
. . 86代 後堀河天皇 |
. 1月 1日 丁巳 . 吾妻鏡 |
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新造御所での椀飯※は武蔵守 北條泰時が沙汰した。相模守 北條時房以下の御家人は狩衣を着してし西の侍詰所に控え、通例に従って出羽前司 中条家長が刻限を告げ、狩衣の将軍 藤原頼経が出御して二條侍従教定が南面の御簾三ヶ間を挙げ、侍詰所の人々は庭に列座した。 . 束帯姿の駿河前司 三浦義村が御剣 (袋入り) を、御調度 (弓箭) は狩衣の前大炊助 北條有時が、御行騰と沓※は出羽前司中条家長が献じた。続いて御馬五疋、一の御馬. (鞍を置く) は相模四郎 北條朝直と民部丞範重 (?) が引いた。 . ※椀飯 (おうばん) : 饗応の献立、食事を摂る儀式や行事も意味する。大判振る舞い、の語源。 . ※行騰 (むかばき) と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴状の履物。画像 (wiki) を参考に。 . ※年令: 三寅 (後の四代将軍 藤原頼経、元服は嘉禄元年 (1225年) 12月29日) 1/16で 8歳、 貞暁 39歳、
坊門信子 (故 実朝の寡婦、出家) 39歳、 .竹御所 (故 頼家の娘、後の四代将軍 藤原頼経の正室) 24歳、 . 尼御台所 政子 前年7月死没 (享年67) 、 北條義時 前々年6月死没 (享年60) 、 北條時房 50歳 、 北條泰時 42歳 、 北條朝時 32歳 、 北條重時 27歳 、 千葉胤綱 27歳 、 足利義氏 36歳 、 ※ 三浦義村 68歳前後 、 三浦泰村 23歳 、 ※ 安達景盛 55歳前後 、 大江広元 前年6月死没 (享年76) 、 . 85代 後堀河天皇 12歳、 84代 順徳天皇 28歳 、 土御門上皇 29歳 、 後鳥羽上皇 45歳 、 九条道家 32歳 、 坊門忠信 40歳、 近衛家実 47歳、 藤原定家 61歳、 . 定豪 73歳、 退耕行勇 62歳、 慈円 前々年9月死没 (享年65) 、 親鸞 51歳 、 叡尊 24歳 、 忍性 8歳 、 日蓮 2月で 4歳 、 (全て1/1時点の満年令) ※ 三浦義村は仁安三年 (1168) 誕生 (史料に拠り、元暦元年 (1184) に満16歳だった と設定) 、 ※ 安達景盛は生年不詳だが頼朝の伊豆配流 10年後に誕生と仮定して年齢を推定した。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 1月 2日 戊午 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 1月 3日 己未 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 1月 8日 甲子 . 吾妻鏡 明月記 |
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晴。若君 藤原頼経の任官を京都に申し入れる使者を派遣。左衛門尉 佐々木四郎信綱が命令を受けた。
. . ※名月記: 兵部 (六波羅※南方 長官) の 北條時盛から書状、来る26日に鎌倉に下向する、と。 . ※六波羅: 承久の乱 (1221年) までの京都守護職の組織が改編されて 「六波羅」 の名称になった。 探題の呼称は鎌倉後期からだが当サイトでは便宜上 「六波羅探題」 を使う例もある。 ..
発足当初の任務は武士が関与した殺傷事件の処理。その他の事件は検非違使が分担していた。. 承久の乱以後は朝廷の軍事力解体と検非違使の強化は相反する要素が大きく、嘉禎四年 (1238) 以後の京都の治安維持は正式に 「六波羅」 が担当する決まりになった。 . 右は六波羅蜜寺に建つ六波羅第 探題府跡の標柱 画像をクリック→ 別窓で拡大表示。 . 更に裁判機能や朝廷との折衝や寺社が関与した紛争処理も任務に加えられた。政治や宗教の絡む事案の決裁権は朝廷ではなく幕府の指示を仰ぐという矛盾も解消せず、結果として組織の弱体化を招く部分があった事も指摘されている。 . 発足当初は出世コースとして北條一族若年層の赴任希望が多かったが、得宗体制の強化に伴って出先機関としての権限が縮小され、単なる手足に過ぎない業務が嫌われたらしい。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 1月 9日 乙丑 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 1月10日 丙寅 . 吾妻鏡 |
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晴。若君 藤原頼経の任官および征夷大将軍宣下についての申し入れに 佐々木信綱を京都に派遣するため今日御書を準備した。助教 (文献を扱う大学寮職員) の 中原師員は 「寅の日に奏書 (天子への奏上書) は書かず」と応じたが、急ぐ事情を説明して宥めた。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 1月11日 丁卯 . 吾妻鏡 明月記 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 1月16日 壬申 . 吾妻鏡 |
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曇。月蝕は明確には確認できなかった。夜半の月は雲間を通して見えたが暁近くになって雲に隠れた。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 1月18日 甲戌 . 吾妻鏡 |
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夜になってから雪が降り始め、終夜にわたって振り続けた。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 1月19日 乙亥 . 吾妻鏡 |
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昨日から今朝まで雪が降り続き二尺余り (60cm 以上) も積もった。近年にはなかった事である。 .(筆者※ 西暦では 2月17日になる。) |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 1月22、23日 . 明月記 |
. ※1月22日 戊寅: 兵部 (六波羅南方 北條時盛の書状は「相模守北條時房が重病で子息の四郎 朝直 は今日早暁に急ぎ鎌倉に向かった、と。 .. 日暮れ前に室町殿を訪問すると、今朝時房の郎党 宇麻左衛門が西亭に来て 「去る10日から病状が深刻になり子息が急ぎ下向した。掃部助時盛も26日には下向する。また 佐々木信綱は将軍元服について報告のため上洛途上だが、雨と雪のため今日 鏡の宿に到着し明日上洛の予定である。」と語った。他の雑人は「相州時房は危篤」と言っている。 ※1月23日 己卯: 巳刻 (10時前後) に兵部北條時盛が来訪。「遠距離なので何の役にも立たない。 ほどなく佐々木信綱が入洛すると聞いたが今夜も到着していない」 と語った。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 1月25日 辛巳 . 吾妻鏡 |
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晴。 明け方近くに歳星 (木星) と鎮星 (土星) と太白星 (金星) が互の軌道を犯した。 「行動には慎みが必要である」 、司天 (天文担当) からその旨の報告があった。
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 1月26日 壬午 . 吾妻鏡 明月記 |
