.
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
治承五年 . 3月10日 丙戌 . 吾妻鏡
|
.
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .
十郎蔵人行家※ ( 為義の十男で 義朝の末弟、頼朝の叔父) は息子の太郎光家と同次郎、 僧 義円※ (頼朝の異母弟で義経の同母弟、幼名は乙若丸)、泉重光など尾張と駿河の武士を伴って墨俣川近くに布陣した。 .
平氏の大将軍は 重衡。 維盛、通盛、 忠度、知度、高田盛綱、左衛門尉盛久らが墨俣川の西岸に布陣。夜、馬を洗うため川岸に来た重衡の舎人が夜襲の動きがある様子を報告、平家軍は源氏が動き出す前に急襲した。
.
混乱した源氏軍は義円が高田盛綱に討ち取られ、行家次男の次郎は忠度の捕虜、泉太郎と弟次郎は左衛門尉盛久に討ち取られ、他の兵も溺れたり討ち取られたりして凡そ 690余人が落命した( 古戦場周辺の地図)。 .
.
※義円の戦死: 実戦経験など皆無の義円は功を焦り、一番乗りを
狙って夜半に渡河し葦の中に潜んだのを発見され甲冑が濡れていたため討ち取られたらしい。 .
墨俣川古戦場 には義円の墓所や義円地蔵など、幾つかの痕跡が残されている。
.
画像をクリック→ 合戦の経緯と結末 (別窓) へ .
※指揮官 行家: 平家物語は源氏六千騎 vs 平家三万騎と、玉葉は
源氏五千騎と記録しているから、戦力に大きな差があったのは事実だろう。 .
指揮官の行家は 40km南の熱田へ敗走、更に追撃されて 30km南東の矢作を経て鎌倉まで逃げた。要求した恩賞は当然拒否されて頼朝と決別し、常陸の 志田義憲の元に身を寄せ、義憲が滅びた後は信濃に逃げて 木曽義仲の庇護を受ける結果となる。 .
信義に篤い義仲は自分を頼ってきた無能な行家を見捨てなかった。 .
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
治承五年 . 3月12日 戊子 . 吾妻鏡
|
.
諸国で平氏の攻勢が続き警戒を強めた 頼朝は諸国の神社に勝利を立願した。
まず常陸国の塩浜、大窪、世谷などの荘園を鹿島神宮に寄進し、更なる信仰心から鹿島三郎政幹 ※を神社の惣追捕使 (軍事と警察の指揮官) に任命して影響力を強化した。
.
.
※鹿島政幹: 新羅三郎義光の郎党だった平成幹 (鹿島冠者、大掾
成幹、吉田成幹を名乗る) の三男で嫡子。 .
成幹は 八幡太郎義家没後の河内源氏惣領権を狙った義光の命令を受け、河内源氏四代棟梁を継いだ 義忠 (義家の嫡子) を暗殺した人物。しかも義光は口封じのため成幹を殺してしまうのだから、悪役の平家も驚く悪逆非道だ。成幹は常陸国鹿島郷を相続し、鹿島神宮に対する発言力があったのだろう。 .
右上は大津 三井寺の北にある義光の墓所。
クリック→ 別窓で拡大表示。.
車の場合は皇子が岡公園を経て弓道場前に駐車、徒歩で坂道を下り更に右手の石段を
下ると右側に見えてくる ( 地図)。その先は深い森が広がっている。 .
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
治承五年 . 3月13日 己丑 . 吾妻鏡
|
.
安田義定の使者武藤五が遠江国から到着して曰く、 「頼朝代官として守護を務め平家軍の襲来に備えている。
今回 橋本※に防御陣地構築のため人夫を招集したが浅羽庄司宗信と相良三郎らが馬鹿にして協力しない。
私の前を騎馬のままで通り過ぎるなどの非礼もあり、これは逆心を持つからである。彼ら一族の多くは平家に従っているため早く処罰を加えるべきである」と述べた。
.
.
※橋本: 現在の浜名郡新居町。江戸時代に造られた国特別史跡 新居関所跡 から約1km南の旧東海道沿い
に橋本の地名が残っている( 地図)。鎌倉時代以降にも橋本宿として栄えた。
頼朝の庶兄 義平の生誕地は京都の「 石清水八幡宮 近くの橋本宿 ( 地図)」が正しい。 .
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
治承五年 . 3月14日 庚寅 . 吾妻鏡
|
.
浅羽庄司宗信と相良三郎については、片方の申し立てのみでは罪に問えないと武藤五に言い含めた。 .
武藤五が言うには 「彼らの行状を訴えるため使者を送ったことは国中に知らせている。もしも何の裁可も得られずに帰国すれば守護としての
安田義定※の権威失墜となる。後日もし虚偽の訴えだとなったら自分を斬罪に処して構わない」との事なので、全て義定に従うように命令書を発行した。 .
但し、浅羽庄司宗信の申し立てが理に叶っていた場合には訴えた側の罪を問う旨も書き加えた。 .
.
※安田義定: 建久四年 (1193) に謀反の罪で追討されている。頼朝は早期に臣従した小笠原や石和ら以外
の甲斐源氏を基本的に信頼せずに使い捨ての戦力と考えていたのが窺えるが、遠江国での義定が強引な所領拡大を行なって在地の武士と紛争を起こしたのも事実らしい。 .
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
治承五年 . 3月19日 乙未 . 吾妻鏡
|
.
