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建保二年 (1214年)
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西暦・天皇・上皇
和暦・月日・史料
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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1月 1日 丁卯
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古今著聞集
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鎌倉右府将軍家 実朝の御所に大名が集まり、三浦介義村は筆頭として上席に座を構えた。
その後に 千葉介胤綱が参上、若輩なのに多くの人を掻き分けて更に上席に座した。不快に感じた義村は 「下総の犬は寝床を知らぬ」 と語り、少し気色ばんだ胤綱は 「三浦の犬は友を喰らうぞ」 と言い返した。
輪田左衛門尉 (和田義盛を差す) が滅亡した合戦を差しての言葉である。

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   ※千葉胤綱: 千葉氏五代当主 成胤の長男で六代当主。吾妻鏡の安貞二年 (1228) 5月28日に 「午刻
に千葉介胤綱が他界、21才」 と記録があるが、複数の資料に拠れば建久九年 (1198) 生まれの31才で逝去と推定され、七代当主は嫡子 (弟説あり) の時胤が継いでいる。
更に詳細は Wiki で確認されたし。
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   ※古今著聞集: 建長六年 (1254) 前後に成立した説話集で編者は 伊賀守 橘成季 (Wiki) 。今昔物語
集や宇治拾遺物語と並んで日本三大説話集とされるが、この挿話は信頼性に疑問がありとされている。
三浦義村の人間性を適切に表現しているという意味では絶妙の表現だが。
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   ※年令: 源実朝 21歳、 坊門信子 (実朝の正室) 26歳、 公暁 (故 頼家の二男) 13歳、
竹御所 (故 頼家の娘、後の四代将軍頼経の正室) 11歳、
政子 55歳、 北條義時 51歳 、 北條時房 39歳 、 北條泰時 29歳 、 北條朝時 20歳 、
北條重時 15歳 、
千葉成胤 58歳 、 千葉胤綱 15歳 、 足利義氏 24歳 、 三浦義村 55歳前後 、 三浦泰村 9歳
安達景盛 43歳前後 、 大江広元 65歳 、
84代 順徳天皇 16歳 、 土御門上皇 18歳 、 後鳥羽上皇 33歳 、 九条道家 21歳 、
近衛家実 35歳、 藤原定家 50歳、
定豪 61歳、 慈円 58歳 、 栄西 71歳 、 法然 (前年 大谷禅房で没、享年76) 、 親鸞 40歳 、
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      (全て1/1時点の満年令)
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安達景盛は生年不詳だが、頼朝の伊豆配流 10年後に誕生と仮定して年齢を推定した。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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1月 3日 己巳
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吾妻鏡
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午刻 (正午前後) に将軍家 実朝が鶴岡八幡宮に御参り。その頃に由比ヶ浜の火災で民家が焼失した。
将軍家は申刻 (16時前後) に再び御参詣、午刻の御奉幣が火事騒ぎで落ち着かなかったためである。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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1月 7日 甲戌
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明月記
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中原広元が正四位に叙された。
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   ※中原広元: 前年1月に従四位に叙されていた 大江広元を差す。朝廷の許可を得て正式に中原姓
から大江姓に改めるのは陸奥守に任じた建保四年 (1216) になる。
幾つかの説があるが、ここでは 尊卑文脈の記載に従って以下を記載して置く。
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 実父は 大江維光 (Wiki) 、明経博士 (儒学の教官) である中原広季の養子になった。
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改姓の認可を記録した建保四年 (1216) 閏6月14日の記録および次の頁 (別窓) には
「養育してくれた中原広季に恩はあるが衰退している大江家を見捨てる事はできない」 と記載されている。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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1月12日 戊寅
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吾妻鏡
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御的始め (弓射初め) の儀あり。一人が二射づつ、五人が的を射てそれぞれに褒美が与えられた。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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1月22日 戊子
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吾妻鏡
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将軍家 実朝が鶴岡八幡宮に参詣 (御束帯、牛車) 。伊賀守朝光が剣、左近将監 佐々木信綱が弓箭を携えた。
相模守 北條義時、武蔵守 北條時房、前大膳大夫 大江広元、修理亮 北條泰時、弾正大弼 源仲章、遠江守 源親広、蔵人大夫 美作朝親、民部大夫 二階堂行光、刑部大夫 山内経俊、山城判官 二階堂行村、左衛門尉 小山朝政、左衛門尉 三浦義村、左衛門尉 結城朝光らが供奉、還御の後に二所詣に備えての精進潔斎を始められた。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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1月28日 甲午
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吾妻鏡
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将軍家 実朝が二所詣に御進発。
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   ※実朝の二所詣: 頼家が失脚した翌年 (建仁四年、1204年) 1月に 北條義時が代参し奉幣したのが
最初で、病欠などを挟んで建暦二年 (1212) ~建保六年 (1218) まで定例として繰り返している。建保二年は 9月末にもう一度行なっているのが珍しい。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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1月29日 乙未
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吾妻鏡
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将軍家 実朝が箱根権現および三嶋社に御奉幣された。
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   箱根権現の公式サイト訪問レポート、 三島大社の公式サイト訪問レポート を参照。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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2月 1日 丙申
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吾妻鏡
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亥刻 (22時前後) に地震。今日、将軍家 実朝が伊豆山権現に御参詣、夜に入って御奉幣された。
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   ※二所詣: 鎌倉から東海道を小田原へ、小田原から尾根筋
を辿り湯坂道を (石仏群のある精進池横を経て) 箱根権現へ、再び東海道を西に下って三嶋大社へ、三泊四日の行程である。
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三嶋大社から南下して旧 熱海街道で 日金山を越え伊豆山権現に下るのが二所詣のルート。
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旧熱海街道は治承四年 (1180) の8月に挙兵した 頼朝が土肥郷を目指したルート。日金山峠道の石碑には実朝の歌が刻んである。
