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寛喜三年 (1231年)
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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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1月 1日 戊子
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吾妻鏡
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相模守 北條時房の沙汰により椀飯あり。剣の献上は駿河前司 三浦義村
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   ※椀飯 (おうばん) : 饗応の献立、食事を摂る儀式や行事も意味する。大判振る舞い の語源。
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   ※年令: 四代将軍 藤原頼経 (幼名 三寅) 、間もなく 満 14歳、
竹御所 (故 2代将軍 頼家の娘、29歳、前年12月に将軍 頼経と婚姻、
貞暁 (前年3月病没、享年46才) 、 坊門信子 (故 実朝の寡婦、出家) 44歳 、
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北條泰時 47歳、 北條時房 57歳、 北條朝時 38歳、 北條重時 33歳、 北條政村 26歳、
北條実泰 23歳、 三浦義村 62歳、 三浦泰村 47歳、 千葉時胤 12歳 、
安達景盛 48~56歳、 安達義景 20歳、 足利義氏41歳、 宇都宮頼綱 51歳、
二階堂行村 73歳、 二階堂行盛 49歳、
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後堀河天皇 18歳、 西園寺公経 58歳、 九条道家 37歳、 藤原定家 66歳、
退耕行勇 66歳、 親鸞 56歳、 叡尊 30歳、忍性 13歳、 日蓮 9歳、
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   三浦義村は仁安三年 (1168) 誕生 (史料に拠り 元暦元年 (1184) に満16歳だった と設定)。
   安達景盛は寿永元年 (1182) 誕生 と (異父兄 島津忠久との年齢差≒ 5) 考えて年齢を推定。
     (全て1月1日基点の満年令、下線付きはWiki)
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   安貞二年 (1228) 12月に関白が 近衛家実 (Wiki) から鎌倉将軍 藤原頼経の父 九条道家に交替。
近衛家実 (通称を猪熊関白) は鎌倉幕府と協調して後鳥羽院政を否定し 「成功 (売官制度) 」 なども取り入れたが、将軍頼経+三浦一族+西園寺公経と組んで幕府への圧力を強めようと諮った九条道家との権力争いに敗れて政治力を失ってしまう。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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1月 6日 癸巳
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吾妻鏡
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強風。二所詣の御奉幣日程について協議した。中原師員 中原親実がこれを担当した。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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1月 8日 乙未
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吾妻鏡
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御所で心経会 (般若心経を読む法要) が催され、将軍家 藤原頼経が臨席された。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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1月 9日 丙申
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吾妻鏡
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晴。将軍家 藤原頼経が鶴岡八幡宮に参宮。二條侍従教定が御車を寄せ、狩衣の式部大夫 北條政村が剣持ちを務め、武蔵守 北條泰時が狩衣で供奉した。従った近衛府判官は 後藤基綱 伊東祐時
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将軍家は還御の後に相模守 北條時房に入御した。この外出初めと弓初めは7日に予定していたが、甲午である事に加えて承久元年 (1219) 正月27日 (甲午の日) に右大臣家 実朝が八幡宮での御事 (公暁による殺害) があった事から避けるべきとの意見があり、延期されていた。
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   ※北條時房邸: 御所から若宮大路を隔てた西側にあった。詳細は嘉禄二年 (1226) 6月7日で。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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1月10日 丁酉
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吾妻鏡
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晴。将軍家 藤原頼経が御方違えとして 竹御所邸に入御された。去年の立春に御方違えを行ってから45日に相当するためである。
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   ※立春の方違え: 寛喜二年 (1230) 閏1月29日にも同じ行動をしているのは通例なのか?
竹御所邸は現在の 妙本寺 (別窓) の敷地奥 (地図) にあった、と伝わっている。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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1月11日 戊戌
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吾妻鏡
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御弓始めあり。 (一五度)
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   ※一五度: 「一射づつ五人」の意味か。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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1月14日 辛丑
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吾妻鏡
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亥刻 (22時前後) に大倉観音堂 (杉本寺) 西側の下山入道宅で失火し、唐橋中将邸と故左京兆 北條義時 の旧宅および二階堂大路の両川にある民家まで延焼した。
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   ※唐橋中将: 村上源氏の源通清だろうと思うが、確たる根拠
が確認できない。一緒に載っている下山入道の詳細も不明。
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右は今回の記事を表示した地図。クリック→ 別窓で拡大表示
義時旧邸の調査記録はないが 200m以上の誤差はない筈だ。

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八幡宮周辺と外界を結ぶ道は北鎌倉方面と稲村ヶ崎方面がメインで、二階堂大路は使い勝手が悪い。
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永福寺跡から北へ、徒歩で 高低差約50mの山道を越え、「天園ハイキングコース」 を横切れば約1kmで横浜市側の平地 (今泉台団地) に至る。最近では鎌倉時代初期には武蔵国と接続する主要道の一つだった可能性も指摘されている。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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1月16日 癸卯
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吾妻鏡
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寅刻(早暁4時前後)に雨、巳刻 (10時前後) から晴。未刻 (14時前後) に米町付近で失火し横町に延焼して南北六町ほどが燃えた。この中には出羽前司 中条家長の家も含まれている。
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   ※米町: 下馬から大町大路を東に進んだ辺り、小田原北条氏
の三代 氏康が建てた時宗 (じしゅう) の教恩寺一帯 (地図) が旧 米町になる。
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ここから東の大町辻 (小町大路を南下して大町大路と交差する場所) の周辺が鎌倉時代中期~後期の商業地帯、いわば鎌倉銀座の一つだった。
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ちなみに本覚寺前の滑川 (この辺の当時の呼称は夷堂川) に架かる夷堂橋の北側が小町、南側が大町。  本覚寺山門前には「夷堂橋」の碑が建っている。画像をクリック → 別窓で拡大表示
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橋の西側には幕府の裏鬼門 (南西) を守る天台宗の夷堂があり、鎌倉入り初期の 日蓮はここを辻説法の拠点としていた、と伝わる。
その縁から、後に甲斐の 身延山久遠寺 (公式サイト) の協力を得て夷堂を拡大改装し、遺骨を分骨して 妙厳山本覚寺 (日蓮宗サイト) に改めている。
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通称 滑川の全長は 水源の霊園近くから由比ヶ浜の流れ込みまで僅か約 6kmだが 上流部では胡桃川、浄明寺付近 では滑川、大御堂橋付近 では座禅川、 琴弾橋付近 では夷堂川、延命寺橋付近では炭売り川、更に下流 では閻魔川と呼び名が変っている。
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上記した夷堂は明治初期の神仏分離で約 200m北の蛭子神社に合祀された。蛭子神社の裏に架かるのが赤い欄干が目を惹く琴弾橋だ。
     (右画像、クリック→ 別窓で拡大表示)
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対岸の高台には 頼家の愛児で比企の乱で殺された 一幡の小御所があり、風が吹くと琴のような音を響かせた「琴弾きの松」があった、と伝わっている。
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更に詳細は 妙本寺 比企一族滅亡の跡 (別窓) の末尾近くで。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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1月19日 丙午
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吾妻鏡
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昨夜の子刻 (10時前後) から午一点 (11時半) までに三寸 (約9cm) ほどの積雪あり。今日、二所詣の奉幣使として式部大夫 北條政村朝臣が出発、御台所 竹御所の奉幣使として牧右衛門尉も共に出発した。
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   ※牧右衛門尉: 年代から考えて 北條時政の継室 政の方の末弟 牧政親だと思う。文治五年 (1189)
11月2日の吾妻鏡に「牧六郎政親頼朝を怒らせ、北條時政が身柄を預かることになった。日頃から 藤原泰衡と懇意にして連絡を取り合っていたとの噂がその理由である。」との記載があり、当時は20才前後だろうか。懐かしい名前だ。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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1月20日 丁未
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吾妻鏡
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卯刻 (朝6時前後) に八幡宮別当法印 定親が御所に来て報告。大石段西側の梅の木に二羽の山鳩が停まり今日まで八日間もそのまま飛び立っていない、と。
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   ※梅の木の鳩: 実朝の死は建保七年 (1219) 1月27日の戌刻 (20時前後、北條九代記の記述) 、
その十三回忌の祥月命日が近いのを意識した愚かな捏造だ。梅の木に鳩が集まったから弔問...。鳩は八幡神の使者だから、と言いたいのだろうが。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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1月24日 辛亥
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吾妻鏡