尾張国の住人 大屋安資 ※が鎌倉に駆けつけた。 「去る 10日に蔵人 行家が墨俣川で平家軍と合戦して惨敗、重衡の率いる平家軍は熱田神宮へ入った。先陣の行家軍が敗れたので更に東進してくる恐れもある」と。
頼朝 は「尾張の在庁官人の多くが平家に従っている中で安資が忠節を守っているのは神妙である」とした。 .
.
※大屋安資: この報告の功績で所領を安堵され、尾張国の守護として現在の稲沢市大矢に城を築いた。
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
治承五年 . 3月27日 癸卯 . 吾妻鏡
|
.
片岡常春※に謀反の噂があり、召喚のため下総の領地に雑色を派遣したところ、領内侵入を咎めて傷付け面縛 ※した。従って罪科が重なったので領地を没収し雑色を釈放して鎌倉へ戻させる旨を命じた。
.
.
※片岡常春: 高望王の四男 良文→ 嫡男忠頼→ 次男忠常から続く房総平氏系で三崎 (現在の銚子周辺) を
本領とした。今回の罪が許された後に 義経に従い壇ノ浦で戦功を挙げたが、文治元年 (1185) には佐竹義政 ( 隆義の長男) の残党とされ再び領地を没収、 千葉常胤に与えられた。その後は 義経 に従って奥州へ逃れた、また平泉高舘で義経に殉じたなどの説があるが詳細は不明である。 .
※面縛とは: 後ろ手に縛った紐を顔に廻し上向きにさせること。晒し者、強い屈辱の意味を持つ。 .
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
治承五年 . 4月 1日 丙午 . 吾妻鏡
|
. .
.
※八幡宮清掃: 大倉御所から至近で住僧も多いのに雑草の繁茂は理解できない、夏でもないのに。 .
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
治承五年 . 4月 7日 壬子 . 吾妻鏡
|
.
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
治承五年 . 4月19日 甲子 . 吾妻鏡
|
.
腰越の浜で平井紀六久重 ※を斬首して晒した。 北條宗時を射殺した罪は軽くないため拘留していた者である。 .
.
※平井紀六斬首: 宗時が函南で討たれたのは石橋山合戦直後の去年8月24日、秦野で捕らえたのが4ヶ月
後の1月6日。三ヶ月も処刑を延ばしたたのは何か理由があるのだろうか。 .
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
治承五年 . 4月20日 乙丑 . 吾妻鏡
|
.
小山田 (稲毛) 重成※は頼朝の御意に叛くところがあり、頼朝の意向を恐れ蟄居している。前年に東国御家人の本領が安堵を受けた際に多西郡内吉富と一宮蓮光寺 ※を自分の所領に書き加えて提出したのが理由である。
.
これはそのまま認められたのだが、平太弘貞 (現在の日野市南部を領有した武士) が自分の領地であると書類で申し出た。事実は申し出通りだったため弘貞の所領と変更、この虚偽記載が明白になった結果である。 .
.
※小山田重成: 稲毛重成と同一人物。稲毛荘 (川崎市多摩区) を安堵され、稲毛を名乗った。 .
※一宮蓮光寺: 一宮は現在の京王線聖蹟桜ヶ丘駅一帯で連光寺はその東側、共に多摩市に地名が残る。
吉富郷の位置は不明だが「きっと」の当て字と考える説があり、その考えに従うと多摩市乞田 (こった、京王永山駅周辺、
地図) の可能性がある。これらは全て小山田重成の本領だった現在の町田市小山田地区に隣接している。 .
多摩市...1990年代に転入し2022年に転出、35年近く住んでいた! 懐かしいなぁ! .
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
治承五年 . 4月30日 乙亥 . 吾妻鏡
|
.
遠江国浅羽庄司宗信 ※は 安田義定の訴えで所領を没収されたのだが、経緯を仔細に弁明した。
安田義定のとりなしもあったため荘園の一部である柴村と田所職 ※を返還した。 宗信には子息や家臣が多く、鎌倉にとって今後も必要な人物である。
.
.
※浅羽宗信: これは3月14日に安田義定が宗信の非協力的な態度を訴えた件の裁決らしい。 .
※田所職: (=田荘職)は国衙で領内の田畠の台帳作成や管理などを担当する職位。 .
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
治承五年 . 5月 8日 癸未 . 吾妻鏡
|
.
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .
園城寺(三井寺、公式サイト)の律静房日胤の弟子日恵 (師公) が鎌倉に参着した。日胤は 千葉常胤の息子で 以仁王のための祈祷を受け持っており、去年の5月に祈祷の願い状を送っておいたものである。
.
日胤は石清水八幡宮に千日参籠して無言で大般若経を読み、600日目に黄金の兜を授かる霊夢を見た。願が叶ったと感じた翌朝に以仁王の三井寺入御を聞き 頼朝の願い状を日恵に託して 以仁王の戦陣に加わっていた。 .
その後の 26日に光明寺の鳥居 ※付近で平家の兵に討ち取られた。日恵は続いて千日の参籠を済ませ師匠日胤の遺志を引き継いで鎌倉に参向しようと考えたが、戦乱のため今に延びてしまった、と。 .
.
※光明寺鳥居: 以仁王戦死の地。現在の山城町(地図)、詳細は前年の 5月26日の項で。 .
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
治承五年 . 5月13日 戊子 . 吾妻鏡
|
.
鶴岡八幡宮造営の木材について指示があり、 土肥実平と 大庭景義が奉行することとなった。去年仮に建てたものは急いでいたため松の柱に萱葺きだったが、今回は立派な社を造り神の威光を示す建物にする、と。 .