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強い白波が打ち寄せる沖の小島 (初島) と北條氏の傀儡に過ぎない我が身を重ねて詠んだと考える説があるけれど、私には能天気に風景を愛でただけのように思えてしまう。
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    箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ
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このルートにある 精進池の石仏群薬師堂と新光廃寺の跡 なども参考に。
また 伊豆山神社 では溢れ出る熱湯 (リンク中段に記載) を見て次の和歌を詠んでいる。
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    伊豆の国や 山の南に 出づる湯の 速きは神の 験 (しるし) なりけり
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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2月 3日 戊戌
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吾妻鏡
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夜になって二所詣から鎌倉に還御された。右衛門尉安達景盛が御所に宴を準備し、献酒が行われた。
同行していた者は酒を酌み交わして終夜の酒宴に及んだ。
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   ※景盛と言えば: 正治元年 (1199) 7月~8月に、京都から招いた美女を将軍 頼家に奪われる事件が
あったっけ。その後の彼女がどんな運命を辿ったか、少し気になるけど。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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2月 4日 己亥
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吾妻鏡
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将軍家 実朝がやや体調を崩され周辺が騒ぎとなったが特に深刻ではなく、昨夜の深酒の影響らしい。
加持祈祷に参上していた葉上僧正 栄西がこれを聞いて寿福寺から良薬として知られる茶を運ばせ、効能を記した一巻の書を添えて一服を献じた。これは将軍家は特に喜ばせた。
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   ※一巻の書: 茶の製法や効能を述べた喫茶養生記 (上下二巻、栄西の著) 。史料には「茶徳を誉む
る所の書」とあり、実朝に贈った物が完本の最初とする説が多い。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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2月 7日 壬寅
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吾妻鏡
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寅刻 (早暁4時前後) に大地震があった。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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2月10日 乙巳
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吾妻鏡
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今日、新黄門 (中納言の唐名、新たに昇叙した坊門忠信) の使者が京都より参着し蹴鞠の書一巻を届けた。
忠信卿は去年12月2日、藤原宗長と共に紫革の襪 (足袋の一種) の着用を許されている。
将軍家は様々な趣味を賞翫しており、中でも和歌と蹴鞠が特に御意に叶っている。
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   ※襪の着用: 履 (くつ) を着ける際に用いる足袋の一種で一般には使用が禁じられた。禁色の紫と
併せて高位の側近のみに許された、という意味だろう。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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2月14日 己酉
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吾妻鏡
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将軍家 実朝が烟霞の興を催すため杜戸浦 (森戸海岸、地図) に出御された。御駄餉 (外出先での食事) の準備は長江四郎明義が担当した。海辺では小笠懸を催し、武士が各々の武芸を披露してみせた。
黄昏の頃に明月の光を待って舟で由比ヶ浜に渡り、御所に還御された。
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   ※烟霞の興: 霞 (かすみ) のたなびく風景を愛でる集い。
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   ※長江明義: 鎌倉権五郎景政の子が景継、その子が大庭景宗 (景義 景親の父) と、三浦義明の娘
を妻にした長江義景 (所領は葉山町長柄、地図) で、義景の嫡子が長江明義。
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治承四年 (1180) に頼朝が挙兵した際には同族の大庭、俣野、梶原、長尾など鎌倉党の主流は平家に与したが、長江氏は三浦氏と共に頼朝側に味方している。
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明義は父の所領の森戸川流域を継承して長柄字殿ヶ谷 (地図) に本拠を置き、建久五年 (1194) 8月8日には頼朝の相模国日向山参詣などに供奉している。宝治合戦では縁戚関係の深い三浦氏と共に戦って滅亡し、次弟の師景が長江の家名を継いでいる。
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殿ヶ谷の入口にある福厳寺が長江氏の菩提寺で、森戸川沿い 400mほど上流左手の長江義景大明神一帯 (地図) が館跡と考えられ、裏手には数基の五輪塔が残っている。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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2月15日 庚戌
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吾妻鏡
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戌刻 (20時前後) に月蝕。白雲を透かして七分ほどの蝕が確認できた。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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2月23日 戊子
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吾妻鏡
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将軍家 実朝が鶴岡八幡宮に御参拝。相模守 北條義時が供奉された。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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3月 9日 甲辰
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吾妻鏡
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夜になって将軍家 実朝が突然永福寺に出御された。桜の花を御覧になるためで、修理亮 北條泰時、山城判官 二階堂行村東平太重胤、宮内兵衛尉公氏らが供として従った。将軍家を含めて徒歩、戌刻 (20時前後) の還御 に合わせて牛車を寺の門前に着けた。
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   ※宮内公氏: 実朝の側近。建保七年 (1219) 1月の八幡宮で斬殺事件の前に形見として髪の毛一筋を
受け取る人物。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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3月11日 丙午
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吾妻鏡
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山城判官 二階堂行村が永福寺の寺社奉行に任じる申請を行なった。
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   ※永福寺奉行: 建久五年 (1194) 12月2日に頼朝の命令で 三浦介義澄畠山次郎重忠義勝房成尋
の三人が任じている。その後に変更記録があったような気がするが...
