当サイトのトップ頁は http://kamakura-history.holy.jp/frame-000.html です。
.

建保六年 (1218年)
.
前年・建保五年 (1217年) の吾妻鏡 へ       翌年・建保七年 (1219年) の吾妻鏡
.
吾妻鏡 写本 (伏見本) の全ページ画像 を載せました。直接 触れるのも一興、読み解く楽しさも味わって下さい。
.
トップ頁は フレーム表示の 吾妻鏡を読む です。タグ記述を Google Crome に変更して誤字・脱字・行間も改善しました。

.
下線なしの青文字 はサイト内での移動です。下線付き青文字 は Wiki、公式サイト、参考サイト、地図 など、別窓での表示です。
.
西暦・天皇・上皇
和暦・月日・史料
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
1月 1日 癸酉
.
吾妻鏡
.
正月元旦の記録なし。
.

.
   ※年令: 源実朝 25歳、 坊門信子 (実朝の正室) 30歳、 公暁 (故 頼家の二男) 17歳、
竹御所 (故 頼家の娘、後の四代将軍 藤原頼経の正室) 15歳、
北條政子 60歳 、 北條義時 54歳 、 北條時房 42歳 、 北條泰時 34歳 、 北條朝時 24歳 、
北條重時 19歳 、
千葉成胤 (4/10没 享年63) 、 千葉胤綱 19歳 、 足利義氏 28歳 、 三浦義村 59歳前後 、
三浦泰村 14歳 、 安達景盛 47歳前後 、 大江広元 69歳 、
84代 順徳天皇 20歳 、 土御門上皇 22歳 、 後鳥羽上皇 37歳 、
九条道家 25歳 、 坊門忠信 31歳、 近衛家実 39歳、 藤原定家 54歳、
定豪 65歳、 慈円 62歳 、 親鸞 43歳 、 叡尊 16歳 、
        (全て1/1時点の満年令)
.
安達景盛は生年不詳だが頼朝の伊豆配流 10年後に誕生と仮定して年齢を推定した。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
1月12日 甲申
.
吾妻鏡
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
大夫判官 後藤基清の飛脚が京都から参着して次の通り報告。
.
去る三日に白河付近で基清が謀叛人を捕縛した。郎従の多くが傷を負ったが最後には首魁の首を挙げた。彼は伊勢平氏の残党 掃部権助平正重、驕奢な飲食などによって仲間を募っていた者である。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
1月13日 乙酉
.
吾妻鏡
.
将軍家 実朝が鶴岡八幡宮に御参詣。
.

.
   明月記源朝臣実朝が権大納言正二位に叙された。 建保六年正月十三日
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
1月15日 丁亥
.
吾妻鏡
.
政所に於いて 尼御台所 政子の熊野詣が決定。相模守 北條時房が供として同行する。
.

.
   ※相模守: 前年の12月12日に前任の 北條義時に替って相模守に任じている。義時は 大江広元
出家と辞任に伴って陸奥守に任じていた。武蔵守は一時的に義時が兼任した後に空席となり、承久元年 (1219) 11月13日に 北條泰時が補任となる。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
1月17日 己丑
.
吾妻鏡
.
将軍家 実朝が讃岐国司を推挙するつもりだから早急に (朝廷に) 申し入れるよう 京都守護の駿河守 中原季時に命じた。式部大夫 北條泰時朝臣を讃岐国司に任じる要望である。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
1月21日 癸巳
.
吾妻鏡
.
京都朝廷の使者が鎌倉に入り、去る13日に将軍家 実朝が権大納言を任じられた旨を報告した。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
2月 4日 丙午
.
吾妻鏡
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
尼御台所 政子が相模守 北條時房を供に従えて御上洛の途に付いた。
目的は熊野詣だが、同時に故 稲毛三郎重成入道の孫女 (16歳、生母は綾小路二品師季卿の娘) を伴っている。これは侍従の土御門通行朝臣 (源通親の五男) に嫁がせる予定である (同月21日に入洛された)。
.

.
   鎌倉年代記尼御台所が熊野参詣のために上洛、相模守 北條時房が従っている。
.
   ※政子の上洛: 実朝の後継問題解決が目的である。政子は藤原兼子 (後鳥羽天皇の乳母) の推挙を
受けて出家後の女性としては異例の従三位に叙された。
結果として、兼子が養育していた頼仁親王 (実朝の妻 坊門信子の甥) を次期将軍候補にする事で二人の合意が成立していた。
政子はこの年11月に再び兼子の推挙を受けて従二位に昇叙する。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
2月10日 壬子
.
吾妻鏡
.
大江広元朝臣が将軍家 実朝の命令を受けて使者を京都に派遣した。これは将軍家が大将の地位への昇叙を所望されているためである。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
2月12日 甲寅
.
吾妻鏡
.
波多野弥次郎朝定が使節として上洛の途に付いた。
大将の地位について、「右大将ではなく 更に上位の左大将に任じられるよう申請せよ」 との内容である。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
2月14日 丙辰
.
吾妻鏡
.
辰刻 (朝 8時前後) に将軍家 実朝が二所詣に出発された。
.

.
   愚管抄2月18日に次の記載がある。
.
西園寺公経後鳥羽上皇に大納言への昇進を求めて拒まれた時 「鎌倉に依頼すれば」 と漏らした言葉が勅勘を受けて謹慎になったが、18日に許された。」、と。
.
実朝の口添えは特に即効ではなかったが公経は翌年に大納言に昇っているから後鳥羽院の一時的な怒りだったらしい。
天皇家との縁戚関係が深かった公経は 頼朝に厚遇された 平頼盛の曾孫であり、妻は 一条能保の娘 (生母は頼朝の妹 坊門姫) 、実姉は 藤原定家に嫁している。
.
(1221年に勃発する) 承久の乱での公経は上皇の挙兵に反対して幽閉されても幕府に情報を提供して勝利に貢献した。孫の一人は鎌倉四代将軍に着任した 藤原頼経である。
.
「幕府に追従して保身と我欲の充足に汲々とした奸物」 との評価が一般的ではあるが。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
2月19日 辛酉
.
吾妻鏡
.
将軍家 実朝が二所詣から還御された。その途中で御馬一疋が理由もなしに突然死ぬ事件が起きた。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
2月23日 乙丑
.
吾妻鏡
.
京都朝廷の使者が参着して報告。鎌倉から讃岐守を推挙する件については、去る12日に 後鳥羽院に奏上した。早急に任じる者を上申せよとの仰せを承った、と。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
2月24日 丙寅
.
吾妻鏡
.
新補地頭 8人が伊豫国 (愛媛県) に出発した。各郡ごとへの任命である。
.

