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正元二年 (1260年) 、4月13日に改元して文応元年
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前年・正元元年 (1259年) の吾妻鏡 へ       翌年・文応二年 (1261年) の吾妻鏡
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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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1月 1日 己巳
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。相州禅室 北條時頼の沙汰による椀飯の儀あり。両国司 (執権 武蔵守 北條長時と連署 相模守 北條政村)および評定衆以下の人々が布衣 (狩衣、略礼服) を着して出仕し通例に従って庭上に列座した。
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   武蔵前司北條朝直         尾張前司北條時章
   相模太郎北條時宗        新相模三郎北條時村
   相模三郎北條時輔         遠江前司北條時直
   陸奥左近大夫将監北條義政     越後守北條実時
   弾正少弼北條業時         武蔵左近大夫将監北條時仲(朝直の子)
   尾張左近大夫将監北條(名越)公時   遠江右馬助北條清時(時直の嫡子)
   刑部少輔北條教時         越前前司北條時弘(時広)
   越後右馬助北條時親        民部権大輔北條時隆
   越後四郎北條時方(顕時)       武蔵五郎北條宣時
   遠江七郎北條時基         備前三郎北條長頼(北條時長の孫で北條宗長の父)
   駿河四郎北條兼時(北條有時の嫡子で宗尊親王の側近)
   越後又太郎北條信時(北條時盛-時景-信時と続く。生母は三浦泰村の娘)
   駿河五郎北條通時(有時の五男)    新田三河前司新田(世良田)頼氏
   宮内権大夫長井時秀        秋田城介安達泰盛
   中務権少輔守教          武藤少卿武藤景頼
   木工権頭藤原親家         和泉前司二階堂行方
   刑部少輔那波政茂         出羽前司小山長村
   壱岐前司後藤基政         伊賀前司朝行
   判官代長井時秀          日向前司宇佐美裕泰
   安芸右近大夫藤原親継       大隅前司嶋津忠時
   上総前司大曽祢長泰        周防前司藤原親実
   縫殿頭中原師連          甲斐守
   後藤壱岐新左衛門尉        上総三郎右衛門尉
   周防三郎左衛門尉         城四郎左衛門尉
   筑前次郎左衛門尉         周防五郎左衛門尉
   城六郎安達顕盛          周防六郎左衛門尉
   筑前三郎左衛門尉         城弥九郎
   筑前四郎左衛門尉         式部太郎左衛門尉
   小野寺四郎左衛門尉        大隅蔵人
   常陸次郎左衛門尉         小野寺新左衛門尉
   上野太郎左衛門尉         出羽七郎左衛門尉
   三善右衛門尉           和泉六郎左衛門尉
   善次郎左衛門尉          薩摩七郎左衛門尉
   和泉七郎左衛門尉         薩摩十郎
   土肥四郎             内藤肥後三郎左衛門尉
   狩野五郎左衛門尉         伊東次郎左衛門尉
   伊勢三郎左衛門尉         狩野四郎左衛門尉
   信濃次郎左衛門尉         鎌田図書左衛門尉
   肥後天野新左衛門尉        大曽彌太郎左衛門尉
   信濃三郎左衛門尉         狩野帯刀左衛門尉
   加藤左衛門尉           紀伊次郎左衛門尉
   長内左衛門尉           大泉九郎
   鎌田次郎左衛門尉         鎌田三郎左衛門の尉
   進三郎左衛門尉          善五郎左衛門尉
   駿河右近大夫           平賀四郎左衛門尉
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出羽前司二階堂行義が定刻を告げ 将軍家 宗尊親王が出御、右衛門督 (四条隆顕?) が御簾を上げた。
御剣役は武蔵前司 北條朝直、御調度 (弓箭) 役は尾張前司 北條時章、御行騰沓役は越後守 北條実時
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   一の御馬を引くのは 遠江七郎北條時基      と 左衛門尉工藤次郎高光
   二の御馬を引くのは 武蔵五郎北條時忠直     と 安東新左衛門尉
   三の御馬を引くのは 出羽七郎左衛門尉二階堂行頼 と 同、九郎宗行
   四の御馬を引くのは 城四郎左衛門尉安達時盛   と 同、六郎安達顕盛
   五の御馬を引くのは 伊勢次郎左衛門尉行経    と 同三郎左衛門尉頼綱
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将軍家はその後に武蔵守北條長時持参した吉書を覧た。
今日御行始めの儀があり、通例に従って庭上の出仕人から供奉人を選抜した。
これらの奉行は右衛門尉工藤三郎光泰、平岡左衛尉実俊が支障で欠席したためである。
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未刻 (14時前後) 御出発。 御車は網代廂。 御剣役人は武蔵前司北條朝直
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  御後
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  五位
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   相模太郎北條時宗        尾張前司時北條時章
   遠江前司遠江前司北條時直    越後守越後守北條実時
   越前前司越前前司北條時広    刑部少輔刑部少輔北條教時
   遠江右馬助北條清時       武蔵左近大夫将監時仲
   陸奥左近大夫将監北條義政    弾正少弼北條業時
   相模三郎時利(北條時輔)      遠江七郎北條時基
   新相模三郎北條時村       越後四郎時方
   参河前司足利頼氏(利氏)      秋田城介安達泰盛
   宮内権大夫時秀(長井時秀)     和泉前司二階堂行方
   出羽前司小山長村        壱岐前司後藤基政
   木工権頭藤原親家(宗尊親王側近)  日向前司宇佐美祐泰
   少卿武藤景頼          上総前司大曽祢長泰
   甲斐守狩野為成(太宰少弐狩野為佐の嫡子)
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  六位
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   城四郎左衛門尉時盛(安達泰盛の次弟)   同、六郎顕盛(安達義景の六男)
   式部太郎左衛門尉伊賀光政       壱岐新左衛門尉基頼(後藤基政の子)
   和泉三郎左衛門尉行章(二階堂行方の子)  信濃次郎左衛門尉佐々木時清(信濃守泰清の嫡子)
   左衛門尉周防五郎嶋津忠景(忠綱の子)   薩摩七郎左衛門尉伊東祐能
   左衛門尉一宮次郎康有         筑前次郎左衛門尉二階堂行頼(行泰の子)
   新左衛門尉小野寺行通         左衛門尉加藤景経(景朝の四男)
   左衛門尉土肥四郎実綱(実平遠平-維平-維時-倫平-実綱と続く)
   出羽次郎兵衛尉二階堂行藤(行有(行義の次男)の子)
   常陸次郎左衛門尉           左衛門尉鎌田三郎義長
   左衛門尉鎌田次郎行俊         武藤右近将監頼村
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御引出物は通例の通り。
御剣は刑部少輔北條教時、砂金は左近大夫将監北條義政、鷹の羽は宮内権大輔狩野時秀。
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   一の御馬を引くのは 新相模三郎北條時村 と 安保次郎左衛門尉
   二の御馬を引くのは 筑前三郎左衛門尉二階堂行実(行泰の嫡子) と 四郎左衛門尉二階堂行佐
   三の御馬を引くのは 相模三郎(北條時輔) と 南條新左衛門尉
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   ※年令:六代鎌倉将軍 宗尊親王 (第88代後嵯峨天皇 (Wiki) の第一皇子) は18歳、
康元元年 (1256) 11月に五代執権を辞した 北條時頼は32歳、幕政の実権を手放さず、弘長三年 (1263) 11月の死没まで「終生支配」を続けている。
後任の六代執権 北條長時は29歳、連署を辞して隠居した 北條重時は 62歳、
後任の連署は後の七代執権 北條政村 55歳、八代執権になる 北條時宗は6月で満10歳、
庶兄の 時輔は13歳、六波羅北方 時茂20歳、南方は不在。
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安達泰盛 29歳 (祖父景盛は宝治二年 (1248) 、父義景は建長五年 (1253) に死去) 、
千葉頼胤 20歳、 足利泰氏 43歳、 吉良(足利)家氏 48歳、 小山長村 43歳、
結城朝広 69歳、宇都宮泰綱は前年11月に死没 (享年57) 、後継は 景綱 24歳、
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浄土真宗 親鸞 86歳、 真言律宗 叡尊 58歳、 真言律宗 忍性 43歳、
法 華宗 日蓮 38歳、時宗 (じしゅう) 一遍 21歳、 天台宗寺門派 (園城寺) 隆弁 51歳。
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89代後深草天皇 (現在16歳) が前年11月に第90代亀山天皇 (現在10歳) に譲位、後嵯峨上皇 (現在39歳) の意向による)。
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以後の朝廷は 後深草天皇系の持明院統と 亀山天皇系の大覚寺統が帝位を争い続ける
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摂政関白 鷹司兼平は32歳、太政大臣 西園寺実氏は645歳、
関東申次 (関東執奏、権限と実務の調整役) は西園寺家当主が世襲する。
以後の朝廷は 五摂家 (近衛家、一条家、九条家、鷹司家、二条家) の合議分担体制となる。
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                 (表示は全て 1/1 現在の満年齢)
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   ※幕政は: 初代将軍 頼朝も若年の 泰時を優遇したが、これは貴種であり主家であり創業者でも
ある鎌倉将軍が近臣の息子を引き立てた例。陪臣の時頼が嫡子を優遇して執権を世襲させるのとは根本的に異なる。
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出家して執権を辞した時頼は依然として得宗専制の地位にあり、その強権的な手法に反発する北條傍流や古参御家人を慰撫するため評定衆の下部組織として引付衆を新設 (建長元年、1249年) して合議制を装い、 京都大番役の任期を短縮 (宝治元年、1247年) するなどの融和施策を行なった。
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また庶民には物価統制、訴訟手続き簡素化、質素倹約などで所謂「善政」を装った。これらは執権体制を超越した北條得宗の絶対的な強権を維持するための手法であり、実際に時頼以後の幕府は一握りの得宗家周辺の独断で運営されている。
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泰時の政治は (稚拙ではあったが) 正義を求めていた。時頼の場合は絶対権力の維持と得宗の神格化を目指しており、御家人対策と撫民はそのための手法に過ぎない。
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卑近な例を挙げれば、自民党と維新国民民主が強引に決めた給付や減税は買収行為、只のポピュリズムだ本当に必要としている庶民、生活困窮者やパート時間が減った一人親所帯や年金に依存している老齢者を見捨てている。
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所帯主の収入だろうが所帯全体の年収であろうが、年収一千万円以上の所帯にまで給付するのは、平等の名を借りた偽善である。
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「維新と国民民主が頑張って減税と給付金を勝ち取った!」と宣伝し「国費で買収した一票」を騙し取る卑劣な手段に過ぎない。この偽善を継承したのが 嘘吐きの不倫男 玉木だ。

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玉木は自民党の議員を差して「不正や不倫があれば議員辞職を」と要求した。
でも自分の長期不倫がバレたら「処分は党の役員の判断に任せる」と逃げた。
そんな嘘吐きを支持し、政治を委ねる有権者の愚かさが理解できない。
税収の減少を国債発行に頼っていたらどうなるか、考えよう。
膨大な借金を子や孫の世代に残して (Wiki) 、国民の幸せが実現するのか?
