
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 1月 1日 己未 . 吾妻鏡 |
. . その役に任じた者 . 御剣 小山左衛門尉朝政 御弓征箭 三浦兵衛尉義村 御行騰沓 足立左衛門尉遠元 御馬五疋 一疋 佐原太郎 と 長井太郎 が手綱を引く (以下、同様) . . ※行騰: 乗馬の際に着ける袴カバー。画像 (wiki) を参考に。 . ※他の武士: 佐原太郎は義連の長男景連、長井太郎は大江広元の次男で長井氏の祖となった時広か。 筑後六郎 (八田知尚) は知家の六男で浅羽氏の祖、九郎は多分知家の七男で田中氏の祖となった知氏 (その下の時家 (高野氏の祖または小田氏) が十郎だから) 。 .足立八郎は四郎遠元の子息 (元春、遠光、遠景、遠村、遠継) の誰かだろう。 結城七郎は朝光の嫡男朝広 (wiki) 。 相馬五郎は師常の嫡子で相馬氏の二代目。 東平太は胤頼の嫡男重胤 (wiki) 。 世代がどんどん変わっていく。 . ※年令: 源実朝 12歳、 坊門信子 17歳、 政子 47歳、 北條時政 67歳、 北條義時 42歳 、 北條泰時 22歳 、 千葉成胤 51歳、
足利義氏 16歳、
三浦義村 46歳前後、
大江広元 57歳、 .後鳥羽上皇 25歳、 土御門天皇 10歳、 九条道家 12歳、 定豪 52歳、 慈円 49歳、 栄西 63歳、 法然 69歳、 親鸞 31歳、 (全て1/1時点の満年令) |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 1月 3日 辛酉 . 吾妻鏡 |
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千葉介胤正が椀飯※を献じた。その後に弓始めの儀式あり。射手六人、各々二射づつを五度繰り返した。 .一番 和田平太 藤澤四郎 二番 佐々木小三郎 古河五郎 三番 筑後六郎 荻野次郎. . ※椀飯 (おうばん) : 饗応のための献立、その食事の儀式・行事を意味する。大判振る舞い、の語源。 . ※射手の明細: 藤澤四郎は次郎清親の三男で 座光寺氏 (wiki) の祖となった光清。 佐々木小三郎は盛綱の三男盛季。古河五郎の素性は不明。筑後六郎は1月1日を参照。 .荻野次郎は相模国愛甲郡荻野を本拠にした一族の武士で、実朝に帰参を許された景時の孫 (平次景高 の子 景継か?) が荻野氏を名乗り、承久の乱で 後鳥羽上皇に従って戦死している。彼か、或いは 源太景季の子 景望かも知れない。 |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 1月 4日 壬戌 . 吾妻鏡 |
. . . ※御引出物: 原文は「有御引出物等云々」、政子からの婚姻の祝賀だろうか。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 1月 5日 癸亥 . 吾妻鏡 |
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将軍家 実朝が正五位下に叙された。
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. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 1月 8日 丙寅 . 吾妻鏡 |
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御所で心経会 (般若心経を読む法会) が行われた。導師は真知坊隆宣、御馬などの布施物が多く与えられた。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 2月11日 己亥 . 吾妻鏡 |
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. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 2月12日 庚子 . 吾妻鏡 |
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先月二十九日の除書が到着、将軍家は右中将に任じ加賀介を兼務する。三善康信がこの書を御前に運んだ。
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. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 2月17日 乙巳 . 吾妻鏡 |
. . . ※羽林: 近衛府の中将と少将の唐名で、実朝は中将に任じた。中将の上は頼朝が任じた右近衛大将、 後に実朝は更に上位の、武門の最高位である左近衛大将を望むのだが... . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 2月21日 乙卯 . 吾妻鏡 |
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武蔵国土袋郷の年貢は永福寺住僧の経費に充当される。遠州 北條時政からの下命である。 ..
※武蔵国土袋郷: 現在の埼玉県比企郡川島町 (地図) 一帯を差す。. 町内の広徳寺は、美尾屋十郎広徳の菩提を弔うため館跡に政子が寄進した大御堂 (浄土信仰の阿弥陀堂) が起源と伝わり、寺域には室町時代の再建と伝わる阿弥陀堂がある。
.. 右画像、クリック→ 別窓で拡大表示。 . 美尾屋十郎は平家物語の巻十一の五「弓流」に兄弟で登場する武者。屋島の合戦で那須与一が扇の的を射た場面の直後に 悪七兵衛景清に兜の錣 (しころ、首の後部を守る部分) を掴まれたが、引き千切って逃れた武士。 . なぜ政子が彼の菩提を弔ったのかなど、その経緯を含めて話の真偽は判らない。 |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 3月 1日 戊午 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.. 将軍家 実朝が寿福寺方丈 (栄西の坊を差す) および鶴岡八幡宮別当※の坊に渡御され、仏法についての談義や蹴鞠を楽しむなどで過ごされた。源親広と 中原季時らが供として従った。 . ※八幡宮別当: 鶴岡初代別当は 圓暁、正治二年 (1200) 〜建永元年 (1206) は尊暁 (圓暁の弟) 。 建保五年 (1217) 6月までは 定豪、建保七年 (1219) の1月まで 公暁で、実朝殺害事件後に公暁の師 尊暁は辞職して京都に帰り病没。その後は慶幸 (ここまでは圓城寺 (三井寺) 系) → 定豪 (東寺系) に続く。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 3月12日 己巳 . 吾妻鏡 |
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各地の荘園に課せられた年貢の納期限の遅延が発生しているため、今後は国の遠近に配慮して期限を変更する事と定めた。 宗掃部允※がこれを差配する。
.. ※宗掃部允: 政所勤務の能吏、惟宗孝尚を差す。頼朝に近侍し三代執権 泰時の時代まで文官を務めた。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 3月16日 癸酉 . 吾妻鏡 |
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坊門信清卿から扇を 30本と櫛箱などが贈られた。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 3月25日 壬午 . 吾妻鏡 |
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勝長寿院領の上総国管生庄十二ヶ郷について、今日これを二分割し六郷を別当分、六郷を供僧分と定めた。 .. ※上総国管生庄: 現在の木更津市管生 (地図、小櫃川の南岸) 。かつては摂関領だった。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 4月 7日 甲午 . 吾妻鏡 |
. . . ※病気で出家: 定綱は 65歳、重病などの場合は極楽往生を願って剃髪し僧籍に入るのが当時の習慣。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 4月 8日 乙未 . 吾妻鏡 |
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. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 4月 9日 丙申 . 吾妻鏡 |
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検非違使左衛門少尉源朝臣 佐々木判官定綱法師が死没した。