.
   ※新補地頭: 補任は交代で、新補はそれまで鎌倉幕府の地頭を置いていなかった土地 (例えば、
平家から没収した所領など) への着任を差す。
伊予国には貞観八年 (866) ~明治初期まで 14郡が置かれていたから、鎌倉幕府がその中の八郡の支配権を新たに得た、という事になる。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
3月16日 丁亥
.
吾妻鏡
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
波多野次郎朝定が京都から鎌倉に参着。去る6日の除書 (任命書) を持ち帰り、将軍家 実朝が左近大将を兼任となった。朝定が入洛するまでは 故右大将軍 頼朝の例に倣って右大将に任じようとしたが、実朝が辞退する姿勢を見せたため朝定の入洛に合わせて急遽変更、朝廷の使者が博陸 (関白) 近衛家実の屋敷を数回往復する結果になった。この聞書 (除書を聞き写したもの) は安芸権守藤原範高が将軍家の御前に呈上した。
.
    侍従藤原範有  兵部権大輔藤原頼隆   勘解由次官平範輔
    出羽城介藤原景盛 (安達景盛を差す)     伊豫守藤原実雅     (兼) 左近大将源実朝
    少将藤原盛兼    右近少将藤原能継  左衛門権佐藤原経兼
    雑任これを略す (三十余人か) 。
    従三位藤原資家   従四位下平宗宣
.
まず藤原右衛門尉景盛を御前に召し、聞書 (範高が御前で更にこれを書写したもの) を賜えた。これは出羽権介に任じたのが理由である。景盛の恐縮と喜悦は顔色に現れた。この職は醍醐天皇の昌泰二年 (899) 以後は途絶え、後冷泉院の永承五年 (1050) 9月に平繁盛が任じた後に再び途絶えて適任者がないまま現在に至った珍しい例である。
.
また先月18日に文章博士 源仲章朝臣が進講のための昇殿が許され、翌19日に宣下された。これは関東の推挙ではあるが、朝廷による貴重な配慮でもある。
.
将軍家は波多野朝定を御簾の下に招き御剣を下賜された。使節の任に当っての忠節を賞した故である。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
3月18日 己丑
.
吾妻鏡
.
権少外記の中原重継が勅使として鎌倉に到着。これは去る6日に発せられた将軍家を左馬寮御監に任じる宣旨の状を持参したものである。まず鶴岡八幡宮の廻廊に着座し、その後に前大膳大夫入道 大江広元の沙汰として宿舎を手配して勅使を招いた。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
3月23日 甲午
.
吾妻鏡
.
今日の良い日和に勅使の中原重継が御所に参上した。日和を待つ間は御家人に命じて接待が行われ、午刻 (正午前後) に重継は西廊に参上し、狩衣の右京兆 北條義時が取り次ぎ、暫時して御直衣の将軍家 実朝が出御され車寄の間を隔てる簾を上げて御対面となった。
.
重継は摺り膝で進み大外記師重が書した宣旨の状を笏の上に置いて献上した。将軍家はこれを受け取って奥へ入御し、その後に重継を寝殿の東面に招いて盃酒と共に馬二疋 (一疋は鞍を置く) を与えた。
.
馬を引いたのは佐々木太郎左衛門尉高重と小野寺左衛門尉秀道 、重継は庭に降りてこれを受け取り一礼して退出した。
.
今日、常陸国志筑郷内の願成寺住僧らが鎌倉に入り、「検注使が寺領に入り新しい基準を以て査定している。」と訴えた。これを停止せよとの指示があり、右京兆 北條義時が命令を下した。
.

.
   ※検注使: 所領の年貢徴収の基準を定めるため荘園領主や国司が田畑の面積や収穫を調査させる
役人を差す。
.
   ※佐々木高重: 佐々木四兄弟の次男 経高の嫡男。承久の乱では父と共に院方に与して討死する。
.
   ※小野寺秀道: 小野寺道綱の弟で、道綱の養子として跡を継
いだ。道綱の父とされる藤原義寛は藤原秀郷の末裔を称し、源為義 に従って東国を転戦した。下野国都賀郡の小野 (現在の小野寺、東北道の岩舟 JCT一帯) の地を得て大慈寺 (地図) を建てたのが始まりである。
.
一時期の道綱は平家に従い 知盛 旗下の宇治川合戦で 頼政と戦ったが、後に 頼朝 に帰服し御家人として奥州合戦にも加わっている。
.
東北道 側道沿い (都賀郡小野寺) に道綱の墓石が残り (右画像、クリック→ 別窓で拡大地図) 、約500m東の住林寺 (浄土宗の一派の 時宗地図) は承久の乱 (1221年) で戦死した道綱の菩提を弔って親族が建てたと伝わる。
.
ここは全国の小野寺氏発祥の地であり、小野小町の出身地を主張している数多い場所の一つでもある。
.
   ※常陸国志筑郷: 現在は合併して茨城県かすみがうら市となった旧・志筑村 (地図)
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
3月24日 乙未
.
吾妻鏡
.
巳刻 (10時前後) に勅使の重継が帰洛の途に就き、将軍家 実朝は右衛門尉 三浦胤義を介して鞍を置いた馬三疋と砂金百両を贈り労を労った。勅使の出発に当たり 李部北條泰時ならびに大夫判官 二階堂行村、左衛門尉 小山朝政らが仰せを受けて固瀬の駅 (江ノ島の入口、地図) まで重継を見送った。重継は恐縮して前に進まず礼を述べたため、御家人はここから引き返した。
.
また将軍家は北條泰時を讃岐国司に推挙すると仰せになったが、過分を称して固辞したため、その旨を 後鳥羽院に奏上するよう重継に依頼した。
.

.
   ※李部: 官吏の任免と評価を司る役所、または同じ役目を司る式部省の唐名。鎌倉幕府での同じ
職務は侍所が担当しており、長官の別当職は幕府草創以後は 和田義盛梶原景時 (滅亡後は義盛が再任) → 和田合戦で義盛滅亡→ 北條義時→ 泰時と、変遷している。
.
泰時の着任は建保六年の7月22日だが既に所司 (次官) として実務を担っており「人事を握る者」として「李部」を冠したのだろう。ズルズルと既成事実を重ねるのも北條氏の常套手段。
.
   ※泰時の固辞: 栄華を求めず清廉潔白な生き方を貫く泰時、吾妻鏡は同様の事例を数ヶ所載せて
いる。北條氏のための史書には彼の能力を過大評価する必要があった。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
4月 7日 戊午
.
吾妻鏡
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
千葉介成胤の病状が重篤で心身ともに苦悩している。将軍家 実朝はこれを見舞うために 東平太重胤を派遣し、子孫には特に配慮を与える旨を伝えさせた。忠節を賞するためである。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
4月10日 辛亥
.
吾妻鏡
.
午刻 (正午前後) に千葉介平成胤が死去した。千葉介胤正の息子である。
.

.
   ※千葉成胤: 千葉胤正の嫡男で千葉氏五代棟梁、母は上総広常の娘。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
4月14日 辛亥
.
鎌倉年代記
.
右大将家 源頼朝の後室で遠江守 北條時政の娘 (政子を差す) が従三位に叙された。
.

