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建保五年 (1217年)
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西暦・天皇・上皇
和暦・月日・史料
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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1月 1日 己卯
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吾妻鏡
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将軍家 実朝が鶴岡八幡宮に参宮された。
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   ※年令: 源実朝 24歳、 坊門信子 (実朝の正室) 29歳、 公暁 (故 頼家の二男) 16歳、
竹御所 (故 頼家の娘、後の四代将軍 頼経の正室) 14歳、
政子 59歳、 北條義時 53歳 、 北條時房 41歳 、 北條泰時 33歳 、 北條朝時 23歳 、
北條重時 18歳 、
千葉成胤 61歳 、 千葉胤綱 18歳 、 足利義氏 27歳 、 三浦義村 58歳前後 、
三浦泰村 13歳、 安達景盛 46歳前後 、 大江広元 68歳 、
84代 順徳天皇 19歳 、 土御門上皇 21歳 、 後鳥羽上皇 36歳 、
九条道家 24歳 、 坊門忠信 30歳、 近衛家実 38歳、 藤原定家 53歳、
定豪 64歳、 慈円 61歳 、 栄西 前々年死没 (享年74) 、 親鸞 43歳 、 叡尊 16歳 、
        (全て1/1時点の満年令)
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安達景盛は生年不詳だが、頼朝の伊豆配流 10年後に誕生と仮定して年齢を推定した。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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1月11日 己丑
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吾妻鏡
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戌刻 (20時前後) に御所近くで火災あり。
御台所 坊門信子の御乳母および 源仲章朝臣、筑後左衛門尉 八田朝重らの宿館が被災した。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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1月22日 庚子
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吾妻鏡
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将軍家 実朝が鶴岡八幡宮に参宮され、続いて二所詣の精進潔斎を始められた。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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1月26日 甲辰
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吾妻鏡
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将軍家 実朝がニ所詣に御進発。相模守 北條義時が供奉された。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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2月 2日 己酉
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吾妻鏡
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将軍家 実朝が二所詣から還御された。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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2月 8日 丁卯
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の神事が通例の通り、将軍家 実朝が参席された。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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2月19日 丙寅
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吾妻鏡
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右京兆 北條義時の室 (伊賀朝光の娘、伊賀の方)が重服 (近親の喪) のため万年九郎の家に移られた。
この服喪は 去る10日に生母 (山城前司 二階堂行政の娘) が京都で死去した旨を飛脚が伝えた事に因る。
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   ※右京兆: 右京大夫の唐名。律令制で京都の司法と民生などを司った役所で、左京職と右京職に
分かれていた。もちろん義時の官職は名前だけで実務の伴わない名誉職である。
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   ※万年九郎: 北條陪臣か、伊賀氏の縁者か。長野県 鹿毛湯温泉 名所21ヶ所の16番に「万年九郎沼
大明神」 があったのを思い出して念のため調べてみたが、もちろん無関係だった。
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鹿毛湯温泉では定宿 (年に一度程利用してた) が休みで、代替に手配した宿が最悪だった。名前は書かないけど良く覚えている。二階堂氏は藤原南家の子孫で伊東氏にやや近い縁戚関係。「伊東氏の系図」を参照されたし。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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3月 3日 庚辰
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮での一切経法会は通例の通り。式部大夫 北條泰時が将軍家の使者として奉幣された。
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   ※一切経: 経 (釈迦の教え) と律 (僧の規律や生活の姿) と論 (律と経の解釈 ) の三蔵全てを纏めた
仏教の聖典で大蔵経に同じ。正治二年 (1200) 以来、上巳節句 (3月3日) 通例の法会としても概ね定着している。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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3月 4日 辛巳
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吾妻鏡
