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建長八年 (1256年) 、10/5 に改元して康元元年
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前年・建長七年 (1255年) の吾妻鏡 へ       翌年・康元二年 (1257年) の吾妻鏡
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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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1月 1日 癸巳
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。相模守 北條時頼の沙汰による椀飯の儀あり。相模守、陸奥守 北條重時以下の人々が布衣 (狩衣、略礼服) を着して出仕し通例の通り庭に列座した。
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 前右馬権頭北條政村       武蔵守北條朝直        遠江守北條時直
 尾張前司北條時章        越後守北條実時        相模式部大夫北條時弘(時広)
 中務権大輔足利家氏       相模右近大夫将監北條時定   越後右馬助北條時親
 刑部少輔北條教時        遠江右馬助北條清時      陸奥弥四郎北條時茂
 同、北條六郎義政        同、北條七郎業時       足利次郎顕氏
 同、足利三郎利氏        駿河四郎北條兼時       尾張次郎北條(名越)公時
 武蔵四郎北條時仲        同、三郎           遠江太郎北條清時
 越後又太郎           遠江七郎北條時基       備前三郎北條長頼
 上野前司畠山泰国        長井太郎時秀         秋田城介安達泰盛
 同、安達(大室)三郎        遠江太郎北條清時       同、遠江三郎
 長井三郎蔵人          同判官代長井泰茂       出羽前司二階堂行義
 和泉前司二階堂行方       足利上総三郎満氏       安芸前司親光
 出羽前司小山長村        越中前司宇都宮(横田)頼業    大蔵権少輔結城朝広
 若槻伊豆前司若槻(森)頼定     左近大夫那波政茂       前太宰少弐狩野為佐
 参河守新田頼氏(世良田義季の子)  大隅前司嶋津忠時       三浦介佐原盛時
 周防守島津忠綱         日向守宇佐美祐泰       摂津大隅守嶋津忠時(重複か)
 上総介大曽根長泰        武蔵左衛門尉         上野右衛門尉
 左衛門尉大曽祢次郎盛経     隠岐三郎右衛門尉二階堂行氏  左衛門尉小野寺四郎通時
 左衛門尉大須賀次郎胤氏     左衛門尉伊賀次郎光房     筑前次郎左衛門尉二階堂行頼
 七郎左衛門尉          肥後次郎左衛門尉天野景氏   縫殿頭
 和泉次郎左衛門尉二階堂行章   左衛門尉遠江三郎泰盛     式部太郎左衛尉伊賀光政
 左衛門尉鎌田三郎義氏      新左衛門尉小野寺行通     兵衛尉鎌田次郎行俊
 肥後弥籐次           伯耆左衛門三郎清経      遠江十郎左衛門尉頼連
 武藤次郎兵衛尉         上総太郎左衛門尉       大曽祢次郎兵衛尉
 左近将監武藤景頼        大曽祢五郎兵衛尉       出羽三郎二階堂行資
 内藤権頭資親          遠江三郎左衛門尉泰盛     伊勢次郎左衛門尉二階堂行経
 土屋弥三郎           鎌田新左衛門尉        土屋新三郎光時
 平賀新三郎惟時
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今日、予定の時刻を報告したにも拘らず将軍家 宗尊親王が御歓楽により御簾を下げたままで (献上の) 御剣は簾中に押し入れた。
(献上の役)  御剣は前右馬権頭 北條政村、御弓箭は武蔵守 北條朝直、御行騰は出羽前司 二階堂行義
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   一の御馬は 陸奥弥四郎時義     と 同六郎兵衛尉義政
   二の御馬は 大曽祢次郎左衛門尉盛経 と 同、五郎兵衛尉
   三の御馬は 三浦三郎左衛門尉泰盛  と 同、十郎左衛門尉頼連
   四の御馬は 薩摩七郎左衛門尉祐能  と 同、八郎祐氏
   五の御馬は 足利次郎兼氏      と 工藤次郎左衛門尉高光
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   ※御歓楽: 吾妻鏡の種本によって「御歓楽のため」の文言は使われていない。新年には「病」は
忌み言葉なので言い換えた、または快楽や淫楽を意味するらしい。将軍の病気を放置はしないだろうから後者か、邪魔したら不忠か (笑)、これはゲスの勘繰りか?
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   ※年令: 六代鎌倉将軍 宗尊親王 (第88代後嵯峨天皇の第一皇子) は建長四年4月に着任、14歳、
五代執権 北條時頼 28歳、連署は六波羅北方から転じた 北條(極楽寺)重時 58歳、
後任の六波羅北方は重時の嫡子で後に六代執権になる 北條(赤橋)長時 25歳、
七代執権になる 北條政村 51歳、 八代執権になる 北條時宗 今年6月で満6歳、
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安達泰盛 25歳、 千葉頼胤 16歳、 足利泰氏 39歳、 吉良(足利)家氏 44歳、
小山長村 39歳、 結城朝広 65歳、宇都宮泰綱 53歳、
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浄土真宗 親鸞は82歳、 天台宗寺門派 (園城寺) の隆弁は47歳、 真言律宗 叡尊 55歳、
真言律宗 忍性は39歳、法華宗 日蓮は34歳、
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89代 後深草天皇は13歳、 先帝の 後嵯峨上皇は35歳、摂政太政大臣 鷹司兼平は28歳、
太政大臣 西園寺実氏は62歳、関白の 二条良実 (37歳) は宮騒動 (Wiki) の余波で辞任となったが、弘長元年 (1261) には関白に復帰する。関東申次は西園寺家の世襲となる。
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以後の朝廷は 五摂家 (近衛家、一条家、九条家、鷹司家、二条家) の合議分担体制となる。
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                     (表示は全て 1/1時点の満年齢)
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   宝治合戦 (1247年) で三浦一族が滅亡した後に執権 時頼 は極楽寺流の祖 北條重時を六波羅の
北方から呼び戻して連署に任命した。
六波羅北方の後任は (赤橋) 長時。重時は建長八年 (1256) に出家して政界を退き、時頼の後継は六代 (赤橋) 長時と七代 政村を経て八代 時宗 (建長三年、1251年誕生) に続く。
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強権を握った時頼は弘長三年 (1263) 11月に36歳で死没、5年後の文永五年 (1268) 3月に次期執権に就かせる時宗の道筋を見届ける如き最期を迎える。それにしても、三代泰時 (58歳で病死) 以後の義時直系 (北條嫡流) 執権の寿命は驚くほど短い。
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四代経時 23歳、五代時頼 36歳、八代時宗 33歳、九代貞時 40歳、十代師時 35歳。本当に激務の故か、繰り返した血族結婚の弊害か、怨みを抱きつつ滅ぼされた人々の祟りだろうか。
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嫡流以外の執権および鎌倉陥落と運命を共にした高時と貞顕と守時の没年は次の通り。
六代長時 34歳、七代政村 68歳、十一代守宣 52歳、十二代煕時 36歳、十三代基時 46歳、十四代高時 29歳、十五代貞顕 56歳、十六代 守時 37歳 、
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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1月 2日 甲午
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吾妻鏡
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晴。相模守 陸奥守北條重時の沙汰による椀飯あり、中納言土御門顕方卿(直衣)が御簾を上げた。
武蔵守北條朝直が御剣を、刑部少輔北條教時が弓箭を、秋田城介安達泰盛が御行騰と沓を献じた。
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  一の御馬は 尾張次郎北條(名越)公時    と 同、三郎頼章
  二の御馬は 肥後次郎左衛門尉為時    と 伊東三郎
  三の御馬は 三浦遠江三郎左衛門尉泰盛 と 同、五郎左衛門尉
  四の御馬は 上野太郎景綱(梶原景時景茂-景俊-景綱と続く)  と、
        左衛門太郎梶原景基(景綱の従兄弟)
  五の御馬は 陸奥弥四郎北條時茂     と 同七郎業時(重時の四男)
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   ※椀飯 (おうばん) :饗応のための献立、食事を摂る儀式や行事。大判振る舞い、の語源。
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   ※行騰 (むかばき) と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。 画像 (Wiki) を参考に。
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   ※三浦泰盛: 三浦義明→ 三男 (佐原)義連→ 嫡男 遠江守三浦盛連→ 嫡男 盛時と続く。この盛時
の子か甥が三郎泰盛らしい。苦労して追い掛けるほどの人物ではなかった。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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1月 3日 乙未
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吾妻鏡
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晴。足利頼氏 (利氏) の沙汰による椀飯があり、中納言土御門顕方卿 (直衣) が御簾を上げた。
越後守 北條実時が御剣、下野前司 宇都宮泰綱が弓箭、和泉前司 二階堂行方が御行騰と沓を献じた。
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   一の御馬は 越後又太郎      と 大平左衛門太郎
   二の御馬は 遠江三郎左衛門尉泰盛 と 同、十郎左衛門尉頼連
   三の御馬は 上野太郎梶原景綱   と 同、左衛門梶原三郎景氏
   四の御馬は 兵衛尉尾藤次郎景氏  と 備前左衛門三郎
   五の御馬は 足利次郎兼氏(足利泰氏の次男渋川義顕の初名) と 新田次郎(政氏?)
