願だったが、延び延びになっていた計画である。今回は 御台所政子の懐胎を契機に頼朝自ら指揮して工事に取り掛かり、北條時政以下の御家人がそれぞれ土石を運んで完成させた。 . .
※若宮大路: 御家人の定住や人口増に伴なう宅地造成などで
周辺の保水力が急速に弱まり、雨が降ると若宮大路に雑排水が大量に流れ込んで泥沼の惨状を呈していたらしい。
.. 改修した若宮大路は巾 33m、最も広い地点では 60mもあった。現在の若宮大路は最も広い横須賀線ガード南 (下馬四つ角)で約 32m。 . 若宮大路は浜の大鳥居から八幡宮入口の三の鳥居まで約 1,800mも続き、下馬四つ角から八幡宮までは騎馬での横断は全面禁止。下馬して横断できるのは下の下馬橋 (下馬四つ角) と中の下馬橋 (二の鳥居) と上の下馬橋 (八幡宮源平池の端) の三ヶ所だけ。 . 東西を掘り下げて両側に巾 3mの堀を造り、その土を盛り上げて段葛とした。若宮大路と段葛については 鎌倉の古道物語(参考サイト)が興味深い。 . 右上は現在の下馬四つ角。背後に横須賀線の高架が見える。クリック→ 別窓で拡大表示 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
. 3月20日 庚寅 . 吾妻鏡 |
.
伊勢神宮への使者が鎌倉に戻った。内宮と外宮それぞれの最上位の神官が献上した品を受領、懇切な祈祷をする旨を内々に答えたが、願状は受け取らなかった。頼朝は平家に憚ったと推察して釈然としなかった。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
. 4月 5日 乙巳 . 吾妻鏡 |
.
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 頼朝が腰越を経て江ノ島※へ。 足利義兼、北條時政、新田義重、畠山重忠、下河辺行平、下河辺政義、結城朝光、上総広常、足立遠元、土肥実平、宇佐美実政・佐々木定綱、同 盛綱、和田義盛、三浦義連、佐野基綱らが供として従った。 . これは高尾の 文覚※が頼朝の願成就のため弁才天を江ノ島※に勧請して催す開眼供養に臨席するためである。密かに決めた事だが、これは 藤原秀衡の調伏 (祈り殺す)が目的である。 . 本日鳥居を建て、帰路の金洗沢※で牛追物※を催した。下河辺行平、和田義盛、小山田 (稲毛) 重成、愛甲三郎の矢が多く当り、それぞれが褒美に色皮や紺絹を与えられた。 . ※江ノ島: 奈良時代から修行の地として僧などが参籠していたが、頼朝が参拝して鳥居を奉納したのを 契機に代々の将軍や御家人が詣でるようになった。 .. 古典太平記(wiki)の「時政参籠榎嶋事」に拠れば (概略) 、 . 鎌倉時代初期の頃、北條四郎時政は江ノ島に参籠して子孫繁栄を祈った。そして結願する21日目の夜、一人の美しい女が現れて時政に告げた。 . 汝の前世は箱根の僧であり、66部の法華経を書写し66ヶ国の霊地に奉納した善行に拠り輪廻転生が叶えられた。子孫は長く日本の国主として栄えるだろう。
..
.ただし心せよ。道を外す行動があれば七代限りで滅亡するだろう」と告げ瞬時に22丈 (66m) の大蛇となって海中に消えた。 . その跡に大きな鱗が三枚残っており、時政は願成就の印だと喜んでその鱗三枚を家紋とした。 直系の七代目は貞時だが、滅亡した時に実権を掌握していた高時は北條嫡流として八代目に当たる。 右は北條の三つ鱗紋。「二等辺」と「正三角形」の二つを使い分けた (拡大画像なし) 。 .
※高尾の文覚: 神護寺 (公式サイト) の 文覚上人を差す。江ノ島に弁財天を勧請し三七 二十一日間飲食を断って祈り続けたと伝わるが、どこの弁財天を勧請したのかは記録されていない。
.. 古い文覚像として、東大寺三月堂 (法華堂) にあった塑像が知られているが破損が著しく現在は非公開で、奈良国立博物館の復元模写像だけは ウェブ閲覧サイト で確認できる。 . 右は大御堂橋南詰(地図)の文覚上人邸跡碑 画像をクリック→ 別窓で拡大表示 ※金洗沢: 腰越の約1,500m東、現在の江ノ電七里ガ浜駅付近。平家物語異本では 鎌倉に入ろうとした 九郎義経は金洗沢の関所で 梶原景時に止められ腰越に追い返された、とある。
.. また五代執権 時頼の頃 (1250年頃) の相州の刀工 政宗 (参考サイト) が砂鉄で作刀した金洗沢や、日蓮と 忍性が雨乞い祈祷を競った池 (参考サイト) も近くにある(地図)。 . 駅を降りてすぐ左手にあるのが「行合橋」、龍ノ口での日蓮斬首が江ノ島の方向から来た強烈な光のため執行できず、それを幕府に報告する使者と 赦免を知らせる幕府の役人がここで出会った事から金洗沢は行合川、橋の名は行合橋が通称となった。 ※牛追物: 放された牛を騎馬で追い、先端を保護した矢 (蟇目) を射って的中を競うもの。 後の時代に標的が牛から犬に変わり、犬追物として流行した。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
. 4月11日 辛亥 . 吾妻鏡 |
.
