
. . 86代 後堀河天皇 |
. 1月 1日 甲子 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。夜に入って雪が二寸 (6cm強) 余り。椀飯※あり、通例の通り。 . . ※椀飯 (おうばん) : 饗応の献立、食事を摂る儀式や行事も意味する。大判振る舞い の語源。 . ※年令: 四代将軍 藤原頼経 (幼名 三寅、嘉禄元年 (1225年) 12月29日に元服) 1/16で 12歳、 貞暁 43歳 、
坊門信子 (故 実朝の寡婦、出家) 43歳 、 .竹御所 (故 頼家の娘、後の四代将軍 藤原頼経の正室) 28歳 、 . 北條泰時 46歳 、 北條時房 54歳 、 北條朝時 36歳 、 北條重時 32歳 、 千葉時胤 11歳 、 足利義氏 40歳 、 ※ 三浦義村 72歳前後 、 三浦泰村 27歳 、 ※ 安達景盛 47~55歳、 安達義景 19歳、 . 85代 後堀河天皇 16歳、 84代 順徳天皇 32歳 、 土御門上皇 33歳 、 後鳥羽上皇 49歳 、 九条道家 36歳 、 坊門忠信 44歳 、 近衛家実 51歳、 藤原定家 65歳、 . 定豪 77歳 、 退耕行勇 66歳 、 親鸞 55歳 、 叡尊 28歳 、 忍性 12歳 、 日蓮 2月で 8歳 、 (全て1/1時点の満年令) ※ 三浦義村は仁安三年 (1168) 誕生 (史料に拠り、元暦元年 (1184) に満16歳だった と設定) 、 ※ 安達景盛は生年不詳だが頼朝の伊豆配流 10年後に誕生と仮定して年齢を推定した。 . (全て1月1日基点の満年令、下線付きは Wiki) . . ※ 前年12月24日、関白が 近衛家実 (Wiki) から鎌倉将軍 藤原頼経の父 九条道家に交替した。 近衛家実 (通称を猪熊関白) は鎌倉幕府と協調して後鳥羽院政を否定し 「成功 (売官制度) 」 なども取り入れたが、将軍頼経+三浦一族+西園寺公経と組んで幕府への圧力を強めようと諮った九条道家との権力争いに敗れて政治力を失ってしまう。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 86代 後堀河天皇 |
. 1月 3日 丙寅 . 吾妻鏡 |
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晴、深夜に雪。戌刻 (22時前後) に御所の南※にある淡路前司 長沼宗政宅で失火、近隣への類焼なし。 . .
※御所の南: 幕府庁舎は嘉禄元年 (1225) に大倉から宇津宮
辻子※に移転し、嘉禎二年 (1236) には更に北側に隣接した若宮大路沿い (通称を若宮大路幕府) に移転 (隣接地にスライド&拡張) する。 .. 長沼宗政は 小山政光の三男、朝政の同母弟で結城朝光の異母兄になる。 . 後に宇都宮氏五代当主となる 頼綱は幼い頃に政光の後妻 寒河尼が猶子として養育しており、宗政と頼綱が義理の兄弟 (頼綱が10歳下) だった関係から、宗政が宇都宮邸の近くに居を構えていた、と推測できる。 ※宇都宮辻子: 辻子の読みは 「ずし」 、 「大通りを結ぶ小道」 を意味する普通名詞だから 「宇都宮 邸に面して若宮大路と小町大路を結ぶ小道」 を意味し、小路の北が庁舎の敷地で南が宇都宮邸だったことの傍証になる。 .※朝綱と寒河尼: 父親は共に 八田宗綱で、6歳違いの兄と妹。従って 「朝綱が寒河尼の猶子」は . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 86代 後堀河天皇 |
. 1月 4日 丁卯 . 吾妻鏡 |
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晴。将軍家 藤原頼経が巳刻 (午前10時前後) に御行始め (外出初め) として武蔵守 北條泰時邸に入御、狩衣を着し牛車を利用した。越後守 北條朝時、駿河守 北條重時、壱岐前司 二階堂行村、出羽前司 中条家長、周防前司 中原親実が供奉した。 . 酉刻 (18時前後) の還御におよび引出物を献上、御剣は大炊助 北條有時がこれを持参した。砂金 (紙に包み銀の薄板に置く) は陸奥四郎 北條政村、鷹羽を納めた蒔絵の櫃は左近大夫将監 大江佐房である。 . 一の御馬 (蒔絵の鞍、総鞦 (房飾り)懸け) 越後太郎 北條光時と尾藤太景氏 (景綱の養子) が引く。 二の御馬 (銀鞍を置く) 陸奥五郎 北條実泰と 左衛門尉 平三郎盛綱が引く。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 86代 後堀河天皇 |
. 1月 7日 庚午 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 1月 8日 辛未 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 1月10日 癸酉 . 吾妻鏡 |
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雨。将軍家 藤原頼経が鶴岡八幡に御参宮。相模守 北條時房、駿河守 北條重時、陸奥四郎 北條政村、 大炊助 北條有時、駿河前司 三浦義村、左衛門尉中條家平※以下が供奉した。鶴岡八幡宮から還御後にまず椀飯の儀、次いで御弓始めを催した。 . 一番 結城七郎朝広 vs 本間太郎左衛門尉忠貞 (時房の代官) 二番 岡部左衛門四郎 (駿河の岡部か、武蔵の岡部か) vs 吉良次郎(前年の1月1日を参照) 三番 横溝五郎資重 (前年の1月15日を参照) vs 内藤左衛門六郎 (盛時?) . 竹御所の御行始め (外出初め) あり、武蔵守 北條泰時邸に入御した。 . . ※中條家平: 家長の孫。左衛門尉として仁治元年 (1240) に尾張守護に任じた。 . . . 86代 後堀河天皇 . 1月14日 丁丑 . 吾妻鏡 . | . . 86代 後堀河天皇 . 1月15日 戊寅 . 吾妻鏡 . | . . 86代 後堀河天皇 . 1月16日 己卯 . 吾妻鏡 . |
将軍家 が (二所詣でのための) 御精進を始められた。 (但し、今回は奉幣使 北條有時の代参である)。 . . ※二所詣: 当初は鎌倉から相模路を経て 伊豆山権現へ、更に日金山を経由して 三島明神から 箱根権現 へ巡拝する恒例行事。三社とも頼朝に崇敬され庇護寄進を受けていた神社で 頼朝は四回、政子は二回、実朝は八回実施している。 .ニ所は筥根権現と伊豆山権現を差すが、実質的には三嶋大社を含む三所 (すべて、別窓表示) 、三度目から逆のルート (最初に箱根権現) に変更している。 .
吾妻鏡に拠れば 最初の二所詣は文治四年 (1188) 1月。二度目に催した建久元年 (1190) 1月20日にちょっとした事件が起きた。. . と書かれている。三回目は箱根→ 三島→ 伊豆山ルートになり、三島から日金道※を経て伊豆山を目差した後年の 実朝が十国峠から相模湾に浮かぶ初島を見て、 . 「箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波のよるみゆ」 と詠んで金槐和歌集※に載せる事となった。 右画像をクリックして日金山東光寺 (別窓) へ。 ※日金道: 函南から現在の十国峠近くで日金山を越える旧街道 (ルート地図)。治承四年 (1180) に伊豆韮山で挙兵した頼朝の軍勢が土肥郷 (湯河原) を目指したルート (熱海海道) と概ね等しい。 .※金槐和歌集: 「金」は鎌で「槐」は槐門 (大臣の唐名) 、「鎌倉将軍実朝の個人歌集」 を意味する。 . . . 86代 後堀河天皇 . 1月17日 庚辰 . 吾妻鏡 . | . . . 86代 後堀河天皇 . 1月20日 癸未 . 吾妻鏡 . |
大炊助 北條有時が二所詣の奉幣使として鎌倉を出発した。
.. . 86代 後堀河天皇 . 1月25日 戊子 . 吾妻鏡 . |
大炊助 北條有時が二所詣から帰着した。
. . ※巡拝の距離: もちろん地図上の測定だが概算で170km、通常は4泊5日の行程である。 . . . 86代 後堀河天皇 . 1月26日 己丑 . 吾妻鏡 . |
武蔵守 北條泰時が公文所で武蔵国太田荘内※の荒地を開墾するよう指示を下した。 左近入道道然 (尾藤景綱) がこの件を担当する。 . .
