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建保三年 (1215年)
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西暦・天皇・上皇
和暦・月日・史料
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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1月 1日 辛酉
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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将軍家 実朝が牛車を用いて鶴岡八幡宮を御参拝。筑後左衛門尉朝重が御剣役を務め、相模守 北條義時
武蔵守 北條時房、修理亮 北條泰時、遠江守 源親広伊賀守朝光、筑後守五条有範、左衛門大夫 加藤光員、左近大夫 美作朝親、左近大夫三条親実らが供奉した。
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   ※五条有範: 在京の御家人で姓は平。元久二年 (1205) 閏7月に 平賀朝雅を追討、後に検非違使、
筑後守。和田合戦直後の建暦三年 (1213) 5月22日には鎌倉に向かう前に実朝の命令書が届いて京の警護に任じた。承久の乱 (1221年) の際は反感後鳥羽上皇側に加わり戦後に処刑される。
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   ※三条親実: 将軍御所の儀礼や祭祀の奉行を務めた文官。周防守護、安芸守護、厳島神社神主を
転任した後に六波羅評定衆となり、建長五年 (1253) 頃まで在任している。
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   ※年令: 源実朝 22歳、 坊門信子 (実朝の正室) 27歳、 公暁 (故 頼家の二男) 14歳、
竹御所 (故 頼家の娘、後の四代将軍頼経の正室) 12歳、
政子 56歳、 北條義時 52歳 、 北條時房 40歳 、 北條泰時 30歳 、 北條朝時 21歳 、
北條重時 16歳 、
千葉成胤 59歳 、 千葉胤綱 16歳 、 足利義氏 25歳 、 三浦義村 56歳前後 、 三浦泰村 10歳
安達景盛 44歳前後 、 大江広元 66歳 、
84代 順徳天皇 17歳 、 土御門上皇 19歳 、 後鳥羽上皇 34歳 、 九条道家 22歳 、
近衛家実 36歳、 藤原定家 51歳、
定豪 62歳、 慈円 59歳 、 栄西 7月没 (享年74) 、 法然 (前々年没、享年76) 、 親鸞 41歳 、
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      (全て1/1時点の満年令)
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安達景盛は生年不詳だが、頼朝の伊豆配流 10年後に誕生と仮定して年齢を推定した。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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1月 6日 丙寅
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北條九代記
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前 遠江守 従五位 北條時政が死没した。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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1月 7日 丁卯
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吾妻鏡
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将軍家 実朝が再度鶴岡八幡宮に詣でられた。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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1月 8日 戊辰
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吾妻鏡
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伊豆国から飛脚が鎌倉に入って報告。去る 6日の戌刻 (20時前後) に入道遠江守従五位下 平朝臣 北條時政 (78才) が北條郡で没した。日頃から腫物を患っていた、と。
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   ※時政死没: 頼朝挙兵に加わったのが 1180年、頼朝死没が1199年1月、頼家を殺して全権を掌握
したのが 1204年、政子 義時に実権を奪われたのが1205年閏7月。幕府に君臨したのは僅か 6年半だから、悪役の独裁者としてはそれほど長くない。
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韮山の北條邸は元弘三年 (1333) の幕府滅亡後に九代執権 北條貞時の側室だった覚海圓成 (高時の生母) に与えられて尼寺となり、室町時代の明応二年 (1493) には伊勢新九郎 (後の通称 北条早雲) が関東を制覇する最初の一歩を記している。
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ここも、兵どもが夢の跡だ。時政の墓所の詳細は 願成就院で。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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1月11日 辛未
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吾妻鏡
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若宮辻の人家が火災となり、籐右衛門尉 安達景盛の宿所まで延焼した。酉刻 (18時前後) と戌刻 (20時前後) の間に20余町が全て灰燼に帰した。
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   ※若宮辻: 若宮は八幡宮で辻は十字路。安達景盛邸は甘縄
神明宮 (地図) と地続きだから大倉御所までは約 2.7km、徒歩30分の通勤距離だ。宿所を設けるメリットがその三分の一までと考えれば、二の鳥居 (中の下馬橋、御所まで 1km) 付近の十字路近くだろうか。根拠の貧弱な空想だけど。
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   ※宿所: 幕府庁舎近くに自宅を持っていない御家人の多く
は御所近くに宿所を構えていたらしい。 通勤距離は十二所の大江広元邸なら約2km、甘縄の安達邸や名越の北條邸なら約3km。遠くはないが、宿舎を確保したい気持ちは理解できる。
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右は鎌倉駅上空からの鳥瞰図。 (クリック→拡大表示)
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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1月20日 庚辰
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吾妻鏡
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内府 (内大臣) 坊門信清卿の使者が御台所 坊門信子方に到着し、来る2月に出家する予定である事を伝え、加えて次の通り報告した。
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去年12月29日の夜に蔵人の勘解由次官平宗宣と中宮大進の藤原兼隆が殿上で喧嘩し兼隆が宗宣を殴った。この事件により翌30日に兼隆は土佐国に配流され参議の 藤原定家卿が結政に赴いて公文書に捺印した。

