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治承五年(1181年)、7/14 改元して 養和元年
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前年・治承四年(1180)の吾妻鏡     翌年・養和二年(1182)の吾妻鏡
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吾妻鏡 写本 (伏見本) の全ページ画像 を載せました。直接 触れるのも一興、読み解く楽しさも味わって下さい。
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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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1月 1日 戊申
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吾妻鏡
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早朝、頼朝 が鶴岡若宮 (八幡宮) に参詣。日取りの良し悪しは気にせず、元日を八幡宮に詣でる日と定めた。
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三浦義澄畠山重忠大庭景義らが郎従を率いて前夜から辻々を警護した。
頼朝は騎馬で出御して 専光房良暹 (Wiki) が控える拝殿に入り、まず 宇佐美祐茂仁田忠常が曳く神馬一頭を奉納し、次いで法華経を供養して館に戻った。
千葉常胤 が宴を用意し、三尺の鯉を添えて献じた。酒肴は数えられないほど揃えられていた。
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   ※年令: 平清盛 3月に病没 (享年63) 、 平時子 54歳、 平重盛 42歳、 平宗盛 33歳、 平知盛 28歳、
平維盛 21歳、 平重衡 23歳、
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源頼朝 33歳、 源行家 38歳、 源範頼 30歳、 阿野全成 27歳、 源義経 21歳、 木曽義仲 26歳、
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北條時政 42歳、、 北條政子 23歳、 北條義時 17歳、 千葉常胤 62歳、
三浦義澄 53歳、 足利義兼 26歳、 安達盛長 45歳、 大江広元 32歳、 畠山重忠 16歳、
梶原景時 40歳、 宇都宮朝綱 58歳、 土肥実平 55歳、 岡崎義実 68歳、 加藤景廉 24歳、
佐々木定綱 38歳、
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伊東祐親 56歳、 伊東祐清 28歳、 藤原秀衡 58歳、 藤原泰衡 25歳、 藤原基成 59歳、
後白河法皇 53歳、 安徳天皇 2歳、 九条兼実 31歳、 吉田経房 38歳、 土御門通親 31歳、
丹後局 29歳、 一条能保 33歳、 藤原定家 18歳、 慈円 25歳、 法然 47歳、
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      (全て1/1時点の満年令、一部の年齢は推定)
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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1月 5日 壬子
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吾妻鏡
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関東の軍勢が海路で紀伊半島を廻り京に攻め上るとの噂が流れた。平家側は家臣を方々の港に派遣し、志摩国は伊豆江四郎に警護させた。そこへ熊野山の衆徒が志摩の菜切島に集結して伊豆江四郎に攻めかかったため郎従の多くが負傷し敗走した。
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江四郎は伊勢神宮を経て宇治岡に隠れたが、波多野忠綱 (義通の次男) と 義定 (義通の孫) が主従八騎で通りかかり、源氏への忠節を示すため合戦して江四郎の子息二人を殺した。忠綱と義定は義通の所領を相続して伊勢国に住んでいた。敵対した義経は相模で討伐されたが、この二人は源家との縁を重視して勲功を挙げた。
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   ※義経: 波多野義常 の間違い。義常は治承四年10月16日に討手を向けられ松田郷で自刃している。
挙兵への参加を拒否した上に使者の安達盛長に対して暴言を発したことに起因する。波多野の系図では義通の子が義常。義通の妹が 義朝の側室とし頼朝の異母兄 朝長を産んでいる。
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   ※菜切島: 志摩半島の英虞湾にある大王町波切 (地図) とされている。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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1月 6日 癸丑
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吾妻鏡
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工藤景光が平井紀六久重を捕えた。これは去年8月の早河合戦北條宗時 (時政の嫡男) を殺した者で、頼朝の鎌倉入り後に逃亡し行方不明になっていた。駿河、伊豆、相模の武士に命じて捜させていたが、相模国蓑毛付近で景光が捕えて時政の元へ連行した。経緯を 武衛 (頼朝) に報告すると 「身柄を 和田義盛に預けて無闇に殺すな」 との指示があった。尋問した結果、宗時を討ち取ったのは間違いないと認めた。
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   ※早河合戦: 吾妻鏡の昨年 8月24日に 「 (宗時は) 平井郷まで
逃げ早河の近くで 伊東祐親の手勢に囲まれ小平井名主紀六久重の矢を受けて討死」 とある。
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平井郷周辺に 「早河」 の名はないが、近くを流れる冷川 (狩野川の支流、地図) と取り違えた可能性はある。
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   ※蓑毛: 伊勢原市との境に近い秦野市蓑毛。阿夫利神社の
中腹 、波多野氏や岡崎氏らの本領を流れる金目川の上流部 (地図) に位置する。
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日本武尊が蝦夷討伐に向かう途中で雨となった時に農民が 「みの」 を献じた。地名を訪ねると 「ない」 と答えたため、農民の親切心にちなんで 「蓑毛」 と名付けた、との伝承がある。
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  画像は宗時と狩野茂光の墓所。 詳細は画像をクリック→ 函南の宗時神社 (別窓) で。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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1月11日 戊午
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吾妻鏡
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仰せに従い、梶原景時 が初めて参上した。昨年の冬に 土肥実平が連れてきた者で、特に文筆を得手にしている訳ではないが言葉が巧みな、頼朝が気に入っている人物である。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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1月18日 乙丑
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吾妻鏡
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昨年の 12月28日に奈良東大寺と興福寺の堂塔と僧坊が全て平家によって焼き払われた。 わずかに勅封倉 (正倉院) と寺封倉 (寺宝の倉) のみが焼失を免れている。
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火が大仏殿に燃え広がった時に法難に耐え切れず身を投げて焼身した者が 3名、両寺の火災で焼け死んだ者は 100名以上との情報が伝わった。これは相模国毛利荘の印景が伝えた話で、印景は学僧として 3年間奈良に在住していたが今回の寺院焼失によって帰国したものである。
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   ※東大寺: 吾妻鏡の建久五年 (1194) 6月28日に次の記載がある。
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虚空蔵菩薩像は穀倉院別当 中原親能、増長天像は 畠山重忠、持国天像は 武田信義
多聞天像は 小笠原次郎長清、広目天像は 梶原平三景時 に造立を指示してある。
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つまり戒壇院と四天王像は治承五年1月に焼失し建久五年に再建された。それが事実なら、四天王像を「天平芸術の代表、云々」と評価するのは変だと思って少し調べてみた。
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現存の四天王像は戒壇院にあった「建久年間に頼朝が造らせた像」ではなく、法華堂 (三月堂) に日光&月光菩薩像と共に置かれていた像を後世に移設した可能性が高いようだ。
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更に正確に書くと、焼き討ちでは東大寺々域の中心から少し離れた法華堂と二月堂と転害門と正倉院だけが焼失を免れている。
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  右は東大寺全域の鳥瞰図。
    画像をクリック→ 別窓で拡大表示

焼け残った四つの建物「法華堂と二月堂と転害門と正倉院」の位置を確認しておこう。
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   ※毛利荘: 現在の厚木市西部、今でも森林の多い地域だ。「森の荘」が転じて毛利荘、後に 大江広元の
一族が領有し、安芸国 (広島県) に移った子孫が戦国大名 毛利氏の祖となっている。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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1月21日 戊辰
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吾妻鏡
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熊野の悪僧が5日以降に伊勢国と志摩国で何度も合戦を繰り返し、19日までに全部で7ヶ所の民家を襲った。
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平家の家臣は砦などを捨てて逃亡した。僧兵の一部も殺されたり傷を負ったりしたが、兇徒は勢いに乗って二見浦の民家を焼き払い、更に四瀬河付近まで迫った。平家一族の出羽守信兼 (山木判官兼隆の父) らが兵を率いて船江 (伊勢外宮の北東、地図) で遭遇し、合戦となった。
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僧兵の中心人物 戒光 (大頭八郎房) が信兼の矢を受けるなどしたため僧兵は二見浦まで退き、下女 (30〜40歳) と童僕 (14、5歳) など 30人以上を捕えて船に同乗させ、熊野の港に向け船出した。
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騒動の原因を調べると、南海道 (紀伊南岸一帯) は清盛の勢力範囲なのに熊野は関東の繁栄を祈り、平家を滅ぼそうとした。清盛が権力に奢り朝廷を軽んじて神仏や仏法を尊ばず民を悩ましていることが発端である。
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最近は伊勢神宮の神領に使者を送り兵粮米を徴収して労役を課した。天照大神が鎮座して 1100年あまり、このような例はなかった。この数年は清盛の一門が滅びるように、貴賎を問わず全ての人が願っている。
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   ※四瀬河: 固瀬川の間違い。五十鈴川支流の派川 (地図) と推定されている。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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1月23日 庚午
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吾妻鏡
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武蔵国の長尾寺と弘明寺などは僧の長栄が差配すると定められた。源家累代の祈願所である。
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   ※長尾寺: 現在の 長尾山妙楽寺 (Wiki) 。治承四年 11月15日と 11月19日の記事を参照されたし。
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   ※弘明寺: 横浜市最古の寺 瑞應山蓮華院弘明寺 (真言宗) 、本尊は国重要文化財の十一面観音立像。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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2月 1日 戊寅
