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文応二年 (1261年) 、2月20日 に改元して弘長元年
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前年・文応元年 (1260年) の吾妻鏡 へ       翌年・弘長二年 (1262年) の吾妻鏡
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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応二年
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1月 1日 癸亥
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吾妻鏡
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晴。相州禅室 北條時頼の沙汰による椀飯の儀あり。両国司 (執権の武蔵守 北條長時と連署の相模守 北條政村) 以下の人々が布衣 (狩衣、略礼服) を着して出仕した。
通例に従ってまず東西の侍の間に控え、将軍家出御の時刻が告げられた後に東西に分かれ着座した。
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 西の座
武蔵前司北條朝直    尾張前司北條時章    遠江前司北條時直  越後守北條実時
刑部少輔北條教時    治部権大輔北條時隆   秋田城介安達泰盛  壱岐前司佐々木泰綱
和泉前司二階堂行方   刑部少輔那波政茂    縫殿頭中原師連   宮内権大輔長井時秀
壱岐前司後藤基政    対馬前司三善(矢野)倫長  伊賀前司田村仲教(古庄(大友)能直の弟)
日向前司宇佐美裕泰   周防前司島津忠綱   太宰少弐武藤景頼 上総前司安達(大曽祢)長泰
加賀前司  甲斐守   上野介         新民部大夫大田康有(三善(大田)康連の子)
伊豆太郎左衛尉(若槻(森)頼定の子?)  式部太郎左衛門尉   佐藤民部大夫   長左衛門尉
左衛門尉三善五郎康家  右衛門尉加地七郎氏綱  長内左衛門尉    常陸次郎左衛門尉行雄
城四郎左衛門尉安達時盛 薩摩七郎左衛門尉    右近将監武藤頼村
筑前三郎左衛門尉二階堂行実(二階堂行泰の子)    出羽七郎左衛門尉二階堂行頼
城五郎左衛門尉安達重景(安達泰盛の弟)       三善六郎左衛門尉   城六郎安達顕盛
和泉三郎左衛門尉二階堂行章   城弥九郎安達長景(安達義景の七男)   城十郎
上野太郎左衛門尉梶原景綱(景時景茂-景俊-景綱)  越中次郎左衛門尉  伊勢三郎左衛門尉
遠江十郎左衛門尉    壱岐左衛門尉佐々木(六角)三郎頼綱(泰綱の次男)
左衛門尉土肥四郎実綱(実平の曾孫) 武藤次郎左衛門尉 上野三郎左衛門尉畠山国氏(泰国の嫡子)
上総太郎左衛門尉    後藤次郎左衛門尉    周防五郎左衛門尉   信濃次郎左衛門尉
大曽祢太郎左衛門尉   肥後三郎右衛門尉    鎌田図書左衛門尉   小野寺新左衛門尉
上総三郎右衛門尉    式部次郎左衛門尉    式部左衛門三郎   備後太郎  上総四郎
武石新左衛門尉     山田彦次郎       矢部平次馬次郎    上野六郎
善六郎左衛門次郎    甲斐三郎左衛門尉    隠岐四郎兵衛尉
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 東の座
越後右馬助北條時親  越前前司北條時弘(時広)  陸奥左近大夫将監北條義政
尾張左近大夫将監北條公時  弾正少弼北條業時  新相模三郎北條時村
武蔵左近大夫将監北條時村  民部権大輔長井時秀  相模三郎北條時輔 同七郎北條宗頼(宗顕)
遠江右馬助北條清時(時直の嫡子)   遠江七郎北條時基   駿河四郎
越後四郎北條 顕時  駿河五郎北條通時(有時の子)  武蔵五郎北條時忠(宣時) 遠江修理亮三郎
越後又太郎   武蔵八郎北條頼直(北條朝直の子)   同九郎(朝直の子)   少輔左近大夫
木工権頭藤原親家   新田参河前司新田(世良田)頼氏   助教(明経道)   直講(明経道)
大蔵少輔二階堂行方  下総前司  中務権少輔時長  周防修理亮  美濃兵衛大夫
安芸右近大夫義継  長井判官代長井泰秀  少輔次郎  那波次郎  安掃部助 美作左近大夫
能登右近蔵人   兵衛蔵人   近江蔵人   大隅修理亮   大隅蔵人  進三郎左衛門尉
備後薬師丸   大多和左衛門尉    紀伊左衛門次郎   河越小次郎   伊賀左衛門次郎
大田四郎左衛門尉   周防三郎左衛門尉   加治六郎左衛門尉   豊後三郎左衛門尉
大見肥後四郎左衛門尉   鎌田次郎左衛門尉   伊藤次郎左衛門尉   天野肥後新左衛門尉
平賀三郎左衛門尉  阿部左衛門尉  野部五郎左衛門尉  大多和新左衛門尉  萩原右衛門尉
鎌田次郎兵衛尉   隠岐四郎左衛門尉   三村左衛門尉  長右衛門尉  薩摩十郎左衛門尉
清六郎兵衛の尉   大学允   小河左衛門尉   周防六郎左衛門尉   足立三郎右衛門尉
香西又太郎   阿佐美左近将監   平賀四郎右衛門尉  源太左衛門尉  蛭河四郎左衛門尉
狩野八郎左衛門尉   長雅楽左衛門三郎   小泉四郎左衛門尉   藤田次郎左衛門尉
清三郎左衛門尉   伊賀六郎左衛門次郎   対馬左衛門次郎   河匂左衛門四郎
狩野左衛門四郎   布施部宮内左衛門太郎   狩野左衛門六郎
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将軍家が南面に出御し、土御門中納言が御簾を上げた。御引出物は通例の通り。
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   御剣は  武蔵前司北條朝直
   御調度は 越後守北條実時
   御行騰は 秋田城介安達泰盛
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   一の御馬は 新相模三郎北條時村直  と 粟飯原右衛門尉
   二の御馬は 相模三郎北條時輔    と 諏方四郎兵衛尉
   三の御馬は 越後四郎北條顕時    と 安東宮内左衛門尉
   四の御馬は 城四郎左衛門尉安達時盛 と 同五郎左衛門尉重景
   五の御馬は 遠江七郎北條時基    と 大倉次郎左衛門尉
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未刻 (10時前後) に将軍家 宗尊親王が相模禅室 北條時頼邸に御行始め。
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 御所 (将軍家) の御方 (供奉人)
武蔵前司北條朝直   刑部少輔北條教時   弾正少弼北條業時  尾張左近大夫将監北條公時
遠江右馬助北條清時(時直の嫡子)   新相模三郎北條時村   越後四郎北條顕時
相模七郎北條宗頼(宗顕)   秋田城介安達泰盛  同六郎安達顕盛  和泉前司二階堂行方
同三郎左衛門尉二階堂行章  中務権少輔重教 木工権頭藤原親家 参河前司新田(世良田)頼氏
壱岐前司佐々木泰綱   壱岐前司後藤基政   伊賀前司高野十郎時家(八田知家の八男)
日向前司宇佐美祐泰   常陸次郎左衛門尉行清   周防五郎左衛門尉忠景
薩摩七郎左衛門尉伊東祐能  信濃次郎左衛門尉時清 武藤左衛門尉頼泰 小野寺新左衛門尉行通
武石新左衛門尉長胤  加藤左衛門尉景経  上総太郎左衛門尉長経
隠岐四郎兵衛尉二階堂行廉  甲斐三郎左衛門尉為成   鎌田次郎左衛門尉行俊
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 中御所 (近衛宰子) の御方 (供奉人)
遠江前司北條時直    治部権大輔足利頼氏(利氏) 陸奥左近大夫将監北條義政
民部権大輔北條時隆   相模三郎北條時輔   遠江七郎北條時基 武蔵五郎北條時忠(宣時)
宮内権大輔長井時秀   少卿武藤景頼   対馬前司佐々木氏信     周防前司島津忠綱
式部太郎左衛門尉伊賀光政  城四郎左衛門尉安達時盛  同五郎左衛門尉安達重景
筑前三郎左衛門尉二階堂行実(二階堂行泰の子)   出羽七郎左衛門尉二階堂行頼
左衛門尉土肥四郎実綱  右近将監武藤頼村  上総三郎右衛門尉義泰
大曽祢太郎左衛門尉長頼  鎌田三郎左衛門尉義長
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 御引出物の役人
御剣は 治部権大輔 新田(世良田)頼氏
砂金は 左近大夫将監 北條義政
鷹羽は 左近大夫将監 北條公時
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一の御馬は 武蔵五郎北條時忠(宣時)  と 大瀬三郎左衛門尉惟忠
二の御馬は 常陸左衛門尉行清     と 和泉三郎左衛門尉二階堂行章
三の御馬は 薩摩七郎左衛門尉伊東祐能 と 同十郎左衛門尉伊東祐広
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 御所に還御してから、御息所(正室近衛宰子)の御行始め(同じく時頼邸)。
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   ※椀飯 (おうばん) :饗応のための献立、食事を摂る儀式や行事。大判振る舞い、の語源。
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   ※年令:六代鎌倉将軍 宗尊親王 (第88代後嵯峨天皇の第一皇子) は19歳、
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五年前の 康元元年 (1256) 11月に五代執権を辞した 北條時頼 33歳は幕政の実権を手放さず、弘長三年 (1263) 11月の死没まで 「終生支配」 を続けている。
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後任の六代執権 北條長時は30歳、連署は後の七代執権 北條政村 56歳、
前任の連署 北條重時は11月3日に死没 (享年63) 、執権にしたい穏和な実務家だった。
次の八代執権 時宗 6月で11歳、庶兄 時輔 14歳、六波羅北方 時茂 21歳、南方は不在。
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安達泰盛 30歳 (祖父景盛は宝治二年 (1248) 、父義景は建長五年 (1253) に死去) 、
千葉頼胤 21歳、 足利泰氏 44歳、吉良(足利)家氏 49歳、 小山長村 44歳、
結城朝広 70歳、評定衆 宇都宮泰綱は前々年11月に死没 (享年57) 、後継は 景綱 25歳、
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浄土真宗 親鸞は87歳、 真言律宗 叡尊 は59歳、真言律宗 忍性は44歳、
法華宗 日蓮は39歳、時宗 一遍は22歳、 天台宗寺門派 (園城寺) 隆弁は52歳。
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89代 後深草上皇 (現在17歳) が前々年11月に第90代 亀山天皇 (現在11歳) に譲位して新院に、後嵯峨上皇 (本院現在40歳) の意向による。以後の朝廷は 後深草天皇系の持明院統と 亀山天皇系の大覚寺統が帝位を争う ことになる。
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関白 鷹司兼平 (Wiki) は33歳、 太政大臣は 西園寺実氏 (Wiki、66歳) が前年11月に出家引退して欠員、関東申次 (関東執奏) は西園寺家当主が世襲。以後の朝廷は 五摂家 (近衛家、一条家、九条家、鷹司家、二条家、Wiki) による合議分担体制となる。
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                 (表示は全て 1/1 現在の満年齢)
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   ※幕政は: 初代将軍 頼朝も若年の 泰時を優遇したが、これは貴種であり主家であり創業者でも
ある鎌倉将軍が近臣の息子を引き立てた例。陪臣の時頼が嫡子を優遇して執権を世襲させるのとは根本的に異なる。
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出家して執権を辞した時頼は依然として得宗専制の地位にあり、その強権的な手法に反発する北條傍流や古参御家人を慰撫するため評定衆の下部組織として引付衆を新設 (建長元年、1249年) して合議制を装い、 京都大番役の任期を短縮 (宝治元年、1247年) するなどの融和施策を行なった。
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また庶民には物価統制、訴訟手続き簡素化、質素倹約などで所謂「善政」を装った。これらは執権体制を超越した北條得宗の絶対的な強権を維持するための手法であり、実際に時頼以後の幕府は一握りの得宗家周辺の独断で運営されている。
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泰時の政治は (稚拙ではあったが) 正義を求めていた。時頼の場合は絶対権力の維持と得宗の神格化を目指しており、御家人対策と撫民はそのための手法に過ぎない。
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卑近な例を挙げれば、自民党と維新国民民主が強引に決めた給付や減税は買収行為、只のポピュリズムだ本当に必要としている庶民、生活困窮者やパート時間が減った一人親所帯や年金に依存している老齢者を見捨てている。
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所帯主の収入だろうが所帯全体の年収であろうが、年収一千万円以上の所帯にまで給付するのは、平等の名を借りた偽善である。
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「維新と国民民主が頑張って減税と給付金を勝ち取った!」と宣伝し「国費で買収した一票」を騙し取る卑劣な手段に過ぎない。この偽善を継承したのが 嘘吐きの不倫男 玉木だ。

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玉木は自民党の議員を差して「不正や不倫があれば議員辞職を」と要求した。
でも自分の長期不倫がバレたら「処分は党の役員の判断に任せる」と逃げた。
そんな嘘吐きを支持し、政治を委ねる有権者の愚かさが理解できない。
税収の減少を国債発行に頼っていたらどうなるか、考えよう。
膨大な借金を子や孫の世代に残して (Wiki) 、国民の幸せが実現するのか?
