
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月 1日 丁亥 . 吾妻鏡 |
.
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。相模守 北條時頼の沙汰による椀飯※の儀あり。 御剣は武蔵前司 北條朝直、御調度 (弓箭) は尾張前司 北條時章、御行騰※は出羽前司 二階堂行義。 . 一の御馬は 陸奥六郎北條義政 と 左衛門尉工藤次郎高光 二の御馬は 下野四郎宇都宮景綱 と 長門三郎朝景 三の御馬は 城六郎顕盛 と 大曽祢上総三郎義泰 四の御馬は 武藤右近将監頼村 と 同、次郎兵衛尉頼泰 五の御馬は 長井太郎時秀 と 新左衛門尉平盛時 . 椀飯の後に将軍家 宗尊親王 (御烏帽子と直衣) が御行始め (外出初め) として相州禅室 (時頼) 邸へ。 . 供奉人 (布衣、下括り) . 武蔵守北條朝直 尾張前司北條時章 遠江前司北條時直 刑部少輔北條教時 尾張左近大夫将監北條(名越)公時 出羽前司二階堂行義 前太宰少弐狩野為佐 下野前司宇都宮泰綱 秋田城介安達泰盛 内蔵権頭親家 和泉前司二階堂行方 大隅前司嶋津忠時 壱岐前司佐々木泰綱 周防前司嶋津忠綱 上総介大曽祢長泰 少卿武藤景頼 . 六位 陸奥七郎北條業時 陸奥三郎北條時村 武蔵四郎時仲 遠江太郎北條清時 長井太郎時秀 城次郎安達頼景 駿河蔵人次郎経親 出羽次郎左衛門尉二階堂行有 左衛門尉式部太郎伊賀光政 兵衛尉武藤次郎頼泰 薩摩七郎左衛門尉伊東祐能 新左衛門尉小野寺行通 兵衛尉鎌田次郎行俊 左近将監武藤景頼 左衛門尉鎌田三郎義長 . 御引出物は通例の通り。御剣は刑部少輔北條教時、砂金は右近大夫将監北條(名越)公時、 (鷹の)羽は秋田城介安達泰盛がこれを持参した。 . 一の御馬は 陸奥三郎北條時村 と 安東籐内光政 二の御馬は 陸奥七郎北條業時 と 安保左衛門太郎 三の御馬は 相模三郎北條時利 と 南條新左衛門尉 . . ※椀飯 (おうばん) :饗応のための献立、食事を摂る儀式や行事。大判振る舞い、の語源。 . ※行騰 (むかばき) と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。 画像 (Wiki) を参考に。 . ※年令:六代鎌倉将軍 宗尊親王 (第88代後嵯峨天皇の第一皇子) は15歳、 . 五代執権 北條時頼 29歳は前年11月に出家して退任したが最高権力者の地位を維持、 .六代執権は 北條(赤橋)長時 26歳、連署の 北條重時 59歳は前年3月に病気で辞任、 連署の後任は後の七代執権 北條政村 52歳、後の八代執権 北條時宗は6月で満7歳、 長時を継いだ六波羅 北方は 北條時茂 17歳、南方は不在となる。 . 安達泰盛 26歳、 千葉頼胤 17歳、 足利泰氏 40歳、 吉良(足利)家氏 45歳、 小山長村 40歳、 結城朝広 66歳、宇都宮泰綱 54歳、 . 浄土真宗 親鸞 83歳、 天台宗寺門派 (園城寺) の隆弁 48歳、 真言律宗 叡尊 56歳、 真言律宗 忍性 40歳、法華宗 日蓮 35歳、時宗 一遍18歳、 . 89代 後深草天皇 13歳、 先帝の 後嵯峨上皇 36歳、摂政太政大臣 鷹司兼平 29歳、 太政大臣 西園寺実氏 62歳、関東申次は西園寺家の世襲となる。 . 以後の朝廷は 五摂家 (近衛家、一条家、九条家、鷹司家、二条家) の合議分担体制となる。 . (表示は全て1/1 時点の満年齢) . ※ 宝治合戦 (1247年) で三浦一族が滅亡した後に執権 時頼 は極楽寺流の祖 北條重時を六波羅の 北方から呼び戻して連署に任命した。 .六波羅北方の後任は (赤橋) 長時。重時は建長八年 (1256) に出家して政界を退き、時頼の後継は六代 (赤橋) 長時と七代 政村を経て八代 時宗 (建長三年、1251年誕生) に続く。 . 強権を握った時頼は弘長三年 (1263) 11月に36歳で死没、5年後の文永五年 (1268) 3月に次期執権に就かせる時宗の道筋を見届ける如き最期を迎える。それにしても、三代泰時 (58歳で病死) 以後の義時直系 (北條嫡流) 執権の寿命は驚くほど短い。 . 四代経時 23歳、五代時頼 36歳、八代時宗 33歳、九代貞時 40歳、十代師時 35歳。本当に激務の故か、繰り返した血族結婚の弊害か、怨みを抱きつつ滅ぼされた人々の祟りだろうか。 . 嫡流以外の執権および鎌倉陥落と運命を共にした高時と貞顕と守時の没年は次の通り。 六代長時 34歳、七代政村 68歳、十一代守宣 52歳、十二代煕時 36歳、十三代基時 46歳、十四代高時 29歳、十五代貞顕 56歳、十六代 守時 37歳 、 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月 2日 戊子 . 吾妻鏡 |
.
晴。奥州禅門 北條政村の沙汰による椀飯の儀あり。 .尾張前司 北條時章が御剣、下野前司 宇都宮泰綱が御調度 (弓箭) 、秋田城介 安達泰盛が御行騰を献じた。 . 一の御馬は 遠江太郎北條清時 と 同、次郎時通 二の御馬は 遠江七郎北條時基 と 備前三郎長頼 三の御馬は 肥後次郎左衛門尉為時 と 同、三郎左衛門の尉 四の御馬は 上野太郎左衛門尉梶原景綱 と 同、三郎景氏 五の御馬は 陸奥七郎北條業時 と 原田籐内左衛門尉 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月 3日 己丑 . 吾妻鏡 |
.
晴。左近大夫入道 北條時定の沙汰による椀飯の儀あり。 .遠江前司 北條時直が御剣、式部大夫 北條時弘 (時広) が御調度、太宰権少弐武藤景頼が御行騰を献じた。 . 一の御馬は 武蔵五郎北條時忠 と 木工左衛門尉本間佐久 二の御馬は 越後又太郎 と 肥田次郎左衛門尉 三の御馬は 遠江次郎北條時通 と 出羽左衛門二階堂三郎 四の御馬は 刑部少輔次郎 と 同、三郎 五の御馬は 相模八郎北條時隆 と 山内左衛門四郎 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月13日 己亥 . 吾妻鏡 |
.
晴。酉刻 (18時前後) に伊豆前司従五位下 源朝臣 若槻 (森) 頼定が死去した (享年79) 。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月25日 辛亥 . 吾妻鏡 |
.
晴。散位※従五位下 藤原朝臣 伊賀光宗法師 (法名光西) が死去した (享年80) 。 . . ※散位: 官位 (従五位下など) を得ているが官職 (例えば左衛門尉、式部太夫) を得ていない者。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 2月 2日 辛亥 . 吾妻鏡 |
.
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 将軍家 宗尊親王が鶴岡八幡宮に御参詣。先ず御禊ぎがあり、陰陽道の為親朝臣 (衣冠) と能清朝臣が陪膳 (給仕役) を、能登仲家が運び役を、赤塚資茂がその補助に任じた。 その後に御車を寝殿の南面に寄せて土御門中納言顕方卿が御簾を上げ、西の唐門※から出御した。 . 行列 . 先ず前駈が六人(衣冠、下位の者が前) 赤塚蔵人資茂 能登右近蔵人仲家 押立蔵人資能 近江前司季実 備中右近大夫将監忠茂 能登右近大夫重教 . 次いで殿上人が七人(束帯、下位の者が前) 一條侍従定氏 六角侍従家基 二條侍従雅有 近衛少将公敦 紙屋河兵衛佐顕名 中御門侍従宗世朝臣 一條少将能清朝臣 . 次いで公卿が四人(直衣と束帯が混じる、下位の者が前) 刑部卿宗教 前兵衛督教定 仁和寺三位顕氏卿 中納言土御門顕方卿 . 次いで御車 . 上野三郎梶原景氏 隠岐次郎左衛門尉時清 兵衛尉武藤次郎頼泰 新左衛門尉小野寺行通 太宰肥後左衛門三郎為成 周防三郎左衛門尉忠行 左衛門尉三善次郎泰有 肥後六郎右衛門尉時景 左衛門尉鎌田三郎義長 平賀新三郎惟時 兵衛尉鎌田三郎行俊 以上は直垂を着して帯剣、御車の左右に候す。 . 御劔役 刑部少輔教北條教時 御調度 弥次郎左衛門尉親盛 . 次いで御後 五位十人(布衣、下括り) 相模式部大夫北條時弘(時広) 尾張左近大夫将監北條公時 少輔左近大夫将監大江佐房 備後前司町野(三善)康持 長門前司笠間時朝 秋田城介安達泰盛 伊賀前司小山時家 縫殿頭中原師連 周防前司島津忠綱 太宰少弐武藤景頼 . 六位十三人(布衣・下括り) 陸奥六郎北條義政 同、七郎北條業時 備前三郎北條長頼 遠江七郎北條時基 武蔵四郎北條時仲 遠江太郎北條清時 長井太郎時秀 右衛門尉三善康長 隠岐三郎左衛門尉二階堂行氏 紀伊次郎左衛門尉為経 肥後次郎左衛門尉為時 左衛門尉渋谷武重 右近将監武藤兼頼 . 赤橋の手前で御車から降り、黄門 (中納言土御門顕方卿) が御簾に上げて能登重教が御榻 (牛車の踏台) を据え、中御門侍従宗世朝臣が御沓 (履物) を揃えた (補佐は兼頼) 。黄門が将軍家の御裾尻を持って下宮に御奉幣、御幣を渡す役は仁和寺三位。次いで上宮に登って読経の供養を御聴聞した。 . 導師への御布施(政所の準備)は前駈の人々が渡した。政所の寄人 (庶務) がこれを補佐し、式典の終了後に還御した。 . .