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いずれにしろ義澄も重忠も既に故人、義勝房成尋 (中条兼綱) は年齢不詳 (推定60歳以上) 、横山党小野氏の系だから和田合戦での失脚が考えられるが戦死者名簿には見当たらない。奉行人は空席だった、誰かが兼任していた可能性もある。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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4月 3日 丁酉
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吾妻鏡
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亥刻 (22時前後) に大地震あり。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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4月18日 壬午
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吾妻鏡
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御所に於いて、大倉に建造している新御堂の落成供養についての評議を行なった。相模守 北條義時、前大膳大夫 大江広元、民部大夫 二階堂行光、大夫屬入道 三善康信、山城判官 二階堂行村が参席した。
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将軍家 実朝)は供養の導師に京都の高僧を招聘したい意向だが 広元朝臣、行村、康信らは違う考えがあり、次のように強く主張した。
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勝長寿院建立以後の伽藍供養に際しては三井寺や醍醐寺の碩徳 (構想) を招いたため往還の費用や民の賦役で大きな負担があった。 これは善行を積むという仏の教えに叶っていない。今回の落慶供養に関しては関東の僧侶に任せるのが一番の徳政である。
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   ※新御堂: 建暦二年 (1212) 着工の大倉郷 (現在は十二所の
地番、地図) の大慈寺 (既に廃寺) を差す (同年の4月18日を参照) 。滑川両岸に堂塔が軒を連ねたと伝わるが廃寺になった年代も不明、堂塔の礎石すら確認できていない。
右は周辺の鳥瞰図 クリック→ 別窓で拡大
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存在したのは間違いないのに伝承に基づく推測に頼るしかない、まさに「幻の大寺」である。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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4月21日 乙酉
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吾妻鏡
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大倉新御堂 (大慈寺) の惣門に安置する金剛力士像が完成した。筑後左衛門尉 朝重、布施左衛門尉康定 (三善康信の養子で公事奉行人) がこれを沙汰し、民部大夫 二階堂行光が奉行に任じた。
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   ※像の完成: 吾妻鏡に 「納めた」 の文字はないが、落慶供養は7月27日、像の完成と考えて良い。
原文は「被造立金剛力士像是為安置干大倉新御堂総門也」。桁違いの大寺だったのに総門の位置も伽藍配置も本尊をほった仏師が誰かも判らないのは実に寂しい。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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4月23日 丁亥
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吾妻鏡
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酉刻 (18時前後) に京都からの飛脚が鎌倉に到着して次のように報告した。
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去る15日、比叡山延暦寺の衆徒が 園城寺 (三井寺) を襲撃し金堂などの仏閣や僧房を全て焼き払った。
騒動の発端は14日の 日吉山王神社の祭礼で、唐崎神社 (日吉の摂社 地図) での喧嘩が発端である。三井寺の衆徒が引き上げる所司を追い掛けて合戦となり、更には比叡山の衆徒が馳せ参じた。
まず錦織里 西浦 (地図) の三井寺の在家と北院の僧房に放火し、丑刻 (深夜2時前後) に堂塔を焼いた。
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最近の比叡山は徒党を組んで騒動を起こす例が多く、それに伴って飛脚が往来したり使者が都と鎌倉を往還するなど朝廷や庶民の負担が増えるのも正常な状態ではない。
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圓城寺に至っては天武天皇十六年 (686年) の創建以来、比叡山衆徒によって焼かれたのは五度に及ぶ。
最初は白河院の承保元年 (1074) 6月9日に比叡の衆徒が金堂以下の堂宇全てを焼き払った事件、次に鳥羽院の保安二年 (1121) 閏9月2日、次に崇徳院の保延六年 (1140) 閏5月25日、次に二条院の長寛二年 (1164) 6月9日。この四度もそれぞれ金堂と三院を焼き払っている。

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   ※三井寺: 北院には法明院が、中院には金堂と唐院と鐘楼が、南院には観音堂がある。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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4月25日 己丑
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吾妻鏡
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園城寺の長吏僧正 公胤の使者が鎌倉に入り、寺が焼亡した件の嘆きを伝えた。
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   ※公胤: 天台宗の僧で著名な歌人。後鳥羽上皇と鎌倉幕府の双方に信頼され、後に 政子の依頼を
受けて 頼家の遺児 公暁を仏教の弟子として預かった。当初は批判した 法然と面談してから念仏に帰依し、曹洞宗の祖 道元に臨済宗の 栄西への入門を勧めたことでも知られる。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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4月27日 辛卯
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吾妻鏡
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武蔵守 北條時房が三品 (三位) への叙位を望む旨を非公式に申し出た。将軍家 実朝は「早急でなければ無理ではないだろう」と答えた。   (時房は建保五年 (1217) 12月に相模守に遷任している)
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   ※時房の叙位: この時点では従五位下。建保六年 (1218) に
従五位上、天福二年 (1234 ) に従四位下、嘉禎三年 (1237) に従四位上、嘉禎四年 (1238) に正四位下に昇ったが、念願だった三位には昇れないまま生涯を終えた。
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世俗に囚われず黙々と義時の補佐を続けた印象だが、秘めた願いを抱いていたんだね。
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右は伊豆長岡 北條寺 (別窓) 墓苑にある時房一族の墓誌。第三十三代が御存命らしい。    画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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5月 7日 辛未
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吾妻鏡
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園城寺の (回禄) に対応し、唐院および堂舎や僧坊の修復を手配せよとの仰せが下された。
惣奉行は駿河前司 大内惟義朝臣と豊前守尚友が担当する。