.. ※佐々木定綱: 佐々木秀義の長男で頼朝挙兵以前からの側近。波乱の後半生だった。合掌。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 4月11日 戊戌 . 吾妻鏡 |
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鎌倉中が落ち着かない状態で、近国の武士が集結し軍備を整えているとの噂が流れている。 .また、日頃は武蔵国に蟄居している 稲毛三郎重成※入道が遠州 北條時政の招集を受け軍兵を従えて鎌倉に到着しており、人々はこれを怪しんで更に噂を広げている。 . ※稲毛重成: 畠山重忠の従兄弟で時政の娘婿、本領は稲毛荘 (現在の川崎市多摩区)。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 4月12日 己亥 . 吾妻鏡 |
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将軍家 実朝が十二首の和歌を詠んだ。
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. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 5月 3日 庚申 . 吾妻鏡 |
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. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 5月12日 己巳 . 吾妻鏡 |
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美作国の神林寺※に故幕下将軍家 頼朝の追善供養のため三重塔婆を建てることになった。 .寺僧が材木の手配を願い出たため、美作国内の山からの切り出しを認める旨の仰せが下された。 . ※神林寺: 岡山県真庭市の高野山真言宗 神林寺 (霊場会サイト) 。生前の頼朝が堂塔を寄進した経緯か。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 5月18日 乙亥 . 吾妻鏡 |
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鶴岡八幡宮と三嶋大社の破損ヶ所などを補修した。また各々の神楽奉納に供する舞装束が既に老朽化しているため、御家人に割り当てて新調する手配を命じた。清原清定が奉行としてこれを差配する。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 5月24日 辛巳 . 吾妻鏡 |
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安楽寺※領の筑後国岩田庄と田嶋庄について社僧からの愁訴に基づいて決裁し地頭職を神官の一族に与えた。 .. ※安楽寺: 神仏習合時代の 大宰府天満宮 (公式サイト) を管理した別当寺。 下福岡県小郡市に上岩田と岩田の地名 (地図) および 老松宮 (参考サイト) がある。
厨川工藤家の記録に拠れば、田嶋庄は 「工藤祐経の嫡子 祐時が建久九年 (1198) に日向国地頭職を得た、四男の祐明が田嶋庄に下向した」とあり、少し離れている朝倉市の田島地区 (地図) らしい。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 5月25日 壬午 . 吾妻鏡 |
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. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 6月 1日 丁亥 . 吾妻鏡 |
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.. 将軍家 実朝の発願により、鶴岡鶴岡宮で大般若経一部の終日転読※が行われた。御布施は紺絹五十反、兵衛尉三浦義村がこれを差配した。 . ※大般若経転読: 百聞は一見に如かず、動画 (Wiki) で実態の確認を。信仰と言うより形式の世界だ。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 6月20日 丙午 . 吾妻鏡 |
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鶴岡八幡宮の神事が通常の通り。夕刻、畠山六郎重保※が武蔵国から鎌倉に参着した。 .稲毛三郎重成入道が (所用と称して) 呼び寄せたものである。 . ※縁戚関係: 畠山重忠の父 重能と 稲毛重成の父 小山田有重は同腹の兄弟、重保から見ると重成は叔父。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 6月21日 丁未 . 吾妻鏡 |
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牧の方が (娘婿の) 平賀朝雅から 「去年京都で畠山六郎重保に悪口を浴びせられた」 との讒訴を受けて鬱憤を抱き、重忠親子の追討を狙って計略を巡らした。 .まず、夫の遠州 北條時政が 義時と 時房に重忠の追討を持ち掛けたが、二人は次のように答えた。 . 重忠は治承四年から現在まで忠節を旨とし、右大将軍 頼朝もその人柄を認めて子孫の守護を慇懃に遺言しました。しかも金吾将軍 頼家の側に属しながらも 比企能員との合戦では我々に味方したのは親子の礼節 (重忠は時政の聟) を重んじたためです。今になって謀叛を企む理由がありましょうか。 .再三の勲功も無視して軽率に追討すれば必ず後悔する結果になります。まず謀反の意思の有無を確かめてからでも遅くはありません。 時政はそれ以上を語らずに座を起ち、義時らも退出した。その後に備前守時親※が牧の方の使者として義時邸を訪れ、次のように意向を伝えた。 . 重忠の謀叛は既に明らかである。将軍 実朝や幕府のためを考えて仔細を夫に知らせたのに、貴方は重忠の側に立って謀叛を誤魔化そうとしている。継母の私を軽んじて悪者に仕立て上げるつもりか。 .義時は「それではもう一度良く考えてみましょう」と答えた。 . ※備前守時親: 牧の方の甥 牧時親を差す。父親の牧宗親は牧の方の父親説と兄説があり、ここでは政子 と牧の方の年齢差が10歳未満らしい事を根拠にして 「牧の方の兄説」 を採用した。 .※吾妻鏡の曲筆: 奥州の 藤原秀衡が没した文治三年 (1187) 10月29日に次の記事がある。 . . 一方で「玉葉」の文治四年 (1188) 1月9日には以下の記述がある。 .秀衡は10月29日に死去する際に妾腹の長男 国衡と正妻腹の二男 (泰衡) を呼んで融和を説き、国衡に自分の妻 (泰衡の生母) を娶らせ、異心を持たぬ旨の起請文を義経を含めた三人に書かせた。義経を主君として兄弟が彼に従い、三人団結して頼朝と戦う策を講じるように遺言したという。 .平安末期から鎌倉時代の通念は儒教であり、「主君に逆らうのは不忠、親に逆らうのは不孝」 とする認識があった。だから秀衡は自分の正妻を妾腹の長男 国衡に再嫁させ、嫡男泰衡と国衡を 「親子」 の関係にして兄弟相剋の防止を図ったのだろう。 .. 吾妻鏡の編纂者は覇権を握った北條得宗 (嫡流) の意を汲んで 「先祖の義時は親の意向に従って畠山重忠を討ち、その後は実朝への忠義を全うするべく父の時政を失脚に追い込んだ、従って義時には不忠も不孝もなかった」 と強弁している。 . ただし厳密に言うと、この 「曲筆」 が吾妻鏡を編纂した際の捏造なのか、或いは編纂した際の史料 (幕府文官の日記または覚書など) に捏造があったのかは判断できない。 . 日誌の形を杜っている吾妻鏡を読み解くには、編纂者の意志と原史料を書き残した人物の意思の二つを比較し精査する必要がある、単純に判断しては本筋を見失う。 |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 6月22日 戊申 . 吾妻鏡 |
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寅刻 (早朝4時前後) に鎌倉中が騒然となり、軍兵が「謀反人を誅殺する」と叫び由比ヶ浜の辺りを駆け回った。 .. これを聞いた畠山六郎重保 (重忠の二男、嫡子) が郎従三人を連れて現場に向かい (時政の) 命令を受けた兵衛尉 三浦平六義村の軍兵 佐久太郎らに包囲された。重保も奮戦したが衆寡敵せず、主従は討ち取られた。 . また畠山次郎重忠が鎌倉を目指しているとの噂があり、途中を迎え討つために義時率いる軍勢が出陣した。 問注所入道三善康信と 大江広元朝臣が相談し、時政に申し出て精鋭 400騎で御所の四方を警護させた。 . 大手の大将軍は 北條義時、先陣は 葛西清重、後陣は 堺常秀、大須賀胤信、国分胤通、相馬義胤 (師常の嫡男) 、東重胤 (胤頼の嫡男) が務めた。 .