※西の唐門: 若宮大路の両側には概算で巾3m×深さ1.5m
の溝が掘られ、その外側には築地塀を支えていたと思われる柱穴の跡が確認されている。 .. 以前に確認した資料 (出典不明) では「若宮大路に面した建物から大路への出入り口設置は禁止」されており、下の下馬橋付近から八幡宮の近くまでに設けられていたのは幕府の御所が大倉にあった時代の 西の御門 (概略地図、別窓) だけだったと推定される。溝はもちろん、緊急時の防衛線だ。 . 更に若宮大路を横断できるのは下の下馬橋と中の下馬橋と上の下馬橋 (一の鳥居前) のみ、騎馬のままで横断するのは厳禁だった。 . 若宮大路御所の西の唐門をかなり南に仮定 (右画像を参照) しても 「赤橋の手前」 まで僅か200m、牛車で隊列を組む意味は、幕府の権威を示すのみだろう。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 2月 6日 壬戌 . 吾妻鏡 |
.
晴。将軍家 宗尊親王が二所詣のため精進潔斎を始めた。
. |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 2月10日 丙寅 . 吾妻鏡 史 料 |
. |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 2月14日 庚午 . 吾妻鏡 |
.
晴。遠江守 北條時直が二所詣 (代参、奉幣) から帰参した。
. |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 2月26日 壬午 . 吾妻鏡 |
.
晴、風が静まった。午の二点 (午前11時半前後) に相州禅室 北條時頼の若君 (初名を正寿、後の時宗 7歳、満年令では5歳 8ヶ月)が御所で元服※した。 . 陸奥守 北條政村および御家人 (各々布衣 (狩衣、平服) 、下括り) で西の侍詰所に着座し、二棟の御所 (寝殿の東北に突き出た建物) で儀式を行なった。東の障子に近くに将軍家 宗尊親王の御座 (大文高麗縁) を設けた。若公は童の装束 (狩衣に刺繍した袴) で武蔵守 北條長時の下座に座し、定刻になって将軍家が臨席。土御門中納言顕方卿 (直衣、略礼服) が二棟南面の妻戸を出て蹲踞 (そんきょ) し、若公に将軍家のお召しを告げた。 . 若公は武蔵守長時が付き添って御前に進み御装束と御烏帽子を与えられて退去、中御所西の渡り廊下に屏風を立てて下賜された御衣 (浮線綾狩御衣、紫浮織物御奴袴、蘇二柏、紅単衣) に着替えて再び簾の中に戻った。武蔵守長時の付き添いは先程と同様である。 . その後に雑具 (元服に用いる道具類) を置き、まず秋田城介 安達泰盛が柳の箱に置いた烏帽子を持って御前の廊下に進み、御簾を広げて中に入った。次に壱岐前司 宇都宮泰綱が雑具の箱を持ち、太宰権少弐 武藤景頼が柳の箱に置いた小盥 (たらい) を持った。これまでの作法は通例の通りである。 . 次に陸奥守政村が座を起って廊下の西側から切妻戸の庇に進んだ。武蔵守長時は理髪役として簾中に入り、その他の人々は西南から東に続く廊下に列座した。次に武蔵守長時が新冠 (若公) の前に進んで理髪した後に烏帽子を被せた。新冠 (若公) が三拝し、担当者が進み出て雑具を片付け、武蔵守長時が簾中を出て庭に着座。続いて黄門 (土御門中納言顕方) が南面から進み出て御座西面の御簾三間を巻き上げた。 . 次に進物。 御剣は武蔵前司 北條時直、御調度 (弓箭) は尾張前司 北條時章、御鎧は刑部少輔 北條教時と左近大夫将監 北條 (名越) 公時、御野矢 (狩猟用) は下野前司 宇都宮泰綱、御行騰 (正月を参照) は和泉前司 二階堂行方。 . 一の御馬(銀の鞍を置く) は 陸奥六郎北條義政 と 原田籐内左衛門尉宗経 二の御馬(白伏輪の鞍を奥)は 陸奥三郎時村 と 工藤左衛の尉高光 三の御馬(白伏輪の鞍を奥)は 相模三郎時利 と 新左衛門尉南條頼員 . 次に新冠が御剣を(将軍から直接?)受け取って退出した。武蔵守長時が更に座敷でこれを補佐した後に侍詰所に着座。人々も着座して三献の儀となり新冠が酌を務めた。次に黄門 (土御門中納言顕方) が予め書いて置いた御名字の 時宗※ を武蔵守長時に渡した。 . . ※時宗: 吾妻鏡には三歳年上の異母兄 時輔の元服記録はない。 時頼は 「時宗 > 宗政 > 時輔」 の序列を折に触れて強調している。建久五年 (1194) 2月2日の 北條泰時 元服の記述との併読も面白い。 .身分制度の評価は兎も角、陪臣風情が息子の元服にこの騒ぎは明らかに異様である。 元服した時宗の年齢と併せて時頼の傲慢と焦りを見る思いがする。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 2月28日 甲申 . 百錬抄 |
.
午刻 (正午前後) に院の御所である五條大宮殿※が炎上した。 . . ※五條大宮殿: 前年 (建長八年、1256年) 7月12日に新築完成した記事が載っているのに、僅か 7ヶ月後に炎上するとは...。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 3月 2日 戊子 . 吾妻鏡 史 料 |
.
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。相模太郎 北條時宗殿が初めて御所に参上し、鞍を置いた御馬を献上した。 . . ※百錬抄: 2月10日に焼失した太政官の庁舎再建が始まった。大納言 四条隆親 (Wiki) 卿が安木 国 (出雲国能義郡、現在の安来市) を与えられて造営に任じた。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 3月14日 庚子 . 百錬抄 |
.
左大臣 二條道良 (Wiki) 卿以下が参集して改元、 「正嘉」 と定めた。 .太政官庁舎炎上などに伴う改元である。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 3月18日 甲辰 . 吾妻鏡 |
.
細雨。改元の詔書が鎌倉に到着。去る14日に康元二年を改めて正嘉元年とした。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 3月27日 癸丑 . 三井続灯記 |
.
園城寺の衆徒が戒壇建立の勅許を求め強訴、朝廷は六波羅に鎮圧を要請した。 (「日蓮の行動記録」から転載。) . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 閏3月 2日 丁巳 . 吾妻鏡 |
.
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。今日の評定で再び引付人 (引付衆、訴訟担当) の組織を改めた。来月朔日 (一日) から以下の編成となる。 . 一番 (2日と12日) 武蔵前司北條朝直 出羽前司二階堂行義 縫殿頭中原師連 左衛門尉清原満定 対馬左衛門尉仲泰 皆吉大炊助文章 水原兵衛尉孝定 . 二番 (7日と26日) 尾張前司北條時章 筑前前司二階堂行泰 参河前司清原教隆 丹後守安達頼景 長井太郎時秀 明石左近大夫兼綱 進士次郎蔵人 対馬左衛門次郎 . 三番 (12日と27日) 越後守北條実時 刑部少輔北條教時 常陸入道二階堂行久 上総介大曽祢長泰 大田民部大夫康宗 民部大夫大江弘基 兵衛長田太郎広雅 大蔵四郎則忠 . 四番 (2日と22日) 和泉前司二階堂行方 前太宰少弐狩野為佐 那波左近大夫将監政茂 対馬前司三善倫長 山城前司深澤俊平 甲斐前司家国 中務大夫山名俊長 雑賀太郎尚持 . 五番 (7日と27日) 秋田城介安達泰盛 伊勢入道二階堂行綱 少卿武藤景頼 信濃判官入道二階堂行忠 山城前司中原盛時 佐藤左京進 山名進次郎行忠 齋藤次朝俊 . . ※引付衆: 御家人の所領関連の訴訟が頻発したため評定衆の下部組織として建長元年 (1249) 12 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 4月 7日 壬辰 . 吾妻鏡 |
.