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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1月 2日 庚午
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吾妻鏡
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晴。奥州禅門 北條重時の沙汰による椀飯の儀があり、左衛門督が御簾を上げた。
御剣役は尾張前司 北條時章、御調度 (弓箭) は越前前司 北條時弘、御行騰沓は秋田城介 安達泰盛
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   一の御馬は  新相模三郎北條時村    式部次郎左衛門尉
   二の御馬は  備前三郎北條長頼(北條時長の長子、一番御格子番)
   三の御馬は  薩摩七郎左衛門尉伊東祐能   同、十郎左衛門尉祐廣
   四の御馬は  信濃次郎左衛門尉佐々木時清(信濃守泰清の嫡子)
   五の御馬は  周防五郎左衛門尉嶋津忠景(忠綱の三男)
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   ※馬の引手: 通常は上手と下手の二人が手綱を引くのに何故一人なのか。単なる記載漏れか。
吾妻鏡の養和元年 (1181) 7月20日の吾妻鏡に次の記載がある。
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頼朝は工匠に褒美の馬を与え、その馬を引く役目を九郎義経に命じた。
義経は「私が上手 (かみて) の手綱を引くと下手 (しもて) の手綱を引く役に見合う身分の者がいない」と答え、頼朝は重ねて「佐貫広綱畠山重忠がいる。この役目を卑下して従うのを渋っているのか」と。
義経はその言葉に恐怖し座を立って二頭の上の手綱を引き、重忠が先の一頭を、広綱が後の一頭の下の手綱を引いた。
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馬の手綱を引く (曳く?) にもそれなりの手順がある、という事。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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1月 3日 辛未
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吾妻鏡
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晴。相模守 北條政村の沙汰による椀飯の儀があり、右金吾が御簾を上げた。御剣役は越後守 北條実時、御調度 (弓箭) は左近大夫将監 北條 (名越) 公時、御行騰沓は和泉前司 二階堂行方
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   一の御馬は  遠江七郎北條時基   と 糟屋左衛門三郎行村
   二の御馬は  式部太郎左衛門尉光政 と 同、右衛門次郎
   三の御馬は  出羽九郎二階堂宗行  と 同、次郎兵衛尉行藤
   四の御馬は  城六郎安達顕盛    と 同、九郎長景
   五の御馬は  新相模三郎北條時村  と 式部次郎左衛門尉光長
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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1月 9日 丁丑
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吾妻鏡
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晴。評定始めを行なった。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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1月10日 戊寅
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吾妻鏡
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晴。京都からの飛脚が到着して次の通り報告。
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今月4日に園城寺三摩耶戒壇を認める宣下を発したところ、6日卯刻 (朝8時前後) に 日吉社の神輿三基、祇園の神輿三基、北野の神輿二基、京極寺の神輿一基、合計九基の神輿が入洛し先頭で振り回して放棄、二基は院の御所で振り回した、と。
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   ※三摩耶戒壇: 東大寺下野薬師寺筑紫観世音寺 (公式サイト) に設けたのが三戒壇。
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その後に 最澄が比叡山に 円頓戒壇 (外部サイト) を設立したが、これに反発した圓城寺と延暦寺の間で紛争が続いたために隆弁と鎌倉の申請を容れ、圓城寺の僧侶を救済する目的で設立を認めたのが 三摩耶戒壇 (Wiki) 。
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だが正嘉二年 (1258) 4月に一度撤回させた宣下だから 当然 延暦寺は反撥する。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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1月11日 己卯
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。将軍家 宗尊親王が鶴岡八幡宮に御参宮。
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  御車(庇付きの牛車)
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     壱岐左衛門尉後藤基頼(後藤基政の子)  左衛門尉加藤景経(景朝の四男)
     城六郎顕盛(安達義景の六男)      左衛門尉筑前四郎二階堂行佐
     信濃判官次郎左衛門尉二階堂宗行    肥後新左衛門尉天野景氏
     左衛門尉狩野四郎           左衛門尉伊東次郎盛時
     左衛門尉薩摩九郎           左衛門尉伊勢三郎頼綱
     新左衛門尉小野寺行通         左衛門尉一宮次郎康有
     左衛門尉鎌田三郎義長         左衛門尉平賀三郎維時
     左衛門尉鎌田次郎行俊
       以上帯劔・直垂、御車の左右に候す。
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  御劔役人 (布衣、下括り) は武蔵前司朝直  御調度懸け (布衣、下括り) は武藤左衛門尉頼泰
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  御後
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  五位 (布衣、下括り)
     尾張前司北條時章           遠江前司北條時直
     越後守北條実時            越前前司北條時弘(時広)
     越後右馬助北條時親          刑部少輔北條教時
     遠江右馬助(時直の嫡子)         尾張左近大夫将監北條(名越)公時
     武蔵左近大夫将監時仲(北條朝直の子)   民部権大夫時隆(時房-時村-時隆と続く)
     弾正少弼北條業時           陸奥左近大夫将監北條義政
     出羽前司小山長村           宮内権大夫長井時秀
     木工権頭藤原親家           秋田城介安達泰盛
     参河前司新田(世良田)頼氏        和泉前司二階堂行方
     壱岐前司後藤基政           周防前司島津忠綱
     伊賀前司時家             上総前司大曽祢長泰
     甲斐守為時              日向前司宇佐美祐泰
     太宰少弐武藤景頼
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  六位(布衣・下括り)
     相模太郎相模太郎北條時宗       同四郎北條宗政
     相模三郎北條時利(後の時輔)      遠江七郎北條時基
     越後四郎北條時方(後の顕時、実時の嫡子)  新相模三郎北條時村
     備前三郎北條長頼(時長の子)      武蔵五郎北條時忠(宣時の初名、朝直の嫡子)
     式部太郎左衛門尉伊賀光政(光宗の孫で宗義の子、引付衆) 左衛門尉安達時盛(泰盛の弟)
     左衛門尉大曽祢太郎長頼        信濃次郎左衛門尉佐々木時清(信濃守泰綱の嫡子)
     左衛門尉遠江十郎頼連(会津蘆名氏?)  隠岐三郎左衛門尉二階堂行景
     左衛尉伊勢次郎行経          尉筑前三郎行実
     左衛門尉薩摩七郎伊東祐能       出羽左衛尉土屋七郎行頼
     左衛門尉和泉三郎二階堂行章      左衛門尉三善太郎康長
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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1月12日 庚辰
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吾妻鏡
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的始めに備え、由比ケ浜で13人の射手選出を行なった。一射 (一組二本) づつ五度の弓射である。
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  射手
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     一番  早河次郎太郎は九    ●●●●●●●●●〇
渋谷左衛門太郎は八   ●●●●●●●〇●〇
     二番  平嶋弥五郎は九     ●●●●●●●●●〇
岡本新兵衛太郎は九   ●●●●●●〇●●●
     三番  佐貫七郎は六      ●〇〇●●●〇〇●●
藤澤 左衛門五郎は六  〇〇●〇●〇●●●●
     四番  藤澤左近将監は八    ●●●〇●●●●〇●
海野矢四郎助氏は八  〇〇●●●●●●●●
     五番  桑原平内は十      ●●●●●●●●●●
工藤弥三郎は八     〇●●●●●●〇●●
     六番  本間弥四郎左衛門尉は七 ●〇●●〇〇●●●●
柏間左衛門次郎は九   〇●●●●●●●●●
     七番  工藤八郎は三      〇●〇〇〇●〇〇●〇
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   ※海野助氏: 一族の実質的な祖である 海野幸氏は建長二年 (1250) 3月1日で登場が途絶える。
文末の近くに「閑院殿造営の河堰東鰭十二丈を海野左衛門入道が負担云々」の記事ある。海野幸氏は元暦元年 (1184) 4月21日に 木曽義仲の遺児 志水義高の脱出を助けるため鎌倉に留まったのが最初でこの時 11歳だったから、80歳前後の高齢で没した、ということらしい。
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生存中の幸氏は北條一族との関係も良好で、本領の信濃から上野国 (群馬県) 北部に勢力範囲を拡大した。武名の高さと所領の豊かさに伴って子孫を名乗る者が多く現れている。幸氏以後の信頼性に欠ける系図では助氏との血縁関係が確認できないが 、建長四年 (1252) 1月14日の吾妻鏡弓始めの記録には海野助氏の記載がある。年代を考えると孫だろう。
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    原本が点数に加えて 命中● と 外れ〇 を記載しているので嫌々ながら転記した。
      もっと大切な事実を伝えるべきなのに、余計な手間を掛けさせやがって!
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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1月14日 壬午
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吾妻鏡
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晴、寅刻 (早暁4時前後) に雷鳴あり。
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  今日御弓始めがあり、二射づつ五度的を射た。射手は12人。
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     一番  早河次郎太郎祐泰は 九九   ●●●●●●●●〇● ●●●●●●●〇●●
渋谷左衛門太郎朝重は 七七  ●●●●●●〇〇●〇 〇●●●〇〇●●●●
     二番  平嶋彌五郎助経は 九八    ●●●●●●〇●●● 〇〇●●●●●●●●
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岡本新兵衛尉重方は 四九   〇●〇●〇〇〇●〇● ●●●●●〇●●●●
     三番  佐貫七郎廣胤は 七七     ●●●●●〇〇●●〇 ●●〇●〇●●●〇●
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藤澤左衛門五郎光朝は 八九  ●●〇●●●●●●〇 ●●●●●●●●●〇
     四番  藤澤左近将監時親は 七五   〇●●〇●〇●●●● ●〇〇●●〇●●〇〇
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海野矢四郎助氏は 六六    ●●〇●●〇〇〇●● ●●●〇●〇〇●〇●
     五番  桑原平内盛時は 九九     ●〇●●●●●●●● ●●●〇●●●●●●
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工藤弥三郎清光は 七七    〇●●●〇●●●〇● 〇●●●●●●〇〇●
     六番  本間弥四郎左衛門忠時は七八  〇〇●●●〇●●●● 〇●●●●●●〇●●
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栢間左衛門次郎季忠は 八九  ●●●●●●●●〇〇 ●●●●●●●〇●●
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   ※二射を五度: 理解が遅れた!理由は判らんが一射×五度=十射で、二射×五度=二十射か!
つまり一射とは甲乙の二本。弓道はど素人だし、ど~でも良いのだが。
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   続史愚抄この日、山門 (比叡山) の僧徒が御所に参上して戒壇の事 (圓城寺の戒壇設置の認
可) を欝訴 (不満の訴え) し、「その旨を関東に伝えよう」との院宣を与えられた。
按察使姉小路顕朝 (共に Wiki) がその内容を書類にした。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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1月19日 丁亥
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続史愚抄
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延暦寺の欝訴を受け、園城寺に与えた三摩那戒壇の官符 (公文書) を回収するよう口頭での宣下あり。
上卿 (上席公卿) は権大納言 花山院師継 (Wiki) 、奉行は蔵人治部大輔経業。
また一院から山門(比叡山)に院宣が下され、奉行の院司経業が院宣を書類にした。

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   ※一院: 上皇が二人の場合は元の上皇 (今回は後嵯峨) を一院 (本院) と、新たに院になった帝
(今回は後深草) を新院と呼ぶ。
戒壇を巡る紛争は決着せず、比叡山衆徒による焼き討ちや武力行使は南北朝時代を過ぎても続き、三摩那戒壇の去就も明らかになっていない。
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しかし朝廷の対応は何とも情けないし、比叡山の態度はとても宗教者とは呼べないレベルだ。法然、親鸞、栄西、道元など鎌倉時代の名僧を輩出した寺院だなんて、とても信じられない。まぁ「数の力で国政を歪める」という意味では、自民党も国民民主も維新も同類だ。武力が数と金の力に変っただけの話か。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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1月20日 戊子
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吾妻鏡
史 料
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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御所で昼番衆 (昼間の勤務割) を定め、壮士 (成年男子ほどの意味) の場合は歌道、蹴鞠、管弦、右筆、弓馬、郢曲 (今様、俗曲) などの一芸に秀でた者は直ぐに対応できるように組み入れた。必要な時に不在だった例があったための沙汰である。小侍衆に命じて芸能の輩の名簿を整理し、相州禅門 北條時頼が目を通してから決定した。工藤三郎右衛門尉光泰がこれを奉行し、城四郎左衛門尉が清書した。
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  一番 子と午の日  昼番の事 (順不同)
     相模太郎北條時宗   弾正少弼北條業時     尾張左近大夫将監北條(名越)公時
     民部権大輔北條時隆  足利上総三郎(吉良満氏)  秋田城介安達泰盛
     同六郎安達顕盛(義景の六男で泰盛の弟)      下野四郎左衛門尉宇都宮景綱
     遠江十郎左衛門尉頼連(義連-末子泰連-末子頼連と続く)    左衛門尉筑前五郎行重
     左衛門尉武藤頼泰(武藤景頼の子) 信濃判官左衛門尉二階堂行宗 左衛門渋谷太郎朝重
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  二番 丑と未の日
     越前前司北條時弘(時広)  遠江右馬助北條清時(時直の長男)  武蔵五郎北條時忠(宣時)
     和泉前司二階堂行方   出羽大夫判官二階堂行有    和泉三郎左衛門尉二階堂行章
     左衛門尉淡路又四郎宗泰(長沼宗政-時宗-宗泰)  式部太郎左衛門尉伊賀光政(光宗br>      隠岐三郎左衛門尉二階堂行景  大須賀新左衛門尉朝氏    佐貫七郎広胤
     江戸七郎太郎長光      大泉九郎氏広
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  三番 寅と申の日
     陸奥左近大夫北條義政 相模三郎北條時輔  備前三郎北條長頼  出羽前司小山長村
     上野大夫判官結城広綱   大隅修理亮嶋津久時(久経) 城四郎左衛門尉安達時盛
     寺嶋小次郎時村   筑前次郎左衛門尉二階堂行頼   出羽七郎左衛門尉二階堂行頼
     一宮次郎左衛門尉康有   本間弥四郎左衛門忠時
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  四番 卯と酉の日
     新相模三郎時村(北條政村の嫡男)  越後右馬助北條時親  宮内権大輔時秀
     木工権頭藤原親家     日向前司宇佐美祐泰  城弥九郎長景(義景の六男)
     左衛門尉大曽弥太郎長経  上野十郎小山朝村   左衛門尉加藤景経
     武石四郎左衛門尉長胤   阿曽沼小次郎光綱   波多野小次郎定経
     新左衛門尉小野寺行通(出羽小野寺氏)
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  五番 辰と戌の日
     刑部少輔北條教時  遠江七郎北條時基   参河前司新田(世良田)頼氏
     縫殿頭中原師連   美作兵衛蔵人家教   城五郎左衛門尉安達重景(義景の五男)
     河越次郎経重    筑前四郎左衛門尉二階堂行佐  甲斐三郎左衛門尉為成
     土肥四郎実綱    左衛門尉三善五郎康家     樺野四郎左衛門尉景氏
     二宮弥次郎時元
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  六番 巳と亥の日
     越後守北條実時     同、四郎北條顕時    壱岐前司後藤基政
     少卿武藤景頼      上総前司長泰      佐渡五郎左衛門尉基隆
     壱岐新左衛門尉基頼   伊勢三郎左衛門尉頼綱  薩摩七郎左衛門尉伊東祐能
     肥後新左衛門尉景氏   兵衛尉鎌田次郎行俊   渋谷三郎太郎重村
     早河次郎太郎祐泰
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  以上の決定を守り各々参勤するよう、仰せに依って定める。  正元二年 正月 日
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   続史愚抄園城寺の戒壇認可の官符を取り消して回収、これで比叡山の僧徒は解散した。
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   ※渋谷朝重: 頼朝の臣 渋谷重国の二男 高重は横山党の娘婿で、建保元年 (1213) 5月の和田合戦
義盛に与して滅亡、長男光重が本領 (藤沢、大和、綾瀬市一帯)を継承した。
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光重の長男 重直が相模の本領を相続、次男以下の男子は宝治合戦 (1247年) の恩賞で得た薩摩の新領に下向し 祁答院、東郷、鶴田、入来院、高城氏として繁栄した。本領を相続した重直は相模渋谷氏として続いているため、朝重は重直の息子または孫だろうと思うが、系図上では詳細の確認ができない。
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   ※北條長頼: 備前守 北條時長の長男だが特筆する記録なし。弟定長が正五位上 備前守で備前守
着任前に備前太郎を名乗っており、長頼は庶長子または早世した可能性がある。
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   ※大須賀朝氏: 千葉介常胤 四男大須賀四郎胤信 (初代)→ 太郎通信 (二代当主)→ 胤氏 (三代
当主) → 朝氏 (四代当主) と続く。
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   ※佐貫広胤: 佐貫氏は藤姓足利氏 俊綱)の弟で佐野氏の祖となった有綱の息子佐貫広綱を初代
とする。広綱は上野国佐貫荘 (邑楽郡明和町 (地図) を本領とし、俊綱の嫡子 足利忠綱と共に平家軍に加わり宇治川合戦で 源頼政以仁王の連合軍を壊滅させ、後に 頼朝の御家人となった。