※開墾命令: この年と翌年、全国的に悪天候に伴う酷い
飢饉に襲われる。天災を目前にして開墾を命じるとは何たる悲劇。 .※太田荘: 埼玉県東部、現在の流路を当て嵌めると荒川 と利根川 ※) に挟まれた、羽生市から春日部市にかけての一帯。 .. 藤原秀郷 の子孫である太田行尊 (小山氏、結城氏、下川辺氏の祖。藤原秀郷の系図を参照) が開発し、八条院領として立荘した。 . 右上画像の淡青部分が概略の太田庄。クリック→ 別窓で拡大表示 ※利根川流路: 利根川の流路は江戸時代の大事業により大きく変わっている。利根川東遷事業 (Wiki) や国交省の 利根川の東遷 も参考に。 .. . 86代 後堀河天皇 . 閏月とは . . |
. .当時の陰暦では季節感の差を埋めるため 3~4年に一度閏 (うるう) 月が入る (今年は 6月の次が閏 6月) 。西暦と陰暦には一ヶ月弱のズレがある事にも留意が必要、例えば頼朝が挙兵した治承四年 8月4日は西暦では 8月25日になる。また、2月は30日まであることも頭に入れておこう。 陰暦→ 西暦の確認や変換は こちらのサイトが利用できる。 . . 86代 後堀河天皇 . 閏1月 7日 庚寅 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 武蔵守 北條泰時は去年四人の祇候人を※京都に派遣し、多好氏に神楽の秘曲伝授を依頼している。好氏が近日鎌倉に下向の意思があると聞き「下向は考えず秘曲などの伝授に専念して欲しい」と書いた書状を送った。 . ※祇候人を: 派遣した前年9月9日に詳細が載っている。祇候人は近臣や近習の意味だが実際は 北條被官に近い存在で「泰時の命令を受けて将軍に仕える祇候人」である。 .. . 86代 後堀河天皇 . 閏1月17日 庚子 . 吾妻鏡 . |
晴。竹御所の代参で二所奉幣使を務める左衛門尉広光が鎌倉を出発。去る13日から精進を始めていた。 . . . 86代 後堀河天皇 . 閏1月19日 壬寅 . 吾妻鏡 . |
今暁に地震があった。 . . . 86代 後堀河天皇 . 閏1月20日 癸卯 . 吾妻鏡 . |
夜に入ってから雷鳴があった。 .. . 86代 後堀河天皇 . 閏1月22日 乙巳 . 吾妻鏡 . |
酉刻 (18時前後) に地震があり、大慈寺の裏山※で土砂崩れが起きた。 . . ※大慈寺: 5年後の嘉禎元年 (1235) に将軍 藤原頼経が創建する 明王院 (公式サイト) の東側に 実朝が建立したのが大慈寺、落慶供養は建保二年 (1214) 7月に催している 。 ..
現在は鎌倉青年団が建てた石碑 (地図) だけだが鎌倉時代末期までは多くの堂塔と伽藍を備えた巨大寺院だった (室町~江戸時代に廃絶か) 。. 明王院の裏山には 天園ハイキングコース (観光ガイド) に続く山道が伸びている。500mほど急登した尾根道近く (概略地図) に、伝 大江広元の墓と伝わる五層の石塔がある 。真偽を証明する史料は皆無なのだが、私には本物に見えた。 . 20年も昔で、現状は全く不明だけれど。 右上は当時撮影した画像、 クリック→ 広元の屋敷跡とその他の史跡。 石塔の拡大画像は末尾に載せてある。 . . 86代 後堀河天皇 . 閏1月23日 丙午 . 吾妻鏡 . |
晴。将軍家 藤原頼経が由比ヶ浜へ、新年最初の渡御である。まず小笠懸、次に遠笠懸、次に流鏑馬、次に20疋を使った犬追物が行われた。 次に小山五郎、三浦四郎、武田六郎、小笠原六郎が仰せに従って作物※を射て将軍家を喜ばせた。 . . ※作物: 弓射の技術を競う形式だが詳細は既に不明。一部を前年 (寛喜元年) 6月27日に載せた。 . . . 86代 後堀河天皇 . 閏1月26日 己酉 . 吾妻鏡 . | . . 86代 後堀河天皇 . 閏1月29日 壬子 . 吾妻鏡 . |
雨。将軍家 藤原頼経が四十五日の方違え※として相模守 北條時房邸に入御、竹御所は駿河入道 中原季時邸に入御された。 今夕に旅の御所 (時房邸) に於いて 佐々木兵衛太郎信実法師 (加地信実) が再三の勲功を考慮の上で本領の返却※を求めている件についての沙汰が下された。勲功についての主張は妥当であるが、該当の土地は既に支給を受けた者がいる。暫く機会を待つように、との事である。 . . ※四十五日: 頼経は1月14日と15日、竹御所は1月17日に方違えを行なった。何のための方違え なのか記載なしだが、12月の婚姻に関係があるのだろう、と思う。 .※本領の返却: 信実が父の 佐々木盛綱に勘当されたのは40年も前だからこれは無関係、佐々木 四郎信綱が
承久の乱後に独占した一族の所領の中に信実の継承権が混在したのだろうと推察する。 .. . 86代 後堀河天皇 . 2月 6日 戊午 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 鶴岡八幡宮の別当法印定親が御所に参上して盃酒を献上した。相模守 北條時房と武蔵守 北條泰時や駿河前司 三浦義村ら数人も同席した。上綱※が伴っていた稚児の中に芸能に優れた者があり、仰せに従って数度の舞を見せ満座を楽しませた。将軍家は特に喜び、その稚児の出自を尋ね法印がこれに答えた。 . 承久兵乱の際に意図せず院方に加わってしまった勝木七郎則宗の息子です。所領は没収、則宗の 家族も従者も全て離散して孤児となり山林での暮らしを余儀なくされていたそうです。 . 泰時は不憫に思いつつ法印の言葉に付け加えた。 . 勝木則宗は正治二年 (1200) に梶原景時に与して拘禁され、後に赦免となって本所の筑前国※に 下向し、後鳥羽院の西面武士として伺候した者である。 . . ※上綱 : 仏寺に置かれた三綱 (総務を管掌する三種の役僧) の上位。貞観十二年 (870) に大寺に 別当職が置かれ始めてから権限が縮小され、この時代には単なる尊称となっている。 .※筑前勝木 : この話は同月8日の記事に続き、勝木氏の旧領が筑前国遠賀郡香月の勝木荘 (北九 州市の八幡西区香月、地図) だと判明する。詳細は8日の記事で。 .. . 86代 後堀河天皇 . 2月 7日 己未 . 吾妻鏡 . | . . 86代 後堀河天皇 . 2月 8日 庚申 . 吾妻鏡 . |
勝木七郎則宗の本領である筑前国勝木庄を返却した。中野太郎助能※が承久の乱で挙げた勲功の褒賞として拝領した土地だが、6日に舞った稚児への褒美として父の則宗に与えたものである。中野助能には代替として筑後国高津と包行の両名 (みょう) ※を与えた。武蔵守 北條泰時による配慮である。 . . ※中野助能: 信濃国の御家人。建保七年 (1219) 1月27日に 将軍実朝が 公暁に殺された際 「政子 の命令を受けて公暁の師匠 少輔阿闍梨勝円を生け捕った」との記載がある。 .頼家 の側近として中野五郎能成の名が数回記載されており、たぶん同族だろう。 ※名 (みょう) : 荘園や公領の管理と徴税を行なうの名主の職位だが正確な内容は不詳。 . . . 86代 後堀河天皇 . 2月17日 己卯 . 吾妻鏡 . | . . 86代 後堀河天皇 . 2月19日 辛巳 . 吾妻鏡 . |
晴。将軍家 藤原頼経が由比ヶ浜に出御された。これは駿河守 北條重時が京都守護に任じて近日上洛する事への餞別の意味がある。相模守 北條時房、武蔵守 北條泰時、駿河守 北條重時らが各々野矢 (狩猟用の矢) を携えて加わり、60疋の犬追物の開催である。 . 場内の検分役は駿河前司 三浦義村 (白の直垂、夏毛の行騰に黒馬) 、外の検分役は下河辺左衛門尉行光※ (柿渋仕上げの直垂に鹿の夏毛の行騰、葦毛の馬) 。 . 射手は 一手 相模四郎 北條朝直 武田六郎信長※ 佐々木四郎※ 城太郎 安達義景 結城五郎重光 (朝光の七男で山川氏の祖) 三浦又太郎氏村 (?) 一手 相模五郎 北條時直 小山五郎長村※ 下河辺左衛門次郎宗光 (検分役行光の子か) 佐々木八郎信朝 (加地信実の末子、八男) 駿河四郎三浦家村 (三浦義村の末子) 小笠原六郎時長※ . . ※下河辺左衛門尉行光: 下河辺庄司行平の叔父とされているが詳細は不明。 . ※武田信長: 石和信光の次男。一條忠頼の粛清後の名門一條氏の名跡を継承した。 . ※小山長村: 小山政光 → 朝政 → 朝長 → 長村と続く小山氏の四代当主 (建保五年、1217年生れ) .