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宇都宮入道蓮生 (頼綱)は山王社と拝殿、佐々木左衛門尉広綱は四脚門、源三左衛門尉親長は鐘楼、内藤左衛門尉盛家は預坊 (寺務司所) を復旧担当とするなど、18人を定めた。圓城寺は源家が数代に亘って崇敬を重ねてきた経緯がある。
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豫州刺史 (伊予国守) の禅室 源頼義朝臣は息子の快誉阿闍梨智證大師 円珍 (Wiki、建暦三年 (1213) の6月2日に関連記事 あり) の弟子にし、三男刑部丞 義光を新羅明神で元服させて以降、鎮守府将軍の八幡太郎義家もこの寺による祈祷を受けていた。最愛の娘が眼を病んだ際には錦織僧正行観の加持祈祷によって全快したため将軍は特に喜んで三度僧正を拝し、自分の子孫を和尚の門徒に帰依させる意思を語っていた。
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幕下将軍 頼朝は二ヶ所の荘園を圓城寺に寄進して繁栄に貢献し、更に鎌倉に創建した諸寺には (圓城寺から) 公顕僧正と公胤僧正を開眼供養の導師として招いた。また八幡太郎義家が御鬢髪を青龍院に納めるなどの仏縁を重ねた経緯から、今回の復旧奉仕に及んだものである。
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   ※唐院: 天安二年 (858) に唐から帰国した智証大師円珍 (空海の甥) が持ち帰った経典や法具など
を貞観十年 (868) に第56代 清和天皇から下賜された内裏の仁寿殿に納めて伝法潅頂の道場としたのが名前の起源。圓城寺唐院は入唐の修行から帰った僧の住房だったらしい。
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   ※豊前守尚友: 建暦三年 (1213) 9月8日の吾妻鏡に次の記載がある。
「豊前前司尚友が子息の内蔵允尚光と兵衛尉能尚を伴って京都から参着し、籐民部大夫 二階堂行光の取次を得て将軍家 実朝に面会した。西国に於ける関東御領の年貢を扱うため在京する者である。」
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   ※四脚門: 文字通り、4本の柱で支える一般的な構造の門。
例として、足利鑁阿寺 (別窓) 東門の画像を右に載せた。(クリック→ 別窓で拡大)厳密に考えると六脚門か、とも言えるが...。
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   ※源三親長: 本姓は安達なのだが盛長との関係は判らない。
頼朝時代に但馬国 (兵庫県北部) 守護、後に出雲国 (島根県東部) の守護を兼ねた。
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元久二年 (1205) 閏7月には 後藤基清らと共に京都守護 平賀朝雅を追討、承久の乱 (1221年) では 後鳥羽上皇軍に加わったため当然ながら守護を解任された。
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   ※内藤盛家: 藤原秀郷の子孫を称して西国に基盤を置いていた武士。寿永四年 (1185) から頼朝の
御家人に加わった。文治三年 (1187) 4月23日には東大寺再建の大勧進 重源上人から内藤盛経ら東大寺の年貢米を横領していると訴えられ、建久元年 (1190) には内藤盛家が周防国遠石荘内石清水別宮領に乱入した記録があり、鎌倉時代初期の一族は周防国に新領を得ていたらしい。
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   ※快誉と智證大師: 快誉 (頼義の庶子) の生涯は 036~1112年だか
ら、智證大師 (814~891年)の弟子には成り得ない。それどころか父の頼義 (988~1075年) さえ智證大師が没して90年以上後に生まれているのだから、吾妻鏡の編纂者は飛んでもない思い違いをしている。
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右は圓城寺収蔵の智證大師像 (国宝、85zm)
    画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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   ※新羅明神: 圓城寺守護神社の一つで元は地主神だったらしい。
智證大師が唐から帰国する船に現れて新羅国明神と名乗り「仏法を日本に広めよ」と命じたとされる。現在は絶対秘仏(秘神)として新羅善神社 (地図)に祀っており、すぐ近くには新羅義光の墓所もある。
  新羅明神の画像は Wiki を参照されたし。
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   ※青竜院: 吾妻鏡の建久元年 (1190) 12月8日には次の記載がある。前右大将家 頼朝が御劔一腰と
砂金十両を三井寺の青龍院を修理する費用として寄進した。この霊場は八幡太郎義家が特に崇敬し、遺髪を埋葬した地である。(青竜院の詳細は継続して調査中)
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   ※錦織僧正行観: 平安中期の天台宗の僧 (1013~1073年) で園城寺長吏行尊の叔父。
近江錦織庄 (地図) の尊勝院に住み、後に園城寺に入った。源頼義と義家父子の帰依を受け、頼義は錦織山に宇佐八幡宮 (地図) を祀り、行観は盲目だった義家の娘の目を開かせた、と伝わる。
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平成27年6月23日、圓城寺 (三井寺) は 憲法に関する声明文 (PDFファイル) を発表した。
同じ宗教者でありながら、金と権力に汚染された創価学会と公明党 は政権に媚びて海外派兵に賛成し、創価学会が 「邪宗だ」 と非難し続けていた他の仏教団体は堂々と集団的的自衛権の行使容認に反対している。堕落した集団に一票を投じて国民の未来を託す値打ちがあるだろうか。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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5月15日 己卯
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吾妻鏡
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寅刻 (16時前後) に月が太白 (金星) の軌道から三尺の位置を犯したと司天 (天文担当者) が報告した。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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5月28日 壬辰
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吾妻鏡
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降雨なしの天候が一旬 (10日) を越えたため鶴岡八幡宮で雨乞いの祈祷が催された。
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   ※西暦の場合: この年の5月28日は7月7日に該当する。田植え前後の水不足を警戒か。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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6月 1日 甲午
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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夜になって少し雲が広がり雷鳴が轟いた。これは御祈請の効果だろうか。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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6月 3日 丙申
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吾妻鏡
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諸国は旱魃の続く天候を嘆いている。将軍家 実朝は葉上僧正 栄西を招き、降雨を祈るため八戒を守る誓願を立てて法華経を転読された。相模守 北條義時を始め鎌倉中の緇素も貴賤も般若心経を読み続けた。一心に祈って勤めを果たす行為である。
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   ※八戒: 在家の男女が出家者に倣って守る戒め。殺生、偸盗、淫行、妄言、飲酒の五戒に加えて
装身や歌舞見物、立派な寝台、余分な食事を加えたのが八斎戒。
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   ※緇素: 緇=黒で僧衣、素は白で俗人を表す。併せて僧俗。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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6月 5日 戊戌