晴。下野前司 宇都宮泰綱が御所で御鞠会を催したい旨を願い出た。
. |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 4月 9日 甲午 . 吾妻鏡 |
.
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。申刻 (16時前後) に御所での御鞠※。露払いが蹴った後に将軍家 (御布衣、布の狩衣、平服) で蹴鞠の場 (鞠壺) に降り立った。下野前司 宇都宮泰綱が燻鞠 (燻革で作った鞠) を鶏冠木 (カエデ) の枝に付けて (準備したのは二階堂行忠入道)呈上、内蔵権頭親家が鞠を鞠壺の中央に置いた。 . 源中納言 (布衣) 、刑部卿難波宗教 (布衣、上鞠一足で最も名人) 、中務権大輔教時 (布衣) 、遠江七郎時基 (布衣)、 内蔵権頭親家 (布衣)、出羽前司行義 (布衣)、下野前司泰綱、他に二條三位飛鳥井教定 (布衣、初参加)、遠江太郎清時 (水干、葛袴) 、鎌田次郎兵衛尉行俊 (布衣) 、行忠入道 (衣袴、重香の帷、指扇) 。 . 三百を数えたところで鞠を落とした (計数は薩摩七郎左衛門尉伊東祐能、見分役は仁和寺三位顕氏、一条少将能清朝臣、範忠朝臣、範方らが務めた。この日の二條三品 (飛鳥井教定) は燻白地の韈 (足袋) を履いており、宗教朝臣から「この色は通常は用いるものではない。承元 (1207~1210年) の前例では有文 (模様のある) 燻革を着しており、望ましくない。」との苦言があった。 . . ※蹴鞠: ルールなど詳細を知りたい場合は 蹴鞠保存会のサイト に詳しく載っている。 . ※難波宗教: 57歳、難波流蹴鞠の祖。時頼の蹴鞠の師となり鎌倉で再三の蹴鞠会を催した。 . ※飛鳥井(難波)教定: 蹴鞠 (飛鳥井流蹴鞠の祖) と和歌の名手として著名な 飛鳥井雅経の二男で 嫡子。二大流派 難波流と飛鳥井流の共通の祖となったのが
難波頼輔。 .. 頼輔の長男宗長→宗教に続いたのが難波流、頼輔の二男雅経が飛鳥井 (二条) を名乗って飛鳥井流の祖となりその二男教定が流派を継承している。 . 従って宗教と教定は祖を共にする従兄弟で同業のライバル。 先行して鎌倉に下り北條氏と関係を築いた宗教としては、教定の進出が不満だったと推定される。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 4月14日 己亥 . 吾妻鏡 |
.
晴。大慈寺※の破損を修理する運びになった。担当奉行として藤原肥前前司、肥前松葉次郎助宗法師 (法名行圓) らが大慈寺に集まって落慶供養の日時を協議し6月14日と定めた。ただし将軍家が御聴聞のため出御される場合は御方違えが必要となる旨、陰陽師らからの上申があった。 . . ※大慈寺: 大倉 (二所近く) に三代将軍 実朝が建立した大寺で、墓地の一部を除いて既に痕跡も 残っていない。落慶供養の詳細は健保二年 (1214) 7月27日の吾妻鏡で。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 4月15日 庚子 . 吾妻鏡 |
.
相州禅室 北條時頼は以前からの宿願を果たすため、紺色の紙に金字 (金泥) で大般若経一部 (600巻) を写経し皇太神宮 (伊勢神宮) に納経した。時頼が自ら病気を押して願文※を清書した重要なもので、宛先は祭主 (神職の長) 隆通卿である。 . .
※願文詳細: 中国の故事などを引用した美辞麗句だけで、
掲載する意味が乏しいので割愛する。 .. 署名は弟子 沙弥 (未熟な仏弟子の意味) 道崇、出家後の時頼は覚了房道崇を名乗っている。 . 紺紙金泥の写経や願文は 清盛の平家納経や藤原清衡による中尊寺経 (一切経) が名高い。 . 右は一行毎に金泥と銀泥で書いた中尊寺経の一部(クリック→ 別窓で拡大)。 更に詳細は 平泉 関山中尊寺(サイト内リンク、別窓)を参照されたし。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 4月16日 辛丑 . 吾妻鏡 |
.
曇。月蝕が正しく確認できず、祈祷が催された。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 5月 1日 乙卯 . 吾妻鏡 史 料 |
.
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 陰。卯刻 (朝6時前後) の日蝕は正しく確認できず、丑寅 (北東※) の方角に向け祈祷を行なった。 . . ※百錬抄: 日蝕は雨のため正見できず。 . ※丑寅 (東北): 5月1日は西暦の6月14日。「太陽と北東 」 は無関係、太陽の対角でもない。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 5月18日 壬申 . 吾妻鏡 |
.
曇。子刻 (深夜0時時前後) に大地震 (現度計安※) 。陰陽師の安倍晴茂朝臣ら兄弟七人が連署して「悪い揺れである」との上申書を提出、広賢だけは「吉祥の揺れである」と報告した。特に (祈祷などの) 対応は行わなかった。 . . ※現度計安: 出典により現度斗宿、現度安宿などがある。揺れの程度を表わす言葉らしいが、 正確な意味は判らない。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 5月22日 丙子 . 吾妻鏡 |
.
安房又太郎を小侍所 (将軍側近) の番帳 (勤務名簿) に加えた。今までは非番扱いでの出仕をしていた。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 6月 1日 甲申 . 吾妻鏡 |
.
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 晴。御所で通例の蹴鞠があり、一條侍従定氏の奉行として人々を招集した。将軍家 宗尊親王は直衣 (貴族の平服) で加わった。中納言土御門顕方 (布衣) が300まで数えた。 . 露払い 式部大夫北條時弘(時広) 右馬助北條時親 中務権少輔守教(布衣) 佐渡五郎左衛門尉後藤基隆 左衛門尉武藤景頼(布衣) 三村左衛門尉(同) 左衛門尉鎌田三郎義長(同) 同、兵衛尉鎌田次郎行俊(同) 幸嶋左衛門尉(同) . この他に 所左衛門尉(行景の子) 左衛門四郎 山柄(各々初参加) 籐三位基朝、宗世らの朝臣、 太宰権小弐狩野為佐 . 周防前司 島津忠綱ら数人が検査役を務めた。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 6月12日 乙未 . 北條九代記 |
. |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 6月14日 丁酉 . 吾妻鏡 |
.
晴。大慈寺修造の落慶供養を行なう予定だったが、まだ工事が終わっていないため延期となった。 .また二つの星が軌道を侵している事に対応して祈祷が行なわれた。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 6月23日 丙午 . 吾妻鏡 |
.
晴。巳刻 (10時頃) に将軍家 宗尊親王が納涼のため相模太郎 北條時宗殿の山内 泉亭に入御し御遊宴。未刻 (14時前後) に小雨が降って涼風を催した。 . 将軍家は騎馬、 . 城四郎左衛門尉時盛※ 式部太郎左衛門尉伊賀光政※ 隠岐次郎左衛門尉佐々木時清※ 周防五郎左衛門尉嶋津忠景※ 薩摩七郎左衛門尉伊東祐能※ 和泉三郎左衛門尉二階堂行章※ 左衛門尉武藤頼泰(景頼の三男) 左衛門尉三善(太田)次郎康有※ 右近将監武藤景頼 左衛門尉鎌田三郎義長 同、次郎兵衛尉行俊 土肥四郎実綱(実平-遠平-惟平-倫平-実綱と続く) 以上が御馬の左右に列した。 . 御後(騎馬) 刑部少輔北條教時 尾張左近大夫将監北條公時 遠江右馬助北條清時(時房-時直-清時へ) 武蔵左近大夫将監北條時仲(朝直の12男か13男) 陸奥六郎北條義政 同、七郎北條業時 陸奥三郎北條時村 遠江七郎北條時基 武蔵五郎北條時忠(宣時) 遠江次郎北條時通 秋田城介安達泰盛 内藤権頭親家 和泉前司二階堂行方 少卿武藤景頼 丹後守安達頼景 . . ※城四郎時盛: 泰盛の同母弟(異説あり)。 . ※伊賀光政: 光宗→ 宗義→ 光政の系。五代将軍 藤原頼嗣の近習、正元元年 (1259) に引付衆。 . ※佐々木時清: 泰清の次男で嫡子、隠岐氏を名乗った。北條時頼の偏諱を受け時清として元服 し建治元年 (1275) に引付衆、弘安六年 (1283) に評定衆に任じている。 .※嶋津忠景: 忠綱の三男で宗尊親王の寵臣。和歌や蹴鞠にも造詣が深く、文永三年 (1266) 7月 の宗尊親王更迭には最後まで抵抗した。その後は六波羅に転任している。 .※伊東祐能: 工藤祐経-次男の薩摩守祐長(祐時の弟)-祐能と続く。 . ※二階堂行章: 系譜は二階堂行政-嫡子で検断奉行の行村-四男で評定衆の行方-文永七年 (1270) に引付衆に任じた行章と続く。 .※三善康有: 三善 (太田) 康連の七男。弘長二年 (1262) に兄 康宗を継ぎ問注所執事と評定衆を 兼任、在任は弘安六年 (1283) まで21年間に及んだ。公務を記録した「建治三年記」は鎌倉時代中期の政治史を示す貴重な文献資料となっている。
. |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 6月24日 丁未 . 吾妻鏡 |
. |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 6月25日 戊申 . 吾妻鏡 |
.