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   ※結政: 大内裏の外記庁の南にあり 参議、弁官、外記などが集まって政務を執った役所。
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   ※外記: 太政官少納言の下で詔勅や上奏文の起草や朝儀の記録を司り、除目叙位の儀式を扱う。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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1月25日 乙酉
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吾妻鏡
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将軍家 実朝の持仏堂で 文殊菩薩像 (Wiki) を供養する法会を催した。導師は荘厳房 退耕行勇である。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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2月 2日 辛卯
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吾妻鏡
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左衛門大夫 加藤光員が御台所 坊門信子の使者として京に向かった。 (父親の) 内府 坊門信清が今月に剃髪して出家する。また御逆善を修するため、その法事に供物を贈るためである。
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   ※内府: 左大臣と右大臣に次ぐ官職で、相当する官位は正または従二位。
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   ※逆善を修す: 生前に自分の死後の冥福を祈って法事を営むこと。
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   ※愚管抄は: 坊門信清に関して「病を得ながら大臣に昇り、建保三年2月18日に出家して建保四年
2月15日に死没」と書いている。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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2月18日 丁未
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吾妻鏡
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諸国の関所や河越えを管理する地頭に対し旅人の負担を免じるよう命じた。ただし船賃などの経費は料田を設けて賄うように、との仰せである。
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   ※料田: 伝馬制を維持運営する目的で必要な経費に充当するために設置された公田を差す。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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2月24日 癸丑
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吾妻鏡
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戌刻 (20時前後) に雷鳴が数回あり。
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   ※雷鳴: たかが雷鳴程度を何回も史書に載せるのかと思って「雷鳴の卦」を調べてみたら 「吉凶が混
在するから両方とも早急な対応を」 とあった。ただし吾妻鏡がそこまでの意味を含んで書いているのかは判らない。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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3月 3日 壬戌
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吾妻鏡
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(上巳節句に伴い) 将軍家 実朝が鶴岡宮に御参り。法会と舞楽は通例の通り。
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   ※上巳節句: 五節句の一つ。貴族の子女が御所などを模した飾りで遊び、無病息災を願ったのが
最初。鎌倉時代には端午の節句と共に男女の区別はなく、江戸時代の初期頃から
「雛の節句」となった。直近の数年、実朝は一切経の法会を催している。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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3月 5日 甲子
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吾妻鏡
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将軍家 実朝は花を観るため三浦横須賀に出御された。相模守 北條義時と大官令 大江広元らが付き従い、三浦義村の一族が宴席を設けた。

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   ※花を観る: 旧暦の3月5日は西暦の4月5日、観梅ではなく観桜だ。建暦二年 (1212) 3月9日に記載
のある三浦の桜の御所 (本瑞寺、画像をクリック→ 別窓で拡大表示) と推定できる。
吾妻鏡の建久五年 (1194) 閏8月1日に次の記載がある。
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将軍家 頼朝が右武衛 一条高能を伴って三浦に渡御された。これは三崎の津に於いて御山庄を建てるための視察である。
上総介 足利義兼 北條時政殿ら多数の供が同行し、まず小笠懸が行われた。
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本端寺は三浦家の菩提寺で、頼朝が建てた別邸の一つ 「桜の御所」 の旧跡である。観桜の別邸は本端寺、観桃の別邸は見桃寺、観椿の別邸は大椿寺と変貌し 「花の三御所」 として今に伝わっている。 奥州征服が済んだ頼朝が最も幸せだった時代だったのかも知れないね。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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3月13日 壬申
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吾妻鏡
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将軍家 実朝が (故頼朝将軍の) 法華堂に御参りして (月違い命日の) 法事を催し、大学房法眼 行慈の弟子である慈淵が導師を務めた。また、この法事には鶴岡八幡宮寺の供僧が加わる必要はないだろう、との仰せがあった。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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3月16日 乙亥
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皇帝紀抄
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比叡山の座主および指導僧らが院に参上し、昨日 園城寺 (三井寺) の衆徒が東坂本に入り込み在家信者の家屋などに放火した事を訴えた。  
