
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 1月 6日 丙子 . 吾妻鏡 |
. . . ※年令: 源実朝 15歳、 坊門信子 (実朝の正室) 20歳、 公暁 7歳、 竹御所 (頼家の娘、後の四代将軍頼経の 正室) 5歳、 .北條時政 70歳 (既に失脚) 、 政子 49歳、 北條義時 45歳 、 北條時房 32歳 、 北條泰時 25歳、 千葉成胤 54歳、 足利義氏 19歳、 三浦義村 49歳前後、 大江広元 60歳、 後鳥羽上皇 28歳、 土御門天皇 13歳、 九条良経 前々年没 、 九条道家 16歳、 藤原定家 45歳、 定豪 55歳、 慈円 52歳、 栄西 66歳、 法然 72歳、 親鸞 34歳、 . (全て1/1時点の満年令) |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 1月11日 辛巳 . 吾妻鏡 |
. . . ※体調不良: 実朝 (満15歳3ヶ月) は前年12月3日の酒宴には出席しており、年末前後の疱瘡罹病らしい。 回復はしたが、病気の痕跡を恥じて以後三年は八幡宮参拝を避けている (次の出席は承元五年 (1211) 閏1月7日) 。子供が出来なかったのも疱瘡の後遺症だろうか。
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. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 1月16日 丙戌 . 吾妻鏡 |
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午刻 (正午前後) に問註所入道 三善康信の名越邸が全焼した。
.. 康信は家の背後の山裾に書庫を建てて将軍家に関わる書類や各種の記録類、散位倫兼※の日記など先祖から伝わった文書を保管していたが、これらは全て灰塵に帰した。善信はこれを聞いて悲しみのあまり涙を流して茫然自失、人々も見舞いに訪れた。 .
※散位倫兼: 康信は元々は朝廷で太政官の書記官を世襲していた
下級貴族。倫兼はそれほど遠くない先祖の一人だと思うが、系図には見当たらない。 .焼失した書類が現存していたら、素晴らしい史料になっていただろうにねぇ...。 ※名越: 北側は現在の大町三丁目~六丁目、東は小坪七丁目で、 南は材木座四丁目 (弁ヶ谷、推定千葉常胤邸と 時政の名越邸があった) も含まれていた。 .. 新編鎌倉志 (水戸光圀 (共に Wiki) の指示で編纂された17世紀末の地誌) には大町の 安養院を「名越の入口である」と表示している。 . 右は名越地区の地図(クリック→ 別窓で拡大表示)。 資料を付け合せながら位置を推定するのって結構楽しい。 |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 2月 3日 癸卯 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.. 鶴岡八幡宮の御神楽の奉納があった。将軍家 実朝は 疱瘡、天然痘 (Wiki) ※のため出御されず、前大膳大夫 大江広元朝臣が使者として代参し、御台所 坊門信子も参宮された。 . ※疱瘡: 百錬抄 (Wiki) は「疱瘡の流行が改元 (建永→ 承元 ) の契機」と書いている。深刻な流行だった。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 2月10日 庚戌 . 吾妻鏡 |
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御疱瘡が将軍家 実朝の心身を頗る悩まし、近国から御家人が鎌倉に群参※している。 .. ※御家人群参: 普通の判断力があれば、普通は「前の将軍 頼家毒殺未遂の二の舞か」と考えるだろう。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 2月29日 己巳 . 吾妻鏡 |
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将軍家 実朝の病気が平癒し、沐浴して病の穢 (けがれ) を落とした。
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. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 3月 2日 辛未 . 吾妻鏡 |
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. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 3月 3日 壬申 . 吾妻鏡 |
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. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 4月 2日 辛丑 . 吾妻鏡 |
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. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 4月23日 癸亥 . 吾妻鏡 |