平貞能※は肥後国豪族らの反乱の動きを封じるため鎮西 (九州) に駐留している。官人に命じて部下を伴わせ、国々を廻って兵料米と称する略奪※を繰り返した。 .源氏に呼応していた肥後の住人 菊池次郎高直は当面の災厄を防ぐため、やむを得ず平家に降伏した、と。 .
※平貞能: 平家の「一ノ郎党」と称賛された平家貞 (wiki) の二男
で故 平重盛の侍大将。迫る義仲軍に対して京都での決戦を進言したが許されず、都落ちとなった。 .. その後に貞能は重盛の遺骨を掘り起こして高野山に送り、重盛の妻と姉を伴って都を脱出。二年間の放浪の末に鎌倉に出頭して助命された。 . その後は 宇都宮頼綱の援助を得て那須塩原に 甘露山妙雲寺 (右画像、クリック→ 別窓の詳細頁へ) を建立して重盛の姉の遺骨を葬り→ 茨城の城里町に 普明院小松寺を建立して重盛夫妻の残った遺骨を納め→ 益子に鶏足山安善寺を建立して隠棲し主家の菩提を弔いつつ波乱の生涯を閉じた。 ※略奪: 平貞能は零落しても節操を曲げない平家の忠臣だったが、兵糧徴収は源氏から見れば略奪だ。 国際紛争の場合は...例えば「明治43年 (1910) の日韓併合は「侵略」ではない」と主張する国家主義者も現れるし、「侵略か否かは立場によって異なるし、国際的にも定義は定まっていない」と公言する コソ泥の安倍晋三みたいな御都合主義者 も現れる。 .. あいつ、偉そうな顔して罪を秘書に押し付けるクズだぜ! . 彼らの主張に従えば、中国のチベット併合や海洋進出 (要するに海洋侵略ね) や、ロシアによるウクライナ介入も正当化できる。慰安婦問題だって「当人の自由意思だった」と強弁すれば済むことになる。他人の痛みを理解できない連中の、なんと多いこと。 . こんな連中が「経済を維持するために原発は不可欠」とか「安全保障のために沖縄の基地は不可欠」と主張する。自宅の近くに造るなんて言ったら大騒ぎする癖に、さ。 . 本来なら原発事故で故郷を失なった人々や基地の弊害に苦しむ沖縄県民の苦悩に配慮して根本的な解決策を講じるのが当然なのに。 鎌倉時代の歴史年表には関係ないけどさ。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
. 4月20日 庚申 . 吾妻鏡 |
.
故 義朝を呪詛から守る護持僧だった圓浄が呼ばれて武蔵国から参上した。これは御所に詰めて確かな祈祷をするためで、頼朝が母の胎内にある時に着帯の祈祷をした者である。
.. 平治の乱後に京から武蔵国に移り連光寺※を建立して定住していた。従ってこれは往時の功に報いるためと今回の祈祷のため、水田五町歩と桑田五町歩を未来永劫の約束で寄進していた。 .
※連光寺: 150年後の元弘三年 (1333) 、鎌倉幕府打倒を目指し
て進む 新田義貞の軍勢阻止を試みた合戦場跡の一帯である。奇しくも治承五年 (1181) の4月20日に連光寺付近の所領について平太弘貞と 小山田 (稲毛) 重成が争った記事が見える。 .. 本来は平太弘貞 (土豪か) の土地なのに重成が所有権を詐称したため頼朝の機嫌を損ねたが、4月5日の項では別件で褒美を受けているので大きな事件にはならなかったらしい。 . 連光寺は既に廃寺で痕跡も不明だが、今も多摩ニュータウン (団地の一部は既に老朽化した) に地名 (地図) が当時の名を留めている。 右画像は多摩川に架かる関戸橋。画像をクリック→ 関戸合戦の詳細頁(別窓)へ。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
. 4月24日 庚申 . 吾妻鏡 |
.
八幡宮前の水田 (弦巻田※) 三町歩余の耕作を停止させて池に改造、専光坊と 大庭景義が工事を奉行した。 ..
※弦巻田: 本来は渦を巻く湧水などを差す。ここでは八幡宮祭神
への供米を栽培する斎田を放生池 (現在の源平池) に改めている。僧侶の立ち合いは宗教的配慮か。 . 社殿に向って右が源氏池で左が平家池、政子が源氏の繁栄を祈って東の池に白い蓮を、西の池に赤い蓮を植えさせたとか、源氏池には島を三つ (産を差す) 、平家池には四つ (死を意味する) 造ったとか、後世の語呂合わせと思わせる能書きも多い。 . 開府以前の六浦道は筋替橋を西に直進して窟屋小路に続き、寿福寺前を南北に貫く武蔵大路に突き当たる。 . 頼朝が整備する以前の道路は詳細不明だが、全ては徒歩または荷駄が辛うじて通れる程度の田舎道だろう。 . 右は源平池の鳥瞰。 クリック→ 別窓で拡大表示 . td> | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
. 4月26日 丙寅 . 吾妻鏡 |
. | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
. 5月12日 辛巳 . 吾妻鏡 |
.
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 伏見冠者 藤原広綱※が初めて頼朝に目通りした。文筆に長けており、頼朝が京の様子に詳しい人物を探していたため 安田義定が推挙したもので、遠江国懸河※が最近の居住地である。 . ※藤原広綱: 大江広元が公文所長官として多忙になった頃から頼朝右筆の一人となった。八幡太郎義家 に兵法を教えた大江匡房 (広元の祖父) と並ぶ学者、と称された藤原正家 (1026〜1111) の子が広綱なんだけど、年代が合わないから別人だろうなぁ...。
.※懸河: 現在の掛川。藤原秀郷が首実検のため 平将門ら18人の首級をこの地の川で洗って橋桁に懸けた ため懸川と呼ばれた、との伝承がある。真偽は不明なんだけど... . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
. 5月16日 乙酉 . 吾妻鏡 |
.
