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承元三年 (1209年)
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西暦・天皇・上皇
和暦・月日・史料
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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1月 6日 庚子
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吾妻鏡
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御所での般若心経法会が通例の通り行われた。導師は法橋隆宣、将軍家 実朝が出御された。
終了後に 和田平太胤長望月三郎重隆、手嶋太郎 (素性不明) 、筑後六郎知尚、吾妻四郎助光らを射手として召されて御的始めを開催、和田左衛門尉義盛がこれを差配した。
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   ※筑後知尚: 八田知家の六男で浅羽氏の祖 (異説あり) 。:建暦三年 (1213) の和田合戦では北條氏に協力、
後に 後鳥羽上皇に仕え 左衛門尉に任じて西面の武士となり、承久の乱 (1221年) の宇治川合戦では幕府軍と戦って討死した。筑波生まれで筑後氏とは、少し面白い。
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   ※吾妻助光: 藤原秀郷の次男千常-文脩-次男兼光-次男兼助(吾妻権守)-兼成(吾妻権守)-助亮
-助光と続き、吾妻郡 (群馬県北西部の中之条町一帯) を本拠とした。
系譜は太田氏や下川辺氏と近い。
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   ※年令: 源実朝 16歳、 坊門信子 (実朝の正室) 21歳、 公暁 (故 頼家の二男) 8歳、
竹御所 (故 頼家の娘、後の四代将軍頼経の正室) 6歳、
政子 50歳、 北條義時 46歳 、 北條時房 33歳 、 北條泰時 26歳 、 北條朝時 16歳 、
北條重時 10歳 、
千葉成胤 55歳 、 千葉胤綱 9歳 、 足利義氏 20歳 、 三浦義村 50歳前後 、 三浦泰村 5歳前後 、
安達景盛 39歳前後 、 大江広元 61歳 、
後鳥羽上皇 29歳 、 土御門天皇 14歳 、 九条道家 17歳 、 藤原定家 46歳、
定豪 56歳、 慈円 53歳 、 栄西 67歳 、 法然 73歳 、 親鸞 35歳 、
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   (全て1/1時点の満年令)
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   安達景盛は生年不詳だが、頼朝の伊豆配流 10年後に誕生と仮定して年齢を推定した。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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1月 9日 癸卯
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吾妻鏡
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将軍家 実朝が鶴岡八幡宮に年初の御奉幣、奉幣使は遠江守 源親広が務め、経を供養した後に供僧に布施を贈った。布施の差配は 二階堂行光である。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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1月12日 丙午
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吾妻鏡
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鶴岡の神宮寺で初めての修正会を行なった。民部丞 三善康俊が奉行である。
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   ※修正会: 新年早々に三日または七日間続ける法会で、国家や朝廷の安泰と五穀豊穣などを祈願する。
正式には修正月会 (正月に修する法会、を意味する) 、略して修正。
ちなみに、東大寺二月堂のお水取りは二月に修する法会で「修二会」と呼ぶ。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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1月14日 戊申
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吾妻鏡
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八幡宮神宮寺の修正法会は三ヶ日続いて今日結願し、鬼走を行なって終了した。
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   ※鬼走: 鬼に扮した者を追い払う、或いは鬼が松明を持って走り回る行事。魔を祓う意味を持つ。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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2月 3日 丁卯
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で恒例の神事あり。将軍家 実朝の御参宮なし、奉幣の使者は 大江広元が任じた。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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2月10日 甲戌
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吾妻鏡
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武蔵国太田庄鷲宮の宝殿が鳴動したとの報告が飛び込んできた。
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   ※太田庄鷲宮: 現在の宮代町を中心に北西から南東の古利根
川沿いに広がっていた八条院領。鷲宮は太田庄最北西部 (地図) にある現在の 鷲宮神社
 右画像をクリック→ 八条院領の概略位置へ
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建久四年 (1198) 11月18日にも異常を予知したかの如き次の記載がある。
