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建久十年(1199年)、4/27 改元して正治元年
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前年・建久九年(1198)の吾妻鏡 へ       翌年・正治二年(1200)の吾妻鏡
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吾妻鏡 写本 (伏見本) の全ページ画像 を載せました。直接 触れるのも一興、読み解く楽しさも味わって下さい。
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西暦・天皇・上皇
和暦・月日・史料
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建久十年
正月.
 
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この年、吾妻鏡の記載なし。何らかの理由で脱落したと推定される。史料に見られる事件を列挙する予定。
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   ※年令: 源頼朝 1月死没 (享年51) 、 頼家 16歳、 一幡 1歳未満 (建久九年誕生、月日は確認不可) 、
実朝 6歳、 大姫 前々年7月死没 (享年19) 、 乙姫 6月死没 (享年12) 、 阿野全成 44歳、
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北條時政 60歳、 北條政子 41歳、 北條義時 35歳、 北條時房 24歳、 北條泰時 14歳、
千葉常胤 80歳、 千葉胤正 57歳、 三浦義澄 71歳、 足利義兼 前年3月死没 (享年43)、
足利義純 21歳、 安達盛長 63歳、 安達景盛 歳、 大江広元 50歳、 畠山重忠 34歳、
梶原景時 58歳、 宇都宮朝綱 79歳、 宇都宮頼綱 20歳、 岡崎義実 87歳、 加藤景廉 42歳、
佐々木定綱 56歳、 二階堂行政 年令没年共に不明、建仁三年 (1203 ) 頃に死没か 、
二階堂行村 42歳、 中原親能 51歳、
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土御門天皇 3歳、 後鳥羽天皇 18歳、 九条兼実 49歳、 吉田経房 56歳、 土御門通親 48歳、
丹後局 47歳、 西園寺公経 27歳、 藤原定家35歳、
定豪 46歳、 慈円 43歳、 法然 63歳、 親鸞 25歳、
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      (全て1/1時点の満年令、一部の年齢は推定)
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頼朝死没の
関連史料


(13年後の記事)

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建暦二年(1212)
2月28日の
吾妻鏡から引用
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吾妻鏡が頼朝死没の事件に触れているのは、死没から 13年後の建暦二年 (1212) 2月28日のみ。
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相模国相模河に架かる橋の数ヶ所が腐って壊れた旨の報告が鎌倉に届いた。橋の修理が必要であるとの意見が三浦義村から出され、執権 北條義時大江広元らが協議した。
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去る建久九年 (1198) に 稲毛重成が橋の新設工事を完成させた折、落成供養に将軍が来臨した帰路に落馬事故があり、程なくして崩御。その後には (供養の主催者) 稲毛重成も事情があって討伐される結果になった。
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橋に関して凶事が続いた経緯があるため 将軍実朝に判断を求めたところ、「故 頼朝将軍の死は覇権を得て20年が過ぎ官位を極めた後であり、重成は自分の不義のため天誅を受けたに過ぎない。橋の問題ではないのだから今後は一切不吉などと言うべきでない。あの橋があれば二所詣にとっても庶民にとっても便利である。壊れる前に早く修理をせよ。」との仰せだった。
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   ※原文:去建久九年。重成法師新造之。遂供養之日。爲結縁之。
将軍家渡御。及還路有御落馬。不経幾程薨給畢。
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「及還路有御落馬」つまり「(鎌倉への) 帰路に落馬され」だから、文面に従えば「式典が終って相模川の橋から鎌倉に着くまでの間」になり、少なくとも馬が暴走して相模川に落下したのではないことになる。
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   ※重成の不義: もちろん不義密通ではなく 元久二年 (1205) 6月の
二俣川合戦 の経緯を差す。畠山重忠一族は謀反の冤罪で追討され、嘘の謀反を訴えた稲毛重成父子と弟の 榛谷重朝父子 (本領は二俣川) も「重忠を陥れた罪」で計画通りに殺された。
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全ては北條一族 (時政夫妻、義時政子) の計画的な御家人粛清計画の一環で、北條の家督を争う義時+政子連合 vs 時政+後妻 牧の方の思惑も複雑に絡んでいるから面白い。
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      右上は橋供養の跡と推定される相模川橋脚遺跡。画像をクリック→ 史跡の詳細情報 (別窓) へ。
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頼朝死没の
関連史料
神皇正統記
の記載
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稲毛重成入道が亡妻 (北條時政の娘、政子の妹 ) 追善のために架けた相模河橋供養に頼朝が出席。式典が住んで帰る際に落馬し、そのまま病床に伏した。
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    「神皇正統記」は南北朝時代に公卿の北畠親房が1339年頃に著した歴史書。
この記述には追加の情報が見らないのでネタ元は建暦二年2月28日の吾妻鏡と思われる。
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頼朝死没の
関連史料
保暦間記
の記載
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将軍は相模河橋供養に出席、帰路の八的が原で今までに殺した源義広、義経、行家らの亡霊と目を合せた。
更に稲村ヶ崎の海上に十歳ほどの童が現れ「汝を見付けたぞ、我は西海に沈んだ安徳天皇である」と語って消えた。恐怖を覚えた頼朝は落馬し、鎌倉に戻って病に伏した。
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   ※保暦間記: 南北朝初期編纂の歴史書。著者は不明だが足利系の武士が有力視されるらしい。
底本は北条九代記、更にその底本は鎌倉年代記、だろう。
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   ※八的が原: 辻堂駅近くに郷土史家が建てた「頼朝落馬の地」の
掲示 (地図右画像をクリック→ 別窓で拡大表示) がある。郷土愛には敬意を表するが元ネタである「保暦間記」の一部「稲村ヶ崎の海上に安徳天皇が云々」を勝手に削除しちゃダメだよ (笑) 。
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ただし辻堂駅付近は橋脚史跡から約7km鎌倉寄り (車両でのルート地図) で古道の痕跡も残るため頼朝が看板の付近を通った可能性はかなり高い。
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JR辻堂駅南東の八松小学校 (地図) が古い地名を伝えている。鎌倉時代に的を八ヶ置いた弓の練習場があり、海沿いの砂地に多くの松が生えていた (防風林か) 事から八的→ 八松ヶ原に変った、或いは弓射競技の一種である「八的」から転じた可能性もある。
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頼朝の開基と伝わる宝珠寺が現在地 (地図) に移転する前の旧跡 (地図) の古い呼称が辻堂で四辻に宝珠寺の不動堂があった事から辻堂の名が派生した。
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郷土史家は移転後の宝珠寺一帯を「頼朝落馬の地」と主張しているのだが、個人的には旧跡の付近つまり鎌倉往還が通じていた宝珠寺の不動堂旧跡付近を主張したら面白いのに、と思う。また、文面にある「九条兼実宛の書状、云々」は1月13日の愚管抄の条に記載した 慈円の言葉 (三段下、愚管抄の記載) の転載と思われる。
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頼朝死没の
関連史料
北條九代記
(鎌倉年代記)
の記載
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右幕下が没した。

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   ※北条九代記: 1183年~1332年の幕府関連の事件を記録。作者不明、成立は1333年。
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   ※右幕下: 右近衛大将の官職名 (唐名) 、頼朝を差す。
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頼朝死没の
関連史料
承久記
の記載
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稲毛重成が亡妻供養のために架けた相模河の橋供養に出席した頼朝は帰り道で水神に魅入られ病を発した。
半月のあいだ病床に臥して心も弱り命も終わると見えたため孟光 (政子) を呼び、「あなたと契りを結び長年を共に暮らしたが、別れの時が来た」として嫡子の 頼家を招じた。
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「私の運命も尽きた。八ヶ国 (相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、上野、下野) を治める大名や公卿らの策謀に与してはならぬ。千幡 (実朝) を慈しみ、畠山重忠を頼りにして国を鎮護せよ」と遺言した。

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   ※承久記: 承久の乱 (1221年) の前後を描いた合戦記で武家の台頭と朝廷政治の崩壊を描いている。
作者は不明、成立は最も古いとされる慈光寺本で鎌倉時代の中期か。
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そもそも遺言の有無も内容に関する史料も存在しないし (遺言が存在したのは事実。今年10月25日の吾妻鏡を参照されたし) 、頼朝の血筋は彼が全面的に信頼していた北條一族が断絶させた。その後に編纂した頼朝の遺言云々など信用に値しない。
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   ※孟光: 古代中国の説話にある政治家 梁鴻の妻。容貌は誉められないが理想的な賢婦だったらしい。
政子さんには (事実だとしても) 失礼な比喩だし、まるで臨終に立ち会ったような描写だね。
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頼朝死没の
関連史料
愚管抄
の記載
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関東の将軍が病床にあるとの噂があり、11日に出家して13日に没したらしい。僅か15、6日の事である。
今年は必ず上洛して政治について沙汰を行なうと思われたが、誠に存外の事件である。九条兼実殿にはその旨を連絡した。


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   ※愚管抄: 天台座主 (第62、65、69、71世) を務めた僧 慈円 (九条兼実の弟) の日記。
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   頼朝は九条兼実に宛てた書状につぎのように書いている。
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   「今年は必ず上洛し世のこと沙汰せんと思いしに、よろずのこと存の外に候」
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日付が不明なのは残念だが 「今年」は建久十年を指している筈だから、落馬事故から死没までの間に書かれた事になる。事実であれば頼朝は会話ができる状態で、一度は見捨てた兼実との関係修復を考えていたと推定できる。でも慈円の日記だけの間接証言だし日付もないのは残念至極。
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それよりも興味深いのは、頼朝が九条兼実宛の書状を (右筆に) 指示できる病状だったのなら、代筆の置き文 (遺言) も残せた筈だよね。誰も知らないまま残っていないのは公文書の破棄または隠蔽か?
犯人は安倍晋三!じゃなかった政子か?と疑えるのが恐ろしい。まぁ時政の可能性もゼロじゃないが。
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頼朝死没の
関連史料
明月記
の記載
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前の将軍が去る11日に出家し13日に頓病 (急病) で逝去した。未刻 (14時前後) に叙目があり 少納言に忠明、内蔵頭に仲経、右近衛大将に 土御門通親、中将に 頼家などが任じた。.

