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嘉禄三年 (1227年) 、12/10 に改元して安貞元年
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前年・嘉禄二年 (1226年) の吾妻鏡 へ       翌年・安貞二年 (1228年) の吾妻鏡
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吾妻鏡 写本 (伏見本) の全ページ画像 を載せました。直接 触れるのも一興、読み解く楽しさも味わって下さい。
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西暦・天皇
和暦・月日
伏見本は元仁二年(1225)〜安貞二年(1228年一部)が欠落。別の写本などから資料を転用した。
西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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1月 1日 辛亥
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吾妻鏡
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晴。武蔵守 北條泰時による椀飯あり。
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   ※椀飯 (おうばん) : 饗応の献立、食事を摂る儀式や行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
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   ※年令: 四代将軍 藤原頼経 (幼名 三寅、昨 嘉禄元年 (1225年) 12月29日に元服) 1/16で 9歳、
貞暁 40歳 、 坊門信子 (故 実朝の寡婦、出家) 40歳 、
竹御所 (故 頼家の娘、後の四代将軍 藤原頼経の正室) 25歳 、
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北條泰時 43歳 、 北條時房 51歳 、 北條朝時 33歳 、 北條重時 29歳 、 千葉胤綱 28歳 、
足利義氏 37歳 、 三浦義村 69歳前後 、 三浦泰村 24歳 、 安達景盛 56歳前後 、
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85代 後堀河天皇 13歳、 84代 順徳天皇 29歳 、 土御門上皇 30歳 、 後鳥羽上皇 46歳 、
九条道家 33歳 、 坊門忠信 41歳 、 近衛家実 48歳、 藤原定家 62歳、
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定豪 74歳 、 退耕行勇 63歳 、 親鸞 52歳 、 叡尊 25歳 、 忍性 9歳 、 日蓮 2月で 5歳 、      (全て1/1時点の満年令)
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    三浦義村は仁安三年 (1168) 誕生 (史料に拠り、元暦元年 (1184) に満16歳だった と設定) 、     安達景盛は生年不詳だが頼朝の伊豆配流 10年後に誕生と仮定して年齢を推定した。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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1月 2日 壬子
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吾妻鏡
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晴。相模守 北條時房による椀飯あり。戌刻 (20時前後) に田楽辻子の東西一町ほどが焼失した。
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   ※田楽辻子: 辻子の読みは 「ずし」。細道、横丁、十字路など。ここでは大御堂橋南詰から滑川
の南側を報国寺まで抜ける狭い裏道で、全体の距離は約 800mになる。
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平坦だが車の擦れ違いにも苦労する巾だから自転車や徒歩で十二所方面を往復するには六浦道 (金沢街道) 田楽小路を使い分けると散策の気分が変わるから、更に楽しめる。
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周辺には京下りの芸能や田楽師が僧侶などが多く住んでいたのが語源とされるが、厳密な範囲として決まっている訳ではない。
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竹寺の名で知られた 報国寺 (公式サイト) がある宅間ヶ谷は 頼朝に招かれ寿永三年 (1184) 1月11日に鎌倉に入った京下りの絵師藤原 (宅間) 為久の定住地で、田楽辻子周辺は現代なら 「芸術家村」 っぽいエリアだったのかも知れない。    右画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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為久は一旦京都に戻り 翌年8月23日には勝長寿院の仏画を描くため再び下向した。落慶供養が近づいた10月11日には頼朝から壁画の修正 (三日月の暗い影の部分 ) を命じられているから、技術的には少し疑問符も付くようだ。
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辻子の途中から南下する犬懸ヶ谷は治承四年 (1180) 8月に 畠山重忠勢と 和田義盛勢が鉢合わせした由比ヶ浜古戦場に続くショートカットだ。たまたま亡父 椙本義宗の旧宅 (現在の杉本寺) に立ち寄っていた義盛の弟 義茂が馬を飛ばして駆け付けたルートで、乱戦になった末に坂東平氏と三浦勢の大衝突に発展してしまう。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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1月 3日 癸丑
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吾妻鏡
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晴。駿河前司 三浦義村による椀飯あり。御剣の献上は駿河守 北條重時
戌刻 (20時前後) に太白 (金星) が螢惑星 (火星) の軌道を犯した (距離は約 2尺) 。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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1月 4日 甲寅
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吾妻鏡
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晴。去年12月29日亥刻 (22時前後) に走湯権現 (伊豆山神社) の拝殿、釜殿、常行堂および廻廊、惣門、金剛力士像などが焼失、詳細を左衛門尉 平盛綱が報告した。
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大事件なので鎮火するのを待たず、正月1日には神社の所司 (管理官) が鎌倉に駆けつけて知らせたのだが、三ヶ日の間は (新年を憚って) 盛綱が報告を保留していたものである。
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   ※火災の被害: 走湯権現は天正十八年 (1590) の秀吉による小田原攻めの際に後北条氏側に与し
たため、全山焼き討ちの措置を受けている。鎌倉期の建造物配置は不明だが、今回の火事で主要な建物が被災したのは間違いない。寺院の被害が載っていないのは、別当寺の般若院が400mほど離れている (ルート地図) ためだろうか。
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詳細は 伊豆山神社奥の院 本宮神社般若院密厳院院 (全て別窓) の参照を。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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1月 5日 乙卯
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吾妻鏡
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晴。天変 (星の動きの異変) がある旨を司天 (天文担当) が報告した。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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1月 8日 戊午
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吾妻鏡
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晴。幕府で心経会 (般若心経を読む法要) があり、鶴岡八幡宮の供僧がこれを指導した。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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1月 9日 己未
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吾妻鏡
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晴。巳刻 (10時前後) に将軍 藤原頼経が輿での御行始め (外出初め) に武蔵守 北條泰時邸に入御された。
供奉人は徒歩、剣持ちは駿河守 北條重時。泰時邸では御剣と御馬の引き出物を用意するなど特に念入りな接待を行なった。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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1月11日 辛酉
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吾妻鏡
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晴、戌刻 (20時前後) に太白 (金星) が螢惑星 (火星) の軌道を犯した。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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1月14日 甲子
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吾妻鏡
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晴、午刻 (正午前後) に地震あり。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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1月15日 乙丑
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吾妻鏡
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晴、酉刻 (18時前後) と子刻 (深夜 0時前後) の二度、地震があった。
今日から二所詣の精進潔斎。奉幣使 (将軍の代理) として駿河守 北條重時が精進の建物に入った。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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1月23日
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明月記
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1月23日 癸酉、晴。今日、遠江守時政朝臣 (北條時政) の後家 (牧の方) が娘婿の藤原国通卿 (参議、従二位、中納言) の屋敷で (亡夫時政の) 十三回忌法会を催した。宰相女房および母儀が昨日国通邸を弔問。公卿は直衣、殿上人は束帯、導師は一の長者 前大僧正導師。関東でも堂供養を催した、と。
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   ※藤原国通: 時政と牧の方の間に生まれた娘は 平賀朝雅に嫁したが、朝雅は元久二年 (1205) 閏
7月の時政夫婦の失脚に連座し、京都守護の任地で追討を受けた。
朝雅の妻は権中納言の藤原国通に再嫁し、牧の方は (それなりの資産と共に) 娘夫婦と京都で余生を過ごしている。藤原定家は日記 明月記 (Wiki) の中で彼女の驕奢な振る舞いを不愉快そうに伝えている。
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   ※宰相女房: 宰相は 定家の嫡子で参議の 藤原為家 (参議は宰相に含まれる) を差す。宰相女房と
とは為家の正室で、宇都宮入道頼綱の娘、母儀はその母親 (牧の方の娘) 。
嫡子の為家は後に父の正二位 権中納言を越えて正二位 権大納言まで昇るのだが、定家には息子の嫁も牧の方一族の贅沢な暮らしぶりも気に入らなかった。まぁその気持ちは理解できる。
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   ※導師は: 一の長者は 東寺、教王護国寺 (公式サイト) の管長 (宗門の代表)。前大僧正導師つま
り前任の大僧正は 親巌 (Wiki) で、後に東大寺別当に任じている。
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   ※関東でも: 時政が建立した 願成就院 (別窓) でも供養の法会を催したが吾妻鏡には記載なし。
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1月27日 丁丑、晴。今暁、関東の禅尼 (牧の方) が子孫女房を引き連れて天王寺 (現在の 四天王寺、公式サイト) と 七大寺長谷寺に参詣した。東大寺では万燈会を催した、と。
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   ※藤原為家: 一方で定家の嫡子 為家は正妻 (宇都宮頼綱の娘) が産んだ為氏を嫡男としたのだが
晩年になって女流歌人の安嘉門院四条 (後の 阿仏尼、Wiki)を愛し、彼女が産んだ為相と先妻の子二条為氏の間で壮絶な遺領相続争いが勃発する。為家の生き方も卑劣っぽくて不愉快だが。
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その訴訟の正当性を訴えるために 60歳に近い老齢で鎌倉に下向した際に阿仏尼が記した紀行文が 十六夜日記、Wiki)だ。
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訴訟の相手は有力御家人 宇都宮氏の外孫だ。
簡単には判決を得られず、勝訴したのは彼女が鎌倉で死没した後になった。扇ヶ谷の片隅に、伝 彼女の墓石が残っている。
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息子の為相は後に鎌倉に移って将軍の和歌を指導し、阿仏尼死去の 45年後に鎌倉で没した。直線で約 200m東の 浄光明寺 (Wiki) に眠っているのが多少の慰めか。
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 右上 (阿仏尼の墓) をクリック→ 別窓で拡大表示
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   ※七大寺: 南都七大寺は 東大寺興福寺元興寺西大寺薬師寺大安寺法隆寺。これ
らに加えて 長谷寺 (公式サイト) への巡礼だから半月以上程度じゃすまないだろう。豪勢な家族旅行を定家が罵倒する気持ちも理解できるような気がする。政子さんが生きていたら...悪態が並ぶだろうな、たぶん。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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1月28日 戊寅
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吾妻鏡
