
. . 86代 後堀河天皇 |
. 1月 1日 庚午 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴、夜に入って雪。相模守 北條時房による椀飯※あり。御剣の献上は駿河守 北條重時 (狩衣) 、同じく御弓箭は大炊助 北條有時、同じく御行騰沓※は左衛門尉 佐原三郎家連、献上の御馬は五疋。 . 一の御馬(鞍を置く) 陸奥四郎 北條政村 同、五郎 北條実泰 二の御馬 相摸四郎 北條朝直 同、五郎 北條時直 三の御馬 佐原四郎光連 (義連の庶子か) 同、十郎頼連 (?) 四の御馬 吉良次郎※ 同、三郎 五の御馬 肥田三郎兵衛尉※ 同、八郎宗直 . . ※吉良氏: 足利義氏の庶長子 長氏が三河国吉良荘 (愛知県西三河の西尾市、地図) を得て移住し 吉良太郎名乗ったのが最初。生母が家女房 (出自の低い侍女) だったため家人※に近い待遇を受けたが、名目上は足利宗家を継承する資格を得ていた。 .. 次郎と三郎の該当者は正確には判らない。長氏の弟で共に三河に移った義継か、長氏の嫡子 満氏などが考えられる。江戸時代中期の 「忠臣蔵」 で敵役となった 吉良上野義央 (Wiki) は長氏から18代目の子孫、非の打ち所のない由緒正しい家柄である。 . 一方で下野国の足利宗家は義氏の正室 (北條泰時の娘) が産んだ 泰氏が当首、系譜は義康ー義氏ー義氏ー義兼ー頼氏ー家時ー貞氏ー高氏 (尊氏) と続く 。 . 元弘三年 (1333) 3月に倒幕に挙兵した 楠木正成 (Wiki) らを討伐すべく東海道を進軍した 足利高氏 (後の尊氏) は同じ鎌倉御家人だった同族の三河国吉良荘の領主 貞義と軍議して倒幕に寝返る事で合意し、建武の中興に大きな役割を果たすことになる。 . また、徳川家康が新田源氏の末裔を詐称した話は広く知られているが、一説に同じ三河を地盤にしていた吉良源氏 (出自は共に足利源氏) の末裔を称した、とする説もあるらしい。 ※家人: 時代により内容は異なるが、鎌倉時代では 「その家の家臣」 を意味する。鎌倉殿の家臣 は敬意を含め 「御」 を付けて御家人、 「得宗家の家臣は」同様に 「御内人」 と呼ぶ。 .
※肥田氏: 源頼朝 が伊豆韮山で挙兵した治承四年 (1180) の
8月17日の吾妻鏡に次の記載がある。 .. 山木判官平兼隆邸攻撃に向かう討ち入りの一行は茨木 (ばらき) の北、肥田原に進んで時政が馬を止めた。「兼隆後見の堤信遠の館が山木の北にある、武勇の優れた男だ。 .佐々木兄弟は彼を討ち取ってくれ、道案内を付けよう。 肥田氏の出自には土岐氏系や近江出身など諸説あるが、函南町の肥田神社周辺には「御屋敷や北屋敷」 などの字名があり、この一帯が肥田氏の居館跡と推測される。 仁田 (日田) 氏→ 肥田氏に転訛した同族関係と主張する郷土史家もいる、ようだ。 ※椀飯 (おうばん) : 饗応の献立、食事を摂る儀式や行事も意味する。大判振る舞い の語源。 . ※行騰 (むかばき) と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像 (Wiki) を参考に。 . . ※年令: 四代将軍 藤原頼経 (幼名 三寅、嘉禄元年 (1225年) 12月29日に元服) 1/16で 11歳、 貞暁 42歳 、
坊門信子 (故 (故 実朝の寡婦、出家) 42歳 、 .竹御所 (故 頼家の娘、後の四代将軍 藤原頼経の正室) 27歳 、 . 北條泰時 45歳 、 北條時房 53歳 、 北條朝時 35歳 、 北條重時 31歳 、 千葉胤綱 前年5月没 (享年31) 、 足利義氏 39歳 、 ※ 三浦義村 71歳前後 、 三浦泰村 26歳 、 ※ 安達景盛 58歳前後 、 安達義景 18歳、 . 85代 後堀河天皇 15歳、 84代 順徳天皇 31歳 、 土御門上皇 32歳 、 後鳥羽上皇 48歳 、 九条道家 35歳 、 坊門忠信 43歳 、 近衛家実 50歳、 藤原定家 64歳、 . 定豪 76歳 、 退耕行勇 65歳 、 親鸞 54歳 、 叡尊 27歳 、 忍性 11歳 、 日蓮 2月で 7歳 、 (全て1/1時点の満年令) ※ 三浦義村は仁安三年 (1168) 誕生 (史料に拠り、元暦元年 (1184) に満16歳だった と設定) 、 ※ 安達景盛は生年不詳だが頼朝の伊豆配流 10年後に誕生と仮定して年齢を推定した。 . (全て1月1日基点の満年令、下線付きは Wiki) . . ※ 前年12月24日、関白が 近衛家実 (Wiki) から鎌倉将軍 藤原頼経の父 九条道家に交替した。 近衛家実 (通称を猪熊関白) は鎌倉幕府と協調して後鳥羽院政を否定し 「成功 (売官制度) 」 なども取り入れたが、将軍頼経+三浦一族+西園寺公経と組んで幕府への圧力を強めようと諮った九条道家との権力争いに敗れて政治力を失ってしまう。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 1月 2日 辛未 . 吾妻鏡 |
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晴。武蔵守 北條泰時による椀飯あり。御剣献上は駿河守 (狩衣) 、御弓箭は大炊助 北條有時 (狩衣) 、御行騰沓は大須賀左衛門尉胤秀※ (狩衣) 。 . 一の御馬(鞍置き) 陸奥四郎北條政村 同五郎北條実泰 二の御馬 相模四郎北條朝直 同五郎北條時直 三の御馬 越後太郎北條光時 同五郎北條時章 四の御馬 梶原三郎※ 同五郎※ 五の御馬 駿河次郎三浦泰村 同四郎三浦重村※ . . ※大須賀胤秀: 千葉氏の実質的初代である常胤 の四男 大須賀胤信の二男。 . ※梶原三郎、五郎: 承元三年 (1209) 5月28日 (6月13日に関連記事あり) に西浜で 土屋宗遠が 梶原景時の孫 家茂を斬り殺す事件が起きた。 .. 景時の息子で 「茂」 を使っているのは三男の 景茂のみだから家茂は景茂の孫、三郎と五郎は景茂の息子で多分 景時の曾孫だろう。 . 殺された時の景茂は (推定) 23歳前後、息子がいれば安貞三年には20歳前後になっている筈で、系図の確認はできないが「梶原三郎と五郎」が該当する可能性は高い。 ※三浦重村: 義村の子は長男朝村、嫡子 次郎泰村、長村、駿河三郎光村、駿河四郎重村、末子 家村の順。長兄 朝村は駿河の所領を継ぎ駿河三浦氏の祖になったとの説あり。 .. 嘉禎三年 (1237) 6月23日の大慈寺 丈六堂落慶供養の供奉者名簿に載っているが、宝治元年 (1247) の三浦合戦には (戦死者を含めて) 名前が見られず、1237〜1247年の間に死没したと考えられる。 . ちなみにその後の駿河三浦氏は足利氏の陪臣として南北朝時代を過ごした後は今川→ 武田→ 後北条→ 徳川に仕えて生き残り、徳川幕府の旗本として続いたらしい。 主家に恵まれなかったらしいが、滅亡よりは生き残った方が喜ばしい。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 1月 3日 壬申 . 吾妻鏡 |