衣冠束帯に笏 (Wiki) を持った老人が御所に入り、童僕二人を従えて西の廊下に座した。それぞれ神官の浄衣を着て榊の枝を手にし、参入の理由を尋ねても答えない。平時家が尋ねて初めて口を開いた。 .「直接鎌倉殿(に申し上げたい」と述べ、時家が重ねて姓名を問うても名乗らないため報告した。 . 頼朝が御簾 (みす) の陰から確認すると見るからに神に仕える風体なので面会した。 . 老人曰く「私は豊受太神宮 (伊勢神宮外宮) の禰宜 (宮司の補佐職) 為保です。遠江国鎌田の御厨※は伊勢神宮外宮領として延長 (923〜931) の昔から代々伝えられているのに安田義定が占拠して横領し、従来の経緯を話しても埒が明きません。何卒恩情ある裁決をお願します」と。更に旧来の仔細を詳しく述べた。 . 頼朝は信仰心が強いため義定の言い分を確認せず、直ちに下し文を与えた。新籐次俊長を使者にして、為保の指示する者が御厨の管理に当たる旨を命じた。 . ※鎌田御厨: 現在の静岡県磐田市鎌田。御厨の跡には現在も 鎌田神明宮 (公式サイト) がある。 . ※安田義定: 源義光の子孫、甲斐源氏。文治元年 (1185) に御門葉として源の名乗りを許されているが、 建久五年 (1194) に謀反人として討伐される。義経や 範頼と同様の末路だ。 .. 吾妻鏡が「義定の言い分を確認せず」と書いたのは甲斐源氏嫡流の一部 (武田信義、一條忠頼、板垣兼信、秋山光朝ら) を粛清する正当性の布石と見るべきだろう。 . 更に詳細は「 鎌倉時代を歩く弐」 その九 甲斐源氏 武田一族の興隆と衰退について を参照されたし。猜疑心の強い頼朝さんは多数の同族を殺し、息子や孫は全面的に信用した北條一族に殺されるんだから救いようのない性格だとは思うけど。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
. 5月19日 戊子 . 吾妻鏡 |
.
十郎行家は三河国から平家追討のため京へ向おうと図った。まず祈祷のため伊勢神宮三河目代の大中臣蔵人以通と相談して密かに願状を書き御幣物を添えて二所太神宮 (伊勢神宮内宮と外宮) に奉納した。内容は以下。
.. 内外宮政所大夫殿 行家殿の仰せにより御幣物 (美紙十帖、八丈絹二疋) を添え、このたび行家殿が受けた夢のお告げの内容を申し上げます。その趣旨を叶える祈念を頂く様にお願い申し上げます。 . 治承五年五月十九日※ 三河御目代 大中臣以通 . ※日付の誤り: この記事は吾妻鏡の養和二年に載っているが、正しくは日付の通り治承五年のもの。 一応は養和元年にも記載してあるが、明らかな編纂者の錯誤である。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
. 5月25日 甲午 . 吾妻鏡 |
.
相模国金剛寺※の住僧らが古庄郷司近藤太の非法を訴えて御所に参上、その状を相鹿大夫先生 (常陸国相賀、現在の日立市相賀町出身の文官) が読み上げた。 内容は古庄※郷司近藤太※が仏教を尊ばず住僧を山狩りに動員するなど、由緒ある山寺に先例のない賦役を課して召し使っている。これを早急に止めさせて頂きたい、と。 . . ※金剛寺: 厚木市郊外の古刹で大同二年 (807) に 空海が建立したと伝わる。昔は飯山寺、金剛寺、 観音堂、新長谷寺などの集合体で 安達盛長の墓所 (末尾を参照、地図) を追いかけた際に訪問したが、当時は養和二年のトラブルには気が付かなかった。更に詳細は 参考サイトで。
実朝の首塚がある秦野地区の金剛寺とは異なるので、念のため。 .※古庄: 金剛寺 (飯山観音) の数km南にある上古沢と下古沢地区らしい。 . ※郷司近藤太: 大友氏系図に載っている近藤能成で武藤氏 (武蔵の藤原の同族) 。子の 大友能直が母親 の実家である波多野経家の所領だった大友郷を相続し、豊後大友氏の祖となった。 .. . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 5月26日 乙未 . 吾妻鏡 . |
金剛寺住僧の訴えの件は昨日裁決の予定だったが 一品房昌寛 (頼朝右筆の一人、判事代行か) に支障があって欠席したため討議を経て命令が下った。由緒ある山寺に山狩りや養蚕をさせるなど見苦しいから速やかに停止すべし、と。 .. . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 5月27日 丙申 . 吾妻鏡 . |
養和二年を改め寿永元年に改元。 .. . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 5月29日 戊戌 . 吾妻鏡 . |
去る19日に十郎蔵人が伊勢神宮に奉った告文の返事が三河国に届いた。書状に曰く、 . 仔細を拝見しました。去年の冬から関東が鎮まりません。特別の祈祷をするように綸言 (天子の言葉) を受けたにも拘わらず、神主や禰宜が朝廷に背いた祈祷をした旨を報告せざるを得ない状況です。 .. 再三に院宣を受けてその真偽を問われたため、もう過ちは犯さない旨の請文を提出した始末です。そのため、源氏のために祈祷をせよと言われても後日に朝廷の咎めを受ける恐れもあり、神宮を崇敬する故であっても朝廷の裁可がなければ祈祷は出来かねます。 . また関東に伊勢神宮の領地は多くありますが、管理人たちは騒動が頻発することや兵糧米の要求などのため、催促しても神への税の納入が少なくなっています。神官たちも窮乏して経費も賄えず、神慮を損なう恐れさえあります。その旨のご理解をお願します。 