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検非違使判官 小野大夫義成が京都で伝染病 (?) を患って獲鱗 (臨終が近い) との噂が鎌倉に届き、親しい者たちが京都を目指し騎馬で出発した。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 4月25日 乙丑 . 吾妻鏡 |
. . . ※神宮寺: 神仏習合思想に依拠し、神社に付属して設けられた仏教寺院。神護寺、宮寺など様々な呼称 があり、その中で別当寺は神社を含んだ管轄権を持っていた場合と考えられている。 .. ちなみに明治初年の神仏分離 (正確には神仏判然令) によって多くの神宮寺が廃絶し、それに伴って貴重な仏像や仏具が流出して失われた。廃絶を余儀なくされた理由の一つには、神宮寺が檀家を持たず運営の原資を神社と権力の補助に依存していた事が挙げられる。 |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 4月27日 丁卯 . 吾妻鏡 |
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前亜相 (大納言) 坊門信清の使者が鎌倉に到着、来る 5月の 後鳥羽上皇の南山御幸 (熊野詣) ※に供奉するため龍蹄 (大型の駿馬) を手配して欲しい、との申し入れである。 .. また、以前から噂が先行していた仙洞での蹴鞠の会が、去る13日に大炊御門 (太相国 (太政大臣) 藤原頼実) 邸で無事に済んだこと、南庭に新築した屋敷を御所としたこと、その東に公卿や殿上人の仮屋を建てたことなどが述べてあった。 . 更に按察卿 (按察は蹴聖と称された 藤原成通 (Wiki) 卿の子息 (養子) で同じく蹴鞠の名人 泰通) が上皇に召されて出席された。蹴鞠の選手は北面や西面の武者に至るまで褒美として金銀が与えられた、と。 .
※熊野御幸: 熊野速玉大社に歴代皇族の御幸記録を彫った石碑が
建てられている (揮毫は入江元侍従長) 。 .. 回数のトップは 後白河法皇の 33回で、後鳥羽上皇は 29回、もし 41歳で承久の乱 (1221年) を起こさなかったらダントツの首位に就いていただろうね。 . 41歳で29回というのも凄い記録だけど、好きにさせたら40回に届いた可能性もあるから恐ろしい。 . 画像をクリック→ 別窓で拡大表示。 . 熊野三山巡拝レポート も、お口汚しにどうぞ |
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当時の陰暦では季節とのギャップ調節のために3~4年に一度閏 (うるう) 月が入る (ここでは4月の次が閏4月)。西暦と陰暦には一ヶ月前後のズレがある事にも留意が必要で、例えば頼朝が挙兵した治承四年8月4日は西暦では8月26日になる。 . | ||
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 閏4月 2日 辛未 . 吾妻鏡 |
. . . ※伊豆国狩野山: 現在は狩野山の名称はないが、修禅寺付近の中流から上流域 (地図) にかけての支流に 沿った山林の総称。大見川 (狩野川上流部) の更に上流など数ヶ所に「筏場」の地名が残る。川を塞き止めてダムを造り、材木を貯めてから一気に流した名残である。 .「堰を切ったような」の語源、だと思う。 |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 閏4月 3日 壬申 . 吾妻鏡 |
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防鴨河使※で検非違使判官、従五位下の左衛門少尉 小野大夫義成 (在京の御家人) が没した。 .. ※防鴨河使: 令外官 (律令制に規定のない官職) の一つ。鴨川 決壊の際に堤防修復に任じた臨時の職。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 閏4月11日 庚辰 . 吾妻鏡 |
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将軍家 実朝が突然の発病。
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. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 閏4月24日 癸巳 . 吾妻鏡 |
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将軍家 実朝の病が平癒し、初めての御沐浴があった。
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. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 閏4月25日 甲午 . 吾妻鏡 |
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京都からの使者参着し、去る15日に洛中に大火があったと報告した。北小路から出火して東洞院七条から朱雀大路東まで 12町 (13km) と、七条朱雀から北へ 12町 (13km) までを焼いた。
.. 宣陽門院 (後白河法皇の第六皇女で 愛妾の 高階栄子 (丹後局) が産んだ覲子内親王、Wiki ) 邸、坊門信清邸、 太政大臣 藤原頼実 (Wiki) 旧宅、右大将 ※の六條堀河邸などがその中にあった、と。 .
