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建永二年 (1207年) 、10/25 に改元して承元元年
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西暦・天皇・上皇
和暦・月日・史料
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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1月 3日 己卯
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吾妻鏡
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将軍家(実朝)が鶴岡八幡宮に参詣、ただし廻廊から神殿を御遙拝し神馬一疋を寄進した。
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   ※回廊から遙拝: 元は石段下にあった八幡宮本殿は建久二年 (1191) 3月4日の大火で焼け落ち、直ちに
現在の位置に再建された。回廊は石段の下に再建した若宮から流鏑馬道にかけて廻らされていたから本殿までは100mほど離れている。「回廊からの遥拝」には宗教的な意味があったのだろうと思うが詳細は判らない。
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   ※年令: 源実朝 14歳、 坊門信子 19歳、 公暁 6歳、 竹御所 4歳、
北條時政 69歳 (失脚追放) 、 政子 48歳、 北條義時 44歳 、 北條時房 31歳 、 北條泰時 24歳、
千葉成胤 53歳、 足利義氏 18歳、 三浦義村 48歳前後、 大江広元 59歳、
後鳥羽上皇 27歳、 土御門天皇 12歳、 九条良経 前年没 (享年37) 、 九条道家 15歳、
定豪 54歳、 慈円 51歳、 栄西 65歳、 法然 71歳、 親鸞 33歳、   (全て1/1時点の満年令)
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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1月 5日 辛亥
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吾妻鏡
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将軍家 (実朝、満14歳3ヶ月)が従四位上に昇叙となった。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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1月 9日 乙酉
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吾妻鏡
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将軍家の御台所 坊門信子が女官と共に牛車で鶴岡八幡宮に御参拝し上宮 (現在の本殿) で法華経供養の法会に参席された。 導師は別当の法橋定暁、多数の供僧が群参した。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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1月18日 甲午
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吾妻鏡
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将軍家 実朝が二所詣での精進潔斎を始め、潮に浴して身を清めるため由比ヶ浜に出御された。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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1月22日 丙申
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吾妻鏡
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卯刻 (朝6時前後) に将軍家が二所詣に出発された。相模守 北條義時、武蔵守 北條時房、大膳大夫 大江広元
九郎右衛門尉 足立景盛らが供として従った。
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   ※二所詣: 記録に残る頼朝二所詣は建久二年 (1191) 2月4日が
最初。鶴岡八幡宮に参拝してから伊豆山走湯権現→ 三嶋大社→ 箱根権現→ 鎌倉に還御するのが予定した順路で、実質的には三所詣だった。
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伊豆山への道筋にある石橋山の古戦場に立ち寄った頼朝は ここで討ち死にした 佐奈田与一と郎党豊三の墓に詣でて苦しかった時代を思い出し涙を流した。
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これを見た先達の僧が不吉であると主張し、次回からは逆のコースを辿るようになった。今回の実朝も箱根権現を経路の最初に設定している。
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右は箱根神社三の鳥居と、拝殿に続く石段。 クリック→ 山岳信仰の聖地 箱根権現へ (別窓)
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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1月27日 辛丑
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吾妻鏡
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将軍家は申刻 (16時前後) に二所詣でを終えて鎌倉に還御された。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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2月11日 戊午
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の神人である祝部 (下級神職) である清太国次の座衆 (下役) 上総国姉前社の住人兼祐を鶴岡八幡宮の神人に補任した。神威を利用して徒党を組んだり無法や乱行をしないよう、図書允 清原清定を介して注意が与えられた。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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2月18日 乙丑
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皇帝紀抄
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専修念仏が原因となり、源空上人 (法念房、法然) が土佐国に配流された
最近は門弟や帰依する者が増えて世間に満ちている。 (門弟が) 念仏の法会を利用して貴賎や人妻や然るべき身分の女と密通し、法にも従っていない。このため上人らを捕縛し、女人を含む者にも (それなりの) 沙汰が下された。専修念仏については様々の宗派からの苦情が提起されていたための結果である。
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   ※専修念仏: 法然が説いた教理は単純である。一心に専修念仏を唱えれば
救われる、念仏を唱える他は何も必要ないというもの。