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   ※皇帝紀抄: 鎌倉時代中期編纂の歴史書(編者不明)。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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3月20日 己卯
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吾妻鏡
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今日、将軍家 実朝から次の通り仰せがあった。「朝廷に献上する馬は担当する役人が各々駿馬三疋づつを準備して見参せよ。どのように撰定するかは考慮しておく。」との事である。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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4月 1日 庚寅
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮に恒例の御供 (神前への供物) を備えるため将軍家 実朝が女房が使う輿でお忍びの参宮を行なった。御供は 若狭忠季と宮内公氏 のみである。
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   ※宮内公氏: 実朝側近として吾妻鏡に数回載っている。建保七年 (1219) 1月27日に将軍 実朝
が殺される朝の遣り取りが特に著名である。右大臣任命に謝する拝賀に出発する直前に、大江広元が午前に進んで言上した。
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私は成人してから涙を流した事がありませんが (不吉な前兆が重なった) 今は涙を抑えられません。東大寺落慶供養に立ち会った際の右大将軍 (頼朝) の前例に倣い、御束帯の下に腹巻を着けますように。
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仲章朝臣が 「大臣大将に昇叙する人にその例はありません」 と言って腹巻の件は中止された。また公氏が御髪を整えた際に実朝は髪を一筋抜き記念と称して公氏に与え、庭の梅を見て禁忌の和歌を詠んだ。
    出でいなば 主なき宿と 成りぬとも 軒端の梅よ 春をわするな
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無論、道真の和歌の 「本歌取り」 だが、昇叙の拝賀に 「主なき宿と」 はどう考えても異様である。実朝殺害事件には諸説があるし実朝の和歌も駄作だけれど、側近公氏が関係した事件の傍証に載せた。
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この白々しい記述が吾妻鏡編纂者の改竄なのか、それとも誰かの覚書を元にした脚色なのか。立証はできないが、私は「吾妻鏡 編纂者または北條氏の捏造」と判断した。剣の折損、広元の涙、実朝の和歌、髪の毛の付与、そして実朝の斬殺。異様な出来事がここまでの重なるなんて有り得ない。
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   ※腹巻: 普通は鎧の胴部分を差すが、この場合は衣類の内側に着けるため作った軽量の防具
を意味する。 「刀剣ワールド→ 腹巻とは?」 に判り易い説明が載っている。
実朝は首を落とされたのだから、腹巻を着けていても役には立たなかった。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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3月20日 己卯
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吾妻鏡
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今日、将軍家 実朝から次の通り仰せがあった。「朝廷に献上する馬は担当する役人が各々駿馬三疋づつを準備して見参せよ。どのように撰定するかは考慮しておく。」との事である。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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4月 2日 辛卯
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吾妻鏡
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将軍家 (実朝) が甘縄神宮および日吉別宮に参詣、その後に (隣接の) 安達景盛邸に入御された。
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   ※甘縄神宮: 和銅年間 (708~715年) に 行基上人 染屋時忠
が創建したと伝わる。染屋太郎大夫時忠は東大寺の開山和尚を務めた 良弁上人 (Wiki、689~774年) の父親とされ行基 (668~749年) と概ね同時代を生きた人物。
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時忠館跡、塔之辻の伝承などは 極楽寺坂から小町口への一画 (別窓) を参照されたし。
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甘縄神宮の主祭神は天照大神。源頼義は相模守として赴任中に甘縄神宮に祈り、平直方から屋敷の贈与を受け娘を娶って 八幡太郎義家が生まれた。これが源氏が鎌倉と接点を持った最初で、頼朝が本拠を鎌倉に構えた原点である。日吉別宮は境内摂社と思われるが、現在は存在が確認できない。    右上は甘縄神明宮の拝殿。
    画像をクリック→ 神社の詳細と安達盛長の墓所(別窓)などへ。

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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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4月18日 丁未
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吾妻鏡
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在京の御家人が洛中の警備を緩怠しているとの苦情があり、その件について「忠実に勤めているか否かを判断して賞罰を行なうように」との沙汰が下った。源親広が奉行を担当する。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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5月 5日 癸巳
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で祭礼と神事。将軍家 実朝は出御せず、前大膳大夫 大江広元朝臣が奉幣使を務めた。
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   ※神事: 人日 (1/7) 、上巳 (3/3) 、端午 (5/5) 、七夕 (7/7) 、重陽 (9/9) の五節句が正式に定
まったのは江戸時代だが風習としては平安時代から宮廷を中心に定着していた。
吾妻鏡には上巳、端午、重陽の三種類が頻繁に記録されている。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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5月12日 庚子
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吾妻鏡
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将軍家 実朝 證菩提寺 (三個麻糸) に (非公式の) 御参詣をされた。
