
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月 1日 辛亥 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。相州禅室北條時頼の沙汰による椀飯の儀あり。両国司(相模守北條長時と武蔵守北條朝直)が大庇(建物正面の全面に設けたひさし)に、それ以外の御家人は庭の東西に着座した。 . 西の席次 . 武蔵前司北條朝直 尾張前司北條時章 遠江前司 越後守北條実時 刑部少輔 陸奥六郎北條義政 越後四郎 陸奥七郎北條業時 出羽前司小山長村 下野前司宇都宮泰綱 那波刑部権少輔 和泉前司二階堂行方 長門前司 丹後守 江石見前司 秋田城介 長井太郎 筑前次郎左衛門尉 弾正忠 対馬前司 後藤壱岐前司 上野介 日向守宇佐美祐泰 対馬守 武藤少卿 大田民部大夫 清左衛門尉 善左衛門尉 城五郎左衛門尉 同、六郎 城弥九郎 太宰肥後次郎左衛門尉 同、三郎左衛門尉 和泉六郎左衛門尉 出羽三郎左衛門尉 筑前三郎左衛門尉 隠岐三郎左衛門尉 式部太郎左衛門尉 下野四郎 武石左衛尉 常陸次郎兵衛尉 肥後三郎左衛門尉 筑前四郎左衛門尉 伊勢次郎左衛門尉 武藤左近将監 渋谷太郎左衛門尉 武藤次郎左衛門尉 筑前五郎左衛門尉 上野太郎左衛門尉 後藤壱岐新左衛門尉 波多野出雲左衛門尉 加藤左衛門尉 後藤四郎左衛門尉 長又太郎左衛門尉 長門守 上総介 大曽祢左衛門七郎 伊賀式部兵衛次郎 山内三郎左衛門尉 佐渡五郎左衛門尉 土肥四郎 梶原上野三郎 対馬三郎 宇都宮石見守 . 東の席次 . 中務大輔 越後右馬助 相模式部大夫 駿河五郎 遠江七郎 武蔵右近大夫将監 相模三郎 遠江右馬助 張左近大夫将監 上総三郎 民部権大輔 備前三郎 遠江次郎 越後又三郎 武蔵五郎 遠江修理亮三郎 武蔵八郎 新田参河前司 少輔左近大夫 小山出羽前司 畠山上野三郎 越中前司 嶋津大隅前司 参河前司 摂津大隅前司 近江前司 籐肥前前司 周防守 石見前司 周防修理亮 河内式部大夫 備中判官代 白河出雲権守 押立左近大夫 那波次郎 美作左近大夫 少輔木工助太郎 赤塚蔵人 安芸左近蔵人 宗掃部助 長井判官代 和泉三郎左衛門尉 得河左近大夫 駿河蔵人次郎 皆吉大炊助 大隅修理亮 大隅式部大夫 大隅大炊助 信濃蔵人 安芸掃部大夫 宗民部大夫 佐藤民部大夫 後藤四郎左衛門尉 鎌田左衛門尉 紀伊次郎左衛門尉 薩摩七郎左衛門尉 進三郎左衛門尉 荻野新左衛門尉 豊後新左衛門尉 周防三郎左衛門尉 紀伊次郎左衛門尉 善五郎左衛門尉 平岡左衛門尉 籐肥前三郎左衛門尉 善次郎左衛門尉 大隅式部丞 遠江大炊助三郎 周防四郎左衛門尉 後藤彌四郎左衛門尉 大須賀新左衛門尉 隠岐次郎左衛門尉 大田四郎左衛門尉 鎌田三郎左衛門尉 長田左衛門尉 津戸新民部丞 周防五郎左衛門尉 鎌田新左衛門尉 鎌田次郎兵衛尉 和泉次郎左衛門尉 萩原左衛門尉 那須左衛門尉 齋藤右馬允 大隅四郎 大須賀四郎 河内太郎 周防五郎 出雲三郎 肥後四郎兵衛尉 加治中務左衛門尉 藤田新左衛門尉 齋藤五郎左衛門尉 宇間左衛門尉 大学允 稲毛兵衛太郎 豊前四郎左衛門尉 平賀新三郎 葛西又太郎 狩野五郎左衛門尉 小泉五郎 大多和新左衛門尉 河野左衛門四郎 阿保次郎左衛尉 金子平次左衛門尉 河内左衛門太郎 阿保左衛門三郎 高水右近三郎 阿保左衛門四郎 齋藤六郎 平賀弥四郎 黒澤太郎兵衛尉 豊前八郎左衛門尉 山内兵衛三郎 越前五郎 雅楽左衛門太郎 豊前宮内左衛門太郎 大泉九郎 大須賀新左衛門尉 備中右近大夫 和泉七郎左衛門尉 長門三郎 . 定刻になって将軍家 宗尊親王が出御 (御束帯) 。土御門中納言顕方が御簾を上げた。 . 御剣役は 武蔵前司北條朝直 御弓箭は 尾張前司北條時章 御行騰沓は 越後守北條実時 . 一の御馬は 遠江七郎時基 と 工藤次郎左衛門尉高光 二の御馬は 陸奥七郎業時 と 南條新左衛門尉 三の御馬は 新相模三郎時村 と 安東刑部左衛門尉 四の御馬は 城四郎左衛門尉時盛 と 同五郎重景 五の御馬は 出羽三郎左衛門尉行資 と 同、七郎行頼 . . ※年令:六代鎌倉将軍 宗尊親王 (第88代後嵯峨天皇の第一皇子) は16歳、 . 五代執権 北條時頼は前々年11月に出家退任 30歳、後任の六代執権は 北條長時 27歳、 .連署 重時 60歳は前々年3月に病気で辞任、後任の連署は後の七代執権 北條政村 53歳、 八代執権になる 北條時宗は6月で満8歳 (元服) 、 六波羅 北方は北條時茂 18歳、南方は不在。 . 安達泰盛 27歳、 千葉頼胤 18歳、 足利泰氏 41歳、 吉良(足利)家氏 46歳、 小山長村 41歳、 結城朝広 67歳、宇都宮泰綱 55歳、 . 浄土真宗 親鸞は84歳、 天台宗寺門派 (園城寺) の隆弁は 49歳、 真言律宗 叡尊 は57歳、 真言律宗 忍性は41歳、法華宗 日蓮は36歳、時宗 一遍は19歳、 . 89代 後深草天皇は14歳、 先帝 後嵯峨上皇は37歳、摂政太政大臣 鷹司兼平は30歳、 太政大臣 西園寺実氏は63歳、関東申次 (関東執奏) は西園寺家当主が世襲。 以後の朝廷は 五摂家 (近衛家、一条家、九条家、鷹司家、二条家) による合議分担体制となる。 (表示は全て 1/1 現在の満年齢) . ※ 宝治合戦 (1247年) で三浦一族が滅亡した後に執権 時頼 は極楽寺流の祖 北條重時を六波羅の 北方から呼び戻して連署に任命した。 .六波羅北方の後任は (赤橋) 長時。重時は建長八年 (1256) に出家して政界を退き、時頼の後継は六代 (赤橋) 長時と七代 政村を経て八代 時宗 (建長三年、1251年誕生) に続く。 . 強権を握った時頼は弘長三年 (1263) 11月に36歳で死没、5年後の文永五年 (1268) 3月に次期執権に就かせる時宗の道筋を見届ける如き最期を迎える。それにしても、三代泰時 (58歳で病死) 以後の義時直系 (北條嫡流) 執権の寿命は驚くほど短い。 . 四代経時 23歳、五代時頼 36歳、八代時宗 33歳、九代貞時 40歳、十代師時 35歳。本当に激務の故か、繰り返した血族結婚の弊害か、怨みを抱きつつ滅ぼされた人々の祟りだろうか。 . 嫡流以外の執権および鎌倉陥落と運命を共にした高時と貞顕と守時の没年は次の通り。 六代長時 34歳、七代政村 68歳、十一代守宣 52歳、十二代煕時 36歳、十三代基時 46歳、十四代高時 29歳、十五代貞顕 56歳、十六代 守時 37歳 、 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月 2日 壬子 . 吾妻鏡 |
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晴。将軍家の御行始めに伴う供奉人の件、小侍所に命じて昨日庭に列座した者を書き出し将軍家の付点 (✓と同じ、両省の点を付ける) を得た。 和泉前司二階堂行方がこれを奉行した。 今日の椀飯は奥州禅門北條重時の沙汰による。 . 御簾を挙げる役は 土御門黄門 (中納言) 顕方 御剣役は 尾張前司 北條時章、御調度役は 下野前司 宇都宮泰綱、御行騰沓役は 太宰権少弐 武藤景頼 . 一の御馬は 新相模三郎時村 と 式部太郎左衛門尉光政 二の御馬は 武蔵五郎北條時忠 と 同、八郎頼直 三の御馬は 肥後次郎左衛門尉為時 と 同、三郎左衛門の尉 四の御馬は 梶原太郎左衛門尉景綱 と 同、三郎景氏 五の御馬は 陸奥七郎北條業時 と 原田籐内左衛門尉 . 椀飯の後、将軍家は相州禅室 北條時頼邸に御行始め。 . 供奉人(布衣、下括り) . 五位 武蔵前司北條朝直(御剣を持つ) 尾張前司北條時章 遠江前司北條時直 越後守北條実時 越後右馬助北條時親 刑部少輔北條教時 尾張左近大夫将監北條(名越)公時 遠江右馬助北條清時 武蔵左近大夫将監時仲 中務権大輔足利家氏 秋田城介安達泰盛 出羽前司二階堂行義 下野前司宇都宮泰綱 壱岐前司後藤基政 和泉前司二階堂行方 参河前司新田(世良田)頼氏 上総前司大曽祢長泰 内蔵権頭親家 少卿武藤景頼 丹後守頼景 . 六位 相模三郎北條時利 遠江七郎北條時基 備前三郎長頼 陸奥七郎北條業時 足利上総三郎満氏 長井太郎時秀 出羽次郎左衛門尉二階堂行有 式部太郎左衛門尉光政 佐渡五郎左衛門尉後藤基隆 周防五郎左衛門尉忠景 隠岐次郎左衛門尉時清 武藤次郎左衛門尉頼泰 和泉三郎左衛門尉二階堂行章 壱岐新左衛門尉後藤基頼 薩摩七郎左衛門尉伊東祐能 常陸次郎兵衛尉行雄 一宮次郎左衛門尉三善康有 加藤左衛門尉景経 武藤左近将監兼頼 鎌田三郎左衛門尉義長 同次郎兵衛尉行俊 . 御遊已後に御引出物を献じた。役人は下記、 . . 御剣は 刑部少輔北條教時 砂金は 出羽前司二階堂行義 鷹羽は 秋田城介安達泰盛 . 一の御馬は 相模三郎北條時利 と 工藤三郎左衛門尉光泰 二の御馬は 備前三郎長頼 と 工藤次郎左衛門尉高光 三の御馬は 筑前次郎左衛門尉行頼 と 同、五郎行重 . 夜になって 勝長寿院※の惣門 (四脚門) を上棟した。以前は門が無く※、初めての建立である。 縫殿頭の中原師連が現地に立会い、大工 (布衣を着す) に御馬と御衣等などを下賜した。天火日※である事を申し立て忌避する者もいたがこれを宥める者もあり、無事に終了した。 . . ※天火日: 天の火気が強い日。屋根葺きや上棟、種撒きなどの忌日とされる。 . ※勝長寿院: 大御堂または南御堂とも。室町時代の火災によって廃寺となるまでは 北條政子と 三代将軍 実朝の廟所もこの寺域にあった。廃寺により二人の五輪塔は政子が開基した 寿福寺※に移され現在の 「やぐら」 に納められたと推定されている。 .. ちなみに、頼朝廟所に祀られている五層の石塔も、廃寺となった勝長寿院の跡から素性不明の石造物を移設したもので、源氏の末裔を詐称する薩摩氏が現在の墓所を新設する際に据えたのが経緯で歴史的には何の価値もない。 詳細は 法華堂跡と頼朝の墓 (別窓) で。
※惣門: 城郭や寺域と その外郭を明確に区分する正門。
この惣門が勝長寿院に設置されていなかったのは実に意外で、広い寺域の中に其々が門を構えた堂宇が点在していたのなら、永福寺同様の配置ではない。規模は明らかに異なるが、平泉の関山 (中尊寺を含む全体) と同様の伽藍配置だった事になる。 .. 右は「中尊寺を中心とした平泉関山の堂塔群」 画像をクリック→ 別窓で拡大表示。 . その他、清衡が建立した平泉最初の堂塔群、中尊寺、 平泉に咲いた浄土思想の華 毛越寺 など (別窓表示) も参考に。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月 3日 癸丑 . 吾妻鏡 |
