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安貞二年 (1228年)
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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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1月 1日 乙亥
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。相模守 北條時房による椀飯あり。将軍家 藤原頼経が出御され、御剣は駿河守 北條重時 (束帯) 、御弓箭は大炊助 北條有時 (狩衣) 、御行騰沓は左衛門尉 結城朝光、献上の御馬は五疋。
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   ※椀飯 (おうばん) : 饗応の献立、食事を摂る儀式や行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
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   ※行騰 (むかばき) と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像 (Wiki) を参考に。
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   ※年令: 四代将軍 藤原頼経 (幼名 三寅、昨 嘉禄元年 (1225年) 12月29日に元服) 1/16で 10歳、
貞暁 41歳 、 坊門信子 (故 (故 実朝の寡婦、出家) 41歳 、
竹御所 (故 頼家の娘、後の四代将軍 藤原頼経の正室) 26歳 、
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北條泰時 44歳 、 北條時房 52歳 、 北條朝時 34歳 、 北條重時 30歳 、 千葉胤綱 29歳 、
足利義氏 38歳 、 三浦義村 70歳前後 、 三浦泰村 25歳 、 安達景盛 57歳前後 、
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85代 後堀河天皇 14歳、 84代 順徳天皇 30歳 、 土御門上皇 31歳 、 後鳥羽上皇 47歳 、
九条道家 34歳 、 坊門忠信 42歳 、 近衛家実 49歳、 藤原定家 63歳、
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定豪 75歳 、 退耕行勇 64歳 、 親鸞 53歳 、 叡尊 26歳 、 忍性 10歳 、 日蓮 2月で 6歳 、      (全て1/1時点の満年令)
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    三浦義村は仁安三年 (1168) 誕生 (史料に拠り、元暦元年 (1184) に満16歳だった と設定) 、     安達景盛は生年不詳だが頼朝の伊豆配流 10年後に誕生と仮定して年齢を推定した。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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1月 2日 丙子
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吾妻鏡
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快晴。武蔵守 北條泰時による椀飯あり。御剣は前出羽守 中条家長、御弓箭は左衛門尉大須賀胤秀、御行騰沓は左衛門尉土屋宗光。献上の御馬は五疋。
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   ※大須賀胤秀: 千葉氏の実質的初代 常胤の四男 大須賀胤信の二男。父から現在の千葉市の南部
(地図) を相続して本拠とし一帯を支配している。
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   ※土屋宗光: 中村宗平の三男 土屋宗遠の嫡子。
建暦三年 (1213) 5月の和田合戦で多くの中村党が滅亡した中で土屋氏は北條に味方して辛うじて滅亡を免れ、更に子孫は 足利→ 武田→ 徳川と主家を替えて生き残った。
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宗遠は承元三年 (1209) 5月に梶原家茂 (景時の孫) を理由が判然としないまま斬殺した件で吾妻鏡に載ったのが最後の登場となった。
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 右は土屋宗遠の館跡と伝わる平塚郊外の大乗院。
  クリック→ 土屋氏館跡と周辺の風景 (別窓) へ

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352年後の天正十年 (1582) 3月、天目山に追い詰められた武田勝頼に従った 土屋惣蔵 (Wiki) は主君勝頼と妻子が自刃する時間を稼ぐため 谷に沿った崖道の蔦を掴んで体を支え、片手で敵兵の進入を防いだ「土屋惣蔵片手切り」で知られている。
   更に詳細は 武田勝頼 終焉の地 天目山(別窓)で。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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1月 3日 丁丑
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吾妻鏡
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晴。越後守 北條朝時 (狩衣) による椀飯あり。御剣は駿河守 北條重時 (狩衣) 、 (献上に関しては) 御弓箭は陸奥四郎 北條政村、御行騰沓は陸奥五郎 北條実泰、献上の御馬は五疋。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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1月 7日 辛巳
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吾妻鏡
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晴。戌刻 (20時前後) に急に空が曇り南の方角で雷鳴が数回。但し雨は降らなかった。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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1月 8日 壬午
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吾妻鏡
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快晴。椀飯後に心経会 (般若心経を詠む法要) を催した。武蔵守 北條泰時以下の出仕は通常通り。
今日は鶴岡八幡宮に年始の御奉幣を行なう予定だったが、延期となった。
日中に御行始め (外出初め) の儀があり、将軍家 藤原頼経が武州泰時邸に入御、太刀持ちは駿河守 北條重時、御弓箭は狩野籐次兵衛尉為光が任じた。
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   ※狩野為光: 狩野茂光の三男で、後に為佐と改名した。寛元四年 (1246) に 宮騒動 (Wiki) に連座
して評定衆を罷免され、建長五年 (1253) に引付衆 (訴訟の円滑化を担当) として幕政に復帰した。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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1月10日 甲申
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吾妻鏡
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御弓始めの儀あり。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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1月13日 丁亥
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吾妻鏡
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将軍家 藤原頼経が二所詣の奉幣使として代参せよと駿河前司 三浦義村に命じた。義村はすぐ承知したがその後に変更があり、奉幣使の派遣を止めて自らが直接詣でる旨を決定した。
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   ※二所詣: 藤原頼経は間もなく満12歳、二所詣を行なうべき年齢だと考えたか。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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1月19日 癸巳
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吾妻鏡
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将軍家 藤原頼経の御前で二所御奉幣の日時を定めた。陰陽師の親職、晴賢、文元らが加わり来月14日の御進発を選定したが、安倍泰貞が 「四は外出の忌日に当たる」 と申し出たため更に 泰時義村中条家長らが加わって協議、更に卜占を行なって2月25日の進発と定めた。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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1月23日 丁酉
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吾妻鏡
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晴。午刻 (正午前後) に将軍家 藤原頼経が狩衣で輿に乗り 竹御所邸に入御された。越後守 北條朝時、駿河守 北條重時ら数人が供奉、武蔵守 北條泰時が前もって接待の場に控えた。将軍は夜になって還御された。
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   ※竹御所: 寛喜二年 (1230) 12月9日、満28歳の竹御所は間
もなく満 12歳になる頼経と婚姻する。
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天変地異が続き、内紛の危機も予感される中で泰時の政治は未だ安定せず、源氏の血筋を利用して政子の権威を竹御所に継承させ、北條氏が実質支配する幕府の威信を高める意図を諮ったらしい。
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頼経の竹御所邸訪問はこの後も何回か繰り返されている。泰時らは無神経なこの「年の差婚」を既定路線として設定済みだったに違いない。
11歳の頼経と 26歳の竹御所、二人の仲は円満だった、と伝わってはいるのだが...
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右は妙本寺墓地奥の竹御所の墓碑。彼女を葬った廟堂の須弥壇の直下だと伝わる。
     画像をクリック→ 妙本寺 比企一族滅亡の跡(別窓)へ。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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1月29日 癸卯
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吾妻鏡
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将軍家 藤原頼経の二所詣について、今年は延期するとの沙汰があった。従来の通り奉幣使として参詣せよとの指示が今日、三浦義村に下された。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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2月 3日 丁未
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吾妻鏡
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晴。将軍家 藤原頼経が御浄衣で鶴岡八幡宮に参拝、まず散位晴賢 (衣冠) が廊下の車寄せに進んで御身固め(祓いの加持祈祷)、石山侍従教定が陪膳役 (給仕) を務めた。その後に騎馬で南門から出御した。
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供奉人は武蔵守 北條泰時、越後守 北條朝時、駿河守 北條重時、大炊助 北條有時、駿河前司 三浦義村、出羽前司 中条家長、民部大夫 町野康俊、御剣役は左衛門尉 後藤基綱、弓箭役は兵衛尉狩野為光 (1月8日参照) 、他に左衛門尉藤原定員佐々木判官信綱ら、それぞれ狩衣または浄衣である。
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また六位の20人が直垂で帯剣し将軍家の左右を列歩した。これは去る建保七年 (1219) 正月に右府将軍 実朝が参拝の際には今回の様な警備を手配せず事件が起きたため、以後は事前準備定めていた。
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また、伊豆国走湯山の専使が鎌倉に到着し、昨夜の子刻 (深夜12時前後) に伊豆山権現の講堂、中堂、常行堂が失火によって焼け落ちた旨を報告した。俗躰は取り出せず、建物と共に灰燼に帰した。
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一昨年の12月29日に焼けた常行堂は相模守 北條時房の寄付により着工したものだが、孫の死没などがあって延び延びになり、完成を見ないうちに再び焼けてしまったのは尋常ではない、と。
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   ※御浄衣: 神事や法会などの宗教行事の際に着ける清浄な
衣服。普通は白色無紋で狩衣の形らしい。
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   ※藤原定員: 頼経に従って下向した近臣で将軍御所を奉行
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する任務を帯びていた。
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   ※俗躰: 明治維新までの伊豆山権現は山岳信仰と修験道と
天台宗などが習合した神仏習合の神であり、本地仏 (神の姿を借りて現れている仏) は千手観音、阿弥陀如来、如意輪観音の三体。
本地垂迹 (Wiki) を参照されたし。
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    右上は伊豆山権現の男神像と大磯の高来 (高麗) 神社の男神と女神。
        画像をクリック→ 拡大表示と祭神の詳細説明 (別窓) へ
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箱根権現も同様の信仰が基本であり 創建した 満願上人 (Wiki) は苦行の末に三所権現 (法躰、俗躰、女躰) を感得した。法躰は文殊菩薩の垂迹、俗躰は弥勒菩薩の垂迹、女躰は観世音菩薩の垂迹とされる。記録通りなら 「弥勒菩薩の俗躰 (仮の姿) は焼失した」 となるが、その俗躰像の詳細は不明である。
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   ※孫の死没: 「嘉禄二年 (1226) 12月29日以後の頃に没した時房の孫子」 は該当者がいない。
唯一該当する吾妻鏡の死亡記事は、嘉禄三年 (1227) 6月18日に家人 (家臣) の高橋二郎に殺害された北條時実 (Wiki) だが、彼は北條泰時の二男だから該当しない。泰時は相模守に任じた事がないし。些末な探し物で時間を浪費してしまった。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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2月 4日 戊子
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吾妻鏡
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今日、故下野大掾 小山政光入道の後妻 (網戸尼=寒河尼) が死没した (91歳) 。八田武者所宗綱の娘で左衛門尉 結城朝光の母、故右大将軍 頼朝並びに禅定二位家 政子が特に重用した女性である。
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   ※寒河尼: 頼朝の乳母を務めた女性の一人。挙兵直後に敗れて安房に逃れた頼朝が大軍を率いて