.
   ※後室: 要するに、後妻。最初の妻は (吾妻鏡も「妻」として
いる) 伊東祐親の三女 八重姫 (政子の叔母)。
.
頼朝と別れた後は父に再婚を強要 (伊東の伝承は義時っぽく描いている) され、後に伊豆韮山の北條邸で政子と同棲していた頼朝を訪ねるのだが...
政子に追い返されて絶望の末に入水自殺となる。
.
頼朝と八重姫の恋物語、二人の出会いと破局は
鎌倉時代を歩く 壱 (別窓) の 「その九 再び伊東へ 曽我物語の原点を遡って」 に詳細を載せた。
.
右は頼朝と八重姫が密会を重ねた伊東の音無神社。 クリック→ 別窓の詳細ページへ。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
4月29日 庚午
.
吾妻鏡
.
申刻 (16時前後) に尼御台所 政子が鎌倉に還御の途に就いた。南山御奉幣 (熊野詣) は無事終わったが、在京されている間に特筆すべき事件があった。
去る4日に 後鳥羽上皇 が大秦殿 (広隆寺 (Wiki) を差す) に行幸され御車 (牛車) の行列を整え三條河原 (天神川三条(この辺か?) の近くに停めて (政子の行列を) 見物された。
.
同じく14日に尼御台所を従三位に叙すると宣下され、筆頭公卿の中納言 三条実宣卿 (Wiki) が参内して清範朝臣により叙書を尼御台所の宿舎に届けさせた。この件は朝廷でも相当の議論になったらしい。
.
出家した人物に叙位を与えた前例は 道鏡 (Wiki) の他に見えず、女の叙位としては准后 (太皇太后、皇太后、皇后) に限る (安徳天皇の外祖母 平時子) の例はあった。
.
また知足院殿 (藤原忠実卿、Wiki) の御母儀准后 (藤原全子、Wiki) もまた、出家以後の叙位である。これらの前例に配慮しつつ御台所の叙位を決定した。
.
同15日、仙洞 (院の御所) から対面を許す旨の仰せがあったが、「年老いた辺鄙 (田舎) の尼が上皇の尊顔を拝するなど滅相もない、遠慮させて頂きます」と笑いながら答え、諸寺巡拝の予定を中止して直ちに鎌倉に下向した。
.

.
   ※道鏡: 巨根伝説でも有名だが、彼の左遷は皇位を巡っての
勢力争い (天武天皇系を排した天智天皇系の皇位継承の正当化) の結果だった。
つまり繰り返される勝者による史実の捏造、ね。
.
  道鏡は 座ると膝が 三つでき  江戸川柳
.
哀れな道鏡は下野国薬師寺の別当に左遷され間もなく死没。薬師寺に近い龍興寺の塚に葬られた。
.
詳細は 下野東山道の史跡 (別窓) 末尾の参照を。
ここには 鑑真和尚 の慰霊墓もあり、薬師寺跡などと併せて一見の価値がある。
.
薬師寺跡を見学する駐車場を併設した 下野薬師寺歴史館 (公式サイト) も見応えあり。
.
  右画像は道鏡塚の裾部分  画像をクリック→別窓で拡大表示
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
5月 4日 甲戌
.
吾妻鏡
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
尼御台所 政子の上洛に同行した相模守 北條泰時が京都から下着された。尼御台所は先月15日に京都を出発したが、後鳥羽上皇の蹴鞠の会に参席するため逗留を延期したとの経緯である。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
5月 5日 乙亥
.
吾妻鏡
.
泰時が将軍家 実朝に召されて御所に参上し洛中の様子を問われ、それに答えて次のように語った。
.
まず先月8日の梅宮大社 (公式サイト) の祭礼に出御の際、私の蹴鞠を見たいとの内々の仰せがありました。右大将 久我通光 (Wiki) は半蔀車で随臣上臈 (高位の随臣ら) を伴って顕官 (高官) の威厳を示しており、いずれも私を見物する意図だったようです。
.
同14日、御所での蹴鞠の会に初めて加わりました。着衣は布衣 (顕文紗の狩衣に白の裾括り袴) 、息子次郎時村は二藍布の狩衣 白の狩袴で公卿の座の濡れ縁に控え、上皇は御簾を上げ私共を眺めました。
.
15日と16日は続けて参上し、「蹴鞠の技術を良く習得している」とのお言葉を頂きました。あらかじめ院に出仕する作法を知らないと申し上げましたので、尾張中将 清親卿 (故 坊門信清卿の甥) の補佐を頂いたのは生涯忘れられない恩であります。
.

.
   ※顕文紗: 下に着る衣の色で模様が浮いて見える織り方の
紗。二藍布は藍の下染めに紅系の色を重ねる染色技術。
.
   ※半蔀車: 開閉できる物見窓を付けた牛車。高位の公卿や
上皇や高僧、上﨟も使った。Wiki 画像を参照。
.
   ※久我通光: 従一位 太政大臣で久我 (こが) 家の始祖。右は
久我家の子孫、昭和21年 (1946) 以後の銀幕で活躍した美人女優 久我美子さん。
.
 拡大画像なし、セルフで探して下さいな。
.
   余談です: 池大納言家領を相続した 平頼盛の孫娘は村上源氏の嫡流 久我 (こが) 通忠の後妻と
なり 自分が相続した池大納言家の財産を使って没落寸前だった名門久我家の再興を成し遂げた、と伝わる。
.
そして久我通忠から31代目の子孫 久我通顕の長女が 戦後の美人女優 久我美子さん (Wiki) 。彼女は映画女優として人気を集め、敗戦後に華族院議員の待遇を廃止され経済的に破産状態だった久我家の窮状を救った。既に生活の基盤を無くしていたにも拘らず 当主の通顕氏は 「女優という卑しい職業を生涯許さなかった」 と伝わる。
.
700年以上の間隔で起きた久我家のピンチは、二度とも女性が救った珍しいお話。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
5月 9日 己卯
.
吾妻鏡
.
女房の三條局 (督典侍藤原範盛の娘) が京都より帰参した。亡父の越後法橋 範智の粟田口邸に堂を建てるため上洛していた女官である。先月8日に落慶供養を済ませ、その3日以内に尊長法印が急いで垣根を設けた。花山院右府 藤原忠経 (Wiki、生母は 清盛の娘) が被物十重を贈り、布施を渡した公卿は 前中納言藤原範朝、宰相中将経通、刑部卿宗長、三位兼季らである。
.

.
   ※三條局: 史料では法橋範智 (頼朝の生母由良御前の兄) の娘、 頼朝の母方の従姉妹される。
.
   ※尊長: 一条能保の四男で 後鳥羽上皇の近臣。承久の乱 (1221年) に敗れて逐電し六年後の嘉禄
三年 (1227) に京で捕縛されたが自殺を図って重体となり 「さっさと首を斬れ、さもなくば 義時の妻 (伊賀の方) が義時に飲ませた毒薬で俺も殺せ」 と叫んで立ち会った者を驚かせた、と伝わる。叫んだ内容を含めて、この情報の真否は疑われているらしいけれど。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
5月25日 乙未
.
吾妻鏡
.
右近衛少将の一条能継朝臣が鎌倉に参着。
.

.
   ※一条能継: 一条能保の嫡子 高能の子。今回は将軍家 実朝の左大将拝賀の式典に出席のため下向
し翌年一月には実朝の右大臣拝賀式にも参席している。叔父 (能保の兄弟) の信能と尊長は承久の乱の罪を問われ殺されるが、能継と兄の能氏の消息は判然としない。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
6月 8日 戊申
.
吾妻鏡
.
戌刻 (20時前後) 、東方に白虹が見えた。ただし ちぎれ雲が多いため星がはっきりと見えない。夜半に降雨があり白虹も消えてしまった。
.