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御台所 竹御所が鶴岡八幡宮に参宮した。左近大夫将監 大江佐房、周防前司 中原親実、上野介 結城朝光ら10余人が供奉した。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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1月25日 壬子
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吾妻鏡
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晴。未刻 (14時前後) に名越 (地図) 付近で失火、越後四郎 北條時幸、加賀守 町野康俊らの宿所が被災した。
同時に甘縄 (地図) 付近の民家50余軒が焼失した。放火らしい。
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   ※名越と甘縄: 3kmは離れているから類焼はあり得ない。時間が近いなら放火を疑うべきか。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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1月29日 丙辰
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吾妻鏡
幕府に祇候している者は過差 (不相応な贅沢) を慎むようにとの命令が下された。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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2月 2日 己未
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吾妻鏡
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御所の御台所 (竹御所の居室がある建物か) を南方に曳き移した。周防前司中原親実がこれを奉行した。
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   ※原文は: 「御所御臺所被曳移南方」 、もう少し判り易い表現を頼みます、と言いたいね。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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2月 9日 丙寅
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吾妻鏡
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晴。勝長寿院に新造した御塔(三重塔)に於いて最初の修正を催し、良信法印が導師を務めた。
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   ※修正: 新年の 3~7日間、国家と皇室の安泰と五穀豊穣などを祈願する法会。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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2月11日 戊辰
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吾妻鏡
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晴。酉刻 (18時前後) 、八幡宮馬場の近くにある左馬頭 足利義氏の宿舎が全焼した。放火の疑いもあるとか。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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2月12日 己巳
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吾妻鏡
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晴。申刻 (16時前後) に京都朝廷からの使者が到着。去る 5日に将軍家 藤原頼経が従四位下 (少将の官職はそのまま) に叙された。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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2月21日 戊寅
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吾妻鏡
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御所の侍 (御家人の控え室) 二ヶ間を増築した。周防守 中原親実がこの作業を差配した。今日、京都からの飛脚が到着。去る12日に中宮 (将軍頼経の同母姉) が御平産、皇子の誕生を報告した。
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   ※中宮: 九条道家の娘 竴子 (Wiki) は後堀河天皇の中宮。後に第87代四条天皇を践祚する皇子の
皇子の誕生だ。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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2月23日 戊寅
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吾妻鏡
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将軍家 藤原頼経の祈願として鶴岡八幡宮の宝前に於いて仁王会を行なった。
また先月13日から8日間、山鳩が宮寺の石階下にある梅木から飛び去らない事を占ったところ、宮寺に於ける (僧や神官の間で起きる) 口論を慎むべきであるとの結果が示された、と。
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   ※仁王会: 仁王経 (国王のあるべき姿を説く教典) を読み鎮護国家を祈る行事。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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3月 1日 丁亥
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吾妻鏡
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雨。女房の局 (女官の部屋) で勝負 (賭け事) あり。両国司と同室家 (時房夫妻と泰時夫妻) が加わった。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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3月 2日 戊子
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吾妻鏡
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晴。夜、将軍 藤原頼経が足の大指 (親指) を刀で突き切り出血、御所は大騒ぎになったが軽傷だった。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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3月 3日 己丑
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で上巳の節句に伴う神事が行われ、御台所 竹御所も御参宮した。将軍家が始めて春日別宮 (境内摂社) に拝礼し、四品に昇叙して始めて対応する袍を着した。これは藤原氏の氏神への拝礼であり、有識者に拠れば四位の袍を着ける最初に日取りを選ぶ決まりはないが、公卿 (三位) の例に倣ったものである。
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   ※袍: 衣冠束帯の際に着る盤領 (丸襟) の上衣。身分により色や布地に制約のある位袍と制約の
ない雑袍がある。詳細画像などは「袍」 で Wiki 検索を。
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   ※名月記の記事: 頼朝の遺児 貞暁法印 (46歳) が死去。高野山で20年を過ごし臨終を迎えた。
生母 禅尼 (常陸入道念西 (伊達氏の祖) の娘) は摂津 (大阪府) で暮らしている。
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   ※貞暁について: 誕生の記事は文治二年 (1186) 2月26日、上洛の記事は建久二年 (1191) 1月23日
にある。一説に、実朝 没後に四代将軍就任の野心の有無を 政子に問われ、自ら片目を抉り出して拒んだと伝わる。政子は二度と貞暁を疑わなかった、と。この話の真偽は兎も角、貞暁の死によって頼朝の血を伝えるのは竹御所一人だけになった。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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3月 6日 壬辰
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吾妻鏡
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晴。京都から新調の御車 (牛車) が送られてきた。御台所 竹御所の御車である。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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3月 9日 乙未
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吾妻鏡
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晴。六波羅の飛脚が到着して報告。先月20日、仁和寺の法印御房 (貞暁、46歳) が高野山で逝去した。幕下将軍家 (頼朝) の子息で御台所の御伯父に当たるため、御軽服 (軽い服喪) の期間の竹御所は自邸に留まる。
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   ※軽い服喪: 竹御所 頼家の娘で、貞暁は頼家の異母弟だから伯父に当たる。
彼女が頼経の子を産んでその子が成長したら北條得宗の子女と婚姻させて源氏の血脈を産み 「陪臣から貴種へ」 の昇格を夢見たのだろうな。頼経じゃなく帝の血筋だったら理想的だ、天皇家と源氏と北條氏の血脈が一体化できる、なんて思ったか。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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3月10日 丙申
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吾妻鏡
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駿河三郎 三浦光村が使節として上洛の途に就いた。皇子の誕生 (2月12日) を祝すためである。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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3月15日 辛丑
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吾妻鏡
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晴。永福寺で恒例の舎利会 (仏舎利を供養する法要) があり、将軍家 藤原頼経が渡御された。
御台所 竹御所 も牛車に同乗、相模守 北條時房 と武蔵守 北條泰時も参席した。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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3月16日 壬寅
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吾妻鏡
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晴。武蔵大路の下で民家が一軒焼失した。嫉妬が原因で青女 (若い女) が焼死を企んで放火した、と。
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   ※武蔵大路の下: 北は亀ヶ谷坂と化粧坂に分れる扇ヶ谷から始まり
寿福寺の山門前→ 巽神社→ 今小路を経由して→ 六地蔵→ 塔之辻→ 旧道を海岸へ→ 星の井通りを極楽寺へ→ 稲村ヶ崎に下る、約4kmの総称が武蔵大路である。
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右画像をクリック→ 別窓で拡大表示。
 現代の地図に落とし込んだため正確ではない。

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狭いエリアの名称を使ったり 名称の重複区間 (例えば六地蔵~塔之辻を大町大路に含む場合など) もある。また「下」が亀ヶ谷や化粧坂などの「坂の下」なのか「南側」を意味するのかも簡単には判断できない。
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ただし鎌倉時代後期の1270~1280年代の頃に
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が極楽寺坂切通しを整備するまで 海沿い (現在の坂ノ下埋立地の山沿い) の浜道を辿って稲村ヶ崎に抜けるのが 当時の主要道である稲村路だった。鎌倉期のルートを途中で分断し二つに分けて表示したので、 坂ノ下からの道
稲村ヶ崎からの道 の両方を参照されたし。
更に詳細は 極楽寺坂の合戦 (別窓) の後半部分で確認を。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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3月19日 乙巳
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吾妻鏡
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今年の飢饉により百姓の多くが餓死する状態になっている。武蔵守 北條泰時の管理下にある伊豆と駿河両国には出挙米を放出して飢餓を救うよう、倉庫を所有し管理する者に指示を下した。