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本家筋の藤姓足利氏は滅亡し、庶流の佐野氏や佐貫氏は鎌倉御家人として奥州合戦や承久の乱を転戦している。広胤は広綱の直系子孫らしいが、手元の系図では確認できない。
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   ※江戸長光: 秩父重綱-四男の江戸重継-江戸重長-忠重-重行-重光-長光と続く江戸氏の
嫡流。初代重継は武蔵国江戸郷を相続して今の江戸城一帯を本拠とし、息子重長は頼朝の御家人として仕えた。重綱を共通の祖とする同族の 畠山重忠の生母は 三浦義明の娘とする説が一般的だが、重継の娘と考える説もある。
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   ※大泉氏広: 文治五年 (1189) に平家から没収した長講堂領出羽国大泉庄 (鶴岡市西部 (地図)
地頭に任じた 武藤資頼が後に地頭職を弟の氏平に譲り、氏平が大泉氏を名乗ったのが最初。
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建保六年 (1218) 6月27日の吾妻鏡には「出羽国羽黒山から多数の衆徒が鎌倉に着いて地頭大泉次郎氏平の非法を訴え出た。今日、この件について中原仲業を奉行として裁決を行なった」との記載があり、羽黒山への干渉を禁じる敗訴が決定した。以後は並行して武藤氏とも名乗り、南北朝時代に入ってからは大宝寺氏とも名乗っている。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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1月21日 己丑
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吾妻鏡
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   続史愚抄日吉社の神輿三基が祇園から本社に帰座した。
これより前には延暦寺中堂に鎮座していた日吉四社の神輿が帰座していた。
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   ※日吉の神輿: 今年1月10日の吾妻鏡に次の記載がある。
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今月4日に園城寺三摩耶戒壇を認める宣下を発したところ、6日卯刻 (朝6時前後) に日吉社の神輿三基、祇園の神輿三基、北野の神輿二基、京極寺の神輿一基、併せて九基の神輿が入洛し先頭で振り回して放棄、二基は院の御所に迫って振り回した。
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園城寺戒壇認可の宣下取り消しの強訴が成功して堂々の凱旋だね (笑)。かつて白河上皇は「思いの侭にならないのは、賀茂川の水と双六の賽と山法師」と嘆いていた。賀茂川の水は天災、サイコロの目は運、神威を振り翳す山法師には対処の方法が判らない、と。
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まぁ宗教団体を母体にした政党が「国民のため働く」と称して総理大臣夫妻の脱法行為を黙認するんだから、現代も千年昔と大差なしか。
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今日は5月5日、山法師ならぬヤマボウシの花が楽しめる季節が近づきました。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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1月23日 辛卯
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吾妻鏡
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無益な殺生を禁じる命令が事書 (箇条書き) として下された。
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  一.六齋日 (在家者が戒律を守るべき、8、14、15、23、29、30 の 六ヶ日)と二季 (春と秋の) 彼
岸の殺生について。
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魚や鼈 (スッポン) の類、禽獣の仲間であっても命が大切な事は人間と同様であり、罪業仏教でも無益な殺生が深い罪業と教えている。
上記した日々には魚網での漁や山野での狩猟を禁止し、厳守するよう命じる。違犯した者があれば御家人の場合は姓名を記録して報告し、凡下 (一般庶民) の場合は罪科に問うよう諸国の守護および地頭に命令する。ただし、限定された神社の祭事に関しては例外とする。
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   ※神社の祭事: 鷹狩りの獲物 (贄) を奉納する神事を差す。
例えば諏訪大社 (上社) には鷹狩りの獲物を神に捧げる 「贄」 の風習が近年まで続いた。
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境内地の左側参道の鳥居横には贄を並べて懸けた「贄掛の大欅」(地図) も残っている。
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すぐ近くには参拝車用の無料Pもある。
本殿だけではなく、こちらにも立ち寄って古い習慣を確認しよう (参考サイト)。
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右は20年前に撮影した贄掛の大欅、たぶん今も同じだと思う。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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1月26日 甲午
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吾妻鏡
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晴。園城寺衆徒の使者が鎌倉に参着して次の様に申し出た。
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今月4日に宣下を受けた当寺の三摩耶戒壇について、同14日に山徒 (比叡山の衆徒) が院に参上して訴えたのみならず寺門 (圓城寺) を焼き払うと強訴し (戒壇設置の認可は) 20日に撤回となった。一寺の滅亡に近い異常事態である。
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   ※紛争について: 前年9月 (この年の吾妻鏡は逸失) には 隆弁が上洛して朝廷と戒壇認可の交渉
を続けていた。鎌倉幕府の権威を背景にしているから認可の宣下は問題なく得られたのだが、比叡山の抵抗に阻まれてしまった。これが同じ天台宗の争いだから笑ってしまう。
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創価学会と日蓮宗の争いみたいなもので、要するに鼻糞が目糞に喧嘩売ってる状態。個人的には比叡山と、特に創価学会が鼻糞だと思うけど双方とも鼻糞の自覚はないだろうな。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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1月29日 丁酉
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吾妻鏡
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去る22日に神輿が本社に帰坐し、同23日には (防衛に集っていた) 三井寺 (圓城寺) の衆徒が解散した。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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2月 2日 庚子
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。将軍家が御所の修理に伴う御方違えのため二棟の御所に渡御した。
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今日、将軍家の供奉と警護に任じる小侍所に御簡の新しい配属があった。和泉前司 二階堂行方が将軍家の指示を越後守 北條実時に伝え、平岡左衛門尉と工藤三郎右衛門尉を介して通達、手配した。
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     二番に 伊賀左衛門四郎 と 同六郎
     四番に 美作兵衛蔵人
     五番に 木工権頭
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   ※御簡衆: 嘉禎四年 (1238) 5月20日の吾妻鏡に以下の記載がある。
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将軍家 藤原頼経)の御家人左衛門少尉藤原時朝 (笠間朝時) と上野十郎藤原朝村 (結城朝光の八男) を前右大臣家 西園寺実氏の御簡 (近侍) 衆として仕える任務を与えた。朝村の着任は弓箭の技 (嘉禎四年 (1238) 5月16日を参照) に感心した 二条良実の御所望による。
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小侍所の中でも特に近侍を許された処遇だったらしい。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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2月 3日 辛丑
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吾妻鏡
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晴。山門 (比叡山) の蜂起によって寺門 (園城寺) が放火の被害を受ける恐れがあり、警固を強化を大番衆に指示するよう六波羅に通告した。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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2月 4日 壬寅
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吾妻鏡
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出羽判官次郎兵衛尉 (二階堂行光の系) を小侍所の御簡衆に追加任命した。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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2月 5日 癸卯
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吾妻鏡
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晴。酉刻 (18時前後) に故 岡屋禅定殿下 近衛兼経の御息女 (近衛宰子、21歳) が最明寺禅室 北條時頼の御猶子 (一般的には格付けのための養子) の立場で鎌倉に到着し、直ちに (時頼の) 山内亭に入御した。御息所として将軍 宗尊親王の正室としての婚姻に備えたものである。
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   ※時頼の猶子: 天皇の義父として権勢を握った平安時代末期の 平清盛の様に、また実の娘 大姫
乙姫の入内を夢見た 頼朝の様に、時頼も将軍の舅として朝廷の院政に等しい幕政運営を夢見たのか。
出自が低くて貴種性に欠け、源氏の郎党に過ぎなかった北條氏としては、自らを将軍に並ぶ高貴な立場に導く乾坤一擲の発想だった。
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個人的妄想としては、時頼の廻国伝説 (正嘉三年 (1259) 3月を参照) が生まれたのはこの時代だろうと思う。元より権力に寄り添うしか能のない吾妻鏡編纂者が北條氏賞賛のついでに (時政や義時や時頼や時宗にだけ「殿」を書き加えるのと同じ感覚で) ヨタ話を吹聴し広めたと考えても、不思議ではなかろう。
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権力者の意向を忖度 (そんたく) して事実を歪め続ければどうなるか。習近平やプーチンやトランプや安倍晋三を見れば低級な独裁志向政治屋の中身なんてゴミ同然なのに、日本人もまた懲りることなく愚かな歴史を繰り返す。
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閑話休題...文永元年 (1264) 4月に惟康王 (後の七代将軍) を産んだ宰子の不義密通 (相手は護持僧の良基) が発覚するから好事魔多し、だ。
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吾妻鏡が途切れる文永三年 (1266) に密通が露見して良基は逐電、宗尊親王は
「謀反を計画した」との名目で京都に追放、宰子は娘の揄子を連れて京に戻る結末となる。
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密通が事実か、将軍更迭の口実なのかは判然としない。
宰子の娘 揄子は第91代後宇多天皇の側室となって禖子内親王を産んでいるから後半生は優雅だった、のかも知れない。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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2月10日 戊申
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吾妻鏡
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晴。相州禅室 北條時頼の最明寺亭で将軍家 宗尊親王の御吉事 (婚姻) についての協議が持たれた。
陰陽師の安倍晴賢、晴茂、宣賢、文元らが呼ばれ 各々が別紙で日時について答申した。今月14日が次吉、3月21日が上吉との内容である。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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2月14日 壬子
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吾妻鏡
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晴。将軍家 宗尊親王が最明寺亭に入御。戌刻 (20時前後) に姫君御前 (近衛兼経卿の娘) の御除服 (服喪明け) の儀あり。天文博士為親朝臣が御祓いを務め、前兵衛佐忠時朝臣が陪膳 (食膳の給仕) を、木工権頭藤原親家 (宗尊親王の側近) が運び役に任じた。奉行は太宰権少弐 武藤景頼
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   ※服喪明け: 近衛兼経の死去は前年の5月4日 (関連記事を載せた) だから約270日が過ぎた。
服喪期間が故人との関係の深さで異なるのは現代と同様だろうが、鎌倉時代の習慣は確認していない。そのうち調べてみよう。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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2月18日 丙辰
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吾妻鏡
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晴。将軍家 宗尊親王が桜花を見るため永福寺に出御した。
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   ※桜花: 旧暦の2月18日は西暦の3月31日、桜はもちろん染井吉野じゃなくて山桜。
頼朝が奥州平泉を平定した直後の文治五年 (1189) 9月27日の吾妻鏡に「平泉を囲む駒形嶺の麓 30余里には桜樹の並木が続き、峰の残雪は四月から五月まで消えないため駒形嶺と呼ばれている。」との記載があり、花を楽しむため桜樹を植える習慣は当時からあった。吉野の桜も植樹だろうし、確か三浦の花の御所に千本の桜を植えた云々の記事もあった。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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2月20日 戊午
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吾妻鏡
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廂御所の結番編成を変更し、二階堂行方がこれを書き改めた。
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  廂御所結番についての定め
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    一番(1日から5日まで)
      一條中将      尾張左近大夫将監北條(名越)公時  越後守北條時盛
      新相模三郎北條政村  武蔵八郎北條頼直(朝直の子)    武藤少卿景頼
      佐渡五郎左衛門尉   出羽三郎左衛門尉         小野寺新左衛門尉
      上総太郎左衛門尉   鎌田三郎左衛門尉         一宮次郎左衛門尉
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    二番(6日から10日まで)
      阿野少将  治部権大輔  武蔵左近大夫将監
      備前三郎  和泉前司   駿河右左近大夫
      下野四郎左衛門尉     常陸次郎左衛門尉     城五郎左衛門尉
      後藤壱岐左衛門尉     信濃判官次郎左衛門尉   平賀三郎左衛門尉
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    三番(11日から15日まで)
      陸奥左近大夫将監  宮内権大輔     中御門少将
      越前前司      秋田城介      駿河次郎
      武藤右近将監    薩摩七郎左衛門尉  出羽七郎左衛門尉
      伊勢次郎左衛門尉  城弥九郎      大曽祢太郎左衛門尉
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    四番(16日から20日まで)
      讃岐守       弾正少弼      相模三郎
      武蔵五郎      後藤壱岐前司    出羽大夫判官
      城四郎左衛門尉   信濃次郎左衛門尉  武藤左近将監
      和泉三郎左衛門尉  鎌田次郎左衛門尉  狩野四郎左衛門尉
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    五番(21日から25日まで)
      中御門新少将    民部権大輔     遠江七郎
      足利上総三郎    新田参河前司    兵衛判官代
      式部太郎左衛門尉  大隅修理亮     筑前三郎左衛門尉
      美作兵衛蔵人    壱岐三郎左衛門尉  大泉九郎
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    六番(26日より晦日 (月末) まで)
      二條少将      刑部少輔      遠江右馬助
      越後四郎      木工権頭      図書頭
      城六郎       周防五郎左衛門尉  加藤左衛門尉
      甲斐三郎左衛門尉  上総三郎左衛門尉  土肥四郎
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  以上の結番内容を守り五日間の昼夜過怠することなく勤めるよう命じる。   正元二年二月日
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   ※廂御所: 将軍の居間が廂御所、宿直と警護に任じる廂番が詰めるのが庇の間。従来の廂番は
10人一組で6番だったが、増員されて12人一組で6番の編成となった。
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   ※一條能基: 一條能保-嫡子高能 (生母は 頼朝の姉妹 坊門姫-三男で嫡男の 頼氏-その嫡男が
能基。父の頼氏は 北條時房の娘を妻にして鎌倉との関係を深めていたが、叔父の信能と庶兄の尊長は後鳥羽上皇の近臣として承久の乱 (1221年) の惹起 (引き起こし) に深く関与した。
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時房の婿の立場に危険を感じた頼氏は京都を脱出して鎌倉に逃げ、京都の情勢を詳細に伝えて幕府方の作戦立案などに大きく貢献する事になった。
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戦後には信能と尊長は処刑され、当主の立場を取り戻した頼氏は幕府の後ろ盾もあって順調に出世し、宝治元年 (1247) には従二位に叙されている。更に二人の息子 (能基と能清) の妻を北條氏から迎えて関係を深めたが、息子の次代には北條氏との関係が薄れ、家運は徐々に衰退したらしい。
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西暦1259年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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3月 1日 戊辰
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。若宮 (鶴岡八幡宮寺) の別当僧正 隆弁が京都から鎌倉に戻った。
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園城寺三摩耶戒壇の勅許を得る目的で去年9月14日に上洛の途に就き今年の正月4日に上奏して勅許を得たが、比叡山の衆徒が (反対の) 強訴に及んだため、20日に官符 (太政官の公文書) を撤回する結果になった。21日なって寺門 (園城寺) の衆徒と僧正仙朝と法印浄有と忠尊以下の役僧30余人が金堂に集まって僉議 (多人数による評議) を続け、23日になって解散した、と。
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   ※隆弁: 建保七年 (1219) 1月、園城寺の阿闍梨 公胤の元で修行して受戒を済ませた八幡宮寺別
当の公暁二代将軍 頼家の息子) が雪の鶴岡八幡宮で三代将軍 実朝を斬り殺した。