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吾妻鏡
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降雨となった。これは偏に将軍家の懇切な祈りの結果だろう。
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第35代皇極天皇元年 (642年) の7月、日照りが続いたため各地で祈祷が行われたが効果がなく、大臣の 蘇我入鹿 (蘇我馬子大臣の息子) が自ら香炉を持って祈念しても同様だった。
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   ※日本書紀の記録: 7月25日、大寺の南庭に菩薩像と四天王像を祀り多くの僧が屈請し大雲経
誦した。蘇我の大臣は香炉を持ち香を焚いて祈ったが効果がなかった。
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8月1日になって天皇は南の河上に行幸し跪いて四方を拝し天を仰いで祈った。たちまち雷雨となって五日間も止まず見事に天下を潤した。天下の百姓は万歳を叫んで至徳の天皇を称えた。
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   ※大雲経: 国王による仏教保護の重要性を説く六巻の経典で「浄光天女が帝位を継ぐ」の文節が
ある。第34代 舒明天皇が崩御しても後継が決まらず、妃が女帝 皇極天皇となった。
その正当性を喧伝するために大雲経を持ち出したのだろう。
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都が明日香にあった時代、蘇我入鹿と蝦夷親子が滅んだ乙巳の変 (大化の改新) の直前である。唐の則天武后も愛人に同じ構図を設定させている。権力者は常に歴史を書き換えようとする。 飛鳥の話が出たついでに、明日香村探訪記も、お口汚しに。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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6月13日 丙午
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吾妻鏡
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関東御領の国々に関する年貢を来秋から三分の二に減免する。その恩恵を翌年から、毎年一ヶ所づつ
各地に割り宛てよう、将軍家 実朝がそのように仰せになった。
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   ※減免する: 原文は「自來秋可被免三分二」、事実が 「三分二を免じる」 のか 「三分の二に免じる」
のかが判らなかった。更に調べてみたら 「三分の二に免じる」 だった。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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7月 1日 甲子
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吾妻鏡
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将軍家 実朝 二階堂行光を派遣し大慈寺 落慶供養の導師を務めるよう葉上僧正 栄西に伝えた。
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   ※落慶供養導師: 実朝は4月18日の協議で京都の高僧を望んだが重臣の反対 (執権北條義時の意向)
で断念した。しかしこの程度で実朝の京都への憧れが弱まることはない。
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建永元年 (1206) 前後から侍読 (教育係) となった 源仲章は建保四年 (1216) には政所別当 (大江広元を筆頭にして 源頼茂大内惟信と仲章の集団指導制) の一人として幕政に関与していく。
惟信と仲章は (幕閣の中では) 共に 後鳥羽上皇に比較的近い存在である。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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7月27日 庚寅
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吾妻鏡
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終日の豪雨ながら、大倉大慈寺 (呼称は新御堂) の落慶供養である。巳刻 (10時前後) に尼御台所 政子が御輿で大慈寺に渡御され、午刻(正午前後) に将軍家 実朝が御束帯で出御された。
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供奉人行列
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前駈 (身分の低い者を先頭に)
   橘三蔵人惟広    伊賀左近蔵人仲能  三條左近蔵人親實  蔵人大夫国忠
   左近大夫美作朝親  相模権守経定    右馬助範俊     前筑後守頼時
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殿上人  右馬権頭源頼茂
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御車 (御車副えて二人、牛童二人、雑色十八人)
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   御劔役 小野寺左衛門尉秀道  御調度懸け 加藤左衛門尉景長 (景廉の次男)
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後騎
   相模守北條義時   武蔵守北條時房   修理亮北條泰時 (以上 一列)
   前大膳大夫大江広元 前駿河守大内惟義  遠江守源親広
   伊賀守朝光     筑後守有範    九郎右衛門尉三浦胤義
   右衛門尉中條家長  兵衛尉葛西清重   嶋津左衛門尉忠久
   兵衛尉佐貫広綱   大井紀右衛門尉実平 (大井実春の息子)   宇佐美右衛門尉実政
   江右衛門尉範親  加藤右衛門尉景広 江兵衛尉義範
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随兵
   相模次郎北條朝時      武田五郎信光    左衛門尉結城朝光
   左近将監佐々木信綱     伊豆左衛門尉頼定  若狭兵衛尉忠秀(嶋津忠久の弟)
   下河辺四郎行時行平の嫡子  兵衛尉塩谷朝業   大須賀太郎道信(胤信の嫡子)
   東平太所重胤 (胤頼の嫡子)   左衛門尉三浦義村  左衛門尉筑後知重
   検非違使 山城判官二階堂行村
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惣門に到着して御車から牛を離し、右馬権頭が進み出て御沓を差し出した。将軍家が御堂に昇った後に
導師の葉上僧正 栄西が供僧 20人を引率して堂に入り落慶供養を執り行なった。
その後、晩になって御布施を配布した。被物三十重と御馬二十疋である。
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   ※前筑後守頼時: 源姓の実務官僚。検非違使、筑後守を経て建暦二年 (1212) に地頭職を務め鎌倉
に常駐していた。  右下は大慈寺周辺の鳥瞰、クリック別窓で拡大表示
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   ※筑後守有範: 姓は五條。元久二年 (1205) の閏7月に京都
平賀朝雅を追討した在京の御家人で後に検非違使、筑後守。承久の乱で後鳥羽側となり戦後に処刑された。
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   ※宇佐美実政: 文治六年 (1190) 1月に大河兼任の乱で没し
宇佐美 (大見) 実政と同姓同名である。
宇佐美氏にも大見氏にも同名の人物は見当たらないので記載ミスじゃないかと思う。
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   ※大江範親、義範: 大江氏一族だが広元と直接の縁戚関係はない。共に西面の武士か。
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   ※加藤景広: 景廉の系累だと思うが系図には載っていない。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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8月 7日 己亥
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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豪雨により洪水。大倉新御堂の惣門が倒壊した。