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吾妻鏡
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北條時政の娘 足利義兼に嫁した。また 加々美長清 上総広常の婿となった。共に人柄の良い忠義者なので頼朝が気に入っており、仰せに従っての縁談である。
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   ※時政の娘: 政子の妹、通名を 時子。足利 法玄寺の伝承 (別窓) では建久七年 (1196) に密通による妊娠
を疑われて自殺した、とされている。この真偽は不明。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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2月 9日 丙戌
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吾妻鏡
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去年の冬に河内国で平家に殺された 源義基 (義家の六男 陸奥義時の三男) の首が今日、獄門に懸けられた。
検非違使の中原章貞、源仲頼、中原基広、安部資成、中原明基、大江経広、紀兼康らが七条河原の平氏の家から首を受け取って都大路を引き回した。
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義基の弟 義資と義広は生け捕られ、兄と共に左獄舎 (左京の獄舎) に送られた。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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2月10日 丁亥
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吾妻鏡
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安房国洲崎の神領で従来の官吏に専横がある旨の訴えが神主から出された。対応して (頼朝から) 専横停止の指図があった。
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曰く、「右の神社には全ての公租や労役などを免除してある。神官らの訴えが事実であれば許し難い行為である旨を在庁官人 (国衙 (国府) に常駐して実務を担う役人) は弁えるように。」と。
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   ※洲崎の神領: 頼朝は前年 9月12日に州崎明神 (今の洲崎 神社
千葉県の観光サイト) に神田を寄進し更に寿永元年 (1182) には政子の安産を祈って同様に神田を寄進している。頼朝が小坪の亀女と馴染んで色々とトラブルを起こしていた頃、だね。円満解決でも祈ったか (笑) 。
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右画像は現在の洲崎神社(画像をクリック→ 別窓で拡大表示)
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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2月12日 己丑
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吾妻鏡
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平知盛、清経、行盛らが近江から京へ戻った。頼朝追討のために出陣したのだが知盛の体調不良のため引き返したものである。知盛が持ち帰ったものだろうか、今日美濃国で討ち取られた源氏たちの首が入洛した。
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小河重清、蓑浦義明 (山本義経の子) 、上田重康、冷泉頼典、葦敷重義、伊達家忠と、同じく重親、越後重家 (越後平氏) 、同じく五重信、神地康信 (上田重康の家臣) らの首である。
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   ※美濃国で: 主戦場は美濃ではなく近江。前年 12月1日に山本義経らと戦って獲った首だろう。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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2月18日 乙未
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吾妻鏡
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大河戸太郎広行と弟の次郎秀行 (清久) 、同じく三郎行元 (高柳) 、四郎行平 (葛渡) の 4人は 頼朝に疎まれていたが、今日許された。広行は 三浦義明の娘と婚姻している関係から彼の身柄を預かっていた三浦の当主 義澄が同行して参上した。
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頼朝は簾越しに顔を見てそれぞれが勇士の相貌なので心を動かした、と。彼らの父 下総権守大河戸重行は平家に従っていた罪により去年伊豆蛭島に流罪となっていたが、許されて召還される途中で病死してしまった。
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   ※大河戸広行: 大河戸御厨 (伊勢神宮領、本拠は埼玉県松伏町大川戸の光厳寺、地図) の一帯) か。
広行流罪と同時に御厨の管理権は幕府直轄となり、文治五年 (1189) の奥州合戦の軍功により復権して陸奥国宮城郡山村の地頭職を得た。
参考資料と、左枠の 「宇都宮・小山氏系図」 の最下段を確認されたし。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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2月27日 甲辰
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吾妻鏡
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吾妻鏡にはこの項が9月3日に記載されているが、城資永の死没月日に合せて日付を変更した。
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越後の 城四郎資永が(8/13の)勅命を受けて軍勢を集め 木曽義仲を攻めようとしたが今朝になって死没した。
これは天罰が下ったものであろうか。
従五位下越後守 平朝臣資永、城九郎資国の子息、母は 清原武衡 の娘、養和元年8月13日叙任。
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   ※城資永死没: 義仲追討軍を指揮して出陣直前の2月25日に卒中で死去。城氏による反攻を期待して
昇進させた平家とっては大きな痛手となった。皆さん、血圧には注意しましょうね。
この訃報が半年後の 9月に載っているのは単なる編纂者のミスだろうと思う。
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   「平家物語 巻六 嗄声」に拠れば (意訳)
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越後国の住人 城太郎助長は越後守に叙された朝廷の恩に報いるため、翌16日に三万余騎を率いて木曽義仲追討の出陣を計画した。その前夜に強風と豪雨に雷鳴が強く鳴動し、晴れた途端に雲の切れ目から嗄れた声が大きく三度も響き渡った。
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「金銅十六丈の廬舎那仏を焼き滅ぼした平家の与党がここにいるぞ、召し取れや」。聞く者全てが恐れおののき、郎党は「天のお告げには逆らえません、留まるべき」と申し出たが、「弓矢を取る者の態度に非ず」と答えて16日卯の刻(朝6時)に出陣、僅か16町(2km弱)ほど進むと黒雲が湧き上がり、助長を覆ったと見えた途端に気を失って落馬した。
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直ちに輿に抱き上げて館に戻ったが、三刻 (6時間) 程して死んでしまった。飛脚を派遣して仔細を都に報告、平家の人々は大騒ぎになった。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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2月27日 甲辰
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吾妻鏡
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安田義定の飛脚が遠江国から到着して報告。平通盛惟盛忠度らが数千騎の軍兵を率いて京を発ち、既に尾張国に至った。兵を派遣して防戦の準備をするべきである」と。
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   ※遠江国: 当時の静岡県。大井川を境に西が遠江国で東が駿河国。富士川合戦で敗走する平家軍を追撃
した義定は国府の鎌田御厨 (JR東海道線御厨駅東の鎌田神明宮一帯、地図) に本拠を構えて遠江国を統治下に置いていた。吾妻鏡は 「頼朝が任命した」 と書いているが、 「実力で制圧したエリアの支配権を (不本意ながら) 頼朝が追認した」 に過ぎない。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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2月28日 乙巳
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吾妻鏡
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志太義広が常陸国 鹿島神社 (公式サイト) の神領を侵しているとの情報が伝わったため、頼朝は物忌みの沙汰を出し、散位久経がそれを取り仕切った。また、今日 和田義盛、岡部忠綱 (忠澄の父) 、狩野親光宇佐美祐茂土屋義清 らを遠江国に派遣した。平家軍が進出中との情報に対応するためである。
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   ※鹿島の神領: 格下と考えていた頼朝に略奪事件を咎められた事が後の義広挙兵に繋がった。
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   ※格下: 頼朝は家長だった 義朝の嫡男 (三男) で 志太義広は義朝の次弟。結局は勝った方が各上を名乗る
のが世の常で。
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   ※物忌み: 一般的には外出を控え行動に気をつけることを指す。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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2月29日 丙午
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吾妻鏡
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九州で兵乱があった。肥後の住人菊池隆直と豊後の住人 緒方惟能らが平家に叛いたためである。
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隆直に味方したのは木原盛実法師と南郷大宮司惟安。惟能に従うのは大野家基と高田隆澄ら、他に長野太郎、山崎六郎、同じく次郎、野中次郎、合志太郎ら。600余騎の精兵を率いて陣を固め、海陸の往還を封鎖した。そのため平家方の 原田種直 が九州の官兵 2,000騎を指揮して合戦し、隆直側の多くが負傷した、と。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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2月 日   
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吾妻鏡
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当時の陰暦では季節とのギャップ調節のため3〜4年に一度閏 (うるう) 月が入る (今年は2月の次が閏2月 ) 。
西暦と陰暦には一ヶ月弱前後のズレがある事にも留意が必要、例えば頼朝が挙兵した治承四年8月4日は西暦では8月26日になる。陰暦→ 西暦の変換なら こちらのサイト が利用しやすい。

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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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閏2月 4日 庚戌
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吾妻鏡
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夜半に入道相国 平清盛が九條河原口にある平盛国邸 (清盛の側近で家司、一門の侍大将) で死去した。先月の 25日から病床にあったものである。遺言は次の通り。
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三日が過ぎた後に葬儀をすること、遺骨は播磨の山田法華寺に納め七日毎に通常の法事を営むこと、
毎日の法事はしないこと、京都で追善の法事は営まぬこと、一族はただ東国平定の努力をすること。
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   ※盛国邸跡: 九條河原口は誤記。今は八条河原口説が有力で、
市営住宅の緑地に盛国邸跡の碑が建っている。
没したのはここで間違いないようだが...
