【 吾妻鏡 元久二年(1205) 6月21日 】.
時政の継室 牧の方 は去年娘婿の 平賀朝雅 と口論した件で畠山重保を深く恨み※、重忠親子を追討する計画を練った。時政は義時と時房を呼んで重忠追討について語り、義時と時房は次のように答えた。
.
「重忠は治承四年以来忠義を尽くし、頼朝も子孫を守れと遺訓したほどの者である。頼家にも仕えたが、比企合戦の際には当方に味方したのは婿として父子の礼を重んじたからで、今になって反逆を企てる理由がない。度々の功績を考えず軽率に追討すれば必ず後悔する。まず謀反の真偽を確認するべきだろう。」と答えた。
.
時政もそれ以上は言わず、三人は座を立った。牧の方は備前守時親(牧宗親の子。宗親は牧の方の父または兄)を使者として義時邸に派遣し、義理の息子を詰問した。
.
「重忠の謀反は既に明白だから将軍や世の中のため夫の時政に話した。今あなたが重忠を擁護するのは継母を軽んじて讒言の輩にするつもりなのか。」と。義時は「それでは良く考えてみます。」と答えた。
.
※朝雅の件: 元久元年(1204)4月、
坊門信清 の娘
信子 を
実朝 の御台所に迎えるため京に派遣されていた使者の中で畠山重保と朝雅が口論になった。
その場は周囲の執り成しで収まったが、京都から鎌倉に戻っていた時政の息子政範(16歳・牧の方が産んだ唯一の男子)が11月になって病死する不幸が重なってしまう。この二重の鬱憤が「重忠一族憎し」に繋がって、八つ当たりの不合理な遺恨となった。
.
ここで見逃せないのは、背後に北條氏の家督と権益を巡る思惑があったこと。病死当時の政範の官位は異母兄の
義時(後の二代執権)と同じ従五位下で、北條時政夫婦の嫡男扱いをされていた、と考えられている。このまま推移すれば、義時ではなく政範が家督を継承して執権の座に就き、時政の前妻の子である政子と義時連合の危機となるのは確実だ。更に加えて平賀朝雅は京に常駐して
後鳥羽上皇 に重用されており、朝雅が任じていた武蔵国国司は時政が代行して行政権を握っていた。つまり、秩父平氏の棟梁として武蔵国で最大の勢力を持つ重忠と武蔵国に触手を伸ばす北條一族は完全に利害が対立し、北條氏の内部では時政・牧の方と政子・義時の利害が完全に相反していた。
.
【 吾妻鏡 元久二年(1205) 6月22日 】.
早朝、鎌倉中が大騒ぎになり謀反人追討と称して軍兵が由比ガ浜付近を走り回った。畠山重保と郎従三人が合流すると、命令を受けた 三浦義村 の家臣・佐久間太郎らが包囲して戦闘になり、衆寡敵せず殺されてしまった。また鎌倉に向かっている重忠の追討命令が下され、義時が大軍を率いて出発した。 .
「鎌倉に異変あり」の知らせで菅谷館から誘き出された重忠率いる百数十騎は二俣川で義時率いる御家人の大軍(数千騎か)に包囲され、4時間を越える激戦の末に全滅。翌月には
北條時政 と
牧の方 の失脚と
平賀朝雅 追討事件に発展する。 詳細は
こちら二俣川の合戦で。
.
畠山重忠 謀反の嫌疑はすぐに晴れたにも拘わらず所領は没収され、追討に加わった御家人や北條の係累が資産を山分けにしている。更に命令に従って追討に参加した重忠の同族
稲毛重成 や
榛谷重朝 (稲毛重成の弟)も重忠の冤罪を捏造した不逞の輩として討伐され、武蔵国は完全に北條一族の支配下に組み込まれた。これは
北條時政 と
政子 と
義時 が描いた筋書きだったと考えて良いだろう。
.
そして、吾妻鏡の嘘も見逃せない。「義時には重忠一族を滅ぼす意図はなかった、時政や牧の方に騙されて重忠追討に加わった」と記録していること。史実を正しく書き残す努力を怠り、時の権力者に阿(おもね)って真相を歪曲する姿勢が史料としての信頼性を損なっている事実を忘れてはならない。この精神は一部のマスメディアや御用学者に継承され、住民の避難計画が杜撰な事実も無視して「原発安全神話」を垂れ流す現代に至っている。