隅田川を渡り武蔵国に入った治承四年 (1180) 10月2日に14歳の男児 (後の朝光) を連れて宿館を訪れたのが吾妻鏡に現れた最初。彼女が結城一族の繁栄を招いたとも言える女傑である。
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彼女は寒河郡七郷 南側の阿志土郷 (現在の小山市網戸 (地図) などの地頭を兼ねたことから網戸尼とも呼ばれていたが、この権限は夫からの譲渡ではなく、政光の没後に彼女の功績に対する頼朝から給付された新恩だったと考えられている。
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夫の小山政光は嫡男の 朝政 (先妻 (出自不明) の子) に所領を継承させていたため息子の朝光を頼朝に会わせたのは将来の引き立てを願ったのだろう。
能力の高い女性だったらしい。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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2月 7日 辛亥
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吾妻鏡
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申刻 (16時前後) 、将軍 藤原頼経の御衣に鳶が糞を掛けたため卜占あり。病気に注意とのこと。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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2月 8日 壬子
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吾妻鏡
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二所詣の精進が始まった。将軍家の御参詣も検討されたのだが走湯山 (伊豆山権現) の火災などで取り止めになった。また走湯山火災の復旧については今朝から様々の評議が始まっている。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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2月13日 丁巳
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吾妻鏡
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晴。今朝、駿河前司 三浦義村が二所奉幣の御使として鎌倉を出発した。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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2月14日 戊午
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吾妻鏡
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御所で御酒宴あり。信濃法印と大進僧都ら数人が参席し、延年などが演じられた。
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   ※延年: 神楽から派生したらしい芸能、主として舞楽。
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石橋山合戦に続く堀口の合戦に敗れて土肥の椙山に逃げ込んだ 頼朝主従が 大庭景親勢の撤退を確認して山を下ると既に土肥館が焼け落ちていた。
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土肥実平は剽軽に 「焼亡の舞」 を演じて敗残の武者を励ましたと源平盛衰記が伝える、これもまた 「延年」 の一つだったとされている。
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悦び開けて照らしたる 土肥の光の貴さよ  我屋は何度も焼けば焼け
君だに世に立たまはば 土肥の椙山広ければ 緑の梢よも尽じ 伐替々々造らんに 更に歎にあらじ 不如 君を始て万歳楽 我等も共に万歳楽

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   右上は土肥郷の鎮守五所神社。画像をクリック→ 明細へ。
       併せて土肥一族の菩提寺である 萬年山城願寺 も参考に (共に別窓)
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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2月18日 壬戌
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吾妻鏡
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駿河前司 三浦義村が二所詣から帰還した。往復とも風雨の影響は受けず天候は順調だった、と。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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2月19日 癸亥
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吾妻鏡
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御所の南庭で二十番の相撲勝負を催した。その中で左衛門尉 葛西三郎清重が出場させた力士の芝俣 (柴又の古名) 平次三郎は特に強く、将軍家は周防蔵人を介して御衣を下賜した。
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   ※周防蔵人: 官職が周防守で蔵人なら 中原親実だが周防蔵人と書くのは何か理由があるか。
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   ※中原親実: 明経道の中原忠順の子。藤原頼経近習として共に鎌倉下向し御所奉行を務めた。
藤原氏系の文官で 親能などの同族にあたる。周防守護、安芸守護などを転任した後の寛元二年 (1244) には在京の御家人として六波羅評定衆に任じている。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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3月 3日 丙子
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吾妻鏡
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晴。鶴岡八幡宮の神事は通例の通り。将軍家 藤原頼経が御参宮、武蔵守 北條泰時が供奉した。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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3月 9日 壬午
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吾妻鏡
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晴。将軍家 藤原頼経が初めて由比ヶ浜に出御された。途中の儀礼は省略して新しく設けた桟敷に入り犬追物を観覧、犬は30匹で駿河前司 三浦義村が見分役を務めた。
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     射手
相模四郎 北條朝直  駿河次郎 三浦泰村       佐々木判官三郎
城太郎 安達義景   武田六郎信長 (信光の嫡子)   左衛門尉大須賀胤秀 (胤信の嫡子)
小笠原六郎 時長  佐原太郎経連        氏家太郎公長
佐々木八郎信朝 (加地信実の八男または九男)      原左衛門尉忠康  横溝六郎義行
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   ※犬追物: 承久四年 (1222) 2月6日の条に明細を記載した。
右画像 (クリック→ 拡大) と共に参照あれ。
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   ※佐々木三郎: 佐々木信綱の三男泰綱で 嫡子と近江守護を
継承。廃嫡された長兄の訴えで相続した所領の一部分を割譲したが、嫡子としての家督相続はそのまま認められ、後世の守護大名六角氏の祖となる。
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   ※小笠原時長: 長清の四男で嫡子。信濃 伴野荘 (長野県佐久市、平賀氏の没収領を含む) を本領
として伴野氏の祖となった。小笠原氏の家名は長兄の長経が継いでいる。
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   ※佐原経連: 義連の五男。陸奥国耶麻郡猪苗代 (現在の猪苗代町) を本領とし、猪苗代氏の祖と
なった。野口英世博士は猪苗代氏の子孫とされている。
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   ※氏家公長: 氏家氏には宇都宮氏傍流説と小山氏傍流説がある。更に系図には公長の名が見当
たらず、太郎を称しているにも拘わらず素性不明。そのうち判ると思う。
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   ※原忠康: 千葉氏傍流で北條被官。横溝義行は承久三年 (1221) 1月7日の弓始めに名がある。
父 (?) の五郎太夫は承久の乱での先発隊 (5月22日) に名が載っており、北條被官から御家人に昇格した人物らしい。本領は相模国 (相模原近辺) か。
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鎌倉陥落の前哨戦となった 関戸の合戦 で総大将の北條泰家 (九代執権 貞時の四男、十四代執権 高時の実弟) を逃がすため踏み止まって討ち死にした武将の中に横溝八郎の名が残る。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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3月13日 丙戌
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吾妻鏡
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晴。今日、讃岐国善通寺領の地頭職を更迭した。ここは 弘法大師 空海 誕生の地で終日の祈祷を絶やす事のない古刹であり、大師が自ら刻んだ釈迦如来像と薬師如来像を本尊としている。近年は地頭が補任されて寺を運営する費用に支障があるとの訴えがあり、地頭の更迭となった。
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   ※善通寺: 空海誕生の地であり、四国八十八ヶ所遍路の一番札所が 善通寺。20年前の四国一周
旅行では鳴門海峡を渡って数ヶ所目に立ち寄った場所なのだが写真は残っていないし、完全に記憶から消えている (笑) 。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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3月25日 戊戌
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吾妻鏡
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晴。今夜は将軍家が御方違えのため下野入道生西 小山朝政 の宿所 (御所の南方) に入御された。これは牛車の車庫建造に伴って王相方を避けるのが目的である。御方違えには相模守 北條時房らが扈従した。
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   ※王相方: 陰陽道で祀る王神と相神が示す方角が月毎に変更しその方向は移転と建築を忌む。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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4月 5日 戊申
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百錬抄
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近頃 多武峯 (現在の 談山神社、公式サイト) の雑人が峯近くで菖 (花しょうぶ) を刈っていた雑人を殺害した。まるで合戦の様な状況だった、と。
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   ※多武峯: 元々は天台宗の妙楽寺を軸とした藤原氏と縁の深い宗教組織だったが藤原氏の氏寺
である興福寺 (法相宗) や氏神である春日大社とは信仰が異質であり、平安末期に 延暦寺の末寺となってからは折に触れて興福寺の衆徒と紛争を引き起こしている。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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4月 7日 庚戌
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吾妻鏡
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酉刻 (18時前後) に地震あり。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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4月16日 己未
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吾妻鏡
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将軍家 藤原頼経が遊覧のため杜戸に渡御、武蔵守 北條泰時、駿河前司 三浦義村ら多数が供奉し夜になってから御所に還御された。
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   ※杜戸: 現在の葉山町森戸 (地図) 三浦義明の六男重行が長徳寺付近に本拠を置き杜戸六郎を
名乗ったが最初と伝わるが、異説も多数あり。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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4月21日 甲子
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吾妻鏡
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晴。御所に御車宿 (牛舎の車庫) を建てる運びとなり今日上棟式を催した。奉行は左衛門尉 後藤基綱
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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4月22日 乙丑
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吾妻鏡
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小雨。将軍 藤原頼経が江嶋明神に御参り。還御途中で駿河前司 三浦義村の大庭館に立ち寄った。
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   ※江嶋明神: 現在の 江島神社 (公式サイト) 。頼朝が頻繁に参
詣してから人気が広まり以後の隆盛を招いた。
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   ※大庭館: 三浦館も荘家の跡も既に不明だが遺構の一つ 大庭
城址は引地川と小糸川に挟まれた要害台地で、大庭氏の本拠だった可能性が高い。
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大庭御厨の支配権は 源 義朝の恫喝と押領を経て大庭景親懐島景義三浦義村→ 北條得宗家と変遷する。 右上は東側から見た大庭城址公園。
  クリック→ 別窓で拡大表示  大庭城址 訪問記 (別窓) も参考に。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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4月23日 丙寅
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吾妻鏡
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晴。将軍家は午刻 (正午前後) に (義村館から) 鎌倉に還御された。
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   ※百錬抄: 南都 興福寺の悪徒らが多武峯に攻め込み僧房六十余宇を焼き払う事件が起きた。