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尺 (約30cm) を越える降雪。今日、越後守 北條朝時の沙汰による椀飯あり。御剣の献上は駿河守 北條重時、御弓箭は大炊助 北條有時、御行騰沓は出羽左衛門 尉中原家平。
. 一の御馬 (鞍置き) 越後太郎北條光時 本庄四郎左衛門尉時家※ 二の御馬 越後三郎北條時長 (光時の弟) 山家次郎 (諏訪氏系、信濃の武士か) 三の御馬 越後四郎北條時幸 (時長の弟) 広河五郎 (?) 四の御馬 河原口次郎兵衛尉 (?) 同三郎兵衛尉 五の御馬 小井弖太郎兵衛尉※ 同五郎 . 椀飯が終わり夜になってから将軍家 藤原頼経が武蔵守 北條泰時邸に入御した。これは御行始め (外出初め) ではなく、雪を愛でるため 三浦義村が誘った結果である。 . . ※本庄時家: 児玉党の武士で本領は本庄市北堀一帯 (地図) 。さらに詳細は Wiki で。 . ※小井弖: 伊那郡小井弖 (こいで、地図) の武士。工藤氏の系らしいが...。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 1月 7日 丙子 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 1月 8日 丁丑 . 吾妻鏡 |
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御所で心経会 (般若心経を読む法会) あり。将軍家の御衰日 (陰陽道で行動を慎むべき日) のため延期すべきかと助教の 中原師員が申し出たが、法会や祈祷などは問題ない旨を以前から定めている。 更に 8日は心経会の定例日であると弾正清原季氏※が意見を述べ、実施となった。 . . ※清原季氏: 嘉禎二年 (1236) 〜仁治四年 (1243) に評定衆に任じている。同時代 同姓の文官には 嘉禄元年 (1225) 〜延応元年 (1239) に任じた 清原清定と、清定の嫡子で延応元年 (1239) 〜宝治三年 (1249) に任じた 清原満定がいる (共に評定衆) 。系累だとは思うが、系図上では確認できない。いずれも北條氏に近い立場の実務官僚である。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 1月 9日 戊寅 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 1月13日 壬午 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 1月15日 甲申 . 吾妻鏡 |
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晴。将軍家 藤原頼経が鶴岡八幡宮に御参り、御束帯で牛車である。西門から出御する際に (車が門に当たり?更に) 門前の橋が高くなっているため牛車の上部が門の棟木に当たり傾いてしまった。参拝後に武蔵守 北條泰時が西の侍所に着座し、車が当たった部分と橋の修理を指示した。
. しかしこの作業は犯土に該当し、現在は大将軍 (三年毎に居を変える方位神。詳細は Wiki で) が駐在する方位に該当するから当分の延期となる。 その後に御弓始めがあり (二射づつ五度) 、伊賀四郎左衛門尉朝行がこれを差配した。 . 射手 一番 武田六郎信長(信光の嫡子) vs 岡辺左衛門四郎(岡部?) 二番 佐々木八郎信朝 vs 藤澤四郎(?) 三番 本間次郎左衛門尉(加地信実の末子) vs 平左衛門三郎盛時 四番 南條七郎三郎(?) vs 渋谷六郎(?) 五番 駿河四郎三浦家村(三浦義村の六男) vs 神地四郎(?) 六番 佐貫次郎 vs 横溝六郎義行※ . .
※横溝義行: 兄の五郎資重と共に得宗被官。本領は近江国
(東近江市横溝町、地図) らしいが出自に関しては諸説があり、詳細は確認していない。 .. 鎌倉幕府が滅亡する直前の元弘三年 (1333) 5月16日の関戸の合戦で主人の北條泰家 (第九代執権 北條貞時の四男) を助けるため壮烈な討死を遂げた鎌倉勢の中に横溝八郎の名前がある。兄弟どちらかの子孫だろう。 . 右は多摩市の聖蹟桜ヶ丘駅の近くに残る横溝八郎の墳墓。 100年以上も先の幕府壊滅に伴う事件だが、横溝がらみとして掲載した。 . 関戸合戦の詳細は画像をクリック→ 「敗走する鎌倉勢と関戸の掃討戦」(別窓) 。 もちろん吾妻鏡ではなく 「太平記 (Wiki) 」 の記録である |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 1月16日 乙酉 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 1月21日 庚寅 . 吾妻鏡 |
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二所奉幣の使者として駿河守 北條重時朝臣が鎌倉を出発した。
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 1月27日 丙申 . 吾妻鏡 |
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酉の一点 (17時過ぎ) に 駿河次郎 三浦泰村の妻 (武蔵守 北條泰時の娘) が死産。去る19日から出産の気配があり酷い難産の結果である。祈祷を担当したのは大進僧都観基と丹波律師頼暁、医師は丹波良基、陰陽師は安倍晴賢ら四人。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 2月 5日 甲辰 . 吾妻鏡 |
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申刻 (16時前後) に地震あり。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 2月11日 庚戌 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 武蔵守 北條泰時邸で走湯山※ (伊豆山権現) 造営についての評議を行なった。当山管領の仁浄蓮房が参席、陰陽師を含めて日時を検討し 安倍親職以下の四人が着工を 3月5日と選んだ。奉行は 平盛綱。 . .