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   ※證菩提寺: 石橋山合戦 (別窓) で討死した 左奈田義忠 (与一) の菩提を弔って建久八年 (1197) に
頼朝が創建したと伝わる、真言宗の古刹 (地図) 。鎌倉の鬼門 (北東) を守護する意味もあり、500m四方ほどの敷地に多くの堂塔が並ぶ大寺だったと伝わっている。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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6月 5日 癸亥
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吾妻鏡
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寿福寺長老の葉上僧正 栄西が没した。痢病 (赤痢や疫痢など下痢を伴う疾患) が原因で、僧正との結縁を求めて鎌倉中の人々が集まり、遠江守 源親広が将軍家 実朝の使者として臨終に立ち会った。
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   ※栄西死没: 現在は 「大乗院具注歴日記」 (興福寺運営に関与した一族の記録) が記している通り
「7月5日に京都 建仁寺 (公式サイト) で」死没」 が定説らしい (墓所は開山を務めた建仁寺護国院) 。吾妻鏡は鎌倉で死没した如くに書いているが、4月18日に在京御家人の監督に任じていたた源親広が 「鎌倉で臨終に立ち会う」 のは不合理である。
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大乗院は奈良興福寺に存在していた塔頭の一つ、具注歴日記は朝廷の陰陽寮が頒布した暦に記入した日記。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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6月 7日 乙丑
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吾妻鏡
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御台所 坊門信子に仕える祗候人 (常勤の専従職員) の数を定めた。今日将軍家 実朝の御前で勤務の順番を決め、容姿の良い者が選ばれた。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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6月20日 戊寅
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吾妻鏡
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今夜子刻 (深夜0時前後) に御霊社が鳴動した。併せて三度に及んだ、と。
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   ※御霊社: 坂ノ下の 権五郎神社 (別窓) を差す。起源は平安時代の中期に相模に並立していた桓武
平氏系の五族 (鎌倉氏、梶原氏、村岡氏、長尾氏、大庭氏) を祀った五霊神社が五霊→ 権五郎に転訛したと伝わっているが、その真偽は判らない。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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7月 6日 戊寅
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吾妻鏡
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黄門 (中納言の唐名) の 坊門忠信卿から、去る 6月2日に催された仙洞 (院の御所) での歌合せの記録一巻を将軍家 実朝に贈ってきた。これは 後鳥羽上皇の非公式な指示による。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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7月19日 丙午
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吾妻鏡
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鎌倉に於ける商人の数を定めよとの仰せがあった。結城朝光がこれを奉行する。
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   ※商人の数: この政令の詳細 (数、場所、選定基準など) に関する
記録は残っていないが市内周辺の定住人口増と貨幣経済の普及に伴って様々な規制が始まっている。
 右画像で地点の確認を (クリック→別窓で拡大)
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仁治元年 (1240) 2月には押買の禁止 (強引な買取りの禁止と対等な取引を守る命令) が布告される。
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建長三年 (1251) 3月には指定した七ヶ所 (大町、小町、米町、亀谷辻、和賀江、大倉辻、気和飛坂山上) 以外での商いを厳禁し、併せて牛を小路に繋ぐ事の禁止と清掃を命じる布告があった。
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更に文永二年 (1265) 3月には武蔵大路下と須地賀江 (筋替) 橋が追加される。これらはまだ 20年以上も先の規制だが、世情がその方向に流れつつある事は把握しておく方が良い。
更にそれ以後に規制が加わった可能性もあるが、文永三年 (1266) 7月20日で吾妻鏡が幕を閉じているため確認できない。いつかどこかで原本が見つかれば面白いが。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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8月10日 丁酉
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吾妻鏡
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将軍家 実朝)がやや体調不良のため御所に於いて祈祷、大監物安倍宣賢が月曜祭を行なった。
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   ※大監物: 物品の出納や鍵の管理をする職種。祈祷手順を心得ていた京下りの安倍一族だろう。
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   ※月曜祭: 九曜星の一つでインド伝来の古代仏教。単なる迷信の世界に興味があれば こちらで。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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8月14日 辛丑
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吾妻鏡
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子刻 深夜 (0時前後) に皆既月蝕。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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8月15日 壬寅
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で放生会。将軍家 実朝の出御は通例の通り。結城朝光が御剣を持ち、加藤新左衛門尉景長が弓箭を携帯した。