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応二年
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1月 2日 甲子
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吾妻鏡
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晴。奥州禅門 北條重時の沙汰による椀飯あり。土御門中納言顕方卿が御簾を上げた。
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   御剣役は刑部少輔 北條教時、御調度は左近大夫将監 北條公時、御行騰は太宰少弐 武藤景頼
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   一の御馬は 相模三郎北條時輔      と 工藤三郎右衛門尉光泰
   二の御馬は 武蔵五郎北條時忠      と 対馬次郎兵衛尉
   三の御馬は 左衛門尉梶原太郎景綱    と 同、五郎景方
   四の御馬は 周防五郎左衛門尉嶋津忠景  と 同、六郎左衛門尉島津忠頼 (忠景の次弟)
   五の御馬は 出雲次郎左衛門尉波多野時光 と 同、波多野六郎義泰
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応二年
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1月 3日 乙丑
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吾妻鏡
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曇。相模守 北條政村の沙汰による椀飯あり。御簾役は黄門 (土御門中納言顕方) 。
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   御剣役は 越後守 北條実時  御調度は 左近大夫将監 (北條)公時  御行騰は 和泉前司 二階堂行方
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   一の御馬は 遠江七郎北條時基      と 式部次郎左衛門尉光長
   二の御馬は 越後四郎北條顕時      と 左衛門糟屋三郎行村
   三の御馬は 出羽七郎左衛門尉二階堂行頼 と 同、八郎左衛門尉二階堂行世
   四の御馬は 城六郎安達顕盛       と 同、安達九郎長景
   五の御馬は 新相模三郎北條時村     と 伊賀右衛門三郎朝房
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来る7日の鶴岡八幡 参宮に際して供奉の総数を通例通り書き出すよう仰せあり。奉行は 二階堂行方
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応二年
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1月 4日 丙寅
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吾妻鏡
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7日の供奉人の件、将軍家 宗尊親王による付点に基づいて書いた散状 (名簿) による召集だが、最明寺禅室 北條時頼 殿から公達を名簿に載せる序列についての申し入れがあった。
相模太郎 時宗、同四郎 宗政、同三郎 時輔、同七郎 宗頼の件で、この序列の書き様は私の意向と違っている、との内容である。
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工藤三郎右衛門尉光泰が承った内容を越後守北條実時に告げ、以下の返答を得た。
 「今回の名簿は既に公開しており今更書き直す事はできぬ。意向は承知したので今後は改めよう。」
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この件は初めてではなく去年安東左衛門尉光成の報告と同じで、単に実時個人の判断ではないと思われる。太宰少弐 武藤景頼もこれに同意し「去年の冬に禅室 (時頼) の御前で叱られた事があり、太郎時宗殿は兄時輔の上位に置かれるべきとの仰せになった。」と語った。
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   ※公達: 平家の公達 敦盛など、本来は身分の高い家柄の若者を差す言葉。北條一族に使われた
最初の例になる。吾妻鏡の編纂者にあった「忖度の心」を如実に表している。
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   ※序列: 極楽寺に隠棲した (でも未だに実権 №2) 前の連署 北條重時の長女 (葛西殿) は時頼の
正室として時宗と宗政を産んでおり、更に連署を継いだ 北條政村は重時の弟、更に良識派の実時は小侍所別当、引付頭人、評定衆を兼ねる重鎮である。時頼としては強引な関与を避けるべき立場なのだが、元気なうちに「帝政」の礎を明確にして置きたい焦りは隠し難い。
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更に、将軍 宗尊親王は6月の放生会には正室 近衛宰子の供奉人として「時輔と時宗は共に布衣による供奉」を命じたが、時頼はそれを無視し「時宗は布衣、時輔は随兵」に変更させた。
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その他、折に触れて三人の息子の序列を執拗に強調する事例が多数記録されており、前の執権 経時の弟ながら半ば強引に後継となった正当性に欠ける経緯を持つ時頼としては、自分の嫡子には疑いのない正当性を付与したかった、多くの歴史家がそんな可能性まで指摘している。
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70年前に壇ノ浦で 安徳天皇が崩御し 後白河法皇によって半ば強引に帝位に就かされた 後鳥羽天皇が権威を示したい一心で「承久の乱」を引き起こした、その例を思い起こさせるね。
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   ※独裁者: 時頼も時宗も、安倍晋三も、池田大作も、ナベツネも、金正日も、トランプも、、
習近平もプーチンも...結局は孤独で臆病で猜疑心が強く、側近という名の幇間 (タイコモチ) に囲まれていないと不安なんだろう。頼るのはただ力だけ、後世の歴史家による厳しい審判を気にする長期的視野なんか持っていない。
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閑話休題、この頃の時輔は宗尊親王の側近として仕えていた。この些細なトラブルが「将軍による幕政関与」として文永三年 (1266) 6月の宗尊親王更迭に影響を与えたのかも知れない。時頼は弘長三年 (1263) に死没し「執権 政村と時期執権 時宗の体制」に、そして文永五年 (1269) に執権は時宗となり、文永九年 (1272) には 二月騒動 (Wiki) を引き起こす。
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謀反の容疑で名越流の 時章 教時を殺し更に六波羅南方の庶兄 時輔を討伐、多数の関係者を粛清したばかりか、彼らに謀反の意思がなかった事実が判明すると討手の得宗被官五人を見捨てて斬首した。
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他者の能力を活かす事ができず強権で暴力に頼るだけの愚かな若者。「元寇から日本を救った英雄」と評価するのは単純な国粋思想に基づく愚かさに過ぎない。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応二年
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1月 5日 丁卯
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吾妻鏡
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晴。将軍家による御祈祷が始まり、和泉前司 二階堂行方がこれを奉行した。
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また来る9日を御鞠始めとするが、懸りの一本が枯れており、交換を命じるべき者の名簿を提出するよう行方を介して平岡左衛門尉実俊に伝え、その中から選んで付点した。
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刑部少輔 北條教時、越前前司 北條時弘 (時広) 、遠江守 北條時直、武蔵五郎 北條時忠 (宣時) 、秋田城介 安達泰盛、出羽大夫判官 二階堂行有らに9日の御鞠始めを通達して懸りの一本をその前に探すよう書き下し、越後守 北條実時がそれを受けた。
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   ※懸り: 鞠庭の四隅に植える樹の総称で 通常は 松、桜、柳、楓の四種類を利用する。
蹴鞠の宗家や将軍御所など最高級の鞠庭は「4本とも松」とされたらしい (時代不明) 。
二代将軍 頼家の時代には 難波流時頼の時代以後は 飛鳥井流 (共に外部サイト) が蹴鞠指導の主流になった。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応二年
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1月 6日 戊辰
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吾妻鏡
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晴。子丑両刻 (深夜0時前後~2時前後) にかけて雷鳴が三度あり。  今日、大多和左衛門尉を明日の布衣供奉人に加えるよう仰せがあり、二階堂行方 がこの件を差配した。
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   ※大多和氏: 三浦義明の七男義久が三浦郡大多和村 (地図) を相続して大多和を名乗ったのが
税所である。義久の息子義成は建暦三年 (1213) 5月の和田合戦では同族の 義盛を見捨てて 北條義時に味方し、更に宝治合戦 (1247年6月) では義久の息子義季が同族の 泰村を見捨てて 北條時頼に味方している。同族を裏切る... 鎌倉時代には「武家の恥」 とされていた行為である。
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今回 布衣供奉人に加えられたのは、義成の息子義季を継いだ義遠。以後の系図には多少の錯綜があるが、義久から五代後の義勝 (または義行、義季の三男季信の息子か) は元弘三年 (1333) 5月15日の分倍河原合戦で北條勢に敗れた 新田義貞の応援に駆け付け、翌朝の再戦に続く北條勢掃討戦に功績を挙げて鎌倉幕府滅亡に大きく貢献した。
三度目は、北條に味方しなかった。さすがに「三度も続けちゃマズい」と思ったか (笑) 。ちなみに、分倍と関戸の合戦で幕府軍を指揮していたのは八代執権 北條時宗の嫡子で九代執権に任じた 北條貞時の四男 泰家だった。因果は巡る糸車か。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応二年
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1月 7日 己巳
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吾妻鏡
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晴。将軍家(宗尊親王)が鶴岡八幡宮に御参宮。
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  供奉人
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   公卿
     土御門中納言顕方卿   六條二位顕氏卿   坊門三位基輔卿
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  殿上人
     (御襖陪膳) 一條中将能清朝臣   冷泉少将隆茂朝臣
     (御沓役)  中御門少将宗世朝臣  二條少将雅有朝臣   中御門新少将実信朝臣
     (御笠役)  讃岐守師平朝臣    坊城中将公敦朝臣   唐橋少将具忠
     一條侍従公冬
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  前駈
     (御榻役)   中務権少輔重教    安芸掃部助大夫親定  赤塚左近蔵人資茂
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  布衣
     武蔵前司北條朝直     同、五郎時忠(宣時)北條時章    同、左近大夫将監公時
     遠江前司北條時直     同、右馬助時親 越後守北條実時  同、四郎顕時
     相模太郎北條時宗     同、三郎時輔  同七郎宗頼(宗顕) 刑部少輔北條教時
     治部権大輔北條時隆  (御剣役)弾正少弼北條業時  新相模三郎北條時村
     民部権大輔北條時隆  遠江七郎北條時基  刑部少輔那波政茂  和泉前司二階堂行方
     宮内権大輔長井時秀  壱岐前司佐々木泰綱  太宰少弐武藤景頼  壱岐前司後藤基政
     同、次郎左衛門尉基親  木工権頭藤原親家  伊賀前司田村仲教(古庄(大友、中原)能直
     上総前司安達(大曽祢)長泰 同、三郎左衛門尉  縫殿頭中原師連  日向前司宇佐美裕泰
     周防前司嶋津忠綱  同、六郎左衛門尉(忠幹か)  甲斐守  大隅修理亮嶋津久時
     式部太郎左衛門尉伊賀光政   城六郎安達顕盛
     常陸次郎左衛門尉二階堂行雄  信濃次郎左衛門尉二階堂行泰  右近将監武藤兼頼
     左衛門尉大多和義遠   薩摩七郎左衛門尉伊東佑能   (御沓)土肥四郎左衛門尉実綱
     伊豆太郎左衛門尉実保  出羽八郎左衛門尉二階堂行世  (御笠)鎌田次郎左衛門尉義長
     図書左衛門尉鎌田信俊    左衛門尉三善五郎康家    左衛門尉進三郎宗長
     左衛門尉平賀三郎維時    小野寺新左衛門尉行通    長次右衛門尉義連
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  帯剣
     出羽七郎左衛門尉二階堂行頼  和泉三郎左衛門尉二階堂行章  武藤左衛門尉頼茂
     城五郎左衛門尉重景      周防五郎左衛門尉嶋津忠景   加藤左衛門尉景経
     上総次郎左衛門尉       同四郎            鎌田三郎左衛門尉義氏
     式部次郎左衛門尉光長     隠岐四郎兵衛尉二階堂行廉   武石新左衛門尉長胤
     大曽祢太郎左衛門尉長経    薩摩十郎左衛門尉       肥後四郎左衛門尉行定
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   ※御襖陪膳、他: 御襖陪膳は襖を隔てての食事を給仕する事、御沓役は履物を整える役、御榻
役は牛を外した際に牛車の長柄を乗せる台。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応二年
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1月 9日 辛未
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吾妻鏡
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前浜で御的始めの射手の試射を行ない、相模太郎 北條時宗殿が立ち会われた。工藤三郎右衛門尉光泰が供としてこれを奉行し、他に南部次郎と小笠原彦次郎も従った。
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越後守 北條実時は欠席し、子息の 四郎顕時主が平岡左衛門尉実俊を伴って同様に立ち会った。射手は12人、一射づつ五度的を射た。
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   一番  二宮弥次郎      横地左衛門次郎
   二番  桑原平内       周枳兵衛四郎
   三番  渋谷新左衛門尉    望月余一
   四番  横溝弥七       平嶋弥五郎
   五番  本間弥四郎左衛門尉  小島又次郎
   六番  平井又次郎      木曽六郎
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弓射が終り、今回の出場が何人になるか明確ではないため全員が出席するようにとの指示を受けた。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応二年
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1月10日 壬申
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。昨日の射手から桑原平内と横溝弥七が支障を申し出て許され、その他の射手の五番と決まった。
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今日 御所の御鞠始めがあり、廷尉 (検非違使の佐と尉) 三人 (出羽大夫判官 二階堂行有 (下括り) と上野大夫判官広綱 (上括り) と大夫判官 足利家氏) が加わlり、ここで刑部卿 (難波宗教) が異議を呈した。
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上括りは邂逅 (偶然) の例はあるが吉時には相応しくない、配慮すべきである。と。
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一方で二條少将雅有は、
承元二年 (1208) 12月2日の雅経卿記 (飛鳥井 (二条) 雅経の日記) には「頼時は白襖袴を上括りで蹴った」、とある。検非違使上括りは正常ではないが蹴鞠の際には問題ない。後白河院の時代には綱頼と知康が上括りで、当院時代の一臈判官重輔も同様に上括りだったから問題ないだろう。
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出羽行有は、難波流 (祖は難波 (藤原) 頼輔)、上野広綱と足利家氏は二條流 (祖は飛鳥井 (二条) 雅経) の説に従っている。二人の名人が同じ流派から分かれた故実を考えると、片方が正しいとは言い難いだろう、と判断した。
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   ※上野判官広綱: 結城氏三代当主の広綱 (結城朝広の嫡子)を
差す。
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   ※当院: 一臈判官 (藤原) 重輔が検非違使に任官したのは建
久八年 (1197) 、後鳥羽天皇の治世で上皇不在だった頃。後白河は1192年に崩御、後鳥羽は1198年に退位して院政を開始している。従って二人とも当院 (当時の上皇) には該当しない。
当院って、誰を差しているのだろう?
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   ※難波頼輔: 同じ平安末期に活躍した蹴鞠の名人 (名足) 大納言の藤原成通は清水寺舞台の欄干
で鞠を蹴りながら (リフティングで) 何回も往復した、と伝わっている。
舞台の欄干(右画像、クリック→ 別窓で拡大) は10cm 程度、ー信じられない!