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武蔵国からの飛脚が到着して報告、昨日当国の太田庄鷲宮の神前に流血の跡が見られたため凶兆ではないかと考えて占った結果は「兵乱の兆し」だった。
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この報告直後に 安田義資追討や常陸国で多気氏粛清などが勃発している。兵乱を予知する能力などあり得ず、政治的意図で操作した捏造情報と考えるべきだろう。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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3月 1日 甲午
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吾妻鏡
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今日、高野山大塔の料所である備後国太田庄の年貢が滞納している旨の訴えが大塔の管理所から提出された。その裁定の際に使者の僧と地頭である大夫屬入道三善康信の代官が口論になった。御前の近くのため両名とも退去させられ、将軍家 実朝から「この事は暫く時間を置いて検討しよう」 との仰せがあった。
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   ※料所: この場合は貢税料所の略。寺社の維持費用に資するための領地で、他には合戦費用として荘園
に負荷を割り当てる兵粮料所などがある。
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   ※備後国太田庄: 現在の世羅郡世羅町 (地図) 。本所は高野山で 領家は 後白河法皇。元々は平重盛が管理
していた平家の没管領で、文治二年 (1186) 7月24日の吾妻鏡に次の記載がある。
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後白河院の祈願として、平家の怨霊を鎮めるため高野山に大塔を建立した。
去る 5月1日から荘厳な法要を催し、維持管理の費用として証書を添え備後国大田庄 (平家没官領) を寄進した。
ただし地頭の 土肥弥太郎による年貢の押領がある旨の訴えがあり、朝廷からの地頭停止申し入れを受けた 頼朝が地頭退去の命令を下した。
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   ※高野大塔: 空海と二世の 真然大徳が二代 (816~887年頃) を費やして
築いたと伝わる高野山のシンボル。創建当初の規模は 16丈 (48.48m) だった。記録に残るだけでも五回焼失しており、何回目かの再建を後白河が寄進したのだろう。
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現在の大塔 (別窓で拡大表示) は昭和十二年 (1937) の完成で高さは創建当時と同じ、当初の姿を可能な限り模したと伝わる。江戸時代の観光絵図に載っている大塔に近かったと思われる現在の 高野山西塔 (天保五年 (1834年) 建立)の姿も参考に。
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  ここで再び、文治五年 (1189) 閏4月8日に載せた
  「鶴岡八幡宮大塔」の明治初期画像を右に添付する。

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八幡宮大塔の古写真と高野の大塔と西塔は全て多宝塔に準じる様式だった。私は「韮山の願成就院の南塔も多宝塔だろう」と想像している。更に加えれば、建久年間 (1190年代) に足利義兼が邸宅を解体して建てたと伝わる 鑁阿寺の塔(画像、元禄五年 (1692) の再建)も多宝塔である。
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昭和三十八年の解体修理では相輪に納めた木製と金製の小塔と仏舎利容器が確認されているから、創建当時の姿をそのまま残していると考えて良いだろう。
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鑁阿寺の堂塔の多くは鎌倉時代初期の建造と確認されており、過去の戦乱や空襲の被害も受けていない。関東では三重や五重の塔よりも多宝塔が一般的だった可能性が高い。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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3月 3日 丙申
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で上巳の節句に伴う一切経を献納する法会が行われた。相模守 北條義時が将軍家 実朝の奉幣使として廻廊に座し、美作蔵人 朝親と山城左衛門尉 二階堂行村が従った。
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   ※一切経: 経 (釈迦の教え) と律 (僧の規律や生活の姿) と論 (律と経の解釈) の三蔵を纏めた仏教の聖典で
大蔵経に同じ。正治二年 (1200年) 、建仁元年 (1201年) 、建仁三年 (1203年) 、元久三年 (1205年) の 3月3日 (上巳節句) にも開催している上巳節句で通例の法会。
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   ※上巳節句: 五節句の一つ。貴族の子女が御所を模した飾り付けで遊び無病息災を願ったのが始まり。
鎌倉期には端午の節句と共に男女の別はなく、江戸時代初期から「雛の節句」となった。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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3月21日 甲寅
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吾妻鏡
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大夫屬入道 藤原宗長が京都から届いたという鞠を御所に持参した。また去る二日に大柳殿 (七条院 藤原殖子の御所) で行われた蹴鞠の詳細も持参して高覧に供した。この日には左金吾将軍 頼家の近臣だった大輔房源性も蹴鞠に加わっていた、と。源性は建仁三年 (1203) 9月の頼家失脚後は京都に暮らしており、当日の御鞠衆は御所、刑部卿 藤原宗長、越後少将 藤原範茂、寧王、医王、山柄、行景、源性らである。
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   ※藤原宗長: 義経に協力的な姿勢を続けて伊豆流罪となった 難波頼経の嫡子。父と共に流されたが後に
許されて形部卿となり、健保二年 (1214) には従三位に昇っている。蹴鞠の名手 (名足) で難波流の開祖、弟の雅経が興した飛鳥井流と共に蹴鞠の二大流派となった。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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4月 1日 甲子