※右大将: 承元元年 (1207) から承元四年 (1210) までの右大将は
徳大寺公継 (Wiki) だが、彼の屋敷が六條堀河にあったのか否かは確認できない。 .. 右大将も六条堀河も頻繁に出る名称で、この場合はたぶん徳大寺公継が正しいのだろうと思う。 . 右画像は京都の大火で焼失したエリアの概略 画像をクリック→ 別窓で拡大表示 . 話に尾鰭が付いた可能性はあるが、戦乱以外の火災としては空前の被害だったのは間違いない。 |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 閏4月26日 乙未 . 吾妻鏡 |
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. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 閏4月27日 丙申 . 吾妻鏡 |
. . . ※本所に奉公: 重胤が父の胤頼から相続した東庄 (香取郡東庄町、地図)は上西門院領 (本所) 。 また、頼朝挙兵の際には胤頼が父の 千葉常胤を説得して頼朝に味方させた経緯があり、頼朝は「東胤頼の息子らが本所や滝口武者として伺候したい場合は進退自由、仔細の報告は無用」と述べている。重胤が奉公を望んだ背景にはこのような経緯があった。 .. ちなみに、胤頼は上西門院に仕えた関係から京都との接点が深く、家督を重胤に譲った後は京都で 法然に帰依し、実兄の 相馬師常と共に念仏行者として生涯を送っている。 . 法然の念仏宗に帰依して出家した年代を調べると 熊谷直実が1192年、東胤頼が1190年、千葉 (相馬) 師常が1201年、宇都宮頼経が1205年。法然を軸にした彼らの信仰の経緯を考えるのも面白い。 . 結城朝光が念仏宗の影響を強く受け (後に 親鸞の浄土真宗に帰依した) のも1205年頃と推定される。新しく開いた 朝光の生涯と所領の詳細 も参照されたし。 |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 5月17日 乙卯 . 吾妻鏡 |
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.. 将軍家 実朝が罹病していた時に祈祷を受け持った事に謝して、鶴岡八幡宮で法華経を供養する法会を催した。美作蔵人朝親が奉行である。 |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 5月26日 丙寅 . 吾妻鏡 |
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御台所 坊門信子に仕える侍の籐内左衛門尉 藤原 (足利) 秀康が上洛の途に就いた。 .. これは 後鳥羽上皇の南山御幸 (熊野詣) に際して 坊門忠信 (信子の兄) が供奉するため彼の従者としての派遣であり、更に鎌倉から贈与する龍蹄 (大型の駿馬) と旅の調度などを献上する任務を帯びている。 |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 5月29日 丁卯 . 吾妻鏡 |
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兵衛尉清綱 (御台所の侍) が昨日京都から下着し、今日御所に参上した。彼は相当の有識者なので将軍家との対面を許され、古今和歌集一部 (左金吾基俊 (Wiki) の書) を献上した。 これは先祖から伝わった重宝なので実朝を喜ばせた。また京都の様子を尋ね、清綱がその問いに詳細を答えた。 .. 去る九日に新日吉社の小五月会※に後鳥羽上皇が出御されたこと、流鏑馬では射手の多くが西面武士の息子で元服前の垂髪が多かったこと、公卿や殿上人の要望で彼らを出場させたこと、清綱の息子も加わっていたこと、後鳥羽上皇の寵童で西面に仕えている峯王が的を外して逐電し、出家を遂げたこと、などを語った。 . 実朝は「射手の詳細を知りたい」と尋ね、清綱は書類を御前に提出した。これは息子が射手に加わっていたことを話すため、予め用意した※ものである。 . ※小五月会: 現在も神官と僧侶が同席する神仏習合の祭礼が行われている。詳細は 参考サイトで。 . ※催事の明細: 競馬七番の出場者と結果、流鏑馬七騎の出場者と的立ての記載あり (省略した) 。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 6月16日 甲申 . 吾妻鏡 |
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.. 先月から現在まで一滴の雨も降らず農民が耕作の術を失っているため、鶴岡八幡宮の供僧に雨乞いの祈祷を命じた。供僧は江ノ島の龍穴※に集まって祈願する、と。 . ※龍穴: 江ノ島弁財天 (江島神社) 発祥の地。多くの武将や宗教者が参籠した記録が残っている。 北條時政もここに参籠し、結願の朝に三枚の龍の鱗を得た。これが北條の「三つ鱗紋」の起源で、前夜の夢に現れた龍神から「正しい行ないを続ければ繁栄するが邪な行為を重ねれば子孫は滅びる」との予言を受けた、と。龍穴の画像 (Wiki) も参考に。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 6月17日 乙酉 . 吾妻鏡 |