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   ※この争論: 5年後の文永三年 (1266) 3月28日に刑部卿 (難波宗教)が再び異議を呈した。
吾妻鏡の原本が最後になる年だが、参照されたし。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応二年
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1月14日 丙子
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吾妻鏡
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(読みは 「せい」 、 快晴、漢検一級だとさ) 。御的始め (弓初め) あり。射手は十人、二射づつ五度的を射た。
今日は越後守 北條実時は出仕せず、相模太郎 北條時宗殿が一所 (一人の尊敬語) でこれを差配した。
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     一番  二宮弥次郎時光     vs 横地左衛門次郎長重
     二番  本間弥四郎左衛門尉忠時 vs 小嶋弥次郎家範
     三番  望月余一師重      vs 周枳兵衛四郎頼泰
     四番  平井又次郎有家     vs 木曽六郎隆俊
     五番  渋谷新左衛門尉朝重   vs 平島弥五郎助経
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応二年
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1月25日 丁亥
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吾妻鏡
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来月七日に御息所 (将軍 宗尊親王の正室 近衛宰子) の鶴岡八幡宮御参宮に従う供奉人名簿を提出せよ。
ただし田舎人の類は加えぬよう小侍所に命じた。
二階堂行方がこれを伝え、直ちに作成して提出した。
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   ※田舎人: 鎌倉に常駐していない、つまり鎌倉に慣れていない者。むろん田舎者を含む、か。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応二年
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1月26日 戊子
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吾妻鏡
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晴。来月二所詣に備えての精進潔斎を始めるため参籠すべき者の名簿を提出せよとの仰せがあった。
彼らは御息所御参宮の供奉を兼ねる事になる、と。
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今日、和歌の御会始め。 題読師は紙屋河二位顕氏 (直衣) 、講師は中御門侍従宗世朝臣 (布衣) 。
右大弁入道眞観 (裘袋、僧衣) 、相模守 北條政村、武蔵守 北條長時、越前前司 北條時弘、左近大夫将監 北條義政、壱岐前司 後藤基政、掃部助範元、鎌田次郎左衛門尉行俊 (以上は布衣) がこの席に列した。
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   ※題読師: 和歌を詠み上げるのが講師で、それを補佐するのが題読師らしい。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応二年
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2月 2日 甲午
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。今年の辛酉 (年回り、Wiki) に対応して将軍家 宗尊親王 が御祈祷を催した。
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天地災変は宣賢朝臣、天冑地府は資俊朝臣、七人による泰山府君は晴秀、国継、泰房、晴成、以平、泰継、文元。霊所七瀬祭は職宗、茂氏、重氏、晴尚、親員、晴行、維行。
奉行は和泉前司 二階堂行方である。
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   ※天地災変: 陰陽道で行われる祭祀のひとつ。天変地異や怪異、主に厄年などの時に行なう。
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   ※天冑地府: 寿命延長と息災を願う陰陽師の祭祀。主に天皇や将軍の代替わりなどに実施。
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   ※泰山府君: 仏教の護法善神「天部」の一人焔摩天に従う眷属で陰陽道の主祭神、生命をも司
る神。天曹と地府を中心とした十二座の神に金幣、銀幣、素絹、鞍馬、撫物などを供えて無病息災と延命長寿を祈祷する。
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   ※霊所七瀬祭: 最近では建長四年 (1252) 5月7日に祈雨と地震対策に催している。参照を。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応二年
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2月 7日 己亥
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吾妻鏡
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晴。将軍家 宗尊親王)が二所詣に備えて精進潔斎を開始。
また未刻 (14時前後) に御息所 (正室の 近衛宰子) が鎌倉下向以来初めての鶴岡八幡参宮を行なった。
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先ず茂氏 (束帯を着して役送 (陪膳運び) を補助) が御祓いを行ない、弾正少弼 北條業時が陪膳 (給仕役) に任じた。周防五郎左衛門尉嶋津忠景が役送、御禊ぎは越前前司 北條時広、更に役送は信濃次郎左衛門尉 二階堂行泰、供奉人は浄衣。過日は将軍家御精進中の参籠人も供奉と定められたが、人数が不足するため増員した。
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  供奉人(浄衣で御輿に付き添う)
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武蔵前司北條朝直 (共侍は浄衣に立烏帽子、中間は浄衣に折烏帽子)
尾張前司北條時章 (侍は朝直と同じ、中間は白の直垂)
尾張左近大夫将監北條公時 (侍は白の直垂、中間も同じ)
弾正少弼北條業時 (侍一人は浄衣)  御剣役は越前前司北條時広 (侍一人は浄衣、中間も浄衣)
越後四郎北條顕時    相模三郎北條時輔 (侍は折烏帽子に浄衣、中間は浄衣)
同七郎北條宗頼 (宗顕) (侍一人は立烏帽子に浄衣、中間は直垂)
遠江七郎北條時基 (同上)    木工権頭藤原親家 (雑色二人を伴う)
和泉前司二階堂行方 (浄衣、折烏帽子の者を少々伴う。また浄衣の小舎人童あり)
同三郎左衛門尉二階堂行章    安達泰盛 (雑色を具す)   同六郎安達顕盛
少卿武藤景頼 (雑色を伴う)    日向前司宇佐美祐泰
周防前司島津忠綱 (浄衣の侍少々を伴う)   同五郎左衛門尉嶋津忠景 (同上)
加賀兵衛大夫親氏   常陸次郎左衛門尉行清   御幣は信濃次郎左衛門尉佐々木時清
出羽七郎左衛門尉二階堂行頼   薩摩七郎左衛門尉伊東祐能   土肥四郎左衛門尉実綱
隠岐四郎左衛門尉二階堂行長   武石新左衛門尉長胤
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応二年
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2月11日 癸卯
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吾妻鏡
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晴。二所奉幣の使節として相模三郎 北條時村主が出発した。今日は鶴岡八幡宮の臨時祭で、尾張前司 北條時章が奉幣の代参に任じた。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応二年
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2月15日 丁未
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吾妻鏡
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雨。申刻 (16時前後) に二所奉幣使の相模三郎 北條時村が帰着した。今日は伊豆山権現 (公式サイト訪問記地図) (各、別窓表示) を出立していた。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
文応二年
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2月20日 壬子
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吾妻鏡
史 料
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晴、 未刻 (14時前後) から春雨。修理および椀飯役の経費などを百姓に負担させるのは長く禁止し地頭の収益から拠出するよう定めた。
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今日鶴岡八幡宮で仁王会を開催、講師は八幡宮寺別当僧正 隆弁、読師は弁法印審範 (八幡宮の学頭) 、請僧は100人 (勝長寿院、永福寺、大慈寺、鶴岡八幡宮寺の四ヶ所供僧を併せて83人。17人は長福寺と安祥寺の僧正と左大臣法印厳恵ら宿老の僧綱 (この所務は安芸左近大夫親綱)、八幡宮寺がこれを招請した)。
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布施の手長 (配り役) は四ヶ寺分を安芸左近大夫親綱、二ヶ寺分を宗民部十郎と矢部次郎太郎、この奉行は中 (中原) 山城前司平盛時が任じた。
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  請僧  左方               右方
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     (新阿弥陀堂)法印権大僧都清尊   房源
     (永福寺)権少僧都道曜      (永福寺)雅賢
     (大慈寺)長尊(釈迦堂)      (勝長寿院)聖尊
     (鶴岡)定憲           (勝長寿院法印の弟子)俊承
     (鶴岡)慈暁           (永福寺)暹慶
     (永福寺)円誉          (安祥寺僧正の弟子)印教
     (新阿弥陀堂)兼伊        (同)重賢    以下、略
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  仏布施として出羽絹百疋  誦経物に奥布百端(並安寺)
  講師に、綾の被物三重  絹の裹物一(奥布三段入り)上絹十疋  染絹一端  白布一段
浅黄十端  色革一枚  供米一石(短冊。後日に送付)
  読師に、講師の分に加え、綾の被物一重 紙の裹物一 袋米一(立文の短冊を裹物の上に置く)
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   ※山城前司: 多くの資料と写本による「=平盛時」に従ったが、「中」の意味が不明。
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   ※続史愚抄: 今年が辛酉革命に当たる件について決定があった。
上卿の左大臣公相、已次右大臣公親以下10人が協議して改元を定め、文応を弘長に改めた。詔書と赦と吉書は通例の通り。
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   ※辛酉革命: 古代中国で未来を占った手法の一つで、辛酉の年には大きな社会変革が起るとい
う根拠の薄弱な考え方。平安時代以後、この年に改元することが多かった。
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十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸) と 十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)を組み合わせて甲子・乙丑...と続き、十干が一巡すると次の甲は十二支の11番目・戌と組み合わせて甲戌・乙亥となる。従って組み合わせは60種類、61年後には再び辛酉の年が巡ってくる。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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2月25日 丁巳
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吾妻鏡
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東海道の宿駅に備える馬と荷を運ぶ人夫について、使者の往来ごとに規定の範囲を越える請求があり農民や旅人の大きな負担になっている。その訴えが幕府に届き、今日六波羅に向け以下の通達が発せられた。
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  早馬の事。
宿駅に二匹の常備を定めているにも拘らず、最近は鎌倉に向かう者が緊急でもないのに三、四匹或いは四、五疋と記録し役所に負担を掛けているとの報告があるのは不都合である。今後は前例に倣い同様の指令を起こさぬよう通達する。    文応二年二月二十五日
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 武蔵守北條長時 (執権)  相模守北條政村 (連署)   陸奥左近大夫将監 北條時茂 (六波羅北方) 殿
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  京都から鎌倉への荷を運ぶ人夫の事。
雑掌(担当者)の申請に任せて指示しているため人夫が増加し住民の負担が大きくなっている。今後は荷物の量を確認した上で必要な人数を申請し、私用での利用は全て禁止する。また権威を振り翳して途中での狼藉をしないようにとの仰せがあり、以上の通り通達する。     応二年二月二十五日
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 武蔵守北條長時 (執権)  相模守北條政村 (連署)   陸奥左近大夫将監 北條時茂 (六波羅北方) 殿
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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2月26日 戊午
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吾妻鏡
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晴。改元の詔書が到着した。去る20日、文応二年を改めて弘長元年とする。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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2月29日 辛酉
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吾妻鏡
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晴。鎌倉の管理下にある寺社の法要や神事について日頃から協議があり、今日以下を発布した。
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  一.諸社が勤行する神事の事
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祭礼は豊年でも豪奢にせず凶年であっても省略せず、これは礼典の定めである。
しかし近年は神事などが時として陵夷 (衰退) して古来から伝わった儀式に背き、あるいは贅沢に過ぎる状態である。いかなる神慮が望めようか。今後は恒例の祭祀を衰退させず、供物を過差 (不相応な贅沢) にしてはならない。
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  一.社殿を修造すべき事
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有封社(古代から官給を得た神社)は代々の符(公文書)に従って修造に務め
、損傷が大きい場合は仔細を報告して指示を受けるよう定められている。しかし近年は神官らが神領の利潤を浪費し、社殿の破損は無視している。神慮への敬意も持たず正義も失ってしまった。以後、この制法に背いた者は解任することになる。
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  一.諸堂は定めに従って年中行事等を勤行するべき事。
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恒例の行事があるにも拘らず供僧らが形式だけの勤修で済ませ、誠意を込める志が見られない。真面目なのは職に任じた当初だけ、多くの者が重要な勤行も経験の浅い代官に任せるのは実に不都合である。
禁忌(服喪など)または病気など以外に代官を用いる事は全て禁止とする。
また供料の負担を怠けているとの訴訟もあり、管理の責任も果たされていない例が多い。更に定めを守らない担当者があれば奉行人の報告に従って解任する。
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  一.諸堂の執務人が本尊を修造の責を負うべき事
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これは神社修理の條に準じた扱いとする。
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  一.仏事に関する事
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堂舎で報恩追善供養を営む場合は多大な費用を使うことになる。仏や僧侶への奉仕ではあるが、庶民にとっては間違いなく負担となり、世間の評判に拘泥して善根を施すどころか、逆に罪根を招く結果になり兼ねない。貧後は仏事を修する際には贅沢を戒め、また関東に祗候する御家人も家屋の営作や出仕の装いなどの贅沢も控えるよう沙汰する。
この他にも厳しく守るべき数ヶ條があり、壱岐前司後藤基政と小野澤左近大夫入道光蓮(仲実)が奉行に任じる。
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  一.放生会の桟敷は倹約を旨とする事
  一.博奕を停止する事
  一.鎌倉中の橋を修理し、民家の前を掃除する事
  一.病人、孤子(みなしご)、死屍を路辺に棄てるのを禁じる事
  一.念仏者が女人などを招き入れる事
  一.僧徒が頭を裹み(袈裟で頭を包んだ姿)鎌倉中に横行する事(保々に禁止を命ず)
  一.鷹狩りは神社祭礼に伴う神事以外は禁止する事

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  一.早馬の事
緊急の事態を報告する以外の勝手な事情で早馬を称し人々に迷惑をかける例が多い。
今後は特に重要な場合以外は禁止する旨を六波羅に通達する。
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  一.長夫(領主や地頭が命じる長期の労役)の事
農民にとっての大きな負担である。禁止すべきではあるが鎌倉に祇候する御家人には負担になってしまう。今後は正しく日食(日当・食料)を支給して召し使うこと。
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                    鎌倉幕府法 弘長元年二月二十日新制
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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3月 5日 丁卯
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吾妻鏡
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訴人 (原告) から引付衆による裁判の遅滞を嘆く声が将軍家 宗尊親王の耳に届き、この件についての評議が行われた。今後は過怠などを起こさず早急の決裁を心掛ける事、ただし奉行人に対して意趣を持っていた場合は頭人 (引付衆の組の筆頭) に報告して重罪に処するよう通達した。
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   ※奉行人に意趣: 原告と被告が共に御家人の場合は、同じ御家人である奉行人に対して遺恨や
懇意の関係が起こり得る。訴訟を指揮する引付衆の独立性が問われている。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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3月13日 乙亥
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吾妻鏡
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晴。未刻 (14時前後) に政所で失火。庁舎、公文所、問注所が焼失したが倉庫などは被災を免れた。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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3月20日 壬午
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吾妻鏡
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雨。今日、評定衆が連署した起請文 (誓書) を提出した。常陸介入道行日 (二階堂行久の法名) の加判 (花押) がなく、評定衆の任を離れることになる。次に引付衆が別紙の起請文を提出した。また新制 (2月29日に発布した法令) を今日から施行し、併せて引付衆の結番を改訂した。(印は頭人)
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  一番 勤務は三日と二十二日
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武蔵前司北條朝直   出羽前司入道道空(二階堂行義)   縫殿頭中原師連
 伊勢前司入道行願(二階堂行綱)   左衛門尉清原満定   式部太郎左衛門尉伊賀光政
 皆吉大炊助文幸   島田五郎親茂
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  二番 勤務は七日と二十七日
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尾張前司北條時章   筑前前司入道行善(二階堂行泰)   直講教隆
 宮内権大輔長井時秀   進士次郎蔵人光政   明石左近大夫兼綱   対馬左衛門次郎
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  三番 勤務は三日と十三日
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越後守北條実時   刑部少輔北條教時   上総前司大曽祢(安達)長泰
 大田民部大夫康宗  民部大夫大江以基   長田左衛門尉広雅   佐藤民部次郎業連
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  四番 勤務は七日と二十二日
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和泉前司二階堂行方 前太宰権少弐入道蓮佐(狩野為佐)   対馬前司三善(矢野)倫長
 刑部権少輔政茂   壱岐前司後藤基政  山城前司俊平  山名中務大夫俊行
 雑賀太郎尚持
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  五番 勤務は十二日と二十七日
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秋田城介安達泰盛        太宰権少弐武藤景頼    伊賀前司高野時家
 信濃判官入道行一(二階堂行忠)   隠岐大夫判官二階堂行氏  山城前司中原盛時
 佐藤民部大夫行幹        山名進次郎行直      齊藤次朝俊
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年br>.