※小笠原時長: 長清の四男で嫡子。信濃国伴野荘 (平賀氏没
領を含む佐久市) 、を本領とした伴野氏の祖。小笠原氏の家名は長兄の長経が継いでいる。 .右は小笠原一族発祥の地 韮崎市北部に残る伝 小笠原長清の五輪塔。畑から出土した物で信頼性は乏しいが) 。 .画像をクリック→ 小笠原氏の本領(別窓)へ。 ※佐々木四郎: 本来は 佐々木秀義の四男高綱が四郎なのだが 彼は 15年も前に死没している。長兄 定綱と息子も 次兄 経高の系も、承久の乱で断絶している。三兄 盛綱の子は加地氏として越後に土着、末子の信朝が八郎を称しているから四郎の可能性は四男信重か五男資実だが確定できない。 .. ちなみに異母末弟の 義清 (生母は 渋谷重国の娘) は隠岐出雲に土着している。 義清を除く四兄弟の生母は源為義の娘である。 . . 86代 後堀河天皇 . 2月20日 壬午 . 吾妻鏡 . |
丑刻 (深夜2時前後) に地震。 .. . 86代 後堀河天皇 . 2月23日 乙酉 . 吾妻鏡 . |
晴。21日 (一昨日) の太白星 (金星) に異常な動きが見えたため祈祷が始められた。 .. . 86代 後堀河天皇 . 2月30日 壬辰 . 吾妻鏡 . |
曇。丑刻 (深夜2時頃) に鎌倉中に騒動が起き、甲冑を着け旗印を掲げた武者が御所と武蔵守 北條泰時邸の門前に競って集結した。 制止を加えたが数百騎にも及んで簡単には鎮まらず時が過ぎ、泰時は次の様に語った。 . 御所周辺での騒動は特に不穏で、世の乱れはこんな時にこそ起きやすい。慎み深くあるべきだ。
.その後に内々の命令があったらしく、左近入道 尾藤景綱と 左衛門尉 平三郎盛綱と兵衛尉 諏方盛重が郎従を率いて門外に出動し「謀反人がいる!」と叫んで由比ヶ浜の方向に駆けた。数百騎の武者もその後に続いたが、三人は稲瀬河に着いた所で彼らを待ち受けて語り掛けた。 . 謀反人など存在しない。御所近くでの騒動を鎮めるためであり、命令もないのに旗印を掲げて集まる事の是非を問うている。野心を持たないなら夜である事も考えて掲げた旗を引渡すように、との命令である。 .この言葉に従って古参の武士20余人が旗を引き渡し、それぞれがこの場所から解散した。 .. . 86代 後堀河天皇 . 3月 1日 癸巳 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。昨夜の騒動の際に旗を差し渡した武士らを御所に呼び集めて武蔵守 北條泰時が対面して語った。 . 各々が不満を言わず旗を差し出したのは神妙である。根拠のない騒動は向後は固く慎むように。 . 求めに応じて旗は返却、世間は美談だと噂した。集まった武士の姓名は記録したが騒動の原因は不明。 . . ※美談: また例によって吾妻鏡の 「泰時賛歌」 みたいな事件。次に起きる事件の予告だろうか。 . . . 86代 後堀河天皇 . 3月 2日 甲午 . 吾妻鏡 . |
晴。竹御所邸で千度御祓い (2月17日参照) を催した。将軍 藤原頼経は夜に鶴岡八幡宮に参詣された。 駿河守 北條重時が六波羅勤務になるため小侍別当を辞し、今日から陸奥五郎 北條実泰を後任とする。 . . ※六波羅勤務: 貞応三年 (1224) 6月の 義時死没により六波羅北方の 泰時が執権を継ぐため鎌倉 に戻り、六波羅には泰時の後継として期待された長男 時氏が就任した。 .. 6年後の寛喜二年 (1230) 3月28日、時氏は次期執権を受け継ぐ準備のため※に京を発って4月18日に鎌倉に入るのだが、病を得て※6月18日に死没してしまう。 . 次期執権を継ぐ準備の鎌倉入りが裏目に出たか。次男 時実は2年前に死没、三男 公義は2歳なので後継候補にならず 後に出家し、時氏の長男で6歳の藻上丸 (元服後の 経時) が泰時死没 (仁治三年 (1242) 6月15日) 後の四代執権を継承する。 ※病を得て: 近年発見された古文書 「六波羅守護次第」 では 経時は鎌倉に戻る途中の宮路山 (旧 . . 86代 後堀河天皇 . 3月 5日 丁酉 . 吾妻鏡 . |
晴。天変に対応する祈祷として御修法三檀を催した。また将軍 藤原頼経の本命星供養は助法印※、歳星 (木星) 供養は備中法橋が務めた。 . . ※助法印: 詳細は不明だが嘉禄二年 (1226) 8月3日の吾妻鏡に 「土曜供は助法印珍誉」 の記載があ る。法印は僧侶の最上位だから、その少し下位と考えるのがノーマルだが。 .. . 86代 後堀河天皇 . 3月11日 癸卯 . 吾妻鏡 . |
晴。卯刻 (6時前後) に駿河守 北條重時が六波羅北方 (上位) 就任のため上洛の途に就いた。 .. . 86代 後堀河天皇 . 3月12日 甲辰 . 吾妻鏡 . |
晴。戌刻 (20時前後) から雨、西の方向で雷鳴あり。 .. . 86代 後堀河天皇 . 3月14日 丙午 . 吾妻鏡 . | . . . 86代 後堀河天皇 . 3月15日 丁未 . 吾妻鏡 . | . . 86代 後堀河天皇 . 3月16日 丁未 . 吾妻鏡 . |
将軍 藤原頼経が御方違えのため石山局の家 (御所北の別棟) に入御。小侍控所の別棟造作工事による。 .. . 86代 後堀河天皇 . 3月17日 己酉 . 吾妻鏡 . | . . 86代 後堀河天皇 . 3月18日 庚戌 . 吾妻鏡 . |
天晴。午刻 (正午前後) に小侍※を他所に曳き移し 十間の対※を建てた。周防前司 中原親実が奉行である。. . ※小侍 (所) : 将軍に近侍し、宿直などを務め御所内の役職を 統括した機関。承久元年 (1219) から正式な組織となり別当や所司などの役職も定めている。
.※対 (屋) : 寝殿に相対し渡殿 (渡り廊下) で繋いだ別棟構造。 十間は部屋数ではなく、正面から見た柱のスパン数を示している。 . 右は寝殿造りの略図例 クリック→ 別窓で拡大表示 . . . 86代 後堀河天皇 . 3月19日 辛亥 . 吾妻鏡
晴。将軍家 藤原頼経は遊覧のため三崎の磯に出御された。山桜の花期 (少し遅い西暦5月3日) であり、領主の駿河前司三浦義村は念入りに準備して迎えた。 . 相模守 北條時房と武蔵守 北條泰時らが供奉し六浦津※から船、八幡宮の稚児が海上で管弦を演じた。連歌の会が催され、両国司 (時房と泰時) と廷尉 後藤基綱、散位源親行※、平胤行※らが優れた和歌を献じた。 . . ※六浦津: 北條義時の六男 実泰が父の遺領 六浦荘 (横浜市金沢区) を相続し、後の金沢流北條氏 の祖となった。今回の遊覧は鎌倉から朝比奈切り通しを経て六浦→ 三浦のルートを辿ったか。 .※源親行: 著名な歌人であり承久の乱以前まで政所別当に任じた光行の息子。京都に戻る父と 交代する形で鎌倉に入り、承久の乱で院方に与して斬られる筈だった父の助命を嘆願し、許された。 .以後の親行は源実朝、藤原頼経、宗尊親王の三代に仕え歴代の和歌奉行に任じた。 ※東胤行: 千葉常胤の二男で東氏の祖 東 (六郎) 胤頼の嫡子が重胤、その嫡子が中務丞胤行。 . . . 86代 後堀河天皇 . 3月22日 甲寅 . 吾妻鏡 . . 86代 後堀河天皇 . 3月28日 庚申 . 吾妻鏡 . |
