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建保四年 (1216年)
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西暦・天皇・上皇
和暦・月日・史料
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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1月13日 丁卯
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吾妻鏡
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将軍家 実朝が御台所を伴って鶴岡八幡宮に御参詣、女房出車二台。
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   ※女房出車: 装飾や女性用の表示として女房衣装の裾や袖先をのぞかせた牛車。(Wiki 画像 参照)
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   ※年令: 源実朝 23歳、 坊門信子 28歳、 公暁 15歳、 竹御所 13歳、
政子 58歳、 北條義時 52歳 、 北條時房 40歳 、 北條泰時 32歳 、 北條朝時 22歳 、
北條重時 17歳 、
千葉成胤 60歳 、 千葉胤綱 17歳 、 足利義氏 26歳 、 三浦義村 57歳前後 、
三浦泰村 12歳、 安達景盛 45歳前後 、 大江広元 67歳 、
84代 順徳天皇 18歳 、 土御門上皇 20歳 、 後鳥羽上皇 35歳 、
九条道家 23歳 、 坊門忠信 29歳、 近衛家実 37歳、 藤原定家 52歳、
定豪 63歳、 慈円 60歳 、 栄西 前年死没 (享年74) 、 親鸞 42歳 、
     (全て1/1時点の満年令)
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安達景盛は生年不詳だが、頼朝の伊豆配流 10年後に誕生と仮定して年齢を推定した。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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1月15日 己巳
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吾妻鏡
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相模の国江嶋明神 (現在の 江島神社、公式サイト) の託宣通り大海の水が退いて陸続きの道ができた。
参詣のため舟に乗る必要もなく鎌倉を始め各地から多数の僧俗が押し寄せた。前代未聞の神変である。
左衛門尉 三浦義村が将軍家の使者として状況を確認し御所に戻って「荘厳な奇跡である」と報告した。
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   ※陸続きの道: 大潮で干潮の時間帯なら、現在でも橋の周囲の砂浜を歩いて渡れるから託宣など
不要、いわゆるトンポロ現象 (Wiki 画像) 、何が前代未聞だ!
当日の早めに行けば橋脚に付いた岩牡蠣が採れるかも。材木座に行けば和賀江島にも渡れるから、どちらを選ぶか悩むところだね。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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1月17日 辛未
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吾妻鏡
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将軍家 実朝の御持仏堂御本尊 (運慶作) が京都から到着した。
開眼供養は信濃守二階堂行光が計画し手配するように、との仰せがあった。
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   ※持仏堂本尊: 運慶円熟期の作品の筈だが現存せず像高も判っていない。奥州征伐の際に平泉の
毛越寺を描写した吾妻鏡の記述は 「雲慶 運慶を同一人物の如く描いているが、吾妻鏡の文治五年 (1189) 9月17日には頼朝が平泉を巡察した記録として毛越寺の項に以下の記載があり、こちらは完全に別人扱いしている。
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毛越寺の金堂圓隆寺の本尊は大仏師 雲慶に造仏を依頼したもので 雲慶は 「上中下の三段階」 を提示した。藤原基衡は 「中品」 を依頼してその費用を仏師に送った、云々。
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運慶の誕生年は不詳だが、1140~1150年頃と推定されている (没年は貞応二年 (1224年1月) 。
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一方で毛越寺の造営は基衡晩年期の久安六年 (1150) ~保元元年 (1156) だから、年代的には運慶による造像なんて有り得ない事になる。
この齟齬の理由を改めて追及するのも面白い。
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運慶が 足利義兼の依頼を受けて法界寺 (通名を 樺崎寺) の大日如来像を彫ったのは1190年代の初頭、既に功成り名を遂げた仏師として円熟の時代に達している。
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圓隆寺の本尊が現存したら多くの謎が解消するのだが残念ながら行方不明だ。
一説には伊達一族に強奪されて 松島の 瑞巌寺 (公式サイト) に秘匿されているとも言われるが、まさかね。
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少し前の承元二年 (1208) 12月17日に着手し建暦二年 (1212) に完成した運慶の作品として、奈良 興福寺の北円堂四像の一つ 無著像を載せておいた。
          右画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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藤原氏氏寺の興福寺造仏は、従来の院派に替って慶派が命じられ、運慶と高弟の源慶や静慶および子息らが造ったもの。運慶が60歳を過ぎた頃の作だろうか。
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   ※法界寺: 樺崎寺の名が史料に現れた事はない。鑁阿寺の奥の院として拓かれたのは「法界寺」 .
である。史跡の呼称は創建当時の 「法界寺」 跡ではなく、地名の 「樺崎」 跡になった。
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担当した教育委員会は決定の経緯を明らかにしていないが 「大日如来」 は真言密教の教理による世界観 「法界」 に基づいている。それを快く思わない宗教団体が市当局や教育委員会に圧力を加えたのではないか...これが仏教界の (非公式な) 結論である。
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地方都市+圧力+宗教団体=答えは誰でも判る。30年も前の話ではあるが、地元宗教界から強い異論が呈された事実も紹介しておく。
公文書の改竄や隠蔽を恥じない政権与党の片割れならやりそうな事ではある。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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1月28日 壬午
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吾妻鏡
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初めて御本尊の釈迦如来像を (実朝の) 御持仏堂に安置し、開眼供養を行なった。導師は荘厳房律師 退耕行勇、招いた僧 (鶴岡八幡宮寺の供僧) は七人である。
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導師の御布施は、綾の被物二重と裹物五 (二階堂行光がこれを差配) 、銀の鞍を置いた御馬一疋 (左衛門尉 三浦義村と大須賀太郎道信 (胤信の嫡子) がこれを引く) 、鞍を置かない馬一疋 (筑後左衛門尉 八田朝重と同六郎知尚 (八田知家の六男で浅羽氏の祖) がこれを引く)。
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追加の布施は砂金五十両 (源仲章朝臣がこれを持参す) 。請僧の分は1人当りに裹物二と青鳧二千疋を宿坊に送った。大夫判官 二階堂行村と左衛門尉 結城朝光がこれを差配した。
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   ※青鳧: 大陸から輸入した宋銭 (銅銭) 。中央の四角い穴が鳥の
目に似ている事から鳥目 (ちょうもく) などと呼んだ。青鳧は「かげろう」、「紐で束ねた銭」を意味する。吾妻鏡に登場するのはこれが最初だが、嘉禄二年 (1226) には鎌倉幕府が公式に使用を認可し、四年後には朝廷も追随して承認する。
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こうして絹や布に替る貨幣経済が本格化し、鎌倉時代中期 (1250年前後か) には年貢なども (部分的に、だが) 貨幣で納めるようになる。参考サイトの通読を。
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種類や鋳造年代に関係なく1枚が一文、100枚 (連) を紐に通して一貫文として取引されたのが面白い。
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   右は青鳧一貫文 (連) 。 画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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2月 1日 甲申
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吾妻鏡