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   ※結城朝光: 2020年秋に熱海から転居した茨城県の筑西市
は結城市のすぐ隣なので彼の本領を無視するのも憚られる。とりあえず 数ヶ所の旧跡を巡回して彼の生涯に少しだけ迫ってみた。
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同族の小山や宇都宮も遠くはないから、もう少し落ち着いたら訪問して本稿の欠落部分を補填したい。
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右は市内の称名寺に残る結城朝光の墓標。
 画像をクリック→ 結城朝光の旧跡 (別窓) へ
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   ※加藤景長: 加藤景廉の次男で、遠山氏の祖となった 景朝の弟。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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8月16日 癸卯
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吾妻鏡
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将軍家は御参宮されず馬場の桟敷で流鏑馬を観覧された。前大膳大夫 大江広元が奉幣の使者を務めた。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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8月18日 乙巳
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吾妻鏡
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激しい雨に加えて午刻 (正午前後) に強風が吹き、鶴岡八幡宮の鳥居 (前浜) が倒れた。
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   ※前浜の鳥居: 一之鳥居 (浜の大鳥居) と考えられる。柱の痕跡が若宮大路に一基だけある歩道橋
下 (地図) に残っているが、これも後北条氏の頃 (16世紀中盤~後半) の建立か。
鎌倉時代の一之鳥居跡は、まだ発見されていない。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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8月19日 丙午
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吾妻鏡
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地震あり
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   ※地震の情報: 不記載の写本もある。私の史料も同様だが偶然発見した (時刻の記載なし) 。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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8月21日 戊申
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吾妻鏡
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巳刻 (10時前後) に鷺 (サギ) が御所の西侍所の屋根に集まっていた。未刻 (14時前後) に地震あり。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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8月22日 己酉
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吾妻鏡
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地震の頻発と鷺が集まった異常について卜占した結果、重大な事件が勃発する可能性が述べられた。
これにより将軍家 実朝は御所を出て相模守 北條義時に入御された。佐々木信綱が御剣持ちを務め、邸の主である義時は他所に移った。
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   ※義時邸: 従来は大倉御所の東側 (地図) に住んでいたのだが
この時点では現在の宝戒寺一帯が執務場所を兼ねた私邸として大倉邸と併用していたらしい。
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実朝が変事に備えるなら 市街中心部に近い 宝戒寺(公式サイト) を選ぶのがセオリーだと思うが...。
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ここは代々執権の執務場所となり、元弘三年 (1333) に 新田義貞軍に追い詰められた北條一族が滑川の 200m下流の橋を渡り、南御堂 (勝長寿院) の峰の南側にある東勝寺 (地図) に籠って滅亡の時を迎える。
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その約100年前の嘉禎二年 (1236) 、宇都宮辻子にあった幕府政庁と将軍御所は敷地の北側に建てた若宮大路幕府に移転している。詳細は段葛と二つの政庁の参照を。
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 右は東勝寺橋、画像をクリック→ 「北條一族最後の地 東勝寺の跡」 (別窓) へ。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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8月25日 壬子
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吾妻鏡
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安倍親職、泰貞、宣賢らの陰陽師が御所に於いて百怪祭を行なった。将軍家の代理として立ち会ったのは 伊賀太郎左衛門尉光季、奉行は図書允 清原清定。鷺の怪異を祈祷によって払うのが目的である。
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   ※百怪祭: 陰陽道の祭祀の一つ。平安時代から室町時代まで、怪異が起きた際に行なわれた。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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9月 6日 壬戌
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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丑刻 (深夜2時前後) に大地震。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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9月 8日 甲子
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吾妻鏡
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寅刻 (早暁4時前後) に大地震。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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9月 9日 乙丑
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吾妻鏡