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晴。去る16日から螢惑 (火星) が光を増し、更に輝く気配がある旨を天文担当が報告した。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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1月28日 丁
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明月記
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1月28日、晴。噂では尊長法印が吉野の奥の戸津河八郷庄に隠れているらしい。一味の黒太郎は既に五郷を掌握し、熊野を攻めて武器を奪い阿波に渡る計画を立てている。
しかし黒太郎の弟が神威を恐れて加わらなかったため兇徒に殺されそうになり、逃げ出して計画を熊野に知らせた。熊野では警戒を厳しくして備えたという。

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   ※尊長: 一条能保の四男で 高能信能実雅の異母弟。
弁舌と武芸を認められて 後鳥羽上皇の側近となり承久の乱 (1221年) に参画して芋洗での敗北後に行方不明になった。
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半年後の 6月7日に京都で捕縛された際に自殺を図って翌日に死んだ、と吾妻鏡は記録している。
その際の名月記の記録 (4月11日) が面白い (後述)。
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   ※八郷庄: 現在の五條市大塔町 (地図) の付近で、熊野本宮
まで約80km、まんざら荒唐無稽な話でもなさそうだ。
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大塔町は鎌倉の土牢で殺された 大塔宮護良親王(Wiki) が一時期隠れ住んだ場所。奈良から和歌山へ旅した際に立ち寄った 道の駅 吉野路大塔 (別窓) の近くに騎馬像があった。二階堂の 鎌倉宮 (公式サイト) に祀られている 後醍醐天皇の皇子である。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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2月 4日 甲申
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吾妻鏡
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晴。京都の使者が到着、先月16日に将軍家 藤原頼経が近江権守を兼任となった旨を報告した。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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2月 5日 乙酉
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吾妻鏡
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晴。子刻 (深夜0時前後に) 雷鳴あり。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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2月 8日 戊子
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吾妻鏡
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晴。今年の後半は三合に相当する上に先日来の天変地異が重なっている。天文道 (天文担当) の面々は年初からの報告を避けていたが、遂に勘文 (諮問に対する報告書) を提出する事態になり、後藤左衛門尉基綱を経て進士判官代 橘隆邦が将軍の御前でこれを読み上げた。
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子一点 (23時過ぎ) に幕府の東西に連なる人家と武蔵守 北條泰時の倉庫一棟が焼失、御所にいた人々と 時房邸、泰時邸、竹御所邸などの人々はこの火災に驚かされたが、特に延焼などは起きなかった。
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   ※三合: 太歳、太陰、客気の三神が合する陰陽道の厄年で 災害が多発する。それと別に 金星、
木星、火星が重なり合う凶兆も意味する。共に悪い事が続く巡り合わせらしい。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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2月13日 癸巳
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吾妻鏡
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晴。阿波院の御所造営に関し、寝殿建造は阿波国守護の小笠原弥太郎長経 (長清の嫡子) が負担し、その他の建物は諸御家人に割り当てた。負担した出費は豊後前司の受領書を保存するよう命じられた。
農民の負担では納税に支障が起きる危惧があり、地頭の取り分の範囲で処理せよとの配慮である。
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   ※阿波院の御所: 土佐に流された土御門院を都に近い阿波に遷すための御所を差す。土御門上皇
は倒幕計画に関与せず 幕府は処罰しない方針を執ったが、父の 後鳥羽上皇と弟の順徳の流罪に準じて自ら土佐流罪を望み、幕府もそれを認めつつ優遇措置を与えている。
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御所の位置には諸説あるが、阿波市土成町宮川内上畑の御所神社 (地図) が通説か。これが相当に山奥なので 阿波市観光協会のサイトを参考に。
御製の和歌にも次のような描写がある。
   山ふかく 住みけるほども 知られけり 月夜の猿の 窓ちかき声
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詳細は承久三年 (1221) 7月8日前後の吾妻鏡を参照。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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2月14日 甲午
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吾妻鏡
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将軍 藤原頼経が唐突に駿河前司 三浦義村の休所に渡御し直ぐ還御された。義村は後ほど御馬と御剣を献じた。
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   ※休所: 貴人のために誂えた休憩所や寝所を意味する。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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2月15日 乙未
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吾妻鏡
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晴。幕府の南庭で十二番の相撲の試合を催し、見物人多数が集まった。
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今日、武蔵守 北條泰時の持仏堂で涅槃会が催された。供物は52種類、信濃法眼道禅が涅槃講式を、大蔵卿法印良信が舎利講式を、大進僧都寛基が遺跡講式を読んだ。
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   ※涅槃会: 涅槃講式、舎利講式、遺跡講式はそれぞれ仏陀の教えと行動を伝える説話だが、安易
な解説には馴染まない。興味があれば検索して深く触れることをお薦めしたい。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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2月19日 己亥
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吾妻鏡
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晴。武蔵守 北條泰時の御願として、右京兆 北條義時を供養した薬師堂と大倉御堂を動かし、その跡に二位家 政子の三周忌供養の新御堂を建立する事についての考えを評定衆に諮問した。
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まず隠岐入道行西 二階堂行村と玄番允太田康連が発言し、「二つの堂は元より追善のためで、動かしたり建てたりするのは二重の瑕疵になる。まして供養した仏像を動かすのは当初を軽んじて後を重視すること、明らかに憚られる。」 と。駿河前司 三浦義村と他の三人も同意見で、助教中原師員は体調不良で出仕していない。
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また陰陽権助安倍親職朝臣と晴幸と文元らに意見を求めたところ親職と文元は特に問題はないだろう、泰貞と晴幸と宣賢は憚るべき、との考えを述べた。
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   ※大倉御堂: 健保六年 (1218) 7月9日に義時の意向で建立した薬師堂 (現在の覚園寺、Wiki) 。
北側に愛染堂と薬師堂がある、地図) 。同年12月2日と、実朝死没後の翌年2月8日に関連記事あり。しかし泰時がこんな意味のない発想をする理由が判らん。
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   ※助教: 官僚育成組織である大学寮の教官。中原師員は能力の高い人物として定評があった。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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2月20日 庚子
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吾妻鏡
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曇。夜半に突然騒動が起きたが特に問題はなく、間もなく鎮まった。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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2月21日 辛丑
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吾妻鏡
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晴。未刻 (14時前後) に亀ヶ谷の一帯で火災があった。
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   ※亀ヶ谷: 地名の初出は治承四年 (1180) 10月7日の吾妻鏡。「頼朝 はまず、鶴岡八幡宮 (由比若
宮、現在の 元八幡、別窓) を遥拝した。
次に故 義朝の亀ヶ谷旧宅跡を訪れ館を建てるよう指示したが土地が狭い上に 岡崎義実が義朝の菩提を弔って建てた堂があったため中止した。」と。

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今もこの由比若宮がある古い地名が「鶴岡」 だ。
頼朝は由比若宮を小林郷に勧請してその名前のまま「鶴岡八幡宮」とした。新たな八幡宮の地は鶴岡ではなく小林なのだが、「小林」より「鶴岡」の方が間違いなく語感が良い。
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そして 「鶴岡」 と向き合う西の山裾が 「亀谷」 。
鶴岡も亀谷も頼朝が鎌倉入りする前の小林郷には存在しない地名なのだが、今では更に扇ヶ谷が正式な地名になった。
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私は 「扇を広げた様に谷が開けているから」 と思っていたが、鎌倉十井の一つである扇の井 (参考サイト、地図) が語源、らしい。思い込みは禁物だ!
見学する事にさしたる意味はないと思うが 「扇の井」 は個人宅の庭なので配慮が必要である。  右は扇ヶ谷の鳥瞰。クリック→ 別窓で拡大表示
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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2月25日 乙巳
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吾妻鏡
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晴。伊勢神宮式年遷宮の労務と費用について、三条の規定を定めた。式年遷宮は朝廷での重要な行事であり、庄公 (荘園と公領) が等しく尽力せねばならない旨が命じられた
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   ※命令の主語: 10歳の 藤原頼経の言葉じゃなく執権 北條泰時の発言だ。主語は書くべき。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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2月27日 丁未
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吾妻鏡
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晴。武蔵守 北條泰時邸に於いて大倉御堂 (2月19日を参照) を移動する可否を助教の 中原師員、法橋圓全、吉田右衛門志時方、弾正忠季氏、右衛門尉時定らに諮問した
師員、季氏、時定は同じように「避けるべきである」と答え、圓全、時方は「問題はない」と答えた。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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2月29日 己酉
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吾妻鏡
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晴。六波羅からの飛脚が到着。去る15日に熊野山で平井法眼らによる合戦があった。
これが原因となって衆徒が蜂起し、21日に御神体 (神輿) を掲げて洛中に入ると宣言した。朝廷の重大事件になる事を危惧しての報告である。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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3月 1日 庚戌
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吾妻鏡
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晴。戌刻 (20時前後) に太白 (金星) が昴星 (すばる) を凌犯した。
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今日、大倉御堂の移動について再び評議があり、移動の中止が決定した。
また熊野山での衆徒蜂起についても評議し、神輿が入洛を目指すようであれば京畿の御家人を動員して途中で阻止せよと六波羅に命じた。白河法皇の永保二年 (1082) 10月25日に熊野の衆徒が三ヶ所 (熊野本宮、那智大社、新宮大社) の神輿を担いで入洛し直ぐに帰還した記録がある。
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   ※凌犯: 陰陽道では 「吉凶の逆転」 を意味するらしい、ここでは 「軌道を犯した」 か?
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   ※移動の中止: 泰時が大倉御堂に拘泥する理由は何か。ファザコンか?ババコンか?