3月25日 丁亥
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吾妻鏡
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晴。近習の中から歌仙 (優れた歌人) を選び、各々が当番の日に五首の和歌を献じるように定めた。
冷泉侍従隆茂、持明院少将基盛、越前前司 北條時広、遠江次郎時通、壱岐前司 後藤基政、掃部助範元、鎌田次郎左衛門尉行俊がその人々である。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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4月21日 壬子
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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将軍家 藤原頼嗣 の奥州禅門 北條重時の極楽寺邸に入御の予定に伴い供奉人を選抜する事になった。
直垂、立烏帽子の着用となる。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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4月23日 甲寅
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吾妻鏡
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雨。 相模太郎 北條時宗殿 (11歳、5月で満10歳) が嫁娶り (正室の堀内殿安達義景の娘) を行なった。彼女が甘縄邸から出発する際の御身固めは掃部助範元、この御祈りのため去る22日から天冑地府、呪詛、霊気などの祭祀を勤行していた。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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4月24日 乙卯
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吾妻鏡
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晴。将軍家 (宗尊親王) が騎馬で奥州禅門北條重時の極楽寺に新造した山庄に入御、御息所 (正室近衛宰子) も同行している。 相模守北條政村と重時は予め山庄で待機した。
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  供奉人
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   御所の御方
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    騎馬
土御門中納言顕方卿  相模太郎北條時宗  大夫判官足利家氏  備前前司北條時長
尾張左近大夫北條公時  相模三郎北條時輔  武蔵五郎北條時忠(宣時)
秋田城介安達泰盛  和泉前司二階堂行方  中務権少輔藤原重教
壱岐前司佐々木泰綱  木工権頭藤原親家  式部太郎左衛門尉伊賀光政
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    歩行
御剣役 遠江右馬助北條清時(時直の嫡子)  常陸次郎左衛門尉行清  城六郎安達顕盛
同、九郎安達長景(義景の七男、泰盛の異母弟)  信濃次郎左衛門尉二階堂行泰
大隅修理亮嶋津久経(忠時の嫡男、嶋津家三代当主)  薩摩七郎左衛門尉伊東祐能
左衛門尉武藤景頼 美作兵衛蔵人長教 甲斐三郎左衛門尉為成  周防五郎右衛門尉
大曽祢太郎左衛門尉長経(安達(大曽祢)長泰の嫡子)  土肥四郎左衛門尉実綱
隠岐四郎兵衛尉二階堂行廉  武石新左衛門尉長胤  三村新左衛門尉
鎌田三郎左衛門尉
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   中御所(将軍正室)の御方
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    騎馬
御輿に沿う 刑部少輔刑部少輔北條教時  (同)弾正少弼北條業時 越後右馬助北條時親
新相模三郎北條時村  遠江七郎北條時基  越後四郎北條顕時  宮内権大輔長井時秀
三河前司新田(世良田)頼氏  少卿武藤景頼  壱岐前司後藤基政 加賀守二階堂行頼
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    歩行
城五郎左衛門尉重景 8安達義景の五男、霜月騒動で戦死) 出羽七郎左衛門尉二階堂行頼
上総太郎左衛門尉長経  信濃判官次郎左衛門尉佐々木泰清
隠岐三郎左衛門尉二階堂行義  小野澤次郎
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明日の笠懸けに備えての射手について、太郎 (時宗) 殿の祇候人 (得宗被官) および然るべき御家人の家臣を召集するよう 二階堂行方 武藤景頼が指示を受け、小侍所に通達した。
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   ※周防五郎: 吾妻鏡の建長八年 (1256) 6月2日に「奥大道 (奥州街道) で強盗事件が頻発してい
るから沿道の地頭は警備を強化せよ」との命令が下され、その中に (喜連川地頭) 周防五郎右衛門尉の名がある。周防五郎は歌人として知られた嶋津忠景 (宗尊親王の近臣) の通称なのだが、喜連川との関係が確認できないため取り敢えずペンディングにしておく。
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   ※二階堂行頼: 出羽七郎左衛門尉=行頼だが、行頼は加賀守でもある。他に加賀守に該当する
人物がこの時代には見当たらないため、取り敢えず重複掲載した。
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   ※重時と忍性: 重時は建長八年 (1256) に連署を辞して幕政
を離れて出家引退した。この頃から念仏宗に深く帰依していた、と伝わる。
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真言律宗の 叡尊 (Wiki) に師事して強い影響を受け常陸国三村寺 (清冷院極楽寺、別窓) を拠点として北関東の布教活動にあった 忍性の影響も強く受けていたのだろう。
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正元元年 (1259年、吾妻鏡 記録なし) には重時の招きを得て極楽寺の地 (当時は地獄谷と呼ぶ) を訪れている。文応元年 (1260) 7月の立正安国論で 日蓮が念仏宗を悪し様に罵っているのを考えると、当時から鎌倉での忍性らの動きが活発になっていた見るべきか。
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右上は当初の忍性が本拠を置いた新清凉寺釈迦堂 (既に廃寺で痕跡もなし) があった新清凉寺ヶ谷の鳥瞰。 クリック→ 別窓で拡大表示。 (同地域の地図)
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現在は住宅の密集地で、最も奥の崖に幾つかの崩れた 「やぐら」 が見えるのみ。
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重時は今年の11月3日に病没、6日の葬儀は忍性が差配した。この頃の忍性は扇ヶ谷の新清凉寺釈迦堂に住んで布教と貧民救済活動を本格化させ、併せて土木など公共工事にも間口を広げていた。師の叡尊は 北條実時の請願を受けて弘長二年 (1262) 2月に鎌倉に入り 北條時頼らに戒を与えた。
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新清凉寺釈迦堂での説法には実時や時頼の正室 (重時の娘) が聴聞に訪れていた、と記録されている。
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叡尊は7月に真言律宗の本山 西大寺 (公式サイト) に帰り、以後の関東の布教活動は忍性が総指揮を執る。
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文永四年 (1267)、忍性は重時の山荘を改造して 霊鷲山極楽寺 (開基は重時とされる) を開創する。幕府の認可を受けて和賀江島の港湾施設を整備し維持管理を引き受けると共に手数料を徴収して非人の救済に充て始めたのもこの頃だ。  右上は極楽寺を描いた江戸時代の絵図。クリック→ 別窓で拡大表示。
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幕府滅亡前後の最盛期の極楽寺周辺には 49もの支院があり、医療施薬の施設や貧者、非人、老いた牛馬まで保護救済する無料施設を運営していたと伝わる。
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忍性は幕府に申し出て大和国から引き連れてきた石工などの技術者に和賀江の港湾施設を整備させ唐船などの交易品から手数料を徴収する権利を得て社会事業の財源にした。その行動が日蓮の目には 「権力と結託して暴利を貪る」 、そして 「末法の時代に国を滅ぼす元凶」 と見えた。では自民党と癒着して動き続けた創価学会や統一教会は何者に見えるのか?
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 右は乾元二年 (1303) に没した忍性を葬った極楽寺の石塔。
      クリック→ 別窓で拡大表示

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基台を含め高さは308cmの巨大な五輪塔で、毎年4月8日のみ公開されている。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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4月25日 丙辰
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吾妻鏡
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北條重時の極楽寺邸で笠懸けを行なった。
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 射手
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相模三郎北條時輔  同、七郎北條宗頼(宗顕)  遠江七郎北條時基  城五郎左衛門尉重景
信濃次郎左衛門尉二階堂行泰  大隅修理亮嶋津久経  甲斐三郎左衛門尉為成
城弥九郎安達長景  上総太郎左衛門尉長経  信濃判官次郎左衛門尉佐々木泰清
小野澤次郎時仲  武石新左衛門尉長胤  三浦六郎左衛門尉貞連
信濃次郎左衛門尉二階堂行宗
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次に小笠懸を催したが最近は余り好まれず熟練した者がいない。
最明寺禅室 北條時頼「小笠懸なら太郎 (時宗) の腕前が秀でています。呼んで射させましょうか」と自慢し人々は興味を引かれた。
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直ちに時宗を呼ぶ使者を鎌倉の屋敷に送り、安達泰盛が道具や的などを整えさせた。馬は長崎左衛門尉が献じ、的は武田五郎三郎が作って工藤次郎右衛門尉が馬場の定位置に立てた。
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跨った馬 (名は鬼鴾毛) は普段から遠笠懸に慣れているため的の前を駆け抜けようとした。時宗は弓を緩めて馬を制したが時頼は一度駆け抜けてから改めて射るように指示した。
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そして時宗が放った矢は的を挟んだ串の一寸 (約3cm ) ほど上に当たり、的は塵の如く烏帽子の高さまで跳ね上がり、時宗は馬場の端からそのまま鎌倉に駆け戻った。
人々の歓声は暫く止まず、将軍家の感動も深い。屋敷に戻った時頼は「私の跡を継ぐに相応しい器である」と賞賛した。酉刻 (18時前後) になって将軍家は極楽寺から還御した。
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   ※小笠懸: 馬場から10丈 (約30m) 離した1尺8寸 (約55cm)
の的を射るのが実際の矢戦を模した遠笠懸で、走路の足元に置いた 4寸的 (約12cm) を射るのが小笠懸。兎など小動物を狩る騎射を馬場で再現したのが起源である。
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右上は上賀茂神社の神事 小笠懸け、
 右下は絵巻物 男衾三郎絵詞 に載る挿絵、笠懸。

小笠懸の的は 2~3m先だからゲーム感覚に近い。共にクリック→ 別窓で拡大表示
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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4月26日 丁巳
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吾妻鏡
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亥刻 (22時前後) に前隼人正で従五位上の藤原朝臣伊賀光重法師 (法名を光心) が死没した。
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   ※伊賀光重: 伊賀 (所) 朝光の三男か四男 (庶子か) 。元仁元年 (1224) 6月28日の吾妻鏡に 「伊賀
氏の変」 として詳細記録があるが、実際には伊賀氏排除を目的にした政子が冤罪を主張して追放した事件である。
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兄弟は鎮西流罪となり、二年後 (政子の死没後) に許されて幕政に復帰した。
晩年の職責は未確認だが、同様に信濃流罪となった長兄 光宗は寛元二年 (1244) には評定衆に任じているから、光重もそれなりの処遇を受けたと思う。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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4月28日 己未
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吾妻鏡
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晴、夜に入って雨。今日午刻 (正午前後) に暈 (太陽の周囲に現れる光の輪、単なる光の屈折) が現れた。色は青黄赤白である。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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5月 1日 壬戌
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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夜半に大倉稲荷の付近が騒がしくなった。ここでは続けて集まっている連中が散見されているため今夜は警備の者が捕縛を試みたが逃げられたとのこと。
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   ※大倉稲荷: 現在の雪ノ下4丁目にある大蔵稲荷 (地図) と考える説があるが信憑性は乏しいと
思う。この事件には続きがあって 6月22日の吾妻鏡には「亀ヶ谷の石切谷近くで 三浦義村の子息 律師良賢 (泰村の末弟だね) と他の数人を謀反の嫌疑で生け捕った」との記事がある。
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この連中が大倉稲荷で密議していたと考える向きもあるが、この事件の信憑性は乏しい、と思う。亀ヶ谷なら兎も角、大倉稲荷は幕府庁舎から 400m弱の至近距離だ。そこに集まって謀反の相談する馬鹿もいないだろうに。
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   ※鎌倉石: 耐火性が強い安山岩質凝灰質砂岩で、逗子の大切岸で切り出された石材と同じ。
比較的柔らかくて加工しやすく、亀ヶ谷でも切り出した跡を「やぐら」に再利用している例も多い。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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5月 5日 丙寅
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吾妻鏡
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御所で和歌の御会あり。紙屋河二位、右大弁入道真親、越前前司 北條時章、陸奥左近大夫将監 北條義政、壱岐前司 後藤基政らが参加した。
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   ※紙屋河二位: 従二位の公卿で鎌倉歌壇でも活躍した藤原顕氏 (紙屋河は号) 。
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   ※入道真親: 承久の乱の戦後 (吾妻鏡の承久三年 (1221) 7月12日参照) に 籠坂峠で斬首 (別窓)
された廷臣 葉室 (藤原) 光親の息子 藤原光俊。父に連座して流罪に処された後には 藤原定家に師事し、鎌倉で将軍 宗尊親王の和歌師範を務めた。
続 古今和歌集 (Wiki) 撰者の一人でもある。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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5月11日 壬申
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続史愚抄
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朝廷が辛酉 (吾妻鏡 2月20日末尾を参照) 対応の徳政として新制21ヶ條を宣下した。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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5月12日 甲戌
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報恩抄
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弘長元年5月12日、執権 北條長時の勘気 (怒り) を受けた 日蓮が伊豆国伊東に流された。
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報恩抄は、建治二年 (1276) に55歳の 日蓮が滞在していた 身延山久遠寺 (公式サイト) で著述して 安房国 清澄寺 (公式サイト) の弟子に送った、謂わば回想録である (日付は建治二年7月21日) 。
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日蓮が伊豆流罪に直接触れたのはこの一行だけだが、狂信的な弟子や後継者が様々な尾鰭を付け加えて奇跡的な一大叙事詩になった。まぁ史実の捏造は全ての宗教団体が平然と利用しているが。
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右は日蓮を置き去りにした (と伝わる) 蓮着寺 奥の院の俎板岩。
  画像をクリック→ 別窓で拡大表示

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更に詳細は 日蓮法難の地 俎岩山蓮着寺 (別窓) を参照されたし。
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日蓮が残した (または 弟子が祭り上げた ) 聖蹟の一つだが、宗派によって無視したり過大に評価したりの差異がある。尾鰭の真贋を見極めるのも面白いので、材料として提供した。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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5月13日 甲戌
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吾妻鏡
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今日 昼番の勤務の際に御所広間で壱岐前司 佐々木泰綱と渋谷太郎左衛門尉武重が口論に及んだ。
泰綱が「武重は大名である。」と言ったのが発端で、武重がこれを咎めて、
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「嘲弄に等しい言葉であり、現在は全く大名ではない。先祖の 渋谷庄司重国の時代は実際に相模国の大名で、貴方 (泰綱) の先祖 佐々木判官定綱が (平家に本領を追われ) 浪々の身だった頃は重国に養われる立場だったが、今では子孫の貴方の方が大名である。」と答えた。泰綱は更に言葉を続け、
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「東国の大名も小名も渋谷庄司重国も誰もが平家に仕えて恩顧を受けていたが、我が家だけは平家の権勢に追従せず、志を源家に置いて関東に移住した。縁を頼り重国らの助けを得て身命をつなぎ、右大将 頼朝に従って多くの勲功を挙げた。兄弟五人が17ヶ国の守護職に任じ、更に受領や検非違使の官職を得た。
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昔の浪人生活は恥辱ではなく誇るべき事なのだろう。当初の重国は (父の) 佐々木秀義を婿にして義清を産ませた。婿とは牛馬ではなく人としての関係で、更なる過言は何の意味も持たない。」
と。
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列座していた御家人たちは皆耳を傾け、口を挟むことができなかった。
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   ※渋谷武重: 重国 (頼朝の家臣) -高重 (和田合戦で義盛に味方し討死) -武重と続く御家人。
泰綱が大名なのは父 信綱が挙げた幾多の戦功に拠るもので、泰綱が誇るべき類ではない。渋谷氏が威勢を失っているのは義盛との友誼を重んじた和田合戦で所領の大部分を没収されたからで、武重の非に帰すべきではない。
二人共 (特に泰綱の方は ) 下らない主張をしている、そんな気はするね。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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5月 以後
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史料各種
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立正安国論の建白が原因で伊豆に流された日蓮に帰依した地頭の伊東八郎左衛門朝高が邸内の毘沙門堂を住居として提供したのが伊東の高台にある 海光山佛現寺 (日蓮宗のサイト) の起源。
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寺宝として 日蓮自筆の曼陀羅 (偽物っぽい) 、海中から出現した釈迦立像、訳の判らない天狗の詫証文などがある。
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 右画像は日蓮の草庵跡に建立したと伝わる佛現寺の毘沙門堂。
       画像をクリック→ 佛現寺の明細 (別窓) へ。

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日蓮の流罪、救出した経緯、海から現れた釈迦仏、日蓮の草庵など...寺伝の大部分が佛現寺と重複しているのが山裾に隣接するのが当時の地頭 伊東氏館跡と伝わる 海上山佛光寺 (Wiki) 。赦免を受けた日蓮が鎌倉に戻った後は祖師堂を置いて宗祖を祀ったが明治初期に焼失、昭和27年 (1952) になって再建に至る。
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つまり日蓮の草庵跡を宗門の聖地としたのが佛現寺で、地頭の館跡が佛光寺という「住み分け」をしている。佛光寺の方が規模は小さいが、寺伝は細かい固有名詞が載っているし 北條時章が殺された二月騒動に絡んだ記述もあって、読み物とては面白い。
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   右画像は地頭の館跡に立てたと伝わる仏光寺の本堂。
         画像をクリック→ 仏光寺の明細 (別窓) へ。

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日蓮は地頭の伊東八郎左衛門預かりとしてこの毘沙門堂 の場所に住み 四恩抄 教機時国抄 (共に解説サイト) を著して「法華経の行者」を宣言、二年後の弘長三年 (1263) 2月に赦免されて鎌倉に帰った。
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しかし日蓮の闘争心は衰えることなく、更に幕府への建白と他宗の批判を続けたため、文永八年 (1271) に滝ノ口法難を経て今度は佐渡へ流罪となり、文永十一年 (1274) 春には再び赦免され. が...