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申刻 (16時前後) に信濃守 二階堂行光の家が焼亡した。原因は失火、延焼はしなかった。
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   ※二階堂行光: 父親の 二階堂行政の没年は記録にないが長男の行村が久寿二年 (1155) 生まれ、
二男の行光が長寛二年 (1164) 生まれだから既に死没しているだろう。
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行光は尼御台所 政子の腹心として幕政に大きく関与し、実朝が殺された直後には政子の名代として 後鳥羽上皇の皇子を関東の将軍に迎える交渉 (結果は決裂) を担っている。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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3月10日 丁亥
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吾妻鏡
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夕刻、将軍家 実朝が桜花を見物するため御台所 坊門信子と同じ牛車で永福寺に出御された。
まず御本尊に拝礼し続いて花の下を散策、その後に 二階堂行村邸に入って和歌の会を催された。亥の四点になって月あかりの中を御所に還御された。
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   ※亥の四点: 亥刻は21~23時、2時間の5等分だから一点は24分、4番目が亥の四点で22時36分。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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4月 3日 丁亥
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吾妻鏡
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将軍家 実朝が鶴岡八幡宮に御参り。これは恒例の神事に参席のためである。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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4月 5日 壬子
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吾妻鏡
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夜になって小町大路で騒乱あり。式部大夫 北條泰時の家人成田次郎と奥州の住人深沼五郎が喧嘩し、互いに傷を負ったのが原因である。
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   ※小町大路: 宝戒寺門前 (地図) から大町四ツ角まで、若宮大路と並行する鎌倉期の繁華街。
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一方で若宮大路西側の 「小町通り」 は昭和末期から喧騒の代名詞状態になっている下品な観光道路。なんの根拠で 「小町通り」 と名付けたのか知りたいね。
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もう一本、横須賀線の西側に沿って「阿仏尼の墓」から「六地蔵」までまっすぐに南下するのが「今大路 (武蔵大路) 」。こちらは静かだし見所の多い楽しめる散策路だ。
   右は今大路南端にある「六地蔵」
    クリック→ 別窓で拡大表示

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下品で騒々しい、食べ歩きの観光客だらけの小町通よりも遥かに楽しいよ!
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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4月17日 甲子
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吾妻鏡
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宋人の陳和卿が唐船を完成させ、御家人が拠出した数百名の人夫が船を由比ヶ浜に進水させようとした。
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将軍家 実朝の出御と右京兆 北條義時の立会いもあり、信濃守 二階堂行光が全体を差配した。陳和卿の指示で全員が力を合わせ、午刻 (正午前後) から申の斜め (16時過ぎ) まで綱を曳いたが、徒労に終わった。
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そもそも唐船の出入りが不可能な遠浅の浜である。船は浜辺で朽ち果てるのを待つことになる。
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   ※陳和卿: その後は消息不明、伝説の一片も残っていない。
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   ※鎌倉の港湾: 前浜 (由比ヶ浜) は水深が浅いため貞永元年
(1232) に和賀江島のふ頭が完成するまでは沖に停泊した大型唐船から艀 (はしけ) で荷揚げするか、六浦から朝比奈切通しを越える陸路で運搬するしかなかった。
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和賀江島の完成後も、港湾として稼働が本格化するのは、忍性 が極楽寺の開山和尚に任じて港の運営権を得た文永四年 (1267) 以後となる。   右上は和賀江島の鳥瞰(クリック→ 別窓で拡大表示)
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通常は水面下の和賀江島は大潮の干潮には遺構の一部が水面に現れ、歩いて渡れる。以前に渡った時には数個の青磁欠片を拾えたが、今でも同じだろうか。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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5月11日 戊子
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吾妻鏡
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申刻 (16時前後) 、鶴岡八幡宮の別当三位僧都 定暁が腫物を患って死去した。
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   ※定暁: 頼家の遺児 善哉は建暦元年 (1211) に八幡宮の別当 定暁の下で出家し 公暁を名乗
った。八幡宮寺別当の初代は 圓暁 (生母は 為義の娘だから頼朝の従兄弟) 、二代は尊暁 (圓暁の弟) ~三代定暁~四代公暁 (実朝を斬殺) ~五代慶幸と続き (ここまでは園城寺 (三井寺) 系) 、東寺系の六代 定豪~七代定雅~八代定親、次が再び園城寺系の九代 隆弁となる。
隆弁は公暁の 「将軍殺害」 により幕府の援助を失なって零落した園城寺の繁栄を取り戻すのを生涯の責務と考えて 「政僧 」 の道を選んだ、その意味では傑物だった。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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5月12日 己丑
