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建仁四年(1204年)、2/20 改元して元久二年
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西暦・天皇・上皇
和暦・月日・史料
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁四年
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1月 5日 己巳
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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将軍家 (実朝、去年10月24日に右兵衛佐に叙任) が新年最初の鶴岡八幡宮御参拝。前後には墻成 (垣根を成す如く) に供者が連なり、太刀持ちは 結城朝光が務めた。八幡宮寺で法華経を供養、導師は安楽房で招いた僧は六人、布施は一人当り 帖絹三疋 (六反) 。筑後太郎朝重 (八田朝重) がこれを差配した。
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   ※八田朝重: その後も布施の配布などで何度か記録に載っている。建暦三年 (1213) 5月 2日の和田合戦
勃発前夜には「隣の義盛邸に軍兵が集結している」 大江広元に連絡を入れている。
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和田義盛邸は八幡宮三の鳥居南東側 (地図) と伝わっているから (正直言うと、この説の根拠は薄弱、もっと南だと思う) 、知重邸もこの付近だろう。
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   ※年令: 源実朝 11歳、 源頼家 7/18に修禅寺で崩御 (満22歳) 、 北條時政 65歳、 政子 46歳、
北條義時 40歳 、 北條泰時 20歳 、 北條時房 20歳 、
千葉成胤 49歳、 足利義氏 14歳、 三浦義村 44歳前後、 大江広元 55歳、 畠山重忠 40歳、
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後鳥羽上皇 23歳、 土御門天皇 8歳、 九条道家 11歳、
定豪 51歳、 慈円 48歳、 栄西 62歳、 法然 68歳、 親鸞 30歳、
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(全て1/1時点の満年令)
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁四年
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1月 8日 壬申
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吾妻鏡
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御所で心経会。導師は眞智房法橋で招いた僧は六人、将軍家 (実朝) は南面 (公式の場) に出御した。
終了後に布施として馬を与えた。
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   ※心経会: 禍を防ぎ福を招くため般若心経を読み講義する法会。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁四年
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1月10日 甲戌
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吾妻鏡
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強い寒風は午刻 (正午前後) になって止み、御弓始めを催した。将軍家 実朝が出御し御簾を上げられた。
射手は六人、各々二射づつ五回射終わってから西の廊下で褒賞を受けた。行騰 (騎馬用の袴カバー) 、騎馬用の沓、征箭 (実戦用の矢) などである。
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    射手
      一番  和田平太胤長    榛谷四郎重朝
      二番  諏訪大夫盛隆   海野小太郎行氏 (幸氏)
      三番  望月三郎重隆    吾妻四郎助光
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   ※諏訪盛隆: 盛高→ 盛隆→ 盛澄としている系図もあるため 諏訪 (金刺) 盛澄の可能性が高い、と思う。
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   ※吾妻助光: 上野国吾妻郡 (群馬県北西部の中之条町、嬬恋村、東吾妻町一帯) を領有した武士。
藤原秀郷の子孫を名乗る。 (秀郷→ 千常→ 文侑→ 兼助→ 兼成→ 助亮→ 助光→ 行家→)
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁四年
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1月12日 丙子
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吾妻鏡
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将軍家 実朝の御読書 (孝経) 始めを行なった。多くの書籍を集め広い知識を備えている相模権守 源仲章の指導である。読み合わせの後に報奨として砂金五十両と御剣一振を仲章に与えた。
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   ※孝経: 儒教で重視される経書 (経典、儒家経典) の一つ。弟子の曽子が孔子の言動を記録した書。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁四年
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1月14日 戊寅
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吾妻鏡
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将軍家 実朝が二所詣に備えて精進潔斎を始めた。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁四年
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1月18日 壬午
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吾妻鏡
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辰刻 (8時前後) に鶴岡八幡宮別当阿闍梨の尊暁 (初代別当 圓暁の実弟で二代別当) が将軍家のために祈祷する目的で二所詣に出発した。江間四郎主 (北條義時) も奉幣使として同行、出発の際に尊暁は従者を門外に待機させ御所の南庭に控えた。
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将軍家は南の階段から庭に降り、伊豆と箱根と三嶋の方向に向いて七度づつ計二十一回拝礼した。続いて義時が立ち上がり八幡宮に参拝してから出発した。
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   ※尊暁と義時: 今回は二人が代参し、将軍実朝は鎌倉に留まり前浜での精進潔斎のみを済ませる。
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   ※四郎主: 本来は主人に対する敬称だが、一般的な敬称としても使う。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁四年
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1月22日 丙戌
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吾妻鏡
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夕暮れの頃に 北條義時殿が二所詣から鎌倉に戻って来た。伊豆山走湯権現から直接鎌倉に入った、との事。
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   ※二所詣: 治承四年 (1180) の挙兵の際に加護を得た神社を巡拝する恒例行事で、厳密には三所の巡拝に
なる。後白河法皇が再三行なった熊野行幸 (本宮、速玉大社、那智大社の三所) に倣う意向が頼朝にあったらしく、出発前の精進潔斎も模している。
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吾妻鏡に拠れば最初の頼朝二所詣は文治四年 (1188) 1月20日は 伊豆山→ 三嶋→ 箱根の順路、二回目の文治六年 (1190) 1月には最初に立ち寄った 石橋山合戦場の跡地で 佐奈田余一と郎党 豊三の墳墓に詣でた際に落涙した。先達の僧が不吉を申し出て、次回から逆廻りになった。
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巡行では供奉した武士と神社の神官らが共に酒宴と演芸大会を催すのが通例だったが、今回の義時は伊豆山での酒宴には参加せずに直帰したのが 「直接鎌倉へ」 の表現になったのだろう。
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実朝の最初の二所詣は妻を迎えて16歳になった建永二年 (1207) 1月で、それまでは御家人の代参奉幣だった。終生で頼朝は四回、実朝は八回の二所詣でを行なっている。
   右画像は十国峠の実朝歌碑(クリック→ 日金山(別窓)へ。
       実朝は金槐和歌集に載せた和歌をここで詠んだ、と想像されている。

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    箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波のよるみゆ
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歴史家の中には 「傀儡将軍だった実朝が 「白波に囲まれた沖の小島」 に我が身を擬した歌」 とする意見もあるが、私には単に情景を詠んだ歌に思える。ちなみに、金槐和歌集の 「金」 は鎌倉を、槐は 「槐門」 (大臣の唐名) を表す。つまり実朝の私家和歌集である。
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三嶋大社 (公式サイト) と訪問記箱根神社 (公式サイト) と訪問記伊豆山神社 (公式サイト) と訪問記 も参照されたし。
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   ※日金山: 伊豆、相模、駿河、遠江、甲斐、武蔵、常陸、安房、上総、下総が見えるから十国峠。
展望は素晴らしいけど、実際には七国程度が限度だと思う。それは兎も角として...