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   ※惣門が倒壊: 右上の画像を参照。四代将軍 藤原頼経による 明王院 (公式サイト) 創建は嘉禎元年
(1235) だから、大慈寺創建当時はもちろん存在しない。
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大慈寺から明王院一帯までの山裾は東西 250mほどあり、頼経は大慈寺の西に隣接して明王院を建てた、と考えて良いだろう。
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水戸黄門が編纂を指揮した 「新編鎌倉志」 には 「大慈寺旧跡は五大堂 (明王院) と 光觸寺 (公式サイト) の間にあり」 と書いてある。間を流れる滑川の手前までだろうと思うが、光蝕寺山門から大慈寺旧蹟碑までの距離は約300m。
大慈寺惣門 (明石橋の北岸辺りか) の倒壊は滑川の氾濫による被害だろう。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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8月13日 丁巳
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吾妻鏡
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大夫判官 大内惟信 (在京御家人、検非違使) の使者が鎌倉に入って報告。去る四日に南都興福寺の衆徒が欝訴 (実質的には強訴) と称して春日神社の神木を運んで 木津川近くに移した。
この使者が京を出た七日には入洛する意図ではないかとの噂があり、在京の武士は衆徒を防ぐため勅定に従って宇治と勢多の二ヶ所に出動した、と。
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   ※春日の神木: 神仏習合時代の興福寺と春日大社は概ね一体の存在である。
春日大社の榊 (さかき) または梛 (なぎ) の枝に春日明神御神体 (依り代) の神鏡を付け、注連縄を掛け神木として強訴の神威とする。
これが朝廷の脅威になった理由と詳細は 春日神木 (Wiki) を参照されたし。
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   ※興福寺: 乙巳の変で蘇我一族を滅ぼした 中臣鎌足 (Wiki)
(没後の尊称が藤原釜足) は決起の成功 (後の呼称が大化の改新) の成功を祈り、山階(京都山科) で釈迦三尊像と四天王像を造像した。
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天智天皇の八年 (西暦669年) 、釜足夫人 鏡大王が夫の病気快復を祈って山科に山階寺を創建したが、釜足は同年に死没してしまう。
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 山本石材店前 (地図) に 「山階寺跡の碑」 あり
   右画像をクリック→ 別窓で拡大表示

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後継を巡る多少の混乱が過ぎた西暦690年に皇后の鸕野讚良 (うののささら、第41代 持統天皇、Wiki) が 694年に藤原京 (橿原市、地図) に遷都し、山階寺も宮殿から 3kmほど南 (地図) に移って厩坂寺と称した。
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和銅三年 (710年) の平城遷都と共に釜足の子 不比等が現在地に遷して興福寺と改称。藤原氏の氏寺であると同時に政治的 宗教的権威を具備した興福寺の誕生である。
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平安時代の中期になると土地の私有化が活発になり、「寄進系の荘園」が各地に登場する。
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土地を開墾した領主などが国司の関与を排除するために有力社寺や貴族に土地を寄進し、荘官として収益権の保護を受けるシステムである。
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大和国で最大の宗教的権威を持ち、摂関家との関係も緊密な興福寺は在地の土豪から次々と寄進を受けて膨れ上がり、多くの社寺を吸収して末社や末寺とし、武装した在地の土豪を「衆徒」として支配下に置いた。
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更に 談山神社 (多武峯 、公式サイト) を中心に団結していた国衙領の有力農民も興福寺の保護を求めてその傘下に加わり、各地の末社に所属する神人として互助の関係を確保していく。
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権力の集中は「権力の行使」を生む。巨大化して豊富な資金力と動員力を得た宗教団体は 宗教者の顔をして政治に関与し、更なる既得権の維持と組織の拡大に注力する。
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平和や幸福を唱えつつ実利を求め 政治権力と結託して憲法をも超える存在 になる。
創価学会や公明党の姿は 金と票を武器に政権政党と癒着し 「現代版の強訴」 である。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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8月15日 丁未
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吾妻鏡
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子刻 (深夜24時前後) に月蝕があり、九割ほど欠けたのがはっきりと確認できた。
今日、鶴岡八幡宮の放生会が催された。月蝕が過ぎた明け方になって将軍家 実朝が出御され、読経の法会と舞楽が直ちに行われた。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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8月16日 戊申
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吾妻鏡
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将軍家 実朝の御参宮 (鶴岡神事) は昨日と同じ。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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8月29日 辛酉
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吾妻鏡
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去る16日に 後鳥羽上皇が秋十首の歌合わせを催した。二條中将 飛鳥井雅経朝臣がこれを書き写して鎌倉に届け、将軍家 実朝はこれを特に喜ばれた。
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   ※秋十首: 10人が左右に分かれて秋をテーマに詠んだ和歌の優劣を競う歌合わせ。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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9月 1日 壬戌
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吾妻鏡
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巳午の両時 (午前10時から正午にかけて)) 日蝕が確認できた。五分ほどの蝕である。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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9月19日 庚辰
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吾妻鏡
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常陸国府中の地頭に関し、今後は大掾資盛を任じるよう朝廷から指示があった。国衙の申請による。
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   ※常陸国衙: 昭和45年 (1970) に建て替え工事中の市立石岡小学校 (地図) で発見され発掘調査後に
埋め戻された。茨城県教育委員会による 国府跡の紹介 を参考に。北側に府中の地名が残っている。天慶二年 (939年) に 平将門が占領した常陸国府はここなんだね。