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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3月 7日 丙辰
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吾妻鏡
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曇。戌刻(20時前後)に大地震。所々の門扉や築地塀が倒れ地割れが起きた。
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古老の話では、去る建暦三年 (1213年5月) の 和田左衛門尉 義盛叛逆の頃にも今回のような大地震があり中の下馬橋で地割れが起きたが、近年では同様の事例はない、と。
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   ※古老の話: 14年前の事件に 「古老」 は笑止だが 吾妻鏡の編纂が
1300年前後なのだからやむを得ないか。泰時は29歳、弟の 朝時も 20歳だから鮮明に覚えている筈だ。
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ちなみに建暦大地震の記録は和田の乱が収束した5月21日。「地鳴りと共に家屋が倒れ山崩れや地割れが起きた」と記録されている。
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   ※下馬橋: 若宮大路 (つまり段葛) を騎馬のまま横切るのは禁止。
下馬しての横断が許されたのは以下の三ヶ所の橋の位置だった。 右地図に記載。クリック→ 別的度で拡大
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上の橋 (八幡宮社頭の赤橋、太鼓橋) の前 つまり三の鳥居前、中の橋は二の鳥居前の扇川橋 (源流は海蔵寺、既に暗渠) 、下の橋は下馬交差点の佐助川 (源流は佐助稲荷付近で既に暗渠になっている)。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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3月 8日 丁巳
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吾妻鏡
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晴。陰陽師らが地震についての勘文 (諮問を受けての上申書) を提出した。ただし晴幸と宣賢の所存は他の者と異なるため、相模守 北條時房邸で論争することになった。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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3月 9日 戊午
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吾妻鏡
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晴。隠岐院 (後鳥羽上皇) の三宮 (三番目の皇子) を詐称して悪事を企む者と仲間数人を前浜 (由比ヶ浜) 辺の民家で波多野中務次郎経朝が捕らえて連行した。左衛門尉 金窪行親と三郎左衛門尉 平盛綱が命令を受け尋問した結果、伊豆前司の郎従で現在は百姓と自白した。
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   ※伊豆前司: 鎌倉御家人の森頼定 (義家−六男 陸奥義隆−毛利頼隆 −二男盛頼定と続く)か、
それ以前だと頼政−嫡子仲綱−頼政の二男広綱が国司を継承しており、誰が該当するのか不明。
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   ※波多野経朝: 義通−三男忠通−嫡男経朝と続く。経朝の名が吾妻鏡に現れる例は多くないが
寛元五年 (宝治元年、1247年) 11月16日に 三浦盛時 (盛連の嫡子で 佐原義連の孫) が上申書を提出している。これにより経朝が承久の乱に出征し、恩賞として越前国吉田郡志比荘 (福井県の永平寺町一帯、地図) を得た。
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更に出雲国司に任じて山陰に勢力を扶植し、共に戦った義重がそれを継承したと判る (3月19日の条を参照) 。その内容が低レベルなので20年後の話ではあるが以下に掲載して置く。
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   ※宝治元年 (1247) 11月16日
三浦盛時が書状を提出した。
「放生会の随兵名簿には盛時の名が出雲前司の下段にあった。我が家は特に遺恨を受ける理由もないのに片目の者の下に書かれたのは面目が立たぬ。従って供養での供従は止めて貰いたい。」 との内容である。
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これを聞いた 波多野義重は激怒し、
「累代の家格については三浦に劣るものではない。ましてや片目なのは承久の兵乱で抜群の功績を挙げた際に負った名誉の傷である。今更盛時ごときに言われる筋合いではない。」 と応じた。
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陸奥掃部助 北條実時の奉行として相模守 北條重時と左親衛 執権の北條時頼らが評議して両方を宥めて済ませるが、五位であるのを勘案して義重を上に記する順序は訂正しない。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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3月13日 壬戌
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吾妻鏡
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晴。 (後に評定衆に任じる ) 弾上忠季氏(右衛門志彈正清原季氏、清原清定の縁戚の可能性あり) を奉行として地震に対応した祈祷を八幡宮供僧および陰陽師らに指示した。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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3月15日 甲子
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吾妻鏡
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酉刻 (18時前後) に地震あり。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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3月19日 戊辰
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吾妻鏡
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雨。去る9日の謀反人事件について評議した。「そもそも謀反を企てたなど信用できる話ではなく、物狂いの連中が考えた事だろうから関東から追放すれば済むだろう。」との意見もあり、「民間の事件に武士の刑法は適用し難いから今後にも配慮して斬罪に処すべき」との意見もあった。
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結局は「罪名は二位家 政子の三回忌が済んでから検討する」と決まった。続いて波多野次郎経朝の功績が検討され、美作国 (岡山県東北部) に一村を与える結論になった。これは無視できない忠節への勲功である。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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3月22日 辛未
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明月記
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3月28日 晴。冷泉 (後の権大納言 藤原為家藤原定家の次男で嫡子) の妻 (宇都宮入道頼綱の娘) の外祖母 (北條時政朝臣の後家、牧の尼) が来訪、冷泉からの手紙に拠るらしい。私はこんな例を知らず、呆然とするのみ。

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   ※牧の尼 来訪: 少し複雑だが、定家の嫡子 為家の嫁 (父は宇都宮頼綱、生母は北條時政の娘) の
口利きで北條時政の後家 牧の尼が来訪した。
定家の息子の嫁も北條時政の娘なのだが、その程度での親戚扱いは迷惑で不愉快、という事らしい (1月23日の記事を参照)。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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3月24日 癸酉
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吾妻鏡
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晴。三合並びに地震に対応する祈祷が始まった。五座 (五人) による北斗の護摩行は大進僧都寛基、八字文殊法は越後阿闍梨、一字金輪法は信濃法眼、七曜供は助法眼珍誉、北斗供は師法橋珍瑜である。
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三萬六千神祭は下野前司入道 小山朝政の沙汰、奉幣使は駿河蔵人 安倍晴幸の担当。地震祭は駿河入道 中原季時の沙汰、奉幣使は星崎判官代、安倍晴賢の担当、天地災変祭は駿河前司 三浦義村の沙汰、奉幣使は大江兵衛尉(能行?)と阿部宣賢の担当である。
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   ※三合: 太歳、太陰、客気の三神が合する陰陽道の厄年で災害が多発する。それとは別に金星、
木星、火星が重なり合う凶兆も意味する。いずれも悪い事が続く巡り合わせらしい。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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3月27日 丙子
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吾妻鏡
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晴。大進僧都 寛基が陸奥国葛岡郡小林郷の新熊野社領を拝領し、神社を隆盛させるように指示を受けた。これは先般 (24日) の祈祷に対する報奨である。
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今日、将軍 藤原頼経が幕府で相撲を観覧した。その中に城太郎 安達義景が連れて来た僧体の力士があり、相手は周防前司 中原親実が連れて来た平太という男である。
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将軍は籐内左衛門尉定員に命じて陰陽師の散位安倍晴賢、雅楽助安倍晴貞、散位安倍重宗、散位安倍道継らを呼び、一の男と二の法師の勝負を午刻 (正午前後 ) を期限に占わせた。晴賢は一の勝ち、晴貞は一の勝ち、重宗は引き分け、道継は二の勝ちと答えた。
夜になって十七番の相撲で雌雄を決し、法師が平太に敗れる結果となった。
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   ※葛岡郡: 該当する郡はなく、津久毛橋北側の玉造郡の葛岡 (地図) だと思うが、確証はない。
葛岡は文治五年 (1189) の奥州合戦で 畠山重忠が恩賞として獲得しており、阿津賀志山合戦 (別窓) 直後の8月20日にも記載がある。
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   ※中原親実: 明経道の中原忠順の子。藤原氏系の文官で親能などの同族にあたる。
周防守護、安芸守護などを転任した後の寛元二年 (1244) には在京御家人として六波羅評定衆に任じる。
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閏月とは
 
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当時の陰暦では季節感の差を埋めるため3〜4年に一度閏 (うるう) 月が入る (今年は 6月の次が閏 6月) 。西暦と陰暦には一ヶ月弱のズレがある事にも留意が必要、例えば頼朝が挙兵した治承四年 8月4日は西暦では 8月25日になる。また、2月は30日まであることも頭に入れておこう。
陰暦→ 西暦の確認や変換は こちらのサイトが利用できる。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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閏 3月
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史 料
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   明月記閏3月3日、曇。若侍の話では27日の夜に群盗が内蔵寮の宝蔵の一部を焼き破り累代の
宝物を全て盗み出した。
礼服は七條河原の小社に捨ててあった。犯人は既に捕縛したとの事。
筆者注: 内蔵寮は中務省の部署で金銀宝器を管理し祭紀の衣服や奉幣などを司った。
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   ※皇帝紀抄: 閏3月7日、内蔵寮の盗人が捕縛され紛失物は全て発見し回収した。その中には応神
天皇の御剣が光を放っていた。 (装具の) 金物を剥ぎ取ってから剣を折ろうとした際に盗人 (法師) の額に当たり、傷付けたとのことである。
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   百錬抄近日に内蔵寮の倉庫 (二條猪熊 (地図) に盗人らが乱入し累代の御物を盗み出した。
目録が明確でないため、紛失物の数は不明である。
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   ※被害場所: 陰陽寮と内蔵寮は同じ中務省の別組織。これは別の事件が重なったのだろうか。
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   ※参考資料: 大内裏 (皇居 (内裏) +庁舎エリア) の位置確認なら 埋蔵文化財研究所の 平安京散策
マップ (別窓) がベスト。現代の京都地図と昔日の諸官庁を重ねているから、散策にはこれ以上の資料はない。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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閏3月17日 丙申
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吾妻鏡
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快晴。諸国の守護と地頭による所領の管理は貞應二年の御下知状に沿って処理すること、また市や津 (港湾) の経費や労役について守護所の横暴な行為を禁止することなどの各条項を六波羅に送付した。
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   ※貞應二年の下知: 7月6日に以下の記載がある。
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一昨年の合戦 (承久の乱) の恩賞として新たに補任した地頭の取り分について、水田十町を越える次の一町は国衙に納める税を免除し、また水田一反について五升の徴収を認める宣下が先月15日に下された。その書類の到着に伴い内容の通りに実行するよう決裁された。
判官代 橘隆邦と 清原清定がこれを差配する。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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閏3月20日 己亥
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吾妻鏡
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晴。腰越の海辺で潮が血のように赤い現象が起きている。
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   ※赤潮: 暖かな季節になると相模湾 (私の見た範囲では熱海伊豆山〜小田原)で比較的頻繁に発生
する。主な原因は海水の富栄養化に伴うプランクトンの異常増加だが、他にも誘因はあるらしい。鎌倉時代には合成洗剤などによる富栄養化はなかっただろうからね。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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閏3月29日 戊申
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吾妻鏡
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晴。故禅定二品 政子の三回忌法要のため大倉大慈寺の寺域に仏堂の建立を検討し、結論を得て日程についての諮問に本日 勘文 (上申書) を提出した。 安倍親職と安倍晴幸を含む七人の陰陽師が連署し、柱立てと上棟は4月2日と選定した。
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   ※大倉大慈寺: 完成供養を催した建保二年 (1214) 7月27日の付記に、詳細記事と周辺の鳥瞰図
を記載してある。江戸時代の寛永十八年 (1641年1月) の大火で不動堂を残して 概ね全焼し、新編鎌倉志 (Wiki) に拠れば 水戸光圀 (黄門様) が鎌倉を訪れた延宝二年 (1674) 5月には丈六堂らしい建物が残るのみだったらしい。 つまり江戸時代の中期には半ば廃墟状態になっていた。新編鎌倉史志の関連記事は以下。
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大慈寺奮跡は五大堂 (明王院) と光触寺の間、南の谷にあり。「東鑑」に建保二年 (1214) 七月二十七日に大倉の大慈寺供養、新御堂と号す。実朝将軍の時なり。
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後の正嘉元年 (1257) 十月一日修理の事あり。本堂、丈六堂、新阿彌陀堂、釈迦堂、三重塔、鐘楼など、荘厳の美。殆ど古跡に過ぎたりとあり。宗尊親王の時なり。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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4月 2日 庚戌
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吾妻鏡
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晴。大慈寺境内に於いて行なう二位家 政子の三周忌法要に際し、武蔵守 北條泰時の御願として丈六堂を建立し今日上棟式を催した。相模守 北條時房と相模守泰時も臨席、御家人らも多く集まり工匠らも記録できないほど多くの褒美を受け取った。
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同日に民部大夫入道 二階堂行盛が二品 (政子) の追善供養に建立した仏堂も上棟式を行なった。 酉刻 (18時前後) に将軍家 藤原頼経が体調不良となり、祈祷を催した。明日が重日に当たるためである。