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展望台から少し下った古刹 日金山 東光寺はあの世への入り口で、伊豆国の死者は全てここを通り冥途に向かう決まりになっており、ご丁寧に 境内には閻魔大王と奪衣婆の石像もある。
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江戸時代初期、家康の使者として韮山の北条氏規邸を目差した朝比奈弥太郎は深夜の日金山で異様な大男とすれ違って声を掛けられた。「ここに向かってくる娘を見なかったか?」と。
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この大男は死者を迎える鬼だった、というお話。ここは昼間でも一人じゃ怖いよ、本当に。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁四年
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2月 9日 癸卯
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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鶴岡八幡宮での御神楽奉納は通例の通り。前大膳大夫 大江広元朝臣が奉幣の代参を務めた。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁四年
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2月10日 甲辰
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吾妻鏡
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伊勢国員辨郡司進士の員部行綱が囚人として拘留された。侍所別当 和田義盛の訴えによる。
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   ※員部行綱: 前年の12月25日に伊勢国守護所を襲撃した嫌疑。無実が判明し、5月8日に釈放となる。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁四年
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2月12日 丙午
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吾妻鏡
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将軍家 実朝が由比浜に出御された。供として従った江間四郎 北條義時らは水干 (狩衣) を着し、各々野箭 (狩猟用の矢) もしくは征箭 (実戦用の矢) を帯びている。
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北條五郎時房和田平太胤長、多々良四郎義春榛谷四郎重朝海野小太郎幸氏望月三郎重隆諏訪大夫盛隆藤澤次郎清親愛甲三郎季隆が各々小笠懸と遠笠懸を射る様子を実朝は桟敷から観覧された。
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   ※多々良義春: 三浦義明の四男で杉本義宗 (和田義盛の父)、三浦義澄佐原義連らの弟で 多々良の一帯
(横須賀市の鴨居、地図) を領有した。子息の重春は治承四年 (1180) 8月24日に由比ガ浜小坪の合戦で 畠山重忠勢に討たれている。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁四年
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2月13日 丁未
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吾妻鏡
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(故 頼朝将軍の月命日により)法華堂で追善供養の法事を行なった。導師は摩尼房阿闍梨である。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁四年
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2月20日 丁未
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吾妻鏡
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各地の庄園に課されている年貢に関しては全て右大将 頼朝の頃と同様に処理するよう遠州 北條時政からの命令が下された。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建仁四年
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2月20日 甲寅
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明月記
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この日、改元となった。建仁四年を改めて元久元年、勧進者は参議藤原親経。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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2月21日 乙卯
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吾妻鏡
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尼御台所が御逆修を始められた。
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   ※逆修: 予修と同じ。生前に自分自身の死後の冥福を祈る法事。政子は満47歳でまだ中年の範囲だし、
簡単に死ぬ様なタイプじゃないし。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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2月22日 丙辰
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吾妻鏡
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備後国御調本北條の地頭の四方田左近将監の権限を停止し、管理権を国衙に付ける旨を 北條時政が命じた。
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   ※備後国御調本北條: かつての御調郡北條 (現在の尾道市北部の御調町、地図) 。調は租税の一種だから
国衙あるいは郡衙との関係に齟齬があった可能性が想像される。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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2月25日 己未
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吾妻鏡
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将軍家 実朝が江間四郎 北條義時に渡御された。
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   ※北條義時邸: 義時が現在の 宝戒寺 (建立は幕府の滅亡後) の地に
関取場跡の碑 (地図) から荏柄神社参道入口までの一画 (雪ノ下562) に住んでいたと推定されている。
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 右は東側 「エホバの証人」 前から562番地を撮影
    画像をクリック→ 別窓で拡大表示

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公的な執務場所を小町亭に移してから後の大倉亭は三代執権を継承する嫡子の 泰時が住むと共に 義時の私的な執務場所を兼ねていた。
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建保七年 (1219年、5月27日に改元して承久元年) の1月27日に八幡宮で公暁が実朝を斬り殺した時は、公邸の小町亭から指揮を執っている。
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元仁元年 (1224) 6月13日に義時が息を引き取ったのも旧邸の大倉邸だが、以後の執権執務場所は小町亭がメインとなり大蔵邸の名は歴史に現れなくなる。
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和田合戦の発端となった 和田胤長邸は荏柄天神社の近くと伝わっており、義時が没収した胤長邸を義盛に渡さず専有したのは義盛を挑発する目的の他に、自邸に隣接した胤長の屋敷が欲しかったのかもしれない...などと勝手な妄想をするのも結構楽しい。
  ・・・あの野郎、こんな事を考えてたんだな、なんてね。
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   ※得宗: 北條氏嫡流 (惣領家) を意味する。元々は五代執権 時頼が二代執権 義時に贈った追号 「徳宗」 の
当て字と考える説が主流らしい。得宗を冠するのは 初代執権時政、二代義時、三代泰時、四代経時、五代時頼、八代時宗、九代貞時、十四代高時の九人で、極楽寺流の 六代長時と 十三代基時と 十六代守時、政村流の七代政村と 十二代煕時、金沢流の 十五代貞顕 の六人は北條嫡流ではないため得宗を冠していない (詳細は北條氏の系図で) 。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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2月28日 己未
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吾妻鏡
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今日は御台所の御逆修結願である。導師は寿福寺方丈が務めた。
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   ※寿福寺方丈: この場合は壽福寺の僧正栄西を差す。釈迦の在家
弟子だった維摩居士の家 (10尺 (3.3m)四方=方) を訪問した文殊菩薩師弟の全員がその狭い中に入れたので全宇宙を内在していると考えて、建物も「方丈」と呼び始めた。
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曹洞宗では住職本人も方丈と呼んでいる。
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鴨長明 (Wiki、下鴨神社禰宜 長継の次男、後に出家) が自著を方丈記と名付けた所以でもある。
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右は下鴨神社近くに設けた鴨長明の庵を再現した小屋。
  画像をクリック→ 拡大表示  実際の庵は凄い山の中 (紹介サイト) だったけれど。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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3月1日 甲子
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吾妻鏡
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京都朝廷からの使者が到着、先月20日に勅命により建仁四年を元久元年に改めた。
また、同25日に後鳥羽上皇が天王寺に行幸された。金堂修理の完成供養に出席のためである。
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   ※天王寺: 大阪市の四天王寺を差す。日本書紀によれば、推古天皇元年 (598年) に 聖徳太子 (厩戸皇子
Wiki) が創建した七大寺の一つで、特定の宗派に属さないのが創建の趣意。
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現在は全仏教的な存在として「和宗総本山」を称しているから 信濃善光寺に近い存在と考えるべきか。境内参拝は24時間可能で無料、駐車場のみ有料 (確か30分200円) なのは同様に全仏教的な存在ながら 16時か16時半で閉鎖する信濃善光寺より遥かに偉い!