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もしも対捍 (怠けて遅れるなどの行為) があれば内容によっては処分の対象となる旨の命令書に花押を捺して発行した。担当は豊前中務丞、宛先は矢田六郎兵衛尉 (北條被官、代官か) である。
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   ※出挙米: 領主からの貸付米。返済を要する貸付米で、供与ではない。来年三月にも矢田六郎
兵衛尉に宛てて伊豆仁科 (地図) の百姓のために供出せよとの命令を下している。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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4月 2日 戊午
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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河越三郎重員は武蔵国惣検校職であり、この職は四ヶ条の権限を与えられているにも拘わらず近年は廃止と同様の状態になっている。武蔵守 北條泰時に対して、従来の通りに権限を与えて頂きたいと愁訴したため、岩原源八経直の担当として今日留守所に確認を求めた。
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   ※河越重員: 娘を 義経に嫁がせたため頼朝に殺された 河越
重頼の三男。長兄重房は父と共に粛清され、 家督は次兄の重時が継承していたが、今回の申請により 嫡男が継承するべき惣検校職は重員に付与された。
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泰時には河越氏の権限を分割して氏族の強化を防ぐ目的があったと推測され、この要望が重員側ではなく執権周辺の意図だった可能性は否定できない。
右上は川越市の天台宗養寿院に残る河越重頼の供養墓。
   画像をクリック→ 河越氏館跡と養寿院の頁へ(別窓)
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   ※惣検校職: 平安時代末期、国衙に於ける一定の権限と共に中小武士団 (今回は武蔵国を対象に
している) 統率権と徴兵権を伴っていたらしい。
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平将恒の子で秩父別当を称した武基の息子 武綱が 源義家に従って後三年の役の先陣を務めて家名を挙げ、嫡子重綱が最初の武蔵国惣検校職となった。
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その後の相続争いを経て長子の重能ではなく 重隆が秩父氏嫡流として同職を継承、久寿二年 (1155) 8月になって 源義賢と共に 源義平畠山重能斎藤実盛らに討たれ、重隆の孫である河越重頼の後を継承した重員が職責に伴う名跡の復活を願い出た、と推測される。
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ただし、この時点の惣検校職は特に権限を伴わない名誉職に過ぎず、泰時としては「武蔵国惣検校職である河越氏を配下にした」メリットを考えた、と思う。
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左フレームの「秩父平氏の系図」と、大蔵館跡と源義賢の墓所 (別窓) を参考に。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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4月 4日 庚申
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吾妻鏡
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天変に対応する祈祷を行なうよう、将軍家 藤原頼経から指示が下された。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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4月 5日 辛酉
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吾妻鏡
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晴。先月25日の除目の聞書が到着、将軍家 藤原頼経が右近衛中将に転任となった。
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   ※聞書: 任官叙位の際に昇進該当者名とその理由を記した会議の備忘録で、議事録と同じ。
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   ※頼経転任: 3月26日の名月記に載っている 「左中将頼経」 が正しい筈。
頼経は嘉禄二年 (1226) の 1月27日に征夷大将軍と同時に右近衛権少将に、同年3月25日に右近衛中将に転任している。
吾妻鏡にこの二件の記載がなく 「左近衛中将に転任」 と誤記したのは単純ミスか?
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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4月11日 丁卯
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吾妻鏡
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天変に対応する各種の祈祷が行われた。五大明王の護摩修法は、不動明王を信濃法印、降三世明王を大進法印、軍茶利明王を丹後僧都、大威徳明王は宰相法印、金剛夜叉明王は若宮別当定親。
また一字金輪文殊菩薩は大蔵卿法印良信の担当である。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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4月14日 庚午
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吾妻鏡
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曇。月蝕の虧初 (欠け始め) は丑七刻 (2時50分頃) で戻るのは寅一刻 (3時半) の筈だが曇天で確認不可。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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4月15日 辛未
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吾妻鏡
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未刻 (14時前後) に地震あり。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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4月17日 癸酉
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吾妻鏡
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晴。京都朝廷の使者が鎌倉に到着。中宮 (2月21日に記載) 御入内の祝賀により、去る8日に将軍家 藤原頼経が正四位下に昇叙した旨を伝えた。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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4月19日 乙亥
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吾妻鏡
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風雨の被害や水害や旱魃などの災難を避ける祈祷として、諸国の国分寺に於いて最勝王経を転読せよとの宣旨が昨夜鎌倉に到着した。これに従って今日、政所に於いて民部大夫入道行然 (二階堂行盛) が奉行して、幕府の支配下にある関東諸国での実施についての評議があった。
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申刻 (16時前後) に相模四郎 北條朝直の室 (武蔵守 北條泰時の娘) が男子 (後の朝房) を平産した。
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   ※最勝王経: 正式には金光明最勝王経。国を豊かにするため王が守るべき心得を説いた経文。
読誦して正法を施せば諸天善神が国を守護すると説いている。
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   ※北條朝直: 謀反の嫌疑で失脚 (後に復権) した 伊賀光宗 の娘との離縁を拒み続けたのだが、
藤原定家が名月記で 「婚姻の件は猶も四郎 朝直 (相州 時房の嫡男) が固辞を続けて大騒ぎになっている。相州時房を継ぐ器ではないのだろうか、本妻との離別を悲しみ出家の支度をしているらしい。」(嘉禄二年 (1226) 3月9日に記載した) と書いたのを最後に屈服したか。
哀れだがこれだけ抵抗してくれれば格下げになった本妻の心も少しは晴れるか。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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4月20日 丙子
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吾妻鏡
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(4月2日に) 河越三郎重員が武蔵国惣検校職四ヶ條の権限復活を申請した件について、去る2日に留守所に問い合わせた。秩父権守重綱 (畠山重能の祖父) から 畠山次郎重忠 の時代まで権限を掌握していたのは重員の訴えに合致するとの在廰官人 (日奉実直、弘持、物部宗光) の14日付報告書が留守代 帰寂の15日付の添え書き付きで到着、その通りに沙汰する事となった。
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   ※武蔵国惣検校職:4月2日にも書いた通り只の名誉職、国内軍兵の催促統率権など持たない。
国司 (泰時) の命令を受けて軍兵の催促を代行する可能性はあるだろうが。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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4月21日 丁丑
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吾妻鏡
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承久の兵乱 (1221年) 後に諸国の郡、郷、庄、保などに新たに補任された地頭の業務について五ヶ條の規則を定め、六波羅にもその内容を通達した。
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第一に洛中での寺社祭礼の際には職務中以外の者の武装を禁止する。第二に強盗や殺害犯の首魁は斬罪に処し仲間などは御家人や守護に引き渡して鎌倉に送致する。第三に百文や二百文程度の軽い犯罪でも倍額を徴収する。更に重い罪の場合は身柄を拘束する事になっても親類縁者の弁済を認めてはならない。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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4月27日 癸未
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吾妻鏡
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晴。申刻 (16時前後) に二度の地震あり。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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4月28日 甲申
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吾妻鏡
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酉刻 (18時前後) に御所北の対屋付近に怪鳥が集まった。水鳥の種類だろうか、羽の色が黒で翌日に死んでしまった。見たことがある者もいたが名前は明らかでない。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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4月29日 乙酉
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吾妻鏡
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昨日の鳥の事についての占いあり。泰貞、晴賢、晴幸、重宗、宣賢、成光らが参上して「病気の予告であり特に女官の病気について注意が必要」との結果を報告、夜になって祈祷を催した。
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今日、新任の判官となった 三浦光村が京都から帰参した。2月12日の皇子誕生を祝すため (3月10日に鎌倉を出発した) 使節の褒賞として、去る14日に検非違使に任じる宣旨を受けたものである。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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5月 4日 己丑
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吾妻鏡
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先月、ある僧が祇園 (八坂神社、公式サイト) の示現 (神仏のお告げ) と称して夢を記録し洛中に配布した。これを 従一位関白 九条道家から将軍家 藤原頼経に送ってきた。その内容は次の通り。