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   ※丈六堂: 丈六の仏像を納める仏堂で、阿弥陀堂とされる場合が多いらしい。
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   ※丈六の仏像: 仏陀の身長が一丈六尺 (約4.8m) とされている事から仏像 (立像) の基準も一丈六
尺となり等倍、5倍、10倍、半分などのサイズから選んで造像された。
坐像の場合は半分の八尺 (約2.4m) 、大慈寺の場合は坐像と考えて良いだろう。
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   ※重日: 陽が重なる巳の日と陰が重なる亥の日。凶事には忌日、吉事でも婚姻には適さない。
明日3日が亥の日となる。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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4月 3日 辛亥
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吾妻鏡
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晴、辛亥。将軍 藤原頼経は微熱があるようだが、今日は特に異常は見られない。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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4月 4日 壬子
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吾妻鏡
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晴。 将軍 藤原頼経は十三番の相撲を観覧された。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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4月 8日 丙辰
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吾妻鏡
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晴。如法鬼気祭などの祈祷を行なった。
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   ※鬼気祭: 元仁元年 (1224) 12月26日に「四角四境の鬼気祭」に関する記載あり。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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4月11日 己未
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明月記
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朝から雨。申刻 (16時前後) に心寂房が来訪して次のように語った。
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去る8日午刻 (正午前後) に管十郎左衛門を訪ね武士から法印 (尊長) の死没を詳しく知らされた。
以前から熊野や洛中や鎮西に逃げ廻った末にこの三年ほどは京都に隠れ、茂盛の子 兵衛入道と親しく交わっていた。この法師の従父兄弟が比叡山の伯耆房の知り合いで、兵衛入道は間もなく裏切って使者を送り武州 (この場合は六波羅北方の武蔵太郎 北條時氏) に尊長のことを通告した。
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喜んだ時氏は直ちに伯耆房と共に六波羅の兵を派遣し 〜中略〜 尊長は捕吏数人を傷付けた後に自殺を試みたが、息のあるうちに車に乗せ六波羅に連行した。
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時氏の前に引き出された尊長は「早く首を斬れ。さもなくば義時の妻 (伊賀の方) が夫に飲ませた薬で早く殺せ。」と叫び、人々はこの言葉に驚愕した、と。 〜中略〜
8日辰刻 (朝8時前後) に尊長は座したまま念仏を唱えて絶命した。
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   ※尊長: 一条能保の四男。長兄で嫡男だった 一条高能は早世、二男の 信能は承久の乱で 後鳥羽
上皇に与して斬首、三男 一条実雅 北條時政の陰謀に連座する形で追討されている。
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尊長は兄の信能と共に承久の乱に加わり、敗戦の混乱から逃げ延びて行方不明になっていた。主義主張とは別に、北條氏に遺恨を抱いても不思議ではない境遇、ではある。
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ただし尊長の事件は6月7日起きた事に複数の裏付けがあり、「明月記の4月11日」 は著者 藤原定家による日付の誤記と思われる。6月7日の「百錬抄」と14日の吾妻鏡の記事を参照されたし。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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4月12日 庚申
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吾妻鏡
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晴。御所の畳に犬の糞があった。驚いた将軍 藤原頼経の命令で安倍国継が担当し百恠祭(恠=怪)を行なった。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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4月13日 辛酉
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吾妻鏡
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戌刻 (20時前後) に地震あり。今日、恠異と息災 (怪異と健康) に対応する祈祷として七座 (七人による) の泰山府君祭を催した。親職、晴賢、泰貞、重宗、文元、道継、国継 (安倍) がこれを担当した。
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   ※泰山府君祭: 陰陽道祭祇の一つ。中国古代の神 泰山府君が 仏教の閻魔大王と習合して寿命と
富貴を支配すると共に侍者の司命神が冥府の戸籍を管理すると信じられた。
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天台宗の円仁が中国から比叡山麓に勧請した赤山明神が泰山府君で、また素戔嗚 (すさのお) 尊や大国主神とも習合し本地垂迹説によって本地地蔵菩薩となった。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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4月16日 甲子
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吾妻鏡
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晴。最近は突然の死亡が増える傾向にあり、これを避けるために餅をすり潰したり粥を煮て食べる習慣が定着している。将軍家 藤原頼経の体調不良に対応して御所でも同じことを始め、安倍泰貞の担当により南門での鬼気祭も行なった。
豊後守 嶋津忠久が費用を負担し、周防前司 中原親実がこれを差配した。
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   ※中原親実: 明経道の中原忠順の子。藤原氏系の文官で親能の同族にあたる。周防守護、安芸
守護などを転任した後の寛元二年 (1244) には在京御家人として六波羅評定衆に任じている。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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4月21日 己巳
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吾妻鏡
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晴。新御所の天井裏板を葺き替えて瓦葺きにする予定だが既に五月節に入るため保留するべきか、担当する隠岐入道 二階堂行村 後藤基綱の問い合わせに対応して陰陽師に諮問した。
天井の裏板は問題ない、屋根は瓦も裏板も5月を避けるべきであると陰陽師が答申し、保留となった。
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   ※五月節: 四季や気候を元に一年を 24 に区分した二十四節気の一つ。詳細はWiki で。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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4月22日 庚午
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吾妻鏡
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晴。武蔵守 北條泰時が大倉御堂に渡御して陰陽師を呼び、新造堂の完成供養について尋ねた。
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京都からは6月19日が望ましいと伝えてきたが、外構工事が間に合いそうもない。7月11日 (政子の命日) より前の、望ましい日取りを選ぶ事になるが、5日はどうだろうか。
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安倍晴幸と文元は「午の日は将軍家の御衰日なので最も避けるべきです」と。
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一方で安倍泰貞は 「将軍家の御衰日に二位家 政子の三回忌法要を避ける必要はありません。ただし11日 (戊子) は無難ですから勧められます。」と。また安倍親職と宣賢は「戊子は吉日には当たらず、ましてや丈六仏像を開眼供養した例はありません。5日が宜しいでしょう。」と答えた。
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申し出に差異があるため駿河前司 三浦義村らが評議した。
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その結果、「将軍家の御衰日を避ける根拠はなく、吉日の 5日に決定する。清和天皇の貞観三年 (861年) 3月14日 (戊子) には東大寺大仏の開眼供養を行なっている。」との決定があった。
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   ※大倉御堂: 建保六年 (1218年) 12月2日に 北條義時が建てた大倉薬師堂。個人的には 実朝殺害
事件と見事にリンクしている、と思う。私は実朝殺害=義時関与説だからね。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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4月22日 庚午
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百錬抄
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未刻 (14時前後) に土御門町 (現在の京都御所西側) 付近から出火し強い東風に煽られ大内裏まで延焼、承久の兵乱 (1221年) の後に再建した殿舎も全て灰燼に帰した。
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外記庁 (太政官に属して朝廷の儀式と公事の奉行を司る役所) は何とか焼失を免れたが、平安遷都以来火災を免れてきた南側は燃えてしまった。鎮火後には内裏を移転するか否かの論議まで起きた。

     (5月1日に京都からの飛脚が同様の報告を届けている。)
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   ※大内裏: 現在の京都御所西端から 1.7km西、千本丸太町
交差点(地図) を囲む広い範囲にあった。
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既に確認されている 大極殿跡内裏内郭回廊跡豊楽殿跡朱雀門跡 の四ヶ所は各々画像と地図アドレスを添付したので参照されたし。
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埋蔵文化財研究所発行の 平安京散策マップ と照合して歩くのも面白い。
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  右画像は千本丸太町交差点の鳥瞰。
      画像をクリック→ 別窓で拡大表示。

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中央北寄りの少し左の空き地が太極殿跡の碑、交差点四隅の緑地にある表示板が周辺の殿舎跡を丁寧に説明している。  
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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4月23日 辛未
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吾妻鏡
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晴。西国の悪党が徒党を組んで動く事例があり、守護人に命じて退治させるよう命令が下った。
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   ※悪党: 謀反人や強盗や盗人のみならず荘園領主や荘官に従わない者、荘園への侵略者や紛争
の相手である荘園領主にとっては所領を侵犯する一部の地頭まで 「悪党」 の範囲に含まれていた。幕府がそれらを含めて強盗や盗人と同一視し、組織として鎮圧に着手したのは正嘉年間 (1257〜1258年) からになる。
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本来は御家人が関与した犯罪の処理は京都守護、一般の犯罪は検非違使の担当と決まっていたのだが、承久の乱の戦後処理で朝廷の武力を著しく弱体化させ、京都守護を改組した六波羅との職責分担が順調に稼動しなかったのが原因らしい。
検非違使が武装解除に近い状態に改編された上に、六波羅が職責外として対応しないのでは無法者の天下になる。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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4月24日 壬申
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吾妻鏡
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晴。将軍家 藤原頼経が体調を崩して時折発作を起こしている。今日も戌刻 (20時前後) に同じ様な症状があり、武蔵守 北條泰時ら多数の御家人が群参した。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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4月25日 癸酉
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吾妻鏡
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晴。将軍家の体調不良に対応して祈祷を始めるよう命令が下った。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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4月26日 甲戌
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吾妻鏡
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晴。亥刻 (22時前後) に地震あり。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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4月27日 乙亥
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吾妻鏡
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晴。武蔵守 北條泰時の御沙汰として将軍家の体調不良に対応し三万六千神 (天変地異を除き天下泰平を願う陰陽道の祈祷) などの祭祀を行なった。今日から多少の回復気配が見える。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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4月29日 丁丑
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吾妻鏡
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晴。将軍家の御不例に対応して祈祷が始まった。周防前司中原親実の奉行による。
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   仏眼護摩は荘厳房律師行勇   尊星王護摩は信濃僧都
   薬師護摩は大進僧都      北斗護摩は若宮別当僧都
   金剛童子護摩は丹波律師    正観音法は山口法眼
   千手法は宰相律師       不空羂索法は常陸律師
   延命供は越中阿闍梨      大威徳法は蓮月房律師  以上は内典(仏教)に拠る。
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   三萬六千神祭は前大膳亮泰貞  属星は陰陽大允親職
   天地災変祭は陸奥権守国継   泰山府君祭は左京亮重宗
   呪咀祭は陰陽少允晴幸     霊気は散位晴賢
   疫神祭は散位道継       竈神(図書助晴職
   土公祭は散位宣賢                   以上は外典(仏教以外)に拠る。
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   ※中原親広: 明経道の中原忠順の子。藤原氏系の文官で親能などの同族にあたる。周防守護、
安芸守護などを転任した後の寛元二年 (1244) には在京の御家人として六波羅評定衆に任じる。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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5月 1日 己卯
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吾妻鏡
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晴。六波羅の飛脚が到着して報告。
先月22日の未刻 (14時前後) に土御門室町から出火して南勘解由小路まで延焼、強い東風に煽られて炎が大内裏まで広がり、承久元年 (1219) 以後に新築した殿舎と門宇が悉く灰燼に帰した、と。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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5月 2日 戊辰