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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1月 4日 丙申
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吾妻鏡
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早朝に相模守北條時頼が御的始めの射手22人の名簿を披露したが、賛否があって纏まらなかった。
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(参加を) 了解した人々。
早河次郎太郎祐泰  工藤八郎四郎朝高 布施弥三郎 新兵衛尉岡本重方 平嶋弥五郎助経
横溝七郎五郎忠光  多賀谷弥五郎重茂 小嶋又次郎 左近将監深澤時親 左衛門尉大瀬三郎惟忠
新左衛門平三郎頼経 海野助氏矢四郎  左衛門渋谷三郎太郎重村    南條兵衛六郎
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(参加に) 支障を表明した人々。
上野十郎結城朝村 遠江十郎左衛門尉(北條朝時の子か) 出羽七郎二階堂行頼 小笠原彦次郎政氏
南條八郎兵衛尉  兵衛尉河野五郎行眞        南條左衛門次郎   諏方四郎兵衛尉
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支障を申し出た者の中で結城朝村と河野行眞は欠席を許されず殿中で領状 (了解の書類) を提出させられた。他より優れた弓の名手なのが理由である。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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1月 5日 丁酉
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吾妻鏡
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晴。将軍家 宗尊親王が相模守 北條時頼邸に御行始め (外出初め) を行なうため今日出仕している85人の名簿を御確認され、38人に印を付けて供奉人とされた。従来の三年間は相模守 北條時頼が選んでいたが、今回は自らの選出を仰せられた。午刻 (正午前後) の出発である。
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 供奉人(布衣(略礼服・狩衣)・下括り)
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前右馬権頭北條政村  武蔵守北條朝直  尾張前司北條時章  遠江前司北條時直
越後守北條実時 相模右近大夫将監北條時定  刑部少輔北條教時  尾張次郎北條 (名越) 公時  陸奥弥四郎北條時茂 同、北條義政  同、七郎業時  武蔵五郎時忠  遠江太郎清時
中務権大輔足利家氏  足利次郎兼氏 同、三郎利氏  長井太郎時秀  出羽前司二階堂行義
前大蔵権少輔結城朝広  秋田城介安達泰盛 下野前司宇都宮泰綱  和泉前司二階堂行方
参河前司新田(世良田)頼氏  大隅前司嶋津忠時 縫殿頭 中原師連  遠江守光盛  上総介長泰  伊賀式部太郎左衛門尉光政  左衛門尉大曽祢四郎盛経 小野寺四郎左衛門尉通時
武藤左衛門尉景頼  同、次郎左衛門尉頼泰 出羽三郎二階堂行資
和泉次郎左衛門尉二階堂行章  隠岐三郎左衛門尉行氏  左衛門尉薩摩七郎伊東祐能
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  御引出物献上は通例の通り。
     御剣は中務権大輔足利家氏、砂金は刑部少輔北條教時と秋田城介安達泰盛
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     一の御馬は 尾張次郎北條(名越)公時     と 諏方三郎左衛門の尉盛経
     二の御馬は 遠江太郎北條清時       と 同、尾張次郎北條時通
     三の御馬は 筑前次郎左衛門尉二階堂行頼  と 同、筑前三郎二階堂行実
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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1月 7日 己亥
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吾妻鏡
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来る11日の年始の鶴岡八幡宮御神拝 供奉人を招集。布衣 (狩衣、略礼服) を着して出仕せよ、と。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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1月 9日 辛丑
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吾妻鏡
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由比ヶ浜に於いて御的初めの射手を選抜した。左右が各々九人、二射を五度づつ繰り返した。
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   一番  上野十郎結城朝村   vs 早河次郎太郎祐泰
   二番  岡本新兵衛尉重方   vs 平嶋弥五郎助経
   三番  河野五郎兵衛尉行真  vs 工藤八郎四郎朝高
   四番  布施三郎行忠     vs 横溝七郎五郎忠光
   五番  多賀谷弥五郎重茂   vs 藤澤左近将監時親
   六番  大瀬三郎左衛門尉惟忠 vs 新左衛門平三郎頼綱
   七番  小嶋弥次郎家範    vs 南條兵衛六郎
   八番  渋谷左衛門太郎朝重  vs 海野矢四郎助氏
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   ※各々九人: 八人づつ、計十六人だけど?
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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1月10日 壬寅
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吾妻鏡
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晴。相模守 北條時頼邸で評定始めあり。
前右典厩 北條政村以下が布衣を着して出仕し、盃酌は通例の通り。
御参宮始めを明日に控え改めて供奉人を招集、直垂を着し帯剣で参加せよ、と。殆どの者が承知を述べたが伊勢次郎左衛門尉二階堂行経は体調不良、遠江三郎左衛門尉三浦泰盛は遂に確答しなかった。
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御的始めを来る13日に控え、昨日の射手18人から選んだ10人を5組に割り振って通告し承諾を得た。
卯刻 (5時前後) までに東御門の陣屋に参集せよとの指示である。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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1月11日 癸卯
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吾妻鏡
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晴。辰刻 (朝8時前後) に太白 (金星) が辰方 (南東南) に現れ、終日天空を移動していた。
未刻 14(時前後) に将軍家 宗尊親王が鶴岡八幡宮に御参詣。
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  先ず御車
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    兵衛尉大曽祢五郎     左衛門尉上総太郎長経   左衛門大曽祢太郎長頼
    土肥四郎実綱       隠岐次郎左衛門尉清時   大見肥後四郎兵衛尉行定
    山内籐内左衛門三郎通廉  左衛門鎌田三郎義氏尉   平賀新三郎惟時
    土屋弥三郎        鎌田次郎兵衛尉行俊    肥後弥籐次
        以上は直垂を着して帯剣劔、御車の左右に列す。
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  御劔役人 前右馬権頭 北條政村
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  御調度役 隠岐三郎左衛門尉 二階堂行氏
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  御後
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    刑部少輔北條教時   相模式部大夫北條時弘(時広)   越後右馬助北條時親
    陸奥弥四郎北條時茂  同、七郎北條業時       尾張次郎北條(名越)公時
    武蔵四郎北條時仲   同、五郎北條時忠       遠江太郎北條清時
    駿河四郎北條兼時   備前三郎北條長頼       足利三郎頼氏(利氏)
    中務大輔足利家氏   出羽前司小山長村       足利上総三郎満氏
    出羽前司二階堂行義  三河前司新田(世良田)頼氏    和泉前司二階堂行方
    秋田城介安達泰盛   越中前司宇都宮(頼業)      長井太郎時秀
    周防前司島津忠綱   三浦遠江守光盛        大曽祢次郎左衛門尉盛経(御笠手長)
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    上総介大曽祢長泰   肥後次郎左衛門尉為時     式部太郎左衛門尉光政
    和泉次郎左衛門尉二階堂行章   薩摩七郎左衛門尉伊東祐能
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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1月12日 甲辰
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吾妻鏡
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晴。卯刻 (朝6時前後) に相模守 北條時頼邸の贄殿 (厨房) で、下男が一人寝たまま死んでいた。
これは30ヶ日の穢に該当する。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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1月13日 乙巳
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吾妻鏡
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晴。御的始めあり。射手は10人、二射づつ五度的を射た。
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   一番  早河次郎太郎祐泰   平嶋弥五郎助経
   二番  横溝七郎五郎忠光   多賀谷弥五郎景茂
   三番  河野五郎兵衛尉行眞  工藤八郎四郎朝高
   四番  藤澤左近将監時親   渋谷左衛門太郎朝重
   五番  海野矢四郎資氏    岡本新兵衛尉重方
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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1月14日 丙午
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吾妻鏡
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晴。陸奥守 北條重時が厨房に入った。前右典厩 北條政村、武蔵守 北條朝直、尾張前司 北條時章、掃部助 北條実時、出羽前司 二階堂行義以下の評定衆も同じく加わった。
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陸奥守重時からは「相模守 北條時頼は30ヶ日の穢により参加しないが、昨朝には子細を知らない者が屋敷に入ったため鎌倉中が蝕穢となった。従って出仕しても弊害はあり得ない事になる。」との言葉があった。
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内蔵権頭親家を介して参河守清原教隆を呼び質問したところ、「蝕穢は吉事の場合には影響がなく、重軽服 (服喪) の場合は吉事は憚られる。御出仕は何の問題はない。」と答えた。これにより、二階堂行義を派遣して相模守時頼に出仕を促した。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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1月15日 丁未
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吾妻鏡
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晴。重時の言葉を受け、今日相模守 北條時頼が出仕した。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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1月16日 戊申
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吾妻鏡
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越前兵庫助政宗が死没した (享年54) 。二番引付 (裁判担当) の右筆 (書記) である。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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1月17日 己酉
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吾妻鏡
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日向守宇佐美祐泰から愁訴があった。内容は以下の通り。
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今年最初の将軍家 宗尊親王出御の供奉人名簿に載ったが既に二度の出御があったのに五位と六位の中の招集から漏れている。
何かの理由があるのかと慌てて相模守時頼に聞いても「何事でもない、気にする必要なし」との返事で、更に女官を介して尋ねても「単純な漏れで、他にも同様の例がある」との返事だった。

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   ※宇佐美祐泰: 工藤祐経の弟 (異母弟だと思うが確証なし) で
伊東 (久須美、葛見荘) 北部を本領とした宇佐美祐茂→ 祐秀→ 祐泰と続く。
全国に広がる宇佐美氏発祥の地だ。
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右上は初代祐茂の本拠 宇佐美城址に残る墓所 クリック→別窓の詳細ページへ
  実際には津波などで周辺に散乱した墓石を集めた場所と推定されている。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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2月19日 辛巳
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吾妻鏡
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晴、丑刻 (14時前後) に雨。今日、将軍家 宗尊親王が二所詣に備えての精進潔斎を始めた。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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2月24日 丙戌
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吾妻鏡
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晴。右近大夫将監 北條時定朝臣が二所奉幣の御使として出発した。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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2月29日 辛卯
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吾妻鏡
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昨日から二日間続いた大雨により午刻 (正午前後) に洪水、更に落雷あり。
二所奉幣の御使として派遣された北條時定朝臣が鎌倉に帰着した。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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3月 9日 庚子