※走湯山: 伊豆山麓の海岸近くの横穴から噴出する熱湯が
語源。昔に較べると湯量は圧倒的に減ったらしいが今でも70℃の熱湯を1日7,000トンも噴出しているらしい (地図) 。
.. 海沿いの有料道路から車で入れるし近くには政子所縁の逢初地蔵堂もあるから立ち寄る価値はある。少なくとも 「お宮の松」 や 「貫一お宮の 」 よりはマシだ。 . 昔日の伊豆山権現参道はこの近くからスタートし、今でも国道から一直線に山腹の本殿まで続いている。 . 吾妻鏡 寛元四年 (1246) 11月27日に 「寅刻、大地震 」 とあり、 「百錬抄」 の宝治元年 (1247) 1月12日は 「噂によれば伊豆国の地震で長さ1,300m× 巾1,000m前後が失われその跡は湖水の如くになった。」 と書いている。これは現在の伊豆山漁港の沖 (地図) の改定に残る遺跡が語る大陥没だとされている。 . 右画像をクリック→ 熱海伊豆山神社を参照されたし(別窓)。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 2月17日 丙辰 . 吾妻鏡 |
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戌刻 (20時前後) に大地震あり。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 2月20日 己未 . 吾妻鏡 |
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晴。竹御所と武蔵守 北條泰時の室※が三浦三崎の津 (海辺) に出御された。駿河前司 三浦義村 が催す
来迎講※に臨席するためである。 . . ※泰時の室: 建久五年 (1194) 2月2日、大倉御所で 北條義時の長男金剛 (元服して頼時、頼朝の 死没後に改名して 泰時) が元服。名付け親の 頼朝は式典終了後に 三浦介義澄を招き 「この若者を婿とせよ」と命じ、義澄は「孫の中から良い娘を選んで仰せの通りに」と答えた。 .. 8年後の建仁二年 (1202) 、義澄の嫡男 義村の娘 (後の矢部禅尼) が泰時に嫁して翌年に 時氏 (執権着任前の27歳で死没) を産み、時氏の正妻だった 安達景盛の娘 (後の松下禅尼) が四代執権になる 経時と、五代執権になる 時頼を産んでいる。 . 義村の娘は8年の後に離縁 (理由は不明) となり、佐原盛連 (義連の嫡子) に再嫁して 酒乱男 盛時らを産み、盛連の没後に落飾して松下禅尼を名乗ることになる。 ※来迎講: 浄土信仰の世界で、阿弥陀仏が死者を救済するために来迎する様子を演ずる法会。 開催する宗派は多くないが 首都圏では世田谷の 九品仏浄真寺 (浄土宗) の 二十五菩薩来迎会 (YouTuve動画、阿弥陀仏の出現は4分過ぎ頃から) が有名、三浦での催事も (会場と内陸の差はあっても) 同じ趣旨と内容だと思う。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 2月21日 庚申 . 吾妻鏡 |
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彼岸の初日は晴天で無風。三崎の海上で来迎会の催しがあった。走湯山 (伊豆山権現) の浄蓮房が駿河前司 三浦義村の依頼を容れて事前の準備を入念に整えた。十数艘の船を浮かべて来迎の様子を再現し、荘厳を極めた飾りが夕陽に映え楽曲の音が波浪の響きを添えている。催し後に説法、その後に船で周辺の島を巡覧した。 . .
※三浦来迎会: 三浦義村が歌舞を催した場所は当時は離島
だった歌舞島公園付近 (地図) 、里人が来迎会を遥拝したのが「拝之台」(現在の二町谷漁港付近 (地図) と伝わっている。 .とりあえず右の概略地図を参照 (クリック→ 別窓で拡大表示) 。 . 背後から夕陽を浴びて神聖な雰囲気を演出したのだろう。奥州平泉で 藤原秀衡が極楽浄土の可視化を夢見無量光院 (別窓) を建造した、その理念にも共通した信仰心がある。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 2月22日 辛酉 . 吾妻鏡 |
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晴。竹御所らが三崎から還御。駿河前司 三浦義村は前もって (六男の) 四郎家村を杜戸 (森戸、地図) に待機させ豪華に誂えた御駄餉 (外出先での食事) を準備させた。 .夕刻になって竹御所は武蔵守 北條泰時邸に入御、日取りが悪いため今夜は泰時邸に止宿となる。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 2月23日 壬戌 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 2月24日 癸亥 . 吾妻鏡 |
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晴。巳刻 (10時前後) に将軍家 藤原頼経が体調不良に。
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 2月25日 甲子 . 吾妻鏡 |
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晴。将軍家の病気に対応して祈祷が始められた。泰山府君※、呪咀霊気などである。 . . ※泰山府君祭: 陰陽道祭祇の一つ。中国古代の神 泰山府君が仏教の閻魔大王と習合して寿命と 富貴を支配すると共に侍者の司命神が冥府の戸籍を管理すると信じられた。 .. 天台宗の円仁が中国から比叡山麓に勧請した赤山明神が泰山府君で、素戔嗚 (すさのお) 尊や大国主神とも習合し本地垂迹説によって本地地蔵菩薩となった。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 3月 1日 天晴 . 吾妻鏡 |
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晴。天変に対応する祈祷が始まった。 .愛染王は松殿法印、金輪は信濃法印、北斗は大進僧都、螢惑は珍誉法印、歳星は珍瑜法橋。 仏典に関わるもの以外は 地震祭を重宗、螢惑星を宣賢、歳星を国継、泰山府君を晴職 (いずれも対応は陰陽道の安倍氏)。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 3月 5日 癸酉 . 吾妻鏡 玉 蘂 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 3月 8日 丙子 . 吾妻鏡 |
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晴。寅刻 (早朝4時前後) に地震あり。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 3月14日 壬午 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 3月15日 癸未 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。将軍家 藤原頼経が花を楽しむ※ため水干に御騎馬で永福寺に出御された。駿河守 北條重時、陸奥四郎 北條政村、同五郎北條実泰、周防前司 中原親実、式部大夫親行※ら 20余人が供奉した。 . . ※花を楽しむ: 3月15日は西暦の4月10日、花は山桜だろう。 . ※式部大夫親行: 源氏物語の研究家だった父親 源光行の跡を継いだ文官。政所別当だった父と 交代する形で鎌倉に下向した直後に承久の乱 (1221年) が勃発、光行は迷った末に 後鳥羽上皇に従った。戦後に斬られる筈だったが、親行の嘆願で許された (同年8月2日を参照)。親子二代が文系の官僚として実朝、頼経、宗尊親王の将軍三代に仕えている。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 3月25日 癸巳 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 晴。政所で改元に伴う吉書始めあり。信濃次郎左衛門尉 二階堂行泰が武蔵守 北條泰時の供として御所に持参し将軍の御前に披覧した。去る五日、安貞三年を改め寛喜元年と為す。大蔵卿為長卿がこれを撰び上申した。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 3月26日 甲午 . 吾妻鏡 |
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晴。新判官 (新任の検非違使) となった 後藤基綱が京都より帰参した。2月27日に宣旨を受け、3月9日にこれを畏み受ける上奏を行なった (一度謝絶する習慣に倣ったらしい)。 . 譜代の職務にも拘わらず数人に先を越され、49歳になってようやくこの栄誉を受けた。「今日は往亡日 (祝い事を忌む日) だろう」と からかう人もいたが「武家はこの日を気にしない。祖先の 藤原秀郷の頃から敢えて用いた日取りだ」と答えて大倉の自宅に到着、今夜は早々に御所と 北條泰時邸に参上して検非違使着任の喜びを申し上げる、と。 . . ※検非違使: 衛門府の役人が宣旨を受け兼任する検察&警察組織で五位から昇殿が許された。 平安時代末期からは北面武士などに権限が移譲され、更に鎌倉幕府が六波羅探題を置いた承久年代以後は弱体化したが、東国武士には
昔から垂涎の的だった名誉職である。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 3月〜6月 . 史 料 |
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3月末に不法を行なった延暦寺傘下 日吉社の神人が六波羅 (探題) ※北方 北條時氏の配下である左衛門尉三善為清の命令を無視して為清の部下に斬られた。延暦寺が幕府に抗議し下手人の引渡しを求めた。 . 六波羅は為清主従に過失がなかった証拠を提示したが、幕府は延暦寺との対立を避けて 6月19日に為清を日向に、前左兵衛尉 大江貞知を大隅に流罪処分とした。時氏はこの決裁に抵抗したらしいが、力のバランスなどを考えた幕府の決定には従わざるを得なかったらしい。 . . ※六波羅探題: 承久の乱 (1221年) 後に従来の京都守護を改組して六波羅に設置した幕府の出先 機関。北 (上位) と南があり、鎌倉時代末期 (1310年頃) に探題の呼称が初出するまでは単に六波羅と呼ばれた。本稿では便宜上 「探題」 を付記する場合もある。
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 3月28日 丙申 . 吾妻鏡 |
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晴。酉刻 (18時前後) に地震あり。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 4月17日 甲寅 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。辰刻 (朝8時前後) に将軍家 藤原頼経は三崎の津 (港) に出御された。 相模守 北條時房と武蔵守 北條泰時を筆頭に多数の御家人が供奉、駿河前司 三浦義村は将軍の船を件の浦※に停泊させ演奏と歌で楽しませた。佐原三郎左衛門尉家連(佐原義連の嫡男)は遊女を載せた船を漕ぎ寄せて華を添えた。山の趣きも海の眺めも比類ない美しさだった。 . . ※件の浦: 2月21日に来迎会を催した場所だろう。賓客の頼経 (12歳) には満27歳の竹御所とは 異なる歓待を考えねばならない。たぶん頼経は竹御所から三崎の楽しさを聞いたのだろうね。不幸な結果に終わる16歳違いの政略結婚だったが、夫婦仲は睦まじかったと伝わっている。
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 4月19日 丙辰 . 吾妻鏡 |
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将軍家が三崎から還御された。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 4月27日 甲子 . 吾妻鏡 |
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晴。今日、走湯山※ (伊豆山権現) の講堂と常行堂の上棟が行われた。当初の日程は延期となった。 . .