治承五年5月29日 太神宮政所権神主 行家は返状を読んで神慮が思わしくないのを知り更に周章した。そして比叡山に状を送り平家の求めを忘れて源氏に協力してくれるように依頼した。 . . ※日付の誤り: この記事は吾妻鏡の翌 養和二年 (1182年) に載っているが、日付の通り治承五年 (1181年) の記録である。 .. . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 6月 1日 庚子 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 頼朝は寵愛している妾の亀の前※を呼び寄せ小中太光家※の小窪※宅に住まわせた。外聞を憚って場所を鎌倉の外に決めたのであり、浜へ出る際に寄れるのも便利である。 . 亀前は良橋太郎入道の娘で伊豆流罪の頃から深い仲になった。優しい顔立ちだけではなく心も柔和な女性である。この春頃から日を追って寵愛が深くなっていた。 . ※亀の前: 父親の良橋太郎入道を含めて素性は不明。伊豆流罪の頃に始まった関係だから当然伊豆近辺 の女性だろう。妻の妊娠中に浮気する男は多いらしいから (笑) 。政子が 大姫を出産した治承二年 (1178) 前後からの関係だろうか。 .. まぁ政子を妻にした頼朝が 「優しい顔立ちだけではなく心も柔和な女性」 亀の前に心の安らぎを求める気持ちは何となく理解できるけど。 ※小中太光家: 小中太光家は 中原光家、流人時代からの側近である。挙兵の際は参加を募る使者の役を 務め、石橋山合戦にも従っている。幕府設立後は政所の職員として仕えた。 .※小窪: 現在の逗子市小坪。位置は不明だが騎射などを催す前浜 (由比ヶ浜〜材木座海岸) に出た際に寄 るのだから現在の逗子マリーナ寄りの海沿いだろう。大倉御所からは4km弱だが、鎌倉の外なのは間違いない。鎌倉の外か内か、これが後に大きな違いとなる。
.. . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 6月 5日 甲辰 . 吾妻鏡 . |
熊谷直実※は領地を持たず御所に住み込みで忠勤を励んでいた。治承四年に 佐竹秀義を追討した際には特に勲功があり、その武勇により 久下直光※が横領した武蔵国の旧領などの領有を認めた。生国に戻っていた直実は今日参上しその下文※を受け取った。曰く、武蔵国大里郡の熊谷次郎平直実の所領について、先祖伝来のものなので久下直光の横領を停止し直実を地頭とする。常陸の合戦に功績を挙げ、云々...と。 .. ※熊谷直実: 建久三年 (1192) には頼朝の前で争論し、癇癪を起こした直実は書類を投げ捨てて髷を切り 御所から走り去った。家督を嫡子に譲って法然の弟子になり 、翌年出家してしまう。 .. 一ノ谷で敦盛を討った後悔の念から出家したとの説話が一般的だが、一ノ谷合戦は建久三年 (1192) から8年も前の事件。直接の動機になったとは考えにくい。
※久下直光: 直実の生母の姉か妹を妻にしていた武士で、
現在の熊谷市南東部 久下郷の開発領主。 .両親を早く亡くした直実を養育し所領の一部である熊谷郷を管理させていたらしい。 . その後も係争は続いたが久下直光の主張に道理があり、直実の所有権主張はかなり独善的だった。最終的には直実が怒りに任せて訴訟を放棄し出奔と出家、という結末になる。 . ちなみに熊谷市北部には 斎藤実盛が別当 (荘園の管理責任者) に任じていた 長井荘があった。荘園領主は 清盛を継いだ 平宗盛、実盛が滅びゆく平家に従って戦死したのは厚遇してくれた平家に対する恩義でもあった。 . 右は歓喜院の実盛像、合戦の前に白髪を黒く染めている姿を描いている。 画像をクリック→ 「斎藤実盛と長井荘と歓喜院」 (別窓) へ。 ※下文: 文面などからは書類の信頼性と正当性が疑われている。子孫の偽造説が有力か。 . . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 6月 7日 丙午 . 吾妻鏡 . |
頼朝が由比ヶ浜に出御し、武士たちが弓馬の芸を披露した。最初に牛追物 (4/5を参照) があり、下河辺行平(頼朝の相手)、榛谷重朝、和田義盛、弟の義茂、三浦 (佐原) 義連、愛甲季隆が射手を務めた。 .. 次に股解沓※を八尺 (2.4m) の杭に差し、愛甲季隆に射させると五射全てが命中。頼朝が距離を測らせたら八杖(24m)だったため「今後の馬場は八丈四方に決めよう」と言った。 . その後は宴会で時間を過ごし、日が暮れた頃になって 加藤景廉※が気を失って倒れたために大騒ぎとなった。佐々木盛綱が掛けてあった大幕で包んで退出し、邸で療養させた。頼朝は宴会を切り上げて御所に帰った。 . ※股解沓: 一般的には乗馬用長袴と解される。袴の上に履く巾広の長袴、西部劇の「ローハイド」か。 巾を 20cmとすると、和弓には 24mの距離で五射全てを的の中心部に的中させるのなら相当のレベルだろうね。弓の技術に生死を委ねている連中は凄い。
.※加藤景廉: 生誕は1166年前後だから満16〜18歳、韮山で 平兼隆を討った時は14〜15歳。 源平合戦の際は現地で病気の手紙を出しているから意外に虚弱体質だったのかも。 .. . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 6月 8日 丁未 . 吾妻鏡 . |
頼朝は車大路※の景廉邸へ見舞いに訪れた。今朝方から普通の状態に戻ったとの事なので、景廉を供に従えて小中太の家※へ出掛けた。 ..