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寅刻 (早暁4時前後) に恵みの降雨あり。祈祷の結果と考え、御剣や衣類などを八幡宮の宮寺に奉納した。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 7月 5日 壬寅 . 吾妻鏡 |
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.. 鶴岡八幡宮神宮寺※の上棟式である。相模守 北條義時、武蔵守 北條時房、前大膳大夫 大江広元朝臣らが臨席し、惣奉行の 三善康信と 結城朝光も立ち会った。 . 工匠に褒美が与えられた。棟梁には馬二疋 (一疋は鞍置き) 、被物一重と裹物二つ (各々奥布 (麻布) 五反) 、配下には裸馬一疋。空衣 (法衣、作業衣) 一領、裹物 (包) 二つ (各々奥布三反) 。二階堂行光がこれを差配した。 .
※神宮寺: 右は本尊の薬師如来坐像、金銅鋳造 54cm) 画像をクリック→ 別窓で拡大表示)。. .吾妻鏡の建暦元年 (1211) 11月116日に以下の記載があり、この像が神宮寺の本尊だったと考えられている。 . 尼御台所の御願として金銅の薬師三尊 (三尺) 像の完成供養を催した。導師は圓如房阿闍梨遍曜、この本尊は鶴岡神宮寺に安置する。
.明治初期の神仏判然令の際に廃寺となった神宮寺から 寿福寺 に遷され、現在は 鎌倉国宝館 で拝観できる。神宮寺は流鏑馬馬場と大石段の間一帯に堂塔が点在し、やや無秩序な伽藍配置だったような気がする。東寺や四天王寺の寺域から想像する大寺とはかなり大きな差が感じられる。 . 幕末の写真家 ベアト (Wiki) が撮影した八幡宮大塔の左側に写っているのが薬師堂で、享保十七年 (1732) の銘がある 鶴岡八幡宮境内図 (各、別窓表示) と付け合わせると右側の奥が薬師堂なのかな...と想像する程度が限界だ。 |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 7月15日 壬子 . 吾妻鏡 |
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武蔵国 威光寺※院主の僧 圓海が鎌倉に来て訴えた。狛江入道増西が先月26日に悪党50余人を率いて寺領に乱入し稲を刈り取る狼藉を行なった、との内容である。 .折から鎌倉に伺候していた増西を御前に呼んで確認したところ、圓海の訴え通りだったため違法行為の停止を命じ、更に永福寺での宿直100日を勤めて罪を償うよう裁決した。奉行したのは図書允 清原清定である。 . ※威光寺: 既に廃寺。旧跡は川崎市多摩区のJR南武線宿河原駅に近い 妙楽寺 (参考サイト) 一帯 (地図)。 吾妻鏡の治承四年 (1180) 11月14日と19日には次の記載がある。 .. 武蔵国の威光寺は源氏代々の祈祷所で、院主増圓の管理する寺領は従来通り租税を免じられる、とした。この寺は 頼朝の弟 阿野全成に与えられた。住僧はそのまま従来通りの祈祷を続けるよう申し付けるため 慈教坊僧圓、慈音坊観海、法乗坊辨朗を呼び出した。
.長尾寺=妙楽寺=威光寺らしいが、本坊と僧坊が盛衰を繰り返していたらしい。 |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 7月19日 丙辰 . 吾妻鏡 |
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永福寺の阿弥陀堂に於いて二十五三昧※を行なった。尼御台所 政子並びに 将軍家 実朝、同じく御台所 坊門信子も御同席された。 .ところが 御留守の間に鎌倉市内が大騒ぎになった。これは葛西十郎※が従僕に殺害されたため急遽一族が集まったのが原因で、和田左衛門尉義盛が仔細を調べて騒ぎを鎮めた。 . ※二十五三昧: 比叡山横川から発生した念仏結社 ( Wiki を参照) 。天台宗総本山の 延暦寺内部から自然 発生した念仏宗は開祖 法然を中心にして浄土宗へと発展した当時の新興宗教である。 .. 比叡の僧徒は元久元年 (1204) には「専修念仏の禁止」を求めて蜂起しているから、念仏宗は天台宗の中まで信仰を広げていた。 . 鎌倉初期の仏教社会の混迷が想像できる。原因は既存仏教の腐敗にあるのだが、既得権を甘受している当事者は自らの腐敗には向き合って是正することができない。 ※葛西十郎: 明確な系図記載が見えないが葛西清元の息子で葛西清重の弟と想像される。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 7月20日 丁巳 . 吾妻鏡 |