晴。将軍家 宗尊親王が御所に還御した。
. |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 6月28日 辛亥 . 吾妻鏡 |
.
放生会に供奉する随兵の名簿などが回覧となった。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 7月 1日 癸丑 . 吾妻鏡 |
.
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴、日中に小雨。 炎暑が続くため加賀法印が祈雨の祈祷に任じた。昨日が七ヶ日の結願である。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 7月 5日 丁巳 . 吾妻鏡 史 料 |
. |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 7月 8日 庚申 . 吾妻鏡 |
. . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 7月10日 壬戌 . 吾妻鏡 |
.
曇。六波羅の飛脚が鎌倉に到着し去る5日に承明門院が崩御した旨を報告した。後三條院の時代 (1068~1073) に崩御した陽明門院 (69代後朱雀天皇の皇后で71代後三条天皇の生母) の例に倣い後嵯峨上皇は五ヶ日の服喪に入る、と。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 7月12日 甲子 . 吾妻鏡 |
.
曇。内蔵権頭親家が使節として上洛の途に就いた。女院崩御の弔問である。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 7月13日 乙丑 . 吾妻鏡 |
.
晴、夜に入って雨。前浜の鳥居付近で寛喜の例に倣い、天文博士為親朝臣が束帯を着して風伯祭を行なった。将軍家 宗尊親王の使者は布衣 (狩衣、略礼服) の足立左衛門大夫、祭文の起草は給料 (職種の呼称) 広範、清書は左大臣法印厳恵。天下が豊年を迎えるための祈祷である。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 8月 1日 癸未 . 吾妻鏡 |
.
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。戌刻 (20時前後) に大地震あり。 . . ※地震と日蓮: この日に続いて23日にも未曽有の大地震が鎌倉を襲う。翌 正嘉二年 (1258) に は大火により寿福寺と新清水寺が焼失、更に深刻な疫病と天候不順による凶作で死人の肉を喰う者が頻発した、と伝わっている。 . そして文応元年 (1260) 7月、鎌倉で辻説法を行繰り返していた僧 日蓮 (34歳) が 執権 時頼に勘文 立正安国論 (Wiki) を呈上する。 . やや宗教色を省いた 立正安国論の解説 (別窓) も参考に。中身を確認しよう。 . 頻発する天変地異と飢饉は、人々が正しい教えである妙法蓮華経 (法華経) ではなく浄土宗などの邪法を信じているためだ。本来は国土を守る諸天善神が国を去り、悪鬼が国を支配している。 .この災厄を止めるには、為政者が (法然に代表されるような) 悪法 (浄土宗など) を禁止し、正法 (法華経) に帰依する事が必要である、と。 善政も悪政も 善宗も悪宗も自然現象とは無縁である。平和な世界にも地震は起きるし小惑星も衝突するし天候不順も起こりうる。生命の営みと天変地異の間には何の関係もないし、時として侵略戦争も勃発する。宗教の種類や宗派を問わず 「天罰を説く教祖」 の本質は狂人か詐欺師だと私は思う。 . 科学が常識となった現代でさえ詐欺師に騙される連中は跡を絶たない。自然現象の仕組みが理解できない時代の人々が、弁舌に優れた詐欺師や 聖跡を信じている狂人の言葉に影響を受けるのは不思議ではない。 . 神仏は個々の心の中のみに存在し得る、ましてや祈りによって旱天に慈雨を招くなど 宗派を問わず笑止なのだが...。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 8月12日 甲午 . 吾妻鏡 |
.
曇、夕刻に小雨、南風。 .大慈寺修理の落慶供養について、肥前前司と三井左衛門尉と松葉入道らが将軍家 宗尊親王の指示を受けて陰陽師と共に惣奉行に任じている常陸入道行日 二階堂行久の家を訪れて協議した。 . (陰陽師の) 晴賢、晴茂、広資、以平、文元が各々別紙により御方違えを行なうべきと答申した。 更に以平からは「通常の大犯土 (土を動かす工事) は全て寺家の職分であり、将軍家の聴聞に御方違えをするのは不合理ですが、修理の落慶供養は将軍家の御沙汰。御方違えを省くのは明らかに憚られます。」 との意見が呈され、その方向で議論が収束した。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 8月14日 丙申 . 吾妻鏡 |
. . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 8月15日 丁酉 . 吾妻鏡 |
.
晴、夕刻になって雨。鶴岡八幡宮の放生会があり、将軍家 (宗尊親王) の出御は通例の通り。
. 先陣の随兵 河越次郎経重 壱岐左衛門尉後藤基頼 城四郎左衛門尉安達時盛 和泉三郎左衛門尉二階堂行章 出羽三郎左衛門尉二階堂行重 常陸次郎兵衛尉二階堂行雄 長井太郎時秀 千葉介頼胤 陸奥七郎北條業時 遠江七郎北條時基 . 次いで前駈 次いで御車 . 伊勢次郎左衛門尉行経 隠岐次郎左衛門尉時清 上野三郎梶原景氏 土肥四郎実綱 左衛門尉肥後六郎時景 左衛門尉三善次郎康有 大曽祢太郎長頼 肥後三郎大曽祢為成 左衛門三善次郎盛村 大須賀左衛門四郎 上総三郎大曽祢義泰 平賀新三郎維時 左衛門四郎小泉頼行 兵衛尉鎌田次郎行俊 肥後四郎左衛門尉行定 以上は直垂に帯剣、御車の左右に行列。 . 御劔役人 武蔵守北條朝直 御調度 左衛門尉武藤頼泰 . 次いで御後 . 五位(布衣・下括り) 遠江前司北條時直 刑部少輔北條教時 遠江右馬助北條清時 尾張左近大夫将監北條公時 武藤左近大夫将監時仲 民部大輔北條時隆 秋田城介安達泰盛 下野前司宇都宮泰綱 長門前司笠間時朝 和泉前司二階堂行方 日向守宇佐美祐泰 上総前司大曽祢長経 太宰権少貳武藤景頼 対馬守佐々木氏信 石見守宗朝 . 六位(布衣・下括り) 左衛門尉三浦式部太郎光政 上野太郎左衛門尉梶原景綱 薩摩七郎左衛門尉伊東祐能 新左衛門尉三村時親 右衛門尉三善康長 (御笠手長)武藤右近将監兼頼 . 後陣の随兵 武蔵五郎北條時忠 駿河五郎北條通時 下野四郎宇都宮景綱 左衛門尉武籐三郎朝胤 左衛門尉渋谷武重 左衛門尉足立太郎直元 上野十郎結城朝村 兵衛尉周防四郎泰朝 千葉七郎太郎師時 新左衛門尉大須賀朝氏 . 将軍家が回廊に着座される間、相模守 北條政村、武蔵守 北條長時、武蔵前司 北條朝直、大隅前司嶋津親員、下野前司 宇都宮泰綱、前太宰少弐 狩野為佐、備後前司 町野 (三善) 康持、上野前司梶原景俊らはその近くに控えた。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 8月16日 戊戌 . 吾妻鏡 |
.
激しい雨 。将軍家 宗尊親王が鶴岡八幡宮に出御した。未刻 (15時前後) に晴れ間が現れ流鏑馬などの馬場神事は無事に挙行された。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 8月17日 己亥 . 吾妻鏡 |
.
晴、夕刻になって雨。評定衆による会議があり、大慈寺 (建保二年 (1214) 7月27日を参照) 修理の落慶供養の際には最明寺 (前年7月17日を参照) を御本所 (基点として) 御方違えを行なうと定めた。 . 陰陽師によれば大慈寺は最明寺から東方に当たるので好ましくない。従って日の出前に陰陽師と共に山上に登り正しい方角を確認※して報告するよう、左衛門尉 清原満定、左衛門尉安東光成 (得宗被官) らに指示した。 . 夜になって (弔問に上洛していた) 内蔵権頭藤原親家が京都から帰着した。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 8月18日 庚子 . 吾妻鏡 |
.
晴。未刻 (早朝4時前後) に清原満定と安東光成、陰陽師の晴茂、為親、広資が評定所に出仕して報告。 . 今朝未明にまず西御門山に登り 西に残月があり日の出の時刻を迎えている中で方角を確認した。 .最明寺から大慈寺は辰戌 (東南東) に当たり、最明寺と永福寺は卯酉 (南西) に位置する。 . 次に比企ヶ谷山に登り御所と前尾張守北條時章の名越亭が南北に位置するのを確認した。 先年は辰方 (東南東) と報告されていたが、これは不確実だったらしい。 . 御方違えには、薬師堂谷にある壱岐前司 佐々木泰綱の山荘が望ましい、と。 .