資盛の名は直系の系図に見当たらないが、大掾の一族には間違いないのだろう。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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9月22日 癸未
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吾妻鏡
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丑刻 (深夜2時前後) に大地震あり。今日、将軍家 実朝二所詣の御精進を始められた。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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9月29日 庚寅
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吾妻鏡
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辰刻 (朝8時前後) に将軍家は二所詣に御進発。相模守 北條義時が供奉し随兵 50余騎が前後を警護した。
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   ※二所詣: 今年の1月末にも二所詣を行っている。年に二回は珍しい。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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10月 2日 癸巳
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吾妻鏡
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夜になり将軍家 実朝が二所詣から還着。供奉した相模守 北條義時は相模国一宮に奉幣使として残った。
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   ※相模国一宮: 寒川神社(公式サイト)を差す。1km南に梶原景時の 一宮館があった。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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10月 3日 甲午
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吾妻鏡
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卯刻 (朝6時前後) に相模守 北條義時が鎌倉に還着した。戌刻 (20時前後) に義時の子息が御所に於いて元服、髪を整える役は前駿河守 大内惟義朝臣が務めた。名乗りは相模五郎実義である。
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   ※相模五郎: 実義は烏帽子親の実朝が与えた名で、元仁元年 (1224) に勃発した伊賀氏の変の後に
三代執権を継いだ 北條泰時から 「泰」 の字を与えられ 北條実泰を名乗った。
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義時の息子は上から、江間太郎泰時、相模次郎朝時、極楽寺重時、陸奥六郎有時、相模四郎政村、相模 (後に陸奥) 五郎実泰、の順になる。なぜ六郎が四郎や五郎の兄なのかの説明は面倒くさいのでパス。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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10月 6日 丁酉
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吾妻鏡
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亥刻 (22時前後) に大地震。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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10月10日 辛丑
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吾妻鏡
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申刻 (16時前後) に激しい雨と雷鳴。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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10月15日 丙午
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吾妻鏡
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大慈寺に於いて葉上僧正 栄西が舎利会 (仏舎利を供養する法要) を催した。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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10月27日 戊午
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吾妻鏡
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寅刻 (16時前後) に月が太白 (金星) の軌道から一尺五寸の範囲を犯し、その状態が辰刻 (20時前後) まで
続いたと天文の担当者が報告した。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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11月22日 戊午
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皇帝紀抄
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熊野新宮 (熊野速玉大社、公式サイト) の宝殿などが焼失した。
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   ※皇帝紀抄: 鎌倉時代中期編纂の歴史書(編者不明)。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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11月25日 乙酉
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吾妻鏡
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六波羅の飛脚が鎌倉に入って次の通り報告した。
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和田左衛門尉義盛と大学助 土屋義清の残党が京都に潜伏し、故 金吾将軍 頼家の息子 (禅師 栄実) を大将軍に擁して叛逆を計画しているとの情報が届き、去る13日に前大膳大夫 大江広元の家人 (在京御家人) らが一條北の宿舎を襲撃、禅師は間もなく自殺し仲間は逃げ去った。
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   ※愚管抄は: 和田合戦を逃げ延びた者が寄り集まり葉上上人 栄西の弟子として出家していた頼家
の息子を擁して決起を計画したが情報が漏れて討ち取られ14歳の禅師は自殺した。と書いている。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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12月 1日 辛卯
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吾妻鏡
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相模国大山寺の免田五町二段に同国の丸嶋郷を加えよとの仰せが下された。
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   ※大山寺: 神仏習合時代の 大山阿夫利神社 (公式サイト) 。
明治初期の神仏分離後は近くの 雨降山大山寺 (大山不動尊、参考サイト) として移転した。
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   ※丸嶋郷: この地名は平塚市岡崎 (地図) に残っている。
周辺は 岡崎義実の旧領であり、東側に隣接する無量寺が岡崎氏の館跡と伝わっている。義実の長男で 石橋山合戦で没した 佐奈田義忠 (余一) の遺児 岡崎実忠と土屋氏の養子となった 土屋義清は和田合戦で義盛に味方し、共に落命している。彼らの遺領が大山寺に寄進されたのだろう。 右上は無量寺近くの伝 義実墓所。 クリック→周辺の風景(別窓)へ。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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12月 2日 壬辰
