
. . 86代 後堀河天皇 |
. 1月 1日 壬午 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 将軍家 藤原頼経が鶴岡八幡宮に御参りのため午一点 (11時半) に御束帯、御車で出御。駿河判官 三浦光村が供奉し、和泉守 天野政景が御剣を持ち、佐原五郎左衛門尉※が御調度 (弓箭) を携えた。 還御の後に相模守 北條時房の沙汰による椀飯※の儀あり。陸奥式部大夫 北條政村が剣を献じた。 . . ※椀飯 (おうばん) : 饗応の献立、食事を摂る儀式や行事も意味する。大判振る舞い の語源。 . ※佐原五郎: 佐原姓で五郎で左衛門尉なら 盛時だ。北條泰時と離縁した 三浦泰村の娘 矢部禅尼 . ※年令: 四代将軍 藤原頼経 (幼名 三寅) 、間もなく 満 15歳、 竹御所 (故 2代将軍 頼家の娘、30歳、前々年12月に将軍 頼経と婚姻、 .貞暁 (前々年3月病没、享年46才) 、 坊門信子 (故 実朝の寡婦、出家) 45歳 、 . 北條泰時 48歳、 北條時房 58歳、 北條朝時 39歳、 北條重時 34歳、 北條政村 27歳、 北條実泰 24歳、 三浦義村 63歳、 三浦泰村 48歳、 千葉時胤 13歳 、 安達景盛 49~57歳、 安達義景 21歳、 足利義氏42歳、 宇都宮頼綱 52歳、 二階堂行村 74歳、 二階堂行盛 50歳、 . 後堀河天皇 19歳、 西園寺公経 59歳、 九条道家 38歳、 藤原定家 67歳、 退耕行勇 67歳、 親鸞 57歳、 叡尊 31歳、忍性 14歳、 日蓮 10歳、 ※ 三浦義村は仁安三年 (1168) 誕生 (史料に拠り 元暦元年 (1184) に満16歳だった と設定)。 ※ 安達景盛は寿永元年 (1182) 誕生 (異父兄 島津忠久との年齢差≒ 5) 考えて年齢を推定した。 (全て1月1日基点の満年令、下線付きはWiki) . . ※ 安貞二年 (1228) 12月に関白が 近衛家実 (Wiki) から鎌倉将軍 藤原頼経の父 九条道家に交替。 近衛家実 (通称を猪熊関白) は鎌倉幕府と協調して後鳥羽院政を否定し 「成功 (売官制度) 」 なども取り入れたが、将軍頼経+三浦一族+西園寺公経と組んで幕府への圧力を強めようと諮った九条道家との権力争いに敗れて政治力を失ってしまう。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 86代 後堀河天皇 |
. 1月 4日 乙酉 . 吾妻鏡 |
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後鳥羽上皇の時代 (建久九年 (1198) ~承久三年 (1221) に上皇在位) に京都から贈られた朝覲行幸※の絵を将軍家 藤原頼経が御覧になった。 陰陽権助 安倍晴賢朝臣が仰せを受けて記載されている言葉を読み上げた。 . . ※朝覲行幸:「覲」は今上天皇が太上天皇 (前任の天皇) と皇太后の御所を訪問して拝謁する行幸。 年始の挨拶として正月に行われるのが恒例で、即位や元服の後にも行われた。 第52代嵯峨天皇の大同四年 (809) から鎌倉時代まで続き、以後は徐々に衰退した。 . 絵巻物などから抽出した Wiki 画像も参考に。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 86代 後堀河天皇 |
. 1月 5日 丙戌 . 吾妻鏡 |
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未刻 (14時前後) に月が金星の軌道を犯した (隔てる距離は四寸、約12cm) 。去る貞応三年 (1224) 4月7日にも同様の異変があり、6月13日には右京兆 北條義時が死去している。 日本でも中国でも良い例は見当たらないのだが年始であるため天文道は不吉との言葉を発していない。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 86代 後堀河天皇 |
. 1月23日 甲辰 . 吾妻鏡 |
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去る12日の朝覲行幸は無事に終わった旨の連絡があった。閑院※から持明院殿への行幸である。 武蔵守 北條泰時は次のように語った。 . 去る12日に山ノ内に行こうとした際に 「道虚日なので憚りあり」と言う人がいて延期した。朝覲が行われたとの事だが、先例は当然考慮した上の行幸だろう。この日を吉事に使うとは理解し難い。 .玄蕃允 太田康連と齋藤兵衛入道浄円※と法橋円全※らが御前に控えており、浄円と円全は「そのような例は知りませんが、昔から貴賤の間で避けるのが習慣となったのでしょう。」と述べ、康連は見た覚えがある、と語った。泰時は更に質問を続けながら座を起ち、大切にしていた文書から一枚の書類※を取り出して示した。 . 道虚日(外出は凶とされる日)を吉事に用いた例 . 長和五年 (1016) 2月30日、左大臣 (御堂関白藤原道長)が衛兵を与えられた事 (24日の六條内裏渡御後) 延久年代 (1069~1074) 、宇治殿 (藤原頼通) が三条天皇に拝賀した。 寛和元年 (985) 4月12日、大殿 (藤原兼家) が随身 (衛兵) を与えられた礼を言上した事 天喜五年 (1057) 12月24日、但馬守範永が五位蔵人に補任され初めて礼を言上した事 承保元年 (1074) 10月30日甲午、大甞會 (新嘗祭) で白河天皇が御禊ぎを行った事 永保三年 (1083) 11月12日癸丑、宇治泉殿の増築後に殿下 (関白藤原師実) が京極殿に渡御した事 寛治元年 (1087) 6月24日甲辰、摂政(藤原師実) が初めて上表 (辞表提出) した事(先例となった) 同二年 (1088) 2月18日乙未、除目を行なわれ、少将殿 (藤原忠実) が礼を言上した事 康和元年 (1039) 10月6日甲辰、大将殿 (藤原忠実) が宇治入道 (藤原師通) から氏長者※を継承した事 同 10月12日庚戌、前齋院 (令子) が大殿(摂関経験者で現摂関の父 藤原師実) の養女として渡御した事 康和五年 (1105) 4月6日甲寅、阿闍梨寛信が昇任の礼を言上した事 . . ※一枚の書類:泰時は「相棒」の杉下右京と同様に「細かい所が気になる困った性格」なのか、 それとも 「樹を見て森を見ない」レベルなのか。 .※氏長者:摂関家 (平安初期に藤原良信が摂政に任じて以後は全て藤原北家) の中で摂政関白に 任じた者を差す。平安時代の道長からは、 .. 藤原道長-藤原頼通-藤原教通-藤原師実-藤原師通-藤原忠実-藤原忠通- 藤原頼長-藤原忠通-近衛基実-松殿基房-近衛基通- 松殿師家-近衛基通 (1184~1186年) 、 . 続く鎌倉時代は、 九条兼実-近衛基通-九条良経-近衛家実-九条道家-近衛家実-九条道家- 九条教実-九条道家-近衛兼経-二条良実-一条実経-近衛兼経-鷹司兼平- 二条良実-一条実経-近衛基平-鷹司基忠-九条忠家-一条家経-鷹司兼平- 二条師忠-近衛家基-九条忠教-近衛家基-鷹司兼忠-二条兼基-九条師教- 鷹司冬平-近衛家平-鷹司冬平-二条道平-一条内経-九条房実-鷹司冬平- 二条道平- 近衛経忠-鷹司冬教 (1330~1333)
※閑院:平安初期の藤原冬嗣以来の藤原氏邸宅。二条大路の
南で西洞院の西にあり、東西に東三条院と堀川院邸が並ぶ。三邸とも摂関家と関係が深く里内裏に使う例が多かった。中京区古城町の西福寺 (地図) を囲む一角である。 .. 右画像は閑院の概略地図。 クリック→ 別窓で拡大表示 ※斎藤浄円:名は定長、嘉禄元年 (1225) の評定所を創設して 以来の評定衆。貞永元年 (1232) に制定された御成敗式目の起草者の一人で、評定衆と連署の起請文草案の作成にも関与した。 .吾妻鏡の建保元年 (1213) 5月3日と同5日の和田合戦の条に以下の記載がある。 . 丁度 鎌倉に祇候していた出雲守定長は武門の人物ではなかったが防戦に力を尽くした。刑部卿難波 (藤原) 頼経朝臣の孫、左衛門佐経長の息子である (3日) 。 .出雲守長定 同じく賞を蒙る (6日) 。 斎藤浄円の祖父は藤原刑部卿頼経で父親は経長、頼経は豊後国知行国主として九州の反平家勢力の中心として働き文治五年 (1189) 2月22日に安房流罪、更に伊豆流罪の記事もある。頼朝には嫌われたが、三代とも能力の高い人物だったらしい。 ※法橋円全: 御成敗式目 (貞永式目) 執筆者の一人。今年の吾妻鏡 5月14日に「玄蕃允 太田康連に (式目の編纂を) 指示し、円全が執筆した」との記載がある。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 86代 後堀河天皇 |
. 2月 7日 戊午 . 吾妻鏡 |
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御台所 竹御所が体調を崩し、日中以後は特に苦しんでいるため平癒の祈祷を行なった。五壇法、北斗供、泰山府君、代厄御祭などである。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 86代 後堀河天皇 |