※走湯山: 秀吉の小田原攻め (天正18年、1590年) で後北条
氏に味方した伊豆山権現は秀吉軍によって全山を焼き払われた。従って古い建物も遺構も残っておらず、現在の社殿を含む建造物は全て江戸時代以後に再建されたもの。 .. ちなみに小田原城包囲戦は 4月初旬に始まり 6月下旬に降伏&開城となったが 支城の鉢形城、韮山城、津久井城、忍城などは最後まで落城せず、小田原城の降伏後に自ら開城している。これは東国武士の意地を貫いたようで、個人的には少し嬉しい。 ※その2: 伊豆山神社の草創は奈良時代の日金山 (現在の十国峠 ) にあった祠らしい。その後に 岩戸山の中腹に遷り、更に現在地に遷座した事になっている。もちろん遠い昔の神仏習合時代の話になる。 .. 右上画像は日金山から伊豆山神社までの概略図(クリック→ 別窓で拡大表示) それぞれ 日金山東光寺 および 伊豆山本宮神社 (各、別窓) を参照されたし。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 5月 5日 壬申 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 5月15日 壬午 . 吾妻鏡 |
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雨が終日止まず、子刻 (深夜0時前後) に晴、月蝕は確認できた。関わる祈祷は薬師護摩を大時進僧都、一字金輪を信濃法印、八字文殊を宰相律師、愛染王を若宮七代別当定雅。
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 5月21日 戊子 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。巳刻 (10時前後) に犬の糞が御所の将軍居間の畳で発見された。御占いをした結果は病気に注意し、他人の言葉に耳を傾けるべきであると。 晴賢、晴茂、国継 (いずれも陰陽師、安倍氏 ) が連署の上申書を献じた。 . . ※犬の糞: 犬追い物などを催すから報いを受ける。因果応報だ!(笑) . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 5月23日 辛卯 . 吾妻鏡 |
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評定衆による評議の後、相模守 北條時房、武蔵守 北條泰時、駿河前司 三浦義村、新判官 後藤基綱、 .信濃民部大夫入道 二階堂行盛らが御所に参上し、将軍頼経は扇を持ち出させて人々の中に置き賽の目の勝負に従ってこれを与える遊びに興じた。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 6月14日 庚戌 . 吾妻鏡 |
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晴。戌刻 (20時前後) に地震あり。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 6月19日 乙卯 . 皇帝紀抄 |
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流人の宣下※があり、左衛門尉三善為清が日向国に、前左兵衛尉大江貞知が大隅に流された。 4月に日吉の神人らと起こした喧嘩が原因である。 (皇帝紀抄は鎌倉時代中期編纂の歴史書、筆者不明) . . ※流人の宣下: 不法行為を働いた延暦寺鎮守社の日吉社神人が六波羅北方 北條時氏 (当時26歳) の配下だった三善為清の制止を無視して部下の大江貞知に斬られた。 .. 延暦寺の抗議に対し六波羅探題は為清主従に過失なしの証拠を提示したのに幕府は延暦寺との対立を避けて為清らを流刑に処した。政治的にやむを得ない配慮とも見えるが、義時や 政子なら突っぱねただろう。 . 失なう物の大切さを理解せず目の前の対症療法だけ捉えてしまう。圧倒的な武力を背景に正義を貫くのが筋だが、泰時の対応に 「薄さと軽さ」 が見える事例だ。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 6月20日 丙辰 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 6月25日 辛酉 . 吾妻鏡 |
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晴。左大臣法印定親が鶴岡八幡宮別当職に補任となった。彼の師匠 定豪僧正※が悔還※ (契約を破棄して旧に復すこと) し、定親が獲得する結果となった。 . . ※定豪: 職務の本質を忘れ権力に執着する代表格。現代でも安倍晋三や 自民党五人衆らが金に 汚れた政治を繰り返したのだから鎌倉時代を笑えない。この連中を選んだのは選挙民だからね。 .悔還の部分が不明だが、定豪は鎌倉の権威を背景にして 「東寺長者」 の枠を増員してその一人に就き、後にその筆頭に就任する。野心的な政商ならぬ政僧である。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 6月26日 壬戌 . 吾妻鏡 |
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未刻 (14時前後) に小地震あり。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 6月27日 癸亥 . 吾妻鏡 |
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曇。御所の馬場殿で流鏑馬と遠笠懸※などを催した。 . 小山五郎長村※、駿河次郎 三浦泰村、同四郎家村 (三浦義村の六男) 、宇都宮四郎左衛門尉頼業※、 氏家太郎公信※、小笠原六郎時長※らが技を競い、将軍家 藤原頼経も出御し、武蔵守 北條泰時以下も集まった。 . その中で小山兄弟と三浦兄弟は作物※を演じた。長村が七違取止、泰村が四六三遠立、家村が八的、 時長が三尺取止など、いずれも見事な腕前を見せた。夕刻になり将軍家の体調がやや悪くなって御所に入御された。 . . ※遠笠懸: 流鏑馬は再三記載しているし現代も神事の一環として奉納されているため説明は割愛 する。遠笠懸は綾藺笠 (い草を編んで内側に布を貼った笠、1尺8寸 約55cmφ) を的にし、馬場 (直線109m) から5〜1杖 (1杖は約2.3m) 離して横に置いた笠を射抜く。 .. 一矢で敵を倒すには甲冑の弱点である内兜 (兜の内側、顔面) を狙って射るだけの技術が必要になる。実戦で敵が顔を上げたり振り向いたりした瞬間に倒す騎射芸で、寿永三年 (1184) 1月20日には 木曽義仲が、元久二年 (1205) 6月22日には 畠山重忠が共に「内兜を射られて」最期を遂げている。 ※小山長村: 小山政光 → 朝政 → 朝長 → 長村と続く小山氏四代当主 (建保五年、1217年生れ)。 . ※宇都宮頼業: 五代当主頼綱の二男で横田氏の祖。