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曇天のため日蝕の確認はできず。鶴岡八幡宮寺の供僧である頓覚房良喜が祈祷を行なって御馬を与えられた。使者は波多野次郎朝定。夜になって豪雨となった。
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   ※波多野朝定: 和田合戦の建暦三年 (1213) 5月3日に相模の御家人に参集を命じた 実朝の御教書
を書いている。また、実朝が殺される前年の健保六年 (1218) 3月16日には実朝を左近衛大将に叙す除書を京都から鎌倉に持ち帰っているが、なぜか波多野氏系図には名前の記載がない。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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2月11日 甲午
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吾妻鏡
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将軍家 実朝の御祈願である七仏薬師像の造立が今日始まった。奉行は二階堂行光 二階堂行村
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   ※七仏薬師: 薬師瑠璃光如来と六つの仏。衆生救済のため姿を変えて現れる七つの姿を差す。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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2月16日 己亥
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吾妻鏡
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小雨のため月蝕を確認できず。
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   ※東寺で盗難: 東寺百合文書 (東寺宝蔵の文書群) に別当権律師の花押がある 2月16日付の文書に
拠れば、この日 東寺で盗難があった。
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5日に盗人が以下の品を盗み取った。御道具唐櫃から独鈷など14点、灌頂院御仏具の 花瓶など17点、西院御仏具の6点、その他 と記録されている。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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2月19日 壬寅
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吾妻鏡
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宣旨一通が 大夫屬入道 三善康信の元に到着し中原季時を介して将軍家 実朝に報告されたが (ニ所詣に備えて) 精進中のため閲覧が憚られた。
将軍家は「内容の通りに東国の御家人に指示せよ」 と三善康信に命じた。
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「去る 5日の夜に群盗が東寺の宝蔵に入って仏舎利や諸道具などの宝物を盗み取った。この盗人を捜して捕縛せよとの宣旨を五幾七道に下す」との内容である。宣旨の文面は次の通り。
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弁官 (事務官) から東海道諸国に下す。東寺の舎利および道具などを盗み取った犯人を捜索せよ。
右、今月五日の夜に白波 (盗賊) が東寺に入り舎利と道具を盗み出した。
舎利は一代教主 (釈迦) の遺身、道具は三国 (印度、中国、日本) に伝わる霊宝である。仏法は既に衰微の時代に入り、国家もまた鎮護の力が衰えている。手間を惜しまず、また盗人などを恐れてはならない。
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帝の勅を奉じて左大臣が命じる。五幾七道の国々および諸寺と諸山に命じて捜索せよ。一品を取り戻した者であっても破格の賞を与えると承知せよ。
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 建保四年二月九日 左大史小槻宿祢国宗  権左中弁藤原朝臣
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     右画像は東寺の軍茶利明王像 (木造202cm、国宝)
            画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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現存する最古の五大明王像 (不動、隆三世、軍茶利、大威徳、金剛夜叉) の一つで足元の岩まで一木から彫り出している。22日に発見して回収できたから良かったけど、防犯の功徳までは願えなかったか。
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   ※白波: 中国後漢時代 (23~220年 ) に白波谷に本拠を置いた盗賊で
黄巾の乱の残党。白波五人男など盗賊の代名詞になった。
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   ※東寺: 真言宗の根本道場で、「教王護国寺」 (王を教化し国家を鎮護
する密教寺院) との別称を持つ。普通の寺と成り立ちが違うから盗賊捕縛の宣旨まで発行される。公式サイトを参考に。
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   ※藤原朝臣: 左大臣の九条良輔。九条兼実の四男、二年後に急死。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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2月23日 丙午
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吾妻鏡
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将軍家 実朝が二所詣に出発された。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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2月27日 庚戌
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吾妻鏡
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戌刻 (20時前後) 、将軍家 実朝が二所詣から還御された。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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3月 3日 丙辰
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で一切経会を催した。将軍家の出御なし、武蔵守 北條時房が使者として神拝した。
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   ※一切経: 経 (釈迦の教え) と律 (僧の規律や生活の姿) と論 (律と経の解釈) の三蔵全てを纏めた
仏教の聖典で大蔵経に同じ。正治二年 (1200) 、 建仁元年 (1201) 、建仁三年 (1203) 、元久三年 (1206) 、承元三年 (1209) 、建暦元年 (1211) 、建暦二年 (1202) の3月3日 (上巳節句、桃の節句の原型) にも開催しているから、通例の法会としても完全に定着している。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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3月 5日 戊午
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吾妻鏡
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故 金吾将軍 頼家の姫君 (14才) が狩衣の侍二人を従えて御所に渡御し御台所 (坊門信子) と面談した。これは尼御台所 政子の仰せに従い御猶子の儀を行なうためで、二階堂行光が贈物などを手配した。
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   ※頼家の姫君: 後年、 28歳の際に四代将軍 藤原頼経に嫁す
竹御所 鞠子を差す。尊卑分脈に拠れば生母は 公暁と同じ足助重長の娘で、更にその生母は 鎮西八卯為朝の娘)、紛れもなく源氏の血筋で、実朝の没後には最後に残る 頼朝直系の子孫である。
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右は鎌倉妙本寺墓地奥の竹御所の墓標。既に
失われた法華堂の須弥壇直下が埋葬地だと伝わる。クリック→ 妙本寺の詳細(別窓)へ
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   ※猶子: 本来の養子関係との区分は曖昧だが、鎌倉時代には官位昇進や婚姻の便宜、他の氏族と
の関係強化の側面が強まった。通常の養子と同一の例もある事にも留意は必要だ。
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実朝の没後に朝廷の重臣一族から迎える四代将軍 藤原頼経の父が摂政関白 九条道家、生母は太政大臣 西園寺公経の娘である。
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後鳥羽上皇の皇子の下向を願っても拒否され続けた 政子 北條義時は 「重臣の息子」 の下向を受け入れたのだが、将来的には竹御所と娶せる事を考えていた、そして産まれた子供を得宗家の嫡子か娘と結婚させて、将軍家に求められる貴種性に北條氏の血を加えようとした。相手が天皇家の息子ならベストだ...
