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元久三年 (1206年) 、4/27 に改元して建永元年
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西暦・天皇・上皇
和暦・月日・史料
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1206年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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1月 2日 甲申
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吾妻鏡
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将軍家 実朝が鶴岡八幡宮に御参り。結城朝光が御剣持ちを務めた。
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   ※年令: 源実朝 13歳、 坊門信子 18歳、 公暁 5歳、 竹御所 3歳、
北條時政 68歳 (前年9月失脚) 、 政子 47歳、 北條義時 43歳 、 北條時房 30歳 、 北條泰時 23歳、 千葉成胤 52歳、 足利義氏 17歳、 三浦義村 47歳前後、 大江広元 58歳、
後鳥羽上皇 26歳、 土御門天皇 11歳、 九条道家 14歳、
定豪 53歳、 慈円 50歳、 栄西 64歳、 法然 70歳、 親鸞 32歳、
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   (全て1/1時点の満年令)
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西暦1206年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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1月 8日 庚寅
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吾妻鏡
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御所で心経会 (般若心経を読謠する法会) を開催し将軍家も出御。順序は通例通り、導師は三位法橋 定豪
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西暦1206年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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1月12日 甲午
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吾妻鏡
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将軍家の御読書始めが行われ、相模権守 中原仲業が束帯姿で御侍読を務めた。定刻に孝経を携えて寝殿の南面に入り、将軍家が御布衣 (狩衣) で出御した。御読書始め終了後に中原仲業には鞍を置いた馬が下賜され、和田三郎朝盛がこれを曳いた。仲業は庭上に下りて拝礼した後に退出した。
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   ※侍読: 侍講に同じ、近くに侍って講義する意味。
   ※孝経: 曽子の門人が孔子の言動を伝えた十三経の一つ。孝の概略と実践の道を説いている。
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西暦1206年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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1月27日 己酉
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吾妻鏡
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将軍 頼朝の時代に拝領した土地は大罪を犯した場合でない限り没収する事はない、と定められた。
この件を差配したのは 二階堂行村である。
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西暦1206年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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2月 4日 乙卯
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吾妻鏡
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大雪である (西暦の 3月14日) 。鶴岡八幡宮の祭礼は通常通りに行われた。
夜になって将軍家 実朝が雪を見るため名越山近くまで出御され、相州 北條義時の山荘で和歌の会を催した。相模太郎泰時東重胤、内籐兵衛尉朝親が参席した。
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   ※義時の山荘: 名越近くだから北條時政が住んでいた名越邸 (前年6月23日を参照) だろう。
失脚の直後に時政の名を出すのを憚った可能性も考えられる。
名越邸は後に義時の二男 朝時が継承して本宅とし、名越流北條氏の祖となっている。
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   ※内籐朝親: 前年 9月2日に新古今和歌集稿本の書写を京都から運んだ在京御家人。詳細は当日の条で。
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西暦1206年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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2月 8日 己未
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吾妻鏡
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午刻 (正午前後) に尼御台所 政子が鶴岡八幡宮に参拝された。駿河守 大内惟義と民部大夫 二階堂行光ら数人が輿の後に従った。
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西暦1206年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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2月20日 辛未
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吾妻鏡
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後鳥羽上皇から、一日に百人の僧による仁王講を行うようにとの院宣が全国に下され、関東で実施するべき明細が鎌倉に到着した。前大膳大夫 大江広元がこれを差配する。
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   ※仁王講: 仏教における国王のあり方について述べた経典である仁王般若経を読誦する法会。