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
治承五年 . 5月16日 辛卯 . 吾妻鏡
|
.
信濃国の村山と米用 ※の地は従来通り村山七郎源頼直 ※の所領とされた。これは頼朝挙兵の帰趨がまだ判らない時に平氏に敵対し、越後の 城助職 (長茂) ※と戦った功績に報いるものである。
.
.
※村山と米用: 村山は現在の須坂市西部の千曲川沿い。米用はその南部で「米持」の地名が残る。
.
※平氏に敵対: 信濃源氏の井上氏一族である村山義直と、平家側の豪族 笠原頼直が治承四年 (1180) の
9月7日に 市原合戦 (善光寺裏合戦、長野市若里) を戦っている。村山方は 木曽義仲 に援軍を要請し、義仲の大軍を見た笠原方は越後の豪族 城資永の勢力圏へ逃げた。 .
※越後の城氏: 城資永 は義仲追討の出陣直後に卒中で急死。
.
兄を継いだ城長茂 (助職、資職) は一万の軍を率いて信濃に攻め込んだのだが、 横田河原の合戦
(治承五年、1181年 6月30日)で義仲軍三千に敗れて越後へ逃げ帰った。 .
平家滅亡後は 梶原景時の仲介で降伏し 御家人に列せられたのだが、景時が滅亡して一年後の建仁元年(1204)、景時に恩のあった長茂は倒幕の挙兵をして京で討死してしまう。 .
資永の嫡子 資盛は越後の鳥坂城に籠って抵抗、長茂の妹 坂額は得意の弓で攻め寄せる鎌倉軍を散々に悩ました。
.
最後には坂額も 藤沢清親の矢を受けて負傷し鎌倉に連行され、 浅利与一 ( 武田信義や 安田義定の弟) が貰い下げ妻となって甲斐国浅利郷 (現在の中央市豊富) で生涯を送った。
.
右上は笛吹市に残る伝 坂額の墓。クリック→ 浅利与一と坂額 (別窓) の後半で。.
首謀者の資盛は逐電して行方不明になっている。逃げ延びたとしたら、奥州だろうか。 .
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
治承五年 . 5月19日 戌子 . 吾妻鏡
|
.
十郎行家は三河国から平家追討のため京へ向おうと図った。まず祈祷のため伊勢神宮三河目代の大中臣蔵人以通と相談して密かに願状を書き御幣物を添えて二所太神宮 (伊勢神宮内宮と外宮) に奉納した。内容は以下。 .
内外宮政所大夫殿 行家殿の仰せにより御幣物 (美紙十帖、八丈絹二疋) を添え、このたび行家殿が受けた夢のお告げの内容を申し上げます。その趣旨を叶える祈念を頂く様にお願い申し上げます。
.
治承五年五月十九日 ※ 三河御目代 大中臣以通 .
.
※日付の誤り: この記事は吾妻鏡の翌 養和二年に載っているが、正しくは日付の通り治承五年のもの。 .
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
治承五年 . 5月23日 戊戌 . 吾妻鏡
|
.
御所の近くに 大姫の住居と厩を建てるよう命令が出た。土用前 ※に作業を始めるため資材を直接送ることと、一両日中に大工職を寄越すように安房国の在庁官人に命令を下した。 一品房昌寛が作業の管理を担当する。 .
.
※土曜: 季節が変わる目安の立春、立夏、立秋、立冬の前の概ね18日間、治承五年の5月23日は西暦の
7月6日なのでズレは37日、現代の立秋は8月8日だから当時の立秋は7月2日前後になる。
それまでに準備を済ませよ、との指示か。 .
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
治承五年 . 5月24日 己亥 . 吾妻鏡
|
.
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
治承五年 . 5月28日 癸卯 . 吾妻鏡
|
.
昨夜、安房国の大工が参上。今日 柱を立て、棟上げが行われた。 .
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
治承五年 . 5月29日 戊戌 . 吾妻鏡
|
.
去る19日に十郎蔵人が伊勢神宮に奉った告文の返事が三河国に届いた。書状に曰く、 .
仔細を拝見しました。去年の冬から関東が鎮まりません。特別の祈祷をするように綸言 (天子の言葉) を受けたにも拘わらず、神主や禰宜が朝廷に背いた祈祷をした旨を報告せざるを得ない状況です。 .
再三に院宣を受けてその真偽を問われたため、もう過ちは犯さない旨の請文を提出した始末です。そのため、源氏のために祈祷をせよと言われても後日に朝廷の咎めを受ける恐れもあり、神宮を崇敬する故であっても朝廷の裁可がなければ祈祷は出来かねます。 .
また関東に伊勢神宮の領地は多くありますが、管理人たちは騒動が頻発することや兵糧米の要求などのため、催促しても神への税の納入が少なくなっています。神官たちも窮乏して経費も賄えず、神慮を損なう恐れさえあります。その旨のご理解をお願します。 治承五年5月29日 太神宮政所権神主 .
行家は返状を読んで神慮が思わしくないのを知り更に周章した。そして比叡山に状を送り平家の求めを忘れて源氏に協力してくれるように依頼した。
.
.
※日付の誤り: この記事は吾妻鏡の翌 養和二年に載っているが、日付の通り治承五年の記録である。 .
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
治承五年 . 6月某日 . 吾妻鏡
|
.
越後の 城四郎永用 (別称を長茂、助職、資職) が小河庄赤谷に城を構え、妙見大菩薩 ※を祀り源家を呪詛している旨の情報が伝わってきた。 .