晴。天変に対応する祈祷を行った。内外典※の数座である。 . . ※内外典: 内典は仏教、外典は仏教以外 (この場合は祈祷なので陰陽道) を差す。 . ※明月記: 夕刻に宰相 (左中将で参議の 姉小路実世、Wiki) が来訪し今朝密かに時氏朝臣の下向 を見送ったと語った。単葛 (葛の繊維を横糸に織った単 (ひとえ) の布) の直垂に夏 (鹿) 毛の行騰を履いて征箭 (実戦用の矢) を負い、黒作 (黒漆塗り) の太刀を佩き同じ仕様の鞍を使っていた。 .. 郎従数百騎が早暁に先発し、自身は明け方に出発した。七歳の息子 (後の 北條経時)が手戟 (片手で使う武器、Wiki) を携え小型の馬に跨り従っていたとの事。 . . 86代 後堀河天皇 . 3月29日 辛酉 . 吾妻鏡 . |
辰刻 (朝8時前後) に御所の両対 (十二ヶ間) に二ヶ間を増築した※。十四ヶ間とする事について支障の有無を陰陽師に諮問したところ、安倍親職ら三人は「寝殿以外なら問題なし」と答え、図書助安倍晴賢のみが支障ありと申し立てた。結果として二寸 (約6cm) 下げて繋げることに決定した。 . . ※増築工事: 詳細は3月18日の条を参照されたし。 . . . 86代 後堀河天皇 . 4月 1日 壬戌 . 吾妻鏡 . |
雨のため日蝕は確認できず。 .. . 86代 後堀河天皇 . 4月 9日 庚午 . 吾妻鏡 . | . . 86代 後堀河天皇 . 4月11日 壬申 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。六波羅から匠作 (北條時氏。匠作は修理職の唐名) が鎌倉に到着※。先月26日の駿河守 北條重時入洛との交代である。 . . ※日程確認: 重時の鎌倉出発は3月11日で京都到着は26日 (行程15日) 、時氏の京都出発は3月28 日で鎌倉到着は4月11日 (行程14日) 、特に気になる程の違いは見られない。 .3月2日に載せた 「 六波羅守護次第」の 「宮路山で発病」の傍証には成り得ないな。 . . 86代 後堀河天皇 . 4月13日 甲戌 . 明月記 . |
承久の時代、関東の海で漁師が網を引き上げると頭だけで体のない魚が多数入っていた。人々は驚愕したが、その後に (承久の兵乱で) 鎌倉勢が勝利して多くの公卿らが首を斬られ、東国ではこれを吉兆とした。また近頃も網を引いた際に頭がなくて体だけの魚が多数入っていた。承久の事件に懲りた人々はこの事件を恐れている。 . . . 86代 後堀河天皇 . 4月17日 戊寅 . 吾妻鏡 . |
晴。弥勒堂※で如法経※の十種供養※を催した。竹御所と武蔵守 北條泰時が参席し、導師は大学法眼行慈が務めた。 . . ※弥勒堂: 関連記事は次の二点があり、勝長寿院の弥勒堂だと思うが大慈寺の可能性も捨て切 れない。 . 文治二年 (1186) 7月11日と15日に「勝長寿院で盂蘭盆会、行慈法橋に布施」 .元久二年 (1205) 6月28日に「武蔵国久下郷を勝長寿院の弥勒堂領として寄進」 . 大慈寺にも弥勒堂はあったと思うが堂塔を推測できるできる史料が皆無、永福寺の場合は正面に釈迦堂 (二階大堂) で左の阿弥陀堂と右の薬師堂を回廊で結び、弥勒堂の記録はない。 . ※如法経: 一定の法式に従っての写経、および、その筆写した経文。多くは法華経が該当する。 . ※十種供養: 華、香、瓔珞、抹香、塗香、焼香、絵蓋、幢幡、衣服、伎楽の十種で仏を供養す ること。 .. . 86代 後堀河天皇 . 4月27日 戊子 . 明月記 . |
最近になって法師の武具所有が禁止となった。多くの悪僧が捕縛され六波羅の沙汰として関東に送られた。 . . . 86代 後堀河天皇 . 5月 5日 丙申 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 雨。子刻 (深夜0時前後) に盗人※が常の御所 (日中の居間) に忍び込み御剣や御衣などを盗み取り行方知れずになった。武蔵守 北條泰時が事件を知って駆け付け、左衛門尉 金窪行親と左衛門尉 平三郎盛綱らに命じて大番衆 (警護担当) に周辺を警備させ、人の出入りを禁止した。 . . ※盗人侵入: いい度胸か、警備が杜撰と言うべきか。実は内部の手引きによる犯行だった。 . . . 86代 後堀河天皇 . 5月 6日 丁酉 . 吾妻鏡 . |
小雨。武蔵守 北條泰時は昨夜の盗難事件に驚くと共に憤って未だに御所から退出していない。侍 (控えの間) に昨夜勤務していた者を全員集めて取り調べを行なった。その中に恪勤 (雑用に任じる下級武士) 一人と美女 (女官) 一人に疑いがあり、鶴岡八幡宮に参籠した上で起請文を提出するよう命令した。 .. . 86代 後堀河天皇 . 5月14日 乙巳 . 吾妻鏡 . |
晴。嫌疑が掛かった恪勤と美女は起請文を提出できず事件の詳細を調べた上で御所から追放となった。 美女が男を誘惑※して盗ませた事が露見した結果である。 . . ※男を誘惑: 犯罪の影に女ありじゃなくて犯罪の影に異性ありと言う方が正しいね、きっと。 「美女」 は原文通りで、なぜ「女房」などの呼称を使わないのか、理由は判らない。 . . . 86代 後堀河天皇 . 5月21日 壬子 . 吾妻鏡 . |
加賀前司遠兼※は亡父 安芸前司源仲兼から相続した遺領を管理している。地頭職としての取り分などは先例に従って徴収するよう、将軍から指示が下された。父の仲兼朝臣は、去る元久元年 (1204) 12月に当時の将軍家 実朝の室 (坊門信子※、現在の西八條禅尼) が京都から鎌倉に嫁入りした際に供奉し、翌年閏7月26日※に一ヶ村を拝領、父子二代が鎌倉御家人として奉公している。 . . ※加賀前司遠兼: 原文は「遠兼」だが実際は「兼遠」。父の仲兼は法住寺合戦で 義仲が仙堂 (院の 御所) を撃した際に防御の兵士として戦った宇多源氏の武士。 .. 閏7月26日はちょうど 北條時政夫妻が失脚した余波で 平賀朝雅が京都で追討された動乱の時期と重なり仲兼の 「一ヶ村拝領」 は吾妻鏡には載っていない。 ※坊門信子: 事件後に27歳で剃髪、京に帰り本覚尼として九条大宮に遍照心院 ( 大通寺、公式サ イト) を建立、夫の菩提を弔いつつ 82歳で没した、と伝わる。 .. . 86代 後堀河天皇 . 5月22日 癸丑 . 吾妻鏡 . |
丑刻 (深夜2時前後) に将軍家 藤原頼経が鼻血、咳が原因と思われる。
.. . 86代 後堀河天皇 . 5月24日 乙卯 . 吾妻鏡 . |
辰刻 (朝8時頃) に将軍 藤原頼経が再三の鼻血に及んだため御所に於いて七座 (七人) による泰山府君祭※を催した。左近大夫将監佐房が奉行するはずだったが支障があり、隠岐三郎左衛門尉に交代となった。
. . ※泰山府君祭: 陰陽道祭祇の一つ。中国古代の神 泰山府君が仏教の閻魔大王と習合して寿命と 富貴を支配すると共に侍者の司命神が冥府の戸籍を管理すると信じられた。 .. . . 86代 後堀河天皇 . 5月27日 戊午 . 吾妻鏡
修理亮 北條時氏が体調を崩し今日未刻 (14時前後) から悪化、武蔵守 北條泰時が数ヶ所で祈祷を行わせた。 宮内兵衛尉公氏※、周枳兵衛尉※、安藤左近将監、同次郎、雑色兵衛尉らが座を離れず看病に務めた。 . .