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午刻 (正午前後) に地震があった。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 7月22日 己未 . 吾妻鏡 |
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夕暮れの頃に籐内左衛門尉季康 (藤原秀康)※が京都から鎌倉に帰参して報告した。 .「 (先月の) 後鳥羽上皇の南山臨幸 (熊野詣) では新宮 (速玉大社) に三日と熊野本宮に七日御逗留され 今月の五日に還御されたのだが、本宮に御奉幣して宿館に入御されて間もなく同行していた 坊門忠信殿 (坊門信清の息子で信子の兄) の宿所が火事となり、御先達を務めていた僧正の坊が焼け落ちた。 .. 黒煙が本殿※を覆ったため上皇も (心配して) 御覧になったが大勢で火を叩き消して延焼を防いだ。 .
※籐内秀康: 実朝御台所に仕える侍。5月26日に後鳥羽上皇に供奉
する坊門忠信に駿馬を届けるため上洛した。 .. 秀康は承久の乱 (1221年) の際に後鳥羽院の側近として合戦を主導し、政子ら幕府の首脳からは乱の首魁として憎悪された人物。籘姓足利氏一族なのは推定できるが、系図に載る位置が判らない。 ※本宮本殿: 当時の熊野本宮は現在地の約600m南、熊野川西岸の 岸の中洲 大斎原 (おおゆのはら) に建っていた。 .. ここが明治22年 (1889) 8月の熊野川の大洪水で流失した旧社地で、熊野信仰発祥の地として保存されている。清浄な空気が張り詰めた雰囲気が残されており、熊野探訪の際には是非立ち寄りを薦めたい。 更に詳細は 熊野巡拝の記録の中段で。 右画像をクリック→ 別窓で拡大表示)。 |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 8月15日 壬午 . 吾妻鏡 |
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. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 8月16日 癸未 . 吾妻鏡 |
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. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 8月20日 丁亥 . 吾妻鏡 |
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故大夫判官 小野義成の嫡男 左兵衛尉時成が御所に参上した。亡父 (4月3日没) から相続を受けた者である。 .朝廷からの官職承継には問題がなく、幕府による所領安堵と地頭職の継承の認可を求めている。 |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 9月 3日 庚子 . 吾妻鏡 |
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熊谷小次郎直家が上洛の途に就いた。これは父の入道蓮生 (熊谷直実)が来る14日に東山の麓で臨終を迎えると宣言したため、看取るのが目的である。出発後にその経緯を御所に連絡し、珍しい事だと評判になった。 .. 大江広元は 「前もって死期を知るのは神仏でなければ有り得ないが、彼は出家してから浄土を願って念仏修行を続けている。敬意を以て信じるべきだろう。」と語った。 . ※熊谷直実: 建久四年 (1193) に家督を直家に譲り出家して法然に帰依した。以後15年は浄土宗の念仏行 者として一心不乱に信仰の道を歩んでいる。2月8日の往生を予告していたが果たせず、二度目の予告に近い7日に没したと伝わる。 .. 俗世の頃と同じく信仰者としても猪突猛進だが、法然に関連した資料に拠れば元久三年 (1206) より前に関東に戻っており、こちらの方が信憑性が高いらしい。 墓所は熊谷市の 熊谷寺だが、他にも墓所を称する寺が七ヶ所ほどある 。 |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 9月 9日 丙午 . 吾妻鏡 |
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鶴岡八幡宮で重陽節の神事あり。将軍家 実朝は出御せず、美作蔵人朝親が奉幣使に任じた。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 9月27日 甲子 . 明月記 |
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夜半に西の方角に火が見え煙が細く高く登っていた。朱雀門が焼亡...悲しんでも余りある。 .. ※朱雀門: 朱雀大路北端の大内裏南門。翌年再建されたが、建暦元年 (1211) に倒壊して放置された。 大内裏 (平安宮) は創建以来度々の火災で焼失し、白河天皇の永保二年 (1082) に焼失した後は康和二年 (1100) の再建まで19年を要した。
..