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   ※明月記: 藤原定家が治承四年 (1180) から嘉禎元年 (1235) までの56年間を記録した日記。
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   ※叙目: 別の記録に拠れば、正式な叙目は20日だったらしい。この日に頼朝死没の正式報告が朝廷に
届き、通親はそれを奏聞せず「見存の由」 (既決事項) と称して叙目を決裁した。
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通親は自らの権限を強化し掌握するため既に自分の右近衛大将着任を決めており、頼朝の嫡子頼家を左近衛中将に任じることで鎌倉の反発を和らげようとしていた、と考えられる。
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頼朝の死去が公式発表されると頼家の昇進は延期せざるを得ない、それを防ぐため強引に叙目を済ませ、その後に頼朝の死去を知った形をとって弔意を示すため閉門した、らしい。
この直後に 一條能保の家人が通親襲撃を企てた「三左衛門事件」が勃発する。
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藤原定家は明月記の1月22日で通親の行動を「奇謀の至り」と非難しているが、権謀術策に長じた通親の面目躍如なのだろう。叙目にある中山忠明は正二位 内大臣の忠親の嫡子で仁治二年 (1241) には従三位に昇っている。仲経は 後白河院の近習だった源仲兼の間違い。
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   ※源仲兼: 鶴岡八幡宮で実朝と共に殺された文章博士源仲章 (政所別当の一人で廷臣を兼任) の弟。
仲章は 源実朝に付き添う筈だった 北條義時と間違われて討たれた、との説もある。
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   ※文章博士: 漢文と中国正史の教育を担当した式部省大学寮の教官。平安末期には菅原氏と大江氏の
世襲 (定員2) となり、名門貴族の私学充実などにより徐々に形式化した。
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本来の吾妻鏡 建久十年(1199)の記載はここから。
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西暦・天皇・上皇
和暦・月日・史料
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建久十年
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袖書
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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征夷大将軍 従二位左衛門督 源朝臣頼家 現在は左中将。前右大将頼朝卿の長男、母は従二位平政子 (遠江守時政の女) 、寿永元年 (1182) 壬寅八月十二日誕生。
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   ※従二位: 政子の従二位昇叙は建保六年 (1218) 11月 (北條九代記に拠る) 、袖書=著者による追補。
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   ※年令: 源頼朝 1月死没 (享年51) 、 頼家 16歳、 一幡 1歳未満 (建久九年誕生、月日は確認不可) 、
実朝 6歳、 大姫 前々年7月死没 (享年19) 、 乙姫 6月死没 (享年12) 、 阿野全成 44歳、
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北條時政 60歳、 北條政子 41歳、 北條義時 35歳、 北條時房 24歳、 北條泰時 14歳、
千葉常胤 80歳、 千葉胤正 57歳、 三浦義澄 71歳、 足利義兼 前年3月死没 (享年43)、
足利義純 21歳、 安達盛長 63歳、 安達景盛 歳、 大江広元 50歳、 畠山重忠 34歳、
梶原景時 58歳、 宇都宮朝綱 79歳、 宇都宮頼綱 20歳、 岡崎義実 87歳、 加藤景廉 42歳、
佐々木定綱 56歳、 二階堂行政 年令没年共に不明、建仁三年 (1203 ) 頃に死没か 、
二階堂行村 42歳、 中原親能 51歳、
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土御門天皇 3歳、 後鳥羽天皇 18歳、 九条兼実 49歳、 吉田経房 56歳、 土御門通親 48歳、
丹後局 47歳、 西園寺公経 27歳、 藤原定家35歳、 慈円 43歳、 法然 63歳、 親鸞 25歳、
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      (全て1/1時点の満年令、一部の年齢は推定)
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建久十年
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2月 2日 丙寅
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明月記
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今日 寅刻 (早朝4時前後) に石清水八幡で火災。西谷大塔、小塔、釈迦堂、鐘楼小屋に少々の被害があった。
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   ※火災: 吾妻鏡の2月15日に報告の記事あり。日時の違いは京か鎌倉、どちらかのミスだろう。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建久十年
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2月 4日 戊辰
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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羽林 (近衛府中将と少将の唐名=頼家) 殿下が先月20日に左中将に昇進した。同26日の宣下は次の通り。
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  「前の征夷将軍源朝臣 (頼朝) の跡を継ぎ、支配下の家人郎党を指揮して従来通りに諸国を守護せよ」
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この宣下到着に伴って清大夫 (祈祷に任じる者) が日時を選定し、今日吉書始めを行なった。
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北條時政殿、兵庫頭大江広元朝臣、前大和守源光行朝臣、中宮大夫屬入道三善康信三浦介義澄、右衛門尉八田知家、左衛門尉和田義盛、右衛門尉比企能員梶原平三景時、民部丞二階堂行光、民部丞平盛時、右京進中原仲業、文章生 (詩文や歴史の専門職) 宣衡らが政所に列座した。
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三善康信が武蔵国海月郡に関する件を吉書の草案として提示し、中原仲業が清書した。大江広元がこれを御所に献じ、羽林 (頼家) は私邸に於いてこれを覧た。頼朝将軍の死没から20数日も過ぎていないが綸旨は厳守すべきであるとの仰せがあり、内輪での儀式の形で吉書始めとした。
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   ※吉書始め: 朝廷の習慣「吉書の奏」を真似て、年頭や改元の際に吉書を見る行事。業務開始の意味も
ある。吉書は正月2日か3日に弁官か蔵人が奏し、政務の場合には正月9日や代始めや改元後の吉日に大臣が奏した。鎌倉では建久二年 (1191) 1月15日の政所設置の際が最初、以後は新年や代替わり最初の文書発行行事として定着した。
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   ※海月郡: 久良岐郡を差す。現在の横浜市港南区上大岡を鎌倉街道上道 (かみつみち、ルート地図) が
通っており、周辺の公園などには久良岐の地名が残っている。
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   ※鎌倉街道: 上道 (かみつみち) は化粧坂→ 戸塚→ 町田→ 府中→ 入間川を経て中山道や三国街道に続く
ルート、中道 (なかつみち) は巨福呂坂から二俣川→ 世田谷→ 新宿→ 越谷を経て宇都宮に続く奥州街道ルート(ルート地図)、下道 (しもつみち) は朝比奈切通しを抜けて六浦→ 保土ヶ谷→ 池上→ 越谷→ 古河から市川で分岐し、取手へ北上する常磐道ルートと習志野から外房と内房に続く道に分岐する。(ルート地図)。
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各ルート地図は現代の道路を利用した概略図で、いわゆる鎌倉街道とは必ずしも一致しない。
厳密な経路の確認は古道を紹介する様々なサイトがある。検索されたし。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建久十年
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明月記
(三左衛門事件)
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「明月記」の記述をベースにして概略を。更に詳細は 三左衛門事件 (Wiki) を参照されたし。
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1月11日に鎌倉から発せられた 頼朝重病の知らせは 18日には朝廷に届き、京都の情勢は不穏になった。
明月記は「怖畏逼迫の世か」と書き、猪隈関白記 (近衛家実 (Wiki) の日記) は「天下閑か (おだやか) ならず」と書き残している。
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頼朝死没の正式な連絡は1月20日に届いたが、更に前年の12月2日に 土御門 (源) 通親の養女 源在子が後鳥羽天皇の男児 (後の土御門天皇) を産んだ事によって 土御門 (源) 通親が朝廷の権力を掌握した。彼はその知らせを上奏せず、独断で臨時の叙目を行なった。自身の右近衛大将就任と、頼家の左近衛中将昇進である。
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頼朝死没が公になればこの叙目は凍結される。鎌倉の懐柔を目的とした頼家の昇叙と 自分自身の昇叙による権限掌握が共に延期となる可能性があり、その危険を避けて通親は緊急かつ強引な決断を下した。

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1月22日から京都には兵乱勃発の噂が流れ、通親は「いま外に出れば殺されるかも」と判断して院の御所に籠った。在京の御家人 梶原景季が襲撃情報を通親に伝えたためである(部分二件は愚管抄の記述)。
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洛中には厳戒態勢が敷かれ、2月11日には 源隆保 (Wiki) が自宅に武士を集めて謀議していたのが判明した。
翌日には鎌倉からの飛脚が到着して「幕府は通親を全面的に支持」 (頼朝死没直後の不安定を回避した) との方針が伝えられ、14日には 後藤基清、中原政経、小野義成の三名 (共に左衛門尉だったため騒動の通称を三左衛門事件とした) が謀議に関与した嫌疑で院の御所に連行された。
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翌日から関係者の追求が始まる。17日に 西園寺公経持明院保家 (Wiki) と源隆保が出仕停止、神護寺の 文覚が検非違使に拘束された。26日には急遽上洛した 中原親能が騒動の後処理を進め、京は平静を取り戻した。
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親能の上洛には在京御家人を沈静化させると共に、頼朝の次女 三幡 (乙姫) の乳母夫の立場で 頼朝が朝廷と続けていた三幡の入内交渉を進める目的もあった、らしい。
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三左衛門は鎌倉に護送されたが 幕府は「朝廷で起きた問題」として受け取らず京都に送還された。後藤基清は讃岐守護職を解任、残る二人の処分は記録に残っておらず 微罪で済んだ可能性がある。
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西園寺公経と持明院保家は蟄居、源隆保は土佐配流 (5/21 執行) 、文覚は佐渡配流 (3/19 執行) となった。
平家物語は「文覚が保護していた六代 (平維盛の遺児) が斬首された」と書いている。
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文覚がこの事件にどの程度関与したかは判らないが、毀誉褒貶の激しい人物が庇護者を失なった場合の典型的な結末である。通親の死後には赦免を受けて京都に戻るのだが、元久二年 (1205) に後鳥羽上皇の憎しみを受け、対馬流罪の途中の鎭西で死没する。目障りな連中を一掃した土御門通親の独裁は長く続くはずだったが、蹴落とした 九条兼実より 5年も早く、建仁二年 (1202) に急死してしまう (享年53) 。
頼朝が生きていれば兼実の復権もあり得たのだが...。
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富士宮市郊外にある伝 維盛の墓と、沼津千本松原の六代松 (六代の首塚) については参考としてこちら (別窓) に記載してある。
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   ※背景: 後藤基清と中原政経と 小野義成一条能保の郎党、西園寺公経は能保の娘婿、持明院保家は
能保の従兄弟で猶子、源隆保は母が熱田大宮司 藤原季範の娘で頼朝の姉妹 坊門姫 (能保の妻) の従兄弟で一条能保親子の引き立てを受けていた人物。
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「愚管抄」は、能保と嫡子の高能が相次いで没した上に後ろ盾の頼朝死没によって一条家が冷遇され、自分たちも零落する危機感を抱いたのが土御門通親襲撃を企てた理由、としている。
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   ※事後: 頼家への権力継承を支障なく済ませたい幕府は 大江広元を窓口にして事態の処理を図った。
広元は建久二年 (1191) に通親の推挙で明法博士と検非違使に任じており、長男の親広は通親の猶子になっているから交渉には適任である。一方で通親の側から考えると、幕府の協力を背景にして否応なしに不満分子を一掃できるメリットが大きかった。
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   ※更に: 建仁二年 (1202) 10月に通親が死没、建久九年 (1198) に長男の土御門に譲位して院政の強化に
着手した 後鳥羽上皇は事件関係者を赦免し能保の次男信能と 高能の三男頼氏を近臣に抜擢して管理体制を補強した。通親没後は通親の政敵まで抱き込んだ後鳥羽の圧倒的な独裁へ。この時点で後鳥羽の独走を諫める者はなく、承久の乱での破滅へ一直線に突き進む。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建久十年
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2月15日 丁丑
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吾妻鏡
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京都からの使者が到着して報告。去る一日の丑刻 (深夜2時前後) に 石清水八幡宮 (公式サイト) で火災があったが神殿や堂塔の被害はなかった。
また五日に予定した大原野 (左京区の地名、地図) での釈奠は関東の弔事によって延期された。
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   ※釈奠: 読みは「せきてん」、陰暦2月と8月の特定日に孔子と孔門十哲の画像を祀る儀式。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建久十年
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3月 2日 甲子
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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故 将軍 (頼朝) 四十九日の仏事が行われた。導師は大学法眼の行慈である。
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   ※行慈法眼: 文覚の弟子で明恵上人 (建久六年4月5日を参照) の師。同年8月9日には 稲毛重成の亡妻を
弔う法事で導師を務めている。吾妻鏡での初出は文治三年 (1187) 1月8日の「営中心経会」、文覚が 神護寺 (公式サイト) 再興のため京都に戻った跡を継ぎ、鎌倉の公式行事に携わっていた僧。ちなみに、稲毛重成の亡妻は 政子の異母妹だろう。
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建久四年 (1193) 3月13日、後白河法皇一周忌の千僧供養で、それぞれ百僧を従える十人の宿老僧の一人として登場している。この百人を奉行した一人が 二階堂行政だから...
