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治承四年(1180年)
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治承四年(1180)以前の概略年表     翌・治承五年(1181)の吾妻鏡
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吾妻鏡 写本 (伏見本) の全ページ画像 を載せました。直接 触れるのも一興、読み解く楽しさも味わって下さい。
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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1180年
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80代 高倉天皇
後白河法皇
治承四年
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4月 9日 辛卯
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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既に出家していた 源三位頼政は兼ねてから 平清盛を討つべきと考えていた。しかし清盛を討つだけでは成功の目処が立たないため今夜子息の伊豆守 源仲綱などを伴って 以仁王の三條高倉御所を訪ねた。
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頼政は 頼朝など各地の源氏を誘って平家を倒す計画を考え 散位宗信に令旨を発行させた。折から京にいた 為義 の末子 陸奥義盛がこの令旨を持って東国へ向かい、まず 頼朝 に連絡してから他の源氏にも伝えるべく、八條院 (後白河法皇 の妹) の蔵人に任じて名を行家と改めさせた。
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   ※散位: 位階を持ちながら官職を持たない者。律令制の式部省に属する世襲の職位で賦役免除など農民
と異なる特権のみを持つ、ごく下位の官人。
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   ※令旨: 天皇発行の文書は宣旨と綸旨。皇太子、太皇太后、皇太后、皇后、女院、親王が発行する文書
が令旨だが、以仁王は親王宣下を受けていないから親王ではない。命令の正当性を高めるため 令旨を僭称した、と思われる。頼政挙兵の詳細 を参考に。
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   ※年令: 平清盛 61歳、 時子 53歳、 重盛 41歳、 宗盛 32歳、 知盛 27歳、維盛 20歳、 重衡 22歳
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源頼朝 32歳、 源行家 37歳、 源範頼 29歳、 阿野全成 26歳、 源義経 20歳、 木曽義仲 25歳、
北條時政 41歳、 北條宗時 27歳、 政子 22歳、 北條義時 16歳、
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千葉常胤 61歳、 三浦義澄 52歳、 足利義兼 25歳、 安達盛長 44歳、 大江広元 31歳、
畠山重忠 15歳、 梶原景時 39歳、 宇都宮朝綱 57歳、 土肥実平 54歳、 岡崎義実 67歳、
加藤景廉 23歳、 佐々木定綱 37歳、
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伊東祐親 55歳、 伊東祐清 27歳、 藤原秀衡 57歳、 藤原泰衡 24歳、 藤原基成 58歳、
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後白河法皇 52歳、 高倉天皇 1月19日に崩御 (宝算19) 、安徳天皇 1歳、
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九条兼実 30歳、 吉田経房 37歳、 土御門通親 30歳、 丹後局 28歳、 一条能保 32歳、
藤原定家 17歳、 慈円 24歳、 法然 46歳、
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       (全て1/1時点の満年令、一部の年令は推定)
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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4月22日 甲辰
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玉 葉 (Wiki)
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安徳天皇 (治承二年 (1178) 11月8日誕生) が即位した。大極殿が火災から復旧されていないため、紫宸殿での式典である。 (安徳天皇の父は 79代高倉天皇、母は 平清盛の娘徳子、後の 建礼門院) 。
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   ※大極殿: 公式行事の場所だった大極殿は平安時代中期から
焼失を繰り返し 安元三年 (1177) の大火で焼けてからは再建されなかった。安元以後の儀式は主として内裏の紫宸殿を利用したと伝わっている。
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千本丸太町交差点北西 (地図) の内野児童公園に 大極殿跡の石碑 (別窓で表示) が建っている。
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紫宸殿の跡地は 直線で約400m北東の この辺り、浄福寺通を北に上って右側の内裏綾綺殿跡碑の前を西に入った辺りだったらしい。
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右画像は綾綺殿跡碑、クリック→ 別窓で拡大表示。現在は町屋風のカフェが営業している。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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4月27日 壬申
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吾妻鏡
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青の下線は全て別窓。
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行家 の携えた高倉宮 以仁王の令旨が 頼朝の寄寓している伊豆国の 北條館に到着した。
頼朝は衣服を改め、先ず 石清水八幡宮 (公式サイト) のある男山を遥拝し、謹んで令旨を開いた。行家は甲斐と信濃の源氏に (以仁王の決起を) 触れるためすぐに出発した。
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頼朝は平治の乱で藤原信頼に連座して去る永暦元年 (1160) 3月11日に伊豆に流され以後 20年を過ごしている。その間に 平清盛は天下を我が物にして賞罰を独占した上に 後白河法皇を鳥羽の離宮に閉じ込め、悩み苦しませている。そんな情勢の最中に令旨が届いたのは将に正義の兵を挙げる良き機会である。
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北條四郎時政は上野介 平直方から 五代目の子孫で伊豆国の優れた豪傑であり、頼朝を婿として忠節を尽す人物である。
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頼朝はまず時政を招いて令旨を披露した。令旨は 源三位頼政の嫡男 源仲綱の名で発行された。平家の悪事を並べて「討伐に決起せよ、協力しなければ相応の罪に問う」旨が書かれてある。
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  ※北條時政: 北條氏の系図は信憑性が乏しく、捏造に近い。
諸系図に共通の「平直方から五代目、祖父は北條時家で父は時方 (または時兼)」も信頼に値しない。 「伊豆の優れた豪傑」云々」は、吾妻鏡の編纂者が北條氏に関して記述した最初の曲筆と言える。
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     右画像は韮山の北麓にある北條館跡周辺の鳥瞰 (クリック→ 別窓で拡大表示)
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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5月10日 辛酉
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吾妻鏡
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下河辺庄司行平が頼朝に使者を派遣し 三位頼政が挙兵の準備をしている旨を報告した。
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  ※下河辺氏: 行平の父 行義が荒川中流域の下総国葛飾郡 (利根川の南岸、北は現在の茨城県五霞町から
東は墨田区一帯までの広大なエリア) を開発し、八條院に寄進して荘司を務めた。行平は父の行義や弟の 政義と共に頼政の郎党として働いていた関係から情報を得たのだろう。
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渡良瀬川に近い古河市の一画には 頼政神社 (古河市のサイト) も現存している。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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5月15日 丙寅
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吾妻鏡
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高倉宮以仁王を土佐に配流せよとの宣旨が下った。平家追討の令旨を発行した事が露見したためである。
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戌刻 (20時前後) に検非違使の兼綱と光長らが手勢を率いて三条の高倉御所に出向いたが、以仁王は既に頼政の連絡を受けて脱出しており、捜索しても見つけられなかった。
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兵衛尉長谷部信連 (以仁王の近臣) が太刀を取って戦い、光長の郎党数名を傷つけた後に取り押さえられた。
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  ※検非違使兼綱: 頼政の弟頼行の子で頼政の養子。彼は以仁王
と頼政の連携を知っているのだが、平家側はまだ頼政の反逆に気付いていない。
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右は以仁王の御所だった中京区菱屋町30 の高倉宮跡碑。
       画像をクリック→ 別窓で拡大ページへ。地図も参考に。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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5月16日 丁卯
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吾妻鏡
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今朝、検非違使の役人が再び以仁王の御所を包囲し捜索したが、見つからない。しかし以仁王の息子 (生母は
八條院の女官 三位局 高階盛章の娘) が 八条院邸にいたため、池中納言 平頼盛 (清盛の異母弟) が兵を率いて出向き六波羅に連行した。このため京の町は大騒ぎになった。
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  ※高階氏: 奈良時代から続く名門貴族。更に詳細は (Wiki) む/u> で。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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5月19日 庚午
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吾妻鏡
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青の下線は全て別窓。
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以仁王 は去る15日に密かに 園城寺 (三井寺、公式サイト) に入った。僧たちは寺域の別院の法輪院に以仁王の御所を構えたらしい。頼政は近衛河原にあった屋敷(京都御所から鴨川を渡った東側。地図、現在の京大付属病院辺り)を焼き払い一族郎党を率いて三井寺の以仁王に合流した。
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  ※法輪院: 南院 (観音堂、地図) の近くだったらしい。平家物語は以仁王の逃走経路を「三条高倉邸から
北上して近衛大路を東へ、鴨川を渡り大文字山から如意ヶ岳を越えて三井寺に辿り着いた。
足から流れる血は紅の様に砂を染めた」
と書いている。
所謂「如意越え」は大津と都を結ぶ最短の難路で当時は山岳仏教の聖地、現在は少々ハードだが味わいのある ハイキングコース (参考サイト) でもある。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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5月23日 甲戌
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吾妻鏡
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三井寺の衆徒は堀を深くして防御線を構え、平家追討の論議を重ねた。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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5月24日 乙亥
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吾妻鏡
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源三位頼政の持仏堂や山荘が焼失した。
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     遅まきながら頼政と以仁王の連携が露見して平家側が兵を送り焼き払ったか。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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5月26日 丁丑
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吾妻鏡
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早朝に以仁王は奈良を目指し出発した。僧兵の少ない 三井寺を出て奈良の衆徒を頼るためで、頼政一族と三井寺の僧兵が従った。
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平知盛平維盛など清盛の一族が 2万騎の官兵を率いて追撃、宇治付近で合戦となり、頼政と子息の 源仲綱、兼綱、仲宗および足利判官代義房 (足利義康 の四男で 義兼 の次弟) らが討たれて首を挙げられた (頼政の首は偽物との噂あり) 。
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以仁王は光明山の鳥居前で討たれた。御年30歳と。
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  右は境内右手に以仁王の御陵がある高倉神社の鳥居前。
       画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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  ※光明廃寺: 山城町の天神川上流域 (地図) にあった真言宗の山岳寺院 (当初は天台宗か) 、現在は農地の中
に一部の礎石が残るのみだが、平安時代末期には東西 5km×南北 2kmの寺域に堂塔僧坊が 120以上あったと伝わる。
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以仁王は奈良街道 (府道 7号) 沿いにある鳥居前で藤原景家 (宗盛の乳母夫) の兵に討たれた。
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500mほど北の高倉神社境内に墓所があり、皇室所縁の陵墓として宮内庁の管理下にある。
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右は光明廃寺の風景。 画像をクリック→ 別窓で拡大表示)
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旧奈良街道から約2km、標高約170mの舗装路沿いが痕跡、と伝わる。建立は平安時代中期の長元六年 (1033) 、詳細は長くなるため割愛するが、興味があれば 光明山寺跡寺 (参考サイト) で。
テキストを携えた散策もまた楽しめると思う。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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5月27日 戊寅
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吾妻鏡
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平家の軍勢は宇治の御室戸 (三井寺支院の 三室戸寺、公式サイト) を焼き払った。これは三井寺衆徒が武装して立て籠ったためである。またこの日、諸国の源氏と興福寺および園城寺 (三井寺) の衆徒で令旨に応じた者は全て攻め滅ぼすべき旨の命令が法皇御所から発布された。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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6月 日
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史 料
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青の下線は全て別窓。
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清盛の独断決裁により、摂津国福原 (神戸市、御所は現在の兵庫区雪御所町一帯、地図) への遷都があった。
高倉上皇と平家一門は反対したが、清盛は当時の貿易港だった大輪田泊 (現在の兵庫区和田宮通一帯、地図)を整備して宋との交易を拡充し、瀬戸内海の海運を利用した海洋貿易による国家の建設を試みた、とされる。
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ここは平家が兵力の大部分を失なった寿永三年(1184)2月の 須磨一ノ谷の合戦 の舞台になった場所だ。
福原は土地の狭さにより計画が行き詰まった事、後白河法皇が京を離れなかった事、相次ぐ源氏の挙兵に対応する必要があった事、などにより計画が頓挫して11月には放棄され、同月23日に平安京還幸となった。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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6月19日 庚子
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吾妻鏡
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散位 三善康信の使者 (弟 康清)が北條館に参着、静かな部屋で 頼朝と対面した。以仁王の令旨を受けた源氏の追討令が出された。頼朝殿は源氏の正統だから最も危険、早く奥州へ脱出すべきだ、と。
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この康信は頼朝の乳母の妹の子で源氏に心を寄せており以前から京の政治情勢を月に三度づつ、使者を介して報告していた。
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今回は特に重大なので弟の康清と語リ合い (病欠と称して役所を休ませ) 伊豆に派遣したのが経緯である。
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  ※頼朝の乳母: 比企尼寒河尼、山内尼 (首藤経俊の生母) 、
早河荘の摩々尼 などがいるが、該当者は不明。
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右は発掘調査中だった頃の北條館跡。クリック→ 館跡の詳細へ(別窓表示)
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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6月22日 癸卯
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吾妻鏡
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散位康信が京へ帰るにあたって頼朝は祐筆の大和判官代邦道 (藤原邦通) に功績を褒める文書を書かせ、署名して花押を加えた。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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6月24日 乙巳
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吾妻鏡
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頼政に続いて諸国の源氏を追討するという康信の話は重大なので、逆に平家を追討する方策を検討した。
まず書状を書き、累代の御家人を招集する使者として 安達籐九郎盛長を派遣、 小中太光家を同行させた。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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6月27日 戊申
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吾妻鏡
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三浦義澄 千葉胤頼 (常胤 の六男) が北條館に参向。5月に大番役を終え、直ちに東国へ戻る予定が頼政事件のため差し止められていた。頼朝と両名は他の者を入れずに長時間話し合っていた。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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7月 5日 乙卯
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吾妻鏡
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頼朝は走湯山 (伊豆山権現) の僧 覚淵 (加藤景廉の兄) を招いた。
法華経千部を読む筈だったが未だ八百部を終えたのみである、と。
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覚淵は「千部に満たずとも仏の加護に変りはない、(先祖の) 源義家に倣って東国の勇士を従え、清盛一族を滅ぼすように」と諭した。
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頼朝は感激し、藤原邦通 を介して布施を贈った。夜になって覚淵が退出する時に呼び戻し、蛭島 (伝 頼朝の流刑地一帯) を更なる布施として贈ると述べた。覚淵は喜んで伊豆山に帰った。
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   右画像は現在の伊豆山神社本殿 (旧伊豆山権現) 。
         画像をクリック→ 神社周辺の詳細へ(別窓表示)