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西暦1206年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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2月22日 癸酉
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で百人の僧による仁王講と、同じく百人の僧による本地仏の法会を開催した。八幡宮の供僧らによる法会は院宣を下された中での相模国分である。
前大膳大夫 大江広元と大夫屬入道 三善康信らが宮寺における法会を差配した。
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   ※本地仏: 神と仏が並存する矛盾を正当化する理論が神仏習合思想。
「神と仏は同じ存在 (習合) 、神は仏の化身」 として辻褄を合わせた。明治初期の 神仏判然令で破綻するのだが。
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鶴岡八幡宮を例にすると 主神である 八幡神 の本地仏 (本体) は 阿弥陀如来で、「八幡神は両者が習合した仮の姿」 とする理屈、「知らぬが仏」だね。(青字は共に Wiki)
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八百万と称される日本の神に本地仏を当て嵌める膨大な作業を担当した愚か者はさぞ苦労した事だろう。
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ついでに、蛇足。情熱の歌人 与謝野晶子 (Wiki) は鎌倉大仏を次の通りに詠みあげている。
.   かまくらや 御ほとけなれど 釈迦牟尼は
      美男におはす 夏木立かな

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鎌倉大仏釈迦牟尼 (釈迦如来、Wiki) ではなく阿弥陀如来。指で輪を作るのが定型の印相で、実際は輪の形が九種類 (九印相) なのは別にしても、鎌倉の中枢施設 八幡宮の本地仏が阿弥陀如来で大仏が釈迦如来なんて有り得ない話なのだ。
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与謝野晶子が知らなかったのか、或いは知りながら敢えて字数を合わせるために釈迦牟尼を使ったのか、判らない。
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右上は北鎌倉 東慶寺の釈迦如来坐像 (年代不詳、鎌倉末期か) 。クリック→ 別窓で拡大表示。
         手の位置と指の形、上記した鎌倉大仏と比較してみよう。
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西暦1206年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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3月 2日 癸未
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吾妻鏡
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先月22日付の除目を記した書類が鎌倉に届き、将軍家 実朝は従四位下に叙された。前大膳大夫 大江広元がこれを御前に運んだ。

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   ※実朝の官位変遷: 1203年09月に 従五位下 (12歳)
1204年01月に 従五位上 (14歳)
1206年02月に 従四位下 (15歳)
1207年01月に 従四位上 (16歳)
1208年12月に 正四位下 (17歳)
1209年04月に 従三位  (18歳)
1211年01月に 正三位  (20歳)
1212年12月に 従二位  (21歳)
1213年02月に 正二位  (22歳)
1218年12月に 右大臣に昇任し、翌月27日に死没。
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   ※閑話休題: 官打ち (コトバンク) という言葉がある。「能力以上の地位に昇ると自滅する」 の意味、だ。
実朝が引き合いに出されるのだが、「官打ち」じゃなくて「菅打ち」かもね。
「官」 は実朝で 「菅」 は総理の座に昇りながらクソの役にも立たずに退陣した無能な政治屋。
選んだ政党も愚かだけど、その政権政党を支持した国民も尻ぬぐいの責任を負わされる。
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西暦1206年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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3月 3日 甲申
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮に於いて一切経の法会を催した。将軍家 実朝は廻廊に出御し、御家人らはその前庭に着座した。加藤判官光員が楼門の軒下に控えた。
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   ※一切経: 経 (釈迦の教え) と律 (僧の規律や生活の姿) と論 (律と経の解釈) の三蔵を纏めた仏教の聖典で
大蔵経に同じ。正治二年 (1200) 、建仁元年 (1201) 、建仁三年 (1203) の 3月3日 (上巳節句) にも開催しているから、通例の法会なのだろう。
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   ※上巳節句: 五節句の一つ。貴族の子女が内裏を模した飾りで遊び、無病息災を願ったのが始まり。
鎌倉時代は端午の節句と共に男女の別なし、江戸時代初期頃から「雛の節句」となった。
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西暦1206年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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3月 4日 乙酉
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吾妻鏡
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将軍家 実朝が鶴岡八幡宮に奉幣された。
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西暦1206年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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3月12日 癸巳
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吾妻鏡
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信濃国の住人桜井五郎は鷹を飼い慣らす名人である。今日は将軍の御前で鷹飼いの奥儀や故実を色々と語って自慢話を続け更に 「鵙 (百舌鳥、モズ、Wiki参照) を鷹の如く飼い慣らして鳥を獲る事もできます」 と語った。将軍家は 「その様子を見せよ」 と望んだが 「直ぐには無理ですから後日御覧に入れましょう」 と辞退した