院政期の天皇は恒常的に里内裏 (皇居以外、大部分は摂政や関白の邸宅) で暮らし、政務の実権を握った院政期の上皇も同様に内裏への帰還を避けて皇居外での執政を続けるようになった。
. 安元三年 (1177) の大火では本来の天皇居住区である筈の内裏以外は大部分が焼失し、治承と寿永の戦乱を経て財政難になった朝廷には自力で再建する余力も、再建を命じるだけの権力も失なっていた。 . 文治五年 (1189) に始まった再建も承久の乱 (1221年) の戦火で全てが焼け、再度の再建も安貞元年 (1227) に再び全焼。ここで大内裏の再建は完全に放棄された。 右上は千本通り西の、今回焼失した朱雀門跡碑。 大木の前に石柱と案内板がある。 クリック→ 別窓で拡大表示 . 国粋色が強くて個人的に好きじゃないが、明治28年 (1895) に平安遷都1200年を記念して創建されたのが 平安神宮。奈良の 平城宮跡歴史公園 (共に公式サイト) のような充実した復元施設の少ない平安京の雰囲気を味わう意味で、推奨はしたくないけど紹介程度ならできる。 . JR二条駅東口のタクシー待機所北側 (地図) には「千本通りの北、約200m辺り」との看板があるが、実際は300m北のスギ薬局筋向い (地図) の緑地に往時を偲ぶ石柱が建っている。 |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 9月28日 乙丑 . 明月記 |
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噂によれば、常陸介朝俊 (朝隆卿の末孫で 弓馬や相撲をに秀でた近臣) が松明を持って朱雀門に登り鳩を捕らえて戻ったのだが、この松明が火災の原因らしい。 .. 最近は天皇や上皇をはじめ誰もが鳩の飼育を好み、正三位 参議の 長房卿 (Wiki) や藤原保教 (定家の友人、後に承久の乱に関与して自害) は以前から飼育を楽しんでいる。人気に便乗して捕獲を狙い旧塔や鐘楼に登って鳩を探していたらしい。これが遂に悲しむべき被害を招いてしまった。 . 大宮大路は火災の跡が残るだけで既に人家はない。京洛の壊滅は鳩どころか、国家の衰微を見る如くである。 |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 10月10日 丙子 . 吾妻鏡 |
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.. 尼御台所 政子は兼ねての御宿願である熊野詣を果たすため、今朝の卯刻 (8時前後) に鎌倉を出発された※。 武蔵守 北條時房が同行し、同月27日に入洛された。 . ※政子上洛: 今回の熊野詣には特に要人との会談記録が見えず、単純な私的行動だったらしい。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 10月21日 丁亥 . 吾妻鏡 |
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東平太重胤が 上西門院への奉公を済ませて京都から帰還し、すぐ御所に呼ばれて洛中の様子などを報告した。 .. まず 熊谷次郎直実入道について、9月14日未刻 (14時前後) を以て臨終を迎えると告知していたため仏縁を結びたいと願う多くの僧俗が東山の草庵の周りに集まっていた。 . その時刻を迎えた直実は袈裟を纏い、礼盤 (仏前の高座) に端座合掌して声高に念仏を唱えて最期を迎えた※。以前から病気だった気配は見られなかった人物である。 . 次に、先月27日の夜半に朱雀門が焼け落ちた。常陸介朝俊※ (朝隆卿から四代の子孫で弓馬と相撲の名手) が松明を持って門に登り、鳩の子を獲った際の火がこの災禍を引き起こした。 . 近年は土御門天皇も 後鳥羽上皇も何故か鳩を好んでおり、長房や保教※らが飼っているのを真似て朝俊も鳩を得ようとしたらしい。この火事のため五日に予定していた射場の使い始めが延期となった。 .