. 2月 8日 己未 . 吾妻鏡 |
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晴。戌刻 (20時前後) に月が天關 (牡牛座の星) の軌道を犯し、更に太白 (金星) と婁星 (牡羊座の星) を犯した。特に珍しい事例が重なった事に天文方が驚いている。
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 2月13日 甲子 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 2月14日 乙丑 . 吾妻鏡 |
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甘縄付近の民家で火災あり。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 86代 後堀河天皇 |
. 2月20日 辛未 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 一條殿 (九条道家※) から新調の牛車が贈られ 大夫尉 後藤基綱 が受け取った。これは将軍家 藤原頼経の近日中の昇叙を祝うものである。 . . ※九条道家: 寛喜三年 (1231) 7月に長男 教実に関白職を譲り、間もなく従一位に昇叙する。 更に翌年 (つまり今年の) 10月には後堀河天皇に嫁した長女の藻壁門院が産んだ秀仁親王が後堀河の譲位によって四条天皇となり、道家は「天皇の外祖父で鎌倉将軍の父」という圧倒的な権勢を手中にするのだが...好事魔多し。 .仁治三年 (1242) に四条天皇が12歳で夭逝し、道家の立てた目算が狂い始める。 . 将軍頼経を介して幕政への関与を強めていた道家は次期天皇として順徳天皇の皇子 忠成王 (道家の縁戚) を推し、政敵の 土御門定通 (Wiki) は土御門天皇の皇子 邦仁王を推したが...結果として承久の乱に大きく関与した順徳の皇子は泰時に拒絶され乱には関与しなかった土御門の皇子 忠成王が第88代 後嵯峨天皇となる。 . そして寛元四年 (1246) の 三浦光村で鎌倉将軍頼経が将軍を罷免され直後に勃発した 宮騒動の計画に関わった嫌疑を受けた道家は関東申次を罷免、更に関白を継承した四男の一条実経も罷免されて道家は政治的な立場を完全に喪失してしまう。 . 真偽不明とされているが (私は捏造だと思う) 宝治合戦 (1247年) で敗れた三浦一族が頼朝法華堂で自刃した際に、逃げ遅れて天井裏に隠れた住僧が漏れ聞いた一族最後の述懐を報告した。その中で 三浦光村が次のように語っていた、と。 . 頼経将軍の時代に、九条道家様の指示に従って北條執権を倒し権力を握るべきだった。泰村が躊躇して決断しなかったために妻子と死別する結果となった。三浦一族がこうして滅ぼされる恨みは尽くし難い。 .(吾妻鏡 宝治元年 (1247) 6月8日) 全面的に信用できる話ではないし、吾妻鏡の編纂者が北條氏に忖度した気配もあるし、25年も先の事件ではあるが。 取り敢えず九条道家の立ち位置は把握しておきたい。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 86代 後堀河天皇 |
. 2月23日 甲戌 . 吾妻鏡 |
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御台所 竹御所)が (病の穢を祓うため) 沐浴された。
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 2月24日 乙亥 . 吾妻鏡 |
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武蔵国六所宮※の拝殿が破損したため修理に取り掛かり、左衛門尉 武藤資頼が奉行を担当する。 . . ※六所宮: 府中市にある現在の 大國魂神社。大化の改新 (645年) に伴って武蔵国府が置かれ国司 が各地の神社に奉幣巡回するのを簡略化するため、著名な六社を合祀して建立した 「六所宮」を原型とする。この経緯は相模国総社の 六所神社 (別窓) とも共通する。 . 大國魂神社の例大祭は昔日の「くらやみ祭り」、全村の灯火を消してOPENな男女交際、露骨に言えば乱交を認める俗習で、これは伊豆伊東の 音無神社とも共通する) 。 . 江戸時代の後期、寛永年間編纂の伊東誌に拠れば... . 村内はすべて音曲を停止する静かな祭りであり、当夜は近郷近在の未婚の若者が灯を持たないで大勢参詣する。境内の木陰で交わる男女も多数見られるが昔からの習慣なので当然と思われている。ただし中級の格式以上の家の娘は親が許さないから参詣するのは身分の低い家の娘だけ、誠に珍しい祭りである。 .話を戻して、前九年の役に出陣するため武蔵国府に滞在した 源頼義が秩父武綱 (畠山重忠から四代前の先祖) に先陣を命じて白旗を与え、治承四年 (1180) の 頼朝による鎌倉入りに際して、その旗を掲げた重忠が先陣を務めた故事が知られている。 四代に跨るパフォーマンスだ。 . . . 86代 後堀河天皇 . 2月26日 丁丑 . 吾妻鏡 . |
武蔵国の槫沼堤※が崩れたため原状回復を近在の地頭に命じる旨を定めた。左近入道道然と石原源八経景が現地に下向して奉行を務める。武蔵国の御家人は自領から必ず百姓一人を伴って集まり 俵2枚を以て3月5日から作業を開始し、奉行は現地で管理監督を行なうよう命じた。 . .
※槫沼堤: 従来は坂戸市赤尾 (約7km北、越辺川と都幾川の
合流地点 (地図) と推定されたが、現在は坂戸市横沼 越辺川と入間川が合流する西側 (地図) が有力らしい。 .. 越辺川の西側を霞堤 (切れ目のある不連続の堤防とし本流の増水を逃がして下流域の氾濫を防ぐ広い遊水池の役目を兼ねていたと考えられる。 . 最上川での応用例 を参考に。 . また「俵」の意味 (原文は在家別俵二可充之者) は在家毎に「炊き出しの米を二俵供出せよ」との指示である。 . 私、40年ほど前に横沼近くに住んでいた。越辺川で釣りした事もある、懐かしい場所だ。 右上は横沼周辺の鳥瞰図(クリック→ 別窓で拡大表示)。 . 霞堤を造ったのは釜無川、笛吹川、御勅使川などの治水に苦しんだ武田信玄が最初だと思っていたが...もし横堤が霞堤なら歴史が変わるね。 . 川島町はローカルなエリアだが、地元の醤油メーカーが開いた 金笛醤油パーク (地図) に立ち寄りをお薦めする。 家族連れには下手なテーマパークより記憶に残る、と思うよ。 . . 86代 後堀河天皇 . 3月 2日 壬午 . 百錬抄 . | . . . 86代 後堀河天皇 . 3月 3日 甲申 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。鶴岡八幡宮で恒例の神事 (上巳の節句) があり、午の一点 (11時過ぎ) に将軍家 藤原頼経)が御参宮の予定だったが、御祓いを受け持つ陰陽師の出仕が遅れたため出御が延びた。そこに京都からの飛脚が到着し、先月27日に昇叙 (従三位、中将は今まで通り) の聞書※が届けられた。 . 両国司 (相模守 北條時房と武蔵守 北條泰時) が参上し、頼経から「今日の参拝を以て拝賀に兼ねよう」との仰せがあり、日取りについての確認を行なった。 中原師員と清原季氏※らは「拝賀については日取りを選ぶ必要はなく、神事に続いて拝賀する事には何の支障があるだろうか。」との意見である。 元々上吉の慶びは当日、中吉は三日以内の良き日を祝賀に宛てた。日取りを選ぶのは近年の習慣である、と。 . その後に牛車を先日京都から到着した毛車※に乗り替え、御榻役 (乗降の踏み台担当) と剣役を式部大夫 北條政村に交代させた。これらによって時が過ぎ、未の二点 (13時半過ぎ) になってから西の廊に出御、前大膳亮泰貞朝臣 (衣冠) を呼んで反閇※を命じた。泰貞は無官を理由に辞退した後に仰せに従った。 . 将軍家は左近大夫将監 大江佐房を介して褒美の御衣を与えた後に出発した。相模守 北條時房以下多数の供奉人が従い、宮寺では頓覚坊律師良喜を導師とした法華経供養を聴聞され、供奉の諸大夫 (身分の低い官人) らに御布施を運ばせた。舞楽は通例の通り、将軍家は夜になって御所に還御された。 . . ※上巳の節句: 五節句の一つ。貴族の子女が御所を模した飾り付で遊び健康と厄除を願ったの が最初。 .※聞書: 任官叙位の際に昇進該当者名とその理由を記した会議の備忘録や議事録の筆写。 . ※清原季氏: 嘉禎二年 (1236) ~仁治四年 (1243) まで評定衆を勤めている。 暦仁二年 (1239) ~宝治三年 (1249) は同じ清原姓の満定 (清原清定の息子) が同じ評定衆に任じているのだが二人の関係が判らない。評定衆の設置 (1225年) から任じている斎藤 (清原) 長定は満定の兄で、長定の息子が清時なのだけれど。
.※毛車: 屋根を色糸で飾り前後の庇にも総 (房) が付き、糸を巻いた竹で編んだ簾を用いる。 主として貴人の女性用。 .※反閇: 邪気を払うため呪文を唱え大地を踏みしめ千鳥足に歩む陰陽道の呪法。動画検索を。 . . . 86代 後堀河天皇 . 3月 9日 庚寅 . 吾妻鏡 . |