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吾妻鏡
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晴、夜になって雨。鶴岡八幡宮で仁王会を行なった。
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   ※仁王会: 仏教における国王のあり方について述べた経典「仁王般若経」を読誦する法会。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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3月11日 壬寅
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吾妻鏡
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晴、未刻 (14時前後) に雷鳴と小雨。酉刻 (18時前後) に陸奥守 北條重時が (連署) 辞職、落餝 (剃髪) 出家して観覺を名乗った (後に極楽寺の原型となる仏堂を創建して極楽寺観覚を称す) 。
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   ※重時辞職: 後任の連署には 北條政村が就任した。重時は熱心な念仏信者で、得宗専制よりも
泰時が確立した「執権中心の合議制」を重視していた。個人的には、もしも重時が執権だったら、との思いがある。独裁の弊害が避けられたのではないか、と。歴史に「もし」は無意味だが、少なくとも強権独裁に伴う流血の幾つかは避けられたのでないだろうか。
念仏宗や禅宗を散々に罵倒した日蓮が重時を「優れた人物」と評したのも面白い。
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また、この年11月には赤痢に罹病した執権 北條時頼が執権を含む全ての公職を北條長時 (時頼の妻の兄 (つまり重時) の次男) に譲って出家する。
ただし幕政の最高決裁権限は手放さず (朝廷における上皇を真似た) 専制による一種の「院政」を続ける事になる。資質としては重時の対極に位置する人物だ。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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3月16日 丁未
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吾妻鏡
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晴。伊賀前司時家の大倉邸から東三町 (300m) の人家が全焼。また相模守北條時頼が体調を崩した。
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   ※伊賀前司時家: 八田知家の七男か八男で高野氏の祖、本領は現在の栃木県壬生町 (地図)
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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3月27日戊午
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吾妻鏡
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晴。左近大夫将監 北條長時朝臣が京都から下着。去る20日に六波羅の勤務を辞して出京した。
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   ※北條長時: 北條重時の次男で嫡子。宝治合戦 (1247) 直後に六波羅北方だった父が新任の執権
北條時頼を補佐するため鎌倉に戻り、長時が後任を勤めた。
今回の鎌倉帰還は父を継ぐ準備として評定衆に任じるためで、後任の六波羅北方には弟の 北條時茂が任じている。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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3月30日 辛酉
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吾妻鏡
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晴。今日、出家した陸奥守 北條重時と交替する形で、前右馬権頭 北條政村が連署に任じた。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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4月 5日 丙寅
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北條九代記
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前右馬権頭 北條政村が陸奥守に任じた。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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4月10日 辛未
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吾妻鏡
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晴。武州前刺史禅室 (北條泰時を差す) の後室である 矢部禅尼が不食所労 (食物を受け付けない病気) により死去した (享年70) 。これにより相模守 北條時頼は50日の服喪となる。
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   百錬抄大宮院 (第88代後嵯峨上皇の中宮、皇太后) が皇子 (貞良親王、3歳で死没)を御産、
父の太閤已下 (西園寺実氏) が訪れた。
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   ※系譜詳細: 泰時と 三浦義村の娘 (矢部禅尼) の間に産まれた長男が 時氏、時氏と安達景盛の娘
(松下禅尼) の間に産まれた次男が五代執権時頼。
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時頼の実兄 四代執権 経時は 22歳で病没、当時 6才だった経時の長男 (後の隆政) を執権として時頼が補佐する選択肢もあったらしいが、前将軍 藤原頼経の動向が危ぶまれたため、北條一門と重臣の合議により病床の経時が時頼に禅譲した、とされている。しかし時頼の性格から考えても、自分の就任を強硬に主張し経時に譲歩を迫ったのが真実だろう。
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合議の前段階で既に重臣の根回しは済んでおり、経時が 6歳の嫡子隆政を主張してもムダだった。吾妻鏡は経時から時頼への執権継承を「神秘の御沙汰」と表現しているが、幾つかの偽装や改竄を指摘する歴史学者は多い。
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隆政は執権を継いだ時頼の意向で 隆弁の弟子として出家、23歳で死没している。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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4月13日 甲戌
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吾妻鏡
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晴、未刻 (14時前後) に雨。陸奥弥四郎 北條時茂 (16歳) が六波羅着任のため上洛の途に就いた。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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4月14日 乙亥
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吾妻鏡
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晴。新 陸奥守となった 北條政村が執権に着任してから最初の政所始めの儀が行われた。
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   ※陸奥守: 連署=陸奥守、執権=相模守が定着。時頼の11月執権辞任計画が動き始めたか。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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4月18日 己卯
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吾妻鏡
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駿河蔵人次郎経親が小侍所 (将軍側近の部署) の番帳 (勤務名簿) に加わった。組織の二番である。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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4月27日 戊子
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吾妻鏡
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晴。今日、陸奥弥四郎 北條時茂が入洛、六波羅の北亭に入った。
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   ※六波羅の北亭: 上位である北方の公邸に入ったという事か。六波羅の北方は 重時が1230~
1247年、長時が1247~1256年、時茂が1256~1270年。北方に空白期間はないが、南方は 時盛が1224~1247年、次の 時輔が1264~1272年で中間に空白がある。1242~1264年の22年間は北方に一本化していたらしい。
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   ※職責は:3月に出家した重時の後任連署に政村が就任、この時点で時頼はまだ執権に留任し
ている。六波羅北方の長時が鎌倉に戻って評定衆に着任、後任の北方は弟の時茂が就任した。
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建長八年 (1256) 11月、病気で時頼が辞任、六代執権は長時、連署は政村。
弘長三年 (1263) 11月、執権辞任後も序列一位を続けた時頼が死没。
文永元年 (1264) 8月、病気で長時が辞任。七代執権は政村、連署は時宗(14歳)。
文永五年 (1268) 3月、元寇に対応し権力統合のため時宗 が執権、政村は連署。
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時頼は一族の傍流や御家人からの反発を警戒して評定衆の下部組織に引付衆を設置し政治の公正を装っているが、時頼以後の幕政は得宗家および側近による完全な独裁体制になった。権力構造の硬直化も体制が崩壊に向かった要因の一つである。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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4月29日 庚寅
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吾妻鏡
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晴。今日 三番引付頭人などについて詳細を定めた。武蔵守 北條朝直を一番引付頭、前尾張守 北條時章を二番引付頭、越後守北條実時を三番引付頭人とする。
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   ※引付頭人: 引付衆は評定衆を補佐して訴訟と庶務を扱った部署、頭人は該当する番の首席。
最新の記録 建長六年 (1254) 12月1日では、一番頭人が 北條政村、二番が 北條朝直、三番が 北條時章、四番が 二階堂行方、五番が 二階堂行泰 になっており、今回の改編は政村の連署就任に伴う人事移動と判断できる。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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5月 1日 辛卯
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吾妻鏡
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引付人事改編後の引付業務が開始された。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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5月 5日 乙未
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吾妻鏡
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御所に於いて内輪の和歌御会あり。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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6月 2日 辛酉
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吾妻鏡
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奥大道で夜盗や押し込み強盗が頻発して旅人を苦しめている。再三の命令により警護に務めるよう (奥大道の) 経路に沿った地域の地頭 (以下に記載) に命令した。
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出羽前司小山長村  下野前司佐々木泰綱  阿波前司結城朝村
周防五郎兵衛尉(島津忠景)  氏家余三経朝の子孫
壱岐六郎左衛門尉朝清  同、七郎左衛門尉時重
出羽四郎左衛門尉中条光家  陸奥留守兵衛尉井沢恒家
宮城右衛門尉  和賀三郎兵衛尉  同、五郎右衛門尉
葦野の地頭  福原小太郎  渋江太郎兵衛尉  伊古宇又太郎
武蔵平間郷地頭  清久右衛門次郎  鳩井兵衛尉の子孫
那須肥前前司資村  兵衛尉宇都宮五郎泰親  岩手左衛門太郎
岩手次郎  矢古宇右衛門次郎  已上二十四人
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 御教書に云く、
奥大道の夜討ち強盗について近年に勃発しているとの情報がある。これは偏に地頭などの管理が行き届いていないのが原因である。
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早急に宿直人を配置して警護し怪しい者があれば自領か他領を問わず住民に起請文 (誓約書) を提出させて処理せよ。命令に従わない過怠などがあれば然るべき処分を下す。   将軍家の仰せに従って以上を通達する。
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      建長八年六月二日   相模守北條時頼(判 ) 陸奥守北條政村 (判) 某 (該当者) 殿
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   ※奥大道: (おくのたいどう、旧陸羽街道)は古代からの幹線
道路。白河関で下野国を離れ、陸奥国外浜 (青森県外ヶ浜町) まで、石那坂合戦場厚樫 (阿津賀志山) 合戦場多賀城国府平泉中尊寺碇ヶ関 を経由して陸奥国を縦断していた(地図) 。
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いまでは関山中尊寺専用の参道である 月見坂は奥大道の一部を兼ねていたのも面白い。
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  右上画像は奥大道の概略地図(クリック→拡大表示)
  右下画像は奥大道が通っていた中尊寺の参道入口。
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     青文字はいずれも、サイト内リンク 別窓表示

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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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6月 5日 甲子
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吾妻鏡
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御教書 (将軍名で発行した命令書) に違背した罪科は所領の没収であり、該当する場合は姓名を記録して提出するよう五方の引付に通告した。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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6月 7日 丙寅