※車大路: 鎌倉六大路の一つで極楽寺坂〜長谷〜一の鳥居〜
安国論寺〜名越へ続く古道。 .. 六大路とは、段葛のある若宮大路、東に並行する小町大路、西に並行する今大路、三の鳥居前を東西に通る横大路、下馬を通る大町大路、一の鳥居を横切る車大路を差すが、景廉邸の位置は不明。 ※小中太の家: 亀女を囲っていた小坪の近くなら浮気のために 景廉を利用した可能性は捨てきれない。 .景廉邸は大町または名越寄りの車大路だった可能性もある。 . 吾妻鏡は裏を読むと面白い。「邪推だ、ゲスの勘繰りだ」 とも言われそうだけど(笑)。 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 6月20日 己未 . 吾妻鏡 . |
夜8時頃に光る物が八幡宮の空から由比ヶ浜の方向に飛んだ。長く尾を引いて暫く消えなかった。 . . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 7月12日 庚辰 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 御台所政子が出産に備え以前から決めてあった比企氏の館※に輿で移った。千葉胤正、同 胤頼、梶原景季らが供として従った。梶原景時※は出産前後の雑事を仕切るように命じられた。 . ※比企氏館: 現在の 妙本寺エリア。比企一族は建仁三年 (1203) 9月にここで北條氏に皆殺しにされる。 . ※梶原景時: 頼家の乳母夫の一人。比企能員、河越重頼、安達盛長、平賀義信も乳母夫を務めている。 . . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 7月14日 壬午 . 吾妻鏡 . |
新田義重※が頼朝の勘気を蒙った。これは 伏見広綱に命じて義重の娘 (頼朝の兄 義平の後家※、祥寿姫と伝わる) 宛に恋文を送ったのに返事がないため父の義重に直接申し入れたのだが、義重は御台所政子のことなどを熟慮してた上で娘を還俗させ、師六郎に嫁がせてしまった。 .. ※新田義重: 足利義康と同じく 源義国の子 (異母兄弟) だが、頼朝への合流が遅れた事などで足利氏より 冷遇され続けた。独立志向が強かったか、要領が悪かったか、娘の提供を拒んだ報復なのかも知れない (笑) 。 義重の庶子 山名義範は早期に臣従して一族の排斥には至らず、義重から七代後の子孫 新田義貞が足利氏と手を組んで鎌倉幕府の命脈を断つ役目を果たす。 .※義平の後家: 義平は平治の乱後の永暦元年 (1160) 1月に捕縛され斬首 (20歳) 、5歳下と考えても彼女は 37歳になっている。頼朝は熟女好みか? 鎌倉は娘と義平が新婚時代を過ごした思い出の土地だが 嫉妬深い政子がいる、父親ならそう考えるだろう。
.. 私は彼女が嫁いだ相手は 毛呂季光だと長く思い込んでいた。毛呂と師を混同していたのかな。師六郎は義重の郎党か縁戚か、素性は判らない。 . 新田の 曹源寺 (紹介サイト) には義重が祥寿姫の菩提寺として建立した旨の寺伝があり、これが正しければ彼女は文治三年 (1187) に43歳前後で没したことになる。 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 8月 5日 癸卯 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 八幡宮の住僧禅叡※が「一心に祈祷に励むのに免税田に労役などを課され難渋している」旨を訴え出た。 頼朝は御前に呼んで直接に下文を与えて曰く、「八幡宮の供僧禅叡は祈祷の役を忠実に行なっている。百姓同様に労役を課すのは不当であり、今後は一切の労役と税を免除させるよう命じる」と。 .