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心身ともにダメージを受けた日蓮は、甲斐国 身延山 (公式サイト) を経て弘安五年 (1282) に武蔵国池上 (現在の 本行寺 (公式サイト) で死没した。身延山で日蓮を保護したのが甲斐源氏南部一族 加賀美遠光の三男 南部光行 の一族で、光行ら南部氏の嫡流は奥州合戦の恩賞で得た陸奥国に移住し本領に残った実長 (光行の三男で波木井氏の祖) が主役となる。詳細は 南部一族発祥の地 (別窓) で。
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   ※八郎左衛門朝高: 伊東家系図に朝高の名はない。「曽我の仇討ち」 の悪役として殺された 工藤
祐経の嫡男 祐時 (幼名 犬房丸)の六男で伊東庄の地頭を相続した祐光を差すのだろう。
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   ※海中出現釈迦立像: 日蓮の随身佛とされているが「海から現れた」は疑わしい。現在は京都
本圀寺 (Wiki) の寺宝となっているらしいが、これは確認していない。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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6月 1日 辛卯
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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奥州禅門 北條重時が急病となり人々が群参した。今日、廁 (便所) で怪異を見て心神を喪失した と。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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6月 3日 癸巳
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吾妻鏡
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雨。申刻 (16時前後) に御所の北対の西端近くに海黒鳥 (海鴨、呼び名は色々、海鵜 (うみう) かも) が落下した。和泉前司 二階堂行方の郎従らがこれを捕え、海辺で放してやった。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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6月 6日 丙申
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吾妻鏡
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晴。和泉前司 二階堂行方の奉行として、昨日鳥が落ちた事に対応し御所で占いを行なった。安倍晴茂朝臣らが火災と病気に注意が必要との結果を報告した。貞応元年 (1224) 4月に死骸が前浜の腰越に打ち上げられその年の8月には彗星が現れた、と。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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6月 7日 丁酉
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吾妻鏡
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晴。御所に於いて三人による百恠祭三座を行わる。担当は為親、職宗、茂氏。政所の沙汰である。
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   ※百恠祭: 怪異を避けるために行なう陰陽道の祭祀で、百怪祭に同じ。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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6月10日 庚子
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吾妻鏡
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晴。将軍家 宗尊親王が変異に対処するため御物忌に入った。ただし外来者も近付けないほどの厳密な警護ではなく、評議の結果に従っている。
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   ※物忌: 心身の穢を取り去るため、一定期間の飲食を含む行動を慎むこと。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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6月12日 壬寅
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吾妻鏡
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八月の放生会御参宮に従う供奉人について、小侍所から通例の通り太宰少弐 武藤景頼を経由して名簿の提出があった。御点を付けて戻すことになる。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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6月16日 丙午
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吾妻鏡
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晴。奥州禅門 北條重時の病気は今月1日以後の毎日夕方に発症し、瘧病と推定される。11日から若宮別当僧正 隆弁に懇請して加持祈祷を続け、今夜になって僧正から「来る22日には回復するだろう」との結果が伝えられた。数輩の賢息と親類縁者や祇候人はこれを聞いて奇異を感じた。
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   ※瘧病: ハマダラカが媒介する原虫によるマラリアと推定される。現在の国内には存在しない
そうで。
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   ※重時の子女: 長男の為時は一説に物狂で廃嫡されたという苅田流北條氏の祖。次男だが
嫡子となった執権の長時 (赤橋流) 、三男が時茂 (常磐流) 、四男 (五男とも) が業時 (普恩寺流) 、五男 (四男とも) が義政 (塩田流) 、六男が忠時 (坂田流) 、 長女は 時頼の継室として 時宗宗政らを産んだ葛西殿、安達泰盛の室、戸次重秀の室、宇都宮経綱 (泰綱の次男) の室、北條公時の室などがいる。
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   ※塩田流: 北陸新幹線の上田駅からトロッコに毛が生えた
ような上田電鉄でゴトゴトと30分、信州の鎌倉 (紹介サイト) として人気の高い塩田平には文字通り鎌倉の面影を伝える多くの寺社が点在する。
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峠を越えた北の青木村も見逃せないスポットだ。
塩田流北條氏一族は元弘三年 (1333) の鎌倉陥落の際に応援に駆け付け本家一族と共に全滅するのだが、塩田平には豊富な温泉と共に静かな散策を楽しめる散策路も多い。ここは、心からお薦めできる。
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右は青木村 大法寺の国宝 三重塔。クリック→ 大宝寺と周辺のレポート (別窓) へ。
      大宝寺の (公式サイト) も見応えあり、です。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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6月17日 丁未
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吾妻鏡
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供奉人の名簿に付点が下された。また、他に随兵として相模三郎 北條時輔、直垂を着す者として以下の四人を加えるよう、将軍家から直接の記入により指示された。
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   城十郎安達時景 (義景の七男) 、壱岐左衛門尉 佐々木四郎氏信、筑前次郎左衛門尉 二階堂行頼
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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6月18日 戊申
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吾妻鏡
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晴。広御所 (御所内の広間) の修理に伴い、北の小庭で為親朝臣土公祭 (地鎮祭) を催した。
奉行は太宰権少弐 武藤景頼、将軍家の使者として波多野出雲次郎左衛門尉時光。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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6月21日 辛亥
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吾妻鏡
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左衛門尉足立太郎直元は放生会の随兵に加わるよう仰せを受けたが難病に苦しんでおり、回復が見られれば参加したいとの申請を提出した。
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   ※足立直元: 弘安八年 (1285) 11月の霜月騒動で安達氏の外戚として戦死、所領を失なった。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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6月22日 壬子
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吾妻鏡
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霽 (晴) 。未刻 (14時前後) に諏方兵衛入道蓮佛 (諏方盛重の法名) と左衛門尉 平盛時が亀谷の石切谷付近で故 駿河前司 三浦義村の子息 大夫律師良賢を謀叛の嫌疑iによって生け捕りにした。
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その他に駿河八郎入道 (式部大夫三浦家村の子) および野本の尼 (若狭前司 三浦泰村の娘) 以下の首謀者数人が含まれる。この事件 (5月1日の記事も参照) により鎌倉中が騒ぎとなり夜には近国の御家人ら多くが鎌倉に駆け付けた。
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今日夕刻になって奥州禅門 北條重時の病状が回復、心神も元に戻った。
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   ※亀谷 石切谷:当時の亀谷は現在の扇ヶ谷1~4丁目で 南端は巽神社から200m南の鎌倉駅に近
い。吾妻鏡の治承四年 (1180) 10月12日には下記の記載がある。
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早朝の寅刻 (4時前後) に小林郷の北山に社殿を造り、専光坊を当分の別当職として鶴岡宮 (現在の 元八幡神社 (別窓) をここに遷した。実務の管理は 大庭景義頼朝は迷った末にこの場所と決め、飾りなどを省いて茅葺の宮を建てた。
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鶴岡から遷したから鶴岡八幡宮、「鶴岡」の西にある低地を対語として「亀谷」と呼び始めたのが経緯である。扇ヶ谷の呼称は 海蔵寺(別窓、 地図)の北側を源流として流れる扇川が語源で、この谷を本拠として関東の覇権を握りかけた扇谷上杉氏 (伊勢新九郎 (後の北条早雲) により滅亡) の時代から使われ始めた名称で比較的新しい。
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石切谷の場所は、特定できない。鎌倉の山裾は多少とも石切場の様相を呈しており、頼朝入府以前から建設用石材(正確には凝灰質粗粒砂岩)の切り出しが行われていた。
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日蓮が念仏宗らに襲撃されて逃げ込んだ法性寺周辺(文応元年 (1260) 8月27日を参照) の大切岸も大規模な石切り場跡と伝わっている。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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6月23日 癸丑
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吾妻鏡
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晴。相模禅師厳齊 (北條政村の三男で仁和寺の僧) が死没した。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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6月25日 乙卯
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吾妻鏡
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騒動の拡散を防ぐため、良賢の件を六波羅に通達した。御教書の内容は次の通り。
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大夫律師良賢 (若狭前司泰村の舎弟) を謀叛を企てた嫌疑により拘束した。有力な人物が加わった痕跡は見られない。この件に伴って在京あるいは西国の御家人が六波羅に集まった場合は特に問題がない旨を周知させ、従来の例に従って退去させるよう、仰せに従って通達する。
   弘長元年六月二十五日
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     武蔵守 北條長時  相模守 北條政村  陸奥左近大夫将監 北條時茂(六波羅北方)殿
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今日、奥州禅門北條重時が馬と南廷 (銀の延べ板) 五枚と剣を若宮僧正 隆弁の坊に届けさせた。
また室家から生衣二、南廷三、絹三十疋を、武蔵守長時から剣、南廷二が贈られた。(重時の) 病気平癒の謝礼である。
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   ※重時正室: 苅田義季の娘。彼女が産んだ長男為時 (後に時継と改名) は健康を害して廃嫡され
母方の所領 陸奥国苅田郡(宮城県南西部の蔵王町と七ケ宿町)を継承して苅田流北條氏の祖となった。一説に、精神を病んでの廃嫡とも伝わる。
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苅田郡は伊豆流人時代の 頼朝 伊東祐親の娘 八重に産ませた 千鶴丸が実際は殺されず、後に頼朝から陸奥国和賀郡 (七ケ宿一帯) を与えられたとの伝説が残る土地である。
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ただし苅田氏は武蔵七党の一つ横山党の武士小野義行が和賀郡の地頭として下向したのが最初らしいから、頼朝の子孫ではない。落胤伝説の一つ、か。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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6月27日 丁巳
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吾妻鏡
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新相模三郎 北條時村が放生会の随兵を辞退した。
これは去る23日に兄の阿闍梨死没により軽服 (軽い服喪) となるのが理由である。これを小侍所司の平岡左衛門尉実俊が和泉前司 二階堂行方に報告し、「兄弟の服喪日数は50日、8月15日はその中にある。憚りの有無を宮寺に確認しよう」と。の返事があった。
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鶴岡別当僧正 隆弁の返答は「随兵は廟庭 (境内) の外で待機するため先例に背く事にはならず、特に支障はない。」 との内容だった。
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   ※随兵の待機: 状況は異なるが、建保七年 (1219) 1月27日の実朝暗殺の際も随兵は塀の外を
警固しており、犯行後に駆け付けたと記録されている。武装帯剣での参宮は不許可らしい。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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6月29日 己未
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吾妻鏡
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阿曽沼小次郎が落馬した事により放生会の随兵辞退を申し出た。
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   ※阿曽沼氏: 藤原秀郷 (俵藤汰) の子孫である藤姓足利氏の
当主として平家に味方して滅亡した 足利俊綱の末弟が佐野有綱で、頼朝に仕え本領の下野国安蘇郡佐野庄 (佐野市) を安堵された。
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有綱の次男が阿曽沼郷 (現在の佐野市浅沼町) を相続して阿曽沼氏の祖となり、その系は次男親綱→ 長男光綱 (小次郎) と続いた。
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ちなみに親綱の次男公綱の子孫は遠野郡 (岩手県) を領有して繁栄している。
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佐野で藤原秀郷なら関東の名城として名高い唐沢山城址。足利市を含めた近隣には多くの史跡が点在し、平安~鎌倉時代の繁栄を彷彿とさせる。
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    右は平安時代の構築説もある本丸 表御殿の石垣。
        クリック→ 城址と関連史跡へ (別窓) 。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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6月30日 庚申
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吾妻鏡
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晴。午刻 (正午前後) に鳶 (トビ) が御所に飛び込み、御所台所東の蔀 (建具) から中障子を経て北の遣戸 (引き違い戸) に出た。この事件に対応して 武藤景頼を奉行にして占いを実施、 (陰陽道の) 安倍晴茂と職宗から病気に注意が必要との答えを得た。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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7月 2日 壬戌
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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放生会の所役を辞退した者について、二階堂行頼 武藤景頼の報告に対して決裁があった。
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随兵の駿河五郎 (三浦資村) と左衛門尉三浦介六郎頼盛 (三浦 (佐原) 盛時の六男) は各々流鏑馬を務めるため両方の兼任は困難と申し出ている。
城九郎 (安達泰盛の異母弟 長景) は城介 (という武門) の立場から流鏑馬の射手を望んでいる。
阿曽沼小次郎は落馬のことを申し出ている。
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最初の両名は射手の任務ではないため許可しない。最初の指示通り随兵として両役を務めること。
次に長景については、射手であれば他の諸役は免じられる。
次に光綱は、落馬により甲冑をつけるのが困難であれば布衣を着して供奉せよ。
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各々にこの旨が命じられ、小侍所司実俊がこの件の奉行を担当した。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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7月 3日 癸亥
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吾妻鏡
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晴。御所に於いて若宮別当僧正 隆弁が五尊合行法 (五大明王に祈る修法) を催した。伴僧は八人、将軍家に多少の体調不良が認められるためである。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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7月 9日 己巳