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吾妻鏡
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雨。今年の大雨と洪水は例年を越えて頻発し、長く続いている寒気もまた尋常ではない。異常気候が長すぎるため鶴岡別当僧正 隆弁と左大臣法印厳恵らに命じて天下太平の祈祷を行わせた。
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去る寛喜二年 (1230) には冬の様な冷夏に襲われ、六と七両月の霜や雪による冷害に加えて八月には大風があり、翌年には飢饉によって多くの人命が失われた。
今年の異常気象は慎みの不足が原因だろうか。
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   ※寛喜の大飢饉: 執権 北條泰時の時代、寛喜二年から三年に続いた天候不順は全国的な不作を
招き、鎌倉時代を通じて最大規模の飢饉となった。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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6月 8日 丁卯
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吾妻鏡
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尾張三郎平頼章が死没(北條時章の二男)。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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6月14日 癸酉
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吾妻鏡
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晴。巳刻 (10時前後) に長さ五尺余 (150cm以上) の光る物体が現れた。最初は白鷺の姿に似て赤い火の様に変わり、飛び去った痕跡は白い布を引く如くだった。白昼に光り物が見えるのは異様で、中国の書籍には載っているが我が国での例はない。鎌倉だけでなく近国でも確認されている。
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   百錬抄今夕 天皇が閑院に還御。この日 石清水八幡宮の宝殿が鳴動。
午刻 (正午前後) に楼門上より白旗に似た物が飛び去ったとの報告があった。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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6月21日 庚辰
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吾妻鏡
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相模守 北條時頼の姫君が魚味を嘗め御う。
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   ※時頼の娘: 誕生は建長六年 (1254)10月6日、生母は正室 北條重時の娘。今年の10月13日に没
する。時頼の娘は彼女一人だけだった。「魚味を嘗め」は魚肉の食べ初め儀式。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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6月26日 乙酉
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吾妻鏡
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昨夜から雷雨。今日、相模守 北條時頼の服喪 (4月10日に祖母の 矢部禅尼が死没) が終わって出仕した。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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6月27日 丙戌
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吾妻鏡
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雨。奥州禅門 北條政村の息女 (宇都宮七郎経綱 (宇都宮泰綱の次男) の妻) が死去。先般流産した後に赤痢を患っていた。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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6月29日 戊子
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吾妻鏡
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放生会に際して鶴岡八幡宮への将軍家 宗尊親王の御参宮に供奉する者について、越後守 北條実時が通例に従って名簿を作成し、将軍家の確認を願った。
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  御点の散状、次第不同 (参加者リスト、順不同)
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陸奥守北條政村  同三郎時村(政村の嫡子)  武蔵守武蔵守北條朝直
同太郎朝房(朝直の長子、早世)  同四郎  同五郎  同八郎
北條六郎時定(時頼の同母弟)  遠江前司北條時直  同太郎清時  同次郎時通
相模右近大夫将監北條時定  陸奥左近大夫将監北條長時  同北條六郎義政  同七郎業時
越後右馬助北條時親  刑部少輔北條教時  遠江北條教七郎時基  越後守北條実時
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相模式部大夫北條時弘(時広)  同北條八郎時隆  駿河四郎北條兼時
備前三郎北條長頼  上野前司畠山泰国  同足利三郎 頼氏(利氏)  中務権大輔足利家氏
足利次郎兼氏  同足利 三郎頼氏(利氏)  上総三郎足利満氏
佐渡前司後藤基綱  同左衛門尉後藤五郎基隆  出羽前司二階堂行義  同次郎左衛門尉二階堂行有
同三郎左衛門尉二階堂行資  同七郎二階堂行頼  城次郎安達頼景  同三郎景村  同四郎時盛
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武藤少卿景頼  同次郎兵衛尉頼泰  秋田城介安達泰盛  千葉介頼胤
遠江守佐原 (蘆名)光盛  同三郎左衛門尉泰盛  三浦介三浦(佐原)盛時  同五郎左衛門尉
長井太郎時秀  前太宰少貳狩野為佐  同次郎左衛門尉為時  同三郎左衛門尉為成
下野前司宇都宮泰綱 同四郎景綱 同七郎経綱 和泉前司二階堂行方 同次郎左衛門尉二階堂行章
出羽前司小山長村 伊豆守若槻)森)頼定 日向守宇都宮祐泰 河内守祐村 同三郎左衛門尉祐氏
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筑前前司二階堂行泰  同次郎左衛門尉行頼  上総介大曽祢長泰   同太郎左衛門尉大曾祢長経
大隅前司嶋津忠時  同修理亮嶋津久時  周防守  同三郎左衛門尉
上野介梶原景俊  同太郎左衛門尉梶原景綱  越中前司宇都宮(横田)頼業  同右衛門尉
参河前司新田(世良田)頼氏  壱岐前司佐々木泰綱  那波左近大夫政茂  同、太郎  伊賀前司
壱岐前司後藤基政  同新左衛門尉  安芸前司親光  同右近大夫  長門守笠間時朝  伊勢前司
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対馬前司佐々木氏信  摂津大隅前司親員  縫殿頭中原師連  能登右近大夫  同右近蔵人
大曽祢次郎左衛門尉盛経 同太郎長頼 周防修理亮 左衛門尉小野寺四郎通時 同新左衛門尉行通
伊賀次郎左衛門尉   左衛門尉足立三郎元氏  同三郎  大見肥後次郎左衛門尉  同四郎兵衛尉
左衛門尉薩摩七郎祐能  和泉五郎左衛門尉天野政泰  同六郎左衛門尉景村  肥後次郎左衛門尉
左衛門尉狩野五郎為広  同太郎  左衛門尉足立太郎直元  信濃四郎左衛門尉二階堂行忠
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右近将監武藤景頼  左衛門尉土肥三郎惟平  同、次郎兵衛尉朝平  同四郎実綱
阿曽沼小次郎光綱  伊豆太郎左衛門尉実保  左衛門尉茂木太郎知定  常陸太郎左衛門尉
左衛門尉宇都宮五郎泰親  同次郎左衛門尉  同八郎左衛門尉  同修理亮
常陸次郎左衛門尉佐竹行清  新左衛門尉山内成重  山内籐内左衛門尉通重
左衛門尉大須賀次郎胤氏  同新左衛門尉朝氏  紀伊次郎左衛門尉為清  河越次郎経重
小山七郎宗光  進三郎左衛門尉宗長  伯耆三郎左衛門尉時清
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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7月 5日 癸巳
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吾妻鏡
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尾張右衛門太郎と子息の五郎が小侍所 (将軍の供奉と警護役) に加わる旨を 武藤景頼が小侍所に通知した。

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   ※尾張太郎: 熱田神宮家の後裔だと思うが、追跡不可。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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7月 6日 甲午
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吾妻鏡
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朝は雨、辰刻 (朝8時前後) に晴れ、夕刻に再び雨。今日、前武蔵禅室 北條泰時の後室 (4月に没した 矢部禅尼、享年69) の菩提を弔うため一切経による供養を行なった。導師は若宮別当僧正 隆弁
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また、六波羅大夫将監 北條長時朝臣の室 (北條時房の嫡子 時盛の娘) が重病である、と。
放生会に供奉する随兵について、今日散状を廻した (名簿を回覧) 。これは候補者全員を書き出した下書きから将軍家の御点 (確認) を得たもの。下書きに載りながら選抜に漏れたのは以下の人々である。
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武蔵太郎北條朝房  同、五郎時忠  同、八郎頼直  遠江次郎佐原 (蘆名) 光盛
出羽三郎左衛門尉二階堂行資  大隅修理亮嶋津久時  周防三郎左衛門尉嶋津忠行
越中右衛門尉  阿曽沼小太郎  武石四郎
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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7月12日 庚子
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吾妻鏡
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晴。去る6月14日の光り物は男山 石清水八幡宮 (公式サイト) の方向に見えたと、別当から報告あり。
仙洞 (院の御所) からの質問に司天 (天文担当) は確答できず、石清水八幡宮が光り物の絵を提出した。
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また大宮院の新造御所 (五條大宮) が完成して今月三日に御移徙。両院 (後嵯峨上皇と大宮院) は同じ牛車、一員 (後嵯峨上皇の第七皇子、後の第90代亀山天皇、満7歳)も御幸された。
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   ※大宮院: 88代 後嵯峨天皇の中宮で後深草天皇と亀山天皇を産んだ西園寺姞子、「一員」は一院
の誤記、二人以上の上皇が存在する場合の区分を意味する。
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   ※亀山天皇: 89代後深草天皇の同母弟。溺愛した上皇夫妻の
意向を受け正元元年 (1259) 11月に後深草天皇 (17歳) が退位し亀山天皇 (11歳) が帝位を継ぐ。
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更に文永十一年 (1274) には兄の後深草を先んじて亀山天皇が治天の君 (上皇) となり院政を開始するから、以後のゴタゴタを招いてしまう。
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「後深草系の持明院統」と亀山系の「大覚寺統」が互いに鎌倉幕府との関係を探りつつ勢力を争う結果となる。鎌倉幕府の滅亡後は 後醍醐天皇の独断専制が加わって南北朝時代の争乱を招く (天皇家の系図を参照) 。
     右は京都御苑の鳥瞰図 (クリック→別窓で拡大表示) 。
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東側には築地塀に囲まれていた仙洞御所、その北西の一角に大宮御所があった。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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7月17日 乙巳
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吾妻鏡
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晴。将軍家 宗尊親王が山内の最明寺に参詣、この精舎が建立されて最初の御礼仏である。
(執権の) 相模守 北條時頼は兼ねて出家の希望を懐いていたのは病気の影響もあるのだろうか、将軍家を寺に迎える準備を整えていた。
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 出御の行列
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  まず騎馬の随兵が十二人
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足利太郎兼氏(足利泰氏の次男で渋川氏の祖)   遠江三郎左衛門尉泰盛   武田八郎信経
小笠原三郎時直   城次郎安達頼景   下野四郎景綱泰綱の嫡子で宇都宮氏七代当主
河越次郎経重   大須賀次郎左衛門尉胤氏   出羽前司小山長村
佐々木対馬守佐々木氏信   北條六郎時定   武蔵四郎時仲
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  次いで御車(網代庇)
大隅修理亮島津久時   出羽三郎左衛門尉二階堂行資   相馬次郎兵衛尉胤継
武石四郎胤氏   新左衛門尉小野寺行通   隠岐次郎左衛門尉時清
山内籐内左衛門尉通重   平賀新三郎惟時   三浦介六郎頼盛
城四郎時盛   周防五郎左衛門尉嶋津忠景   出羽七郎二階堂行頼
肥後次郎左衛門尉不ど藁為時   南部又次郎時実   大須賀左衛門四郎朝氏
近江孫四郎左衛門尉佐々木泰信   氏家余三経朝   土肥四郎実綱
波多野小次郎宣経   鎌田次郎兵衛尉行俊
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  次いで御剣役人 遠江太郎清時
  次いで御調度役 小野寺四郎左衛門尉通時
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  次いで御後供奉二十二人(各々布衣・下括り。騎馬。武官は皆弓箭を帯す)
越後守北條実時   刑部少輔北條教時   足利三郎頼氏(利氏)
備前三郎北條長頼   長井太郎時秀   壱岐前司佐々木泰綱
参河前司新田(世良田)頼氏   和泉前司二階堂行方   内蔵権頭親家
伊勢前司二階堂行綱   上総介大曽祢長泰   少卿武藤景頼
筑前次郎左衛門尉二階堂行頼  河内三郎左衛門尉祐氏  式部太郎左衛門尉伊賀光政
和泉三郎左衛門尉二階堂行章  出羽次郎左衛門尉二階堂行有  壱岐新左衛門尉後藤基頼
上野五郎兵衛尉結城重光   左衛門尉三善康長   小田左衛門尉時知
薩摩七郎左衛門尉伊東祐能
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  次いで小侍所司   平岡左衛門尉時俊
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陸奥守 北條政村と相模守 北條時頼が堂前に待機、武蔵守 北條朝直、遠江前司 北條時直、出羽前司 小山長村、佐渡前司 後藤基綱 三浦介 (佐原) 盛時らも同様に控えた。大夫尉泰清と佐原時連は予め門外左右の敷皮に待機した。 将軍家は本尊に拝礼した後に相州時頼邸に入御し、廷尉行忠(布衣、冠)この砌(軒下)に待機した。遊興や和歌の御会があり、今夜は逗留となる。
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   ※最明寺:堂を建てた最初は永暦元年 (1160) まで溯るが...