聖霊院 (現在の 談山神社、公式サイト) だけが被害を免れたが、今度は天台衆徒 (延暦寺) らが 清水寺を焼くらしい、との噂まである。 百錬抄の詳細説明は Wiki で。
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   ※多武峯: 鎌倉時代は天台宗の神仏習合寺院。同じ大和国の興福寺 (法相宗) も起源は同じ藤原
氏なのだが宗派の違いから敵対視され、再三の抗争を繰り返していた。
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また法相宗の清水寺も同様に天台宗の比叡山延暦寺に敵対視された。この時代の既存仏教界は抗争に明け暮れる日々だったから 浄土宗、念仏宗、時宗、法華宗などの勃興は必然だったと言える。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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4月25日 戊辰
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吾妻鏡
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晴。今夜、将軍家 藤原頼経は五月節に伴う御方違えのため生西 小山朝政の家に入御された。
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   ※五月節: 二十四節気の一つ、芒種。旧暦では4月後半〜5月前半、太陽暦では6月6日前後。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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4月26日 己巳
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吾妻鏡
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曇。今朝、将軍家が御所に戻ろうとしたが、小山朝政がこれを引き止め、一族から屈強なものを選び御前の庭で小笠懸や相撲の勝負を催した。夕暮れまで遊興した後に還御された。
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   ※小山朝政邸: 若宮大路と車大路に面した辺りだったらしい。車大路は六地蔵から若宮大路を
横切って大町大路と並行していた道だから、朝政邸は下の下馬橋の南付近 (地図) だろうか。宇都宮辻子幕府の南端からは 600m前後だ。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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4月27日 庚午
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吾妻鏡
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京都からの飛脚が鎌倉に入り報告。去る17日に南都興福寺の衆徒が多武峯を襲撃して合戦し放火した。比叡山延暦寺はこれを憤って集結、洛中は不穏な状態である。
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   ※百錬抄: 右中弁親俊朝臣が関白の使者として南都に下向。これは先日に興福寺衆徒が多武峯
の堂舎と僧房を焼き払い、再び狼藉に及ぶとの風評が伝わったためである。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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4月28日 辛未
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吾妻鏡
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晴。将軍家 藤原頼経が遊覧のため六浦に渡御された。
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   ※六浦: 現在の横浜市南部 (地図) 、当時の海岸線は現代よりも内陸部に入っていたらしい。
「海路」 の記載がないので、移動には朝比奈切通し経由の陸路を辿ったと思われる。
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六浦荘には六浦郷、釜利谷郷、富岡郷、金沢郷があり、健保元年 (1213) の和田合戦で関東御料 (将軍領) となって北條氏が地頭に任じ、北條実泰が継承して後の金沢流北條氏となった。
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従って一族の始祖は 北條義時の四男 実泰だが、彼は伊賀氏事件などの政局に心の均衡を崩して精神を病み 27歳で出家引退となる。従って実質的な初代は嫡子 実時である。
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実時は三男の貞顕 (北條氏滅亡直前の10日間だけの15代執権)に家督を譲って金沢郷に隠居して学問に傾注、和漢の書籍を収集して後の金沢文庫の基礎を築いた。貞顕もまた、文献収集に力を注いだと伝わる。家格としては「得宗家>赤橋流>大仏流と金沢流」に位置づけられた。
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一族の菩提寺は 称名寺 (Wiki) 、ここは小学校の遠足以来訪問していない。無念...。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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5月 1日 癸酉
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吾妻鏡
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将軍家 藤原頼経が六浦から還御された。昨夜は六浦に宿泊である。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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5月 7日 己卯
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吾妻鏡
百錬抄
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京都からの飛脚が鎌倉に到着して報告。先月25日に南都の悪僧らが再び多武峯に放火した。比叡山延暦寺も合戦の準備を整えているため朝廷は慰留に務めている、と。
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   ※百錬抄: 5月6日 戊寅、興福寺別当の実尊僧正が多武峯の事件により寺務担当を罷免された。
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5月7日 己卯、多武峯が襲撃された事により比叡山の衆徒らが蜂起した。
興福寺の所領 近江国の荘園を没収すると称して占拠したため、興福寺の衆徒は更に激怒し洛中は危険な状態になっている。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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5月 8日 庚辰
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吾妻鏡
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晴。将軍家 藤原頼経が御所東御門の馬場殿に出御し五番の競馬を観覧された。加地三郎左衛門尉 (佐々木) と印東八郎らがその勝負に挑んだ。今日の 竹御所は体調不良で出御せず。
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   ※加地三郎: 加地信実の三男時秀。子孫は新発田氏を名乗り、子孫は上杉謙信に仕えている。
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   ※印東八郎: 上総広常の兄 次郎常茂が印旛郡印東庄の庄司として印東を名乗ったのが最初。
八郎は嘉禎二年 (1236) 10月5日にも南都の騒動鎮圧の際に道路封鎖の任に当たり 「殊勝、勇敢、壮力の輩」と評されているが、本名は不詳。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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5月10日 壬午
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吾妻鏡
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晴。将軍家 藤原頼経が再び同所 (馬場殿) に出御し、駿河次郎 三浦泰村、小笠原六郎時長 (3月9日を参照) 、小山五郎長村らが流鏑馬を披露した。続いて五番の競馬の勝負あり。今日も竹の御所の姫君は体調不良で出御を見合わせ、相模守 北條時房の沙汰として祈祷が始められた。
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   ※小山長村: 小山政光朝政朝長長村と続く小山氏の四代当主となるが建保五年 (1217)
生れの 11才、まだ少年に過ぎない。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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5月13日 乙酉
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吾妻鏡
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印東八郎 (8日を参照) が御所で御厩の御馬 (栗毛) を下賜された。昨日の競馬の技量で将軍を感動させた結果である。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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5月14日 丙戌
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吾妻鏡
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晴。姫君 (竹御所) の病状回復に伴い、午刻 (正午前後) に病の穢を落とす御沐浴の儀を催した。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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5月15日 丁亥
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吾妻鏡
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戌刻 (20時前後) に大地震あり。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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5月16日 戊子
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吾妻鏡
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晴。巳刻 (10時前後) に相模五郎 北條時直の室 (佐原義連の三男 家連の娘) が男子を平産した。
今日、左衛門尉 後藤基綱が、先月29日に前右宰相中将 一条実雅卿が越前国で死没 (30歳) と報告した。
去る元仁元年 (1224) に越前配流に処されていた (伊賀氏の乱に関与) 。基綱は越前の守護人である。
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   ※北條時直: 永仁五年 (1297) に鎮西探題に任じた弟の実政を補佐して鎮西に下り、周防国と
守/長門国の守護を経て長門探題に就任。
元弘三年 (1333) の 後醍醐天皇の倒幕挙兵に伴う九州動乱を鎮圧するが後に敗北して孤立無援となり、降伏後に間もなく死没する。
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   ※時直の男子: この日に産まれた男子 (上野四郎) は後醍醐天皇の建武新政に反発して建武二年
(1335) に挙兵して敗北し死没する。 しかし史料通りなら106歳になる、これは何かの間違いだろう) 。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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5月21日 癸巳
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吾妻鏡
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晴。天文博士の安倍維範朝臣が地震祭 (地震を鎮める祭祀) を催した。
戌刻 (20時前後) に御所の近くで騒ぎが起き、多くの御家人らが走り回った。武蔵守 北條泰時が左近入道 尾藤景綱と左衛門尉 平三郎盛綱に命じて「特に事件ではないから退散せよ」と告知し、夜半になって鎮まった。誰かが追討されるとの噂による騒ぎだったらしい。
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   ※天文博士: 律令制では中務省の陰陽寮に所属し天文を観測すると共に10人の天文生を指導す
る職種。必ずしも鎌倉幕府に同様の組織があった訳ではないと思うが...。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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5月22日 甲午
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吾妻鏡
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晴。 (天変地異に対応して) 祈祷が始まった。
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    薬師護摩は 大進僧都    一字金輪法は 信濃法印
    八字文殊法は 宰相律師   十一面護摩は 加賀律師
    五大尊法は 念行      北斗供は 助法印珍誉
    本命星供は 師法橋珍瑜   天地災変祭は 親職
    螢惑星祭は 国継
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今日、六波羅の使者が到着して次の通り報告した。
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先月17日と23日の二度、南都興福寺の衆徒が多武峯を襲って堂舎や塔廟を焼いた件について、朝廷の制止にも拘わらず未だに鎮まらないため武家 (六波羅を経て鎌倉幕府) に綸旨 (帝による鎮圧命令) が下された。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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5月23日 乙未
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吾妻鏡
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晴。南都 (興福寺) と多武峯の合戦に関し評定。出羽前司 中条家長を使者として京都に申し入れる、と。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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5月28日 庚子
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吾妻鏡
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曇。午刻 (正午前後) に 千葉介胤綱 (21歳) が死没した。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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6月 6日 丁未
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吾妻鏡
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辰刻 (朝8時前後) に御所の贄殿 (調理場、厨房) の竈 (釜) が音を立てた。
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   ※百錬抄: 山門 (比叡山) の衆徒が昨夜に日吉 (現在の 日吉大社) の神輿を 延暦寺中堂 に担ぎ入れ