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住所は下京区東之町17 (地図)、新幹線のガードから50m弱。塩小路橋経由で後白河法皇の法住寺殿まで約 900m、平家一門の屋敷が並んでいた六波羅一帯まで 2kmの徒歩圏で、清盛の腹心 平盛国に相応しい場所である。
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  右画像をクリック→ 別窓で拡大表示
     盛国の人物像は Wiki で、六波羅 法住寺殿復元地図 も参考に。
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   ※山田法華寺: 平家の荘園があった現在の神戸市垂水区西舞子 (地図)と考えるのが自然だが既に廃寺で
痕跡も不明、兵庫区切戸町の清盛塚も物証なし、確定に至っていないのが残念だ。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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閏2月 7日 癸丑
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吾妻鏡
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頼朝誕生の時に最初の乳を含ませた女、摩々と名乗り相模早河荘 (小田原市南部) に住む尼を呼び出した。
親愛の思いがあるため、屋敷や所領の農地などに間違いが起きないよう総地頭に申し付けた。
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   ※早川の摩々: 土肥郷と早川荘は 土肥実平から嫡子 小早川遠平が継承した。総地頭は遠平か。
摩々は 義朝の乳母説と 頼朝の乳母説があるが、どうやら所謂 乳母ではないらしい。
母親が義朝に、娘が頼朝に乳を組ませた可能性も無きにしも非ず、か。
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   ※総地頭: 一族の嫡流として、分割相続した庶子らを統括した惣領地頭を差す。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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閏2月10日 丙辰
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吾妻鏡
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平宗盛の家臣 景高 (平忠清の弟で景家の嫡男、宗盛の乳兄弟。本拠は飛騨) の率いる千余騎が頼朝を討つために関東を目差した、と。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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閏2月12日 戊午
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吾妻鏡
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伊豫の住人河野 (越智) 通清 (愛媛一帯の海域を支配していた水軍の長で、河野通信の父) が平家に叛いて伊豫を占領したとの情報あり。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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閏2月15日 辛酉
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吾妻鏡
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以下 閏 2月28日までは吾妻鏡編纂者のミスで 実際には治承五年 (1181) ではなく寿永二年 (1183) の記事。従ってここでは 緑色 で記載し、寿永二年の正しい位置には通常の文字と、併せて写本 (別窓) を掲載した。
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院から頼朝追討の下し文が出された。平重衡朝臣が携え、1000余騎の精兵を卒いて東国を目差した。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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閏2月17日 癸亥
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吾妻鏡
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安田義定 和田義盛、岡部忠綱狩野親光宇佐美祐茂土屋義清 及び遠江の住人横地長重、勝間田成長らを率いて浜松の橋本に到着。頼朝の命令に従って、この要害の地で平家を迎え討つためである。
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   ※岡部忠綱: 忠澄の祖父で武蔵七党の一つ猪俣党の庶流 岡部氏
の祖。源義朝の家臣として保元の乱と平治の乱を戦い、武蔵国榛沢郡岡部郷 (現在の深谷市岡部) に入って岡部を名乗ったのが最初となる。
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孫の忠澄は 一の谷合戦で平家の強者 平忠度を討ち取って名を挙げた。実は卑劣な騙し討ちだけど。
詳細は 忠澄の本領と忠度の墓 で。
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   ※浜松の橋本: この頃の浜名湖は今の浜名川に近い経路で海に
入る淡水湖だったが 明応の大地震 (1498年3月) で河口が埋まってしまった。
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流出口を塞がれた湖水が地震で軟弱化した湖岸を今切口 (現在の浜名大橋の位置) で突破して押し流したため浜名湖は遠州灘と直結する汽水湖となった。 右上は浜名湖の古い絵図   画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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江戸時代末期までは近畿と関東を結ぶ要所の一つで、西岸の橋本には新居関や宿驛や遊郭が設けられ大いに繁栄していた。
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頼朝の異母兄 義平は京と東国を頻繁に往来していた 義朝が橋本の遊女に産ませた子と伝わっているが、これは浜名の橋本ではなく京都市八幡区の橋本宿を差す、念のため。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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閏2月19日 乙丑
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吾妻鏡
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京都の様子を報告する中宮大夫 三善康信の書状が鎌倉に届いた。去る4日には清盛が死去し、遺骨を送るため一門はすでに播磨国に向った。世間が少し落ち着いたら鎌倉に参上したい旨が書かれていた。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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閏2月20日 丙寅
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吾妻鏡
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頼朝の叔父 志田義広は血族の縁に繋がる事を忘れ、数万騎の兵を率いて鎌倉を攻めようと常陸国を出陣し下野国に入った旨の報告が届いた。平家軍襲来の情報があったため、軍兵の多くを駿河国以西に派遣している。
義広の行動には思い煩わされるものがあるが、下総国には下河辺行平が、下野国には 小山朝政がいる。両人は命令がなくとも戦って功績を挙げるだろう。
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更に今日、朝政の弟 長沼宗政と従兄弟の政平などを援軍として下野国に向け出発させた。政平は頼朝に暇乞いの挨拶をした後に出発したが、頼朝は 「政平には二心がある」と語った。果たして政平は途中で宗政と別れ、裏道を通って義広の陣に加わってしまった。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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閏2月21日 丁卯
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吾妻鏡
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頼朝は本日以後の七日には鶴岡若宮に参詣する願を立てた。これは東西の逆徒蜂起 (東の義広と西の平家) の平定を祈るためで、未明に参詣して神楽を奉納した。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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閏2月23日 己巳
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吾妻鏡
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義広は数万余騎を従え鎌倉を目指した。最初に誘った 足利忠綱は既に源氏に叛いており、これに従った。
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小山氏と藤姓足利氏は 藤原秀郷流の同族だが、同じ下野地域で覇権を争う関係にある。去年の夏に 以仁王が平家討伐の令旨を諸国に送った際は、小山には話があったのに忠綱にはなかった。
その鬱憤もあって平家に加わり、宇治川合戦では 源三位頼政の軍を破り以仁王を討ち取っている。この際に小山も滅ぼしてしまおうと考えたのだろう。
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次に義広は兵を挙げた旨を小山朝政に伝えた。朝政の父政光は大番役 (皇居警護の役務) で多くの部下を連れて在京しており、朝政の手勢は少ないのだが頼朝に臣従している。義広を討ち取る軍議をしたところ、歴戦の家臣が「味方すると偽って殺す機会を図るべき」と述べ、義広に参加する旨を伝えた。
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義広は喜んで朝政館に向ったが、朝政は一足先に館を出て野木宮に隠れ、登々呂木澤や地獄谷の樹に部下を登らせて大声を出して大軍を装い、義広が慌てた所へ郎従が攻めかかった。25歳の朝政は緋威の鎧に鹿毛の馬で走り回り多くの敵を倒した。義広の矢を受けて落馬したが致命傷にはならず、乗馬は登々呂木澤で嘶いた。
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  右画像は現在の野木神社。
   画像をクリック→ 野木神社と野木宮合戦の推移 (別窓) へ。

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ちょうど鎌倉から小山を目指していたいた五郎宗政 (20歳) はこの馬を見て朝政が討死したと思い、義広の陣に攻め込んだ。義広の乳母子 多和利山の七太が馬に鞭を当てて宗政の左に立ち塞がったためにこれを射落とし、小舎人童が首を獲った。義広は少し退却して野木宮の西南に陣を張った。
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朝政と宗政は東側から攻め掛かり、ちょうど強い風が焼け野の塵を吹き上げたため人馬共に視界が利かずに分断され、義広に従った多くの兵が地獄谷と登々呂木澤に死体を晒す結果となった。
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下河辺行平と弟の 政義が古我 (古河) と高野の渡しを固めて敗走する敵を討ち取った。足利有綱、嫡男の佐野基綱、四男の阿曽沼広綱、五男の木村信綱、大田行朝らは小手差原に陣取り小堤などで戦った。
他にも 八田知家、下妻清氏、小野寺道綱、小栗重成、宇都宮信房、鎌田為成、湊河景澄らが朝政軍に加わり、更に範頼も同様に戦闘に加わった。
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小山朝政は 藤原秀郷 (俵藤太) が天慶の時代に 平将門を追討して下野と武蔵の国守を兼任し従四位下に叙されて以降この地を支配した一族の棟梁である。義広の謀計を聞き命を惜しまず忠義を尽くして勝利を得た。
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   ※義広の兵力: 頼朝が鎌倉を目差した時は関東の武者が次々と馳せ参じて総勢 2万7千騎、と称した。
それを考えれば志太義広の兵力3万騎は明らかに誇張で、しかも動員力の劣る朝政に敗れるのは合理性に欠ける。せいぜい千騎程度か、騙し討ちだった可能性もある。
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   ※野木宮合戦: 現在の渡良瀬遊水池の東側一帯が戦場だったが 「大声で脅かした」 とか 「ちょうど宗政
や下河辺や八田や範頼が...」 など不合理な記述が多すぎる。
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叔父の義広と藤姓足利氏を常陸と下野から駆逐するため鎌倉側は周到な準備をしてそれなりの軍兵を派遣した、それが事実だろう。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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閏2月25日 辛未
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吾妻鏡
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足利忠綱 志太義広に味方して野木宮合戦で敗れた事を悔やみ、上野国の山上郷龍奥に引き籠った。家臣の桐生六郎だけを伴って数日間隠れ、六郎の勧めに従って山陰道を経て九州方面に落ち延びた。
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足利忠綱は無双の勇士で、他人より抜きん出た事が三つある。一つは百人力、二つは十里も届く大声、三つは一寸 (約 3cm) もある歯だ。
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   ※山上郷龍奥: 桐生市新里町西部。山上城址 (地図) がある。
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     右画像は忠綱が開いたと伝わる足利の福厳寺。
       画像をクリック→ 福厳寺と両崖山城址(別窓)へ。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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閏2月27日 癸酉
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吾妻鏡
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頼朝が鶴岡八幡宮に参拝。願を掛けて7日目、満願の日である。「志太義廣の件はどうなったか」 と独り言を漏らすと太刀持ちとして控えていた 小山 (後の結城) 朝光「既に朝政に攻め滅ぼされたでしょう」と 応じた。
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頼朝は振り返って「若者の言葉は思いつきではなく神託だろう。もしその通りならば褒賞を与えねばならぬ」と言った。朝光は今年 15歳である。
参拝から御所に戻ると行平と朝政の使者が到着し義広の敗北と逃走を報告した。夜になると朝政の使者も到着して義広方の武士の首を持参したと報告、頼朝は 三浦義澄 比企能員に命じて腰越の獄門に晒させた。
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   ※腰越の獄門: 腰越は鎌倉の外とされ、獄門があったらしい。
後に 義経の首も腰越浜で実検されている。
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大庭景親も固瀬川で斬られたし、後に 日蓮法難のあった龍ノ口刑場も腰越からは500m圏内、同じ場所だった可能性もある。
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朝光は野木宮合戦に関わる功績で結城を与えられ結城一族の祖となった。
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この頃の本拠は城の内館 (城の内遺跡、地図) として整備されている。後に結城城 (地図) に本拠を移し、室町時代の子孫は 結城合戦 (Wiki) で致命的敗北を喫している。
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右は結城氏の菩提寺に残る朝光の墓石。画像をクリック→ 結城朝光の本領 (別窓) へ。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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閏2月28日 甲戌
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吾妻鏡
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小山 (長沼) 宗政が先日の合戦で負傷した 小山朝政の代理として一族及び共に参戦した者を伴って鎌倉に参上、頼朝と対面して勲功を褒められた。宗政と 下河辺行平およびその一族は西側に、八田知家と小栗重成らは東側に列した。捕虜となった者は 29人、或る者は首を晒され 或る者は行平や有綱に預かって拘留した。
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常陸、下野、上野で志太義広に味方した輩の所領を全て没収し恩賞として朝政や朝光らに与えられた。
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   ※足利有綱: 藤姓足利氏棟梁俊綱 (忠綱の父) の弟で庶子。俊綱と忠綱の父子は義広に味方したが有綱と
基綱の親子は頼朝挙兵直後から合流し、御家人として本領の佐野を名乗っている。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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3月 1日 丁丑
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
頼朝生母の月命日である。亀ヶ谷の 土屋義清の仏堂で頼朝も出席し法事が行われた。導師は箱根権現別当の行実、供僧は専光房良暹、大夫公承栄、河内公良睿、専性房全淵、浄如房本月の5人。 .