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山内首藤経俊が平治の乱 (1159年) で討ち死にした父親 俊通の菩提を弔うため堂宇を建てて名月庵と名付けたのが最初とされている。
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その後に執権時頼が名月庵の土地に別邸を設け、敷地の一部に持仏堂を建てて最明寺と改めた。時頼没後の一時期は廃絶したが、八代執権 北條時宗の時代に 蘭渓道隆を開山和尚に迎え、禅興寺として再興した。
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室町時代の1390年頃 (足利義満の時代、一休禅師が生まれる20年ほど前) になって山内上杉家 (足利尊氏の母方の叔父 上杉憲房の子孫) の上杉憲方が禅興寺の塔頭として明月院を創建した。
禅興寺は明治初期の神仏判然令に伴う廃仏毀釈運動の煽りを受けて廃寺となり、寺域内の明月院のみが残って現在に至っている。
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   右上は明月院山門の横にある時頼の廟所(クリック→ 別窓で拡大表示)
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寺が廃絶と再建を再三繰り返しているのだから、明治期か江戸時代中期以後の建物だろう。
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ただし堂の裏手には時頼の墓と伝わる宝篋印塔が残されており、これは後世の供養墓ではなく鎌倉時代中期の墓域を当時のまま保存したらしい。
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  右中は明月院の廟所に残る時頼の宝篋印塔
       (クリック→ 別窓で拡大表示)

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同名の最明寺は伊豆長岡の源氏山西麓にもあり、時頼の遺徳を慕った北條氏庶流が時頼の分骨を許され創建したと伝わる。従って狩野川流域の中伊豆では、初代執権 北條時政を葬った 天守君山 願成就院、二代執権 義時の分骨を葬った 巨徳山 北條寺、五代執権 時頼を葬った 東光山 最明寺の三ヶ所を巡拝できる。功罪や好き嫌いは兎も角として郷土の偉人だった事は間違いない。
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  右下は伊豆長岡 の時頼の分骨墓。クリック→ 最明寺の詳細 (別窓) へ
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時頼所縁の最明寺は東名高速の大井松田IC近くにもある。紹介は、いずれ改めて。
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   ※俊通の討死:明月院の元を建てた人物の記事について。
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「平治物語の中巻 第四章 義朝敗北のこと」
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平家軍に押された義朝主従は三条河原に逃れた。鎌田政家が「頭殿 (義朝) が落ちられる、防ぎ矢をせよ」と命じ、平賀義信らが引き返して散々に戦った。義朝は「惜しい武士の義信を討たすな」と号令し 佐々木秀義、須藤刑部俊通、井沢信景らが助勢して防いだ。佐々木秀義は二騎を斬り落とした後に負傷して近江を目指して落ち延び、須藤刑部は敵の三騎を倒した後に討ち取られた。経俊の兄 俊綱も六条河原の合戦で重傷を負い、悪源太義平の指示で郎党が首を落とした。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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7月18日 丙午
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吾妻鏡
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晴、夜に入って雨。将軍家 宗尊親王 が山内の時頼邸から還御、導師は左大臣法印厳恵。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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7月20日 戊申
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吾妻鏡
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将軍家が体調不良。
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   北條九代記北條長時が武蔵守に任じた。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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7月26日 甲寅
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吾妻鏡
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晴。再三の変異に対応して (将軍家を願主に) 御祈祷を行なうよう、和泉前司 二階堂行方と左衛門尉 清原清定の奉行として諸道 (仏道と陰陽道) に指示を下した。
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これにより陰陽師が群参し前陰陽権大允安倍晴茂朝臣が雷公祭 (雷を祀る) を行なうべき、と述べた。
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天文博士の為親朝臣は「雷公祭は公家 (天皇家) 以外が行なった例はない。去る寛喜三年 (1231) に前武州禅室 北條泰時の命令を受けた (私の) 亡父 泰貞が風伯祭を行なって翌日には風が止んだ、その例に倣って風伯祭を行なうべきだろう。」 と述べた。
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晴茂朝臣は重ねて「それは諸国の受領 (国司) の例に過ぎない」と語り、陰陽権助だった安倍親職 (鎌倉陰陽道の権威、仁治元年 (1240) 閏10月死没) 自筆の書状を行方に見せたが決断に至らず、右京権大夫茂範朝臣と参河守教隆に質問した。
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茂範朝臣は「去る寛喜三年に風伯祭を催す際に安賀両家 (陰陽道の権威 安倍氏と賀茂氏) に問合わせたところ安倍氏は「賛同できず」と答え、陰陽頭の賀茂在親朝臣は「俊憲朝臣の例以外は知らない。」と答えた。また教隆真人 は「凡人 (普通の人) に行なった例は確認していない」と答えた。
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これらの答申に従い、 (雷公祭は) 行わないと定めた。
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   ※二階堂行方:この時点では四番引付頭人だが正元元年 (1239) には評定衆に抜擢された。
清原満定は延応元年 (1239年2月に改元) から評定衆 (12月に死没した三浦義村の後任か) 。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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7月29日 丁巳
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吾妻鏡
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放生会での将軍家御参宮に伴う供奉人について二通の散状 (回覧) を発行した。一通は各々が布衣 (狩衣、略礼服)を 着して供奉する内容であり、一通は直垂を着して供奉する内容である。
形式は二種類だが、数通に書き分けて回覧させ通告している。支障を申し出た者は次の通り。
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 随兵では  畠山上野前司畠山泰国  三浦介(佐原)盛時  左衛門尉小田時知
       左衛門尉土肥三郎惟平  左衛門尉遠江十郎頼連 (服喪)
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 直垂の中では  出羽七郎左衛門尉 (病気で鹿を食べた)  足立左衛門四郎 (病気で7月10日に帰国)
         周防三郎左衛門尉 (父 周防守が布衣で供奉、
         弟六郎が流鏑馬の射手なのて参加し難い)
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 神馬役では  上野太郎左衛門尉 (了承済み)   弥次郎左衛門尉 (内命で子息 新左衛門尉が参加)
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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8月 6日 甲子
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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豪雨と強風。洪水と山崩れで多数の男女が死没した。
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   ※8月6日: 西暦の8月27日に該当する。台風による被害だろうか。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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8月 8日 丙寅
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吾妻鏡
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曇。去る6日の大風による田畑の被害が著しい旨の報告が近国から届いた。
今日、信濃僧正道禅が死去 (享年88) 。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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8月 9日 丁卯
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吾妻鏡
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武蔵守 北條長時の室 (北條時盛の娘) が病気から回復し沐浴の儀を行なった。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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8月10日 戊辰
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百錬抄
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入道前権大納言 四代将軍 藤原頼経が死没した。
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   ※頼経死没: 享年39。死因は当時流行した赤痢と伝わっている。翌月には五代将軍だった息子
頼嗣も死没しているため何かの作為を疑う説もあるが...支持層も権力も完全に失なった前将軍親子を殺す意味があるか、或いは念には念のダメ押しか。
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正二位 中納言の 吉田経俊は日記 (経俊卿記) に「将軍として長年鎌倉で暮らしたが帰洛してからは人望を失って早世した。哀しむべきことだ」と書いている。
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父親の従一位 関白太政大臣だった 九条道家も権力を失ったまま建長四年 (1252) 2月に死没、権力の中枢にあった九条家の衰退を絵に描いたような暗転だった。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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8月11日 己巳
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吾妻鏡
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雨。相模守 北條時頼の息子が元服し、相模三郎時利 (後に時輔と改名) を名乗った。加冠 (烏帽子親) は 足利三郎利氏 (後に頼氏と改名) 。
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   北條九代記前大納言 藤原頼経 (法名行智) が逝去した (享年39) 。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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8月12日 庚午
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吾妻鏡
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晴。来る16日の競馬に出場する者について、相模守 北條時頼以下の幕臣に命じて騎馬に長けた者に競馬の技術を習得させ、また御随身 (側近や警護担当) の中から優れた者を選び出した。
この件については秦弘員、種久、行久らが不満を申し立てたが、院での競馬に倣って侍が左側 (上位) を務めるよう定めた。
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   ※競馬: 当時の 「くらべうま」 は二頭でのマッチレース。
距離は判らないが八幡宮境内の東西に設けていた馬場は200m強なので片道だけでは短すぎるから往復か。
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競走中の打擲や進路妨害が認められていたのが実戦の雰囲気があって面白い。詳細は 古式競馬 (Wiki) で。
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右は平安時代の競馬を描いた平成14年の80円切手。
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元画像は「賀茂競馬図六曲屏風」の二曲。手前 栗毛の騎手が奥の黒馬の騎手に対して暴行を加えている。屏風の画像が見当たらないため、切手の拡大画像を利用した。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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8月13日 辛未
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吾妻鏡
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明後日の将軍家御参宮に伴う供奉人について、帯剣して参加するべき役目の中に支障を申し出る者があり、再度参加者を募った。
   近江弥四郎左衛門尉  山内三郎左衛門尉  平賀新三郎 (以上三人は進奉 (了承) した)
   阿曽沼五郎  大曽祢左衛門太郎 (この二人は支障を申し出た)
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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8月15日 癸酉
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吾妻鏡
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小雨、北風が激しい。 鶴岡八幡宮の放生会があり、将軍家 宗尊親王が出御した。
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  行列
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  先ず検非違使(判官)が三人
隠岐大夫判官佐々木泰清  遠江大夫判官三浦(会津)時連(盛時の次弟)  信濃判官二階堂行忠
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  次いで先陣の随兵十人
三浦遠江三郎左衛門尉泰盛 (1月2日を参照)    相馬弥五郎左衛門尉胤村
左衛門尉佐々木佐渡五郎基隆(佐々木ではなく後藤基綱の次男だろう)
出羽次郎左衛門尉二階堂行有  上総太郎兵衛尉長経  兵衛尉武藤次郎頼泰
河越次郎経重  和泉三郎左衛門尉二階堂行章  備前三郎長経
足利次郎兼氏(足利泰氏の次男で後の渋川義顕)
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  次いで先駆八人
  次いで殿上人十人
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  次いで (将軍家の) 御車
左衛門尉三善次郎康有(康連の七男) br> 隠岐次郎左衛門尉時清
壱岐新左衛尉後藤基頼(基政の子)  内藤肥後六郎左衛門尉時景
近江弥四郎左衛門尉佐々木泰信  山内三郎左衛門尉通広
土肥四郎実綱  鎌田三郎左衛門尉義長  大須賀左衛門四郎朝氏
肥後四郎兵衛尉行定  鎌田次郎兵衛尉行俊  平賀新三郎惟時
    以上は直垂を着して帯剣し御車の左右に列す。
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  御剣役人 刑部少輔北條教時
  御調度(弓箭)役 小野寺四郎左衛門尉通時
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  次いで御後
  五位十五人(布衣・下括り)
越後守北條実時        越後右馬助北條時親     中務権大輔足利家氏
出羽前司二階堂行義      壱岐前司後藤政景      壱岐前司佐々木泰綱
三河前司足利頼氏(利氏)     那波左近大夫政茂      和泉前司二階堂行方
越中前司宇都宮(横田)頼業    周防前司島津忠綱      伊勢前司二階堂行綱
上総介大曽祢長泰       対馬守佐々木氏信      少卿武藤景頼
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  六位の十人(布衣(狩衣)、裾を括る)
足利上総三郎満氏       長井太郎時秀        式部太郎左衛門尉伊賀光政
左衛門尉伊賀次郎光房     薩摩七郎左衛門尉伊東祐能  大曽祢次郎左衛門尉盛経
筑前次郎左衛門尉二階堂行頼  右衛門尉三善康長      小野寺新左衛門尉行通
弥善太郎左衛門尉
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  次いで後陣の随兵十人
遠江七郎時基(朝時の七男)    武蔵四郎時仲        上野五郎兵衛尉結城重光
足立太郎左衛門尉直元     常陸次郎兵衛尉行雄     武石三郎左衛門尉朝胤
伯耆新左衛門尉清経      河内三郎左衛門尉祐氏    城次郎安達頼景
大須賀次郎左衛門尉胤氏
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御奉幣の後に廻廊で例年より華美な舞楽の奉納があり陸奥守 北條重時が臨席、他に伊豆前司若槻 (森) 頼定、前太宰少弐 狩野為佐、出羽前司 二階堂行義、刑部大輔入道成献、常陸入道行日 (二階堂行久) らも参席した。
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申刻 (16時前後) に将軍家が還御した後に六波羅の飛脚が到着、前将軍入道で前大納言家 五代将軍 藤原頼嗣が、去る11日に御痢病 (赤痢) により薨御したと報告した。
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   ※佐々木泰信: 文暦二年 (1235) 7月23日に比叡山の衆徒が神輿を洛中に入れようとして近江高
嶋郡の地頭 佐々木高信 (佐々木信綱の次男) の代官が阻止した際に神人を死傷させた。執権 北條泰時は比叡山を宥めるため、高信を豊後国配流に処している。
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高信のその後は明確ではない (早期の赦免だと思う) が、高信の跡は長男泰信が継いで近江朽木氏として繁栄している。朽木は近江旅行で立ち寄った道の駅のくつき新本陣 (別窓) のある土地だ。鯖街道を歩いた思い出が懐かしい!