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私は、義時と政子はそう考えたと思っている。狙った形には進まなかった、けれども。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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3月 7日 庚申
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吾妻鏡
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海水の色が赤紅を浸したように変色した。
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   ※海水の変色: 熱海から小田原にかけての相模湾では春~夏を中心に赤潮の発生が珍しくない。
単純な植物プランクトンの増殖で、相模湾では青潮のような漁業被害は少ないらしい。 実際の画像は Wiki の画像紹介を参考に。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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3月16日 己巳
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吾妻鏡
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御台所 坊門信子が江嶋明神 (現在の 江島神社、公式サイト)に参詣。信濃守 二階堂行光、筑後前司頼時 ら五位と六位の数名が従った。
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   ※前筑後守頼時: 源姓の実務廷臣。検非違使、筑後守を経て建暦二年 (1212) に地頭職を務め、
鎌倉に常駐していた。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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3月22日 乙亥
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吾妻鏡
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京都朝廷の使者が鎌倉に入って次の通り報告した。
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先月29日の申刻 (16時前後) に東山の新日吉社現在の 新日吉神宮地図) 近くで大夫尉 (検非違使) 足利秀能 淡路守足利秀康が東寺の強盗を捕獲し、仏舎利その他の盗品も確保して元通り東寺に安置した。
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その日のうちに秀康は右馬助 (淡路守は留任) に、秀能は出羽守 (検非違使は留任) に任じられた。強盗を捕らえて連行した褒賞である。
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盗難の解決を祈るため 2月23日には勅使 葉室光親卿を伊勢神宮に派遣しており、29日に京都に戻った日に賊徒が捕らえられたのは天皇家や仏法の威光が衰えていない証拠であろう、と。
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右画像は 東寺 (公式サイト) の兜跋毘沙門天 (多聞天、木造189.4cm、
国宝、中国唐時代 (618~907年) の作 クリック→ 別窓で拡大表示

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元は羅城門 (地図 ) の楼上にあり、天元三年 (980) に門が倒壊した際に掘り出され 500mほど東の東寺に遷された。
東寺は嵯峨天皇から 空海に下賜されて真言密教の根本道場となった古刹だから、この像は空海が唐から持ち帰った可能性がある、と思う。
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   ※任官: 律令制では検非違使や右馬助は内官 (在京の官職) で、淡路守や出羽守 (国司、郡司、
大宰府、鎮守府など) は外官に含まれる。内官と外官の兼任は許される。
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   ※秀康と秀能: 藤原秀郷の子孫で藤姓足利氏 (生母は 源光基 (Wiki) の娘) 。成行と孝綱の兄弟
は足利に土着して藤姓足利氏の祖になったと思われるが、孝綱系の詳細系図は判らない。
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私は源姓足利氏より藤姓足利氏の方が好きだ (笑) 。平氏を含め滅びる者にはそれなりの美しさがあるが勝者の場合は一般的に優越感と傲慢さが露骨だ。
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藤姓足利氏の略系図を下に記載したので参考に。
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秀郷─千常─文脩─文行─兼光─頼行─兼行─┬─足利成行─家綱─俊綱忠綱
└─足利孝綱─秀基─秀忠─秀宗─秀康と秀能兄弟
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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3月24日 丁丑
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吾妻鏡
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京都の飛脚が到着して報告。去る14日の夜に前内府禅室 坊門信清卿が京都西郊の別宅で死没した。
石清水八幡宮 (公式サイト) にいた 後鳥羽上皇は 15日寅刻 (早暁4時前後) に急遽還御の意思を示された。
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坊門信清卿は上皇の外舅 (後鳥羽の生母 藤原殖子は 坊門信清の同母姉) である。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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3月25日 戊寅
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吾妻鏡
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厳閣 (父親、坊門信清) の薨御に伴い御台所 坊門信子は牛車で信濃守 二階堂行光の山荘に内密で渡御された。死穢を避けるためである。
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   ※薨御は: 親王、女院、摂政、関白、大臣の場合。天皇、皇后、皇太后、太皇太后 (昔は上皇や
法皇も) の場合は「崩御」を使う。
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   ※死穢: 死者の遺族は死穢 (しえ) の中にいるから、隔離され清められる必要があるとする考え。
葬儀後の帰宅に塩を振る、忌中には家に籠もる、なども死穢を恐れる名残らしい。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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3月26日 己卯
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吾妻鏡
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坊門信清 家を弔問のため左近将監 佐々木信綱 と足立八郎元春 (足立遠元の嫡男) が上洛の途についた。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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3月30日 癸未
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吾妻鏡
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京都からの飛脚が相模守 北條義時邸に着き、去る22日に中納言 三条実宣の室が逝去したと報告した。故 遠州禅室 北條時政の御息女で義時の異母妹である。義時は御軽服 (軽い服喪) に入り、諸人が弔問に群参した。

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   ※三条実宣室: 牧の方の娘だから義時の異母妹。牧の方のもう一人の娘は 平賀朝雅に嫁した。
朝雅の追討後は 権中納言の藤原国通正二位権大納言 藤原泰通、Wiki) の次男) に再嫁し、夫の時政が没した後の牧の方は上洛し娘の再婚先の屋敷で優雅な余生を楽しんでいた。藤原定家はその様子を見て 「明月記」 で悪しざまに罵っている。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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4月 7日 庚寅
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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大江広元朝臣が中原姓を改めて大江姓を称する勅裁を申請する意思を日頃から朝廷と幕府に相談していたが、今日ついに女房 (女官) を介して将軍家 実朝に許諾を上申した。
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   ※大江に改姓: 広元の実父は大江維光 (従四位上 式部大輔、紀伝道 (中国史) の大家) で、養父 (生
母の再婚相手か)が中原広季 (明経博士、中原家が世襲した儒学の教官) とする説が一般的。健保四年6月11日に提出した申請書 (閏6月1日に認可された宣旨) には「養父の中原広季の養育を受けた恩はあるが (生家である) 大江氏の衰運を黙視できない」 として大江維光を継ぐ希望を述べている。
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鎌倉に下り 頼朝に仕えた頃から名乗った大江姓は通名だが、朝廷の認可を要する氏姓制は半ば崩壊していた。晩年を迎えた広元は筋を通したかったのだろう。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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4月 8日 辛卯
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吾妻鏡
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将軍家 実朝が亀谷山 寿福寺に御参りし、十六羅漢の絵像に供物を献じた。
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   ※羅漢: 阿羅漢の略。煩悩を全て断って修行の極致に達し、人々の供養を受けるに値する仏弟子
や聖者を差す。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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4月 9日 壬辰
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吾妻鏡
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将軍家 実朝は普段おられる御所の南に於いて終日諸人の訴えを聴いて裁断された。それぞれ藤の坪庭に控えて子細を言上し、三浦義村三善康信二階堂行光中原仲業らがこれを差配した。
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   ※諸人の訴え: 原文は 「終日令聴断諸人愁訴給」。一般的な訴訟は問註所の管轄であり、建長元年
(1250) から御家人の訴訟のみを引付衆が担当することになる。実朝はこの時点での御家人の愁訴を直接聞こうとしたらしい。
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執権の権限に抵触したり御家人への影響力を強めるような行為は傀儡将軍の枠を越えようとする試みと受け取られかねない危険も含んでいる。
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執権の北條義時は気に止めなかったか、それとも不愉快に思ったか。また教育係を務める 源仲章 (元は 後鳥羽上皇の側近) などを介した背後に幕政への関与を強めたい 後鳥羽上皇の存在を意識しなかったか、どうか。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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4月15日 丁酉