伊豆国仁科庄※では飢饉によって餓死する農民もあり、農業が手に付かない状態に陥っているとの報告が武蔵守 北條泰時の元に届いた。このため出挙米三十石を貸与し、もし弁済できなかったら泰時の負担として原状回復せよ、と矢田六郎兵衛尉に指示を与えた。この措置は既に数度繰り返している。 . . ※仁科庄: 現在の西伊豆仁科で堂ヶ島温泉の近く (地図) 。水田が少なく一次産業の畑作と林業 と漁業、観光に頼るエリア。国道414号から仁科峠を経て西伊豆に抜ける ルート地図 を一度通った。二度と走りたくない道だった記憶が残っている。 .※出挙米: 領主からの貸付米。原則は返済を要する貸付米で供与ではないが、この場合の扱い は特例。当時の米の計量は延久宣旨枡 (延久四年 (1072) に後三条天皇が設定。 .1升=現在の6.7合) が基準だから一石は670合、1合≒154gで1石は103kg、30石は3,095kgになる。 . . 86代 後堀河天皇 . 3月13日 甲午 . 吾妻鏡 . |
天変に対応する祈祷を行なった。 .. . 86代 後堀河天皇 . 3月14日 乙未 . 吾妻鏡 . |
晴。月蝕正現せず。 .. . 86代 後堀河天皇 . 3月15日 丙申 . 吾妻鏡 . |
権大僧都観基が死没した。大宮大進行頼の孫で土佐守源国基の子、去る承久元年 (1219) に将軍家の御持僧として下向した僧である。 .. . 86代 後堀河天皇 . 3月19日 庚子 . 吾妻鏡 . |
六人の高僧を選び、御所に於いて大般若経の転読を行なった。今年の将軍家 藤原頼経が太一 (北天を運行して兵乱、禍災、生死を司る星) の厄に当たる事に対応した祭祀である。 .. . 86代 後堀河天皇 . 3月25日 丙午 . 吾妻鏡 . |
晴。御所での大般若経転読が結願した。 . . . 86代 後堀河天皇 . 4月 1日 辛亥 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 . 今日、宿曜 (天文暦学) の備中法橋から日蝕がある旨の申し出があり、御所を覆うべきか否かを周防前司 中原親実を介して暦道※に問い合わせた。日蝕は起きない筈、との回答があった。 . . ※暦道: 暦を作成する学問の暦学。律令制では陰陽道の部署とされた。 . . . 86代 後堀河天皇 . 4月 2日 癸丑 . 皇帝紀抄 . |
この日 改元あり。寛喜四年を改め貞永元年、変異頻発への対応である。 . . . 86代 後堀河天皇 . 4月 4日 甲寅 . 吾妻鏡 . |
京都大番役に関する沙汰があった。領国以外に居住している者であっても、地頭に任じている土地を基準にして大番役を務めるか代官を派遣して任務を全うするよう命令した。
.. 86代 後堀河 貞永元年 . 4月7日 . 吾妻鏡 . . |
新補地頭 (1221年の承久の乱以後に補任された地頭) の職務に関する七ヶ条が定められた。 .. . 86代 後堀河天皇 . 4月 9日 己未 . 吾妻鏡 . | . . 86代 後堀河天皇 . 4月11日 辛酉 . 吾妻鏡 . | . . 86代 後堀河天皇 . 4月12日 壬戌 . 吾妻鏡 . |
将軍家が八幡宮に御参り (八講の二日目、か) 。 .. . 86代 後堀河天皇 . 4月13日 癸亥 . 吾妻鏡 . |
今日ふたたび御神拝あり (八講の三日目、か) 。 .. . 86代 後堀河天皇 . 4月14日 甲子 . 吾妻鏡 . |
同じく将軍家の御神拝あり(八講の四日 目か) 。 .今日、改元の詔書が鎌倉に届いた。去る二日、寛喜四年を改め貞永元年とした。 . . 86代 後堀河天皇 . 4月15日 乙丑 . 吾妻鏡 . |
晴。将軍家 藤原頼経が去る11日から今日まで続けた鶴岡上下宮への御奉幣が無事に完了した。 .. . 86代 後堀河天皇 . 4月21日 辛未 . 吾妻鏡 . |
近日、都鄙 (都会と田舎) を問わず夜討ちや強盗事件が起きているとの噂がある。守護人と地頭らに向けて、見聞きした事を隠蔽せず報告するよう命じた。
.. . 86代 後堀河天皇 . 4月25日 乙亥 . 吾妻鏡 . |
晴。今暁、太白 (金星) が鎮星 (土星) の軌道を犯した (一尺六寸 (約50cm) の距離)。天文担当が勘文 (諮問に答える上申書) を献じた。摂津守 中原師員が将軍家にこれを取り次いだ。 .. . 86代 後堀河天皇 . 5月14日 甲午 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 武蔵守 北條泰時は政治に専心し、御成敗の式條※の設定を内々に検討していた。今日これを具体化するため 、熱心に玄蕃允 太田 (三善) 康連と打ち合わせを行ない、法橋円全がこれを書き留めた。従来の関東諸人の訴訟については判決の矛盾などが頻発して統制が取れず、成文化する必要が高まったのが理由である。 今日夕刻に将軍家 藤原頼経が鼻血。 . . ※御成敗式條: 頼朝以来の慣習法や先例を基礎に、武士が守るべき信条を成文化した幕府法で ある。当初の泰時は 「式條」 で、後に 「式目」 と改めた。 .全文で 51条、これは 聖徳太子による 「十七条の憲法」 (共にWiki) を意識して三倍に設定したのは 几帳面な泰時らしい。 . 貞永式目と呼び始めたのは後世から、判りやすさなら 現代語訳 御成敗式目 全文 を、原本に触れたいなら 京大図書館機構の史料 をお薦めする (共に別窓) 。 . 泰時独特の精神論が主体で、説話集っぽい語り口が個人的には好きになれない。 別に私の生活が変わるんじゃないから好き嫌いは関係ないけど。 . . 86代 後堀河天皇 . 5月15日 乙未 . 吾妻鏡 . |
日中から将軍家 藤原頼経が体調を崩し、御所で鬼気祭が催された。世間では咳の病気が流行して貴賎を問わず罹病し、三日病 (現代でいう風疹) と呼ばれている。 .. . 86代 後堀河天皇 . 5月16日 丙申 . 吾妻鏡 . |
将軍家の病気が続いている。精神も疲弊しているようだ。 .. . 86代 後堀河天皇 . 5月17日 丁酉 . 吾妻鏡 . |
今暁に占いなどを行なった。七人による泰山府君祭は親職、晴幸、晴職・国継、晴賢、親貞、経昌。土公祭は重宗、鬼気祭は晴茂が担当した。今日未刻 (14時前後) 、鳥が将軍家御座所北面の御簾に糞を懸けた。これにより国継が担当して百怪祭が行われた。 .. . 86代 後堀河天皇 . 5月18日 戊戌 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 鳥の糞に対応する祈祷とし、て御所に於いて千度御祓いを催した。今日 故 修理亮 北條義時の三回忌を迎えて武蔵守 北條泰時が義時の墳墓堂 (法華堂※) で新造した阿弥陀三尊像の開眼供養を行なった。 . .
※義時法華堂: 右は頼朝墓所の東、法華堂跡の平場を石段の
途中にある大江広元廟近くから撮影した。 .. 昨年10月25日の大火で頼朝法華堂と共に焼け落ちたが、半年後には既に再建され法事が可能になっていた。 . 石段の上から見て左の高みには 地元では古くから「義時さん」と呼ばれていた「やぐら」もある。呼び名だけで全く無関係なんだけど。 . 法華堂が廃墟になってから近くの 「やぐら」 と義時を結ぶ伝説が生まれたのだろうか。 画像をクリック→ 義時の法華堂跡と伝 義時やぐら の詳細へ (別窓) 。 . . 86代 後堀河天皇 . 5月26日 丙午 . 吾妻鏡 . |
将軍家 藤原頼経の体調不良が平癒し、今日病の穢を祓う御沐浴の儀を行なった。 .. . 86代 後堀河天皇 . 6月 7日 丙寅 . 吾妻鏡 . |
夜になって強風があり民家が破損した。籐内左衛門尉藤原定員※の小町口※の家が桁から吹き飛ばされ二町 (約200m) も先に落ちた、と。 ..
※藤原定員: 頼経に従って鎌倉に入り将軍の御所を奉行した
近臣。小町口は 今大路から二の鳥居前で若宮大路を渡り小町大路に突き当たった部分を差す。 .
※小町口: 話のついでに、小町口に近い 日蓮辻説法の跡 (地図) は 実際は更に 300m弱ほど南の
. その場合のルート地図 を参考に。 .Gマークの少し上、鎌倉彫会館の 「会」 の字が幕府庁舎の 最南部 「宇都宮辻子」 の宇都宮稲荷大明神。 今大路→ 若宮大路間は古道と同じだが若宮大路→ 小町口は古道ルートか否かは不明。小町大路の南端または北端ではない事は間違いない。 右上の地図には南北に三本、東西に二本の大路を記載してある。 もう一本は六浦から八幡宮の前を西へ通る道。窟小路を経て亀ヶ谷坂切通しや化粧坂方面に向かう道と、巨福呂坂を登って山ノ内に下る道に分岐する(クリック→拡大表示)。 「夷堂橋の付近」 だったらしい。聖跡を設ける空き地がなく、発案者の田中智学が現在地に決めたのだ、と。 .. 元々の夷堂は本覚寺の前、滑川に架かる橋の前にあったから橋の名が戎堂橋、ここには鎌倉青年団の石碑が建っている。 後に夷堂は200mほど北に移転 (明治初期の神仏分離運動の影響か) して蛭子神社となり、辻説法の跡も宗教者の思惑のまま固定されてしまった。 .