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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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7月 日
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史料各種
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青の下線は全て別窓。
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  伝承 @: 曽我物語に拠れば 頼朝の最初の妻だった 伊東祐親の四女 八重は承安元年 (1170) に男児 千鶴丸
を産んだが、大番役から戻った祐親は源氏嫡流である 頼朝 の舅となるのを平家に憚り、郎党に命じて松川上流の 稚児ヶ淵 (別窓) に沈めて殺させた。
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更に北の小御所に住む頼朝に討手を向けたが、頼朝は源氏に心を寄せる二男 祐清の通報に従って伊豆山権現に逃れ、後に韮山の北條邸に寄寓。ここで祐親と同様に大番役で在京していた時政の留守を利用して政子に女子 (後の大姫) を産ませることになる。曽我物語は 頼朝に敵対した祐親の滅亡と、頼朝を身内として繁栄を手に入れた時政の運を対比して描いている。
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  伝承 A: 曽我物語は更に続く。祐親は頼朝と引き離した八重を同じ伊豆の住人 祐親は頼朝と引き離した
八重を中伊豆の住人江間小四郎に娶わせた。この人物が後の 北條義時 とする伝承もあるが、千鶴丸を産んだ承安元年 (1170) に八重が17歳だったと仮定すると当時の義時は 7歳、多少のコジツケは感じられる。更に曽我物語は「後に覇権を得た頼朝は北の御方 (八重) を奪った江間小四郎を討ってその所領を時政に与え、江間小四郎と名乗るのを許した」と続けているから 相当に支離滅裂な部分は残る。物語としては夢がある、けどね。
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  伝承 B: 曽我物語は更に続く。江間小四郎に再嫁した八重は夫に懇願し、亡き愛児 千鶴丸の菩提を弔う
ため (西方浄土での成仏を願い) 西成寺を建立、これが現在の 最誓寺 (別窓) の縁起である。
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伊東一族の菩提寺だった東光寺 (東林寺の項の中段に記載) は廃寺となり、伊東氏の衰退と共に廃寺となり、位牌や墓石などは祐親が建立した嫡男 河津三郎祐泰の菩提寺 東林寺 (別窓) が引き取ったが、江戸時代の伊東家移封に伴ってこちらも廃寺 (後に復興) となり、墓石の一部だけが最誓寺に移されて現在に至る。
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  伝承 C: そして 中伊豆に残る伝承。再嫁を強要されてから推定 7年後の治承四年 (1180) の初夏、侍女を
を伴って伊東の屋敷を抜け出した 伊東祐親の娘 八重は 韮山の北條館に頼朝を訪ねたのだが、政子に門前払いされて会えず、絶望の果てに守山南麓を流れる古川の 真珠ヶ淵 (別窓) で入水自殺し満願寺に葬られた。悲嘆には同情するが、人妻が昔の男を想っても、その結果は虚しい。
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満願寺 (真珠院の末尾に記載) は遠い昔に廃寺となり、遺品の一部や石塔などは古川に沿った真珠院に移されている。
八重に従った侍女 六人は伊東を目差すが、途中の田中山で侍女の一人 楓が「姫様の後を追う」と言い出した。「むごい仕打ちで千鶴丸様を殺した伊東のお館には帰りたくない。千鶴丸様に先立たれ、頼朝様にも裏切られた姫様がおいたわしい。せめて私だけでも...」
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そして五人の侍女は遠く亀石峠を臨む田中山で自殺、連絡役を担った一人の侍女が葛見荘へ走り、折り返し祐親の家臣が駆けつけた時には既に息絶えていた。
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村人は侍女たちの死を悼んで懇ろに埋葬し、峠に墓石を立てて (地図) 長く供養した、と伝わっている。女塚 (別窓) として悲劇を今に伝えているが、彼女らの墓石は既に散逸してしまった。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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7月10日 庚申
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吾妻鏡
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使者の任を終えた 籐九郎盛長が北條に戻って報告。相模の 波多野義常首藤経俊は召集に応じず、更には挙兵を侮辱する暴言を吐いた、と。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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7月23日 癸酉
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吾妻鏡
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佐伯昌助なる者は元は筑前国住吉社の神官で去年5月3日に伊豆配流となった。それより前の治承二年 (1176)
1月3日には同じ神社の神官だった昌守もまた、伊豆国に流されていた。
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昌助の弟 住吉小大夫昌長が初めて 頼朝 に拝謁、また伊勢神宮神官の子孫で最近は 波多野義常の許に滞在していた永江蔵人大中臣頼隆も共に拝謁した。最近になって義常と疎遠になって北條を訪れた者である。
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この二人は普段から源氏に尽くす立場を守っており、神職として頼朝の祈祷に任じる意思を抱いている。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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8月 2日 壬午
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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頼政挙兵事件で関東への下向を禁じられていた相模の 大庭景親ら東国武士たちの多くが関東に戻ってきた。
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  ※東国の武士: 平家に仕えていた武士も源氏に縁の深い武士も今後を考えつつ東国に帰ってくる。
寿永二年 (1183) に北陸を経て京に迫った 木曽義仲 との衝突を避けて平家一門は都を捨てるのだが、秩父平氏の棟梁だった 畠山重能 小山田有重 はその時まで平家の棟梁である 宗盛 に仕えていた。
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平家物語は 「都落ちの際に斬られるところを 知盛の進言で助命され関東に帰国できた、その恩に報いるため都落ちへの同行を申し出た二人を「汝らの心は既に東国にある」として解放された」 と書いているが、これは覇権を握った源氏への忖度だろう。実際には平家との関わりの方が深く、また最終的な平家の勝利を信じての選択だった。
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一方で 宇都宮朝綱のケースでは更に劇的な変転を描いている。宗盛 に斬られる筈だった朝綱の助命を願い出たのは 重盛の忠臣で平家の侍大将だった 平貞能。許された朝綱は東国に戻って 頼朝の側近として仕えるが、平家滅亡後に行方不明になっていた貞能が突然朝綱の元に出頭して保護を願い出るから、物語は大きく動き出す。
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詳細は元暦二年 (1185) 7月7日の吾妻鏡および関連する項目を参照されたし。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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8月 4日 甲申
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吾妻鏡
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青の下線は全て別窓。
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平兼隆 (前の廷尉、山木判官を名乗る) は父信兼の訴えによって伊豆国の山木郷に流された者である。
時が経つと共に清盛一族の威光を利用し近隣に権威を振りかざしている。従って国敵として、更には私的な意趣遺恨もあるので最初に彼を追討べき、と頼朝は考えていた。
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兼隆の館は要害の地にあり、攻めるのも退くのも人馬ともに難儀するだろうから 地形の図面を描くために前もって内密に 藤原邦通を差し向けた。この人物は京下りの遊客で、仔細があって安達盛長の推挙により頼朝の元に留まっていた。
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邦通は理由をつけて兼隆を訪問し酒宴や音曲で機嫌を取り数日滞在する間に館と周辺を細かく絵図に写し、今日戻ってきた。
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頼朝は時政を呼んで絵図を見ながら軍兵の攻めるべき道や進退のルートなどを指示した。絵図はまるで現場を見ているように見事な出来栄えだった。
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  ※兼隆館跡: 兼隆の菩提寺 香山寺 の先代住職に聞いた話。現在の指定場所は地権者の意向や観光協会の
思惑で決めたもので信頼に値しない、らしい。個人的には現在の兼隆館跡と香山寺の概ね中間に位置する浄念寺付近の可能性が高く、昭和初期までは石塔などの痕跡があったらしい。秀吉の小田原攻めの際に韮山城攻略の付城 (攻城戦の攻撃拠点) の造作に伴って地形も変わってしまった、と。 右上画像は北條館と山木館周辺の鳥瞰図 クリック別窓で拡大表示
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  ※藤原邦通: 6月 22日に登場した大和判官代邦道に同じ、後に頼朝の右筆を務めている。
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  ※私の意趣: そのまま解釈すれば「個人的な遺恨」、不愉快な接点があった事を匂わせている。この文言
「兼隆との婚姻を嫌った時政の娘 (後の政子) が、云々」の風説に発展する最初である。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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8月 6日 丙戌
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吾妻鏡
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邦道と昌長を呼んで頼朝の前で占いが行われ、17日の早暁の兼隆討伐を決めた。その後に 工藤茂光土肥実平岡崎義実宇佐美助茂天野遠景佐々木盛綱加藤景廉など源氏の恩を知り命も惜しまない勇士を個別に呼び「誰にも秘密だが、お前だけを頼りにしているから」と前置きして計画を知らせた。
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それぞれは自分だけが頼りにされていると思い勇み立ったが、本音は 北條時政 と二人だけの密事である。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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8月 9日 己丑
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吾妻鏡
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相模の 渋谷重国に寄宿している 佐々木秀義定綱らの父) が 大庭景親に頼朝の動向を聞かされた。
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長田忠致からの書状には、時政と比企掃部允らが頼朝を担いで謀反する計画がある、と書いてあった。貴殿の子息 定綱らは頼朝側なので (謀反の) 準備をしているだろうが、五男の 義清の妻は 私 (景親) の娘だからこの情報を教える。」と。
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これを聞いた秀義は心此処に在らず、急いで館に戻った。
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  ※比企掃部允: 頼朝の乳母の一人 比企尼の夫(頼朝の乳母夫)。
掃部允は頼朝が伊豆流罪になった原因の平治の乱(1160年)より前に比企郡司として赴任していたが、頼朝挙兵より相当以前に死没している。
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時政と比企らが謀反に加担した云々情報の出処は判らないが、情報源とされる 長田忠致は知多半島で頼朝の父 義朝を謀殺した人物。
知多半島 大御堂寺 (野間大坊) を参照。10月14日の鉢田合戦で甲斐源氏に討ち取られている。
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比企尼には男子が産まれなかったが、長女の夫である 安達盛長は頼朝の側近、次女の夫は武蔵国の豪族 河越重頼、三女の夫は 伊東祐親 の次男 祐清 。立場は違うが各々が流人頼朝を援助していた。
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乳母を含む近親者は流刑者の居住地に近寄る事が許されず、比企尼は頼朝の流刑地 韮山から遠くない函南の高源寺を中継地として衣料と食料の供給に努めていた。
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右は高源寺参道に残る比企尼の供養墓。クリック→ 高源寺の詳細へ(別窓)。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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8月10日 庚寅
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吾妻鏡
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佐々木秀義は嫡男 定綱 (通常は宇都宮、現在は渋谷にいる) に命じて昨日大庭景親が語った内容を頼朝に伝えた。
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  ※佐々木定綱: 秀義の嫡男で挙兵当時は38歳。宇都宮一族の娘 (不詳) を妻にした婿入り婚か、或いは
通い婚だったらしい。単純に考えると150kmも離れているから、通い婚は無理か。
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  ※渋谷荘: 現在の綾瀬市一帯と藤沢市の一部。館跡は目久尻川北東の台地と伝わるが、遺構の大部分は
後世のものらしい。詳細は 渋谷重国の本領 に少々の画像を載せてある。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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8月11日 辛卯
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吾妻鏡
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佐々木秀義の嫡男 定綱が北條に参着して 大庭景親と父が話した内容を報告、頼朝に喜ばれた。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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8月12日 壬辰
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吾妻鏡
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岡崎義実と嫡子の 義忠に連絡。兼隆討伐を17日に決めたから 土肥実平を伴って決行前に参着せよ、と。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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8月13日 癸巳
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吾妻鏡
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定綱は甲冑を用意するため相模へ帰宅。頼朝は13日には必ず来る様に命じ、渋谷重国 宛の手紙を託した。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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8月16日 丙申
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吾妻鏡
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明日の合戦に備え祈祷を行った。佐々木兄弟が未だ到着せず、渋谷や佐々木は平家との関係が深いために計画が露見したのではないか、信用して打ち明けたのは失敗だったか、などと 頼朝は後悔して悩んだ。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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8月17日 丁酉
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吾妻鏡
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三島大社神事のため 安達盛長が使者として参拝し、神事が始まるのを待たず北條に帰着した。午後 2時頃に、酒匂川の増水のため遅れた佐々木兄弟が到着。頼朝は遅参の不満を述べ、挙兵は一日順延となった。
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午後 8時頃i]頼朝の命令を受けた盛長の下僕が、下女の元に通って来ていた 山木兼隆 の雑色を捕らえた。兼隆に挙兵準備が露見するのを危惧した頼朝は即座の討入りと館への放火を命じ、更に祈祷をした住吉小大夫昌長の同行を指示し、佐々木盛綱 加藤景廉 は宿直として近くに控えさせた。
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北條時政が申し出た。「今日は三嶋の神事で、参詣する者が多数歩いている。牛鍬大路を行けば怪しまれるから、蛭嶋通りを行くべきだ」 と。それに答えて 武衛 (頼朝) 「その通りではあるが、事の草創に閑路は使わない。また蛭嶋通りは騎馬には適さないから堂々と大道(牛鍬大路)を行け。」と命じた。
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討ち入りの一行は茨木を北へ進み 肥田原 (地図) で時政は馬を止め、
  兼隆後見の堤信遠の館が山木の北にある。武勇の優れた男なので   佐々木兄弟は彼を討ち取ってくれ。案内を付ける」とした。
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討手は雑色籐太の案内で館の裏へ、佐々木経高が前庭で平家追討の最初の矢を放った。経高は太刀で信遠と斬り合い郎党の矢で負傷したが 佐々木定綱 高綱が応援に加わって信遠を討ち取った。
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時政の一隊は 兼隆の館前の天満坂に進んで矢を放った。兼隆の郎党の多くは三島神事に参詣のため手薄だったが留守居の武者は必死で戦い、佐々木兄弟が加わった後も戦いは決着しない。
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頼朝は縁先で放火を待ったが煙が見えず、舎人を樹に登らせても確認できないため、留守居役の 加藤景廉佐々木盛綱堀親家 らを呼び 「急ぎ山木へ行って合戦を遂げ、兼隆の首を持ち帰れ」と命令し景廉に長刀を与えた。一行は徒歩で蛭島通を走り、討ち入って兼隆と郎党を殺した。その後は指示の通り館を焼き払い暁に戻って庭先に座り込み、頼朝は縁先で兼隆主従の首級を確認した。
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     右画像は香山寺の兼隆供養墓。画像をクリック→香山寺の詳細 (別窓) へ。