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吾妻鏡
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寿福寺の長老である荘厳房律師 退耕行勇 が御所に参上した。これは相続を争っている者の片方についての配慮を求め、既に数回も同様の申請に及んでいた経緯がある。
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遂には将軍家 実朝も機嫌を損ね、大江広元を介して「仏法に帰依している尊さは理解するが、政治に関与するのは僧の本分を離れている。行動を改めて修行に専念されよ。」と仰せになった。
行勇は心中でこの処遇を恨み、泣きながら寺に戻って門を閉ざした。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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5月15日 壬辰
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吾妻鏡
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将軍家 実朝 寿福寺に入御された。李部 (式部大夫の唐名) 北條泰時と武蔵守北條時房が供に従った。
これは (厳しい言葉を伝えてしまった) 長老の退耕行勇を慰める目的である。行勇は恐縮し、暫く禅室で対面し仏法の法話を交わした。
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   ※武蔵守: 時房はこの年12月12日に武蔵守から相模守に遷任しているが、この時点では武蔵守。
記載順序が 「時房と泰時」 ではなく 「泰時と時房」 となった事実に留意したい。
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義時の死没は7年先で、時房は更にその16年先で没した。泰時の序列を時房より上に書いたのは史実の順ではなく、北條氏が意図的に序列を入れ替えた、その意図だ。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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5月20日 丁酉
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吾妻鏡
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右衛門尉 紀康綱は精勤を重ねているが未だ新恩に浴していない。今日一首の和歌を実朝に献上して不遇を嘆き、備中国 村社郷のうち小埋社町は八代前からの相伝であると言上した。その結果「不輸の地として領掌せよ」との仰せを受け、陸奥守陸奥守 大江広元朝臣がこの件を差配する。
功績は兎も角として提出した和歌に感動を受けたのが理由である。
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   ※不輸の地: 学生時代を思い出す言葉、不輸不入。不輸は租税の一部か全てを免除される権利、
不入は国衙の調査を拒む権利。康綱の素性は不明だが、紀氏の末裔で文官か神祗関連だろう。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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5月25日 壬寅
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吾妻鏡
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将軍家 実朝の持仏堂で文殊菩薩像を供養する法要を催した。導師は寿福寺長老の 退耕行勇。将軍家は以前から持っていた牛玉を布施に贈った。
大江広元は「通例に異なり望ましくない」と言上したが聞き入れなかった。
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   ※牛玉: 漢方薬の 牛黄 (参考サイト) か、東大寺二月堂で行なっているような墨汁、香水、牛黄を
混ぜて描いた護符 「牛玉宝印」 なのか、牛の額に生じる玉状の塊なのか判らない。
従って広元が異議を呈した理由も判らない。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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5月27日 甲辰
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吾妻鏡
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去る建保元年 (1211) 5月に没した 和田義盛らの所領にある神社や仏寺について、義盛の頃と同様に興隆に努めるよう、彼らの遺領を与えられた者に仰せられた。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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5月29日 丙午
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吾妻鏡
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御台所 (坊門信子) が寿福寺に御参りされた。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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6月20日 丙寅
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吾妻鏡
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(故 頼家将軍の息子) の阿闍梨 公暁が園城寺から鎌倉に下着された。
尼御台所 政子の指示に従って (定暁の死去により) 空席となった鶴岡八幡宮別当に補任される。この一両年は (三井寺) 明王院僧正 公胤の門弟として勉学と仏法の修行を続けていた。
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   ※政子の指示: 公暁はこの17ヶ月後に実朝を斬殺する。愚管抄は現場に居合わせた公卿の見聞と
して、初太刀の際に公暁が 「親の敵 (かたき) はこう討つぞ!」 と叫ぶのをはっきり聞いた、と伝えている。
つまり公暁は 「実朝=親 (頼家) のかたき」 と思い込んでいた、と。
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親の仇は実朝だと吹き込んだのは誰か、殺害の場を与えたのは誰か、頼家と同じように実朝も排除したかったのは誰か?史料の読み方次第で、政子が二人の実子を切り捨てたのかも知れない恐ろしい構図の可能性が見えてくる。
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   ※公胤: 天台宗の僧で著名な歌人。後鳥羽上皇と鎌倉幕府 双方の信頼を受けて後に 政子の依頼
を受けて 頼家の遺児 公暁を弟子として預かった。当初は批判した 法然と面談した後は念仏宗に帰依し、曹洞宗の祖 道元に臨済宗の 栄西への入門を勧めた事でも知られる。
何だか一貫性に欠けてる坊主みたいに見えるが...