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吾妻鏡
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放生会の随兵が定められた中で 江戸七郎太郎から老衰と病気のため鎧を着け難いとの申請があり恩許された。また和泉六郎左衛門尉天野景村から昨日 (8日) に妻女が死産した旨の報告があり、これも同様に許可された。  担当奉行は太宰少弐 武藤景頼
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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7月10日 庚午
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吾妻鏡
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晴。 (7月3日に始まった) 五尊御修法が満願となった。また今夕から別の祈祷を修する事となり、左大臣法印の壇所として御所近辺に任じる人々の宿所が必要となる。
二階堂行方が仰せを受けて平岡左衛門尉と工藤三郎右衛門尉に通達し、両人の宿所を提供する事となった。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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7月11日 辛未
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吾妻鏡
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明日、山内殿 (北條時頼邸を差す) に入御するため供奉人の招集が発せられた。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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7月12日 壬申
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吾妻鏡
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雨。将軍家 宗尊親王が騎馬で最明寺 (時頼) 邸に入御し 弓、蹴鞠、競馬、相撲などの勝負を覧て楽しんだ。また管弦や詠歌の遊宴も催された。
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 供奉人
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  騎馬
   大夫判官足利家氏     越前前司北條時弘(時広)   弾正少弼北條業時
   尾張左近大夫北條公時   相模三郎北條時輔     遠江七郎北條時基
   武蔵五郎北條時忠(宣時)   秋田城介安達泰盛     宮内権大輔北條時隆
   壱岐前司後藤基政     少卿武藤景頼(重複か?)   式部太郎左衛門尉伊賀光政
   城六郎安達顕盛      信濃左衛門尉二階堂行泰  薩摩七郎左衛門尉伊東祐能
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  歩行
   美作兵衛蔵人長教     城九郎安達資国   和泉三郎左衛門尉二階堂行章
   出羽七郎左衛門尉二階堂行頼
   左衛門尉武藤景頼(重複か?)  周防五郎左衛門尉嶋津忠景
   遠江十郎左衛門尉三浦頼連  上総太郎左衛門尉大曽祢長経  隠岐三郎左衛門尉二階堂行氏
   同四郎兵衛尉二階堂行久   壱岐三郎左衛門尉佐々木頼綱(泰綱の嫡子、六角氏当主)
   信濃判官次郎左衛門尉二階堂行宗 左衛門尉土肥四郎実綱  甲斐三郎左衛門尉為成
   肥後四郎左衛門尉行定   左衛門尉鎌田次郎義長  新左衛門尉武石長胤  大泉九郎長氏
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 中御所(将軍正室 近衛宰子)の御方
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  騎馬
   刑部少輔北條教時      陸奥左近大夫将監北條義政  武蔵左近大夫将監北條時仲
   遠江右馬助北條清時     民部権大輔北條時隆     相模七郎北條時弘
   和泉前司二階堂行方     木工権頭藤原親家      壱岐前司壱岐前司佐々木泰綱
   参河前司新田(世良田)頼氏   城四郎左衛門尉安達時盛   常陸次郎左衛門尉佐竹行雄
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  歩行(同十三日還御の時は騎馬)
   大隅修理亮嶋津久時     城五郎左衛門尉安達重景   同、十郎安達時景
   周防四郎左衛門尉島津忠泰(忠綱二男) 上野太郎左衛門尉梶原景綱
   伊勢次郎左衛門尉二階堂行経   左衛門尉大曽祢太郎長経   図書左衛門尉鎌田信俊
   小野澤次郎時仲
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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7月13日 癸酉
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吾妻鏡
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晴、晩頭 (日暮れ時) に将軍家 宗尊親王が山内 (の時頼邸) から御所に還御した。今日、工藤三郎右衛門尉光泰に支障があって放生会の供奉人を記載した回覧から除き、平岡左衛門尉実俊に変更した。
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また中御所 (将軍正室の 近衛宰子)が今夕から護身を始めるため、御験者の休所 (仮の宿舎) を御所の近辺に確保し順番に提供するよう仰せがあった。二階堂行方の奉行による。
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  宿所として指定された人々 (御免は辞退を意味する)
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花山院中納言長雅卿  尾張前司北條時章   上総前司足利 頼氏(利氏)
秋田城介安達泰盛  出羽入道二階堂行義  常陸入道二階堂行久(御免)  壱岐前司後藤基政
和泉前司二階堂行方  筑前入道行善(二階堂行泰)   参河前司新田頼氏(任務重複のため御免)
木工権頭藤原親家   図書頭左衛門尉鎌田信俊(御免)  薩摩七郎左衛門尉伊東祐能(御免)
周防五郎左衛門尉嶋津忠景(御免)
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   ※護身: 一切の障害を取り除き心身を守るために行う密教の修法。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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7月14日 甲戌
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吾妻鏡
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陰。  (予告されていた) 月蝕は現れなかった。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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7月17日 丁丑
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吾妻鏡
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晴。 京都の使者が鎌倉に到着して報告、去る7日に亀山仙洞の御車宿 (牛車の車庫) が失火により焼亡、大勢の人々が集まって破壊し延焼を防いだ。
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   ※亀山仙洞: 建長七年 (1225) に後嵯峨上皇が嵯峨に造営した亀山殿 (別名 嵯峨殿) を差す。
南北朝時代に入って間もない延元四年 (1339) 、その敷地に 足利尊氏 天龍寺(公式サイト、地図)を建立している。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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7月18日 戊寅
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吾妻鏡
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晴。 三位権僧正頼兼が死没した (享年77) 。大納言 源師頼卿 (Wiki) の孫、證遍僧都の直弟子、上皇の熊野御幸の御導師として関東から派遣され嘉禎元年 (1235) 12月18日に権大僧都に転任 (元は少僧都) 、同じ四年 (1238) 5月23日に法印に叙任した。
建長六年 (1254) 12月30日に権僧正、同八年 (1256) に園城寺の別当に補任され、法性房と号した。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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7月22日 壬午
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吾妻鏡
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晴。 政所の門および庁舎などの新造について決裁があった。また今日、関東の古い和歌を撰進 (選択、編纂) するよう将軍家 宗尊親王から壱岐前司 後藤基政に仰せがあった。
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   ※庁舎新造: 3月13日の火災で焼失した建物の復旧か。
決裁に四ヶ月とは、どう考えても遅すぎる。
友人が経営する加計学園の認可を強引かつスピーディに推し進めた安倍晋三に比べると相当遅い。加計学園...不正をすぐ忘れちゃダメ。
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   ※宗尊親王: 生涯を通じ病弱で政治に関する実権を持たない
傀儡同然だった無念などから和歌に耽溺する日常だったらしい。
その影響もあって、在任中の鎌倉歌壇は特に隆盛したと伝わる。
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宗尊自身も弘長三年 (1263) 6月24日には14時から翌朝10時までの一夜に百首を詠み 京都の著名な歌人直観に送って批評を依頼している。直観は新三十六歌仙の一人葉室光俊、承久の乱後に処刑された 葉室光親の嫡子である。
親王は更に7月には直近半年間に詠んだ360首を清書して京都の藤原為家に送り批評を求めた。天皇の息子に批評を求められる立場も、それなりに辛い。
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   ※藤原為家: 高名な歌人 定家の息子。老齢を迎えた為家が
愛した女が亀ヶ谷の寿福寺近くに墓石が残る阿仏尼で彼女が産んだのが冷泉為相。再三鎌倉に下って将軍や執権を含む歌壇を指導し、晩年に至って定住した。
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一説に、父 定家の日記 明月記の要所を吾妻鏡編纂の史料として提供したのが為家、と考えられている。阿仏尼の死没は弘安六年 (1283) 4月で 為相の死没は嘉暦三年 (1328) 7月、為相の墓所は阿仏尼の墓所から直線なら150m弱 (横須賀線の踏切を渡る関係で徒歩なら約400m) の 浄光明寺にある。為相が生母の阿仏尼を弔って墓石を建てた、と考えても違和感はない。
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  右上は伝 阿仏尼の墓、右下は浄光明寺を含む扇ヶ谷の鳥瞰図。
   クリック→ 其々の情報を載せたサイト内の同じ頁へ 、別窓でリンクする。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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7月29日 己丑
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吾妻鏡
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武蔵前司 北條朝直と筑前入道行善 二階堂行泰と常陸入道行日 二階堂行久は放生会に際して廻廊に参候させよとの仰せがあった。
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随兵の中から在国中の四人が辞退を申請した。昨日小侍所を経て太宰少卿 武藤景頼に届き、その他の件については対応が決められた。足立太郎左衛門尉は病床にあり回復すれば参加する (6月21日の申請) 、淡路又四郎左衛門尉は持病が回復すれば参加する (7月6日の申請 ) 、相馬孫五郎左衛門尉は病床にある (7月10日の申請) 、佐竹常陸次郎は病気中で灸によっても未だ回復していない (7月12日の申請)。
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以上は聞き届けられた、と。
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 鎌倉に駐在しているが支障を申し出ている者。
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   尾張前司 北條時章  越前前司 北條時弘 (時広)   治部大輔 足利頼氏 (利氏)
   周防守 嶋津忠時   上総前司大曽祢長泰   佐渡五郎左衛門尉後藤基隆
   周防三郎左衛門尉嶋津忠行 (忠綱の長男)    左衛門尉宇都宮五郎宗朝
   出羽三郎左衛門尉二階堂行資?   以上は病気のため。
   上野前司畠山国氏は病気が回復すれば参加する、と。
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 官人の事
大夫判官 足利家氏と隠岐大夫判官二階堂行氏と出羽大夫判官 二階堂行有)と上野大夫判官ん結城広綱の四人は召集したところ、行有と行氏は既に辞職し在国を許されたと報告、広綱は参加を承知した。
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家氏は在国中のため召集するか否かだが、去る27日に相州禅室 北條時頼が評定衆への報告を命じたため、今日小侍所の平岡左衛門尉実俊と工藤三郎左衛門尉光泰に報告し、招集せよとの命令書が発行された。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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7月30日 庚寅
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吾妻鏡
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鎌田次郎左衛門尉行俊と三善六郎左衛門尉が木工権頭 藤原親家を介して放生会の供奉を望んだ。
親家は将軍家 宗尊親王の機嫌を見計らって小侍所に通知し、武藤景頼に申し入れた。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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8月 1日 辛卯
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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鎌田次郎左衛門尉と三善六郎左衛門尉は直垂 (正装) で供奉せよ、と景頼を介して許された。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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8月 2日 壬辰
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吾妻鏡
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伊勢入道行願 二階堂行綱が小侍所に申し出た。「息子の三郎左衛門尉頼綱は在国中で、放生会の供奉人に加えられている。先立って鹿食をしているが参加が許されるか、と。
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   ※鹿食: 鹿に限らず獣食全般を差すらしい。ジビエ食べたけど構わないか? と。当時は獣肉を
食べるのが穢 (けがれ) で、殺生行為が放生会と相容れない行為と考えられた。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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8月 3日 癸巳
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吾妻鏡
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武蔵五郎 北條時忠 (宣時) は随兵、越後四郎 北條顕時は布衣 (略礼服、狩衣) で供奉せよとの仰せあり。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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8月 5日 乙未
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吾妻鏡
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小泉四郎左衛門尉を 直垂 (Wiki) の衆に加えることになった。出羽籐次郎左衛門尉に布衣 (狩衣) を着して加わるよう仰せがあったが (放生会までの) 日数がなくて狩衣を用意できず辞退を申し出た。
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今日支障を申し出た者、城五郎左衛門尉安達重景 (泰盛の弟。当初は供奉する予定だが所労を申請) し左衛門尉伊東八郎祐光 (祐時の嫡子) と伯耆四郎左衛門尉葛西光清の二人も所労を申告した。
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   ※所労: 普通なら疲労や病気だが、「領国で管理業務に専念する」意味と解釈する説もある。
個人的には、その理由では認可されないだろうと思うが。
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   ※葛西光清: 安房で再起した 頼朝が武蔵国に入った直後から御家人として仕えた 葛西清重
源平合戦や奥州合戦の功績で、宮城県北部から岩手県南部の広大な所領を得た。
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本領の伊勢神宮領 葛西御厨 (茨城県古河市から千葉県市川市に至る江戸川流域) は嫡男の清親が、奥州三十万石とも伝わる所領は次男の朝清が相続した。
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系図の錯綜があるため確認し難いが光清は清親または朝清の息子か孫と推測される。
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東勝寺橋 (地図) で、滑川を渡ると清重が屋敷を構えた葛西ヶ谷、地名の出典だと伝わる。
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現在は鎌倉屈指の高級住宅地 (地価は扇ヶ谷の方が高いらしい、広くて明るいからね)で、直進すると 鎌倉幕府と北條一族滅亡の最終章となった東勝寺の跡に至る。
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橋の少し先を右折すると狭い宝戒寺トンネルを抜け大町四丁目の安養院近くに下る近道になる。昭和初期に大町の資産家が小町の妾宅に通うために掘らせた、らしい。別名を 「お妾トンネル」 、軽自動車なら通行できる。
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右は小町大路側から見た東勝寺橋 (クリック→ 別窓で拡大)、左の石碑は 「青砥藤綱旧跡」
10文の銭を滑川に落とし、50文を費やして探させた挿話が生まれた場所、とされている。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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8月 7日 丁酉
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吾妻鏡
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駿河五郎北條通時が随兵を辞退した件について、当初は流鏑馬役に任じるため計会 (困惑) を申し出て、その後には所労 (病気) を称し、更に六日には難病で灸の治療を受けているとの申請をした。
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結果として辞退は許さず、再度召集せよとの指示があった。また直垂を着する者の中で伊勢四郎が父の伊勢入道の代理として流鏑馬の射手を務めるのは問題なく許可となった。
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   ※北條通時: 義時の四男 駿河守 有時の三男で相模権守。有時は陸奥国伊具郡 (宮城県丸森町 (