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   ※辞退: 調子に乗ったヨタ話と思ったら翌日に話の続きがある。桜井五郎は 後白河院領の伴野荘にある
佐久郡桜井郷 (地図) を本領とした武士で、多分滋野氏の系統だと思う。
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西暦1206年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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3月13日 甲午
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吾妻鏡
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相州 北條義時が将軍に召されて御前に参上した。数刻の雑談後に将軍家が 「桜井五郎が 「鵙を使って鳥を取らせる」 と語ったため実際に見たいと言った。これは子供じみた 望みだろうか」 と質問した。
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義時はそれに答えて 「かつて 源斉頼は鷹匠として同様の技を得手にしたそうですが、それが子孫に伝わっていれば稀有な事です。虚言なら彼にとって哀れですから内々に確かめてみましょう。」 と言い終わらないうちに桜井五郎が参入した。
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紺色の直垂を着して餌袋を右腰に付け、一羽の鵙を左腕に留らせている。義時は御簾の中からこの姿を見て興味を惹かれ、「早くご覧下さい」と将軍を促して御簾を上げさせた。大官令 大江広元や問注所入道 三善康信らも集まってきた。庭に控えた桜井五郎は鵙を三度飛ばして草の中にいた雀三羽を捕らえた。
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見る者は誰もが感嘆し、桜井は「小鳥などは当たり前、雉 (キジ) が相手でも同じことです。」と語った。将軍家は縁の近くに桜井を召し、義時を介して褒美の御剣を与えた。
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   ※鷹匠の技: 斉頼の子孫が 諏訪流 (参考サイト) として技術を伝えていたらしい。桜井五郎は信濃の住人
だから斉頼の末裔として鷹匠の奥義を伝えていた可能性はある。特に諏訪地方には鷹狩の獲物を生贄として神前に捧げる神事もあり、大社との関連も推測される。
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西暦1206年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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4月 3日 甲寅
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の例祭あり。将軍 実朝が参宮された。
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西暦1206年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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4月27日 戊寅
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吾妻鏡
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今日改元あり。元久三年を改め 建永元年とした
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   ※建永に改元: 百錬抄 (公家の日記などを編纂した歴史書で成立は鎌倉時代後期) には赤斑瘡 (はしか) の
流行、一代要記 (鎌倉〜南北朝時代の年代記) は摂 九条良経兼字の次男) の急死が改元の契機、としている。兼実も翌年には死没し、良経の長男 道家が家督を継承する。
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西暦1206年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建永元年
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5月 6日 丙戌
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吾妻鏡
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伊勢神宮の祭主である従二位能隆卿が使者を派遣して次のように申し入れてきた。
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加藤左衛門尉光員は当家の家司であるが現在は鎌倉に仕える形になり、武威を振り翳して命令に従わず神領の数ヶ所を専有する状態になっている。しかも去年11月には仔細の報告もせず検非違使に任じる宣旨まで受けた。早急に罷免を求めるべきである。
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この申し入れによって相模守 北條義時大江広元朝臣、三善康信が協議を行ない次のように返答した。
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光員による神領の専有については禁止の命令を下す。また廷尉 (検非違使職) については、後鳥羽上皇の指示に従って西面に伺候しているため仙洞(院の御所) の意思であり、鎌倉が関与する範疇ではない。
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   ※従二位能隆: 大中臣家隆の三男で伊勢神宮祭主を世襲して28年間務めた。朝廷と幕府の双方と良好な
関係を保ち、寛喜二年 (1230) 4月に祭主を長男の隆宗に譲って出家引退すめ。
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   ※家司: 元々は親王や内親王家、公卿、将軍家などで家政を司る職員で「執事」に近い職責である。
平安中期以後は国の官人が権勢のある家の家司を兼任するのが普通になった。
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   ※西面: 院の御所を警護するため、第72代天皇を譲位した 白河法皇 (Wiki) が寛治年間 (1186年頃か) に
設置して詰所を御所の北側に置いた「北面の武士」が最初だった。後に追加して 後鳥羽上皇が新たに設置した直属部隊が「西面」。鎌倉の武力に対抗する目的で強化されて承久の乱 (1221年) の中核戦力になり、乱の鎮圧後は廃止された。
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西暦1206年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建永元年
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5月24日 甲辰
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吾妻鏡
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前大膳大夫 大江広元を奉行として能隆卿の申し入れ内容を 加藤光員に確認、光員は次のように答えた。