.
※妙見大菩薩: 真言密教で天の中心を司る北斗七星を象徴とする信仰。山犬信仰と結びついて独特な世界
を形成している。かなり複雑怪奇だが興味があれば、詳細は こちら。 .
関東では千葉一族を守護する 千葉神社 をはじめ 秩父神社 や 三峰神社 などに妙見信仰の一端が見えるらしいが、ややこしいので深く追求しない。千葉周作の一刀流「北辰」は北極星を指す。北斗七星と北極星と千葉の姓、関係はありそうだが... .
※小河庄: 現在の新発田市で、赤谷の城は加治川上流標高 205mの山城 (地図)。 .
.
※日付の誤り: この記事は吾妻鏡 寿永元年(1182)9月28日の記載だが、治承五年(1181)6月13日の
横田河原合戦の前でなければ脈絡が失われる。 .
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
治承五年 . 6月13日 戊午 . 吾妻鏡
|
.
越後の 城永用 (別称を長茂、助職、資職) は国主の兄資元を継承し源氏を攻めようとした。今日、木曽義仲が北陸道の兵を率いて信濃国築磨河(千曲川)付近で合戦し、夜になって永用は敗走した。 .
.
※日付の誤り: 吾妻鏡には寿永元年 (1182) 9月3日として載っているが、 横田河原の合戦 (別窓) の勃発は
治承五年 (1181) 6月13日なので正しい日付に日付に転載した。合戦場( 地図) は現在のJR篠ノ井駅の東が史跡で土塁の跡などが現存している。
.
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
治承五年 . 6月13日 戊午 . 吾妻鏡
|
.
頼朝は新造の御所へ移った。千葉常胤が椀飯 (食事の饗応。更に詳細は Wiki で) を献上した。 .
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
治承五年 . 6月19日 甲子 . 吾妻鏡
|
.
頼朝は納涼を兼ねて 毛利頼隆らの御家人を従えて以前から招待されていた三浦へ渡御した。 .
上総広常※は仰せの通りに佐賀岡浜 ※で出迎えた。広常に従っていた 50余人は下馬して平伏したが広常は轡 (くつわ) を緩めて礼をしたのみだった。このため 三浦義連が頼朝の馬前に出て下馬を促したが、広常は 「祖父から三代に亘りそのような礼はしていない」と答えた。
.
その後に故 三浦義明 の屋敷跡 ※ (義澄旧邸) に至り、 三浦義澄が豪華な酒宴椀飯を提供した。宴が進んだ時に 岡崎義実が頼朝の水干の下賜を望んだため、これを与えた。広常が強くこれを妬んで 「こういう見事な衣裳は広常のような者が拝領すべきであり、義実ごとき老人が頂くとは論外だ」と。怒った義実は 「広常の功績は認めるが挙兵当時の忠義とは比べ物にならない」と言い返して口論になり、乱闘の気配になってしまった。 .
頼朝は 「これは宥めようがない」と思ったのか特に言葉を掛けず、義連が走り寄って岡崎義実を叱り 「兄の義澄が主君を迎え饗応しているのに変な騒ぎを起こすとは老狂によるものか」、そして広常には 「あなたも理屈に合わない事をしている。何か所存があれば後日に。宴会を妨げるのは下らない事である」と双方を何度も制止し、騒動は治まった。この仲裁により義連は頼朝に気に入られるようになった、という。 .
.
※佐賀岡浜: 現在の葉山一色海岸らしい。葉山御用邸南の三ケ岡 (葉山公園、 地図) が佐賀岡の転訛か。 .
※上総広常: 寿永二年 (1183) 12月、広常は頼朝の命令を受けた梶原景時に殺されている。これは謀反を
企んだ冤罪で、傍若無人な態度を殊更に描写したのは殺害の正当性を匂わせる意図か。 .
※義明の屋敷跡: 衣笠城。三浦半島内陸部で一色海岸から約10kmの距離にある ( 地図) 。 .
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
治承五年 . 6月21日 乙丑 . 吾妻鏡
|
.
頼朝が鎌倉に帰還。義澄は兜などを献上し更に「髪上揆」という名の馬一頭を献上した。幾多の合戦でこの馬に跨って戦ったが未だ敗れたことがない運の強い馬である、と。
.
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
治承五年 . 6月25日 庚午 . 吾妻鏡
|
.
夜8時に彗星 ※が艮 (丑寅の方角、北東は陰陽道の鬼門)に現れた。鎮星 (土星) の色 (に似た?) 青赤で尾を引いている。これは寛弘三年 ※に出現して以後は起きなかった事である。 .
.
※彗星出現: この日 (6月25日) は西暦1181年8月7日。天文学上の計算に拠れば、この年に超新星が現れて
おり、8月初旬から約半年間観測されている。 .
※寛弘三年: は西暦1006年4月30日、史上最も明るい超新星 (-9等程度) が出現した記録がある。 .
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
治承五年 . 6月27日 壬申 . 吾妻鏡
|
.
鶴岡八幡宮の新築に使う材木のうち柱13本と虹梁 ※ 2本が今朝由比ヶ浜に着く旨の連絡があった。 .
.
※虹梁: 寺社建築に使う虹のように湾曲した梁を指す。伐採地は不明だが川で流して海路で運んだか。 .
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
治承五年 . 7月 3日 丁丑 . 吾妻鏡
|
.