※住僧禅叡: 走湯山 (伊豆山権現) 住僧の禅叡は前年10月に
鎌倉に呼ばれ大般若経転読衆に加えられて西の谷の水田二町歩を与えられた。 .. 後に御谷 (おやつ) として八幡宮供僧二十五坊の集合体となり、建保七年 (1219) 1月27日には 実朝を殺した 公暁が首を持って僧房に逃げ込んだ、その場所である。 . また一説に、鶴岡八幡宮ではこの頃つまり供僧が土地の私有を黙認された頃から利殖に専念する傾向が始まった、この既得権が住僧の腐敗を招き、その腐敗が仏教界全体に広がって明治維新の神仏判然令に伴う廃仏毀釈運動に油を注ぐ下地になった、と考える意見。 . 利権を貪っていた僧は寺を追われ、神仏分離後は肉体労働で日銭を稼ぐだけだった、と。 膨大な量の仏像や重宝が二束三文で海外に流出したのも、この時代だろう。 . 右は 五海道其外分間見取延絵図 (Wiki) の八幡宮上宮と御谷の絵図 画像をクリック→ 別窓の拡大画像へ。 . 現在の鳥観図 (別窓) と照合すれば八幡宮の西門付近(巨福呂坂入口) から北北東に伸びる谷と推定できる。北鎌倉に向かう現在の隧道が拡幅開通したのは1993年である。 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 8月11日 己酉 . 吾妻鏡 . |
夜になって 御台所政子が産気づき、頼朝が (産所の) 比企氏館へ入った。鎌倉にいる御家人も多数参上した。 .頼朝は祈祷を依頼する使者を伊豆山権現と筥根権現と近国の神社に派遣した。 伊豆山権現 (伊豆山神社) に 土肥遠平、
筥根権現 (箱根神社) に 佐野基綱 .相模一宮 (寒川神社) に 梶原景高、 三浦十二天 (十二所神社) に 佐原義連 武蔵六所宮 (大国魂神社) に 葛西清重、 常陸鹿嶋 (鹿島神宮)に 小栗重成、 上総一宮 (玉前神社) に 上総良常 (上総広常の嫡男) 下総香取社 (香取神宮) に 千葉成胤 (千葉常胤の嫡孫) 、 安房東條寺 (天津神明神社) に 三浦義村、 同国洲崎社 (洲崎神社) に 安西景益、 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 8月12日 庚戌 . 吾妻鏡 . |
晴、 夕刻に御台所政子が男子を出産した。前途を祈祷する役目は専光房阿闍梨良暹が、魔を払うため弓の弦を鳴らす役は師岡重経と 大庭景義と 多々良貞義、上総広常は引目 (蟇目役、大形の鳴り鏑を放って魔を払う ) を、河越重頼の妻 (比企の尼の娘) が乳付け (乳母の儀式) を務めた。 .. . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 8月13日 辛亥 . 吾妻鏡 . |
若君が産まれたため、慣例に従って御家人らが守り刀を献上した。宇都宮朝綱、畠山重忠、土屋義清、和田義盛、梶原景時、同 景季、横山時兼らである。また御家人が献上した馬は200余頭にもなった。この駿馬は両親が揃って健在している武者が使者を務め、鶴岡八幡宮や相模一宮 (寒川神社) などに奉納した。 .. ※若君の記事: 誕生後の暫くは記載が見られるがその後は極端に減少し、通常なら10歳を超えた頃 (西暦 の1192〜1195年頃、もちろん頼朝の存命中) に催された元服の記事さえ載っていない。 .吾妻鏡の編纂時期 (西暦1300年前後) に記載を削除させた、と考えるべきだろうね。 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 8月14日 壬子 . 吾妻鏡 . |
若君三夜の儀は 小山四郎朝政が差配した。
.. . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 8月15日 癸丑 . 吾妻鏡 . |
鶴岡八幡宮で六斎 (在家信者が戒律を守り、行ないを慎む日) の読経が始められた。 .. . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 8月16日 甲寅 . 吾妻鏡 . |
若君誕生五夜目の儀式が上総広常の差配により催された。
.. . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 8月18日 丙辰 . 吾妻鏡 . |
若君誕生七夜目の儀式が 千葉常胤の差配により催された。子息6人を連れて参上し、常胤は侍所に着座。それぞれ白の水干袴で装い、胤正の母 (秩父重弘の娘) が膳を置く役を務めた。 .. 贈答の儀があり、嫡男 胤正と次男 師常が甲冑を捧げ、三男 胤盛と四男 胤信が鞍を置いた馬を引き、五男 胤道が弓矢を持ち、六男 胤頼が太刀を持って庭に並んだ。 兄弟はいずれも立派な武者であり、頼朝も感動の様子だった。居並ぶ者たちも見事さに感嘆した。 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 8月20日 戊午 . 吾妻鏡 . | . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 9月15日 癸未 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 木曽義仲追討のため北陸道に出陣していた平家軍が京に戻ってきた。寒い季節に入ったため北国で冬を迎えるのは困難である旨を申し出ているが、実際には義仲の軍事力を恐れたためだろう。 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 9月20日 戊子 . 吾妻鏡 . |
中納言法眼 圓暁 (宮法眼) が京から鎌倉に来た。後三條院の子である輔仁親王の孫で、義家の外孫、その縁により頼朝が御所に招いた人物である。本来なら出産の祈祷をするべきだったが以前からの宿願があり、伊勢神宮に参籠したため遅くなってしまった、と。神宮祭主の親隆卿※が家臣に命じて遠くまで送らせてくれた。
.. ※親隆卿: 伊勢神宮の神祇大副で祭主の正三位藤波親隆 (存命は西暦1105〜1187) を差す。 . . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 9月23日 辛卯 . 吾妻鏡 . |