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晴。相模守 北條政村の御沙汰による椀飯あり。御簾役は昨日と同じ。
. 献上役 御剣は越後守 北條実時、御調度は左近大夫将監 北條 (名越) 公時、御行騰沓は和泉前司 二階堂行方 . 一の御馬は 陸奥七郎北條業時 と 稲毛左衛門尉※ 二の御馬は 備前三郎長頼※ と 広河五郎左衛門尉 三の御馬は 越後四郎時方※ と 伊賀三郎左衛門尉実清 四の御馬は 式部太郎左衛門尉伊賀光政(光宗の孫、庇衆) と 伊賀左衛門三郎朝房 五の御馬は 新相模三郎北條時村 と 糟屋左衛門三郎行村※ . . ※稲毛氏: 直系は元久二年 (1205) 6月の畠山重忠滅亡に伴って榛谷氏、小山田氏と共に冤罪を 捏造され追討 (同年6月23日の吾妻鏡を参照) を受けている。一部傍流が讃岐国 (香川県) に逃れて命脈を保ったとも伝わり、左衛門尉がその系累だった可能性がある。 .※備前長頼: 北條時長の長男だが家督は弟の定長が継いでいる。庶子か、または早世か。 . ※四郎時方: 越後守北條実時の嫡子 顕時の初名。 . ※糟屋行村: 先祖と思われる 糟屋有季は建仁三年 (1203) 9月の比企氏の乱で 頼家の子 一幡を . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月 6日 丙辰 . 吾妻鏡 |
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御的 (弓) 始めの射手について内々に名簿を定めた。今まで出場していた射手を何度でも選ぶように、相州禅定北條時頼から厳命が下された。その中で知久右衛門五郎は長年射手を務めた御家人で本領の信濃国に帰国しているため今回の風記に載せていなかったが (同じ信濃の御家人) 諏方兵衛入道蓮佛 (諏訪盛重) から早急に鎌倉に入るよう飛脚を派遣し、名簿に追加して掲載した。 . 射手の風記 (名簿の素案) . 渋谷左衛門太郎 横路左衛門次郎 新左衛門尉平頼綱※ 本間弥四郎左衛門尉 諏方四郎兵衛尉(諏訪盛重) 横溝弥七 周枳兵衛四郎 工藤弥三郎 知久右衛門五郎 萱間左衛門次郎 岡本新左衛門尉 小嶋弥次郎 . . ※平頼綱: 文永三年 (1266) に吾妻鏡が途絶、その20年後に歴史の主役に躍り出るのが平頼綱。 父親 平盛時の出家引退が弘長二年 (1262) だから正嘉二年では脇役だが、弘安八年 (1285) 11月に得宗被官とアンチ安達氏グループを糾合して御家人筆頭の 安達泰盛を滅亡に追い込む人物である。時代を通じて五本の指に入る事件なのに吾妻鏡の欠落は実に悔しい!
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月 7日 丁巳 . 吾妻鏡 |
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来る10日の鶴岡八幡宮御奉幣に供奉人を椀飯の際の出仕者名簿から書き出し、将軍家 宗尊親王に進覧して付点 (承認) を頂いた上で通告した。 名簿に載せたにも拘らず付点 (選択の承認) に漏れたのは以下の人々である。 . 武蔵五郎 上総三郎 越後又太郎 出羽七郎 那波刑部権少輔 江石見前司 .対馬守周防守 摂津大隅前司 縫殿頭 梶原上野介 石見守 上野太郎左衛門尉 越中四郎左衛門尉 長門三郎 周防三郎左衛門尉 同五郎左衛門尉 長井判官代 大隅修理亮 備中右近大夫 梶原上野三郎 和泉六郎左衛門尉 同、七郎左衛門尉 大隅修理亮薩摩九郎 同、十郎 大須賀新左衛門尉 同、四郎 隠岐次郎左衛門尉 太宰肥後次郎左衛門尉 同、三郎左衛門尉 善右衛門尉 善五郎左衛門尉 筑前四郎左衛門尉(元々支障あり) 同、五郎 紀伊次郎左衛門尉 内藤豊後三郎左衛門尉 山内三郎左衛門尉 進三郎左衛門尉 太宰肥後左衛門三郎 平賀新三郎 狩野五郎左衛門尉 善兵衛太郎 土肥左衛門尉 渋谷左衛門尉 内藤肥後三郎左衛門尉 出雲権守 長又太郎左衛門尉 後藤四郎左衛門尉 大多和左衛門尉 阿保左衛門太郎 . この中から後日改めて少々の付点追加がある。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月 8日 戊午 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月10日 庚申 . 吾妻鏡 |
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晴。将軍家 (宗尊親王) が鶴岡宮に御参宮。 . 御出の行列 . 前駈八人 (下位の者が先) 赤塚左近蔵人資茂 備中判官代定忠 押立左近大夫資能 安芸掃部大夫親定※ 美作左近大夫泰朝 近江前司季実 備中左近大夫将監景茂 少輔左近大夫将監大江佐房 . 次いで殿上人 (下位の者が先) 尾張侍従清時 二條侍従雅有 姉小路兵衛佐忠時 坊城少将公敦 中御門中将公寛朝臣 一條中将能基朝臣 . 次いで公卿 刑部卿宗教 二條三位教定 仁和寺三位顕氏 花山院宰相中将長雅 土御門中納言顕方(混在して御所に参集) . 次いで御車 周防五郎左衛門尉忠景 隠岐次郎左衛門尉晴清 山内三郎左衛門尉通廉 薩摩十郎公員 土肥四郎実綱 狩野左衛門四郎景茂 肥後三郎左衛門尉 大泉九郎長氏 平賀新三郎維時 (各々直垂で帯剣、御車の左右に行列) . 御剣役は武蔵前司朝直 御調度は武藤次郎左衛門尉頼泰 . 御後 五位(布衣、下括り) 相模式部大夫北條時弘(時広) 刑部少輔北條教時 越後右馬助北條時親 尾張左近大夫将監北條(名越)公時 武蔵左近大夫将監時仲 民部権大輔時隆 中務権大輔足利家氏 出羽前司二階堂行義 出羽前司小山長村 参河前司新田(世良田)頼氏 和泉前司二階堂行方 長門前司笠間時朝 内蔵権頭藤原親家(宗尊親王の近臣) 壱岐前司後藤基政 日向前司伊東祐泰 丹後守安達頼景 上総前司大曽祢長泰 太宰少弐武藤景頼 . 御後 六位(布衣、下括り) 相模三郎時利 陸奥七郎北條業時 備前三郎長頼 遠江七郎北條時基 長井太郎長井時秀 下野四郎宇都宮景綱 佐渡五郎左衛門尉基隆(後藤基綱の二男) 出羽次郎左衛門尉二階堂行有 梶原太郎左衛門尉景綱 式部太郎左衛門尉伊賀光政(光宗-宗義-光政と続く) 壱岐新左衛門尉後藤基頼(基政の子) 薩摩左衛門尉伊東祐能 一宮次郎左衛門尉康有(三善(太田)康連の七男) 左衛門尉加藤景経(景廉の末子) 伊勢次郎左衛門尉行経 鎌田三郎左衛門尉義長 同、次郎兵衛尉行俊 武藤左近将監兼頼 . この他 遠江次郎 宮寺蔵人 この両人は参加を命じられないまま推参した。 . . ※安芸親定: 中原親能-養子で安芸守護の中原 (藤原) 親実-親光-親定と続く。 承久の乱 (1231年6月) の終結後に親実が 厳島神社 (公式サイト) の神主に補任、将軍に近侍して鎌倉に常駐し、代官 (惣政所) を派遣して管理業務を代行させた。
.. 厳島神社は建永二年 (1207) と貞応二年 (1223) の二度も火災による被害を受け、親実は再建を差配するため安芸守護に任じた。親定の後も系累 (惣政所の系累を含む) が厳島神社神主を世襲している。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月11日 辛酉 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 御的始めに向けて、射手を選び出す催しを行なった。13人が二射づつを五度繰り返すのだが、藤澤左近将監時親と岡本新兵衛尉重方を組み合わせたにも拘らず重方が遅参したため、横溝七郎五郎忠光を時親の相手とした。遅刻した重方は後半の五回のみを射た。 . 一番 二宮弥次郎時元 vs 知久左衛門五郎信貞 二番 小笠原彦次郎政氏 vs 横路左衛門次郎長重 三番 平新左衛門三郎頼綱 vs 加久帳小次郎忠景 四番 周枳兵衛四郎頼泰 vs 小嶋弥次郎家範 五番 多賀谷弥五郎重茂 vs 横溝弥七郎 六番 藤澤左近将監時親 vs 横溝七郎五郎忠光 七番 岡本新兵衛尉重方 (遅参のため後半の五度のみ) |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月15日 乙丑 . 吾妻鏡 |
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御所の弓場で御弓始を行なった。射手は10人で一射づつ五度の的を射た。 .山城三郎左衛門尉近忠は仰せには含まれず選抜の際には呼ばれなかったが、今年は優れた射手が少なかったため急遽追加となった。射手としての名誉である。 . 一番 二宮弥次郎時元 vs 横路左衛門次郎長重 二番 山城三郎左衛門尉近忠 vs 知久左衛門五郎信貞 三番 藤澤左近将監時親 vs 多賀谷弥五郎重茂 四番 周枳兵衛四郎頼泰 vs 横溝弥七郎忠景 五番 岡本新兵衛の尉重方 vs 小嶋弥次郎家範 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月17日 丁卯 . 吾妻鏡 |
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晴。丑刻 (深夜2時前後) に秋田城介 安達泰盛の甘縄邸から失火、南風に煽られて薬師堂※背後の山を越えて寿福寺まで飛び火し 惣門、仏殿、庫裏、方丈など寺域すべての堂宇が焼け落ちた。更に新清水寺※と窟堂および付近の民家と八幡宮の宝蔵と別当坊まで焼失した。 . . ※薬師堂: 甘縄と寿福寺を結ぶ線上にある筈だが単独の薬師堂 ではなく既に廃寺となった無量寺の薬師堂らしい。 .. 建長五年 (1253) 6月3日に泰盛の父 景盛が44歳で死没し、文永二年 (1265) 6月3日に無量寿院で十三回忌の法要が催された記事が吾妻鏡に載っている。 . 鎌倉市の教育委員会は、ここが (後期の) 安達邸の跡だと考えているらしいが、利用されていた時期については言及していない。 . 詳細はそちらを参照するとして、取り敢えず無量ヶ谷の入口付近と、歴史文化交流館の裏手に残る無量寿院跡の画像を掲載しておく。 右上はこの際に焼失した泰盛の甘縄邸から八幡宮までの地図 (別窓) 。 .