仏教団体としては 日蓮辻説法の跡 (右画像、クリック→ 別窓で拡大表示) を聖地扱いにして信者の心をさらに煽り教えを広め深めよう、と考えた。. 宗教は全て、同じ発想をする。宗祖や聖人の痕跡を聖地として保存し、組織拡大の材料とする。 . まぁ普通に考えれば、幕府庁舎の前での批判的な辻説法は如何にも危険すぎる。夷堂橋の前なら幕府庁舎からは幾分離れるし大町の商業地帯にも近いから説法に適した環境ではある。 . 夷堂橋、本覚寺、蛭子神社については妙本寺 比企一族滅亡の跡 (別窓) に少々の情報を載せて置いた。「日蓮辻説法の跡」の画像は行方不明だったが、やっと探し出した! . 小町口の 「口」 は普通名詞にも使われるため確定しにくいが、建長四年 (1252) 4月1日の吾妻鏡に 「 (宗尊親王の) 道中は稲村崎から由比浜鳥居の西を経由して下の下馬橋へ。ここで御輿を降りて前後の供奉人も各々下馬し、中の下馬橋を東に折れて小町口から相模守北條時頼邸に入御した」との記述があり、ルート地図 の ④ 辺りが小町口か。 . . 86代 後堀河天皇 . 7月 8日 丁亥 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。今暁の寅刻 (4時前後) に太白 (金星) が東井 (ふたご座 ~かに座) の軌道を犯した。これは 安徳天皇が西海 (壇ノ浦) で崩御され宝剣が失われた※際と同じ天変である、との報告が天文道から提出された。 . . ※宝剣紛失: 原文は 「安徳天皇没西海給寳釼紛失時變也」。当時は 後白河法皇が 宝剣探索を厳命 していたし、頼朝も 義経に対して同じ指示を下している。 .. 少し時が過ぎて発見の可能性なしと判ると朝廷は 「本物は京都に残っていた」 とか 「草薙の剣は門外不出のため実物は 熱田神宮 の宝蔵にあり、壇ノ浦で沈んだのはレプリカだ」 などと必死に誤魔化しているのが浅ましく、面白い。 . . 86代 後堀河天皇 . 7月10日 己丑 . 吾妻鏡 . |
晴。私心を離れて政道に就く事を表すため評定衆11人を招集して起請文に連署を求めた。 . 摂津守 中原師員 前駿河守 平 (三浦) 義村 沙弥隠岐守行西 (二階堂行村) 前出羽守 藤原 (中条) 家長 加賀守 三善 (町野) 康俊 沙弥民部大夫行然 (二階堂行盛) 左衛門少尉 藤原 (後藤) 基綱 大和守 三善倫重※ 玄蕃允 三善康連 相模大掾 藤原 (佐藤) 業時※ 沙弥浄円(斎藤長定) . 相模守 北條時房 と武蔵守 北條泰時は全体を統括し判断を下す立場としてこの起請文に署判を加えた 。 . . ※起請文: 記載されている文面と署名は省略した。 . ※三善倫重: 問注所執事の 三善康信→ 公事奉行の行倫→ 初代評定衆の一人倫重 に続く幕府の 中枢で、矢野姓も名乗っている。御成敗式目執筆に関与した一人とされる。 .※藤原業時: 佐藤姓も名乗る相模大掾。嘉禄元年 (1225) の評定所設置と共に初代評定衆の一人 に就任した。仁治二年 (1241) 5月20日に落書などの罪に問われて評定衆を解任され、26日に鎮西配流に処された。後に許されて鎌倉に戻ったが評定衆復帰は成らなかった。 .. . 86代 後堀河天皇 . 7月11日 庚寅 . 吾妻鏡 . |
鶴岡八幡宮の西の廻廊、南から第四間 (4スパン目) に死人 (14、5歳の子供) ありと宮寺が報告した。 . . . 86代 後堀河天皇 . 7月12日 辛卯 . 吾妻鏡 . |
晴。将軍家 藤原頼経に兼ねてからの所願があり、体調不良の際には鶴岡宮で臨時の祭祀をせよとの事。 . 来る17日を予定していたのだが、昨日八幡宮で蝕穢 (死骸) があり、支障の有無を周防前司 中原親実を介して陰陽師に確認させた。結論は 先ず体調に注意する事、また八幡宮の穢を祓うには30日を要するとの事である。 . これに関し相模守 北條時房と武蔵守 北條泰時、摂津守 中原師員、駿河前司 三浦義村、隠岐入道 二階堂行村、加賀守 町野康俊、信乃民部大夫入道 二階堂行盛、大夫判官 後藤基綱、大和守 矢野 (三善) 倫重 (7月10日参照)、玄蕃允 太田 (三善) 康連らが評議し、臨時の祭祀は延期すべきなのか、祭祀を中止しても問題は起きないか、結果として中止が望ましいとの結論に至った。 これは兼ねて或る人が語っていた通りである。 . 今日、勧進聖※の往阿弥陀仏※が申請していた件、船が着岸し安全に荷降ろしなどが出来るよう和賀江嶋※に堤防を築くべきとの提案に武蔵守 北條泰時は特に喜んだ。幕府も協力し、御家人も助成することになる。 . . ※勧進聖: 諸国を巡り布教すると共に財物の寄進を求め、堂塔や仏像のみならず橋や道路の補 修などに尽力し民生に奉仕した僧侶。特に時宗や念仏宗の遊行僧が多かった。 .
※往阿弥陀仏: 勧進聖の一人だが素性は不明で、前年4月に
.※和賀江嶋: 現在も材木座の南端に痕跡が残り大潮の干潮 時には渡渉できる。 .昔は荷下ろしの際に破損廃棄したらしい青磁の欠片なども拾えたが、昨今の様子は不明。 . 由比ヶ浜は遠浅で大型船が着岸できず、荷降ろしは沖合から小舟で運ばざるを得なかった。漂流や難破を防ぐ施設として相模川などから石を運び築堤と係留施設を8月9日までの25日間で完成させた、と伝わっている。 . 残念ながら数年後に崩壊し、復興には常陸を経て鎌倉に入った忍性が極楽寺に拠点を置き本格的な慈善活動と行政への協力を軸とした布教を始める1260年代を待つ事になる。 右上は大潮で干潮の和賀江島鳥瞰 (画像をクリック→ 別窓で拡大) . . 86代 後堀河天皇 . 7月15日 甲午 . 吾妻鏡 . |
勝長寿院で一切経会があり、将軍家 藤原頼経の意向で舞楽などの奉納は特に丁重に催された。 .将軍家は御直衣 (公卿の普段着) に牛車、相模五郎 北條時直が剣持ちを務めた。 . 越後守 北條朝時、陸奥式部大夫 北條政村、民部少輔民部少輔 三条 (藤原) 親実※、上野介 結城朝光、和泉守 天野政景、大夫判官 後藤基綱、大夫判官 伊東祐時、大夫判官 三浦光村、駿河次郎 三浦泰村、左衛門尉三浦家村 (三浦義村の六男) 、左衛門尉 佐々木重綱らが供奉した。 . 今日、和賀江嶋の築造が開始され、三郎左衛門尉 平盛綱が立ち会った。 . . 86代 後堀河天皇 . 7月23日 壬寅 . 吾妻鏡 . | . . 86代 後堀河天皇 . 7月27日 丙午 . 吾妻鏡 . | . . 86代 後堀河天皇 . 7月28日 丁未 . 吾妻鏡 . |
御台所 竹御所が陰陽師七人を招き禄 (帷、一重の衣類) を与えた。御堂を建てる場所についての打ち合わせの最初で、奉行は大和籐左衛門尉久良※。 . . ※大和籐左衛門尉久良: 承久の乱 (1221) 6月18日の勲功リストの中に「大和の籐内(一人討ち 取り)」の記載がある。詳細は判らないが、同一人物だろう。 . . . 86代 後堀河天皇 . 8月 6日 甲寅 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 御台所 竹御所の御方違えについて、駿河入道 中原季時の家は本所の方角として正しくないから東御所※を使うべきとの沙汰があった。大和久良がこれを差配する。 . . ※東御所: さて東御所とは何処だろう?若宮大路幕府の一画か、比企ヶ谷の竹御所邸は有り得な いし。いくら悩んでも推定できる材料が乏しすぎる。 .. . 86代 後堀河天皇 . 8月 8日 丙辰 . 吾妻鏡 . |
御台所竹御所は御堂造営のため今夜から東御所に遷り、145日の御方違えとなる。
.. . 86代 後堀河天皇 . 8月 9日 丁巳 . 吾妻鏡 . |
晴。和賀江嶋の工事が完了※、左近入道 尾藤景綱、三郎左衛門尉平盛綱、兵衛尉 諏方盛重が巡検した。 . . ※工事完了: 巾40m×長さ200mの範囲に相模川や酒匂川 (小田原市) 河口の丸石や伊豆の石材を 使った埠頭の痕跡が確認されている。 .工期 25日は港湾を建造するには短か過ぎるから、事前に相当の準備期間があったと推測される。何となく 平清盛が築造を命じた大輪田泊の石椋を思い出すね。 .