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既製の権威も論理も道徳も根本的に否定していたから既得権益に無縁な民衆の圧倒的な支持を得ると同時に、権力と癒着していた既存仏教集団の激しい反発を招く結果となる。
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   ※法然流罪: 直接の原因は 後鳥羽上皇の熊野詣 (元久二年、1205年) の際
に院の女房らが法然門下の遵西と住蓮らが開いた念仏法会に参加し何人か出家してしまったため、激怒した上皇が「念仏停止」の断を下した結果、とされている。
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実際には密通云々ではなく、念仏宗の興隆を妬んだ他宗派の歪曲した訴えが火に油を注いだらしい。また処分は布教禁止令ではなく、弟子の罪科を法然が背負ったとの見方もある。
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  右上は 知恩院 (公式サイト) 収蔵の国宝 法然上人絵伝から、法然上人像 (鎌倉末期の作)
  更に詳細は 法然浄土宗 (共に Wiki) も参照されたし。
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   ※皇帝紀抄: 鎌倉時代中期成立の歴史書で著者不詳、朝廷関係者か。
密通云々に関しては、講話が長時間に及んだ事から派生した中傷が発端と伝わっている。
まぁ古今東西を問わず不謹慎な連中はいるから多少の脱線はあっただろうけど。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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2月18日 乙丑
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皇帝紀抄
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源空上人 (法念 (法然) 房を名乗る) が土佐の国に配流となった。専修念仏の布教に関する対処である。最近は門弟が急増し貴賤を問わず人妻などと密通し法を守ろうとしない。拘禁や去勢、女人にも然るべき措置をしている。多くの宗派が苦情を申し立てた結果である。
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   ※皇帝紀抄: 鎌倉時代中期成立の歴史書で著者不詳、朝廷関係者か。法然浄土宗 (共に Wiki) も参照。
密通云々に関しては、講話が長時間に及んだ事から派生した中傷が発端と伝わっている。
まぁ古今東西を問わず不謹慎な連中はいるから多少の脱線はあっただろうけど。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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2月20日 丁卯
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吾妻鏡
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北條時房朝臣が先月14日に武蔵守に任じられた。国の運営については故 平賀義信入道の前例に従って処理するよう仰せがあった。
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   ※平賀義信: 吾妻鏡に載った記録は、建仁三年 (1203) 10月に実朝元服の際に加冠役を務めたのが最後に
最後になった。この時も「前武蔵守」だから、既に次男の 朝雅と交替して一線を退いていたのだろう。朝雅が討たれたのは元久二年( (1205) 8月だから義信の死没時期と重なっており、少し気になるところだ。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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3月 1日 丙子
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吾妻鏡
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北の御壷に桜や梅などの樹を多く植えた。永福寺からの移植である。
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   ※御壷: 坪庭との解釈もあるが、むしろ中庭に近い存在だろう。永福寺の竣工は建久三年 (1192) の末、
落成供養の法会が済んでそろそろ15年が過ぎる。光陰、矢の如し。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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3月 3日 丙子
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吾妻鏡
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北の中庭で闘鶏の会が催された。北條時房右近将監源親広結城朝光和田義盛足立遠元安達景盛境常秀和田常盛三浦義村長沼宗政らが同席した。
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   ※闘鶏: 平安時代から主として占いなどに利用していた。宮中では「鶏合 (とりあわせ) 」として3月3日
に開いていたらしい。「平家物語巻十一の七」で熊野別当 湛増が紅白の鶏を戦わせて源氏に合流を決めた話は (嘘だか真実だか判らないけど) 有名だ。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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3月10日 乙酉
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吾妻鏡
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長沼五郎宗政に伯楽に関する諸事を差配するよう命令が下された。
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   ※伯楽: 原典は中国で天馬を守る星の名、転じて馬の良否を見分け病気を直す者、更に転じて人柄を見
抜き才能を引き出す者。宗政の場合は御所の馬を管理する部署の人事管理、ほどの意味。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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3月20日 壬辰
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吾妻鏡
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「武蔵国の未開墾地域の開発に務めよ」との指示を地頭に与えるよう (将軍家から) 北條時房に仰せがあった。
大江広元がこれを差配する。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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4月 5日 庚戌
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史 料
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夕刻に (前の) 入道関白 九条兼実が死去した。
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   ※九条兼実: 土御門 (源) 通親との権力闘争、後鳥羽上皇との対立、娘の中宮 任子が男子を産まなかった