向かう噂が流れ、武士に命じて防がせた。原因は多武峯が焼かれた事件である。
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6月9日 庚申、 (日吉の) 神輿が本社に還御し、派遣された武士は各々帰洛した。

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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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6月22日 癸亥
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吾妻鏡
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来る26 日に将軍家 藤原頼経が相模河の周辺を遊覧し駿河前司 三浦義村の田村別邸 宿泊を思い立った。 (北西なので) 26日には太白の方向に当たると人々が言うため安倍親職と晴賢等に確認させた。
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晴賢は 「行った事のない場所なので容易に結論は出せないが聞いた限りでは乾方ではないと思う」 と述べ、親職は「戌方 (西北西) である」と述べた。従って宿泊の件は支障なしと義村に伝えた。
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   ※田村別邸: 地図 で見ると確かに西北西だ。更に詳細は貞応二年 (1233) 4月29日の項を参照。
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   ※太白: 陰陽道の方角神(金星の精) で兵乱や凶事を支配する。日毎に遊行する方向を変えて、
その方角への外出などは凶とされる。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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6月23日 甲子
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吾妻鏡
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晴。辰刻 (朝8時前後) に将軍家が行なう百日招魂祭の御撫物 (依り代のひとがた) を鼠が喰い破った。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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6月25日 丙寅
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吾妻鏡
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曇。将軍家 藤原頼経は明日に田村別邸に入御する予定だったが家主の 三浦義村に軽服 (軽い服喪) の事情が起きたため延期となった。他に遊覧に適した場所があるかを調べさせたところ、明日は延長年間 (923〜938年) に清涼殿が落雷の被害を受けた日である事が判明した。
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籐内左衛門尉定員を介して降雨の可能性の有無を文書で陰陽師に問い合わせた結果 晴賢と泰貞と国継らは雷雨は起きない、親職と晴職は降雨の恐れあり、また文元は夜になって小雨がある、と報告した。
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   ※清涼殿落雷: 延長八年 (930) 6月26日の夕方
近くに皇居南西の柱に落雷、大納言民部卿の 藤原清貫ら約10人が落雷の影響で死亡した。
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更にこの惨状を目撃した第60代 醍醐天皇も体調を崩して三ヶ月後に崩御した。菅原道真を大宰府に左遷した中心人物の 藤原時平 「 (道真の) 動向を監視せよ」 と藤原清貫に命じていたため 「道真の怨霊が雷神を操って天皇を含めた高級官僚に報復した」 との伝説が生まれた。
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右上は北野天神縁起絵巻の清涼殿落雷事件。左隅で太刀を構えるのが清貫か。画像をクリック→ 拡大表示。私の図鑑に細密画像がないのが残念。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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6月26日 丁卯
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吾妻鏡
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晴。将軍家が遊覧のため杜戸 (森戸、4月16日参照) に出御され遠笠懸や相撲などの勝負を観覧された。
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  射手
    相模四郎北條朝直     vs 同五郎時直 (朝直の次弟)
    越後太郎光時 (朝時の嫡子)  vs 小山五郎長村
    結城七郎朝広 (朝光の嫡男)  vs 佐原三郎左衛門尉家連 (義連の子)
    上総太郎千葉秀胤 (千葉常秀の嫡子)  vs 小笠原六郎時長 (長清の四男で嫡子。詳細は3月9日)
    城太郎安達義景 vs 佐々木八郎信朝 (加地信実の末子)
    伊賀六郎左衛門尉光重 (朝光の五男、庶子)  vs 横溝六郎義行 (諸説あり、不明)
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武蔵守 北條泰時 が椀飯を献じた。長江四郎らが御駄餉 (外出先の弁当) を整え、盃酒の間に管弦を催した。夜になって船で由比ヶ浜へ、そこから輿で御所に還御された。
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   ※小山長村: 小山政光朝政朝長長村と続く小山氏の四代当主。建保五年 (1217) 生れ、
まだ満11歳の少年だ。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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6月28日 己巳
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吾妻鏡
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御所の北庭 (私邸の庭) で小格勤 (近習の武士) を召し出して相撲の勝負を催した。武蔵守 北條泰時も参席し勝者には五明 (扇) を与えた。
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   ※格勤: 頼朝の時代には「朝夕祗候人」として載っている。領地を持たず御所に住み込みで仕える
家臣。一日当り玄米5升に該当する年俸を受ける。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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6月30日 辛未
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吾妻鏡
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御所に於いて、去る26日に杜戸 (森戸) で催した遠笠懸の負け分を徴収、相模五郎時直らが献上した。
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   ※負け分: この時代には既に貨幣経済が動き出しているが、賭けの代償は未だ 物納らしい。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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7月 5日 丙子
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吾妻鏡
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晴。続いていた越後守 北條朝時の病状が回復に向かい、病の穢を落とす沐浴を行なった。将軍家 藤原頼経は籐次兵衛尉 狩野為光 (為佐) を使者として送り賀意を伝えさせた
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   ※狩野為光: 狩野茂光の三男 行光の二男。後に為佐を名乗り、文暦元年 (1234) には評定衆に任
じる。寛元四年 (1246) 閏4月の将軍頼経失脚 (宮騒動) に伴って解任されるが、建長五年 (1253) には引付衆に復帰する。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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7月 8日 己卯
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吾妻鏡
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晴。馬場殿で競馬と相撲の勝負を催した。今日出仕した者の郎従らを呼び出して取り組ませた。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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7月16日 丁亥
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吾妻鏡
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晴、南の強風。申刻 (16時前後) に松童社付近から出火し東西四町 (約440m) の人家を焼き尽くした。
竹御所邸は一町 (約109m) を隔てて類焼を免れ、武蔵守 北條泰時も駆けつける騒ぎとなった。
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   ※松童社: 大町の一画、現在の八雲神社か (古くは松殿祇園
社や松堂祇園社や祇園天王社と呼ばれ 明治維新に八雲神社に改称した) 。
史料には以下の記載がある。
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竹御所邸は現在の妙本寺の高みにあり彼女の遺骸は敷地の奥にあった新釈迦堂に葬った。堂は既に失われ、釈迦堂須弥壇があった直下に墓標の自然石が置かれている。
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「東西」 の表記は理解しがたいが 「南の強風」 ならば北に延焼し地図の 「400m地点付近」 まで焼失したのだろう。竹御所邸から400m地点までは少し距離があるが、蛇苦止堂付近まで敷地だった可能性を考えれば 「約一町」 の範囲内だ。  右上画像をクリック→ 別窓で拡大表示。
            更に詳細は 妙本寺 比企一族滅亡の跡 (別窓) で。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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7月18日 己丑
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吾妻鏡
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晴。御所の御厩は元々三ヶ間なのだが気に入った駿馬が増えたため二ヶ間を増築する運びとなった。
狩野籐次兵衛尉 (7月5日を参照) が奉行を務める。
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   ※三ヶ間: この場合の 「三間」 は必ずしも長さの5.4mではなく 「三スパン」 つまり 「柱四本分」 を
意味する可能性が高い。
適宜 使い分ける例が多いから厳密に受け取る必要はない、のかも。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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7月20日 辛卯
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吾妻鏡
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駿河前司 三浦義村の軽服 (軽い服喪) は既に経過し、田村山庄に入御されるよう案内が言上された。
御所として新築した建物から門脇の水田まで渡り廊下を設け多くの草花を東と南の庭に植えたとの事。
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   ※頼経と名越流: 両者の接点が増え 関係が濃密になる雰囲気が見て取れる。
北條得宗家に反抗的な名越流北條氏と将軍頼経が危機感を共有し、やがて 宮騒動 (寛元四年 (1246) 閏4月) や 二月騒動 (寛元四年 (1246) 閏4月、共に Wiki) を引き起こす。そして 宝治合戦 (宝治元年 (1247) 6月) で、最後に残った有力御家人 三浦一族の滅亡へ。
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   ※皇帝紀抄: 昨夕からの豪雨で賀茂付近の民家多数が流失した。永承年間 (1046〜1052年) 以来
で最も大きな被害となった。 皇帝紀抄は鎌倉中期編纂の歴史書で編者は不詳。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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7月22日 癸巳
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吾妻鏡
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曇、南の風で時々小雨。明日、田村山庄 (三浦義村の別邸。詳細は貞応二年 (1223) 4月29日を参照) に渡御の運びとなった。今日の天気が不安定なので安倍泰貞を御所に呼び、籐内左衛門尉忠行を介して明日の降雨の有無について尋ねた。
「曇天だが雨は降らず、外出には最適な日和である。」との占い結果が出た。
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   ※籘内忠行: 延応二年 (1240) 3月12日の吾妻鏡に載っている海老名左衛門尉 (当番を無断欠勤し
たため 8月まで出仕停止処分を受けた) だと思うが、あまり確信は持てない。
しかしすぐ結果が出る天気予報まで求められるって、陰陽師も楽じゃないね。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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7月23日 甲午
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吾妻鏡
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曇。将軍家 藤原頼経が秋の風情 (西暦の8月24日) を楽しむため駿河前司 三浦義村 の田村山庄に渡御された。
辰刻 (朝8時前後) に水干姿で御輿を用いて御所を出発、金洗澤の付近から騎馬に改めて近習が陽除けの長柄傘を差し掛けた。供奉に漏れた宿老数人が昨夜と今夜に分かれて田村に向かっている。
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  御出の行列
   先ず随兵十二騎 (左右に分かれる)
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     三浦次郎泰村  長江八郎師景 (権五郎景政の曾孫で懐島景義大庭景親の従兄弟、長江氏を継承)
     結城七郎朝広 (朝光の嫡子)   上総太郎秀胤 (常秀の嫡子、千葉氏二代当主)
     城太郎 安達義景  小笠原六郎時長
     左衛門尉 大須賀胤秀    左衛門尉 佐々木太郎重綱
     足利五郎長氏  河越次郎重時 (重頼の二男。河越尼を経て家督を継承)
     陸奥四郎 北條政村  相模四郎 北條朝直
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   次いで御引馬三疋  次いで御弓袋差一人  次いで御鎧着一人  次いで御乗替二人
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   次いで御駕 (騎馬の将軍藤原頼経)
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     駿河四郎三浦家村 (三浦義村 六男、御剣を持つ)   佐原十郎左衛門盛連 (義連 嫡子、笠を持つ)
     佐原四郎光連(義連の庶子か)  高井次郎実茂
     多々良次郎通定  印東太郎常直
     遠藤兵衛尉 (?)   土肥太郎実綱 (遠平の曾孫)
     稲河十郎 (?)   伊佐兵衛尉行政 (?)