右は神戸港西側から出土した大輪田泊の石椋 (防波堤の基礎) 。詳細は画像をクリックして 「神戸港、一の谷合戦」 (別窓) へ。 .また吾妻鏡の建長六年 (1254) 4月29日には唐船の数についての記載があり、1250年以降の 忍性らによる改修で拡張された可能性や、寛喜四年 (1230) の築造で外洋を航行する大型船を係留できる設備が整ったのだろう。 . 往阿弥陀仏が前年4月に筑前国に葦屋津鐘ヶ崎で築堤した時点では既に和賀江嶋の計画がスタートしていた、と考えるのが合理的かも知れない。 . . 86代 後堀河天皇 . 8月10日 戊午 . 吾妻鏡 . |
晴。御台所 竹御所所願の御堂建立の日時を決定した。
.. また武蔵守 北條泰時に拠る御成敗式目 50ヶ條の編纂が完了し、今日から訴訟の決裁はこれに依拠するよう定められた。これは淡海公 (藤原不比等 (Wiki) の諡号) の律令に比すべきもの、律令は海内 (国) の亀鏡 (宝) 、式目は関東の宝である。第44代元正天皇の養老二年 (718) に淡海公が律令を纏めさせた歴史がある。 . . 86代 後堀河天皇 . 8月13日 辛酉 . 吾妻鏡 . |
評定衆による会議あり。藤原氏長者である九条教実殿下の伝来所領である摂津国の垂水西御牧の内萱野郷に犯罪人があり、守護所への引き渡しを左大弁宰相に指示するよう、今日六波羅に通告した。 . 強盗や夜討ちに類する凶悪犯は、摂政関白の所領であっても検非違使の権限外であっても、守護所に引き渡す渡すべきであると定めている。その内容は庄司も承知している筈だ、と。 . 筑後前司の (武藤) 資頼入道 (法名を是仏) から鎮西の奉行を辞任したいとの書状が先日届いた。今日その決裁があり、石見左衛門尉資能※を補任する、と。 . . ※岩見資能: 武藤資頼の息子説と、それを否定する説がある事を添付しておく。手が回らない! . . . 86代 後堀河天皇 . 8月15日 癸亥 . 吾妻鏡 . |
小雨。鶴岡の放生会あり、将軍家の出御は通例の通り。民部少輔 北條有時が御剣役に任じた。供奉の廷尉 (検非違使) は 5人、関東では異例の数である。 後藤基綱、伊東祐時、宇佐美祐政 (祐茂の嫡子、以上は五位) 、佐原盛時、三浦光村 (以上は六位)。 .. . 86代 後堀河天皇 . 8月16日 甲子 . 吾妻鏡 . |
晴。将軍家藤原頼経は昨日に続いて御参宮、御台所は馬場の桟敷に出御され、三浦盛時と 三浦光村が垣根横に控えた。盛時は狩衣の家の子一人を従え、光村は小型の弓を携えた狩衣の家の子※三人 (各々郎等4人と雑色2人、童僕2人、弓箭持ちを各1人)を率いている。 馬場での催事は通例の通りだが、競馬では兵衛尉景氏と土肥左衛門尉義綱を呼んで競わせ、景氏を勝たせるよう祈祷してその通りの結果になった。 . . ※家の子: 三浦氏や千葉氏のような大身の豪族は所領の分与を受けて分家するが、中級や弱小 の一族は惣領が財産と家名を継ぎ、次男以下の弟や庶子や娘婿らは家臣 (家の子) として惣領の支配を受ける。資産 (主として農地) の細分化は避けられるが、二男以下の不満は確確実に蓄積する。 .. . 86代 後堀河天皇 . 9月 1日 戊寅 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .
. 畿内近国および西国での境界争いについては、双方が国衙領地の場合は国司が決裁し、荘園の場合は領家 (一次所有権者) が決裁した後に奏聞を経て朝廷の承認を得る。この趣旨を六波羅に伝達した。 . . 86代 後堀河天皇 . 9月 3日 庚辰 . 百錬抄 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 中宮が皇女※を産んだ。 . ※中宮と皇女: 後堀河天皇妃の竴 (しゅん) 子は前の関白 九条道家の娘。 誕生は第四皇女の皞 (こう) 子内親王だが...五歳で死没する。 .. . 86代 後堀河天皇 . 9月11日 戊子 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。武蔵守 北條泰時は五十ヶ條の御成敗式目※に和字 (仮名混じり) の文書を添えて六波羅に送った。 使者は駿河原左衛門尉。 . . ※御成敗式目: 現代語訳としては満足できるものが少ないが、理解し易さでは こちらのサイト がお薦めできる。特に難解な部分はないが、成文化の過程で評定衆の議論や協議に触れた記載が皆無なのは少し残念な気持ちが残る。 .. . 86代 後堀河天皇 . 9月13日 庚寅 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 雨。去る三日の午刻 (正午前後) に中宮が皇女を御平産で安産。大相国※から将軍家に連絡があった。 . . ※大相国: 太政大臣を差す。この時点での摂関は 九条教実 (Wiki) だが、前任者である父の 九条 道家 (将軍頼経の父)からの連絡だろう。 昨年 2月には中宮の竴 (しゅん) 子が後堀河天皇の皇子 (後の 87代四条天皇) を産み、息子の頼経は鎌倉将軍。道家は朝廷での絶頂期を迎えている。 . . . 86代 後堀河天皇 . 9月18日 乙未 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 未刻 (14時前後) に地震。 . . . 86代 後堀河天皇 . 9月28日 乙巳 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 御台所 竹御所が御方違えを終えて御所に還御された。相模守 北條時房 と武蔵守 北條泰時が参上し、盃酒と椀飯を献じた。 . . |
当時の陰暦では季節感の差を埋めるため 3~4年に一度閏 (うるう) 月が入る (今年は 9月の次が閏 9月) 。西暦と陰暦には一ヶ月弱のズレがある事にも留意が必要、例えば頼朝が挙兵した治承四年 8月4日は西暦では 8月25日になる。また、2月は30日まであることも頭に入れておこう。 陰暦→ 西暦の確認や変換は こちらのサイトが利用できる。 . . . 86代 後堀河天皇 . 閏9月 1日 戊申 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 畿内近国および西国での境界争いについては、双方が国衙領地の場合は国司が決裁し、荘園の場合は領家(一次所有権者)が決裁する、※と定めた。 . . ※決裁について: 概略は9/1の記載と重複するが、9/1には※の次に 「後に奏聞を経て朝廷の承認 を得る」 の文章が入っていた。つまり 「朝廷の承認は不要」 に訂正している。 .. . 86代 後堀河天皇 . 閏9月 4日 辛亥 . 吾妻鏡 . |
晴。寅刻 (早暁4時前後) に彗星が乙方 (東南東) に現れて庚方 (西南西) に向かった。長さは二尺で広さは八寸 (約60×24cm) で白っぽい赤。この変異が何の予兆なのか、凶事の前兆である彗星なのか、本星 (属する星座) のない彗星が出現する例も再三である。 .. . 86代 後堀河天皇 . 閏9月 5日 壬子 . 吾妻鏡 . |
晴。 (将軍家は) 周防前司 中原親実を奉行として司天の輩 (天文方) を呼び集め、昨夜の天変について何の予兆であるかを尋ねた。晴賢、晴継、晴幸、宣賢 (いずれも安倍) が御厩の侍控えに着座した。将軍家が簾中に御坐されて意見を聞かれたが、各々の言葉が異なり一致を見られなかった。 .. . 86代 後堀河天皇 . 閏9月 6日 癸丑 . 吾妻鏡 . |
晴、夜になって雨。大夫判官 後藤基綱の奉行として天変に対応する祈祷をせよとの命令があった。 .. . 86代 後堀河天皇 . 閏9月 8日 乙卯 . 吾妻鏡 . |
この数日は曇や雨が続いたが今暁は久しぶりに晴天となり彗星が確認できた。輝きを増した光の筋 (尾) は長さ二丈で広さは一尺余 (約6m×30cm強) 、東山から一丈 (3m) 離れて南に動いている。 . 今日、武蔵守 北條泰時と相模守 北條時房が御所に参上し、摂津守 中原師員、駿河前司 三浦義村、隠岐入道 二階堂行村を交えて協議した。 . (天文方ら) それぞれの意見を添付して京都に問い合わせる事に決まり、斎藤兵衛入道浄円 (1月23日を参照) の奉行として陰陽師を招集した。親職、晴継、晴幸は白虹 (兵乱の兆し) であると述べ、晴賢は白気 (吉兆) であると述べ、泰貞と晴茂は彗星であると述べ、宣賢は戦の神の旗(兵乱の兆し)と述べた。 . 結論が出ないため京都への問い合わせは保留とし、後藤大夫判官 後藤基綱の奉行として祈祷を行なう決定を下した。弾正清原季氏 (3月3日を参照) が陰陽師の名前を記録した。 . . ※百錬抄の記述: 彗星が東方に現れた。長さは二丈余。 . . . 86代 後堀河天皇 . 閏9月 9日 丙辰 . 吾妻鏡 . |