頼朝は中納言法眼坊を伴って八幡宮に参詣し、拝殿で宮寺の別当職※に任命する約束を交わした。 .. ※八幡宮寺別当: 初代は 圓暁 (生母は為義の娘だから頼朝の従兄弟) 、二代は尊暁 (圓暁の弟) 〜 . . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 9月25日 癸巳 . 吾妻鏡 . |
頼朝の同母弟 (母は 藤原季範の娘) である 源希義は 義朝に連座して土佐国の介良庄に流されていた。 .平家は頼朝が挙兵した際に協力する疑いがあるため追討の命令を発した。重盛家臣の土佐住人菊池家綱と平田俊遠が功績を挙げるため希義を襲撃しようとした。 . 希義は夜須行宗との以前からの打ち合わせに従って介良庄から夜須庄へ向ったが追ってきた家綱と俊遠らによって吾河郡年越山で殺された※。急を聞き助けるため駆けつけた夜須行宗は野宮付近で希義死没を知り 空しく引き上げた。家綱と俊遠らは更に行宗も討とうとしたが行宗一族は仏崎から船で逃げた。 . 家綱らは使者を船に送り「相談事があるから来てくれ」と騙そうとしたが、行宗は策略を見抜いて二人の使者を斬り、紀伊国に向った。 . ※希義死没: 前後の経緯と場所は 高知市の歴史散歩サイト(参考サイト)に詳細が載っている。 . . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 9月26日 丙申 . 吾妻鏡 . |
八幡宮の西※に場所を定め、宮寺別当坊の棟上げを実施。大庭景義が取り仕切り 頼朝も臨席して見守った。 .. ※八幡宮の西: 御谷(みたに)二十五坊の地。8月5日に詳細を記述した。 . . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 10月 9日 丙子 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 越後の 城永用 (別名を長茂、助職、資職) は国主の兄 資元を継承して源氏を攻めようとした。今日、木曽義仲が北陸道の兵を率いて信濃国築磨河 (千曲川) 付近で合戦し、夜になって永用は敗走した。 . ※ この記事は吾妻鏡が10月9日、平家物語が9月、玉葉 (Wiki) が6月と記載 (治承五年、1181年)。 .玉葉が正しいと判断されるため、その記述に従って6月13日に記載し、ここには薄いグレーで載せた。 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 10月17日 甲寅 . 吾妻鏡 . |
御台所と若君 (満寿、後の 頼家) が産所から御所に還御。佐々木定綱、経高、盛綱、高綱の四兄弟らが輿を担ぎ、小山 (長沼) 宗政が弓矢を持ち、小山 (結城) 朝光が太刀を持ち、乳母夫の 比企能員が贈物を捧げた。 .. 御家人は多数いるが、能員の義母 比企尼は頼朝の乳母を務め、更に伊豆に流されていた頃に夫の武蔵国比企郡役人である掃部允と共に下向し、治承四年秋まで20年忠節を尽くした。繁栄の時を迎えて功績に応え 比企尼が推挙した養子の甥 能員を乳母夫にしたのである。 . ※数の縁起: 佐々木兄弟は太郎定綱〜四郎高綱、小山宗政は五郎、小山朝光は七郎 と続けている。 六が抜けているのは源氏にとって不吉を象徴する数字だから。平治の乱で義朝一行が都落ちした時の人数が六騎、石橋山で敗れ小舟で安房に落ちた時の人数が六人である。 .. 数を問わないなら 畠山重忠の嫡男 六郎重保あたりが向いてるんだけど彼の誕生は1185年前後、まだ産まれてない。 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 11月10日 丁丑 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 近頃ご寵愛の亀前は飯島※にある伏見広綱の屋敷に住まわせていたが 御台所政子に露見し憤激を招いた。 これは 北條時政の後妻である 牧の方が密告したためで、御台所は牧三郎宗親※に命じて広綱の家を打ち壊して※屈辱を与えた。広綱は亀の前を伴って辛うじて逃れ、鐙摺※の大田和義久※の屋敷に入った。 . ※飯島: 和賀江島近くに飯島の地名が残る (地図) 、南側が鎌倉四境の一つとされた南小坪。 後に尾根の上に名越切り通し (難越が名前の由来) が拓かれた。 .※牧宗親: 牧の方の兄とする説が一般的だが、愚管抄では父親としている。 . ※打ち壊し: 政子の嫉妬なのは事実だけれど、中世の風習だった 後妻打ち (うわなりうち) (Wiki) と見る のも可能だろう。まぁ源氏棟梁の正妻が取るべき態度か否かは別として。 .※鐙摺: 現在の葉山港一帯。曽我物語では 伊東祐親自刃の地とされ、鐙摺山に供養墓がある。流人時代 の頼朝が三浦を訪ねた時に馬の鐙 (あぶみ) が岩に摺るほど急だったことから鐙摺 (あぶずり) 山の名が付いたと。小坪合戦で重忠と三浦が争った際に三浦義澄が陣を構えたため旗立山とも。曽我物語の編者は鐙 (あぶみ) を鎧 (よろい) と読み違え 「よろいするという場所で」 と書いた。 .※大田和義久: 三浦義澄の次弟で佐原義連の兄。大田和 (三浦半島西部の小田和湾一帯) を領有した。 . . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 11月12日 己卯 . 吾妻鏡 . |
頼朝は遊興を理由にして牧宗親を供に鐙摺の義久邸へ出掛けた。そこで 伏見広綱を呼んで一昨日の件を尋ね、広綱は詳細を報告した。詰問された宗親は弁明も出来ず、ただ土下座する始末だった。 .. 頼朝は自ら宗親の髷を切り落とし 「御台所の言い付けを重んじるのは神妙だが命令に従う前に何故知らせないか、こんな恥辱を与えるとは何事だ」 ※と。宗親は泣きながら逃げ出し、今夜の頼朝はここに宿泊した。 . ※頼朝の怒り: 個人的には 「部下を責めずに自分の女房に言えよ!」 と思うが、鎌倉幕府の正史と誤解さ されるほど著名になった吾妻鏡が品のないワイドショーみたいな諍いを記録するのは何故だろう。自分の命令に従って 清水義高 (木曽義仲の子で大姫の幼馴染み) を殺した (元暦元年 (1184) 4/21と4/26を参照) 堀親家の郎党藤内光澄を斬首したのも政子の圧力に屈した結果だったし。 .. . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 11月14日 辛巳 . 吾妻鏡 . |