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晴。 田畑を双六の賭けに使う事、個人としての貸米の利子を貸付額以上に課す事、銭を貸した利息を貸付の半額以上を課す事、以上は宣旨の通り全て禁止とする。 もし違犯者がいれば氏名を報告せよとの命令が下された。 . . ※明月記: 1月25日の記述。今日、佐々木信綱が関白邸に参上し将軍宣旨について奏上した。 叙位の件は確認していない。また姓名については信綱が行兼を伴って春日神社を訪れ、改姓すべきか否かを質問した。名は頼経、籘姓の源氏と藤原氏の氏社の関係は如何に処理すべきか。 .. 正二位 参議の 菅原為長 (Wiki) の娘婿 藤原俊親は義村の推挙により、両国司 (時房と泰時) の耳目となり追従横謀の言葉を弄するとは、実に悲しむべきの世の中だ。 ※明月記: 1月26日の記述。夕暮れに室町殿を訪問。中納言から今夜彼 (藤原頼経) の叙位が認め られると聞いた。また春日大社は (藤原から源への) 改姓を認めなかった、と。 .. 参考: 叙書には (春日大社の主張通り) 「正五位下 藤原朝臣頼経」とある。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 1月28日 甲申 . 吾妻鏡 |
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巳午の両時 (9時前後〜13時前後) に雷雨に加えて強風が続いた。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 2月 1日 丙戌 . 吾妻鏡 |
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辰刻 (朝8時前後) 、鶴岡八幡宮恒例の御神楽を奉納する際に数刻の間も上宮神殿の扉が開かなかった。. 神主から仔細の報告を受けた武蔵守 北條泰時は特にこの事件を畏怖し陰陽師らを呼んで占わせた。卜占結果の趣旨は下記。 . 「辰の時間帯に行なう神事は不浄を嫌う。火の気を慎むように。」 . . 右は江戸時代中期 (もちろん神仏習合時代) の八幡宮境内図。 石段の下は現代と大きく異なる。クリック→ 別窓で拡大表示 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 2月 5日 庚寅 . 吾妻鏡 |
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晴。天変の発生に対応する祈祷を催した。七曜供※は法眼珍誉、北斗供※は法橋珍瑜の担当である。 . . ※七曜供: 目視できる惑星五つ (火星、水星、木星、金星、土星) に太陽と月を加えた七天体を 供養する修法。北斗供と共に天台、真言の教理に基づく。 .※北斗供: 天変や疫病の災厄を除き息災延命を祈って北斗七星を供養する修法。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 2月 9日 甲午 . 吾妻鏡 |
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晴。重ねて祈祷。天地災変祭、属星※、月曜、螢惑 (火星) 、歳星 (木星) 、太白星 (金星) 、鎮星 (土星) の祭である。 . ※属星: 生まれた年の干支を北斗七星の星に当て嵌めて祀る考え方。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 2月13日 戊戌 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 2月14日 己亥 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 2月17日 壬寅 . 吾妻鏡 |
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曇りで弱風。午刻から夕刻まで薄暗く霧か霞の様な状態だった。高塩※と言う者もいるが北風である。 .. ※高塩: 海から吹き付ける潮風。鎌倉の場合は相模湾から吹き上げる南風になる。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 2月22日 丁未 . 明月記 |
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「2月22日の記述」 心寂房※が六波羅 (を経て) 来訪、関東で聟を迎える件の噂がある、と。
. ※心寂房: 嵯峨に住む医者で作庭家、定家の主治医でもあった。多くの持病を抱えて体調不良 だった 定家の交友で、明月記 (Wiki) には樹木の植栽や作庭の指導を受けた記録が載っている。心寂房は寛喜二年 (1230) 12月に病没する。 .※朝直の固辞: 愛妻との離別が辛かった朝直は説得を拒否し続け、一時は出家の支度をする騒ぎ にまで発展したのだが、5年後の寛喜三年 (1231) 4月19日の吾妻鏡に 「申刻 (16時前後) に相模四郎朝直の室 (武州泰時の娘) が男子を平産」 との記事がある。 .. 説得に屈したのか、泰時の娘がヨダレが出るような美形だったのか。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 3月 1日 丙辰 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 3月 9日 甲子 . 明月記 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 3月15日 庚午 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 3月18日 癸酉 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 3月20日 乙亥 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 3月23日 戊寅 . 吾妻鏡 |
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晴。 (京都の) 一條殿 九条道家 (四代将軍 藤原頼経の父) から禁色 (きんじき、Wiki の解説参照) の御装束が届けられた。 . ※禁色: 2月13日の記事に「1月27日に藤原頼経を征夷大将軍に任じる旨の宣下あり。また右近 衛少将に任じ、正五位下に叙位となった。」とある。この叙位叙任に伴う使用許可には具体的な色に関しては確認していない。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 3月27日 壬午. 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 3月29日 甲申 . 吾妻鏡 |
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辰刻 (朝8時前後) に地震あり。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 4月 4日 戊子 . 吾妻鏡 |
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晴。如法経の奉納あり。右大将家 頼朝と右府将軍 実朝と二品 政子の法華堂三ヶ所に各々一部である。 また相模守 北條時房は故二品 (政子) の追善供養のため 大倉新御堂※の寺域に三重の宝塔建立に取り掛かった。今日が着工の儀である。 . . ※大倉新御堂: 三代将軍 実朝が大倉 (十二所) に創建した巨刹 大慈寺を差す 現在の 明王院 (公式サイト、嘉禎元年 (1235) に将軍 頼経が創建)
東側の広大な敷地に建っていた。着工は建暦二年 (1212) 4月18日で落慶供養は建保二年 (1214) 7月27日 (其々吾妻鏡の記述を参照されたし) 。 .頼朝が創建した 勝長寿院 (大御堂、南御堂) に対して新御堂と呼んでいた。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 4月10日 甲午 . 吾妻鏡 |
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河越三郎重員※が武蔵国留守所惣検校職※に補任された。これは先祖の出羽権守秩父重鋼 (重隆の父) 以来の代々当主が継承していた名誉職である。 . .