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建久五年 (1194) 12月2日の条に「永福寺阿弥陀堂の寺社奉行は 中原親能と二階堂行政」との記載があり、この阿弥陀堂が行慈が住持していた仏堂だった可能性がある。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建久十年
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3月 5日 丁酉
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吾妻鏡
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後藤左衛門尉基清は今回の (三左衛門事件の) 罪科により讃岐守護職を解任され、後任に近藤七国平が補任される。幕下将軍 (頼朝) が定めた事例を改める、最初の決定である。
また故 将軍の姫君 (乙姫、字は三幡) が高熱の続く危険状態で、尼御台所 (政子) は各地の寺に読経を指示し、御所では一字金輪法の祈祷を行なっている。修しているのは大法師聖尊 (阿野少輔公と称す) である。
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   ※近藤七国平: 藤原秀郷から11代目の子孫。
曽祖父の景親が駿河権守に任じて島田に土着、その子息国澄 (近藤八) が伊豆に移住し平治の乱で 義朝に従って戦死した。国平は国澄の子として頼朝挙兵当初から配下に加わっている。
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治承四年 (1180) 8月20日の出陣リストの中に近藤七国平の名が見える。彼の本拠は確認できないが、古庄能直とは又従兄弟の関係とされるため相模国の愛甲郡から足柄上郡周辺と推測される。開成町 (地図) 辺りだろうか。
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右画像は先祖つながりで、秀郷が本拠を置いたと伝わる下野国 佐野の唐沢山遠景。
      画像をクリック→ 「唐沢山城址と秀郷の墳墓」へ( 別窓表示)
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   ※一字金輪法: 大日如来が説いた真言の一字を人格化した仏「一字金輪」を本尊とする密教の修法。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建久十年
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3月 6日 戊戌
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吾妻鏡
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今月から中将家 (頼家) 御当年の星祭を毎月行なうよう (京都朝廷の) 主計頭安部資元朝臣に命じた。
その内容は広元朝臣の命令書として雑色が京都に届けることになる。
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   ※当年の星祭: 個人の運命を司る当年星と、北斗七星など固定された本命星を祀る大乗密教の修法。
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   ※安部資元: 建久六年 (1195) 10月3日には天文と暦の分野を統括する陰陽寮の職員で天文博士として
載っているが、今日は主計頭 (租税の数量などを監査する主計寮の長) と書いている。御家人に準じて幕府の指示を受ける立場だが、命令の内容は主計寮の業務ではなさそうだ。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建久十年
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3月11日 癸卯
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮が先月に実施する予定だった神事を今日行なった。これは去る正月に幕下将軍 (頼朝) が没したため鎌倉中が触穢の状態にあり、神事を延期していたためである。
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   ※触穢: 穢 (けがれ) の状態。この場合は頼朝の死没による穢。「汚れ」ではなく「タブー」と解すべきか。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建久十年
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3月12日 甲辰
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吾妻鏡
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姫君 (乙姫) が日毎に憔悴し続けている。治療のため針博士の丹波時長を招いたが固辞して応じない。
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この時長は当世の名医として著名な人物なので重ねて要請の使者を京都に派遣した。更に断る場合は上皇に (派遣依頼を) 上奏せよと在京の御家人に命じた。
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   ※丹波時長: 宮内省で医療と調薬を担当する典薬寮長官を世襲した医師。承元元年 (1219) の実朝殺害後
に後継の四代将軍に就いた幼い 藤原頼経に従って息子と共に鎌倉に入り、侍医として将軍家に仕えている。固辞した理由は...既に乙姫に死の影を見てしまったか。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建久十年
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3月20日 壬子
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明月記
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夕刻に 文覚上人の流罪が決定。左中弁 (太政官左弁官局の時間) の告示である。 .
西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建久十年
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3月22日 甲寅
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吾妻鏡
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佐々木三郎兵衛尉盛綱法師が嘆願書を提出した。幕下 (頼朝) の時代に比べて零落している事、単に働きに対する恩恵の多少ではなく知行している所領まで没収の憂き目に会っており、天運を悔やむと共に理解に苦しんでいる状態、との内容である。
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   ※盛綱と子孫: この時は満48歳、頼朝死没の際に出家したらしいが、所領没収の理由は確認できない。
隠居した上野国磯部郷には館跡 (戦国時代の磯部城址、地図) があり、城址から 1km北の松岸寺 (安中市磯部町4-4、地図) には盛綱夫妻の墓と伝わる五輪塔二基がある。
ただし正応六年 (1293) の銘があるため、子孫による供養墓と思われる。
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建仁元年 (1201) 5月には鳥坂城で越後城氏の乱 (資盛坂額の籠城) を鎮圧して復権し、建仁三年 (1203) 10月には 後鳥羽院の院宣を奉じて兄 経高らと共に延暦寺衆徒を鎮圧、元久二年 (1205) 閏7月には時政の娘婿 平賀朝雅を京都で追討している。
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承久の乱 (1221年) の際は長兄 定綱の長男広綱、次兄 経高と長男高重、次男高兼らが京方に加わって滅亡するが、盛綱の次男信実は御所で 工藤祐経を傷つけて勘当され (建久元年 (1190) 7月20日を参照) 、そのまま関東に蟄居していた。
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30年後に信実は越後検断 (侍所所属の監督官相当職) に任じて復権し、承久の乱での北陸道の大将として鎌倉方を指揮、皮肉にも同族の広綱らを滅ぼす結果となった。恩賞として備前国守護に補任され、子孫は幕府の滅亡までその地位を続けることとなる。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建久十年
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3月23日 乙卯
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吾妻鏡
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中将家 (頼家) は特別の宿願のため伊勢神宮御領六ヶ所の地頭職を停止し、その中で謀反狼藉を行なう者があれば神宮の権限により捕縛し詳細を鎌倉に連絡するよう神主に指示を行なった。その詳細は下記の通り。
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またその中で尾張国一楊御厨で神宮から派遣した管理官が地頭を追い出し、その取り分を没収したとの報告が届いた。右大将 (頼朝) 逝去直後の狼藉は著しく遺憾である、詳細を確認せよとの命令が下された。
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伊勢神宮御神領の  遠江国蒲御厨  尾張国一楊御厨  参河国飽海本神戸  新神戸
大津神戸    伊良胡御厨惣追補使
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   以上の各地に配した地頭は特別の祈願のため職を停止する。鎌倉中将殿の御意向により通知する。
                建久十年三月二十三日    兵庫頭 大江 広元  伊勢神宮祭主 殿
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   ※遠江国蒲御厨: 浜松市東区神立町一帯、地図) 、蒲冠者範頼が育った土地でもある。
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   ※尾張国一楊御厨: 名古屋市中川区一柳通の庄内川東岸 (地図) 。
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   ※参河国飽海本神戸: ー豊橋市飽海町の安久美神戸 (地図) 。安久美神戸神明社 (Wiki) を参照。
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   ※大津神戸: 愛知県豊橋市老津町の古名が大津 (地図) 。新神戸の地名は資料では確認できないが本神戸
と大津神戸の距離は約10kmなので、その周辺だろうと思う。
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   ※伊良胡御厨惣追補使: 渥美半島先端に800年代中盤に創建した 伊良湖神社 (愛知県の紹介) がある。
御厨は渥美半島西部か。文治元年 (1185) 11月に 義経追捕の名目で 地頭職と共に設置の勅許を得た軍事検察官が惣追補使。
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   ※地頭職停止: 幕府の既得権放棄になると思うが「特別の宿願」の内容が不明。頼家の資質を貶める効果
を狙った曲筆の可能性もあり、関連する史料を捜したい。判ったら追記する。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建久十年
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4月 日
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北條九代記
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文覚上人が佐渡国に流罪となった。 .