夜に頼朝は御所に戻ったが、北條時政は急に伊豆へ発ってしまった。宗親への仕打ちを怒っての事である。 .頼朝はこれを不満に思って 梶原景季を呼び、「江間 (義時) は穏やかな性格だから父親が変な恨みを持って挨拶もなしに帰国しても従わず鎌倉にいるだろうと思うが、確認して来い」と命じた。 . 暫くして景季が戻り、帰国せず鎌倉にいると報告、再び景季を派遣して義時を呼んだ。邦通を介して「宗親がとんでもない事をしたので罰を与えたら、不本意にも時政が臍を曲げ伊豆に帰ってしまった。お前が私の気持ちを察し時政に従わなかったのは流石に立派だ、私の子孫を守護する資格さえある※。この手柄には追って賞を与えよう」と。 義時は意見を言わず、ただ言葉を承って退出した。 . ※頼朝の対応: 時政の反応にやや落ち着かない頼朝を描いている。吾妻鏡の編纂者は無言の義時を思慮 深いと言いたいのか、狡猾と見たのか。 .吾妻鏡の編纂は1280年代以後と推定されている。今さら源氏に配慮するより実質的に覇権を握った北條氏に忖度して時政と義時の評価を高める意図があった、のかも。 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 11月20日 丁亥 . 吾妻鏡 . | . . ※希義殺害: 経緯に関しては9月25日の条を参照されたし。 . . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 12月 1日 丁酉 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. (去る2月8日に頼朝の願状や神馬と共に伊勢へ向った)伊勢神宮神官が書状で報告。内宮と外宮が関東のため祈祷した件を平家が訴えたため朝廷での議論となり、「神官は遂に狂ってしまったのか」と言われた、と。 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 12月 2日 戊戌 . 吾妻鏡 . |
伊勢神官からの連絡を受け、頼朝も神宮に書状を送った。 .. 曰く、「神官が頼朝に協力したと平家が訴えた件、驚きました。神様は道理に叶う事は許容するもの、これは 後白河法皇のお考えもも同様でしょう。途切れなく祈願してくれれば関東が寄進した神宮の所領も安泰ですから、その旨を二宮 (内宮と外宮) にお伝え下さい」と。 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 12月 7日 癸卯 . 吾妻鏡 . |
頼朝は深夜に 佐々木盛綱と和田義茂の他に供を連れず八幡宮に参拝した。拝殿で祈っていると宮寺の承仕法師 (下働きの僧) が見咎めて 「頼朝公の座に着くのは何者か、早く退去せよ」 と。頼朝はその職務の忠実さに感心して御前に呼び、甘縄※の田一町歩を与えた。 .. ※甘縄: 長谷大仏の南、江ノ電の長谷駅一帯。安達盛長邸 や 長谷寺、御霊神社などが点在する。 . . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 12月10日 丙午 . 吾妻鏡 . |
亀前が中原小中太光家の小坪邸に戻った※。しきりに御台所政子の思惑を恐れているが、頼朝の寵愛が日毎に深まっているためやむを得ず仰せに従ったものである。
.. ※亀前の移動: 6月1日に伊豆から小坪の 中原光家邸に転居、その後に更に移った飯島の 伏見広綱邸が 11月10日に打ち壊されて鐙摺の大和田義久邸に避難し半年ぶりに飯島に戻った、ということ。ちなみに、飯島と小坪は鎌倉の範囲内だが鐙摺は鎌倉の外とされる。
.. 亀女が吾妻鏡に載るのはこれが最後。彼女はどんな後半生を送ったのだろうか。 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 12月16日 丙午 . 吾妻鏡 . |
伏見広綱※が遠江国に配された。御台所政子の怒りによる結果である。 .. ※広綱配転: 原文は「伏見冠者廣綱配遠江國」。この「配置」は配転かと思っていたら「配流」らしい。 でも広綱は同国の掛河 (掛川) の出身だし、純然たる流罪とは違う...と思う。同じ頼朝の右筆に任じていた牧宗親が広綱失脚を狙い、時政を介して政子を利用した可能性を指摘する歴史家もいる。妥当な意見か、それとも考えすぎか。 .. . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 12月30日 丙辰 . 吾妻鏡 . |
上総国の御家人周西二郎助忠ら多くが本宅を安堵※する恩恵を受けた。 .. ※本宅安堵: 家屋敷および付随して耕作する農地を差す。厳密には小作人に耕作させている農地などは 本宅に含まない「本領」として扱われるらしい。 .. . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 月 日 . 吾妻鏡 . |
ご愛読を頂いている皆様へ。 .. 実は、以前から「文字が小さすぎて読みにくい」との御意見を受けていまして、今回の校正の際にタグを打ち直そうかと考えてテストしたのですが...行間の問題などが発生して作業量が増えすぎるため諦めました。 やり始めたら全部を済ませるのに数年を要する可能性もあるため、大変恐縮ですが「システムの拡大機能」をご利用下さい。取りあえず、その問題以外の改善に努力致します。 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 月 日 . 吾妻鏡 . |
記事 .. . 81代 安徳天皇 後白河法皇 . 月 日 . 吾妻鏡 . |
記事 . |