鎌倉駅西口から無量ヶ谷の最奥まで約700m、静かな高級住宅地が続いている。歴史文化交流館の展示や裏手に残る無量寺跡の雰囲気を味わったら源氏山から続く山並みを貫く佐助トンネルを抜けて 銭洗い弁天 (Wiki) や 佐助稲荷 (公式サイト) を巡るのも面白い。. 右は歴史文化交流館に向かう手前から左に分かれ佐助トンネル方向に向かう町並み。 .交流館の先にある小さなトンネルを抜けてこの道に迂回するルートもある。 無量寺 (無量寿院) は景盛が自邸の一画に建てた仏堂が最初と伝わっている。この名が初めて載った文永二年は吾妻鏡の記録が失われる一年前。もしも安達景盛十三回忌の記録が失われていたら無量寿院の話も見過ごした侭になった、かも知れない。 原本の逸失は残念至極だが、この点だけは天祐に感謝しておこう。 .
右は歴史文化交流館裏、無量寿院の痕跡。 .どこまでが遺跡なのか判然としないが、鎌倉時代末期に失われてしまった宗教施設の雰囲気を感じることはできる。 「薬師堂背後の山を越えて寿福寺に飛び火」したのだから類焼は免れたらしいが弘安八年 (1285) 11月の霜月騒動の戦火で焼けたと伝わっている。 泰盛の一族滅亡の地である可能性もある。 . 同様に八幡宮の宝蔵と別当坊、窟堂、寿福寺堂塔の概略位置は地図に落とし込んだ。甘縄邸から八幡宮までは直線で約2km強、正嘉二年1月17日は西暦の2月21日、乾燥と寒さのピークだったのかも。 ※新清水寺: 京都の清水寺に帰依していた 北條政子の開基と伝わる。建久六年 (1195) 6月18日 に頼朝に従って 大姫と上洛した際「お忍びで清水寺など霊地を参拝」との記載がある。建長三年 (1251) に 北條長時が開いた 浄光明寺 (公式 FaceBook。ウェブサイトを開くべきだと思うが) の筋向いにあったがこの火災で廃寺となり、清水ヶ谷の名前だけが虚しく残っている。 .. 寺が焼け落ちた際には強い光が巽 (東南) の方向に飛び去ったのが確認された。焼け跡からは本尊の鉄製観音像の崩れた胴体が見付かったのみで、頭部は行方不明になった。 . その後に長い年月が流れ...窟小路の入口にある井戸の水に様々な霊験が現れ、井戸替えを行なった元禄十二年 (1699) に井戸の底から観音像の頭部が掘り出された。火災の時に見られた強い光は観音像の頭が空を飛んで井戸に避難したものだ、霊験は観音像の御利益によるものだと評判になった。これが現在の小町通りに入る角の「鉄ノ井」である。人々は井戸近くの西側に観音堂を建てて頭部を本尊とし、大切に祀ったという。 .
そして明治維新の神仏判然令で観音堂は廃寺になってしまう。井戸から救われた観音像の頭は東京の深川に遷され、変転を経て現在は人形町の 大観音寺 (公式サイト) に祀られている。. この頭だけで高さ約170cmだから、元の姿は坐像だとしても6m以上だったと考えられる。 ※寿福寺と窟堂: 「鉄の井」から扇ヶ谷に向かう窟小路の右 が窟堂で、線路を越えた突き当たりの左手に寿福寺がある。政子と実朝の「やぐら」や著名人の墓地など周辺の風景は 義朝館跡の寿福寺を参照されたし。 .元は中腹の岩窟にあった窟堂は地震で崩落し、現在は山裾の小路にひっそりと残っている。正嘉二年の大火事では寿福寺の惣門から寺域などの全てが焼けてしまった、想像を越える大火だったらしい。 . 右上は小町通り北端から見た窟小路。画像をクリック→ 別窓で拡大表示。 右側の塀が 川喜多映画記念館 (公式サイト) 、窟堂は横須賀線の踏切の手前 にひっそりと隠れている。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月20日 庚午 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月21日 辛未 . 吾妻鏡 |
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晴。勝長寿院に建造する諸堂の礎石を定めた。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月22日 壬申 . 吾妻鏡 |
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(1月17日に焼失した) 若宮の御影堂※および雪ノ下の別当坊を上棟した。 . . ※御影堂: その寺の開基や開山の像を安置する。若宮の祭神は本宮の主祭神 (八幡神、15代応神 天皇) の親族、つまり皇后の仲姫命、その皇子16代仁徳天皇、皇后の磐之媛命、嫡男の17代履中天皇の四柱を差す。いずれも 「天皇」 の呼称が定着した大宝元年 (701)以前の話、興味があれば左枠の目次にある「天皇家の系図」を参照されたし。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月24日 甲戌 . 吾妻鏡 |
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晴。勝長寿院の四脚脇門※が完成した。明日25日から二月節 (啓蟄) に入るため急いだものである。 . . ※四脚脇門: 文字通りなら脇門 (袖門) を備えた四脚門。1月3日に上棟した惣門の完成だろう。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 1月27日 丁丑 . 吾妻鏡 |
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特別の御願により、将軍家 宗尊親王が御剣を二所大神宮※に献納した。奉行は豊前弾正忠。 . . ※二所大神宮: 伊勢神宮の内宮 (皇大神宮) と外宮 (豊受大神宮) を差す。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 2月 8日 戊子 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 鶴岡若宮御影堂の御正躰が元の位置に遷御した。 . . ※御正躰: 神仏習合思想では神体である鏡に本地仏の像を示した鏡像または懸仏を差す。 仁徳天皇の本地仏は十一面観音だが、他は馬鹿馬鹿しくなって調べるのを止めた。 .天皇家が馬鹿々々しいのではなく、天皇と本地仏を結びつける愚かな発想が、ね。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 2月13日 癸巳 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 2月18日 戊戌 . 吾妻鏡 |
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晴。勝長寿院 (南御堂) の堂塔の柱立てあり。武蔵前司 北條朝直朝臣が現地を監臨した。
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 2月19日 己亥 . 吾妻鏡 |
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晴。最明寺での五種行※が今日結願した。導師は信承法印、普賢菩薩像および法華経二部の供養で、その一部は聖霊 (北條経時の魂) の遺札を漉いた紙を用いた。第一巻は法主 北條時頼が自筆で書写し、残る七巻は弘誓院 (書家の流派) 亜相家 (大納言家) の筆跡を学んでいる者に委ねて書写し終えた。
. 法主 時頼も聖霊 経時も、弘誓院の書を好んだ為である。法華経の唱和も解説も趣きに満ちており、結縁に集まった人々は涙を禁じ得なかった。 . 清和天皇が崩御した後、東御息所 (寵愛された女御) の 藤原高子は御恋慕に耐えられず、数百の勅書を漉き改めて幾許かの大小乗経を書写した。橘贈納言広相 (文章博士の 橘広相が御願文を起草し、同心契恋蓮華偈 匪石詞入鑁字門の句を題とした。 薄墨の色紙を写経に用いる例はこの時以来で、古今の違いはあっても心は同じである。 . . ※五種行: 受持、読、誦、解説、書写を行なう法華講。2月13日に始まっていた。 . ※遺札を漉き: 経時が遺した紙と写経などを漉き直した紙。薄墨の色紙に漉き上がる。 . ※清和帝の例: 鎌倉中期に成立した説話集 十訓抄 の第五 「朋友を撰ぶべき事」 に載っている。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 2月25日 乙巳 . 吾妻鏡 |
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晴。将軍家 宗尊親王が二所詣に備えて精進を始め、潮に浴するため申刻 (14時頃) に水干で浜に出御。 .. 土御門中納言顕方 (水干) 、武蔵守 北條長時、相模太郎 北條時宗殿、武蔵前司 北條朝直、左近大夫将監 北條 (名越) 公時、陸奥七郎 北條業時、修理亮嶋津久時 (忠時の嫡男) 、摂津権守 中原師員が供奉した。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 2月28日 戊申 . 吾妻鏡 |