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その後の承久の乱 (1221) を主導した 後鳥羽上皇と阿闍梨公胤が親しい関係だった事もあって園城寺と鎌倉幕府との関係が悪化し、経済的な後援を得られない状態が続いていた。
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園城寺で出家し頭角を現した隆弁としては園城寺の再興が最大の悲願であり、幕府の権威を背景にして戒壇を設置し寺を隆盛に導くのが取り敢えずの夢でもあった。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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3月14日 辛巳
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吾妻鏡
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晴。日の色が赤いため御所で為親朝臣が御祓いを催した。将軍家代参は薩摩七郎左衛門尉伊東祐能。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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3月15日 壬午
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吾妻鏡
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日の色の赤が続いているのは曇天に加えて厚い紅霞が原因である。夜に入って朧月も晴れに向かった。第87代四條天皇の御代 (在位1232~1242) に 石清水八幡宮 (公式サイト) 行幸の日にも同様の異変があったという。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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3月16日 癸未
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吾妻鏡
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世の中の無事を祈るため御所で大般若経の読経法要をが始められた。
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   ※大般若経: 真実の成立の異なる般若経典類 (仁王経と般若心経以外) を集大成して空の思想を
説き、智慧 (般若) を明らかにする経典。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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3月18日 乙酉
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吾妻鏡
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晴。鶴岡八幡宮に於いて大仁王会を修した。
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   ※大仁王会: 仏教における国王のあり方について述べた経典である仁王般若経を読誦する法会。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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3月21日 戊子
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吾妻鏡
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晴、風が鎮まった。戌刻 (20時前後) に御息所 (将軍 宗尊親王の正室 近衛宰子) が御所へ。
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先ず御輿を東御亭 (相模太郎 北條時宗亭) の檜皮寝殿の妻戸 (両開きの板戸) に寄せ、東の御方 (正室となった宰子を差す) が相模守 北條政村と武蔵守 北條長時を従え西門 (平門、棟の低い平屋根の門) から出御した。雑色二人が松明を持って前を歩き小町大路を南へ進んで御所東門 (切妻屋根の棟門)から東北の庭に入った。
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将軍家は東の侍 (控えの間) から密かにこれを眺め、土御門中納言、花山院中納言、一條少将雅有朝臣、弾正少弼業時 北條業時、木工権頭藤原親家、相模三郎時利 (北條時輔) 、越後四郎時方 (後の 北條顕時) 、前陰陽少允安倍晴宗朝臣らが近くに控えた。御輿を中御所南の渡り廊下の西向き妻戸の内側に寄せ東の御方と一條局が入御した。
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 扈従 (付き従う者)
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  相模守北條政村 (雑色二人、直垂を着す者五人) 以下、全員が布衣。並んで武蔵守北條長時 (従者は
  は同じ)   武蔵前司 北條時直 (雑色二人、童一人、直垂を着す  尾張前司 北條時章 (同)      並んで左近大夫将監 北條義政(同 )
  相模太郎 北條時宗殿(雑色二人、童一人、直垂を着す者五人)   並んで相模四郎北條宗政
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  その他に
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大曽祢太郎左衛門尉長頼  梶原太郎左衛門尉景綱  対馬四郎左衛門尉宗綱
岩間平左衛門尉信重筑前四郎左衛門尉行佐  鎌田図書左衛門尉信俊  伊勢次郎左衛門尉行経  信濃次郎左衛門尉行宗  上総三郎左衛門尉義泰  大隅四郎左衛門尉
以上十人は直垂を着して御輿の左右に列歩した。
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他に参席を打診した越後守 北條実時は妻室の病気により障りありと申し出た。
女房の東の御方、兵衛佐局、周防局が閑路より参上して御膳を献上。東の御方が陪膳 (給仕) を、別当局、兵衛佐局、周防局が運び役に任じた。
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吉時になって将軍家 (御烏帽子、直衣) が出御。土御門黄門 (中納言) 顕方が御剣役を、相模太郎時宗殿が御沓役に任じた。御伝母が御衾を覆い (初夜の寝室に向かう意味らしい) 御沓を取り退出された。
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   ※閑路: 何と田舎道の意味だとは思ったが古語辞典に載っていな
いので何となく気になっていた言葉。頼朝の挙兵を描いた吾妻鏡 治承四年 (1180) 8月17日の 山木 兼隆邸討ち入りについての記述 (以下) を思い出した。
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北條時政が申し出た。「今日は三嶋の神事で、参詣する者が多い牛鍬大路を行けば怪しまれる、蛭嶋通りを行くべきか」と。それに答えて武衛 (頼朝) は「その通りではあるが、事の草創に閑路は使いたくない。
また蛭嶋通りは騎馬に適さず、堂々と大道 (牛鍬大路 ) を行け」
と命じた。
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  参考に、山木邸討ち入りの地図を。
     クリック→ 別窓で拡大表示
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横の太線が「閑路」の蛭島通、右から上中央の縦線が牛鍬大路。念のため書き加えると、守山の東に書かれた「当時の狩野川」は「推定した説」であって、狩野川の流路が恒常的に東側だった地質学的根拠はない、らしい。
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更に詳細は 山木合戦の顛末 (別窓) で。さて「閑路」は田舎道か人通り少ない道か、抜け道か。古文の素養が乏しいと苦しみが多い。女房 (女官) が誰か、所属部署は、など不明のまま。
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   ※障り: 弓始めなどで「病気などの支障があるため欠席」を申告する例が散見されるが、これ
は体調が云々ではなく「病などによる穢」を持ち込むのを憚っている。
必ずしも義務から逃げる口実 (安倍晋三の仮病みたいな敵前逃亡) ではないらしい。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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3月22日 己丑
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吾妻鏡
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晴。将軍家が中御所 (正室となった 近衛宰子の私室を差す) に入御した。ただし密儀なので御儲け (準備や接待) は不要である、と。
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   ※密儀: 非公式程度の意味か。「閨の秘め事」なら密議でも良いけど、別の表現が欲しい。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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3月25日 壬辰
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吾妻鏡
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晴。卯一点 (朝5時過ぎ) に大地震。陰陽師が勘文 (諮問への上申) を和泉前司 二階堂行方に提出した。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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3月27日 甲午
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吾妻鏡
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晴。将軍家の御吉事 (婚姻に伴う諸事 ) が滞りなく終わった旨の報告があった。
相模守 北條政村を始めとする人々 (布衣、下括り) が参候し未刻 (14時前後) に将軍家が中御所に入御 (御直衣) 、進物の儀あり。
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御剣は武蔵守 北條長時、砂金 (百両、銀の扇に置く) は相模太郎 北條時宗殿、南廷 (銀の延べ板、同様に扇に置く) は相模四郎 北條宗政。また女房一條局分として砂金 (三十両) は秋田城介 安達泰盛が持参した。
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別当局から宮内権大輔 長井時秀を介して南廷を三個、他に風雅に飾った帖絹と紺絹を女房に賜った。
また細櫃二合 (各々帖絹二十疋入り) を力者 (輿や馬など力仕事を務める者) らに下賜し、その後に将軍家は寝殿に還御した。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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3月28日 乙未
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吾妻鏡
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晴。和泉前司 二階堂行方が御息所 (将軍正室近衛宰子) の季節別衣類装身具の注文明細を御所に持参し、将軍家 宗尊親王がこれを確認した。
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  正月分   御小袿 (二陪織物三陪)   御表着 (二倍織物三陪)   重御衣 (下綾、上二陪織物)
御単  紅の御袴  三御小袖  三御衣  二御衣  二御小袖二具  薄御衣
白御衣  御裳  色々の御小袖五具  御宿衣  御明衣二  今木二具
御櫛一束  御櫛払い  御払い  御畳紙  御眉墨  御眉造  御赭
御白粉  御護り
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  二月分   二御衣  二御小袖  色々の御小袖五  御裳一
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  三月分   二月に同じ
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  四月分   御袿 (二陪織物)   合御衣五 (唐織物、綾練貫、状況により)   更衣御単
合御衣  合二御小袖  合御小袖三  紅の御袴  御裳三
生御宿衣
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  五月分   御小袿 (二陪織物)   御単  御捻重(五重、上二陪織物九、唐織物九)
御小袖単重  紅の御袴  二生御衣  合御小袖二  御帷五  御裳三  生御宿衣
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  七月分   御小袿 (二陪織物)   御単重 (二陪織物九、唐織物九)   御小袖単重  紅の御袴
生御衣  御帷七  御裳三  御明衣二  今木二具
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  九月分   御小袿 (生二陪織物)   生七御衣 (上二陪織物九、唐織物九)   御単
生二御小袖 (御綿を入る)   紅の御袴  二生御衣  御小袖五  御裳三
  以上の七ヶ月分は奥州禅門 (北條重時) の御沙汰。
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  六月分   御単重  生御小袖  白御袴  生御衣  御帷七  御裳二
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  八月分   二生御衣  御単  生御小袖  白御袴  生御衣  合御小袖三  御帷二
御裳二  御明衣
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  十月分   御小袿 (三陪織物)   八御衣 (上二陪織物)  御単二  二御小袖  紅の御袴
三御衣  二薄御衣  二御小袖  紅の宿衣  色々の御小袖五  御裳二
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  十一月分  二御衣  二御小袖  色々の御小袖五  御裳三
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  十二月分  十一月に同じ  以上五ヶ月は相州禅門北條時頼の御沙汰。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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4月 1日 戊戌
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吾妻鏡
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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婚儀に伴う儀式が済んだ後に将軍家 宗尊親王御が入道陸奥守 北條重時に入御する際の供奉人について沙汰があり、通例の通り総人数を書き出した名簿に付点した。
名簿に載りながら付点に漏れた者は次の通り。
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遠江右馬助  越後右馬助  駿河四郎  同五郎  武蔵五郎  同八郎  那波刑部少輔
上総介  周防守  梶原上野前司  伊賀前司  甲斐守  長井判官代  城弥九郎
後藤壱岐新左衛門尉  大隅修理亮  筑前三郎  同四郎  和泉六郎左衛門尉
同七郎左衛門尉  伊勢三郎左衛門尉  信濃判官次郎左衛門尉  式部次郎左衛門尉
武藤右近将監  伊賀式部八郎左衛門尉  小野寺新左衛門尉  伊東次郎左衛門尉
土肥四郎  天野肥後新左衛門尉  薩摩九郎左衛門尉  同十郎左衛門尉  大泉九郎
後藤次郎左衛門尉  相馬五郎左衛門尉  隠岐三郎左衛門尉  平賀三郎左衛門尉
狩野五郎左衛門尉  同四郎左衛門尉  .
筑前三郎左衛門尉 (事前に支障の申し出)
式部太郎左衛門尉 (服暇(服喪)の日数が残るため憚るよう仰せ)
鎌田三郎左衛門尉 (御点なしだが式部太郎左衛門尉の替わりとして供奉せよとの仰せあり)
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  また追加として信濃前司  駿河右近大夫  駿河次郎
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   ※重時邸: 北條重時は建長八年 (1256) 3月11日に連署を辞任して出家し、その後に極楽寺の地
に隠居したとされている (正確な時期は記載なし) 。
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将軍 宗尊親王は弘長元年 (1261) 4月24日にも重時邸を訪問しているが、この時の吾妻鏡は 「奥州禅門極楽寺新造山庄に入御」と明記しており、正元二年の初回訪問は極楽寺邸ではなかった可能性が高い。
極楽寺...寺院と山荘は近隣だが別の建物と考えるべきだろうか。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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4月 2日 己亥
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吾妻鏡
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将軍家 宗尊親王の出御を明日に控え、式部太郎左衛門尉の外舅が若狭国で他界した件は鎌倉への連絡が遅れており、服喪期間を勘案すると禁忌に該当する日数が殆ど残っていないため当初は供奉人の名簿に加えていた。
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今日結果として憚りありとの沙汰が下されたが、鶴岡八幡宮別当に確認すると「問題なし」とのこと、鎌田三郎左衛門尉に光政の代行を務めさせる件は本人が出仕するため無用、と定められた。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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4月 3日 庚子
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吾妻鏡
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晴。将軍家 宗尊親王が奥州禅門北條重時邸に入御、御息所(正室の近衛宰子)が同乗した。
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 供奉人 (布衣)
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土御門中納言顕方卿      花山院中納言長雅卿     二條三位教定卿
中御門少将宗世朝臣      前兵衛佐忠時朝臣      二條少将雅有朝臣
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武蔵前司北條朝直 (御剣役)   遠江前司北條時直     越後守北條実時
刑部少輔北條教時       越前前司北條時弘 (時広)   弾正少弼北條業時
左近大夫将監北條 (名越)公時  左近大夫将監三浦時連    新相模三郎北條時村
相模三郎北條時利 (後の時輔)  越後四郎顕時        遠江七郎時遠(北條時直の七男)
和泉前司二階堂行方      秋田城介安達泰盛      宮内権大輔長井時秀
中務権少輔守教        出羽前司小山長村      壱岐前司後藤基政
木工権頭藤原親家       参河前司新田(世良田)頼氏  太宰少弐武藤景頼
縫殿頭中原師連        対馬前司佐々木氏信     日向前司宇佐美祐泰
城四郎左衛門尉安達時盛    同六郎安達顕盛       武藤左衛門尉頼泰(景頼の三男)
下野四郎左衛門尉宇都宮景綱  式部太郎左衛門尉伊賀光政  常陸次郎左衛門尉行清
出羽七郎左衛門尉二階堂行頼  信濃次郎左衛門尉時清   周防五郎左衛門尉忠景
上野三郎左衛門尉義長     遠江十郎左衛門尉三浦頼連 伊勢次郎左衛門尉行経
大曽祢太郎左衛門尉長頼    小野寺四郎左衛門尉道時  薩摩七郎左衛門尉伊東祐能
加藤左衛門尉景経       鎌田三郎左衛門尉義長   鎌田次郎左衛門尉行俊
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相模守北條政村、武蔵守 北條長時、尾張前司 北條時章(供奉人の名簿に載るが業務ありと称して行列に加わらず)、相模太郎 北條時宗殿、相模四郎 北條宗政は予め御所に参候して手配してあった (御息所の) 御衣装を出居 (庭続きの部屋) に揃えて置いた。
紅の御衣一具、御衣、指貫、小袖十具、七御衣一具(生御単)、御小袿、紅の御袴、御小袖十具である。
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御盃酒の後に御引出物を献上。
御剣は尾張前司 北條時章、砂金は越後守 北條実時、南廷 (銀の板) は秋田城介 安達泰盛
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   一の御馬は  新相模三郎北條時村   と 式部太郎左衛門尉
   二の御馬は  武蔵五郎北條時忠(宣時)  と 浅羽左衛門次郎
   三の御馬は  相模太郎北條時宗殿   と 波多野出雲次郎左衛門尉
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御息所には織物で蓬莱を描いた飾り物を献上した。女官には絹百疋を、公卿には剣を、殿上人には馬を、五位と六位には沓と行騰を献じた。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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4月 6日 癸卯
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吾妻鏡
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晴。去年冬の頃から時行 (流行り病) が蔓延しているため祈祷を催すよう諸寺に通達した。.