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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8月16日 甲戌
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吾妻鏡
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曇。将軍家 宗尊親王が出御した。また流鏑馬の射手などについて、特に人選を行なった。
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相模三郎時利 (後の北條時輔) 、陸奥六郎 北條義政足利三郎利氏(頼氏)、武蔵五郎北條時忠 (朝直の次男、後に宣時に改名)、三浦介六郎頼盛 (三浦 (佐原) 盛時の六男、三浦宗家を継承) らが選ばれた。
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また競馬(くらべうま)五番の結果は次の通り。
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 一番 左は富所左衛門尉、右は村岡弥三郎。双方が落馬し結果は引き分け、富所は額から出血。
 二番 左は當麻右馬五郎、右は検仗三郎(勝者)。 當麻が鞦(馬の尻飾り)を狙い組み合って奪った。
 三番 左は下條四郎、右は秦弘員。下條が追い付いて勝ち。共に落馬のため右が異議を唱えた。
 四番 左は渋谷右衛門三郎、右は秦種久。熱戦で双方落馬し引き分け。左の剛勇、右の技量が見事。
 五番 左は鳥子左衛門次郎(勝者)、右は秦行久。行久は鳥子の剛力を恐れ途中で馬を止め試合放棄。
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   ※特に人選: この意味が判らない。この時の満年齢は時輔6歳、義政13歳、利氏16歳、宣時17
歳、足利利氏16歳。時忠と頼盛の確実な年齢は確認できないが、かなり若年の時輔と義政が流鏑馬の射手だったとは考えにくい。
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   ※北條義政: 信濃国塩田荘 (現在の上田市西部 青木村一
帯) を本領とした塩田北條氏の祖。塩田荘には多くの遺跡や社寺の遺構が残り、「信州の鎌倉」としての雰囲気を今に伝えている。
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義政は建治三年 (1277) 4月に連署を辞して出家し塩田荘に隠棲。長男の時治は嘉暦元年 (1326) 3月に出家して幕政から引退、跡を継いだ弟の国時は幕府が滅亡した弘安三年 (1333) には鎌倉に駆けつけ、二人の息子と共に宗家に殉じている。  右は青木村大法寺の観音堂と国宝 三重塔の遠景。
  画像をクリック→ 大法寺と信州青木村の遺跡 (別窓) も参考に。
  塩田平の資料整理が済んでいないため掲載画像が限られている。
  いつかは整理して載せたいと思う。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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8月20日 戊寅
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吾妻鏡
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新奥州 (元 右馬権頭 北條政村) の執権就任後、初めて将軍家 宗尊親王 が彼の常葉の別業 (常盤の別邸) に入御する予定が23日に決まり、供奉人の手配を行なった。その散状 (回覧) を御覧した後に支障のある者の補充が加えられた。
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   追加補充として、足利次郎 渋川義顕、遠江次郎佐原光盛、佐渡五郎左衛門尉後藤基隆。
   病欠を申し出た常陸次郎兵衛尉二階堂行雄の代行として、左衛門尉三善次郎康有。
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   ※執権就任:北條政村の七代執権就任は文永元年(1264)
7月3日に六代執権の長時が病気で辞任出家した時点だ。 (この年の吾妻鏡は逸失のため、他の史料に拠れば執権就任は同年8月11日) だから、1256年8月20日の記事は明らかにおかしい
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連署を広い意味の執権として扱ったのか、他に意味があるのか単純ミスか、私には判らない。時頼は生存中に長時→ 政村→ 時宗 への執権継承を得宗家の既定方針として北條家内部と有力御家人と得宗被官 (御内人、読みは 「みうちびと」 、御家人の対語) に了解させていたのだろう。
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時頼の死没 (享年36) は弘長三年 (1263) 11月22日で嫡男 時宗の執権就任は四年三ヶ月後の文永五年 (1268) 3月5日。何とか見届けるため権力に執着していた。
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時頼には源家の陪臣に過ぎない北條氏の貴種性を定着させ朝廷と同様の「院政の世襲」 を定着させる夢があった、と思う。権力は肉親に継承させたい、独裁者の浅ましさ、だね。
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   ※常盤邸: 大仏切通し西側 (地図) に 「やぐら」 を含む広い敷地(Wiki画像)が保存されている。
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右は史跡指定の北條常盤邸跡 (文化遺産オンライン画像) 。以前は立ち入り禁止だったが、今も同じだと思う。画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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8月23日 辛巳
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吾妻鏡
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晴。将軍家 宗尊親王 が新陸奥守 北條政村の常盤邸に入御。巳刻 (10時前後) に御水干、御騎馬で出発した。
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 供奉人
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  歩行
   御剣役 進奉不参
備前三郎北條長頼       城四郎安達時盛
佐渡五郎左衛門尉後藤基隆   式部太郎左衛門尉伊賀光政
常陸次郎兵衛尉二階堂行雄   薩摩七郎左衛門尉伊東祐能
左近将監武藤兼頼       和泉次郎左衛門尉二階堂行章
左衛門尉武藤次郎頼泰     壱岐左衛門尉後藤基頼
新左衛門尉小野寺行通     隠岐三郎左衛門尉佐々木時清
左衛門尉三善次郎康有     左衛門尉鎌田三郎義長
左衛門土肥四郎実綱      左衛門尉鎌田次郎行俊
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  騎馬
中納言土御門顕方卿      花山院宰相中将長雅卿
武蔵守北條長時        越後守北條実時
刑部少輔北條教時       尾張左近大夫将監北條(名越)公時
足利次郎兼氏(渋川義顕)      同、足利 三郎頼氏(利氏)
陸奥七郎北條業時       武蔵五郎北條時忠
和泉前司二階堂行方      長井太郎時秀
参河前司(新田(世良田)義季の嫡子 頼氏)   壱岐前司佐々木泰綱
壱岐前司後藤基政        筑前前司二階堂行泰
上総介大曽祢長泰        少卿武藤景頼
出羽三郎左衛門尉二階堂行資   城次郎安達頼景
下野四郎宇都宮景綱
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陸奥入道 北條重時、陸奥守北條政村、相模守 北條時頼、尾張前司 北條時章、出羽前司 小山長村らがあらかじめ常盤邸に待機しており、先ず縁側に輿を付けた。近くの衣装架には御服、半尻狩御衣 (浮線綾) 、御水干袴 (地白青格子) 、色々の御小袖十揃い、御帷子五着を懸けて準備してあり、御棚には八合菓子と巻絹三十疋、紺布三十、檀紙百帖、扇五十本が蓋付きの箱に収めてあった。
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次に六脚膳に載せた供御 (食事) 、次に盃酒。三献の後に泉屋に渡御し、金銀などで飾った屋形船が造った。金五十両、南廷 (銀の板) 三、色々の紺絹三十、帷三十、墨二、錦一端、呉綾一端、紫扇五十本である。
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次に女房 (女官) の一條殿、近衛殿、別当殿、新左衛門督局、兵衛督局、小督局、右衛門佐局、美濃局らが参上した。夜になって御引出物があり、刑部少輔 北條教時が御剣 (竹造り) を持参した。金五十両 (銀の折敷に置く) 、陸奥七郎北條業時がこれを運んだ。南廷五 (銀の折敷に置く) は足利三郎利氏が持参した。
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  次いで御馬二疋
     一の御馬(鞍置き)  陸奥三郎北條時村    式部太郎左衛門尉伊賀光政
     二の御馬      出羽三郎左衛門尉義賢  同、七郎行頼らがこれを引いた。
  女房への贈物は、衣今木小袖と帷など、御供侍には各々沓と行騰 (年初の引き出物の参照を) 。
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   ※進奉不参: 宇治拾遺物語 (Wiki) の巻十一に、「 (北面の武士) 源行遠が戻って来ない」という
意味で「進奉不参」と述べている箇所がある。剣役不在の意味だろうか。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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8月24日 壬午
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吾妻鏡
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晴。将軍家 宗尊親王が体調を崩したため、陸奥守 北條政村、相模守 北條時頼以下が御所に集まった。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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8月26日 甲申
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吾妻鏡
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曇。将軍家の病状が悪化しているため、若宮別当僧正 隆弁が不動護摩を催した。また御所で安倍晴茂朝臣が泰山府君祭を務め、出羽前司 二階堂行義が奉行に任じた。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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8月29日 丁亥
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吾妻鏡
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終夜、降雨。将軍家の病気に対応して更に祈祷が続けられた。大土公は資俊、霊気は泰継、四角は宣賢と晴長と晴秀と晴成、四堺は晴尚と親貞と維行と重氏が任じた。
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   ※四角四堺: 御所の四方と鎌倉の四境を差す。更に詳細は寛喜三年 (1231) 5月4日の参照を。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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9月 1日 戊子
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吾妻鏡
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晴。将軍家 宗尊親王の病気は赤班瘡 (麻疹ウイルスの急性熱性発疹性疾患、通例は「はしか」) 。
若宮別当僧正 隆弁が宮寺に参籠して御祈祷を行なった。昨今の流行が著しく、誰もが罹病する恐れがあるため諸堂で百座の (百人の僧侶による) 仁王講を催した。清原満定の差配である。
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   ※仁王講: 仏教における国王のあり方について述べた経典である仁王般若経を読誦する法会。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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9月 3日 庚寅
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吾妻鏡
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晴。再び病気に対応した祈祷あり。松殿法印良基と左大臣法印厳恵がそれぞれ薬師護摩を修した。
七座の泰山府君は宣賢、為親、晴長、広資、以平、晴憲、晴宗。他に七座の (七人の陰陽師による) 霊所祓い、天冑地府、御当年星、呪咀などの祭祀を行なった。
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   ※泰山府君: 仏教の護法善神 天部の一人焔摩天に従う眷属で陰陽道の主祭神。生命を司る神で
もある。天曹と地府を中心とした十二座の神に金幣、銀幣、素絹、鞍馬、撫物などを供えて無病息災と延命長寿を祈祷するのが通例。
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   ※霊所祓い: 一般的には七ヶ所の霊所または七瀬祓い。寛喜二年 (1230) 1月13日に詳細あり。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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9月 5日 壬辰
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百錬抄
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後深草天皇が赤班瘡に罹病された。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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9月10日 丁酉
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吾妻鏡
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相模守 北條時頼邸で大般若経の転読を行なった。
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   ※転読: 百聞は一見に如かず、Wiki動画で実態の確認を。信仰と言うよりも形式の世界だ。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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9月15日 壬寅
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吾妻鏡