西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建久十年
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4月 1日 壬戌
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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問注所を幕府の外に移すことになった。問注所執事 (長官) は大夫属入道 三善康信である。
故将軍 頼朝の時代には御所の一角に訴訟の関係者を呼んで審議していたのだが、騒々しい上に無礼な行動をする者まで現れたため移転させる検討をしていた。
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そこへ 熊谷直実久下直光が所領の境界を争って対決し、憤激した直実が西の侍所で髻 (もとどり、まげ) を切り落としたまま出奔する事件が勃発した。その後は御所内での問注所運営を中止し、康信の家で実施していた。今回、そこから再び移転するための新設である。.

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   ※幕府の外へ: 最初の設置は元暦元年 (1184) の10月20日で
「御所東側の二間を利用」 との記載があるが建久十年までの問注所は康信の家なのだから「幕府の外に移す」 は正しい表現ではない。
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   ※境界の争論: 建久三年 (1192) 11月25日の事件。熊谷直実
は関係書類を投げ捨てて出奔し、翌年には出家を果たしている。法然上人絵伝 (Wiki) に拠れば出奔後の直実は 伊豆山権現 (別窓) で浄土宗の信仰者と接触し法然上人に帰依するよう勧めたのだが」 との証言もある。
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ただし門注所でのトラブルは吾妻鏡編纂者の脚色と考える説もあり、「あの男ならやりかねない」程度の話だったのかも。鎌倉駅西側、御成小学校筋向いの今小路沿いに「問注所旧跡碑」が建っている (地図) 。  上は碑の遠景。クリック→ 別窓で拡大表示
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   ※新 問注所: すぐ近くには佐助川に架かる 裁許橋があり、
重罪人は橋を渡って東側奥の刑場へと曳かれたらしい。刑場は後に龍ノ口などに移転したが刑場の跡地は 「飢渇畠」 と呼ばれて嫌悪され作物も実らなかったと伝わっている。
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その罪人の後生を弔ったのが由比ヶ浜通りと今小路の交差点に立つ 六地蔵 (地図) で、更に詳細は 和田塚 (別窓) の項に記載してある。
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問註所→ 裁許橋→ 飢渇畠→ 六地蔵...そんなおぞましい現実がここにあった。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建久十年
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4月12日 癸酉
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吾妻鏡
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訴訟の決裁に関し、今後は羽林 (近衛府の中将と少将の唐名=頼家を差す) による直接の決裁を停止し、今後の事例については 北條時政、北條義時、大江広元、三善康信、中原親能 (在京) 、三浦介義澄、八田知家、和田義盛、比企能員、安達盛長、足立遠元、梶原景時、二階堂行政が談合して決裁する。その他の者は訴訟の決裁に関与してはならない。
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   ※権限縮小: 将軍頼家の権限縮小を象徴する 「宿老13人による合議制」 のスタートである。
もちろん主導者は北條時政、この段階の義時 (満36歳) は時政のサブだが、同族で二人が参加するのは北條氏のみだから、方向性は容易に想像できる。メンバーは下記の通り。
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有力御家人が九人、北條時政北條義時比企能員和田義盛梶原景時足立遠元
三浦介義澄八田知家安達盛長
そして 京下りの実務官僚が四人、大江広元中原親能二階堂行政三善康信
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13人から除外された源氏門葉と 古参の実力派御家人は以下、取捨選択の理由が判るね。
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足利義兼大内惟義平賀義信毛利頼隆毛呂季光山名義範里見義成武田信光加賀美遠光小笠原長清、 この11人が源氏関連で、以下の 7人が古参の有力御家人。
千葉胤正畠山重忠宇都宮朝綱小山朝政結城朝光佐々木定綱葛西清重
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吾妻鏡を読む限りでは、頼朝没後の頼家の決裁は3月23日に 「伊勢神宮の神領を管理する地頭の権限を停止した」 件の他には見当たらない。本来の最高権力者が就任二ヶ月で権限停止とは、明らかに異様である。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建久十年
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4月20日 辛巳
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吾妻鏡
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梶原平三景時と 右京進中原仲業が差配して政所に壁紙 (告知の貼り出し) を掲示した。内容は次の通り。
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小笠原弥太郎、比企三郎、同弥四郎、中野五郎ら将軍近臣は鎌倉で狼藉を行なってもこれに敵対すれば罪科に問う旨を市中に周知させよ。また、この五人以外は、許可なく将軍への拝謁を許さない。
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画像 右上は 民家の建て替え工事中に発見された政所跡と周辺の鳥観図。家屋の密集地なので史跡の範囲は確定できない。
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画像 右下は 表通り (六浦道) の 「あおば薬局」 外壁に取り付けた政所跡の小さな表示板。近くを通ったら確認するのも一興か。
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   ※小笠原弥太郎: 長清の長男長経。8月19日には頼家の命令に
従って甘縄の 安達盛長邸を包囲している。
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建仁三年 (1203) 9月の比企の乱では与党として拘束されたが罪に問われなかったため「時政の配下」説もある。家督相続は弟の時長だから処分を受けた可能性もあるか。
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   ※三郎と四郎: 比企能員の次男 三郎宗員と三男の弥四郎時員。共に比企の乱で討ち死にしている。
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   ※中野五郎: 信濃国志久見郷 (長野県東北端にある栄村 (地図)
を本領とした武士。建仁三年 (1203) 9月の比企の乱後に拘束され所領没収と遠流の処分を受けたが、実際には時政の指示で所領安堵と免税の恩恵を受け、流罪も行われていない。
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比企一族と頼家の行動などを時政に報告する任務で、彼の曖昧な処分は吾妻鏡曲筆の一つと考えるのが概ね定説になっている、らしい。
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   ※この五人: 何回数えても四人だ。比企の乱の際に与党として
拘束した細野兵衛尉 (頼家の蹴鞠仲間) を吾妻鏡の編纂者が書き漏らしたのかも...しかし頼家の行動も稚拙だね。まともな帝王教育なんかしてなかったんだろう、と思う。自分が17歳の頃を思い出すと顔から火が出るけどさ。
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ただし、 「頼朝死没から三ヶ月の間に頼家が鎌倉将軍に相応しくない行動をとった記録」 が吾妻鏡を始めとする史料には見当たらない、その事実には留意が必要だ。
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実質的に失脚する建仁三年 (1203) 7月までには幾つかの愚かな行動は記録されているが、最初の三ヶ月には少なくとも「権限を縮小すべき」に相当するだけの暴走はしていない。
忖度と隠蔽に満ちたの吾妻鏡編纂者も、そこまでの曲筆はできなかった、か。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建久十年
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4月23日 甲申
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吾妻鏡
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故 将軍 頼朝 百箇日の供養である。御持仏堂に於いて法事を執り行なった。新しく描いた釈迦如来と阿弥陀如来の絵像各一幅を飾って読経したのは法華経六巻、導師は 荘厳房行勇 (退耕行勇) が務めた。
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   ※持仏堂: 文治五年 (1189) 7月18日の奥州出陣の前に次の記載がある。
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頼朝が伊豆山権現の住僧専光房を呼び、「奥州征伐のため内密の立願をしている。汝は戒律を厳しく守る僧として、私が留守中の鎌倉で祈祷に従事せよ。出陣して20日目に大倉亭の裏山に私の念持仏である正観音像を祀る堂を建てよ。工匠に任せず自ら柱のみを建てれば良い、造作については改めて沙汰を下す。
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更に 建久六年 (1195) 10月21日の吾妻鏡の記事。
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頼朝御持仏堂の造営が始まった。奉行は左近将監 大友能直と左京進 中原仲業、将軍家も来臨した。 との記載がある。
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今回の持仏堂は本格的な造作である。生前の持仏堂は後に頼朝を葬って法華堂となり、その法華堂が明治初期の神仏判然令神に伴って独立したのが現在の白旗神社 (右画像) である。
 右画像をクリック→ 頼朝墓所の詳細 (別窓) へ。
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石段の上の 通称「頼朝の墓」は 安永八年 (1779) に頼朝の子孫を僭称する八代薩摩藩主の島津重豪が裏山を開削し、勝長寿院跡の廃墟から移設した古い供養墓を修復して整備したもの。歴史の裏付けは皆無、頼朝の墓を称する根拠はゼロだ。
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   ※行勇: (退耕行勇) 、北條泰時の菩提寺である 常楽寺 (別窓) や、約140年後の幕府滅亡と共に北條一族
が自刃する 東勝寺足利義兼が創建した 浄明寺 (Wiki) など、創建の開山和尚を務めている。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建久十年
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4月27日 戊子
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吾妻鏡
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関東各国の地頭に命じて水に恵まれている荒地を新たに開墾せよとの沙汰が下った。また、土地が痩せているとか不作とかを称して年貢を減らすのなら所領として認める必要はない旨を定めた。大江広元の差配である。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建久十年
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4月29日 庚寅
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明月記
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改元との情報あり。建久十年を改めて正治元年と。
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   ※改元: 公式の日付は 4月27日とされている。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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5月 7日 戊戌
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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‬医師の丹波時長が左近将監 大友能直に伴われ、伊勢路を経て昨日鎌倉に入った。宿舎などについては兵庫頭 大江広元八田右衛門尉知家が手配せよとの指示を受けている。
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今日、亀谷にある掃部頭 中原親能の家から南御門に近い 畠山重忠の家に移った。御所の近くに待機して 乙姫の治療に当たるためで、再三辞退していたが早く関東に参向せよとの院宣が先月に下されたためである。
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   ※伊勢路経由: 京都から東海道を外れて伊勢路を辿ると相当の廻り道になる。頼朝伊豆流罪の際にも
使われた伊勢の港 阿濃津 経由の海路だと思う。
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阿濃津は室町時代の1498年に起きたM8.6クラスの明応大地震に伴う津波で壊滅、その後の港湾機能は現在の松阪港周辺に移ったらしい。
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   ※亀谷: 扇ヶ谷と山之内を結ぶ亀ヶ谷坂切通しを想像する。鎌倉時代初期に「鶴岡」に対する「亀谷」から
始まった呼称で、後に「扇のように広がった谷」から扇ヶ谷となった、と思っていたが、実際には 扇の井が原典らしい。甲府市の中心部にも「北の舞鶴城と南の遊亀公園」という洒落た対比があるため同じパターンだと決めつけてしまった。一條忠頼の史跡を参照されたし。
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   ※重忠邸: 屋敷跡の碑は八幡宮東鳥居の前 (画像) にあり、碑文にも「時長は親能の家から南御門の重忠
邸に」と刻まれている。一説に「重忠邸は南御門の八田知家邸と隣接」(こちらの画像の「横大路」 の付近) とあり、何とも言えない。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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5月 8日 己亥
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吾妻鏡
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時長が初めて朱砂丸を姫君に服用させた。これによって砂金二十両などの褒賞を得た。
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   ※朱砂丸: 現代でも漢方薬として使うらしい。詳細は こちら、一時的な対症用だろう。
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   ※砂金20両: 律令制の一両は 41gほど、20両 (820g) は2021年11月の相場で620万円。
ただしこれは当時の金の実質的価値を表す数値ではない。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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5月13日 甲辰