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吾妻鏡
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京都からの飛脚が到着し、去る2日に殷富門院が崩御されたと報告した。
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   ※殷富門院: 第77代 後白河天皇の皇女で保元元年 (1156) から同三年 (1158) まで 伊勢斎王 (Wiki)
を務めた、第81代 安徳天皇と 第82代 後鳥羽天皇の准母 (天皇の生母と同等の処遇を受ける立場の女性) 。享年 89。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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4月17日 己亥
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吾妻鏡
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大江広元朝臣が申請した大江姓について、将軍 実朝の認可があった
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   ※皇帝紀抄の記事: 4月18日 庚子、東寺の舎利を盗んだ盗賊六人を検非違使に引き渡した。
上皇の御見物あり。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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4月19日 壬寅
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吾妻鏡
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御台所 坊門信子が御仏事を修せられた。坊門信清殿の三十五日である。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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4月20日 癸卯
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吾妻鏡
史 料
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左近大夫 美作朝親が使節として上洛の途についた。殷富門院の弔問である。
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   ※皇帝紀抄の記事: 4月29日 (壬子) に東寺の盗賊24人の身柄を関東に引き渡した。
西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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5月10日 壬戌
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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(御所の) 将軍家 実朝の持仏堂に七仏薬師像を安置し開眼供養を行なった。導師は小河法印忠快、供養の後に七仏薬師法を修した。

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   ※七仏薬師像: 薬師瑠璃光如来と六つの仏で衆生救済のため姿を変えて現れるという七つの姿を
差す。2月11日に造立が始まった、との記載がある。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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5月13日 乙丑
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吾妻鏡
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将軍家 実朝が法華堂に出御し仏事を行なった。
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   ※法華堂: 父親の右大将軍 頼朝の廟所を差す。13日は月違い命日に当たる。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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5月18日 庚午
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吾妻鏡
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七仏薬師法の結願で、布施は華美を尽している。相模守 北條義時、武蔵守 北條時房、遠江守 源親広、駿河守 中原季時らが着座し、堂の上は花が咲いた如くに華やかだった。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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5月24日 丙子
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吾妻鏡
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将軍家 実朝が山内の辺りを散策された。予定外の行動だったため近習が急いで駆け付けた。
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   ※山内: 巨福呂坂隧道を抜けた一帯 (地図) が山内を差す。
大倉御所から行く場合は、現代なら 巨福呂坂を越えるのが最も一般的なルートで、西御門から八幡宮の境内を抜ければ 2kmほどで到着するのだが。
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35年後の建長二年 (1250) でさえ「山ノ内および六浦への道は先年に険しい部分を改修したが、土石が村里を埋める状態になったため復旧の指示が出された。」 (6月3日) との記載がある。
実朝が少数の側近だけ伴って行くとは信じ難い。
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途中で近習が追い付き山ノ内まで散策したと考えるべきか。
  右画像は西御門から山ノ内までの概略地図(クリック→ 別窓で拡大)
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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5月25日 丁丑
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吾妻鏡
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恩沢についての沙汰があった。また新御堂の寺領について定められた。
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   ※新御堂: 現在の十二所に建立し健保二年 (1214) 7月27日に落慶供養した大慈寺を差す。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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6月 8日 庚寅
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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東大寺の大仏を鋳造した宋人 陳和卿が鎌倉に入った。
東大寺供養に出席して仏と結縁した右大将 頼朝が面談を求めた際に陳和卿は 「多くの人を殺したあなたの罪業は重いから面談は憚られる」 と主張して遂に実現できなかったのだが、今は 「現在の将軍家は仏の権化であるから温顔を拝したい」 と語っている。
このため筑後左衛門尉 八田朝重の家を陳和卿の宿館とし、まず 大江広元朝臣に詳細の確認を指示した。
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   ※陳和卿: 大仏殿の落慶供養と陳和卿の面談は建久六年 (1195) 3月12日と13日に詳しく記載して
ある。陳和卿は、彼の受けた厚遇を妬んだ同僚の僧による事実無根の讒訴で元久三年 (1206) に失脚した。以後の10年は消息不明になっていたが、建保四年 (1216) 6月に突然 鎌倉に現れて三代将軍 実朝に面会を求めたから話が面白くなってくる。
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   ※厚遇の結果: 陳和卿の功績に対し朝廷は 播磨国賀東郡大部荘 (兵庫県小野市敷地町一帯、地図)
の他 四ヶ所を与えた (いずれも東大寺領だから、管理権を得たのだろう) 。
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告発を受けた朝廷は元久三年 (1206) 4月15日に 後鳥羽上皇の名で 「宋人陳和卿濫妨停止下文」 を発行し、東大寺復興事業と荘園管理から追放した。
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簡単に書くと、東大寺大勧進職で優れた実務経験を証明した 重源 (Wiki) は 醍醐寺 の出身だが、陳和卿は南宋渡来の工人である。
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部外者に利権を奪われた 東大寺 住僧らの卑しいエゴの結果が讒訴と追放を招いた結果である。陳和卿の協調性の欠如も讒訴の一因だった、かも知れないが。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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6月14日 丙申
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吾妻鏡
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先頃 佐々木左衛門尉広綱の使者が捕縛した東寺の盗賊や強盗や海賊の 50余人は今日処分が決定、奥州流罪となった。夷嶋に送るため 4月28日に一條河原で廷尉 (検非違使) から佐々木広綱に引き渡された。
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この東寺の賊徒は同月18日に足利秀能 (家の子 4人と郎党 2人)に連行され、三條坊門東の洞院から内裏の正親町西の洞院の門前 (路次東の洞院から北に行き、一條で西に折れ、西の洞院を南に行く) を引き回し獄舎に拘禁れた。
見物人が人垣を作り、後鳥羽上皇も御車を大炊御門東の洞院に停めてこれを御覧になった。
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.    ※夷嶋: 義時が執権の時代に北海道の蝦夷 (アイヌ民族) 支配のために 「東夷の治安維持のため、
夷嶋 (北海道の古名) の岬に北條氏の代官 安藤太五郎を派遣した」 との記録がある。
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「蝦夷管領は津軽」とされていたが庁の位置は不明。安藤太は義時の家臣として頭角を現し、鎌倉時代後期の一族は御内人として奥州北部に支配権を広げている。
蝦夷の子孫とも言われるが、彼の出自には諸説があるようだ。
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   ※足利秀能: 東寺の盗賊を捕縛した功労者の1人。3月22日に詳細を記載してある。
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   ※家の子と郎党: 家の子は基本的に当主の一族・縁戚と子弟、郎党は(郎等)は血縁関係のない
当主に従って主従関係を結んだ者。武士と武士の間で主従関係を結んで棟梁の郎党になる例や、家の子と郎党全てを「郎党」と称する例もある。
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   ※京都の地図: 最初に、大内裏の位置が京都御所と異なる
事と、左右の基準は内裏から見た方向なのを理解する必要があるのを覚悟したい。
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資料の記載に従って条里 (Wiki) を辿るのも、手間は掛かって面倒くさいのだが、時には面白い発見もあるからね。
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私は 京都の条坊制について調べる サイトの左上画像の拡大図を使わせて頂いた。
サイトが消えると困るので 勝手にコピーして保存している。
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   ※獄舎: 内裏から見て右 (西) の獄舎はJR嵯峨野線円町駅の近く (地図) 、左 (東) の獄舎は京都府