布施は導師 行実に馬を一頭と絹二反、唱和した供僧にはそれぞれに白布二反が贈られた。
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   ※仏堂: 義朝の旧邸跡に 岡崎義実が建てた堂。前年10月4日の
頼朝鎌倉入りの際に御所を造る計画を中止した場所。
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土屋義清は岡崎義実の実子としての立場でこの仏堂を管理していたと推測される。
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頼朝死没一周忌の翌 正治二年 (1200) 閏2月12日、政子はこの場所に 栄西を開山として 寿福寺 (別窓) の創建に着手している。  右は寿福寺の山門 (クリック→ 別窓の明細頁へ)
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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3月 6日 壬午
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吾妻鏡
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伊勢神宮の神官である大中臣能親の書状が中八維平に届いた。
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去る1月19日、熊野神宮 湛増の一党と称する者が伊雑宮に乱入して建物を壊し宝物を盗んだ。御神体の鏡は伊勢内宮に遷したが26日には仲間が山田郷と宇治郷を襲って民家に放火し略奪を働いた。
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天照大神の鎮座から 1100年余、また皇室から斎宮が派遣され始めて 600余年を経るが、こんな例はなかった。今は源家再興の時なので行動を慎むべき時なのに、との内容である。
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維平は内容を報告。頼朝は「湛増は味方の筈なのに、この行動は驚くべき事だ。神宮にはこちらで対処する と伝えよう」とした。
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   ※中八維平: 治承四年 8月20日、韮山から土肥を目指す頼朝勢の末尾付近に中八維平の記載がある。
他に 藤原泰衡 の郎党で後に頼朝の御家人に列した由利中八維平があり、前説が合理的ではあるが...頼朝挙兵以後の吾妻鏡には中八維平の名前が見当たらない。
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奥州合戦(1189年夏)の際に奥州藤原氏の郎党だった人物が、その 9年前に鎌倉にいたのも合理性に欠ける。吾妻鏡の誤記か、同名異人だったか、判断できない。
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   ※伊雑宮: いざわのみや(Wiki、右画像、クリック→ 別窓で拡大表示) は伊勢神宮の別宮で 内宮の南東
10kmの地点 (地図) にある。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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3月 7日 癸未
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吾妻鏡
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大夫属入道 三善善信 (康信) が書状で報告。「去る 2月7日に後白河院で協議があり、武田信義に頼朝追討の命令を下すと決められた。これは諸国の源氏ではなく、頼朝だけを指定している」 との事。
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頼朝は武田が異心を抱く可能性を考えて仔細を信義に尋ねたところ、本人が今日駿河から鎌倉に参着した。
曰く、「追討の命令など届いていない、例え命令があっても従う意思はない。異心の有無はこれまでの功績で明らかであり、子々孫々まで叛く事はない。」との起請文を差し出したので対面となった。
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用心のため 三浦義澄 下河辺行平 佐々木定綱 盛綱梶原景時を呼び左右に待機させた。信義は帯刀を外し、頼朝が奥に入った後に自らが退出するまで行平に預けた。
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   ※三善康信: 前年 6月19日にも記載がある、頼朝の乳母の妹の子。月に3度は書状で京都の情勢を報告
し以仁王と頼政の敗死後に源氏追討令が出た際も奥州への逃亡を勧めている。
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ただし、頼朝死没後の1200年代には吾妻鏡の重要な局面にそれとなく現れて有能さをアピールする記述が散見されるから、当人または子孫係累が吾妻鏡を編纂した人物の一人だった可能性もある。根拠の薄弱な美辞麗句には注意が必要、だ。
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   ※頼朝追討の院宣: 駿河の武士宛てには「頼朝の命令に従わず、
平重衡 に従うべし」との院宣が出された事実は史料として確認されている。
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武田信義は前年10月21日から駿河に駐留して統治と防衛の任務に就いており、院宣発行は承知していたのだろう。
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   ※武田信義: 21代 信勝 (信玄の孫、勝頼の嫡子) まで続く甲斐源氏
の実質的な始祖。韮崎の釜無川西岸には守護神社である武田八幡神社や一族の菩提を弔う願成寺など、多数の見所が点在する。
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    右上は武田氏菩提寺 鳳凰山願成寺の山門。
       画像をクリック→ 「甲斐源氏交流の跡 武田の郷」の詳細ページ (別窓) へ。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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3月10日 丙戌
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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十郎蔵人行家 (為義の十男で義朝の末弟、頼朝の叔父) は息子の太郎光家と同次郎、僧 義円 (頼朝の異母弟で義経の同母弟、幼名は乙若丸)、泉重光など尾張と駿河の武士を伴って墨俣川近くに布陣した。
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平氏の大将軍は 重衡維盛、通盛、忠度、知度、高田盛綱、左衛門尉盛久らが墨俣川の西岸に布陣。夜、馬を洗うため川岸に来た重衡の舎人が夜襲の動きがある様子を報告、平家軍は源氏が動き出す前に急襲した。
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混乱した源氏軍は義円が高田盛綱に討ち取られ、行家次男の次郎は忠度の捕虜、泉太郎と弟次郎は左衛門尉盛久に討ち取られ、他の兵も溺れたり討ち取られたりして凡そ 690余人が落命した(古戦場周辺の地図)。
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   ※義円の戦死: 実戦経験など皆無の義円は功を焦り、一番乗りを
狙って夜半に渡河し葦の中に潜んだのを発見され甲冑が濡れていたため討ち取られたらしい。
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墨俣川古戦場 には義円の墓所や義円地蔵など、幾つかの痕跡が残されている。
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 画像をクリック→ 合戦の経緯と結末 (別窓) へ
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   ※指揮官 行家: 平家物語は源氏六千騎 vs 平家三万騎と、玉葉は
源氏五千騎と記録しているから、戦力に大きな差があったのは事実だろう。
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指揮官の行家は 40km南の熱田へ敗走、更に追撃されて 30km南東の矢作を経て鎌倉まで逃げた。要求した恩賞は当然拒否されて頼朝と決別し、常陸の 志田義憲の元に身を寄せ、義憲が滅びた後は信濃に逃げて木曽義仲の庇護を受ける結果となる。
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信義に篤い義仲は自分を頼ってきた無能な行家を見捨てなかった。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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3月12日 戊子
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吾妻鏡
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諸国で平氏の攻勢が続き警戒を強めた 頼朝は諸国の神社に勝利を立願した。
まず常陸国の塩浜、大窪、世谷などの荘園を鹿島神宮に寄進し、更なる信仰心から鹿島三郎政幹を神社の惣追捕使 (軍事と警察の指揮官) に任命して影響力を強化した。
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   ※鹿島政幹: 新羅三郎義光の郎党だった平成幹 (鹿島冠者、大掾
成幹、吉田成幹を名乗る) の三男で嫡子。
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成幹は 八幡太郎義家没後の河内源氏惣領権を狙った義光の命令を受け、河内源氏四代棟梁を継いだ 義忠 (義家の嫡子) を暗殺した人物。しかも義光は口封じのため成幹を殺してしまうのだから、悪役の平家も驚く悪逆非道だ。成幹は常陸国鹿島郷を相続し、鹿島神宮に対する発言力があったのだろう。
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 右上は大津 三井寺の北にある義光の墓所。
   クリック→ 別窓で拡大表示。

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車の場合は皇子が岡公園を経て弓道場前に駐車、徒歩で坂道を下り更に右手の石段を 下ると右側に見えてくる (地図)。その先は深い森が広がっている。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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3月13日 己丑
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吾妻鏡
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安田義定の使者武藤五が遠江国から到着して曰く、「頼朝代官として守護を務め平家軍の襲来に備えている。
今回 橋本に防御陣地構築のため人夫を招集したが浅羽庄司宗信と相良三郎らが馬鹿にして協力しない。
私の前を騎馬のままで通り過ぎるなどの非礼もあり、これは逆心を持つからである。彼ら一族の多くは平家に従っているため早く処罰を加えるべきである」
と述べた。
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   ※橋本: 現在の浜名郡新居町。江戸時代に造られた国特別史跡 新居関所跡 から約1km南の旧東海道沿い
に橋本の地名が残っている(地図)。鎌倉時代以降にも橋本宿として栄えた。
頼朝の庶兄 義平の生誕地は京都の「石清水八幡宮 近くの橋本宿 (地図)」が正しい。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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3月14日 庚寅
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吾妻鏡
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浅羽庄司宗信と相良三郎については、片方の申し立てのみでは罪に問えないと武藤五に言い含めた。
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武藤五が言うには「彼らの行状を訴えるため使者を送ったことは国中に知らせている。もしも何の裁可も得られずに帰国すれば守護としての 安田義定の権威失墜となる。後日もし虚偽の訴えだとなったら自分を斬罪に処して構わない」との事なので、全て義定に従うように命令書を発行した。
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但し、浅羽庄司宗信の申し立てが理に叶っていた場合には訴えた側の罪を問う旨も書き加えた。
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   ※安田義定: 建久四年 (1193) に謀反の罪で追討されている。頼朝は早期に臣従した小笠原や石和ら以外
の甲斐源氏を基本的に信頼せずに使い捨ての戦力と考えていたのが窺えるが、遠江国での義定が強引な所領拡大を行なって在地の武士と紛争を起こしたのも事実らしい。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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3月19日 乙未
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吾妻鏡
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尾張国の住人 大屋安資が鎌倉に駆けつけた。「去る 10日に蔵人 行家が墨俣川で平家軍と合戦して惨敗、重衡の率いる平家軍は熱田神宮へ入った。先陣の行家軍が敗れたので更に東進してくる恐れもある」と。
頼朝 は「尾張の在庁官人の多くが平家に従っている中で安資が忠節を守っているのは神妙である」とした。
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   ※大屋安資: この報告の功績で所領を安堵され、尾張国の守護として現在の稲沢市大矢に城を築いた。
後に 和田義盛の婿となっている。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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3月27日 癸卯
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吾妻鏡