八幡宮社殿建築の命令が下ったたが鎌倉にはその仕事に適した工匠がいない。武蔵国浅草の大工 (名は郷司) を呼ぶため、 一品坊昌寛にその地の責任者に指示するように命じた。 .
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
治承五年 . 7月 5日 己卯 . 吾妻鏡
|
.
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .
長尾定景※が 石橋山合戦で 佐奈田義忠 (与一) を討った罪を許された。 .
義忠の父である 岡崎義実に身柄を預けていたが義実は情けのある者なので殺さずに囚人として拘留していた。定景は毎日怠らずに法華経を読んで過ごしており、義実は夢のお告げがあった事を頼朝に報告した。 .
「息子の仇は殺さないと気が済まないと考えたが、定景の読経を聞くたびに怨む心が消えていく。もし彼を殺せば義忠が成仏する妨げになる気がするので赦免してほしい」、と。
.
頼朝は 「義実の苦悩を癒すために与えた者だ。法華経を読み許すことで癒されるのならば同じ結果である」 として赦免を許可した。
.
※長尾定景: 28年後の建保七年 (1219) に再び吾妻鏡に記録あり。八幡宮で 実朝を殺して首を持ったまま
三浦邸に向かった 公暁を 義時の命令を受けた 三浦義村 の指示で討ち取っている。
.
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
治承五年 . 7月 8日 壬午 . 吾妻鏡
|
.
浅草の大工が到着し八幡宮の建築が始まった。まず御神体を仮の社殿に移して 頼朝がこれを参拝した。 .
相模国の大庭御厨 ※から巫女が呼ばれて遷宮の準備を行い、建設の差配は輔通 (?) と 大庭景能 (景義) が取り仕切った。新設の正殿への正式な遷宮は来月の15日に行なうので、それまでの完成が命じられた。 .
.
※大庭御厨: 後三年の役 (別窓) で勲功を挙げた 鎌倉権五郎景政が大庭郷を中心に開発立荘して伊勢神宮
に寄進したのが最初。平安末期には相模国最大の荘園になった。 .
景政の後は庶流の大庭氏が差配して悪役の 大庭景親へ、彼が没した後には兄の景義に戻り、その嫡男 景兼が和田合戦 (1213年) に連座して滅んだ後は三浦領に、宝治合戦 (1247年) で三浦が滅びた後には北條得宗家の所領となった。本拠の大庭城址の現状は こちら (別窓) で。 .
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
治承五年 . 7月14日 戊子 . 史 料
|
.
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
養和元年 . 7月20日 甲午 . 吾妻鏡
|
.
鶴岡若宮の上棟式が行われた。手前東の仮屋に 頼朝が着座し、御家人はその南北に控えた。工匠に褒美の馬を与え、その馬を引く役目を 九郎義経に命じた ※。
.
義経は 「私が上手 (かみて) の手綱を引くと下手 (しもて) の手綱を引く役に見合う身分の者がいない」 と答え、頼朝は重ねて 「佐貫広綱や 畠山重忠がいる。この役目を卑下して従うのを渋っているのか」 と言った。 .
義経は頼朝の言葉に恐怖し、すぐに座を立って二頭の上の手綱を引いた。重忠が先の一頭を、広綱が後の一頭の下の手綱を引いた。その他、土肥実平、 工藤景光、 新田忠常、佐野忠家 ※、 宇佐美実政らが手綱を引いた。
.
午後4時に式典が終り頼朝が退出した。その時一人の大男が頼朝の後に立ち止まって何か言おうとし、下河辺行平が男を取り押さえた。御所に戻ってから庭に引き出すと柿渋の直垂の下に腹巻を着け髷につけた札に安房国 故長佐六郎 ※の郎等 左中太常澄とあり、仔細を尋問すると 「弁解する気はないから早く斬れ」と言う。
.
行平が 「もちろん首を斬るが、理由を言わねば意味がない、早く言え」と言うと 「去年の冬に安房国で主人が追討されてから旧臣は困窮し寝ても覚めても憂いが絶えず、その恨みを晴らしに来た。どうせ殺されるのだから死骸の素性を人に知らせるため名札を付けたのだ」と。
.
頼朝は 「聞く必要はないから早く殺してしまえ。ただし今日は上棟式だから明日にせよ」と命じ、 梶原景時 に拘留させた。次に行平を呼び 「今日の対応は見事だったので褒美として望む事を一つ与えよう」と。
.
行平は 「大した望みではないが、毎年税として馬を朝廷に納めるのが農民の負担になっています」と願った。頼朝は 「褒美を望むのは官位か所領が常なので普通ではないが、望み通りにしてやろう」と言って貢馬免除の下し文を与えた。成尋 ※がこの指示を下総国御厩別当宛の書面にした。
.
.
※義経の立場: 既にこの時点では義経を家臣として扱う頼朝と源氏一族として処遇して欲しい義経の間に
溝が生まれている。ちなみに 頼朝は文治元年 (1185) 8月16日の除目で清和源氏 6人 (下記) を国司に任命して 「御門葉」とし、他の者には公式の場で源氏を名乗る事を許していない。
山名義範、
大内惟義、
足利義兼、
加賀美遠光、
安田義定、
源義経、 .
義経は除目の時点で関係が悪化し実質的に御門葉から除かれ文治五年 (1189) に死没、安田義定は建久五年 (1194) に追討されている。御門葉なんてゲスな格式だね。
実弟の範頼や全成は含まれず、血縁関係の近さではなく忠節と功績が優先されている。 .