こと、娘の入内を望んだ 頼朝の違背などにより建久七年 (1196) 11月に失脚した。志は嫡子 良経と嫡孫の九条道家が継ぐ。晩年は専修念仏に救いを求め、法然に帰依していた。
律儀で筋を通す、政治家の中では私の好きなタイプだが、功成り名を遂げたとは言えない一生だったのが惜しまれる。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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4月13日 戊午
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吾妻鏡
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戌刻 (20時前後) に将軍家 実朝が体調不良に陥った。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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4月16日 辛酉
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吾妻鏡
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将軍家 実朝の病気が治癒せず続いているため相模守 北條義時邸に於いて祈祷を行なった。鶴岡八幡宮の供僧らが正座して終日の大般若経転読を行なった。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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4月20日 乙丑
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吾妻鏡
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将軍家 実朝の体調不良が治癒し、沐浴して穢 (けがれ) を落とした。
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   ※病弱: 両親 (頼朝 政子) の体質は問題なさそうなのに、大姫乙姫実朝は虚弱体質だよね。
頼家も心身の資質に問題があったみたいだし、祈祷に頼るのも判るような気がする。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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5月 5日 庚辰
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で節句の祭礼あり。将軍家 実朝が御参宮し参拝された。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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6月 2日 丙午
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吾妻鏡
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民部入道蓮景 (天野遠景) が嘆願書を提出した。まず相模守 北條義時に渡した内容は恩沢の要望である。
治承四年 (1180) 8月の 山木合戦から以降に挙げた数々の勲功を11ヶ條の述懐として載せている。
大官令 大江広元がこの嘆願書を取り次いだ。
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   ※遠景の零落: 頼朝の時代に挙げた勲功で得た所領の大部分は
懲罰や没収で失なった、とする説がある。
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子孫が相続した所領の大部分は遠景の恩賞ではなく嫡子 政景が承久の乱 (1221年) などの勲功で得た土地だったと伝わるから、政景とも円満な関係ではなかった可能性もある。
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比企能員謀殺などで北條氏に貢献したのにね。老兵は死なず、ただ消え去るのみか。
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  右は狩野川西岸に残る遠景一族の墓所。
   クリック→ 天野遠景の本領 (別窓) へ
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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6月16日 庚申
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吾妻鏡
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例年と異なる冷夏で、3月か4月を思わせる気候が貴賤を問わず多くの人々が病で苦しんでいる。
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   ※冷夏: 宮沢賢治が「雨ニモマケズ....」に書いた「寒さの夏はオロオロ歩き」は夏に吹く冷たい東風
(東北では「やませ」と呼ぶ) に怯える農民の心を描いている。稲が育たない、飢饉の予感だ。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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6月22日 丙寅
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吾妻鏡
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坊門信清亜相 (大納言) からの使者が到着し仁和寺御室の令旨を届けた。内容は次の通り。
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紀伊国の住民が高野山 (金剛峯寺、公式サイト) に侵入し狩猟などを行なって寺領を犯している。
これは和泉国と紀伊国の守護代による犯行なので、関東から命令を下し狼藉を停止させて欲しいと寺門 (三井寺) を介しての愁訴があった。仁和寺御室が金剛峯寺の所司 (事務職の僧) の書状を添えて私に依頼してきたため、その内容をお伝えする。
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   ※仁和寺御室: 真言宗御室派の総本山 仁和寺 (公式サイト) 門跡を差す。仁和寺は宇陀天皇 (法皇) 創建の
門跡寺院で今の御室 (門跡、住職は皇族) は 後白河法皇の第二皇子 守覚法親王。
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   ※門跡 (もんぜき) : 皇族または高位の公家の子女が務める特定の寺院や住職を差す名称。
鎌倉時代以後は位階の高い寺格を門跡寺院と呼ぶようになった。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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6月24日 丙戌
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吾妻鏡
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御室からの申し入れのあった 坊門信清大納言を経由した高野山の訴えについて、御所で協議を行なった。
和泉国と紀伊国の守護は 佐原十郎左衛門尉義連が務め、義連が死没してからは後任を決めていなかった。