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片岡常春に謀反の噂があり、召喚のため下総の領地に雑色を派遣したところ、領内侵入を咎めて傷付け面縛した。従って罪科が重なったので領地を没収し雑色を釈放して鎌倉へ戻させる旨を命じた。
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   ※片岡常春: 高望王の四男 良文→ 嫡男忠頼→ 次男忠常から続く房総平氏系で三崎 (現在の銚子周辺) を
本領とした。今回の罪が許された後に 義経に従い壇ノ浦で戦功を挙げたが、文治元年 (1185) には佐竹義政 (隆義の長男) の残党とされ再び領地を没収、千葉常胤に与えられた。その後は 義経 に従って奥州へ逃れた、また平泉高舘で義経に殉じたなどの説があるが詳細は不明である。
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   ※面縛とは: 後ろ手に縛った紐を顔に廻し上向きにさせること。晒し者、強い屈辱の意味を持つ。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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4月 1日 丙午
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吾妻鏡
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頼朝が八幡宮に参詣。庭に蔦が繁り、垣にも草が絡まっている。大庭景能 (景義) に掃除の差配を命じた。
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   ※八幡宮清掃: 大倉御所から至近で住僧も多いのに雑草の繁茂は理解できない、夏でもないのに。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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4月 7日 壬子
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吾妻鏡
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御家人の中から弓の名手で忠節心の確かな者を選び夜間の寝所警の役を命じた。
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江間四郎 北條義時下河辺行平結城朝光、和田義茂 (義盛の弟) 、梶原景季 (景時の嫡男) 、宇佐美 (大見) 実政榛谷重朝葛西清重三浦(佐原)義連 (義明の九男) 、千葉胤正 (常胤の嫡男) 、八田知重 (知家の長男で小田氏の祖) らである。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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4月19日 甲子
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吾妻鏡
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腰越の浜で平井紀六久重を斬首して晒した。北條宗時を射殺した罪は軽くないため拘留していた者である。
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   ※平井紀六斬首: 宗時が函南で討たれたのは石橋山合戦直後の去年8月24日、秦野で捕らえたのが4ヶ月
後の1月6日。三ヶ月も処刑を延ばしたたのは何か理由があるのだろうか。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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4月20日 乙丑
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吾妻鏡
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小山田 (稲毛) 重成は頼朝の御意に叛くところがあり、頼朝の意向を恐れ蟄居している。前年に東国御家人の本領が安堵を受けた際に多西郡内吉富と一宮蓮光寺を自分の所領に書き加えて提出したのが理由である。
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これはそのまま認められたのだが、平太弘貞 (現在の日野市南部を領有した武士) が自分の領地であると書類で申し出た。事実は申し出通りだったため弘貞の所領と変更、この虚偽記載が明白になった結果である。
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   ※小山田重成: 稲毛重成と同一人物。稲毛荘 (川崎市多摩区) を安堵され、稲毛を名乗った。
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   ※一宮蓮光寺: 一宮は現在の京王線聖蹟桜ヶ丘駅一帯で連光寺はその東側、共に多摩市に地名が残る。
吉富郷の位置は不明だが「きっと」の当て字と考える説があり、その考えに従うと多摩市乞田 (こった、京王永山駅周辺、 地図) の可能性がある。これらは全て小山田重成の本領だった現在の町田市小山田地区に隣接している。
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多摩市...1990年代に転入し2022年に転出、35年近く住んでいた! 懐かしいなぁ!
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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4月30日 乙亥
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吾妻鏡
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遠江国浅羽庄司宗信安田義定の訴えで所領を没収されたのだが、経緯を仔細に弁明した。
安田義定のとりなしもあったため荘園の一部である柴村と田所職を返還した。 宗信には子息や家臣が多く、鎌倉にとって今後も必要な人物である。
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   ※浅羽宗信: これは3月14日に安田義定が宗信の非協力的な態度を訴えた件の裁決らしい。
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   ※田所職: (=田荘職)は国衙で領内の田畠の台帳作成や管理などを担当する職位。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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5月 8日 癸未
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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園城寺(三井寺、公式サイト)の律静房日胤の弟子日恵 (師公) が鎌倉に参着した。日胤は 千葉常胤の息子で 以仁王のための祈祷を受け持っており、去年の5月に祈祷の願い状を送っておいたものである。
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日胤は石清水八幡宮に千日参籠して無言で大般若経を読み、600日目に黄金の兜を授かる霊夢を見た。願が叶ったと感じた翌朝に以仁王の三井寺入御を聞き 頼朝の願い状を日恵に託して 以仁王の戦陣に加わっていた。
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その後の 26日に光明寺の鳥居付近で平家の兵に討ち取られた。日恵は続いて千日の参籠を済ませ師匠日胤の遺志を引き継いで鎌倉に参向しようと考えたが、戦乱のため今に延びてしまった、と。
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   ※光明寺鳥居: 以仁王戦死の地。現在の山城町(地図)、詳細は前年の 5月26日の項で。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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5月13日 戊子
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮造営の木材について指示があり、土肥実平 大庭景義が奉行することとなった。去年仮に建てたものは急いでいたため松の柱に萱葺きだったが、今回は立派な社を造り神の威光を示す建物にする、と。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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5月16日 辛卯
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吾妻鏡
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信濃国の村山と米用の地は従来通り村山七郎源頼直の所領とされた。これは頼朝挙兵の帰趨がまだ判らない時に平氏に敵対し、越後の 城助職 (長茂) と戦った功績に報いるものである。
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   ※村山と米用: 村山は現在の須坂市西部の千曲川沿い。米用はその南部で「米持」の地名が残る。
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   ※平氏に敵対: 信濃源氏の井上氏一族である村山義直と、平家側の豪族 笠原頼直が治承四年 (1180) の
9月7日に 市原合戦 (善光寺裏合戦、長野市若里) を戦っている。村山方は 木曽義仲 に援軍を要請し、義仲の大軍を見た笠原方は越後の豪族 城資永の勢力圏へ逃げた。
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   ※越後の城氏: 城資永 は義仲追討の出陣直後に卒中で急死。
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兄を継いだ城長茂 (助職、資職) は一万の軍を率いて信濃に攻め込んだのだが、横田河原の合戦
(治承五年、1181年 6月30日)で義仲軍三千に敗れて越後へ逃げ帰った。
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平家滅亡後は 梶原景時の仲介で降伏し 御家人に列せられたのだが、景時が滅亡して一年後の建仁元年(1204)、景時に恩のあった長茂は倒幕の挙兵をして京で討死してしまう。
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資永の嫡子 資盛は越後の鳥坂城に籠って抵抗、長茂の妹 坂額は得意の弓で攻め寄せる鎌倉軍を散々に悩ました。
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最後には坂額も 藤沢清親の矢を受けて負傷し鎌倉に連行され、浅利与一 (武田信義 安田義定の弟) が貰い下げ妻となって甲斐国浅利郷 (現在の中央市豊富) で生涯を送った。
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  右上は笛吹市に残る伝 坂額の墓。クリック→ 浅利与一と坂額 (別窓) の後半で。
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首謀者の資盛は逐電して行方不明になっている。逃げ延びたとしたら、奥州だろうか。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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5月19日 戌子
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吾妻鏡
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十郎行家は三河国から平家追討のため京へ向おうと図った。まず祈祷のため伊勢神宮三河目代の大中臣蔵人以通と相談して密かに願状を書き御幣物を添えて二所太神宮 (伊勢神宮内宮と外宮) に奉納した。内容は以下。
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内外宮政所大夫殿   行家殿の仰せにより御幣物 (美紙十帖、八丈絹二疋) を添え、このたび行家殿が受けた夢のお告げの内容を申し上げます。その趣旨を叶える祈念を頂く様にお願い申し上げます。
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         治承五年五月十九日  三河御目代 大中臣以通
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   ※日付の誤り: この記事は吾妻鏡の翌 養和二年に載っているが、正しくは日付の通り治承五年のもの。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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5月23日 戊戌
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吾妻鏡
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御所の近くに 大姫の住居と厩を建てるよう命令が出た。土用前に作業を始めるため資材を直接送ることと、一両日中に大工職を寄越すように安房国の在庁官人に命令を下した。一品房昌寛が作業の管理を担当する。
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   ※土曜: 季節が変わる目安の立春、立夏、立秋、立冬の前の概ね18日間、治承五年の5月23日は西暦の
7月6日なのでズレは37日、現代の立秋は8月8日だから当時の立秋は7月2日前後になる。
それまでに準備を済ませよ、との指示か。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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5月24日 己亥
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吾妻鏡
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大姫邸と厩の縄張り作業が始まった。大庭景義梶原景時一品房昌寛が差配し御家人らが人夫を拠出した。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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5月28日 癸卯
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吾妻鏡