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晴。将軍家が浜で潮浴された (中の御塩、三回の二回目) 。 .今日、評議あり。将軍家が明年に御上洛する件に関し、 (沿道を所轄する) 諸国の御家人に周知を指示した。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 3月 1日 辛亥 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。辰刻 朝8(時前後) に将軍家 宗尊親王 が最初の二所詣に御進発 (初度) 、浄衣を着す。人々 (殿上人と公卿) の行列を奉行するのは和泉前司 二階堂行方、随兵の行列を奉行するのは左衛門尉 平三郎盛時。 . 行列 . 先陣の随兵十二騎(総鞦 (しりがい) 、馬の尻飾り) を掛ける。 葛西四郎太郎(壱岐六郎左衛門尉の後任) 三田五郎(三田小太郎の後任、子息) 大胡掃部助太郎(大胡太郎の後任) 小林小三郎(小林小次郎の後任、子息) 木村四郎左衛門尉(木村五郎の後任、子息) 安芸大炊助(佐貫左衛門尉の後任、子息) 肥前七郎(那須肥前前司の子息) 向田小太郎(足利向田の後任) 香山三郎左衛門尉(河越掃部助の後任) 瀧口左衛門尉(足利木工助の後任) 千葉太郎左衛門尉(千葉介の後任、六郎の子息) 天野左衛門尉(相馬左衛門尉の後任) . 次いで 御引馬 三疋 次いで 御弓袋差し(腹巻を着す) 丸嶋弥太郎久経 次いで 御甲(兜)着け 伊豆籐三郎保経 次いで 御冑(鎧)持ち 門居弥四郎行秀 次いで 御小具足持ち 弥三郎守近 次いで 御調度懸け 又鶴丸 次いで 御油 次いで 御先達 権少僧都善道 已上は騎馬< br>. 次いで 御駕(将軍家・御浄衣) . 周防五郎左衛門尉島津忠景 薩摩七郎左衛門尉伊東祐能 左衛門尉武藤頼泰 左衛門尉加藤景経 肥後三郎左衛門尉為成 左衛門尉山内三郎通廉 小河新左衛門尉 肥後四郎左衛門尉行定 左衛門尉鎌田三郎義長 同、新左衛門尉 兵衛尉渋谷太郎 兵衛尉鎌田次郎行俊 土肥四郎実綱 平賀新三郎維時 狩野四郎景茂 以上は歩行 . 御後騎 (楚鞦) 土御門中納言顕方卿 武蔵前司北條朝直 中務権大輔足利家氏 陸奥七郎北條業時 越前守北條時弘(時広) 備前三郎長頼(北條時長の長男) (相並ぶ) 内蔵権頭親家 太宰少弐武藤景頼 参河前司新田(世良田)頼氏 (相並ぶ) 筑前次郎左衛門尉行頼 安芸左近大夫親継 肥後次郎左衛門尉為時 (相並ぶ) 阿曽沼小次郎光綱 伊勢次郎左衛門尉行経 山内籐内左衛門尉通重 善五郎左衛門尉康家 (已上四騎相並ぶ) 采女正忠茂朝臣 前陰陽大允晴茂朝臣 参河前司教隆 大隅修理亮(忠時の嫡男) (已上四騎相並ぶ) . 次いで小侍所司 平岡左衛門尉実俊 次いで 武蔵守北條長時 相模太郎北條時宗 (相並ぶ) 次いで侍所司 左衛門尉平三郎盛時 . 次いで 後陣の随兵十二騎(二騎相並ぶ) 行方中務五郎(行方太郎の後任) 眞壁孫四郎 豊嶋四郎太郎(豊嶋兵衛尉の後任) 内匠蔵人太郎(中村甲斐の前司の後任) 大河戸兵衛太郎(大河戸兵衛尉分の子息) 伊北小太郎(伊北三郎の後任) 国分彦五郎(国分五郎の後任) 品河右馬允(大井品河の人々の後任) 多比良小次郎(多故宮納左衛門尉の後任) 鬼窪又太郎(鬼窪左衛門入道跡民部太郎の子) 永野次郎太郎 忍小太郎(自身) . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 3月 3日 癸丑 . 吾妻鏡 |
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鶴岡八幡宮で節句の法会。舞楽は通例に同じ、将軍の奉幣御使無し。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 3月 6日 丙辰 . 吾妻鏡 |
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強い雨と北風が激しかった。亥刻 (午後10時前後) に将軍家が二所詣から還御した。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 3月10日 庚申 . 吾妻鏡 |
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晴。鶴岡八幡宮の三月会 (三月の神事) 。稚児が呼ばれ御所に参上し鞠の御壺 (小庭) で舞曲を演じた。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 3月19日 己巳 . 吾妻鏡 |
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鶴岡八幡宮の本殿前で諸神供 (諸天諸神を供養する祭事) を修した。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 3月20日 庚午 . 吾妻鏡 |
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終日激しい雨。 評定があり、将軍家 宗尊親王の明年御上洛に関し、供奉人などについて協議した。 準備を整えて詳細を御家人に周知させるため御教書を諸国の守護人宛に発行する。内容は次の通り。 . . 今日、前の武州禅室 北條泰時の御後室 (矢部禅尼) ※の三年忌に当たり、建長寺 (公式サイト) で一切経の供養を催した。導師は道隆禅師、相州禅室 北條時頼、相模守 北條政村、武蔵守 北條長時を始め結縁を願う大勢の人々が堂上に集まった。 . . ※後室: 公式には泰時の正室は離縁した 矢部禅尼、後室は武蔵丹党の二代惣領 安保実員の娘。 文面の通りに読むなら安保実員の娘の三回忌 (死没の翌々年 ) なのだが... .矢部禅尼の死没が建長八年 (1256) 4月10日、つまり概ね三回忌に該当するのが気にかかる。安保実員の娘の没年が判れば疑問は解消するのだけれど、これは不明。離縁の理由を含めて歴史の中に埋もれる謎、かも知れない。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 3月23日 癸酉 . 吾妻鏡 |
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晴。故武蔵守 北條経時 十三年忌仏事として佐々目谷※塔婆供養を催した。 導師は寿福寺長老の悲願房朗誉。 . . ※佐々目谷: 経時葬送と墓所及び墓所については寛元四年 (1246) 閏4月2日の吾妻鏡の参照を。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 4月17日 丙申 . 百錬抄 |
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今暁卯刻 (朝6時前後) に天台 (比叡山) 衆徒が日吉の神輿三基 (八王子、十禅師、客人) を曳き廻した。園城寺が要望する戒壇※の設置を認可する宣下の撤廃を求めた行動である。 . .
※戒壇: 渡来僧 鑑真 (Wiki) が設けた天平勝宝六年 (754) の
初めて戒壇は奈良の 東大寺と太宰府の 観世音寺 (公式サイト) と下野の薬師寺※の三ヶ所、本来は朝廷の力を背景にして僧尼に授戒 (宗教者が守るべき律を教え、僧の資格を公式に授戒) する施設だった。
.. 右は 下野薬師寺歴史館 (公式サイト) の戒壇模型。 クリック→ 別窓で拡大表示 (実際はミニ・サイズ) . その後は徐々に戒壇の有無が権威の有無を表す象徴となり、鎌倉時代の中期には天台宗内部で比叡山 (延暦寺、略称を山門) が自前の戒壇を設置した。これに対して鎌倉の支援を得た 隆弁が出身母体である円城寺 (三井寺、略称を寺門) への新たな戒壇設置の宣下を得た。 . これが山門 vs 寺門の紛争再発を招く発端になり、その後は多くの仏教系宗教団体が戒壇の設置を巡って紛争を展開、今では フランス政府からカルト教団に指定された創価学会まで独自の戒壇を持っているらしいから、もう笑うしかない。 . 念のために書いておくが、フランス政府も (もちろん私も) 法華経の教えに異議を唱えているのではなく、創価学会の運営手法を 「信教の自由を侵害する団体」 と判断しているから。そして政権与党と結託して政治権力の利用まで手を広げているから。 . 私の若い頃の友人が学会員の家族の娘 (22歳、処女だったそうな) と恋に落ちて肉体関係まで進んだのに学会員以外との結婚が許されず、強制隔離で絶縁となった。 . 同様の例は多数挙げられている。フランス人には狂気に思えるのだろう、そんな団体が 「連立」 を詐称して政権の一翼を担っているなんて日本人にも狂気の沙汰だ。 . 戒壇の詳細は Wiki で、下野薬師寺の紹介は 下野東山道の史跡群 (別窓) の中段以下。
※下野薬師寺: 平安時代末期に衰退して鎌倉時代に中興し、
再び衰退した南北朝時代に足利幕府の庇護を受けたが 戦国時代の元亀元年 (1571) に伽藍の全てを焼失して廃寺となった。
.. その後に別院の不動院 (真言宗智山派) が医王山安国寺として再建され、江戸時代初期に再建された同じく別院の地蔵院の末 生雲山龍興寺と薬師寺の正統を巡って150年間も訴訟を続け、天保九年 (1838年、四代将軍の頃) になって和解に至る。 . 「安国寺 (現在は薬師寺) (Wiki) は戒壇を継承する、龍興寺 (公式サイト) は鑑真墓所を守護し継承する」、それが和解の条件だったのに、以後200年は利権争いを繰り返した。 . 右上は薬師寺の戒壇堂跡と伝わる場所に建てられた六角堂 (江戸時代末期) 。 現在は建て替えられてピカピカになった。ク リック→ 別窓で拡大表示。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 4月19日 戊戌 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 晴。未刻 (14時前後) に勝長寿院の三重塔と一切経蔵の上棟となり、将軍家 宗尊親王 が女房用の輿を用いて非公式に入御した。 土御門中納言顕方があらかじめ出席して待機し、武蔵前司 北條朝直と 相模守 北條政村が続いて加わった。出羽前司 小山長村、下野前司 宇都宮泰綱、秋田城介 安達泰盛 など参席者は多彩である。 . 工匠 (布衣) は本堂前に列居した。大工 (棟梁) には御馬二疋 (一疋は鞍置き) と御衣 (三衣) を、引頭と長 (部下) には鞍置き一疋と御衣一領を与えた。将軍家は夕暮れになって還御された。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 4月21日 庚子 . 吾妻鏡 |
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晴。京都朝廷からの飛脚が到着して報告。去る17日の卯刻 (朝6時前後) に日吉社の神輿三基を縫殿 (女官の管理や宮中衣料の縫製などを担当した役所) の前を担ぎ回って示威行為を行なった。 . 警備の者が門を閉鎖したため日吉の衆徒は御正躰 (神輿の御神体) を取り出して塀の中に投げ込んだ。これは園城寺の戒壇設置の勅許があった事への抗議である。 . .