晴。天変(彗星)の様子は変わらず、白くて光の尾は長い。 .. . 86代 後堀河天皇 . 閏9月10日 丁巳 . 吾妻鏡 . |
晴。天変に対応する祈祷が始められた。 . 修法 (祈祷) は次の通り。 (雑掌は「代官として管理し供物を負担する者」程度の意味か) . 八字文殊(信乃法印) 雑掌(和泉守 天野政景) 一字金輪(松殿法印) 雑掌(出羽前司 中条家長) 尊星王(宰相法印) 雑掌(五郎左衛門尉 佐原 (三浦) 盛時) 北斗(松殿法印) 雑掌(城太郎 安達義景) 薬師(丹後僧都) 雑掌(駿河入道 中原季時) 愛染王(加賀律師) 雑掌(左衛門入道土屋宗光、宗遠の嫡子) . 御当年 . 一壇(助法印) 雑掌(陸奥五郎 北條実泰) 一壇(越後法橋) 雑掌(隠岐入道 二階堂行村) . 鶴岡宮 仁王会御神楽(政所沙汰) . 御祭 三万六千神※(晴賢) 雑掌(武蔵守北條泰時) 天地災変(親職) 雑掌(相模守北條時房) 属星※(晴幸) 雑掌(修理亮宇都宮泰綱) 天冑地府(宣賢) 雑掌(大和左衛門尉久良、7月28日を参照) 泰山府君※(経昌) 雑掌(足立三郎?) 七瀬御祭※(晴茂、重宗、晴秀、清貞、泰宗、道氏、文親) . . ※三万六千神祭: 陰陽道の祭祀で 天変地異を除き天下泰平を願う。前年12月28日にも催行。 . ※属星祭: 陰陽道の祭祀。生年の十二支で決まる北斗七星の一つを属星とし長寿招福を祈る。 前年11月27日にも催行している。 .※泰山府君祭: 陰陽道祭祇の一つ。中国古代の神 泰山府君が仏教の閻魔大王と習合して寿命と 富貴を支配すると共に侍者の司命神が冥府の戸籍を管理すると信じられた。 .天台宗の円仁が中国から比叡山麓に勧請した赤山明神が泰山府君。 また素戔嗚 (すさのお) 尊や大国主神などとも習合し本地垂迹説によって本地地蔵菩薩となった。寛喜二年 (1230) 5月24日にも催行している。 ※七瀬御祭: 七瀬の禊または七瀬祓い。平安時代からの陰陽道の修法で水を司る七所の霊所で 行なう。由比ヶ浜 (前浜) 、金洗澤 (七里ヶ浜、地図) 、多古恵河 (田越川、地図) 、 .森戸(杜戸、地図) 、抽河 (いたち川、鼬川、地図) 、六浦(横浜市金沢区、地図) 堅瀬河 (境川、地図) か、江ノ島龍穴。 . 寛喜二年 (1230) 11月13日にも催行している。 . . 86代 後堀河天皇 . 閏9月11日 戊午 . 吾妻鏡 . | . . 86代 後堀河天皇 . 閏9月15日 壬戌 . 吾妻鏡 . |
晴。彗星は小さくなり光芒も薄れ、やがて中心の光も見えなくなった。 .数日で再び出現する例はないが、天文方は希代の天変であると語っている。 . . 86代 後堀河天皇 . 閏9月17日 甲子 . 吾妻鏡 . |
鏡社 (唐津松浦の鏡神社、公式サイト) の住人が高麗で夜討ちを仕掛け多くの宝物を奪って帰国した。 守護人の少貳資能※ (武藤資頼の嫡子) が仔細を調べるため実行犯を拘束しようとしたが預所 (荘園の現地管理者) は守護に従う理由なしと書面で主張してきた。 . 今日この件の決裁があり 「預所の関与する権限外である。乗っていた船および財物は全て守護所で然るべく処理せよ」と隠岐左衛門入道 二階堂行村に通達された。 . . ※少貳資能: 肥前国守護は建久六年 (1195) ~嘉禄三年 (1227) が武藤資頼、寛喜二年 (1230) ~ 文永七年 (1273) は少弐資能が任じている。 .. 弘安の役 (1281) では老齢ながらモンゴル軍と最前線で戦い壱岐島から駆逐したが負傷して後に死没、息子の資時も壮烈な討ち死にを遂げている。 . . 86代 後堀河天皇 . 閏9月18日 乙丑 . 吾妻鏡 . |
法勝寺※九重塔の修理について、将軍家 藤原頼経からの助成があった。瓦を焼く費用については西海の御家人が負担することになる。 . .
※法勝寺: 藤原師実 (Wiki) が別荘地 (白河別業) を白河天皇
に献上し、白河天皇は承保二年 (1075) からその土地で壮大な堂塔建造に取り掛かった。 .. 永保三年 (1083) に愛染堂と共に完成した八角九重塔は高さ80m、京都のランドマークだったと伝わる (想像図、別窓) 。 . 周辺には次々と代々天皇による祈願寺が建造され、全ての名称に 「勝」 の字を用いた事から六勝寺と呼ばれた。寺名は、法勝寺(白河天皇)、尊勝寺(堀河天皇)、最勝寺(鳥羽天皇)、円勝寺(鳥羽天皇中宮)、成勝寺(崇徳天皇)、延勝寺(近衛天皇)。 . 応仁の乱 (1467~1477) までに六勝寺の堂塔伽藍の全てが廃墟と化しているから、僅か400年弱の華麗な夢物語に過ぎなかった。現在は法勝寺の敷地跡 (厳密には敷地の南半分) が 京都市動物園となり 法勝寺町の名が往時の繁栄を伝えている。 . 右上画像は六勝寺の旧跡ポイント(クリック→ 別窓で拡大表示) . . 86代 後堀河天皇 . 閏9月20日 丁卯 . 吾妻鏡 . | . . 86代 後堀河天皇 . 閏9月21日 戊辰 . 吾妻鏡 . |
晴。去る四日の天変は彗星である旨、京都朝廷の陰陽寮から勘文 (諮問への報告書) が鎌倉に届いた。 内容が安倍泰貞の当初の発言※と符合するため、仔細を載せた御書を与えた。 周防前司 中原親実が奉行である。 . . ※当初の発言: 閏9月8日に安倍泰貞発言の詳細を記載してある。 . . . 86代 後堀河天皇 . 閏9月26日 癸酉 . 吾妻鏡 . |
晴。今日御台所 (竹御所) 所願の祈祷が行われた。また鶴岡宮寺に於いて百人の僧による仁王経法会があり、これは彗星に対応した祈祷である。呪文は次の通り。 .牟尼釈範 仁王妙文 一部金乗 両軸寶偈 通二諦道 開五忍尽 佛界庠蔵 法門枢健 極聖目足 大士肝心 実智挙燈 慧輝瑩鏡 一四天下 三千界中 褊日月明 破国土暗 排般若蔵 解露一封 捧摩尼輪 降雨万寶 天上妙薬 甘露染唇 海中寶珠 法水潤色 吉海舟楫 飛化度帆 護国劔刃 磨勝利刀 満足悉地 早於龍蹄 被膽諸天 扣得麟角 彼佛本誓 方便無量 斯経大慈 効験利□ 感応之至 得而難称 霊威之通 仰而取信 従初三晩 迄弟九晨 白気聳東 蒼穹驚下 司天所告 懇地不閑 称星称蛇 数丈数尺 変異縁底 畏途覆水 恐懼多端 休門相泥 何況閏月 加干暮秋 愉慎紫霄 漸送素律 又是年厄 太一定分 因茲日来 無貳方寸 仰佛天応 丹祈翹誠 呪幽明霊 就八幡宮 敬屈臥雲 展百講席 非仮佛力 誰競天災 請微運志 新本吉日 非浴神恩 爭禳時妖 白法不妄 金言無私 縦雖彗星 蓋鎖法雨 玉燭照洞 表壽星祥 香烟薫空 彰慶雲瑞 宮闕月朗 狎葉縣烏 羽林風和 戯華表鶴 正室翠帳 伴岩松栄 将軍華亭 譲石椿算 家門千輩 華夷兆民 楽有道邦 誇無為世 貞永元年閏九月二十六日 . . . 86代 後堀河天皇 . 10月 2日 戊寅 . 吾妻鏡 . |
将軍家 藤原頼経の御願として寺を大倉に建てる予定が定められた。親職、晴賢、晴幸、重宗、宣賢、泰宗らの陰陽師を呼んで将軍の御前で直接の質問に答え、春の間の吉日を選定せよとの指示があった。 . 各々の答えに拠れば「春の間には全く吉日がなく、10月2日が上吉である。堂の建立について六勝寺の例を勘案すれば、成勝寺の他は全て吉日を選んでいる事に倣うべき」とのこと、その内容を採用した。 . . ※百錬抄: 前関白 九条道家の里内裏※に於いて譲位を定めた。これは 応徳 (1084~1087年) の 例※に依ったものである。権中納言 藤原定家が寛平の国史を書き出し、その例を追うべきである、と。 .※里内裏: 九条道家邸は現在の京都御苑の南西部分にあった。現在は庭園の一部にあった九条 池と、その中島にある厳島神社は当時の鎮守社だったらしい。 .. また元治元年 (1864) の禁門 (蛤御門) の変では九条邸に布陣した会津藩兵が鷹司邸の長州藩兵に向けて砲撃したとの記録がある。
. 600年を隔てても同じような政争紛争が繰り返された場所だ。まぁ京都周辺は何処でも同じ様な歴史を背負っているのだろうけれど。 . 右は九条池周辺の鳥瞰 クリック→ 別窓で拡大表示 ※応徳の例: 応徳二年 (1085) に、第72代白河天皇の腹違い の弟で皇太弟 (皇位継承を認められた天皇の弟) だった実仁親王が14歳で崩御した。白河天皇は実子の善仁親王 (8歳) を皇太子と定めて即日譲位し、幼帝 (73代堀河天皇) を後見する形で院政を開始した。 .. 嘉承二年 (1107) 7月に堀河天皇が崩御した後は 74代鳥羽、75代崇徳の三代に亘り幼帝を擁立して43年間の院政を敷き、上皇が 「治天の君」 として人事権を掌握し上皇による専制独裁が行われる最初の例となった。 . . 87代 四条天皇 後堀河上皇 . 10月 4日 庚辰 . 史 料 . | . . 87代 四条天皇 後堀河上皇 . 10月 5日 辛巳 . 吾妻鏡 . |