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吾妻鏡
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伊勢神宮の式年遷宮費用に宛てる賦役や租税については諸国の飢饉も影響して期限通りの納付は困難である趣旨の奏聞を既に行なった。
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朝廷の判断を待つ間にも材木を切り出す費用が闕如 (欠如) していると担当官が嘆いているため武蔵守 北條泰時は所領である駿河国と伊豆国の負担分は取り敢えず出挙 (種籾の貸し付け分) を回収して充当させる指示を与えた。利子には地元の産品を充当するように、と。
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   右画像はちょっと古いが、平成25年の式年遷宮敷地風景。
     画像をクリック → 「伊勢神宮巡拝記」(別窓)へ。

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   ※出挙: 種まきの時期に種子を貸与し、収穫時期に利息を
加え回収する慣行で中世まで全世界で見られた。
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平安〜鎌倉時代の日本では稲と粟は一年後の回収、公の出挙は年利50%、民営の出挙は100%が上限で複利計算は禁止。公の場合は税の一種とも考えられていた。
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また国司の課税が免除される荘園に対しても、式年遷宮の費用の場合は例外なく課税されていた。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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5月 8日 丙戌
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吾妻鏡
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晴。将軍家 藤原頼経の病後御沐浴の儀 (災厄を落とす儀式) があり、武蔵守 北條泰時が参列した。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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5月10日 戊子
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吾妻鏡
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晴。大内裏の火災焼失に対応して幕府派遣の使者が上洛の途に就いた。将軍家 藤原頼経の使者は 伊東左衛門尉祐時 (工藤祐経の長子) 、武蔵守 北條泰時の使者は左近将監 尾藤景綱である。
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   ※伊東祐時: 祐経−嫡子 祐時−嫡子祐朝と続く。祐経を殺した 曽我兄弟の弟を 頼朝が許そうと
した際に泣いて身柄引き渡しを求めた祐経の嫡子犬房丸 (建久四年 (1193) 5月29日を参照) が成長して祐時を名乗り、伊東の家督を継承した。
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祐経の最初の妻 (伊東祐親の娘) は父の命令で祐経と離縁させられて 土肥遠平に再嫁して生まれた娘 (実際は先妻の子だった可能性が高い) が祐時に嫁して祐朝を産み 、祐朝は分家して早川氏、長門伊東氏、安芸伊東氏の祖となり、本家筋の日向伊東氏は嫡子となった六男の祐光が継いだ
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一説に、戸籍上の経緯では「祐経の息子 (祐時) が祐経の孫娘 (土肥遠平の娘) と婚姻して祐朝が産まれた」という経緯を北條得宗家が嫌ったため と伝わっている。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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5月11日 己丑
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吾妻鏡
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晴。未刻 (14時前後) に地震あり。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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5月14日 壬辰
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吾妻鏡
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晴。高麗国の牒状 (国書、公文書) が到来し、今日御所で披露となった。その内容は以下の通り。
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高麗国全羅州道の按察使が日本国惣官太宰府に国書を送る。
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対馬の島民からは古来から貢物を受け取り友好的な交流を行ってきた。また我が国も (交易の) 便宜を図るため宿舎を設けて相互の利益に資し、沿岸地域の友好には何の問題もなく、金海府 (現在の金海市 (地図) には対馬島民らの宿舎も置かれていたが、丙戌 (嘉禄二年、1226年) の6月には夜陰に乗じて城竇 (城の抜け穴) から侵入し、倉庫から金品を盗み取る事件が起きた。
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最近は同様の事件が頻発し、更に無辜の百姓への侵略行為も度々起きている。現在では国家もこれを重視し係官ら20人を派遣した。現在は互いに船の往来も途切れているのを良いことに悪事を重ねている。この事情を早急に周知させ、停止させるよう望む。
        副使兼監倉使転輪堤黙刑獄兵馬公事龍虎軍郎将兼三司判官趙判
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   ※高麗国: 936年に朝鮮半島を統一した国家。1392年まで約450年も続いたのだが、1230年代の
初頭からモンゴルの侵入が始まった。1259年には降伏して高麗王はモンゴルの貴族となり、高麗は実質的にモンゴルの属国扱いとなった。
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残存勢力はその後も抵抗を続け、鎌倉幕府に モンゴル撃退への支援と協力を求めたが1273年には完全に鎮圧され、その直後に皇帝クビライは日本に国書を送り国交の回復を求めた。
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交渉を拒絶した鎌倉幕府は文永十一年 (1274) に最初の元寇を迎える事になる。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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5月23日 辛丑
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吾妻鏡
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晴。 播磨国の鵤庄内久岡名の地頭青木兵衛五郎重元が管理権を停止された。
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当所の名主だった内藤右馬允成国は去る承久三年 (1221) の戦乱の際に官軍に加わったため解任し重元を地頭に補任したのだが、本所 (最上位の所有権者) の法隆寺からの改善要求でこの結果となった。
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この荘園は聖徳太子の寄進で他と異なる由緒があり、右大将軍 頼朝の時代には御帰依を得て興隆した経緯がある。
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去る14日の辰刻 (8時前後) に修理亮 北條時氏の北の方が六波羅で男子を平産したとの連絡があった。
また名高い医師である和気清成の介助によっての平産だったと添えてあった。
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   ※鵤 (いかるが) 庄: 兵庫県太子町 (地図) 一帯にあった法隆
寺領の荘園。聖徳太子が岡本宮 (明日香村) で推古天皇に法華経を講義した際に法隆寺建立の費用として与えられた、と伝わっている。
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奈良 明日香村遺跡群訪問記 (別窓) も幾分の参考程度には役立つ、かも。
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   ※北の方: 時氏の正室は 安達景盛の娘で後の松下禅尼
この時に産まれたのは後に五代執権に就く二男 時頼。彼が鎌倉ではなく京都で生まれたとは知らなかった!
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時氏は執権に就かないまま寛喜二年 (1230) に26歳で病死した。
その後の松下禅尼は実家の甘縄邸で後の四代執権 経時 その弟 時頼を養育するのだが、経時もまた23歳で早世する。
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結果として経時の次弟 時頼がやや強引な手法により五代執権を継承、経時の遺児二人 (5歳と3歳) は出家を命じられてしまう。執権は北條嫡流が継承するなんて、所詮は欺瞞である。
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右は甘縄神社 (隣が安達邸跡) の参道。クリック→ 甘縄神社と盛長の墓所(別窓)へ
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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6月 1日 戊申
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吾妻鏡
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晴。日蝕 (四割ほどの蝕) が鮮明に確認できた。
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西暦1226年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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6月 7日 甲寅
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百錬抄
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土御門油小路で尊長法印を急襲、捕吏に囲まれ自害を企てた。承久の乱後の7年間を隠れ続けていた。
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   ※尊長法印: 一條能保の末子で実雅の異母弟、法印で法勝寺執行。吾妻鏡も 「去る七日の事件」
として14日に記載しているから、明月記の4月4日に 「4月8日に聞いた事件」 として載せているのは定家の誤記か。
土御門油小路はこの付近 (地図) 、当時は京都の中心部だ。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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6月 8日 乙卯
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吾妻鏡
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雨。大倉大慈寺の梵鐘鋳造の沙汰あり。左衛門尉 後藤基綱と右衛門尉清原季氏がこの件を差配する。
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   ※清原季氏: 嘉禎二年 (1236) 〜仁治四年 (1243) まで評定衆を勤めている。
暦仁二年 (1239) 〜宝治三年 (1249) は同じ清原姓の満定 (清原清定の息子) が評定衆に任じているのだが二人の関係が判らない。評定衆が設けられた嘉禄元年 (1225) 末から任じている斎藤 (清原) 長定は満定の兄で長定の息子が清時なのだけれど。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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6月12日 己未
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吾妻鏡
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雨。一旬 (10日間) 以上も降り続いている。各地で洪水が勃発し流域の田畑が水没して失われた。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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6月14日 辛酉
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吾妻鏡
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晴。六波羅からの飛脚が鎌倉に到着して次の通り報告。
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去る7日の辰刻 (朝8時前後) 、鷹司油小路の大炊助入道の後見人 肥後房宅で管十郎左衛門尉周則が二位法印尊長を捕らえようとしたところ直ぐ自殺を図り、取り押さえようとした武士二人が負傷、尊長は翌 8日に六波羅で死没した。
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尊長は承久三年 (1221) の戦乱 (承久の乱) での首謀者の一人で、以前から肥後房宅に隠れ住んでいた。また、前回に取り逃がした和田新兵衛尉朝盛法師も同様に捕縛した。
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   ※大炊助入道: 大友 (古庄) 能直の嫡子 親秀 (大炊助) 。豊後国を本拠にしている。
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   ※和田朝盛: 常盛の嫡子で義盛の孫。豊後国を本拠にした。朝盛は和田合戦 (1213) を生き延び
更に承久の乱 (1221) でも院方に与して敗れ、再び逃亡していた。
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吾妻鏡には処刑の記録がなく、父義盛の本領だった初声には帰農して仏堂を建て高円坊を称したとの伝承があるが、二度の敵対行為での赦免は有り得ないだろう。
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朝盛塚と呼ばれた墓は日枝神社西側の畑の中 (地図) にあるが、数回の移転を経ているため旧い姿は残っていない。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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6月15日 壬戌
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吾妻鏡
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晴。 (大内裏火災見舞いのため 5月10日に派遣した) 伊藤 (伊東) 左衛門尉と尾藤左近将監が京都から鎌倉に帰参した。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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6月16日 癸亥
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吾妻鏡
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晴。亥刻 (22時前後) に白い虹 (兵乱の兆しと言われる) が見えた、と。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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6月17日 甲子
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吾妻鏡
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晴。御所の乾 (西北) 角に納殿を設けると決まったが、担当する周防前司 中原親実「明日からの西方向は王相方 (禁忌の方角) だから方違えが必要でしょう。」と申し出た。
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「西方に当たらないだろう」 との仰せがあり、陰陽師に諮問したところ計測した上で 「寝所から西へ二十二丈八尺五寸 (約69m) 、北へ十六丈八尺 (約51m) 、戌の方角 (概ね西北西)に一丈五尺六寸 (約4.7m) に該当する。西の鰭板 (板塀) から六丈 (約18m) 離して建てれば方違えがなくても憚りなし。」 との回答を得た。
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   ※納殿: 納所、後世の納戸。貴重品や調度などを保管する屋内または棟続きの倉庫。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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6月18日 乙丑
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吾妻鏡
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雨。卯刻 (朝6時前後) に武蔵次郎時実 (武蔵守 北條泰時の当腹の二男、16歳) が家臣の高橋次郎(京高橋 (西賀茂付近か) の住人) に殺害され、同僚の三人も殺された。豪雨の中で起きた事件だという。
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丈六堂落慶供養を明日に控えて集まっていた御家人らが駆けつけ、左衛門尉 伊東祐時の郎従が下手人の高橋を捕らえて連行し腰越の近くで即日の斬刑に処された。夜になって左近将監 尾藤景綱が出家した。武蔵次郎時実の乳母夫だった経緯に拠る。
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辰刻 (朝8時前後) 、豊後守従五位下 嶋津 (惟宗) 忠久朝臣が死没、日頃脚気に加え赤痢を病んでいた。
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   ※当腹: 時実の生母は継室の安保実員 (武蔵丹党の御家人) の娘。泰時の正室だった 矢部禅尼
建暦元年 (1211) 前後に離縁 (理由は不明) し、後に佐原盛連 (義連の長子) に再嫁して三人の男子 (光盛盛時、時連) を産んだ。
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三浦氏が滅亡した宝治合戦 (1247年) で兄弟は両親の本家である 三浦泰村に味方せず北條氏側に加わって三浦を滅ぼし、戦後に盛時が三浦宗家を継承した。