※宮内公氏: 建保七年 (1219) 1月27日、実朝の
右大臣昇叙
拝賀式典の出発前に実朝の髪を整え、記念として髪の一筋を与えられたのが宮内公氏。 .. 実朝の没後は下位の御家人から泰時の被官に転身したらしい。 . 甥の 公暁に斬殺された実朝の首は結局見つからず、鎌倉では公氏が受け取っていた一筋の髪を首の代りとして勝長寿院に葬っている。 . 実際には実朝の首は三浦の家臣 武常晴が波多野に持ち込んで埋葬し、定住して供養を続けていた。 . 右上は波多野 (秦野市) に残る実朝の首塚 (三十三回忌の建立と伝わる) 。 クリック→ 「実朝の首塚 詳細」(別窓)へ。波多野に運んだ理由も記述した。 首塚は 「くびづか」 ではなく 「みしるしづか」 と呼ぶのが礼儀らしい。 ※周枳兵衛尉: 弘長元年 (1261) まで数回、弓始めなどに加わった記録がある。 . 建長六年 (1254) 1月16日の御的初め (弓始め) の際には 「周枳兵衛四郎頼泰」 と表示されており、当時の執権 北條時頼の偏諱 (上位の者から名の一字を受ける事) があったのが覗える (同年1月4日の御的初めでの表示は 「諏方四郎兵衛尉」 のみで頼泰の記載はない) 。 .. 姓の周枳は京丹後市大宮町 (地図) に字の名があり、ここが出身地なのだろう。 . . 86代 後堀河天皇 . 6月 5日 乙丑 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 晴。巳刻 (10時前後) 、幕府小御所の屋根に白鷺が群れ集まっていた。 . . 86代 後堀河天皇 . 6月 6日 丙寅 . 吾妻鏡 . |
晴、未刻 (14時前後) 以後に雨。 . 今日、助教の 中原師員と弾正忠季氏の奉行として陰陽師を御所に呼び、七人が集まった。親職、泰貞、晴賢、晴幸、重宗、宣賢、晴職、国継(いずれも安倍氏)で、各々が西の廊下に着座した。 . 相模守 北條時房、武蔵守 北條泰時、隠岐入道行西(二階堂行村)、出羽前司 中条家長らが評定所に集まり、昨日の鷺について中原師員の奉行により占いが行なわれた。 . 親職と晴賢は「口論などを慎むように」との結果を示し、泰貞らは「将軍家や重要人物の病気に関して文書あるいは口頭での争いを知る事になるでしょう」と語り、それぞれが文書による結果を献じた。 . またこの怪異への対応として御所から移るべきか否かを問うたところ、全員が 「その必要なし」 と口頭で答えた。 . . ※清原季氏: 嘉禎二年 (1236) ~仁治四年 (1243) まで評定衆を勤めた。 暦仁二年 (1239) ~宝治三年 (1249) は同じ清原姓の満定(清原清定の息子)が同じ評定衆に任じているのだが、二人の関係が判らない。評定衆が設けられた嘉禄元年 (1225) から任じている斎藤 (清原) 長定は満定の兄で、長定の息子が清時なのだけれど。 .. . 86代 後堀河天皇 . 6月 7日 丁卯 . 吾妻鏡 . | . . 86代 後堀河天皇 . 6月 9日 己巳 . 吾妻鏡 . |
雷雨。酉の四点 (17時半過ぎ) に御所の車宿 (牛車の車庫) の東母屋に落雷、柱と破風が破損し 後藤基綱の下働き (牛飼い?) が一人雷を受けて悶絶。北の土門 (屋根のない門) から運び出したが戌刻 (20時前後) に死んだ。 . . ※明月記: 巳時 (10時前後) に宰相 (左中将で参議の 姉小路実世、Wiki ) が来訪、駿河の事 (6/7の 情報) は虚言で武蔵 (北條時氏) は既に獲鱗※の状態だが絶命には至っていない、と。 .※獲鱗: 孔子の著と伝わる史書 「春秋」 に載った最後の言葉。夢で気味の悪い生き物を見た孔子 が聖獣の麒麟だと気付き、聖獣=気味が悪いと騒ぐ人々の姿に絶望して 「西に狩して麒麟を獲たり 」 を最後の言葉とした。 .これが転じて最期、臨終の意味に使われるようになった、らしい。 . . 86代 後堀河天皇 . 6月10日 庚午 . 吾妻鏡 . | . . 86代 後堀河天皇 . 6月11日 辛未 . 吾妻鏡 . | . . 86代 後堀河天皇 . 6月14日 甲戌 . 吾妻鏡 . |
激しい風雨。相模守 北條時房と武蔵守 北條泰時が御所に入り西の廊下に着座、助教の 中原師員、隠岐入道行西 (二階堂行村) 、駿河前司 三浦義村、民部大夫入道行然 (二階堂行盛) 、加賀守 町野康俊、弾正清原季氏らがその近くに控えた。去る 9日の落雷に対応して将軍家 藤原頼経が御所から退避すべきか否か、また占いの吉凶を確認してから対応すべきか否か、などを評議したが意見は様々だった。 . 清原季氏は「前例に拠る判断はできず、このような場合は占いの吉凶に従うべきです。醍醐天皇の延長八年 (930) 6月26日に清涼殿坤方 (西南西) の柱に落雷※した際には大納言清実卿と右中弁希世朝臣が雷に打たれて死ぬ異常事態でしたが遷幸せず、常寧殿に入御されました。」と語った。 . 二階堂行村は「延長の事例は不吉であります。醍醐天皇は同年8月23日に退位し9月29日に崩御されました。常寧殿への入御は遷幸に準じる行動と考えるべきか。」と語った。 .
中原師員は「故右大将家 頼朝の奥州征伐の際に軍陣に落雷※し、承久の兵乱では右京兆 (北條義時) の釜殿 (浴室) に落雷※がありましたが共に良い結果でした。落雷は怪異ではなく吉事です。」と語った。 右は奥州征伐の際に頼朝が本陣を置いた跡の水雲神社。画像をクリック→ 阿津賀志山の合戦 (別窓) へ。 . 三浦義村、二階堂行盛、町野康俊は 「先例は判断の基準とならず、現状を判断して御所を去るか否かを占えば良い。」と語った。 . 中原師員が陰陽師七人 (去る 6日に鷺について占ったメンバー) を呼び、簾中に座した将軍家および列座した時房、泰時、義村、行西らの前に参集させ、将軍の言葉を次のように伝えた。 . 去る 9日の落雷は忌むべきの事だが関東の先例では吉事とも言える。しかし御所を遷幸すべきと考える者もいるため、どう対処すべきかを各々が占って判断してもらいたい。 .泰貞朝臣は「大内裏に限らず落雷は日常起きる事件であり、占いにより安易に御所を去る先例は知りません。それでも占いで決めるとの考えでしょうか。」 . 晴賢は「先祖の晴道は雷が落ちた場所に住むべからずと解釈し、古い経典にも良くないと記されています。退去すべきでしょう。」と語り、師員がその経典を確認した。国継はこれに賛成した。 . 親職と晴幸は「鷺と雷雨、重なった怪異を避けて退去すべきです。」と主張した。 重宗は 「京都では落雷の場所から立ち去る事はない、御所に限っての退去は不要でしょう。」と語った。 . 中原師員は「将軍家の御先祖である後京極殿(九条良経※)は大炊殿に出仕した際の落雷にも退去しなかったのは御存知の通り。後京極殿の子孫として現在の繁栄があるのだから吉例と考えるべきです。」と語った。 . 晴賢はこれに答えて「御子孫の繁栄はその通りですが大炊殿は間もなく焼け落ち今は跡地も荒廃しています。70歳や80歳まで生きる人もいる中で38歳での死去は悪い例でしょう。」と語り義村も同意した。 . 泰貞は再び「それらが吉事であるのなら御所の退去は不要になります。」と語った。将軍家から是非を占うべきとの指示があり、泰貞と重宗は「(落雷のあった)9日酉刻以後は特に何も起きていませんから特に支障はありません。」と答えて占った結果、親職と晴賢と晴職は「良くない」、晴親と国継は「半吉である」と答え、陰陽師は退出した。 . その後に評議があり 時房、泰時、師員が御前に進んで「落雷事件による遷幸は不要」との結論を報告した。将軍家は「先日の鷺の件により立ち退くことにしよう」と答えた。 泰時は再び廊下に出て陰陽師等を呼び、元の席で占いを行わせた。全員が「遷幸すべし」との結果を報告、泰時邸に入御するとの結論で解散した。 . . ※清涼殿に落雷: 安貞二年 (1228) 6月25日の吾妻鏡に 北野天神縁起絵巻(別窓)を引用してある。 . ※軍陣に落雷: 文治五年 (1189) 8月7日の吾妻鏡に載っている。場所などに関する詳細は右上 画像をクリックして 阿津賀志山の防塁 (別窓) で。 .※釜殿に落雷: 承久三年 (1221) 6月8日の吾妻鏡。義時は酷く恐れ大江広元を招いて相談した。 . ※九条良経: 九条兼実の次男で従一位、摂政太政大臣。元久三年 (1206) に38歳で急死した。 . . . 86代 後堀河天皇 . 6月16日 丙子 . 吾妻鏡 . |