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一人当たり五文か三文を献じて般若心経を読誦し巽 (南東) に於いて鬼気祭を催せば今年の伝染病や餓死は鎮まるだろう。疫病は5月から6月18日の間に発生するから、この封 (御札、封印) を懸けよ。
 □ 医王源□ 急々如律令 □□□ 山柘急々如律令 これを信じれば人民安穏、天下太平である。
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今夜、御所の四角四境で鬼気祭を行なった。
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   □□□特殊な漢字で表示不可。上記 「吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示」 で確認を。
手間を費やす程の意味はないだろうけど。
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   ※四角四境祭: 御所を含んだ政庁敷地の四隅と鎌倉と周辺
地域の四境で邪気を祓う鬼気祭を催す事。
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冒頭に「御所の」とあるので文面通りなら建物の四隅と敷地の四境と考えるのも可能だが本来は御所の四隅、つまり 艮=東北、巽=東南、坤=南西、乾=北西 を示す。
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四境は鎌倉と外界の境界。通常は北の巨福呂坂、南の小坪、東の六浦、西の固瀬河 を差す。
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更に詳細は元仁元年 (1224) 12月26日の記事を参照されたし。
      右画像は四境をマークした地図(クリック→ 別窓で拡大表示)
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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5月 5日 庚寅
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吾妻鏡
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晴、南風が烈しい。綸旨 (天皇の命令文書) に従い国分寺で最勝王経を転読するよう関東御分国に命令した。二階堂行盛の奉行である。
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   ※関東御分国: 朝廷の所有を離れ鎌倉幕府の管理下にある 武蔵、相摸、越後、伊豆、駿河。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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5月 7日 壬辰
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吾妻鏡
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地震あり。今日、大進僧都観基が薬師如来に祈る護摩の修法を行なった。天変に対応する祈祷である。
また安倍晴幸が地震祭を奉仕した。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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5月 9日 甲午
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吾妻鏡
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晴。今朝、駿河次郎 三浦泰村が奉幣使として天下泰平を祈るため、常陸国鹿嶋社 (鹿島神宮、公式サイト) に向かった。また御所に於いて一万巻の般若心経 (この内一千巻は将軍による書写) の供養を行なった。導師は安楽房法眼行慈、これも天下泰平を祈るためである。
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   ※鹿嶋社: 摂関家 (藤原氏) の氏社であり、藤原氏の荘園本家 (所有者) でもある。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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5月13日 戊戌
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吾妻鏡
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周知するべき決定事項あり。まず諸国の守護人は大犯三ヶ條を逸脱するような過分の処理をしてはならない。検非違所 (国や郡、荘園に於ける検非違使) は寛容原則に従って年貢に関する務めを果たす事。
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守護地頭に対して領家 (所有権者) から訴訟が起きた際に六波羅の呼び出しに応じない例に関しては、二度まで呼び出し、三度目には鎌倉に文書で報告せよと指示してあるが、これは守られていない。相手に配慮することなく履行するよう重ねて命令を下す。
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窃盗に関し、百文以下の軽い犯罪には倍額の罰金を課して身柄を釈放し、百文以上の重罪には身柄を拘束しても親族や妻子や従者には罪を問わず従来の居住を認め、謀叛や夜討ちには容赦せず厳しい対応を命じる。
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   ※大犯三ヶ條: 守護職の基本権限を差す。大番勤務の招集と謀叛人の処理と殺害犯の処理を含
み、犯罪の処理は捜査から逮捕拘留と刑の執行までを含む。翌 貞永元年 (1232) 8月に発布される御成敗式目で成文化される。
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   ※軽い犯罪: 前年 (1230) 6月24日に銭一貫文について記載した。100文を現代の円に単純換算す
ると 6,000円だが、例えば労賃のレベルなどは現代に比べるとかなり低いから、犯罪の種類によって相当の上下は起こりうる。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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5月14日 己亥
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吾妻鏡
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晴。巳刻 (10時前後) に鳥が御所の進物所 (調理場所) に飛び込み、女官が整えていた大盆をひっくり返した。このため占いを行ない、病気に注意が必要との結果を得た。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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5月17日 壬寅
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吾妻鏡
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晴。申刻 (16時前後) に武蔵守 北條泰時が体調不良。
10日以上に渉り猛暑が続き疫病が流行している。天下の平和と国土の豊穣のため、今日鶴岡八幡宮で供僧を含む30人の僧による大般若経の読誦を行なった。また10日間の問答講の開催も決定した。
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   第一日 講師は三位僧都禎兼  問者は安楽房法眼重慶
   第二日 講師は頓覚房律師良喜  問座は心房律師円信
   第三日 講座は心房律師  問は頓覚房律師
   第四日 講は丹後律師頼暁  問は円爾房
   第五日 講は円爾房  問は丹後律師
   第六日 講は備後堅者  問は教蓮房
   第七日 講は教蓮房  問は備後堅者
   第八日 講は肥前阿闍梨  問は筑後房
   第九日 講は円爾房  問は肥前阿闍梨
   第十日 講は安楽房法眼  問は三位僧都
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   ※問答講: 仏教の教義論議や法論。また問者が仏法に関する疑問を問い講師 がこれに答える。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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5月21日 丙午
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皇帝紀抄
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酷い飢饉が続く中、洛中に住む者が協力して豊かな家に押し入って飲食を要求し、更に銭や米の貸与を要求する事件が頻発している。22日には武士に訴えてこれを停止させた。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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6月 1日 丙辰
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吾妻鏡
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晴。武蔵守 北條泰時の病状は回復し、午刻 (正午前後) に病の穢れを払う沐浴を行なった。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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6月 6日 辛酉
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吾妻鏡
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海路で物資を運ぶ船が風波に流されて漂流して目的地以外の場所に流され漂着した際に、その場所の地頭らが遭難船と決めつけて積荷を含めて押領する例が報告されている。先例があるにしても当事者には大きな負担となるため今後は禁止する命令を下す事について評議が行われた。
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   ※船舶の漂着: 貞応二年 (1223) に摂津兵庫、土佐浦戸、薩摩坊津の船主らが船舶の衝突や積荷
の損害補償に関した協定を結び「無主の漂着船は優先的に寺社に寄進」 などの記載がある。これは 北條義時が袖判 (花押) を加えた鎌倉幕府の公式文書とも言われているが、実際には花押で権威付けして別名を称した 「廻船式目 」 で室町時代後期の文書である可能性が高い。
吾妻鏡がこの申し合わせについて評議した理由は不明だが、同様のトラブル多発が契機になったのだろう。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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6月11日 丙寅
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皇帝紀抄
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祇園社 (現在の 八坂神社) の常行堂 (阿弥陀堂) で餓死者があり、土塀の上を壊して撤去した。
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   ※八坂神社: 7月の祇園祭で有名。元は興福寺の支配下で
10世紀末には延暦寺の末社 (神仏習合) となり延久二年 (1070) には鴨川西岸の広大な地域を「境内」と主張して朝廷権力からの 「不入権」 が承認された。
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その後も久安三年 (1147) の祇園闘乱事件 (祇園社神人と清盛郎党の衝突) などを経て延暦寺と同化し、嘉禄三年 (1227)7月には 法然の墓所を破壊、更に念仏宗の弾圧を要求する事件を起こしている。
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八坂神社の南 400mの法観寺 (八坂の塔で有名) には木曽義仲の首塚がある。
  右は建仁寺から法観寺に続く八坂通から見上げる八坂の塔 。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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6月15日 庚午
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吾妻鏡
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晴。戌刻 (20時前後) に由比ヶ浜の鳥居の前で前大膳亮安倍泰貞朝臣による風伯祭を行ない、法橋円全が仰せを受けて祭文を起草した、関東では初めて催す例である。
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先月中旬から強い南風が昼夜に吹き続け、これに対応して武蔵守 北條泰時が指示した。
将軍 藤原頼経が派遣した使者は式部進平内、泰時が派遣した使者は神山弥三郎義茂。今年京都でこの祭を催し (賀茂) 在親朝臣が勤行したという。
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   ※由比ヶ浜の鳥居: 現在は失われた「浜の大鳥居」を差す。若宮大路を改修した平成二年 (1990)
に出土した痕跡 (地図) は天文二十二年 (1553) に後北条氏の氏康が建立した鳥居の跡で、鎌倉時代と同じ位置か否かは確認できない。
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更に南だったかも知れないが、二の鳥居と三の鳥居の距離 (約480m) に等しかったなら下の下馬橋 (二の鳥居から約500m) 付近だった可能性もある。