その他に 足利義氏、小山朝政、三浦義村、
同 胤義 (義澄の末子) 、長沼宗政、結城朝光、 宇都宮頼綱、筑後知重、安達景盛、 中條家長、同 苅田義季(家長の子)、狩野介入道、 宇佐美祐茂、波多野忠綱 (義通の次男) 、 松田有経 (波多野義常の長男で松田氏の祖) 、土屋宗光 (宗遠の嫡男) 、河越重時 (重頼の次男で嫡子) 、同 重員 (重時の弟で武蔵国留守所総検校職を継承) 、江戸忠重 (重長の嫡男) 、渋河武者所 (本領は渋川市、和田合戦で没落) 、小野寺秀通 (下野都賀郡小野寺保の武士) 、 下河辺行平、園田七郎 (上野国山田郡園田村 (大間々町) を本領とした武士で藤姓足利氏の傍流) 、および大井、品河、春日部、潮田、鹿嶋、小栗、行方の武士と、兒玉、横山、金子、村山党の武士が出陣した。 ※ 右上は二俣川古戦場の風景。クリック→ 古戦場の遺跡を巡る(別窓)へ . 関戸 (搦手) の大将軍は 式部丞 北條時房と 和田左衛門尉義盛。前後を囲む軍兵は数えられないほどの大軍で、午刻 (12時前後) に武蔵国二俣河で畠山重忠一行を挟撃※した。 . 重忠は去る19日に小衾郡の 菅谷館を出発して二俣河 (横浜市鶴ヶ峰付近、地図) に到着した。 弟の長野三郎重清は信濃国に、別の弟六郎重宗は奥州に駐在中のため、従うのは二男の小次郎重秀と郎従の本田次郎近常と榛澤六郎成清を併せて 134騎のみ、鶴峯の麓に到着したところで重保が今朝鎌倉で殺され、重忠追討を目指す大軍が迫っている事を知った。 . ※挟撃: 重忠一行の進路は所謂「中の道」で、二子玉川を渡って二俣川を経由し山ノ内(大船の近く) に南下するするルート。時房の率いる搦手軍は関戸の渡しから町田の小野路→二俣川を経由する「上の道」で、幕府滅亡の際に新田義貞軍が鎌倉を目指したルートである。
.. 時房は途中から「中の道」の荏田あたりに東進して重忠一行の退路を遮断したのだろう。 義時の性格は緻密にして卑劣、狡賢いうえに躊躇は見せない。こちらの地図 が判りやすい。 . 郎従の近常と成清が重忠に進言した。
.討手は数え切れぬ程の大軍、ここで戦うのは不利ですから一旦は菅谷に戻り軍備を整えるべきです。
.重忠は郎従の言葉に答えた。 そうではない。家を忘れ親を忘れて戦うのが将たる者の本分である。まして嫡男の重保が討たれた今では
本領を顧みる必要もない。去る正治元年 (1200) に梶原景時が一宮館から逃げ京都を目指す途中で討たれたのは暫くの命を惜しんだか、或いは謀反の計画があったとも疑われる。これを戒めと考えよ。
.