長男時綱と頼業の生母は共に 稲毛重成の娘 で三男 泰綱の生母が 北條時政の娘だった関係で家督は泰綱が継ぎ、長男時綱は 三浦義村の娘を妻として三浦氏との関係を深め宝治合戦で滅亡する。 .. 頼業は宇都宮南部の広大で肥沃な横田郷 (現在の上三川町、 (地図) を相続して横田氏の祖となった。横田氏は鎌倉幕府滅亡後も繁栄を続けるが、宇都宮氏が 22代国綱の時代に秀吉による改易を受けて没落、横田氏も運命を共にしている。 ※氏家公信: 宇都宮朝綱の二男 公頼を祖とする氏家氏二代目 (異説あり) 。 本領は現在の氏家町 (地図) 。 .※小笠原時長: 長清の四男で嫡子。信濃国伴野荘 (長野県佐久市、平賀氏没領を含む) を本領と し伴野氏の祖となった。小笠原氏の家名は長兄の長経が継いでいる。 .※作物:(つくりもの) は騎射の技術を争う競技。上の他にも三三九、手挟、乞垂、引不引、 脇細などの名称が伝わっているが明細は不明、「八的(やまと)」 は一定の距離で八つの的を射る競技らしい。建久九年 (1198) 12月27日、相模川橋供養 (別窓) に赴いた 源頼朝が落馬、翌月に鎌倉で死没した。保暦間記 (Wiki) は相模川から鎌倉に帰る途中の事件を次のように書いている。
※八的が原: JR 辻堂駅の南東。鎌倉時代には二町 (200m強) の馬場に的を八ヶ設置した騎射の
. 将軍は相模河橋供養に出席、帰路の八的が原※ (落馬事故現場から鎌倉方面へ約7km) を通った際、今までに殺した源義広、義経、行家らの亡霊と目を合せた。これを過ぎた稲村ヶ崎の海上に十歳ほどの童が現れ「汝を見付けたぞ、我こそは西海に沈んだ安徳天皇である」と語って消えた。頼朝は恐怖のあまり落馬し、鎌倉で病に伏した。
.練習場があり、松が多いので八的→八松ヶ原に変ったと伝わっている。四辻に不動堂 (現在の宝珠寺) があった事から 辻堂の名が派生した。 .. 頼朝の開基と伝わる宝泉寺一帯には 「八松」 の地名 (地図) が残っている。「八的」の説明が少しばかり長くなったが... |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 6月28日 甲子 . 吾妻鏡 |
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晴。将軍家 藤原頼経の病状は良くないが、戌一点 (19時過ぎ) にはやや回復した。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 6月29日 乙丑 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 7月 3日 戊辰 . 吾妻鏡 |
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寅の一点 (夜半3時過ぎ) に艮方 (北東) の空が赤くなり申刻 (早暁4時前後) に雷鳴、御所の倉庫南に落雷あり。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 7月 4日 己巳 . 吾妻鏡 |
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晴。午刻 (正午前後) に将軍家 藤原頼経の体調が悪く、顔が腫れた状態になった。去年12月7日に初めてこの症状があり、それが再発した。助教 中原師員の奉行により御占いを行なったところ 「心労がある上に呪咀の気配や氏神の祟も考えられる。内外 (仏教と陰陽道) に祈り謝意を捧げれば平癒が見られるだろう。」 と、七人が同じ結論だった。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 7月 5日 庚子 . 吾妻鏡 |
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晴。今朝は (将軍家の) 顔の腫れが多少減じている。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 7月 7日 壬申 . 吾妻鏡 |
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晴。将軍家 藤原頼経が馬場殿に出御され稚児舞いを観覧された。若宮新別当に任じた法印定親の同伴である。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 7月 8日 癸酉 . 吾妻鏡 |
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晴。五壇の御修法 (五つの檀 其々に 五大明王 (Wiki) を安置する祈祷)を行なった。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 7月11日 丙子 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 故 禅定二品 政子の命日。勝長寿院で一切経会があり、相模守 北條時房と武蔵守 北條泰時も参席した。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 7月23日 戊子 . 吾妻鏡 |
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晴。丑刻 (深夜2時前後) に月が歳星 (木星) の軌道を犯した (隔てる距離は一尺) 。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 8月 4日 己亥 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。大慈寺に於いて武蔵守 北條泰時の祈願に拠る如法経と十種供養※が行われた。 . . ※ 如法経は特定の方式で書写した経典(多くは法華経)。十種供養は華、香、瓔珞 (Wiki) 、抹香、 塗香、焼香、絵蓋、幢幡 (外部サイト) 、衣服、伎楽 の十種によって仏に供養すること。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 8月15日 庚戌 . 吾妻鏡 |
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晴。鶴岡八幡宮で放生会が催され将軍 藤原頼経が出御、相模守 北條時房、武蔵守 北條泰時も参席。 助教の 中原師員、駿河前司 三浦義村、出羽前司 中条家長、伊東判官祐時※、後藤基綱らが供奉し、 竹御所、武州の室 (安保実員の娘) も加わった。 . . ※伊東祐時: 工藤祐経の嫡子。富士の裾野で父の祐経を殺害した 曽我兄弟の赦免を考えた 頼朝 に抗議し泣いて身柄引き渡しを求めた祐経の嫡子犬房丸 (建久四年 (1193) 5月29日を参照) が成長して祐時を名乗り祐経の遺領と伊東の家督を継承した。 .. ただし、祐経の最初の妻 (伊東祐親の娘) は祐経と不仲になった父親に強制離縁させられ相模の 土肥遠平に再嫁、産まれた娘が成長して祐時に嫁して長男祐朝を産んだ。遠平の前妻が産んだ娘だった可能性もあるが、これは確認ができない。 .