※義勝坊成尋: 本姓は佐野忠家、挙兵当初から頼朝に従った僧兵で修験者。息子 家長は 八田知家の養子
になっている。知家の妻は成尋の妹で頼朝の乳母の一人。 .
※長佐六郎常伴: 現在の鴨川市一帯に勢力を持っていた武士。治承四年 9月3日に安房の民家に宿泊した
頼朝を襲撃する計画を察知され三浦義澄の兵に討たれた。その合戦の場所は不明だが、鴨川漁港近くの貝渚 (かいすか) 地区に 「一戦場 (いっせんば) 」 の地名があり、ここが戦闘の跡と伝わっている ( 地図) 。 .
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
養和元年 . 7月21日 乙未 . 吾妻鏡
|
.
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .
和田義盛と 梶原景時が命令によって昨日捕えた左中太を連行して固瀬川 ※に向かった。
.
遠藤武者が稲瀬川 ※まで追って来て 「景時は八幡宮造営の監督者なので至急戻るように。その代りに天野光家 (遠景の弟) が義盛と共に沙汰を実行するように」と。これに従って光家が同行した。左中太常澄は 「その程度の事は初めから判っているだろうに、軽率な殿様だ」と笑った。
.
やがて一行は固瀬川に着き左中太を斬って首を晒し、雑色の浜四郎時澤が別の使者としてこれを確認した。その夜の頼朝の夢に僧侶が現れ 「左中太常澄は前世の敵である事が社殿の造営中に判明した」と語ったという。 .
頼朝は 「造営とは大菩薩を崇めることで、棟上の日にこんな事件が起きたのは大菩薩の加護だろう」と。
時を置かず 葛西三郎清重に命じて厩の駿馬(名を奥駿) を八幡宮に献上した。
.
.
※固瀬川: 江ノ島の近くに流れ込む現在の境川。稲瀬川は江ノ電 長谷駅近くで由比ヶ浜に注いでいる。 .
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
養和元年 . 8月13日 丁巳 . 吾妻鏡
|
.
平氏の申し立てに基づき、 藤原秀衡が 頼朝を、 平 (資永) が 木曽義仲を追討すべき旨の宣下 ※が行われた。
.
.
※吾妻鏡の編纂ミス:宣下を受けた城資永は出陣直前の今年2月25日に卒中で死没している。従ってこの
記事は 1月〜2月初旬の筈だった記事を日付け違いで乗せた、と推定される。 .
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
養和元年 . 8月27日 辛未 . 吾妻鏡
|
.
渋谷庄司重国の次男 高重※は良く忠節を尽くす者であり、加えて心も穏やかな人物である。
頼朝 はそれに心を打たれ、高重の所領である渋谷下郷に課せられていた年貢などを免除した。
.
.
※渋谷高重: 横山時広の娘婿。建保元年 (1213) の和田合戦では時広が 和田義盛に味方し、婿の高重も
舅に従って討死している。渋谷下郷は現在の藤沢市の長後付近 ( 地図) か。 .
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
養和元年 . 8月29日 癸酉 . 吾妻鏡
|
.
祈願成就のため鶴岡八幡宮と近国の寺社で大般若経と仁王経などを転読 ※させる命令が出された。その中には一日中の祈祷 (読経) をさせる寺社もあり、鶴岡八幡宮は兼ねてからその手順が定められていた。 .
伊豆山権現と筥根 (箱根) 権現には即刻必要な指示書を送った。これは 一品坊昌寛の差配による。 .
.
※転読: 長い経文を開くだけで読了と扱う事。大般若経、仁王経、観音経、曼荼羅経などの転読指示が
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
養和元年 . 9月 4日 丁丑 . 吾妻鏡
|
.
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .
木曽義仲は平家追討のため北陸道を経て上洛を目指した。先陣の根井太郎 ※は越前国水津 ※に入り、 平通盛※ が率いる軍勢との合戦が始まった。 .
.
※根井太郎: 信濃望月氏の傍流で義仲四天王の一人 根井行親。義仲と各地を転戦し、寿永三年 (1184) の
宇治川合戦で戦死したらしい。佐久市根々井の天神山正法寺に供養塔が残っている。 .
少年時代に読んだマンガの源平盛衰記には 「宇治川の一番乗りを目指した 畠山重忠 の乗馬磨墨を射た」とあり、 「磨墨は 梶原景季 の馬だろ?」と思ったのを覚えている。必要な事は忘れるのに些末な記憶はいつまでも残っている、この馬鹿馬鹿しさ。 .
※現地の報告: 治安維持のため経正と越前国府に入った
平通盛は 「国中が反乱状態」と報告した。
.
※戦況の詳細: 史料は、9月6日に越前水津 (敦賀市杉津、 地図、京まで約100km) で 義仲軍と
平通盛軍が
合戦した、と伝えている。ここで敗れた通盛は国府 ( 地図、 参考資料) を放棄して南下し、津留賀城 ( 地図、金ヶ崎城) に退却、更に 11月には津留賀城も放棄して京に逃げ帰った。 .
※越前国府跡: エリアは概ね確定しているが、まだ物証の確認は得られていない、らしい。国司に任じた
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
養和元年年 . 9月27日 庚子 . 吾妻鏡
|
.
田口民部大夫成良 ※率いる平家軍が伊予国に攻め込んだ。河野四郎 (通清) ※ら在庁官人はこれに従わず合戦となったが、兵力が足りないため河野側は敗北した。 .
.