) を領有して伊具北條氏の祖となった。病弱などで早くに隠居したこともあり、伊具流北條氏は一族の末席に置かれていた。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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8月 8日 戊戌
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吾妻鏡
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布衣 (狩衣、略礼服) の供奉人に闕 (欠員) があるため、越中五郎左衛門尉と同六郎左衛門尉を追加するよう仰せがあった。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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8月10日 庚子
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吾妻鏡
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晴。  駿河五郎の件、去る八日に再度招集したにも拘らず尚も難病の申請書が提出された。申し出た支障の理由に合理性はないが、随兵は充足してため認可しようとの仰せがあった。尾張守二階堂行有と隠岐守二階堂行氏は布衣(狩衣)を着して供奉せよ、と。
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現在九人いる御身固め (護持の加持祈祷) の陰陽師を今日六番に改めた。安倍晴茂と晴宗が重服 (父母の死没による服喪) のため職宗と茂氏が父の名代として勤務し、その功労によって父と共に召し抱える事となった。
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それに倣って為親朝臣の息子仲光をも召し加えたが、範元から「父子が並ぶ場合、仲光は範元の下臈 (下の身分) なので相応しくない。」との苦情が出た。和泉前司 二階堂行方の奉行として評議して宿老の意見を求め、父親と若年の息子が同列に並ぶのは好ましくないとの結論が出された。
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従って職宗と茂氏と仲光はその番衆から除き 元の晴茂、宣賢、為親、晴秀、資俊、泰房の六人に戻した。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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8月12日 壬寅
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吾妻鏡
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放生会に供奉する随兵の中で常陸左衛門尉行清は先陣の先頭を、出羽七郎左衛門尉 二階堂行頼は必ず後陣に位置せよとの仰せがあった。
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   ※常陸行清: 評定衆に任じた常陸入道 二階堂行久の息子で引付衆。宗尊親王の近習でもある。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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8月13日 癸卯
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吾妻鏡
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将軍家 宗尊親王の祈願として御剣を諸社に献納、筑前次郎左衛門尉 二階堂行頼がこれを差配した。
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次いで放生会への出御に関して種々の指示があった。
まず供奉人の位置について15日の随兵は通例通り西廻廊の東方に控え、狩衣を着す者は東廻廊の前に控えるように。16日の随兵は埒門 (馬場を仕切る垣の通路) の南左右 (正確には西南) とする。
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次に座席について、東は腋門 (脇門) の前から東側まで布衣の人を少々、次に先陣の随兵が着座する。西側は廻廊から西までを布衣 (狩衣) の人を少々、その次に後陣の随兵が着座するように。
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次に宮内権大輔、長門前司、宇都宮石見前司、大隅大炊助、壱岐三郎左衛門尉、伊勢三郎左衛門尉らは鹿食 (8月2日を参照) を理由に供奉を辞退している件、行方と景頼を介して「勝手に過ぎる」との言葉があった。
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放生会が終わってから改めて沙汰を下すとの事で、これらは工藤三郎右衛門尉光泰が軽服 (軽い服喪) のため平岡左衛門尉実俊のみが担当したが、越後守 北條実時の配慮により相模太郎 (北條時宗) 殿に左衛門尉 平三郎盛時を副えて座席の件を周知させるよう言い含めた。
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   ※供奉を辞退: 従来の行事でも辞退は見られたが今回は異様に辞退が多く、更に状況が長引い
ている。供奉を突破口にして幕政への関与を強めたい将軍 宗尊親王 、それを牽制して圧力を強める相州禅室 北條時頼の計画と見るべきか。宗尊親王の失脚 (文永三年 (1266) 7月) まで残り五年、吾妻鏡の途絶は同年の7月20日である。
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右上画像は鶴岡八幡宮の境内鳥瞰(クリック→ 別窓で拡大表示)。
回廊の位置は不正確だが、馬場を挟んで供奉人の配置を想像するのも面白い。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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8月14日 甲辰
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吾妻鏡
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放生会に関し、重ねて将軍家 宗尊親王から指示があり、随兵および布衣 (狩衣、略礼服) を着した供奉人の次第 (順序の明細) を書いて提出せよと越後守 北條実時に命じた。
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実時は 武藤景頼を介して「官位の序列に従って決めましたから何の問題もありません。」と報告したが、将軍家からは重ねて「位次 (位の上下による順) を根拠にせず、家の清花 (家の身分や家格)、嫡庶 (嫡子か庶子か) によって序列を定めるべきである。」との仰せがあった。
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御持仏堂前の公卿の座で越後守北條実時と武藤少卿景頼が協議し、改めて「官位を根拠にしなければ行列を組む事ができません。」と言上して将軍家を納得させ、この件は決着した。
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次に、中御所(将軍正室の近衛宰子) 御参宮の供奉人について、担当の左衛門尉 平三郎盛時を介して散状 (回覧名簿) を下賜された。将軍家供奉に準じて直垂を着すべきだが帯剣させるか否か、と。帯剣は不要とした。
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次に、伊勢次郎左衛門尉頼綱と佐々木壱岐四郎左衛門尉長綱の鹿食を咎める件、父の壱岐前司泰綱と伊勢入道行願から愁訴があり、評定の際に不問とする旨の決定があった。
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次に、小野沢次郎と山田彦次郎を直垂を着す者に追加招集するよう仰せがあった。
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次に、供奉人らの八幡宮に於ける着座の順序について定めた。布衣 (狩衣) を着した者は両方 (将軍と中御所) の御桟敷の前と御妻戸 (入口) の外を除いて着座する。両国司 (執権の武蔵守 北條長時と連署の相模守 北條政村) が着座する前を除いた東は先陣の随兵、西は後陣の随兵が着座する、と。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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8月15日 乙巳
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吾妻鏡
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晴。 鶴岡八幡宮の放生会。御息所 (将軍正室の近衛宰子)が舞楽を観覧するため御輿で渡御し、その後に将軍家 宗尊親王が出御した。
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 供奉人
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  先陣の随兵
武田三郎政綱   小笠原六郎三郎時直(伴野(小笠原)時長の二男)  城六郎安達顕盛
城次郎安達頼景  常陸左衛門尉行清(8月12日を参照。宗尊が先頭と定めたが現地で変更した)
三浦六郎左衛門尉頼盛  信濃次郎左衛門尉佐々木時清  遠江七郎北條時基
武蔵五郎北條時忠
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 御所の御方
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  布衣
相模太郎北條時宗  刑部少輔北條教時  弾正少弼北條業時
尾張左近大夫将監北條(名越)公時  越後右馬助北條時親  民部権大輔北條時隆
相模三郎北條時輔  越後四郎北條顕時  木工権頭藤原親家  和泉前司二階堂行方
壱岐前司佐々木泰綱  越中前司宇都宮(横田)頼業   壱岐前司後藤基政
同、新左衛門尉基成  縫殿頭中原師連  日向前司宇佐美裕泰  尾張守二階堂行有
隠岐守二階堂行氏  大隅修理亮嶋津久経(久時)  左衛門尉武藤景頼
甲斐三郎左衛門尉為成(岡津郷(横浜市泉区岡津町)地頭)  上総太郎左衛門尉長綱
左衛門尉三善五郎康家  梶原太郎左衛門尉景綱  伊勢次郎左衛門尉
紀伊次郎左衛門尉為経  進三郎左衛門尉(御笠の手長)   肥後四郎左衛門尉
河内三郎左衛門尉祐氏  三村新左衛門尉時親  足立三郎左衛門尉  長次右衛門尉義連
加地七郎右衛門尉氏綱
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  帯剣
式部次郎左衛門尉光長  城十郎安達時景(義景の八男で泰盛の弟)  武石新左衛門尉
周防六郎左衛門尉忠頼  筑前五郎左衛門尉行重  佐々木対馬四郎宗綱
出雲次郎左衛門尉時光  足立籐内左衛門三郎政遠  後藤壱岐次郎左衛門尉基広
宇佐美三郎兵衛尉祐明  薩摩新左衛門尉伊東祐重  甲斐五郎右衛門尉為定
遠山孫太郎景長  小泉四郎左衛門尉頼行  三善六左衛門次郎盛村
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  後陣の随兵
駿河五郎北條通時  武蔵八郎頼直(朝直の五男)  遠江十郎左衛門尉三浦頼連
武石三郎左衛門尉朝胤  小野寺新左衛門尉行通  隠岐三郎左衛門尉二階堂行景
左衛門尉大曽祢太郎長経(安達長泰の嫡子)  小田左衛門尉時知  土肥四郎左衛門尉実綱
完戸次郎左衛門尉家氏  河越次郎経重  出羽七郎左衛門尉二階堂行頼
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 中御所の御方
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  布衣
陸奥左近大夫将監北條義政  相模四郎北條宗政  越前前司北條時広
武蔵左近大夫将監北條時仲  遠江右馬助(時直の長男)   刑部権少輔那波政茂
対馬前司佐々木氏信  武藤少卿景頼  伊賀前司高野時家  周防前司島津忠綱
加賀守二階堂行頼  薩摩七郎左衛門尉伊東祐能  土肥四郎左衛門尉実綱(重複か)
出羽弥籐次左衛門尉  鎌田図書左衛門尉  甲斐次郎左衛門尉  足立三郎右衛門尉
梶原太郎左衛門尉景綱  伊勢次郎左衛門尉頼綱  肥後次郎左衛門尉天野景氏
越中五郎左衛門尉泰親
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  直垂
出羽八郎左衛門尉二階堂行世 信濃判官次郎左衛門尉二階堂行宗  右衛門尉伊賀次郎光泰
伊東次郎左衛門尉盛時  左衛門尉梶原三郎景行  近江三郎左衛門尉佐々木頼重
上総四郎  左衛門尉三善五郎康家   小野澤次郎時仲
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  官人
大夫判官足利家氏  上野大夫判官結城重光
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  廻廊に待機する人々
相模守北條政村朝臣  武蔵守北條長時  武蔵前司北條朝直
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   ※三浦頼盛: 三浦介 佐原盛時の六男で三浦宗家を継いだ。保暦間記の正応三年 (1290) 11月の
記事に「(二月騒動 (1272年) で討たれた) 北條時輔の遺児を捕らえ首を刎ねた、謀反を企てて頼盛を頼った経緯による」との記載がある。時輔の息子は二人、この遺児は二男らしい。
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「時輔生存説」もあり、弘安七年 (1274) には 「時輔父子の捕縛」 を命じる御教書も発せられている。二男は六波羅に捕縛され拷問のうえ斬首、長男は行方不明と。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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8月16日 丙午
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吾妻鏡
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晴。 御参宮は昨日に同じ、流鏑馬など馬場の神事は通例の通り。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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9月 3日 壬戌
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吾妻鏡
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晴。  長く病床にあった弁法印審範が重体になった。顕密 (密教とその他の仏教) の碩学 (学問の長老) として特に重要な人物で、今日申一刻 (16時過ぎ) に相州禅室 北條時頼が最後の御対面に雪ノ下北谷の宿坊を訪れ、武田七郎、南部又次郎、工藤三郎右衛門尉光泰、同木工左衛門尉 (各々得宗被官) が供として従った。
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審範は持仏堂で面談し、仏教の真理について様々に語り合った。 酉刻 (18時前後) の帰宅に際して禅室時頼が重ねて口を開き「教えの数々は職務の拠り所になります。出家した者として悟りを開き、更に指導の縁を結ぶ配慮を頂きました。」と語った。
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   ※審範: 詳しい系図は判らないが、翌日の記事 (訃報) に拠れば 頼朝 の外叔父の孫だから頼朝
の生母由良御前 (熱田大宮司 藤原季範の娘) の兄弟(頼朝の外叔父)の孫、に当たる。
「雪ノ下北谷の宿坊」つまり御谷 (地図) に宿坊を構えた八幡宮寺の高位の僧らしい。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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9月 4日 癸亥
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吾妻鏡
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晴。 申刻 (16時前後) に法印権大僧都審範が入滅した (73歳) 。
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熱田大宮司散位季範の曾孫、法橋明季の真弟子、顕宗長舜法眼の門弟、最勝講の講職、三会已講、密宗道禅僧正の受法、公縁僧正灌頂の弟子、貞永元年 (1232) に鶴岡八幡宮の供僧に任じた。
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夜になって女房 師の局が審範の臨終を相州禅室北條時頼に報告、悲しみの中でも大悟の喜悦を感じた、との仰せがあった。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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9月 9日 戊辰
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吾妻鏡
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晴。大曽祢次郎左衛門尉盛経入道(安達 (大曾根) 長泰の弟) の家が焼失した。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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9月19日 戊寅
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吾妻鏡
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御息所 (将軍正室の 近衛宰子) が御服薬 (蒜、ノビル) のため明日 北條時頼の山内邸に出御となり、供奉人について散状を回覧した。供奉人は直垂 (ひたたれ) 、御輿寄せ役人は立烏帽子とする。
散状 (名簿表) は三通あり 騎馬と歩行、更に一通は山内殿に入御以後の勤めに任じる名簿である。
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また小侍所司の工藤三郎右衛門尉光泰が二所参詣 (代参) に任じている間は (御息所の) 着到などに関する業務は小野澤次郎時仲が奉行すると定められた。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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9月20日 己卯
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吾妻鏡
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晴。 夜になって若宮大路一帯が火災で焼失した。今夕に中御所 (将軍正室 近衛宰子) が最明寺邸に入御した。御服薬と御薬湯のため暫く滞在される、と。
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  供奉人
   刑部少輔北條教時  新相模三郎北條時村  相模三郎北條時輔  同七郎北條宗頼(宗顕)
   遠江七郎北條時基  越後四郎北條顕時  武蔵五郎北條時忠   秋田城介安達泰盛
   和泉前司二階堂行方  宮内権大輔長井時秀  武藤少卿景頼  壱岐前司後藤基政
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  歩行
   城九郎長景(義景の七男、泰盛の弟)  出羽七郎左衛門尉二階堂行頼  左衛門尉武藤景頼
   小野寺新左衛門尉行通  周防四郎左衛門尉忠泰(忠綱の二男)   甲斐三郎左衛門尉為成
   上野太郎左衛門尉梶原景綱  大曽祢太郎左衛門尉長頼  鎌田次郎左衛尉行俊
   武石新左衛門尉長胤  肥後四郎左衛門尉行定  佐々木対馬四郎宣綱
   一宮次郎左衛門尉康有  小野澤次郎時仲
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   ※最明寺邸: 現在の北鎌倉 明月院 の谷(地図)にあった。
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時頼没後の暫くは放置され荒廃したが嫡子の時宗が整備し禅興寺として開創、変転を経て現在は紫陽花の名所となり、梅雨時期の休日には「二度と来るものか」と思うほど異様な混雑を見せる。
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もちろん時頼と紫陽花には何の関係もない。この寺の紫陽花は殆ど全てが鮮やかな青色、土が酸性なんだろうね。右上は6月の明月院参道。クリック→ 別窓で拡大
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伝え聞いた話では、戦後の資材不足で通路の杭が確保できず代替に紫陽花を植えた、との事。境内には時頼の墓所も残されている。創建当時からの経緯は吾妻鏡の建長八年 (1256) 7月17日に記述してある。
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   ※武藤少卿: 武藤景頼は少卿であり左衛門尉でもある。単なる使い分けなのだろうが。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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10月 4日 癸巳
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページ
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晴。将軍家 宗尊親王 北條時頼の最明寺邸に入御した。中御所 (正室 近衛宰子) が先月から滞在する。
