一説には、大倉幕府の地には頼朝から五代前の 頼義 が東国の拠点として館を構えていた、とも。興味を惹かれるのは、大倉から東に向う六浦道(金沢街道)が西側の 義朝館跡(壽福寺)から八幡宮に向う窟小路の延長線上にある、という事。この道は扇ヶ谷から化粧坂を登って葛原(源氏山)を越え梶原を経て武蔵国府(府中)へ向かう当時の幹線道路である。大倉幕府の場所設定は卜占に従うと共に東西を結ぶ鎌倉の交易・軍用道路沿いの重要ポイントだった。
上: 更に蛇足を加えれば...
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当初は窟小路を経て
壽福寺(別窓)六浦道は、八幡宮社頭の源平池を避けて南西に100m以上迂回している。 養和二年(1182)4月、
源頼朝 は
大庭景義 と専光坊に命じ源氏繁栄と平家滅亡を祈願して八幡宮前の神田「弦巻田」を池に造り替えた。
東の池には白い蓮を植え源氏池、西の池には赤い蓮を植え平家池
※としたため六浦道が筋違いになって筋替橋となった(西御門からの排水路を渡る橋が道から斜めに架っていたため筋替橋、の説もある)。現在の鎌倉小学校南側の信号地点で、当時の水路は既に暗渠に変わっている。
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源平池の詳細は
鶴岡八幡宮(別窓)の項を参照のこと。
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※源平池について: 赤と白の蓮を植えた事、両方の池に島を四つ造った事、
政子が源氏池の島を一つ減らして繁栄を意味する三(産)とし、平家池の島は
四つ(死)のまま残した事...これらの話は真偽不明で江戸時代に付け加えた可能性が高い。
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吾妻鏡の記載は
「鶴岡若宮前の弦巻田という水田三町余の耕作を止めて池に造り換えた。専光坊と景義がこれを奉行した。」のみ。
専光坊良暹は
伊豆山権現(別窓)の住僧で頼朝仏典の師、暫定の鶴岡八幡宮別当に抜擢された人物。