※河越重員: 河越重頼 の三男。父重頼と長兄の重房は 義経
と娘の 郷御前 (Wiki) の婚姻を理由に (実際は頼朝が仲介した婚姻) 所領没収 (吾妻鏡の文治元年 (1185) 11月12日) 、後に追討され家督は重頼の後家と次男の重時が継承していた。 .. 泰時が検校職継承権を当主の重時ではなく重房に与えたのは、河越氏の棟梁に権限が集中するのを避けて秩父氏族の分断統治を図ったと考えられている。 右は河越氏館の復元想像図。 画像をクリック→ 別窓の詳細記事へ . ※留守所惣検校職: 直接的には 「遥任 (現地赴任しない国司)」 により国司不在となった国衙の実 務を代行した在庁官人で 「軍兵の招集権を持つ名誉職」を差す。 .. 平安時代末期の武蔵国司は平知盛ら平氏による遙任が常態となり、秩父牧の別当として力を蓄えた武基−武綱と続いた次の重綱が武蔵七党などの武士団を統括する実力を備えて初代の検校職に任じた。 . 秩父氏の家督は重綱から (長子の重弘 (畠山重忠の祖父) ではなく) 二男の 重隆が継ぎ 大蔵合戦※で重隆が討たれた後は 河越重頼が承継していた。 . そして重頼の失脚によって本来の嫡流である重忠に渡り、元久二年 (1205) 6月の 二俣川合戦による畠山氏滅亡に伴って空席となった。 もちろん鎌倉幕府の成立後は実権を伴わない名誉職である。
※大蔵合戦: 久寿二年 (1155) 8月に父 源義朝の命令を受け
た長男の 悪源太義平が北関東に力を広げつつあった叔父の 義賢一党を討ち取った事件。
.. この紛争の詳細は右画像をクリックして 大蔵館跡と源義賢の墓所 で。 . 義賢に味方していたのが秩父氏棟梁を継いでいた重隆、義平に味方したのが重忠の父 畠山重能 や 斎藤実盛や籘姓足利氏や 新田義重ら、義朝の軍事力に協力していたシンパシーである。 . 大蔵合戦は源氏内部の覇権争い (義朝 vs 義賢) であり、秩父氏の主導権争い (重隆 vs 重能) であり、利根川を挟み対立していた新田氏と秩父氏の所領争いでもあった。. 更に重能らの配慮で生き残った義賢の遺児が後の 木曽義仲、話はかなり複雑だ。 義仲の遺跡である 班渓寺と鎌形八幡 (別窓) も参考に。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 4月19日 癸卯 . 吾妻鏡 |
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相模守 北條時房が建立する三重塔は今日卯刻 (朝6時前後) に柱立て※となる。 . .
※柱立て: 奈良時代の早い時期から大型建築物には穴を掘
って柱を建てる 「掘立方式」 から柱の根元を固定する凹部を彫り込んだ 「礎石を置く方式」 が主流となった。
.. 根元の腐食を防ぐには有効だが固定するまで支柱が必要なこと、柱を埋める深さで高さを調節できないため更に高度な建築技術が求められ、次のステップとして礎石の上に横材を渡す基礎方式へと発展する。 . 右画像は昭和七年 (1932) に三島の下田街道橋桁工事で出土した市ヶ原廃寺 (代用された国分尼寺) 西塔の塔芯礎石 (径約170cm) 。出土場所に近い祐泉寺に定置して公開している。画像をクリック→「三島 白鳳時代の廃寺跡」(別窓)へ。 . 直径30cm×深さ15cmに掘った石の穴で柱の中心を、91cmφに浅く掘った座面で芯柱全体を受け止める考え方だ。 . 三島には頼朝時代の史跡が点在すると共に 国分寺や国分尼寺の痕跡があり、更には駿河の国衙があった。国衙庁舎の位置は未確認だが、弘安二年 (1279) に相続訴訟のため鎌倉を目指した阿仏尼※が 十六夜日記 (Wiki) に次の様に書き遺している。 . 「伊豆国府という所に到着した。まだ夕陽が残っていたので三島の明神 (三嶋大社) に参拝して歌を奉納した。二十八日に伊豆国府を出て箱根路を目差した。」 .鎌倉を目指した彼女が通った、駅伝ルートに残る 箱根精進池の石仏群 も参考に。
※阿仏尼: 藤原定家の嫡子 為家が後妻に迎えた歌人。夫の
死後に先妻 (宇都宮頼綱の娘) が産んだ 二条為氏 (Wiki) の間で相続争いになり直訴のため弘安二年 (1279) に57歳の老齢に耐えて鎌倉に赴いた。 .. 訴訟相手が有力御家人の孫だった事もあり 阿仏尼は結審前に鎌倉で没してしまう (扇ヶ谷に五層の墓標、異説あり) 。 . 右画像をクリック→ 別窓で拡大表示。 . 続いて鎌倉に下向した息子の 為相 (Wiki) は勝訴し、後に八代将軍 久明親王に仕えて鎌倉に定住した。阿仏尼の墓 (地図) から直線で約300m北東の 浄光明寺 (Wiki) に為相の墓所が残っている。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 4月20日 甲辰 . 吾妻鏡 |
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晴。戌刻 (20時前後) に御所中が騒動となった。武蔵国の御家人沼田四郎父子と白井太郎父子が斬り合いを起こし双方に死者を出した。怨恨が原因らしい。
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 4月27日 甲辰 . 吾妻鏡 |
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未刻 (14時前後) に大地震あり。陰陽師らは 「旬 (10日) を過ぎない内に兵乱が起きる」 と占い、大夫将監三条親実を経由して御所に報告し、併せて武蔵守 北條泰時にも通知した。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 4月30日 甲寅 . 吾妻鏡 |
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曇。騒動が発生し、人々が甲冑を着けて御所に集結したが間もなく鎮まった。白河関※で謀叛を企む者が在国の御家人らと合戦に及んだ事を知らせる飛脚が鎌倉に入ったのが原因である。 . .