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伊勢国道前郡の政所職は、伊勢神宮祭主の恩顧を受けての決裁に従ったものです。神領を知行しているのは元々自ら開拓した土地を神社に寄進したものであり、押領ではありません。
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これによって幕府の関与は必要なしと結論づけた。
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西暦1206年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建永元年
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6月16日 丙寅
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吾妻鏡
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左金吾将軍 頼家の若君 (善哉公、後の 公暁が、鶴岡八幡宮の別当 定豪の坊から尼御台所邸に渡御され着袴の儀を行なった。将軍家 実朝も同じく入御され、相州 北條義時の息子らが給仕を務めた。
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   ※義時の息子: 長男 泰時は23歳、次男 朝時は13歳。三男 重時は 8歳だから給仕は少し無理かな。
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西暦1206年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建永元年
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6月20日 庚午
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の臨時祭があり、将軍家 実朝が臨席された。
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西暦1206年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建永元年
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6月21日 辛未
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吾妻鏡
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将軍家は御所の南庭で相撲を観覧、相模守 北條義時と大官令 大江広元朝臣朝臣らが近くに控えた。南面の御簾を上げた後に力士が庭の中央で勝負を決し、奉行は 結城朝光。以後の相撲は彼が行司を務める習いとなる。
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      一番  三浦高井太郎重茂 (杉本義宗の五男宗実の子) vs 三毛大蔵三郎 (鎮西の住人)
      二番  波多野五郎義景 vs 大籐八
      三番  広瀬四郎助弘 (相模の侍) vs 石井次郎 (義盛近親の郎党)
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褒賞は予め廊下の板戸横に準備した鷹の羽と染めた革と砂金などで、相撲が終ってから負けて退場した力士も呼び戻して勝敗に関係なく双方の力士に下賜された。
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西暦1206年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建永元年
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7月 1日 庚辰
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吾妻鏡
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(元久元年 (1204) 3月の) 伊勢平氏蜂起の際に 平賀朝雅が大将軍として近国の御家人を招集した。 不参加者の所領は没収したが、不参加の事情説明が妥当だった分として五條蔵人長雅らの所領は返還された。
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西暦1206年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建永元年
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7月 3日 壬午
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吾妻鏡
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三位法橋定暁が鶴岡八幡宮別当に補任され今日始めて神殿に拝礼した。その後に御所に参上して謝礼を述べ、大江広元がこれを取り次いだ。
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   ※八幡宮別当: 鶴岡初代別当は 圓暁、正治二年 (1200) 〜建永元年 (1206) は尊暁 (圓暁の弟で公暁の師)。
建保五年 (1217) 6月までは定暁、建保七年 (1219) の1月までは公暁、その後は慶幸 (ここまでは圓城寺 (三井寺) 系) 、その後は 定豪 (東寺系) と続く。
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西暦1206年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建永元年
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8月15日 甲子
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で放生会を開催、舞楽の奉納などは通例の通り。将軍家 実朝が臨席された。
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西暦1206年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建永元年
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8月16日 乙丑
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吾妻鏡
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(例祭に) 将軍家 実朝が御臨席。流鏑馬の最中に暴風雨、天気の回復を待ったため一部が夜になった。
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西暦1206年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建永元年
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7月〜10月の空白
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吾妻鏡
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この年の記事が全般的に少ないのに加えて、7月4日〜8月14日までの45日間 と 8月17日から10月19日までの 62日間がごっそり空白になっている。何か隠蔽すべき事件でもあったか?