※方角確認: 各地点を右の地図 (クリック→ 拡大表示) に
落とし込んで見ると小さなミスが判る。 .. 最明寺から見た大慈寺の位置は東南東だが永福寺は東寄りの東南東で、明らかに 「東西に位置する」 関係ではない。 . 西御門山と推定される御谷の東の尾根は標高55m前後だが建長寺北の尾根は標高84m前後で測定した場所よりも高いため、最明寺の位置を見誤ったのだと思われる。 . 薬師ヶ谷は永福寺方向に伸びる二階堂道から 北條義時が建立した薬師堂 (現在の覚園寺) に続く谷で、泰綱の山荘の位置は確定できない。また北條名越邸は補陀洛寺の東に切れ込む弁ヶ谷にあったと考えるのが概ね定説になっている。弁ヶ谷周辺の鳥瞰図 (別窓) も参考に。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 8月21日 癸卯 . 吾妻鏡 |
. |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 8月23日 乙巳 . 吾妻鏡 |
.
晴。戌刻 (20時前後) に地鳴りを伴った大地震があった。全ての神社仏閣が被害を受けており、山崩れや人家の倒壊などが起きている。築地塀は悉く破損し各所の地割れから水が湧き出している。 中の下馬橋付近では特に大きな地割れがあり、地底から青い炎が吹き出す有様だった。 . 今日、大慈寺修理落慶供養の御布施を手配をする御教書 (命令書) を御家人らに発行した。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 8月25日 丁未 . 吾妻鏡 |
. |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 8月26日 庚戌 . 吾妻鏡 |
. |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 9月 4日 乙卯 . 吾妻鏡 |
.
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 小雨。申刻 (16時前後) に地震あり。先月23日の大地震以来、小さな地震が続いている。 これに対応して安倍為親朝臣が天地災変祭※を行なった。(将軍家の)代理出席は伊賀前司朝行。 . . ※天地災変祭: 陰陽道で行われる祭祀のひとつ。天変地異や怪異、厄年などに対応する。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 9月16日 丁卯 . 吾妻鏡 |
. |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 9月18日 己巳 . 吾妻鏡 |
.
晴。修造にあたって妖魔による妨害を防ぐ祈祷を行なう御教書 (命令書) を加賀法印に下した。 (祈祷を済ませてから) 工事が終わるまで本尊を運び出し供僧が協力して事に当たる。
. 勝長寿院の作業開始に当っては対馬前司 三善 (矢野) 倫長が立ち会い、後藤基政は病気で欠席した。 諸堂の工事管理を担当する籐左衛門尉安東光成、右衛門工藤三郎尉光泰 (以上は相州禅室 北條時頼の代官) 、籐民部大夫入道道佛 (奥州禅門 北條政村の代官) 、左衛門尉四方田三郎景綱 (相模守 北條長時の代官) が事始めに当って参集した工匠らに褒賞を与えた。 . 戌刻 (20時前後) に勝長寿院に於いて大土公祭 (地鎮祭) があり、牛一頭を引いた。安倍晴茂朝臣がこれを差配し銀造りの剣を与えた。奉行は対馬前司 三善 (矢野) 倫長。 . . ※ 内容に大きな影響はないと思うが、この日の記述には判別できない文字や意味不明の表現が 多いため正確な現代語訳ができていないと思う。少しだけ、こころ残り。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 9月24日 乙亥 . 吾妻鏡 |
.
晴。地震のため御所の南側と東側の築地が倒壊し、来月一日に予定している大慈寺修造落慶供養の前に修理するべきか否かの協議があった。陰陽師を呼んで方角の忌避などを問合わせたが、意見は一致しなかった。 . 為親と廣資は「南の方向は、辰 (南々西) 以外は問題なし。東の方角は修補に憚りなし。」と主張した。晴賢、晴茂、晴憲、以平、文元らは「この破損は土台から造り直す必要があるため大犯土に該当するから明らかに憚りがある。」と主張した。 光栄、有行、泰親らは勘文 (上申書) を提出し「保元の※造内裏の際に築垣は大将軍遊行の間に修理するべきとした。先例に倣って憚るべきとの口伝がある。」と主張した。 . 陸奥守 北條重時、武蔵守 北條長時、武蔵前司 北條時直、出羽前司二階堂行義 が評議し、とりあえずの修復中止を決定した。 . . ※保元の造内裏: 保元二年 (1157) に実施した内裏の造営では朝廷から一国平均の賦役が課され 以後の内裏修造の前例となっている。 .勝長寿院 (南御堂) の建造は元暦元年 (1184) 、北向きの谷で湿気も高い地域だから70余年の経年劣化はかなり深刻だったと思う。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 9月30日 辛巳 . 吾妻鏡 |
.
寅刻 (朝4時前後) から雨となり、終日降り続けた。 .. 未刻 (14時前後) に将軍家 宗尊親王が壱岐前司 佐々木泰綱の薬師堂ヶ谷の山庄に入御した。これは明日の大慈寺修造落慶供養に臨席するための御方違えが目的である。 . 夜になって相州禅室 北條時頼が修理の様子を覧るため大慈寺に入り、奉行人の常陸入道行日 (二階堂行久) らの奉行人と面談した。南側の河堰 (滑川の堰堤) に椙 (杉材) を使っているため、時頼は「堂塔の修理に専念したとはいえ、河堰に杉を使うとは残念」と言い残して帰った。 . 行久は寺に留まって川を堰き止め、桧材で造り直した。明日の落慶供養に備えて松明を灯して作業を終えた。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 10月 1日 壬午 . 吾妻鏡 |
.
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。卯刻 (朝6時前後) に将軍家 宗尊親王が 佐々木泰綱の家から御所に還御した。 . 今日は大慈寺の修造落慶供養である。本堂、丈六堂、新阿弥陀堂、釈迦堂、三重塔、鐘楼堂など全てに修理が加えられ荘厳な美しさは創建当時を彷彿とさせる。曼陀羅供の大阿闍梨は三位僧正頼兼で唱和する僧は30人、御願文の起草は給料 (職域の呼称) ※の広範、清書は左大臣法印厳恵。願文には相模守 時頼の名を含めている。その案文は広範、清書は和泉前司 二階堂行方が担当した。 . 当日の会場行事の差配は参河前司教隆眞人 (布衣、下括) と刑部権少輔政茂 (束帯) で、未明に寺門に入って奉行に任じた。苑池の南は河 (滑川を差す) 、釈迦堂から丈六堂まで幔幕 (まんまく) を張り、南門の内側に幔幕の入口を設けた。今日供養を遂げる堂塔は全て幔幕の中にある。 . また本堂前から東の池岸の間に読経の狩屋を設け、池に架かる橋から本堂まで筵 (竹で編んだむしろ、か) を敷いた。堂の扉には全て彩の鮮やかな飾りを下げて燈明を備え、本堂西の間を大阿闍梨の座とした。東の間から東北に折れた部分が唱和する僧衆の座である。 . 三井寺の大阿闍梨だった時には散花 (花を撒いて仏を供養すること) の机を置かず、 (花を撒く) 童子の席も設けなかった事に倣って、西の回廊に御聴聞所を設けた。将軍家に近習する女房 (女官) は既に控えているが、まだ御息所 (将軍正室) ※を迎えていないため几帳帷 (高位の女性を衆目から隠す間仕切り) は置いていない。 . 東の回廊には執権 長時の御聴聞所を、丈六堂※に続く東西の回廊には布施取りの公卿と殿上人の座を設けた。公卿は高麗縁、殿上人は紫の敷物である。同じく中間の回廊に諸大夫 (四位と五位) の座 (紫縁) を設けた。 . 右画像の上は大慈寺跡にある鎌倉青年団の石碑。地番は十二所66、 正確な地図 (別窓) 。 右画像の下は大慈寺の墓地か丈六堂跡と伝わる場所。地番は十二所934-1、正確な地図 (別窓) 。 共に画像をクリック→ 拡大表示 . .