※直実の最期: 9/3に記載した法然に関した情報には手紙などの
物的証拠がある。この辺は間接的な伝聞に依拠する例が多い吾妻鏡の弱点だろう。 .※常陸介朝俊: 名は藤原朝俊、承久の乱では宇治川で幕府軍を迎 えて奮戦し三浦義村の郎党に討たれた。明月記も「弓馬と相撲を芸とした院の近臣」と書いている。 .※長房や保教: 藤原長房は後鳥羽院の優れた廷臣だった吉田経房 の甥で、九条家の家司を務めていた。 .. 平保教は平保盛 (頼盛の庶長子の次男で廷臣。 妻は後鳥羽院の寵臣で承久の乱後に足柄峠の西麓で斬られた葉室宗行の娘。乱後の保教は平姓を名乗らず百姓になるのを条件に、辛うじて斬罪は免れた。 . 右は復元直後に撮影した (確か1999年) 平城京朱雀門。平城京は巾が五スパンだが、 平安京の場合は七スパンで、二回り大きい。 クリック→ 別窓で拡大表示 |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 11月 1日 丁酉 . 吾妻鏡 |
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.. 出雲国の杵築社 (出雲大社) の権検校と祝師と御供所別当職などについて、内蔵孝元を補任せよとの指示を領家である坊城三品 (三位で名門の公家、坊城家) 宛に下した。 . 孝元の父資忠は故幕下 (頼朝) の時代に功績を挙げてこの職に補任されたことに配慮した決定で、更に孝元は出雲国で数ヶ所の地頭職を拝領していた。師文図書允 清原清定と筑前三郎孝尚※の差配による。 . ※筑前孝尚: 宗掃部允孝尚の呼称で、建暦元年 (1211) に「隠し田を所有した嫌疑」を受け、無実だったが 確認と報告の命令を怠ったために訓告を受けている。掃部允は掃除や調度などを担当する宮内省の実務職員で従七位下、素性は判らないが武士ではなく文官で、頼朝の乳母の一人比企尼の夫も比企郡司の掃部允だった。 .. ※ この条は検討を要する。職分も人物も掘り下げて確認を...たぶん忘れるな。 |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 11月 7日 戊寅 . 吾妻鏡 |
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鶴岡八幡宮で御神楽の奉納あり。奉幣の使者は前大膳大夫 大江広元朝臣が務めた。
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. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 11月14日 戊寅 . 吾妻鏡 |
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囚人の柏木伴五家次※の息子貞次は日吉社で来年五月の端午節句で馬上役※に任じていたが、父の罪科により役を外された。貞次はこれを嘆いて神職の長に懇願し再任を訴える書状を日吉社が鎌倉に取り次いできた。
. 神事に関する事なので訴えは認可され、大江広元を介して「今後不義を行えば後悔する結果を招く」旨を言い聞かせた。 . ※柏木家次: 建永二年 (1207) 9月24日には磐五家次の名で載っている。元久元年 (1204) 3月に勃発した 三日平氏の乱に関与して鎌倉に連行されていた。 .※馬上役: 馬長 (あげうま、うまのおさ) に同じ。着飾った馬に乗り 社頭の馬場を練り歩く役目。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 12月12日 丁丑 . 吾妻鏡 |
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※薬師如来: 7月5日に記載した推定内容は事実だったらしい。. 鶴岡神宮寺=薬師堂で、江戸末期から明治の初期にベアト が撮った写真「八幡宮大塔 (多宝塔) 」の左奥が薬師堂らしいが、「堂」から想像するようなサイズではない。右画像をクリック→ 別窓で拡大表示 .. 大倉御所の敷地も八幡宮の敷地も決して広くはないから、何となく法華堂も薬師堂も小さな規模を思い浮かべてしまう。先入観はいけないな。 ※橘三蔵人: 橘公長の三男。橘公成 (小鹿島公業) の次弟で公忠の 末弟。宝治合戦では三浦側で戦死している。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 12月14日 己卯 . 吾妻鏡 |