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吾妻鏡
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申刻 (16時前後) に地震があった。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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4月14日 丁丑
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吾妻鏡
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将軍家 実朝の仰せにより鶴岡神宮寺で初めて一夏九旬の安居を結んだ。神宮寺として最初の式典で、八幡宮の供僧がこの業に任じた。
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   ※一夏九旬の安居: 夏の間に外出せず一ヶ所に籠って修業する夏安居 (げあんご) を差す。
原点はインド仏教、雨季の間は行脚托鉢をせずに座禅修行を行なう習慣が伝播し、雨季の有無に拘らず主として 4月15日から 7月15日までの 90日間に実施した。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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4月22日 乙酉
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吾妻鏡
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京都の使者が鎌倉に参着して報告、去る 10日に将軍家 (実朝) が従三位に昇叙された。
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     ※実朝の官位: 1203年 09月に 従五位下(満11歳)、
1204年 01月に 従五位上(満11歳)、
1206年 02月に 従四位下(満13歳)、
1207年 01月に 従四位上(満14歳)、
1208年 12月に 正四位下(満16歳)、
1209年 04月に 従三位  (満16歳)、
1211年 01月に 正三位  (満18歳)、
1212年 12月に 従二位  (満19歳)、
1213年 02月に 正二位  (満20歳)、
1218年 12月に 右大臣に昇任し、翌月27日に死没(享年 満26歳)。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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5月 5日 丁酉
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吾妻鏡
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出羽国羽黒山から多数の衆徒が鎌倉に到着して、地頭 大泉次郎氏平の非法を訴え出た。
今日、この件について 中原仲業を奉行として裁決を行なった。出羽三山神社の公式サイトを参考に。
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羽黒山は元々地頭の支配に委ねた地ではなく、外部の関与や警察権などの介入を禁じて鎌倉の祈願所と定めた故 頼朝将軍の下文により問題なく運営されていたのだが、氏平は羽黒山の維持管理に供する一万八千枚の田を押領した上に羽黒山の運営まで干渉するのは根拠がない、それが衆徒の訴えである。
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氏平は弁明することができず「先例に背いての非法は許されない」と叱責され、羽黒山運営への関与を禁止する命令が下された。

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   ※衆徒: 比叡山や高野山など、大寺院に住んで学問や修行の他に運営
の実務を担当する僧の身分。更に細分化すると、学問習得を専門とするのが学生で、雑役を担当した下級の僧が堂衆。br> 比叡山では再三内紛を起こしている。
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   ※大泉氏平: 兄の 武藤資頼が奥州合戦の恩賞に出羽国大泉庄 (現在の
山形県鶴岡市) の地頭職を得た。後に義父頼平の甥である大友能直と共に鎮西奉行に就任し更に 肥前、筑前、豊前、壱岐、対馬の守護に任命された。
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氏平はその際に大泉奏を継承し、羽黒山の広大な神域と資金力を支配下に置こうと考えたらしい。大泉氏本家はその後も大宝寺氏として繁栄を続けている。
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 右は現在の山形県行政地図 クリック→ 別窓で拡大
 大泉荘は鶴岡市の概ね全域と、酒田市の一部にも代官
 を置いて支配していたらしい。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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5月12日 甲辰
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吾妻鏡
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和田左衛門尉義盛が内々に上総国司に推挙される希望を申し出ていたため、将軍家 実朝は尼御台所 政子にその可否を相談したが、以下の返事があり認可はされなかった。
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故将軍 (頼朝) の時代に「侍の受領は禁止すべき」との沙汰があった。
ただし、その沙汰を知った上で新しい例を設ける考えならば、女が口を出す限りではない。
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   ※受領: 国司四等官の最高位は守。新任国司が前任者から引き継ぎを受ける「受領」が職名になった。
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   ※新しい例: 一條忠頼は寿永三年 (1184) 6月に武蔵守、
平賀義信は 元暦元年 (1184) 6月下旬に武蔵守、
大内惟義は 文治元年 (1185) に相模守、
北條時政は 正治二年 (1200) に駿河守、
北條義時は 元久元年 (1204) に相模守、
北條時房は 元久二年 (1205) に遠江守を経て駿河守。