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   ※七大寺: 法隆寺と四天王寺、広隆寺法起寺 (尼寺) 中宮寺 (尼寺) 橘寺 (生誕地 ) 葛木寺 (尼寺)
を差す(全て Wiki) 。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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3月3日 丙寅
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の上巳節句に伴う通例の神事と法会が行われた。駿河守 中原季時が奉幣の使者を務めた。
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   ※上巳の節句: 平安以前から貴族の子女が御所を模した飾り付けなどで遊び無事を願ったのが最初。
その後に武家社会や庶民に広がって定着した。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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3月 9日 壬申
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吾妻鏡
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京都から武蔵守 平賀朝雅 (京都守護) の飛脚が到着して次の通り報告した。
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先ごろ、雅楽助平惟基の子孫らが伊賀国で挙兵し、更には中宮長司の平度光の子息らが伊勢国で挙兵した。いずれも明らかに準備した上での謀反である。
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両国の守護人である 山内首藤刑部丞経俊が事情などの聴取を試みたがこれに応じず攻撃してきたため寡兵の経俊は退却し、反乱軍は伊勢と伊賀を占領し鈴鹿関と八峯山などの道路を封鎖した。これにより京都との往来が不可能となった。
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   ※平惟基: 平維盛の息子とされるが真偽は判らない。4月10日に発生し、3日後の12日に鎮圧された経緯
から 「三日平氏の乱」 と呼ばれるが、元暦元年 (1184) の大規模な 「三日平氏の乱」 とは別件。
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   ※平度光: 惟基と共に伊賀で挙兵した若菜盛高 (藤原忠清の次男 平忠光の子) の兄弟と推定される。
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   ※鈴鹿関と八峯山: 現在の亀山市から鈴鹿峠を越える国道一号(東海道)ルート (地図) と、菰野町から
から湯の山温泉を経て鈴鹿山脈を越える現在の国道477号ルート (地図) 。
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ずっと前に亀山市の 「道の駅 関宿で国道一号鈴鹿峠の通行止めに遭遇し鈴鹿スカイライン経由に変更したのだが、武平峠が通行止め。やむを得ず施設が劣悪だった 道の駅 菰野でP泊を余儀なくされた。この地域の状況を、身を以て実感した。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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3月10日 癸酉
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吾妻鏡
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京都からの飛脚が帰洛の途に就いた。謀叛人の件については、伊勢国と伊賀国に軍勢を派遣して厳しく追討せよとの命令を、京都守護の 平賀朝雅に下した。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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3月15日 戊寅
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吾妻鏡
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御所に於いて天台止観の講義を始めた。尼御台所も聴聞のため将軍の元に渡御された。
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   ※天台止観: 摩訶止観に同じ。西暦594年に隋の荊州玉泉寺で天台の僧智が講義した内容を彼の弟子
章安灌頂が纏めた天台三大部の一つ。天台宗の根本的な修行である瞑想法を体系的に記述した世界観の集積、らしい。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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3月22日 乙酉
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吾妻鏡
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鎮西 (九州) の年貢について、掃部頭入道寂忍 中原親能に詳細の検査が命じられた。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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3月27日 庚寅
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吾妻鏡
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将軍家 実朝が勝長寿院に参拝された。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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3月29日 壬辰
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吾妻鏡
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伊賀と伊勢両国で勃発した平氏の謀叛事件について、その後の措置が著しく不明なため複数の雑色を派遣して近畿の御家人に命令を伝達した。武蔵守 平賀朝雅に従って出陣せよとの命令である。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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4月 1日 甲午
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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駿河、武蔵、越後の諸国については更に検地を実施するよう、三善宣衡中原仲業と坂上明定を 派遣して調査する指示が下った。大江広元と図書允 清原C定がこれを差配する。
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   ※三善宣衡: 建仁二年 (1202) 11月9日に「善進士宣衡が...」の記述があるため三善氏一族なのは確かだが
それ以上の素性は判らない。承久の乱直前の後鳥羽上皇の動きを鎌倉に知らせた官人 三善長衡の系累だった可能性はあるが、康信に近い存在ではない。
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   ※坂上明定: 著名な明法家 (法学者) として朝廷に仕えた明定の弟で分館として御家人を務めた。
後に石見鹿足郡長田別符 (現在の島根県邑智郡邑南町、地図) の地頭職に任じている。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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4月10日 癸卯
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吾妻鏡
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笠置寺 (紹介サイト) の解脱上人の使者が先ごろ鎌倉に参着した。笠置寺に於いて磨崖仏を拝礼する堂を建造するために将軍家の寄付を願う為である。今日、砂金などの宝物を使者に託したが、奉加帳は与えなかった。
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   ※笠置寺: 法相宗の海住山寺笠置寺、何よりも磨崖仏で知られている。数多い画像は こちら (Wiki) 、
併せて 解脱上人 貞慶の詳細も Wiki で。「奉加帳」に記載しない=他所で見せて横並びの寄付を求めるのを避ける意味か?