巳刻 (10時前後) に将軍家 宗尊親王が御束帯、御帯剣で出御。
. 供奉人の行列 先陣の随兵(二行) 武田五郎三郎政綱 小笠原十郎行長 長井太郎時秀 下野七郎宇都宮経綱泰綱の二男 遠江次郎時通 畠山上野三郎国氏(泰国の嫡子) 武蔵五郎北條時忠 備前三郎長頼 陸奥七郎北條業時 新相模三郎時村 遠江七郎北條時基 陸奥六郎義政 . 御車 . 左衛門尉隠岐次郎時清 左衛門尉三善次郎康有 左衛門尉山内三郎通廉 左衛門尉肥後六郎時景 兵衛尉大見肥後四郎行定 同、五郎忠景 左衛門小泉四郎頼行 上野三郎梶原景氏 筑前五郎行重 平賀新三郎惟時 左衛門三善次郎盛村 太宰肥後三郎為成 各々直垂を着して帯剣、御車の左右に列歩す . 御調度(将軍家の弓箭を携帯) 武藤次郎左衛門尉頼泰
御後(布衣)武蔵前司北條朝直 尾張前司北條時章(御剣役) 中務権大輔足利家氏 越後守北條実時 刑部少輔北條教時 下野前司宇都宮泰綱 武蔵左近大夫北條時仲 相模式部大夫北條時広 秋田城介安達泰盛 越後右馬助北條時親 民部権大輔北條時隆 遠江右馬助北條清時 丹後守頼景 出羽前司小山長村 和泉前司二階堂行方 太宰権小弐武藤景頼 上総介長泰 大隅前司親員 石見前司能行 伊賀前司時家周防守忠綱 日向守伊東祐泰 備後前司町野(三善)康持 左衛門尉伊豆太郎実保 式部太郎左衛門尉光政 武籐三郎左衛門尉頼胤 鎌田三郎左衛門尉義長 鎌田次郎兵衛尉行俊 . 後陣の随兵 三浦遠江三郎左衛門尉泰盛 長江八郎景泰 千葉介頼胤 左衛門尉城四郎時盛 上野五郎左衛門尉重光 阿曽沼小次郎光綱 三浦遠江十郎左衛門尉頼連 兵衛尉常陸次郎行雄 河越次郎経重 武藤右近将監兼頼 風早太郎常康 小田左衛門尉時知 . 行列の行程について、三位中将家 (前将軍 藤原頼嗣が永福寺供養に出御した際は右大将家 (頼朝) の法華堂前で輿を降り供奉人も下馬したが今回は必要なしと予め定めており、寺の南門に着いてから御車を降りた。右近大夫大江佐房が踏み台を置き、土御門中納言と花山院宰相中将および殿上人らは事前に寺門の外に控えた。 . 公卿と殿上人は騎馬での供奉を認めるとの通達はあったが、公卿が騎馬で親王に供奉する前例が明確ではないため避けたものである。また右丞相 (三代将軍実朝)は御拝賀の際の不吉により判断から除外した。次に先陣の随兵が入って池の西岸に控え、将軍家の入御後に後陣の随兵も同様に東の池の南岸に列座した。 将軍家は池の橋と筵道を通って本堂西廊の東を経て簾中に入御、黄門 (中納言の唐名、土御門を差す) が進み出て御剣と笏を献じた。供奉した五位と六位は御聴聞所南庭の床子 (四脚の腰掛け) に控えた。 . 次に公卿と殿上人が筵道を通って堂前に着座した。これより前に近衛司と侍従が位階の通り諸大夫の上座に在るのが本来である、今日は位次に従うべきと主張した。これについては奉行の政茂から法会を妨げてはならぬとの指示があった。位階の順は佐房(少輔左近大夫)、公敦(坊城少将)、政茂(刑部少輔、今日の奉行)、公連(六條侍従)、雅有(二條侍従)の順である。大夫判官泰清(朱紋)と上野判官広綱 (白襖) が大慈寺惣門の警固に任じた。 . 午の一点 (11時過ぎ) に大阿闍梨三位僧正頼兼が南門前の橋に到着し、派遣された手輿 (退紅 (薄い紅色の衣装) の仕丁六人これを担った) に乗り移った。幔幕の入口を門に通る際には越中前司頼業と長門前司時朝が執綱 (布の日傘を両側から支える綱) を、執蓋 (布の日傘を持つ) を小山太郎左衛門尉が務めた。堂中の職衆 (法会に参加する僧) は全員が筵道に近寄って鐘を打ち鉢を突いて頌讃 (誉め称える役) に任じた。 . 職衆 (寺宰相)法印権大僧都清尊 (寺宮内卿)法印権大僧都房源 (寺大輔)法印権大僧都尊遍 (寺土佐)権少僧都実性 .(寺大夫)権少僧都聖尊 (寺卿)権少僧都長尊 (山伊豫)権少僧都性圓 権少僧都兼伊 権少僧都定賢 権少僧都増慶 権律師経厳 権律師長性
(寺治部卿)権律師頼承 (寺)権律師隆禅 権律師慶尊 阿闍梨尊栄大法師定西 大法師頼圓 大法師静禅 大法師定範
(寺大輔)阿闍梨頼宴 内供奉弁盛 大法師圓海 阿闍梨眞知阿闍梨頼珍 大法師頼珍 大法師良慶 大法師快舜 大法師性舜 大法師常照 阿闍梨兼朝 大阿闍梨が本堂に入り御誦経と鐘並びに法要が終わって御布施を大阿闍梨に贈った。錦の被物に加えて布施の御剣(共に顕方卿が渡す)。 . 大阿闍梨の御布施、 法服一具 (革鞋在り) 、横被一帖、水精念珠一連 (銀の打枝に在り) 、上童装束二具 童装束四具、被物三十重 (錦一重、織物九重、綾二十重) 、錦の裹物一 (綾十具入り) 、精好絹三十疋、 .白綾三十疋、色々の綾三十疋、顕文紗三十疋、唐綾三十段、計帳三十段、縫筋三十段、 紫染物三十段、紫村濃三十段、紺村濃三十段、染付三十段、巻絹三十疋、帖絹三十疋、 地白綾三十段、浅黄染綾三十端、染物三十端、色皮三十枚 (以上は漆箱に納め、組を付け結ぶ)、白布三十段、藍摺三十段、紺布三十段、已上。 絲三百両、香三百両、綿三百両、御馬十疋、供米二十石、御加布施は銀劔一腰 (錦袋入り) 、砂金百両。 御布施取りは 土御門中納言顕方卿 花山院宰相中将長雅卿 仁和寺三位顕氏卿 .二條三位教定卿 刑部卿宗教卿 一條中将能基朝臣 一條前少将能清朝臣 中御門中将公寛朝臣 中御門少将実齊朝臣 中御門侍従宗世 坊城少将公敦 六條侍従公連 二條侍従雅有 少輔左近大夫佐房 刑部少輔政茂 駿河新大夫俊定 前近江守季実 押立蔵人大夫資能 伊達左衛門蔵人親長 長井判官代泰茂 職衆の御布施は、一人当たり青鳬 (銭) 一万五千疋、八木十果。御諷誦物 (唱謡人) は奥布百段。 次に御布施などを撒く (餅撒きみたいな行事か) 。通例は御馬を引いた後だが仰せによって先行した。 次に御馬。幔幕入口から本堂前に引き入れ殿上童 (元服前に登殿を許された少年) らが受け取った。 . 御馬十疋(鞍を置く) . 一.鹿毛(前武蔵守北條時直の進) 鞍(相州禅室北條時頼の御所進) 時頼だけ御付き(笑) 引手は 肥後次郎左衛門尉為時 同、三郎左衛門尉 . 二.河原毛(相州禅室北條時頼の御所進) 鞍(足利三郎頼氏(利氏)の進) 引手は 隠岐三郎左衛門尉行景 同、四郎行兼 .
三.鹿毛(武蔵守北條朝直の進) 鞍(秋田城介安達泰盛の進)引手は 一宮左衛門尉三善康長 左衛門尉三善五郎康家 . 四.鹿毛(奥州禅門北條重時の進) 鞍(相模守北條政村の進) 引手は 周防三郎左衛門尉忠行 同、四郎左衛門尉忠泰 . 五.黒駮(相模守北條長時の進) 鞍(奥州禅門北條重時の進) 引手は 薩摩七郎左衛門尉祐能 同、十郎祐廣 . 六.栗毛(秋田城介安達泰盛の進) 鞍(武蔵守北條朝直の進) 引手は 大須賀新左衛門尉朝氏 同、四郎 . 七.栗毛(足利三郎頼氏(利氏)の進) 鞍(筑前入道の進) 引手は 筑前次郎左衛門尉行頼 同、五郎行重 . 八.鹿毛(前尾張守北條時章の進) 鞍(前武蔵守北條時直の進) 引手は 大曽祢上総左衛門尉長経 同、二郎左衛門尉義泰 . 九.黒(筑前入道進) 鞍(長井太郎時秀の進) . 引手は 土肥次郎兵尉朝平 同、四郎実綱 . 十.栗毛(長井太郎時秀の進) 鞍(前尾張守北條時章の進) 引手は 塩谷周防四郎兵衛尉泰朝 同、五郎親時 . 将軍家の還御は夕暮れとなり、塔之辻※ (右画像) の付近から松明が灯された。 . . ※給与: 所領を持たず、常勤する給与生活者を差すらしい。住み込みで一日当り玄米5升の 年俸を受けている「朝夕祗候人」と同様か。 .※御息所: この場合は将軍家 宗尊親王の正室。摂関太政大臣 近衛兼経 (Wiki) の娘 宰子は20歳 の文応元年 (1260) 2月に鎌倉に下って 北條時頼の猶子となり 3月に宗尊親王に嫁すことになる。 .※丈六堂: 一丈六尺 (16尺、約4.85m) の仏像を納めた堂。仏陀の身長は丈六だったとの説話 から派生した考え方。立像は等倍、5倍、10倍、2分の1などを基準に造像される。坐像の場合は丈六の半分 (約2.4m) が基準、大慈寺丈六堂本尊は詳細の記録がなく、サイズは想像するしかない。 .