明月記 (Wiki) などには比叡山と三井寺の紛争などが散見されるのだが...
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長期間 吾妻鏡の隠蔽と改竄に付き合っていたため、疑り深い性格になってしまったかも知れないね。
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西暦1206年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建永元年
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10月20日 丁卯
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吾妻鏡
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左金吾将軍 頼家の息子 (善哉公、後の公暁) が尼御台所 政子の仰せに従い将軍家 実朝の猶子として初めて御所に入られた。乳母夫の 三浦平六兵衛尉義村が (将軍家に) 贈与の品々を献じた。
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   ※猶子: 一般的には相続を目的としない養子格で、昇進や婚姻の便宜や同族としての関係強化を目的と
するケースが多い。ただし相続を伴ったり養子と全く同じ意味を持つ場合もあるようだ。
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西暦1206年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建永元年
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10月24日 辛未
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吾妻鏡
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相模守 北條義時の二男 (13歳) が御所に於いて元服、次郎朝時を名乗った。
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西暦1206年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建永元年
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11月18日 乙未
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吾妻鏡
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将軍お気に入りの近習である 東平太重胤が下総国から鎌倉に戻って来た。突然鎌倉を離れて所領 (現在の千葉県香取郡東庄町、地図) に下向したまま数ヶ月も過ぎた。将軍は詠んだ和歌を送って帰還を促したが更に遅参したため怒りを招き、蟄居を余儀なくされていたものである。
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西暦1206年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建永元年
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11月20日 丁酉
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吾妻鏡
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佐々木五郎義清が将軍家 実朝が外出する際の諸事差配を担当するよう命じられた。
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西暦1206年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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建永元年
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12月23日 己巳
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吾妻鏡
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東重胤が相模守 北條義時邸を訪れ、将軍家 実朝の怒りを受けている事について相談した。義時は「宮仕えをする際には良く起きること、和歌を詠んで献じれば御機嫌を直して頂けるだろう。」と答え、重胤はその場で筆を執り一首を詠んだ。これに感心した義時は重胤を伴って御所に赴き、門外に待たせて中に入った。
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将軍家はちょうど南面 (公務の場) に出ていたため義時は重胤の詠んだ和歌を御前に置き「重胤が怒りを受けたことを嘆き悲しんでおります。」と言上した。将軍家は和歌を三度読み返して重胤を御前に召し、田舎の冬の様子や枯野の眺めや鷹狩りや雪の翌朝などについての話を求めた。
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数時間後に義時は退出した。重胤は庭に降りて見送りながら手を合わせ「ご配慮を頂き許しを得ることができました。子々孫々まで御恩を忘れず御一門に従います。」と誓った。
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   ※重胤の子孫: 嫡子の胤行は承久の乱での戦功で美濃国山田荘
(郡上市) の地頭となって嫡子行氏が土着、子孫は在京の御家人として六波羅に仕えている。
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越前街道の長良川支流に美濃東氏の館跡が残っている。ここ、千葉氏傍系の東氏とは知らずに郡上八幡見物のついでに足を延ばしてみた。
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静かで落ち着ける優雅な雰囲気の庭園だった。
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右は「東氏館の庭園跡」の一枚。興味があれば画像をクリックし「道の駅 古今伝授の里やまと」の「近隣の見所」をご覧あれ(別窓)。
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西暦1206年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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後鳥羽上皇
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