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  供奉人
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   騎馬
     土御門中納言顕方  刑部卿難波宗教卿   讃岐守嶋津忠時朝臣  越前前司北條時広
     弾正少弼北條業時  武蔵左近大夫将監北條時遠(時村)  越後四郎北條顕時
     相模七郎北條宗頼(宗顕)  武蔵五郎北條時忠(宣時)  木工権頭藤原親家
     参河前司新田(世良田)頼氏   和泉前司二階堂行方  壱岐前司後藤基政
     太宰少貳武藤景頼  尾張守二階堂行有
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     上野大夫判官重光(結城朝光の七男で山川氏の祖)
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   歩行
     (御劔役)相模三郎北條時輔
     城四郎左衛門尉安達時盛  同六郎安達顕盛  同十郎安達時景  同十郎安達時景
     薩摩七郎左衛門尉伊東祐能  周防五郎左衛門尉嶋津忠景  武藤左衛門尉頼泰(景頼三男)
     遠江十郎左衛門尉三浦頼連  新左衛門尉小野寺道綱   美作兵衛蔵人家教
     甲斐三郎左衛門尉  隠岐三郎左衛門尉二階堂行景  左衛門尉鎌田次郎行俊
     新左衛門尉武石長胤  左衛門尉狩野四郎景茂
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 同日の夜、(明日)還御するの際の供奉人を定めた。
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   御所御方の供奉人
     越前前司北條時広  刑部少輔北條教時  弾正少弼北條業時  新相模三郎北條時村
     (御劔役)相模三郎北條時輔  相模三郎北條時輔  武蔵五郎北條時忠(宣時)
     和泉前司二階堂行方  壱岐前司佐々木泰綱  武藤少卿武藤景頼  木工権頭藤原親家
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     上野大夫判官山川重光
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   中御所の御共 (御輿寄せ)
     相模太郎北條時宗  陸奥左近大夫将監相模七郎  武蔵左近大夫将監北條時茂
     越後四郎北條顕時  秋田城介安達泰盛  三河前司新田(世良田)頼氏
     壱岐前司後藤基政  宮内権大輔長井時秀  尾張守二階堂行有
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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10月 5日 甲午
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吾妻鏡
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晴。 将軍家 宗尊親王が山内の最明寺邸から御所に還御した。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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10月19日 戌申
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吾妻鏡
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園城寺 (三井寺) の僧綱 (僧尼の管理に任じる僧の官職) の仙朝僧正ら数人が評定所を訪れた。
本寺の訴訟に関する申し入れのため、去る13日に鎌倉に下着した、と。
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   ※訴訟: 比叡山のクレームで保留になっていた戒壇設置の件だろうか? 詳細は不明。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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10月21日 庚戌
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吾妻鏡
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晴。 政所の庁舎など (再建した) 建物での仕事始めあり。
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   ※政所庁舎: 3月13日に失火で焼失、7月22日に再建の決裁記録あり。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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10月24日 癸丑
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吾妻鏡
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園城寺の僧綱らが帰洛の途に就いた。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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10月29日 戊午
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吾妻鏡
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曇。 貢馬 (朝廷に献上する馬) の供覧が通例の通りに行われた。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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11月 1日 己未
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。 前下野守正五位下の藤原朝臣 宇都宮泰綱 (59歳、在京) が死去した。
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   ※廟所: 宇都宮氏歴代の廟所は陶器で有名な益子町郊外の
山裾にある。本拠の宇都宮市の南東 約30kmの地に廟所を設けたのは初代の藤原宗円が常陸国中部 (茨城県下館市~笠間市の一帯) に勢力地盤を持っていた事が挙げられる。
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更に平安末期に大番役で在京していた宇都宮氏三代当主 朝綱 伊豆で挙兵した 頼朝との関係を理由に斬られる筈の身を平家の侍大将 平貞能の口添えで救われた縁や、建久五年 (1194) に公田横領の罪に問われた 五代頼綱が創建した地蔵院があった事、などの経緯がある。
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更に詳細は 右画像 (泰綱の墓石) をクリックして 益子上大羽の地蔵院 (別窓) で、また敵味方の立場ながら互いの命を助け合った平貞能と宇都宮朝綱の物語を、平家一の侍大将と称えられた貞能の足跡から辿ってみよう。
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主人 平重盛の姉を葬った 那須塩原の妙雲寺、重盛夫妻の遺骨を葬った 白雲山 小松寺、役目を果たした平貞能が隠棲した 益子の安善寺 など、血生臭い源平合戦の中に香った涼風である。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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11月 2日 庚申
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吾妻鏡
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晴。 朝廷に献上する馬と砂金が京都に向けて出発した。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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11月 3日 辛酉
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吾妻鏡
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晴。 寅一点 (早暁時過ぎ) に入道従四位上行 陸奥守平朝臣 北條重時が死去した (64歳、極楽寺別業 (別荘) に在住) 。 発病した後は万事を抛ち (全ての世事と拘泥を捨て、ほどの意味か) 一心に念仏を唱え、正念に住して (仏の救済を信じて、ほどの意味か) 臨終を迎えた、と。
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   ※極楽寺別業: 戦国時代の永禄四年 (1561) に成立した極楽寺縁起などから推定すると、重時は
深沢谷 (鎌倉市西部、地図、正確な場所は不明) にあった念仏宗の寺を現在地に移して定住し、真言律宗の僧 忍性と寺院の整備を計画しつつ病没したらしい。
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極楽寺としての開創年代は不明確で、寺伝の五鈷鈴 (同じ規格の参考画像) には建長七年 (1255) の刻印と共に極楽律寺の文字が見えるので、重時の剃髪引退 (康元元年 (1256) の3月) 前後に開創した可能性もある。
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寺院として極楽寺の体裁を整えたのは重時の遺志を継承した息子の執権 北條長時 業時 (四男、連署) と考えられている。
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   ※花の季節: 三月から四月、畑と花壇に追われる日々が続く。今日は 3月の下旬、庭の北側の
一番陽当たりの良い一角を、箸休めに御紹介。
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チューリップは 50球 千円で購入した一部で、三回目の満開を迎える働き者だ。本当は花ニラの白と水仙の黄色とムスカリの紫とチューリップの赤を隣り合わせで同時に咲かせたいのだが、ムスカリは少し左に離れているし水仙は既に終期、期待した姿にならないのが少し無念だ。
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これとは別に、道路沿いには花梅の老木とレンギョウが並んでいて、この季節にはピンクと黄色の花色がそれは見事だったのだが...花梅は根元が弱って倒れる危険があったため去年の春を最後に切り倒してしまった。今では切り株の横から出た脇芽が1mほどに育ったが、花を楽しむのは暫く先の話になる。
    右上、クリック→ 別窓で拡大表示
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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11月 6日 甲子
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吾妻鏡
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晴。 寅刻 (朝4時) 、奥州禅門 北條重時の葬礼である。
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   ※葬礼: 重時の葬儀を取り仕切ったのは 忍性と伝わる。
正元元年 (1259) に重時に招かれて鎌倉に入り、亀ヶ谷の新清涼寺の釈迦堂 (吾妻鏡 本年4月24日を参照) に居を構えていた。
忍性が重時の別業 (別荘) を極楽寺に改装して開山和尚を務めるのは、重時の没後六年が過ぎた文永四年 (1267) である。
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   ※重時の墓: 極楽寺別業(別邸)にあったと思われるが位置は
不明で、確認されていない。
以前は極楽寺 寺域奥の忍性菩薩五輪塔 (右画像、クリック→ 別窓で拡大表示) 右手の少し小さな五輪塔が墓石と伝わっていたが、出土した骨蔵器などから極楽寺三世の善願坊順忍、および比丘尼禅忍の供養塔である、と確認された。
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ちなみに、忍性の遺骨は極楽寺の他に出身母体である真言律宗の大和国の竹林寺額安寺 (共に公式サイト) に分骨 埋葬されている。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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11月 7日 乙丑
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吾妻鏡
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晴。 戌刻 (20時前後) に雷鳴あり。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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11月11日 己巳
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吾妻鏡
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祈祷の際に大阿闍梨の壇所 (祈祷や修法の壇を設ける場所) として御家人の宿所を指定する事と、鞠懸り樹の拠出について定めた。
担当するのは越前前司 北條時広、刑部少輔 北條教時、武蔵左近大夫将監 北條時遠、新相模三郎 北條時村、秋田城介 安達泰盛、上野大夫判官山川重光 (結城朝光の七男で山川氏の祖) 。
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   ※鞠懸りの樹: 蹴鞠をする場所 (鞠庭 ) の四隅に植える樹木。普通は桜、柳、楓、松の四本だが
高位の公卿などが使う最上級の鞠庭には四本とも松を植えたらしい。鎌倉の御所はどちらだろうか。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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11月12日 庚午
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吾妻鏡
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晴。 政所の庁舎などが上棟した (3月13日と10月21日を参照) 。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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11月22日 庚辰
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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押垂齋藤次郎を小侍所の番帳 (勤務者名簿) に書き加えた。武藤少卿景頼を介した沙汰である。
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   ※押垂齋藤氏: 頼朝に仕えた武蔵国比企郡野本 (現在の東松山南部、地図野本 (斎藤) 基員
氏祖。基員は 下河辺政義の息子 時員を養子とし、時員の弟 時基が野本に隣接する押垂を本領として押垂氏を名乗った (上記地図の左下、都幾川沿いに地名が残る) 。鎌倉時代中期以後は武蔵国から六浦 (金沢八景) 近くに移った可能性が指摘されている。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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11月26日 甲申
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吾妻鏡
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明年正月の御弓始めについて指示があり、射手などを指名した。
             ......相摸太郎殿。越後守被下連署奉書云々。
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   ※意味不明: 原文は「明年正月御弓始事有其沙汰。被差射手等。相摸太郎殿。越後守被下連署
奉書云々」  相模太郎は 北條時宗で越後守は 北條実時 (評定衆) 、「連署の奉書 (命令の発給) が下された」とあるが、二人とも連署 (執権と副執権を差す場合あり) ではない。この時点の執権は 長時で蓮署は 政村、小御所別当に過ぎない時宗 (執権就任は文永五年、1268年3月) が口を出すのはどう考えても越権だ、死期が二年後に迫った独裁者 時頼の焦りだろうか。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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12月 3日 辛卯
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吾妻鏡
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辛卯 晴。 新造の政所庁舎で仕事始めがあり、評定衆が参列した。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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12月22日 庚戌
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北條九代記
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北條時宗が左馬権頭 (官職) に任じ (11歳) 、同日に従五位下 (官位) に叙された。
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   ※北條時宗: 満年令では10歳6ヶ月、現代なら小学校4年生か5年生。この官位官職が妥当か?
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2025年12月24日
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朝8時、弘長元年 (1261年) が終了。1260年と61年は全体の文字数が多い上に固有名詞もの頻度も高いので手間が掛かった。文字だけの容量から見た大きさの順位は下記の通り。
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①1185年 600kb ②1238年 490kb ③1184年 486kb ④1190年 478kb ⑤1186年 472kb ⑥1212年 451kb ⑦1221年 446kb ⑧1252年 433kb ⑨1260年 430kb ⑩1247年 410kb ⑪1261年 398kb
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その年度の編纂者が取り挙げた数とその中身、編纂者の性格と興味の傾向、取り組み方、それから私が書き加えた明細とコメントの量などが計量の対称で、原文の重さや画像の数や大きさは対象外だ。
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あと五年で完了するから、気分良く正月を迎えられる、かも知れない。
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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 月 日
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史 料
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記事
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   ※:
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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 月 日
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史 料
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記事
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   ※:
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西暦1261年
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90代 亀山天皇
新院は 後深草
本院は 後嵯峨
弘長元年
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 月 日
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史 料
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記事
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   ※:
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