晴。美濃国の飛脚が鎌倉に入って報告、去る9日の辰刻 (朝8時前後) に当国蒔田庄※に雪が降った。 . 武蔵守 北條泰時はこの現象を特に恐れ、徳政に努める旨の決意を新たにした。美濃と武蔵※は10余日の距離に隔てているのに同じ日の同じ時刻にこの怪異が起きるのは驚くべき事件である、と。 . 6月の多雨は豊年の予兆だが、寒さが例年より長く続いて穀物が実らず、天候の不順が飢饉※を招いている。関東では懸命に善政を尽くして悪行を禁止し我が身を顧みず努力しているのに、近年の天候不順は陰陽師らの卜占の不一致まで引き起こす異様な状態である。 . そもそも6月に降雪の例など実に稀有で、孝元天皇39年 (紀元前176年) 6月の雪から26代が過ぎて推古天皇 (33代) の34年 (626年) 6月の大雪、更に26代を経て醍醐天皇 (60代) の延長八年 (930年) 6月8日に大雪、いずれも不吉である。今また26代 (但し九條帝を加え) を経た (86代後堀河天皇) 今月9日に雪とは、上古でさえ異様なのに現代では有り得ない怪異である。 . . ※蒔田庄: 現在の岐阜県南西部、大垣市上石津町牧田 (地図) の一帯と推定。 . ※武蔵国で: 9日の記事を参照。辰刻 (8時前後) に当国の金子郷に雪混じりの雨と共に雷と雹が あった。 .※飢饉: 寛喜二年から寛喜三年にかけて続いた天候の不順は、鎌倉時代を通じて最大の 「寛喜の 大飢饉」 を招く。天候不順は1228年には発生しており、食糧難による餓死は1233年頃まで続いたらしい。貞永元年 (1232) 8月に泰時が御成敗式目 (貞永式目) を制定した背景には飢饉による深刻な社会不安を鎮めたいという願いが含まれていた。 .※九条帝: 85代の仲恭天皇を差す (順徳の次、後堀河の前) 。父の順徳天皇が 後鳥羽上皇の挙兵 (承久の乱) に加わるため 21歳で譲位したため 4歳で践祚したのだが、宮方は間もなく敗北し仲恭天皇は即位78日で廃帝となった。 .即位式も大嘗祭もないため諡号追号がされず 九条廃帝、承久の廃帝などと呼ばれ、明治維新になって仲恭の諡号を贈られている。 . . 86代 後堀河天皇 . 6月18日 戊寅 . 吾妻鏡 . |
晴。戌刻 (20時前後) 、修理亮平朝臣 北條時氏が死去 (28歳) 。去る4月に京都から下向して間もなく病床に伏し祈祷も医療も効果が見られなかった。去る嘉禄三年 (1227) 6月18日には次男 (時氏の異母弟 時実※、15歳) が死去している。四年後の同じ日に再び訪れた不幸で、男子二人の早世による泰時の悲しみは深い。 . 寅刻 (早朝4時前後) に大慈寺近くの山麓に埋葬、葬礼は陰陽大允晴憲の門生 刑部房の差配となる。 . . ※弟 時実の死没: 家人の高橋次郎による殺害事件で、原因の一端は時実側にあったらしい。 . . . 86代 後堀河天皇 . 6月22日 壬午 . 吾妻鏡 . | . . . 86代 後堀河天皇 . 6月23日 癸未 . 史 料 . | . . 86代 後堀河天皇 . 6月24日 甲申 . 史料 . | . . 86代 後堀河天皇 . 6月28日 戊子 . 吾妻鏡 . | . . . 86代 後堀河天皇 . 7月11日 庚子 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 二位家 政子の祥月命日。勝長寿院の南小御堂で恒例の法会あり 。竹御所も御聴聞のため渡御された。 . . 86代 後堀河天皇 . 7月15日 甲辰 . 吾妻鏡 . |
小雨。酉刻 (朝8時前後) に駿河次郎 三浦泰村の妻室 (泰時の娘) が女子を平産した。祈祷は丹後律師頼暁 (八幡宮供僧、大僧都) 、医師は 丹波良基朝臣、陰陽師は新大夫泰宗。各々に絹布二領の褒賞あり。 .. . 86代 後堀河天皇 . 7月16日 乙巳 . 吾妻鏡 . |
霜が降りた。まるで冬空※の状態である。 . . ※まるで冬空: 7月16日は西暦の8月25日、いよいよ本格的な「寛喜の大飢饉」の襲来だ。 宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が見付かったのは昭和八年 (1933) に37歳で没した一年後、生前に愛用していた手帳にメモとして書かれていた。 .. 賢治が 9歳だった明治三十八年 (1905) の東北は冷夏による大凶作で米の収穫は平年に比べてゼロ~良くて三割、餓死や娘の身売りが普通だった。東北の太平洋岸で春から夏に吹く冷たくて湿気の高い東風を「やませ」と呼ぶ。 . 東北旅行に立ち寄った道の駅く じ (やませ風土館) も参考に。少年期の悲惨な記憶と貧農の苦悩から生まれた言葉が「寒さの夏はおろおろ歩き...」 だった。 . . 86代 後堀河天皇 . 7月26日 乙卯 . 吾妻鏡 . | . . . 86代 後堀河天皇 . 8月 4日 癸亥 . 吾妻鏡 . | . . 86代 後堀河天皇 . 8月 6日 乙丑 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 朝が曇、午刻 (昼前後) に激しい雨。夜になって洪水が起き、川沿いの民家が流失して多数の溺死があった。古老は「こんな例は聞いたこともない」と嘆いている。 . . 86代 後堀河天皇 . 8月 8日 丁卯 . 吾妻鏡 . |
申刻 (16時前後) に豪雨と強風があり夜半まで続いた。草木は枯れて冬の如く、穀類も実らない。 .. . 86代 後堀河天皇 . 8月12日 辛未 . 史 料 . |
※明月記: 晴。有長朝臣から連絡、武蔵守泰時の息女 (時房子息の妻
※) が難産のため去る 4日に死去した。また今暁、園城寺の南院が中院と北院の衆徒により焼き払われた。天下の大事である。 .. ※「時房子息の妻」ではなく「駿河次郎三浦泰村の妻」。 遠距離からの伝聞情報だからやむを得ないけど。 ※皇帝紀抄: 園城寺 中北両院の衆徒が南院を焼いた。以前から寺域 を巡り勢力を競う紛争があり、南院側の対応が頑固だったのが原因らしい。夜になって南院の衆徒が中北両院※を焼き、朝廷が武士を派遣して鎮圧に当たった。 .※南、北、中院: 三井寺 (園城寺) は寺域が広く、観音堂一帯が中心の 南院と金堂を中心にした中院、新羅善神堂と法明院を中心にした北院が勢力を競っていた。宗教者が、狂気の沙汰だ。
.. 右は園城寺周辺の地図。クリック→ 別窓で拡大表示 . . 86代 後堀河天皇 . 8月13日 壬申 . 明月記 . |
朝から雨。園城寺の紛争は未だに落着していない。北院と中院の衆徒が南院を焼いた後に、南院の衆徒が再び中院と北院を焼いた。火災の間に殺し合ったが武士が駆け付けたため悪徒は退散し、南院の僧が少し残った。火災は堂塔まで及ばずに互の僧房のみを焼いて鎮火し、武士が残留して警備に当たった。 . . ※ 延暦寺と圓城寺の放火合戦なら少し理解するが、園城寺内部で争う姿はコメントする気も起 きない。梶原、比企、畠山、和田を滅ぼし更に三浦を滅ぼす北條氏が、次は同族で争ったのも愚劣の極みだが。
.. . 86代 後堀河天皇 . 8月15日 甲戌 . 吾妻鏡 . | . . 86代 後堀河天皇 . 8月21日 庚辰 . 吾妻鏡 . |
曇。六波羅の飛脚が到着して報告。、去る12日の卯刻 (朝6時前後) に園城寺の中院と南院の衆徒が僧房の争い※を起こし、北院の房舎を焼いてしまった。同日の戌刻 (20時前後) には北院の衆徒多数が中院と南院を焼き、一日で三ヶ所の房舎が灰燼に帰した。学僧は分散して逃れ高僧は山林に隠れた。 朝廷の法要などには僧の出席ができず、天皇家にとっては重大な支障である。 . . ※園城寺の争い: 8月12日と13日の記事を参照されたし。 . . . 86代 後堀河天皇 . 8月28日 丁亥 . 吾妻鏡 . |
雨。辰刻 (朝8時前後) に大夫判官 佐々木四郎信綱が使節として上洛の途に就いた。三井寺衆徒が起こした紛争を調べて処理する為である。 .. . 86代 後堀河天皇 . 9月 8日 丙申 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 申一刻 (15時) から寅四点(4時半)まで特に激しい強風。御所の中も多くの人家も破損し倒壊した。 . . ※皇帝紀抄: 強い風雨で伊勢神宮の堂舎も被害を受けた。 (西暦の10月15日、少し遅い台風か。) . . . 86代 後堀河天皇 . 9月18日 丙午 . 吾妻鏡 . | . . . 86代 後堀河天皇 . 9月27日 乙酉 . 吾妻鏡 . |
去る4日から続いている天変に対応して今日五壇法※を催行した。 . . ※五壇法: 五大明王 (不動、降三世、大威徳、軍荼利、金剛夜叉)を個別に安置し国家安穏を祈る 密教の修法。 .. . 86代 後堀河天皇 . 10月 6日 甲子 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。右丞相 故将軍 実朝十三回忌に際して建立する追善の三重塔※の定礎を行なった。 戌刻 (20時前後) 、民部大夫入道行然 (二階堂行光) の沙汰で安倍親職朝臣が土公神 (Wiki) を祀り、右近大夫将監 大江佐房が将軍の代参に任じた。 . . ※三重塔: 11月11日に「勝長寿院内に新造する三重塔を上棟」との記載がある。 . . . 86代 後堀河天皇 . 10月16日 甲戌 . 吾妻鏡 明月記 . |
晴。今日、武蔵守 北條泰時所願の北條御堂※が上棟の式典を催した。左近入道 道然 尾藤景綱と齋藤兵衛入道 浄円 (藤原長定)※が奉行に任じた。 . .