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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6月21日 丁卯
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吾妻鏡
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吉日のため、将軍家 実朝が御神籬で御祓いを行なった。陰陽の少允安倍親職がこれを奉仕し、右京兆 北條義時がこれを差配した。
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   ※神籬 (ひもろぎ) : 神社や神棚以外の場所で神事を行なう際に神を迎える依り代として設ける。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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7月24日 己亥
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吾妻鏡
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京都朝廷の使者が参着して報告。去る10日から 後鳥羽上皇が御瘧病となり、毎日発作に見舞われている。仏教およびその他の御祈祷を行なっているが効き目が現れない、と。
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   ※瘧病: (おこりやまい) は現代のマラリアか。養老律令の医疾令では典薬寮には瘧の薬を備える
規定があったと伝わる。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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7月26日 辛丑
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吾妻鏡
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山城大夫判官 二階堂行村が使節として上洛の途についた。上皇の病気見舞いである。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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8月15日 庚申
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で放生会、将軍家 実朝出御は通例の通り。還御の後に明月を望んで庚申を守り、御所にいる者を集めて和歌を詠む会を催した。
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   ※庚申: 道教の教えで 庚申の年や日の禁忌を定める信仰。庚申の夜には体内にいる三尸 (さんし)
の虫が体から抜け出してその人の罪過を天帝に告げようとするため、人々はこれを防ぐ目的で不眠の行を行なった。更に詳細は Wikiで。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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8月16日 辛酉
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吾妻鏡
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(昨日に続く放生会に)将軍家 実朝の出御は昨日に同じ。尼御台所 政子並びに御台所 坊門信子も御見物のため馬場の桟敷に出御された。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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8月25日 庚午
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吾妻鏡
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山城廷尉 二階堂行村が京都より帰参した。上皇の病状は7月10日から連日の発作が起きている。
智識の深い高僧たちが各々の祈祷を行っても癒える気配が見えなかったが、25日になって前の陰陽博士道昌が 赤山修学院に於いて泰山府君祭を行ない、その 翌日になって上皇は平癒した。
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これによって道昌は勅勘を解かれ、旧職に復帰した。去る2月、広瀬殿 (御所の一角か?) に白虹が現れたと道昌が奏聞した際に同輩がこれに同意せず 「白虹ではない」 と言上した事により陰陽博士を停職となる処分を受けていた経緯があった。
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   ※泰山府君祭: 陰陽道祭祇の一つ。中国古代の神 泰山府君が仏教の閻魔大王と習合し寿命と富貴
を支配すると共に、侍者の司命神が冥府の戸籍を管理すると信じられた。
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天台宗の円仁が中国から比叡山麓に勧請した赤山明神が泰山府君で、また素戔嗚 (すさのお) や大国主神とも習合し本地垂迹説によって本地地蔵菩薩となった。
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異なる信仰を 「習合」 として無理やり一体化させて何の合理性が保てるのか。
現代語に直して記録するのが時々馬鹿馬鹿しく思えてくる。
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   ※白虹: 白色の虹で霧などの際に見られるが、兵乱の兆しであるとされた。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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9月 4日 戊寅
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吾妻鏡
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午刻 (正午前後) に強風あり。御所の東西に設けられている回廊など鎌倉中の家屋ほとんどが倒壊した。
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   ※皇帝紀抄は: 鎌倉時代中期に成立した歴史書 (著者不明) 。9月3日付で 「強風で朱雀門と左近衛
府南門が倒壊した」 とある。鎌倉の被害はその翌日 (西暦では10月5日) 、少し遅めの台風北上だろうか。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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9月13日 丁亥
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吾妻鏡
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将軍 実朝は海辺の月を眺めようと三浦に渡御。左衛門尉 三浦義村が特に丁重な接待の席を設けた。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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9月30日 甲辰
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吾妻鏡
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永福寺では初めての舎利会 (仏舎利を供養する法要) が催された。尼御台所 政子、将軍家 実朝、ならびに御台所 坊門信子が出御された。法会の内容も舞楽の奉納なども華美を尽くしたものだった。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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10月11日 乙卯
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吾妻鏡
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阿闍梨 公暁が鶴岡八幡宮別当職を補任されてから初めての神拝を行なった。また宿願があり、今日から千日間の宮寺参籠をされる、と。
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   ※宮寺参籠: 公暁の宿願は実朝殺害と匂わせるか。実朝殺害計画の決行まで、あと 450日。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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11月 8日 壬午
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吾妻鏡
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陸奥守 大江広元朝臣が目の疲れと腫物が重なり体調を崩した。今日 七座の如法泰山府君祭を催す。
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   ※泰山府君祭: 8月25日の記事を参照されたし。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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11月 9日 癸未