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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4月16日 己酉
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吾妻鏡
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駿河など三ヶ国の検地については先日決定したが、検討の結果実施が延期された。新しい将軍の政治は民を慈しむ事を大切にして年貢や労働による負担を減らす意図があり、今年検地を行えば農民が休めず善政から外れる結果を招くのを避ける為である。当分の間は行わない、と。
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   ※検地の指示: 当初は4月1日に命令を下した。朝令暮改か、エイプリル・フールか。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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4月18日 辛亥
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吾妻鏡
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将軍家 実朝が御夢想のお告げに従って岩殿観音堂に参詣した。遠州 北條時政および 義時時房大江広元朝臣ら多くの御家人が従い、三浦左衛門尉 佐原義連が食事の手配を行なった。
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   ※岩殿観音堂:大倉御所から約 4km南東 (地図) の 海雲山 岩殿寺 (公式サイト) 。開山は伝 行基、吾妻鏡
の文治三年 (1187) 2月23日に 大姫参詣の記載がある。すぐ近くには大切岸と日蓮法難で知られた 猿畠山 法性寺があるが、その開創は 50年も先の話になる。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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4月20日 癸丑
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吾妻鏡
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御家人の中に故右大将軍 頼朝自筆の指示書を持っている者が少なくない。書写して保存したいから提出して御覧に入れるよう仰せが発せられた。清原清定が担当してこれを取り纏める。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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4月21日 甲寅
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吾妻鏡
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武蔵守 平賀朝雅の飛脚が鎌倉に到着し次の通り報告した。
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先月23日に京都を出て伊賀国を目差したが、既に伊勢平氏が鈴鹿の関所を封鎖していた。険しい山道を進めば合戦を避けて伊賀国に入れるが、人馬の通過が困難なので美濃国に迂回し27日に伊勢国に入った。
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作戦を練った結果、今月の10日から12日にかけて進士三郎基度が守る朝明郡富田の館を襲撃し、基度と弟の松本三郎盛光と同じく四郎と九郎を討ち取った。次に安濃郡で岡八郎貞重と子息らを追討、更に多気郡に進んで庄田三郎佐房と子息の師房らと戦って撃ち破り、河田刑部大夫を捕虜にした。
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叛徒は一時的に伊勢と伊賀を占領したが僅か三日で敗れ去り、伊賀国に残る敵は更に厳しく追討する。
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   ※進軍ルート: 3月9日の情報に基づいて鈴鹿峠と八峯山の突破は避け、老の辺りから揖斐川沿いを南下
したか。館は四日市市、この経路なら京都から約 140km、4日の行程だろう。
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ここから約 40km南下して安濃郡 (津市) で合戦、多気郡は範囲が広いので正確な場所は確定できないが現在の松坂市周辺で庄田親子を破って北上し、5月6日には 25km離れた関の小野 (亀山市の関宿付近、 地図) で首魁の一人 若菜五郎を討ち取った。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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5月 5日 甲寅
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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鶴岡八幡宮での節句祭礼は通例の通り。将軍家 実朝の参席なし、大江広元朝臣が奉幣の使者を務めた。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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5月 6日 戊辰
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吾妻鏡
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平賀朝雅からの飛脚が再び到着して次の通り報告した。
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先月29日伊勢国に到る。平氏雅楽助三郎盛時およびその同族が当国の六箇山に城柵を構えて数日間抗戦したが遂に敗北した。叛徒の首魁である若菜五郎 (盛高) は伊勢国の日永、若松、南村、高角、関、北野などに拠点を構えて抵抗を続け、最後には関の北野で落命した。
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これまでの合戦の経緯と軍兵の忠節などについては詳細を記載する。また、山内首藤刑部丞経俊および瀧口六郎 (通基) らは平家軍の勢いを恐れて逃げたが、朝雅と合流してからは共に合戦を遂げた、と。
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   ※六箇山: 現在の三重県西部の名張市滝之原から奈良県の曽根
村〜御杖村の一帯 (地図) 。六つの山に囲まれていた事から付いた名称で、伊勢神宮領として御饌 (神に供える供物) に使う竹、藤、黒葛などを供給していた。
助三郎盛時らは相当遠くまで逃げたと言える。
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   ※関、北野: 後世の東海道五十三次47番目の「関宿」から約2km
東の小山が古戦場。関西本線の関宿駅に隣接した「道の駅 関宿」の徒歩圏内にある関宿は古い民家が見事に保存されている。 観光地化していない、結構見応えがある落ち着いた家並みが続いているから、近くを通ったら立ち寄ろう。
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   右は関宿から小野古戦場の鳥瞰図。 (クリック→ 別窓で拡大表示)
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   ※瀧口通基: 経俊の次男。山内須藤経俊は三日平氏の乱への対応が遅れた責任を問われ伊勢国と伊賀国
の守護職を剥奪され 平賀朝雅と交代する。これは単に失策だけではなく、娘婿を優遇した北條時政の意向もあったのだろう。経俊は朝雅に職を奪われた形、一方で朝雅の方は更に後鳥羽上皇から伊賀国の知行国司にも任じられたのだが...
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元久二年 (1205) 閏7月には北條時政が失脚し、翌月には平賀朝雅も叛逆を謀った罪で追討される。殺害を命じたのは父の時政を追放した 北條義時で、実行者は経俊の息子瀧口通基。ここで父の経俊は恩賞として守護職への復帰を申請したが、認められなかった。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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5月 8日 庚午
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吾妻鏡
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国司らの訴えについて朝廷の審議を経ての申し入れがあった。
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山での狩猟および海での漁は国衙への納税が課せられる事、製塩を行う者は三分の一を地頭に納付し滞納を避ける事、節句など季節の行事に使う焼き米などの税は国司の取り分とする事、この三ヶ条は国府の布告に従い前例の通りに処理せよとの命令が地頭に下された。三浦左衛門尉義村 左京進中原仲業がこれを差配する。
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また伊勢国員辧郡司進士行綱が去年の12月25日に伊勢国守護所を夜討ちした嫌疑で2月10日から囚人となっていた件は、伊勢平氏若菜五郎らの犯行だった旨を仲間が自白して行綱の無実が明らかになった。遠州 北條時政から、釈放し本領を安堵する旨の指示があった。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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5月10日 壬申
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吾妻鏡
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伊勢平氏らの追討に関する恩賞の沙汰があり 大江広元朝臣と問注所執事の善信 (三善康信の法名) が差配した。
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武蔵守 平賀朝雅は伊勢国守護職に補任され、更に伊勢平氏らの私領だった水田を得た。伊勢国と伊賀国の守護は 山内首藤経俊が任じていたが、伊勢平氏の勢いを恐れて逃亡したのが更迭の理由である。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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5月16日 戊寅