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  ※天満坂: 北側から山木の皇大神社 (地図) 方面に登る道が天満坂と呼ばれていたらしい。
地図の「山木第二会館」方向から香山寺に向かう道が天満坂...とすると、山木判官兼隆の館は香山寺の位置にあったと考えるのが合理的なのだが。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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8月18日 戊戌
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吾妻鏡
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武衛 (頼朝) は常に読経に拠る供養を怠っていないが、今後は戦場に立つ身なので思うように勤行できないことを嘆いている。伊豆山には法音という生涯独身の尼が御台所 (政子)の仏道を指導している。今後の所作につしいて指導を受けるのはどうかと提案し、了承を受けた。受け取った経典の目録は以下の通り。
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般若心経十九巻。 八幡、若宮、熱田、八剱、大筥根、能善、駒形、走湯権現、礼殿、三島 (第二と第三) 、熊野権現、若王子、住吉、富士大菩薩、祇園天道、北斗、観音 (各一巻を読経し祈るべし) 。
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観音経一巻、寿命経一巻、毘沙門経一巻、薬師咒二十一返、尊勝陀羅尼七返、毘門咒百八返 (これは御願成就と御子孫繁栄のため) 。
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阿弥陀仏名を千百返 (一千は 父祖への奉仕、。百返は 左兵衛尉藤原正清の菩提を弔うためである)。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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8月19日 己亥
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吾妻鏡
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兼隆の親戚である史大夫知親は伊豆蒲屋御廚で非法を行い領民を苦しめる振舞いが多かったため権限を停止する下知を出した。関東に於ける頼朝が発布した最初の政令である。
夜、御台所 (政子) は走湯山 (伊豆山) の文陽房覚淵の房に移った。情勢が落ち着くまでの避難である。
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  ※史大夫知親: 姓は中原、太政官 (行政機関) を経て摂関家に仕えた文官 (四等官の「史」) 。
兼隆と同じ目代の資格で蒲屋御廚 (伊勢神宮の神領、下田市南部から青野川一帯) を管理していた。権限停止の主な理由は非法ではなく平家の縁者を排除したのだろう。
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青野川一帯には製鉄遺跡も確認されており、伊東の烏川と共に鉄の補給基地としての存在価値と共に海上交通の要衝 鯉名泊 (現在の小稲漁港、地図) を押さえる意味もあった。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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8月20日 庚子
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吾妻鏡
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合流する筈の 三浦義明の軍勢は折からの嵐により舟が使えず陸路を進んだため到着の予定が遅れた。
頼朝は伊豆と相模の御家人だけを率いて北條館を発ち、相模国土肥郷 (現在の湯河原町、地図) を目指した。
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武衛 (頼朝)に 従う者。
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北條時政宗時義時安達盛長平六時定工藤 (狩野) 茂光親光宇佐美助茂土肥実平遠平土屋宗遠義清と忠光、岡崎義実義忠佐々木定綱経高盛綱高綱天野遠景と 政景、
宇佐美政光と実政大庭景義と豊田景俊、新田忠常加藤景員光員景廉、堀親宗と助政、天野光家、
中村景平と盛平、鮫島宗家と宣親、大見家秀、近藤七国平、平佐古為重、那古谷頼時、澤宗家、
義勝房成尋、中四郎惟重、中八惟平、新藤次俊長、網代小中太光家ら。
いずれも家を忘れ親を忘れ命令に従う、と。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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8月22日 壬寅
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吾妻鏡
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三浦義澄義連、大多和義久と義成、和田義盛と義茂と宗実、多々良重春と明宗、津久井義行らが其々精兵を率いて三浦を出発した、と。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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8月23日 癸卯
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吾妻鏡
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早暁4時。頼朝は北條親子、安達盛長、工藤茂光、土肥実平ら 300騎を率いて雨の 石橋山 に布陣し (以仁王の) 令旨を横上に取り付けた旗を中四郎惟重が掲げた。
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平家方は 大庭景親俣野景久河村義秀渋谷重国、糠谷盛久、海老名季員、曽我助信 (祐信) 滝口経俊
毛利景行、長尾為宗と長尾定景、原景房と義行、熊谷直実ら平家に臣従する 3,000騎が谷を隔てて布陣した。
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  右は頼朝側から見た谷越えの平家の陣地域。
      画像をクリック→ 石橋山合戦の詳細へ(別窓)

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平家方に加わった飯田家義は頼朝側に加わるつもりだったが、居館が景親の進軍沿いにあったためやむを得ず景親の陣に加わっていた。
伊東祐親率いる 300騎は頼朝軍の背後に布陣し攻撃準備を整えた。
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日暮れ近くに三浦軍は丸子川 (酒匂川の旧名、石橋山の北 約 3km) に到着し、景親与党領にある民家を焼き払った。
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この煙を見て三浦勢が接近しているのを知った景親は軍議し、「明日になれば三浦の衆が到着し面倒になる、今夜中に決着させよう」と考えて攻撃を開始した。寡兵の源氏軍は死を賭して戦ったが雨中の乱戦で 真田義忠、武藤三郎、郎従の豊三家康らが討死した。敗れた頼朝軍は夜明けになって激しい風雨の中を土肥椙山方向へ逃れたが景親軍は激しく追撃した。合流した飯田家義が手勢の 6騎を引き連れて景親と戦い、その隙に頼朝は何とか逃げおおせた。
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  ※景親与党領: 原文は「燒失景親之党類家屋。其煙聳半天」、石橋山から酒匂川対岸の平家領民家を焼く
煙が見えたのなら、曽我祐信 が荘官を務める 曽我荘 (領家 (荘園領主) は不明) だろう。
隣接する 二宮郷 中村宗平 四男の二宮友平 (土肥実平の弟) の本領で、彼らは頼朝側だ。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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8月24日 癸卯
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吾妻鏡
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青の下線は全て別窓。
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頼朝は土肥椙山の山裾 堀口に布陣し、景親勢は更に追い迫った。加藤景廉大見実政が防戦している間に頼朝は後方の山へ逃げ、景廉が父の 加藤景員を、実政が兄の大見政光を気遣って馬を止め防ぎ矢を放った。
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加藤光員佐々木高綱天野遠景、同 光家、堀親家、同 助政たちも馬が射られて倒れる中で防戦し頼朝も馬を廻して弓を取り多くの敵をを射殺したが矢が尽き、景廉が馬を引いて山に逃げ込んだ。
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景親の兵が更に迫り 高綱、遠景、景廉らが戻って矢を放った。
北條時政宗時義時の親子三人も共に防戦したが疲れ果てて頼朝に従えず、その後は分散して椙山に逃げ込み山道の上で合流した。
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 右は土肥郷 堀口合戦場周辺の鳥瞰図(クリック→ 別窓で拡大)
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  ※堀口合戦余話: 岡崎義実の二男で、後に 中村宗平の三男 土屋
宗遠の養子になった 土屋義清が合戦後に語った内容が面白い。出典は忘れてしまったが、この時の北條時政の動きは何となく判る。
更に詳細は 堀口の合戦 (別窓) で。
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敵の主力は 大庭景親俣野景久兄弟だけで、他には本気で戦うつもりの武者などは居なかった。こちらの作戦は、岡崎義実が頼朝を守りつつ後退して敵兵を誘い込み北條時政が正面で防戦している時に中村と土屋が敵の側面を衝いて壊滅させるつもりだったが、臆病風に吹かれた時政が頼朝を守る振りをして逃げてしまった。
これが堀口合戦で敗北した原因だ、北條は全く許せない一族である。
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土屋義清は 30年後の建暦三年 (1213) 5月の和田合戦で和田義盛に味方して北條勢に討たれる最期を迎える。これも何かの因縁か。
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頼朝勢は 土肥実平の意見に従い、分散して落ち延びた。北條時政と二男の 義時は箱根を越えて甲斐を目指し落ち延びた。
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時政の嫡男 北條宗時は桑原 (現在の函南) に下り平井郷まで逃げたが早河の近くで 伊東祐親 の兵に囲まれ、小平井名主 紀六久重の矢を受け 討ち死に、同行していた 狩野茂光は歩行困難のため自殺した。
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   右は宗時と茂光の墓が残る宗時神社 (昔日の法華堂跡か) 。
     画像をクリック→ 茂光と宗時の墓所へ(別窓)

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景親は頼朝の行方を探し回った。軍勢の一人 梶原景時が頼朝の所在を知りつつ「この山には痕跡なし」と話して景親を別の峰に導いた。
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頼朝は髷の中の正観音像を取り出し岩窟 (しとどの窟?) に隠した。
実平が仔細を尋ねると「討ち取られた首を景親が見たら「これが源氏の大将の所業か」と言われる。私が三歳の時に乳母が清水寺に参詣して将来を祈り、夢のお告げでこの二寸の銀の像を得た経緯がある」と語った。
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夜になって北條時政が 頼朝と合流した。筥根山 (箱根権現) の別当僧 行実が弟の僧 永実に食料を持たせて頼朝一行を捜し、まず時政に逢って安否を尋ねた。時政が「景親の包囲から逃げられなかった」と語ると永実は「将が亡んだなら 貴方も此処にいない筈」と応じ、時政は笑って行実を頼朝の前に連れて行った。
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   右は頼朝一行が隠れた伝説の残る「しとどの窟」。
    画像をクリック→「しとどの窟」周辺の詳細 (別窓) へ

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持参の食料は実に貴重な差し入れだった。実平は「世が落ち着いたら永実を筥根山の別当に抜擢すべき」と申し出た。頼朝もこれを了承し永実と共に筥根山に向った。行実の宿坊は参詣人が多くて隠れるには適さないため永実の房に入った。
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   源平盛衰記などには頼朝を匿った地蔵堂の僧 純海の逸話などが載っている。内容は真偽不明だが土肥郷
   と箱根山の中間には地蔵堂の旧跡が残っているから面白い。詳細は 小道地蔵堂の旧跡 (別窓) で。
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行実の父 良尋は 為義義朝 (頼朝の祖父と父) に多少の縁があり、その縁によって父から筥根山別当職を譲られた経緯がある。為義は行実に下文を与え東国の関係者に告知した。義朝の下文にも「駿河と伊豆の者は行実の求めに応じるべし」としており、頼朝が北條にいた頃から祈祷を受け持っていた。石橋山敗北の知らせを受けて驚いたが何時までも嘆いてはおられず、数多くの弟子の中から永実を選んで派遣したのである。
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   右は敗走する頼朝が死を覚悟したと伝わる「自害水史蹟」。
      画像をクリック→「自害水」周辺の詳細へ(別窓)

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三浦の軍勢は 24日早朝に丸子川を渡ろうとしたが頼朝が敗北した事を知り、やむを得ず本領の衣笠に向けて撤退した。
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途中の由比ヶ浜 (地図) で 畠山重忠率いる平家軍と遭遇したため合戦となり、多々良重春と朗従の石井五郎らが落命、重忠側も 50余人が戦死して双方が兵を引き、義澄は兵を纏めて三浦を目差した。
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ここで上総広常と弟 金田頼次の 70余騎が義澄勢に加わった。
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  ※早河: 函南周辺に早河の名は見当たらない。桑原地区の冷川
と間違えたか、箱根から相模湾に流れ込む早川と混同したのだろう。
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  ※丸子川: 小田原西部を流れる酒匂川の古名 (上流に足柄峠がある) 、石橋山まで 8km。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
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治承四年
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8月 日
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平家物語 (Wiki)
(長門本)
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小坪合戦