庁舎西側 (地図) にあった。意外にも 3km弱の距離なのは面白いが、朱雀大路 (概ね現在の千本通) 突き当たりにあった大内裏 (鎌倉中期には既に廃墟) の位置を基にしている。
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右獄の獄門に懸けられたのは 安倍貞任、源義親 (義家の子) 、藤原信西など。左獄の獄門には 源義朝主従、悪源太義平木曽義仲、一ノ谷で討たれた 平忠度ら七人、野洲で斬られた 宗盛親子。後世には越前で戦死した 新田義貞の首もここに懸けられている。
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右獄と左獄、どちらに懸けるのか決める基準は判らない。何かあるのだろうけど。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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6月15日 丙申
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吾妻鏡
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将軍家 実朝が陳和卿を御所に召して対面した。陳和卿は将軍家を三拝して泣き出し、それを不審に思った将軍家に「貴方の前世は宋の国 医王山の長老であり、私はその門弟の一人でした。」 と語った。
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去る建暦六年 (1211) 6月3日の丑刻 (深夜2時前後) に一人の高僧が将軍家の夢に現れて同様の趣を告げた事があった。これは敢えて言葉に出さなかったが、その六年後に陳和卿が語った意味と明らかに符合する。将軍家はそう考えて信仰心を更に深めた。
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   ※医王山: 石川と富山の県境にある 「いおうぜん」 が有名
だが ここでは宋の医王山、阿育王山広利禅寺(参考サイト) を差す。阿育王山が医王山に転じて伝わった、と考えられている。
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アショーカ王 (阿育王) 石塔寺 (共に Wiki) などと共に古代宗教に思いを馳せるのも一興か。
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二本でも同じ山号の寺が薬草や薬師如来に関連している場合が多いが、これらの原典が医薬の資料と共に伝わった宋の阿育王山である。
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例えば 佐藤継信忠信兄弟の菩提寺として知られた福島飯坂の 医王寺 (別窓) は平泉 毛越寺 の本尊と共に運慶が彫ったと伝わる薬師如来を本尊としている。
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  右は東近江市の石塔寺裏山の阿育王石塔と石仏群。私、ここ好きなんだよね。
  遠路に耐えて二度も訪問したけど、また訪問したいと思う場所のひとつだ。
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   ※実朝の信仰心: 陳和卿の言葉が本心か、それとも食い詰めた詐欺師だったのか。単細胞の実朝
は本気で宋に渡ろう (実朝の本音では 「宋に帰ろう」 か?) と考え始める。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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6月20日 壬寅
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保暦間記
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将軍家 実朝が権中納言に叙任となった。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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6月30日 壬子
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吾妻鏡
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京都の使者が参着し、去る20日に将軍家が中納言に叙任された旨を報告した。
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閏月とは
 
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当時の陰暦では季節感の差を埋めるため 3~4年に一度閏 (うるう) 月が入る (今年は 6月の次が閏 6月) 。西暦と陰暦には一ヶ月弱のズレがある事にも留意が必要、例えば頼朝が挙兵した治承四年 8月4日は西暦では 8月25日になる。また、2月は30日まであることも頭に入れておこう。
陰暦→ 西暦の確認や変換は こちらのサイトが利用できる。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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閏6月11日 癸亥
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吾妻鏡
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戌刻 (20時前後) に大地震。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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閏6月14日 癸亥
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吾妻鏡
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(大江を通姓としていた) 中原広元朝臣が今月1日に大江姓に戻った。勅裁 (帝の決裁) の趣旨が 二階堂行光を介して将軍家に伝えられた。これは直ちに御前で書写し保管された。内容は次の通り。
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正四位下の陸奥守中原朝臣広元が謹んで言上いたします。 朝廷の恩恵を受けて先例に従い中原姓を改め大江姓とする申請であります。朝廷の御恩を受けて先例に倣い、中原姓を大江氏に改める願いであります。  ~以下、面倒臭いので中国での先例などを挙げている部分は省略して~
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散位従四位上の大江朝臣維光とは父子の間柄なので跡を継ぐのが道理であります。従四位下の掃部頭中原朝臣廣季には養育の恩を受けておりますが、中原には姓を継ぐ逸材に不足がなく、大江には血縁者が少ないため早く本姓に復して氏の衰退を防ごうと考えます。願わくば朝廷の配慮を受けて先例に依拠し、中原への復姓を許し儒教の道を認可されんことを。
           建保四年六月十一日 正四位下 陸奥守中原朝臣広元
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正二位行中納言 藤原朝臣隆衡より伝える。 詔勅を賜り申請を認める。
           同年後 (閏) 六月一日 大外記兼筑前守 中原朝臣師重 (奉)
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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閏6月24日 丙子
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吾妻鏡
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小河法印忠快六字河臨法 (参考サイト) の祈祷を行なう計画について、陸奥守 大江広元朝臣と信濃守 二階堂行光の奉行として日時などの指示があり、陰陽少允の安倍親職と少輔大夫安倍泰貞らが内容を控えて来月7月1日から29日までの3日を 検討すべきとの結論を出した。
しかし法印は 「上旬と中旬の日程は支障あり、29日に近付けば大きな災厄を招く恐れあり」 と答えた。
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将軍 実朝からは 「明らかに陰陽師の間違いだから彼らの出仕を停止せよ 」 との仰せがあり、二階堂行光がその旨を二人に言い渡して蟄居の処分となった。
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   ※信頼: 法印忠快には実朝が絶対の信頼を置いている。京下りの陰陽師とは言葉の重さが違う。
もちろん坊主の台詞と陰陽師の卜占だから、真実か否かとは別の基準になるが。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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閏6月29日 辛巳
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吾妻鏡
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去る20日の未刻 (14時前後) に前大僧正法務 公胤が死没した (72才) 。風聞では穏やかな往生だった、と。将軍家が帰依していた僧であり、故前幕下 頼朝 「特に気配りせよ」 と言い遺した者である。
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   ※公胤: 天台宗の僧で著名な歌人。後鳥羽上皇と鎌倉幕府の双方に信頼され、建暦元年 (1211) 9月には
政子の依頼を受けて 頼家の遺児 公暁を弟子として預かっていた。
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当初は彼が批判していた 法然と面談してからは念仏に帰依し、曹洞宗の祖 道元には臨済宗の 栄西 への入門を勧めたことでも知られる。法然に帰依したのは理解できるが 「道元に栄西 云々」 の部分は理解できない。宗教者の見識だとすれば、理解が遅すぎると非難されるべきだ。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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7月15日 丙申
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吾妻鏡
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曇天で月食は確認できず。今日、御台所 坊門信子が寿福寺に渡御し亡父 坊門信清の新盆法事を催した。大夫判官 二階堂行村が随行して法事を差配した。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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7月29日 庚戌
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吾妻鏡
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小河法印 忠快が相模河 六字河臨法 (参考サイト) を行なった。将軍家 実朝が出御され、随兵12人が先陣を務めた。続いて六位の者が12人 (水干で野矢を帯す) 。
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  随兵 (二行)
       式部丞北條泰時    左衛門尉結城朝光
       相模次郎北條朝時   長沼五郎宗政
       伊豆左衛門尉頼定  土岐左衛門尉光行
       左衛門尉三浦義村   右衛門尉宇佐美祐茂
       河越次郎重時    筑後左衛門尉八田朝重
       下河辺四郎行時 (行平の嫡子)  伊東兵衛尉祐時
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  狩装束(二行)
       右衛門尉佐貫廣綱   九郎右衛門尉三浦胤義
       小野寺左衛門尉秀道 (藤原秀郷の末裔)  武藤左衛門尉頼茂
       宗左衛門尉孝親   左衛門尉嶋津左衛門尉忠久
       波多野中務丞忠綱  関左衛門尉政綱
       左近将監佐々木監信綱 江左衛門尉能範
       左衛門大夫加藤光員  刑部大夫山内経俊
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  次いで御輿
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  相模守北條義時、武蔵守北條時房、陸奥守大江広元朝臣、大学頭源仲章朝臣・信濃守二階堂行光‬
  大夫判官二階堂行村、左衛門尉小山朝政らが供奉し 後続は一万余騎、無双の壮観である。
  亥刻 (22時前後) に鎌倉に還御された。.