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吾妻鏡
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大江広元朝臣の病状が重篤と聞いた右京兆 北條義時は見舞いのため彼の屋敷に渡御された。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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11月10日 甲申
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吾妻鏡
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陸奥守 大江広元は獲麟を感じたため延命を祈って出家し法名覚阿を称した。将軍家 実朝は左衛門尉 結城朝光を見舞いの使者として派遣した。
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   ※獲麟: 麒麟 (キリン) を獲る、の意味。孔子春秋 (共に Wiki) を著した最後に「西に狩りして
麒麟を獲たり」の文字で絶筆し間もなく没した事から 絶筆、物事の終焉、 臨終、などを意味する。これには 逆説的な孔子の意図 (Wiki) がある事にも留意されたし。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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11月17日 辛卯
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吾妻鏡
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大江広元の出家にで空席となった陸奥守は右京兆 北條義時の兼任とするよう京都朝廷に申し入れた。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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12月10日 癸丑
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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前大膳大夫入道覚阿 大江広元の病気が平癒し今日穢れを清める沐浴を行なった。まだ視野が暗く、黒白の判別もできない状態である。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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12月24日 丁卯
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吾妻鏡
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右京兆 北條義時が去る12日から陸奥守兼任となった事に謝するため御所に参上し、美作左近大夫朝親がこれを取り次いだ。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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12月25日 戊辰
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吾妻鏡
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夜に入り 将軍 実朝は御方違えのため永福寺内の僧坊に渡御された。御剣持ちは宮内公氏、相模式部大夫 北條朝直、左衛門尉 結城朝光、山城判官次郎基行が騎馬、李部 北條泰時以下は徒歩で従った。
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非公式なので出迎えなし、二階堂行村が僧房に獣形一式と桃九枝を届けさせ終夜の連歌会を催した。
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   ※宮内公氏: 実朝の側近。建保七年 (1219) 1月に殺害される前の実朝から形見として髪の毛一筋
を受け取る異様な体験をする。
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   ※山城基行: 後藤基清の養父 実基の兄弟だと思うが確信が持てない。実基は平治の乱で悪源太
義平に従って戦い、戦後は頼朝の妹 坊門姫 (後に 一条能保の室) を養育した。
源平合戦では義経に従って戦い、屋島の合戦では平家の陣屋を焼き払っている。
一方で基清は、承久の乱で上皇方に与し乱の終結後に嫡子 基綱に斬首された。
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   ※獣形: 儀式の際に張り渡した幔幕。白綾の中央に金色の太陽、左右に瑞雲、竜虎、麒麟、獅
子、天馬を五色の糸で刺繍したもの、と伝わる。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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12月26日 己巳
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吾妻鏡
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将軍家 実朝は未明に御所に還御された。御衣二領を彼の僧坊に残し、一首の和歌を詠んで副えられた。
このような時には配慮に満ちた御芳情を見せられるのが常である。
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        春まちて かすみの袖に かさねよと しもの衣を 置てこそゆけ
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2025年
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7月11日
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晴耕雨読
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妻が種から育てたポットの日々草 (赤白 混色 ) が咲き始めた。
花色が判ってから大鉢に植え替えるつもりが 少し多すぎたため門からのアプローチ (先月まで苧環 (おだまき) が咲いていた) 跡を埋めきれず「花壇が欲しい」と言い出した。
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  右上はその一部、クリック→ 別窓で拡大表示
    更に あと2ケース、約30ポット残っている、と!

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今年はスイカ三株と小カブ半うねとオクラ半うねなどを増やしたため、もう空いているスペースがない。
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熟考した結果、多少陽当たりは良くないけれど一年草なら何とか使えそうな、リビングの陽除けを兼ねて植えているキュウリ棚の前の通路を隔てた向かい側、サツキの植え込みの前を利用する事になった。
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 右下は今日の午前中に何とか形になった中庭の花壇、手持ちのレンガを並べて、一応完成。
  日曜日の食品買い出しの際にホームセンターでレンガを買い足す。 クリック→ 別窓で拡大表示

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完成サイズは長さ約 270cm、中央の最大奥行きは約 80cm。
雑草を全て抜いて深さ20cmまで掘り返し 牛糞堆肥約20ℓ、腐葉土約15ℓ、発酵鶏糞5ℓ、化成肥料を少々梳き込んだ。
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費やした労働時間は8時~11時、現在キュウリを這わせているネットがあと二週間ほどで収穫済みになって外せるから、リビングから日々草が満開の花壇が眺められるはず、その時にはこの定番場所でお見せできる、と思っている。
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妻が何かの花苗を追加しないと良いのだが。個人的には一年草よりも多年草や球根の方が好きなのだけど。
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園芸日誌を少し整理して 2025年10月の情報を載せた。左目次の 晴耕雨読 園芸日誌 でどうぞ。
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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吾妻鏡
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記事
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西暦1217年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保五年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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