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 右下は浜の大鳥居痕跡周辺の若宮大路。
 右が鶴岡八幡宮方向で撮影場所のすぐ後が若宮大路で唯一の歩道橋。

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200m南には畠山重保の館跡、更に南の簡易裁判所敷地からは建設工事の際に大量の人骨(共同墓地か、戦死者の集団埋葬か)が出土している。
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西側に和田塚 (古墳) がある事などを併せて考えると当時の海岸線は現在より 200~300mほど内陸寄りだったか、東の方向から浅い入り江が入り込んでいた可能性もある。
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現在の「浜の大鳥居(一の鳥居)」を起点(S)にした三の鳥居までの ルート詳細地図 を参照されたし。ここには一の鳥居の痕跡と二の鳥居の位置、離隔距離を明記してある。
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   ※風伯祭: 天候や季節の変化に深く関わる風の神を祀る行事。
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   ※賀茂在親: この時点は陰陽道賀茂氏の嫡流だったが激しい権力争いが続き、次の代には傍流の
在清、次は在秀と 陰陽道の主流が入れ替わったらしい。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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6月16日 辛未
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吾妻鏡
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晴。続いていた強風が鎮静した。昨夜の風伯祭が効果を挙げたと判断され、安倍泰貞朝臣が褒賞の剣を与えられた。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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6月17日 壬申
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百錬抄
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昨年の春から全国で飢饉が続き、この夏には死骸が路傍に満ちている。治承の頃 (1177~1181年) 以来、このような飢饉が起きた例はない。
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   ※治承の頃: 源三位頼政源頼朝木曽義仲らが平家打倒の兵を挙げたのが治承四年 (1180) 、
気候の異常は特に記載されていないが、兵糧米の接収や労役が農業に大きな影響を与えた筈だ。
その時でさえ、「死骸が路傍に満ちて...」ほどの惨状は記録されていない。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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6月22日 丁丑
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吾妻鏡
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去る2月22日に死去した高野山の法印 貞暁 の遺領が 西園寺公経の息子で内府 (内大臣) の 西園寺実氏 (Wiki) に譲与するとの申し送りが書類を添付して武蔵守 北條泰時に届けられた。
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今日この件についての評議があり、貞暁の譲状と相違なしとの決裁があった。遺領は備中国多気と巨勢の両庄と、和泉国長家庄、伊勢国三箇山と山田野庄などである。
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   ※実氏の息子:11歳の公基と8歳の公相だから貞暁との接点は認められず、西園寺公経と実氏が
鎌倉幕府に近い政治家だった関係から遺領の贈与があった、という事だろうか。
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   ※地名:備中国の多気荘は岡山県吉備中央町竹部の一帯 (地図) で石清水八幡宮領、巨勢は岡山県
高梁市の巨瀬町 (地図) で後に仁和寺領に返還、和泉国長家庄は不明、伊勢国三箇山は亀山市関町坂下の三子山一帯 (地図) 、山田野庄は三重県津市白山町一帯 (地図)
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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7月 9日 癸巳
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吾妻鏡
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晴。午刻 (昼前後) に御台所 竹御所の新しい牛車の乗り初めで駿河前司 三浦義村邸に渡御、将軍家 藤原頼経が狩衣に牛車で先に入御された。義村の接待は豪華を極めたもので、伶人 (楽人) や舞女を揃えて終日遊んで過ごし、晩鐘の頃に御所に還御された。
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   ※晩鐘: 江戸時代には暮六つ (酉刻、18時前後) 、鎌倉時代は判らないが多分同じだろう。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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7月11日 乙未
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吾妻鏡
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二位家 (政子) の祥月命日であり、勝長寿院の南小御堂で法事を催した。導師は求仏房、御台所 竹御所も渡御され、相模守 北條時房と武蔵守 北條泰時も参席された。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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7月15日 己亥
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吾妻鏡
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晴。二位家 (政子) の追善法要あり。恒例の小御堂一切経法要には両国司 (時房と泰時) も参加された。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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7月16日 庚子
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吾妻鏡
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晴。今日、京都からの使者が鎌倉に入って報告。
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九条道家が摂録 (摂政関白) を左府 (左大臣) の 九条教実 (Wiki、22歳) に譲った。去る2日に内覧の宣旨があり、5日の夜になって拝賀したのは知足院殿 藤原忠実 (Wiki) の例に倣ったらしい。
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今月は大飢饉が全国に広がり 2月からは京都と近国で疫病が流行、多くの貴賎が命を落としている。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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8月 1日 甲寅
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吾妻鏡
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晴、風が鎮まった。収穫が始まって世間に食料が出回り始め、死骸が少しづつ減り始めた。
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   ※8月1日: 西暦の 8月29日。米の収穫と供給はもう少し先だろうが、少しだけ早く収獲できる
粟 (あわ) や稗 (ひえ) などの雑穀が流通し始めたと考えるべきか。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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8月15日 戊辰
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吾妻鏡
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晴。鶴岡で放生会。将軍家 藤原頼経も出御された。大炊助 北條有時 が剣を持ち、近江太郎左衛門尉 佐々木重綱 が弓箭を携えた。供奉人は大夫判官 後藤基綱、宇佐美判官祐政 (祐茂の嫡子) 、駿河判官 三浦光村が務めた。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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8月16日 己巳
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吾妻鏡
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晴。(昨日に続き) 鶴岡八幡宮で神事あり。将軍家出御は通例の通り、御台所 竹御所は馬場の桟敷で見物された。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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9月 日
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明月記
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   ※9月3日 丙戌: 概ね晴。天王寺 (公式サイト) の騒動を鎮め凶徒を捕縛するよう武士に命じた。
彼らの行動は許しがたく、藁を積んでの放火などは尋常でない。仏法最初の寺が灰燼に帰すのは後悔しても余りあることだ。
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   ※9月6日 己丑 : 曇。風説では 佐々木四郎信綱が近江を辞すと。鎌倉の意向か、悲しむべき。

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   ※佐々木信綱: 史料では翌 寛喜四年 (1232) まで近江守護、そのまま近江守に転任している。
「近江を辞す」はただの噂に過ぎなかったか。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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9月13日 丙申
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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今夜、御所に於いて和歌の御会あり。後藤基綱、源親行、光西 (伊賀光宗) らが参席した。
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   ※源親行: 著名な歌人であり承久の乱以前まで政所別当に任じた 光行の息子。京都に戻る父と
交代する形で鎌倉に入り、承久の乱で院方に与して斬られる筈だった父の助命を嘆願して認められた。
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源実朝藤原頼経宗尊親王の三代 (頼経を継いだ 頼嗣は14歳で解任されるため除外した) に仕えて歴代の和歌奉行を担当した。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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9月23日 丙午
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吾妻鏡
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晴。将軍家 藤原頼経 が馬場殿に出御され、流鏑馬と遠笠懸が催された。駿河前司 三浦義村武藤次郎資頼ら宿老が特に仰せを受けて弓射の技術を披露した。
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   ※宿老: 三浦義村は (推定) 65歳前後で武藤資頼は72歳。宿老か、老武者と言うべきか。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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9月24日 丁未
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吾妻鏡
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晴。寅刻 (早朝4時前後) に月が軒轅の第三星の軌道を犯した。
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   ※軒轅: 司馬遷 (Wiki) の「史記」に拠れば、古代中国を統治した最初の皇帝で漢民族の祖でも
ある黄帝 (紀元前2510~紀元前2448) を差すのだが、この名前がどんな理由でどの星座に転用されているのか、が判らない。
辛うじて 「北斗七星の北にあり七星からなる」 までは判ったのだが。
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多くの医学書を著した伝説から「ユンケル黄帝液」の語源になったらしいけど...