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この両国は 後鳥羽上皇の熊野詣に伴う驛家の雑務以外には特に業務がないので守護を置く必要がない。従って仙洞 (院の御所) の管理に委ねることに決裁した。義連の代官は直ちに引き上げさせるよう、命令書を掃部入道寂忍 (中原親能) に送付する。大江広元がこれを差配する。
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   ※義連の死没: 系図により「建久三年 (1192) に75歳で死去」から「承久三年 (1221) に85歳で死没まで
諸説ある。次兄 義澄が大治二年 (1127) 誕生だから 共に没年令の合理性を欠いており、蘆名系図の「建仁三年 (1203) 5月に78歳で死去」が信頼できそうだ。とすると、和泉国と紀伊国は三年間も守護不在のまま代官に管理を任せていたことになる。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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6月29日 癸酉
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吾妻鏡
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陰陽師の左京亮維範が京都から鎌倉に入った。祈祷を命じるため特に呼び寄せた人物である。
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   ※左京亮維範: 安倍晴明の傍流と思われるが詳細は判らない。この時期の鎌倉には御多分に漏れず京都
で然るべき地位を得られなかった祈祷師や絵師などが新天地を求めて鎌倉に下向した例が多かったと推測される。時代が変わっても人の思いは同じ、なんだろうね。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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7月14日 戊子
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吾妻鏡
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皆既月食があり、明確に観ることができた。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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7 月19日 癸巳
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吾妻鏡
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午未 (正午前後) の強風により御所の西棟が倒壊し、下働きの女二人が下敷きになって死んだ。
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   ※7月19日: 西暦の8月14日に該当する。台風だろうか。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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7月23日 壬辰
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吾妻鏡
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掃部入道寂忍 (中原親能) の使者が鎌倉に到着して報告、内容は次の通り。
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和泉国と紀伊国の守護代については鎌倉の指示に従い、去る 9日に参上せよと伝えました。同様に、13日にはその内容を 坊門信清殿に言上しております。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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8月15日 戊午
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で放生会。将軍家 実朝が御所を出発する間際になって随兵の中に「支障があり、参加を辞退する」と申し出た者がいた。交替できる武士を手配して出発が遅れ、結果として神事の混乱を招いてしまった。
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これは出御を担当する奉行を決めていなかったのが原因なので、直ちに民部大夫 二階堂行光を呼び、今後は御所での行事に際しての供奉人の名簿などは間違いが起きないように沙汰せよと強く指示を行なった。
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出御が申刻 (16時前後) にずれ込んだため舞楽などの奉納は夜になり、松明を灯しての儀式になった。将軍家は全ての行事が終わる前に還御された。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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8月16日 己未
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吾妻鏡
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(昨日に続く例祭に) 将軍家が御参宮、流鏑馬は通例の通り。昨日と今日の御剣持ちは 結城朝光が任じた。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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8月17日 庚申
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吾妻鏡
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将軍家が放生会に出御される際に支障を申し出た者について 相模守 北條義時、武蔵守 北條時房大江広元朝臣、三善康信二階堂行光が集まって協議した。調べたところ或る者は服喪、或る者は体調不良の旨を答えたが、随兵の中で吾妻四郎助光だけは辞退の理由を申し述べなかったため、行光を介して詰問した。
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「吾妻助光はそれ程の大名ではないが 昔から仕えていた勇者として随兵に加えた。名誉とは考えないのか。間際になって辞退した所存は何か」、と。
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「晴れがましい行事のために用意した鎧が鼠のため損傷し、あわてて支障ありと申し出てしまいました。」と助光が答え、行光が重ねて指摘した。
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「用意した鎧が新しく誂えたものならば実に好ましくない。随兵は華やかさではなく警護が任務である。
だからこそ右大将軍 (頼朝) の時代から、譜代の武士は必ず随兵の任を務めるよう定められてきた。武勇の者なら甲冑一領は所有している筈なのに、なぜ父祖から伝わった鎧を使わず新たに縅した鎧を使うのか。ましてや恒例の神事の度に新調するのは倹約の心掛けにも背く。この趣旨を守るように。」
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助光は御所への出仕停止処分を受けた。
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   ※吾妻助光: 藤原秀郷→ 次男千常→ 文脩→ 次男兼光→ 次男兼助 (吾妻権守)→ 兼成 (吾妻権守) → 助亮