追討の軍兵は一番乗りを目指して襲いかかった。
中でも 安達景盛は郎党の野田與一、加治次郎、飽間太郎、鶴見平次、玉村太郎、與籐次らを率いて主従七騎が真っ先に進み弓を構えた。. 重忠は 「竹馬の友である景盛が真っ先に来るとは嬉しい限りだ」 と語り、次男の重秀は 「命を惜しまず攻めて来い」 と声をかけた。 . 攻防は数回を繰り返し、加治次郎宗季ら多くの武士が重忠に討ち取られた。弓の戦いも太刀による斬り合いも決着せずに時が過ぎ、申刻 (16時前後) に重忠 (42歳) が 愛甲三郎季隆※の矢を受けて倒れ※ 季隆が首を獲り義時の本陣に入った。 . その後に小次郎重秀 (23歳、母は右衛門尉 足立遠元の娘) と郎従らが自殺して合戦が終った。 右上は埼玉県川本町の畠山氏の墓所。画像をクリック→ 詳細へ(別窓) . 今日未刻 (午前10時前後) に相州 北條義時の室 (伊賀守朝光の娘) が男子 (後の 政村) を平産した。 . ※愛甲季隆: 弓の名手の一人。曽我物語は建久四年 (1193) 5月の曽我兄弟の討ち入り場面で「五郎時致は 太刀を取って頼朝の宿舎を目指し、立ち塞がった愛甲季隆の左腕を斬り落とし...」と書いている。左腕を失なっても弓を引けるのだから軍記物語の無責任さは面白い。 .. 戦闘員の多少が勝敗を左右するのは勿論だが、この時代の主戦武器は弓箭 (弓矢) である。 携帯する矢が少ない重忠一行 vs 十分な数の征矢 (戦闘用の矢) を準備し甲冑を付けた鎌倉勢では勝負にならず、重忠が如何に勇猛でも接近戦で斬り合う前に矢を受けてしまう。 ※最後の地: 討たれたと伝わる鎌倉街道沿いの地名 「矢畑」 (別窓の詳細ページを参照) は、北側の高地で 居かけた北條勢の遠矢が畑の如く突き立った様子から名付けられた、と伝わっている。 .二俣川合戦は尋常な合戦でなく、周到に準備された殺戮だった。 . 梶原一族、比企一族と頼朝の嫡孫、頼朝の嫡子頼家、畠山重忠一族、そして間もなく和田義盛も滅亡する。頼朝は敵対する平家と邪魔な源氏の一族を殺し尽くし、北條氏は全ての政敵を殺し続けて覇権を維持する。諸行無常に気が付かない無益な殺戮なのだが... |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 6月23日 己酉 . 吾妻鏡 |
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未刻 (14時前後) に相州 北條義時らが軍勢を率いて鎌倉に帰参した。遠州 北條時政が合戦の詳細を質問して義時は次のように報告、時政は言葉を発し得なかった。 .. 重忠の弟や親類の殆どは同行せず、合戦に加わったのは僅かに百余名でした。重忠が讒訴で落命したのは明らかで、実に残念です。本陣で重忠の首を見た時には旧交を思って涙を禁じられませんでした※。 .酉刻 (18時前後) に鎌倉で再び騒動が勃発した。三浦平六兵衛尉義村が熟慮の末に経師ヶ谷※の入口で 榛谷四郎重朝と嫡男の太郎重季と次郎季重を謀殺した。また 稲毛入道重成は大河戸三郎に、子息の小澤次郎重政は宇佐美與一に討ち取られた。 . 今回の合戦は 稲毛重成法師の謀略が原因であり、右衛門権佐 平賀朝雅が畠山次郎重忠に遺恨を抱いて謀叛を捏造し 牧の御方 (遠州室) に讒訴した。 (舅の) 時政がこれを稲毛重成に伝えて打ち合わせ、重成は親戚の好意を装って「鎌倉に異変」と重忠に連絡し、二俣河での討死を招いた。多くの人々が重忠の死を悲しんだ。 . ※義時の嘘: 二俣川合戦場の南に万騎ヶ原の地名があり、義時が率いた大手軍一万騎の本陣だった。 まぁ話を二割と考えても完全武装の 2000騎が概ね普段着に近い 137騎を襲った事になる。 .. また合戦場には 「矢畑」 の地名も残っており、高台に布陣した北條勢が重忠主従に向けて放った遠矢が矢襖 (やぶすま) のように突き刺さった跡 (現代戦なら弾幕か)だったとされる。甲冑を着けていない重忠主従には遠矢を防ぐ手段がない。 . これは合戦ではなく殺戮と表現するべきで、そんな殺戮が終ってから「敵は僅かに百余名だったのに...」とは、余りにも白々しく卑劣な虚言だ。
※経師ヶ谷: 材木座6-9-21 (地図) に「弁ヶ谷跡」の石碑があり、
その奥が昔の経師ヶ谷だった、と伝わっている。 .. ここには時政の名越邸と 千葉常胤の館があり、時政の指示を偽って両名を呼び出したのだろう。 . 名越の一部である弁ヶ谷は「別駕 つまり「介」の唐名」 で、千葉介が住む谷からの転訛らしい。ちなみに国守の唐名は「刺史」になるそうだ。 . 時政邸を相続した二男の 朝時が地名を冠して名越流北條氏を称したのが最初になる。石碑の周辺は正田家 (美智子上皇后の実家)の別荘だったが、相続に伴う物納で敷地の狭い分譲住宅地に変貌した、と伝わる。 . 右上は弁ヶ谷一体の鳥瞰図 (画像をクリック→ 別窓で拡大表示) |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 6月26日 壬子 . 吾妻鏡 |
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鎌倉の支配下にある東国の守護と地頭の取得分については先例通りに厳密な処理を行なうよう命令が下った。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 6月28日 甲寅 . 吾妻鏡 |
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武蔵国の久下郷※を勝長寿院の弥勒堂領として寄進した。 .. ※久下郷: 建久三年 (1192) 11月26日に 熊谷直実が所領の境界を争った養父 久下直光 の本領が久下郷、 所有権を寄進しても久下直光の管理権は変らない。現在は久下氏菩提寺の 東竹院 久松寺が往時を伝えている。 .. 夏の暑さで知られたJR熊谷駅の近くに直実が建立した 蓮生山熊谷寺 がある。こちらは部外者立ち入り謝絶で塀越しに中を窺うだけ。寺の勝手ではあるが、訪問客には実に実に無礼だ。 |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 6月29日 乙卯 . 吾妻鏡 |
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相州 北條義時が鶴岡八幡宮の供僧に命じて終日の大般若経一部の転読を供養させた。祈願していることがあり、殊に丹念な供養を求めた。 .. ※義時の祈願: 次のステップは父親の 北條時政夫妻の追放と 平賀朝雅の粛清である。この時点で他の 御家人には根回し済みなのだが、時政は完全に虚を突かれた。因果はめぐる、糸車。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 7月 1日 丙辰 . 吾妻鏡 |
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. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 7月 8日 癸亥 . 吾妻鏡 |
. . . ※重忠に与した: 6/24に載せた義時の報告 「重忠が讒訴で落命したのは明らかで 実に残念です」 が重忠 追討の真相として認識された筈なのに、僅か半月後には 「重忠に与した者の所領を勲功を挙げた武士に与えた」 って、起承転結の筋が全く通らない。 .正義より利害を重視する鎌倉武士って実に愚劣で心根が卑しいと思う、今更ながら。 |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 7月20日 乙亥 . 吾妻鏡 |