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吾妻鏡
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尼御台所が金剛寿福寺で法事を催した。祖父母の追善供養が目的である。
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   ※政子の祖父母: 政子の生母は 北條時政の室 で時政の父は時方または時兼。時政の生母は伊豆掾 (国司
の三等官) 伴為房の娘とされているが、時政の前妻が 伊東祐親の娘だったのは概ね確実なので、この追善供養は伊東祐親夫妻が対象と考えるのが最も順当である。
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ただし、政子の兄の故 宗時と、政子の妹の 時子 (足利義兼室) が同母の兄妹なのは系図から確認できるが、 (年齢順に) 政子、宗時、時子 または 宗時、政子、時子と続く三人が同母である (史料での) 確証は得られず、推量だけに頼るのが辛い。
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曽我物語には三年ぶりに京都大番役から伊東に戻った祐親が末娘 (三女 満劫) が産んだ 頼朝の息子 千鶴丸を見て「誰の子か」と問い、後妻が
「あれこそ貴方が養っている源氏御曹司の子」と悪し様に告げ口するシーンが描かれている。
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この後妻も当然ながら出自不明で、曽我物語を素直に読めば千鶴丸を産んだ満劫と時政室は共に祐親の娘、姉妹になる。
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従って満劫と政子は伯母と姪の関係で、頼朝はその二人を妊娠させるというスキャンダラス (笑) な状態になってしまうのだが...。
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寿福寺は正嘉二年 (1258) に全焼しているから政子が営んだ法会の記録も過去帳も存在しない。北條の系図も伊東の系図も、女系の詳細には殆ど触れていない。
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右上は 金剛寿福寺の山門。クリック→ 詳細紹介のページ (別窓) へ。
鎌倉中期以後の寿福寺は臨済宗、正治二年 (1200) 創建当初は禅、天台、真言の混在か。
  公式サイトを持たず、観光に伴う俗化とは真摯な距離を保っている古刹である。

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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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5月19日 辛巳
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吾妻鏡
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右大将家 (頼朝) が御家人に与えた御書について先日 (4月20日) 問い合わせ、これを所持している御家人が閲覧のために提出した。その中には左衛門尉 小山朝政、同 結城七郎朝光、千葉介の各々数十通がある。その他にも一通あるいは三通の提出である。将軍家 実朝は書類から右大将が決裁した意図を汲み取るためこれらを書写させ、大江広元朝臣がこれを差配した。
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   ※千葉介: 通常は 常胤の代名詞だが、嫡孫 (胤正の長男で五代当主) の 成胤も千葉介だから既に物故した
常胤と胤正ではなく現役当主の成胤だろう。成胤は胤正が14歳の時に産まれた (つまり13歳で妊娠させた) ため年齢が近くて間違えやすい。
なにしろ祖父の常胤と孫の成胤の年齢差が 37歳だから、ね。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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6月 1日 壬辰
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吾妻鏡
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将軍家 実朝の御願として今日中に愛染明王像三十三躰を造立し開眼供養を催した。導師は 荘厳房行勇
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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6月 8日 己亥
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吾妻鏡
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伊勢平氏追討に関する恩賞の追加があり、前回の恩賞に漏れていた 加藤光員らの落胆が払拭された。
これは伊勢平氏が名乗っていた地名の水田などで、遠州 北條時政がこの指示を差配したものである。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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6月20日 辛亥
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吾妻鏡
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臨時の祭礼が行われ、将軍家 実朝 (去る3月1日に右少将 (右近衛府の少将) に叙任) が鶴岡八幡宮に参拝され、神馬二疋を献納した。流鏑馬と読経の奉納は通例の通り。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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7月14日 甲戌
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吾妻鏡
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未刻 (14時前後) に将軍家 実朝が急に痢病となり、人々が心配して集まった。
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   ※痢病: 腹痛や下痢を伴う病気。特に疫痢、赤痢などを差す。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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7月15日 乙亥
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吾妻鏡
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将軍家の痢病は回復の様子が見えないため、鶴岡八幡宮で大般若経を真読する法要を開始した。八幡宮の供僧による奉納である。駿河守 中原季時が使者として八幡宮寺に参詣し三日以内の結願(治癒成就)を命じた。
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   ※真読: 省略せずに経文の全文を読み通すこと。転読の反対語。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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7月19日 己卯
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吾妻鏡
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酉刻 (18時前後) に伊豆国からの飛脚が到着して報告。昨日 (18日) 、左金吾禅閤 (頼家、23歳) が当国の修禅寺で崩御された、と。

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   ※頼家死没: 吾妻鏡の死亡記事はこの一行のみで、死因や犯人
などの記載はない。そりゃそうだ、幾らなんでも「時政の刺客によって」 とは書けないよね。
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   愚管抄は: 修禅寺で頼家入道が殺された。抵抗が激しかった
ため、ふぐり (陰嚢) を押さえつけ紐で首を絞めるなどして刺し殺した、と。勇猛でも力が及ばぬ場合もあるものだ。
比企能員が児玉党の行時 (秩父行重の子、片山姓) の娘を妻にし、その娘が頼家の子 一幡を産んだ。
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   承久記は: 頼朝の跡を継いだ二代の頼家は行跡が悪く人にも神仏にも見放され、外祖父で後見人でも
ある北條時政に殺された。
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   梅松論は: 頼朝嫡子の頼家は建仁二年まで関東の将軍だったが悪事が多く外祖父時政の命令で修禅寺
に於いて23歳の若さで討たれた。
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   武家年代記元久元年7月19日に頼家が修禅寺で死んだ。平 (北條) 義時が殺したものである。
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   ※修禅寺の伝承: 門前の桂川に架かる虎渓橋際にあった筥湯 (はこゆ) に入浴中を襲われたと伝えている。
平成12年には橋横に新しい立ち寄り温泉が完成、筥湯 (観光サイト) と命名された。
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右上は 2003年7月19日の頼家八百年忌で菩提寺の修禅寺山門を出る頼家の位牌。
   画像をクリック→ 八百年忌の風景へ(別窓)。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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7月23日 癸酉
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吾妻鏡
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将軍家 実朝の病気が平癒し沐浴された。