先月28日から今暁まで彗星が連夜現れた。光芒は弱まったが南から北西へ、長さは四丈 (約12m) 。 . 今日、御台所 竹御所が御堂を建てる土地について評議があり、弁阿闍梨の房がある場所を選んだのだが当人の愁訴があって中止し、頼朝法華堂南の土地もまた支障があるため大倉観音堂 (現在の 杉本寺、 地図) の横を選び出した。 杉本寺のレポートは こちらで。 . 武蔵守 北條泰時が持ち主の大多和左衛門尉 義季※の了解を得て安倍親職と晴賢も賛成したのだが、金蔵房が地相について西透地 (西に傾斜の意味か?) の難点を指摘した。親職らと争論になったためこの案は取り消し、大慈寺の域内に変更した。夜になって御台所は御方違えのため東御所に渡御された。 . . ※大多和左衛門尉: 三浦義明-三男大多和義久-嫡男義成-義季へと続く。大多和城址は 横須 賀市太田和2213 、 (地図) 、標識はあるが遺構などは全く残っていない。 .※蛇足 その1: 太田和の東隣に「武」の地名がある。 建保七年 (1219) 1月に八幡宮で 公暁に殺された実朝の首級を雪の中から見つけ、主人の 三浦義村には届けず波多野に運んで埋葬し、出家定住して墓を守ったと伝わるのが 「武」 を本貫の地とした義村の家臣 武常晴である。 .実朝の首級を義村に渡さなかった理由などの詳細は 秦野 実朝の首塚 (別窓) で。 ※蛇足 その2: 大多和義久の嫡男義成は 和田義盛が決起した和田合戦 (1213) には義盛に同調せ ず宗家の三浦氏に従い、更に三浦氏が滅びた宝治合戦 (1247) では 三浦泰村に同調せず
北條時頼に与して生き残り家名を保った。 .. そして義久から五代後の義勝 (義行) は鎌倉に攻め込む途上の第一次分倍河原合戦に敗れて意気消沈した 新田義貞の陣に駆け付けて陣容を整え、第二次の分倍河原合戦に勝利して北條一族の滅亡に決定的な役割を果たした。 詳細は 分倍河原の合戦 (別窓) で。 . まあ損得計算で立場を変える連中は時代を問わず存在する。別に大多和一族が狡賢いと書いてるんじゃないけど。 . . 87代 四条天皇 後堀河上皇 . 10月 7日 癸未 . 吾妻鏡 . | . . 87代 四条天皇 後堀河上皇 . 10月14日 庚寅 . 吾妻鏡 . |
晴。去る四日に御譲位(四条天皇、二歳へ)があった件が京都から伝えられた。 .夜になって天変に対応する祈祷のため御所で七壇の僧による北斗護摩が行われた。弁僧正 定豪 (八幡宮別当) が伴僧を率いての催しである。 . . 87代 四条天皇 後堀河上皇 . 10月17日 癸巳 . 吾妻鏡 . |
不空羂索護摩を (昨夜と同様に) 催した。安祥寺法印がこの役を務めた。 .. . 87代 四条天皇 後堀河上皇 . 10月22日 戊戌 . 吾妻鏡 . |
晴。将軍家の御願として明年に五大尊堂※ (五大明王を祀る堂) を建てる場所が未だ確定しておらず、人々に命じて良い土地を探している。蔵人大夫入道西阿 毛利季光が所有する大倉の奥が望ましいとの話があり、今日、将軍家 藤原頼経 の指示で相模守 北條時房 と 武蔵守 北條泰時が安倍親職と晴賢、文元、助法印珍誉、金蔵房らを伴って現を確認した。 . 毛利入道と摂津守 中原師員、駿河前司 三浦義村、隠岐入道 二階堂行村、大夫判官後藤基綱、伊賀式部入道 伊賀光宗らも同道した。 各地を巡見してきた人々は地形や景色が優れている、この土地が望ましいと語った。 . .
※五大尊堂:鎌倉将軍が建立した頃の姿で現存する唯一の
建物、十二所※の 明王院 (公式サイト、地図) を差す。境内は撮影禁止、参拝の際は眼に焼き付けて置こう。不足した記憶は Wiki 画像 で確認すると良い。 .. すぐ東隣は 実朝が建立した巨刹 大慈寺 (廃寺) の敷地だったから、 「大慈寺敷地の西隅を転用して建立した」 と考える方が正しいだろう。 . 山道の途中を左に折れて谷津に進むと 梶原景時邸の跡、滑川上流の対岸には 大江広元邸の跡がある。 ※十二所:江戸時代の後期までは地名 「大倉」 の範囲に含まれていた。十二所の名は 光触寺 (公 式サイト) が熊野信仰の拠点として 「十二所道場」 と呼ばれていたことに由来する。更に詳細は 十二所の地理・歴史 (Wiki) を参考に。 . 右は参道途中の岐れ道に建つ 「五大堂明王院」 と彫った石塔。 画像をクリック→「明王院と伝 梶原邸の跡」 (別窓) へ . . . 87代 四条天皇 後堀河上皇 . 10月29日 乙巳 . 吾妻鏡 . |
午刻 (正午前後) が過ぎて雷鳴、夜になって激しい雨。 .今日、五大尊堂の建立に伴ってその参詣道を造るよう沙汰が下った。 . . 87代 四条天皇 後堀河上皇 . 11月 3日 己酉 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 五大尊堂を建てる土地に縄張りし (六浦道からの) 道路築造に取り掛かった。 . . 87代 四条天皇 後堀河上皇 . 11月 9日 乙卯 . 吾妻鏡 . |
御堂参詣の道※を造るため今夜から七日間の土公祭 (地鎮祭) を行ない、陰陽師が交代でこれを務める。 . .
※参詣道: 右鳥観図を参考に。滑川が六浦道の南を流れて
いれば簡単なのだが テニスクラブの南側は高さ10mほどの岩山が南に張り出しており 明石橋まで約250mの六浦道は大きく南に迂回している。
.. 大慈寺の参道は大江広元邸の向かい側付近にあり、五大尊堂の参道には新しい橋 (現在の 「二つ橋」 (地図) の前身か) を架けた。前将軍が建てた大慈寺の参道を兼用するのは頼経の沽券に拘わる、と考えたか。 . 「二つ橋」の由来は橋の下にあった二つの大石に由来すると伝わる。大慈寺の礎石だったとも言われるが、両岸は石垣とコンクリートの護岸に固められて往時の面影は感じられず、勿論二つの大石も残っていない。 . 右は東側から見た周辺の鳥瞰図。 クリック→ 別窓で拡大表示 . . 87代 四条天皇 後堀河上皇 . 11月13日 己未 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 飢饉により疲弊困窮した農民を救わなければとの武蔵守 北條泰時の意向を受けて矢田六郎左衛門尉は既に九千余石※の米を放出したが、今年弁済できる見込みがないとの愁訴が届いている。 . これにより、来年まで弁済を待つよう矢田に指示を与えた。執権泰時は農民を救う手立てを講じ、美濃国高城西郡大久礼など千余町の年貢徴収を停止し、平出右衛門尉と春近兵衛尉等を派遣して当国株河の驛※で流浪民に食事の施しを行なった。 踏み止まって農業を続けたい者はこの荘園で援助を受ける形になる。 . . ※九千余石: 玄米か白米の区分で誤差はあるが、160トン前後か。 . ※株河の驛: 株河は杭瀬川の別名で、後の中山道の赤坂宿 (地図) を差す。交通の要所での食料 給付は理解できるが、美濃国と泰時の接点は何か。美濃国の飢饉が特に深刻だった可能性もある。 .. 吾妻鏡の寛喜二年 (1230) 6月16日 (西暦の7月27日) に美濃国からの飛脚が「去る9日の辰刻 (朝8時前後) に当国蒔田庄※に雪が降った。」旨を報告した事件があった。同月11日には武蔵国金子郷にも降雪があり「泰時はこの事件を酷く恐れた。」と記録されている。この件が影響したのか、或いは地域的な冷害などがあったか。 . . 87代 四条天皇 後堀河上皇 . 11月16日 壬戌 . 吾妻鏡 . | . . 87代 四条天皇 後堀河上皇 . 11月17日 癸亥 . 吾妻鏡 . | . . 87代 四条天皇 後堀河上皇 . 11月18日 甲子 . 吾妻鏡 . |
御台所 竹御所所願の御堂 (大慈寺内) で柱立てと上棟式を行なった。
. . . 87代 四条天皇 後堀河上皇 . 11月20日 丙寅 . 吾妻鏡 . |
今夜深雪、終夜降り止まず。 (筆者注: 貞永元年11/20は西暦の1233年1/2が該当する) . . . 87代 四条天皇 後堀河上皇 . 11月21日 丁卯 . 吾妻鏡 . | . . 87代 四条天皇 後堀河上皇 . 11月23日 己巳 . 吾妻鏡 . |
陸奥国平泉保の吉祥寺が焼失、霊験の顕著な本尊観自在菩薩も灰燼に帰した。藤原清衡が建立した寺である。. . ※吉祥寺: 頼朝が平泉に入った吾妻鏡 文治五年 (1189) 9 月17日の毛越寺の項に以下の記載あり。 .. また吉祥堂の本尊は洛陽 (京都) の補陀洛寺本尊の観音像を模した像を祀っている。菩薩の生身を伝えているとの託宣があった霊像で、別に造った丈六の観音像胎内に収めている。 .