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曇。相模守 北條時頼も赤班瘡に罹病した。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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9月16日 癸卯
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吾妻鏡
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朝は雨、夜になって陰陽師から「去る6月26日は御衰日 (運勢が衰微する日取り) だったにも拘わらず初出仕を行なった影響がある」との上申書が提出されたため泰山府君祭を催した。
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また相模守 北條時頼の娘が赤班瘡を発症、妖気も伴っている、と。
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   ※時頼の娘: 回復しないまま10月13日に死没する。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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9月19日 丙午
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吾妻鏡
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激しい雨。申刻 (16時前後) に将軍家 宗尊親王が御沐浴。陰陽少允 安倍晴宗が結界を張って身辺護持に務め管領医師で権侍医の長世が中御門少将の公仲朝臣を介して褒賞の御衣 (五単) と御剣 (金造り) を与えられた。
次に御馬、式部太郎左衛門尉伊賀光政がこれを引いた。この儀式は東塀中門の内側で行われた。
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今日、武蔵守 北條長時の嫡男 (4歳) が赤班瘡に罹病した。
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   ※長時の嫡男: 後に六波羅北方に就く 北條義宗。八代執権 時宗の命令で、文永九年 (1272) の
二月騒動 (Wiki) で時宗の異母兄 時輔を京都で殺す事になる。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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9月25日 壬子
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吾妻鏡
史 料
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曇。相模守北條時頼の病状が回復してから初めて手足を洗い清めた。
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   百錬抄後深草天皇の赤班瘡の病状が回復し、初めての御沐浴を行なった。
雅尊親王 (後嵯峨上皇院の皇子 四の宮、女院御腹) が赤班瘡により崩御した。
また、三位中将頼嗣卿 (五代将軍 藤原頼嗣)が赤班瘡により崩御した。
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   ※雅尊親王: 後嵯峨上皇の皇子 (満2歳4ヶ月) 、生母は大宮院 (前太政大臣西園寺実氏の娘) だか
ら後深草天皇の同母弟、六代将軍 宗尊親王の異母弟にあたる。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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9月28日 乙卯
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吾妻鏡
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越後守 北條実時の室 (北條政村の娘) が赤班瘡に罹病した。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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9月29日 丙辰
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吾妻鏡
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晴。相模守 北條時頼が病気からの回復に伴い、穢を洗い落とす沐浴の儀を行なった。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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9月30日 丁巳
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吾妻鏡
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曇。民部大夫 三善 (太田) 康連の病状が重体になったため問注所執事を辞任し、子息の康宗が後任に就いた。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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10月 2日 己未
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吾妻鏡
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晴。六波羅の飛脚が到着し、先月27日の四宮 (雅尊親王) 薨御を報告。
また24日に前将軍三位中将家 藤原頼嗣)が早世 (享年17) した旨を報告した。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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10月 3日 庚申
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吾妻鏡
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晴。散位従五位上の三善 (太田) 康連朝臣が死没した (享年64) 。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
建長八年
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10月 5日 壬戌
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百錬抄
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改元あり。建長を改め康元とした。権大納言良教卿以下の進言 「赤班瘡の流行」 による。.
西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
康元元年
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10月 9日 丙寅
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吾妻鏡
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晴、南風、夜になって雨。改元の詔書が到着、去る5日に建長八年を改め康元元年とした。
同日、相国 (関白太政大臣、藤原氏長者の 近衛兼経) の御息女が死去した。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
康元元年
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10月13日 丙辰
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吾妻鏡
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相模守 北條時頼の姫君が死没。日光法印清尊 (清尊=敬語) が愛染王供を、法印清尊千手供を、阿闍梨兼俊が修験道の祈祷を行なっていたが、各々は祈祷の壇を壊して退出した。
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   ※姫君: 陪臣に過ぎない北條氏の娘を姫君と読んだ初の例となる。権力に阿る吾妻鏡の宿命。
ただし、相模守 (時頼) の娘に関しては諸説あり、もう少し調べる必要がありそうだ。
個人的には、陪臣の立場から離脱したい時頼の思惑が絡んでいるような気がするのだが...。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
康元元年
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10月23日 庚辰
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吾妻鏡
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相模右近大夫将監 北條時定朝臣が兼ねての願いに拠り出家を遂げた。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
康元元年
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10月26日 癸未
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吾妻鏡
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晴。四の宮の御事 (9月25日の四の宮崩御)および相模守 北條時頼の軽服 (10月13日に伴う軽い服喪) により、前太宰少弐 狩野為佐を奉行として三嶋の神事など全てを中止した。
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時頼は参河守教隆だけを呼んで御除服 (喪明け) の儀式を行うべきかを尋ね、教隆は「四の宮は三歳。七歳未満の死没には服喪も喪明けも不要である」と答え、中止となった。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
康元元年
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10月29日 丙戌
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吾妻鏡
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晴。貢馬を御覧 (朝廷に献上する馬を観覧する儀式) になった。陸奥守 北條政村以下の数人が出仕した。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
康元元年
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11月 2日 己丑
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吾妻鏡
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曇。丑刻 (深夜2時前後) に六波羅の飛脚が到着し、先月27日に後嵯峨上皇の御妹 (六代将軍 宗尊親王の伯母) が遷化 (死去) した。将軍家は御軽服 (軽い服喪) となり七日間の政務欠席となる。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
康元元年
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11月 3日 庚寅
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吾妻鏡
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相模守 北條時頼が赤痢に罹病した。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
康元元年
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11月11日 戊戌
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吾妻鏡
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晴。戌刻 (20時前後) に将軍家 宗尊親王の御除服 (喪明け) の儀式があった。天文博士の為親朝臣が束帯姿で御祓いを、六角侍従が陪膳 (給仕) を、源式部大夫親行 (源光行の嫡子で和歌奉行を継承) が運び役を務めた。奉行は太宰権少弐 武藤景頼
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
康元元年
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11月18日 乙巳
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吾妻鏡
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曇。申刻 (16時前後) に雨と雷鳴が数回あった。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
康元元年
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11月22日 己酉
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吾妻鏡
史 料
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相模守 北條時頼の赤痢が快方に向かい、今日執権職を武蔵守 北條長時に移譲。併せて武蔵国の国務と侍所別当の職責および鎌倉の屋敷を長時に預託した。
ただし、得宗の家督はまだ幼い 時宗 (満5歳5ヶ月) に譲る時までの眼代 (代官) である。
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   保暦間記時頼が将軍家に仕える執権職 (連署を含む) を政村と長時 (義時の孫、陸奥守 重時
の二男) ららに譲って出家した。出家した後も幕政から離れることはない。
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   ※時頼辞任: 時頼は出家してからも幕政での権限を手放さない。
序列一位は 時頼、二位は 重時、三位は後継の 時宗が成長する迄の中継ぎとして、執権の 長時、四位が連署の 政村である。北條氏は元々家柄が低く、源氏将軍や宮将軍と違って血統に基づく権威を全く持っていない。
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実権を離さない時頼の意図は明らかに 「院政」 による独裁権力の掌握であり、善政に見える庶民の保護政策は欠けている貴種性を補う人気取りとして使われたに過ぎない。その意味で、かつての 泰時が目指した博愛に近い善政や庶民保護政策とは本質的に異なっている。
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寛元四年 (1246) 3月23日の条を読み返してみよう。四代執権 経時が没した際に後継執権に関する議論があり、経時の次弟 時頼はかなり強引に継承を主張したと記録されている。
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その根拠の一つは「経時の息子が若年 (満5歳)なので 政務の牢籠 (停滞、行き詰まり) を防ぐため」が論旨だった。では、同じ論拠は自分自身にはなぜ適用しないのか。単に権力を握りたいが為のダブル・スタンダードではないのか?