→ 助光、と続き、吾妻郡 (群馬県北西部の中之条町一帯) が本拠。系譜は大田氏や下川辺氏に近い。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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9月24日 丁酉
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吾妻鏡
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掃部頭入道寂忍 (中原親能) が京都から鎌倉に参着、近江国の住人磐五家次を伴っている。これは伴四郎兼仗祐兼の子孫で、去る元久元年 (1204) に追討された伊勢平氏 富田三郎基度の娘聟である。武力を振るって謀叛を計画し、また各地の道路で行き交う人々を困らせていた。
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去る建仁三年 (1203) に比叡山の堂衆による蜂起も家次の企みから勃発した。その際にも捕らえようとしたが逃亡して行方不明となり、五日に白河の付近で捕獲したものである。
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   ※磐五家次: 近江国甲賀郡 (現在の甲賀市水口町柏木、地図) にあった伊勢神宮の柏木御厨を本拠にして
いた柏木五郎家次。柏木は元々は 源 義光の所領で、園城寺 (三井寺) の支院を建てて末子の僧 覚義に住持させ、伊勢神宮に寄進したとの経緯がある。
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この覚義阿闍梨は後に大蔵館に入って 帯刀先生 義賢と接点を持ち、更に甲斐市河荘に土着して御崎明神 (現在の表門神社) の聟となって平塩寺の繁栄に寄与している。
義光と甲斐源氏の繋がりを示す一端だが、この覚義も興味を惹かれるキャラの一人だ。
大蔵館 および 市河荘 を参照されたし。
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   ※富田基度: 現在の四日市を本拠とした武士。元久元年 (1204) 4月21日に伊勢国関宿近くで討伐された。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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10月 2日 甲辰
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吾妻鏡
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囚人の磐五家次を取り調べた。隠さずに全てを白状し処罰には異論を挟まぬ、と。厳罰に処する事になる。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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10月 8日 庚戌
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吾妻鏡
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夜に入り、強風に煽られて若宮大路の家屋が焼亡した。火の粉が飛び、被害は数町に及んだ。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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10月25日 丁卯
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史 料
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今日改元あり。建永二年を改め、承元元年とした
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   ※建永を改元: 三合 (金星と木星と火星が重なり合うこと) 、および疱瘡の流行が理由との説あり。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元元年
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10月29日 辛未
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吾妻鏡
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掃部頭入道寂忍 (中原親能) が京都に帰った。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元元年
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11月 5日 丙子
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吾妻鏡
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改元の詔書が鎌倉に到着、先月25日に建永二年を改めて承元元年。問注所入道 三善康信が御前に提出した。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元元年
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11月 8日 己卯
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で御神楽の奉納あり。将軍家 実朝が御参宮された。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元元年
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11月17日 戊子
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吾妻鏡
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伊勢国木幡村は伊勢平氏富田三郎基度によって領家に納めるべき年貢を押領され続けていた。彼の滅亡後は幕府に没収されだが補任した地頭が支配を続け、領家の女房 (管理に任じる女官か) が困惑し嘆いていた。
大夫屬入道 三善康信を奉行とし、今日その地頭職を停止して元通り領家の管理下に移すよう仰せがあった。
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   ※木幡村: 伊勢神宮の治田御厨 (現在の四日市市大治田、地図) 。この御厨は文治三年 (1187) の6月29日
畠山重忠の代官がトラブルを起こした沼田御厨 (旧 飯野郡で、ほぼ松阪市) と同一の可能性を指摘する説もある。大治田は鈴鹿越え、沼田は伊賀街道に近い。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元元年
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11月19日 庚寅
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吾妻鏡
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遠州禅門 北條時政が伊豆国 願成就院の南に塔婆を建立した。これは時政が宿願としていたもので、今日落慶供養を行なった。本尊は大日五仏の尊容である。
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   ※塔婆: 現代の卒塔婆ではなくこの場合は寺社の塔を差す。