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昨夜、安房国の大工が参上。今日 柱を立て、棟上げが行われた。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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5月29日 戊戌
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吾妻鏡
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去る19日に十郎蔵人が伊勢神宮に奉った告文の返事が三河国に届いた。書状に曰く、
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仔細を拝見しました。去年の冬から関東が鎮まりません。特別の祈祷をするように綸言 (天子の言葉) を受けたにも拘わらず、神主や禰宜が朝廷に背いた祈祷をした旨を報告せざるを得ない状況です。
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再三に院宣を受けてその真偽を問われたため、もう過ちは犯さない旨の請文を提出した始末です。そのため、源氏のために祈祷をせよと言われても後日に朝廷の咎めを受ける恐れもあり、神宮を崇敬する故であっても朝廷の裁可がなければ祈祷は出来かねます。
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また関東に伊勢神宮の領地は多くありますが、管理人たちは騒動が頻発することや兵糧米の要求などのため、催促しても神への税の納入が少なくなっています。神官たちも窮乏して経費も賄えず、神慮を損なう恐れさえあります。その旨のご理解をお願します。  治承五年5月29日 太神宮政所権神主
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行家は返状を読んで神慮が思わしくないのを知り更に周章した。そして比叡山に状を送り平家の求めを忘れて源氏に協力してくれるように依頼した。
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  ※日付の誤り: この記事は吾妻鏡の翌 養和二年に載っているが、日付の通り治承五年の記録である。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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6月某日
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吾妻鏡
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越後の 城四郎永用 (別称を長茂、助職、資職) が小河庄赤谷に城を構え、妙見大菩薩を祀り源家を呪詛している旨の情報が伝わってきた。
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  ※妙見大菩薩: 真言密教で天の中心を司る北斗七星を象徴とする信仰。山犬信仰と結びついて独特な世界
を形成している。かなり複雑怪奇だが興味があれば、詳細はこちら
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関東では千葉一族を守護する 千葉神社 をはじめ 秩父神社三峰神社 などに妙見信仰の一端が見えるらしいが、ややこしいので深く追求しない。千葉周作の一刀流「北辰」は北極星を指す。北斗七星と北極星と千葉の姓、関係はありそうだが...
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  ※小河庄: 現在の新発田市で、赤谷の城は加治川上流標高 205mの山城 地図
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  ※日付の誤り: この記事は吾妻鏡 寿永元年(1182)9月28日の記載だが、治承五年(1181)6月13日の
横田河原合戦の前でなければ脈絡が失われる。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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6月13日 戊午
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吾妻鏡
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越後の城永用 (別称を長茂、助職、資職) は国主の兄資元を継承し源氏を攻めようとした。今日、木曽義仲が北陸道の兵を率いて信濃国築磨河(千曲川)付近で合戦し、夜になって永用は敗走した。
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  ※日付の誤り: 吾妻鏡には寿永元年 (1182) 9月3日として載っているが、横田河原の合戦 (別窓) の勃発は
治承五年 (1181) 6月13日なので正しい日付に日付に転載した。合戦場(地図) は現在のJR篠ノ井駅の東が史跡で土塁の跡などが現存している。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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6月13日 戊午
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吾妻鏡
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頼朝は新造の御所へ移った。千葉常胤が椀飯 (食事の饗応。更に詳細は Wiki で) を献上した。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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6月19日 甲子
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吾妻鏡
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頼朝は納涼を兼ねて 毛利頼隆らの御家人を従えて以前から招待されていた三浦へ渡御した。
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上総広常は仰せの通りに佐賀岡浜で出迎えた。広常に従っていた 50余人は下馬して平伏したが広常は轡 (くつわ) を緩めて礼をしたのみだった。このため 三浦義連が頼朝の馬前に出て下馬を促したが、広常は「祖父から三代に亘りそのような礼はしていない」と答えた。
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その後に故 三浦義明 の屋敷跡 (義澄旧邸) に至り、三浦義澄が豪華な酒宴椀飯を提供した。宴が進んだ時に 岡崎義実が頼朝の水干の下賜を望んだため、これを与えた。広常が強くこれを妬んで「こういう見事な衣裳は広常のような者が拝領すべきであり、義実ごとき老人が頂くとは論外だ」と。怒った義実は「広常の功績は認めるが挙兵当時の忠義とは比べ物にならない」と言い返して口論になり、乱闘の気配になってしまった。
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頼朝は「これは宥めようがない」と思ったのか特に言葉を掛けず、義連が走り寄って岡崎義実を叱り「兄の義澄が主君を迎え饗応しているのに変な騒ぎを起こすとは老狂によるものか」、そして広常には「あなたも理屈に合わない事をしている。何か所存があれば後日に。宴会を妨げるのは下らない事である」と双方を何度も制止し、騒動は治まった。この仲裁により義連は頼朝に気に入られるようになった、という。
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  ※佐賀岡浜: 現在の葉山一色海岸らしい。葉山御用邸南の三ケ岡 (葉山公園、地図) が佐賀岡の転訛か。
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  ※上総広常: 寿永二年 (1183) 12月、広常は頼朝の命令を受けた梶原景時に殺されている。これは謀反を
企んだ冤罪で、傍若無人な態度を殊更に描写したのは殺害の正当性を匂わせる意図か。
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  ※義明の屋敷跡: 衣笠城。三浦半島内陸部で一色海岸から約10kmの距離にある (地図) 。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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6月21日 乙丑
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吾妻鏡
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頼朝が鎌倉に帰還。義澄は兜などを献上し更に「髪上揆」という名の馬一頭を献上した。幾多の合戦でこの馬に跨って戦ったが未だ敗れたことがない運の強い馬である、と。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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6月25日 庚午
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吾妻鏡
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夜8時に彗星が艮 (丑寅の方角、北東は陰陽道の鬼門)に現れた。鎮星 (土星) の色 (に似た?) 青赤で尾を引いている。これは寛弘三年に出現して以後は起きなかった事である。
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  ※彗星出現: この日 (6月25日) は西暦1181年8月7日。天文学上の計算に拠れば、この年に超新星が現れて
おり、8月初旬から約半年間観測されている。
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  ※寛弘三年: は西暦1006年4月30日、史上最も明るい超新星 (-9等程度) が出現した記録がある。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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6月27日 壬申
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の新築に使う材木のうち柱13本と虹梁 2本が今朝由比ヶ浜に着く旨の連絡があった。
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  ※虹梁: 寺社建築に使う虹のように湾曲した梁を指す。伐採地は不明だが川で流して海路で運んだか。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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7月 3日 丁丑
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吾妻鏡
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八幡宮社殿建築の命令が下ったたが鎌倉にはその仕事に適した工匠がいない。武蔵国浅草の大工 (名は郷司) を呼ぶため、一品坊昌寛にその地の責任者に指示するように命じた。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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7月 5日 己卯
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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長尾定景石橋山合戦佐奈田義忠 (与一) を討った罪を許された。
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義忠の父である 岡崎義実に身柄を預けていたが義実は情けのある者なので殺さずに囚人として拘留していた。定景は毎日怠らずに法華経を読んで過ごしており、義実は夢のお告げがあった事を頼朝に報告した。
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「息子の仇は殺さないと気が済まないと考えたが、定景の読経を聞くたびに怨む心が消えていく。もし彼を殺せば義忠が成仏する妨げになる気がするので赦免してほしい」、と。
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頼朝は 「義実の苦悩を癒すために与えた者だ。法華経を読み許すことで癒されるのならば同じ結果である」 として赦免を許可した。

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  ※長尾定景: 28年後の建保七年 (1219) に再び吾妻鏡に記録あり。八幡宮で 実朝を殺して首を持ったまま
三浦邸に向かった 公暁義時の命令を受けた 三浦義村 の指示で討ち取っている。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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7月 8日 壬午
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吾妻鏡
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浅草の大工が到着し八幡宮の建築が始まった。まず御神体を仮の社殿に移して 頼朝がこれを参拝した。
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相模国の大庭御厨から巫女が呼ばれて遷宮の準備を行い、建設の差配は輔通 (?) と 大庭景能 (景義) が取り仕切った。新設の正殿への正式な遷宮は来月の15日に行なうので、それまでの完成が命じられた。
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  ※大庭御厨: 後三年の役 (別窓) で勲功を挙げた 鎌倉権五郎景政が大庭郷を中心に開発立荘して伊勢神宮
に寄進したのが最初。平安末期には相模国最大の荘園になった。
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景政の後は庶流の大庭氏が差配して悪役の 大庭景親へ、彼が没した後には兄の景義に戻り、その嫡男 景兼が和田合戦 (1213年) に連座して滅んだ後は三浦領に、宝治合戦 (1247年) で三浦が滅びた後には北條得宗家の所領となった。本拠の大庭城址の現状は こちら (別窓) で。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承五年
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7月14日 戊子