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青の下線は全て別窓。
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(石橋山合戦が既に終ったことを確認して) 丸子河から撤退した三浦軍は夜明けに小坪の浜で 畠山重忠率いる平家軍と遭遇した。
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三浦の侍大将 和田義盛 は総大将の 三浦義澄「鐙摺 (葉山) の城に入り給え、私はここで一戦してから合流します」と言って先行させた。
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赤旗を輝かした畠山重忠の 500余騎は稲瀬河に布陣して使者を送り、「三浦の衆に遺恨はないが父 重能と 叔父の 小山田有重は六波羅で平家に奉公している。重忠の軍陣前を源氏に素通りさせれば叱責を受けるから参上した。こちらに来るか、或いはそちらに出向こうか」と。
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和田義盛は実光(これ誰か判らん!)を使者に立て「承った、確かにその通りだが重忠殿は 三浦義明の孫 (重能の正室つまり重忠の母は義明の娘) 、祖父に弓を向けるのが本意とは思えぬ」と答えた。
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重忠は「元より意趣はない、父と叔父の立場に配慮しての出陣である。それでは重忠も引き上げるから各々も三浦に帰り給え」と答えて双方が面目を保ちつつ合戦を回避した。これで済めば三浦衣笠城での合戦も起きなかったのだが....
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この様子を誤解した義盛の下人が、義盛の弟 義茂が守っていた椙本館 (現在の杉本寺、地図) に駆け込んで、
「由比ヶ浜で合戦!」と報告したものだから、義茂は兄の危機を救おうと由比ヶ浜に駆け付けた。
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義茂が犬懸坂を駆け下ると甲冑の武者 4〜500騎が見えたため大声で叫びながら突入した。それを見た畠山勢は「和平は嘘か、援軍を待つ口実か」と戦闘態勢に入った。義盛勢も「義茂を討たせるな、戦え」と攻めかかり、鐙摺に入った三浦義澄まで小坪の浜に取って返した。
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畠山勢は「三浦勢に加えて上総と下総まで加わった、多勢に囲まれては不利だ」と考え防戦しながら退いた。
三浦勢は勢いに乗って攻めかかり、本格的な合戦になった。右上画像をクリック→ 周辺の拡大表示 (別窓)
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  ※小坪で遭遇: 三浦勢は西から東へ撤退、畠山勢は大庭景親に召集されて武蔵国から南下したのだから、
小坪ではなく七里ヶ浜で遭遇する筈だ。しかも三浦勢の行く手を塞いだのに「稲瀬河に布陣して小坪側にいる三浦勢に使者を送り」は、筋が通らない。何か誤認があるな。
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  ※稲瀬河: 江ノ電の長谷駅近くで由比ヶ浜に流れ込む小川で小坪まで約 1.5km (地図)。この合戦では双方
に多くの死傷者が出た。やや被害が大きかった重忠は屈辱を晴らそう、と考えた。
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  ※犬懸坂: 釈迦堂口切通しの東側で峠を越える古道は今でも通行できる。猟犬が走り回る昔の狩場だった
ため峠の南側を「犬懸け谷」と呼び、名越に向けて下る細道を犬懸坂と呼んでいた、と。
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杉本寺(椙本館)から小坪までは直線でも約 4kmの距離があり、騎馬でも 30分は必要だ。
三代執権の 北條泰時 が父義時の菩提を弔うため一周忌の貞応三年 (1224) 11月18日に 「釈迦堂建立に着手した」 との記事がある。釈迦堂口の地名は後世の命名だろう。
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一周忌の嘉禄元年 (122) 6月13日に法事を営んでいるが正確な位置と規模は不明、当時の吾妻鏡には釈迦堂口切通しの地名が全く見えないため、完成したのは写本が残っている文永三年 (1266) より後と考えられている。あの切通しが使えると 報国寺 浄明寺 (共に Wiki) 方面から大町五丁目方面に行く時間が小町大路経由の半分で済むんだよね。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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8月25日 乙巳
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吾妻鏡
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大庭景親 頼朝の退路を塞ぐため軍兵を各地に配置、弟の 俣野景久は駿河目代 橘遠茂と合流し甲斐源氏を攻めるため富士山北麓に野営した24日夜に100張以上の弓弦が鼠に食い切られてしまった。
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甲斐源氏の 安田義定 工藤景光および子息の行光、市河行房らは石橋山合戦の仔細を知って出陣し、波志田山で景久軍と遭遇して大半を討ち取ったが景久は逃走した。
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箱根権現に隠れて難を逃れた 頼朝 土肥実平の案内で土肥郷に下り北條時政は合戦の経緯を伝えるため甲斐国に向って出発した。
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  ※波志田山: 河口湖と西湖の南側にある足和田山と推定されて
いる (地図)。かつては 甲斐九筋の一つ 若彦路がここを通って駿河に南下していた。
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       右上画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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8月26日 丙午
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吾妻鏡
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畠山重忠は平家への忠節と由比ヶ浜合戦の報復のため 河越重頼と連携して三浦を攻めようとした。重頼は秩父氏嫡流 二男の系だが家督を継いでいるためである。更に 江戸重長も軍勢に加わった。
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三浦勢は衣笠城に入って陣を整え、東の大手口は義明の嫡男三浦義澄と弟 義連、西側は 和田義盛と金田頼次、中央は長江義景と大多和義久が守りを固めた。朝 8時頃に数千の軍勢を迎えた義澄らは良く戦ったが、一昨日の由比ヶ浜合戦で疲れており矢も尽きたため城を捨てて逃げ去った。当主の 三浦義明を伴おうとしたが、義明は80歳過ぎの老齢を理由に残留を主張、義澄以下は涙を流しつつ命令に従って衣笠城から退去した。
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大庭景親は 渋谷庄司重国を訪れ佐々木兄弟の妻子の拘留を申し出たが、重国は石橋山合戦に際し末子 義清を従えて景親側に加わった功績を主張して納得させた。
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夜になって佐々木三兄弟 (定綱、盛綱、高綱) が 阿野全成 (頼朝の弟) と共に箱根から渋谷の館に入り、二男の 経高も無事である旨を報告。重国は頼朝の安否を確認するため、各方面に郎党を派遣した。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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8月27日 丁未
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吾妻鏡
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青の下線は全て別窓。
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朝 8時、一人衣笠に残っていた三浦義明 (89歳) は寄せ手に討ち取られた。衣笠から逃げた義澄らは舟に乗って安房国を目指した。北條時政、義時、岡崎義実らは 土肥の岩浦 から舟で房州へ向う途中で三浦の一行と出会い、互いの無事を喜び合った。
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大庭景親は軍兵を率いて三浦に攻め込んだが、義澄らが既に船で逃れた後だったためむなしく引き上げた。
加藤景員は箱根から伊豆山に入って出家し、子の 光員 景廉は分散して伊豆から甲斐を目指した。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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8月28日 戊申
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吾妻鏡
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青の下線は全て別窓。
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光員と景廉の兄弟は駿河国大岡牧 (時政後妻の実家) で再会し富士山麓に隠れた。
頼朝は 土肥の岩浦 から小舟で安房国を目指し、土肥遠平 (実平の嫡子) が頼朝の無事を知らせるため 政子が匿われている伊豆山権現を目差した。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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8月29日 己酉
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吾妻鏡
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青の下線は全て別窓。
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頼朝 は土肥実平と 安房国平北郡の猟島 に上陸、先着していた時政以下が揃って出迎えた。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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9月 1日 庚戌
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吾妻鏡
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頼朝は 上総広常の許に行こうと考え、最初に旧知の安西三郎景益に書状を届けさせた。令旨を確認し国府の役人と共に参上せよ、また都から来た者は全て捕らえよ、との内容である。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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9月 2日 辛亥
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吾妻鏡
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青の下線は全て別窓。
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政子は頼朝の安否を確認できないまま伊豆山から 秋戸郷に移った。夕刻に頼朝から使いの 土肥遠平が到着し仔細を報告したが乗船後の消息が判らず、悲喜こもごもである。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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9月 3日 壬子
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吾妻鏡
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頼朝は 小山朝政下川辺行平、豊島清元、葛西清重らに書状を送り参向を促した。上総広常の館を目指したが日が暮れたため民家に止宿、長狭常伴なる者の襲撃計画を察知した 三浦義澄が彼らを討伐した。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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9月 4日 癸丑
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吾妻鏡
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安西景益が安房国府の役人3人と一族を伴って参上した。長狭常伴のように命を狙う者がいるかも知れないので先ず 上総広常に使者を送り、迎えに来る様に命じる方が良いと言上した。
頼朝は景益の屋敷に移り、和田義盛を広常の許へ、安達盛長 千葉常胤の許へ使者として派遣した。
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  ※景益の屋敷: 安房国府があったと推定される三芳村府中地区 (地図) の付近か。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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9月 5日 甲寅
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吾妻鏡
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頼朝は洲崎明神 (房総半島西南端 、現在の州崎神社 (地図)、安房国一宮を称す)に参詣。昨日派遣した二人の使者が任務を果たして無事に戻れば謝礼の寄進を行なう旨の請願をした。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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9月 6日 乙卯
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吾妻鏡
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夜になって義盛が帰着し上総広常千葉常胤 と相談して参上すると答えた」 との報告をした。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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9月 7日 丙辰
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吾妻鏡
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頼朝挙兵の情報を聞いた 木曽義仲 (帯刀先生 源義賢の次男) も呼応して挙兵を計画したが、平家に与する小笠原頼直 (中野市笠原の豪族) が兵を率いて義仲を襲おうとした。
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義仲に与する村山義直 (信濃源氏) と栗田寺別当範覚がそれを聞いて善光寺裏 (現在の長野市若里、地図) に進出、市原合戦となったが日没を迎えて矢が尽きた義直は義仲に援軍を要請した。
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義仲軍の威勢を恐れた頼直は越後に逃走し 城長茂の軍に加わった。
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   ※市原合戦: 木曽義仲が初めて史料に登場したのがこの市原の
合戦 (別名を善光寺裏合戦) 。翌年 6月には義仲と越後平氏の 城助職 (長茂) が横田河原の合戦で衝突する。右画像は木曽義仲挙兵からの行動地図(クリック→別窓で拡大表示)
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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9月 8日 丁巳
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吾妻鏡
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北條時政が使者として甲斐国に出発した。甲斐源氏と共に信濃へ向かい、帰伏する者を従えると共に奢る者を討てとの厳命を受けての行動である。
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   ※厳命を: この時点の頼朝には甲斐源氏に 「厳命」 できる権威も実力もない。協力要請のレベル。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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9月 9日 戊午
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吾妻鏡
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安達盛長 千葉常胤邸から戻って報告。
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頼朝の挙兵を喜ぶと共に 「現在滞在している場所は要害でもなく先祖に所縁の場所でもない。早く鎌倉に向かうべきであり、そのために常胤が迎えに参上する。」 との伝言を持ち帰った。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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9月10日 己未
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吾妻鏡
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甲斐源氏の 武田信義 一條忠頼は石橋山合戦の情報を聞いて頼朝に合流するため駿河への南下も考えたが、まず信濃の平家方の追討を目差した。伊那郡大田切郷 (駒ヶ根市、地図) の城を落とし、神託に従って近在の平出郷と宮所郷など (いずれも現在の辰野町) を 諏訪大社 (公式サイト) に寄進した。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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9月11日 庚申
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吾妻鏡
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頼朝は丸五郎信俊に案内され丸御厨 (現在の南房総市石堂一帯、地図) を巡見した。
ここは先祖の 頼義が蝦夷を討伐した際に最初の恩賞として得た土地であり、また頼朝の父 義朝が継承した後に頼朝の官位昇進を祈って伊勢神宮に寄進したという来歴のある地でもある。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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9月12日 辛酉
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吾妻鏡
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頼朝は洲崎明神に神田を寄進した。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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9月13日 壬戌
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吾妻鏡
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頼朝は精兵300余騎を従え安房から上総に向ったが、上総広常は兵を集めるため遅れる旨を連絡してきた。
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一方で 千葉常胤は一族を率いて頼朝勢に加わろうと考えた。息子の東六郎太夫頼が 「この国の目代は平家に与しています。我々が源家に加われば害を為しますから先手を打ちましょう。」 と申し出た。
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胤頼と甥の小太郎成胤は直ちに館を襲撃、目代は多くの兵を率いて抗戦したが成胤の兵が館の裏手から放火、折からの北風に煽られて館が燃え上がった。目代は防戦できず、間もなく胤頼によって首を獲られた。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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9月14日 癸亥
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吾妻鏡
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下総の国 千田庄の領主 判官代親政は、刑部郷忠盛朝臣の聟で平相国禅閤 (清盛) に味方している。目代が討たれたことを聞き、軍兵を率いて千葉常胤襲撃を計画した。これを知った常胤の孫 小太郎成胤が合戦し遂に親政を生虜りにした。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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9月15日 甲子
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吾妻鏡
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青の下線は全て別窓。
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甲斐源氏の 武田信義 一條忠頼は信濃の平家を討伐して昨夜甲斐に戻り、逸見山に宿泊した。北條時政も今日到着し頼朝の意向をそれぞれに伝えた。
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   ※逸見山: 八ヶ岳南麓の北杜市大泉の 谷戸城 に比定されている。

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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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9月17日 丙寅
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吾妻鏡
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頼朝は 上総広常の参入を待たず下総国に向った。
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千葉常胤は 6人の男子 (太郎胤正次郎師常三郎胤盛四郎胤信五郎胤道 (胤通) 六郎胤頼と 嫡孫の 成胤 ら 300騎を従え 下総国府 (現在の市川市国府台、地図) で頼朝を迎えた。頼朝は 「常胤を父とも思う 」 と述べ、常胤は一人の若者を頼朝に引き合わせた。
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平治の乱の折に比叡山北部の龍華越で僧兵に襲われた際に 義朝の盾となり悪僧の矢を受けて討ち死にしたのが 義家の七男で相模の毛利庄 (現在の愛甲郡一帯) を領有していた 陸奥義隆である。
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その義隆が討死した 50日後に産まれながら乱の連座として同年 2月に下総に流され常胤の庇護を受けていたのがこの 毛利頼隆、源氏の血筋である。
頼朝は頼隆を近くに招き、常胤よりも上座に座らせた。
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   ※龍華越: 平治の乱に敗れて京を逃れた義朝主従は比叡山から琵琶湖
に降る途中の龍華越で比叡山僧兵の襲撃を受けた (地図)
ここでは頼朝の異母兄 朝長 が太股に矢を受け負傷している。
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        右画像は義朝主従の京都脱出ルート(クリック→ 別窓で拡大表示)
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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9月19日 戊辰
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吾妻鏡
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上総広常は領国の武者 2万騎を率いて隅田川の岸に参上したが、頼朝は遅参を厳しく叱責した。
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国中が 清盛 の意中にあるのに、一介の流人に過ぎない頼朝が挙兵した、更に自分の率いる大軍を見て感激するどころか遅参を叱責されてしまった。人品に欠ける場合には討ち取る意図を持っていたが、これは大将軍の器量と感じた広常は心服し従うことを誓った。
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  ※広常心服: この手の逸話は 将門の乱の際にもあった。藤原秀郷だか 平貞盛だか忘れたが、初面談の際
の粗野な振る舞いにより人物を見限った、と。広常の件は吾妻鏡編纂者の脚色だろう。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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9月20日 己巳
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吾妻鏡
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武田信義ら甲斐源氏宛の使者とし 土屋宗遠を派遣した。安房、上総、下総の武士は全て頼朝に従った。更には上野、下野、武蔵の精兵を引き連れて駿河に向かい平家軍を迎え撃つ計画である。時政を先達に、急いで黄瀬川 (沼津市) に来るように、と。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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9月22日 辛未
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吾妻鏡
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左近少将 平維盛は源氏と戦うため東国に出発する運びとなった。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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9月24日 癸酉
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吾妻鏡
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時政と甲斐源氏は逸見山を出発して石禾の御厩 (現在の笛吹市石和町) に投宿した。頼朝の使者 土屋宗遠が到着して頼朝の意向を伝え、武田信義 一條忠頼らは駿河に結集する件を評議した。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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9月28日 丁丑
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吾妻鏡
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頼朝 江戸重長に使者を送り参上を促した。石橋山では敵となったが、令旨には従うべきである。畠山重能 小山田有重が在京しているため、重長が実質的な棟梁として頼りにされる存在である。武蔵国の武士を伴って私の旗下に参集せよ、と。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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9月29日 戊寅
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吾妻鏡
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頼朝に従う軍勢は 2万7千余騎、甲斐源氏や常陸、下野、上野の武士を加えると 5万騎にもなる。もし江戸重長が従わないようであれば誘い出して討ち取るべきの旨を 葛西清重に命じた。
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また 佐那田余一義忠の母親に使いを出し、大庭景親らが幼い遺児に危害を加える恐れがあるから、安全を確保できる下総に移るように伝えた。
またこの日、小松少将平惟盛を総大将とした軍勢が 平忠度と平知度らを従えて関東に向った。大庭景親からの飛脚が 8月28日に関東を発って 9月2日に着いたため、その報告に対処したものである。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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9月30日 戊己卯
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吾妻鏡
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新田義重 八幡太郎義家 の嫡孫 (次男 義国の嫡子) を理由に頼朝挙兵の前から源氏嫡流として自立の気配が見られ、今回頼朝が参加を促す書状を送ったのに返事をせず、更に上野国の寺尾城 で兵を集めている。
また 足利俊綱は平家に味方し、上野国府 (前橋市元総社町) で源氏に味方する者の家を焼き払った。
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   ※寺尾城: 高崎市寺尾町と太田市寺井町の二説がある。高崎市の方は烏川西岸の尾根 (地図) に築いた
寺尾城で新田本領から西に 30km離れており、後に義重の二男 山名義範が相続した山名郷の北に隣接している。もう一ケ所の太田市寺尾町の方は現在は和食レストラン 新田乃庄 (公式サイト) の本店が建っている場所で、概ね義重の本拠地に近い。
個人的には新田乃庄説に同意している、と思う。兵を集めるには適した位置だからね。
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   ※足利俊綱: 義国の子孫である源姓足利氏所領だった足利荘
は平治の乱での義朝敗死後に平重盛が領有し、平家の郎党 藤姓 足利俊綱 が差配していた。
源姓は源氏の、藤姓は 藤原秀郷の子孫である。
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この時の源姓足利氏当主は 20代前半の 義兼
長兄の義清と次兄の義長は 木曽義仲勢に従って備中水島の合戦で戦死 (寿永二年、1183年) しており、三男の 義兼が外祖父 新田義重の補佐を受けながら惣領を継いでいた。
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足利の善徳寺に「重盛の供養墓」と伝わる巨大な無銘の石塔が建っている。
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  (右画像。クリック→ 別窓で拡大表示。更に詳細は 足利 鑁阿寺 の末尾近くで)
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この由来が長く気になっていたのだが、背景には足利俊綱が平安末期の 1170年頃に犯した罪を赦免してくれた 平重盛に仕えていた、という経緯があった。
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重盛が病没した治承三年 (1179) 閏7月から、治承五年 (1181) 閏2月に 野木宮合戦 で俊綱が滅亡するまでの間に重盛の後生を弔うため俊綱が建立したと考えれば、話の辻褄は合う。源姓足利氏に比べてマイナーな存在の藤姓足利氏が少々哀れ、ではあるが。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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10月 1日 庚辰
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吾妻鏡
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 吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的ページへ青の下線は全て別窓。
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甲斐国の源氏が精兵を率いて進んでくるとの情報が駿河国に伝わり、目代の橘遠茂は軍兵を奥津 (現在の静岡県興津) の付近に集結させて合戦に備えた。
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一方で石橋山合戦後に分散を余儀なくされていた頼朝の兵力の大部分は鷺沼 (現在の習志野市役所付近) の頼朝宿営地に終結した。同じく醍醐禅師 (頼朝の異母弟で幼名今若丸、後の 阿野全成) も修行を装って 醍醐寺 (公式サイト) を抜け出して駆け付けたため、頼朝は感涙を流した。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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10月 2日 辛巳
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吾妻鏡
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頼朝は 千葉常胤上総広常の軍勢三万余騎を従えて太井川 (現在の江戸川) と墨田川を渡って武蔵国に入った。豊島清元と 葛西清重が参上し、更に 足立遠元も以前の命令に従って迎えに来る予定である。
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また頼朝の乳母で故 八田宗綱の娘 (小山政光の後妻) が宿営地を訪れて昔話を楽しんだ。連れていた政光の息子 (14歳) を召し抱えて欲しいとの望みを聞き、烏帽子親として宗朝 (後の 結城朝光 ) の名を与えた。
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  ※渡河地点: 浅草白髭橋の少し北あたり (地図) と推定される。9月19日に秩父平氏側との折衝が始まり、
頼朝勢が長井の渡しから武蔵国に入って畠山、河越、江戸氏ら秩父平氏の迎えを受けたのが 10月4日、約半月を費やした間には相当の駆け引きがあった。
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秩父平氏側は武蔵国での既得権保証を求めただろうし、三浦一族には衣笠で家長の義明が討たれた遺恨がある。双方が妥協したのは政権与党に対する野党の選挙協力みたいなものか。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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10月 3日 壬午
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吾妻鏡
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青の下線は全て別窓。
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千葉常胤が子息と家臣に厳命を発して上総に派遣、伊北庄司常仲 (伊南新介常景の子) らを追討し嫡男の 千葉胤正が手柄を挙げた。常仲は (去る9/3 に) 頼朝を襲おうとした長狭六郎常伴の外甥である。
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   ※伊北と伊南:いずれも外房の勝浦一帯。上総興津駅の近くに合戦場の字名 (地図) が残っている。