         以上左方に列歩す。
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     大河戸太郎兵衛尉広行  下河辺左衛門次郎宗光 (下河辺一族だろうが、系図に載っていない)
     梶原三郎景盛 (系図に記載なし)   佐貫次郎(広綱の子?)
     波多野小六郎 (?)   佐野小五郎宗綱 (籘姓足利氏で戸奈良 (本領は佐野市北部 (地図) の祖)
     佐々木八郎信朝 (加地信実の末子)   春日部太郎 (大井実春の弟 実高、本領は現在の春日部市)
     海上五郎胤有 (東胤頼−重胤−胤有(長子周辺を領有) と続く)
     阿保三郎 (武蔵七党の一つで安保郷 (埼玉県神川町 (地図) を本領とした。)
     左衛門尉本間次郎信忠
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   御調度懸け 長尾三郎為村
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   御後(水干、野箭)
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     越後守 北條朝時  駿河守 北條重時    陸奥五郎 北條実泰
     北條有時  相模五郎北條時直  助教 (大学寮での博士補佐) 中原師員
     周防前司藤原親実  加賀前司遠兼 (?)   三條左近大夫 (?)
     駿河蔵人 (?)   左近蔵人 (?)   伊賀蔵人 (?)
     左衛門尉結城朝光  小山五郎長村 (政光朝政−朝長−長村 (四代当主)  修理亮北條時氏
     白河判官代八郎 (?)     佐々木判官信綱  同三郎泰綱
     長沼四郎左衛門尉時宗 (長沼宗政の嫡子)  左衛門尉後藤基綱  伊豆左衛門尉頼定
     伊東左衛門尉祐時  宇佐美左衛門尉祐政 (祐茂の嫡子)   佐原三郎左衛門尉家連
     宇都宮四郎左衛門尉頼業  伊賀四郎左衛門尉朝行 (朝光の四男)
     同六郎左衛門尉朝長(朝行の弟?系図に記載なし) 土屋左衛門尉宗光  左衛門尉中條家長
     信濃次郎左衛門尉二階堂行泰  籐内左衛門尉定員  隠岐次郎左衛門尉佐々木泰清
     狩野籐次兵衛尉為光   天野次郎左衛門尉景氏   遠山左衛門尉景朝
     加藤左衛門尉行景   江兵衛尉大江能行   左衛門尉 葛西清重  相馬五郎義胤
     東六郎行胤  三浦又太郎氏村 (?)   足立三郎元氏 (?)
     嶋津三郎左衛門尉忠直(嶋津忠久の末子、庶子)  氏家太郎公信(氏家公頼の長子)
     遠藤左近将監為俊(美濃の東氏系?)  海老名籐内左衛門尉忠行(横山党の末、系図になし)
     豊嶋太郎(朝経。葛西氏の系だが、系図が不明確)  長江四郎  三好太次郎左衛門尉 (?)
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   最末
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     相模守 北條時房   武蔵守 北條泰時   相模小太郎 (?) .

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   ※小笠原時長: 長清の四男で嫡子。信濃国伴野荘(長野県佐久市 (地図) 、平賀氏の没収領を含む)
を本領とし伴野氏の祖となった。小笠原氏の家名は長兄の長経が継いでいる。
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   ※大須賀胤秀: 千葉氏の実質的初代 常胤 の四男 大須賀胤信 の二男。父から現在の千葉市南部の
多部田城 (地図) を相続して本拠とし、一帯を支配した。
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   ※高井実茂: 宝治合戦 (1247) の三浦側戦死者 (自殺含む) の中に 「高井実茂、子息三郎、
同 四郎太郎」 の名がある。三浦氏の系累なのは確かだが、その先が判らない。
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   ※多々良通定: 仁治二年 (1241) 5月23日の吾妻鏡に「肥後国の御家人大町通信と大町庄 (佐賀県
杵島郡大町町) だから大内氏の系累で鎮西に本拠を置いた氏族か、或いは素直に 三浦義明の三男 (四男説あり) で横浜市緑区鴨居を領有した義春の系累か。
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   ※印東常直: 頼朝に誅殺された上総広常の子孫。広常の滅亡後は千葉氏の支配下に入ったが共に
宝治合戦で滅亡することになる。
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   ※大河戸広行: 小山政光の末弟重行の嫡子。本領は伊勢神宮の大河戸御厨(松伏町一帯、地図)。
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   ※本間信忠: 大仏流北條氏の国守護代として佐渡を治めた武蔵七党横山党海老名氏流(本領は
相模国の愛甲郡依知郷本間 (厚木市金田、地図) の武士。
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   ※長尾為村: 坂東八平氏 鎌倉党の武士で一族の本領長尾郷は現在の川崎市多摩区(地図)。
為村は建保七年 (1219) 1月に 実朝 を殺した 公暁を (三浦義村の命令で) 討ち取った 長尾定景 の子孫 (定景−景茂−景忠−景能−景為−景忠−三男為村と続く)。定景は石橋山合戦で佐奈田義忠を討った後は降伏し、実質的に三浦氏の被官となった。
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   ※北條時直: 相模五郎時直なら、父 実時は安貞二年 (1228) にはまだ4歳。何かの間違いだろう。
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   ※藤原親実: 明経道の中原忠順の子で評定衆 中原師員 の叔父。将軍藤原頼経に仕え儀礼や祭祀な
どの奉行に任じていた。
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   ※佐々木三郎: 佐々木信綱の三男泰綱で嫡子と近江守護を継承。廃嫡された長兄の訴えで相続し
所領の一部を割譲したが家督相続はそのまま認められ、後の守護大名六角氏の祖となった。
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   ※伊豆 (森) 頼定: 源義家 の曾孫。義家−七男義隆−三男頼隆 (毛利、若槻) の次男で森氏の祖。
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   ※伊東祐時: 工藤祐経 の嫡子。富士の裾野で祐経を殺した 曾我兄弟 頼朝が許そうとした際に
泣いて身柄の引き渡しを求めた祐経の嫡子犬房丸 (建久四年 (1193) 5月29日を参照) が成長して祐時を名乗り、伊東の家督を継承した。
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相続争いにより 祐経の最初の妻 (伊東祐親の娘) は離縁させられ土肥遠平に再嫁、産んだ娘が祐時に嫁して祐朝を産み 早川氏、長門伊東氏、安芸伊東氏の祖となった。
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   ※佐原家連: 義連の三男らしいが系図により義連の子を 盛連、政連、景連と記載している場合と
政連の代わりに家連が入る場合がある。家連は貞応2年 (1223) 〜嘉禎三年 (1237) の間は紀伊国守護に任じている。
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   ※宇都宮頼業: 五代当主 頼綱 の二男で横田氏の祖。長男時綱と頼業の生母は共に 稲毛重成の娘、
三男泰綱の生母が 北條時政 の娘だった関係で家督は泰綱が継ぎ、長男時綱は 三浦義村 の娘を妻として三浦氏との関係を深め、宝治合戦で滅亡。
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頼業は宇都宮南部の広大で肥沃な横田郷 (現在の上三川町、地図)を相続して横田氏の祖となった。横田氏は鎌倉幕府滅亡後も繁栄を続けるが、宇都宮氏が22代国綱の時代に秀吉による改易を受けて没落、横田氏も運命を共にしている。
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   ※土屋宗光: 中村宗平の三男 土屋宗遠の嫡子。建暦三年 (1213) の和田合戦で多くの中村党が滅亡
した中で北條に与して滅亡を免れ更に足利→ 武田→ 徳川と主家を替えて存続した。
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   ※二階堂行泰: 行盛の子。建長元年 (1249) に引付衆、同五年 (1253) に政所執事と五番引付頭人、
正元元年 (1259) に評定衆。弘長二年 (1262) に政所執事を嫡子行頼に譲ったが翌年に行頼が死亡、再任となっている。
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   ※佐々木泰清: 佐々木兄弟の末弟義清の二男。建長二年 (1250) に嫡男の兄 政義が無断出家して
所領と職掌を没収されたため出雲と隠岐の守護を継承した。その後に六波羅探題評定衆から信濃守と順調に出世、11人の男子をもうけて山陰に勢力を扶植した。
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   ※狩野為光: 狩野茂光の三男で後に為佐と改名。寛元四年 (1246) に宮騒動には連座して評定衆を
罷免されたが建長五年 (1253) に引付衆に復帰した。
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   ※天野景氏: 遠景−嫡男政景−景氏と続く。
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   ※遠山景朝: 加藤景廉の嫡男。美濃国遠山荘 (恵那市と中津川市 (地図) の地頭を継承して岩村城
(恵那市の紹介サイト)に本拠を置き、遠山氏の祖となった。
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   ※加藤行景: 上記 加藤景廉の末子景長の嫡子。
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   ※大江能行: 広元の系累ではなく京下りで幕臣に転じた人物らしい。大江氏系図には記載なし。
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   ※相馬義胤: 千葉常胤の二男で相馬氏の祖 師常.の嫡子。相馬氏二代として北條氏に協力した。.