興味のないジャンルではあるが、どんな分野でも浅学を自覚するのは少し悲しい。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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9月25日 戊申
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吾妻鏡
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御所で御鞠の会。相模四郎 北條朝直、同三郎入道 北條資時、周防前司 中原親実、右衛門尉 小山五郎長村、肥田八郎 (安貞三年 (1229) 1月1日を参照)、備中法橋定尊らが庭に控えた。
また来月1日に催す祈祷 (三壇 (護摩壇) の修法) に関し松殿法印、大進僧都、宰相律師に指示を下した。
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   ※小山長村: 政光-朝政-朝長-長村と続いた小山氏の四代当主。弓射の技術に秀でていたと
伝わる。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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9月27日 庚戌
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吾妻鏡
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昼間、名越の付近で騒動が勃発、敵が越後守 北條朝時の名越邸を襲撃しているとの連絡があった。
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武蔵守 北條泰時は評定の席を立って直ちに名越を目指し、相模守 北條時房ら出仕していた御家人も泰時に続いて馬を飛ばした。朝時はちょうど外出中で、留守を守っていた武士らが 「屋敷の南隣で他所から逃げて隠れていた悪徒を捕縛し、或る者は自殺を遂げ或る者は抗戦した。」と報告した。
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泰時は屈強な武士を現地に派遣して途中から引き返したが、平盛綱 が泰時を諌め、「重職を担う立場として、国敵が相手であっても先ず使者を送って状況を確認した後に対策を考えるべきであり、事情も知らないまま行動してはなりません。今後も同様の例があれば乱世を招き謗りを招くでしょう。」と。
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泰時はそれに答えて、「その通りではあるが、人が生きるのは偏に親類を思うからであり、目の前で兄弟が殺されて謗りを受けたら重職など無価値である。武道は人のためにあり、いま朝時が敵に囲まれていたら他人にとって小事でも私にとっては建暦や承久の敵に向かうのと変わりはない。」 と語った。近くで聞いていた駿河前司 三浦義村 は感涙を拭い、盛綱は頭を垂れて恐縮した。
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義村は座を起って御所に戻り、御台所 竹御所および伺候していた男女に事の経緯を語った。人々は感動し、盛綱が諌めた言葉と義時の説明とどちらに理があるか議論したが、結論には至らなかった。
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この話に感動した越後守 北條朝時は密かに誓詞を送り「子孫に至るまで泰時の一族に忠節を尽くし敵対する事はない」と誓った。一通は鶴岡八幡宮別当に託し、一通は子孫の記憶に残すため家に収蔵する文書に加えた。
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   ※名越邸: 北條時政 の全盛期に朝時が譲り受けた屋敷 (位置などは承元二年 (1208) 1月16日と
嘉禄元年 (1225) 5月12日の記事を参照) 。時政が 義時の後継者として泰時ではなく、朝時を考えていた可能性の根拠でもある。
名越邸については 材木座の弁ヶ谷 (別窓) も参考に。近くには確か上皇妃 (美智子様) の御実家 正田家の別荘もあった筈だ (昔の話) 。
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   ※泰時と朝時: 例によって吾妻鏡の編者による北條得宗賛歌の一節に過ぎない。
「子孫まで忠義を尽す誓詞を」 と言いながら名越流朝時の子供の大部分は得宗家に反旗を翻しているし、仁治三年 (1242) 6月の泰時死没直後には朝時自身も不穏な動きを見せている。
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朝時は「自分こそが北條嫡流」との意識を終生持ち続けたと思う。泰時の生母は出自も不明確な御所の女房、朝時の生母は義時の恋女房で正妻の姫の前だ。
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理由は不明だが離縁となったし、比企氏の縁者だったけれど嫡流の資格としては明らかに朝時が格上だった。
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しかし「屋敷を襲撃した悪徒」の素性も書かずヨタ話なんて編纂者の資質を疑う。政権担当者に問うべきは「執権として何を優先すべきか」だろうが。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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9月29日 壬子
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吾妻鏡
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天変地異に対応する祈祷を行なった。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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10月 6日 戊午
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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将軍家 藤原頼経の祈願寺を建てる旨の沙汰が下った。場所は永福寺または大慈寺の敷地内とし、両国司 (相模守 北條時房と武蔵守 北條泰時)に加えて駿河前司 三浦義村、出羽前司 中条家長、隠岐入道 二階堂行村、信濃民部入道 二階堂行盛らが陰陽師三人 (泰貞、晴賢、重家) を伴って巡見した。
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金蔵房に地相の確認を命じ、絵師の宅磨左近将監為行を呼び現地の様子を描かせて摂津守 中原師員と駿河判官 三浦光村を介して御所に報告した。永福寺の候補地には御台所 竹御所の祈願寺を建てる事が内定、こちらは伊賀式部入道光西 (伊賀光宗) が奉行である。
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   ※宅磨為行: 頼朝に招かれ寿永三年 (1184) 1月22日に鎌倉
に下向した宅磨派の絵師 藤原為久の嫡子。
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為久は翌年8月に再び鎌倉で勝長寿院の仏画を描いた (8月23日に記載)後に鎌倉に定住し、鎌倉に於ける絵師集団 宅磨派の祖となった。
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同年10月11日には「浄土を描いた壁画の半月の暗部の表現技法に頼朝がクレームを付けて修正させた」記事が面白い。
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為久が住んだのは現在の 報国寺 (公式サイト) がある宅間ヶ谷、ここに一族の姓が語り継がれている。
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この地域は嘉禄三年 (1227) 1月2日の田楽辻子の項目でも触れておいた。
   右上は田楽辻子のルートと宅間ヶ谷の位置。 クリック→ 別窓で拡大表示
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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10月12日 甲子
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吾妻鏡
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寅刻 (早朝4時前後) に地震あり。今日、安嘉門院の御所および神泉苑の修理について評議があった。
将軍家が担当する任務として先日御家人に割り当てた作業である。西国の分は神泉苑の担当から漏れた御家人が負担するよう指示が下った。
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   ※安嘉門院: 第80代高倉天皇の皇子 守貞親王 (後高倉院) の娘。承久の乱後には幕府の要求で
第82代後鳥羽上皇と土御門上皇 (83代) と84代順徳天皇の三人が廃位となった。
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この時に帝位を継げる唯一の血筋である、既に出家していた守貞親王の息子で出家していなかった茂仁王 (現在の 86代後堀河天皇) が帝位に就いた。
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生母の七条院 (藤原殖子) が既に没していたため、同母姉の安嘉門院が准母 (代理の母、皇后宮) となっている。
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   ※神泉苑: 京都御所の南西 (地図) 、二条城 (慶長八年 (1603年築) の東半分を含む禁苑 (皇居の庭
園) で、延暦十三年 (794) の平安遷都と同時期に南北500m×東西240mの規模で完成した。天長元年 (824) には西寺の守敏と東寺の空海が雨乞いを競って空海が勝ち、以後の神泉苑は 東寺 の管理下に入った。そして250年余りが過ぎ...