西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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4月12日 己酉
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続史愚抄
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今暁 子丑刻 (深夜1時前後) に万里小路殿が焼亡、放火である。
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   ※万里小路殿: 後嵯峨上皇の御所で元は但馬守源高房 (今上
天皇の直系先祖か) の屋敷で、第71代の後三条天皇 (在位:1068~1073年)崩御の場所でもある。
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その後は中納言源能俊が所有し第72代白河天皇 (在位:1073~1083年)の仮御所や 鎌倉時代後半には里内裏や仙堂 (院の御所) にも使われてた。
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右は大炊御門万里小路殿跡エリア鳥観図 (京都御苑の南側、クリック→ 拡大表示)。
富小路通りの富有自治会館前(京都市中京区大炊町351)に御所跡地を示す石柱がある。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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4月13日 庚戌
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続史愚抄
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改元。正元を改めて文応、代替に依る。文章博士在章 撰、奉行は蔵人頭宮内卿資平朝臣。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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4月17日 甲寅
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吾妻鏡
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晴。六波羅の飛脚が到着して報告、去る12日の丑刻(深夜2時前後)に院の御所が焼失した、と。
また山徒 (比叡山の衆徒) が血を以て神輿を塗った事を同様に報告した。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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4月18日 乙卯
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吾妻鏡
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晴。和泉前司 二階堂行方と少卿 武藤景頼を介して、厨房に下働きの武士を5人増員するよう指示があった。工藤三郎右衛門尉光泰と平岡左衛門尉実俊がこれを奉行し 村岡籐五太郎、同 籐四郎、村岡弥五郎、亀谷源次郎、入野平太の5人を選んだ。
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今日、改元の詔書が到着。去る13日に正元二年を改めて文応元年とした。新帝 (亀山天皇、前年11月26日践祚) の即位により、文章博士在章が撰進した。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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4月19日 丙辰
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吾妻鏡
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曇。少卿 武藤景頼の奉行として御祈祷を始めるよう指示されたが、陰陽道から「八専による憚り」との指摘があり、保留となった。
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   ※八専: 壬子から癸亥まで12日間の 丑、辰、午、戌を除く8日。年に6回あり、婚姻や神仏に関
わる事などを忌む。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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4月22日 己未
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吾妻鏡
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晴。政所で改元の吉書を行なった。また御祈祷に関しては陰陽道からの指摘に拠らず特に急ぐべきとの思し召しがあり、重ねての評定を経て今日から開始となった。担当は松殿法印と左大臣法印。
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今日、将軍家 宗尊親王が体調を崩したため戌刻 (20時前後) に御所南庭で千手供を修し、更に千手陀羅尼経を続けた。導師は若宮別当僧正 隆弁、伴僧八人を率いてこれを奉仕した。
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   ※千手陀羅尼経: 一眼を備えた千本の手を持ち全ての人を救う千手
観音像の功徳を説く経典 千手経。鎌倉の禅宗との関係も深い。
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右は蓮華王院 (通称三十三間堂) の本尊で千手観音像千体の中尊。 クリック→ 別窓で拡大表示
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建長元年 (1249) 3月の本堂焼失後 最初の復興事業として大仏師 湛慶 (Wiki) が同年7月~建長六年 (1254) 1月まで費やして彫った像。国宝、木造漆箔
像高335cm、湛慶82歳の遺作である。 
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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4月24日 辛酉
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吾妻鏡
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将軍家の病状が食事を摂るまでに回復した。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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4月26日 癸亥
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吾妻鏡
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将軍家の体調不良に関し、昨夜 女房 (女官) 尼左衛門督局の夢に一人の僧が現れて次のように告げた。
「懇切丁寧な祈祷があり、病気が幕中に入る事はない」、と。
今朝になって彼女が夢の内容を語ったため右京権大夫茂範朝臣に尋ねたところ、「将軍家の御居所は幕中であり、霊験は炳焉 (明らか) である」と語った。
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   ※藤原茂範: 南家出身の文章博士、従二位。 一時期の将軍 宗尊親王に近侍して講師を務めた。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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4月29日 丙寅
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吾妻鏡
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丑刻 (深夜2時前後) に鎌倉中が大火。長楽寺の前より亀ヶ谷の家屋まで燃えた。
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   ※長楽寺: 現在の 鎌倉文学館 (地図) 一帯にあった大寺。寛元四年 (1246) 閏4月1日の吾妻鏡に
ある「禅室北條経時を葬送、佐々目山麓に葬った。」のも多分、この近くだと思う。
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元は嘉禄元年 (1225) に頼朝の菩提を弔い晩年の 政子が建立、幕府滅亡の戦火により失われた。
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一帯は極楽寺坂を突破した 新田義貞の軍勢が若宮大路を目指して北條勢と激戦を繰り広げたエリアである。焼失後は大町に再建し名称を 安養院 (訪問記) に改めている。
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延宝八年 (1680年、徳川五代将軍綱吉の頃) に再び全焼し、頼朝股肱の家臣だった 田代信綱が比企ヶ谷に建立した田代寺の観音堂をここに移築して寺を再建、現在に至っている。その複雑な経緯により、安養院の正式名称は祇園山安養院田代寺とされている。
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右画像は安養寺の奥に残る二基の宝篋印塔。左が北條政子を慰霊する宝篋印塔で、鎌倉幕府滅亡後の室町時代作と伝わる。更に詳細は上記 安養院 (別窓) の項で。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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4月30日 丁卯
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吾妻鏡
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晴。今日の評議で、負物 (借財) には関与しないのが幕府の方針だが、尩弱の輩 (貧しい零細御家人) の嘆きが多く、今後は何らかの対処が必要との結論があった。
また訴訟について、叙用しない (召喚に応じない) 事例が三度続けば所帯 (地位、官職、領地、財産など) を注進 (書き出して報告) せよとの御教書を出す事になる、と。
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   ※零細御家人: 惣領制の崩壊や貨幣経済普及の影響を受け、執権 北條泰時の時代 (1224年~
1242年) よりも御家人社会での貧富の差は深刻になっている。
御家人の間に広がった不満は二度の元寇 (1274年の文永の役、1281年の弘安の役) によって更に深刻化していく。
命懸けで戦っても恩賞は雀の涙 、「支給する原資がない」と言われても承服はできない。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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5月 4日 辛未
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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故武州禅門 北條泰時の御成敗 (御成敗式目、貞永式目を差す) は改訂の必要なしと記載されている。
ただし、尚も再検討すべきと考える者があればこの記載に拘らず再検討を容認し、また (泰時が没した) 仁治三年以後に御教書で変更を決裁したものは検討の対象から除外する。
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   ※御成敗式目: 内容は 玉川学園のサイト (別窓) が最も解りやすいから参考に。泰時のクソ真面
目さと権力に対する淡白さ (不器用で融通が利かない上にさして有能でもないが) を考えると、歴代執権の中では飛び抜けて良心的な為政者だった、とは思う。時頼とは両極端、ね。
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最も狡猾で卑劣な嘘つきは二代執権の義時、現代の政党に例えれば公明党だ。自民党に密着して離れない「下駄の雪」、今では「下駄の石」。踏まれ続けても絶対に離れない。カルト教団にとって政治権力は際限なしに金を産む「打ち出の小槌」、ゲスな奴らだ。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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5月10日 丁丑
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吾妻鏡
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晴。秋田城介入道覚智 (安達景盛の法名) の第三年追福が行われ、松下禅尼を施主として願文を献納した。清書は右京権大夫茂範朝臣、曼陀羅供供養の大阿闍梨は日光別当法印尊家。
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   ※第三年の追福: 死者の冥福を祈る追善供養に同じ。高野山での景盛の死没は宝治二 年 (1248)
5月18日だから十三回忌の筈で、第三年の意味がちょっと理解できない。
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一方で松下禅尼は夫の 北條時氏の早世後は剃髪して実家の甘縄邸に住み、遺児 経時 時頼の養育に努めた。更に孫の 時宗にも大きな影響を与えた。
押しも押されもせぬ 典型的な良妻賢母である。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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5月13日 庚辰
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吾妻鏡
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晴。子刻 (深夜0時前後) に将軍家が体調を崩して病床に就いた。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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5月16日 癸未
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吾妻鏡
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雨。将軍家の病気に対応して御祈祷、鬼気祭 (疫鬼を追い祓う祈祷) と御夢祭 (悪夢に対応) を催した。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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5月18日 乙酉
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吾妻鏡
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雨。将軍家が病気から回復した。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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6月 1日 丁酉
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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疾風と暴雨と洪水が重なり、川沿いの民家が土台ごと流された。山崩れによる圧死が多数あり。
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   ※洪水: 鎌倉市街を流れている川は、六浦道と若宮大路に概
ね並行して流れる滑川と、鎌倉大仏の高徳院近くを源流とする稲瀬川 (流程300m前後) 。
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平坦地が300m前後の稲瀬川を除くと、洪水を起こす可能性は滑川に限られる。滑川中流域の幕府政庁 (御所) と北條執権邸 (現在の 宝戒寺 (別窓) の位置) も洪水の被災記録は載っていない。
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更に南には小町大路沿いに御家人の家が散在し、下馬橋近くには 北條時頼の継室 葛西殿 (重時の娘) が創建した延命寺もあり、被災していれば当然記載されただろう。
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洪水による被害を相模国西部に限定すれば、江ノ島近くに流れ込む固瀬河(現在の境川、地図) や鵠沼の引地川 (地図) 、更に東の相模川や花水川 (地図) 流域の水害だと考えるべきだろう。
鎌倉市街地の自然被害は地震に伴う津波や土砂崩れなどが主体である。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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6月 4日 庚子
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吾妻鏡
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検断について幾つかの決定があり六波羅にも通達した。
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  一.各国の守護人が拘束する犯罪者について。
関東 (鎌倉) に身柄を送致する必要なし。規程に従い措置するよう守護人に周知させること。
ただし守護人が言を左右にして非據の (根拠に欠ける) 沙汰を行なっていると訴えた際には調査せよ。
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  一.関東に送致するべき犯罪人について。
特に重大な犯罪の主犯の類は先例通りに送致し、軽い罪の場合は六波羅で調査し決裁せよ。
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  一.放免(釈放、軽微な罪の拘束を解く)の事
殺人犯の場合は11ヶ年以上の拘禁、それ以外は罪の軽重に応じて措置する。
昨今は諸国の飢饉での餓死や病死など法律の範囲を越えた事例があるため同様の場合は年数を定めず、今年の犯罪に限っては特に指摘するべき別の理由がなければ放免とする。
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   ※検断: 鎌倉中期以降に刑事事件を扱った訴訟制度で 犯罪者の検挙、裁判、判決の執行が検断
沙汰。鎌倉では侍所、京都では六波羅の検断担当、他の地方では守護と地頭が担当部署だった。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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6月 5日 辛丑
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吾妻鏡
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雨。続いている降雨を止める祈祷 (要するに雨乞いの反対) として安祥寺僧正良瑜が一字金輪法を修した。今日、放生会の供奉人を召集する回覧の名簿を書き整えた。
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   ※一字金輪法: 大日如来が至高の境地で説いた真言の一字を人格化した一字金輪仏を本尊とす
る修法。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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6月 7日 癸卯
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吾妻鏡
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雨、未刻 (14時前後) に晴。先月16日から続いた霖雨 (長雨) が止み晴天、偏に法験の結果である。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
正元二年
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6月12日 戊申
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吾妻鏡
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庶民に流行する疫病を退治するため祈祷を行なうよう、今日諸国の守護人に通達。その御教書は次の通り。
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  諸国の寺社で大般若経の転読を行なう事。
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国土の安穏と疾病退治を目的として、諸国の寺社で大般若経と最勝仁王経を転読せよ。早急に担当する国の寺社の住僧に命じて丁寧な転読を行なうよう地頭らに通達し、知行所(直轄地)では厳重に命令するよう、仰せに従って通達する。
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     文応元年六月十二日    武蔵守 北條長時  相模守 北條政村    某殿
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   ※6月12日: 太陽暦の7月21日に該当。梅雨が過ぎ暑い季節になる筈なのに雨続きで凶作の気配
があり、既に餓死も起きている。更に疫病が蔓延している暗い夏だ。
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   ※転読: 百聞は一見に如かず、動画の様子から実態の確認を。信仰と言うより虚構の世界だ。
この坊さんたちが信仰心を抱いて転読しているのかを考えると虚しい気持ちになる。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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6月16日 壬子
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吾妻鏡
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将軍家の放生会御参宮供奉人の惣記が小侍所(別当は越後守 北條実時)から武蔵守 北條長時に献じられた。今後の参考に供する目的であり通例の通り将軍御所に進覧するように仰せられて返却された。
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   ※惣記: 当初は「全ての記録」と考えたが6月18日の記載には提出先の 二階堂行方から数ヶ所
の訂正が必要と指摘されている。「供奉人全体の計画表」と理解すべきらしい。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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6月18日 甲寅
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吾妻鏡
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供奉人の惣記を和泉前司 二階堂行方に提出、数ヶ所の訂正が必要との指摘を受けた。
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御息所 (将軍の正室 近衛宰子) の御参宮記載が必要な事、随兵として載る相模太郎 北條時宗と同三郎 時輔は御息所の御供であるべき事、武蔵前司 北條朝直は供奉人として (将軍による) 付点はあるが 廻廊に参候すべき事、壱岐前司 佐々木泰綱は付点ありだが 今回は外すべき事、小山出羽次郎は付点はないが随兵に加えるべき事、などである。
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   ※小山出羽次郎: 出羽前司 小山長村の次男で小山氏五代当主を継ぐ時長 (当時16歳) だと思う。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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6月19日 乙卯
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吾妻鏡
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晴。浜の鳥居の近くで天文博士 為親朝臣が風伯祭を行なった。将軍家の代理は安芸右近大夫重親、今回は御気色 (将軍家の意向) に従って旧の祭文 (祈願文、祝詞) を用いる、と。
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   ※浜の鳥居: 寛喜三年 (1231) 6月15日の吾妻鏡にも由比ヶ浜の鳥居 (浜の大鳥居) で風伯祭を催
した記録がある。建造当初の位置は確認できないが、取り敢えず参照されたし。
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   ※風伯祭: 東西南北の四方に存在する風の神を祀る祭事。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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6月22日 戊午
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吾妻鏡
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相模四郎 北條宗政は布衣を着すように。同三郎 北條時輔は元の通り随兵に加わるようにとの事。
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   ※布衣と随兵: 布衣 (狩衣の別称で略礼服) と随兵の区分は史料では確認できないが、構成メン
バーを比べると布衣の方が上位にある。
将軍が示した最初の構成は 時輔 時宗も布衣での供奉だったが、父親の北條時頼はこの機会を利用して得宗家の明確な序列を示した。
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9歳の時宗 >7歳の宗政 >12歳の時輔...これは兄の四代執権 経時が早世した際に (若年だった経時の息子を排除し半ば強引に) 執権を継いだ時頼の経験から得た結論だ。
評定衆の合議ではなく得宗の権限で権力の序列を明確にしておく、と。
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名越流 (始祖は朝時) の息子 時章 教時には具体的な謀反計画などなかったのに、結局は 二月騒動 (Wiki) で時宗に殺されてしまう。時宗には「反得宗勢力を一掃して独裁体制を確立する」明白な意図があったから助命する選択肢などあり得ない。
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頼朝が異母兄弟の 義経 範頼を殺したのと基本的には同じパターン。
独裁者は常に孤独で、見えない影に怯え続ける。敵対勢力の排除ではなく、「敵対勢力になるかも知れない勢力の排除」だから始末が悪い。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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6月25日 辛酉
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吾妻鏡
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晴。酉刻 (18時前後) に京都の飛脚が参着し、去る15日から一院 (御嵯峨上皇) が瘧 (マラリア性の熱病) を病んでいる旨を報告した。