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   ※殺害事件: 動機は不明。高橋一族への処分はなく、事件後も 北條重時の家臣として家系が続
いているので、時実側に何かの瑕疵があった可能性もある。 この事件の三年後には長男の 北條時氏も病死、四代執権は時氏の長子経時 (泰時死没の時は18歳) が継ぐことになる。
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   ※嶋津忠久: 父は京都の官人惟宗広言あるいは惟宗忠康だ
が生母は 頼朝の乳母 (の一人) 比企尼 の娘で宮廷の下働き 丹後内侍だったから話が複雑になる。後世の嶋津家が作った系図に拠れば、
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乳母姉弟だった頼朝と丹後内侍は仲睦まじく京都で過ごし、丹後内侍は頼朝の子種を宿したまま惟宗広言に嫁して頼朝の子 忠久を産んだ。
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彼女は母の比企尼と共に頼朝が流された関東に下り、安達盛長に嫁して流人頼朝の暮らしを支える尽力を続けた。丹後内侍の子は惟宗忠久として京都で成長し、治承四年 (1180) の頼朝挙兵後は源氏の兵力として各地を転戦、後に頼朝の推挙を得て摂関家領 嶋津荘の下司職に任じて 嶋津忠久を名乗った。
このような経緯だから嶋津家は頼朝の子孫である、と。
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平治の乱 (1159年12月)に敗れて京を脱出した頼朝は満12歳7ヶ月。
妊娠させるのは必ずしも不可能ではないのだろうが、「島津歴代略記」に拠る忠久の誕生は治承三年 (1179) 12月だから、頼朝が伊豆北條で 政子 大姫を産ませたのと同じ頃だ。惟宗広言の妻として京都にいる筈の丹後内侍を妊娠させるのはどう考えても無理だろうね。
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まぁ彼女は母親と共に武蔵国比企郡に移転しているから実際には可能だが、それならば頼朝は腹心の部下である 安達籘九郎盛長の妻に手を出して (手じゃないか) 妊娠させた上に生まれた子を京都の惟宗広言に渡して養育させ、同時進行で政子に手を出して大姫を産ませたという、全く筋の通らない話になる。
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要するに嶋津の話は滅茶苦茶で、自分で 「私は馬鹿です」 と言ってるのと同じ。
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文治二年 (1186) 6月10日の吾妻鏡には「頼朝がお忍びで甘縄邸を訪れ丹後内侍の病気を見舞った」との記載がある。
時が流れ歳を重ねて、思い出話に花を咲かせる関係になっていたか。
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右上は比企尼が頼朝支援の拠点にした函南の高源寺に残る比企尼供養の宝篋印塔
      画像をクリック → 高源寺の詳細ページ (別窓) へ。

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私が嶋津を嫌う理由には、琉球 (現在の沖縄) に過酷な圧政を敷いた事や、明治維新に私の母方の郷里である福島 (会津) を弾圧した事だけではなく、平然と系譜を詐称する卑劣さや川内原発再稼働を容認した愚かさへの抗議も含まれている。
半分八つ当たりっぽいけど、さ。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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6月19日 丙寅
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吾妻鏡
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曇。 (評定衆による) 評議あり。丈六堂の落慶供養は武蔵次郎時実の事件によって延期と決まった。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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6月24日 辛未
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百錬抄
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比叡山の管理者と衆徒が大谷の辺 (知恩院勢至堂、法然の廟所) に群参し法然上人の墓所を破壊した。
これは専修念仏を禁止すべきとの要求が比叡山から再三あり、明らかに念仏宗の隆盛を憎んでの行為である。ただし、法然の遺骨は事前に門弟が掘り出して避難させていた。

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法然上人 (Wiki) は 比叡山延暦寺天台宗を修得した後に知恩院
(各、公式サイト) 近くに移って 浄土宗を開いた。
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日々 南無阿弥陀仏を唱えれば誰でも極楽浄土に行ける、と。
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比叡山の歴史は内部の主導権争いと対外的な暴力と破壊の歴史でもあるが、それはもちろん天台宗の本質ではない。法然上人が浄土宗を生み出したのもまた、天台宗の功績である。
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 右は法然の廟所だった知恩院勢至堂。間口21×奥行20m、
   室町時代末期の享禄三年 (1530) に再建された。 画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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6月30日 丁丑
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吾妻鏡
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晴。御所の寝殿南面 (公式の場所) で安倍晴賢が六月祓いを行なった。石山侍従 (飛鳥井教定) が報奨を渡す役を務め、周防前司 中原親実が全体の差配に任じた。
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   ※飛鳥井教定: 難波頼経 → 二男 飛鳥井雅経の二男で母は 大江広元の娘。和歌と共に蹴鞠の名手
としても知られ、三代の鎌倉将軍(頼経頼嗣宗尊親王)に仕えて蹴鞠と和歌を指導した。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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7月 4日 辛巳
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吾妻鏡
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晴。酉刻 (18時前後) に六波羅 (探題) の修理亮 北條時氏が鎌倉に下着した。丈六堂供養に結縁のためと共に次郎時実 (時氏の異母弟) 死没 (6月18日) の知らせを聞き急いで出発した結果である。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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 月 日
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史 料
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   ※百錬抄: 7月5日 壬午。専修念仏者を配流に処す官符が発行された。隆寛律師を陸奥に (相模国
飯山で死没す) 、空阿弥陀仏を薩摩に、成覚を壱岐に配流する、と。
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   ※名月記: 7月6日 癸未、晴。比叡山から「要求を聞き入れなければ神輿を掲げ入洛する」旨の
強要があり権大納言の源雅親卿がこれに対応した。張本人の隆寛 (本山僧で律師) と空阿弥陀仏と成覚ら (いずれも念仏宗 (浄土宗) の僧) を流罪に処すとの対応である。
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   この事件は法然没後の専修念仏が受けた最大規模の弾圧 嘉禄の法難 と呼ばれる。宗教が平和
と人々の幸福を願っていれば問題ないが、当時の延暦寺のように力による支配を目指すか。
倫理意識の希薄な連中は、何度でも同じことを繰り返す。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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7月10日 丁亥
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吾妻鏡
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晴。夜に入り、新造の堂舎で鎮祭 (地鎮祭) を行なった。
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   ※新造の堂舎: 北條義時が建保六年 (1218) 12月2日に建造した大倉薬師堂の敷地に 北條泰時
建立している丈六阿弥陀堂 (本尊は八尺の阿弥陀如来坐像) を差す。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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7月11日 戊子
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吾妻鏡
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晴。二位家 政子の三回忌法要と丈六堂 (阿弥陀堂) の開眼供養法会が催された。日程については再三検討した結果、命日の11日となった。導師は荘厳房律師 退耕行勇で招いた僧は20人、舞楽の奉納は省き御布施は三十種を二十五包。竹の御所も聴聞のために渡御された。
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法要には相模守 北條時房、武蔵守 北條泰時など数えきれない程の貴賤が集まった。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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7月12日 己丑
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吾妻鏡
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晴。最近は伊勢国で悪党(4月23日を参照)の蜂起が頻発している。去る6月30日には本間左衛門尉元忠が同国の大石御厨(伊勢神宮領 松阪市大石町、 地図) で悪党の首魁 丹生右馬允を見付けて襲撃したが仲間と共に逃げ去り、一人も討ち取れなかったと報告していた。
この丹生右馬允は、捕縛の命令を受けた本間が去る4月22日に丹生山で捕獲しようとした際に激しく抵抗して親類郎従の多くの命を奪った相手である。
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   ※丹生山: 大石御厨から8km東、女人高野の 丹生山神宮寺成就院 (公式サイト) を差す。
奈良時代から水銀を多く算出して繁栄した事で知られる。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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7月19日 丙申
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吾妻鏡
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激しい風雨、亥刻 (22時前後) に晴れ間。西山から赤白の靄が半天まで立ち昇り、西は黒雲に隠れ 東は明月に照らされて明るくなったり暗くなったりする状態が続き、やがて消えた。明け方に再び激しい雨となった。

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   ※7月19日: 新暦の9月1日に該当する。台風だろうか。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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7月21日 戊戌
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百錬抄
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関白の近衛家実 (近衛基通の長子) が直廬 (摂関の詰所) に於いて議定あり。去年起きた対馬国の悪党らが高麗国全羅州で財物を奪い住民を傷付けた件について対応を知らせる国書を送った
太宰小貳 武藤資頼の上奏は重大であり、捕らえた悪徒90人を高麗国使の前で斬首したとの事、これは我が国の恥辱である、と。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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7月22日 己亥
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吾妻鏡
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晴。今日、納殿の柱を立てて工事を進めた。進士刑部丞行継の差配による。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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7月23日 庚子
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吾妻鏡
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晴。光物が飛翔した。流星と思われる。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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7月25日 壬寅
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吾妻鏡
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晴。民部大夫入道 二階堂行盛が二位家 政子の菩提を弔うため堂を建立し落慶供養を行なった。導師は京都から招いた聖覚僧都で前夜鎌倉に着いた。説法は言葉には表せないほど素晴らしい内容で、竹の御所も結縁を求めて御臨席、相模守 北條時房と武蔵守 北條泰時も参席した。
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夜になって将軍家 藤原頼経の御方違えあり。西の侍間火爐 (あんか、または置き炬燵風の暖房) に宿泊され、近習数人と連歌を催した。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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7月26日 癸卯
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吾妻鏡
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晴。納殿(6月17日の条を参照)の上棟式を行なった。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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7月28日 乙巳
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吾妻鏡
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晴。左衛門尉 後藤基綱の奉行として陰陽師らを御所に集めて天変について質問した。泰貞と宣賢は白虹ではないと答え、親職と晴賢は白虹であると答えた。
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   ※天変: 6月16日の夜に現れた現象で、白虹は兵乱の兆しとされる。陰陽師はいずれも安倍氏。
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   ※名月記: 比叡山衆徒の怒りは更に激しく、悪言を続けている。流罪にする三人 (専修念仏僧)
は安全な場所へと避難させた。朝廷の威光の衰退と人心の狂乱は実に嘆かわしい。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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7月29日 丙午
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吾妻鏡
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晴。陰陽師の親職と晴賢らが白虹についての勘文 (諮問への回答) を左衛門尉 後藤基綱に提出した。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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8月 1日 丁未
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吾妻鏡
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晴。左衛門尉 内藤盛家法師が死没 (89歳) 、老衰に加えて痢病 (赤痢、疫痢など) に苦しんでいた。念仏を唱えて穏やかな臨終を迎えた、と。
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   ※内藤盛家: 寿永四年 (1185) からの御家人で周防国遠石荘の地頭を務めた。
建久二年 (1191) 1月18日の吾妻鏡には 「石清水八幡宮の所領に乱入して神官の友国を刃傷し神社に納めるべき年貢を横領し退去を命じられた」 との記載がある。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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8月 日
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史 料
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   ※名月記: 8月7日 癸丑、終夜雨。宰相 太政大臣 西園寺公経の使者が駆け付けて 宰相の室
の死をらせた。私は大急ぎで駆け付けた。
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   ※名月記: 8月8日 甲寅、曇。西園寺公経の室は前夜に葬送し堂東山 (瀧艮方) に葬った、と。
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   ※宰相の室: 一条能保の娘で将軍 藤原頼経の祖母 (頼経の母は西園寺公経の娘、父は 九条道家
瀧艮方は 滝尾神社(Wiki、地図) の北東を意味するのだろうか?