「祐経の孫娘が祐経の息子に嫁した」 との系譜上の瑕疵を嫌った北條得宗が祐朝の宗家継承を許さず、祐朝は土肥の系を継いで早川氏、長門伊東氏、安芸伊東氏の祖となった、と。. そして伊東の宗家は祐時の六男祐光 (祐高とも) が継承して 伊豆久須美荘の地頭となり、弘長元年 (1261) に伊豆伊東に流罪となった 「日蓮の伊豆法難」に関与することになる。 . 右は伊東の古刹 仏現寺 (地頭 祐高の館跡と伝わる) に残る日蓮の草庵跡。 詳細は 海光山佛現寺 (右上画像をクリック) や 海上山佛光寺 (共に別窓) の頁で。 日蓮の伊豆流罪の顛末は 日蓮法難の地 俎岩山蓮着寺 (別窓) の頁で。 . 日蓮法難は宗派により聖地扱いが共通せず偽物扱いする宗派もあって結構面白い。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 8月16日 辛亥 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 8月17日 壬子 . 吾妻鏡 |
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強風と激しい雨が巳刻 (10時前後) まで続き、稲の花※が悉く枯れてしまった。 . . ※稲の花: 米を実らせる (自家) 受粉の季節。西暦の9月6日だから、二日続いた台風被害か。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 9月 4日 戊辰 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 武蔵守 北條泰時の娘で駿河次郎 三浦泰村の室が来る10日に京都に向かうため、今日将軍家 藤原頼経と 竹御所から御餞物が届けられた。小袖や宿衣※などを中持 (長持) に納めてある。 . ※宿衣: 一般的には御所などに宿直する際の軽装衣服で、泰村室の夜具を意味する可能性もある。 9月10日の記事には「大番※勤務のため泰村が妻を伴って上洛の途に就いた」との記載があり、「泰村の宿直用衣装」を差したのだろうと思う。 .※大番役: 平安末期まで「費用は全て自己負担で三年間の御所警護などに従事する」のが原則だった。 その留守中に所領の支配権に関わるトラブルが起きたり (例えば伊豆久須美荘を巡る伊東祐親と工藤祐経の争い) や、留守番役が重い決断を求められたケース (例えば平家を見捨てて 源頼朝への臣従を選んだ 畠山重忠の例) などがあり東国武士の大きな負担となっていた。 .泰村のように恵まれた環境の豪族には何の苦労もなかっただろうけど。 . 鎌倉幕府の成立後は徐々に負担が軽減され、寛喜元年では六ヶ月に期間短縮されていた。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 9月 5日 己巳 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 9月 9日 癸酉 . 吾妻鏡 |
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武蔵守 北條泰時が南條七郎次郎、横尾左近将監、美濃澤右近次郎、弥平太三郎らを京都に派遣した。 南條は和琴の習熟を、他の三人は神楽の秘曲を右近将監 多好氏※の指導を受けるのが目的である。 . . ※多好氏: 多好方−好節−好氏と続く雅楽の家系。多好方 (おおのよしかた) は建久二年 (1191) に頼朝に招かれて鶴岡八幡宮の楽人らに秘曲を伝授し、再三の功績によって飛騨国荒木郷の地頭職を得ている。詳細は同年10月25日と11月21日の条で。
.. 息子の好節は建久四年 (1193) 11月4日に八幡宮の神事で宮人曲を舞って瑞兆を呼び正治元年 (1199) 11月8日の吾妻鏡に「 (父親が得た) 荒木郷の相続を許可」された記録がある。好氏は文暦二年 (1235) 8月に再び吾妻鏡に登場する。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 9月10日 甲戌 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 9月17日 辛巳 . 吾妻鏡 |
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晴。将軍 藤原頼経が海辺を遊覧するため杜戸浦※に出御、病気回復後最初の外出となる。7月と8月は体調が悪く顔の腫れなどに対応して祈祷を行なっていた。 今回は 相模守北條時房と武蔵守北條泰時も供奉し、犬追物を催した。 . 射手は大炊助 北條有時、足利五郎長氏、小山五郎長村※、結城五郎重光(?)、修理亮 宇都宮泰綱、 武田六郎信長 (信光の嫡子) 、小笠原六郎時長※、長江八郎師景 (鎌倉党長江義景の二男で嫡子) 、 佐原左衛門四郎 (義連の庶子 (?) 、佐々木八郎新朝 (加地信実の末子) 以下数人である。 北條泰時は「駿河次郎 三浦泰村が上洛して不在なのは残念だ。」と語って父の三浦義村を喜ばせた。。 . 30余匹の犬を放って騎射を行ない、その後に作物 (6月27日を参照) を催して小山長村と小笠原時長らが見事な射芸を披露した。未の斜め (15時過ぎ) に突然の強風があって楽しさが薄れ、申の斜め (17時過ぎ) になっても鎮まらないため還御となった。 . 「犬追物」は承久四年 (1222) 2月6日に詳細を紹介した。参照されたし。 . . ※杜戸: 現在の葉山町森戸 (地図) を差す。三浦義明の六男重行が長徳寺の付近に本拠を置いて 杜戸六郎を名乗ったのが最初と伝わるが、異説も多数あり。 .※小山長村: 小山政光 → 朝政 → 朝長 → 長村と続く小山氏 四代当主 (建保五年、1217年誕生)。 . ※小笠原時長: 長清の四男で嫡子。信濃国伴野荘 (長野県佐久市、 地図)、平賀氏没領を含む) を . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 9月18日 壬午 . 吾妻鏡 |
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晴。将軍家 藤原頼経に御夢想のお告げがあったため二つの壇を設けて祈祷を行なった。若宮別当法印定親と大進僧都観基がこれを奉仕した。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 9月20日 甲申 . 吾妻鏡 |
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巳刻 (10事前後) に地震あり。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 9月24日 戊子 . 明月記 |
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晴。先月、鎌倉でちょっとした事件があった。高倉院の三宮 惟明親王の子である (後の) 交野宮※が突然鎌倉に入り、鶴岡八幡宮の拝殿に坐して下向を告げた。驚愕した幕府は至急の帰洛を求めたが従わず 「元服も出家の考えもない、ただ鎌倉に住みたい」 と懇望したが、然るべき僧の元で出家させるよう公家に申し送り、武士一人を付けて醍醐の近くに送り届けた。 . . ※交野宮: 訳の判らない事件のように思えるが、予備の将軍候補として皇孫を確保しておきたい 幕府の思惑と、幕府に皇孫を送って影響力を維持したい大納言堀川通具 (土御門通親の次男) の思惑と、その動きを察して鎌倉で楽しく暮らしたいと考えた皇孫の思惑が一致したらしい。 .. 常軌を逸した行動 (幾分の狂気か?愚劣か?) に幕府側が驚愕し二の足を踏んだと思われる。この事件について吾妻鏡が全く触れていないのが面白い。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 9月30日 甲午 . 吾妻鏡 |
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晴。若宮大路西横の下馬橋 (地図) ※から北側が火災で焼けた。 . .
※下の下馬橋: 現在の佐助川は若宮大路の西から江ノ電まで
暗渠で、その北も所々で顔を出すドブ川。 .当時の痕跡すら見られず、辛うじて若宮大路の東側歩道に琵琶橋の名が残っている。 . 吾妻鏡 養和二年 (1182) 3月15日の記述。 . 政子の懐妊に際し、頼朝が自ら指揮して八幡宮から由比ヶ浜まで参道 (段葛、後の若宮大路) を造り、北條時政以下の御家人が土石を運んだ。 .それまでは弁財天の祠を避けて大きく湾曲していたため琵琶小路と呼ばれていた道を直線に直して段葛を通、祠は八幡宮境内に遷した (現在の源氏池にある旗上弁天) 。 右上は琵琶橋周辺の拡大図。琵琶橋から江ノ電まで川を追描した。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 10月 9日 癸卯 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 長尾寺※の院主円海の門弟僧が受戒※のために上洛し、途中で必要な過書 (証明書、後の道中手形か) を相模守 北條時房と武蔵守 北條泰時の連署で与えた。 特に高僧ではないが仏法に帰依する篤志に応じた付与である。 . . ※威光寺: 既に廃寺だが川崎市多摩区のJR 南武線宿河原駅に近い 妙楽寺)一帯が旧跡らしい。 寺の名は長尾寺→ 妙楽寺→ 威光寺と変遷している (地図) 。 ..