   ※東行胤: 千葉常胤の二男で東氏の祖となった東 (六郎) 胤頼−重胤と続く。嫡子に中務丞胤行が
いるが行胤は東氏系図には見当たらない。
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   ※長江四郎: 鎌倉党長江義景の長子明義。宝治合戦で三浦に与して死没、家名は弟が継いだ。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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7月24日 乙未
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吾妻鏡
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曇。将軍家 藤原頼経は田村邸に逗留して遠笠懸や小笠懸を楽しみ、人々は馬場の垣際で見物した。
この時に三浦次郎 泰村と左衛門尉 佐々木太郎重綱が口論し互いに罵り合う状態になった。
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笠懸の射手だった泰村は騎馬のまま馬場の垣内で弓に矢を番え、検分役の重綱は垣の外から歩み寄って左手に太刀を持ち雌雄を決する気配となったが弓を引き太刀を抜く前に宿老らが双方を宥め鎮静した。
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   射手  相模四郎北條朝直 vs 陸奥五郎北條実泰
小山五郎 vs 相模五郎北條時直 (北條実泰−実時−時直と続く金沢流)
小笠原六郎 vs 筑後十郎(?)
長江八郎 (鎌倉党長江義景の二男で嫡子の師景) vs 伊賀六郎左衛門尉光重 (朝光の庶子)
佐々木判官三郎 (時秀?) vs 城太郎安達義景
佐々木八郎信朝 (加地信実の末子) vs 氏家太郎公信
宇都宮四郎左衛門尉頼業 vs 三浦又太郎氏村
三浦次郎泰村 vs 結城七郎朝広 (朝光の嫡子) 。
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夜になって田舎なりの風情を楽しみ、舞女も数輩呼び集められた。
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   ※小山五郎長村: 小山政光朝政 → 朝長 → 長村と続く小山氏四代当主(建保五年 1217年生)。
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   ※小笠原六郎: 長清の四男で嫡子の時長。信濃国伴野荘 (長野県佐久市、平賀氏没領を含む)を
本領に野氏の祖となった。小笠原氏の家名は長兄の長経が継いでいる。
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   ※長江八郎: 鎌倉党長江義景の二男で嫡子の師景。
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   ※氏家公信: 宇都宮朝綱の二男公頼を祖とする氏家氏二代目(異説あり)。本領は現在の氏家町
(地図)。
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   ※宇都宮頼業: 宇都宮頼綱の二男で横田氏の祖。本領 横田郷は宇都宮市南部の上三川町 (地図)
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   ※三浦長村: 駿河六郎。三浦義村の六男。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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7月25日 丙申
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吾妻鏡
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曇、晴。将軍家 藤原頼経が鎌倉に還御となり、義村が御引出物を献じた。御剣は陸奥四郎 北條政村が、御冑 (兜) は三郎左衛門尉佐原家連と遠藤兵衛尉が、御野矢弓(狩猟用の弓箭)は左衛門尉結城朝光が、御行騰は 三浦次郎泰村が、砂金は城太郎 安達義景が、各々献じた。
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 一の御馬(鴾毛・鞍置き)は駿河三郎三浦光村と同四郎家村(三浦義村の六男)が引き、
 二の御馬(葦毛駮)は佐原四郎光連(義連の庶子か)と高井三郎実泰が引き、
 三の御馬(黒)は上総太郎秀胤と稲河十郎が引いた。将軍家は灯が点く時間の前に鎌倉に入御した。
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   ※佐原家連: 義連の三男らしいが、系図によっては義連の子は盛連・政連・景連を記載している
場合と政連の代わりに家連が入る場合がある。
家連は貞応二年 (1223) 〜嘉禎三年 (1237) 間は紀伊国守護に任じている。
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   ※高井実泰: 宝治合戦 (1247) の三浦側戦死者 (自殺者を含む) 名簿の中に「高井実茂、子息三郎
実泰、同 四郎太郎」の名がある。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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7月26日 丁酉
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吾妻鏡
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駿河前司 三浦義村が御所 (田村山荘)で訪問の礼を述べて盃酒と椀飯を献じ 武蔵守 北條泰時も宴に加わった。   今日、籐内左衛門尉定員 (7月22日を参照) を介して御扇を (陰陽師の) 安倍泰貞に与えた。今回の遊覧に当たり降雨の気配なしと占った褒美である。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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7月29日 庚子
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吾妻鏡
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新調した牛車が京都から武蔵守 北條泰時邸に届けられた。来月15日の鶴岡八幡宮放生会に使うつもりだったが事前に試すべきかを泰時邸で検討して試すべきと決め、陰陽師に日程の勘文 (諮問への答申) を求めた。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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8月 2日 壬寅
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吾妻鏡
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今日、新しい牛車を御所の車庫に納め、左衛門尉 後藤基綱がこの作業を差配した。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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8月 5日 乙巳
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吾妻鏡
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牛車の乗り初めを行なった。日程については大相国の計らいで陰陽寮に諮問し、賀茂在継が上申した2日を連絡してきたが将軍の意向に合わず、再び検討して今日と定めた。
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   ※大相国: 太政大臣の唐名だが安貞二年は太政大臣が不在になっている筈なので他の人物と思
われる。また、既に過ぎた2日を答申とするのも理屈に合わないが...
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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8月11日 辛亥
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吾妻鏡
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     この日付の記事は伏見本には載っていないため、他の写本から転載した。
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御所の南庭で放生会に催す相撲の内取 (事前の練習を兼ねた取り組み) を行なって褒賞を与えた。差配は遠藤左近将監為俊 (美濃国の東氏系か) 、先例の有無を調べさせたが判明k 前に勝負を決してしまった。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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8月13日 癸丑
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吾妻鏡
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明後日の八幡宮出御の供奉人について、駿河守 北條重時が名簿を作成し周防前司 中原親実に渡した。
概ね田村山荘に出御の際と同様で、将軍家 藤原頼経からは「この人選を変えてはならぬ。但し、田村への随兵12人に8人を加えて前後の陣に分けよ」との仰せがあった。
8人とは、相模五郎 北條時直 、小山五郎長村、氏家太郎公信、左衛門尉 伊東祐時、左衛門尉 葛西清重、天野次郎左衛門尉景氏、東六郎行胤、足立三郎基氏である。
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   ※北條時直: 永仁五年 (1297) に鎮西 (探題) に任じた弟の実政を補佐して鎮西に下り、周防と長
門の守護を経て長門 (探題) に就任。元弘三年 (1333) の後醍醐天皇の倒幕挙兵に伴う九州動乱を鎮圧するが後に敗北して孤立無援となり、降伏して間もなく死没した事になっている。相模五郎=時直では年代的に辻褄が合わない (1228年には父の実時が4歳)ので別人か、系図の齟齬の可能性あり。
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   ※小山長村: 小山政光朝政朝長長村と続く小山氏の四代当主 (建保五年、1217年生) 。
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   ※氏家公信: 宇都宮朝綱の二男公頼を祖とする氏家氏二代目(異説あり)、本領は氏家町 (地図)
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   ※伊東祐時: 工藤祐経の嫡子。富士の裾野で祐経を殺した曾我兄弟頼朝が許そうとした際に
泣いて身柄引き渡しを求めた祐経の嫡子犬房丸 (建久四年 (1193) 5月29日 参照)。
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成長して祐時を名乗り伊東の家督を継承した。祐経の最初の妻 (伊東祐親の娘) は (祐親の意思で) 離縁させられて 土肥遠平に再嫁、生まれた娘 (先妻の子の可能性あり) が祐時に嫁して祐朝を産み、祐朝が早川氏、長門伊東氏、安芸伊東氏の祖となった。系図上では祐時が先妻の娘と婚姻した形になり、これを北條氏が忌避したとも考えられる。
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   ※天野景氏: 遠景−嫡男政景−景氏と続く。天文六年 (1537) に遠い子孫 天野景隆の息子の康景
は幼少の家康の側近として功績を挙げ一万石の興国寺藩主に登ったが、家臣が所領で盗みを働いた天領の領民を殺傷し、引き渡しを拒否し続けて大名の地位を放棄した、と伝わっている。彼の死後に息子の康宗は1000石の中堅旗本として復帰を許されたのが多少の救いか。
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   ※東行胤: 胤頼−重胤と続く嫡子に中務丞胤行がいるが行胤は東氏系図には見当たらない。
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   ※足立基氏: 遠元−長男基春−遠親−基氏と続く。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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8月15日 乙卯
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吾妻鏡
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晴。鶴岡八幡宮の放生会あり。将軍家が御束帯 御車で出御し、出立の前に安倍晴賢による御祓いなどの儀式を行なった。駿河守 北條重時が補佐役に任じ、周防前司 中原親実が進行を差配した。
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その後に御車で南門より若宮大路に出て八幡宮に到着、北條重時が御剣を持ち、左衛門尉佐原三郎家連が弓箭を携えた。
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   ※佐原家連: 義連の三男らしいが系図により義連の子は盛連、政連、
景連を記載している場合と、政連の代替に家連を記載する場合がある。家連は貞応二年 (1223) 〜嘉禎三年 (1237) の間は紀伊国守護に任じている。
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右は宇都宮辻子御所南門から八幡宮馬場道までのルート、地図計測で約600m、牛車に乗るほどの距離ではない。この場合の牛車は段葛の中央を進むのか、それとも東側の側道か。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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8月16日 丙辰
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吾妻鏡
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快晴。申刻 (16時前後) 以後に小雨が降り続いた。
将軍家 藤原頼経は昨日に続いて御参宮と御奉幣、馬場での流鏑馬などが終わった夕刻に還御された。
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     この日付の記事は伏見本には載っていないため、他の写本から転載した。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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9月 8日 戊寅
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吾妻鏡
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戌刻 (20時前後) に地震あり。
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     この日付の記事は伏見本には載っていないため、他の写本から転載した。
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   ※百錬抄: 9月16日 丙 戌、七條院が崩御。当今 (現在の帝) および斎宮の御祖母である。
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筆者注 : 七條院=藤原殖子は高倉天皇の妃で後高倉院 (守貞親王) と後鳥羽天皇の生母。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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9月18日 戊子
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吾妻鏡