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   ※沐浴: 髪や身体を洗う事、また神事や病気平癒後に湯や水を浴びて穢れを落とし体を清めること。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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7月24日 甲申
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吾妻鏡
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左金吾禅閤 頼家の御家人らが片土 (僻地。修禅寺付近を差す) に隠れて謀叛を企てているのが発覚し、相模守 北條義時 金窪太郎行親らを派遣して直ちに追討した。
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   ※金窪行親: 北條得宗家 (惣領家) の御内人 (陪臣) で義時の家臣と
として頭角を顕し、比企の乱と和田合戦を含む多くの修羅場で実績を挙げ北條独裁体制に貢献した。
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殺された頼家家臣は謀反ではなく、残った関係者を抹殺あるいは目撃者を処分したと推測される。
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側近の遺跡は十三士の墓として頼家の庵跡近くに保存されていたが台風に伴う土砂崩れで崩落し、回収できた三基を頼家の墓所近くに移設している。
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 右画像をクリック→ 頼家の廟所 (別窓) へ。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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 月 日
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修禅寺史跡
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尼御台所 (北條政子) は頼家の没後 (一周忌か三回忌か) に桂川に架かる虎渓橋の架け替えと、頼家の廟所として指月殿を建立し、修禅寺に寄進している。虎渓橋はコンクリートに変わっているが、指月殿は1205年前後に建立された伊豆最古の木造建築として風雪に耐えた姿を今に伝えている。
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本尊は堂と共に政子が寄進した丈六の釈迦如来坐像k作者は 胎内銘札によりこの時代の関東で頻繁に活動していた仏師 実慶と確認された。
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左右に置かれた金剛力士像は元々は 2kmほど東の狩野川近くの横瀬 (旧道、地図) にあった修禅寺の惣門を守っていた二体で、指月殿建立よりも更に古い平安時代中期頃の作品と推定されている。
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老朽化した惣門が朽ちかけたため (明治初期か) スペースに余裕があった指月殿に遷され現在は 修禅寺の山門両袖 (1203年増築) に遷された。
今では釈迦如来一体のみが指月殿の堂内に鎮座している。
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    右画像をクリック→ 指月殿の詳細にリンク。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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7月26日 丙戌
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吾妻鏡
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安芸国壬生庄の地頭職に関して山形五郎為忠と小代八郎らが訴訟で争っており、守護職の宗左衛門尉孝親が提出した報告に依拠して将軍家 実朝の御前で裁決した。
遠州 北條時政および 大江広元朝臣が御前で審議を行なったのは将軍家が直接政道を判断された最初である。
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   ※安芸国壬生庄: 現在の北広島町壬生 (地図) 。平安末期に山県為綱の立荘と伝わるが、詳細は不明。
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   ※宗孝親: 本姓は惟宗で宗を名乗っているのは対馬宗氏の系かも知れない。建久七年 (1196) に安芸守護
に任じたが、承久の乱 (1221年) の際に 後鳥羽上皇に従って守護職を失なった。
ちなみに、彼が赴任した前後の安芸国守護は 石和 (武田) 信光が務めている。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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8月 3日 癸巳
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吾妻鏡
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今日、鎌倉内の寺社が所有する領地について決裁が行われた。左京進 中原仲業を永福寺の公文職 (事務職の長) に補任して寺の管理を委ね、寺領の年貢などの処理を行なうよう命令が下された。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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8月 4日 甲午
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吾妻鏡
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将軍家 実朝の婚姻について、従来は上総前司 足利義兼の息女を迎えるよう下準備をしていたが結果として将軍の許しが得られず、京都から妻を迎えたい旨の申し入れがあった。
これについて事前の打ち合わせが持たれ、使者と供奉人の数などに関して直接の指示があった。容貌の優れた若武者を選ぶようにとの仰せである。
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   ※実朝の婚姻: 病弱で疱瘡を病んだ容姿の負い目があり、和歌を介して京都に強い憧憬を持っていた。
更には有力御家人 (比企氏) を舅 (妻の父) にして滅亡した兄 頼家の悲劇が頭にあって御家人の娘を拒んだのだろう。この時の実朝は満12歳、虚弱で繊細な少年である。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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8月15日 乙巳
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮での放生会である。将軍家 実朝は御軽服のため委細は宮寺に委任し、夜になってから明月に誘われて由比の浦に出御された。船を手配して数人の楽士を呼び華麗な音曲を奏でさせた。
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   ※軽服: 遠い縁戚の死没に着る喪服で服喪中を示す。頼家は同腹の兄だが近親として扱わない。
時政が下したこの決裁には義時は勿論、母親の政子も同意していた筈だ。我が子を亡くす悲しみを示す一方で、我が子や孫などの殺害に関与する冷酷さから眼を逸らしてはならない。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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8月21日 辛亥
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吾妻鏡
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石清水八幡宮の神領である河内国高井田を将軍家の御祈祷所として地頭を廃止した。八幡宮寺の管理下に移譲するよう仰せが発せられた。
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   ※河内国高井田: 現在の大阪府柏原市高井田 (地図) 、石清水八幡宮からは 40kmほど南にある。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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9月 1日 丙寅
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吾妻鏡
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将軍 実朝の近習を務める者 10余人を官職に推挙した。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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9月 2日 丁卯
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吾妻鏡
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将軍家 実朝が馬二疋 (河原毛と栗毛駮) を新藤次俊長と和泉掾景家が曳いて伊勢の内宮と外宮に献納、今朝出発した。

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   ※新藤次俊長: 吾妻鏡の初出は治承四年 (1180) 8月20日、伊豆韮山で挙兵し土肥へと進軍する頼朝主従
の名簿の末尾から二人目に新藤次俊長の名が載っている。更に建久二年 (1191) 1月15日の政所吉書始めの項目に「案主 (四等官の三位) は藤井俊長 (鎌田新籐次) 」と書いてあり、「藤井俊長=鎌田新籐次=鎌田正清の息子」と判断できる。
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つまり 頼朝の父 義朝が野間で 長田忠致に謀殺された際、共に殺された鎌田正清の息子 藤井俊長が頼朝挙兵当初から加わり、後に政所創設と共に案主に任じた事になる。
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ただし、建久五年 (1194) 10月25日の記事 (下記) で頼朝は鎌田正清の娘を見つけ出しているから、息子と娘が存在した事になる。