※白河関: 義経が奥州平泉から黄瀬川の頼朝の陣に駆け付
けた治承四年 (1180) と、頼朝の大軍が奥州藤原氏討伐を目差した文治五年 (1189) 8月、そして元禄二年 (1689) 四月の芭蕉が遺した江戸時代の旅行記 「奥の細道」 が名高い。 .. 「白河の関」は陸奥国を示す代表的な枕詞でもあり、ここを訪れた松尾芭蕉も三首の句を詠んだらしいが、不満な出来だったのか 「奥の細道」 には見られず、随行した 「曽良旅日記」 に載っていると紹介文があった解説本を探しても見つからなかった。 . 右画像は史跡「白河の関」の入口部分の記念写真 画像をクリック→ 「白河の関」の明細ページ (別窓) へ。 . 奥州藤原氏滅亡の顛末は【 鎌倉時代を歩く 弐 】の. 「奥州の悲劇B 藤原氏三代と平泉文化が滅亡」 (別窓) に詳細を記述した。 併せて、 「奥州の悲劇@ 前九年の役で安倍一族が滅亡」 (別窓) と 「奥州の悲劇A 後三年の役で清原氏嫡流が滅亡」 (別窓) も、時間があれば参考に。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 5月 4日 戊午 . 吾妻鏡 |
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小雨。申刻 (16時前後) に 結城七郎朝広と甲斐源氏の浅利太郎知義※が鎌倉に駆けつけて報告した。 . 先月27日の申刻 (16時前後) に白河関の袋辻で、若宮禅師公卿 (公暁) と詐称して謀反を企んだ者がいた。ちょうど出合わせたため討ち取って首を携え、仲間二名を生け捕って連行した。 . その首は直ちに金洗沢 (承久三年 (1221) 8月2日を参照) に送って晒した。仲間は50余人、首謀者は禅師大将軍 (名は忍寂房)を称していた。全員が博徒の悪人である。 . .
※浅利知義: 弓の名手として名高い 浅利義成 (与一) の
嫡子。義成は52歳の建仁元年 (1201) に越後城氏の乱に出兵し、負傷して捕虜となった敵方の女武者 坂額を 頼家から貰い受けて妻にしている。 .詳細は同年6月29日の吾妻鏡で。 . 知義を 「坂額が産んだ子だ 」 とする資料もあるが、確実な記録は残っていない。 . 52歳を過ぎて得た子が嫡子なら義成には52歳まで子供がいなかったことになり、やや疑問が残る。色白の新潟美人 (だった、らしい) の坂額は義成の本領である浅利郷 (現在の中央市浅利、地図) で生涯を過ごした、と伝わる。 . 右上は上向山地区に残る伝 坂額の墓 (地図) 。刻銘が皆無なので真偽は不明。 2時間も探し回った末の成果だ。 クリック→ 義成の本領と坂額 (別窓) へ |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 5月 8日 壬戌 . 吾妻鏡 |
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晴。内藤左衛門尉盛時が先月19日に検非違使任官の宣旨を受けた件が評議され、任官停止の指示が下された。父の左衛門尉 内藤盛家入道が強盗を捕縛した恩賞を受ける代りに子息盛時の昇進を申請したもので、嫡男 (盛時の兄) の右衛門尉盛親は父に従って領国や京都で勤務している。 .. 弟の盛時は鎌倉で昼夜の勤務を重ね功績を挙げているが、嫡男と弟の順に従って先に兄を検非違使に任じるのが当然である。盛家入道が寵愛する盛時を密かに京都で推挙した結果の任官であり、弟が兄を越える理由は認められない。検討の末にこの結果となった。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 5月16日 庚午 . 吾妻鏡 |
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晴。白河関で陰謀を企てた者を捕らえた功績について結城七郎と浅利太郎が先日来争論を続けている。 .今日、この件についての決裁があった。(決裁内容の記載なし) |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 5月23日 丁丑 . 吾妻鏡 |
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小林五郎と高山五郎※が管理している領所について、請所の納税を請負制にして欲しいとの申請を認める旨を 武蔵守 北條泰時が決裁した。両者の勤務態度は真摯であり、不諧※を救うのが目的である。 . . ※高山氏: 秩父重綱 (畠山重忠の曽祖父) の三男重遠が武蔵国高山村に土着して高山氏の祖とな った。ちなみに重綱の長男重弘は畠山氏と小山田氏の祖で二男の重隆は河越氏の祖、四男の重継は江戸氏の祖となっている。他の氏族に比べると比較的地味な存在だった。鎌倉時代中期の庶流に小林氏の名前が現れている。高山村は現在も高山村のまま (地図) で変わらない。
.※不諧: 物事が思い通りに運ばない事、転じて貧しさを意味する。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 6月 4日 丁亥 . 皇帝紀抄 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 6月 7日 庚寅 . 吾妻鏡 |
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相模守 北條時房が造立している三重の塔に 九輪 (Wiki) を上げた。 . .