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吾妻鏡
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北條時政殿、三浦介義澄、三浦十郎左衛門尉 (佐原義連) 、八田右衛門尉知家梶原平三景時らが毎日交代して医師時長の饗応を命じられた。今日の担当は北條時政による椀飯 (接待用の食事) である。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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5月16日 丁未
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吾妻鏡
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丑刻 (深夜2時前後) に大きな地震あり。
今日、参河国薑御厨と橋良御厨の地頭職を停止し伊勢神宮に寄進した。兵庫頭 大江広元の差配による。
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   ※薑御厨: 豊橋市仁連木町 (地図) 。室町幕府陪臣だった戸田一族が築いた二連木 (にれんぎ) 城があり、
その西側に二連木城の一部 (家老屋敷跡) と伝わる薑郷 (しじかみごう) 城址がある。
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城が建っていた河岸段丘を含む豊川の南岸一帯が薑(はじかみ)御厨だった。
薑 (はじかみ) は山椒の古名だが 「はじかみ」が「しじかみ」に変わった理由や時期は不明。北側から見た 丘陵の鳥瞰図 (別窓) も参考に。
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   ※橋良御厨: 仁連木の 5km南の豊橋駅近くに柱 (橋良) の地名が残る。柱七番町の橋良神社 (地図) には
頼朝が建久九年 (1194) に神領を寄進し、正治二年 (1200) には安達盛長が桧の苗千本を寄進したとの社伝が残っている (吾妻鏡には記載なし) 。
盛長は正治元年 (1199) まで三河守護に任じているし、墓所の一ヶ所は橋良から 20km北西の蒲郡 長泉寺 (参考サイト) にあるのも理解できる。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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5月17日 戊申
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吾妻鏡
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勝長寿院別当の恵眼房が京都に向かった。中将家 (頼家) が馬を贈与し、他の人々も餞別を贈った。
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   ※恵眼: 文治元年 (1135) 9月 3日の吾妻鏡に「深夜、故 義朝の遺骨が (鎌田政清の首を添えて) 恵眼房と
専光房の差配により 南御堂の地に葬られた。」との記載があり、文治二年 (1186) 1月 8日には
「御所で般若心経会、供養の僧は八幡宮別当法眼と大法師源信、恵眼ら...」との記載がある。
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恵眼房は神護寺に於ける 文覚の愛弟子で、文覚の帰洛後は鎌倉の仏教を主導する立場だった。今回の帰洛は師 文覚の佐渡流罪に対応した行動だろう。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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5月22日 癸丑
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吾妻鏡
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丑刻 (午前2時前後) に由比ヶ浜近くの火災で民家 30余りが焼失、この中には 平民部大夫盛時、中澤兵衛尉 と飯富源太らの家も含まれている。
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   ※中澤兵衛尉: 熊谷直実と所領の境界を争った武士 久下直光の祖父が中澤を称した、との記載がある。
武蔵国大里郡付近の出自か。
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   ※飯富源太: 上総国望陀郡飯富庄 (現在の袖ケ浦市飯富、地図) を本領とした武士。始祖は源太宗季とも
彼の祖父で 源義家の孫 忠宗とも言われる。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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5月22日 癸丑
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明月記
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伝聞情報、前左馬頭 源 隆保 ( Wiki) が昨夜土佐国に配流となった。夜中に出京した、と。
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   ※源隆保: 三左衛門事件に関与して罪を問われた。4月冒頭の明月記、三左衛門事件を参照。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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5月29日 庚申
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吾妻鏡
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今夕、姫君 (乙姫) が少しだけ食事を摂り、これによって人々が大いに喜んだ。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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6月 2日 壬戌
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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法橋 定豪が勝長寿院の別当職に補任された。恵眼房の譲与である。
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   ※恵眼房: 5月17日、師 文覚の佐渡流罪に対応するため別当を辞して京都に向かっている。
文治元年 (1185) 8月30日に文覚に従って 義朝主従の遺骨を鎌倉に運んで葬礼を差配し、10月24日に落慶供養を催した勝長寿院の初代別当に任命された。
頼朝政子が深く帰依していた高僧である。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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6月 8日 戊辰
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吾妻鏡
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主計頭安部資元朝臣の使者が京都から到着、中将家 頼家の御当年星祭は先月23日に行なったと報告した。
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   ※安部資元: 今年の3月6日に星祭について鎌倉からの指示を受けている。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建久十年
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6月14日 甲戌
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吾妻鏡
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姫君 (乙姫) の病状が悪化し、去る12日から御瞳が反転する凶相を呈している。
医師の時長は驚愕し、「既に手当しようがない、人力の及ぶところに非ず」と語った。
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   ※瞳が反転: 白眼剥き出しの状態になった、という事か、可哀そうに。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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6月25日 乙酉
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吾妻鏡
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掃部頭 中原親能が姫君危急のため京都から鎌倉に駆けつけた。洛中で重要な業務があったため遅参した、と。
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   ※中原親能: 乙姫の乳母夫 (妻 (波多野経家の娘) が乙姫の乳母)に任じている。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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6月26日 丙戌
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吾妻鏡
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医師の丹波時長が鎌倉を発って帰洛の途についた。中将家 頼家から馬五疋と旅程の手配および荷物を運ぶ人夫20人と国衙の雑色二人と護衛する兵士が付与された。また兵庫頭 大江広元らも馬を贈った。
暫く前に帰洛の許可を得ていたのだが、中原親能の到着を待つため今日まで出立を延期していたものである。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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6月30日 庚寅
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吾妻鏡
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午刻 (正午前後) に姫君 (三幡 数え14歳) が崩御、尼御台所が悲嘆に陥った。諸人の嘆きも筆舌に尽くし難い。乳母夫の掃部頭中原親能は 定豪 法橋を戒師として出家を遂げた。今夜戌刻 (20時前後) 、姫君の亡骸を親能の亀谷邸にある持仏堂の傍らに葬った。
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江間 (北條義時) 殿、兵庫頭 大江広元小山左衛門尉朝政三浦介義澄結城七郎朝光八田右衛門尉知家畠山次郎重忠足立左衛門尉遠元梶原平三景時宇都宮弥三郎頼綱 (素服 (喪服の一種) を着さず最後列に) 、
佐々木小三郎盛季、籐民部丞 二階堂行光らが素服で参列した。
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   ※定豪法橋: 許しを得て6月2日に帰洛した恵眼房に勝長寿院の
別当職を譲られている。
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   ※中原親能邸: 5月7日に書いた通り、亀ヶ谷は現在の扇ヶ谷を
差す。親能邸の位置は不明なのだが 右に載せた岩船地蔵堂が乙姫の墓所と推定されたのは親能邸が亀ヶ谷にあった事が一つの理由らしい。
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吾妻鏡の原文は「今夜戌剋姫君奉葬親能亀谷堂傍也...」だから亀谷堂 (岩船地蔵堂、地図) を差しているのではなく「傍ら」なのだが、この
「離隔距離」が判らない。薬王寺の辺りなのか、或いは高台の冷泉為相 (十六夜日記を書いた阿仏尼 (別窓で紹介 を参照) の息子) の墓付近と考える説もある。まぁ幾ら考えても結論なんか出ないのだけれど。
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  右は乙姫墓所説もある旧 岩船地蔵堂(現在は新築)。クリック→ 別窓の明細へ 。
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   ※佐々木盛季: 佐々木盛綱の三男。近江国浅井郡野村庄 (現在の長浜市野村町の一帯、地図) を相続し、
建仁三年 (1203) 10月の比叡堂衆との戦いで負傷して死没 (佐々木氏系図による) 。子孫は野村氏を称している。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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7月 6日 丙申
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吾妻鏡
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雷雨。亀ヶ谷の 中原親能邸に 尼御台所が渡御され、墳墓堂に於いて姫君 (乙姫) の初七日法事が行われた。
導師は八幡宮寺の阿闍梨筆頭の尊暁である。
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   ※尊暁: 話せば長くなるけど (笑) ...義家の娘と 皇太子になり損なった輔仁親王の間に産まれて園城寺
(三井寺) で出家したのが法眼行恵。頼朝が鶴岡八幡宮の初代別当として招聘したのが行恵の子 圓暁、正治二年 (1200) に圓暁の跡を継ぐのが弟の尊暁である。この時点では別当補佐レベルの職責だろうか。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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7月10日 庚子
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吾妻鏡
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夜になって参河国から飛脚が到着して報告、室平四郎重広が仲間を率いて宿驛を襲い武力を以て強盗や窃盗を犯している。庶民はこの被害を受け、国内が落ち着かない状態である、と。
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   ※参河国: 三河国に同じ、現在の愛知県東部。この年の7月以前に 安達盛長が守護職に任じているが、
正確な任命の日付は確認できない。室重広は三河の地侍だろうが素性は不明、調べる必要もなさそうだ。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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7月16日 丙午
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吾妻鏡
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安達弥九郎景盛が使節として参河国に出発した。重広の違法行為糺断が目的なのだが景盛は頻りにこの任務を固辞していた。この春に京都から呼び寄せた女と離れたくないからだろう。しかし参河国は父の盛長が守護職に任じており、任務の忌避は許されないとの命令が下され、遂に出発を余儀なくされた。
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   ※景盛派遣: 頼家はこの4日後に景盛の愛妾を拉致してるんだから明らかに計画的だ。こんな羨ましい、
じゃなくて馬鹿やってる場合じゃないが、頼家を貶める吾妻鏡の曲筆の可能性もある。
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ところで、景盛の生年も不詳なのは困ったものだ。父は 盛長で生母は正妻の 丹後内侍、つまり彼女が母親の 比企の尼と共に 頼朝を庇護する目的で武蔵国に下向し盛長に嫁したのが多分1162年頃、従って産まれたのは1165年前後...と仮定すると宝治二年 (1248) に没した時は 83歳ほどで概ね計算は合う。妾を頼家に奪われたのは35歳頃か。
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でも嫡子義景が1210年生まれだから、45歳で長男が産まれたと言うのも違和感があるし。要するにデータ不足で判んねぇや。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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7月20日 庚戌