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これだけの前例があるのだから義盛の上総守着任希望は新しい例とは言えず、政子の妨害工作に過ぎない。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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5月15日 丁未
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吾妻鏡
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神嶽ならびに岩殿の観音堂に参拝し、御所に還御の途中で女房駿河局の比企谷の家に渡御された。ここは景色が良くて涼しい場所である。
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   ※主語がない: 駿河局は尼御台所 政子の女房 (女官) として数回登場しているのだが、ウィキペディアは
「今回の巡覧は実朝としている。その根拠は不明だが政子は再三岩殿を参詣しているし、実朝が参詣した帰路に政子の女官宅に立ち寄る理由はない。
原文は「御參神嵩并岩殿觀音堂」、参詣は政子と考えるのが妥当だ。
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比企谷は 比企尼 頼朝から拝領して館を建てた場所 (地図) で、比企一族が滅亡した建仁三年 (1203) から約60年後に比企能員の末子 能本 (乱の時 一歳) が屋敷の敷地跡を 日蓮に寄進し、ここが現在の 妙本寺 (公式サイト) になった。比企一族の滅亡 (別窓) を参考に。
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   ※神嶽: 神亀元年 (724) 建立の 神武寺 (Wiki) 境内背後の山が神嵩 (こうのたけ) 、転じて神武寺 (地図) 。
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   ※岩殿観音堂:大倉御所から約 4km南東 (地図) の 海雲山岩殿寺、開山は 行基と伝わっている。
吾妻鏡の文治三年 (1187) 2月23日には 大姫、建久三年 (1192) 2月23日には 頼朝が参詣したとの記載がある。すぐ近くには大切岸と、日蓮法難で知られた 猿畠山 法性寺があるがこれらが歴史に登場するのは 70年も先の話になる。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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5月20日 壬子
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吾妻鏡
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頼朝法華堂に於いて、故 梶原平三景時および落命した一族郎党の菩提を弔うのための法事を催した。導師は眞智房法橋隆宣、相模守 北條義時が参席した。最近御所で怪異な現象があり、更に将軍家 実朝に夢のお告げがあったため、急遽法要を行なって彼らの怨霊を鎮めようとしたものである。
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   ※急遽法要を: 28日に梶原家茂を殺害する土屋宗遠も恵まれているとは言えない晩年を迎えている。
「謀反人に豪華な法事を営んで...」との不満を抱いた、それが 28日に勃発する凶行を誘発したのかなと、ふと思った。もちろん歴然とした根拠はないが...。
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   ※頼朝法華堂: 建物の規模について考え続けている。
例えば、頼朝の墓の東側で発掘調査が済んだ義時法華堂の礎石配置は 8.4m四方で約20坪強だから、現在の白旗神社の位置にあった頼朝法華堂も同じ程度の規模か、と考えてしまうが...
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しかし「別当を含む数人の僧侶が常駐していた」ことや「逃げ遅れた一人の僧が天井裏に隠れた」ことや「宝治合戦で三浦一族の数百人が自刃した」ことを考えれば (話半分としても) 20坪では不合理だ。
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史料に拠れば法華堂の敷地は東西 110m×南北70mと伝わっている。
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最低でも 東大寺法華堂 (公式サイト、5間×8間=約40程度あったんじゃないか、幕府の創設者で絶対権力者の霊廟だからね。妄想は浅学者固有の権利なのだ(笑)。
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  右画像は頼朝法華堂周辺の鳥瞰図(クリック→ 拡大表示)。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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5月23日 乙卯
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吾妻鏡
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和田左衛門尉義盛が上総国司に就く事を望んで正式に款状 (嘆願書) を大官令 大江広元に提出した。
最初に治承 (挙兵した四年 (1180年) を差す) 以来に挙げた数々の勲功について書き記し、後半では生涯で残っている望みはこの一事のみ、と述懐している。
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   ※上総国司: 結局認可されず、北條氏に対する義盛の怒りは徐々に増幅して1213年の和田合戦へ。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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5月26日 己未
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吾妻鏡
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将軍家 実朝は (先月の従三位昇叙に続いて) 更に右中将に任命された。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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5月28日 辛酉
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吾妻鏡