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尼御台所に仕える女房の五、六人が新恩 (新たな利権供与) に浴した※。これも追討された者の遺領である。 .. ※獲物を山分け: 北條時政失脚が記録されたのは翌月の閏7月19日。その一ヶ月前に 畠山重忠の所領を 仲間で分配したのだから、時政夫妻はこの時点で失権していたと見るべきだろう。 .. 時政の計画は、武蔵国の秩父平氏系を排除して娘婿の武蔵守 平賀朝雅の権限と財政的基盤を盤石にする筈だったが、土壇場で義時トンビに油揚げを攫われてしまった。 . 重忠を無実の罪と知りながら皆殺しにして冤罪を企んだ首謀者の時政夫妻を追放し、共謀したとの名目で平賀朝雅や秩父平氏の実力者を全て消し去った。無実の罪だった重忠らの遺領は戦利品として分配するとは、政子&義時連合も貪欲だね。 . 二俣川合戦の頁にも書いた事だが、重忠の妻 菊の前 (正妻の座は時政の娘に奪われたから、元の正妻) が菅谷から駆け付けた時には重忠は既に死亡、菊の前は駕籠の中で自害したまま駕籠塚に埋葬された、との伝承が残っている。 . 伝承に従えば、菊の前は 足立遠元の娘で、もう一人の娘は 北條時房に嫁している。 そんな関係もあってか遠元は粛清を免れたらしく、承元元年 (1207) 3月3日の吾妻鏡に名前が載っている。御所の中庭で開かれた闘鶏の会で、これが彼の名を見る最後。 没年は70代後半〜80代前後、か。 . 重忠の (後の) 正妻だった 北條時政の娘は夫の死後間もなく、畠山の名跡と所領の一部を持参金として 足利義純に再嫁した。悪い奴らは悪賢く幸せな余生を送る |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 閏7月19日 甲辰 . 吾妻鏡 |
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.. 牧の御方 (北條時政の後妻) が奸計を廻らして娘婿 平賀朝雅を関東の将軍とし、遠州 (時政) 邸にいる将軍 実朝の排除を企んだ。(これに対応して) 尼御台所 (政子) は 結城七郎朝光、三浦兵衛尉義村、同九郎胤義 (義澄の九男) 、天野六郎政景 (遠景の嫡男) を派遣して羽林 (将軍 実朝) を義時邸に迎え入れた。 . それと共に、時政が招集していた武士の全員が (時政の名越邸から) 義時邸に移動して、将軍家 実朝の警護に任じた。同日の丑刻 (深夜2時前後) に時政 (68歳) は突然に出家※し、共に出家した者も多数である。 . ※時政失脚: 長く辣腕を振るった如くだが、実際は 頼朝の急死後 6年と7ヶ月間の君臨に過ぎなかった。 18年11ヶ月 (歴代最長) も執権の座に留まった二代義時に比べると意外に短い。二位は17年11ヶ月の三代 泰時、三位に17年4ヶ月の九代 貞時が続くことになる。 . 最短は (太平記に拠れば、第17代の) 貞将 (Wiki) 、幕府滅亡の日に全権を委ねられた御教書 (公文書) の裏に「棄我百年命報公一日恩 (百年の命を捨てて一日の恩に報いる) 」 と書いて鎧に納め、新田勢に突撃して壮烈な討死を遂げた、と伝わっている (異説あり) 。 . 北條に隠居した時政は半年程は刺客の影に怯えていただろう。修禅寺に幽閉した前将軍で孫の 頼家を時政は躊躇なく殺したからね。義時と立場が逆なら即刻殺していただろうし。 .
時政は約10年後に北條で天寿 (80歳か) を閉じた。時政失脚に続いて殺された 平賀朝雅に嫁していた 牧の方の娘は権中納言の 藤原国通 (Wiki) に再嫁し、時政を葬送した後の牧の方は京都の婿殿の家で満ち足りた老後を送り、嘉禄三年 (1227) 3月には時政の十三回忌法要を行なっている。. 藤原定家は明月記の中で、一族を引き連れ豪奢に寺社詣をする牧の方の姿を悪し様に罵っている。 . 右は北側から見た北條館の跡。時政の出身地で 同時に終焉の地でもある。 画像をクリック→ 北條館跡の明細へ(別窓) . |
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当時の陰暦では季節とのギャップ調節のため 3〜4年に一度閏 (うるう) 月が入る (ここでは 7月の次が閏 7月) 。西暦と陰暦には一ヶ月前後のズレがある事にも留意が必要、例えば頼朝が挙兵した治承四年 8月 4日は西暦では 8月26日になる。陰暦→西暦の変換は こちらのサイト が利用できる。 . | ||
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 閏7月20日 乙巳 . 吾妻鏡 |
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辰刻 (朝8時前後) に遠州禅室 (出家した 北條時政) は伊豆国北條郡に下向され、相州 北條義時が執権の任に就くこととなった。今日、前大膳大夫屬入道 大江広元 と籐九郎右衛門尉 安達景盛らが義時邸に集まって協議し、右衛門権佐 平賀朝雅の追討命令を在京の御家人に伝える使者を派遣した。 .. ※朝雅の処分: 彼が将軍の座に就く計画に関与したか否か、また謀反計画が実在したかどうかには疑問 が残る。実父の失脚を正当化するために朝雅の謀反を捏造した可能性があるし、いづれにしろ朝雅を生かしておくメリットがない。 .義時と共謀して父の時政を排除した政子は. ...覇権を握った後も気に入らない御家人の冤罪捏造を繰り返し、政敵や義時の後妻一族まで粛清するほど冷酷なのだから。 同族であっても、彼女が心を許す相手は物凄く限定される。 . 一報の義時さんは...異腹の妹が嫁した政範に家督を奪われかけた遺恨を水に流すほど温厚な性格ではない。 |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 閏7月25日 庚戌 . 吾妻鏡 |
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去る20日に鎌倉を発った使者が今日の夜に入洛し、直ちに鎌倉の事件の経過を伝達、(朝雅追討の)命令を在京の御家人に伝えた。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 閏7月26日 辛亥 . 吾妻鏡 |
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右衛門権佐 平賀朝雅は 後鳥羽院に伺候し退出せず囲碁を楽しんでいた。そこへ小舎人童が走り寄って彼を招き追討使が来たことを告げた。朝雅は動揺を見せず席に戻って石の目数を確認し「関東の追討使が向けられました。逃げ隠れする所もありませんのでお暇を頂きます。」と奏上し、六角東洞院の宿館に戻った
.. 討手の五條判官有範※、後藤左衛門尉基清、源三左衛門尉親長 (親広の縁者か) 、佐々木左衛門尉広綱 (定綱の嫡男) 、佐々木弥太郎高重 (高綱の三男) らと暫く戦った後に朝雅は脱出して松坂※辺りまで逃げ、金持六郎広親、佐々木三郎兵衛尉盛綱らが追い掛けて山内持寿丸 (刑部大夫 経俊六男の後六郎通基) が射留めた。 .