※日吉の神輿: まぁ平安の昔から宗教団体が政治に関与する
とロクな事はない。一部の神道と結託して天皇の神格化を主張した戦前の軍部も然り、自民党の妾と同然の活動を続ける創価学会もまた、良質な民主主義を危うくする存在だ。
.. 大嫌いな創価学会の名が出たので口直しに、4月12日に撮影した旧宅近くで撮った山桜。緑を深めた広葉樹の中でソメイヨシノとは一味違う落ち着いた色を楽しませてくれていた。 .現住所の筑西には山桜ではなく、庭の枝垂れ桜だけ。 . 右は今では懐かしい、2021年春の下多賀のヤマザクラ。クリック→ 別窓で拡大表示 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 4月22日 辛丑 . 吾妻鏡 |
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申刻 (16時前後) に地震あり。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 4月25日 甲辰 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 4月26日 乙巳 . 吾妻鏡 |
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晴。五月節に入るため、勝長寿院および諸堂の建物を覆い松明をかざして工事を進め、明け方になって完工。武蔵前司 北條朝直が現地を監臨した。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 5月 1日 庚戌 . 百錬抄 |
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日吉社の神輿三基が本社に帰座した。戒壇設置の宣下を取り消すとの仰せが再三あり、これを受け入れた格好である。 . . ※宣下取り消し: 安易な妥協が良い結果を招く事はない。哲学を持たない朝廷の弱腰は自縄自 縛を繰り返す。昭和初期に正義を貫けば数百万の人々は死ななかった。 .天皇家には死を賭しても国民の命を守るほどの気概はなかったし、ね。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 5月 2日 辛亥 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。評定所に陰陽師を集めて勝長寿院の落慶供養供養の日程を協議させ、去年の大慈寺供養の際と同様の御方違えをするべきかを検討した。以平は不要と語ったが 晴茂、為親、国継、晴憲、晴宗は御方違えは必要と主張した。広資と泰房は、去年は太白方※と大将軍方※が重複したが今回は大将軍方のみ、供養の前例あり、と。 . また将軍家の御上洛予定を控え六波羅に御所を新造する命令が下された。勘文 (上申書) を求め 晴茂、為親、晴憲が連署して提出した。 . . ※太白方: 金星の方角で凶、大将軍は神格化した金星で三年間同じ方角に留まるため大凶。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 5月 5日 甲寅 . 吾妻鏡 |
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強い雨。御方違えについて評議した結果、陰陽道の報告を考慮して、来る29日に尾張前司 北條時章の名越山荘 (新善光寺※の付近) に入御する事と定められ、その旨が時章に連絡された。
. また勝長寿院の落慶供養は曼陀羅供※の様式とし大阿闍梨の任命は以前の両寺供養に準じて定める。 . 安祥禅寺僧正良瑜、若宮別当僧正 隆弁、日光法印尊家、松殿法印良基、左大臣法印厳恵の五人の名を書いた箱に収めて右大将家 頼朝法華堂の別当尊範僧都に渡した。 七日間の護摩行を行なった後に名札の一枚を取り出すよう指示した結果は良基法印、御使を派遣して曼陀羅供の導師を務めるよう仰せを伝えた。 . .
※新善光寺: 15世紀に移転し現在は葉山町 (地図) にある。. 詳細は 浄土宗のサイト (別窓) で確認を。 .元々は名越の弁ヶ谷、北條時政の名越邸の近く (地図) にあった。 . 右の鳥瞰図をクリック→ 別窓で拡大表示。 更に詳細は「鎌倉時代を歩く 参」の 名越邸の推定地、弁ヶ谷 (別窓) で。 . 名越邸は 時政→ 朝時→ 時章→ 公時→ 時家に継承され、時章の兄弟 (光時、時幸、教時) が得宗家に反抗して滅びた後も、子孫は名越流として評定衆などを歴任している。弁ヶ谷の名は、千葉氏の実質的な開祖 千葉介常胤の屋敷があった場所で 「介」の唐名が別駕 (べつが) だった事から「別駕の住む谷」→「べんがやつ」に転訛した、らしい。 . 材木座四丁目には美智子皇太后の実家正田家の別荘もあったが相続に伴う物納の対象となり、現在は分譲住宅街に姿を変えている。 ※曼陀羅供: 大壇 (正方形の大型) を設け、前の礼盤に導師が登って独自の修法を行なう華やか な法要。 「曼陀羅供 動画」で検索すると実際の姿が観察できる。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 5月 6日 乙卯 . 吾妻鏡 |
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去る一日に、日吉の神輿が本社 大津坂本 (地図) に帰座したとの報告が届いた。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 5月 8日 丁巳 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 5月 9日 戊午 . 吾妻鏡 |
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晴。将軍家 宗尊親王の御上洛に伴い前例に倣って六波羅に御所を建てるよう定め、諸国の御家人に担当を割り当てる命令を下した。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 5月10日 己未 . 吾妻鏡 |
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鎌倉および諸国の雑人沙汰 (武家以外の訴訟) について定め、主人と居住地の地頭への通告を発した。 . 一.鎌倉およびに諸国の雑人沙汰について。 奉行人からの出廷命令が三度あっても更に応じなかった場合は引付衆 (訴訟の実務担当官) が調査し、事実であれば所領を没収する。複雑な事例の場合は同様に引付衆が決裁する。 .. ※雑人: 一般庶民あるいは賤民。公家、武士、侍、郎党の身分を持たない全ての者を差す。 雑人が没収されるほどの所領を持っていると言うのも理屈が合わないと思うが... .ちなみに、鎌倉時代中期には問注所の下に雑人同士の訴訟のみを扱う雑人奉行が設置されたている。新編追加 (鎌倉時代の法令集、成立年代 編者は不詳) に見る雑人奉行の初出は宝治二年 (1248) 7月10日。問注所の所管であり、別称は国奉行。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 5月14日 癸亥 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 5月28日 丁丑 . 吾妻鏡 |
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晴。勝長寿院五仏堂の本尊などを新造の堂に移動し、併せて定められた行法を催した。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 5月29日 戊寅 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 6月 1日 己卯 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 小雨。将軍家が (御方違えの名越山荘から) 還御し、和泉前司 二階堂行方が勝長寿院落慶供養日の供奉人名簿を提出した。武蔵前司 北條朝直が御所に奏上、更に人数を追加せよとの仰せを受け その旨を越後守 北條実時に報告した。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 6月 2日 庚辰 . 吾妻鏡 |
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晴。越後守 北條実時が武蔵守 北條長時の指示を受けて、四日の供奉人を増員する回覧状を御所に持参した。土御門黄門 (中納言顕方) に人数の取捨と行列についてを問合わせると、人数の取捨はするが行列については北條長時が差配すべきだろうとの返事を受けた。 .. 北條実時は戻ってその旨を報告し、長時からは再び同じ指示を受けた。しかし中納言顕方の返事が前と変わらなかったため、やむを得ず連署の相模守 北條政村と執権の長時が実時が相談して行列の明細を定めた。ただし、供奉人には将軍御所からの仰せで決定したと通告せよ、との内々の指示が長時から発せられた。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 6月3日 辛巳 . 吾妻鏡 |
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上野三郎国氏 (上野介 畠山泰国の嫡子) が明日の将軍出御の随兵に決まっていたが病気による支障を申し出た。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 6月 4日 壬午 . 吾妻鏡 |
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晴、風は静まった。今日は勝長寿院の落慶供養。式次第は曼陀羅供、大阿闍梨は松殿法印良基。 . 職衆(法事を補佐する僧)三十口 (30人) . 権大僧都定宗 権少僧都寛位 権少僧都聖尊 権少僧都定憲 権少僧都慈暁 .権少僧都浄禅 少僧都印教 権律師尋快 権律師成遍 権律師頼承 権律師浄宴 権律師圓審 権律師禅遍 権律師定宝 権律師信成 権律師頼承 権律師良明 権律師良顕 権律師定撰 権律師慶尊 法橋宗信 已講能海 阿闍梨尊審 阿闍梨行秀 阿闍梨禅信 阿闍梨禅尊 大法師定宣 阿闍梨源重 大法師圓全 大法師定融 御願文起草は右京権大夫茂範朝臣、清書は左大臣法印厳恵、法会奉行は参河前司教隆 (布衣、下括 り) と刑部権少輔政茂(束帯)。各々明け方から院内の会場を飾り付けた。 巳刻 (10時前後) に将軍家が御束帯、紫袍、御帯劔の姿で渡御した。 . 供奉人行列 . 先陣の随兵 武田五郎三郎政綱 小笠原六郎三郎時直 長井太郎時秀 備前三郎長頼 新相模三郎時村 武蔵五郎時忠 陸奥七郎業時 相模三郎時利 遠江七郎時基 陸奥六郎義政 . 御車 . 隠岐次郎左衛門尉時清 周防五郎左衛門尉忠景 肥後四郎左衛門尉行定 山内三郎左衛門尉通廣 肥後左衛門尉為成 平賀新三郎惟時 善左衛門次郎盛村 大曽祢左衛門太郎長頼 狩野左衛門四郎景茂 大泉九郎長氏 已上直垂を着して帯剣、御車の左右に候す。 . 御調度 武藤左衛門尉頼泰 . 御後 越後守北條実時 中務権大輔足利家氏 刑部少輔北條教時 左近大夫将監北條(名越)公時 民部大輔時隆(時房-時村-時隆) 下野前司宇都宮泰綱 出羽前司小山長村 秋田城介 安達泰盛 石見前司大江能行 和泉前司二階堂行方 壱岐前司後藤基政 対馬守氏佐々木氏信 信濃守佐々木泰清 周防守嶋津忠時 石見守多功宗朝(宇都宮頼綱の七男) 修理亮久時 小野寺新左衛門尉行通 筑前四郎左衛門尉行佐 式部太郎左衛門尉光政 山内籐内左衛門尉通重 紀伊次郎左衛門尉為経 鎌田次郎兵衛尉行俊 . 