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頼朝は正清の生涯を哀れみ遺族を捜したが男子がおらず、娘を見付け出して尾張国の志濃幾庄と丹波国の田名部庄の地頭職を与えた。旧恩に報いたものである。
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どちらか、或いは両方が間違いだった可能性がある、という事か。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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9月13日 戊寅
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吾妻鏡
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法花堂 (頼朝法華堂) で法事 (月違い命日か) を開催した。
夕暮れになって盗人が別当大学坊に侵入して故頼朝将軍の御遺物重宝等を盗み出した。すぐに大倉御所に連絡して当番の者らが犯人を捜索したが既に行方不明となっていた。
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   ※別当大学坊: 別当職の僧を置いた事から頼朝法華堂がそれなりの規模を持つ堂だったと判断できる。
三浦氏が滅亡した宝治元年 (1247) 6月5日の合戦の際は、逃げ遅れた住僧の一人が天井裏に隠れて一族数十人が自刃する様子を見届けたと伝わっているから、狭く見ても数十坪程度の面積があったのだろう。もちろん吾妻鏡による捏造の可能性も有り得るが。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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9月15日 甲戌
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吾妻鏡
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将軍家 実朝は昨夜に相州 北條義時邸に入御された。すぐ還御する筈だったが義時が引き留めて「今夜は月蝕(凶事を意味する)ですからお泊まり下さい。」と告げたため、宿泊を余儀なくされた。
義時は特に喜んで 二階堂行光も座に加え、行光は次のように語った。
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京極 (藤原師実) が太閤 (関白) だった時代に白河上皇が宇治に御幸し、還御されようとしましたが楽しさに負け一旦は逗留を申し出ました。しかし「還御を明日にすれば都が北なので方忌 (凶の方角) となる、今日帰ろう」と思い直しました。師実がとても残念に思っていたら、行家朝臣が喜撰法師が詠んだ和歌を引用して「宇治は都の南ではありません、巽 (東南) でございます」と申し上げたためその日の還御を中止しました。今夜の月蝕も同じことでしょう。
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この言葉に義時は感心すると共にその機転を喜んだ。
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   ※行家朝臣: 著名な歌人 讃岐守家経の息子。喜撰法師は六歌仙の一人で、下記の和歌を差している。
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    わが庵 (いほ) は 都のたつみ しかぞすむ 世 (よ) をうじ山と 人はいふなり
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「しかぞすむ」は「こうして静かに暮らしている」の意味、「世をうじ山と」は「憂しと宇治の掛詞」。 「私の庵は都の東南にあり、こうして穏やかに暮らしている。それなのに世間では私が世の中を憂いて宇治山に隠棲したと思っているらしい」 ほどの意味。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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10月 6日 乙未
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吾妻鏡
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亥刻 (22時前後) に大地震があった。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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10月10日 己亥
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吾妻鏡
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強風に加えて降雨あり。申刻(16時前後)に雷鳴が数回。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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10月14日 癸卯
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吾妻鏡
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前大納言 坊門信清卿の息女 (坊門信子) が将軍家 実朝の御台所として下向されるため、御迎えに任じる御家人たちが上洛の途に就いた。
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左馬権助 (北條政範) 、結城七郎朝光千葉平次兵衛尉常秀光、畠山六郎重保、筑後六郎 (八田知尚) 、
和田三郎宗実、土肥先次郎惟光、葛西十郎、佐原太郎経連、多々良四郎重春、長井太郎、宇佐美三郎祐茂 、佐々木小三郎盛季、南條平次、安西四郎らである。
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   ※その他の武士: 北條政範は 時政牧の方夫妻の長男、畠山重保は 重忠の嫡男、八田知尚は 知家の六男
で浅羽氏の祖、和田宗実は 義盛の弟、土肥惟光は 遠平の長男、葛西十郎は 清重の弟 清宣、 佐原経連は 義連の三男景連か、多々良重春は 三浦義澄の弟 多々良義春の息子、長井太郎は同じく義澄の弟 長井義季の息子、宇佐美三郎助茂は 祐茂の別名だが工藤祐経の叔父に当るため年代的に疑問が残る、佐々木盛季は 盛綱の三男、 南條平次は判らない、安西四郎は安房国丸御厨 (南房総市丸本郷一帯、地図) を本拠にして頼朝に従った景益の息子。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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10月17日 丙午
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吾妻鏡
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大隅国の正八幡宮寺からの訴えについて決裁が下された。これは故右幕下 (頼朝) の時代に掃部頭入道寂忍 (中原親能の法名) が正宮の地頭に任じ、宮寺からの異議によって地頭職を停止した経緯がある。
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その後に神社領三ヶ所に三人の地頭を補任したが(年貢納入の義務を果たさないため)社殿の造営ができないとの内容で、今日地頭職を更迭した。帖作郷の地頭は肥後坊良西、荒田庄の地頭は山北六郎種頼、万得名の地頭は馬部入道浄賢である。大江広元朝臣がこれを差配した。
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   ※正八幡宮寺: 大隅国 (鹿児島県東部) の 鹿児島神宮 (Wiki) を差す。帖作郷と荒田庄はいずれも鹿児島湾
の西部、万得名 (領) は各地に散在する八幡宮寺領の総称。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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10月18日 丁未
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吾妻鏡
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各地の荘園、郷、保の地頭が勲功により獲得した事を根拠にして前例を無視し年貢の横領を行なっているとの訴えが国司や領家から提起されている。今日、その件についての裁決が下された。
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名田も所職も下司 (現地に駐在する管理者) の職責の範囲内で沙汰すること。この趣旨を守らなければ解任する、との内容である。中原仲業 清原清定がこれを差配した。
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   ※名田と所職: 名田は開墾、購入、押領などによって取得した田地に取得した者の名を冠したもの。
所職は所有ではなく管理者に任じる職を意味する。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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11月 3日 辛酉
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吾妻鏡
史 料
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将軍家 (実朝) がやや体調不良である。
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   ※愚管抄の記録: 鎌倉将軍の妻を然るべき公卿の娘から選んだ。
坊門信清大納言の娘 (13歳、坊門信子) に決定し、関東から多くの武士が御迎えに上洛した。
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信清の父 信隆は 後鳥羽上皇の妃 藤原殖子の父で信清は後鳥羽院の義弟にあたる。
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後鳥羽院は法勝寺の小路桟敷で御覧された。これは延勝寺執行僧の増圓法印が仰せを受けて設けたものである。
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   ※六勝寺: 山城国愛宕郡 (左京区) に建てた寺名に「勝」の字を含む
六山の祈願寺 (Wiki) で法勝寺と延勝寺はその中の二つ。現在は石碑が残るのみ(地図)。
   右上画像をクリック→ 別窓で拡大表示.