.
   ※白虹: 白い虹で霧などの際に見られ兵乱の兆しとされた。建保五年 (1217) 8月25日にも現れて
いるが、特に兵乱は起きなかった。今回は実朝暗殺の予兆を暗示しているのか。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
6月11日 辛亥
.
吾妻鏡
.
卯刻 (朝6時前後) 、西の方角に五色の虹が現れた。上の一重は黄色、次に五尺余りの赤色を隔てて青、濃紅の梅である。その中間の特に巾広い赤色が天地に反射し暫くして消え、降雨となった。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
6月14日 甲申
.
吾妻鏡
.
新たに蔵人に任じた 大江時広が京都から参着。先月17日に蔵人に任じ、27日に初めて出仕した。
今回は将軍家 実朝の左近衛大将拝賀の前駆を務めるため28日に出京し、任務の終了後に帰還する旨を奏上しての下向である。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
6月17日 丁巳
.
吾妻鏡
.
伊予少将 藤原実雅と花山院侍従 藤原能氏が去る12日に京都を出て鎌倉に到着した。これは将軍家 実朝の左大将拝賀の式典に列するためである。同様に 源仲章朝臣も鎌倉に入った。
.

.
   ※藤原能氏: 一条能保の長男 高能の長男。5月25日の条を参照。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
6月20日 庚申
.
吾妻鏡
.
内蔵頭藤原忠綱朝臣が勅使として鎌倉に到着 (去る5日に京都を出発) 、申刻の斜め (17時頃) に右衛門尉 中條家長の若宮大路邸に入った。
まず牛車が二輌、御拝賀に用いる調度 (嚢 (袋) に収納) を担う人夫が数10人、次に騎馬の忠綱朝臣が供侍10人を伴ない、後騎に40余人。また一條中将 一条信能朝臣も同様に下着した。
.

.
   ※藤原忠綱: 院の近臣。実朝没後の承久元年 (1219) 3月に院の使者として鎌倉で弔意を伝えると
共に雅成親王 (後鳥羽院の皇子) を次期将軍として鎌倉に送る見返りを要求した。
.
摂津国長江荘と倉橋荘 (共に院の愛妾亀菊が所有、現在の大阪市淀川区から西淀川区の一帯、後鳥羽院領) の地頭更迭を求めている。
これは幕政の根幹を乱すと考えた義時が拒絶、時房に千騎を与えて京都に送り恫喝交渉を試みるが、双方が妥協せず決裂してしまう。
.
結果、6月に 九条道家の子 三寅 (後の四代将軍 藤原 (九条) 頼経) を鎌倉に迎えた。
承久の乱直前、8月の 愚管抄 (Wiki) は 「後鳥羽上皇は藤原忠綱を殿上人として内蔵頭に任じたのが失敗だったと考え、解官して所領を没収し追放とした。これにより悩み事が消え去った」と書いている。
失脚した忠綱のその後については史料に見当たらない。
.
   ※一条信能: 承久の乱後に首謀者の一人として処刑。一条家の血筋を参考に、一條能保の子は上
から、嫡子 高能、信能、実雅、尊長。高能の子は能氏、行能、嫡子 頼氏、能継。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
6月21日 辛酉
.
吾妻鏡
.
午刻 (正午前後) に藤原忠綱朝臣が京都から運んできた道具などの調度を御所に運ばせた。牛車が二輌 (檳椰と半蔀) 、九錫の彫弓、左大将の御装束、御随臣の装束、古式の移鞍 (参考サイト) など、全て仙洞 (院の御所) が調えて下さったもの。源仲章朝臣が奉行としてこれを受け取った。
.
暫くして将軍家 実朝が忠綱朝臣を簾 (みす) の中に招いて対面し朝廷の行き届いた配慮に謝意を表した。面談の後に忠綱朝臣は退出した。
.
夜になって池の前兵衛佐平為盛 (頼盛の次男) 朝臣、右馬権頭頼茂朝臣らが到着、この御拝賀に立ち会うため参向した人は既に数人となり、御家人に命じて設けた接待の席と贈物は華美を尽くした。これらが全て庶民の負担になるのは言うまでもない。
.

.
   ※檳椰と半蔀: 屋根を檳椰 (晒したヤシの葉) で葺いた窓付き牛車。高位の公家などが利用する。
.
   ※九錫の彫弓: 九錫 (Wiki) を参照。弓は間違いないが具体的には判らない。
.
   ※庶民の負担: 北條シンパの吾妻鏡編纂者は清廉な 泰時と驕奢な実朝の対比強調が望みだから。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
6月27日 丁卯
.
吾妻鏡
.
将軍家 実朝が左大将に任じた事を謝する拝賀のため鶴岡八幡宮に参宮する。早朝に二階堂行村が指示を受けて拝賀を行なう旨を下向していた雲客 (殿上人) らに触れ回った。申の斜め (17時前後) にまず南面に出御し、文章博士が車寄の間に控えて反閇を行い、陰陽権助忠尚が廊下の妻戸に入り御祓い (いずれも衣冠束帯)、伊豫少将藤原實雅が牛車を寄せ、南門を出御して西へ。
.
  行列
     居飼 (牛の世話係)四人 (二人づつ二列)
     御厩舎の担当官四人 (二人づつ二列)
     一員 (随行の官人、一列)   府生狛盛光  將曹菅野景盛  将監中原成能
.
  殿上人 (一列)
     新蔵人時廣 一條大夫頼氏 花山院侍従能氏 一條少将能継 伊豫少将實雅 前因幡守師憲
     右馬権頭頼茂朝臣 前左兵衛佐為盛朝臣 文章博士仲章朝臣 一條中将信能朝臣
.
  前駆笠持ち (十六人)
.
  前駆 (二行)
     左近蔵人仲能  左近蔵人親實   左近大夫朝親     左近大夫季光
     駿河守季時   相模権守経定   蔵人大夫国忠     前武蔵守義氏
     右馬助範俊   相模守時房    蔵人大夫有俊     右馬助宗保
     前筑後守頼時  民部権少輔親廣  右京権大夫義時朝臣  前駿河守惟義朝臣
.
  番長 (衛府の下級幹部職)  下毛野敦秀(郎党二人が前に在り)
.
  御車(檳榔 (6月21日参照) 、車の御者二人、牛飼い一人、榻 (踏み台) 持ち)
.
  下臈随臣 (各々相並ぶ)
     秦頼澄  秦清種  下毛野敦家   播磨貞直
     下毛野敦継
.
  雑色二十人
  御笠持ち
  雨皮・張筵持ち (雨避、各々一人)
.
  随兵 (警備兵 二行、序列は年齢順)
     大須賀太郎道信  長江四郎明義
     伊豆左衛門尉頼定 三浦左衛門尉義村
     式部大夫泰時   筑後左衛門尉朝重
     秋田城介景盛   土岐左衛門尉光行
.

.
右画像は八幡宮の太鼓橋正面(上)と側面。建造当初は朱塗りの木製で、赤橋とも呼ばれた。
石造りに変わった時代は判然としない。代々の将軍家は参拝の際にここで輿から降りたと言う。
.
建暦三年 (1213) 5月3日の和田合戦では土屋義清が赤橋の前で北からの横矢を受けて戦死した。
この橋の近くに邸を構えた北條長時 (重時の次男) の系が赤橋流北條氏で、曾孫が16代執権守時。
.