※北條御堂: 嘉禄元年 (1225) に執権に着任した泰時が一族の
菩提寺として建立した葛西ヶ谷最奥の東勝寺が北條御堂に該当する。 .. 開山和尚は泰時が嘉禎三年 (1237) に開創した 常楽寺 (別窓) と同じ 退耕行勇だが、常楽寺は泰時の妻が母の追善に開いた密教の仏堂を臨済宗に改めたもの。 . 更に言えば、その仏堂を開いた泰時の妻が 初婚の 矢部禅尼を差すのか、継室の 安保実光の七男 実員の娘を差すのか、側室の 土肥遠平の娘を差すのか、判らない。強いて言えば矢部禅にか、と思うレベルだ。 . また吾妻鏡には「東勝寺」の文字が載っていないため創建は13世紀初頭~中期と推定するのみ。北條時政が開いた韮山の 願成就院 (別窓) が北條御堂に該当する可能性もあるが、ここは二代執権 義時の時代に全ての堂塔が完成していたから除外できる。 右上は元弘三年(1333)6月に一族が自刃した葛西ヶ谷の東勝廃寺跡 画像をクリック→ 東勝寺跡に関する少々の情報(別窓)へ。 ※藤原長定: 実朝の近臣で京下りの官人。和田合戦の建保元年 (1213) 5月3日に下の記載あり。 . 丁度鎌倉に祇候していた出雲守定長は武門の人物ではなかったが、防戦に力を尽くした。刑部卿難波 (藤原) 頼経朝臣の孫、左衛門佐経長の息子である。 .※明月記: 全国の飢饉が深刻で、関東の将軍以下も常膳 (普段の食事) を減らしているとの噂で ある。 . . . 86代 後堀河天皇 . 10月20日 戊寅 . 明月記 . |
晴、風は静まった。下位の山法師 (比叡山衆徒) 4人が通行人の剣を奪い、叫び声を聞いた雑人 (下級武士) が駆け付けて2人を射殺し2人を捕縛して河東 (六波羅) に連行した。
悪徒や謀反人の横行※は実に危険である。 . ※悪徒の横行: 飢饉が広がって世情に乱れが広がり始めている。 . . . 86代 後堀河天皇 . 10月24日 壬午 . 吾妻鏡 . |
昨夜の丑刻 (2時前後) から今日の子刻 (深夜0時前後) まで激しい雨が続いた。午刻 (正午前後) に武蔵守 北條泰時の娘 (三浦泰村の室) の墳墓堂で供養を催した。百ヶ日の回向である。 . . ※墳墓堂: 「常楽寺 裏山の「姫宮」を差す」 との伝承あり (16日の「常楽寺」も参照) 。泰時の室が 生母の後生を弔って密教の仏堂を建てたのが原型で、泰時が常楽寺に改めたのは七年後の嘉禎三年(1237) だから、この伝承は有り得ない。. .泰時が自分の墓所を常楽寺と定めた事から派生したフィクションだろう。「姫宮」 は大姫の墓だとか、横の墳丘が清水義高の墓だとか、常楽寺には様々な純愛物語が間違った形で語り継がれている。 . . 86代 後堀河天皇 . 10月28日 丙戌 . 明月記 . |
晴。奥州の馬50疋が都に届き、用途別に検分した。 .. . 86代 後堀河天皇 . 10月29日 丁亥 . 百錬抄 . |
昨夜より客星 (一時的に現れる彗星や新星) が確認された。養和元年 (1181) 以来の事件である。 .. . 86代 後堀河天皇 . 11月 1日 戊子 . 明月記 . |
晴と曇。28日、西の空に客星が現れた。甚だ不吉である。 .. . 86代 後堀河天皇 . 11月 1日 戊子 . 皇帝紀抄 . |
先月27日の夜、盗人が東大寺の勅封倉 (正倉院を差す) の扉を焼いて開き、累代の宝物を盗み出した。 (皇帝紀抄は鎌倉時代中期の歴史書、著者は不明) . . . 86代 後堀河天皇 . 11月 6日 癸巳 . 吾妻鏡 . |
雨。西国で発生した夜討、強盗、殺害の犯人などを庇護する与党があれば守護所から出頭を二回通告し従わない場合は人数を送って捕縛せよとの指示を六波羅に命令した。
.. . 86代 後堀河天皇 . 11月 7日 甲午 . 吾妻鏡 . |
晴。西国の庄 (荘園) や公 (公領、国衙領) の地頭が領家 (上位の所有者) の訴訟を受けて敗訴した場合、二回対応を命じても従わない場合は書面で報告させるよう六波羅に命じた。
.. 申刻 (16時前後) に鶴岡八幡宮の回廊中門の西側に死体があった。8月に行なうべき放生会を延期して今日の開催にしたにも拘わらずこの様な穢れが発生したため将軍家 藤原頼経の仰せに従い、放生会を再び延期するか否かを七人の陰陽師に占わせた。「延期が吉」がその結果である。 . . 86代 後堀河天皇 . 11月 8日 乙未 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。大進僧都観基※が御所に参上、「先月16日の夜半、陸奥国芝田郡※で石が雨の如く降る事件が起きました」と語り、その石を一つ将軍家に呈上した。大きさは柚子ほどで細長く廉 (角) があり、降った範囲は 20余里※ に及ぶ旨を報告した。 . . ※大進僧都観基: 祈祷に任じる修験者として再三の登場あり。貞応元年 (1222) 12月12日に義時 室の出産、貞応二年 (1223) 10月16日に天変に対応した祈祷、嘉禄三年 (1227) 11月15日に天変地異と赤斑瘡に対応した祈祷、など。天台宗か真言密教の修法専任らしい。 .※芝田郡: 現在の宮城県柴田町一帯 (地図) 。すぐ東側の亘理町は亘理郡衙のあった場所で奥州 藤原氏の祖 藤原清衡の父 亘理 (藤原) 経清の本拠だった。そうそう、伊達騒動を描いた「樅の木は残った」の主人公 原田甲斐が本拠を置いた船岡もこのエリアだね。 .※20余里: 律令制の一里は4kmではなく約 454m、従って約 9km。 . . . 86代 後堀河天皇 . 11月11日 戊戌 . 吾妻鏡 . |
晴。勝長寿院内に新造する三重塔を上棟。武蔵守 北條泰時も立ち会い 併せて変異 (石の件) の祈祷も催した。また今日巖殿 (岩殿) 観音堂※に礎石を置き縄張りを行なった。勧進上人 (寄進を集める僧侶) は西願である。 . ※岩殿観音堂: 倒壊した観音堂の再建工事らしい。 坂東札所の公式サイトも参考に。 . . . 86代 後堀河天皇 . 11月13日 庚子 . 吾妻鏡 . |
晴。将軍家 藤原頼経は特に祈願の事があり、今日 霊所御祓い※を実施する。 . 由比ヶ浜は泰貞、金洗澤 (七里ヶ浜、地図)は晴茂、多古恵河 (田越川、地図)は国継、 森戸 (時々出る杜戸、地図) は親貞、抽河 (いたち川、鼬川、地図)は大夫、 六浦 (横浜市金沢区、地図) は忠弘、堅瀬河 (境川、地図)は晴貞。 新民部少輔親実※ が奉行を務める。 . . ※霊所御祓い: 七瀬の禊または七瀬祓い。平安時代からあった陰陽道の修法で水を司る七ヶ所 の霊所で行なう。堅瀬河ではなく江ノ島龍穴を含めるのが通例だと思うが... .※民部少輔親実: 明経道の中原忠順の子で評定衆 中原師員の叔父。将軍藤原頼経に仕え儀礼や 祭祀などの奉行を務めた。文暦二年 (1235) 年に厳島社造営を担当して周防守護から安芸守護に転任し、厳島神社の神主に任じた。 .寛元二年 (1244) には上洛して六波羅評定衆に転任する。 . . 86代 後堀河天皇 . 11月18日 乙巳 . 吾妻鏡 . |
朝は晴、午刻 (正午前後) から突然風雨、申刻 (16時前後) に雷鳴。夜になって暴風雨に雷が加わった。 .冬至の雷は特に異変であり、慎みが必要である。 . . 86代 後堀河天皇 . 11月20日 丁未 . 百錬抄 . |
朝廷では非常赦※が発布された。客星 (普段は見えず、一時的に現れる彗星や新星) への祈祷である。 . . ※非常赦: 恩赦などでは赦免できない罪も特別に赦免の対象にする例。平安中期から頻繁に行わ れた。安倍の顔色を忖度した内閣法制局長官 (悪党顔したクズ) も憲法解釈を都合よく変えたっけね。 .. . 86代 後堀河天皇 . 11月22日 己酉 . 吾妻鏡 . |
頻発する天変に対応して祈祷。大属星供は助法印珍誉 (3月5日を参照)、東方清流の担当は法印良算。 .. . 86代 後堀河天皇 . 11月28日 乙卯 . 吾妻鏡 . |
晴。未刻(14時前後)に勝長寿院の塔婆※に 九輪 (Wiki) を挙げた。 . . ※塔婆: 10月16日に「右丞相 (故将軍実朝) 十三回忌に際して建立する追善の三重塔の定礎」の 記事が載っている。 . . . 86代 後堀河天皇 寛喜二年 . 12月 4日 辛酉 . 皇帝紀抄 . . |
興福寺の衆徒が東大寺勅封倉 (正倉院) の盗人 (11月1日の事件) を捕らえた。盗んだ御鏡八面は全て破損していた。(皇帝紀抄は鎌倉時代中期の歴史書、著者は不明) .. . 86代 後堀河天皇 . 12月 5日 壬戌 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。客星※が出現したと安倍親職が報告した。 . . ※客星: 彗星または新星を差す。彗星だと思うが、この時点では確定できない。 . . . 86代 後堀河天皇 . 12月 6日 癸亥 . 百錬抄 . |
左少弁の時兼朝臣が東大寺勅封倉 (正倉院) ※を開くため南都に下向した。先月の盗難による収蔵物の被害を確認するのが目的である。 . . ※正倉院: 元は東大寺の倉庫。明治八年 (1875) に内務省へ、明治十七年 (1884) に宮内省へ、 現在は宮内庁の正倉院事務所の管理下にある。 .. . 86代 後堀河天皇 . 12月 7日 甲子 . 吾妻鏡 . |
周防前司 中原親実が天文司に奉書※を呈し、客星の出現か否かの報告を求めた。 . . ※奉書: 主人 (この場合は将軍) の意を受けて従者 (この場合は中原親実) が下達する文書。 . . . 86代 後堀河天皇 . 12月 9日 丙寅 . 吾妻鏡 . |
雨のち雪。 将軍家 藤原頼経、13歳) の婚姻について (泰時から) 非公式の沙汰が下された。 .