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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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10月 4日 癸未
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吾妻鏡
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畠山重忠河越重頼江戸重長らが長井の渡 (隅田川沿いの浅草) に参会した。三浦義明 を討った輩であり、義明を継いで功績を挙げた嫡子 義澄らの敵方でもあったが、今後も続く戦いに秩父平氏一党は欠かせない勢力である。忠節と協力が必要な事を双方に言い含めた。三浦一族にも異論はなく、目を合わせて同列に着座した。
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   ※畠山氏の動き: 重忠の父 重能はこの後も平家の郎党として
各地を転戦、平家が都落ちする際には自ら同行を申し出ているほどだった。
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重能と源氏の接点は 大蔵合戦 (1155) から平治の乱 (1159) までの 4年間のみ、平家との接点の方が遥かに大きかった事と、重能が源氏の力を過小評価していたらしい事、などが考えられる。
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頼朝に合流を決めた重忠が「平家の恩は一代、源氏の恩は重代」と判断した (出典は源平盛衰記など) のは重忠の忠義心を強調する脚色で、実際には平家との関わり合いの方が遥かに大きくて長い。
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当時の武士の基本理念は既得権 (所領) の維持と保証であり、損得抜きで主家に忠節を尽くす例は少数だった。「主家に忠義」の定着は江戸時代を待つことになる。
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  右画像は 川本の畠山郷 に残る伝 重能の墓石(リンク先に拡大画像あり)。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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10月 5日 甲申
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吾妻鏡
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(軍勢の通過に伴う)諸般の雑事を在庁官人や郡司に指示して置くように 江戸重長に申し付けた。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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10月 6日 乙酉.
吾妻鏡
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頼朝畠山重忠を先陣、後陣に 千葉常胤を従えて相模国に到着 (鎌倉に入った)。軍勢は幾千万とも知らず、居館の造営が間に合わないため頼朝は民家に宿営した。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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10月 7日 丙戌.
吾妻鏡
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青の下線は全て別窓。
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まず八幡宮 (現在の 元八幡神社) を遥拝した。次いで故 義朝が住んだ亀谷の旧邸跡 (後に 政子 寿福寺を建立した地) を訪れて館を建てようと考えたが地形が狭い上に 岡崎義実が義朝の菩提を弔って建てた堂が既にあったため、計画を中止した。
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   ※後に政子が: 頼朝死没の翌 正治二年 (1200) 閏2月13日に菩提を弔うために寿福寺建立に着工した記事
が載っている。嘉禄元年 (1225) 7月に没した御台所政子は文治元年 (1185) に頼朝が建立した勝長寿院に葬られたが、勝長寿院の焼失 (時期は不明) 後に政子と実朝の遺骨は現在の寿福寺墓地裏に掘られた「やぐら」に改葬される。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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10月 8日 丁亥.
吾妻鏡
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足立遠元 (安達盛長の叔父) は日頃から忠勤に励んでおり、今回の挙兵に際しても早くから協力したため所領 (足立区〜浦和の一帯) を安堵する旨の命令を下した。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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10月 9日 戊子.
吾妻鏡
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大庭景義を奉行として頼朝居館築造の作業が始まった。急がれるため山内 (北鎌倉の巨福呂谷) にあった屋敷を移築した。正暦年間 (約 190年前の西暦 990〜995年) に建てられた屋敷だが、安部清明の守護札が貼ってあるため災害を受けていなかったものである。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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10月11日 庚寅.
吾妻鏡
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早朝、大庭景義の出迎えを受けて御台所 (政子) が鎌倉に入った。昨夜のうちに 伊豆阿岐戸 (秋戸) 郷から到着したのだが吉日を選び稲瀬川 (地図) の民家に泊まっていた。
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頼朝の仏典の師である走湯山 (伊豆山権現) の住僧 専光坊良暹も以前の約束に従って到着した。
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   ※阿岐戸郷: 伊豆山権現の神域だが急傾斜の海沿い (推定地) にあり、舟だけが往来の方法なので拘束を
避けられると判断したのだろう。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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10月12日 辛卯.
吾妻鏡
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早朝 寅刻 (4時前後) に小林郷の北山に社殿を造り、専光坊を当分の別当職 (長官) として鶴岡宮をここに遷し 大庭景義が実務の管理を取り仕切った。頼朝は色々と迷った末にこの場所を決め、飾りなどを省いて取り敢えず茅葺の宮を建てた。
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この八幡宮は後冷泉院の時代に 源頼義 (頼朝の五代前) が勅命を受けて 安倍貞任石清水八幡宮 (公式サイト) を勧請して由比郷に祀り (今は下若宮と呼ぶ) 、永保元年 (1062) の 2月に 源義家 が修復を加えた。今 (子孫の頼朝が) 小林郷に遷して祀るものである。
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   ※八幡宮: 八幡大神 (第15代応神天皇を指す) を主神に祀る
神社で宇佐八幡宮や石清水八幡宮が代表。 その八幡宮から勧請 (神仏の分身 分霊を遷して祀ること) して建てた神社が若宮。
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   ※下若宮: 元八幡宮 として存続する。ここの古い地名が鶴岡で、新設した若宮の地名も鶴岡八幡宮に
改めた。白旗神社の手前に元八幡宮を遥拝するための「由比若宮遙拝所」が設けてある。
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          右画像、現在の鶴岡八幡宮境内(クリック→ 別窓で拡大表示)を参照
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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10月13日 壬辰.
吾妻鏡

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木曽義仲は亡父 帯刀先生義賢の旧跡を訪ねるため信濃国を出て上野国に入った。ここは 足利俊綱 (藤姓足利氏) の支配地だが、「私に従えば恐れる必要はない」旨の指令を民に出した。
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甲斐源氏と 北條時政 義時親子は駿河国に入り大石の驛に止宿。戌刻 (夜8時前後) 、駿河目代が長田入道の策に従って北上して来る旨の報告が入ったため、途中で迎撃する軍議が決まった。
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武田太郎信義と息子の 一條次郎忠頼と板垣三郎兼頼、有義安田義定逸見光長、河内義長、伊澤信光 らが富士北麓若彦路経由で南下、石橋山合戦後に甲斐国に逃れていた 加藤光員景廉と共に駿河を目指した。
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   ※義賢の旧跡: 1145年頃〜1153年頃に義賢が住んだ 多胡館跡 (群馬県吉井町、地図) 。
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   ※大石の駅: 静岡県富士宮市の日蓮宗大石寺 (地図) 付近。ここには律令制の 驛 (うまや) があった。
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   ※駿河目代: 伊予国 (愛媛県) を本拠とした越智氏の一族である橘遠茂。
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   ※長田入道: 京都から敗走した 義朝を知多半島の野間大坊 で謀殺した長田忠致と推定される。
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   ※若彦路: 酒折宮 を起点とする街道 甲斐九筋の一つ。富士山西麓を南に下り現在の富士宮に至る。

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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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10月14日 癸巳.
吾妻鏡

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甲斐源氏の一行は神野と春田路を経て正午前後に鉢田に着いた。駿河目代の軍は狭い道で突然遭遇したため動きがとれず、防御に努めたが長田入道と子息の二人は討ち取られ橘遠茂は捕虜になった。後続の兵は悉く逃げ去り、午後6時前後には富士裾野の伊堤に討ち取った首を晒した。
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   ※鉢田: 合戦のあった場所は確定していない。鉢田山は愛鷹山の古名なので、その山裾か。
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   ※伊堤: 伊堤、井出の地名は多数あって不明確。後に阿野全成の所領となる沼津市井出と考えられる。
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   ※経路: 吾妻鏡の記述を現代の地名に当てはめると、白糸の滝付近から富士市原田を経由し愛鷹山麓で
戦い沼津市井出 (富士市との境界) に首を晒し、東進して 18日に黄瀬河で頼朝と合流、となる。
白糸〜22km〜原田〜10km〜井出〜10km〜黄瀬河〜21km〜富士川合戦場。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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10月15日 甲午.
吾妻鏡
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頼朝は鎌倉の邸宅に入った。大庭景義が奉行した山内の屋敷移築が完成したためである。
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   ※邸宅: 最初の政庁 (頼朝居館) は雪ノ下の清泉小学校角に 大蔵幕府跡 の碑が残る。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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10月16日 乙未.
吾妻鏡
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頼朝の意向で鶴岡八幡宮の終日読経。法華経、仁王経、最勝王経、大般若経、観世音経、薬師経、寿命経などである。八幡宮住僧が勤行し、相模国桑原郷 (小田原市北部の酒匂川東岸) を御供料として寄進した。
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今日、 (頼朝の軍勢が) 駿河に向かって出陣した。平惟盛が率いる平家軍数万騎が 13日に手越の駅 (静岡市駿河区、地図) に到着した旨の報告が届いたためである。
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夜になって相模国府六所宮 (現在の大磯) に到着、ここで箱根権現に早河庄 (小田原市の早川河口付近、石橋山合戦場の北側) の寄進を保証する下文に自筆の手紙を添えて別当の行実に送った。
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   ※六所宮: 現在の 六所神社 一帯が当時の国府だった。平安時代中期に相模国内の有力神社五ヶ所の分霊
を国府近くの社に勧請して六所宮とし、祈願所と定める習慣が定着した。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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10月17日 丙申.
吾妻鏡
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波多野義常を討伐するため兵を送ったところ、義常は討手の 下河辺行平が到着する前に松田郷で自殺。
嫡子の有常は大庭景義の元に居たため災難を逃れた。義常の叔母 (義通の妹) は 源朝長の生母で、その好意を受けた義常は義朝に仕えたが後に不和となって保元三年 (1158) 春に波多野郷に戻っていた。
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   ※松田郷: 東名 大井松田IC付近。松田惣領、松田庶子 (共に地名) などが合併し松田町になった。
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   ※義常の叔母: 尊卑分脈は朝長の母は別人としている。「典膳大夫久経の子」と書かれているので朝長の
乳母だった可能性もある。朝長が義朝の後継者扱いから外れたため、暫く疎遠を続けていた、という事か。
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   ※波多野郷: 藤原秀郷の子孫佐伯経範が領有し波多野を名乗ったのが最初。現在の秦野、松田、山北、
南足柄、小田原北部を含む酒匂川沿いの地域。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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10月18日 丁酉.
吾妻鏡
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大庭景親は千騎を率いて平家軍に合流するため出発しようとしたが、頼朝が 20万騎の精兵を従えて足柄峠を越えたため前途を塞がれて河村山に逃げ込んだ。
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また、伊豆山からの急使が来て「軍兵が聖地を往来して狼藉が心配されるため配慮を願いたい」との事、頼朝は「伊豆山は私の祈祷所でもあり、無闇に立ち入ってはならない」旨の下文を送った。
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日暮れになって黄瀬河に到着し、来る 24日を矢合せ (平家軍との開戦約定) と定めた。甲斐と信濃の源氏および 北條時政が二万騎を率いて到着、 (去る 9月10日に) 大田切郷の城を落とし、神託に従って諏訪大社に寄進した旨を語り頼朝を喜ばせた。
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次に駿河目代との合戦の話になって捕虜 18人を召覧。加藤光員が目代橘遠茂を討ち取って郎党 1人を生け捕り加藤景廉 が郎党 2人を討ち 1人を生け捕ったと報告した。
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また 工藤景光が波志太山 俣野景久と戦った事などを報告し、恩賞に値するとの言葉を受けた。大庭景親に味方し頼朝に逆らった者は後悔で魂を消す思いだろう。荻野俊重、曽我祐信らは降伏して参上した。
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夜になって 土肥実平 土屋宗遠らは酒肴の支度を整えた。北條時政親子と伊豆相模の武士らは各々馬や直垂を褒美として受け取った。
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その後に土肥実平を使者に派遣し、異母兄の故 朝長が育った松田邸の修理を 中村宗平に指示した。
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   ※河村山: JR御殿場線の山北駅南にある河村城址、平安末期に
に波多野遠義の二男 河村秀高が築いた。
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秀高の子 義秀は石橋山合戦で平家に与して所領を没収されたが、建久元年(1190)に鎌倉で流鏑馬の妙技を見せ本領を回復した、と吾妻鏡にある。
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   ※波志太山: 河口湖の南西にある足和田山 (地図) に転じた、と
考えられる。甲斐九筋の一つで南進する若彦路が 河口湖と西湖の間を通り抜けていた。
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右は河口湖と足和田山と若彦路の鳥瞰図。    かクリック→ 別窓で拡大表示)
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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10月19日 戊戌.
吾妻鏡
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伊東祐親 平維盛の軍に合流するため伊豆鯉名 (南伊豆の小稲) から舟を出そうとしたが 天野遠景が捕えて黄瀬河の宿所に連行した。頼朝は処分を決めるまで祐親の娘婿 三浦義澄に身柄を預けた。
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去る承安三年 (1173) に祐親が頼朝に討手を向け、祐親の二男 祐清 (吾妻鏡は祐泰 (長男) と誤記している) が急を知らせて難を逃れた。その功績に報いるため恩賞を与えるべく呼び出したが、祐清は「父の祐親が罪人として囚われており、その子が恩賞を受ける謂れはない」として釈放を願い、平家軍に加わるために上洛した。武士の信義を重んじる美談である。
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その後に甲斐源氏の 加々美長清 (翌 治承五年に 上総広常の娘婿になった頼朝お気に入りの人物) が京都から到着。平知盛に仕えていたが母の病気を理由に帰国を願って許され、戻る途中で病を得たため遅くなったが甲斐の国を経て駆けつけたというのが経緯である。
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   ※祐清上洛: 吾妻鏡の養和二年 (1193) 6月1日にはその後の祐清の消息として「祐清は平家軍に加わり、
北陸道の合戦で討死した」と書いているが、養和二年 (1182) 2月15日では「父が死没しては褒賞など意味がない。早く身の暇を与えて欲しい」と言うため心ならず死罪とした。」と、内容が異なっている。
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また「平家物語の巻七 篠原合戦 (寿永二年、旧暦 6月1日)」では平家に仕えていた畠山重能小山田有重俣野景久斎藤実盛らが 木曽義仲の追撃を受け全滅した様子を描いている。 滅びゆく平家に殉じた悲劇ではあるが、平家物語の記述が正しいようだ。
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   ※伊豆鯉名: 8月の 平兼隆討伐直後に 「目代 史大夫知親の権限停止」 を布告した、蒲屋御厨のある南伊豆
の漁村 (現在の小稲、地図) 。 祐親は土地勘とコネのある鯉名から駿河に渡ろうとしたのだろう。はるかに格下の遠景による捕縛は屈辱だった、と思う。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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10月20日 己亥.
吾妻鏡
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頼朝軍は駿河国賀島に到着。平維盛薩摩守忠度、参河守知度らの率いる平家軍は富士川西岸に布陣した。
夜になって 武田信義が作戦を立てて平家軍の背後を襲おうとしたところ、富士沼の水鳥が一斉に飛び立ち軍勢の攻撃のように思えたため、平家軍は浮き足立った。
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次将の上総介 藤原忠清らが相談し「東国の兵は全て頼朝に従っている。京都を離れた地で包囲されたら逃げられぬ、早く戻って作戦を立て直そう」と。平家軍は夜明けも待たずに撤退してしまった。
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飯田家義と子の太郎が渡河して 平家軍を追い掛けた。伊勢国の住人伊籐次郎が引き返して太郎を射取り、家義が伊籐を討ち取った。
印東常義は鮫島 (富士市の田子の浦港の西) で討たれた。
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   ※賀島: 富士市の岳南鉄道本吉原駅の近く。現在の富士川本流
から約 7km東に 平家越え橋 (地図) の名が残る。
当時は富士川河口に近い湿地帯だったらしい。
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   ※次将: 大将軍は象徴としての指揮官、次将は実戦の指揮官。
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   ※撤退: 平家物語に拠れば、維盛軍に加わっていた 斎藤実盛
東国武者の様子を尋ね、実盛が 「親は子の、子は親の屍を乗り越えても戦う」 などと勇猛さを語ったため戦意を失なった、と書いている。
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   右は和田川の橋際に建つ「平家越え」の碑  画像をクリック→ 別窓で詳細ページへ
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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10月21日 庚子.
吾妻鏡
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頼朝は維盛軍を追撃して京へ向かう命令を下したが 千葉常胤、三浦義澄、上総広常らがこれを諌めた。
常陸の佐竹義政と 秀義らが数百の軍勢を率いていながら未だに頼朝側に加わらず、更に秀義の父 隆義は平家に従い在京している。他にも油断できない者が多いから、関東を平定した後に関西に向かうべき、と。
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頼朝はこれを聞き入れて黄瀬河の宿舎に戻った。安田義定を遠江国の守護に、武田信義を駿河国の守護にして統治と防衛に当たらせる指示を与えた。
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   ※佐竹: 二代当主 佐竹隆義の長男が義政で二男が嫡子の秀義。千葉氏と上総氏は所領を接した敵対関係
にあり、彼らにとっては上洛するよりも転針して佐竹を滅ぼす方がメリットが大きい。
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   ※指示: 原文は「被差遣」だが、この時点の甲斐源氏と頼朝は対等の関係であり軍事力にも大きな差は
ない。指示或いは命令を下せる関係ではないから「差し遣わす」は吾妻鏡の脚色だろう。
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更にこの時点では統治下に入っていない両国の守護任命権は頼朝にはないため、吾妻鏡編纂者 の曲筆と判断される。既にこの時点で、甲斐源氏は頼朝の仮想敵になりつつある。
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今日一人の若者が宿所の入口に立ち、頼朝に会いたいと申し出た。
土肥実平土屋宗遠岡崎義実らがこれを怪しんで取り次がなかったが頼朝が聞きつけ、年令から察すれば奥州へ逃れた九郎か、早く会って見ようとなった。実平が招き入れると果たして 義経 だった。
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  右は頼朝と義経が語り合ったと伝わる対面石 (真偽は?だが)
  更に詳細は画像をクリックして清水八幡神社のページへ (別窓)