.
  検非違使      郎等三人、雑色四人、
     調度懸け(弓箭を携帯する者)一人、
     放免(検非違使の下職)四人)
.
  御調度懸け(将軍の弓箭を携帯)
     佐々木彌太郎左衛門尉高重
.
  衛府(近衛兵・二列、序列は年齢順)
     大泉左衛門尉氏平   関左衛門尉政綱
     小野寺左衛尉秀道   嶋津左衛門尉忠久
     平九郎右衛門尉胤義  足立左衛門尉元春
     天野左衛門尉政景   伊賀左衛門尉光季
     後藤左衛門尉基綱   加藤左衛門尉景長
     伊東左衛門尉祐時   武藤左衛門尉頼茂
     中條右衛門尉家長   佐貫右衛門尉廣綱
     江右衛門尉範親    大井紀右衛門尉實平
     塩谷兵衛尉朝業    若狭兵衛尉忠季
     東兵衛尉重胤 (最後尾に一人)
.
鶴岡八幡宮寺の橋の砌前で牛を外し源仲章朝臣が進んで御簾を上げた。平頼茂朝臣が御榻 (踏み台) を置き、一條少将能継が御沓を揃え、伊豫少将藤原実雅が将軍家の御裾を取った。大夫判官 二階堂行村 (衣冠束帯) 、佐々木判官広綱 (狩衣に冠) が楼門の東西で床子に座し両人の随兵各々十人が傍らに控えた。
.
禅定三品 政子と御台所 坊門信子は牛車を橋 (太鼓橋、赤橋) の西に停めて見物。信濃守 二階堂行光、右衛門大夫 加藤光員、安芸権守範高と衛府十人 (各々下を括った狩衣) が轅 (牛車の柄) の左右に控えた。
.
その他、御家人が八幡宮中及び周辺の道路を警備し右京兆の室 伊賀の方らの女房が桟敷を流鏑馬馬場の近くに設けるなど見物人が群参した。八幡宮上宮と下宮への御奉幣は通常通り。
将軍家は夕暮れに還御された。
.

.
   ※反閇:(へんばい)は貴人の移動に際して祈りと共に独特の歩行を行なう陰陽道の作法。
動画も参考に。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
6月28日 戊戌
.
吾妻鏡
.
戌刻 (20時前後) に流星が北西から南東へ飛んだ。満月ほどの大きさである。
.

.
   ※満月ほど: いくら何でも誇張だと思うが、そう見えるほど大きかったのだろう。
岡山県井原市の 星尾神社 (市のサイト) に記録された伝承は 「巨大な流星が水田に落ちて光り輝いた」 と伝えている。2013年の ロシアの隕石落下 (Wiki) の音や振動を考えると、衝撃波などの記録があっても良いのに、と思うが。
.
隕石や小惑星は注意しようがないからね。結果的に恐竜を絶滅させた チクシュルーブ隕石 (参考サイト) は直系10km以上だってさ。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
7月 1日 庚子
.
吾妻鏡
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
勅使の藤原忠綱朝臣 (6月20日を参照) が帰洛。将軍家 実朝より鞍を置いた馬三疋などの餞別を受けた。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
7月 5日 甲戌
.
吾妻鏡
.
(実朝の拝賀に立ち会うため) 下向した雲客 (殿上人) の前兵衛佐為盛、花山院侍従能氏らが帰洛した。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
7月 8日 丁丑
.
吾妻鏡
.
左大将家 実朝の御直衣始めにより (本来の参内はできないため) 鶴岡八幡宮に御参宮、午刻 (正午前後) に出御した。前駆および随兵は先月27日の供奉人に命じていたが数人は既に帰洛、右京兆 北條義時も随行せず宮寺で合流した。随兵の大須賀太郎道信が体調不良で欠席し、民部丞 阿曽沼広綱(藤姓足利氏) に代行させた。
.
前回は大須賀道信と長江四郎明義 (鎌倉景政の曾孫で 大庭景義の従兄弟) と左衛門尉 三浦義村が並んだが、今回は頼定と広綱となったため義村が左に、明義が右に並ぶと定めた。
.
ここで義村が「年長者の長江明義が右に並ぶべきではない」と上申、一方で明義は「義村は官位が上であり、三浦介義澄の遺跡を継いでいる。左に並ぶべきである。と主張した。
.
礼節による譲り合いが長引いて出発の遅れとなるのを危惧した大夫判官 二階堂行村が御前に参上して判断を仰ぎ、左大将家 実朝は 「各々が謙譲する美徳は立派だが儀式を遅らせてはならない。義村は若年だから再びの機会があるだろう。今回は高齢の明義が左に並んで子孫の誉れにせよ。」 と仰せになった。行村がその趣旨を伝え、特に異論もなく長江明義が左となった。
.

.
   ※直衣: 外見は衣冠と概ね同じ。天皇、皇太子、親王、公家の平常服。
直衣 (のおい) での参内が許されるのは原則として公卿 (三位以上) と参議職の四位の中から特に天皇に許された者だけが直衣での参内が可能となる。
.
右は紫式部日記絵巻の直衣。式部邸の藤原斎信と実成。 クリック→ 別窓で拡大表示。
.

.
 行列
.
  前駆 (二列)
      左近蔵人伊賀仲能   左近蔵人三条親実
      左近大夫毛利季光   左近大夫美作朝親
      前武蔵守足利義氏   右馬助範俊
      相模守北條時房    蔵人大夫有俊
      前筑後守頼時     民部少輔源親広
      前駿河守大内惟義朝臣 (最後尾に一人供奉)
.
  殿上人(一列)
      新蔵人長井 (大江) 時廣  文章博士源仲章  一條中将信能朝臣
.
  御車 (御随身、御車副えなどは先月に同じ)
.
  随兵(二列)
      長江四郎明義    左衛門尉三浦義村
      伊豆左衛門尉頼定  浅沼民部丞光綱
      式部大夫北條泰時  筑後左衛門尉八田 (小田) 朝重
      秋田城介安達景盛  土岐左衛門尉光行
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
7月 9日 戊寅
.
吾妻鏡
.
未明に右京兆 北條義時が大倉郷に渡御され南の山際で良い土地を占った。
堂を建立して薬師像を祀る目的である。
昨日 将軍家 実朝の八幡宮出御に立ち会い 屋敷に戻った夜の夢に薬師十二神将の戌神が現れて義時に告げた、それが建立を思い立った理由である。
.
今年の神拝は無事に済んだが明年の拝賀には供奉すべきではない。
.
奇異な出来事で託宣の意味も判然としないが、元服後の義時は薬師如来とその護法神 十二神将を篤く信仰している。今回の夢も軽視せず信仰を深めねばならない、日柄などに拘らず堂を建てようと考えていた。
.
相模守 北條時房と李部 北條泰時はこれに賛同せず各々が次の様に諌めた。
.
今年は左大将拝賀や殿上人の参向があり御家人も庶民も多くの財産を費やした嘆きが未だ収まらない内の造営は民生に有益とは言えません。
.
しかし義時は諫言を容れず、引き続いて工匠らに必要な指示を与えた。
.
これは一身上の宿願で、もとより百姓や御家人には負担を求めない。
薬師如来と眷属の託宣をどうして黙止できようか。
と。
.