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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8月10日 丙辰
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吾妻鏡
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晴。納殿の工事が完成し、今日初めて御物を収納した。後藤基綱の奉行による。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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8月13日 己未
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吾妻鏡
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晴。祈祷が始められた。助教の 中原師員の奉行による。
   不動護摩は山口法眼  歳星祭は安倍晴賢  太白星祭は安倍晴職
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今日申刻 (16時前後) に京都の飛脚が到着、去る七日に太政大臣 西園寺公経の御台所が赤痢により他界した旨を報告。将軍家 藤原頼経の外祖母である。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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8月15日 辛酉
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の放生会は延期となった。将軍家の御軽服 (外祖母の死去に伴う軽い服喪) による。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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8月18日 甲子
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吾妻鏡
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晴。匠作 北條時氏が帰洛の途に就いた。
また兵衛尉大江能行西園寺公経室の死去を弔問するため使節として上洛の途に就いた。
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   ※大江能行: 後に石見守に任じているが出自などが不詳。武藤氏系か、中原氏系か。
六波羅の北條時氏は7月4日に異母弟の次郎 時実の死没と丈六堂開眼供養に伴って下向していた。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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8月30日 丙子
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吾妻鏡
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晴。将軍家 藤原頼経の体に 風疹 (Wiki) が発症した。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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9月 2日 戊寅
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吾妻鏡
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晴。金星が火星を追って近付いていると天文道 (天文担当) らが周防前司 中原親実を介して連署した勘文 (諮問に対する上申書、意見書) を提出した。
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   ※中原親実: 明経道の中原忠順の子。藤原頼経の近習として鎌倉下向に同行し御所奉行を務め
た。藤原氏系の文官で親能などの同族にあたる。周防守護、安芸守護などを転任した後の寛元二年 (1244) には在京の御家人として六波羅評定衆に任じている。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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9月 3日 己卯
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吾妻鏡
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晴。丑刻 (深夜2時前後) に大地震あり。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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9月 4日 庚辰
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吾妻鏡
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晴。地震について将軍家から周防前司 中原親実を介して下問があり、陰陽師からは「天王の意思により月日に随って吉凶が混在するのが常である」との答えが出された。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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9月 9日 乙酉
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吾妻鏡
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天変に対応した祈祷が今日から始められた。
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   薬師護摩は大進僧都    一字金輪法は信濃法印
   八字文殊法は宰相律師   七曜供は助法印珍誉
   北斗供は師法橋珍瑜    天地災変祭は安倍親職
   螢惑星祭は安倍晴賢    太白星祭は安倍国継
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  以上の祈祷については左衛門尉 後藤基綱と進士判官代橘隆邦の奉行による。
  但し 薬師、八字文殊、天地災変などは今日の評議によって延期となった。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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9月13日 己丑
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吾妻鏡
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予定していた和歌の会は将軍家 藤原頼経の体調が良くないため出席は見合わせとなった。ただし人々が詠んだ歌は御覧になっている。
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   ※頼経の和歌: 前将軍 実朝は秀作駄作を取り混ぜて多くの和歌を残しているが、頼経の場合は
話題にもなっていないようだ。好きじゃなかったか、才能に乏しかったのかも。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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9月21日 丁酉
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吾妻鏡
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天変に対応する祈祷のうち (持ち越していた) 薬師護摩、八字文殊法、天地災変祭などが始められた。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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9月22日 戊戌
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吾妻鏡
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晴。判官 佐々木信綱が近江国 佐々木豊浦と羽爾堅田の両庄と栗本北郡などの地頭職を与えられた。
去る承久三年 (1221) 合戦の恩賞である。宇治川合戦の際に一番乗りで渡河した勲功の補任との下文が添えられている。

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   ※佐々木氏: 佐々木豊浦は佐々木氏の本領近江八幡市安土町一帯 (地図)、羽爾堅田は堅田近辺
(地図)、 栗本北郡は現在の栗東市〜草津市の一帯らしい。
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信綱は承久の乱で 後鳥羽上皇に味方して斬首された 広綱の遺児 勢多伽丸 (12歳、既に出家して仁和寺にいた) の処刑を強く要求し、当初は助命を認めていた 北條泰時も信綱の要求を容れて身柄を引き渡した。我が意を得た信綱は甥の勢多伽丸を躊躇なく斬首した。
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結果として信綱は佐々木氏の遺領をほぼ独占し、四人の息子が琵琶湖周辺の所領を分割相続。大原氏、高島氏、六角氏、京極氏として繁栄を続ける。
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佐々木兄弟の二男 経高親子も院に味方して全滅、三男 盛綱の子 加地信実は越後に土着、四男 高綱と五男 義清は出雲に土着。父祖の本領 近江国に残ったのは信綱の子孫のみになる。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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10月12日 戊午
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吾妻鏡
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晴。巳刻 (10時前後) に御所の釜殿 (浴室、台所など) で鼎 (釜) が鳴った。このため周防前司 中原親実を奉行として祈祷が行われ、病気に注意を要するとの結果が出た。
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   ※釜が鳴る: 神道や修験道の吉凶に関係があるらしい。興味があれば「釜が鳴る」で検索を。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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10月14日 庚申
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吾妻鏡、他
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晴。釜の恠 (怪異) に対応し、御所で百怪祭などを行なった。
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   ※皇帝紀抄: 10月15日。比叡山の僧綱 (管理職の僧官) の三綱所司 (僧を統括する僧職 (上座、寺
主、都維那) の総称) と日吉大社の社司らが群参し、専修念仏宗の禁止を求めて訴え出た。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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10月20日 丙寅
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吾妻鏡
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竈 (釜) が再び鳴った。
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   そんな事、逐一史書に載せなくても良いのに...などは現代人の発想なんだろうね。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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10月25日 辛未
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吾妻鏡
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六波羅が取り次ぐ院宣や、鎌倉から朝廷と公卿への返信などを送る際には案文 (内容の控え) を 添えるように担当奉行人に指示した。六波羅でも事前に把握する方が望ましいとの判断である。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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11月 4日 己卯
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吾妻鏡
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晴。御所の女房 (女官) 阿波局が死去した。武蔵守 北條泰時の大叔母であり、三十ヶ日の御軽服 (軽い服喪) に備えて自邸から左近将監入道道然 尾藤景綱の家に転居した。
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   ※阿波局: 政子の異母妹で 阿野全成の妻、泰時の大叔母ではなく、
叔母だ。阿野氏の滅亡などは 一族の菩提寺 士詠山大泉寺 (別窓) を参照されたし。彼女は夫の 全成を 頼家に殺され更に嫡子 時元を父の 北條時政 に殺されている。
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極論すれば、政子と同様に実家北條氏のため夫と実子を見捨てた前歴 (故意か否かは別にして) を抱えているのが面白い、と言うより凄まじい。
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もう一人の政子の異母妹 (異説あり) が 足利義兼に嫁した 時子。彼女に関連して足利に残る伝承も裏がありそうで面白い。この経緯は 時子の菩提寺 法玄寺 (別窓) に詳細を載せてある。
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奥州平泉を滅ぼし、壮麗な仏堂と浄土庭園に感動して二階大堂 (永福寺)を建立した頼朝と同様に、足利義兼も 鑁阿寺 (別窓) の奥之院として 法界寺 (樺崎寺)を建立した。その本尊像の作成を大仏師の 運慶に依頼した、その像が巡り巡って...