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吾妻鏡
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早暁の頃、中将家 (頼家) が中野五郎能成を派遣して強引に景盛の妾を連れ出し、小笠原弥太郎長経の家に囲ってしまった。日頃から強い恋慕の思いがあり、再三使者を送ったのだが良い返事が得られないため強引な行為に及んだ。御寵愛は殊に激しい。
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   ※頼家の側近: 中野能成と小笠原長経については4月20日にコメントを追加してある。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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7月23日 癸丑
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吾妻鏡
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仙堂 (後鳥羽上皇) の使者 左衛門少尉信季が鎌倉に到着。姫君 (乙姫) の弔問が目的である。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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7月25日 乙卯
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吾妻鏡
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左衛門少尉信季が鎌倉を発って帰洛の途についた。尼御台所 (政子) は 二階堂行光を派遣して砂金三十両を、
羽林 (頼家) も比企三郎宗員を使者として龍蹄 (大型の駿馬) を五疋贈った
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   ※砂金三十両: 律令制の一両は41g、30両 (1230g) は2025年10月のレートで 2,700万円。
ただしこれは当時の金の実質的価値を表す数値ではない。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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7月26日 丙辰
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吾妻鏡
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夜に入り、小笠原長経の家に囲っていた景盛の妾を呼び出して御所北側の一画で暮らすよう定めた。寵愛が甚だしいためである。また小笠原弥太郎長経、比企三郎宗員、和田三郎朝盛、中野五郎能成、細野四郎の五人以外は近付いてはならないと定めた。
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   ※頼家の側近: 小笠原長経、比企三郎宗員、中野能成、細野四郎は4月20日の記載を参照。和田三郎朝盛
義盛の孫 (父は義盛の嫡男 常盛) 。常盛は承安二年 (1172) の誕生だから満27歳、和田合戦に敗れて横山時兼らと甲斐に逃れ自害 (42歳) する。
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朝盛は生年不詳だが13歳前後、和田合戦では生き延びたが 承久の乱 (1221年) では朝廷側に与して敗北後に逃亡し嘉禄三年 (1227) の捕縛後は消息不明になった。死没だろう。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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8月15日 乙亥
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吾妻鏡
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晴。鶴岡八幡宮で放生会が行われた。中将家 頼家の御参席はなく、兵庫頭 大江広元朝臣が衣冠束帯徒歩で代理の参拝を行なった。家子 2人と郎党 20人が従い、中将家の小舎人が前を進んだ。
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   ※頼家欠席: あと一ヶ月で満17歳。性欲だけ一人前のバカ息子が暴走してるような状態で、事態解決の
戦略も持たず、補佐できるブレーンもいなかったんだろうね。頼朝は溺愛、政子は無関心で頼家に接したか。現代なら SNSとスマホとゲームだけが生き甲斐の愚かな悪ガキか。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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8月16日 丙子
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吾妻鏡
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馬場での流鏑馬などの神事は通例通り。和田左衛門尉義盛梶原平三景時が子息や郎従を率いて八幡宮一帯を警固した。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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8月18日 戊寅
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吾妻鏡
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安達九郎景盛が参河国から帰還して報告。数日間参河国に留まって郎従を各地に派遣し重広の行方を捜索したが既に逐電して確認できないため帰還した、と。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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8月19日 己卯
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吾妻鏡
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妾女の事について、景盛がこれを恨んでいると告げ口をする者がいた。それを聞いた頼家は小笠原長経、和田朝盛、比企三郎宗員、中野五郎能成、細野兵衛尉らを呼んで景盛の追討を命じた。
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夜になって小笠原長経が軍備を整えて籐九郎入道蓮西 (盛長の法名) の甘縄邸に赴き、鎌倉中の御家人が武装して集結した。尼御台所 政子は急遽盛長の屋敷に入御し、二階堂行光を介して頼家に申し入れた。
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前の将軍が崩じて間がない上に 乙姫 (三幡) も早世した。その悲嘆の中で合戦を考えるのは乱世の始まりである。まして景盛は故 頼朝将軍の寵臣であり、もし罪科があるならば私が調べた上で処断する。
調査もせずに殺しては必ず後悔するだろう。それでも追討するのなら、まず私が矢を受けよう。
と。
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頼家は渋りながらも軍兵を止めざるを得なかった。鎌倉中の騒動で、まさしく人々が恐れる事態を招く危機だった。大江広元「鳥羽上皇 (正しくは白河上皇) の時代に同様の事件があった。祇園女御は源仲宗の妻だったが院に召され、その後に仲宗は隠岐国に流されてしまった。」と語った。
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   ※同様の事件: 中宮賢子が没した後の 白河天皇 (共に Wiki) は身分を問わず多数の女性と関係を持ち、
更にその女性を次々に寵臣に与えるという行為を繰り返した。
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清盛の父 忠盛は寵妃の一人である祇園女御の妹を妻にし、祇園女御は妹の産んだ清盛を猶子とした。この経緯から「清盛は白河院の子」との噂が広まっている。
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   ※源仲宗: 従四位下筑後守の官人で祇園女御の元の夫。白河院を呪詛した嫌疑で讃岐に流された。
話は憶測や噂の類が多く信憑性はかなり眉唾だが、乱倫の風潮は珍しくなかったらしい。
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   ※吾妻鏡の意図: 政子と安達氏の結束を強調する一方で頼家の横暴を際立たせ、景盛の生母 (丹後内侍)
の実家比企氏が「無能な暴君頼家に与した比企氏」の卑劣と非道を強調している。
つまり頼家の無能と暴虐にはそれなりの捏造もあると判断するべきだろう。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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8月20日 庚辰
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吾妻鏡
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尼御台所 (政子) が 安達盛長入道の甘縄邸に留まっており、景盛を呼んで語り掛けた。
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昨日は頼家を説得して取り敢えず制止したが私も既に老境にあり、今後も抑えるのは困難である。まず、羽林 (頼家) に逆らう意思を持っていない旨の起請文を提出せよ。と。
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景盛はこの言葉に従って直ちに起請文を書き、尼御台所はそれを頼家に献じると共に諌める言葉を伝えた。
使者は兵衛入道 (佐々木三郎盛綱) である。
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景盛を討とうとした行為は軽率であり道理を弁えていない。治安にも政治にも寄与することがなく享楽に明け暮れて非難の言葉を顧みず、愚かで邪 (よこしま) な者だけを召し使っている。
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源氏は幕下 (頼朝) の一族で北條は私の親戚、故 将軍は双方を近くに置いてその言葉に耳を傾けていた。それなのに今では見境なしに (官職ではなく) 実名で呼びつけるため不満が満ちていると聞く。何事にもきちんと準備して対応すれば末代まで秩序の乱れが起きないものだ。
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   ※北條の意図: 頼朝存命中 (1199年1月以前) の建久九年 (1198) に 比企能員の娘 (若狭局) が頼家の長男
一幡を産んでいる (吾妻鏡欠落のため何月かは不明) 。
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子煩悩の頼朝が初孫の誕生に歓喜したのは確実で、頼朝→ 頼家→ 一幡と続く鎌倉殿の血脈は確立し、将軍外戚筆頭の地位が北條氏から比企氏に移るのが既定路線になった。つまり、頼家を排除しない限り北條一族は二流御家人に甘んじる時代を迎えてしまう。
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時政政子義時連合がそのように考えたのは容易に想像できるし、頼朝没後の行動が彼らの合意に基づいて推移した、と考えるのは当然の帰結になる。
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私は 「歴史の偶然」 など信じない主義なので、一幡の誕生に始まって→ 頼朝の事故死→ 頼家の継承→ 権限縮小→ 失脚と比企氏滅亡...が時政の「願った通り」に推移した、と考えている。
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「頼朝の死」は明らかな事故死だったとは思うが、動機だけ考えれば時政が最も有力な容疑者である。時政の心の中に頼朝殺害の誘惑が芽生えたと考えても不思議はない。
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   ※呼称について: 例えば頼朝の妻を「政子」と称したのは従三位に叙された建保六年 (1218) の一度だけ
で、しかも公文書に名前を書く必要がっあったため父親 時政の一字を便宜上流用しただけ。また藤原行政一族が姓を「二階堂」と称したのも永福寺 (二階大堂) が完成した建久三年 (1192) 11月以降だし、広元が戸籍上の中原から「大江」への改称を許されたのは建保四年 (1216) に陸奥守に任じてから、である。
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その他にも同様の事例が多数あるが、取り敢えず 政子と二階堂と大江に関しては、歴史上の事実を無視して便宜上最も一般的な通名を採用している。 これは便宜上の略称であって不勉強が理由じゃないからね。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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9月 9日 戊戌
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の神事である。大江広元朝臣が奉幣の代参として参席した。
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   ※鶴岡神事: 毎年9月9日に開催する重陽節。吾妻鏡に拠れば最初の記載は1186年、続いて87年、91年、
95年に開催の記録があるが、その他には見当たらない。もちろん開催の有無と記載の有無は関係ないかも知れないけど。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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9月17日 丙午
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吾妻鏡
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京都大番役について 勤務態度が怠慢との苦情が届いているため諸国の守護人に注意を促した。大江広元朝臣、および 梶原景時がこれを差配した。
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   ※大番役: 経費は自己負担の京都警護職。平安時代末期まで3年間、頼朝の時代は半年に短縮された。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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9月23日 壬子
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吾妻鏡
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中将家 頼家が永福寺に渡御した。蹴鞠を予定していたが降雨のため中止して 和田左衛門尉義盛に入御し力自慢の者を召し出して相撲の勝負に興じた。
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   ※義盛邸: 八幡宮三の鳥居の前付近と伝わっている。この辺 (地図) らしい。当時も今も一等地だ。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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9月25日 甲寅
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吾妻鏡
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神馬 (鹿毛駮、秘蔵の駿馬で白鞍を置く) を諏方上宮に寄進した。下宮には御劔 (黄金造り、亀甲紋) である。
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   ※諏方宮: 諏訪大社の上社は諏訪湖南側の中洲 宮山 (地図) 、下社
は諏訪湖北側の諏訪郡下諏訪町 (地図) にあり、どちらも広い無料駐車場を備えている。
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まず下社横の 新鶴で塩羊羹を買ってから 宮坂醸造に寄って地酒の「真澄」を買って、試飲を楽しんでから上社に参拝するのが信濃旅行の習慣だったが...