※ 前年末の大病が契機なのだろうか、時房が発願した三重
塔は4月4日に着工して4月19日に柱立て、6月7日に九輪を上げるという早い工程で進んでいる。 . 大倉新御堂 (大慈寺の寺域 ) の正確な跡地は確定できず、従って三重塔の痕跡も判らない。 . ちなみに北條時房邸は後の若宮大路幕府跡から段葛を隔てた西側、鎌倉彫りの「山水堂」と酒の「三河屋」の間の路地「小池小路」の奥に案内板と層塔が置かれていた (地図) 。この一帯の広い範囲を占めていたのだろう。 . その後、2017年末に「タリーズコーヒー」が開店し 2020年の末に閉店してしまった。現在の状況は不明。関連して承久元年 (1219) 11月21日の記事の参照を。 . 右は小池小路にあった標識と層塔。クリック→ 別窓で拡大表示 今もあるか否かは不明。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 6月13日 丙申 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 6月14日 丁酉 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 6月20日 癸卯 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 6月26日 己酉 . 吾妻鏡 |
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申刻 (16時前後) に地震あり。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 6月27日 庚戌 . 吾妻鏡 |
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申刻 (16時前後) に地震あり。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 6月28日 辛亥 . 吾妻鏡 |
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子刻 (深夜0時前後) に地震あり。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 7月 1日 甲寅 . 吾妻鏡 |
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晴。 亥刻 (20時前後) に地震あり。. 今日、橘右馬允公高 (公長の四男) ならびに本間太郎左衛門尉忠貞※、小河左衛門尉、同右衛門尉らが去る承久三年 (1221) 6月の勢多合戦で挙げた功績の恩賞を受けた。 . 彼らは相模守 北條時房の指揮下で軍功に励んだにも拘らずその恩賞を受けていなかった。時房は以前から推挙していたが認可がないため自分の勲功として受けた伊勢国16ヶ所 (承久四年 (1222) 3月3日を参照) の中の4ヶ所を辞退して御下文を発行した。 . . ※本間氏: 武蔵七党の横山党海老名氏流で本領は相模国愛甲郡依知郷 (厚木市中依知、地図) 。 北條氏の被官として佐渡代官に任じ 分家の子孫が出羽国の 超富豪 本間氏に続く。 .本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に (せめてなりたや公方様、とも) |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 7月 5日 戊午 . 明月記 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 7月11日 甲子 . 吾妻鏡 |
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故禅定二位家 (政子) の一周忌法要が勝長寿院で行われた。舞楽の奉納と共に一切経供養があり大蔵卿法印良信が導師を務めた。相模守 北條時房、武蔵守 北條泰時ら多くの御家人が参列し、竹御所も参席された。また時房が建立した三重塔でも荘厳房律師 退耕行勇を導師として供養が行われた。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 7月15日 戊辰 . 吾妻鏡 |
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晴。皆既月蝕あり、鮮明に視認できた。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 7月18日 辛未 . 吾妻鏡 |
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戌刻 (20時前後) に天変 (星の軌道に於いて異変) あり。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 7月22日 乙亥 . 明月記 |
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晴、午後大雨。謀反計画の噂に基づいて武士ら数名を捕縛し拷問を加えたが仲間を自白せず。300人ほどが計画に加わっているとの風聞あり。また一切経谷 (地図) で武士が書いた宛先のない書状32通が発見され、事態が露見した。洛中で80人が加わっている、と。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 8月 1日 甲申 . 吾妻鏡 |
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晴。子刻 (深夜0時前後) 地震、揺れが大きかった。 今日准布 (銭に代用した布 ) を止めて銅銭を用いるよう※、武蔵守 北條泰時から強い命令があった。また幕府の南庭で京都から来た者に相撲三番を取らせた。両国司 (時房と泰時) 、他の御家人多数が見物に集まった。 . . ※銅銭の認可: 鎌倉幕府が銅銭 (宋銭) の使用を公式に認めた最初である。 百錬抄 (Wiki) に拠れば 寛喜二年 (1230) の6月24日には朝廷もこれを追認した。銅銭が輸入され始めたのは清盛時代で、禁止令数回など紆余曲折を経て1230年代には完全に定着したらしい。 .貨幣経済に不慣れで生活基盤の弱い中小御家人の窮状が広がり始める。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 8月 3日 丙戌 . 明月記 |
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心寂房※が来訪、風聞などについて語った。美濃国の高桑次郎と称する者が六波羅に捕縛され謀反計画を自白したが仲間の名は言わず、首謀者で一切経谷にいた覚心坊なる者は逐電した。従者大夫房のみを捕縛し、宛名のある33通の書状を没収した。 . 六波羅北方の武蔵太郎 北條時氏) が六波羅の四方に巾一丈五尺で深さ一丈 (4.5m×3m) の堀を設けた。諸国七道 (東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道) に叛徒が群居している、と。 . . ※心寂房: 定家が懇意にした僧で医師。定家の妻の病気についても薬草処方を教えるなどの記録 あり。1/11と2/22にも記載がある。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 8月 7日 庚寅 . 吾妻鏡 |
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晴。天変と地震に対応して祈祷を催した。一字金輪護摩は若宮 (八幡宮) 別当僧正、八字文殊法は宰相律師、土曜供は助法印珍誉、木曜供は師法橋珍瑜、鎮星祭は安倍泰貞、三万六千神祭は 安倍国道朝臣、属星祭は安倍宣賢、歳星祭は安倍文元、螢惑祭は安倍晴賢、北斗祭は二位僧都尊長。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 9月 2日 甲寅 . 吾妻鏡 |