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鶴丘八幡宮で (重陽節句の) 神事が催され、将軍家が出御された。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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9月11日 丁卯
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吾妻鏡
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寅刻 (早暁4時前後) に大地震。未刻 (14時前後) になって再び小さな揺れがあった。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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9月13日 己巳
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吾妻鏡
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未刻 (14時前後) に地震。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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9月14日 庚午
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吾妻鏡
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酉刻 (18時前後) および戌刻 (20時前後) に地震があり、同時に雷鳴あり。
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亥時 (22時前後) に佐藤伊賀前司が死没した。
従五位上 伊賀守藤原朝臣朝光 (年齢記載なし) 、散位光郷の息子、母は 下総守邦業の娘。
正治年間 (1199~1201) に左衛門少尉に任じ、建永元年 (1210) 4月25日に検非違使の宣旨を受けた。
翌年3月12日に辞意を呈したため4月10日に叙留となり5月23日に辞職。承元四年3月19日に伊賀の守に任じ、建暦二年 (1212) 12月10日に従五位上に叙された。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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9月15日 辛未
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吾妻鏡
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戌刻 (20時前後) に伊賀朝光を山城前司 二階堂行政邸の後山に埋葬。相模守 北條義時が臨席された。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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9月16日 壬申
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吾妻鏡
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卯刻 (朝 6時前後) に地震。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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9月17日 癸酉
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吾妻鏡
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戌刻 (20時前後) に三度の地震があった。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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9月21日 丁丑
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吾妻鏡
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連続して起きた地震に対応して祈祷。三万六千神祭は安倍親職、地震祭は安倍宣賢が担当した。
駿河守 中原季時がこれを沙汰し、大江左衛門尉能範が将軍の代理で臨席した。
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   ※三万六千神祭: 天変地異を除き、天下泰平を願う祈祷。
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   ※大江能範: 西面の武士で大江一族、広元と縁戚関係なし。承久の乱で 後鳥羽院に味方し戦後
に処刑される。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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9月26日 壬午
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吾妻鏡
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亥刻 (22時前後) に雷鳴数度を伴い李子 (すもも、5cmほど) の雹 (ヒョウ) が降った。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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10月 1日 丙戌
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吾妻鏡
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相模守 北條義時が絹糸五十疋 (百反) を献上、将軍家はすぐ御前で近習の武士に分け与えた。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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10月 2日 丁亥
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吾妻鏡
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寅刻 (早暁4時前後) に地震。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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10月10日 乙未
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吾妻鏡
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越後国に於ける検断の件は守護人の間で権限を調整せよとの仰せを西念 佐々木盛綱が承った。
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   ※検断: 刑事裁判を司る権限。鎌倉幕府では侍所 (和田義盛の滅亡後は執権 北條義時が兼任) の
職務だが、領主や守護地頭も領内に私的な検断職を置いていた。
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   ※越後守護: 建久六年 (1195) ~建久十年 (1199) が佐々木盛綱、承元四年 (1210) ~北條義時、