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   続史愚抄一院の御病悩に対応して御剣を 石清水八幡宮
(公式サイト) に献じた。
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   ※参考に: 30年近く昔、キャンピンク・カーで石清水から
羽曳野を経て明日香まで旅した事があった。
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石清水八幡宮には特に記憶は残っていないが、羽曳野 通法寺には (既に廃寺だが) 源氏隆盛の初期に活躍した頼信頼義義家の墓所がある。
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石清水からは50数kmの距離で、二度上洛した頼朝が詣でても不思議ではない偉大な先祖の聖跡なのに、吾妻鏡にはここを巡拝した記録がない。なぜだろう?と考え込んだ記憶が残っている。
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右は通法寺の約400m南、八幡太郎義家の円墳。クリック→ 通法寺訪問頁 (別窓) へ
 興味があれば 奈良 明日香村遺跡群へ も、お口汚しに。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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6月26日 壬戌
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吾妻鏡
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晴。和泉前司 二階堂行方を奉行として、酉刻 (18時前後) に報告が届いた上皇の病気に関する占いを行ない、来月7日までに本来の体調に回復する旨の結論を得た。
その後に薩摩七郎左衛門尉 宇佐美祐能が (病気見舞いの) 使節として上洛することになる。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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6月30日 丙寅
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吾妻鏡
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晴。木工権頭 藤原親家が御使として上洛の途に就いた。更なる病気見舞いである。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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7月 2日 戊辰
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。京都の飛脚が参着し、後嵯峨院の病状が概ね回復したと報告。御験者 (病気回復や除災の秘法を行なう修験道の行者) は左大臣法印、近衛右府の息子である。
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   ※近衛右府: この時代の右大臣は三月に着任した 近衛基平 (Wiki) 。左大臣法印は息子の覚昭で興福寺
一条院の門跡と 大覚寺門跡を兼ね、嘉元元年 (1303) には 興福寺 (共に公式サイト) の別当に任じている。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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7月 4日 庚午
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吾妻鏡
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晴、夜になって雷雨。
今日三浦式部太郎左衛門尉光政が使節として上洛の途に就いた。病気回復の祝賀である。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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7月 6日 壬申
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吾妻鏡
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和泉前司 二階堂行方を介して越後守 北條実時と相模太郎 北條時宗に下問があった。
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去年随兵に招集された際に大須賀新左衛門尉朝氏と阿曽沼小次郎光綱が勝手に欠席し、更に光綱は子息の五郎に代行させ、朝氏は弟の五郎左衛門尉信泰を代理とした。この件は誰が許可したのか、と。
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北條実時らは「口頭では仔細の報告ができないため、退出した上で文書により報告する」と答えた。その後に書類を整理し、工藤三郎右衛門尉光泰を介して先ず相州禅室北條時頼に見せ「載せている内容が詳細過ぎる。ただ光泰と実俊らの言葉を書き記して行方に渡し、陳謝を明確に申し述べるが良い。」との答を得た。
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報告書の内容は次の通り。
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去年八月の放生会に於ける供奉人について仰せのあった両條について。
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    一.阿曽沼小次郎が随兵役を子息に勤めさせた事。
廻状に体調不良を記入し子細を言上したところ、光泰と実俊を介して子細の御尋ねが再三あり、勤仕させよとの仰せが下されました。勝手な交替ではありません。
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    一、大須賀新左衛門尉と同、五郎左衛門尉に関する事。
右大須賀新左衛門尉は随兵の付点を頂いた時は既に病気だったため報告の上で遠慮しました。
また五郎左衛門尉は最初から直垂を着した役の付点を頂いたため勤仕しています。
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この両人は個人の勝手な判断ではなく両條のように認識しております。胸臆 (心中) を述べた内容であり、御信用には不足かも知れませんが、更に細かく書き記すのを避け私の判断を書き添えて報告いたします。
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     七月六日     平時宗    越後守実時     進上 和泉前司殿
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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7月 7日 癸酉
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吾妻鏡
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朝氏と光綱の件について 二階堂行方は光泰と実俊が述べた内容を報告した結果は特に問題ではなかった。越後守 北條実時らの書状は禅室 (時頼) の指示に従って提出を保留した。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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7月 8日 甲戌
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吾妻鏡
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放生会に供奉する際の直垂を着す者を付点するため相応しい輩を撰んで名簿を提出せよとの仰せが先月16日に下され、小侍所で慎重に選び出した。一昨日進覧に供し今日付点の済んだ名簿は召集のため返却された。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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7月10日 丙子
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吾妻鏡
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鎌倉中の保 (末端の行政単位) では特に狼藉を鎮むよう御教書を発行した。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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7月16日 壬午
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続史愚抄
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日蓮が安国論一巻を著して入道 平 (北條) 時頼に献じた。
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   ※安国論: 正確には立正安国論、松葉ヶ谷の草庵 (後述) で書き上げたと伝わる。内容の概略は以下。
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正嘉年間 (1257~1259年) から地震や暴風雨が続き、飢饉や疫病などによって多くの人々が苦しんでいる。この原因は、人々が正法である法華経を信じずに邪宗の浄土宗などを信じているためで、正法のためには邪宗の者を殺すことも躊躇すべきではない。
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このまま浄土宗などの跋扈 (ばっこ、好き勝手に振る舞う事) を許せば、国内の混乱や外国の侵略により国が滅びる結果となる。邪宗を排除して正法の法華経を中心 (立正) にすれば国も民も安泰 (安国) になる。
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魂の救済と心の平和を求めている限りでは全ての宗教は正しいのだが、組織の過ちは組織を運営する宗教者が引き起こす。法華宗 (日蓮宗) を標榜する創価学会も本来の理念は正しいにも拘わらず、組織が肥大すれば維持に必要な資金や権力も膨れ上がる。清貧を維持したまま拡大した宗教団体などありはしない。
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道を踏み外したのは宗教の理念ではなく運営に任じる宗教者の側にある。日蓮が説いた法華経の理念は正しいのに、理念を正しい手法で実施しなかったのは法華宗の宗教者でもある。
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日蓮が類まれな強い影響力を駆使し得た人物で、「この末法の世界では法華経の教えに帰依する事のみが救われる道」と主張したのは一面で間違いない。日蓮の教えは幕府の中枢をも含めて急速に広まり、当然ながら非難された他の宗教 (念仏宗、真言宗、律宗、禅宗) の側は反発を強めてしまう。
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特に「殺すのも厭わない」とまで罵られた念仏宗は、日蓮襲撃事件を引き起こした。禅宗 (臨済宗) を基幹とした幕府の執権時頼としても放置できず、翌年5月には日蓮を伊豆伊東への流罪に処す結果となる。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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7月23日 己丑
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吾妻鏡
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小侍所の勤務表を更に整理し清書せよとの仰せが中山城前司盛時に下されたが病気で辞退、佐藤民部大夫行幹が仰せを受けて筆を取り、和泉三郎左衛門尉 二階堂行章を介して廂衆の御簡 (出勤札) が小侍所に下された。
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廂衆と小侍所を番 (一~六番まで) 毎に参差 (混在) させず、出勤の日を基準にして書き直すよう仰せがあったためである。また清書はこの両人 (盛時と行幹) に任せよとの指示が相州禅室 北條時頼からあった事による。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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7月25日 辛卯
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吾妻鏡
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晴。上皇病気御悩の報告を受け、信濃次郎左衛門尉 二階堂行宗が使節として上洛の途に就いた。
また今日 (6月26日に病気見舞いの使節として派遣した) 薩摩七郎左衛門尉が京都から帰参した。
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また小侍番帳について、順不同の書き方にやや違和感があり、順序に配慮して書き改めるよう仰せがあった。和泉前司 二階堂行方と少卿 武藤景頼を奉行として日頃の結番の体裁を官位や嫡庶を基準にせず、役職や勤務の有無に従って書く事になる。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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7月26日 壬辰
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吾妻鏡
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曇。京都の飛脚が再び参着し、去る21日に「仙華門院御姉、将軍家御姑」の崩御を報告した。
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   ※崩御: 天皇、皇后、上皇、上皇后、皇太后などの死去を表す言葉。将軍 宗尊親王の御姑なら、正室で
ある 近衛宰子の生母 九条仁子 (九条道家の娘) だが、彼女は仙華門院 (土御門天皇の皇女) の姉ではないし血縁でもないから、崩御は使用せず、薨御 (こうぎょ) と書くべきだろう。
名前がない件を含めて、この記事は意味が理解できない。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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7月29日 乙未
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吾妻鏡
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晴。中御所の番衆 (御所に詰めて宿直と警護に任じる者) は、廂御所に着到 (詰める、の意味か?) するよう和泉前司 二階堂行方の奉行として、工藤三郎右衛門尉光泰と平岡左衛門尉実俊に通達した。
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午刻 (正午前後) に京都の飛脚が到着し後嵯峨上皇の病気は去る21日に回復、御験者は道性僧正と報告した。今日御息所 (近衛宰子) が相州禅室 北條時頼邸に入御した。
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  供奉人
    越前前司北條時弘(時広)    刑部少輔北條教時      尾張左近大夫将監北條公時
    陸奥左近大夫将監北條義政  相模三郎時利(時輔)      新相模三郎北條時村
    壱岐前司後藤基政      和泉前司二階堂行方     出羽大夫判官二階堂行有
    式部太郎左衛門尉伊賀光政  城四郎左衛門尉頼泰     上総太郎左衛門尉長経
    武藤左衛門尉時盛      大曽祢太郎左衛門尉長頼   和泉三郎左衛門尉二階堂行章
    常陸次郎左衛門尉行清
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   ※中御所: 大檀那として中興の祖でもある 源頼朝 信濃善光寺 (公式サイト) 参拝に備えて造ら
せた館が中御所で、信濃国守護所を兼ねていた。今もそのままの地名 (地図) が残っている。「善光寺の中御所を廃止して番衆は鎌倉の廂御所に異動」なら辻褄は合うが、9月5日の吾妻鏡には「 (将軍家が) 両人を中御所に召され御衣を給う」とあり、実際は将軍正室または御所の別称として使われている。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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8月 2日 丁酉
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。 (使節として派遣した) 式部太郎左衛門尉が京都より帰参した。
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   ※式部太郎左衛門尉: 伊賀光宗の孫、伊賀光政。正嘉元年 (1257) に廂衆、正元元年 (1259) に
引付衆に任じ7月4日に後嵯峨上皇の病気見舞いに派遣されていた。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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8月 5日 庚子
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吾妻鏡
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晴。申刻 (16時頃) の激しい雨と強風で多くの人家が破損。戌刻 (20時前後) に風が止み地震があった。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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8月 6日 辛丑
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吾妻鏡
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相模三郎 北條時輔の外祖父が死没し、軽服 (軽い服喪) となった。
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   ※時輔の外祖父: 時輔の生母は石清水八幡宮領 出雲国横田荘 (地図) 地頭の三処氏の娘で側室の
讃岐局と伝わっている。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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8月 7日 壬寅
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吾妻鏡
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晴。将軍家 宗尊親王が赤痢に罹病し相模太郎 北條時宗殿の沙汰として如法泰山府君祭を行なった。祭祀に任じたのは安倍為親朝臣、狩野四郎左衛門尉が使者を務めた。
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   ※泰山府君祭: 仏教の護法善神「天部」の一人焔摩天に従う眷属で陰陽道の主祭神。生命を司
る神でもある。天曹と地府を中心とした十二座の神に金幣、銀幣、素絹、鞍馬、撫物などを供えて無病息災と延命長寿を祈祷する。如法は定められた手順通り、を意味する。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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8月 8日 癸卯
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吾妻鏡
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晴。将軍家 宗尊親王の病気に対応して、七人の碩徳 (徳の高い僧) による七座の法 (祈祷) を行なった。
安祥寺僧正、松殿法印、勝長寿院法印、左大臣法印らによる。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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8月12日 丁未
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吾妻鏡
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晴。将軍家 宗尊親王の病気に対応し、相模太郎 北條時宗殿の御沙汰として将軍家と等身の薬師像を造立した。開眼供養の導師は尊家法印、同時に薬師法を催した。
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今日六波羅に宛てて通達あり。御教書の内容は次の通り。
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問注 (訴訟の対決) 以後に提出された追進状 (追加の上申書) については、證文を提出する以外の訴陳 (訴訟内容の陳述) は不受理とする。裁判記録の具書 (証拠書類) を確認する毎に追進状の提出があっては審理が煩雑になり、今後は證文以外の訴陳状提出は受け付けない。簡要 (簡潔に纏めた状態) に準備した證文があれば準備して 覆問 (二回目の審議) 以後に提出せよ。
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    文応元年八月十二日  武蔵守 北條長時 相模守 北條政村
                    陸奥左近大夫将監 (六波羅北方の北條時茂) 殿
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   ※薬師法: 薬師如来の功徳である病気の平癒と災厄の除去などを祈願する法事。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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8月15日 庚戌
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吾妻鏡
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晴。鶴岡八幡宮の放生会あり。将軍家 宗尊親王は赤痢の病状が軽くないため御参宮せず武蔵守 北條長時による代参とした。
舎弟の左近大夫将監 北條義政、相模四郎 北條宗政、和泉前司 二階堂行方、太宰権少弐 武藤景頼、壱岐前司 後藤基政、縫殿頭 中原師連、上総前司 大曽祢 (安達) 長泰らが廻廊に控えた。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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8月16日 辛亥
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吾妻鏡
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曇。武蔵守 北條長時の参宮は昨日に同じ。将軍家の出御はなく、馬場の儀と桟敷などは通例の通り。
大夫判官 二階堂行有、大夫判官 佐々木広綱、大夫判官 二階堂行有らが馬場を警固した。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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8月17日 壬子
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吾妻鏡
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晴。将軍家 宗尊親王の病気に対応して御鞠の壺 (蹴鞠の小庭) で天文博士為親朝臣による如法泰山府君祭 (8月7日を参照) を催した。相模太郎 北條時宗殿から鞍置き馬一疋、鎧、弓箭などを呈上。
御所からは御双紙箱 (錦袋入り) が贈られた。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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8月20日 乙卯
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吾妻鏡
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晴。将軍家 宗尊親王 の病状がやや回復に向かった。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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8月25日 庚申
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吾妻鏡
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二所詣の予定に備えて供奉人についての沙汰があり、先日と同様に付点するための名簿を提出せよとの指示が二階堂行方を介して小侍所に与えられた。また宗像六郎の子息で童形 (元服前) の如意丸が御調度懸け (弓箭の携帯役) として供奉するように定めた。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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8月26日 辛酉
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吾妻鏡
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雨。将軍家 宗尊親王 が服喪明けとなり、亥刻 (22時前後) に御祓いを行なった。陪膳 (給仕) は讃岐前司 嶋津忠時朝臣 (布衣) 、役送 (運び役) は近江前司季実 (建長三年 (1251)1月11日、「先ず諸太夫八人」にも載っていたが素性不明だった ) 。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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8月27日 壬戌
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史料 各種
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深夜になって日蓮の草庵が襲われ、焼き討ちされた (日蓮宗の言う、松葉ヶ谷法難) 。
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実行者の主体は念仏衆 (浄土宗) を中心にした暴漢、画策したのは浄土宗信者の 北條重時と、重時に招かれて鎌倉に入り庶民宗教界の指導的立場になりつつあった真言律宗の僧 忍性と考えられている。
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その他の関与は建長寺の開山を務め禅宗の指導的立場にあった渡来僧 蘭渓道隆、浄土宗の指導者念阿良忠、重時の子で執権の 長時、重時の弟 政村らが画策した (と、日蓮宗の信者は信じている) 。
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右画像は草庵跡地 (だと主張する) 安国論寺の山門。右手に「日蓮上人草庵跡」の石碑がある。 クリック→ 別窓で拡大表示
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個人的には、最高権力者の北條時頼に献じた立正安国論の中で、「正法のためには邪宗の者を殺すことも躊躇すべきではない」とまで書いて憎しみを煽った日蓮の方も 責められる、と思うのだが。
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いずれにしろ、辛うじて難を逃れた日蓮は千葉氏の被官で日蓮に帰依していた富木常忍の本拠下総国八幡荘若宮 (現在の市川市北部) に避難し、暫くしてから再び鎌倉に戻って布教を再開するが...