後陣の随兵 城四郎左衛門尉時盛 阿曽沼小次郎光綱 相馬五郎左衛門尉胤村 千葉七郎太郎師時 淡路又四郎左衛門尉宗泰 武石三郎左衛門尉朝胤 加藤左衛門尉時景 常陸次郎兵衛尉行雄 肥後左衛門尉政氏 長江八郎四郎景秀 . 政所の前まで来て式部太郎左衛門尉光政が落馬し、供奉に戻らずそのまま帰った。 また筑前左衛門尉行佐が行列の図に従わず (図面では左が小野寺左衛門尉行通で右が行佐) 、山内籐内左衛門尉通重が鎌田兵衛尉行俊に並ばず、馬を打って引き下がった。 . 勝長寿院の大門で牛を外して将軍家が御車を降り、土御門中納言顕方御簾を掲げた。花山院宰相中将が傍らに控え中務権大輔家氏が御搨 (日傘) を持った。手長役 (補助、傘を支える紐を持つ) は鎌田次郎兵衛尉行俊。 . 左近大夫将監公時が御沓を呈し (手長 (補助) は小野寺新左衛門尉行通) 、黄門(中納言顕方)が御裾を持った。御剣役は越後守実時御劔。去年の大慈寺供養の際には参列する雲客(殿上人)は御下車の場所に集まったが、今回はそれを先例とせず両卿(土御門中納言と花山院宰相中将)のみとした。 . 先陣の随兵は将軍家の席に対して東の幔 (まんまく) 下に、入御の後に後陣の随兵が幔の北に列居し、殿上人は楽屋 (楽士の位置) の前に控えた。諸大夫 (身分の低い四位、五位) は本堂前に控えた。 . 将軍家が御堂に登る際は相模守 北條政村と武蔵守 北條長時は仏前の階下に降りて控えた。また黄門 (中納言顕方) が進み出て御剣と御笏を渡し、その後に供養が始められた。 . 五位と六位は弥勒堂の前から塔の前までの庭に床子を並べて列座し、直垂を着した六位は御所前の階下に群居した。大夫判官二階堂行有と大夫判官広綱と隠岐判官二階堂行氏らは寺門を守護した。 . 午刻(正午前後)に大阿闍梨 (松殿法印良基) が参入、執蓋 (随行者が掲げる日傘) は小山太郎左衛門尉、執綱 (日傘を支える紐を持つ役) は越中前司頼業と長門前司時朝、職衆は全員が導師の前に並んで次いで会場に入った。御経供養の後に御布施あり。 . 導師には被物三十一重 (錦一重、綾二十重、色々十重 ) 、裹物一 (織物で裹包む) 、紺村濃十五入り)、 砂金百両、御馬十疋 (皆銀の鞍を置き厚総の鞦 (尻飾り) 付き)、供米二十石、銀剣一腰、 .職衆三十口には一人宛に銭貨一萬五千疋 . 御布施取り 土御門中納言顕方卿 六條二位顕氏卿 花山院宰相中将長雅卿 二條三位教定卿 .刑部卿宗教卿 一條中将能基朝臣 前右衛門佐重氏朝臣 一條前少将能清朝臣 坊門中将基輔朝臣 籐少将実遠朝臣 中御門中将公朝臣実 中御門少将実齊朝臣 冷泉少将隆茂朝臣 中御門前侍従宗世朝臣 前兵衛佐忠時朝臣 中御門新少将光隆朝臣 刑部権少輔政茂 二條侍従雅有 近衛少将実永 一條少将定氏 (堂童子) 伊賀前司光清 (堂童子)近江前司季実 押立左近大夫資能 赤塚左近蔵人資茂 次に御馬十疋を引いた。 一の御馬は 肥後次郎左衛門尉為時 と 同、三郎左衛門尉為成 .二の御馬は 善五郎左衛門尉康家 と 同、次郎左衛門尉康有 三の御馬は 薩摩七郎左衛門尉祐能 と 同、八郎左衛門尉 四の御馬は 周防三郎左衛門尉忠行 と 同、四郎左衛門尉忠泰 五の御馬は 梶原上野太郎左衛門尉景綱 と 同、三郎左衛門尉景氏 六の御馬は 大須賀新左衛門尉朝氏 と 同、左衛門四郎 七の御馬は 筑前次郎左衛門尉行頼 と 同、五郎行重 八の御馬は 上総太郎左衛門尉長経 と 同、三郎左衛門尉義泰 九の御馬は 伊勢次郎左衛門尉行経 と 信濃次郎左衛門尉行宗 十の御馬は 後藤壱岐左衛門尉基頼 と 同、次郎基広 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 6月 5日 癸未 . 吾妻鏡 |
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晴。筑前四郎左衛門尉行佐と山内籐内左衛門尉通重が出仕停止の処分を受けた。 昨日の供奉の際に定めを守らず濫吹※が露呈したためである。 . . ※濫吹: 能力を高く装うこと。笛の音を愛した斉の宣王が集めた楽人の中に笛を吹けない癖に 吹く真似をしていた者がおり、一人づつ演じる際に逃げ出したという中国の故事 (韓非子) による。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 6月 9日 丁亥 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 6月11日 己丑 . 吾妻鏡 |
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晴。未刻(14時前後)に将軍家 宗尊親王 が山ノ内最明寺の北條時頼邸に入御した。 . 供奉人 . 土御門中納言顕方 花山院宰相中将 相模太郎北條時宗 越後守北條時弘(時広) .刑部少輔北條教時 相模三郎北條時利(時輔) 陸奥六郎北條義政 陸奥七郎北條業時 新相模三郎北條時村 遠江七郎北條時基 武蔵五郎北條時忠※ 参河前司新田(世良田)頼氏 和泉前司二階堂行方 秋田城介安達泰盛 壱岐前司後藤基政 内蔵権頭藤原親家(将軍近臣) 少卿武藤景頼 以上は騎馬 . 城四郎左衛門尉時盛 同、安達六郎顕盛 信濃次郎左衛門尉時清 大曽祢左衛門太郎 上総三郎左衛門尉義泰 周防五郎左衛門尉忠景 薩摩七郎左衛門尉伊東祐能 武藤左近将監兼頼 肥後三郎左衛門尉為成 鎌田三郎左衛門尉義長 常陸次郎兵衛尉行雄 鎌田次郎兵衛尉行俊 大泉九郎長氏 以上は歩行 . ※北條時忠: 北條朝直の二男。文永二年 (1265) 6月に引付衆となり宣時と改名する。 . ※城時盛: 安達義景の四男で泰盛の次弟。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 6月12日 庚寅 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 曇、夕刻に雨。山ノ内で遠笠懸を催し、刑部少輔北條教時、相模三郎北條時利、新相模三郎北條時村、武蔵五郎北條時忠などの十騎が的を射た。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 6月13日 辛卯 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 6月14日 壬辰 . 吾妻鏡 |
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晴。申刻 (16時前後) に将軍家が山ノ内 (最明寺) から御所に還御した。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 6月17日 乙未 . 吾妻鏡 |
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来る八月の鶴岡八幡宮放生会の御参宮に伴う供奉人に関し (選抜の) 了承を頂くため昨日小侍所から通例通り全ての該当者を記載した名簿を太宰権少弐 武藤景頼に提出したが、病気と称して返却された。 今日改めて武蔵守 北條長時に提出し処理を急ぐ旨の指示と共に了承を得た。記載の内容は次の通り。 . 相模太郎北條時宗 相模三郎北條時輔 武蔵前司北條朝直 同左近大夫将監北條時遠 .同北條五郎宣時 尾張前司北條時章 同左近大夫将監北條(名越)公時 遠江前司北條時直 同右馬助 越後守北條実時 陸奥六郎北條義政 同陸奥七郎北條業時 新相模三郎北條時村 中務権大輔北條教時 刑部少輔 遠江七郎北條時基 足利上総三郎吉良満氏 越前前司藤原親成 備前三郎 越後右馬助北條時親 駿河四郎北條兼時 同五郎宗兼 越後又太郎 民部権大輔 前太宰少弐狩野為佐 小山出羽前司小山長村 上野前司畠山泰国 同三郎国氏 出羽前司二階堂行義 同三郎左衛門尉(二階堂行藤?) 同七郎 丹後守安達頼景 秋田城介安達泰盛 同三郎(大室三郎?) 同四郎左衛門尉安達時盛 同六郎安達顕盛 和泉前司二階堂行方 同三郎左衛門尉二階堂行章 上総介千葉 頼胤 同太郎左衛門尉(千葉宗胤?) 同三郎左衛門尉(胤泰?) 下野前司下野前司宇都宮泰綱 同四郎貞綱 尾張権守 少卿武藤景頼 同次郎左衛門尉(武藤景泰?) 越中前司 同四郎左衛門尉 伊賀前司 石見守 壱岐前司後藤基政 同新左衛門尉 大隅前司嶋津忠時 同修理亮 日向守 周防守 同三郎左衛門尉 同五郎左衛門尉 対馬守 内蔵権頭 参河前司新田(世良田)頼氏 上野前司梶原景俊 同太郎左衛門尉景綱 同三郎左衛門尉景氏 石見前司大江能範 長門前司 同三郎左衛門尉 信濃守 筑前次郎左衛門尉 同四郎左衛門尉 三浦遠江新左衛門尉 三浦介盛時六郎左衛門尉 那波刑部少輔 長井判官代 千葉介 摂津大隅前司 縫殿頭 式部太郎左衛門尉 同兵衛次郎 武石三郎左衛門尉 風早太郎 太宰次郎左衛門尉 阿曽沼小太郎 千葉七郎太郎 上野五郎左衛門尉 小田左衛門尉 河越次郎 大曽祢左衛門太郎 相馬次郎兵衛尉 同五郎左衛門尉 後藤次郎左衛門尉 土肥左衛門四郎 武藤左近将監 鎌田次郎兵衛尉 淡路又四郎 出羽弥籐次左衛門尉 伊東八郎右衛門尉 小野寺新左衛門尉 鎌田三郎左衛門尉 足立太郎左衛門尉 同三郎 天野肥後新左衛門尉 田中左衛門尉 茂木左衛門尉 常陸太郎左衛門尉 同八郎左衛門尉 同修理亮 佐々木孫四郎左衛門尉 薩摩七郎左衛門尉 同九郎 伊勢次郎左衛門尉 内藤肥後六郎左衛門尉 大須賀新左衛門尉 同四郎 式部六郎左衛門尉 伊東六郎左衛門次郎 塩屋周防兵衛尉 善右衛門尉 同五郎左衛門尉 狩野五郎左衛門尉 武田五郎三郎 小笠原六郎三郎 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 6月18日 丙申 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 6月19日 丁酉 . 吾妻鏡 |
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放生会に伴う供奉人について、各々を招集する旨を通告した。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 6月24日 壬寅 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 7月 4日 辛亥 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 三善六郎左衛門次郎を八幡宮放生会供奉人の「直垂を着す者」の名簿に加えるよう (将軍家からの) 仰せがあった。担当奉行は 二階堂行方。 . 今日、将軍家 宗尊親王が百日の御鞠※を始められた。参加者は次の通り。 . 土御門中納言顕方卿 花山院宰相中将長雅卿 刑部卿宗教卿 (上級者) 前兵衛佐忠時朝臣 刑部少輔北條教時 右馬助清時 上野五郎兵衛尉広綱 同十郎朝村 計数担当は賢寂。 . . ※百日の御鞠: 百日間、毎日続ける蹴鞠らしい。建仁元年 (1201) 7月10日にも当時の二代将軍 頼家が同じ蹴鞠の集いを催した記録がある。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 7月10日 丁巳 . 吾妻鏡 |
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評定あり。名字の地を質草として預けた所領についてはその土地を管理する者に償いをするよう定めてある。泉又太郎蔵人義信と安房四郎頼綱が争っている下野国栃本郷※について、頼綱がこの土地を質券に入れたため既に所有権が移っている。 慣例に従って倍額とし、百貫文の銭を早急に義信に引き渡すべし、と。 . .