助教 中原師員の奉行として安倍親職と晴賢を呼び吉日の選定を指示、二人とも今日か明日が良いと答申したが、清原季氏が異議を呈した。. 明日は天狗下食※なので好ましくありません。 . 藤原頼経が師員を介して親職らに再び尋ねた。 . 両日とも良いのは何故か、また明日には難ありと言う者もいるが。 . 親職らは次のように答えた。 . 共に吉日ですが今日の方が優れており、天狗下食には全く問題あり ません。むしろ吉と考えるべきでしょう。 . これ以上の検討は不要とされ今日との決裁が下った。この勘文を政所に送付し行然 二階堂行盛の奉行として然るべき準備を整えるよう命じた。 また泰貞に命じて吉となる時間を報告させた。 . 亥刻 (22時前後) に 竹御所 (28歳) が御所に入御し婚姻の儀となった。急に決めた内輪の婚礼なので晴れがましい儀式はなく御輿を用いて小町大路を経て南門から入御された。 右上は婚姻の経路地図。 クリック→ 別窓で拡大表示 . 雑色二人が松明を掲げて進み、供として 北條朝時 (4月9日に妻が没したため遠慮) 、式部大夫 北條政村、大炊助 北條有時、周防前司 中原親実、左近大夫将監 大江佐房、上野介 結城朝光 (それぞれ狩衣で騎馬) 、隠岐三郎左衛門尉 二階堂行義、同四郎左衛門尉 行久、佐原十郎左衛門太郎 三浦 (佐原) 義連の四男十郎泰連か) 、佐々木八郎信朝 (それぞれ白の直垂で徒歩) が従った。 . 武蔵守 北條泰時 (白襖の狩衣) と相模守 北條時房 (香の狩衣) は御所の御輿寄せで待機した。 . . ※天狗下食: 天狗星 (音を発したり燃えたりする巨大な流星) の精が下界で食を求める凶の日。 . . . 86代 後堀河天皇 . 12月10日 丁卯 . 吾妻鏡 . |
申刻(16時前後)に雷鳴あり。 .. . 86代 後堀河天皇 . 12月11日 戊辰 . 吾妻鏡 . |
今暁に客星※が再び現れた。京都では先月28日に現れ、天文博士惟範朝臣が最も早く奏聞したという。 . . ※客星: 藤原定家が安倍泰俊 (晴明の六代子孫) に同様の事例を調べさせ、以下の記録を得た。 「寛弘三年 (1006) 4月2日の夜から火星のような大客星が現れたとの記録あり。」
.. 現在では「超新星残骸 SN1006」として天文ファンには知られた存在らしい。 ちなみに、有名なハレー彗星は約76年周期、次の接近は2061年7月。40年後ってどんな時代になってるだろうね。鎌倉時代には貞応元年 (1222) 8月2日 (吾妻鏡に記載あり) と正安三年 (1301) 10月 (鎌倉年代記に記載あり) に出現している。 . . 86代 後堀河天皇 . 12月15日 壬申 . 吾妻鏡 . |
鶴岡八幡宮で放生会を開催した。 .. . 86代 後堀河天皇 . 12月16日 癸酉 . 吾妻鏡 . |
昨日に続いて放生会、弓射の奉納である。流鏑馬が十番催され、二騎が的を外した。 . . ※明月記: 伝聞、大夫尉 大内惟信 (大内惟義の嫡男で承久合戦の後に逃亡) が法師姿で日吉八王 子社※の僧房に隠れ住んでいたのを六波羅の武士が知って差し出すよう座主に申し入れ、一昨日に門徒の悪僧が捕縛した。 .武士は粟田塔※前に出向き、夕刻に身柄を受け取った。戦場から逃亡して10年も逃げ隠れたのは稀有である。 腕力の強い人物だが、捕縛の際には抜刀しなかったと言う。 ※八王子社: 日吉大社 (公式サイト) の奥宮がある裏山が八王子山。粟田塔※の詳細は不明。 大内惟信は牛尾神社辺り (地図) の僧房に隠れていたのだろう、と思う。 .※粟田塔: 大津坂本で栗田と言えば石工集団 穴太衆 (Wiki) の流れを汲む石垣のエキスパート 栗田建設だが、それ以上の接点は不明。織田信長が比叡山を焼き払った時に石垣の頑丈さに感嘆して安土築城に協力させたと伝わるのが穴太衆 (あのうしゅう) だ。 .. . 86代 後堀河天皇 . 12月22日 己卯 . 吾妻鏡 . |
※明月記: 晴。惟信法師が捕縛された結果、事情を承知の上で匿っていた三人が召し取られた。
ここには延暦寺の律師、仁和寺の僧一人、掃部助 北條時盛の近習で江中務と称する男 (元は惟義の郎等) 一人が含まれている。またこの事を密告した法師も同様に捕縛されたという。今朝、関東への飛脚を派遣した。 .. . 86代 後堀河天皇 . 12月25日 壬午 . 吾妻鏡 . |
晴。勝長寿院に新造した三重塔の落慶供養が催された。巳刻 (10時前後) に狩衣姿の将軍家 藤原頼経が御台所 竹御所と同じ車で出御。 .相模守 北條時房 と武蔵守 北條泰時、他に数人が各々狩衣と騎馬で供奉した。 . 午の一点 (11時半) に故右大臣家 実朝の十三回忌追善供養が 二階堂行村の差配で執り行われた。正命日は1月27日だが、指示に従って日程を早めた。 . 導師は当院の別当卿法印良信、願文は文章博士 菅原公良朝の草案である。酉の一刻 (17時半) に御仏事が終わって将軍家が還御、夜に入り将軍家と御台所は御方違えのため竹御所邸に入御された。
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. . . 8月05日 . 晴耕雨読 . |
冷やした大玉スイカの第二号を食べた! 08/05 16時半 右下をクリック→ 別窓で拡大表示 .
一号は刃を容れた途端に下まで割れてしまったので、今回は慎重に両側から抑えつつ切断。やはり途中まで割れが入ったが、概ね正常に二分割できた。経験は進歩を招く、だ。. さて肝心の食味だが...去年に比べて甘みが少し薄いと感じた。妻の意見も同じだから多分間違いない、と思う。 . 苗を購入したのは去年とは異なるホームセンターだから、違う品種だった可能性はあるし、天候に左右された可能性もある。しかし、ちょっとダメージが大きいなぁ。 . 来年の為にもう少し調べてみよう。育成の手順は去年と全く同じだからね。取りあえずは食べられるだけ食べてから考える。 . 園芸日誌を少し整理して 2025年10月の情報を載せた。左目次の 晴耕雨読 園芸日誌 でどうぞ。 . . . 86代 後堀河天皇 . 月 日 . 吾妻鏡 . |
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