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   ※相模河: 現在の相模川河口 (地図) に近いエリアだが当時は幾筋にも分かれて流れる湿地帯だった。
その中の比較的大きな大きな流路が 橋脚遺跡が出土した小出川だったと推定される。
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   ※野矢: 狩猟に使う矢で、征矢 (戦闘用の矢) よりも粗略な作り。
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   ※森頼定: 源義家の孫である若槻頼隆の次男で森氏の祖、伊豆守。父の頼隆から相模国毛利庄を相続
して森氏を名乗っている。
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   ※土岐光行: 美濃源氏の嫡流 土岐光衡の長男で妻は 東胤頼の娘。承久の乱では西面の武士の立場で
上皇方に与した美濃の武士 土岐判官代として載っている。戦後には土岐左衛門尉の名が吾妻鏡に散見されるため光行と弟の光時が交錯している可能性もあるが千葉氏の口添えで処刑を逃れ (東胤頼が申請した可能性あり) 、美濃の有力御家人として存続した。
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   ※河越重時: 文治元年 (1185) 11月に父重頼 と兄 重房が 頼朝の命令で討たれた。義経の舅だった事が
理由である。義経と娘 (郷御前) の婚姻は頼朝の指示なんだけど...それはさておき、没収した重頼の所領は後に妻の河越尼に安堵され、嘉禄二年 (1226) に重時が継承した。この時点で三代執権となっていた泰時は剥奪していた武蔵国留守所総検校職 (在庁官人筆頭の名誉職) を当主の重時ではなく弟の重員に与えた。河越氏の勢力を分断し北條得宗家の支配下に組み込む政策である。
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   ※伊東祐時: 工藤祐経の嫡子で 曽我の仇討事件後に泣きながら五郎時致の引き渡しを求めた犬房丸。
家督を継ぎ、息子祐光の時代には伊豆流罪に処された 日蓮との接点を持つ。
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   ※武藤頼茂: 系図では 資頼 (武藤氏の猶子) の孫だが、頼茂が直系か否かは確認できない。
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   ※宗孝親: 宗は惟宗氏の略。建久七年 (1196) から安芸国守護に任じていた。承久の乱 (1221年) の際
朝廷側に与して解任されるが、死罪は免れたらしい。
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   ※波多野忠綱: 波多野義通の次男とされている。義盛に与して死没した三郎 (義定) は次弟だから兄弟
が敵味方に別れて戦ったことになり、義定の生母が横山氏の娘だった可能性がある。
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   ※関政綱: 結城朝光を継いだ結城氏二代当主朝広の四男朝泰が関氏を名乗っている。彼の系累を政綱
とする説もあるが、建久元年 (1190) に生まれた朝広が15歳の時の長男と考えてもこの時 11歳では常識外の無理がある。藤姓足利氏の 足利俊綱の四男 有綱の嫡子 佐野太郎基綱の次男広綱の子が政綱を名乗った。この辺が可能性ありと思うのだが、確証が得られない (藤原秀郷の系図を参照) 。
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   ※大江能範: 在京の御家人で西面の武士。後鳥羽院の挙兵に加わり承久の乱後に斬首となった。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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8月 3日 甲寅
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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先月21日の除書が到着した。将軍家 実朝は継続して左近中将兼任である。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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8月15日 丙寅
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で放生会。将軍家 実朝が参宮された。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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8月16日 丁卯
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吾妻鏡
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昨日に続いて将軍家が臨席され、流鏑馬などが通例通りに催された。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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8月19日 丁卯
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の境内地に別当定暁僧都が北斗堂を建立し、今日落慶供養を催した。小河法印忠快が導師を務め、尼御台所 政子も参席された。
夜になって故 伊賀守朝光追善のため永福寺の寺域に塔婆を造立して落慶供養を催した。
導師は荘厳房律師行勇坊門信清、施主は相模守 北條義時の後室 伊賀の方並びに弟の 光宗である。
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その後に他所に移っていた御台所 坊門信子が御所に戻った。故 坊門内府禅室 坊門信清の御事 (死穢)を避けていたためである。
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   ※定暁: 頼家の遺児 善哉は建暦元年 (1211) に八幡宮別当 定暁の下で出家し、満 10歳で 公暁を名
乗った。八幡宮寺別当の初代は 圓暁 (生母は為義の娘だから頼朝の従兄弟) 、二代は尊暁 (圓暁の弟) ~三代定暁~四代公暁 (実朝を斬殺) ~五代慶幸と続き (ここまでは園城寺 (三井寺) 系) 、東寺系に切り替えた六代 定豪~七代定雅~八代定親、次が再び園城寺系に戻って 九代 隆弁となる。定暁の出自は不明瞭で、頼朝の三男 貞暁と同一人物説 (Wiki) もあるが、これは調査を要する。
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   ※北斗堂: 平安時代から隆盛した北斗星を祀る信仰。後には法華宗台頭に伴って妙見信仰 (Wiki)
に変化発展する。
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   ※死穢: 死は恐れの対象で伝染すると考えられていた。死者の遺族は死穢 (死の穢れ) に染まって
いるから隔離して清める必要あり、との考え。現代の塩振りはこの継承である。
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   ※塔婆: 三重塔か五重塔か多宝塔かの記載がないため想像するしかないが、たぶん多宝塔だ。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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8月24日 乙亥
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吾妻鏡
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相模守 北條義時が将軍家 実朝の仰せを受け證菩提寺に於いて故 佐那田余一義忠の追善供養を催した。
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   ※證菩提寺: 横浜市栄区 (地図) の 五峯山一心院證菩提寺 (参考サイト) 。創建の経緯は不明だが
石橋山合戦で死んだ 佐奈田義忠の菩提を弔って頼朝が建立したと考える説が有力。
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創建は文治五年 (1189) あるいは建久八年 (1197) とされ、背後の高台には義忠の父 岡崎義実の墓 (供養墓か?) も残っている。
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   ※皇帝紀抄は: 台風襲来か。強風の被害を多数記録 (下記) が残っているが、吾妻鏡に記載なし。
関西のみの天候だったのかも。
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8/23、戌刻より子刻 (19時~1時頃) まで強風が吹き荒れた。
堂舎や家屋の多くが破損し倒れる樹木も多く、外記庁の桜樹も倒された。更に庁舎の南門と大炊寮の門も吹き倒された。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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9月10日 庚寅
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吾妻鏡
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鎌倉の住人 (御家人身分ではない地侍) 藤井国貞 (名は籐平) が鶴岡八幡宮の御膳役勤務を命じられた。
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   ※御膳役: 神饌 (祭神の食事、Wiki) を供する役目。例えば伊勢神宮や高野山では毎日朝夕二回の