※栃本郷: 私が利用している伏見本は 「栃本」 なのだ
が他の写本は全て 「栃木」 になっているらしい。下野国の国府も 国分寺も 栃木市にある (厳密には、国庁跡は栃木市に、国分寺と国分尼寺は下野市にあり、東山道が通過していた) のだから、これは多分栃木郷が正しいのだろう。
.. 参考資料は ①下野国の東山道ルート、および ② 国庁跡、国分寺と国分尼寺跡、下野薬師寺跡、龍興寺のレポート で。②は、右上画像からのリンクもできる。共に別窓で拡大表示。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 7月11日 戊午 . 吾妻鏡 |
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相模太郎殿 (北條時宗) が体調不良のため祈祷を催した。 . . ※相模太郎殿: 相手は皇室でも貴族でもない上司の、満七歳の子供だよ。同じ陪臣の息子なの に「殿」を付けるのか!権力を握った陪臣の堕落と部下の忖度! . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 7月15日 壬戌 . 吾妻鏡 |
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御所で当座の御歌合※があった。 . . ※当座の歌合: 当座は即興の題、その場で題を出し即興で詠む。歌合は詠み人を二組に分け、 詠んだ和歌の優劣を一番ごとに競うゲームだ。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 7月18日 乙丑 . 吾妻鏡 |
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相模太郎 北條時宗殿の体調不良は特に大事にはならなかった。
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 7月22日 己巳 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 7月23日 庚午 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 7月24日 辛未 . 吾妻鏡 |
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孫五郎左衛門尉相馬胤村※が放生会の供奉人辞退を申し出た。 「老齢と病気に苦しんでいる上に九月九日 (重陽節) には定役 (公的な任務) の流鏑馬があり、加えて放生会の流鏑馬にも突然の役務が課せられているため供奉を辞退したい」、と。 . ※相馬胤村: 千葉 (相馬) 師常─義胤─胤綱─胤村と続く相馬氏嫡流。父の胤綱には先妻が産ん だ嫡子の胤氏がいたが、後妻の相馬尼 (天野政景の娘で胤村の生母) が胤氏を勘当して強引に惣領権を奪った、と。天野氏は相馬尼を介して相馬一族の支配権を手に入れたらしい。 .. 結果として相馬胤村の辞退は認められず、先陣の随兵四番手に名を連ねている。ただし胤氏の惣領権は認められ、胤村の没後は後妻が惣領代となったが後妻の息子師胤の惣領権は認められなかったという、当時は結構多いトラブルだった。 . 一方で宇佐美祐泰は、努力 (笑) の甲斐あって御後、五位の供奉人として行列に加わった。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 7月29日 丙子 . 吾妻鏡 |
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宇佐美祐泰は猶も供奉人に加わる手立て※を探っている。 . . ※加わる手立て: これは24日の記事と整合しないけど? . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 8月 1日 丁丑 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 暴風雨の後に快晴。諸国の田畑がことごとく水没した。 . . ※神明鏡: 8月1日は激しい風で2日は大洪水、大飢饉をもたらすだろう。 . ※百錬抄: 豪雨と強風により各地の建物が倒壊、安嘉門 (大内裏の北西) が転倒した。 . ※8月1日: 西暦の8月30日に該当、台風が日本列島を縦断したか。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 8月 5日 辛巳 . 吾妻鏡 |
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激しい雨。 (将軍家の上洛に伴う) 六波羅御所の移転について評議あり。陰陽師の安倍晴茂、為親、晴憲が連署して工事を実施する日時の上申書を提出した。
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 8月 6日 壬午 . 吾妻鏡 |
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日向前司 宇佐美祐泰を布衣の供奉人数に加えるようにとの仰せがあり、その奉書が少卿 武藤景頼を経由して越後守 北條実時に届けられた。 . . ※供奉行列: 建保六年 (1218) 7月8日の吾妻鏡には実朝の八幡宮参拝の随兵に関し官位が上の 三浦義村と年長者の長江明義の間で序列の譲り合いがあったと記録している。 .また宝治元年 (1247) 11月16日には八幡宮放生会の随兵に関して、波多野義重と 三浦盛時の間で序列の奪い合いが発生している。 . 前の例では実朝が「若年の義村には次の機会があるだろう。今回は高齢の明義が左 (上位) に並んで、子孫の誉れにせよ」と決裁した。 . また後の例では三浦盛時が「家格は自分の方が上なのに片眼の波多野義重より下なのは承服できない」と主張、義重は「片眼は軍功の印、家格など関係ない」と反論した。 . この時は 北條重時と 北條時頼が相談して双方を宥め「五位の義重が上位」との序列に変更はなかった。随兵の編成を決める根拠として当初は官職や年齢や家の規模などが考慮されたが、後には官位に依拠するようになる。価値観の推移を物語るようで面白い。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 8月 7日 癸未 . 皇年代略記 |
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皇太弟 (天皇の弟で皇位継承予定者。現行法では認めていない) として恒仁親王 (後の第90代亀山天皇 11歳) を擁立した。 . ※五代帝王物語: 後嵯峨院の第六皇子恒仁親王が春宮 (皇太子) に。御年10歳、大宮院の御腹。 . . 後嵯峨上皇と皇后の大宮院は、正元元年 (1259) 11月に89代後深草天皇 (17歳) から溺愛した90代亀山天皇に譲位させた。後嵯峨法皇崩御後の文永十一年 (1274) には法皇の遺志を継ぐ形で、年長の後深草上皇の皇子 熈仁ではなく亀山天皇の皇子 世仁親王が91代後宇多天皇となる。 .. 当然ながら後深草上皇は不満を抱く。後深草系の持明院統 と 亀山系の大覚寺統の間に生まれた対立は鎌倉幕府の調停を受け入れ、概ね十年サイクルでの皇位交代を認めたのだが... . 第96代 後醍醐天皇 (大覚寺統) は持明院統への帝位譲渡を拒否、独裁と失政を経て南北朝時代の混乱に突入する。更に詳細は「天皇家の系図」を参照されたし。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 8月 8日 甲申 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 8月15日 辛卯 . 吾妻鏡 |
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雨。鶴岡八幡宮の放生会、将軍家 宗尊親王の御参宮あり。
.. 供奉人行列 . 先陣の随兵 武田三郎政綱 小笠原三郎政直 千葉介頼胤 相馬孫五郎左衛門尉胤村 大隅修理亮嶋津久時 常陸次郎兵衛尉行雄 武蔵五郎時忠 備前三郎長頼 相模三郎時利(時輔の初名) 新相模三郎北條時村 . 次に前駈 周防五郎左衛門尉忠景 式部兵衛次郎光長 上総三郎左衛門尉義泰 城六郎顕盛 肥後六郎左衛門尉内藤時景 土肥四郎定綱 一宮次郎左衛門尉康有 肥後三郎左衛門尉為成 左衛門四郎狩野景茂 大泉九郎長氏 平賀四郎泰定 以上は帯剣して直垂、御車の左右に列す。 . 御劔役人 武蔵前司北條朝直 御調度役 武蔵次郎左衛門尉景泰 . 御後 五位 (布衣、下括り) 遠江前司北條時直 越後守定時 越前前司時弘 刑部少輔教時 尾張左近大夫将監公時 武蔵左近大夫将監時仲 中務権大輔家氏 下野前司宇都宮泰綱 壱岐前司後藤基政 和泉前司二階堂行方 内蔵権頭藤原親家 縫殿頭中原師連 周防前司嶋津忠綱 上総前司大曽祢長泰 信濃前司佐々木泰清 日向前司宇佐美祐泰 . 六位(布衣・下括り) 陸奥七郎北條業時 佐渡五郎左衛門尉基隆 式部太郎左衛門尉伊賀光政 左衛門尉梶原太郎景綱 新左衛門尉小野寺行通 壱岐新左衛門尉基頼 左衛門尉上総太郎長経 左衛門尉城四郎時盛 左衛門尉長谷部次郎義連 肥後次郎左衛門尉為時 左衛門尉鎌田三郎義長 . 御笠手長(笠の支え紐持ち) 右近将監武藤頼村 兵衛尉行鎌田次郎俊 . 後陣の随兵 遠江右馬助北條清時 民部権大輔北條時隆 三浦介六郎頼盛 左衛門尉足立太郎直元 下野四郎宇都宮景綱 薩摩七郎左衛門尉伊東祐能 上野五郎兵衛尉結城重光 阿曽沼小次郎光綱 新左衛門尉大須賀朝氏 左衛門尉伊東八郎祐光 . 将軍家は廻廊の簾中で舞楽を観覧。相模守 北條政村、武蔵守 北條長時、武蔵前司北條朝直、大隅前司藤原親員、石見前司大江能行、上野前司宗俊らが御前に控えた。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 8月16日 壬辰 . 吾妻鏡 |
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雨。将軍家が鶴岡八幡宮寺に御参宮。馬場での流鏑馬以下の神事は通例の通り、行事の終了後に還御した。 . 相州禅室 北條時頼が桟敷を退去した後の秉燭 (夕暮れ) の頃、伊具四郎入道※が山内の家に帰る途中の建長寺前で射殺された。蓑笠を着けた騎馬の人物が部下一人を連れて伊具の左側※を (すれ違う形で) 駆け抜け、伊具の従者は田舎から鎌倉に入る者かと思ったが (主人の) 落馬を見て矢を受けたと気付いた。鏃には毒が塗ってあった、と。 . . ※伊具四郎: 北條義時の六男で側室が産んだ 北條有時を祖とするのが伊具氏で、四郎の素性は 確認できない。伊具氏の本領は陸奥国伊具郡 (宮城県南部の丸森町一帯、地図) 。有時は病弱で政治に関与せず、北條一族の中では家格が低かった。
.※伊具の左側: 伊具から見て左側を駆け抜ける (擦れ違う) のは騎射に適しているから。 通常なら「敵意あり」と判断されるが、従者は「鎌倉の通例を知らぬ田舎者か」と考えたらしい。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 8月17日 癸巳 . 吾妻鏡 |
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晴。伊具入道殺害の嫌疑により諏方刑部左衛門入道を拘束して対馬前司 佐々木氏信に召し預けた。 .また平内左衛門尉俊職 (平判官康頼入道 (後白河法皇の側近) の孫) と牧左衛門入道の共謀が露見した。 . 両名は昨日諏方刑部宅で落ち合って終日閑談しており、伊具が帰宅する時間を知った諏方刑部は突然座を起って伊具を射殺した後に戻って酒宴を続けた、と証言した。 この殺害事件は諏方の旧領を伊具に与えたことを発端にして確執が現在まで続いており、犯行の様子からも諏方の行為は既に明らかである。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 8月18日 甲午 . 吾妻鏡 |