※五條有範: 後に検非違使&筑後守となった在京の鎌倉御家人。
承久の乱で 後鳥羽院側に与して戦後に処刑される。
.※松坂: 現在の山科区日ノ岡 (地図) 一帯を差す。東山を越える 日ノ岡峠と逢坂の関 (地図) は昔から近江を結ぶ交通の要所、朝雅は六角東洞院から 5km以上を逃げた末に討ち取られたことになる。大津を目指したのだろうか。 .. 続古今和歌集に日ノ岡を描いた土御門院の和歌がある。 はし鷹の すゝしの原 狩りくれて 入日の岡に きゝす鳴なり .右は韮山の 願成就院 に残る伝 北條時政の墓。 実際には当時のものではない、との説もある。 クリック→ 願成就院の明細 (別窓) へ。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 閏7月29日 甲寅 . 吾妻鏡 |
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河野四郎通信は今までの勲功が特に秀でているため、伊豫国の御家人32人は守護職 (佐々木盛綱) の支配から離れて河野通信の下で御家人の任に励むよう、将軍押印 (花押) の御書が下された。該当する32人の姓名は御教書※の端に書き加えてあり、三善康信がこれを差配した。以下の32人である。 .頼季 (浅海太郎、同舎弟ら) 公久 (橘六) 光達 (新三郎) 高茂 (浮穴大夫) .高房 (田窪太郎、同舎弟) 家員 (白石三郎) 兼恒 (高野小大夫、同舎弟) 清員 (埴生太郎、同舎弟) 實蓮 (眞詮房) 重仲 (井門太郎) 山前権太 (同子) 信家 (大内三郎、同弟) 高久 (十郎大夫) 余戸源三入道 (俊恒) 高盛 (久万太郎大夫、同舎弟) 永助 (久万太郎) 安任 (江四郎大夫) 家平 (吉木三郎) 高兼 (日吉四郎、同舎弟) 長員 (別宮大夫) 頼高 (別宮新大夫、同舎弟) 吉盛 (別宮七郎大夫) 安時 (三嶋大祝) 頼重 (彌熊三郎) 遠安 (籐三大夫、同舎弟) 信任 (江二郎大夫) 紀六太郎 信忠 (寺町五郎大夫) 時永 (寺町小大夫) 助忠 (主籐三) 忠貞 (寺町十郎) 頼恒 (太郎) . ※御教書: 河野家文書を流用した偽書 (偽データ) と考えるのが一般的、らしい。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 8月 2日 丙辰 . 吾妻鏡 |
. . . ※金吾: 衛門府の唐名。故 頼家は左衛門督 (長) で左金吾、朝雅は右衛門佐 (四等官の二位) 。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 8月 5日 己未 . 吾妻鏡 |
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子刻 (深夜12時前後) に大岡備前守時親※が出家した。遠州 北條時政出家の繋がりである。 .. ※大岡時親: 牧の方の甥。更に詳細は 6月21日を参照。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 8月 7日 辛酉 . 吾妻鏡 |
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宇都宮弥三郎頼綱の謀叛が発覚した。すでに一族郎党を率いて鎌倉を目指しているとの風聞が届いているため
相州 北條義時、大江広元朝臣、安達景盛らが尼御台所 政子邸に集まって評議している。その後に 小山左衛門尉朝政 (曳柿の水干袴) を呼び、大江広元が御台所の指示を伝えた。 . 最近は各所で騒動が発生している上に頼綱が叛逆し将軍の座を窺っている。
先祖の 藤原秀郷※が 平将門 を追討してから長く下野国を護り続ける立場の朝政なのに、なぜ国内 (宇都宮) の横暴を鎮めないのか。 .志田三郎先生 (源義憲) を討伐※した時には故 頼朝将軍が「武門の眉目である」と賞賛する御下文を発行した前例もあり、今は頼綱の驕りを糾すべきであろう。 この言葉を聞いた朝政は次のように答えた。 . 頼綱と私は縁戚の関係にあります。命令に従って縁を切ったとしても、直ぐに追討使を承るのは余りに薄情な行為ですから別の者に御下命ください。ただし私は叛逆には一切加担せず、もしも頼綱が攻めてくるような事態になれば死力を尽くして戦います。 .. ※藤原秀郷: 小山氏の祖だが、秀郷直系子孫としては宇都宮氏の方が嫡流(宇都宮氏の系図を参照)。 政子さんがまた無茶を言ってる。吾妻鏡解説書の一部は「広元が頼綱の謀叛を厳しく糾弾した」と書いているが、これは間違い。広元は「仰せを奉じて」、つまり政子の言葉を伝えただけ。慎重に読めば「糾弾しているのは政子だ」というのか判る。 ..