※塔之辻: 鎌倉には七ヶ所の塔之辻 (つまり道路が交差す
る地点に建てた石塔) があった、とされる。 .. 私の知る限り、現存しているのは由比ヶ浜古道の近くにある石塔残欠だけだが、これも当初のものかどうかは不明。小町大路と横大路 (六浦道、金沢街道) が交差する筋替橋近くにも塔の一つがあったらしい。 . 右上は鎌倉にあったと伝わる塔之辻七ヶ所の地図。右下は由比ヶ浜古道に残る笹目塔之辻の石塔残欠。 共に画像をクリック→ 別窓で拡大表示。 . 更に詳細は別窓の 塔ノ辻から小町口へ続く古 道 の中盤に記載した。愛児を鷲に奪い去られた由比の長者、染谷時忠 の悲しみを今に伝えている。 . 今回の塔之辻は文暦二年 (1235) 6月29日の吾妻鏡に、当時の将軍 藤原頼経が五大尊堂 (大慈寺が隣接していた現在の 明王院、公式サイト) での祈祷に立ち会う際の記述 (下記) と合致する。添付した その際のルート地図を参照されたし。 . 「南門から御所を出立し小町大路を北へ、塔之辻を東に向かった。」と。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 10月13日 甲午 . 吾妻鏡 |
.
晴、夜に入り雷鳴と落雷が終夜続いた。 . 今暁、甲斐太郎時秀※と上総前司大曽祢長泰※が使節として上洛の途に就いた。山門 (比叡山 延暦寺) と寺門 (園城寺=三井寺) の紛争を調停するためである。 また左衛門尉遠江十郎頼連 (佐原 (三浦) 盛連の子で、佐原 (蘆名) 光盛の弟) が内々の使者 (六波羅宛か) として急遽出発した。両人より先着となるか。 . . ※甲斐時秀: 長井時秀を差す。甲斐は 父 長井泰秀 (死没) が甲斐守に任じていた関係による。 . ※大曽祢長泰: 武田(源)義清→ 嫡子 武田清光→ 三男 加賀美遠光→ 二男 小笠原長清→ 伴野 (小 笠原) 時長→ 時直→ 大曾根 (小笠原) 長泰と続く甲斐源氏の名門 (源氏の系図を参照) 。時長の娘が 安達義景に嫁して 泰盛を産んでおり、長泰と泰盛は従兄弟の関係にある。弘安八年 (1285) の 霜月騒動 (Wiki) で泰盛と長泰一族の多くが落命し、生き残った三男の泰房が安達氏の旧領三河国に逃れ、子孫が三河小笠原氏として生き残る。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 10月15日 丙申 . 吾妻鏡 |
.
朝のうち雨、夕刻になって激しい雨と雷鳴あり。丑刻 (深夜2時前後) になって地震。 . 雨の間を縫って将軍 宗尊親王が御所の南庭で相撲※を観覧。相模守 北條政村、武蔵守 北條朝直、前武蔵守 北條時直らが簀子 (篠竹で編んだすのこ) に 列座し見物人が垣根の如く連なったのは壮観である。 . 相撲の取り組み 一番 左 伊豫三郎 vs 右 中次 二番 左 伊豫五郎 vs 右 小野四郎 三番 左 荒作三郎 vs 右 平次郎 四番 左 平三郎 vs 右 安藤三郎 五番 左 萩薗弥太郎 vs 右 四郎太郎 . . ※相撲: 家元である吉田司家の所伝に拠れば 神亀三年 (726) に 「突く、殴る、蹴る」 が禁じ手に なったと伝わる。実戦形式だと判断していたのは私の思い込みだったらしい。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 10月16日 丁酉 . 吾妻鏡 |
.
晴。四分の一の月蝕を確認し、松殿法印良基が祈祷に任じた。 . 御所築地の修理については方違えに関する意見提出がなく、将軍家 宗尊親王は当番の陰陽師 為親に直接質問し、「従来からこの様な場合の対応は定めていません」との返答があった。 . 将軍家は更に「 (鎌倉での) 先例のみに依拠せず京都での例を確認して早急に報告せよ。27丈 (約82m) の範囲内であれば御所であっても移動が必要となる筈だ。」と付け加えた。為親は「南側に関しては問題なし、東側 27丈のうち西対 (回廊で結ばれた一郭) を移動させます。」と答えた。 . . ※宗尊親王: 満14歳、現代なら中二前後か。これが実際の遣り取りなら、結構理屈っぽいね。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 10月26日 丁未 . 吾妻鏡 |
.
晴。前備後守従五位上の 町野 (三善) 康持朝臣が没した (享年52) 。
. |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 11月 8日 己未 . 吾妻鏡 |
.
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 大地震があった。去る8月23日のような揺れである。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 11月22日 癸酉 . 吾妻鏡 |
.
晴。丑刻 (午前2時前後) に若宮大路一帯で火災があった。籐次郎左衛門入道の家から出火し、花山院新中納言、陸奥七郎、下野前司、内蔵権頭らの家、式部大夫入道の旧宅、壱岐前司、伊豆太郎左衛門尉、前縫殿頭文元らの家が焼失、田楽辻子※まで燃えて鎮火した。 . . ※田楽辻子: 嘉禄三年 (1227) 1月2日の吾妻鏡に「戌刻 (20時前後) に田楽辻子の東西一町 (距離 の場合は100m強、面積の場合は約100m四方) ほど焼失した。」との記事がある。 ..
田楽辻子は六浦道から大御堂橋を渡った先で勝長寿院への道を分岐し、滑川南岸を 報国寺 (創建は鎌倉幕府滅亡後) 近くの宅間ヶ谷に抜ける小道。静かだが、報国寺手前の100mほどが狭くて少し寂しい。
. 田楽 (歌舞演芸を主とした芸能) を生業とする者が多く住んでいたのが起源らしい。 . ただし「若宮大路から大御堂橋を渡った先まで延焼した」を文字通りに読めば、若宮大路幕府や執権邸や得宗被官の家も被災した事になってしまう。 ルート地図 (Map Fan) と突き合わせてみよう。 . 右は現在の田楽小路 (辻子) 。クリック→ 別窓で拡大表示 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 11月23日 甲戌 . 吾妻鏡 |
.
晴。酉刻 (18時前後) に越後守 北條実時朝臣の息子 (10歳) が相州禅室 北條時頼邸で元服し、越後四郎時方※と名乗った。理髪は丹後守安達頼景、加冠は相模太郎 北條時宗(7歳)。 . .
※四郎時方: 後に顕時と改名し、安達泰盛の娘である千代野
※を正室 (後妻説もある) に迎えている。 .. 弘安八年 (1285) の霜月騒動 (Wiki) で泰盛が滅びた際は (顕時の関与はなかったが) 泰盛一族に連座して謹慎処分となり、出家して難を逃れている。永仁元年 (1293) の 平頼綱の滅亡に伴って復権し幕政に戻っている。 ※千代野: 扇谷山 海蔵寺 (公式サイト) の入口に、失脚して 出家した夫に従い出家した千代野が悟りを開いた、と伝わる「底脱の井戸」 がある。海蔵寺は鎌倉陥落の際に化粧坂を突破された北條勢の守備隊が追い詰められて全滅した場所でもある。庭に残る「やぐら」が当時への想いを掻き立てる。 .. 海蔵寺 (こちらは Wiki) の風景と千代野の悟りについてのレポートは、右画像 (底脱の井戸) をクリックして没窓の 化粧坂 (気和飛坂) の合戦と海蔵寺 を参照されたし。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 11月24日 乙亥 . 吾妻鏡 |
.
明年正月の御的始めに出場する射手を選び出し、越後守 北條実時が奉書 (決定通知) を発行した。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 12月 6日 丙戌 . 吾妻鏡 |
.
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 晴。甲斐太郎 長井時秀と上総前司大曽祢長泰 (10月13日を参照) が京都から帰参した。比叡山と園城寺の争乱収拾のため去る10月に使節として上洛していた。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 12月12日 壬辰 . 吾妻鏡 |
. |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 12月16日 丙申 . 吾妻鏡 |
. |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 12月17日 丁酉 . 吾妻鏡 |
.
遠江十郎左衛門尉頼連(佐原 (三浦) 盛連の子で佐原 (蘆名) 光盛の弟)が京都から帰参した。 先日 (12月6日に鎌倉に帰着した) 両使 (甲斐時秀と大曽祢長泰) より前に入洛したのだが、二人が京都を発った後の結果を確認するために遅延したものである。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 12月18日 戊戌 . 吾妻鏡 |
. |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 12月23日 癸卯 . 吾妻鏡 |
.