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史 料
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この日、改元。治承五年を改めて養和元年とした。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
養和元年
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7月20日 甲午
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吾妻鏡
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鶴岡若宮の上棟式が行われた。手前東の仮屋に 頼朝が着座し、御家人はその南北に控えた。工匠に褒美の馬を与え、その馬を引く役目を 九郎義経に命じた
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義経は 「私が上手 (かみて) の手綱を引くと下手 (しもて) の手綱を引く役に見合う身分の者がいない」 と答え、頼朝は重ねて佐貫広綱 畠山重忠がいる。この役目を卑下して従うのを渋っているのか」 と言った。
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義経は頼朝の言葉に恐怖し、すぐに座を立って二頭の上の手綱を引いた。重忠が先の一頭を、広綱が後の一頭の下の手綱を引いた。その他、土肥実平、工藤景光新田忠常、佐野忠家宇佐美実政らが手綱を引いた。
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午後4時に式典が終り頼朝が退出した。その時一人の大男が頼朝の後に立ち止まって何か言おうとし、下河辺行平が男を取り押さえた。御所に戻ってから庭に引き出すと柿渋の直垂の下に腹巻を着け髷につけた札に安房国 故長佐六郎の郎等 左中太常澄とあり、仔細を尋問すると「弁解する気はないから早く斬れ」と言う。
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行平が「もちろん首を斬るが、理由を言わねば意味がない、早く言え」と言うと「去年の冬に安房国で主人が追討されてから旧臣は困窮し寝ても覚めても憂いが絶えず、その恨みを晴らしに来た。どうせ殺されるのだから死骸の素性を人に知らせるため名札を付けたのだ」と。
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頼朝は「聞く必要はないから早く殺してしまえ。ただし今日は上棟式だから明日にせよ」と命じ、梶原景時 に拘留させた。次に行平を呼び「今日の対応は見事だったので褒美として望む事を一つ与えよう」と。
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行平は「大した望みではないが、毎年税として馬を朝廷に納めるのが農民の負担になっています」と願った。頼朝は「褒美を望むのは官位か所領が常なので普通ではないが、望み通りにしてやろう」と言って貢馬免除の下し文を与えた。成尋がこの指示を下総国御厩別当宛の書面にした。
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  ※義経の立場: 既にこの時点では義経を家臣として扱う頼朝と源氏一族として処遇して欲しい義経の間に
溝が生まれている。ちなみに 頼朝は文治元年 (1185) 8月16日の除目で清和源氏 6人 (下記) を国司に任命して「御門葉」とし、他の者には公式の場で源氏を名乗る事を許していない。  山名義範大内惟義足利義兼加賀美遠光安田義定源義経
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義経は除目の時点で関係が悪化し実質的に御門葉から除かれ文治五年 (1189) に死没、安田義定は建久五年 (1194) に追討されている。御門葉なんてゲスな格式だね。
実弟の範頼や全成は含まれず、血縁関係の近さではなく忠節と功績が優先されている。
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  ※義勝坊成尋: 本姓は佐野忠家、挙兵当初から頼朝に従った僧兵で修験者。息子 家長は 八田知家の養子
になっている。知家の妻は成尋の妹で頼朝の乳母の一人。
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  ※長佐六郎常伴: 現在の鴨川市一帯に勢力を持っていた武士。治承四年 9月3日に安房の民家に宿泊した
頼朝を襲撃する計画を察知され三浦義澄の兵に討たれた。その合戦の場所は不明だが、鴨川漁港近くの貝渚 (かいすか) 地区に 「一戦場 (いっせんば) 」 の地名があり、ここが戦闘の跡と伝わっている (地図) 。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
養和元年
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7月21日 乙未
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吾妻鏡
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和田義盛 梶原景時が命令によって昨日捕えた左中太を連行して固瀬川に向かった。
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遠藤武者が稲瀬川まで追って来て「景時は八幡宮造営の監督者なので至急戻るように。その代りに天野光家 (遠景の弟) が義盛と共に沙汰を実行するように」と。これに従って光家が同行した。左中太常澄は「その程度の事は初めから判っているだろうに、軽率な殿様だ」と笑った。
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やがて一行は固瀬川に着き左中太を斬って首を晒し、雑色の浜四郎時澤が別の使者としてこれを確認した。その夜の頼朝の夢に僧侶が現れ「左中太常澄は前世の敵である事が社殿の造営中に判明した」と語ったという。
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頼朝は「造営とは大菩薩を崇めることで、棟上の日にこんな事件が起きたのは大菩薩の加護だろう」と。
時を置かず 葛西三郎清重に命じて厩の駿馬(名を奥駿) を八幡宮に献上した。
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  ※固瀬川: 江ノ島の近くに流れ込む現在の境川。稲瀬川は江ノ電 長谷駅近くで由比ヶ浜に注いでいる。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
養和元年
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8月13日 丁巳
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吾妻鏡
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平氏の申し立てに基づき、藤原秀衡頼朝を、平 (資永) 木曽義仲を追討すべき旨の宣下が行われた。
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  ※吾妻鏡の編纂ミス:宣下を受けた城資永は出陣直前の今年2月25日に卒中で死没している。従ってこの
記事は 1月〜2月初旬の筈だった記事を日付け違いで乗せた、と推定される。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
養和元年
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8月27日 辛未
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吾妻鏡
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渋谷庄司重国の次男 高重は良く忠節を尽くす者であり、加えて心も穏やかな人物である。
頼朝 はそれに心を打たれ、高重の所領である渋谷下郷に課せられていた年貢などを免除した。
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  ※渋谷高重: 横山時広の娘婿。建保元年 (1213) の和田合戦では時広が 和田義盛に味方し、婿の高重も
舅に従って討死している。渋谷下郷は現在の藤沢市の長後付近 (地図) か。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
養和元年
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8月29日 癸酉
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吾妻鏡
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祈願成就のため鶴岡八幡宮と近国の寺社で大般若経と仁王経などを転読させる命令が出された。その中には一日中の祈祷 (読経) をさせる寺社もあり、鶴岡八幡宮は兼ねてからその手順が定められていた。
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伊豆山権現と筥根 (箱根) 権現には即刻必要な指示書を送った。これは 一品坊昌寛の差配による。
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  ※転読: 長い経文を開くだけで読了と扱う事。大般若経、仁王経、観音経、曼荼羅経などの転読指示が
頻繁に記載されている。Wiki 動画 を参照。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
養和元年
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9月 4日 丁丑
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吾妻鏡
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木曽義仲は平家追討のため北陸道を経て上洛を目指した。先陣の根井太郎は越前国水津に入り、平通盛 が率いる軍勢との合戦が始まった。
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  ※根井太郎: 信濃望月氏の傍流で義仲四天王の一人 根井行親。義仲と各地を転戦し、寿永三年 (1184) の
宇治川合戦で戦死したらしい。佐久市根々井の天神山正法寺に供養塔が残っている。
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少年時代に読んだマンガの源平盛衰記には「宇治川の一番乗りを目指した 畠山重忠 の乗馬磨墨を射た」とあり、「磨墨は 梶原景季 の馬だろ?」と思ったのを覚えている。必要な事は忘れるのに些末な記憶はいつまでも残っている、この馬鹿馬鹿しさ。
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  ※現地の報告: 治安維持のため経正と越前国府に入った 平通盛「国中が反乱状態」と報告した。
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  ※戦況の詳細: 史料は、9月6日に越前水津 (敦賀市杉津、地図、京まで約100km) で 義仲軍と 平通盛軍が
合戦した、と伝えている。ここで敗れた通盛は国府 (地図参考資料) を放棄して南下し、津留賀城 (地図、金ヶ崎城) に退却、更に 11月には津留賀城も放棄して京に逃げ帰った。
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  ※越前国府跡: エリアは概ね確定しているが、まだ物証の確認は得られていない、らしい。国司に任じた
父の藤原為時に従って紫式部が暮らした土地でもあり、次の大河ドラマにも敬意を表して 越前国府探検報のサイト国府周辺の地図 を紹介して置く。
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福井市から越前氏の一帯には 小田信長に滅ぼされた 一乗谷 朝倉氏遺跡曹洞宗大本山の永平寺 など、見るべきスポットも多い。真偽は判らないが、佐々木小次郎の生誕地 なる場所もあったっけ。妻の要望で立ち寄った「越前竹人形の里」は2023年夏に (理由は不明だが) 閉館したらしい。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
養和元年年
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9月27日 庚子
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吾妻鏡
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田口民部大夫成良率いる平家軍が伊予国に攻め込んだ。河野四郎 (通清) ら在庁官人はこれに従わず合戦となったが、兵力が足りないため河野側は敗北した。
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  ※田口成良: 清盛の忠臣だった安房国の武士。四国の勢力を結集して一ノ谷などで源氏軍と戦った。
嫡男教良は後に義経軍に転じ、父の成良も平家を見限って義経軍に加わった。
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この寝返りは壇ノ浦合戦の勝敗に決定的とも言えるに大きな影響を与えたのだが頼朝はこの功績を認めず、平家滅亡後に田口父子は鎌倉で処刑されてしまう。
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  ※河野通清: 伊予国の武士。頼朝挙兵の直後に平維盛の目代を討って伊予国を支配下に置いたが平家の
命令を受けた田口成良らに攻められ、伊予国高縄山城 (現在の愛媛県北条市) で戦死した 。
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通清の嫡子 河野通信が伊予水軍の将として壇ノ浦合戦や藤原氏追討に転戦し 御家人として伊予での実権を握ったが、承久の乱 (1221年) では 後鳥羽上皇側に味方して敗北、流刑地の陸奥で死没している。
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  ※平家物語では: 巻九 六ヶ度軍 (いくさ) の条  に合戦の経緯が書かれている。
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阿波 讃岐の在庁官人が瀬戸内海を渡り備前国下津井の教盛、通盛、教経の軍を襲撃。
教経らは反撃して敵を淡路へ追い詰め更に伊予を落とした。
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河野通信と豊後国 (大分県 北部) の臼杵惟隆、緒方惟義ら2,000人は備前国 (岡山県 東南部) 今木の城瀬戸内市 牛窓港近く) に入ったが 教経は3,000の兵に援軍も加えて攻め寄せ、惟隆と惟義は更に本領の九州へ、河野四郎は伊予国 (愛媛県) に逃げた。奮戦した教経は福原(現在の神戸市)へ凱旋した。