貞応三年 (1224) 7月に義時が没した時も後妻 (伊賀の方) 一族の陰謀を捏造して強引に失脚に追い込んでいる。政子の自己中心的で偏屈な性格は終生を通じて改善されることがなかった。しかも独裁権を握っているから全く始末が悪い。 ※義憲挙兵: 寿永二年 (1183) の 野木宮合戦 を差す(志田三郎の 討伐も同じ)。前後の経緯を考えると鎌倉側の騙し討ちと考えるのがノーマルだ。 .. 事実の改竄と見え透いた弁解が常態化しているのが吾妻鏡だ、とも言える。 右画像は渡良瀬遊水地に近い野木神社の参道入口。 画像をクリック→ 野木宮合戦の詳細ページへ (別窓) 。 |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 8月11日 癸酉 . 吾妻鏡 |
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宇都宮弥三郎頼綱が書状を相州 義時に献じた。小山朝政の書状を添付し、叛逆など考えていないとの内容が記述してある。これは朝政の忠告を受け入れたものだろう。 .大江広元朝臣 が前後の事情を検討した結果、将軍家 実朝に報告する必要はない、と判断した。 |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 8月15日 己巳 . 吾妻鏡 |
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鶴岡八幡宮で放生会。将軍家の出御はなく、駿河前司 中原季時が奉幣の使者を務めた。
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. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 8月16日 庚午 . 吾妻鏡 |
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(昨日に続いて例祭に) 将軍家の出御なし、中原季時の参宮も昨日と同じ。 .今日、宇都宮弥三郎頼綱が下野国で出家し蓮生の法名を名乗った。同じく郎従六十余人が出家したらしい。 |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 8月17日 辛未 . 吾妻鏡 |
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蓮生法師 (頼綱) が宇都宮を発って鎌倉に目指した。叛意がない事と出家した事などを陳べるためである。
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. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 8月19日 癸酉 . 吾妻鏡 |
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宇都宮弥三郎入道蓮生 (頼綱) が鎌倉に到着。相州 (義時) 邸を訪れたが対面はできず、結城七郎朝光を介して陳謝の印に (切り落とした) 髻を提出、朝光は丁重に取り次いだ。義時は髻を見た後に朝光に預けた。 ..
※頼綱の謀反: 実際に謀反の計画があったかは非常に疑わしい。
最初の妻が 稲毛重成の娘で後妻が北條時政の娘、更に側妾が梶原景時の娘という縁戚関係から義時ではなく政子が疑念を抱いた可能性がある。 .. まだ 34歳だった頼綱は出家して隠居し、息子が幼少だったため弟の (塩谷) 朝業が家督を預かり、後に頼綱の長男時綱(生母は稲毛重成の娘)ではなく次男の泰綱 (生母は時政の娘) が宇都宮氏の当主となった。 失権への服従の意思を示した、か。 . 右画像は益子の地蔵院横にある宇都宮氏累代の廟所。 手前から四代業綱 (成綱) 、初代宗円 (兼綱) 、三代朝綱、二代宗綱の墓石。 画像をクリック→ 宇都宮一族の廟所と益子上大羽地蔵院へ (別窓) 。 . 地蔵院の近くには平重盛の忠臣だった平貞能が余生を送った安善寺もある。 |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 9月 2日 乙酉 . 吾妻鏡 |
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.. 内籐兵衛尉朝親※が京都から鎌倉に下着し、新古今和歌集を御所に届けた。 これは堀川通具 (Wiki) 、 藤原有家 (Wiki) 、 藤原定家、 藤原家隆 (Wiki) 、藤原雅経 (Wiki) ら朝臣が 後鳥羽上皇の勅命を受けて 3月16日に和歌所が選び 4月に奏覧に呈したもの。まだ竟宴※は行われず、公開もしていない。 . 将軍家 実朝が和歌を好まれているし、故 右大将軍 頼朝の詠んだ和歌も入っている。将軍家の意向への配慮に加えて定家の弟子である朝親の詠んだ歌も詠み人知らずとして選ばれている関係から書写できたのだが、平賀朝雅や 畠山重忠の追討騒ぎもあって京都も落ち着かない状態が続き今まで遅延してしまった、と。 . ※竟宴: 講義や勅撰和歌集の撰が済んだ後に宴を設けて関連する詩歌を詠ませて報奨などを与える席。 . ※内籐朝親: 在京の御家人。文治二年 (1186) 3月27日の吾妻鏡に「京都守護職を 一条能保 と交代して 鎌倉に下向する 北條時政が洛中を警護する武士を選んで 吉田経房に名簿を提出した」との記事があり、その中に「内藤四郎」の名がある。 .. また建久二年 (1191) 1月18日には「御家人の内藤六盛家が周防国の石清水八幡宮領遠石庄で押領を行なった」との記事がある。 . 系図ではこの内藤四郎と盛家が同一人物と推定され、彼の嫡男が盛親。ここに載っている朝親はその近縁と考えられる。 |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 9月19日 壬寅 . 吾妻鏡 |
. . . ※宇多河庄: 汗入郡 (鳥取県米子市淀江町東部、地図) 。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 9月20日 癸卯 . 吾妻鏡 |
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首藤刑部丞経俊が款状 (官位や恩賞などを望む嘆願書) を提出した。内容は次の通り。
.. 昨春に勃発した伊勢平氏蜂起 (三日平氏の乱) の際に手勢が少なかったため取り敢えず伊勢から逃れ、派遣された 平賀朝雅が平氏を追討する結果となった。経俊の所有していた伊賀と伊勢の守護職は恩賞として朝雅に充てられたが、情勢に応じての進退は兵法の故実であり、簡単に理非を問うべきではない。 .. まして謀反した朝雅を追討した軍勢の中で実際に討ち取ったのは愚息の持寿丸の手柄である。元々の守護職が経俊だった事も考慮し、忠節に免じて両職の返還をお願いしたい。 この款状は認められず、守護職は大内帯刀長惟信が補任となった。 . ※大内惟信: 大内惟義 (平賀朝雅の兄) の嫡男。源氏の門葉として 父が任じていた美濃国の守護職も継承 したが北條氏の台頭によって徐々に勢力を失ない、承久の乱 (1221) の際は 後鳥羽上皇側に与して敗北。10年近い逃亡の末に捕縛され西国に流罪となった。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 10月10日 癸亥 . 吾妻鏡 |
. . . ※京都守護職: 謀反人として追討された平賀朝雅の補任。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 10月13日 丙寅 . 吾妻鏡 |
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五條判官有範※の使者が京都から到着して次の通り報告した。 .去る 2日の子刻 (深夜12時前後) に比叡山※法華堂の回廊が放火され 講堂、四王院、延命院、法華堂、常行堂、文殊楼、五佛院、実相院、丈六堂、五大堂、御経蔵、虚空蔵王、惣社、南谷、彼岸所、円融坊、極楽坊、香集坊などが全て灰塵に帰した。根本中堂まで延焼する危険があったため本尊と十二神将像を随自意堂に遷し、前唐院の経文と宝物などは法華堂と常行堂から取り出して食堂で供養した。 .. 放火については堂衆※による犯行の疑いがある。比叡山は桓武天皇六年の延暦四年 (785) 7月20日に 伝教大師 最澄が開き根本中堂を草創して以降、朱雀院の承平五年 (935) 3月16日の火災で根元中堂 (本尊は避難) を始め堂舎と僧坊40.余ヶ所が焼け落ちた。 . 村上天皇の康保二年 (965) 10月28日の亥刻 (22時前後) には 延暦寺講堂、文殊楼、延命院本堂東、法華三昧、常行三昧堂、鐘楼と僧坊の31宇が瞬く間に焼失、火元は故 天台座主の喜慶坊だった。 . 四天王院の四天王像は助かったが北方像 (多聞天像) は腰の部分が焼亡して頭と足が離れ、見る者が涙を拭う姿となった。そして今年もまた乙丑※年の10月にこの災厄に見舞われたのは実に不思議である。 .