.
   ※戌神: 薬師如来と薬師経を信仰する者を守護する十二神将の一つ宮毘羅 (くびら) 大将。
本地仏は勢至菩薩、十二支は亥神。
   右上は京都 浄瑠璃寺 (Wiki) の戌神 宮毘羅大将 (鎌倉時代の作)。
           画像をクリック→ 別窓で拡大表示。

.
奈良 新薬師寺の十二神将 (国宝 天平時代) は戌神を 「伐折羅 (ばさら) 大将」 (参考画像) としている。明確に指定できないため、ここでは両方を紹介しておく。
.
   ※明年の拝賀: 1月17日の八幡宮に於ける実朝の右大臣
拝賀の式典を差す。
儀式が開かれる直前に義時は体調不良を訴えて自邸に帰り、義時の代理を務めた 源仲章が将軍 実朝 と共に斬殺された。
.
如何にも恣意的な体調不良では誤魔化せない。吾妻鏡の編纂者 (又は記録を残した者) は義時が建立した薬師堂の霊験と 夢に現れた警告を組み合わせて (神仏の意思だと誤魔化して) 殺害現場を避けた不自然さを正当化したのだろう。
.
これは明らかに義時が吐いた嘘だ。本当に危険の予知があったなら、将軍実朝の安全を確保して危険回避を図るのが執権として最優先される仕事だ。義時はそれをせず自分だけ退避して危険を避けた。それどころか、回避した根拠として戌神の警告まで準備する周到さだ。
.
この薬師堂は真言宗 泉涌寺派の 覚園寺 (参考サイト、地図) として現存する。
本尊は薬師三尊、現在の鎌倉宮と荏柄天神社の間を北に切れ込んだ薬師ヶ谷の突き当たり。残念ながら山門から内側の写真撮影は不可となっている。
.
   右上は覚園寺に登る石段と山門。(画像をクリック→拡大表示)
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
7月22日 辛卯
.
吾妻鏡
.
侍所の所司五人を定めた。式部大夫 北條泰時朝臣を別当とし、山城大夫判官 二階堂行村、左衛門尉 三浦義村らを指揮して御家人に関する件を取り扱う。次いで大江判官能範は将軍家の出御を始め御所に於ける雑事を差配する。次いで兵衛尉 伊賀次郎光宗は御家人が供奉する際の招集などを差配する。武蔵守 北條義時が将軍家の仰せを受けて各々に連絡した。
.

.
   ※武蔵守: 前年11月に 大江広元が体調を崩して出家し陸奥守を辞任、後任には相模守だった北條
義時が着任し、それまでの相模守は武蔵守だった弟の 北條時房が、武蔵守には嫡男の北條泰時がスライド就任している。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
8月15日 癸丑
.
吾妻鏡
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
鶴岡八幡宮で放生会が催され将軍家 実朝が御参宮。供奉人の煌びやかな装いは普段より一段と美しい。
檳榔の御車 (6月21日参照) を用いられ、 一員 (随行の官人) を従えている。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
8月16日 甲寅
.
吾妻鏡
.
将軍家 実朝は昨日に続いて八幡宮に出御、流鏑馬は特に盛大に催された。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
8月20日 戊午
.
吾妻鏡
.
蔵人左衛門尉 大江 (長井) 時広が禁裏に奉公のため上洛する旨を上申し、二階堂行村が取り次いだ。
将軍家は特に不機嫌で「既に蔵人の官職を得て鎌倉に下向したのだから敢えて上洛の必要はない。関東を軽んじる様で不愉快だ。」との仰せだった。
行村は顔を伏せ言葉もなく引き下がり、仰せの内容を時広に伝えた。
.
時広は 「京都を優先しているのではありません。廷尉 (検非違使) の官職を得て実際の勤務をしないまま左大将御拝賀の前駆を勤めるため鎌倉に下向したもので、官職から除籍されていない状態です。将軍家から上洛の許可を頂いて職務を務めた後に鎌倉に戻り、忠義を尽くしたいと考えています。」と語った。
.
行村はこれ以上の上申は困難だと考え、取り次ぎを辞して退出した。
.

.
   ※時広の立場: 朝廷から派遣されたまま鎌倉に留まる不合理は理解できるし京都の文化に憧れつ
つ傀儡将軍として 「飼い殺し」 に甘んじる実朝の心も理解できる。
現状打破を夢見た唐船での前世回帰も実現できなかったし。人生って切ない事の積み重ねなのだよ、実朝さん。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
8月21日 己未
.
吾妻鏡
.
時広が上洛を申請した経緯を右京兆 北條義時に涙で訴え、義時が将軍家に願い出て上洛の認可を得た。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
9月13日 辛巳
.
吾妻鏡
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
名月の夜を迎え御所で和歌の会を催した。羽林 (中将) 一條信能と李部 北條泰時ら寵臣 数人が同席した。
催しの最中に鶴岡八幡宮で騒動との知らせがあり、左衛門尉 関政綱と兵衛尉 若狭忠季が使者として八幡宮寺に駆け付けた。稚児と若い僧たちが名月の中を歩き回っているのを廻廊にいた宿直が見とがめて喧嘩になり、若者たちに殴られたのが騒動の経緯である。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
9月14日 壬午
.
吾妻鏡
.
兵衛尉 金窪行親を派遣し、昨夜宮寺で勃発した狼藉について糺明した。張本人は左衛門尉 三浦義村 の子息駒若丸 (元服後の光村) である。
.
宿直人は右大将 頼朝の時代に敬神の心から幕府に勤務する者が当番制で夜間の八幡宮を警護していた。
それが現在まで続いていたのだが、今回のような恥辱を受けるようでは中止にすると決定。駒若丸は出仕停止の処分を受けた。
.

.
   ※駒若丸: 元久元年 (1205) 誕生で元服直前の13歳、宝治合戦 (1247年6月) で優れた武勇を見せて
から泰村の優柔不断さを詰 (なじ) った後に法華堂で自刃した、と伝わっている。
兄の 泰村に (乱暴者の) 弟ほどの行動力があれば滅亡を避けられた、かも知れない。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
9月29日 丁酉
.
吾妻鏡
.
京都の飛脚が到着して次の通り報告した。
.
去る21日に比叡山の衆徒が 日吉山王神社祗薗八坂神社北野天満宮の神輿を担いで京都に入り、閑院殿 (里内裏) の前で振り威した。このため北面の武士を派遣して防ぎ、更に在京御家人の加藤光員後藤基清大友能直佐々木広綱らが勅命を受けて門前に駆け付け防衛に務めた。
.
ここで加藤兵衛尉光資 (光員の息子、加藤新左衛門尉を称す) が八王子 (延暦寺の頭塔) の神輿を担いだ男の腕を斬り落として神輿を穢したため、神輿を放棄して引き上げてしまった。
.
石清水八幡宮の別当法印宗清が鎮西の 筥崎八幡宮で執務していた時、天台 (比叡山) の末寺大山寺の神人 (下位職) の船頭長光安が筥崎八幡宮を管理していた相模寺住持の行遍と子息左近将監光助に殺害される事件があった。この際にも衆徒が蜂起し奏状を携えて訴え出たため行遍と光助は投獄されたのだが、衆徒は筥崎宮を没収して比叡山領にする事と宗清法印の流刑を要求して神輿を振り翳した事件が起きた。

                      リンク先の寺社 は全て公式サイト。
.