治承四年 (1180) 11月15日の吾妻鏡の記載。. 武蔵国の威光寺は源氏代々の祈祷所だから院主増円の管理する寺領は従来通り租税を免じられる。
.また同年11月19日には以下の記載が加えてある。 . ※受戒: 仏門に入る者が仏弟子として守る戒律を授ける儀式 (授戒&受戒) を 鑑真和上 (Wiki) が 伝えたのが日本仏教での最初の例で。授戒の歴史は利権を巡る紛争と暴力の歴史でもある。下野東山道の史跡 (別窓) の中段、下野薬師寺の項目に詳細と経緯を記載した。 .. 近代日本の仏教界にさえ、国立戒壇 (Wiki) 設置を目指す騒動があった。組織を拡大したい宗教団体は (宗教団体に限らないけどね) 、常に国家権力との癒着によるギブ&テイクを目指す。政治も宗教も同じ、本質を見抜けるか否かが国民に委ねられているのを心に刻んで置こう。 . 右上は下野薬師寺資料館の戒壇模型。 クリック→ 別窓で拡大表示 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 10月14日 戊申 . 吾妻鏡 |
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晴。故右府将軍 実朝の十三回忌 (明後年) 供養として南新御堂 (勝長寿院) の敷地に塔婆※を建てる事を政所で決定した。弾正忠清原季氏が差配し、日程の勘文 (諮問に対する上申書) を提出させる。 . . ※塔婆: 原文は 「南新御堂内可被建塔婆之由」 (塔婆を建てるべきこと) とあり三重塔や多宝塔か ら石塔婆まで範囲が広すぎて確定できないが、11月26日の記事に 「右大臣家御追善御塔材木杣入也」 (追善の塔を建てる材木) とある。更に寛喜二年 (1230) 10月6日の「右承相十三年御追善三重宝塔」(実朝十三回忌追善の三重宝塔)で実態を確認できる。
.. 「塔婆」などの曖昧な表現は止めて貰いたいが、そんな事を考えるのも意味ないし。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 10月22日 丙辰 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。将軍家 藤原頼経)が由比ヶ浜に出御し流鏑馬あり。相模四郎 北條朝直、足利五郎長氏、小山五郎長村 (9月17日を参照) 、駿河四郎家村 (三浦義村の六男) 、武田六郎信長 (信光の嫡子) 、小笠原六郎時長※、三浦又太郎(?)、城太郎 安達義景、佐々木三郎※、佐々木加地八郎 (加地信実の末子 信朝) らが射手を務めた。 . 三的※の後に三々九、四六三以下の作物 (6月27日を参照) を各々が射た。相模守 北條時房は 「騎射などの芸は長く見るものではありません。」 と内々に諫めたが、将軍家は興味を惹かれて続けて観覧された。 . . ※小笠原時長: 長清の四男で嫡子。信濃国伴野荘 (長野県佐久市、平賀氏没領を含む) を本領と し伴野氏の祖となった。小笠原氏の家名は長兄の長経が継いでいる。 .※佐々木三郎: 佐々木信綱の三男泰綱が嫡子と近江守護を継承。廃嫡された長兄 重綱の訴えで 相続した所領の一部 (高島郡) を割譲したが家督相続はそのまま認められ (父 信綱の生前に相続していた) 、後の守護大名六角氏の祖となった。 .※三的: 騎射三物 (犬追物、笠懸、流鏑馬) の総称。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 10月24日 戊午 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 10月25日 己未 . 吾妻鏡 |
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晴。未刻 (14時前後) に地震あり。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 10月26日 庚申 . 吾妻鏡 |
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晴。将軍家 藤原頼経が蹴鞠を観覧するため永福寺に渡御。狩衣で御輿、途中の御剣持ちは佐原三郎左衛門尉家連※が、寺の門内では駿河前司 三浦義村がこれに任じた。供奉人は立烏帽子に直垂である。 . 小山五郎長村以下の蹴鞠を行なう者は狩衣を着している。座を紅葉の林間に設けた相模守 北條時房の配慮は行き届いており、併せて (著名な歌人でもある) 子息の三郎入道眞照※も特に呼び出された。源式部大夫親行※も参上し、蹴鞠の後には同じ場所での和歌の会が催された。 . . ※佐原家連: 義連の三男らしいが系図によって義連の子は盛連、政連、景連を記載している場合 と政連の代わりに家連が入る場合がある。家連は貞応2年 (1223) 〜嘉禎三年 (1237) の間は紀伊国守護に任じている。 .※眞照: 承久二年 (1220) 1月14日、北條時房の四男 三郎資時が兄の時村と共に突然出家して 法名眞照を名乗った。共に、後に六波羅南方に任じた 北條時盛 (佐介流北條氏の祖) の弟である。時村はそのまま上洛して親鸞に仕えて幕政から去り、資時は幕臣に留まって嘉禄三年 (1237) に評定衆、建長元年 (1249) に三番引付頭 (土地に関わる訴訟決裁の長) に任じた。蹴鞠と和歌には長じていたが政治的な手腕は低かった、とする説もある。 .. 二人の出家は時房流北條氏の家督争いからの脱落が原因と見られ、最終的には五男の 朝直が大仏流※北條氏の家督を継承した (北條氏の系図を参照) 。 . 承久元年現在で長男時盛は22歳 (生母は不詳) 、次男時村は21歳前後 (生母は足立遠元の娘) 、三男資時は19歳 (時村と同母) 、四男朝直は13歳 (時村と同母) 、五男時直と六男実政は幕臣として元寇の役を体験し、幕末近くまで騒乱の時代を生きている。 ※大仏流: 朝直は深沢に屋敷を構えたと伝わる。現在の深沢は大船と江ノ島を結ぶ湘南モノレ ールが有名だが鎌倉時代は現在の長谷の一部まで含んでいたらしい (地図)を参照) 。 .大仏切通し (現在の大仏隧道部分) の東側だった可能性もありそうだ。 ※源親行: 著名な歌人であり承久の乱以前まで政所別当に任じた 光行の息子。京都に戻る父と 交代の形で鎌倉に入り、承久の乱で院方に与して斬られる筈だった父の助命を嘆願した後に 源実朝、藤原頼経、宗尊親王の将軍三代に仕えて和歌奉行を担当する。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 11月 3日 丁卯 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 11月14日 戊寅 . 吾妻鏡 |
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晴。今夜は皆既月蝕なのだが月の輪郭が不明瞭で、雲に覆われている様な状態である。今までも皆既月蝕は多くあったが今回の如き例は初めてらしい。
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 11月17日 辛巳 . 吾妻鏡 |
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雨。江嶋 (江ノ島) 明神の託宣、「崇敬する者の田畑は豊かな収穫に恵まれるだろう」 と。参詣が群れをなした。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 11月18日 壬午 . 吾妻鏡 |
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武蔵守 北條泰時が伊豆国三嶋大社に参詣のため早暁に出発した。来る21日の神事に参席である。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 11月20日 甲申 . 吾妻鏡 |
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御所に於いて蹴鞠の会が催された。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 11月24日 戊子 . 吾妻鏡 |
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武蔵守 北條泰時が三嶋社より帰着し戌刻 (20時前後) に御所に参上、無事に奉幣を済ませた旨を報告した。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 11月26日 庚寅 . 吾妻鏡 |
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晴。今日、右大臣家 実朝御追善の三重塔の材木切り出しに取り掛かった。駿河国富士郡に指示して去る3日の予定が定められたが三嶋社の神事に因って今日に延期となった。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 11月27日 辛卯 . 吾妻鏡 |
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内藤判官盛時※については一昨年に鎌倉幕府への出仕が停止されていた。再三の赦免願いが出されていたが去年8月以降は父の死没に伴う重服で在国し特に問題もなかったため今日赦免の沙汰があった。 . . ※内藤盛時: 父 盛家の申請により検非違使任官の宣旨を受けた件が鎌倉で問題になり特に勲功 を挙げた訳でもないのに嫡男の兄盛親を越えての任官は不合理との沙汰があり任官不許可と出仕停止の処分を受けていた(嘉禄二年 (1226) 5月8日の条を参照) 。