神饌を供しているが当時の鶴岡八幡宮の習慣は判らない、記載例が皆無だ。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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9月18日 丙戌
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吾妻鏡
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相模守 北條義時 大江広元朝臣を招いて次のように語った。
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将軍家 実朝は大将への叙任を願っているようです。右大将家 (頼朝 は官位を与える宣下がある度に固辞して良い運を子孫に残そうとされていたが、今の将軍家は若年なのに壮年に相当する官職を望まれる。これは如何にも性急であります。
御家人らも同様で、京都に仕えずに重い官職に補任されるのは頗る過分で嘆かわしい事です。
私ごときが口出しをしても怒らせるだけでしょうから、貴方が諌めて下さるのは如何でしょうか。
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広元はこれに答えて次のように述べた。
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私も同様に頭を悩ませていました。右大将家 頼朝の時代には度々の下問を頂きましたが、現在は何もないため言葉に出す術がありません。相談して頂けたのは実に有難いことです。
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昔から家臣は自分の器に応じた職に任じるべきだと言われています。今の将軍家は先君(頼朝)の功績を継承しただけで、特に勲功を挙げたわけではないのに諸国を支配しているのみならず、中納言や中将に昇りました。摂政関白の息子でなければ有り得ない待遇で、子孫に良くない影響が及ぶでしょう。早速に私の存念を申し上げるようにします。

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義時は 実朝と 後鳥羽上皇の接近を避けたかった。時政も政子も義時も 「源家の子孫に良い運を
残させたい」 なんて考えない。忠誠心の優先順位は、権力を維持し続ける欲望より遥かに低い。
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一方で広元は典型的な実務官僚で、善悪は判断するが権力者の意向に逆らって正義を貫くほどの気概は持っていない。これは建仁三年 (1203) 9月2日に 北條時政比企能員追討の意思を語った際に、つまり実質的に当時の将軍 頼家の排除計画を告げた際に、「私は頼朝将軍の時代から政治について補佐してきましたが、軍事面での是非は弁えません。討伐は貴方が御判断ください」 と答えた事でも明らかだ。
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選択を迫られたら自己保存に資する道を選ぶのが長年の官僚生活で得た教訓なのだろう。
歴史は、現代にいたっても同じことを繰り返す。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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9月20日 丙戌
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吾妻鏡
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大江広元朝臣が御所を訪れ 相模守北條義時の中使として将軍の御昇進に関する意見を申し述べた。
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「子孫の繁栄を望まれるならば現在の官職を辞して征夷将軍のみに任じ、年齢を重ねた後に大将を兼任されたら如何でしょうか」と。将軍家 実朝はその言葉に対して、
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「諫言の趣旨は至極もっともであるが、源氏の正統は私の代で終わりとなり、子孫が継ぐことはないだろう。従ってただ官職の高さに拠って源氏の家名を上げようと考えている。」と答えた。
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広元は言葉を続けられずに退出し、この旨を義時に伝えた。
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   ※中使: 間で双方の意思を確認するための使者、を意味する。ちなみに実朝はこの時点で24才、
子作りを諦めるほどの年ではないが疱瘡を病んだ後遺症との自覚があったのだろう。
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   ※大将: 近衛大将の略で常設武官の最高職、左右がある。建久元年 (1190) 秋に上洛した頼朝は
権大納言と右近衛大将に任じられたが、短期間 (右近衛大将は10日後) に辞任した。
これは権威を得る代償での様々な拘束を避けたためらしい。
そして実朝は....頼朝の右大将よりも高位の左大将を望んでいた。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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10月 5日 甲寅
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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将軍 実朝は御所の庭で御家人の言葉を聞く習慣を続けた。左衛門尉 海野幸氏は上野国三原荘の境界などについて言上した。

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   ※上野国三原荘: 吾妻郡嬬恋村三原 (地図) で、仁治二年 (1241) 3月25日の吾妻鏡に記載がある。
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海野幸氏と武田光蓮 (信光の法名) が上野国三原庄と信濃国長倉保の境界を争い幸氏が勝訴した。光蓮はこれを恨んで前武蔵守 北條泰時を狙っているとの噂が流れたが、泰時は 「恨まれても理を通すのが優先」 と言って意に介さなかった
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長倉保は現在の軽井沢町長倉 (地図) 、浅間山の東北麓辺りで境界を接していた。寿永二年 (1183) 4月に 清水義高と鎌倉に入った時に11才だった幸氏は既に69才、実兄や父親を陥れて甲斐源氏の棟梁となった信光も79才、光陰はまさに矢の如し。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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10月29日 戊寅
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吾妻鏡
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将軍家 実朝の御願として鶴岡八幡宮の北斗堂 (8月19日に落慶) で一切経の法会 (3月3日参照) を催した。導師は三位僧都 定暁 (8月19日を参照) 。 将軍家と御台所 坊門信子は同じ牛車に乗り、相模守 北條義時が供として従った。陸奥守 大江広元朝臣が今日の法会を奉行した。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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11月12日 辛卯
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の神事である。将軍家(実朝)が出御され中納言中将に昇進された拝賀(神前で礼を述べる)の儀を行った。 相模守北條義時と武蔵守 北條時房以下、前後には供の者が垣根の如く連なった。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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12月23日 壬寅
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吾妻鏡
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将軍家が中納言に叙任されてから最初の 御直衣 (参考サイト、別窓) 始めである。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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12月24日 癸卯
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吾妻鏡
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将軍家 実朝は前世の居住地である医王山 (阿育王山広利禅寺、参考サイト、6月15日も参照) を拝するため唐に渡ろうと思い付いて唐船の建造を宋人の陳和卿に命じ、従者60余名を定めた。結城朝光の差配である。相模守 北條義時と陸奥守 大江広元が再三これを諌めたが聞き入れず、造船が始められた。
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   ※唐船の建造: 清盛の時代には宋との交易は盛んに行われて
いたし鎌倉時代中期にも宋船が六浦 (金沢文庫一帯の入江と河口部分、地図) に寄港して銅銭や陶磁器や香料などを陸揚げしていた。
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その帰り船に乗れば早いのだが、元医王山の長老だったとの自覚を得た (笑) 実朝としては巨大な新造船で故郷に錦を飾りたかった。
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右は阿育王寺の位置(クリック→別窓で拡大)