全ての六勝寺 (法勝寺、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺) は院政の衰退と再三の災害と戦乱により 応仁の乱 (Wiki) 以後、つまり 1477年以後には全てが廃寺となった。
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法勝寺は承保三年 (1076) に白河天皇による六寺最初の建立で最大の規模だった。
従一位 摂政関白太政大臣の 藤原師実 (Wiki) が一族の別荘を寄進し、高さ 80mの八角九重塔が建っていたと伝わる。「桟敷があったのはこの辺か」などと想像してみよう。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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11月 4日 壬戌
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吾妻鏡
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伊勢国で鎮圧した三日平氏の乱の没収地に補任した地頭らが武力で威嚇し、伊勢神宮に納めるべき年貢米を押領しているとの訴えが届いた。これは伊勢国に散在する田畑である。元は平家の管理する地だが神宮に納める経緯は明白であるため、清原清定を奉行として先例の通りに処理するよう命令が下された。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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11月 5日 癸亥
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吾妻鏡
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子刻 (夜12時前後) 、従五位下の左馬権助平朝臣政範 (16歳、在京中) が没した。
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   ※北條政範: 時政と後妻 牧の方の間に産まれた唯一の男子で、実朝に嫁する坊門姫を迎える使者一行に
名を連ねていた。当時42歳の 義時も従五位下、時政夫妻は「後継は政範」と決めていたのだろうが、大事なところでこの病没とは、好事魔多し。
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家長が絶対的な権限を持っていた時代で 時政は幕府の最高権力者。異母弟に家督を奪われそうな義時と、継母に一族の実権を奪われそうな 政子の歯ぎしりが聞こえるようだ。
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一方の時政は実の息子と娘が父親を裏切るなんて、頭の隅にもなかっただろう。自分自身は幾多の謀略と暗殺を重ねて現在の地位を勝ち得た癖に...。
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やがて 畠山重忠が謀叛の冤罪で追討され、同族の重忠を讒訴した罪で榛谷氏と稲毛氏も討伐される。時政が考えたこの計画を義時が共有していたのは間違いないが、義時は更にその先の時政夫妻排除と娘婿の平賀朝雅追討計画まで考えていた。
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もちろん政子も義時と計画を共有していただろうし、政範の急死が義時にとって「計画の一部」だった可能性もある。邪魔者がタイミング良く死ぬなんて普通じゃ有り得ないし、そもそも「歴史の偶然」なんて 95%ぐらいは嘘だからね。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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11月 7日 乙丑
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吾妻鏡
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笠置寺の解脱上人からの使者が鎌倉に参着して申し出た。先月15日に礼拝堂が完成し無事に供養の法会を終えることができたのは将軍家の寄進によるもので、感謝を申し上げます。」との内容である。
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   ※笠置寺: 法相宗の海住山寺笠置寺、磨崖仏で知られる。数多い画像 (Wiki) の閲覧と共に 解脱上人貞慶
の詳細も Wiki で確認を。  (この項目は 4月10日の寄進依頼の条と関連している)
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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11月 9日 丁卯
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吾妻鏡
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将軍家 実朝の体調不良が平癒し、御沐浴して穢れを落とした。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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11月13日 辛未
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吾妻鏡
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北條政範が去る 5日に京都で没したとの飛脚が鎌倉に到着。政範は時政最愛の妻 牧の方の愛息である。将軍家の御台所を迎えるべく先月鎌倉を出立し11月3日に京都に入ったが、その途中で病気となり不幸な結果となった。父母の悲嘆は較べようもないほど深刻である。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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11月17日 乙亥
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吾妻鏡
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前将軍頼朝の法華堂から去る9月に失われた重宝の行方を各地に手配していたところ武蔵国洲河の地頭が盗み出した犯人を捕縛し、今日侍所別当の和田義盛邸に連行。探し当てた宝物も全て運んできた。
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   ※武蔵国洲河: 秩父両神山東麓の須川 (地図) の可能性が高い。一帯は秩父平氏の系である丹党の本領で
盗人はここで売り捌こうとしたのだろう。埼玉県の道の駅 両神温泉 薬師の湯も参考に。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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11月18日 丙子
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吾妻鏡
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法華堂重宝の御剣などが別当房に戻った。洲河の地頭は御感の仰せを受け報奨を与える意向が示された。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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11月20日 戊寅
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吾妻鏡
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故 遠江左馬助 北條政範)の従者らが京都から鎌倉に帰着し、 (政範の遺骸は) 去る 6日に東山の付近に葬ったと報告した。また同月の 4日に武蔵前司 平賀朝雅が六角東洞院 (地図) の屋敷で酒宴を催し、その席で朝雅と畠山六郎重保が口論となったが、同席した者らが仲裁して治まったとの噂が鎌倉に流れた。
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   ※東山の付近: 京の葬送の地として著名なのは化野念仏寺 (地図)
と蓮台野 (船岡山南麓の千本釈迦堂一帯、地図) と鳥辺野 (清水寺の南一帯、地図) 。元々は墓を造れない庶民が亡骸を放棄した場所だったらしい。
政範の埋葬は「東山の辺」、鳥辺野辺りだろうか。
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   ※畠山重保: 重忠の次男で生母は 北條時政の娘(政子の異母妹)。
重保の異母兄だった重秀は生母が 足立遠元の娘なので実家が格上の重保が嫡子となった。
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重保は翌 元久二年 (1205) 6月の重忠追討事件 (二俣川合戦) に先立って鎌倉で殺されている。妻の実家が婿さんを騙し討ちだぜ!
若宮大路の西側、鎌倉警察署の筋向いが重保の館跡 (地図) と伝わっている。
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右上は伝 館跡に建つ供養の宝鏡印塔。画像をクリック→ 館跡の明細へ(別窓)。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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11月26日 甲申
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吾妻鏡
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将軍家 実朝が以前から京都の絵師に命じて描かせていた 平将門の合戦の絵が今日到着した。
掃部頭入道 中原親能が手配した物で、20巻が蒔絵の箱に納められ、将軍家は特に大切に扱っている。
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   ※絵師: 頼朝が京都から呼び寄せて勝長寿院や永福寺の仏画を描かせた 藤原 (宅間) 為久は音沙汰なし
だが、鎌倉宅間流絵師として継続して画業に精を出しているのだろう。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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12月10日 戊戌
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吾妻鏡
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将軍家 実朝の御台所 (坊門信清卿の娘信子) が鎌倉に下着された。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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12月17日 甲辰
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吾妻鏡
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将軍家 実朝が前大膳大夫 大江広元朝臣の家に入御された。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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12月18日 乙巳
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吾妻鏡
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尼御台所 政子の祈願で描かせた七観音像が先日南都 (奈良) から到着、尼御台所邸で開眼供養を行なった。導師は 金剛寿福寺の住職 葉上坊栄西、願文は 源仲章朝臣が起草した。将軍家 実朝も結縁を願って来臨された。
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   ※七観音像: 観音菩薩は人々を救うため七種に変身して現れる。千手観音、馬頭観音、十一面観音、
聖観音、如意輪観音、准胝 (じゅんてい) 観音、不空羂索 (ふくうけんじゃく) 観音を差す。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久元年
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12月22日 己酉
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吾妻鏡
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(実朝の) 御台所に付き従って鎌倉に下向して来た男女数名が地頭職を拝領した。
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西暦1204年
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83代 土御門天皇
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