貞応二年 (1223) ~寛元三年 (1245) は 北條朝時、以後は名越流北條氏当主が世襲している。佐々木氏は建仁の乱 (1201年4月) に 城資盛の籠る鳥坂城を破って以後は地頭として越後国に勢力を保っていた。
今回は佐々木氏と義時のトラブル未遂なのか、それとも権限の調整なのか。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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10月30日 乙卯
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吾妻鏡
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去る8月に強風で倒れた鶴岡八幡宮浜の鳥居を建て直した。相模守 北條義時、武蔵守 北條時房、匠作 北條泰時ら多くが臨席し夜になって完成したが、足場が倒れて工匠一人と人夫二人が負傷した。
これは喪中の者が加わっていたのが原因ではないかと別当や供僧が申し出た。
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   ※喪中の者: 義時の後妻 伊賀の方は 9月14日に没した 伊賀朝光の娘で軽服 (遠縁の服喪) の対象。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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11月 5日 庚申
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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将軍家の御牧から馬が届き、三浦義村が仮御所 (義時邸) に引き連れてきた。
将軍家 実朝は南面 (公式の場) で馬を見た後に側近に与えた。夜になって庚申の御会が催された。
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   ※三浦義村: 正確な時期は解らないが義村は御厩奉行に任じている。馬は幕府直営の牧場から
鎌倉に届き、それを義村が将軍の御前に連れてきたのだろう。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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11月 8日 癸亥
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吾妻鏡
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将軍家 実朝が相模守 北條義時邸から大倉御所に還御された。鷺の怪異によって仮御所に移ってから既に 75日が過ぎたためである。籐右衛門尉 安達景盛が前もって御所での儀式準備を済ませてあり、御引出物と供奉人への贈物の手配を済ませている。
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   ※既に75日: 一年=四季プラス土用の丑=五季節との考えがあり 365日÷5 で約75日になった。
「人の噂も 75日」 と同じで 75日を一つの区切りとしたらしいが、真偽は不明。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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11月12日 丁卯
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吾妻鏡
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御霊社に於いて清めの儀式を行なった。以前から再三の怪異があったためである。
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   ※御霊社の怪異: 6月20日に事件の報告がある。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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11月20日 乙亥
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吾妻鏡
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戌刻 (20時前後) に太白 (金星) が哭星 (山羊座) の第一星 (γ (ガンマ) 星) から七寸の所を通過した。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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11月21日 丙子
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吾妻鏡
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亥刻 (22時前後) に太白 (金星) が哭星 (山羊座) の第二星 (δ (デルタ) 星) から七寸の所を通過したと陰陽少允安倍親職が報告し、将軍家 実朝が御所の南面に出てこれを御覧になった。
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   ※星の変異: 八年周期で同じ現象が起きるらしい (次回は2016年12月27日と28日) 。
0.7度以内に接近するのは「犯」、それ以上は「合」と呼び共に凶兆、直視しないのが当時の習慣だった。実朝が「公式の場である御所南面で観察した」のは、約三年後に迫った死期の暗示だ、と語っているのだろうか。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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11月24日 己卯
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吾妻鏡
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安楽寺 (大宰府天満宮) 領の岩田庄については多少の逡巡があったが、今日遂に左近大夫菅原時賢の子 有成に与えられた。相模守 北條義時と武蔵守 北條時房および前掃部頭 中原親能と遠江守 源 (大江) 親広らが御下文に花押を書き加えた。有成の兄弟が「有成は平家に与している」と訴え出たため没収を検討したのだが、そのような事実はない旨を陳述した事によって所領安堵に至ったものである。
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   ※岩田庄: 天満宮から約18km南、現在の福岡県小郡市上岩田の 老松神社は大宰府へと流される
途中の菅原道真がこの地に松の苗を植え、「一夜で成長すれば私の無実が明らかになるだろう」と語った。果して松は一夜で古木となって老松神社の御神木になった、との伝承が残っている。
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一方で大宰府天満宮の方は「老松は天満宮の古い呼称」と言ってるらしいし、老松神社の御神木は 松ではなく楠 (参考サイト) だし、御詠歌では 「道真の訃報を聞いた京都道真邸の梅は空を飛んで大宰府に駆け付け、少し遅れた松は慌てて梅を「追い」かけた、それが老松になった」など、ヨタ話っぽい情報がゴロゴロしている (笑) 。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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11月25日 庚辰
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吾妻鏡
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幕府に於いて突然の仏事 (導師は 退耕行勇律師) が催された。これは将軍家 実朝の昨夜の夢 和田義盛ら死没した多くの者が現れたのが理由である。