弘長元年 (1261) 5月には捕縛され、伊豆伊東に流罪の処分を受けることになる。
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日蓮が草庵を構えていた松葉ヶ谷は現在の 妙法寺 安国論寺 長勝寺 (各、Wiki) の一帯 (周辺地図) で、各々の寺が「本当の話、草庵はここにあったんだよ」と主張しあっているのが面白い。
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私は宗教心皆無なのでどうでも良いのだが、日蓮宗と書くと 日蓮正宗を連想するかも知れないから法華宗が正しい表示だろうか。
「法華宗」は日蓮宗の別称だが、法華経を信じる宗派全てを含んだ総称でもある、らしい。
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右は猿が日蓮を保護したと主張する 猿畠山 法性寺 (Wiki) の山門の扁額。両側に白猿を配する。画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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もちろん、権力との癒着を嫌った日蓮の生き様さえ理解せず、国家権力に擦り寄って海外派兵や秘密保護法やカジノ法案、更に治安維持法の再現とも言われる共謀罪 (名前は美しい「テロ防止法」) 成立に全面協力した創価学会 (利益代行者は公明党) も残念ながら法華宗に含まれる。本来は邪宗のカルト (旧 オウム真理教の仲間) の範疇なのだが、票と優遇の互助効果を狙った連立与党である。
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話を戻して。松葉ヶ谷から逃げた日蓮は三匹の白猿に導かれて山道 (多分名越切通しだろう) を辿り法性寺の洞窟に避難。ここで白猿が運んできた食事や水で飢渇を癒して時を稼ぎ逗子方面に脱出したとされる。「猿の助け」 だなんて実に馬鹿な話だと思うのだが、日蓮最初の法難として本心から信じきっている愚者もかなり多い。   法性寺周辺の詳細は 大切岸と法性寺 (別窓) で。
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   ※名越切通し: 20年以上前に一念発起して長勝寺から法性
寺までを歩き回った。厳密には、適当な駐車場所がないので法性寺参道入口に駐車、大切岸から まんだら堂 (逗子市のサイト) を通り、長勝寺まで下ってからまた同じ道を引き返したのだけれど、撮影データの殆どを失ってしまった。
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P/Cのトラブルや外付けHDのパンクなどが原因だから自分を恨むしかない。典型的な後の祭りだ。 英語でアフター・フェスティバル? まさかね (笑)
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右は法性寺裏手の遺跡「大切岸」。三浦勢に対する防壁説もあったが、実際は只の石切場跡らしい。まぁそれはそれで歴史の足跡だけど。
     画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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9月 5日 庚午
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吾妻鏡
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晴。辰刻 (朝8時前後) に将軍家が病の穢を落すため御沐浴し 御験者、医師、陰陽師が鞠の御壺で褒賞を得た。権侍医の丹波長世と前陰陽大允安倍晴茂朝臣には各々御衣一領と御剣一腰、坊門三位清基卿 (直衣) が御衣を取って両人に与え、薩摩七郎左衛門尉宇佐美祐能が鞍を置いた御馬を引いた。
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更に両人を中御所に召して御衣を与え、更に大膳亮為親朝臣を召して女房別当局から銀作りの剣一腰を与え、先に退出した松殿法印良基には 二階堂行方を使者として御衣と御剣と鞍置きの御馬一疋を宿坊に届けさせた。また御所に於いて7日間の北斗法 (守護と招福を如意輪観音に祈る修法) を若宮別当僧正 隆弁に担当させた。
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   ※丹波長世: 医師の家系である丹波氏の名が吾妻鏡に載ったのは正治元年 (1199) 5月7日が最初
である。朝廷直属の医師である丹波時長 (長世の父) が 頼朝の次女 乙姫 (三幡) の病気治療に派遣されその後は嘉禄二年 (1226) 1月の四代将軍頼経の就任に伴って朝廷の 施薬院 (Wiki) から丹波良基が鎌倉に派遣されて頼経の主治医に任じ、京都の医術が鎌倉に定着した。
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建長四年 (1252) に頼経の嫡子で五代将軍の頼嗣が廃されて後嵯峨天皇の皇子 宗尊親王が皇族出身の六代将軍になり、朝廷の最高医官だった典薬頭の丹波長忠と玄蕃頭の丹波長世が鎌倉に派遣され、医術の知識は北條氏にも提供され始めた。
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系図の確認はできないが、長忠と長世はかなり近い血縁だと思う。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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10月 8日 壬寅
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吾妻鏡
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小早河又三郎が小侍の番帳に加えられ、太宰少弐 武藤景頼を介してこれを伝達した。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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10月15日 己酉
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吾妻鏡
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相模守 北條政村の息女に妖気が取り憑いて今夕には特に深刻な状態になった。
自らを判官 比企能員の娘 讃岐局の霊による祟りと称して、比企ヶ谷の地中で角を持つ大蛇に化身し常に身を焼かれる如き苦しみを受けていると嘆いた。これを聞いた人々は身の毛もよだつ思いだった。
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   ※讃岐局: 北條時政が比企氏を滅ぼした建仁三年 (1203) 9月の吾妻鏡には讃岐局に関する記載
はなく、比企氏の一部系図に載っている讃岐局も吾妻鏡の文応元年10月15日の記述に付け加えた可能性があり、頼家の愛妾で嫡子待遇だった 一幡を産んだ若狭局との混同が疑われる。一幡の殺害は記録にあるが、若狭局死没の記載は見当たらないので生き延びたかも知れない。
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武蔵国比企郡の伝承 (別窓) は、夫の頼家を修禅寺で殺された後の若狭局が 比企禅尼と共に比企郡に隠棲したと伝えている。
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修禅寺の本尊 大日如来の胎内にあった二筋の女性の髪と併せて想像を巡らすのも面白い。これは 伊豆の古刹 修禅寺 (別窓) の中段に載せた。
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右は修禅寺宝物館が収蔵している、胎内に納められた二筋の頭髪、拡大画像はない。
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今だから言えるのだが撮影禁止を知らないで撮影したため、解像度調整のなんかしなかった、盗撮に不馴れなので (笑) ...。今は後悔している。
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なお、政村の息女狂乱事件の結末は今年の11月27日に続きが載せてある。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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10月22日 丙辰
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吾妻鏡
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晴。朝廷に貢上する馬の御検覧があり、相模守 北條政村と武蔵守 北條長時以下の出仕は通例の通り。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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11月 8日 辛未
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吾妻鏡
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深栖兵庫助の孫 平嶋蔵人太郎重頼が小侍所の名簿に加えられ、和泉前司 二階堂行方が仰せを受けて小侍所に通達した。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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11月10日 癸酉
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吾妻鏡
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明日の御的始めの射手が定められ、相模太郎 北條時宗殿と越後守 北條実時が奉書 (通告書) を発した。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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11月11日 甲戌
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吾妻鏡
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二所詣での精進潔斎は来る19日からと決まり、併せて供奉人の召集について和泉前司 二階堂行方が仰せを受けて越後守 北條実時と相模太郎 北條時宗殿に通達した。
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しかし卿相雲客 (公卿と殿上人) の招集は御所奉行の職責であり、通例通り 二階堂行方を介して催促するのが順序で、小侍方奉行に任せて招集さるのは少々手順から逸脱している。
これは両人 (実時と時宗) として納得し兼ねる部分なので、卿相雲客を召集する名簿に以下の書状を添付して行方に返却した。
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 二所御参詣供奉人についての仰せは理解し兼ねる内容なので頂いた書類は返却します。恐々慎言。
           十一月十三日   時宗   和泉前司殿(御返事)     実時

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   ※招集の職責: 実時は文暦元年 (1234) から将軍に近侍して御家人の宿直と供奉と警備を担当す
る小侍所別当の職にあり、この文応元年から時宗が別当に追加されて複数制になった。これは思慮深い実時を手伝いながら執権を継ぐための経験を積ませようとした 北條時頼の配慮と考えられる。
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御所奉行は将軍の社寺参詣や年中行事など御所の雑事を担当した職で、当時は 中原師連が任じていた。今回のトラブルは満9歳の時宗が発案できる内容ではなく、将軍の越権行為を牽制する姿勢を時宗に示そうとした実時または時頼の考えと判断すべきか。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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11月16日 己卯
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吾妻鏡
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晴、亥子 (23時前後) に雨、時々雷鳴あり。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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11月18日 辛巳
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吾妻鏡
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二所御詣でに伴う精進潔斎について、明日の予定を延引し22日に変更と決まり、武蔵守 北條長時から使者の周東兵衛五郎を通じて小侍所に通告した。
また来る22日に御息所 (将軍正室 近衛宰子) が初めて浜を御見物のため密かに出羽前司 小山長村の若宮大路邸に出御する。二所詣でに従う者を除いて供奉人を手配せよとの仰せにより、併せて武蔵守の指示があった。
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   ※小山邸: 長村の祖父 小山朝政亭が下馬橋の南で多分この辺り (地図)
当時の海岸線は この辺で、現在 よりも標高で6m前後、距離にして約500m内陸部に入り込んでいたと推定される。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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11月19日 壬午
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吾妻鏡
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来る21日の精進潔斎に潮に浴するため将軍家 宗尊親王 が浜に出御する事、および潔斎に伴って御息所 (将軍正室 近衛宰子) が明日中に他所に移る事、以上の指示があった。供奉人は各々直垂と折烏帽子を着する。
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今夕に二所御参詣に伴う歩行供奉人などについて御前で指示が下され 新右衛門督、花山院中納言、壱岐前司 後藤基政、太宰少弐 武藤景頼らがそれを承る。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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11月20日 癸未
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吾妻鏡
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将軍家 宗尊親王の二所詣への供奉を諒承した者の中から支障の申し出があった。後藤次郎左衛門尉は軽服 (軽い服喪) であるとの事、上総三郎左衛門尉は突然の病気である、との事。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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11月21日 甲申
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吾妻鏡
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将軍家 宗尊親王 が二所詣の精進潔斎を始めるため陸奥入道 北條重時邸に入御した。
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  供奉人
    相模太郎北條時宗       同四郎重政       同三郎時利(時輔)
    同七郎宗頼         越前前司北條時広     尾張左近大夫将監北條公時
    遠江右馬助清時(時直の嫡子)  陸奥左近大夫将監北條義政 弾正少弼北條業時
    越後四郎時方         木工権頭藤原親家     壱岐前司後藤基政
    上総前司長泰安達(大曽祢)長泰 太宰少卿武藤景頼     出羽大夫判官二階堂行有
    式部太郎左衛門尉伊賀光政   城六郎安達顕盛      和泉三郎左衛門尉二階堂行章
    周防五郎左衛門尉嶋津忠景(忠綱の三男)          左衛門尉武藤頼泰(景頼の三男)
    信濃次郎左衛門尉時清(佐々木泰清の二男で嫡子)      左衛門尉大曽祢太郎長頼
    薩摩七郎左衛門尉宇佐美祐能
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   ※重政と宗時: 一部系図では時頼の三男宗政は1253年生まれで満7歳。弟の四郎重政と七郎宗
頼が供奉を務めるのは不自然で、しかも翌文応二年には笠懸けの射手を務めている。文面の通りとは考え難いので年令の食い違いがある、かも。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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11月22日 乙酉
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吾妻鏡
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晴。将軍家 宗尊親王が二所参詣の精進で潮に浴するため由比ヶ浜に出御された。中御所 (正室の 近衛宰子) は見物のため若宮大路の出羽前司 小山長村邸に輿で入御された。.