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晴。諏方刑部左衛門入道を拘留して尋問したが白状する気配がないため、従者 (名を高太郎) を拘束して尋問したが答えようとしない。「主人は既に白状した」と説得しても「尋問は恥辱と考えて白状したのかも知れないが、それなら私に聴く必要などない」と突っぱねた。これ以上の尋問は不要である。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 8月19日 乙未 . 吾妻鏡 |
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曇。 今月七日に当帝の御弟 (10歳) が御立坊 (立太子) したとの報告が今日京都から届いた。 (8月7日を参照) . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 8月20日 丙申 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 8月28日 甲辰 . 吾妻鏡 |
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晴。戌刻 (20時前後) に螢惑 (火星) が南斗 (射手座) の第五星の軌道を犯した。同時に大流星 (長さ四丈余四尺、12m×1.2m) が乾 (北西) から巽 (南東) に飛んだ。
.. 今日の評定で将軍家 宗尊親王の御上洛が延期された。凶作による庶民の苦しみへの配慮である。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 9月 2日 戊申 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 終日終夜雨と強風。今日、諏方刑部左衛門入道が梟罪 (斬首と晒し首) に処された。主従共に犯行を自供しなかったが相州禅室 北條時頼が思慮した末に諏方一人だけを御所に呼び次の様に説得した。 . 将軍家も殺害を嘆いている上に所従の高太郎も自白を拒んでおり、評定では二人とも斬刑は避けられないと決まったのは甚だ残念である。ありのまま真実を話せば斟酌して所従高太郎の助命を考慮しよう。 .諏方は喜んで涙を抑え、兼ねてから遺恨があり宿意を果たした、と申し述べた。時頼の慈愛は中国の古典にも通じる深さだが犯行は明白であり、断罪しなければ天下の理非が乱れてしまうから 糾弾せざるを得ない。 . また平内左衛門尉俊職と牧左衛門入道は流刑となった。俊職は公人※としてこの犯罪に関与したのは重罪であるとして硫黄嶋に配流となった。治承の時代には祖父の康頼※がこの島に流され、正嘉の今になって孫の俊職も同じ島に配流となるのは宿縁と言うべきだろうか。 . . ※公人: 一般的には幕府の組織に所属する下級職員だが、承久の乱 (1221年) の際に俊職は父の . ※祖父康頼: 史書に載る最初は仁安元年 (1167) 12月。主人の平保盛が尾張国司に任じ、僅か 22歳の康頼を目代として現地に派遣した。この少し前に保盛から平を名乗る許可を得たらしい。 .
康頼は知多郡野間で没した敵将 源義朝 (頼朝の父) の墓が荒れ放題な事に心を痛め、新たに堂を建てて僧を置き寺領に水田30町を寄進して菩提を弔った。
. 右は知多の大御堂寺 (野間大坊) に残る義朝 の墓所。 クリック→ 別窓の詳細ページへ . この噂を耳にした 後白河法皇は康頼を近習に取り立てて検非違使 左衛門大尉に任じた。 そして安元三年 (治承元年、1177年) には 鹿ケ谷の陰謀 に関与して俊寛らと共に 鬼界ヶ島 に流された。治承二年 (1178) には赦免されて帰洛したが、一方の俊寛は許されないまま現地で死亡している 。 . 平家滅亡後の文治二年 (1186) 閏7月22日の吾妻鏡には義朝の墓を守った褒賞として阿波国麻殖保の保司に取り立てられた、との記事が載っている。 . ただし同じ吾妻鏡の建久元年 (1190) 10月25日には治承二年とは食い違う記述があり (下に添付) 、吾妻鏡の編纂者が話を面白く作り替えた可能性もある。 . (上洛途上の) 頼朝は尾張の御家人 須細治部大夫為基の案内で義朝廟堂を参拝。 .荒れ果てた姿を想像したが、荘厳な寺で多数の僧が読経していたため仔細を尋ねると、前の廷尉平康頼法師 (元平家の家人で無官の散位 の配慮だった。頼朝は感心して数々の寄進を行なった。 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 9月21日 丁卯 . 吾妻鏡 |
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諸国で悪党の蜂起が頻発しているとの情報があり、特に警備を強化するための評議を重ねた結果 今日諸国の守護人宛に御教書を発行した。内容は次の通り。
. 国々の悪党に対応する警固の件 . 諸国で悪党が蜂起し 夜討ち、強盗、山賊、海賊を企てているとの情報がある。凶悪な行動は懲罰し見過ごしてはならない旨は兼ねてよりの命令であり、警備の強化が求められている。実行犯は身柄を拘束して送致せよ。 .. 権門勢家 (権力や勢力のある家柄) の領地であっても守護人の命令に従わず悪党を拘惜 (保護隠匿) した場合は報告し適正な罪科を受けることとなる。以上の内容を国中に周知し対処させるよう命令する。 正嘉二年九月二十一日 武蔵守北條長時 相模守北條政村 某殿 |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 9月29日 乙亥 . 吾妻鏡 |
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過ぎ行く九月を惜しみ、御所で当座※の和歌御会が催された。 . . ※当座: 即題、その場で題を出し即興で詠むこと。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 10月12日 丁亥 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。今日の評議で次の様に将軍家の仰せがあった。 . . . ※嘉禄~仁治: 北條泰時が執権だった時代。実朝の治世は建仁三年 (1203) ~建保六年 (1218) . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 10月16日 辛卯 . 吾妻鏡 |
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朝のち晴、巳刻 (10時前後) から豪雨による洪水で家屋の流失と人命の被害があり、午刻 (正午前後) になって晴れた。子刻 (正午時前後) に皆既月食 (百錬抄の記事を引用) を観測した。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 11月19日 甲子 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 12月 9日 甲申 . 吾妻鏡 |
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鶴岡八幡宮で諸神を供養する楽曲の供養を行なった。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 12月10日 乙酉 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 今後は主従敵対 (家臣が主人を訴える事) は理非を論ぜず (正当か否かは不問) 受け付けないと定めた。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 12月12日 丁亥 . 吾妻鏡 |
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寅刻 (早暁4時前後) に雷鳴あり。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 12月14日 己丑 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 12月16日 辛卯 . 吾妻鏡 |
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晴。寅刻 (早暁4時前後) に地震、巳刻 (10時前後) に雷鳴が数回に及んだ。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 12月19日 甲午 . 吾妻鏡 |
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歳末を迎えるに当たり、諸方の番帳 (各部署の勤務者名簿) を整理し清書した。廂衆の勤務表については特別の仰せに従って秋田城介 安達泰盛が御所で整理し清書した。 . . ※廂衆: 正嘉元年 (1257) 12月に設けた組織の職名 (廂番とも) 。勤務表を定めて将軍の廂御所 に宿直し警固する任務で1組は10人、6組の構成とした。文応元年 (1260) には1組を12人に増員する。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 12月20日 乙未 . 吾妻鏡 |
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将軍家 宗尊親王がやや体調不良。
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. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
. 12月21日 丙申 . 吾妻鏡 |
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晴。将軍家の体調が平癒した。 . |
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. 2025年12月20日 . . |
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16時、正嘉二年 (1258年) が終了。修正箇所は結構多かったが予想より順調に進んだ。正嘉二年は中身が結構濃い年だったし、その意味では嬉しい誤算だった。 .
庭の柑橘類。ミカンが終って、レモンが終って、筑波ミカン (これ、用途なし) とキンカンと八朔 (右画像、30ヶほどかな) が残っている。. キンカンは妻が 「もう少し完全に熟してから食べる」 と言ってるし、ハッサクの方は 「畑の白菜はせいぜい5~6株の収穫だから、もう少し熟してから冷凍しておけば間に合う 」 ということらしい。 . 大根とカブと白菜の漬物が美味しく出来上がれば、冬の寒さも我慢できる。今年の正月は漬物と、炊き込み御飯と、日本酒と、ビールと、自家製梅酒 (ソーダ割とお湯割り) で静かに過ごそう。 . |
. . 89代 後深草天皇 上皇は 後嵯峨 |
正嘉二年 . 月 日 . 吾妻鏡 . |
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正嘉二年 . 月 日 . 吾妻鏡 . |
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正嘉二年 . 月 日 . 吾妻鏡 . |
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