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義経は御前に進み、過ぎた日々を語り合って懐旧の涙を流した。祖先の 義家 が奥州合戦 (後三年の役) で苦戦した時、弟の義光は朝廷警備の職を辞して兄の軍陣に駆けつけた、その旧例に同じである、と。
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義経はまだ赤子だった平治二年 (1160) に父の 義朝が死没、その後は継父の 一條大蔵卿長成 に庇護され、将来は出家する約束で鞍馬山に預けられていた。会稽の思いで自ら元服し、藤原秀衡を頼って奥州に逃れていた。
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今回頼朝挙兵の報を聞いて加わるため出発しようとしたが秀衡が押し止めていた。隠れて出発を試みたために秀衡も止められず、家臣の勇士 佐藤継信忠信兄弟を付き添わせた。
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夕刻、体を清め 三嶋大社に参詣した。挙兵の願いが成就したのは加護を得た結果なので 伊豆御園河原谷長崎 (三島市南部の狩野川沿い) を神領として寄進した。
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   ※佐藤兄弟: 単なる家臣ではない。父の 佐藤基治 (信夫庄司、湯の庄司) は 藤原秀衡 の父 基衡の弟 清綱
の娘を後妻に迎えた奥州藤原氏の縁戚であり、股肱の臣でもあった。
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佐藤家系図に拠れば、後に頼朝に追われて再び奥州に逃れた義経の側室は基治の娘 「浪の戸」 と記録している。もう一人の娘「藤の江」は秀衡の三男 忠衡に嫁していた。義経と忠衡は親しく交わり、 泰衡は義経を討つ前に義経養護派だった忠衡を殺している。
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忠信と継信の生母は基治の先妻 (大久保村 (群馬県吉岡村) の土豪 大窪太郎の娘) だが、佐藤一族の後継者は後妻 (藤原氏の娘) が産んだ前信と治清に決まっていた。視点を変えれば、忠信と継信には義経の郎党となり武将として名を挙げる道を与えた、とも考えられる。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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10月22日 辛丑.
吾妻鏡
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飯田家義が平家の武者伊藤次郎を討ち取った合戦の様子と子息が討死した様子を報告した。昨日は頼朝の三島大社参拝の日だったので遠慮した、と。石橋山の合戦でも景親と戦って功績を挙げており、頼朝は「家義は無双の勇者である」として賞賛した。周辺にも異論はなかった。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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10月23日 壬寅.
吾妻鏡
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相模国府 に到着し 最初の論功行賞を行なった。
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北條時政武田信義安田義定千葉常胤三浦義澄上総広常和田義盛土肥実平安達盛長
土屋宗遠岡崎義実工藤親光、佐々木四兄弟(定綱経高盛綱高綱)、宇佐美祐茂、市河行房、
加藤景員大見実政大見家秀、飯田家義 らが従来の領地を安堵され、或いは新領を得た。
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三浦義澄は三浦介 (守の次の官位) に、下河辺行平は従来通り下河辺の庄司に再任された。
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大庭景親はついに投降して出頭し上総広常に預けられた。長尾為家は岡崎義実に、長尾定景は三浦義澄に 預けられた。 河村義秀は所領の河村郷 (地図) を没収され、大庭景義に預けられた。山内経俊は山内庄を没収され土肥実平に預けられた。その他にも石橋山の合戦で敵対した者はいたが、死罪は 10人に 1人程だった。
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   ※工藤親光: 狩野茂光の四男で狩野介、文治五年 (1189) の奥州合戦の 阿津賀志山の攻防戦で討死する
ことになる。河津の伝承では曽我兄弟の生母 満江 の父親とされているが、異説もある。
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   ※実政と家秀: 大見と書くべきか宇佐美と書くべきか悩む。元々中伊豆の大見郷が本領だが宇佐美姓と
大見姓の使い分けが曖昧で、その上に同一人物もいるためだ。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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10月25日 甲辰.
吾妻鏡
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頼朝が松田に造作した邸に入った。中村庄司に修理を命じていたもので、侍 25間の萱葺きである。
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   ※松田邸: 10月18日に、異母兄 朝長が育った屋敷の修理を命じていた。足柄上郡松田町付近 (地図) の
付近だが、正確な位置は確認されていない。侍 25間の「間」は長さではなく柱間の数を表すのが一般的で、「侍」は「主人の家政を取り仕切ったり身辺を警護する従者の詰所」の意味もある。それが 25部屋と考えるのは広すぎるか?要するに、この辺の意味は判らねぇ!
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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10月26日 乙巳.
吾妻鏡
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大庭景義に 囚人河村秀義を斬罪にする指示を与えた。また、今日固瀬川で 大庭景親 を斬首し首を晒した。
景親の弟 俣野五郎景久は今も志が平家にあり、密かに逃れ平家との合流を目指して上洛した。
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   ※景親斬首: 投降後に頼朝が兄の景義に 「助命を願うか」 と訊ね、景義は 「お心の儘に」 と答えている。
これは景義の清廉さを伝える説話 (源平盛衰記だったかな) で事実か否かは不明だが、保元の乱 (1156年) での景義は 為朝 の鏑矢で左膝を砕かれ馬と共に倒れた (鏑矢は馬の胴まで貫いた、まぁそれは兎も角として) 、景親は兄の体を担いで救出し命を救っている。
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この負傷で歩行困難になった景義は隠居して景親に家督を譲った。当時は父の景宗も存命しており、相続のトラブルが尾を引いて兄弟の仲を裂いた可能性もありそうだ。
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長男景義と次男の豊田景俊の生母は横山隆兼 (愛甲季隆の父) の娘、三男景親と四男俣野景久は異腹(生母不詳)である。異腹の兄弟が源平に分かれて戦い、更に助命を願う事もなかったのは円満な関係ではなかったのかも、なんて考えたらゲスの勘繰りだろうか。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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10月27日 丙午.
吾妻鏡
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佐竹秀義を追討するため、頼朝勢は常陸国を目指して出発した。周囲ではこの日が運勢の衰微する日取りなのを心配したが、東国を掌握する契機となった令旨が届いたのは (同様に運勢が衰微する筈の) 4月 27日だった。従ってこの様な場合には躊躇せず 27日を使うべきである、と。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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10月29日 戊申.
玉 葉 (Wiki)
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噂に拠れば坂東の反乱軍は数万の規模で、朝廷の追討使は弱体である、と。我が政権は壊滅の危機だろうか。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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11月 2日 庚戌.
吾妻鏡
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平惟盛以下の将兵は何の手柄もなしに京へ戻ってきた。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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11月 2日 庚戌.
吉 記 (Wiki)
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(東国に派遣した) 追討使について様々な噂がある。
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駿河国到着した際に 駿河目代が2,000余騎を率いて甲斐国に進んだが、甲斐源氏の伏兵に襲われ少々の人数を残して壊滅してしまった。敵が頼朝か甲斐源氏かは確認できず、捕虜になった者は尋問の後に斬首された。
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その後に頼朝勢数万の襲撃を受け、抗戦が困難なので撤退を試みたが手越の本陣が放火され攻撃を受けたため甲冑を捨て乗馬も放棄して逃げ帰った。近江から東は全て東国の支配下にあり、徴兵に応じる者は京都近辺にしか見当たらない、と。
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追討使を派遣しながらこれほどの失敗例を晒すとは、聞いたことがない。