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梶原兵衛太郎家茂が小坪の海辺を遊覧した帰る途中の西浜 (飯嶋の地名あり) の付近で騒動が起きた。
以前から家茂に遺恨を抱いていた 土屋三郎宗遠が和賀江の近くで待ち伏せて家茂を斬り殺した。宗遠はそのまま走って御所に出頭し 和田兵衛尉常盛に大刀を渡して身柄を 和田義盛に預けられた。
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   ※飯島: 寿永元年 (1182) 11月10日に 政子の命令を受けた 牧三郎宗
親 (牧の方の兄) が 頼朝の愛人亀の前が住んでいた飯島の 伏見広綱邸を打ち壊す「政子の嫉妬事件」が起きている。
 和賀江島近くに飯島の地名が現存する。
     右画像(クリック→ 別窓で拡大)を参照。

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少し北側は治承四年 (1180) 8月24日の吾妻鏡に載っている小坪合戦 (三浦軍と 畠山重忠軍が衝突) の場所でもある。
南が鎌倉四境の一つとされた南小坪で、三浦氏の所領と鎌倉が接している。後に尾根の上に名越切り通し (難越が地名の由来とも ) が拓かれた。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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6月13日 乙亥
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吾妻鏡
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土屋三郎宗遠が款状 (嘆願書) を提出した。内容は次の通り。
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私は右大将軍 (頼朝) の時代から忠義を尽くした者で、家茂は謀叛人 梶原景時の孫です。奉公を続けた者と不忠を働いた者を較べるのは不合理で、既に太刀を提出した者を拘束とは面目を見捨てる処遇です。
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 和田義盛がこれを将軍家 実朝に提出し、実朝は直ちにこれを読んで次のように対応した。
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款状の内容は理屈が通っておらず直ちに処分を下すべきだが、故右大将 (頼朝) の月違い命日である。
(故将軍が) 御照覧されていると判断し、特に罪を赦す。
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   ※景時の孫: 家茂の名は系図に載っていないが景時の息子の中で
「茂」を使っているのは三男の 景茂のみだから多分彼の息子だろう。
景茂の生年は仁安二年 (1167) で、景茂が18歳の時に家茂が生まれたと仮定すると23歳、土屋宗遠は81歳 (共に満年令) である。
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23歳の若者が81歳の老人に襲われ手傷も負わせず斬り殺されたのは、何となく合点がいかない。
記録に残っていない (あるいは残せない ) 事情があった可能性も考えるべきか。白昼に御家人を斬り殺した結果が 「お咎めなし」 も変だし。
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土屋氏を含む相模武士団の殆どは和田合戦 (1213) で義盛に味方して滅亡している。これは和田氏との濃密な縁戚関係を重んじたのが主な理由だが、高齢の宗遠は合戦に加わらず、建保六年 (1218) に90歳で没している。土屋一族の所領は金目川の中流域で上流は波多野氏の勢力圏、下流は 大庭 (懐島) 景義の弟 景俊の豊田郷近くを経て平塚の花水川に合流する。
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詳細は画像をクリックして「土屋宗遠の館跡」(別窓)で。
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  右上画像は金目川と座禅川に挟まれた丘に残る土屋一族の墓石。
    近くの大乗院 弘宣寺が一族の館跡と伝わるが、遺構は見られない。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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6月19日 辛巳
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吾妻鏡
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源近利を鶴岡八幡宮の職掌 (雅楽担当の下級職員) に加えた。図書允 清原清定が奉行としてこれを差配した。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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7月 5日 丙申
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吾妻鏡
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将軍家 実朝が夢の導きに従って二十首の和歌を 住吉社 (公式サイト) に奉納した。使者は内藤右馬允知親 (藤原定家の門弟で実朝の近臣) 、このついでに去る建永元年 (1206) に習い始めてから詠んだ和歌 三十首を選び、定家の評価を受けるために届けさせた。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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8月13日 甲戌
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吾妻鏡
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知親 (元は朝親、美作蔵人朝親と混同するため改名した) が京都から帰参した。京極中将定家朝臣 藤原定家に送った実朝の和歌に評価を加えたものと、詠歌の口伝書一巻を持ち帰った。これは和歌の六義風躰についての実朝の質問に答えた内容である。
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   ※口伝書一巻: 既存の手引書ではなく、実朝のために書いて贈った詠歌の理論書。「近代秀歌」と呼ばれ
中世の歌人に尊ばれた。新古今和歌集の評価、反省、技術論、秀歌の例などを載せている。六義風躰は六種類の理論を意味する。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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8月15日 丙子