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私は玉木議員の不倫を思い浮かべた。政権与党の議員に対して「不倫や不正が明らかになったら議員辞職するべき」と言った男が、その基準を自分自身には当て嵌めず 「腹心の部下らの協議」 に委ねた。政治家としての道徳心や規律を守らない、実に卑劣な奴だ。
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右画像は建長寺収蔵の時頼像 (重要文化財、木造彩色、70cm) 。
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元々は時頼が開基した禅興寺またはその前身の最明寺にあった像で、時頼の姿を最も如実に写していると伝わっている。
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時頼の死後に最明寺は廃寺となり、文永年間 (1264~1274) に嫡男の 北條時宗が福源山禅興寺として再興した(開山和尚は 蘭渓道隆)。
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九代執権 貞時の十三回忌 (貞応三年、1324年) には90余人の僧を集めた実績もあり、 建長寺と円覚寺と寿福寺と浄智寺に次ぐ寺格だった。鎌倉幕府滅亡後の暦応四年 (1341) には臨済宗の寺格で十刹の二位、延文三年 (1358) には一位に昇格した。定めた基準は曖昧だとしても、この頃が禅興寺繁栄の頂点だったらしい。
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その後は零落を続け、江戸中期の貞享年間 (1684~1687) に無住となり、残った仏殿のみが塔頭の明月院に管理された。明治初期に廃寺となり、名月院のみ残ったのが経緯である。
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10月13日に死没した唯一の娘が存命していたら、六代将軍 宗尊親王に嫁したのではないか、と推定する。娘の早世によって宮将軍 宗尊親王は従一位 関白太政大臣 近衛兼経の娘 宰子を正室に迎えるのだが (文応元年 (1260) 2月) 、時頼はまず自分の猶子 (養女) に迎えてから北條氏の娘として将軍に嫁すステップを踏んでいる。
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帝の義父を目指した 清盛 頼朝と同じように自分の直系子孫を頂点に座らせる。鎌倉幕府における絶対君主制の常態化を夢見たのだろう。36歳での死没は天命だったかも。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
康元元年
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11月23日 庚戌
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吾妻鏡
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晴。寅刻 (早暁4時前後) に最明寺 (7月17日を参照) で相模守 北條時頼が剃髪 出家した (30歳) 。
法名は覚了房道祟、戒師は宋朝の道隆禅師。この出家で名門三家の兄弟らが出家を遂げたのは稀代の珍事である。 (名門三家の兄弟ら は以下)
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前大蔵権少輔 結城朝広 (法名信佛) 、上野四郎左衛門尉結城時光 (法名欄は白紙) 、同十郎朝村 (法名蓮忍、以上は結城氏の兄弟) 、遠江守 佐原 (蘆名) 光盛 (法名欄は白紙) 、三浦介 (佐原) 盛時 (法名欄は白紙) 、大夫判官佐原時連 (法名観蓮、以上は三浦の兄弟) 、前筑前守 二階堂行泰 (法名行善 ) 、前伊勢守 二階堂行綱 (法名行願) 、信濃判官 二階堂行忠 (法名行一、以上は信濃 二階堂の兄弟) である。
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いずれも時頼に忠節を尽くし二心を持たない人々であり、その心から出家を選ぶ結果となったのだが、無届けで出家した罪を問われて出仕停止の処分を受けた。
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   ※共に出家: 死期を迎えての出家ではなく継続して幕府の実権を握ると宣言した時頼に追随し
た御家人が出家は忖度でしかない。独裁者の周辺は同じ様な猿芝居を繰り返す。
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プーチンや習近平だけじゃない、日本には不正を繰り返した安倍を「素晴らしい総理だった」と持ち上げる愚かな議員や国民が多いからね。
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   ※結城時光: 朝光の六男。家督は二男朝広が継ぎ、時光は生母 寒河尼が地頭を務めた思川西岸
の寒河郡を継承して寒河氏を、同母弟の朝村は隣接の網戸郷を継承して網戸氏を名乗った (地図) 。この二ヶ所は亡父 小山朝光の遺領ではなく、小山政光の後妻だった寒河尼が独自に挙げた功績に対して 頼朝が与えた恩賞である。
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   ※念のため: 写本の 「法名欄は白紙」 の部分は原文ではなく法名の記載がないことを示す。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
康元元年
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11月24日 辛亥
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吾妻鏡
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武蔵守 北條長時が執権を委譲されてから初めての政所に出仕した。(連署の) 陸奥守 北條政村および評定衆が各々布衣 (狩衣、略礼服) で参会した。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
康元元年
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11月26日 癸丑
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吾妻鏡
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夕刻に雨。寅刻 (早暁4時頃) に名越で火災があり備前三郎長頼の家が被災したが延焼はしなかった。
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   ※備前三郎長頼: 名越流 北條時長 (朝時の三男) 、生母は 三浦義村の娘。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
康元元年
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11月28日 乙卯
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吾妻鏡
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申刻 (16時前後) に前佐渡守で正五位下 藤原朝臣 後藤基綱 (引付衆) が死去した (享年76) 。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
康元元年
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11月30日 丁巳
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吾妻鏡
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晴。最明寺禅室 北條時頼が逆修を催した。
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   ※逆修: 生前に死後の冥福を祈って催す仏事。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
康元元年
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12月11日 戊辰
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吾妻鏡
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晴。亥刻 (23時前後) に右大将家 頼朝の法華堂前から出火、激しい北風に煽られて勝長寿院および弥勒堂と五仏堂の塔など全てが被災した。ただし本尊と一切経は辛うじて運び出す事ができた。
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   ※火災範囲: 頼朝法華堂勝長寿院跡を参考に。勝長寿院
の敷地は谷の広い部分を占めていたと考えられるが、正確な範囲は確認されていない。
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頼朝法華堂と勝長寿院は直線で約500m離れており、文面通りであれば法華堂は必ずしも全焼ではなかった可能性もある、か。
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中間にあった大倉幕府の建物は 宇都宮辻子幕府 への移転 (嘉禄元年、1225年) に再利用され跡地は住宅群に変わっていたと推定される。
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  右は両地点を含む地図 クリック→ 別窓で拡大表示
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
康元元年
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12月13日 庚午
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吾妻鏡
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明春正月の御的始めの射手を指名して御教書を発せられた。奉行は越後守 北條実時
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
康元元年
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12月19日 丙子
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吾妻鏡
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晴。戌刻 (20時前後) に雷鳴が数回あり。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
康元元年
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12月20日 丁丑
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吾妻鏡
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六波羅での問注 (訴訟手続き) について、以下のように命令書が発せられた。
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  一.原告は訴訟の内容を文書で提出すること。
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  一.原告も被告も提出した証拠書類の繋ぎ目は花押で封印すること。
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  一.同じく文書目録、巨細に注進せらるべき事
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  一.庄園の領家 (中間権利者) について。
本寺社 (荘園の最高権利者) の名だけで領家の記載がない場合は不審の可能性があり、確認を要する。権利を有する者全ての記載が望ましい。
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  一.任じている地頭の名を正しく記載する事
正しく地頭名を書かず某庄地頭などとある場合は不審である。本来の地頭や代官の名を記載すること。
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  一.項目を明確にして記載すること。
複数の事案が混在する場合は内容を正しく区分して記載すること。
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  一.訴訟の内容を裁判担当者に付託した結果、その何人かが原告または被告の縁者または過去に
縁者だったことを根拠に担当を忌避する例が見られる。評定衆による会議の際にその不審を糺す場合には詳細を説明するよう指示する。
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西暦1256年
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89代 後深草天皇
上皇は 後嵯峨
康元元年
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12月25日 壬午
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吾妻鏡
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小侍所 (将軍の側近担当部署) の勤務表について指示があった。身辺の任務については御前での指示による。また小侍所が重要な職種である事を認識し、任命に当たっては祖父まで三代の経歴確認が必要である。公務に任じる御家人であっても安易に任命してはならない。
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2025年 9月 4日
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毎年の通例で、夏が終わる頃に 「大腸の内視鏡検査」 を済ませる習慣を守っている。10月には食道と胃の内視鏡検査、両方とも10年ほど続けている。結果が出るのは共に次の定期健診 (月に一度) を待つことになるが、とりあえず大腸には大きな問題はなさそうだ。10月末には前立腺のMR検査を受ける予定になっている。
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年齢と知能指数は非公開だけど、それなりの歳月を重ねたら健康状態にはそれなりの配慮を。
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2025年12月19日
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6時、建長八年 (康元元年、1256年) がまぁまぁ順調に終了。私が嫌いな (一番嫌い、ほどではないが) 時頼が執権を辞任し出家を遂げた。詳しく調べると、執権就任に関しては各種の談合や事件の捏造に関与していた疑惑があったようだ。独裁を目指す者は、必ずそれなりの動きをする。
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すぐ上の 9/4に書いた 「前立腺のMR検査」 は中止した。私は泌尿器科の医師が検査を勧めたのだから当然 ターゲットは前立腺だと受け取っていたのだが、どうも世間話の中で 「園芸作業などをしているときに急に立ち上がったりすると眩暈 (めまい) がする」 と話したのを医師が 「 (脳の) MR検査をしてみるか」 と判断したらしい。でも私は 「前立腺のMR検査」 だと思い込んだ。泌尿器科医院の診察だからね。
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県立病院を手配されて同意書を書き、なぜか検査は半年後の11月中旬になった (遅れた理由は不明) 。
そして、剣さ当日。私は初めて 「脳のMR検査」 だと知り、とりあえず中止してもらった。後日に掛かりつけ内科医に事情を話し、 「まぁ急いでMR検査の必要もないだろう」 との結果になった。
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単純な行き違いだったが、妻は 「前立腺のMRなんて聞いたことない」 と言っていた。でも内科医院の待合室で看護婦さんとその話をしていたら隣席の患者さんから 「私の主人は前立腺のMR検査を受けたよ」 と話し掛けられた。う~ん、いずれにしろ専門外の分野での思い込みは避けなければいけない。
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