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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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11月 4日 壬子.
吾妻鏡
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頼朝の軍勢が常陸国府に到着。佐竹一族は領地の外まで勢力範囲を広げて郎従も国中に多勢いるから拙速に行動せず良く作戦を立てて攻めるよう 千葉常胤上総広常三浦義澄土肥実平以下の宿老が軍議した。
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まず彼らの出方を見るため縁戚の上総広常を派遣したところ佐竹義政 (庶長子) はすぐ参上すると返答。義政よりも兵の多い嫡子 秀義は父の隆義が京で平家に従っているため参上できずと答え、金砂城に引き籠った。
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義政が上総広常の誘いに従って大矢橋まで来たとき、頼朝は義政だけを橋の中央に招き広常に命じて殺させた。特に敏捷な行動だったため従う者は対応できず、降伏したり逃げ去ったりした。
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その後に秀義への攻撃を開始した。下河辺行平と政義、土肥実平、和田義盛、土屋宗遠、佐々木定綱と盛綱、熊谷直実、平山季重ら数千の強兵が競って攻めたが佐竹軍は城壁を築いて守りを固めて決着せず、膠着状態のまま夜を迎えた。
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   ※常陸国府跡: 現在の石岡市総社の石岡小学校周辺 (地図)。
石岡市のサイト を参考に。
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   ※金砂城: 常陸太田市上宮河内町の西金砂神社 (地図) が城跡 (参考サイト) 。2014年9月の探索旅行で
は間違えて「東金砂神社」に行ってしまった。帰宅後に気が付くとは何という阿呆か!
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   鳥居から細道を 1.2km、左の頂上が金砂城址 (クリック→別窓で拡大表示)
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とりあえず Google Earth の画像を代用したが、2020年10月には南熱海から茨城県の筑西市に転居した (西金砂神社まで約80km) 。旅行の途中とは言え、熱海から260kmも離れていた事を考えれば今後は 「ご近所さん」 だから、再びの探索旅行はさしたる苦にはならない。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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11月 5日 癸丑.
吾妻鏡
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寅刻に土肥実平と土屋宗遠らが頼朝に使者を送り、「佐竹秀義の金砂城は人の力では落とせない要害で、一騎当千の兵が籠っているため熟慮して攻めるべきです」と報告した。
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宿老の意見を求めると、上総広常が「秀義の叔父 佐竹義季は智謀も欲心も人より強い男なので恩賞を約束すれば秀義を滅ぼす計略を巡らすでしょう」と言ったのでそれを許し、広常は急いで義季の元を訪ねた。
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「関東武者の殆どは頼朝に従っており、秀義だけが敵対している。貴方は頼朝に拝謁し秀義を討ち取る手配をして彼の領地を得るべきだ」 と。義季はすぐに承知し、広常や兵と共に金砂城の裏手に回り大声を上げて城の中に響かせた。秀義と家臣は防御も忘れ慌てふためき、更に広常らの攻撃を受けて逃げ去った。
秀義はそのまま行方不明になってしまった。
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   ※佐竹義季: 落城後に義季は頼朝の御家人となった。秀義も後に許されて御家人に列した。
文治五年 (1189) の奥州遠征の7月26日に 佐竹隆義の二男 四郎秀義が郎党200余名を従えて宇都宮で頼朝の軍勢に参陣している。ただし、吾妻鏡には 「大声を挙げて敵兵を退散させた」 との表現が頻繁にあるため、単なる常習的な表現だった可能性もある。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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11月 5日 癸丑.
玉 葉 (Wiki)
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噂では、前の将軍宗盛が (清盛の) 雪見御所を京都に戻すべきと提案し、人を驚かす程の口論になった、と。
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また同じく噂では (東国に派遣した) 追討使が今夕に京に戻ってきた。まず知度が僅か20余騎で、続いて維盛が10騎ほどの状態である。先月16日に駿河国高橋宿入ったが、少し前に駿河目代が優れた勇士3,000余騎を率いて甲斐武田勢を攻撃し悉く討ち取られていた。目代以下80余人の首を斬り路頭に懸けたとの話である。
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17日の朝に武田方の使者が維盛の館に入り、「以前から会いたいと思っていたが機会がなかった。早急の参上には道が険しくて一日が必要になる。こちらに来るのも難儀だろうから、浮島原 (甲斐と駿河の境にある野原) で見参するのは如何か」との書状である。激怒した忠清は使者二人の首を斬り、18日には富士川の近くに野営し、4,000余騎が翌朝に攻撃する準備を整えて休息した。
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ここで官兵の数百騎が寝返って敵陣に加わり、残る1,000〜2,000騎で四万の武田勢と対峙する形となった。忠清の立案と多くの士卒多数の同意で退却を決めたが、これは維盛の本意ではない。京を出発した時から戦闘意欲が薄弱で兵の多くが逃亡した。今日 勢多に入り、馬の允満孝を介して清盛に以上の仔細を報告した。
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果たして清盛は激怒し、「追討使に任ずる際は骸を戦地に晒すとも帰国は考えないと言った筈だ。誰と眼を合わせられるか、恥を晒し愚か者として名を留めるか。入京せず姿を消してしまえ!」と罵った。しかし維盛は入洛し検非違使忠綱の家に入り、知度も入洛して八條の清盛邸に入った。
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以上、伝え聞いた内容をここに記す。間違いがあるかも知れないが、軍勢に従って遠征した者の報告である。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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11月 6日 甲寅.
吾妻鏡
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青の下線は全て別窓。
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早暁、上総広常は秀義逃亡の跡に入り城壁を焼き払った。その後軍兵を方々に送り秀義を探したが山に入って奥州の花園城を目差したとの噂である。
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   ※花園城: 金砂城址から直線で約40km北、現在の北茨城市華川町の花園神社にあった要害 (地図) 。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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11月 7日 乙卯.
吾妻鏡
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上総広常らが頼朝の宿所に戻り合戦の詳細と秀義の逃亡や城を焼き払った事などを報告した。中でも 熊谷直実と平山季重は危険を顧みずに先頭を進み敵の首を多く獲ったため、勲功は他に勝っているとの言葉があった。
また佐竹蔵人義季が参上して家臣に加わる願いを申請、功績があったためそれを許された。
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この日、志太義広 十郎行家が国府を訪れ頼朝と面談した。
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   ※志太義広と行家: 頼朝の叔父 (為義の息子で義朝の弟) で義広は三男 (義朝、義賢義広の順、行家は
十男、旧名は義盛) 。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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11月 8日 丙辰.
吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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佐竹秀義の所領 常陸国奥七郡と太田、糟田、酒出などを没収し勲功の褒賞とした。また、逃亡した佐竹の家臣 10人ほどを 上総広常 和田義盛に捕えさせ庭先に召し出した。害心を持つ者が居るか否かを顔色を見て判断したところ、紺色の直垂を着た男が頭を垂れ涙を流すのを見て理由を問いただした。
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男は「主人の佐竹義政が殺されたのを考えると身の置き所がない」と。「では何故その時に戦って死ななかったのか」の問いに「橋の上で主人一人が殺されたため、後日の事を考え逃亡した。いま出頭したのは武士の本懐ではないが拝謁のついでに言いたい事があるためだ」と。更に言葉を続けて、
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「平家追討を後回しにして同族の佐竹を滅ぼすのは理解できない。敵に対しては国中の勇士が力を合わせるべきである。平家追討は誰に命じ、子孫の守護は誰に委ねるのかを良く考えるべきである。今は皆が貴方を恐れているだけで心から帰伏しているのではない。子孫に禍根を残すものである」と語った。
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頼朝は無言のまま奥に入り、上総広常は「あの男は謀反を計画するに違いないから早く殺すべき」と言った。
頼朝はそれを否定して家臣に加えた。これが岩瀬與一太郎である。
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今日、頼朝は鎌倉へ帰った。その途中で小栗重成の所領である小栗御厨八田館に入った。
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   ※岩瀬與一: 藤原秀郷の子孫か。本領は常陸国太田郷、JR常陸太田駅北側に岩瀬の字名がある。
後に頼朝から鎌倉に屋敷 (地図、こちらにも岩瀬の地名あり)を拝領している。
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   ※小栗重成: 小栗氏は常陸平氏大掾氏の庶流で重成は常陸から頼朝挙兵に参加した唯一の武士。
八田館は現在の茨城県筑西市の小栗周辺(地図)。小貝川西には「八田」の地名も残る。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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11月10日 戊午.
吾妻鏡
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武蔵国丸子荘 (大田区丸子) を 葛西清重に与え、彼の家に宿泊した。清重は頼朝を楽しませるため、青女 (未婚の若い女性の俗称) に饗応させる名目で妻女を夜伽に差し出した。
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   ※妻女の夜伽: 当時は貴人の接待には珍しくない風習だったらしい。葛西清重は応保元年 (1161) 前後の
生まれだから妻女は 20歳弱ほどか。若い人妻は魅力的だろうが...
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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11月12日 庚申.
吾妻鏡
玉 葉 (Wiki)
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武蔵国に至り、日頃は供に従えていた荻野俊重を斬罪に処した。功績があった様に見えるが、石橋山合戦では大庭景親に味方していた。いま処罰しなければ同じ事をした他の者の罪科を罰する事ができないからだ。.