※田口成良: 清盛の忠臣だった安房国の武士。四国の勢力を結集して一ノ谷などで源氏軍と戦った。
嫡男教良は後に義経軍に転じ、父の成良も平家を見限って義経軍に加わった。 .
この寝返りは壇ノ浦合戦の勝敗に決定的とも言えるに大きな影響を与えたのだが頼朝はこの功績を認めず、平家滅亡後に田口父子は鎌倉で処刑されてしまう。 .
※河野通清: 伊予国の武士。頼朝挙兵の直後に平維盛の目代を討って伊予国を支配下に置いたが平家の
命令を受けた田口成良らに攻められ、伊予国高縄山城 (現在の愛媛県北条市) で戦死した
。 .
通清の嫡子 河野通信が伊予水軍の将として壇ノ浦合戦や藤原氏追討に転戦し 御家人として伊予での実権を握ったが、承久の乱 (1221年) では 後鳥羽上皇側に味方して敗北、流刑地の陸奥で死没している。 .
※平家物語では: 巻九 六ヶ度軍 (いくさ) の条 に合戦の経緯が書かれている。 .
阿波 讃岐の在庁官人が瀬戸内海を渡り備前国下津井の教盛、通盛、教経の軍を襲撃。
教経らは反撃して敵を淡路へ追い詰め更に伊予を落とした。 .
河野通信と豊後国 (大分県 北部) の臼杵惟隆、緒方惟義ら2,000人は備前国 (岡山県 東南部) 今木の城瀬戸内市 牛窓港近く) に入ったが 教経は3,000の兵に援軍も加えて攻め寄せ、惟隆と惟義は更に本領の九州へ、河野四郎は伊予国 (愛媛県) に逃げた。奮戦した教経は福原※(現在の神戸市)へ凱旋した。 .
※福原: 治承四年 (1180) 6月、 清盛は宋との貿易港である大輪田泊 (神戸港西部) に拠点を移し 安徳天皇
を擁して遷都を試みたが源氏の蜂起などで挫折、寿永二年(1183)7月の義仲入京を避けた平家が都を離れるのだが、養和元年 (1181) 9月の福原は まだ平家の勢力下にあった。 .
治承四年 1180年 6月 以仁王挙兵 → 同年8月 頼朝挙兵 →
養和元年 1181年閏2月 清盛死没 →
寿永二年 1183年 7月 平家都落ち、義仲入京 →
元暦元年 1184年 1月 義仲滅亡 → 同年 3月一ノ谷合戦 →
文治元年 1185年 2月 屋島合戦 → 同年 4月壇ノ浦合戦で平家一門が滅亡 .
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
養和元年 . 10月 3日 丙午 . 吾妻鏡
|
.
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
養和元年 . 10月 6日 己酉 . 吾妻鏡
|
.
走湯山 (伊豆山権現) の住僧 禅叡 ※を鶴岡八幡宮の僧と大般若経を転読する僧に加えて八幡宮西の谷にある水田二町 (免税) を与える旨の命令書を出す、と。また玄信大法師 ※も同職に加え最勝王経を休みなく転読する「長日役」に従わせる旨が命じられた。 .
.
※禅叡: 翌年8月5日の条にも「免税の田なのに労役などを課され難渋している」旨の訴えがあり、労役
と税を全て停止する命令が下された、と記載されている。ただしこの措置については別の見方もあり、該当ヶ所で再度掲載する予定。
.
※玄信大法師: 荘厳房 行勇律師 (1163〜1241) を差す。鶴岡八幡宮寺供僧が永福寺と大慈寺の別当を経て
鎌倉五山の五位 稲荷山 浄妙禅寺 (Wiki) の開山を務め、 頼朝と 政子の篤い信任を受けた。正治元年 (1999) に 栄西の門下に入り、栄西没後は寿福寺二世を務めた高僧である。 .
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
養和元年 . 10月12日 乙卯 . 吾妻鏡
|
.
書状で、常陸国橘郷 ※ を鹿島社 ( 鹿島神宮、公式サイト)に寄進した。武家を護持する力があり、特に頼朝の信仰を篤くする神社である。 .
.
※橘郷: 現在の行方市羽生 (旧 玉造町) 一帯。生贄になって海神を鎮めた弟橘姫 (ヤマトタケルの妃) の簪
(かんざし) が流れ着いた伝説が地名となった。 道の駅たまつくり(別窓)の近くに無住の橘郷造神社があり、5kmほど東には新撰組創始者の一人 芹沢鴨の生家(行方市のサイト)がある。
道に迷った挙句に撮影した画像が行方不明になったつらい思い出の地だ(涙)。 .
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
養和元年 . 10月20日 癸亥 . 吾妻鏡
|
.
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .
昨日、伊勢神宮神職の渡會光倫 (相鹿二郎太夫) が鎌倉に到着した。頼朝が祈祷を依頼する書面を送ったため本日の対面に至った。
.
光倫が言うには 「先月の19日に平家の命令に従って東国の平定を祈り、天慶の例※に倣って金の鎧が伊勢神宮に奉納された。その前に祭主 (神職の長) ※親隆卿の嫡男で神官少副の定隆が伊勢国一志の宿駅※で死亡。 .
また朝廷で奉納の沙汰が決まった当日には神宮本殿の棟木に蜂が巣を掛け、雀が小虫也※を生んだ。この怪異現象は朝廷を軽んじ国を危うくする悪臣が敗れ去る時が来たことを示している。」と。 .