.
   ※衆徒の横行: 建保二年 (1214) 8月13日の条 (興福寺の例) に宗教団体の強訴を記載している。
一元的な視点だけの偽宗教者に力 (武力、政治的権力を含む) を与えた結果だ。
.
右傾化した神道と軍部の独走が国土を破滅させた経験を持つ日本で、フランスでカルトと規定された創価学会 が 政権与党を構成する異様さを直視しよう。
平成11年 (1999) から 24年続いた自公連立政権が、国政を正しく導いたのか?
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
10月19日 戊午
.
吾妻鏡
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
佐々木広綱からの飛脚参着して次の通り報告。
.
去る10日に中宮九条立子 (故 関白 九条良経の娘、Wiki )が皇子 (後の第85代仲恭天皇) を御産した。.
太政大臣に 三条公房 (Wiki) 、内大臣に実朝 (大将の職位は変わらず) 、大納言に 土御門定通 (Wiki) 、
中納言に 西園寺實氏 (Wiki) である。同11日に再び除目があり 長井 (大江) 時広ら数名が任命され、他に中宮御産の際に鳴弦 (魔除けの儀式) を務めた者が任官を受けた。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
10月22日 辛酉
.
吾妻鏡
.
日吉山王神社の神輿が入洛してからの件は既に鎮静との仰せがあった。これは再三朝廷に申し入れた件である。先月21日に入洛した三塔 (東塔、西塔、横川) と諸堂と日吉山王神社も、同 23日に門を閉じた。
.
また祗薗八坂神社、北野天満宮以下の末寺と末社も同様に門を閉じた。今月12日に貫首以下の高僧が比叡山に登って衆徒を説得し、社頭の門戸を開かせ根本中堂四社の神輿は本社に還座した。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
10月26日 乙丑
.
吾妻鏡
.
京都の使者が到着し、去る13日に禅定三品 尼御台所 政子が従二位に叙された、と。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
10月27日 丙寅
.
吾妻鏡
.
秋田城介 安達景盛 が使節として上洛、皇子降誕について祝賀を申し述べるためである。
今日、長谷部信連法師 (Wiki) が能登国大屋庄 河原田で死没した。以前は故 三条高倉宮 以仁王の侍で、その後に関東の御家人となった。長馬新大夫為連の息子である。
.

.
   ※長谷部信連: 「平家物語巻四 信連」 には 「検非違使が捕縛に向かっていると知った信連は以仁王
を三井寺から逃がし、奮戦の末に負傷して捕縛された。六波羅で 平宗盛の尋問を受けたが供述せず、勇猛さに感心した 清盛が死罪を減じた」 と書いている。
.
   ※大屋庄河原田: 石川県穴水町川島にあった国衙領 (地図) 。伯耆国日野 (鳥取県西部) に流された
信連は平家滅亡後に鎌倉に入り 梶原景時の仲介で 頼朝と面会し大屋庄を得た。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
11月 5日 癸酉
.
吾妻鏡
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
大夫判官 佐々木広綱が京都より書状を届けた。これは先月15日に 日吉山王神社に御幸した 御鳥羽上皇に従って出掛けた際に専当 (雑務を担う下級職の僧) を斬った若い従者を射止めた褒賞として21日に官職を得た。将軍家 実朝もこの件を喜び、近江国松伏別府を褒賞に加えた。
.

.
   ※松伏別府: 松伏は現在の滋賀県近江八幡市馬渕町 (地図) 、別府は国衙の認可を得た開発農地。
開発によって税制の恩典を受けるメリットがあったらしい。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
11月13日 辛巳
.
鎌倉年代記
.
右大将家 頼朝の後室で遠江守 北條時政の娘 尼御台所 政子が従二位に叙された。
.

.
   ※政子が従二位: 吾妻鏡はこの情報を記載していない。政子の叙位は誇るべき事実だが吾妻鏡の
編纂者は 「後室」 と書くのを憚ったのか。「通い婚」 が常識だった時代、頼朝の再婚は周知の事実だったのに、ね。初婚は勿論 伊東祐親の三女 八重姫だ。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
11月25日 癸巳
.
吾妻鏡
.
(10月27日に派遣した使者の) 安達景盛が京都から帰参した。
.
去る10日に嵯峨野の栖霞寺で釈迦堂と阿弥陀堂が焼失したが本尊は辛うじて持ち出すことができた。また同じく11日に八條左大臣 (良輔、九条兼実の三男) が死没 (享年34) した。
.

.
   ※栖霞寺: 現在の清涼寺、渡月橋から 念仏寺 (公式サイト)
を目指す 途中にある(地図) 。 嵯峨天皇の皇子として描かれた光源氏のモデル 源融が嵯峨野に建てた、源氏物語の世界。
.
16年前の写真が残っていた。京都はこの後も何度か行ったが化野念仏寺まで足を伸ばしたのは2005年が最後になった。
.
渡月橋の少し下流で愛犬 (ゴールデン・レトリーバ) が桂川に飛び込む気になったけれど、ひどい寒さのためパス。
.
「この次は泳がせてやるね」の約束は果たせずに死んでしまった。その数年前には鴨川公園での水浴びも回避したし ...いつまでも悔いが残っている。
.
   右は小雪が舞う念仏寺でのスナップ。 クリック→ 別窓で拡大表示
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
11月27日 乙未
.
吾妻鏡
.
東平太重胤は無双の近臣であり、その息子胤行も父と同様に昼夜を問わず君側に控えている。しかし重胤は先頃所領の下総国海上荘に下向し長く戻らないため、将軍 実朝は和歌一首が添え早く帰参せよとの書状を送った。
.
 こひしとも おもはていはヽ ひさかたの あまてる神も そらにしるらん
.

.
   ※海上荘: 海上郡は現在の銚子市東庄町 (東氏の本貫地) で旭市を含
む。海上荘は東庄町の東を流れる利根川沿いに広がる。
.
苦しい中で営業努力を続けるローカル鉄道 銚子電鉄 (公式サイト) は海上荘の更に東、JR成田線の終点 銚子駅から犬吠埼先端に近い外川駅までの6.4kmを走っている。
.
右は千葉県の行政区分地図。クリック→ 別窓で拡大表示
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
12月 2日 庚子
.
吾妻鏡
.
   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.
右京兆 北條義時が霊夢 (7月9日参照) に従って草創した大倉新御堂に薬師如来像 (雲慶 (運慶) 作像) を安置し今日開眼供養。導師は 荘厳房律師行勇、呪願は圓如房阿闍梨遍曜、堂達は頓覚房良喜 (若宮供僧) 。
.
施主および室家 伊賀の方は簾の中に坐し、相模守 北條時房、式部大夫 北條泰時、陸奥次郎 北條朝時は正面の濡れ縁に坐した。信濃守 二階堂行光、大夫判官 二階堂行村、大夫判官 加藤次景廉 以下の御家人も薬師如来との結縁を求めて群参した。
.
筑後前司 源頼時 (検非違使)、左近大夫 美作朝親、三條左近蔵人親実、伊賀左近蔵人仲能、安藝権守範高らが布施を配るため堂の南に設けた仮屋に控えた。
戌刻 (20時前後) に儀式が終わり、導師以下が御布施を受け取った。
.