吉祥堂は現存せず、建っていた場所も定かではないが毛越寺の寺伝は次のように伝えている。. 「金堂円隆寺のほか常行堂、二階惣門、鐘楼、経蔵、吉祥堂、千手堂、嘉祥寺、観自在王院などの堂塔が409宇、禅房500余宇があった。」 .右上は毛越寺と観自在王院の鳥瞰、 右下は礎石からP/C復元した毛越寺北岸の堂塔群。 クリック→ 別窓で拡大表示。 . その他 毛越寺の更に詳細は 平泉に咲いた浄土思想の華 毛越寺 (別窓) で。平泉の史跡 全体の情報は 「鎌倉時代を歩く 弐」 の拾七 藤原氏三代と平泉文化の滅亡 (別窓) で。 . . 87代 四条天皇 後堀河上皇 . 11月28日 甲戌 . 吾妻鏡 . | . . 87代 四条天皇 後堀河上皇 . 11月29日 乙亥 . 吾妻鏡 . |
早朝、霜のように見える小雪が降った。将軍家 藤原頼経は林の雪景色を楽しむため水干と騎馬で永福寺に渡御され、武蔵守 北條泰時は昨夜の宿直から退出しないまま将軍家に扈従した。 . 式部大夫 北條政村、陸奥五郎 北條実泰、加賀守 町野康俊、大夫判官 後藤基綱、左衛門尉藤原定員 (京都から頼経に同行して将軍御所を奉行した近臣) 、都築九郎経景、中務丞胤行 (東氏三代惣領。胤頼-重胤-胤行と続く) 、波多野次郎朝定ら、和歌に秀でた者を選んで御供とした。 . 寺門の近くで卿僧正快雅が出迎えて釣殿に入御され和歌の会が催されたが、雪が雨に変わったため心残りのまま還御された。その途中で後藤基綱が「雪が雨となって残念でした」 と語ったのを聞いた泰時が 「あめのしたに ふれはそ雪の 色も見る」と詠み、基綱が「三笠の山を頼む影とて」と返した。 . . . 87代 四条天皇 後堀河上皇 . 12月 5日 庚辰 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 前大膳大夫 大江広元朝臣が存命の頃、幕府の政務を執行した寿永と元暦 (1180年代初頭) 以来の朝廷の意向や幕府との遣り取り、人々の陳情、京都や奈良で武士が関与した事件、文治 (1185年) 以後の荘園領家と地頭の訴訟記録、源平合戦の勲功記録や報告書などは公務で右筆に渡し散逸した書類も多い。 . これを聞いた武蔵守 北條泰時はこれらの書類の回収を清原季氏※、斎藤浄円、法橋円全 (5月14日にも記載あり、祐筆か) に指示し、目録を作成して左衛門大夫 長井泰秀※ に届けるよう命じた . . ※清原季氏: 嘉禎二年 (1236) ~寛元元年 (1243) まで評定衆。 . ※長井泰秀: 大江広元の次男 時広の嫡子。広元の跡を継いだ長男の 親広が承久の乱 (1221年) で 失脚、替って惣領となった時広の跡を継いで長井流大江氏の惣領となった。本領は出羽長井荘 (山形県長井市) 。 .. . 87代 四条天皇 後堀河上皇 . 12月12日 丁亥 . 吾妻鏡 . |
祈祷のため御所に於いて寿命経および一万巻の般若心経を転読する法会が七ヶ日催される。 .. . 87代 四条天皇 後堀河上皇 . 12月18日 癸巳 . 吾妻鏡 . | . . 87代 四条天皇 後堀河上皇 . 12月 23日 戊戌 . 吾妻鏡 . | . . 87代 四条天皇 後堀河上皇 . 12月24日 己亥 . 吾妻鏡 . |
雪。最近の京都に関して大相国 (太政大臣の唐名。この場合は 近衛家実) が最近の書類を送ってきた。 .7月29日の即位に伴う叙位、今月2日の四条天皇即位、5日の行幸、12日摂政 (息子の九条家実) の従一位拝賀、14日の秋の除目などである。 . . 87代 四条天皇 後堀河上皇 . 12月27日 壬寅 . 吾妻鏡 . |
大夫判官 後藤基綱による大倉堂※の開眼供養が行われた。導師は弁僧正 定豪 (鶴岡八幡宮六代別当) 、故右府将軍 実朝の追善と (基綱が受けた) 重恩に報いるための建立である。 . .
※大倉堂: 既に場所も遺構も確認できないが鎌倉幕府滅亡
後の建武二年 (1335) に勃発した 中先代の乱 (Wiki) の際に二階堂の東光寺 (現在の 鎌倉宮) の土牢で刺し殺された大塔宮 護良親王 (Wiki) 首塚の場所 (地図) にあった、とも伝わっている。 . 護良親王の死に顔の凄まじさに怯えた討手の淵辺義博(相模原の武士)がここに御首を捨てた。 . 近くにあった五峯山理智知光寺の僧がその首を弔い、すぐ前の山に葬ったその首塚が大倉堂の旧跡で、現在の 護良親王御陵 (紹介サイト) である、と伝わっている。現在の御廟の辺りなのだろう。 . 今では理智知光寺跡の石碑が建っている。すぐ前の参道を100mほど登ると御陵だが駐車場所はない、鎌倉宮の駐車場 (1時間450円) から400mほど歩く必要がある。 . 右は護良親王御陵参道前に建つ理智知光寺跡の碑 (クリック→ 別窓で拡大表示) . 碑文:此所ハ願行上人ヲ開山トセシ五峰山理智知光寺ノ址ナリ 建武二年淵邊伊賀 守義博ハ足利直義ノ命ヲ承ケ 護良親王ヲ誅シ奉リシガ 其御死相ニ怖レ 御首ヲ傍ナル薮中ニ捨テ去リシヲ 當寺ノ住僧拾ヒ取リ 山上ニ埋葬シ奉りシトイフ .. . 87代 四条天皇 後堀河上皇 . 12月29日 甲辰 . 吾妻鏡 . |
在京の御家人は大番の勤務を免除すると定められた。また宮中で五節句の催しがある際に、大番勤務で在京している者の下人らが見物に集まって騒がしいとの苦情があり、その停止を命じた。 .また市場で和市 (合意の売買) の際に騙すなど頻発しする悪事は厳罰に処するよう指示が下った。 . . . 8月06日 . 晴耕雨読 . |
6/19に受粉させた第5号スイカを収穫。 08/08 朝 9時 右下をクリック→ 別窓で拡大表示 .
サイズは約27cmで、ズッシリ重い。甘さ不足のハンディがあるので (妻は 「問題ないよ」 と言ってるが) 贈り物に使うのは必要最小限にとどめ、全部自宅で消費することになった。. 冷蔵庫には前回収穫分が1/3ほど残っているし来週月曜 (11日) には6/22に受粉させた6号スイカが収穫だから、暫くはスイカを主食にしたような生活が続きそうだ (笑) 。 . その次の7号が最後で、これは予定外の自然受粉して植木の陰に隠れて直径10cmほどになってから見つけた奴。従って 「受粉後50日」 の基準が判らないから大きさで判断するしかない。 . 期待していた昨日の集中豪雨、降ったのは1cm以下だった。週末に降ってくれると助かるのだが。 . 園芸日誌を少し整理して 2025年10月の情報を載せた。左目次の 晴耕雨読 園芸日誌 でどうぞ。 . . . . 11月21日 . 校正作業 . |
今朝、この年の校正作業が終了。 引き続き、貞永二年 (1233) の校正 (主としてフォントサイズと行間の適正化) を進める予定。 . . . 87代 四条天皇 後堀河上皇 . 月 日 . 吾妻鏡 . |
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