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阿育王寺で Wiki 検索すれば様々な画像などが確認できる。ちなみに、唐王朝が倒れたのは 907年、次の統一国家 宋王朝は 960年に始まり、モンゴル帝国に吸収合併される 1279年まで 372年 続いている。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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12月 1日 己酉
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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窮状の改善を願う御家人の愁訴が続いていると聞いた将軍 実朝は年内の決裁を担当奉行人らに命じた。
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   ※御家人の窮状: 貨幣経済に伴う収入減、負債の増加、所領細分化などの不況が始まっている。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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12月 8日 丙辰
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吾妻鏡
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伊賀国の壬生野庄は 春日大社領なのだが 宇都宮弥三郎頼綱入道が地頭を称して、年貢に充当する収穫を押領している旨を 興福寺住僧の信賢が訴えている。今日その決裁があり、関東で判断する範疇ではないため記録所で対決するのが妥当との仰せが下された。
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   ※壬生野庄: 現在の伊賀市の滝川流域、川西の川東地区 (地図) 。
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   ※記録所: 荘園の整理を目指した第71代 後三条天皇の命令で延久元年 (1089) に設置した記録荘
園券契所が最初で太政官内の朝所をその事務所とした。天永二年 (1111) には荘園記録所となり、国司と荘園領主との荘園に関する相論 (訴訟) を審議する機関となった。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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12月13日 辛酉
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吾妻鏡
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将軍 実朝が法華堂 頼朝の廟所) に出御され 恒例の法事 (月違い命日) を催し、尼御台所 政子も同席された。導師は和泉阿闍梨である。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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12月20日 戊寅
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吾妻鏡
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富士浅間神社領の済物 (年貢、献納物全てを差す) と朝廷に納める木綿も完納されていないとの指摘があった。京都朝廷に甘苔を運ぶ人夫は必ず今日と明日中に出立せよとの指示があった。
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   ※富士浅間神社: 表記したのは富士宮の本宮神社。他にも
代表的な社として東麓須走の富士浅間神社 (地図)、北嶺富士吉田の北口本宮富士浅間神社 (地図)などが点在している。
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右は境内の鳥瞰 (クリック→ 別窓で拡大)
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いずれも富士山信仰に根ざした古刹で一見の価値あり。特に本宮大社は社殿の東にある湧玉池から溢れた富士山の伏流水が境内横を流れ下り、我が家の犬の遊び場になっていた。帰らぬ日々の、本当に楽しかった思い出は 涙と共に現れる。
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   ※甘苔:甘苔は多分、伊豆の岩海苔だと思う。外海に面した岩場に着く天然の海苔で磯の香りが
とても強く、寒い時期に採れる。空き缶のフタなどを使って掻き取っている風景も、20年近く暮らした伊豆の思い出だ。産まれたのは東京渋谷区の幡ヶ谷なんだけどね。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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12月23日 辛未
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吾妻鏡
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橘左衛門尉公業と御対面された。故右幕下 頼朝から受けていた心の籠った書状を見せ涙を拭って述懐し、将軍家 実朝の憐れみを受けた。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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12月25日 癸酉
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吾妻鏡
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小笠原次郎長清が次のように言上した。
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甲斐国の領所に私が長く信仰を続けている一宇の寺があります。故右大将家 頼朝様の御菩提を祈るため殊に修理を加えてきた寺で、今後は幕府の祈願寺として一村を寄付するのは如何でしょうか。
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将軍家は「祈願寺とする件はその通りに。ただし一村の寄付については追って決める事にしよう。」と仰せになった。中原仲業がこの件を差配する。
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   ※小笠原長清: 甲斐小笠原郷の遺跡については 明野町と櫛形町の史跡を、父の 加賀美遠光の遺跡
に関しては 櫛形町の法善寺を参照されたし。一宇の寺って、何処だろうか?
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2025年
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7月 9日
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晴耕雨読
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漬け込んだ梅酒を収納した押入れの奥から半ば忘れていた「あんず酒」が見つかった。「18年」のシールが貼ってあるから、まだ熱海に住んでいた七年前の2018年に漬け込んだ焼酎の残り、時々飲んでいた妻も完全に忘れていたらしい。
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そう、自宅の庭にあんずの樹が生えていて、最初に群馬県の愛犬家から譲ってもらったメスの子犬に「あんず」、確か台東区で保護された放浪犬のオス犬には「マックス」の名前をつけたっけ。
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私は基本的に焼酎類は吞まないので、何リットル漬け込んだか判らない あんず酒は妻が一人で飲み続けていた、らしい。
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2.5リットルのボトルに半分以上残っている奴をコップに一杯、さっそく頂戴した。うん、甘さが控えめで悪くない、炭酸で割ったら十分に楽しめそうだ。夏の間はビールの代わりに頂こう!
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熱海暮らしの思い出が色々と甦ってきた。ゴムボートでキス釣りに行ってホウボウが釣れた事や、夕方の散歩で連れていたゴールデン・レトリーバの倍もある猪と睨みあった事や、浜辺で大きなウミガメが死んでいた事や、魚市場でバケツ一杯のアジやイワシを100円で買った事や、盆の頃には屋上から網代海岸の花火を楽しんだ事や...そして愛犬が二匹とも死んで、その悲しみを引きずりながら遠く茨城に転居したのだ。人生は切ない。思い出を数えるだけ、なんちゃって。
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園芸日誌を少し整理して 2025年10月の情報を載せた。左目次の 晴耕雨読 園芸日誌 でどうぞ。
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西暦1216年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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吾妻鏡
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保四年
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前年・建暦三年 (1215) の吾妻鏡へ       翌年・建保五年 (1217) の吾妻鏡へ