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もう20年以上ご無沙汰している。
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右は下社の杜を背にした新鶴本店。
      画像をクリック→ 別窓で拡大表示

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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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9月26日 乙卯
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吾妻鏡
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御所に於いて不動明王像の落慶供養を催した。導師は葉上房律師 栄西、布施は被物五重と裹物五つおよび馬一疋である。この像は奈良で造像し掃部頭 中原親能が差配して鎌倉に運んだものである。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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10月24日 癸未
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吾妻鏡
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伊勢神宮に寄進した荘園が参河国内に六ヶ所ある。その伊勢神宮神官から「守護に任じている 安達籐九郎 (入道蓮西) の代官 善耀が押領を行なった」との訴えがあり、大江広元朝臣を奉行として蓮西に聴取したところ、
「この六ヶ所は租税免除の処理を行なって一切の権限を含めて寄進したため関与せず」との報告が届いた。
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その書状を御教書に添えて神宮に送付した。権限放棄後に業務の妨げなどできない、と記載してある。
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   ※御教書: 三位以上の公卿または将軍の命を奉じてその部下が出した文書。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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10月25日 甲申
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吾妻鏡
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結城七郎朝光が御所の控えの間に詰めていた際に、夢のお告げを得たと称して提案した。
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幕下将軍 頼朝を供養するために各人が阿弥陀の称号を一万回唱えよう、と。
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各人が唱えている間に朝光は列座している御家人に語り掛けた。
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忠臣は二君に仕えずという。幕下に多大な恩を受けながら遷化の際の遺言に従って出家を遂げなかったのが悔やまれる。今の世の中を見ると、まるで薄氷を踏むような思いがする。
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朝光は右大将軍に仕えた無双の近臣だから懐旧の思いが深いのだろうと感じて、聞いていた者は涙を流した。
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   ※遺言: これは何度も読み返しながら見落とした情報だった。
原文は「遷化刻有遺言之間不令出家遁世之條後悔非一」
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頼朝の遺言は存在したのだが「出家しちゃダメ」程度の文言だけを残して北條一族の望まない部分、つまり「将軍職を継ぐ頼家に忠義を尽くせ」だとか「嫡孫の一幡を守り抜け」だとかの文言は消されてしまった。
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ベター・ハーフの政子と舅の時政による遺言書の意図的廃棄の可能性も出てきたわけで。もっと早く大声で言ってよ、朝光君! 吾妻鏡に触れてから何年も見落としていた私もドジだったが。 右は結城氏菩提寺・称名寺の朝光の墓石(クリック→ 拡大表示)。
    更に詳細は 結城七郎朝光の旧跡 (別窓) へ。

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折角 筑西市 (隣が結城市、その隣が小山市) に転居したのだから寒河尼の墓所 (小山市称念寺) 、小山朝政の墓所 (加須市徳性寺) 、小山城址などを追加巡回して訪問記を載せたいと思う。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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10月27日 丙戌
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吾妻鏡
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御所女房 (女官) の阿波局結城七郎朝光に次のように告げて注意を促した。
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あなたは 梶原景時の讒言によっては誅戮を受けようとしている。「忠臣は二君に仕えず」と語って現在の治世を貶めるのは不忠であり仲間が増えないうちに処断すべきである、と具申している。もうこの災厄を避けられないかも知れない。
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これを聞いた朝光は思い悩んだ末に、緊急の用事と称して親友の前右兵衛尉 三浦義村の家を訪ねて相談した。
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私は死んだ父の 小山政光から遺領を継がず、幕下将軍に仕えて初めて数ヶ所の所領を得た。その深い恩を考えて「忠臣は二君に仕えず」と言ったのにそれが景時による讒訴の口実になり、逆賊の扱いを受けて討伐されようとしていると教えられた。ただの述懐が重罪を招いてしまうとは...
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義村はそれに答えて話し合い、次のように結論を出した。
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局面は重大である。しっかりと計画しないと災いは避けられない。文治の頃から景時の讒言によって命を落とし、或いは失脚した者は数え切れないし、その恨みを引きずっている者も多い。景盛が追討されかけたのも、元は彼の讒言が発端なのに羽林 (頼家) の失態にされている。世の中と主君のために何とかする必要はあるが、合戦の騒ぎになれば再び戦乱を招く恐れがあるから、取り敢えず宿老と相談しよう。
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まず使者を派遣して 和田義盛安達盛長入道を招き、義村が詳細を説明して義盛と盛長がそれに答えた。
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同じ意見の御家人を集め急いで連署状を作り訴え出よう。讒言する一人を選ぶのか多数の御家人か、羽林の御意向を伺い正しい裁決がなければ命を賭して戦うべきだ。連署状は誰に書かせるのが妥当か。
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義村は中原仲業が適任だ、文筆の才能がある上に景時には遺恨を抱いている。」として仲業に連絡、駆け付けた仲業は手を叩いて「恨みは晴らし切れないが最善を尽くして書き上げよう」と喜んだ。相談が纏まって義村が酒を勧め、夜になってから解散した。
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   ※景時の讒言: 阿波局は 北條時政の娘で政子の妹。8月20日の項で述べた通り、頼家が将軍職での失敗
を繰り返し、次の鎌倉殿を 比企能員の外孫 一幡に継承させないのが時政の目的である。
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時政の意向を受けた阿波局が朝光の危機を計画的に煽った可能性や「景時の具申云々」が時政の捏造した筋書きだった可能性もある。
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同僚との折り合いが悪かった景時だが、頼家には真摯な忠臣の立場を守っていた。弾劾されるべきは頼家や景時ではなく北條一族なのは景時失脚後を見れば明らかだ。
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「玉葉」の正治二年 (1200) 1月2日には次の通り記録されている。
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他の御家人に恨まれた景時は「頼家を廃して実朝を将軍にする、との陰謀がある」と頼家に訴えたが、御家人に言い負かされて失脚した。
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また「愚管抄」は「景時の滅亡が結果的に頼家の失脚と殺害を招いた」と書いている。
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   ※頼朝の遺言?: この年の10月25日、景時追討の発端になった 結城朝光の嘆きの言葉、原文を厳密に
読み解くと慄然とする真実が見えてくる。もう一度朝光の言葉を書いておこう。
「遷化刻有遺言之間不令出家遁世之條後悔非一」
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「(先君 頼朝が)遷化の際に遺言で言い残した「家臣の出家遁世は禁じる」に従った事が悔やまれる。」吾妻鏡が頼朝の遺言に触れている唯一の個所だ。
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「頼朝の遺言」は存在した。落馬して意識不明のまま没したのではない、もしかしたら右筆に書かせた遺書も存在していたのかも知れない。家臣の朝光が遺言の一部を知っていたなら、政子と時政は問題のない部分だけを公表した可能性が高い。
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常識的には 「嫡男の頼家を後継として忠義を尽くせ」 と言い残すのが普通だが、それは実現しなかった。遺言の一部だけ (出家を禁じる、とか) は御家人に伝えられたが、「後継者とか、摘孫だとか、源家に忠節とか」は闇に葬られた。
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病床に伏して半月も意識があり「出家するな」の言葉まで遺した頼朝が後継者に触れなかったなんて有り得ない、時政や政子は知っていた筈だ。
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遺言の内容、つまり公文書を「隠蔽あるいは改竄」(安倍晋三を思い出すね) して裏切ったのは誰かを考えると、身内に騙し続けられて死んだ頼朝の惨めさが見えてくる。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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10月28日 丁亥
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吾妻鏡
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巳刻 (午前11時前後) に多数の御家人が鶴岡八幡宮の回廊に集まった。
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千葉介常胤三浦介義澄千葉太郎胤正三浦兵衛尉義村畠山次郎重忠小山左衛門尉朝政同七郎朝光
足立左衛門尉遠元和田左衛門尉義盛、同兵衛尉常盛比企右衛門尉能員所左衛門尉朝光民部丞行光
葛西兵衛尉清重八田左衛門尉知重波多野忠綱 、大井次郎実久、若狭兵衛尉忠季
渋谷次郎高重山内刑部丞経俊宇都宮彌三郎頼綱榛谷四郎重朝安達籐九郎盛長入道弥九郎景盛
佐々木三郎兵衛尉盛綱入道稲毛三郎重成入道岡崎四郎義実入道土屋次郎義清、東平太重胤
土肥先次郎惟光河野四郎通信、曽我小太郎祐綱、二宮四郎、長江四郎明義、諸次郎季綱
天野民部丞遠景入道工藤小次郎行光右京進仲業らである。
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彼らは梶原景時を弾劾について一致団結して対応する事を誓い合い、中原仲業が訴状を読み上げた。
その中には 「鶏を飼う者は狐を飼えず、家畜を飼うのなら狼は飼えない」 との文章があり、三浦義村は特にこの部分に感心した。
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連署状に署名捺印し花押を加えた者は 66人、朝光の兄 長沼五郎宗政も署名はしたが花押は書かなかった。
弟の危難を助けるため我が身を顧みず多数の御家人が加わった計画に、兄は違う心を抱いているのだろうか。
その後に連署状を和田義盛と三浦義村が携えて大江広元に届けた。
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   ※印の御家人: 和田経盛は義盛の嫡子、大井実久は素性不明、若狭忠季は 丹後内侍の前夫 惟宗広言の
後妻の子 (島津忠久の異母弟か) で若狭国守護、東重胤は 胤頼の嫡子、土肥先次郎惟光は 遠平の嫡男惟平、曽我祐綱は 祐信の実子で嫡男、二宮四郎は 中村宗平の四男友平 (二宮友平の館跡を参照) 、長江明義は鎌倉氏傍流で葉山を本領とした義景の長男、諸季綱は 毛呂季光の嫡男。
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   ※長沼宗政: 小山政光の長男朝政と次男宗政は共に先妻 (出自不明) の子で、三男 (結城) 朝光の生母は
政光の後妻である宇都宮氏二代当主 八田宗綱の娘で出家後の 寒河尼 (頼朝乳母の一人) 。
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朝政は嫡男として広大な所領を継承し、次男宗政は芳賀郡長沼 (現在の真岡市) を相続して長沼氏の祖となった。傍若無人で短気な乱暴者として定評がある。
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朝光が26日に 「父 政光からは遺領を継がず、幕下将軍に仕えて初めて数ヶ所の所領を得た」 と述懐しているのを考えると、異母兄弟の間に何かの溝があった可能性もある。
後世の小山と長沼と結城の各氏族は離合集散を繰り返しつつ北関東の覇権に絡んでいく。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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11月 8日 丙申
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吾妻鏡
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右近将監の多好方は去る建久四年に宮人の曲の賞に関する褒賞として故右大将軍 頼朝から飛騨国荒木郷を下賜された。この土地を子息の多好節に譲補したいとの申請があり、今日それが認可をされた。またこの所領については守護の関与を禁じる旨が命じられ、北條時政殿がこれを差配した。