  御輿
     三浦六郎左衛門尉頼盛  遠江十郎左衛門尉三浦頼連  佐々木対馬太郎左衛門尉頼氏
          各々は御輿の左右に列歩
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  御後の供奉人(騎馬)
     新相模三郎北條時村 遠江七郎北條時基(以上御輿寄せ)
     宮内権大輔長井時秀 秋田城介安達泰盛  対馬前司佐々木氏信  加賀守二階堂行頼
     丹波守安達頼景   城四郎左衛門尉安達時盛  同弥九郎長景(泰盛の異母弟)
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申刻 (16時前後) に御手水 (顔や手を洗い清める) 、騎馬の供奉人は整列した。供奉の卿相雲客 (公家、殿上人) は全員が水干 (糊を使わず水張りした布の狩衣) 、武蔵守 北條長時と相模太郎 北條時宗殿 は直垂 (ひたたれ) 。還御の際には公私共に浄衣を着した。
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   ※浄衣: 宗教儀礼などに用いる清浄な衣服、通常は白で無紋の狩衣。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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11月24日 丁亥
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吾妻鏡
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晴。将軍家 宗尊親王 が中潮に併せて浜に出御した。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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11月26日 己丑
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吾妻鏡
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晴。玄蕃頭の丹波長世が去る15日に従四位上に叙され、今日その除書を御所に持参した。
これは去る8月 (17日に祈祷の記録、9月5日に治療の褒賞授与記録あり) 将軍家の病気に対応した医療を行なった褒賞で、末尾にその旨の記載あり。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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11月27日 庚寅
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吾妻鏡
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晴。卯刻 (朝6時頃) に将軍家 宗尊親王が鶴岡八幡宮に御参宮、辰刻 (朝8時前後) に二所詣に出発した。
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  供奉人 (行列を立てず)
    先陣の随兵十騎  次に御引馬 (替え馬)   次に御弓袋差し  次に御甲着け  次に御冑持ち  次に御小具足持ち
    次に御調度懸け  次に御先達として伊豫法眼教尊
       ※行列を立てず: 通常は先頭を進む検非違使を今回は省略している。
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  次に御駕
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    後藤壱岐左衛門尉基頼   薩摩七郎左衛門尉祐能   同十郎左衛門尉
    周防五郎左衛門尉忠景   上総太郎左衛門尉長経   甲斐五郎左衛門尉為定
    大須賀五郎左衛門尉信泰  武石新左衛門尉長胤    隠岐三郎左衛門尉行氏
    同、四郎兵衛尉行広    伊東次郎左衛門尉盛時   佐渡左衛門太郎基秀
    鎌田三郎左衛門尉義長   平賀四郎右衛門尉泰実   葛西又太郎定廣
    萩原右衛門尉定仲     鎌田次郎左衛門尉行俊   小河左衛門尉時仲
    大泉九郎長氏       平岡左衛門尉実俊     以上は歩行で御馬の左右に列す。
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  次に御剣役人  太宰少弐景頼
  次に御後
    新右衛門督顕方      花山院中納言長雅     讃岐守忠時朝臣
    中御門新少将実隆朝臣   二條少将雅有朝臣     陸奥左近大夫将監北條義政
    弾正少弼北條業時     越前前司北條時弘(時広)   尾張左近大夫将監北條公時
    相模四郎北條宗政     同三郎時利(時輔)      同七郎宗頼(11月21日を参照)
    越後四郎時方(時親の子)   武蔵五郎時忠       壱岐前司後藤基政
    木工権頭藤原親家     刑部権少輔那波政茂(大江広元-宗元-政茂、引付衆)
    伊賀前司時家
    周防前司島津忠綱     上総前司安達(大曽祢)長泰  出羽大夫判官二階堂行有
    隠岐大夫判官二階堂行氏  甲斐守為成        千葉介頼胤
    図書頭忠茂朝臣      権天文博士為親朝臣    玄蕃頭長世朝臣
    安芸右近大夫親経     能登右近蔵人仲家     上野三郎国家
    阿曽沼小次郎光綱     大須賀新左衛門尉朝氏   鎌田図書左衛門尉信俊
    進三郎左衛門尉宗長
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  後陣の随兵十騎
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今日、相模守 北條政村が一日経を頓写した。息女に妖気が取り憑き、判官比企能員の娘の祟を受ける苦しみを救うためである。夜、若宮別当僧正 隆弁を招いて祈祷を唱導、説法の最中に息女は更に狂乱し舌を出し唇を舐めつつ体を動かし足を伸ばして恰も蛇が苦しむ如くに身を捩った。祈祷で霊気が来臨した結果である。僧正は更に加持祈祷を続け、やがて息女は気抜けしたような状態で沈黙し、眠るが如く元の状態に戻った。
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   ※一日経: 一日で経文 (法華経の例が多い) を頓写 (急いで写経) する事。法華経を大勢で分担し
て書写する例が多い。この話は家族思いの政村を描いたものとして伝わっている。
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   ※妙本寺: 寺伝では讃岐局が比企の乱で井戸に身を投げて死
んだ怨みから蛇となり人を害するようになった、と伝えている。
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更に後世、戦火が寺に迫ったため 日蓮上人直筆の本尊絵図を井戸に隠したところ、一匹の大蛇が現れて黒雲を呼び迫ってきた戦火を消した。
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その後は「蛇形の井戸」、戦火から逃れた本尊を 「蛇形の本尊」 と呼んだという。
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結果的に本尊を守った功徳で讃岐局の霊も苦しみから逃れ成仏したと思われる事から、この祠を蛇苦止堂と呼ぶようになった。癌や腫瘍など患った箇所を井戸の水で洗うと霊験がある、という。
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右画像は妙本寺の旧境内にある蛇苦止堂の蛇形の井戸(画像をクリック→ 別窓で拡大表示。
更に詳細は 妙本寺・比企一族滅亡の跡
(別窓) で。何でも宗祖日連の霊験にするのは法華宗の悪い癖だ。まぁ法華宗に限らず宗教は多少ともカルト的な要素を内含しているし、昨今はバチカンの小児性愛まで暴露されている。問題とすべきは宗教ではなく、その組織を握る「人」の愚かさと卑しさ、である。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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11月28日 辛卯
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吾妻鏡
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晴。将軍家 宗尊親王 が筥根に御奉幣。箱根権現の衆徒らが湖上に船を浮かべて延年 (演芸) を披露、垂髪 (幼い稚児) が廻雪の袖を翻して歌舞の曲を演じた。
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   ※筥根: 現在の 箱根神社 (公式サイト) 。訪問記も参考に。
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   ※廻雪の袖: 舞姿の代名詞。風が雪を吹き上げて煌めくような袖の動きを見せること。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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11月29日 壬辰
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吾妻鏡
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曇。 夜半になって三嶋社に参詣し、暁の頃に御奉幣。
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   ※三嶋社: 現在の 三嶋大社 (公式サイト) 、訪問記は三嶋大社と周辺の風景で。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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11月30日 癸巳
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吾妻鏡
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雨。伊豆山に御参宮。
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   ※伊豆山: 現在の 伊豆山神社。訪問記は 伊豆山、走湯大権現の風景で。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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12月 1日 甲午
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吾妻鏡
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雨。巳刻 (10時前後) に伊豆山に御奉幣した後に鎌倉に向かった。
今夜は土肥郷に宿泊、当所の御所で豪華な饗応あり。豪雨のため土肥郷に御逗留となった。
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   ※土肥郷: 現在の湯河原町。周辺には 石橋山合戦に向け勝利を祈った 五所神社土肥実平一族
の菩提寺 城願寺 、敗残の頼朝主従が隠れたと伝わる しとどの窟 (各、別窓) などの史跡が残る。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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12月 2日 乙未
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吾妻鏡
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曇。酒匂の駅に御止宿。相模国の御家人が群参した。
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   ※酒匂の駅: 前夜宿泊した土肥から約20km、鎌倉まで約36k
mの 小田原市の酒匂川東岸 (地図) の付近に古い宿駅の伝承が残っている。
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地殻の変動があったのだろうか、当時に比べると相模川など多くの河川が流路を東に移動しているため宿駅の正確な位置は確定できない。
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これは 相模川の橋脚遺跡 (別窓) にも記述しておいた。酒勾駅は、古くは治承四年 (1180) 8月23日に三浦勢が相模川増水のため石橋山合戦に間に合わず虚しく衣笠に撤退を余儀なくされた場所。
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5年後の元暦二年 (1185) には 頼朝に鎌倉入りを許されなかった 義経が腰越に続いて酒勾での待機を命じられ、兄弟の離反が決定的になった場所だ。
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  右は広重の東海道五十三次、小田原酒勾。 クリック→ 別窓で拡大表示
  背後は極端な急峻にデフォルメされた箱根の山並み。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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12月 3日 丙申
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吾妻鏡
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晴。将軍家 宗尊親王が鎌倉の御所に還御。 (三ヶ所の) 御奉幣は無事に完了した、と。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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12月16日 乙酉
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吾妻鏡
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明年正月の御弓始めを務める射手を選抜した。病気と称して支障を申し出た者が混じっているため、今日小侍所で相模太郎 北條時宗殿と越後守 北條実時が協議し、自由の対捍 (身勝手な不服従) は受け付けず、改めて参上して仔細を申し出るよう命令書を発行した。
また (執権の) 武蔵守 北條長時が突然の病気で苦しんでいる。
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   ※北條長時: 権力欲を持たない温和な人柄が買われ、重病に陥っ 北條時頼 時宗への中継ぎ
役として執権に抜擢した人物。ところが重病で辞任した時頼は死ぬどころか元気を回復して独裁的実権を掌握し続け、長時は終生頭を抑えられ続けた。病気になるのも当然のストレスか。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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12月17日 庚戌
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吾妻鏡
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梶原上野六郎が小侍所の名簿に加えられ、太宰少弐 武藤景頼が将軍家の仰せを小侍所に通達した。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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12月18日 辛亥
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吾妻鏡
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晴。将軍家の御願により、八萬四千基塔供養を行なった。導師は尊家法印。
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   ※八萬四千基塔: 紀元前五世紀頃に死没した釈迦の遺骨を
三紀元前の世紀中盤にマガダ国のアショーカ王が取り出して八萬四千の舎利に分骨し新たな仏塔を造った、との伝承に由来している。
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この仏塔を模した土製の小塔を供えて供養する風習が平安中期以降には盛んに行われ、京都の六勝寺や鳥羽離宮の跡から多数出土している。  右画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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この円盤形はインド古代墳墓の形を模したのが原形らしい。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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12月20日 癸丑
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吾妻鏡
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曇。酉刻 (18時前後) に御所東側の陀羅尼衆 (梵語で読誦する長文の呪文を担う集団) の控室に鳶 (トビ) が飛び込んだ。陰陽道がこれを占い、謙虚にあるべきとの結論を報告した。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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12月21日 甲寅
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吾妻鏡
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晴。入道右大弁 葉室光俊 (Wiki) 朝臣 (法名は真観、葉室 (藤原) 光親卿の息子 ) が京都から下着した。
当世の歌仙 (新三十六歌仙の一人) である。
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   ※葉室光親: 承久の乱 (1221年) 首謀者の一人として鎌倉に連行途中の甲斐加古坂峠 (現在の籠
坂峠)で 武田 (石和) 信光に斬首された公卿。
後鳥羽上皇の挙兵計画には反対し続け、決定した後には全面的に従った誇り高く優れた廷臣だった。詳細は 藤原光親 斬首の地 (別窓) で。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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12月23日 丙辰
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吾妻鏡
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小雨。右大弁禅門 葉室光俊が初めて (御所に) 出仕した。和歌の催しが盛んとなっている。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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12月24日 丁巳
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吾妻鏡
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寅刻 (早暁4時前後) に執権の武蔵守 北條長時の病気が快方に向かい、大量の汗を流した。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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12月25日 戊午
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吾妻鏡
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京上所役 (大番役) についての協議があり、今日法としてこれを定めた。
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  一.京上役 (大番役) の付則。
諸国の御家人が銭貨や労務などの多くを好き勝手に貧民に負担させ、荘園に対しての厳しい責務を強いた結果として農民の困窮が著しいとの情報が届いている。
今後の大番役については一段当たり銭300文と、他に五町当たり荷馬一疋と人夫二人を充当し、その他には全て禁止とする。明細を定めた後は員数を増やしてはならない。
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  一.地頭として補任した御家人の大番役について。
御家人の大番役勤仕は守護人の召集に基づく。
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 また将軍家が明日行なう御方違えの供奉人については通例の通り付点によって召集する。
 武蔵前司 北條朝直と尾張前司 北條時章と越後守 北條実時は饗応を催す御所で待機するよう仰せがあ  った。武蔵守 北條長時から 病気である事、越後守 北條実時から 心神に疲労が蓄積している旨の申し
 出があった。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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12月26日 己未
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吾妻鏡
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晴。去る20日の鳶 (トビ) が飛び込んだ怪異に対応して百恠祭を行なった。
また今夜、将軍家 宗尊親王が御方違えのため相模太郎 北條時宗殿の家に入り、中御所 (正室 近衛宰子)も八葉の車に同乗した。
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  供奉人
   刑部少輔北條教時     遠江右馬助北條清時(時直の嫡子)  弾正少弼北條業時
   相模三郎北條時輔     同、七郎北條宗頼        新相模三郎北條時村
   越後四郎時方       武蔵五郎北條 時忠(宣時)     宮内権大輔長井時秀
   秋田城介安達泰盛     壱岐前司後藤基政        木工権頭藤原親家
   和泉前司二階堂行方    上総前司安達(大曽祢)長泰     太宰少弐武藤景頼
   出羽大夫判官二階堂行有  隠岐大夫判官二階堂行景     式部太郎左衛門尉伊賀光政
   城六郎安達顕盛      信濃次郎左衛門尉佐々木時清   薩摩七郎左衛門尉宇佐美祐能
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   加藤左衛門尉景経     周防五郎左衛門尉嶋津忠景
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       以上は立烏帽子に直垂 を着す。
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   ※百恠祭: =百怪祭。怪異を避けるために行う陰陽道の祭祀。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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12月27日 庚申
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吾妻鏡
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晴。松殿法印良基が去る八月に将軍家が病床に伏した際の祈祷の褒賞として今月16日に権僧正に任じた。その聞書 (叙書の写し) が届いた (末尾に御験者の賞、と) 。
直ちに御所に報告し土御門中納言が申し継いだ。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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12月29日 壬戌
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吾妻鏡
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明春正月に朔御行始め (外出初め) を行なうため供奉人の手配をするよう、太宰少弐 武藤景頼が仰せを小侍所に伝えたが、新年の椀飯に出仕する人々が御所の庭で予め座席の配置を 示す札を並べていた。
光泰と実俊が札を確認して記録し名簿を提出、将軍家の付点を受けてその旨を通告した。
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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 月 日
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史 料
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記事
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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 月 日
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史 料
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記事
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西暦1260年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応元年
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 月 日
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史 料
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記事
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