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再び日照りが続いた寿永三年 (1184) 夏に 後白河法皇が催した祈雨の会は空海に倣った例で義経 が初めて出会った挿話でも名高い。詳細は 義経が静を見初めた神泉苑 (別窓)で。
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敷地は狭くなったが今も真言宗寺院として存続する。南北100m×東西60mに広がる池と花が美しい、京都の隠れた名所である (公式サイト)
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   ※百錬抄の記録:土御門上皇が配流地 阿波国で崩御、御年37歳。
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東寺の名が出たついでに、かつては東西の対称だった西寺の跡を紹介する。
国指定の遺跡なのだが、管理の悪い小さな公園状態で使用者のマナーも悪い。東寺に比べると敷地も二割程度で、失望させられる。  右画像をクリック→ 別窓で拡大表示。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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10月16日 戊辰
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吾妻鏡
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晴。二階堂 (永福寺) の敷地に五大尊堂を建立する予定の場所は本堂から見て犯土の方向になり、詳しく確認せよとの指示が下された。周防前司 中原親実、御堂奉行の式部大夫入道光西 (伊賀光宗) 、左衛門尉 藤原定員が陰陽師の安倍晴賢らを伴って本堂背後の山に登り方角を測定した。
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御所を起点として寅 (東北東)に相当するため支障なしとの意見で一致したが、来年になると王相の方角 (移転や建築が不吉) に当たる。故二位殿 政子の方違えの際に本所として用いた僧坊があり、そこならば計画の場所から乾方 (北西) に当たるかと考えたが、安倍晴賢は戌 (西北西) だろうと判断した。
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全員が戻って以上の内容を報告し、武蔵守 北條泰時邸で 尾藤右近入道景綱の奉行で御堂造営の日時を定めた。その後に酒宴と食事があり、中原親実と伊賀光宗も同席した。
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   ※五大尊堂: 五大明王を祀る密教の堂。不動明王を中心にして四方 (降三世が東、軍荼利が南、
大威徳が西、金剛夜叉が北) を守護する (竹御所の祈願寺になる予定) 。
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   ※犯土の方向: 土木や建設などを司る土公神 (春は竈、夏は門、秋は井戸、冬は庭に棲む) のい
る方角。その期間にその方角を犯すと祟りがある、とされる。
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   ※藤原定員: 京都から頼経に同行して下向した近臣で将軍御所を奉行した。寛元四年 (1246) の
宮騒動 (Wiki) の際に弁明する使者として執権 北條時頼の説得を試みたが失敗し、安達義景に預けられて出家した。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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10月19日 辛未
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吾妻鏡
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雨が続く。 二階堂に建造を予定していた御堂の場所を変更した。甘縄の城太郎 安達義景邸の南で千葉介邸の北、西山の麓と定め、両国司 (時房と泰時) が再び巡検した。今日は橘寺供養の日に当たるため不吉かと考え、数人の陰陽師を呼んで確認した。
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泰貞、晴茂、長重、文元らの意見は同一で「橘寺供養は寛治五年 (1091) で、そもそも開眼供養と建築は全く関係のない別の事だから支障がある筈はない。」 と。また斎藤兵衛入道浄円は「辛未の日は不吉とする考えもある、色々言っては際限がないから今日の執行で問題はない。」 と。
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法橋円全は 「前例を言い出せば辛未だけではない。後一條院の寛仁四年 (1020) 1月19日辛未には興福寺阿弥陀堂の御塔柱立て、堀河院の康和三年 (1101) 7月6日辛未には春日大社で一切経供養、同日には日吉大社で大般若経供養、鳥羽院の元永元年 (1118) 閏9月19日辛未には熊野山で一切経供養 (御幸あり) 、崇徳院の保延二年 (1136) 3月4日辛未には熊野山本宮の五重御塔供養、後鳥羽院の元暦元年 (1184) の閏10月10日辛未には法皇御願により蓮花王院で万部四巻の御経供養があった。」 と語った。
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   ※千葉時胤: 安貞二年 (1228) に 千葉胤綱の死没により、10歳で
千葉介を継承した千葉氏の七代当主。千葉胤綱の長男、又は胤綱の父 千葉成胤の三男とする説もある。
北條泰時の偏諱を受けて時胤と名乗ったが、24歳で死没し長子の頼胤が跡を継いだ。
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   ※鳥羽院御幸: 崇徳天皇に譲位したのは20歳の保安四年 (1123)
1月で、元永元年 (1118) 閏9月には天皇位にある。この場合の呼称には天皇位ではなく「院」を使うのが通例らしい。
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   ※西山の麓: 西山は 長谷寺 (公式サイト) から成就院の南まで続く
山並み (麓との標高差は約40m) を差しているのだろう。甘縄の南で西山の麓だと 収玄寺あたりか、と思う。
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    右上画像は長谷駅周辺の地図。クリック→ 別窓で拡大表示。
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長谷寺の起源は曖昧で、梵鐘の刻印などから1260年代初頭の存在は確認されているが、それ以前が曖昧である。この時代に既に確立していた寺ならば、吾妻鏡が「西山」ではなく「長谷寺」か「長谷観音」と表記すると思うのだが...。
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ちなみに、極楽寺坂切通し (現在の極楽寺坂) の開削時期は大正末期 (1920年代) 、それまでの極楽寺坂は成就院の門前を通っていた。紫陽花の名所 成就院 (別窓) を参照されたし。
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   ※収玄寺: 江戸時代末期の文政期 (1818~1829年) に開いた
鎌倉では比較的新しい日蓮宗の寺。
北條朝時 北條光時の執事に任じていた四条頼基の屋敷跡と伝わる。
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頼基は朝時の代官として信濃国伊賀良荘 (現在の長野県飯田市) に赴任した建長五年 (1253) 頃から 日蓮に帰依し、文永八年 (1271) の龍ノ口法難の際は殉死まで考えるほど真摯な仏法の弟子だったらしい。
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日蓮が佐渡で著した 開目抄 (Wiki) は鎌倉の頼基を経由して信者に伝わった。晩年の頼基は甲斐南部の内船に所領を得て内船寺 (地図) を建立した。
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  右画像は内船寺の山門。 クリック→ 甲斐源氏 南部一族発祥の地 (別窓) へ。
  日蓮との接点は後半部分を参照されたし。

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山梨から静岡に流れ下る富士川沿いの国道50号近く、甲斐源氏関連で立ち寄った場所なのだが、まさか鎌倉で四条頼基の関連史跡に触れるとは思わなかった。
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内船寺の近くには一時期の日蓮が滞在した聖跡 身延山久遠寺 (公式サイト) があり、関連する史跡も点在している。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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10月20日 壬申
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吾妻鏡
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周防前司 中原親実、伊賀式部入道光西 (伊賀光宗) 、籐内左衛門尉定員 (10月16日に記載した将軍頼経の近臣) らが陰陽師の安倍泰貞と安倍晴賢朝臣を伴って甘縄に出向いた。
御堂を建てる地の方角を確認し、御所の坤方 (南西) なので工事には支障がない旨を報告した。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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10月25日 丁丑
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吾妻鏡
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晴、晩に強風。戌四刻 (21時半過ぎ) に相模守 北條時房の公文所 (時房家の家政担当部署) が焼失した。
南風が吹き荒び、東は勝長寿院の橋の近くまで、西は永福寺惣門の内門まで焼き払い、炎と煙が飛ぶように広がって右大将家 頼朝と右京兆 北條義時の法華堂が本尊と共に灰燼に帰した。
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人や家畜の焼死は数知れず、盗人の放火が原因との噂もある。
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   ※焼失範囲: この記述は明らかに東西を取り違えている。
勝長寿院の橋 (大御堂橋) は時房邸 (小町通りと若宮大路の中間、に訂正) から約900m東にあり、永福寺惣門は大御堂橋から更に北東に900m。
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従って「西は勝長寿院の橋 (大御堂橋) の近くから、東は永福寺惣門の内門まで焼き払い」が正しい。  右地図をクリックして別窓 拡大版との照合を。
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こんな単純ミスの原因は判らないが、頼朝と義時の法華堂まで焼けたのだから滑川北側は八幡宮を除く大倉御所跡まで全焼した事になる。
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横大路 (金沢街道、六浦道) に面した御所の 南門から永福寺に向かう二階堂大路は「岐れ道」で分岐して鎌倉宮に突き当たる道ではない。入口が少し判りにくいが、更に南側を通る古道である。
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しかも六浦道からの入口は荏柄天神社参道入口より東側 (草庵鎌倉の左) がスタート地点になり、現在と同様に二階堂川に沿って屈曲していたらしい。防衛計画上の配慮があったのだろうか。
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右地図をクリック→ 別窓拡大して確認されたし。
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永福寺の惣門はテニスコート付近にあったのだから、勝長寿院の橋 (大御堂橋) までの範囲を焼き尽くした飛んでもない大火災である。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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10月27日 己卯
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吾妻鏡
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晴。相模守 北條時房 武蔵守 北條泰時が評定所に入り、摂津守 中原師員、駿河前司 三浦義村、隠岐入道行西 (二階堂行村) 、出羽前司 中条家長、民部大夫入道行然 (二階堂行盛) 、加賀守 町野康俊、玄蕃允 太田康連 が評議に加わった。式部大夫入道光西 (伊賀光宗) 、相模大掾北條業時が (25日の) 法華堂と本尊の焼失を報告し、それぞれが「避けられない火災ではあるが、関東では最も回避したい災厄である」と述べた。
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再建についての評議があり 師員、行西、康連らは「焼失した墳墓堂 (法華堂) が再建された例はない。」と述べ、管理する寺に助成金を支給する決裁があった。また将軍 藤原頼経が (甘縄に) 計画した祈願寺の建立は今回の火災に伴って延期となり、これは徳政として世間の噂となった。
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   ※北條業時: 極楽寺流 北條重時の四男(異母弟 義政の格下とされ扱いは五男) で普恩寺流北條氏
の祖。八代執権 時宗の時代に連署となり、極楽寺流での家格は塩田流を抜き嫡流赤橋家の次となった。孫の基時が第13代執権になっている。
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   ※墳墓堂再建: 「その例はない」 のだが15年後の宝治合戦 (1247年) では泰村率いる三浦一族が
頼朝の法華堂に籠って集団自決」したのだから再建されているのは間違いない。
義時法華堂の再建記事は記憶にないが、何処かで見付かる、かも知れない。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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10月28日 庚申
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吾妻鏡