.※内藤盛家: 嘉禄三年 (1227) 8月1日の吾妻鏡に「寿永四年 (1185) からの御家人で周防国遠石荘 の地頭に任じた。」との記載がある。また建久二年 (1191) 1月18日の吾妻鏡には「石清水八幡宮の所領に乱入して神官の友国を刃傷し、神社に納めるべき年貢を横領し退去を命じられた」との記載もある。 .. 吾妻鏡の死亡記事にはバラツキがあり、著名な人物が載らずに比較的無名に近い御家人が載っている例も多い。編纂者の取捨選択に拠るのだろう。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 11月30日 甲午 . 吾妻鏡 |
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子刻 (深夜0時前後) に地震あり。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 12月 4日 戊戌 . 吾妻鏡 |
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昨夜から雨。辰刻 (朝8時前後) に雷鳴が数回、驚く程の勢いだった。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 12月10日 甲辰 . 吾妻鏡 |
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晴。去る 4日の雷に対応する祈祷として、近国の一の宮に奉幣の使者を派遣した。 相模国の一宮 寒川神社には駿河守 北條重時、武蔵国一宮 小野神社※には北條泰時の使者、上野国一宮 貫前神社には相模五郎 北條時直、安房国一宮 安房神社には駿河前司 三浦義村、上総国一宮 玉前神社には足利五郎長氏、各々神馬と御剣などを寄進し社壇で大般若経を転読するよう別当への指示を命じた。 助教の 中原師員、弾正忠清原季氏※がこれを奉行する。 . . ※小野神社: 一宮を称している大宮の 氷川神社 と思っていたら 小野神社説が遥かに有力で、 鎌倉時代に氷川神社だったと考える根拠はないらしい。 .. ちなみに府中の 大國魂神社 は武蔵国総社 (国内の祭神を集めて合祀した神社)。大磯の 六所神社と同じで、国司の巡回を省くため国内の有力神社の祭神を一ヶ所に合祀したもの、従って社格である一之宮とは全く異なる。 青の下線付き神社名 は全て公式サイトを引用した。 ※清原季氏: 嘉禎二年 (1236) 〜仁治四年 (1243) に評定衆に任じている。同時代 同姓の文官には 嘉禄元年 (1225) 〜延応元年 (1239) に任じた 清原清定、その嫡子で延応元年 (1239) 〜宝治三年 (1249) に任じた清原満定がいる (共に評定衆) 。 .系累だとは思うが系図上では確認できない。共に北條氏に近い実務官僚である。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 12月13日 丁未 . 吾妻鏡 |
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子刻(深夜0時前後)に助法印珍誉 (南都興福寺出身の僧で歌人、幕府に仕えた) の僧房が焼けた。 . . ※珍誉の僧房: 八幡宮北側の 御谷二十五坊 (別窓) にあったのだろうか。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 12月17日 辛亥 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 武蔵守 北條泰時が書状を右近将監多好氏 (9月9日を参照) に送った。和琴の秘曲を美濃澤右近二郎に授けるよう申し送った件についての尽力に感謝する内容である。この指導については過日南條七郎次郎に伝授するよう依頼したが母親が病気のため帰国し、美濃澤への変更を依頼した経緯がある。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 12月19日 癸丑 . 吾妻鏡 |
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亥刻 (22時前後) に大地震があった。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 12月21日 乙卯 . 吾妻鏡 |
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(地震などの) 変異に対応して祈祷が始められた。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 12月25日 己未 . 吾妻鏡 |
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今夜、窟堂※下の一帯が焼亡。強風で余焔や火の粉が飛び若宮大路や甘縄※の民家まで被害が及んだ。
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※窟堂: 昔は現在の愛宕社北側の山にあったが 崖の崩落で今
の愛宕社の位置に移ったらしい。移転時期は不明 。 .. このエリアは八幡宮から寿福寺や扇ヶ谷に抜ける窟小路の語源になっている。若宮大路までは兎も角、2km以上南西に離れた甘縄まで類焼するのは幾ら何でも無理かと思うが、時期的に強い北風に煽られての類焼はあり得ない事ではない。 右画像をクリック→ 別窓で拡大表示。 . 窟小路の画像と詳細は 義朝の館跡、寿福寺 (別窓) を参照されたし。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 12月26日 庚申 . 吾妻鏡 |
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地震の発生に対応しての祈祷が始められた。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 12月27日 辛酉 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 12月29日 癸亥 . 吾妻鏡 |
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明年の二所詣と御奉幣について、将軍家の御参詣※か奉幣使を派遣するかを重ねて評議した。最終的には代官 (奉幣使) を派遣することに決定した。
. . ※将軍の二所詣: 間もなく満13歳、代参の必要はないと思う。過保護はストレスの原因だよ。 . |
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. 8月04日 . 晴耕雨読 |
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大玉スイカの第一号を収穫! 08/04 05時 右下をクリック→ 別窓で拡大表示 .
厳密には 「受粉させてから50日」 の栽培マニュアルより二日早いのだが、サイズが 28cm を越えたこと、果実の根元から先に伸びるツルが枯れたこと、などから完熟状態と判断した。. この第一号は 「夫婦のかかりつけ医院」 の定期健診 (明後日) の際に届ける予定で、冷蔵庫には入らないためビニール袋に保冷剤をタップリ入れて段ボールに密封した。保冷剤を二度ほど交換して冷やし続ければ食べ頃状態になる筈だ。 . 届ける直前に半分に切って熟成度を確認して撮影する。採取の記念撮影を忘れたので、熟し切った見事な断面をお見せする。 . 予定表では1〜2日遅れで次の一個、その五日遅れで画像右側の一個。更に二日遅れで左の一個を収穫する。残る二個は収穫できるか否か、まだ判らない。 . 園芸日誌を少し整理して 2025年10月の情報を載せた。左目次の 晴耕雨読 園芸日誌 でどうぞ。 . |
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. 11月19日 . 晴耕雨読 |
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11/10の数日前にテラスに吊り下げた次郎柿の一部 12個を1週間後のまだ柔らかい状態で冷凍し、更に1週間後に解凍して内部が半液体状態の 「半干し柿」 を試食した。. 専門業者のマニュアルに拠れば 「賞味期限は数週間」 との事。熱海に住んでいた頃に農家から買った渋柿を同じ状態で食べた妻が 「あの食感と味の再現を」狙った試みである。 . 私は多少の歯ごたえがある普通の干し柿の方が好きなのだが、確かにこれも美味しい。これなら来年は1ヶ月分の 50〜60個を作ってみるのも面白い、来客用には 「珍味」 として提供できる。 . 右画像は解凍した状態の現物 (クリック→ 別窓で拡大) 、半分に切って中身を見せた画像は 半生の干し柿 (撮影し直しました!) で、どうぞ。 . ※ 謝罪 半生の干し柿の画像をサイズ変更しているうちに妻に食べられてしまった。 ピントが甘かったので撮り直そうと思ったのに。明日の朝食までにもう一度撮影します。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 月 日 . 吾妻鏡 |
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