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数種の祈祷が実施された。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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9月20日 庚寅
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吾妻鏡
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未刻 (14時前後) に 竹御所の寝殿南の格子の中に突然一匹の犬が現れて畳の上に伏した。女房 (女官) がこれを不審に思って占わせたところ 「火事と病気に注意が必要」 との事である。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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9月23日 癸巳
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吾妻鏡
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将軍家が御咳を病んでいる。最近はこの症状が流行っており場所と貴賎を問わず罹病している。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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9月26日 丙申
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吾妻鏡
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京都の使者が参着、去る16日に七條院 (72歳) が崩御されたと報告した。
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     この日付の記事は伏見本には載っていないため、他の写本から転載した。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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10月 7日 丁未
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吾妻鏡
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雨。戌刻 (20時前後) から子刻 (深夜0時) まで強風が続き御所の侍所、中門の廊下、竹御所の侍所などを倒壊させた。
その他数え切れない家屋が損害を受け、吹き倒れた家屋が道路に投げ出され多くの死傷者が出た。
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   ※皇帝紀抄: 神祇官 (諸国の官社を統括する官庁) が倒壊。
また陽明門内の樹木が多く倒れ、法勝寺八角九重塔の九輪が更に北に傾き 珍皇寺 (Wiki、公式サイト) に新造した塔までも倒れた。
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10月7日は西暦の11月5日、京都と鎌倉の双方に被害が出ている事を考えると遅い台風か、爆弾低気圧か。
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 右は法勝寺八角九重塔の復元創造図と説明板。
 画像をクリック→ 別窓で拡大表示  更に詳細は 埋蔵文化財研究所のサイト で。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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10月 8日 戊申
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吾妻鏡
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快晴。左衛門尉 後藤基綱の奉行として、御所の破損修理などについて武蔵守 北條泰時邸で協議した。
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大風や洪水など自然災害の復旧に関しては、状況を問わず取り掛かるべきと述べる者もいたが泰時は納得せず安倍晴賢を呼んで確認させた。
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晴賢は「昔、木工寮の建物が風で倒れた事があり、最近では鳥羽離宮が洪水の被害を受けました。 共に修理に準じて復旧しましたが、柱や棟木 (などの部分的な作業) ではなく、倒壊した建物については日取りを選ぶべきでしょう。」と答えた。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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10月 9日 己酉
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吾妻鏡
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晴。政所に於いて 竹御所邸の倒壊建物に関して協議、信濃民部入道行然 (二階堂行盛) がこの件を差配する。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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10月10日 庚戌
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吾妻鏡
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晴。将軍家 藤原頼経が御方違えのため小山下野入道生西 (小山朝政) 宅に入御するとの指示があった。
周防前司 中原親実と左衛門尉土屋宗光がこの件を差配する。
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   ※土屋宗光: 承元三年 (1209) 5月28日に、和賀江の近くで 「謀反人 梶原景時の孫であることを
理由に」 御家人の梶原家茂を斬り殺した 土屋宗遠の嫡男 宗遠。
実朝の決裁で罪を許されたが当時 81才だったから既に死没しているだろうけど、土屋繋がりで何となく思い出した。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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10月14日 甲寅
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吾妻鏡
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今夜 竹御所が御方違えで陸奥四郎 北條政村 (元 二位殿 (政子) 御所) に渡御、女房数人を伴った。
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   ※北條政村邸: いわゆる 常盤亭 (文化遺産オンライン) は長谷と梶原の中間 (地図) にあるが、
この場合は 「政子の元の御所」 だから政庁に近い別邸と考えるべきか。
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   ※旧政子邸: 以前の記録には 「大倉御所敷地の東」 だったと思ったが...そう言えば (10日の)
小山朝政邸も確か車大路に面していたっけ。探し物が増えてしまった。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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10月15日 乙卯
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吾妻鏡
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武蔵守 北條泰時が御馬 (黒駮) 一疋を将軍に献じて御所に参上した。左衛門尉 平三郎盛時が北側の御庭に引き出し、将軍家が出御され毛並みを見て特に喜ばれた。
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仰せに従って泰時が騎乗して御覧に入れ、周防前司 中原親実、信濃民部大夫入道 二階堂行盛、駿河次郎 三浦泰村・城太郎安達義景、土屋左衛門尉宗光、籐内左衛門尉藤原定員らが庭に跪いてこれを眺めた。
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今夕、将軍家は御方違えのため小山下野入道生西 小山朝政の車大路の家に御輿で入御された。黒駮の御馬を御前に引かせ、土屋左衛門尉宗光が御剣を持ち佐原三郎左衛門尉家連が御調度 (弓箭) を携えた。
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  供奉人 (騎馬、五位の者は水干、六位の者は立烏帽子に直垂)
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     駿河守 北條重時  大炊助 北條有時   駿河前司 三浦義村  相模四郎 北條朝直
     同五郎 北條時直 (8月13日参照)   駿河次郎 三浦泰村  同三郎 三浦光村
     足利五郎長氏 (7月23日参照)   周防前司 中原親実 (7月23日参照)
     加賀前司源遠兼   左衛門尉 結城朝光  同七郎 結城朝広  左衛門尉 後藤基綱
     長沼左衛門尉時宗 (7月23日参照)   左衛門尉 宇都宮 (横田) 頼業 (同、左)
     三浦又太郎氏村  左衛門尉 加藤 (遠山) 景朝 (7月23日参照)   左衛門尉 (同、左)
     信濃次郎左衛門尉
二階堂行泰 (同、左)  隠岐次郎左衛門尉 佐々木泰清 (義清の嫡子)
     嶋津三郎左衛門尉忠直 (忠久の三男)   天野次郎左衛門尉景氏 (7月23日参照)
     江兵衛尉能行  伊賀四郎左衛門尉朝行 (朝光の四男)
     狩野籐次左衛門尉為光 (7月23日参照)   遠藤左近将監為俊  左衛門尉 中條家長
     佐々木左衛門尉重綱 (佐々木信綱の長男)   佐々木泰綱 (佐々木信綱の三男)
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   最後尾 佐々木判官信綱
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小山邸に入御して三献(献杯)の準備中に相模守 北條時房と武蔵守 北條泰時が参上した。
越後守 北條朝時も続いて加わる、と。
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   ※車大路: 当時の主要道 「六大路」 の一つ。極楽寺方面から東に進み六地蔵で南に分岐し
若宮大路を横断して閻魔橋を渡り 小町大路の南端と交差して安国論寺 (Wiki) の手前で大町大路に合流する。
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横須賀線と交差する部分を除いて、現在でも古道の雰囲気を残すルートを辿ることができる。
右上は車大路を中心にした周辺の古道ルート図 (クリック→ 別窓で拡大表示)
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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10月16日 丙辰
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吾妻鏡
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将軍家は日中が過ぎて (小山朝政邸から) 御所に還御し、生西 小山朝政は御引出物を献じた。
御剣、砂金、御弓、征矢 (実戦用) 、御行騰、御馬二疋 (一疋には鞍を置く) などである。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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10月18日 戊午
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吾妻鏡
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昨日午刻 (昼前後) 、筥根神社と仏殿が焼け落ちたと急報が到着。
開創してから現在に至るまで火災の被害が無かった聖域である。
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この事件で御所の復旧工事を延期すべきか、助教 中原師員、駿河前司 三浦義村、隱岐入道行西 (二階堂行村) 、左衛門尉 後藤基綱が評議し風による倒壊を修理する事には支障なしとの結論を得た。
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侍詰所や中門の廊下が失われたため特に荒廃している様子があり修理を急ぐべきとの意見がある。
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右画像は箱根神社本殿の裏手にある万願上人 (箱根権現の開創者) の奥津城 (神道の墓所) 。 画像をクリック→ 箱根権現のレポート (別窓) へ。 公式サイトも参考に。
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単なる観光ではなく宗教の聖地として箱根を歩くのも趣きが深い。散策路の途中には見事な姫沙羅 (夏つばきに似ている) の群生もあり、所要時間も本殿から歩いても往復20分ほどだ。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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10月19日 己未
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吾妻鏡
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晴。御所および竹御所邸の中門と廊下と侍詰所などを再建した。最初に建造の寄進を担当した者が工事を担当し左衛門尉 後藤基綱が差配に任じた。竹御所邸再建の担当は政所、信濃民部大夫入道行然 (二階堂行盛) が差配している。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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10月25日 乙丑
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吾妻鏡
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晴。去る22日に火星と土星が相互の軌道を犯した旨を天文担当が勘文 (上申書) で報告。
周防前司 中原親実後藤基綱がこの内容を報告した。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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10月26日 丙寅
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吾妻鏡
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晴。天変の異変を鎮める祈祷を行なう旨の沙汰があり、三條左近大夫将監親實がその奉行に任じる。
今夜、竹御所が新調の御輿に初めて乗った。外出ではなく屋敷の庭のみである。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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10月30日 庚午
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吾妻鏡
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晴。祈祷を開始した。
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     一字金輪法は大進僧都  八字文殊は信濃法印
     愛染王は若宮別当    薬師は宰相律師
     北斗は丹後僧都     土曜供は助法印
     天地災変は親職     泰山府君は泰貞