クリスティーズのオークションで14億円の値が付いた大日如来像 (右画像) である。      画像をクリック→ 法界寺と大日如来像の明細 (別窓) へ。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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11月 6日 辛巳
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吾妻鏡
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酉刻 (18時前後) に大地震。将軍家 藤原頼経は頻発している地震を特に気に掛け、左近大夫将監親実を奉行として善政を行なう箇条書きや祈祷の明細などを上申せよと諸道 (仏教、神道、陰陽道など) に指示を下した。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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11月 9日 甲申
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吾妻鏡
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贄殿の足竈が鳴った。陰陽師は「火事に留意せよ」との占い結果を報告した。
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   ※贄殿の足竈: 贄殿は厨房あるいは食料を貯蔵しておく場所、足竈は脚を備えた釜の類。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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11月15日 庚寅
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吾妻鏡
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打ち続く天変地異に加えて 赤斑瘡 (Wiki、風疹) の流行があり、対応して今日から祈祷が開始された。
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   薬師護摩は大進僧都     千手護摩は丹後僧都
   十一面護摩は加賀律師    馬頭護摩は若宮別当
   如意輪法は越中阿闍梨    不空羂索法は宰相律師
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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11月16日 辛卯
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吾妻鏡
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更に祈祷などが行われた。
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   三万六千神祭は安倍晴賢    天地災変祭は同、国継
   月曜祭は安倍親職       歳星祭は同、晴幸
   鎮星祭は安倍泰貞       螢惑星祭は同、文元
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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11月18日 癸巳
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吾妻鏡
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晴。巳刻 (10時前後) 以後に将軍家 藤原頼経が体調不良となり、御所の御持仏堂で護持仏の絵を描かせた。周防前司中原親実がこれを差配した。
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   ※頼経の持仏堂: 寛元二年 (1244) 1月1日の吾妻鏡に「今日将軍家の御願として、久遠寿量院で
大納言法印 隆弁が如意輪法を修した。元日の夜には最勝王経の転読、次の日中は観音経、次の夜以後は大般若経の真読 (全てを読む) があった。」との記事がある。
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将軍頼経は翌 寛元三年 (1245) 4月に退任し、5月15日には 「御持仏堂で前大納言家 藤原頼経が自ら供花された。」 、更に翌年2月25日には 「久遠寿量院で八万四千基の泥塔を供養」し、7月5日には「前大納言家 藤原頼経 が久遠寿量院で剃髪出家した」 とある。
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出家前の5月26日に 「大納言家 頼経が御所を将軍 頼経の嫡子 頼嗣に譲り渡した」 とあり、久遠寿量院が御所内の持仏堂と別の場所に存在していた可能性もある。
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数年前に東寺古文書の中から 「久遠寿量院関連の記録が発見された」 との報道があったから、そろそろ新しい史実が発表されるかも知れない。
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取りあえず 「駿河国宇津谷郷今宿を久遠寿量院に寄進して財政の補助にする関東下知状を発行」 しているとの情報は確認している。
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宇津谷郷は静岡市と岡部町を隔てる宇津ノ谷峠周辺 (地図訪問記)の一帯だと思っていたら最近になって峠から 5kmほど南南西の藤枝市岡部町内谷 (地図) の可能性が指摘されている。
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加賀前田の古文書に 「建長元年 (1249) 7月23日の関東下知状に宇津谷郷は鎌倉久遠寿量院領で領知 (管理) は岡部権守 」 とあるから岡部町内谷説は否定される筈だ。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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11月19日 甲午
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吾妻鏡
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晴。将軍家の体調不良に対応して土公祭および鬼気祭 (いずれも陰陽道の祭祀) を始めた。今日は (将軍家の) 御衰日 (陰陽道で忌み慎むべき凶日) なのだが明日が悪日に当たるための挙行である。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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11月20日 乙未
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吾妻鏡
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晴。 (将軍家の) 病状が悪化している。対応して去る16日に未だ祈祷に着任していない陰陽師に命じて七座 (七人による) )の泰山府君祭を行なった。晴職、晴茂、重宗、宣賢、晴俊、晴秀、道継ら (いずれも安倍氏) がこれに任じ、進士判官代橘隆邦が奉行を務めた。
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   ※泰山府君祭: 陰陽道祭祇の一つ。中国古代の神 泰山府君が仏教の閻魔大王と習合して寿命と
富貴を支配すると共に侍者の司命神が冥府の戸籍を管理すると信じられた。
天台宗の円仁が中国から比叡山麓に勧請した赤山明神が泰山府君で、また素戔嗚 (すさのお) 尊や大国主神とも習合し本地垂迹説により本地地蔵菩薩となった。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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11月21日 丙申
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吾妻鏡
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(将軍家の) 容態は今日も変わりがない。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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11月22日 丁酉
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吾妻鏡
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常陸国の 鹿嶋神宮 (公式サイト) で仁王経および真読の大般若経を講読する供養に併せて御神楽を催すよう指示が下った。今日、信濃民部大夫入道行然(二階堂行村) が奉行として来る28日に催すよう社家に連絡した。また、今日夜になって鬼気祭と招魂祭を行なった。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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11月23日 戊戌
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吾妻鏡
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将軍家 藤原頼経が赤斑瘡 (麻疹、はしか、詳細はWiki)を発症し、今日更に無事治癒の祈祷を催して神馬を鶴岡八幡宮に寄進し、また御所で七座 (七人による) 泰山府君祭を行なった。 晴賢、泰貞、重宗、文元、宣賢、親貞、道継ら (いずれも安倍氏の陰陽師) がこれを担当した。
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先月の下旬頃から赤斑瘡が流行し、身分の上下を問わず感染している。京都も同じ状態で、今月八日には主上 (後堀河天皇) も罹病した、との事。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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11月24日 己亥
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吾妻鏡
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将軍家の病苦が重いため重ねての祈祷を挙行。伊豆走湯権現、箱根権現、三嶋大社にそれぞれ奉幣の手配を済ませた。大和右衛門尉久良と遠藤左近将監為俊を奉幣使として御剣などを献納する。共に今暁に出発し明日には任務を果たすよう指示が下った。また秘法による祈祷などを行なった。
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  五壇法
     中壇不動明王は弁僧正    隆三世明王は大進僧都
     軍茶利夜叉明王は信濃法印  大威徳明王は加賀律師
     金剛夜叉明王は宰相律師   炎魔天供は丹波僧都
     北斗供は珍誉        当年星供は珍瑜
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  夜になって安倍親職による属星祭を開始した。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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11月25日 庚子
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吾妻鏡
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今夜 七座の招魂祭、天冑地府、泰山府君祭などを行なった。祈祷費用は左衛門尉 結城朝光と左衛門尉 土岐光行 (Wiki) 、広澤三郎実能 (波多野氏庶流の御家人) による献納である。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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11月28日 癸卯
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吾妻鏡
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晴。将軍家の体調不良は少し回復気配となった。今日、御持仏堂に於いて御護仏の供養法要を催した。
導師は弁僧正 定豪、布施などについては民部大夫入道行然 (二階堂行盛)が差配した。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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11月29日 甲辰
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吾妻鏡
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将軍 藤原頼経の病状が回復し諸人は安堵した。権侍医の 丹波良基の医術が功を奏したと思われる。
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   ※丹波良基: 関連記事が嘉禄元年 (1225) 7月6日にもあり、コメントを記載しておいた。
嘉禄二年1月の四代将軍頼経就任に伴って朝廷の 施薬院 (Wiki) から丹波良基が鎌倉に派遣されて頼経の主治医に任じ、京都の医術が鎌倉に定着した。
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建長四年 (1252) には頼経の嫡子で五代将軍 頼嗣 が廃されて後嵯峨天皇の皇子 宗尊親王 が皇族出身の六代将軍になると朝廷の最高医官だった典薬頭の丹波長忠と玄蕃頭の丹波長世が鎌倉に派遣され、先端医術は只の陪臣に過ぎない北條氏にも提供され始める。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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12月 1日 丙午
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吾妻鏡
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晴。戌刻 (20時前後) に地震。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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12月 2日 丁未
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吾妻鏡
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晴。周防前司 中原親実が奉行として地震に関し陰陽道に諮問、勘文 (諮問に対する上申書) を求めた。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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12月 5日 庚戌
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吾妻鏡
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晴。卯刻 (朝6時前後) から将軍家 藤原頼経が咳の病気に罹った気配がある。赤斑瘡の治癒に伴って今日行なう筈だった御沐浴はこの咳の件で延期となった。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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12月 8日 癸丑
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吾妻鏡
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駿河前司 三浦義村が下若 (酒) を携えて御所に参上し女房 (女官) に勧めた。これは将軍家の病気が無事に治癒した祝賀である。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
嘉禄三年
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12月10日 乙卯
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吾妻鏡
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晴。将軍家の病気が治癒し、穢を落とす御沐浴の儀が行われた。丹波良基が近くに控え、相模守 北條時房ら多くの人々が集まった。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
安貞元年
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12月13日 戊午
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吾妻鏡
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曇。将軍 藤原頼経の近くに仕える護持僧と陰陽師の当番を定めた。隠岐入道 二階堂行村、周防前司 中原親実、左衛門尉 後藤基綱の奉行である。
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    先ず護持僧
       上旬   弁僧正    丹波僧都   宰相律師
       中旬   大蔵卿法印  大進僧都   常陸律師
       下旬   信濃法印   加賀律師   蓮月房律師
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    次いで陰陽師(全て安倍氏)
       一番 泰貞   二番 晴賢   三番 重宗
       四番 晴職   五番 文元   六番 晴茂
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
安貞元年
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12月14日 己未
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吾妻鏡
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晴。竹御所 が御方違えのため越後守 北條朝時の名越邸に入御された。
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   ※名越邸: 元々は北條時政 の旧邸で 義時の二男朝時が生前
贈与を受けていた。
朝時の生母は 比企朝宗の娘 姫の前で兄 泰時の生母は御所の女房に過ぎない阿波局である。
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時政は嫡孫として朝時を想定していた可能性が高い、と考える説も多い。義時と姫の前の離縁は比企一族が謀反人として追討された事件の連座が主因とされるが比企氏滅亡は建仁三年 (1203) 9月で、二人の離縁は「比企の乱」よりも前である。
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姫の前は義時と離別した後に上京して 源具親 (Wiki) と再婚し元久元年 (1204) に嫡子 輔通を産んでいるから、比企の乱以後の離縁は (時系列の面で) 有り得ない。
この件が何を意味するのか、稿を改めてもう少し掘り下げる計画である。
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北條名越邸は由比ヶ浜に近い弁ヶ谷にあったが、遺構の痕跡は確認されていない。
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  右画像は弁ヶ谷の鳥瞰。画像をクリック→ 「名越邸の推定地、弁ヶ谷」へ。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
安貞元年
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12月15日 庚申
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吾妻鏡
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晴。鶴岡八幡宮で放生会が行われた。8月の予定が御軽服 (将軍 藤原頼経の外祖母 (太政大臣 西園寺公経室) の死去に伴う軽い服喪) により延期していたものである。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
安貞元年
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12月25日 庚午
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吾妻鏡
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晴。六波羅の飛脚が到着し、改元の詔書を届けた。去る10日、嘉禄三年を安貞元年に改めた。
今年は三合に当たる上に赤斑瘡の流行により病死が多発した事に拠る。
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   ※三合: 太歳、太陰、客気の三神が合する陰陽道の厄年で災害が多発する。それと別に金星、
木星、火星が重なり合う凶兆も意味する。どちらにしろ悪い事が続く巡り合わせだ。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
安貞元年
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12月26日 辛未
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吾妻鏡
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晴。政所に於いて改元の吉書を行なった。信濃民部大夫入道行然 二階堂行盛の奉行である。
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   ※吉書: 年始や政務や改元などの際に奏覧に供する儀礼的な文書や儀式を差す。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
安貞元年
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12月28日 癸酉
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吾妻鏡
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武蔵守 北條泰時邸で、明春の将軍家外出初めについて評議した。陰陽師は正月8日と14日が良いが8日を延期して14日にすべき、と上申。
安倍晴賢は「天一の方角である北への御行始めが望ましい。」と述べた。
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   ※天一: 天帝の神を差す星の名。戦闘を支配し人の吉凶を知る、とされる。
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2025年
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7月30日
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晴耕雨読
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植木鉢の陰からスイカの赤ちゃんを発見。   7/30 15時 右下をクリック→ 別窓で拡大表示
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庭石を跨いでいたツルの先に、小さなスイカが隠れていた。授粉させたのではないから、蝶か蜂の仕業だろう。
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この時期からでは食べられる程には成長しないと思うけど、多分収穫を予定している四個の成長に影響を与える程ではないと思うから、切り取らずに放置することにした。
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庭石のすぐ横で、毎朝水を与えている日々草の裏側なので完全に見落としていた。直径はジャスト10センチ、せっかく出会ったのだからしっかりと運命を見届けてやろう。
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大玉スイカの場合は最初に伸びてきた親ヅルを早めに切り落とし、別に伸びてきた2〜3本の子ツルに咲いた雌花を受粉させるという少し変則的な栽培方法。基本的にはキュウリと同じ、ツル系植物の面白い育て方だ。
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園芸日誌を少し整理して 2025年10月の情報を載せた。左目次の 晴耕雨読 園芸日誌 でどうぞ。
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西暦1227年
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86代 後堀河天皇
安貞元年
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西暦1227年
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