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上総国海北郡久吉郷 (現在の市原市) の住僧 善勝以下の者たちを鶴岡八幡宮の職掌 (社寺で神楽などを演じる下級職員) に加えた。図書允 清原清定がこれを差配した。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 12月16日 辛巳 . 吾妻鏡 |
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将軍家 実朝が神宮寺の本尊 薬師如来像を拝観した (7/5を参照) 。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 12月17日 壬午 . 吾妻鏡 |
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神宮寺薬師如来像の開眼供養である。相模守 北條義時と大官令 大江広元が参席、導師は眞智房法橋隆宣 (八幡宮供僧の首座で日光山※別当を兼ねる) 、若宮の供僧 25人を招いている。 ..
供養の終了後に美作蔵人と橘判官代が布施を配った。導師の分は被物三重、色革十枚、上絹十疋、白布十反、紺布十反、藍摺十反、奥布 (麻布) 十五反、馬三疋 (一疋は鞍付き) 、米十二石、僧の装束と扇に置いた念珠を付け加えている。招いた僧の分は一人当り奥布 (麻布) 十反、准布 (物々交換用) 十反、馬一疋、米二石など。 . 夜に入り供養の終了を仏前に報告した。導師は摩尼房印尊、布施は被物一重、裹物一つ、上絹一疋、米二石である。 . ※日光山: 鶴岡にこの名の摂社があったという事か。現在の境内社は 武内社、旗上弁天社、白旗神社、丸山稲荷社、祖霊社、 .由比若宮、今宮の七社である。 右画像を参照、クリック→ 別窓で拡大表示 |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 12月18日 癸未 . 吾妻鏡 |
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正五位下掃部頭藤原朝臣 中原親能法師 (法名 寂忍 ) が没した。享年六十六歳、在京 (の御家人) である。 . |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 12月20日 乙酉 . 吾妻鏡 |
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. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 12月26日 辛卯 . 吾妻鏡 |
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今日、掃部入道 中原親能卒去の知らせが届いた。去る 13日に五條大宮に新築した屋敷に移り、同 18日に臨終を迎えた、との事。 . |
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. 6月19日 . 晴耕雨読 |
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熱海から筑西市に転居して最初の夏。日差しを避けて軒下に 「スダレ」を付けようとしたら 、エアコン配管が邪魔して金具が付けられない。やむを得ず二階のベランダから「ヨシズ」を吊り下げて対応したが.... 3年目の今年は巾広の園芸ネットにキュウリを這わせて、野菜栽培と酷暑防止を一挙に解決する作戦に踏み切った。開口部は 2間半 (5m強) 、ナス苗は病気に強い接木タイプを四本だ。約 40日経過した結論は? . 6/19現在までの収穫は 45本!この調子だと 100本を狙えそうで食べ切れない状態だが、遮光の意味では少し物足りない。脇き芽を摘まずにもっと繁らせるべきだったかも。苗を増やしても面白そうだ。 . 右は6/19の現状。 左のレモンの樹から少し離す必要もなかった、と思う。クリック→ 別窓で拡大標示 |
. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
. 月 日 . 吾妻鏡 |
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. . 83代 土御門天皇 後鳥羽上皇 . |
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