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晴。去る12日に土御門院が阿波国で崩御 (37歳) した旨の報告が京都から届いた。
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   ※土御門陵:火葬塚は鳴門市大麻町池谷 (地図) 、阿波神
社に隣接している。
  右画像をクリック→ 別窓で拡大表示。
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四国の霊場八十八ヶ所の一番札所 霊山寺 (公式サイト) 近くの円墳である。改葬した御陵は長岡京市金ヶ原金原寺、地図)にある。
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承久の乱を主導した後鳥羽上皇は延応元年 (1239) に崩御、順徳上皇は建長元年 (1249) に崩御、承久の乱に関与しなかった土御門が最初に崩御した。
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   ※百錬抄の記述: 今上 (後堀河) 天皇の第一親王が皇太子 (秀行) となった。
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   ※秀仁親王: 母は 九条 (藤原) 道家の娘。わずか二歳の寛喜四年 (1232) に父の後堀河から譲位を
受け九条道家や 西園寺公経が補佐したが、仁治三年 (1242) に12歳で死没、直接の死因は転倒事故とされる。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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11月 6日 戊子
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吾妻鏡
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辰刻 (朝8時前後) に大きな流星が東の山から西に流れ、人々を不安に陥れた。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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11月 9日 辛卯
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吾妻鏡
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晴。御台所 竹御所の御祈祷として御所で千度御祓い (神前で大祓の詞を千度唱える) を行なった。
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泰貞、晴賢、長重、晴幸、重宗、宣賢、広資、経昌・晴秀、文親 (全て陰陽師の安倍氏) が務めた。
陪膳 (接待、給仕) は伊賀助仲能、民部少輔親実 (狩衣) 。手長 (配膳の補助役) は六位 (狩衣) の10人、奉行は周防前司 中原親実である。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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11月10日 壬辰
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吾妻鏡
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晴。将軍家 藤原頼経の御祈祷として御所で千度御祓い (神前で大祓の詞を千度唱える) を行なった。
人数は昨日に同じだが、文親と晴秀は席順について口論したため退席させた。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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11月17日 己亥
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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今暁の寅刻 (4時前後) に海辺が鳴動、その響音は雷鳴のようだった。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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11月18日 庚子
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吾妻鏡
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宿願の五大明王尊像の制作が始まり 中原師員、光西 伊賀光宗、玄蕃允 太田康連が奉行を務めた。
今日は右大将家 頼朝の法華堂の上棟式である。この差配は寺に委任してある。
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   ※五大尊像: 10月16日に予定していた堂の建立場所は19日になって甘縄に変更となり更に25日
になって延期となった。本尊の造像は先行してスタートしている。
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   ※寺に委任: 10/25の火災で焼失した法華堂の再建である。10/27に再建についての議論があり
「墳墓堂再建の例はない」との意見も出たが、幕府の手を離れ (費用を支給して) 寺に差配させる形に決着したらしい。頼朝死没は32年前で義時の死没は 7年前、幕府としては頼朝の法華堂再建は避けたいが義時の法華堂だけ再建するのも憚られる、幕府から切り離して寺 (鶴岡八幡宮寺) の管理責任に振り替えたか。
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うっかり見過ごすところだったが、頼朝の法華堂はこの時点で最初の焼失と再建を経ていたのだね。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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11月24日 丙午
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吾妻鏡
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辰刻 (朝8時前後) に鶴岡八幡宮の三嶋社 (境内に勧請した末社) が鳴動したため占いあり。穢と不浄に注意すれば病の気が鎮まるとの託宣である。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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11月25日 丁未
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吾妻鏡
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最近の天変や三嶋社の鳴動についての御沙汰があり、祈祷が開始された。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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11月27日 己酉
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吾妻鏡
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安倍泰貞朝臣による属星祭を行なった。
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   ※属星祭: 陰陽道の祭祀。生年の十二支で決まる北斗七星の一つを属星とし長寿招福を祈る。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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12月 5日 丙辰
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吾妻鏡
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卿法印と信濃法印が御所に参上して盃酒を献じた。相模守 北條時房と武蔵守 北條泰時も参席し、稚児らによる延年 (歌舞、俗謡) を楽しんだ。
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   ※卿法印: 吾妻鏡の嘉禄元年 (1225) 5月1日と同年7月11日に「大蔵卿法印良信」の記載がある
が詳細は不明。信濃法印は寛喜元年 (1229) 5月15日に「一字金輪は信濃法印」、寛元二年 (1244) 6月3日にも同じ記載があり、同じく詳細不明 (名は道禅) 。
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個人的には、信濃の坊主が酒を持って来るのなら諏訪の「真澄」か木曽の「七笑」だといいな、なんて史実から離れた想像を巡らした。どちらも当時はあり得ない酒だ。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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12月10日 辛酉
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吾妻鏡
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明春の二所詣でについての沙汰があった。
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   ※二所詣で: 何の沙汰だか判らないが、翌年も翌々年も二所詣が行われた記録は載っていない。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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12月26日 丁丑
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。信濃法印道禅を導師として、五大尊 (五代明王) 像を彫る木材の清めを行なった。また来年の太一定分 (将軍頼経の数え15歳の厄年) の祈祷として終日の勤行が始まった。更に造立した御本尊などの像 (薬師如来、観音菩薩、不動明王) の開眼供養を道禅が行なった。玄蕃允 太田康連、隠岐左衛門尉 二階堂行義 (行村の子で評定衆) がこれを差配した。
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   ※五大尊像: 10月16日と19日に記載のある、二階堂から甘縄に変更した五大尊堂の像だろう。
像を納める建物の方は計画が遅れた上に、最終的には十二所の大慈寺境内に変更となる。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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12月28日 己卯
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吾妻鏡
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今夜、安倍広資による三万六千神祭を開催した。代厄は安倍親貞である。
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   ※三万六千神祭: 陰陽道の祭祀で天変地異を除き天下泰平を願う。初めて使われた「代厄」の意味
は良く判らないが、当人に替って厄を引き受ける陰陽道の重要な祭祀らしい。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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12月30日 辛巳
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吾妻鏡
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今夜、戌刻 (20時前後) と亥刻 (22時前後) の二度に亘り豪雨と雷鳴があり、雨は深夜に降り止んだ。
大晦日夜の雷鳴は大きな変事が重なる予兆とされる。
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2025年
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8月06日
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晴耕雨読
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大玉スイカの甘みが不足した原因は?   08/05 16時半 右下をクリック→ 別窓で拡大表示
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右は久しぶりの雨予報で、玄関前に並べた吸水用の空き容器。この他に大型ポリバケツ2個、漬物屋さんから貰った60Lの容器2個に雨水を溜めている。筑西市は水道料金が高いからね。次に転居するときは広い庭に井戸を掘ってもらう計画だ。
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さて、スイカの件。知り合いに確認した限りでは 「追肥の過剰施肥だろう」 との結論になった。秋ナスの切り戻し追肥だとかキュウリやオクラの追肥などで化成肥料を溶かした水を頻繁に与えていたのだが、その余った液状の肥料を (スイカが喜ぶと思って) 何度も与えたのが主な原因らしい。後悔先に立たず!
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「スイカの追肥は控えめに」のマニュアルは理解していたのだが、緊張感が足りなかったね。まぁ食べてもらったナースの皆さんからも良い評価を頂いたし我が家でもそれなりの涼しさを味わえたから良い教訓だったと考えよう。残る大玉スイカは、あと三つだ!
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園芸日誌を少し整理して 2025年10月の情報を載せた。左目次の 晴耕雨読 園芸日誌 でどうぞ。
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西暦1231年
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86代 後堀河天皇
寛喜三年
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吾妻鏡
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86代 後堀河天皇
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