願成就院の南塔は現在の山門の約50m南にある。敷地は概ね確認されているが堂塔の正確な構造は不明。五重塔か三重塔か、或いは多宝塔かも判らない史料もない。
個人的には多宝塔じゃないかな、と思うけれど。
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   ※大日五仏: 真言密教で大日如来の仏徳から現れる四仏を差す。
金剛界は大日、阿閦 、宝生 、阿弥陀、上空成就の五如来で 胎蔵界は大日、宝幢、開敷華 王、阿弥陀、 天鼓雷音の五如来、五智如来とも称する。
当時の寺は堂塔毎に個別の本尊を祀る習慣だった。
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右上は南塔の礎石部分。  画像をクリック→ 願成就院の詳細へ (拡大を含め別窓で)
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元元年
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12月 1日 壬寅
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吾妻鏡
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将軍家 実朝の祈願により鶴岡八幡宮で供僧 25人による終日の大般若経転読を行なった。
布施は一人当り上絹一疋 (二反) 、民部大夫 二階堂行光がこれを差配した。右京進 中原仲業が奉行である。
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   ※大般若経転読: 以前にも掲載してあるが、説明よりも 現物の動画 (Wiki) を見る方が早い。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元元年
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12月 3日 甲辰
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吾妻鏡
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小雪が舞う中、御所に於いて将軍家 実朝が出御されて酒宴、相模守 北條義時、大官令 大江広元が同席した。その時に一羽の青鷺が進物所に入り、更に寝殿の屋根に止まって動かなかった。
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将軍家が これを気にして射落とすよう命じたが適当な射手が御所に見当たらず、義時が「吾妻四郎助光が将軍家の怒りを受けた事を嘆き訴えたいと願って御所近くにおります。呼びましょうか」と提案して許された。
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急いで参上した助光は庭に降りる階段の影から引目の矢を引き絞って矢を放ち、外したように見えたが青鷺は鳴き騒ぎながら庭に落ち、助光が鳥を御前に運んだ。左眼から少し出血したが命に関わる如き傷ではない。
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助光は「極めて強い鷹の羽を使った矢羽根が鳥の眼をかすめて飛びました、狙った通りです。」と報告した。
生きたまま射落としたことに将軍家は感嘆し、元通り近くに仕えるよう命じて御剣を下賜した。
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   ※吾妻助光: 放生会の随兵役を欠席したため8月17日に出仕停止
停止の処分を受けていた武士。
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   ※進物所: 別名を「たまいどころ」、貴人の家で軽い食事の準備や
食事の温め直しなどの作業をする場所。
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   ※引目の矢: 音を発する鏑矢の一種で穴が蟇蛙 (ヒキガエル) の目
に似ている事からの呼び名。今回は鏃 (やじり) を外して使っている。
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右画像は青鷺。南熱海に住んでいた頃、散歩道の小川で何回も顔を合わせた。いつも一羽だけで寂しそうな奴だったが...健在だろうか。 (拡大画像なし)
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2025年
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6月17日
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晴耕雨読
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数日前に、文字通り寸暇を惜しんで 庭の梅の実を採取した。梅の樹は三本あって、一本はかなり老木で花は多少咲くのだが結実しない
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<もう一本はプラムの樹の邪魔になるので去年強めに選定したら臍を曲げたらしく、今年は殆ど開花しなかった。そして最後の樹が表通りに面した一本で、今年は花も実も称賛に値するほど見事だった。
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すぐ下ではブルーベリーが収穫時期なのでハシゴを掛ける場所が狭く、高枝切り鋏を併用しながら二日を費やした収穫はなんと合計 20数kg!
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近所の知り合いに頼まれて 12kgを 1,200円で譲り、残った梅は全て焼酎に漬け込んだ。結果は4リットル瓶×3本と、2リットル瓶×4本、25度の焼酎は3本半で、2リットル瓶の方はサトウキビ糖を使ってみた。熟成したら味のレポートを書く予定。
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熱海で漬けた分 (つまり4年熟成もの) は奥方と彼女の友人が概ね飲み干して、これはマニュアル通り梅の実と氷砂糖を同量にしたのだが、やや甘みが強すぎた。今年は砂糖の量を80%に減らしたからどんな結果になるか。どうせ大部分は奥方たちの食前酒だか食後酒だかに消えてしまうのだろうけど。
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  右上は漬け込み前の梅 (ごく一部) のスナップ。 クリック→ 別窓で拡大表示
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園芸日誌を整理して 2025年10月の情報を載せました。左目次の 晴耕雨読 園芸日誌 でどうぞ。
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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吾妻鏡
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記事
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西暦1207年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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元久三年
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吾妻鏡
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記事
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