     螢惑星(火星)は晴幸  鎮星(土星)は晴賢
     太白星(近世)は重宗
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周防前司 中原親実と三條左近大夫親実が奉行を務め、面々の供料を差配し割り当てた。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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11月 9日 己卯
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吾妻鏡
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筥根山の神社と仏閣の火災に関し、万巻上人が草創してから500余年の間に火災が起きた例がなかったにも拘わらず当代になって焼失した事を武蔵守 北條泰時は深く悩み、今日潛かに解謝 (神の怒りを鎮め謝する) の儀式を行ない、更にまた願書を捧げた。
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   ※万巻上人: 朝廷の命令を受けて山岳宗教を束ねるために
箱根山に入ったのは 天平宝字元年 (757) だと伝わっており、「草創500余年」 は40年ほど年代を水増し (笑) している。
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上人の奥津城 (神道での墓所) は10月18日に紹介したが、箱根山南麓の函南 (文字通り函嶺の南) には「上人が愛した桑原の地に小筥根山新光寺 (既に廃寺) を建てて菩提寺にした」との伝承が残っている。
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平安時代中期の薬師如来坐像と、併せて北條時政の長男 北條宗時を葬った墳墓堂の跡や宗時を弔って仏師 実慶に彫らせた阿弥陀三尊像など見るべきものは多い。
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薬師堂に伝わっていた古い仏像群は新造された かんなみ仏の里美術館 に遷され千年の夢を語っている。 右上画像は薬師堂にあった頃の薬師如来像。
             画像をクリック→ 函南薬師堂と新光廃寺跡へ。
当時の仏像画像 (モノクロ) をクリックすると修復後のカラー画像に切り替わる (別窓ではない) 、函南 桑原薬師堂の仏像群を保存して置いた。
宗時の墳墓堂跡は 北條宗時と狩野茂光の不運
(それぞれ別窓) で。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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11月13日 癸未
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吾妻鏡
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晴。武蔵守 北條泰時は特別の宿願があるため祈祷を始めた。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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11月14日 甲申
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吾妻鏡
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晴。月蝕 が明確に確認できた。月曜供は助法印珍誉、羅喉星供は師法橋珍瑜がこれを勤めた。
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   星の動きは本来の精神世界と無縁。興味があれば九曜星を解説するサイト 仏様の世界で。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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11月19日 己巳
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吾妻鏡
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南御 (勝長寿院) に鎮守神社を建てる沙汰が下された。信濃民部大夫入道行然 (二階堂行盛) の差配による。
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   ※鎮守の神社: 元々の鎮守とは凶の方角からの災厄を防いだり、寺などを建てる土地に宿る霊
(地主神) の祟りを防ぐため更に霊威の強い八幡神などを勧請して地主神を服属させる目的があった。 勝長寿院にも鎮守社はあった筈だから、鎮守を追加したと考えるべきか。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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11月25日 乙未
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吾妻鏡
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晴。馬場殿の御所を西側に建てる縄張りをせよとの沙汰があった。
去る23日から武蔵守 北條泰時が計画して申請し、左衛門尉 平盛綱が奉行を担当する。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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11月28日 戊戌
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吾妻鏡
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筥根社再建の上棟式を行なった。周防前司 中原親実が奉行に任じた。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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12月 1日 庚子
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吾妻鏡
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曇。日蝕だが、正しく確認できなかった。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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12月 3日 壬寅
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吾妻鏡
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晴。筥根社の再建に伴う臨時の遷宮について評議し、陰陽師が日取りを選び出した。上棟した先月28日は神社を建てるべき日ではなかったと主張する者もあり、驚いて陰陽師に確認すると「神社の行事として日時を選ぶ場合は問題なし」との回答があった。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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12月 4日 癸卯
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吾妻鏡
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晴。馬場殿を西方に曳いてから建て直した。同じく北西の切戸 (潜り戸) を平門 (二本の柱に平たい屋根を載せた門) に改築、武蔵守 北條泰時がこれを確認した。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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12月 6日 乙巳
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吾妻鏡
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晴。午刻 (正午前後) に地震あり。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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12月12日 辛亥
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吾妻鏡
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晴、南風が続く。辰刻 (朝8時前後) に由井ヶ浜近くの民家から出火し、越前守 北條朝時 の名越亭背後の山裾まで南北20余町※が燃え、午刻 (12時前後) に鎮火した。
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   ※南北20余町: 鎌倉期の計測単位は 条里制 (Wiki) 。
距離の一町は約108m、面積一町は108の二乗≒11,664uとなる。名越邸は材木座四丁目の谷一帯と推定されている。「南北20余町」 を距離に当て嵌めると約2km強で名越邸から浜までの実測約500mの範囲に収まらない。
20余町を面積に当て嵌めると200m×170m、この範囲が焼失した計算になる。
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右画像の四角が概ね200×200mだからこれに該当する程度の由比ヶ浜寄りの面積が焼失したのか。
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右画像の四角が名越邸の推定位置、までの距離が約500m。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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12月19日 戊午
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吾妻鏡
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祈祷などを更に増やして挙行した。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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12月24日 癸亥
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百錬抄
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前の摂政 九条 (藤原) 道家が関白の詔を下された。氏の長者 (藤原氏の筆頭者) である。
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   ※関白の交代: 温厚な性格で幕府の信任も厚かった関白 近衛家実 (Wiki) が更迭され、 将軍頼経
の父 九条道家が朝廷を支配し、寛元四年 (1246) の 宮騒動 (Wiki) で頼経が鎌倉から追放されるまで朝廷の全権を握る専権体制が続くことになる。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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12月28日 丁卯
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吾妻鏡
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筥根社の遷宮あり (10/18の火災からの復興) 。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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12月29日 戊辰
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吾妻鏡
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晴。将軍家 藤原頼経から来年の二所御参詣についての沙汰があり、助教 中原師員が書き出した供奉人の散状 (名簿) および供物の数などの明細を御覧になった。供物などの手配は政所が担当して早急に整え、供奉人の散状は侍所の所司 (次官) に渡して確認を済ませるよう仰せがあった。
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   ※二所御参詣: 来年は頼経の二所詣かと思ったら1月7日に再び翻意して駿河守 北條重時代参
となる。
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西暦1228年
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86代 後堀河天皇
安貞二年
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12月30日 己巳
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吾妻鏡
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辰刻 (朝8時前後) から子刻 (深夜0時前後) まで雪、尺 (約30cm) 以上も積もった。
将軍家 藤原頼経は雪景色に誘われて 竹御所邸まで騎馬で出御された。駿河守 北條重時、陸奥四郎 北條政村、陸奥五郎 北條実泰、駿河次郎 三浦泰村小山五郎長村、左衛門尉 後藤基綱、式部太夫 源親行 (Wiki) らが徒歩で従った。竹御所邸の回廊から引き返して近辺の雪景色を楽しまれた。
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   ※竹御所邸: 頼経 竹御所の婚姻は寛喜二年 (1230) で、それ以後の住居は旧 比企邸跡 (現在の
妙本寺) だが この時点の竹御所邸は具体的な記載がない。
比企邸跡 と考えて良いと思う。
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2025年
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8月02日
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晴耕雨読
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陽除け兼用のキュウリが少し弱り始めた。   08/02 07時 右下をクリック→ 別窓で拡大表示
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もちろん追肥も充分に与えていたし、水やりも切らさなかったのだが、長く続いた暑さに耐えきれなくなったか。
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四本の株が今日までで約70本も収穫できたのだからも役目の一つは立派に果たしたと言える。旧盆の15日過ぎまで陽除けの役目に耐えてくれれば何一つ不満はない。
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来年は小玉スイカ2株とキュウリ2株に変更して、キュウリと小玉スイカが点々とブラ下がって陽除けの役目を果たす、そんな姿を見る、のかも知れない。
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菜園では、いよいよ大玉スイカの収穫日 (最初は今月の6日を予定) が近づいてきた。去年のお届け (掛かりつけ医や懇意にしている御近所さん) は、完熟度が不安なので一玉を半分にカットして中身を確認してから半分づつ二回 (合計一玉ね) 届けたが、今年は思い切って丸ごと一玉を届ける予定。吉と出るか? 凶と出るか?
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園芸日誌を少し整理して 2025年10月の情報を載せた。左目次の 晴耕雨読 園芸日誌 でどうぞ。
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