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将軍家 藤原頼経が女官用の輿を利用し (非公式に) 勝長寿院と永福寺に渡御され本尊拝礼を行なった。 .剣役は 結城七郎朝広、駿河守 北條重時、大炊助 北條有時、 駿河前司 三浦義村 以下数名が供奉した。 隠岐入道行西 二階堂行村が盃酒を準備し門前で人々に勧めた。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 9月 9日 辛酉 . 吾妻鏡 |
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鶴岡八幡宮の神事 (重陽節※) は通例の通り。大炊助 北條有時が奉弊使を務めた。 . . ※重陽節: 奇数 (陽数) が重なる9月9日 (西暦は10/1) 。菊が咲く季節で、観菊の宴も催された。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 9月22日 甲戌 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 10月 6日 戊子 . 吾妻鏡 |
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夜になって光物が飛翔した (流星か) 。子刻 (深夜0時前後) に地震あり。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 10月 9日 辛卯 . 吾妻鏡 |
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晴。 駿河前司 三浦義村以下の幕臣中枢が集合し御家人の訴訟について評議※した。尾張国の御家人 民部丞中原泰貞と 駿河前司義村の郎従大屋中原太郎家重 (泰貞の同族) が以前から所領についての争いを続けている。 . その件の評議中に泰貞は密かに評定所の背後で内容を窺い、「義村は家重を擁護している」と訴えた。 家重も前に進み、「義村の扶助などない」と述べた。口論となり、二人ともその場から追い出された。 . . ※評議: 新たな組織<の評定衆による会議。原型は建久十年 (1199) 4月に将軍 頼家の権限を縮小 する目的で発足した古参御家人13人による合議制。頼家と比企一族が建仁三年 (1203) .9月に失脚した後は実質的な 北條時政による執権独裁となった。 . 元久二年 (1205) 閏7月に時政が失脚した後は 政子を中心にして 義時と 大江広元による一種の変形トロイカ方式の指導体制が定着したのだが... . 貞応三年 (1224) 6月には二代執権義時が、翌年6月には広元が、7月には政子が、相次いで死没。まだカリスマ性のない 泰時は集団指導性のシステムを取り入れつつ、叔父 時房の補佐を受けて北條執権の権限を徐々に強化する方策を執る必要があった。 御所移転や銅銭導入もその一環だった、と思われる。 . 開始時点での評定衆は以下の11人でその上に泰時と時房。時政時代と同じ13人だ。 中条家長 二階堂行村 町野 (三善) 康俊 斎藤長定 (浄円) ※ 三浦義村 .佐藤業時 (波多野氏系の得宗被官) 矢野 (三善) 倫重※ 後藤基綱 中原師員 (大江広元の系累) 二階堂行盛 太田 (三善) 康連※ (この項は最初に評議が開かれた前年の12月21日と重複する。) ※斎藤長定: この時30歳の文官で貞永元年 (1232) の御成敗式目起草者の一人だったらしい。 評定衆や連署による起請文の草案も手掛けたと伝わる。 .※矢野倫重: 問注所々司だった三善康俊の弟で公事奉行を務めた行倫の二男 (実務官僚) 。 . ※太田康連: 三善康俊の末弟。三善系3、二階堂系2 で指揮は泰時と時房、評議体制を偽装した 北條独裁だ。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 10月12日 甲午 . 吾妻鏡 |
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評定衆の協議中は訴訟の当事者が近寄るのを禁止すると決定した。従わない者があれば法に従って処罰するよう左近将監 尾藤景綱、左衛門尉 平三郎盛綱、南條七郎時員、安東左衛門尉ら (得宗家の被官※) に命じた。この決裁は(9日に起きた)泰貞の狼藉が原因である。泰貞の所帯(所領と職位)は結論が出るまで(訴訟相手の)家重の管理下に委ねることになる。 . . ※得宗被官: 得宗は北條嫡流で被官は陪臣、北條嫡流の家臣を意味する。北條得宗家の陪臣が 鎌倉殿の御家人を公式に取り締まれる立場に就いた。承元三年 (1209) 11月14日に 将軍 実朝 が抱いた危惧が現実になた。以下 当日の記事を参照されたし。 .. 【 承元三年 (1209) 11月14日 】 . 相模守 北條義時が、以前からの郎従 (全て伊豆国の住人で主達 (おもだち) と呼ぶ) の中から功績のある者を選んで御家人に準じる扱いとする希望を述べていた。これについて内々 (非公式) の沙汰があり、将軍家 実朝の許しが得られない厳しい仰せがあった。 . 「それを認めれば子孫の時代になった時に当初の経緯を忘れ、幕府參昇 (幕政への関与) を企てるようになる。後世に問題を残す恐れがあるから、将来も認めてはならない。 ※南條時員: 泰時の被官で伊豆国南條 (北條の南、現在の伊豆の国市南條 (地図) を本領とした。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 10月18日 庚子 . 吾妻鏡 |
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晴。竹御所邸の造作工事が始まり礎石が置かれた。狩野宗茂入道と籐内左衛門尉が奉行を担当した。 .. 今日、武蔵太郎 北條時氏が宋から取り寄せた唐鳥 (輸入の意味) 一羽 (名は愛子) を献上した。翼が青く頭が赤で白い筋が首の周囲に環をなしている。将軍家 藤原頼経は喜んで可愛がっている。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 10月20日 壬寅 . 吾妻鏡 |
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朝廷に献上する馬を京に入れる計画について沙汰が下された。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 10月21日 癸卯 . 吾妻鏡 |
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晴、風が鎮まる。鶴岡八幡宮寺の修理が始まるため、今夕に御神体などを仮殿に遷すことになった。 八幡宮の御神体は若宮※の御殿に、若宮の御神体は竈殿(かまどの神を祀る場所)に遷した。 . . ※若宮: 石段に登る手前右手にあるのが若宮 (下宮) 、石段の上にあるのが本宮 (上宮) 。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 10月26日 戊申 . 吾妻鏡 |
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晴。戌刻 (20時前後) に天変 (星の動きの異変) あり。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 10月27日 己酉 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 10月28日 庚戌 . 吾妻鏡 |
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晴。将軍家 藤原頼経の体調不良に対応し招魂祭※などの祈祷を催した。三條左近大夫将監親実が奉行である。 . ※招魂祭: 陰陽道で行なう祭祀の一つ。衰弱した肉体から遊離する魂を呼び戻す意味を持つ。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 11月 2日 癸丑 . 吾妻鏡 |
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将軍家 藤原頼経の体調不良に対応し周防前司中原親実の奉行として卜占を催した。晴賢、道継、国継 (いずれも安倍姓の陰陽師) らが召集された。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 11月 3日 甲寅 . 吾妻鏡 |