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吾妻鏡
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京都朝廷の使者が参着して報告。先月21日の未明に高陽院の仙洞 (後鳥羽院の御所) から失火し二棟を焼いただけで打ち消した。
同日の亥刻 (22時前後) に 仁和寺 (公式サイト) の御室 道法が崩御した (御年49才) 、と。
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   ※高陽院: (かやいん) は桓武天皇の第七皇子 賀陽親王の邸宅だった場所で、後鳥羽上皇が里内裏
として行政の拠点を置いた。更に詳細はWikiで。
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   ※仁和寺の御室: 後白河法皇の皇子道法法親王。六勝寺検校と仁和寺総法務を務め、後高野御室
と呼ばれた。六勝寺は元久元年 (1204) 11月3日の条を参照されたし。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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12月 4日 甲午
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吾妻鏡
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亥刻 (22時前後) に由比ヶ浜の付近で出火、激しい南風に煽られて若宮大路の数町まで燃え広がり、その間の家屋が全て焼け落ちた。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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12月10日 庚子
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が永福寺に出御された。恒例の一切経会である。
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   ※一切経: 経(釈迦の教え)と律(僧の規律や生活の姿)と論(律と経の解釈)の三蔵を纏めた仏教の
聖典で、大蔵経に同じ。
正治二年 (1200) 、建仁元年 (1201) 、建仁三年 (1203) 、元久三年 (1206) 、承元三年 (1209) 、建暦元年 (1211) 、同二年 (1212) の3月3日、同三年11月にも開催しているから通例の法会として完全に定着している。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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12月12日 壬寅
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吾妻鏡
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御家人が官職を望む場合は、家督を継いでいる者がその人物の功績などを充分に吟味して推薦せよ、直接申請する場合は奉行人を介する必要はない、と (将軍家の) 仰せがあった。
大江広元が差配してこの内容を周知させる。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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12月17日 丁未
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吾妻鏡
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故 屋嶋の前内府 平宗盛の家人である美濃前司源則清の息子 左衛門尉則種が丹後国から参上し、御家人として幕府に仕えたいとの希望を述べた。多少の問題はあるが、右大将軍 頼朝が建久七年 (1196) に伊賀大夫を討った際に「平家の武士から希望が出された時は採用して良い」 との仰せがあったのだから許可する、とした。則種は和歌の名手であり、これが御意に叶ったと思われる。
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   ※伊賀大夫: 平知盛の次男知忠。都落ちの際は幼児 (満3歳、7歳説もある) のため父に同行を許さ
れず伊賀の乳母子の元で成長、一條能保の暗殺を企てたが露見して追討された。享年17才、21才説もある。  (6月25日付の明月記を同日に転載してある)。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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12月30日 戊午
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皇帝紀抄
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中宮大進 藤原兼高が土佐国に配流された。先日、殿上で蔵人勘解由次官の宗宣を打擲した罪に拠る。
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   ※吾妻鏡は: 翌年1/20にも 坊門忠清の使者が 妹の 御台所 坊門信子に 「来月出家の望みが叶っ
た」 旨を伝えると共に 使者は藤原兼高と蔵人宗宣の事件を伝えている。
しかし同様に、暴行事件の詳細は伝えていない。
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忠清は内大臣だった 坊門信清の二男で 後鳥羽と順徳の寵臣だった兄 忠信の弟、 妻は北條時政と後妻 牧の方の娘。忠信も忠清も承久の乱では後鳥羽院に協力したため戦後の死罪は当然だったが、妹 (坊門信子) の懇請で辛うじて免れた。
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ただし没落は避けられず、その後の詳細は不明である。
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   ※皇帝紀抄: 鎌倉時代中期編纂の歴史書(編者不明)。
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2025年
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7月 5日
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晴耕雨読
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大玉スイカの中間報告を。
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同じ株で受粉成長した大切な三個、実寸23cmと16cmと10cm。
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ここまで成長してくれるともう心配入らない。一番大きい玉は6/19に受粉しているから生後15日、概ね7月30日頃に収穫となる。
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同じ株の別の枝ではあと二つ受粉しているから、この二つがうまく成長するか否かは少し微妙で、あとは運に任せて祈るだけだ。
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別の二株 (園芸店の無料処分コーナーコーナーから厳選して頂戴した苗) がどうやら本格的に成長し始めたから、全てが順調なら8~9個収穫できる計算になる。そうなったら、万々歳だ!
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      三玉の集合写真をクリック→ 別窓で拡大表示  ヨーグルトの容器と較べてね!
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園芸日誌を整理して 2025年10月の情報を載せました。左目次の 晴耕雨読 園芸日誌 でどうぞ。
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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西暦1214年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保二年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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   ※:
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