.
   ※薬師如来像: 覚園寺は鎌倉時代中期に二度の火災で焼失、二度目には本尊の薬師如来像も失わ
れた。もし寺伝が正しければ、十二神将像の作成も含まれていた筈だが。
.
この頃の運慶は晩年の円熟期で、地蔵十輪院 (廃寺) や六波羅蜜寺の造仏などで鎌倉に下る余裕はなく、京都で彫って鎌倉に送ったと考えるのが合理的だろう。
.
義時が霊夢を見た7月8日以後の注文であれば相当の日数が必要で、もしも寺伝の通り十二神将像も含めての造像依頼であれば、とても間に合わない。
.
義時が 「霊夢を見た」 と語ったのは、実朝の右大将拝賀の供奉を回避した行動を 「神仏の意志」 として正当化するためだ。
.
   ※地蔵十輪院: 運慶が八条高倉に建立した氏寺と伝わるが 詳細は
不明である。本尊の地蔵菩薩坐像 (なぜか重文) を含む仏像群は十輪院の火災を避けて 六波羅蜜寺に遷して今に至った、とも伝わる。像高は約88cm、同時代の運慶作品として載せた。 右上画像をクリック→ 別窓で拡大表示
.
   ※皇帝紀抄の記事: 九条 (藤原) 道家が右大臣から左大臣、実朝が内大臣から右大臣に転任した。
.
   ※愚管抄の記事: 実朝は大臣を望んでいたが、内大臣は 重盛 宗盛の例があって宜しくない。
道家が左大臣に転じて欠員にし内大臣の 実朝が思いを遂げて右大臣となった。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
12月 5日 癸卯
.
吾妻鏡
.
鶴岡八幡宮寺の別当 公暁が宮寺に参籠して長く退出せず、幾つかの祈請を行なった。しかも剃髪しないため諸人はこれを不可解に思っている。また白河左衛門尉義典を使者として伊勢神宮に奉幣するため派遣した。その他幾つかの神社に奉幣の使者を送っていると御所に披露した。
.

.
   ※不可解: しかも義時には薬師如来から 「拝賀の同行を欠席せよ」 との事前警告があったのに、
実朝の警備を強化する対策もしなかった。実行犯の公暁を園城寺から鎌倉に呼び寄せたのは 御台所政子で、更に犯行現場となった八幡宮寺の別当に任命している。
これだけでも実朝殺害を立案したのは誰かを推測する状況証拠になりうるのに。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
12月20日 戊午
.
吾妻鏡
.
去る 2日に将軍家 実朝が右大臣に任じられてから初めての政所が催された。
.
右京兆 北條義時および政所執事の信濃守 二階堂行光、家司で文章博士の 源仲章朝臣、右馬権頭 源頼茂朝臣、武蔵守 源親広、相模守 北條時房、伊豆左衛門尉頼定、図書允 清原清定らが狩衣を着して列座し、清定が吉書を書き上げた。
.
右京兆義時が座を起って吉書を御覧に入れるため御所に参上、二階堂行光が吉書を奉げ持って義時に続いた。義時は御前に吉書を運び、将軍家は南面の部屋に出御して吉書を御覧になった。右京兆義時は政所に戻って椀飯で (執事と所司を) 饗応し、二階堂行光は御馬と御剣を義時に献上した。
.

.
   ※森頼定: 源義家の孫である 若槻頼隆の次男で森氏の祖、伊豆守。父 頼隆から相模国毛利庄
相続して森氏を名乗っている。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
12月21日 己未
.
吾妻鏡
.
将軍家 実朝は右大臣拝賀のため来年正月に鶴岡八幡宮に参拝される。その御装束と御車などの調度類が仙洞 (院の御所) から下賜され今日到着した。
また将軍家に従う上位の公卿と大納言 坊門忠信らが下向される、とのこと。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
12月26日 甲子
.
吾妻鏡
.
大夫判官 二階堂行村の奉行として、御拝賀に供奉する随兵などについての沙汰があった。兼ねて定めた人数の中で左衛門尉 小山朝政と左衛門尉 結城朝光は服喪のため除外して、山城左衛門尉二階堂基行、荻野次郎、梶原景員を呼んで交代要員とした。右大将家 頼朝の時代に定めた内容は次の通りである。
.
随兵は三つの徳を兼備した者が任じねばならぬ。譜代の勇士である事、弓馬に長けている事、容姿が優れている事の三徳である。譜代でも弓馬に長けていなければ警護を任せられないから事前の確認が必要である。
.
交代として呼んだ梶原景員は父の平次左衛門尉 梶原景高が去る正治二年 (1200) 正月に駿河国高橋付近で自殺してから活躍の場を失なっていたが、三徳を持ち合わせているため任命されたのは名誉である。
.
また基行は武士ではないが父の二階堂行村は既に廷尉 (検非違使)、容貌が美しく弓箭にも長けている。
文官の家から近習として仕え、武士より劣るとの恥辱を受ける事もあったが今回の拝賀は千載一遇の機会で、随兵に加えて頂ければ長く一族に武名を伝えられる、と。
この願いを許し、異議は受け付けないと定めた。
.

.
   ※朝政と朝光の服喪: 死去したのが誰だか判らない。異母兄弟だから共通の近親は父の 小山政光
だけだが、政光は正治元年 (1199) より前に死没している。
.
政光の兄弟は生没年不詳の弟 下河辺行義のみ、その息子 (従兄弟) は下河辺行平政義、二人とも生没年不詳だから服喪の相手は確定できない。
.

.
.


.
2025年
.
7月14日
.
晴耕雨読
.
追加で植えた三株のスイカ苗の中の一株から 7/9に受粉させた第一号の実が 7cmほどに成長した。右画像をクリック→ 拡大
.
今までの経緯を書くと、最初に植えた二株の一つは四玉の実を付けて成長中だが、もう一株の方は着床せずに枯れてしまった。一株では心配なので、追加を購入しようと結城市のホームセンターに出かけたら、「処分品、無料でどうぞ」と表示した一画がありまして...妻が元気そうなスイカ苗を二株とナス苗二株とキュウリ苗三株を拾い出してサッサと車に積み込んでしまった。その中の一本が右上画像の実を付けた株である。
.
「無料で貰える処分品」の殺し文句は恐ろしい。植える場所なんか考えないで持ってくるんだから (笑)。
まぁ収穫さえできれば費用対効果は文句なし、だが。
今日の画像の方は古い株より少し長方形だから、ひょっとしたら別の種類かも知れないね。
.
もう一株の無料スイカ苗も何とか成長を続けている。ナスとキュウリは畑の隅に無理やり植え付けて、既に一株当たり数個の実を採取したが、そろそろ終期に近づいている。  7/14 午前10時
.
園芸日誌を少し整理して 2025年10月の情報を載せた。左目次の 晴耕雨読 園芸日誌 でどうぞ。
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
 月 日
.
吾妻鏡
.
記事
.

.
   ※:
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
 月 日
.
吾妻鏡
.
記事
.

.
   ※:
.
西暦1218年
.
.
84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
.
建保六年
.
 月 日
.
吾妻鏡
.
記事
.

.
   ※:
.

前年・建保五年 (1217) の吾妻鏡へ       翌年・建保七年 (1219) の吾妻鏡へ