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晴。今暁、将軍家の体調不良に対応して七座の泰山府君祭※が行われた。親職、晴賢、重宗、晴職、宣賢、文元、道継ら (いずれも安倍姓の陰陽師) が担当した。 戌刻 (20時前後) に月が太白星 (金星) の軌道を犯した (距離は二尺 (約61cm) 余) 。 . . ※泰山府君祭: 陰陽道祭祇の一つ。中国古代の神・泰山府君が仏教の閻魔大王と習合して寿命と 富貴を支配すると共に、侍者の司命神が冥府の戸籍を管理すると信じられた。 .天台宗の円仁が中国から比叡山麓に勧請した赤山明神が泰山府君で、また素戔嗚 (すさのお) 尊や大国主神とも習合し本地垂迹説により本地地蔵菩薩となった。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 11月 4日 乙卯 . 吾妻鏡 |
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快晴。夜になって鶴岡若宮の修理完了に伴って遷宮。御神体が本宮に還御し、武蔵守 北條泰時も参宮された。戌刻 (20時前後) に螢惑星 (火星) が歳星 (木星) の軌道を犯した。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 11月 5日 丙辰 . 吾妻鏡 |
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晴。戌刻 (20時前後) に月が鎮星 (土星) を凌犯※し、月が螢惑星 (火星) の軌道を犯し、亥刻 (22時前後) に月が歳星 (木星) の軌道を犯した。
. . ※凌犯: 陰陽道では 「吉凶の逆転」を意味するらしいが、ここでの意味は「軌道を犯した」 だ . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 11月 6日 丁巳 . 明月記 |
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三つの星が異様な接近している。一昨日から近寄り今夜は螢惑 (火星) が月に溶け込む様相を呈した。. |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 11月 8日 己未 . 吾妻鏡 |
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陸奥国平泉の圓隆寺 (毛越寺と号す) ※が焼け落ちた。この災厄を鎌倉で予言して廻った者がいたのは何とも不思議である。しかも後日の噂では時刻までが合致していた、と。 . 圓隆寺は 藤原清衡が建立※した寺院で、その荘厳な美しさは我が国に比類のない霊場である。右大将軍 頼朝が文治五年 (1189) の奥州征伐の際に訪れて信仰を深めていた。 . 右は毛越寺の復元想像図。クリック→ 毛越寺の明細 (別窓) へ . . ※圓隆寺: 毛越寺金堂の呼称。伝 雲慶作の本尊 丈六薬師如来と十二神将像を納めていた。 奥州藤原氏の 二代基衡は久寿三年 (保元元年、1156年) までに殆どの堂塔群の建立を済ませ、
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保元二年 (1157) に死没した。. 基衡を継いだ 三代秀衡は仁安二年 (1167) に未完成だった本堂格での嘉祥寺を完成させて全ての伽藍が完成した。従って「清衡が建立した」は吾妻鏡編纂者の言葉足らずで、文治五年 (1189) 9月17日の「毛越寺について」の項で「基衡が建立した寺」としているのは厳密に考えれば誤記である。 . また圓隆寺本尊の「丈六薬師如来を雲慶が彫った」としているのは間違い。雲慶なる名の仏師の存在記録はないし、あの高名な 大仏師 運慶は年代的に一致しない。雲慶が誰を差すのか、仏像を彫ったのは誰なのかは全く不明である。 . 現存する運慶 最初期の作 (奈良円成寺の大日如来像) は安元二年 (1176) の完成で、その20年前の保元元年 (1156) には圓隆寺の本尊を彫るほどの大仏師ではなかった。 詳細については文治五年の7月17日に記載してある。 . 右は奈良円成寺の大日如来像。クリック→ 別窓で拡大表示 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 11月13日 甲子 . 吾妻鏡 |
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晴。 (10月27日からの) 将軍家 藤原頼経の体調不良が回復しつつあり、沐浴の儀で穢を落とした。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 11月14日 乙丑 . 吾妻鏡 |
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晴。戌刻 (20時前後) に歳星 (木星) が哭星 (火星) の軌道を犯した。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 11月26日 丁丑 . 吾妻鏡 |
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晴。天変に対応して祈祷を開始した。内法 (神道や陰陽道に対しての仏教を差す) は北斗供を、外典 (仏教以外の宗教) は天地災変、属星、月曜などの祭祀である。 .また今月から毎月の泰山府君祭 (11月3日を参照) を催すことになる。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 11月27日 戊寅 . 吾妻鏡 |
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晴。戌刻 (20時前後) に太白 (金星) が鎮星 (土星) の軌道を犯した。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 12月 4日 乙酉 . 吾妻鏡 |
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晴。戌刻 (20時前後) に月が火星の軌道を犯した。また近世が木星の軌道を犯した (二寸を隔てる) 。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 12月 8日 己丑 . 吾妻鏡 |
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晴。竹御所邸※が完成、改めて地鎮祭などを行なった。また調度 (家具備品) を置き鋪設※を儲けた。 . . ※竹御所邸: 鎌倉の比企ヶ谷、現在の妙本寺敷地の高台にあったと伝わる。遺言に従い竹御所 の遺骸は屋敷の新釈迦堂須弥壇の直下に葬られ、自然石の墓石が残っている。 .更に詳細は 妙本寺 比企一族滅亡の跡の中段で (別窓) 。 ※鋪設を儲ける: 建具や家具を設ける、の意味がある。重複するようだが...。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 12月10日 辛卯 . 吾妻鏡 |
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巳刻 (10時前後) から雨、夕刻から雪。 今日 竹御所が転居。戌刻 (20時前後) に新築の御所に輿で入御された。伊賀右馬助仲能、源左近大夫家平、窟平左衛門広光、那珂左衛門尉が供として従った。 . 入御の際に束帯の大膳亮安倍泰貞が廊下で反閇※を行ない伊賀仲能を介して白綾の御衣を下賜された。 また広光が牛車を付ける軒下の際に黄牛 (丈夫で美しい牛) を引いた。 . . ※反閇: 陰陽師が邪を祓うため呪文を唱え大地を踏みしめ千鳥足に歩む呪法。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 12月13日 甲午 . 吾妻鏡 |
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晴。戌刻 (20時前後) に政所※の前から失火による火災が起きた。 左近将監 尾藤景綱、三郎左衛門尉 平盛綱、右衛門志彈正清原季氏 (後の評定衆 清原清定の縁戚?) 、大和左衛門尉、近藤刑部丞らの家が焼失した。 . .