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  ※荻野俊重: 治承四年10月18日に投降した武士。没収した所領の萩野 (地図) は同族である景員と景継に
与えた。投降した武士は多いが、約一ヶ月も過ぎての斬首は他に理由があったのだろう。
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  ※玉葉の記録: 噂に拠れば、関東の反乱軍は既に美濃国 (岐阜県南部) まで入ったらしい。
禅門 (清盛) は追討使として私兵を派遣するらしい。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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11月14日 壬戌.
吾妻鏡
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土肥実平が武蔵国の寺社に向かった。寺社の領域に諸人が勝手に入り狼藉を行なっているとの訴えがあったため、これを停止させる命令を下すためである。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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11月15日 癸亥.
吾妻鏡
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武蔵国の威光寺は源氏代々の祈祷所であり、院主増圓の管理する寺領は従来通り租税を免じる、とした。
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   ※威光寺: 既に廃寺だが、川崎市多摩区のJR南武線宿河原駅に近い 妙楽寺 (川崎市のサイト) の一帯が
旧跡らしい (地図) 。下記 19日に載っている長尾寺=妙楽寺=威光寺らしいが、本坊と僧坊が盛衰を繰り返したのだろうか。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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11月17日 乙丑.
吾妻鏡
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頼朝は鎌倉に帰還した。今日、石橋山合戦で平家側に加わった 曽我祐信は罪を許された。
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また 和田義盛が侍所別当に任ぜられた。これは去る 8月の石橋山合戦の後に舟で安房へ向かう時に、まだ今後の安否も判らない中で義盛がこの職を望んで許された経緯による (上席の者を越えての) 任命である。
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   ※侍所別当: 平安末期までは皇族や摂関家を警備する武士の詰所の長を意味した。鎌倉時代には行事の
警備、御家人の招集、罪人収監などを担当する侍所々司となった。その長が侍所別当で、和田合戦 (1213年) で義盛が滅亡した以後は代々の執権が兼任している。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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11月17日 乙丑.
玉 葉 (Wiki)
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伝聞。美濃の源氏らが不逞の輩に協力して美濃と尾張の両国を占拠している。また熊野権別当の湛増が息子の僧を送って協力している、と。鎭西では菊池権守が叛徒の取り締まりを放棄している。関東の源氏等はこの様子を知って (朝廷側の) 軍備の弱体化を掌握しているのだろう。
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   ※美濃源氏と不逞の輩: 美濃源氏は清和源氏の傍流で 源頼光 頼国親子が美濃守に任じたのが端緒。
頼国の子 国房が土岐郡 (現在の土岐市、行政区分地図) 一帯を本拠とした。
頼朝から美濃の占領を委託された甲斐源氏の 安田義定が彼らと協力していた。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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11月19日 丁卯.
吾妻鏡
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武蔵国の長尾寺は頼朝の弟 阿野全成に与えられた。住僧はそのままであり、従来通りの祈祷を続けるよう申し付けるため 慈教坊僧圓、慈音坊観海、法乗坊辨朗を召しだした。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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11月20日 戊辰.
吾妻鏡
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大庭景義 波多野義常の子息 有常を連れて参上し赦免を願い出たため、暫く預かるように申し付けた。
義常の遺領のうち松田郷は景義が拝領している。
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   ※波多野義常: 追討の兵を向けられ 10月16日に自刃、本領の波多野荘は義景 (義常の庶兄か従兄弟) が
名跡を継いだ。義常の妻が大庭景義の妹だから、有常は甥にあたる。
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景義が預かった有常は文治四年 (1188) 4月 の八幡宮流鏑馬で弓馬の妙技を見せて頼朝の賞賛を受け、景義が管理していた松田郷の相続を許されて松田氏の祖となった。
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大庭景義は承元四年(1210)に 82歳で死没、3年後の和田合戦(建保元年、1213年5月)の和田側の戦死者名簿の中に大庭小次郎 (景義の嫡子景) と共に松田小次郎 (有常) など一族の多くが含まれている。恩のある大庭氏に従って、縁戚関係にあたる和田氏に殉じたのだろう。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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11月20日 甲戌.
吾妻鏡
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山内経俊を斬罪に処す内示があった。老母 (頼朝の乳母の一人) がこれを聞き泣きながら助命を願い出た。
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八幡太郎義家様に仕えて以後は代々忠義を尽くし、経俊の父俊通は平治の乱で義朝様に従って戦い死骸を六条河原に晒しています。石橋山で景親陣に加わったのは平家を憚ったやむを得ずの行動で、同様に景親に従った大勢の武士が恩赦を受けているのに、なぜ経俊には先祖の功績を配慮されないのでしょうか。」と。
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頼朝は黙って 土肥実平に頼朝が着用していた鎧を持ち出させた。石橋山合戦の際に経俊の放った矢が袖に刺さり、瀧口三郎藤原経俊と書かれている。頼朝が自らそれを読み聞かせると老母は涙を拭って退出した。
本来は許し難い罪ではあるが老母の悲嘆に免じ、また先祖の功績も考慮に入れ死罪は許された。
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   ※山内経俊: 山内首藤氏は現在の大船から戸塚にかけての広大な山内荘一帯を領有していた。
吾妻鏡の本年 7月10日には「相模の波多野義常と首藤 (山内) 経俊は召集に応じないばかりか暴言を吐いた」と使者の 籐九郎盛長が報告している。
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許された経俊は頼朝に臣従して転戦、伊勢国と伊賀国の守護に任じたが元暦元年 (1184) の三日平氏の乱の鎮圧に失敗して解任された。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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12月 1日 己卯.
吾妻鏡
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平知盛が数千の軍勢を率いて近江に入り、山本義経と弟の 柏木義兼らと合戦。義経は命がけで戦ったが 軍兵の数に勝る平家軍は屋敷に放火して廻り、山本山城に籠った義経らは対抗できずに逃亡した。去る 8月に頼朝の挙兵を聞き、京の近くにも拘らず関東に味方し 平清盛の権威を傷つけたため攻撃されたものである。
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   ※山本山城: 浅井長政で知られた小谷城の西 約5km、琵琶湖を見下ろす山本山 (324m) の山頂付近。
詳細は 参考サイトで。2009年秋、小谷城に登るつもりで麓まで行ったのだが「熊出没注意」の看板にビビって撤退した。君子危うきに近寄らず、だ!
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   ※柏木義兼: 本領は甲賀市水口町の柏木荘、義兼は出家して甲賀入道を名乗った。建久年間に頼朝が
鶴岡八幡宮を勧請して分霊を祀り (現在の 柏木神社、紹介サイト) 新田を寄進している。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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12月 2日 庚辰.
吾妻鏡
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平重衡と淡路守清房 (清盛 の八男) と肥後守直能らが東国に向けて出陣した。東国の源氏を攻めるためなのだが途中から京に戻ってしまった。
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   ※出陣と帰還: 玉葉は 「近江の反乱軍を鎮圧」 と書いている。 「東国の源氏を攻める途中で京に戻った」
は吾妻鏡の間違った解釈で 「近江を鎮圧して帰還した」 が正しい。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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12月 4日 壬午.
吾妻鏡
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安元元年 (1175) に上総に流されていた阿闍梨 (高僧) の定兼が鎌倉に呼ばれた。仏法の知識が深いと評判があり、鎌倉には見られない人材なので上総広常に命じて召し出し、鶴岡八幡宮の供僧に任命された。
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   ※阿闍梨定兼: 大和国出身の真言宗高野山の学僧で流罪の経緯は不明、3年後に死去している。
供僧は管理業務を兼任する僧で、神仏習合の組織では神官よりも上の地位にあった。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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12月10日 戊子.
吾妻鏡
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山本義経が鎌倉に入った。土肥実平を通じて「志を関東に向けているのが平家に露見して去る 1日に城を攻め落とされ、当初の意志に従い参上しました。平家追討の日には必ず一方の先陣を命じて下さい」と申し出た。
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頼朝は「早々と参向したのは立派なので家臣に加わるように」と答えた。この義経は義光の子孫で弓馬の芸に秀でている事で知られた人物である。平家の讒言により安元二年 (1176) 12月30日に佐渡に流され、去年赦免されたのだが再び所領を追われてしまった。平家への遺恨は間違いない、と。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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12月11日 己丑.
吾妻鏡
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平清盛 重衡 園城寺 (三井寺、公式サイト) に派遣し、寺の衆徒と合戦した。この寺の僧が去る 5月に以仁王に与したからである。南都 (東大寺と興福寺) も攻め滅ぼされるだろう。この件はずっと処理されないままだったが、頼朝が関東で挙兵したため衆徒が同調するのを警戒した清盛の思慮によるものである。
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   ※次は南都へ: 4月に発行した平家追討の令旨は 5月初旬に露見、平時忠が 300騎を率いて捕縛しようと
したが以仁王は辛うじて園城寺に脱出。後に頼政が合流し25日には平家軍を避け千騎を率いて興福寺の僧兵と合流するため奈良を目指し、宇治で追いつかれ交戦したが衆寡敵せず、主従共に戦死している。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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12月12日 庚寅.
吾妻鏡
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夜10時頃に新造の館に移転の儀があった。大庭景義が奉行し去る10月から大倉郷に建築を続けていた。頼朝はその時刻に上総広常の家から水干を着し石禾栗毛 (毛色の名) の馬に乗り新邸に入った。
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先頭は 和田義盛加々美長清が左、毛呂季光が右、北條時政、同 義時足利義兼山名義範千葉常胤
胤正、同 胤頼、安達盛長土肥実平岡崎義実工藤景光宇佐見助茂(祐茂)、土屋宗遠佐々木定綱、同 盛綱 が続き、畠山重忠 が殿 (しんがり、最後尾) を務めた。
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頼朝が寝殿に入った後、供の者は十八ヶ間の侍所で二列に対座し、和田義盛がその中央に着座した。出仕した人数は 311人、御家人たちは御所の周辺に住居を構えたり宿を確保したりした。
東国の者はこの様子を見て、頼朝が鎌倉の主だと改めて認識した。
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鎌倉は辺鄙な地で漁師や百姓の他には住む者も少なかったがこの時から道路を整備して地名を決め、屋根や門が連なるようになった。
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今日、平家の軍勢が園城寺 (三井寺、公式サイト) を焼き払った。
金堂以下、堂塔も廟所も経典など全てが灰燼に帰した、と。
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   ※水干: 狩衣の一種で、公家や高位の武士が平常時の私服と
して用いていた。詳細は Wiki を参考に。
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    右は清泉小学校西北端の大倉幕府跡の碑、すぐ左奥が頼朝の墓所。 (クリック→別窓で拡大表示)
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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12月12日 庚寅.
玉 葉 (Wiki)
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伝聞。昨日官兵が三井寺に攻め寄せ、一昨日から守りを固めている比叡山の衆徒と合戦になった。彼らの兵力は少なく、間もなく退却して近江の方向へ逃げ去った。官兵は堂塔を除く三井寺の周辺と僧房少々を焼き払い官兵 70余人が負傷した。武田の軍勢が遠江に陣を構えて駿河を占領し 美濃と尾張の地侍も協力している。
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また城太郎助永が信濃に入った噂があるが、これは風評らしい。雪が深くなるから人馬の往還が困難になる。また 藤原秀衡が参戦するとの噂もあるが、これは士卒を励ますための虚報と思われる。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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12月14日 壬辰.
吾妻鏡
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武蔵国の武士が代々支配してきた土地は従来通りに継続して管理し使用させる旨の通知が発行された。
北條時政 千葉胤正、同 胤頼、籐九郎盛長土肥実平がこれを差配し、藤原邦通が文書に書き下した。
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   ※藤原邦通: 頼朝の初期の右筆 (秘書役の文官) 。挙兵直前に平兼隆邸内部を偵察し報告した人物。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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12月15日 癸巳.
玉 葉 (Wiki)
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一昨日、知盛と資盛らが叛徒の城郭を攻撃した。甲賀入道と山下兵衛尉義経らの1,000余騎は間もなく追い落とされ梟首は200余人、その中に甲賀入道の首もあった (後日 誤報と判明) 。捕虜は40余人、残りは逃げた。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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12月16日 甲午.
吾妻鏡
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鶴岡若宮 (鶴岡八幡宮) に鳥居を建てた。また、終日 (鎌倉の安泰を祈る) 最勝王経の読経を続けさせた。頼朝は水干を着用し龍蹄に跨って登御した。
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   ※龍蹄: 背の高さ 4尺 (約121cm) 以上の馬。当時も 5尺 (約152cm) 程度の大型馬もいたらしいが標準は
4尺強ほど。現代の乗馬クラブなどの馬は 150〜170cm、147cm以下はポニー種の範囲で、子供用や愛玩用だから...ポニーに跨った甲冑武者じゃイメージが悪い(笑)。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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12月19日 丁酉.
吾妻鏡
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橘公長が子息の公忠と公成を伴って鎌倉に参着した。平知盛の家臣だったが去る 2日に 重衡が東国を攻めるため出発した時に 宗盛の進言で同行した者である。武芸に優れているのみならず智謀にも長けている。
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しかしながら平家の様子を見て運が傾いたと判断した。昔、粟田口源為義の家臣だった 斎藤実盛や片桐大夫と喧嘩した際の為義は裁判沙汰の恐れもあったのに、実盛らを叱りつけて自分を許してくれた。
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この恩も忘れられず、志も源氏に傾いたため重衡に仕えるのを嫌って縁者を探し、遠江を経て鎌倉に来た。
かつて一緒に知盛に仕えていた 加々美長清 を通して仔細を上奏し、御家人に加わるのを許された者である。
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   ※橘公長: 後に義経に従って平家追討に転戦した。捕虜の宗盛を近江国篠原宿で (義経の命令により)
斬首、更に重衡が南都の僧に斬首された様子を頼朝に報告するなどしている。
平家物語は「人々は公長の変わり身の早さを非難した」と記している。
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   ※粟田口: 三条口とも。京の七口 (地図) の一つで、大津〜山科〜三条大橋に至る東海道からの入口。
ちなみに 残りの六口は 東寺口、丹波口、鳥羽口、鞍馬口、大原口、荒神口を指す。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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12月19日 戊戌.
吾妻鏡
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新築の館で 三浦義澄が椀飯 (饗応の食事) を献上、その後に弓始めがあった。これは当初の予定ではなく、公長の息子らが弓の名手と聞いた 頼朝が腕前を見たいと、椀飯の際に言い出されたことである。
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   射手一番  下河邊行平 vs 愛甲季隆
   射手二番  橘公忠   vs 橘公成
   射手三番  和田義盛  vs 工藤行光
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その後の御行始め (外出始め) に 安達盛長の甘縄邸へ。盛長は馬一頭を献上し 佐々木盛綱が手綱を引いた。
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   ※甘縄邸: 長谷観音に近い 甘縄神明宮 (リンク先末尾に記載) の山裾で、頼朝も政子も幾度となく訪れて
いる。宝治元年 (1247) に盛長の子 景盛が 25年ぶりに高野山を降りて三浦討伐の兵を率いた宝治合戦の際にも、安達勢は甘縄邸から出陣している。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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12月22日 庚子.
吾妻鏡
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新田義重 が呼び出され参上したが安易に鎌倉に入るのを禁じられ、山内 (大船一帯の山内荘) に留められた。
これは兵を集め上野国寺尾館に引き籠ったとの噂が伝わり、安達盛長に命じて呼びつけたものである。
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義重は「異心はありません。戦になったと聞いた家臣が城から出るのを止めただけの事です。呼び出しを受けて大変恐縮しております。」と。盛長がこれを強調して取り次いだため、それ以上は追及されなかった。
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また、新田義重 の孫の 里見義成 が京都からやって来た。今までは平家に従っていたが源氏の繁栄を伝え聞き参上した、と。その思いは祖父と異なるので早速近くに仕えるのを許された。
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義成が言うには「石橋山合戦の後に平家は源氏一族を悉く攻め滅ぼす考えを巡らしていたため、関東に行って頼朝を襲う。」と述べたら喜んで許可してくれた。駿河国の千本松原で行き会った 斎藤実盛 と瀬下広親らは 「関東の武士は皆が頼朝に従い、その結果頼朝は数万騎を率いて鎌倉に入った。我ら二人は平家の恩があるため上洛する」と語っていた。そのため自分は更に急いで参上した」、と。
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   ※上野国寺尾: 頼朝挙兵を知った 新田義重は単独での平家
討伐を考えて寺尾に兵を集めた、と伝わる。
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寺尾の位置には二説あり、太田市新田 (義重の本領) と高崎市寺尾 (義重の庶子、義範 (山名氏の祖) が領有した山名郷の近く ) だが、特定されていない。
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   ※千本松原: 現在の沼津市。旧東海道に沿って富士市の近く
まで約 10kmも松林が続いている。惟盛の息子 六代にかかわる史跡 六代松もある。
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   ※平家の恩: 瀬下広親は上野の武士だと思うが詳細は不明。
何かと理屈をつけて平家を見捨てる打算的な武士が続出する中で、旧恩に報いため命を賭ける斎藤実盛と瀬下広親の姿勢は美しく、そして悲しい。
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        右画像は駿河湾に沿って沼津から富士市まで続く千本松原 (クリック→ 別窓で拡大表示)
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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12月24日 壬寅.
吾妻鏡
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木曽義仲 は上野国から信濃国へと引き上げた。単独で (平家と) 戦う意思があって父 源義賢所縁の 多胡荘に入ったのだが、ここが既に頼朝の勢力範囲となっていたための撤退である。
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   ※多胡荘: 群馬県の吉井町。約 100m 四方の 多胡館跡には土塁や堀の痕跡が少し残り、全体の雰囲気は
鎌形の義賢下屋敷跡 (班渓寺と鎌形八幡の末尾に記載) に少しだけ似ている。
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多胡館跡の地図は こちら、三古碑の一つ 多胡碑まで 4km弱だから併せて見学を。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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12月25日 癸卯.
吾妻鏡
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石橋山合戦の時に岩窟に置いてきた正観音の小さな像を、走湯山の専光房阿闍梨良暹の弟子が閼伽桶 (墓参用の手桶) に納めて鎌倉に持参した。先月に (捜索を) 命じられ、数日間山の中を探してその岩窟を見つけて
奇跡的に探し出した、と報告した。頼朝は手を合せ直接受け取って祀り、更に信仰心を強くした。
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この日、平重盛 清盛の命令を受け、軍兵数千を率いて奈良東大寺と興福寺の衆徒を攻めるため出陣した。
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   ※正観音像: 堀口合戦後の 8月25日に景親に追われた際に岩窟に隠した二寸の銀の像。
もしかすると今も堀口の谷奥に残っている しとどの窟 に隠していたのかも知れないね。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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12月25日 癸卯.
玉 葉 (Wiki)
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今日、重衡朝臣が南都の悪徒を追討するため出陣。一両日中に宇治を経由し開戦は28日、と。
美濃と尾張の武士を鎮圧するため兵を増強し、一昨日に指揮官の維盛朝臣と共に派遣した。
西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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12月26日 甲辰.
吾妻鏡
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佐々木義清が囚人として兄 盛綱に預けられた。早河合戦の際に渋谷庄司重国に従って矢を射たためである。
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   ※早河合戦: 渋谷重国と義清 (生母は重国の娘、佐々木四兄弟と別腹) は石橋山合戦と堀口合戦 (湯河原)
で (不本意ながら) 頼朝軍に矢を放っていた。吾妻鏡に早河合戦と書かれているのは 北條宗時 狩野茂光伊東祐親の手勢に討たれた場所で、重国も義清も参戦していない。従って矢を放ったのは石橋山か堀口になるのだが、どちらにも早河は存在しない。
伝聞情報による編纂が多い吾妻鏡の欠陥部分だ。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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12月28日 丙午.
吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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出雲の時澤が雑色の長に任命された。毎日仕えている雑色は数多いが合戦に際しての功績が他の雑色より優れているためである。
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この日、平重衡が南都 (奈良) を焼き払った。 東大寺と興福寺の寺域にある堂宇は全て焼かれ仏像や経典も同様の被害を蒙った。
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   ※雑色: 雑役担当の下級家臣。舎人より下、小舎人や走衆と
職域は概ね同じ。
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   ※南都焼討ち: 東大寺では 西隅の転害門と東隅の二月堂と
三月堂 (法華堂) を残して殆どの堂塔が灰燼に帰した。興福寺も同様に、施設の大部分である 38棟の堂塔を焼失した、と伝わる。また大仏殿から 1km以上も北の般若寺も炎上し、焼き討ちの死者は僧俗併せて 3,500を超えた、と伝わっている。
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    右は東大寺周辺の鳥瞰画像 クリック→ 別窓で拡大表示)
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事件の発端や経緯に関しては諸説あり、一概に清盛の暴挙あるいは興福寺と東大寺衆徒の暴走と断定できる資料はない。Wikiの記事 をベースにして推測するのも興味深い。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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12月29日 丁未.
玉 葉 (Wiki)
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巳刻 (10時前後) に情報があった。重衡朝臣が南都を鎮圧して帰洛した、と。
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また、興福寺と東大寺の堂宇と僧房などを焼き払ったが春日大社などには被害を与えなかった。悪僧30余人を梟首し、残った者は春日山に逃げ隠れた。凶徒の誅殺は寺にとっても必要だが、多くの堂塔が灰燼に帰した事は世の中と民の悲劇であり仏法の衰退を意味する。言葉が及ぶ状態ではない。
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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平家物語 (Wiki)
巻八十二
奈良炎上
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五月に以仁王が挙兵した際に大津の三井寺と南都の興福寺は以仁王に助力した。いずれ平家の攻撃を受けるなら先手を打とうとして放棄した。摂政の藤原基通が「必要なら法皇に上奏する」と宥めたが興福寺は完全に無視し、使者の別当忠成と右衛門親雅は髷を切られて逃げ帰った。
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清盛は瀬尾兼康を検非違使に任じて話し合いのために派遣したが、南都の大衆は非武装だった60人を殺し、その首を猿沢の池の岸に並べた。怒った清盛は頭中将の重衡に四万余騎を与えて鎮圧に派遣した。南都の大衆は奈良坂と般若寺に防衛線を築いて抵抗したが突破され夜戦になった。
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重衡は松明の準備を命じ、折からの強風にあおられた火が堂塔に燃え移って大火となり、東大寺の大仏殿にまで燃え移ってた。大仏は熱で溶解して頭部が焼け落ち、多くの経文や人命も失われてしまった。
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大衆 (僧兵) の首は獄門にも懸けずに打ち捨てられた。29日になって重衡が京に帰還、清盛は喜んだが、多くの人々は重衡が南都の堂塔を焼いてしまったことを深く嘆いた。
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校正作業を毎日3〜4時間繰り返すと仮定して 治承四年分は約3日、約10時間が必要だった。
つまり治承四年 (1180)〜 建保六年 (1218) まで 34年間間 (逸失した三年間と、完了した治承四年を除く) を完成させるには約100日が必要になる、計算通りなら遅くとも八月末は終わるけど。
このメモは、:消さないで残して置こう!
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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12月28日 丙午.
吾妻鏡
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記事
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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12月28日 丙午.
吾妻鏡
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記事
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西暦1180年
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81代 安徳天皇
後白河法皇
治承四年
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12月28日 丙午.
吾妻鏡
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記事
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