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   ※多好方: 楽所 (らくそ、治部省の雅楽寮とは別組織) に所属した雅楽担当官人。建久四年 (1193) の7月
18日に御家人の師弟に秘曲を伝授する件で頼朝から依頼を受け、それに対応した。
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頼朝に招かれて建久二年の10月25日に初めて鎌倉に入り、11月4日に絶妙の歌唱力を披露したエンターティナー。飛騨国荒木郷については同月12日に詳細を記載した。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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11月10日 戊戌
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吾妻鏡
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兵庫頭 大江広元梶原景時を訴えた連署状を受け取ったが、その処理に頭を痛めていた。景時が讒訴していたのは間違いないが、右大将 頼朝公の時代に親しく仕えた近臣を直ちに罪科に問うのも尋常ではない。穏やかに収拾する方法はないかと悩んで連署状を手元に止めていた。
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しかし今日 和田義盛と御所で出会った際に連署状の結果を尋ねられたため、まだ奏上していないと答えると、
義盛は眼を怒らせて激しく抗議した。
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貴殿は鎌倉の中枢に任じて長い年月を経ている人物なのに、景時の権威を恐れて御家人多数が抱いている不満を無視している、それは道理に合わない。
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広元が「景時を恐れているのではない、彼の失脚を招く事に心を痛めているのだ」と答えると義盛は更に詰め寄り、「恐れていないなら数日を過ぎても手元に置いているのは何故か。見せるのか見せないのか、返事を頂こう」と叱責するかの如くに迫った。広元は「上奏しよう」と答えて座を起った。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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11月12日 庚子
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吾妻鏡
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大江広元朝臣が預かっていた連署状を中将頼家に提出した。頼家は直ちにそれを梶原景時に渡し内容の是非を説明するように命令した。
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   ※経過: 朝光の述懐は10月25日で阿波局が朝光に警告したのが翌 26日。従って 阿波局の言葉に従えば、
頼家は 26日の比較的早い早い時間帯に 「朝光を誅殺するか」 と考えた事になってくる。
しかし現実には何も起きず、11月12日に広元が連署状を提出するまでの17日間は討手どころか、朝光を詰問さえしていない。これは景時排除を狙った「時政の筋書き」 の可能性がある。
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「安達景盛が妾女の件で不満を、云々」 との噂を聞いただけで討手を向けた瞬間湯沸し器 頼家の反応とは思えないね。吾妻鏡が忠実に事実を伝えているのか、疑うほうが良さそうだ。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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11月13日 辛丑
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吾妻鏡
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梶原平三景時は、彼に対する訴状を渡されても説明することができず、子息と一族を率いて (本領の) 相模国一宮に下向した。ただし三男の三郎兵衛尉 梶原景茂だけは鎌倉に残留している。
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   ※説明できず: 原文は 「不能陳謝」 、多分 「申し開きできず」 の意味だろう。 「謝らず」 じゃ意味が通らな
いからね。朝光が 「忠臣は二君に仕えず」 と言った程度の問題なら、弁の立つ景時なら容易に説明できる筈だ。
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ひょっとすると 「朝光の愚痴」 を利用して時政が筋書きを考えた 「」景時徹底排除計画」 だったみたいに思えてくる。そう考えれば頼家が17日間も対応しなかった理由も納得できるが...老獪な時政の暗躍か、それとも吾妻鏡編纂者の忖度&曲筆か?
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   ※系譜: 梶原氏の祖は 平良文から四代後の鎌倉章名とされる。
相模大領 (郡司の最高位) だった丸子氏の婿に入って相模国南部を拓いて開発領主となり、兄の為通は 頼義に仕えて三浦を与えられ、三浦氏の祖となった。
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章名の次男 景通が鎌倉氏を継承して景久-景清-景時に続き、景通の末弟で同じく鎌倉を名乗った景成の子が武名の高い 鎌倉権五郎景政、嫡子の景継が大庭御厨の荘官となって懐島景義、豊田景俊、大庭景親、俣野景久の四兄弟に続く (秩父平氏の系図を参照) 。
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   右上は景時の一宮館の跡と伝わる天満宮。
       画像をクリック→ 梶原邸跡の訪問記(別窓)へ。

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鎌倉十二所の館跡は 明王院と梶原井戸、一族発祥の梶原郷は 梶原の御霊神社で。

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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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11月18日 丙午
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吾妻鏡
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中将家 (頼家) が 比企右衛門尉能員の屋敷に渡御し、南庭に於いて御鞠を楽しんだ。北條五郎時連 (時房) 、比企弥四郎時員 (能員の三男) 、富部五郎、細野四郎、大輔房源性らが蹴鞠に加わり、その後の酒宴の席に 梶原景茂が加わり右京進中原仲業が酒の酌を務めた。
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頼家は景茂を近くに呼び 「最近は景時が権威を振りかざす状態に傍若無人の様子があり、それが御家人一同の訴状に発展してしまった。」 と語った。景茂がそれに答えて 「父の景時は他の者より先君 (頼朝) の寵愛を得ていましたが、今でもその御愛顧を得ている訳ではありません。それなのに誰の威を借りての非義なのでしょうか。今では仲業の文章に萎縮し、諸人の武力を恐れているだけです。」 と答えた。
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列座している者は景茂の返事は理屈が通っている と囁き合った。羽林 (頼家) は今夜は能員邸に宿泊される。
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   ※富部五郎: 長野市川中島の伊勢神宮富部御厨 (長野市川中島町
(地図) の更級斗女神社が館跡) を本領とした武士。父の家俊は城資職 (長茂) の配下として 横田河原の合戦義仲軍の西広助に討たれた。
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五郎兵衛はその後は鎌倉御家人となり、承久の乱に加わった記録が残っている。
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   ※細野四郎: 頼家の蹴鞠仲間として何回か現れるが詳しい素性
が未だに確認できていない。
 右画像は比企ヶ谷の妙本寺山門
   クリック→ 比企氏館跡の風景 (別窓) へ。
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   ※大輔房源性: 頼家の家臣で蹴鞠仲間。比企氏が滅亡した直後の建仁三年 (1203) 9月3日の吾妻鏡に以下
以下の記述がある。
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能員の残党を捜索し多くを流刑または死罪に処した。妻妾と二歳の男子は遠戚に当たる和田義盛に預けて安房国に流罪とした。
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今日、小御所の焼け跡で大輔房源性が 故一幡君 (頼家の嫡子) の遺骨を拾おうとしたところ、焼死体に混じって菊の模様が付いた小袖の右脇が見付かった。乳母の言葉では最後に着ていたのは菊を染め付けた小袖だったとの事、源性はこれを拾い上げて袋に入れ首に掛けて奥の院に納めるため高野山に向かった。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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11月19日 丁未
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吾妻鏡
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早朝から能員の屋敷で御鞠、若宮三位房と僧義印が追加で加わった。
午刻 (昼12時前後) に中将頼家が御所に還御し、能員が引出物を献上した。御剣一腰を 北條五郎時連 (時房) が運び、駿馬一匹 (鞍を置いた鴾毛) を比企三郎宗員と四郎時員が引き出した。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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11月30日 戊午
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吾妻鏡
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武蔵国の田文を整備した。これは故将軍 頼朝の時代に検地は済ませたのだが田文の整備が完了していなかったためである。

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   ※田文: 荘園や公領に於ける田畑の面積や所有関係などの詳細を載せた台帳で、課税の原簿となる。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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12月 9日 丁卯
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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梶原平三景時が一宮の所領から鎌倉に帰参した。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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12月18日 丙子
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吾妻鏡
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景時の件、多数の御家人による連署状について協議を重ねた結果、ついに鎌倉からの追放処分が決定した。
三浦兵衛尉義村がこれを差配して相模国一宮に下向し、景時の屋敷は解体して永福寺の僧坊に寄付された。
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   ※追放処分: 景時の屋敷は 十二所の別邸 (別窓) を差す。屋敷まで破却解体したのだから単純な鎌倉追放
ではなく誅殺に続くと考えても不思議ではない。頼家の愚かさが際立つ決裁である。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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12月29日 丁亥
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吾妻鏡
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小山左衛門尉朝政を播磨国の守護職に補任した。在地の御家人らは朝政の命令に従って内裏大番役を勤め、忠節を励むべし。ただし朝政の権限は謀反や殺害に関わる事件の処理のみで、国務に関与したり民間の訴訟を決裁してはならない。また住人を煩わせるような行動を取らないようにとの仰せがあった。
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   ※播磨守護: 寿永三年 (1184) から建久十年 (今年) まで梶原景時が任じていた。職権の没収に伴っての
補任になる。
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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 月 日
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史 料
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記事
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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 月 日
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史 料
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西暦1199年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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正治元年
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 月 日
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史 料
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記事
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