※政所: 執務地は右画像の地図 (クリック→ 拡大表示) の ●
印の一帯にあったとされている。このマーク地点が現状更地の駐車場で、発掘調査をするか保育園を建てるかで一時期かなり紛糾していた。. .結局保育園建設案は近隣住民の反対で中止になり調査後の現状は確認していない。 . 今では六浦道 (金沢街道) に面した 「さかいクリニック」 の左側出窓の下に 「政所の跡、云々」 のプレートが付いている。筋替橋から北には西大路が通っていたのだから政所は西大路を挟んだ飛び地だったのかも知れない。 じゃあ畠山邸は?なんて、更なる疑問も浮かび上がる。 . もちろん政所の規模も確認されていないのだが、北條義時 や 大江広元 や 畠山重忠もこの辺を歩いていたんだな、という感慨に浸ることはできる。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 12月21日 壬寅 . 吾妻鏡 |
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晴、風は鎮まった。夜に相模守北條時房と武蔵次郎 (北條時実)※らが新造の屋敷に転居の儀を催した。 . . ※北條時実: 泰時の二男 (満15歳) で生母は安保実員の娘。将軍 藤原頼経の側近として仕えたが 翌 嘉禄三年6月8日に家人の高橋次郎に殺害され、高橋次郎は即日斬首となった。 .. 時実の同僚三人が共に殺された事、高橋家が存続し一族が 北條重時の家臣として仕えた事などから、情状酌量の要因 (被害者側の瑕疵) があったと考えられる。 . 三年後の寛喜二年 (1260) 6月には兄 (泰時の長男) の北條時氏 (生母は矢部禅尼) が満26歳で早世、後継と考えた男子二人を失なった泰時は孫の 経時 (時氏の長男、1224年生まれ) を次の執権として育てることになる。 |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 12月29日 庚戌 . 吾妻鏡 |
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晴。夜半、伊豆国走湯権現 (現在の伊豆山神社※) の宝殿および廻廊と堂舎など数十棟が焼け落ちた。 火は翌日の午刻 (正午前後) まで消えなかった、と。 . .
※伊豆山神社: 公式サイト を参考に。伊豆山神社の風景、
.※般若院: 伊豆山神社の運営を管理する別当寺だったと考 える説がある。表通りに面した斜面の 「千人塚」 の中には頼朝に仏典を教えた伊豆山の僧 覚淵 (加藤景廉の兄) の墓もあるとされるが、五輪塔の判別までは不可能らしい。。 .. 伊豆山権現は秀吉の小田原征伐 (天正十八年、1590年) の際に後北条氏に味方したため全山が焼き払われた。その際に散逸した石塔や五輪塔を般若院に集めた跡とも考えられている。この前面道路は令和三年 (2021年) 7月に発生した巨大土石流の通過ルートなのでそれなりの被害を受けた、と思う。 |
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. 7月29日 . 晴耕雨読 |
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大玉スイカの生育状況をレポート。 7/29 17時 右下をクリック→ 別窓で拡大表示 .
受粉日 7/16サイズ 7/29 計測 8/10 計測 収穫予定日. 6/19 26cm 27cm ??cm 8/10 6/20 25cm 26cm ??cm 8/11 6/22 22cm 23cm ??cm 8/13 6/29 19cm 21cm ??cm 8/20 . 残念ながら、七月の第一週にホームセンターの 「無料処分品」 から拾い上げたスイカ苗三株は見事に枯れてしまった。根付いた様に見えたのだが既に病気だったのかも知れないし生育するだけの体力がなかったのかも知れない、残念ながら、合掌。 . 一緒に貰って来たキュウリ苗三本とナス苗二本はそれなりに収穫できたのだけれど、これらはスイカ苗ほどデリケートじゃないからね。 . 大玉スイカ...直径は23〜30cm で 5kg〜7kg、ジャンボサイズは直系30cm以上。冷やし過ぎは禁物で少しヒンヤリする15℃程度が一番美味しいそうです。 . 最初の収穫はお世話になっている 「掛かりつけ医の先生」に届けて、残りは夫婦でスイカパーティーだ!去年は大部分を知り合いに配って、妻から「私はロクに食べなかった」と散々嫌味を言われたからね。 . 園芸日誌を少し整理して 2025年10月の情報を載せた。左目次の 晴耕雨読 園芸日誌 でどうぞ。 . |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 月 日 壬 . 吾妻鏡 |
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記事
.. ※: |
. . 86代 後堀河天皇 |
. 月 日 壬 . 吾妻鏡 |
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記事
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. . 86代 後堀河天皇 |
. 月 日 壬 . 吾妻鏡 |
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