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  ※福原: 治承四年 (1180) 6月、清盛は宋との貿易港である大輪田泊 (神戸港西部) に拠点を移し 安徳天皇
を擁して遷都を試みたが源氏の蜂起などで挫折、寿永二年(1183)7月の義仲入京を避けた平家が都を離れるのだが、養和元年 (1181) 9月の福原は まだ平家の勢力下にあった。
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    治承四年 1180年 6月 以仁王挙兵 → 同年8月 頼朝挙兵 →
    養和元年 1181年閏2月 清盛死没 →
    寿永二年 1183年 7月 平家都落ち、義仲入京 →
    元暦元年 1184年 1月 義仲滅亡 → 同年 3月一ノ谷合戦 →
    文治元年 1185年 2月 屋島合戦 → 同年 4月壇ノ浦合戦で平家一門が滅亡
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
養和元年
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10月 3日 丙午
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吾妻鏡
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平維盛が関東を攻めるために京を出発した、と。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
養和元年
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10月 6日 己酉
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吾妻鏡
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走湯山 (伊豆山権現) の住僧 禅叡を鶴岡八幡宮の僧と大般若経を転読する僧に加えて八幡宮西の谷にある水田二町 (免税) を与える旨の命令書を出す、と。また玄信大法師も同職に加え最勝王経を休みなく転読する「長日役」に従わせる旨が命じられた。
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  ※禅叡: 翌年8月5日の条にも「免税の田なのに労役などを課され難渋している」旨の訴えがあり、労役
と税を全て停止する命令が下された、と記載されている。ただしこの措置については別の見方もあり、該当ヶ所で再度掲載する予定。
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  ※玄信大法師: 荘厳房 行勇律師 (1163〜1241) を差す。鶴岡八幡宮寺供僧が永福寺と大慈寺の別当を経て
鎌倉五山の五位 稲荷山 浄妙禅寺 (Wiki) の開山を務め、頼朝政子の篤い信任を受けた。正治元年 (1999) に 栄西の門下に入り、栄西没後は寿福寺二世を務めた高僧である。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
養和元年
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10月12日 乙卯
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吾妻鏡
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書状で、常陸国橘郷 を鹿島社 (鹿島神宮、公式サイト)に寄進した。武家を護持する力があり、特に頼朝の信仰を篤くする神社である。
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  ※橘郷: 現在の行方市羽生 (旧 玉造町) 一帯。生贄になって海神を鎮めた弟橘姫 (ヤマトタケルの妃) の簪
(かんざし) が流れ着いた伝説が地名となった。道の駅たまつくり(別窓)の近くに無住の橘郷造神社があり、5kmほど東には新撰組創始者の一人 芹沢鴨の生家(行方市のサイト)がある。
道に迷った挙句に撮影した画像が行方不明になったつらい思い出の地だ(涙)。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
養和元年
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10月20日 癸亥
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吾妻鏡
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昨日、伊勢神宮神職の渡會光倫 (相鹿二郎太夫) が鎌倉に到着した。頼朝が祈祷を依頼する書面を送ったため本日の対面に至った。
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光倫が言うには「先月の19日に平家の命令に従って東国の平定を祈り、天慶の例に倣って金の鎧が伊勢神宮に奉納された。その前に祭主 (神職の長) 親隆卿の嫡男で神官少副の定隆が伊勢国一志の宿駅で死亡。
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また朝廷で奉納の沙汰が決まった当日には神宮本殿の棟木に蜂が巣を掛け、雀が小虫也を生んだ。この怪異現象は朝廷を軽んじ国を危うくする悪臣が敗れ去る時が来たことを示している。」
と。
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頼朝は「去る永暦元年(1160)に流罪となり京を出る時に夢のお告げあってから伊勢神宮への思いは他と違うものがある。願成就の時には必ず新しい御厨(荘園)を寄進しよう」、と応じた。
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  ※天慶の例: 天慶 (てんぎょう) 三年に常陸国で勃発した平将門
の乱と、同四年の 藤原純友の乱を差す。
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この際には朝廷が多くの甲冑や武具を伊勢神宮に奉納し、多くの神々が武装した騎馬の姿で海上を戦地に向かう様を見せた、と伝わる。
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両者とも官軍の追討を受けて敗死したが、朝廷の権威を大きく揺るがす歴史の転換点となった。
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  ※祭主: 伊勢神宮のみに置かれる神職。神宮の祈年祭や月次祭
や神嘗祭に奉幣使として天皇の意思を伝えている。
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  ※一志の駅: 定隆が急死した伊勢街道の宿駅。紀勢本線六軒駅
の北に大正八年建立の勅使塚 (地図) がある。
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  ※小虫也: 蛇の子あるいは未熟な子など諸説あるが、要するに通常ではない子を意味する。
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        右画像は伊勢神宮内宮の拝殿前。画像をクリック→ 伊勢神宮の公式サイトへ。
          伊勢神宮訪問記 (別窓) も参考に。

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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
養和元年
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11月 5日 丁丑
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吾妻鏡
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足利義兼九郎義経土肥実平土屋宗遠和田義盛らが平維盛の軍勢を迎撃するため遠江国に出陣しようとした際に 佐々木秀義「維盛はまだ近江国におり、関東に向かう時期も不明だ。十郎蔵人行家が尾張国に駐屯しているから準備をさせておけば、我々が急いで出発する必要もない。」と提言し、出陣は延期となった。
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  ※吾妻鏡のミス: 行家は今年の3月10日に墨俣川合戦で 平重衡軍に敗れて熱田へ逃げ、更に追撃され三河
の矢作川防衛線を突破された後に鎌倉に戻った。その後に 志田義憲から離れ 木曽義仲の庇護を受けている。従ってこの記事の通り「行家が尾張国に駐屯している」のなら この会話は墨俣川合戦よりも前、となる。吾妻鏡の日程錯綜は単純ミスか。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
養和元年
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11月11日 癸未
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吾妻鏡
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加賀堅者が鎌倉に参着、彼は故 頼政卿の一族である。「頼政の近親 埴生彌太郎盛兼は 頼政が自刃した宇治川合戦から逃れて関東に落ち延びようとしたが、平宗盛の軍兵に捕らわれかけて自刃した。そのため軍兵は仲間の少納言宗綱を連行し、親しかった私は捕縛されるのを避けて関東へ逃げてきた」、と。
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  ※加賀堅者: 大和源氏 (頼親系) の頼安の子とする説もあるが摂津源氏 (頼光系) 頼政の一族ではない。
仏法の議論で設問に答える者を 竪者 (りっしゃ) と言うが...誰だろうね。
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  ※埴生盛兼: 頼政の近親ではなく郎党と思われる。
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  ※少納言宗綱: 藤原北家の公卿で従五位上。観相に長け「相少納言」と呼ばれたらしい。
「玉葉」は「少納言宗綱が「以仁王は天皇になる相の持ち主だ」と言ったために反逆者と判断されて捕えられた」、と書いている。ただしその真偽は不明。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
養和元年
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11月21日 癸巳
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吾妻鏡
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通盛と行盛が北陸から京に戻った。経正は若狭国に駐屯を続けている。
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  ※名簿の詳細: 通盛清盛の弟 教盛の嫡男で 教経の兄、行盛は 重盛の弟 基盛の嫡男、経正は清盛の弟
経盛の嫡男で敦盛の兄。盛り沢山で混線しそうだ (笑) 。
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  ※若狭に駐屯: この年6月に横田河原の合戦で越後の 城助職を破った 木曽義仲は戦備を整える目的で北陸
に留まった。この日は西暦12月28日、北国の戦線は寒さが緩む春まで膠着状態になる。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
養和元年
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11月29日 辛丑
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吾妻鏡
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早河庄の租税は頼朝の配慮により今後は免除される。
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  ※早河庄: 頼朝の乳母の一人摩々尼 (母は 義朝の乳母を務めた摩々局、二代続けての乳母) の所領。
閏2月7日にも、相応の配慮をするように総地頭 (小早川遠平?) に命じている。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
養和元年
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12月 7日 己酉
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吾妻鏡
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御台所政子が病気になり、御所中が騒動となった。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
養和元年
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12月11日 癸丑
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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最近は腹を病んでいた仏法の師 日恵が没し、山の内 (北鎌倉一帯) に葬られた。頼朝は悲しんで荼毘の地まで同行した。日恵は三井寺の律靜房日胤の門弟で仏法に通じた清廉な僧だった。師の縁を尋ねて鎌倉を訪れ、頼朝も帰依していた人物である。
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  ※律靜房日胤: 以仁王の挙兵に合流して討ち取られた僧。5月8日に詳細の記載がある。
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
養和元年
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 月 日   .
吾妻鏡
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記事
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
養和元年
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 月 日   .
吾妻鏡
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記事
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西暦1181年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
養和元年
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 月 日   .
吾妻鏡
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記事
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