晴。立春※に伴う御方違えあり。二棟の御所 (寝殿造りの寝殿東北に突き出した建物) の西端、御寝所 (私室) の未申 (南西) 方向に該当する。 . . ※立春: 西暦では2月4日 (2021年からは2月3日) 、旧暦では12月後半から1月前半の範囲。 正嘉二年の立春が何日に該当するのかは判らないが、たぶん12月23日だろう。 .更に詳細は 立春 (Wiki) を参照されたし。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 12月24日 甲辰 . 吾妻鏡 |
.
晴。御所に勤務できる御家人の中から優れた人材を選んで、初めて廂 (ひさし) 衆※を組織した。 . これは仙洞 (院の御所) の例を関東に採用したのだが、何らかの支障があるか否かを相州禅室 北條時頼に問い合わせ 内蔵権頭親家、遠江十郎左衛門尉頼連を使者として内々に叡慮 (上皇の判断) を確認した後に勅許を得たものである。 . また、侍の参昇※についての問い合わせには否定的な意向を示され、御宸筆 (院の直筆) の書簡を下された。この際に珍しい事例あり。頼連は使節として姓名の記録を再三求めた結果それが認められ、次に問見参結番※については 直近二年程は組織が自然消滅状態で、今日改めて精勤者を選んで再編成した、との事。 . 廂御所の一昼夜勤務表の件 . 一番(子と午の日) 一條少将 相模式部大夫 陸奥六郎 備前三郎 上総三郎 大隅修理亮 出羽次郎左衛門尉 筑前三郎左衛門尉 壱岐三郎右衛門尉 城五郎 . 二番(丑と未の日) 阿野少将 相模三郎 武蔵五郎 後藤壱岐前司 薩摩七郎左衛門尉 式部太郎左衛門尉 小野寺新左衛門尉 城四郎左衛門尉 鎌田三郎左衛門尉 一宮次郎左衛門尉 . 三番(寅と申の日) 中御門少将 尾張左近大夫将監 遠江七郎 新田参河前司 刑部権大輔 出羽三郎左衛門尉 和泉三郎左衛門尉 常陸兵衛尉 出羽七郎 平賀新三郎 . 四番(卯と酉の日) 冷泉少将 越後右馬助 新相模三郎 武蔵八郎 足利三郎 佐渡五郎左衛門尉 壱岐新左衛門尉 加藤左衛門尉 城六郎 大泉九郎 . 五番(辰と戌の日) 二條侍従 陸奥七郎 内蔵権頭 前の采女正 武籐左衛門尉 隠岐次郎左衛門尉 周防五郎左衛門尉 上総三郎左衛門尉 武蔵左近将監 土肥四郎 . 六番(巳と亥の日) 刑部少輔 武蔵左近大夫将監 遠江七郎 秋田城介 上野太郎左衛門尉 伊勢次郎左衛門尉 肥後三郎左衛門尉 駿河蔵人次郎 下野四郎 大曽祢左衛門太郎 . 以上の勤務割を守り、昼夜過怠無く勤仕する様、仰せに依って定める。 正嘉元年十二月 日 問見参結番について . 一番(子と午の日) 城四郎左衛門尉 周防五郎左衛門尉 塩谷周防四郎兵衛尉 (追加) . 二番(丑と未の日) 隠岐三郎左衛門尉 上総太郎左衛門尉 太宰肥後三郎 色部右衛門尉 (追加) . 三番(寅と申の日) 小山七郎左衛門尉 押立蔵人大夫 土肥四郎 . 四番(卯と酉の日) 城六郎 式部太郎左衛門尉 薩摩十郎 . 五番(辰と戌の日) 後藤壱岐左衛門尉 武藤左衛門尉 狩野左衛門四郎 . 六番(巳と亥の日) 左衛門尉幸嶋小三郎 左衛門尉加地五郎 左衛門牧次郎(追加) 波多野兵衛次郎 . 以上の勤務割を守り、昼夜過怠無く勤仕する様、仰せに依って定める。 正嘉元年十二月 日 . . ※廂衆: 鎌倉幕府の職名 (廂番とも) 。勤務表を定めて将軍の廂御所に宿直し警固する任務で、 10人を 1組とし、6組の構成とした。文応元年 (1260) には1組を12人に増員している。 .※参昇: 吾妻鏡の承元三年 (1203) 11月14日に 北條義時が将軍 実朝に次の要望を呈している。 以前から私に仕えていた郎従の中から功績のある者を選び御家人に準じる待遇と .したい。 . これに対して実朝は次のように答えている。 それを認めれば子孫の時代になって当初の経緯を忘れ、幕府參昇 (幕政への関与) を企てるようになるだろう。後世に問題を残す恐れがあるから、将来も認めてはならない。 .今回の院の対応は、概ね実朝の返答と同じ内容だと考えられる。安易な重用が、結果として得宗被官 (平頼綱) が古参御家人 (安達一族) を滅ぼす霜月騒動を招くのだから。 . この遣り取りを吾妻鏡に記載した幕臣が誰だったか知りたいね。組織の欠点を理解していたように思えるから。それとも、編纂者が私案を呈したのか? ※問見参結番: 出仕している者に将軍の御用を伝える役職。6組 総数20人の構成だった。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 12月29日 己酉 . 吾妻鏡 |
.
那波刑部少輔、周防五郎左衛門尉、三善次郎左衛門尉、平賀新三郎らが二所御参詣の供奉人に追加した。回覧状に書き漏らしたためである。今日、御格子番(格子の開閉を担当する役)を結番した。 . 御格子上下の勤務割についての決定 (順不同) . 一番 刑部少輔教時 武蔵左近大夫将監時仲 備前三郎長頼 内蔵権頭親家 城六郎顕盛 大隅修理亮久時 筑前次郎左衛門尉行頼 出羽次郎左衛門尉行有 隠岐次郎左衛門尉行氏 一宮次郎左衛門尉康有 . 二番 相模式部大夫時広 武蔵五郎時忠 駿河左近大夫 伊勢次郎左衛門尉行経 和泉次郎左衛門尉行章 城中六郎左衛門尉時業 出雲次郎左衛門尉時光 梶原上野三郎景氏 対馬太郎頼氏 鎌田三郎左衛門尉義長 . 三番 尾張左近大夫将監公時 駿河五郎通時 能登左近蔵人仲家 下野四郎景綱 壱岐新左衛門尉基頼 筑前三郎左衛門尉行実 出羽三郎左衛門尉行資 式部太郎左衛門尉光政 大須賀新左衛門尉頼氏 平賀新三郎維時 . 四番 遠江右馬助清時 武蔵八郎頼直 長井判官代泰元 城五郎重景 隠岐次郎左衛門尉時清 常陸次郎兵衛尉行雄 上総三郎左衛門尉義泰 加藤左衛門尉景経 薩摩七郎左衛門尉祐能 大泉九郎長氏 . 五番 越後右馬助時親 遠江次郎時通 小山出羽四郎時朝 美作兵衛蔵人長教 壱岐三郎左衛門尉頼綱 遠江十郎左衛門尉頼連 武籐四郎左衛門尉胤氏 肥後新左衛門尉景茂 小野寺新左衛門尉行通 土肥四郎実綱 . 六番 陸奥六郎義政 同七郎業時 足利三郎頼氏 佐渡五郎左衛門尉基隆 上野五郎兵衛尉重光 氏家左衛門尉経朝 武藤三郎左衛門尉頼泰 周防五郎左衛門尉忠景 山内三郎左衛門尉通広 鎌田次郎兵衛尉行俊 . 右次第を守り各々懈怠無く参勤すべき状、仰せに依って定める所件の如し。 正嘉元年十二月 日 . |
. . |
. 2025年12月19日 . . |
.
6時、康元二年 (1257年) が終了。修正箇所は結構多かったが予想より順調に進んだ。嬉しい誤算だ。 . 寒さが続いて憂鬱になる。南熱海に住んでいた20年弱の間に雪が降ったのはたった一度、それも 2cmにも満たないレベルだったのに茨城県筑西市に転居した四年間では二度も大雪 (まぁ5~6cmだけど、さ) に見舞われた。 . 南熱海を引き払ったのは坂道の途中を移動するのが億劫になった事と、10数年を共に暮らした犬二匹 (放浪から救助されたオスのゴールデンと、自己中心思想の権化みたいなゴールデン・ミックスのメス) が死んでしまった事、イノシシが家の庭を我が物顔に歩いている状態が不愉快だった事が理由だ。 . でも寒いのは嫌だね。昔は母の生まれ故郷だった福島県に転居して静かに人生の幕を下ろそう...なんて考えていたけど、やっぱり寒いのは性に合わない。ぬくぬくと暖かい場所で過ごす方が合っている、らしい。それに、暴力的な熊と共存したくないし。 . などと思いつつ、間もなく夕食だ。こういう自堕落な生活が合っているんだ、と思う。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
正嘉元年 . 月 日 . 吾妻鏡 . |
.
記事
.. ※: |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
正嘉元年 . 月 日 . 吾妻鏡 . |
.
記事
.. ※: |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
正嘉元年 . 月 日 . 吾妻鏡 . |
.
記事
.. ※: |