頼朝は 「去る永暦元年(1160)に流罪となり京を出る時に夢のお告げあってから伊勢神宮への思いは他と違うものがある。願成就の時には必ず新しい御厨(荘園)を寄進しよう」、と応じた。 .
.
※天慶の例: 天慶 (てんぎょう) 三年に常陸国で勃発した 平将門
の乱と、同四年の 藤原純友の乱を差す。
.
この際には朝廷が多くの甲冑や武具を伊勢神宮に奉納し、多くの神々が武装した騎馬の姿で海上を戦地に向かう様を見せた、と伝わる。
.
両者とも官軍の追討を受けて敗死したが、朝廷の権威を大きく揺るがす歴史の転換点となった。 .
※祭主: 伊勢神宮のみに置かれる神職。神宮の祈年祭や月次祭
や神嘗祭に奉幣使として天皇の意思を伝えている。 .
※一志の駅: 定隆が急死した伊勢街道の宿駅。紀勢本線六軒駅
.
※小虫也: 蛇の子あるいは未熟な子など諸説あるが、要するに通常ではない子を意味する。 .
右画像は伊勢神宮内宮の拝殿前。画像をクリック→ 伊勢神宮の公式サイトへ。
伊勢神宮訪問記 (別窓) も参考に。
.
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
養和元年 . 11月 5日 丁丑 . 吾妻鏡
|
.
足利義兼、 九郎義経、 土肥実平、 土屋宗遠、 和田義盛らが 平維盛の軍勢を迎撃するため遠江国に出陣しようとした際に 佐々木秀義が 「維盛はまだ近江国におり、関東に向かう時期も不明だ。十郎蔵人行家が尾張国に駐屯しているから準備をさせておけば、我々が急いで出発する必要もない。」と提言し、出陣は延期となった。 .
.
※吾妻鏡のミス: 行家は今年の3月10日に墨俣川合戦で 平重衡軍に敗れて熱田へ逃げ、更に追撃され三河
の矢作川防衛線を突破された後に鎌倉に戻った。その後に 志田義憲から離れ 木曽義仲の庇護を受けている。従ってこの記事の通り 「行家が尾張国に駐屯している」のなら この会話は墨俣川合戦よりも前、となる。吾妻鏡の日程錯綜は単純ミスか。
.
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
養和元年 . 11月11日 癸未 . 吾妻鏡
|
.
加賀堅者 ※が鎌倉に参着、彼は故 頼政卿の一族である。 「頼政の近親 埴生彌太郎盛兼※は 頼政が自刃した宇治川合戦から逃れて関東に落ち延びようとしたが、平宗盛の軍兵に捕らわれかけて自刃した。そのため軍兵は仲間の少納言宗綱※を連行し、親しかった私は捕縛されるのを避けて関東へ逃げてきた」、と。 .
.
※加賀堅者: 大和源氏 (頼親系) の頼安の子とする説もあるが摂津源氏 (頼光系) 頼政の一族ではない。
仏法の議論で設問に答える者を 竪者 (りっしゃ) と言うが...誰だろうね。 .
※埴生盛兼: 頼政の近親ではなく郎党と思われる。 .
※少納言宗綱: 藤原北家の公卿で従五位上。観相に長け「相少納言」と呼ばれたらしい。
「玉葉」は「少納言宗綱が「以仁王は天皇になる相の持ち主だ」と言ったために反逆者と判断されて捕えられた」、と書いている。ただしその真偽は不明。 .
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
養和元年 . 11月21日 癸巳 . 吾妻鏡
|
.
通盛と行盛 ※が北陸から京に戻った。経正は若狭国に駐屯 ※を続けている。
.
.
※名簿の詳細: 通盛は 清盛の弟 教盛の嫡男で 教経の兄、行盛は 重盛の弟 基盛の嫡男、経正は清盛の弟
経盛の嫡男で敦盛の兄。盛り沢山で混線しそうだ (笑) 。 .
※若狭に駐屯: この年6月に横田河原の合戦で越後の 城助職を破った 木曽義仲は戦備を整える目的で北陸
に留まった。この日は西暦12月28日、北国の戦線は寒さが緩む春まで膠着状態になる。 .
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
養和元年 . 11月29日 辛丑 . 吾妻鏡
|
.
早河庄 ※の租税は 頼朝の配慮により今後は免除される。
.
.
※早河庄: 頼朝の乳母の一人摩々尼 (母は 義朝の乳母を務めた摩々局、二代続けての乳母) の所領。
閏2月7日にも、相応の配慮をするように総地頭 ( 小早川遠平?) に命じている。 .
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
養和元年 . 12月 7日 己酉 . 吾妻鏡
|
.
御台所政子が病気になり、御所中が騒動となった。
.
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
養和元年 . 12月11日 癸丑 . 吾妻鏡
|
.
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .
最近は腹を病んでいた仏法の師 日恵が没し、山の内 (北鎌倉一帯) に葬られた。頼朝は悲しんで荼毘の地まで同行した。日恵は三井寺の律靜房日胤 ※の門弟で仏法に通じた清廉な僧だった。師の縁を尋ねて鎌倉を訪れ、頼朝も帰依していた人物である。 .
.
※律靜房日胤: 以仁王の挙兵に合流して討ち取られた僧。5月8日に詳細の記載がある。 .
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
養和元年 . 月 日 . 吾妻鏡
|
. .
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
養和元年 . 月 日 . 吾妻鏡
|
. .
|
西暦1181年 . . 81代 安徳天皇 後白河法皇 |
養和元年 . 月 日 . 吾妻鏡
|
. .
|