※五條判官有範: 在京の御家人。閏7月26日の朝雅追討に加わり
承久の乱では後鳥羽側として処刑された。 .※堂衆: 比叡山や高野山で学問習得を専門とするのが学生で雑役 を担当した下級僧が堂衆。対立して再三内紛を起こす。 .※乙丑: 十干の「乙」と十二支の「丑」の組み合わせで60年周期。 . ※比叡山の火災: 元亀二年 (1571) の信長の 全山焼き討ち (Wiki) が最も有名、これは9月だった。 .右は比叡山総本堂の国宝 根本中堂。クリック→ 別窓で拡大表示 堂塔配置など 詳細は 公式サイトで。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 11月 3日 乙酉 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.. 小澤左近将監信重※が綾小路三位師季の息女 (2歳) を伴って京都から参着、二階堂行光を介して金閣尼御台所に経緯を申し述べた。娘の母親は 稲毛三郎入道重成の娘で遠州禅室 時政の外孫に当る (つまり政子の姪) 。 . 去る 6月に重成入道が追討された際に乳母夫の信重が処罰が及ぶのを恐れて隠れ住んでいた。それを尼御台所が哀れんで内々に鎌倉入りを打診したものである。 . ※小澤信重: 小山田 (町田市) の古い地誌には 「稲毛重成の遺領は後に同族の小澤左近将監信重に与えら れ応安 (南北朝時代の1368〜1374年)の頃に小沢左衛門尉国高が領有」 とある。 .. 重成の嫡子 重政は小沢郷 (稲毛市) を領有して小澤を名乗り、父と同様に経師谷で6月23日に討たれている。信重との関係は記録にないが、比較的近い縁戚だろう。 |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 11月 4日 丙戌 . 吾妻鏡 |
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夜になって綾小路の姫君が尼御台所邸に入り、猶子 (通常は相続権を伴わない養子) となる手続きを済ませた。 .武蔵国小澤郷 (稲毛入道の遺領)) を知行させよとの仰せがあった。 . ※綾小路: 宇多源氏の源時賢流が綾小路家だが、師季の名は (三位なのに) 系図に見当たらない。 年代的には源 (綾小路) 時兼 (1176〜1255) の兄弟あたりだと思うのだが。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 11月15日 丁酉 . 吾妻鏡 |
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相馬次郎師常 (67歳) が没した。坐禅の姿勢で合掌しており、極楽往生は確実と思われる。師常は念仏行者 (信仰者より出家信者の意味に近い) で、仏縁を結ぶために多数の僧俗が集まって彼の姿を拝したという。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 11月20日 壬寅 . 吾妻鏡 |
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訴訟による決裁を経ずに示談和解した場合は、当事者はそれを改変して再び争ってはならない旨を決定した。 .図書允 清原清定 がこれを差配した。 |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 12月 2日 甲寅 . 吾妻鏡 |
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.. 故左金吾将軍 頼家の若公 (幼名を善哉、後の 公暁、満5歳) が尼御台所の配慮によって鶴岡八幡宮寺別当の阿闍梨尊暁の門弟となり、酉刻 (18時前後) に尊暁の本坊 (僧房) に渡御、侍五人がこれに従った。 . ※頼家の遺児: 失脚直後の建仁三年 (1203) 9月3日に「妻妾と 2歳の男子らは縁戚の 和田左衛門尉義盛に 預けられ所領の安房国に送られた」とあるから 鎌倉に呼び寄せた、という事か。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 12月10日 壬戌 . 吾妻鏡 |
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伊勢平氏旧領への新補地頭について新たな規則を定めて※施行した。図書允 清原清定 がこれを差配した。 .. ※新たな規則: 原文は「新補率法」。承久の乱 (1221) 以後は「功績に応じて没収地に補任される新補地頭 には3分の1の権利を与える」と定め、これを「新補率法」と呼んだ。 .. 該当者がこの権利を悪用して不当行為を行った例が多いのは知られているが、その15年前に施行されていたとの記事はこの一件のみ。編纂者が年月を誤記した可能性もある。 |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 12月18日 庚午 . 吾妻鏡 |
. . . ※八葉の牛車: 建久六年3月 9日に画像と説明を載せた。発展型の網代車は建久元年11月9日で。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 12月24日 丙子 . 吾妻鏡 |
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※追捕狼藉: 通常は家屋や倉庫に侵入して財物を奪うなど不当な
没収行為を差す。鎌倉時代には犯罪者や年貢の遅滞に対する強制収用も「追捕」と看做された。 .. 後に荘園の権利関係が複雑になると、追捕した側にとっては正当な権利に基づく行為でも権利が対立する側では略奪や狼藉と受け取って訴訟に発展するなどの例が増えたらしい。この事件が一例だろうか。 ※公文名主: 公領や荘園領主から農地経営を請け負うと共に責務 (年貢、公事、夫役の提供) を負担した階層。 .. 荘官の下で実務を行なう有力農民が武士の待遇を受けた後に鎌倉御家人となった例も多く発生し、鎌倉時代の農地の権利関係は異様に複雑化し過ぎてしまう。 ※南部光行: 甲斐源氏 光行の三男 実光が甲斐国南部郷に残り、他の兄弟は奥州合戦で得た新領の陸奥国
に移って長く繁栄した。南巨摩郡南部町 (地図) には実光の遺構と併せて文永十一年 (1274) に波木井の身延山久遠寺に住んだ 日蓮 に関する遺跡も点在する。 .. 右上は甲斐源氏 南部光行の本領 (富士川中流域) だった浄光寺の波木井氏墓所。 画像をクリック→ 南部一族発祥の地へ (別窓) 。 |
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