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   ※実朝の夢: 今頃に夢を見ても遅いのだが、頼家 梶原景時を救えなかった (救わなかった) 時
に朝廷では「頼家最大の失敗」と噂したらしい。同じ意味で和田義盛を見捨てたのは実朝最大の失敗と言えるかも。まぁ二人とも失敗続きの若者だし、普通に考えれば親の教育や躾が完璧に悪かったのだろうけど。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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12月15日 己亥
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吾妻鏡
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亥刻 (22時前後) に金星と木星が接近し、同じ時刻に地震があった。
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   ※金星の異常: 2015年7月に金星と木星の大接近 (Wikiの画像を参照) が話題になった。
簡単に書くと、陰陽道では 金星 (太白) と将軍は同じ五行の金 (万物は木、火、土、金、水の五種類から成る) に分類されるから、金星に異常があると将軍にも何らかの影響があるだろう、と考えるらしい。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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12月16日 庚子
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吾妻鏡
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続いている惑星の変異などについて、天文を司る部署から報告書が提出された。将軍家 実朝は特に注意して身を慎む必要があるとの内容で、大夫屬入道 三善康信が将軍家に取り次いだ。
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相模守 北條義時、大官令 大江広元、籐民部大夫 二階堂行光らは「善政を心掛け良い運が続くよう 補佐するべき」と取り決めた。
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今日、伊豆の国で 願成就院の南新御堂完成供養を催した。本尊は阿弥陀三尊と四天王像、義時の祈願として新たに建てた御堂である。
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   ※願成就院: 右画像は東から見た周辺鳥瞰図 (左が南) 。南御堂の位置を推定するのも楽しい。
時政が建てた南塔の手前かな...なんてね。 画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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伊豆の伝承に拠れば、治承四年 (1180) の夏に伊東祐親の四女 八重姫が昔の恋人 (いや元の夫だ) の 頼朝を訪ねて北條邸の門を叩き、政子に玄関払いされている。
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絶望した八重姫は濁流の真珠ヶ淵 (古川と狩野川の合流部か?) に身を投げ、侍女たちが亡骸を満願寺に葬った...そんな悲話も残っている。
更に詳細は 八重姫所縁の真珠院と満願廃寺跡 (別窓) で。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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12月19日 癸卯
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吾妻鏡
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戌刻 (20時前後) に太白 (金星) が歳星 (木製) の軌道を九寸ほど犯した。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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12月20日 甲辰
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吾妻鏡
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絹糸や絹布などを善光寺 (公式サイト) の僧徒に布施として贈った。布施右衛門尉がこれを差配した。
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   ※布施氏: 布施を差配するから布施氏を名乗った...まさか駄洒落じゃないよね(笑)。
ちょっと調べたら、第10代崇神天皇 (神話の世界) の子孫だとか三善氏の系統だとかの説があるらしい。面倒なのでそれ以上調べたくないけど。
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西暦1215年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保三年
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12月30日 甲寅
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吾妻鏡
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将軍家 実朝御所の南庭 (公式スペース) に於いて、天変に対応するため宣賢が歳星 (木星) に奉仕する祈祷を催した。左衛門尉 三浦義村がこれを沙汰した。
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西暦1211年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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2025年
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7月 6日
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晴耕雨読
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6/15に漬け込んだ梅酒 合計25Lの、第一回攪拌作業を。
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焼酎は通常の25度、全て砂糖類は梅の重量の85%に落とした。
4L瓶×2本を砂糖キビ糖、残り17L (4L×2、2.5L×2、2L×2) は、通常の氷砂糖を使っている。
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少量を試飲した限りでは味は良好で糖度も充分、砂糖キビ糖の方は少し味に深みが出た。熱海で作った五年前より完成度は高い。
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今後は一ヶ月間隔で拡販と試飲 (二人で上限20cc程度) を繰り返す予定。甘さを抑えたから炭酸で割っても満足できる、と思う。
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普通に飲み始めるのは一年を過ぎてからだ!

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園芸日誌を少し整理して 2025年10月の情報を載せた。左目次の 晴耕雨読 園芸日誌 でどうぞ。
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前年・建暦三年 (1214) の吾妻鏡へ       翌年・建保四年 (1216) の吾妻鏡へ