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で通例の通り放生会が催された。ただし将軍家 実朝は出御せず 相模守 北條義時が奉幣使を務め、武蔵守 北條時房が供として同行した。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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9月29日 丙子
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吾妻鏡
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園城寺 (三井寺) の明王院僧正 公胤が鎌倉に到着した。これは将軍家の招きに応えた下向である。
滞在中は 二階堂行光の屋敷を宿館とし、宿直などについては 佐々木広綱が差配を担当する。
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   ※公胤: 天台宗の僧で著名な歌人。後鳥羽上皇と幕府の双方から信頼を受け、後に 政子の依頼を受けて
頼家の遺児 公暁を弟子として預かった。当初は批判していた 法然と面談した後は念仏宗に帰依し、曹洞宗の祖道元に「臨済宗の 栄西に入門すべき」と勧めたことでも知られる。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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10月10日 庚午
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吾妻鏡
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民部大夫 二階堂行光が永福寺近くに伽藍を建立し落慶供養を行なった。導師は明王院僧正公胤、尼御台所 政子も渡御された。相模守 北條義時、武蔵守 北條時房、前大膳大夫 大江広元、遠江守 源親広、大夫屬入道 三善康信らも聴聞 (読経に耳を傾ける) に参席した。
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寺の外も中も市が開いたような賑わいで、導師の御布施も会場の飾り付けの様も華美を尽くした姿だった。
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   ※二階堂氏: 幕府の実務官僚を世襲した一族の覚書や日記などが
吾妻鏡の編纂に使われ、子孫が編纂にも直接関わった可能性も高い。寺の建立についての評価は、もしかすると先祖の自慢話を書き残したのかも。
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二階堂邸がどの辺だったか考えるのも結構楽しい。
テニスコートと鎌倉宮入口の間か、などと思う。
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広い平地が少ない鎌倉で平泉の 観自在王院 (別窓) の再現には頼朝も苦労したのだろう。
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右は二階堂の鳥瞰。クリック→ 別窓で拡大標示
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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10月13日 癸酉
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吾妻鏡
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右大将家 頼朝の御月忌 (月命日) にあたり、法華堂で仏事を行なった。導師は明王院僧正 光胤、施主として 尼御台所 政子が参席し、相模守 北條義時と武蔵守 北條時房が聴衆に列した。教典や図絵の仏像などは金銀を飾った布施を含めて見事な様子は筆舌に尽くし難く、導師の説法も富楼那の弁説を聞くようだった。
故人も悟りの境地に達しただろうし、施主 (政子) もまた百年後には故人との同居が実現すると考えただろう。
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   ※頼朝の墓: 石段を登った平場の廟所は江戸時代の中期に島津家
が造成したもの。石柵が囲む五層の石塔も、安永年間 (1772~1780年、徳川十代将軍家治の頃) に荘厳院 (鶴岡八幡宮寺25坊の一つ) の僧が 廃寺となって久しい勝長寿院跡から運んだ遺物である。
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勝長寿院は室町時代の享徳四年 (1455年、足利将軍義政の頃) 前後に廃寺となっているから、荒廃した跡地にあった誰の物か判らない五層の石塔を移したのだろう。廃寺になって 300年以上の時が過ぎ記録が残っている筈もない。 右は現在の頼朝の墓。有名だが、本来の墓所ではない。
             画像をクリック→ 詳細ページ(別窓)へ。
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   ※富楼那: 釈迦の弟子の一人で説法に優れていたと伝わる。更に詳細は Wiki
で。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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10月15日 乙亥
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吾妻鏡
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明王院僧正 公胤が御所に参上して将軍家 実朝と御歓談。僧正は園城寺の興隆は豫州刺史禅室 源頼義から続く源家代々との縁が支えている趣旨を述べ、前大膳大夫 大江広4元が将軍家の仰せを受け、軒先に候して園城寺の徳を語る僧正の言葉を書き留めた。
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   ※豫州刺史禅室: 豫州 (伊予国 (愛媛) の) 刺史 (国司、守) の 禅室 (出家者) 。伊予守は頼義の最終官職。
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   ※明王院: 公胤の通称 (号) 。四代将軍 藤原頼経が嘉禎元年 (1235年) に創建する 明王院とは無関係。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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10月17日 丁丑
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吾妻鏡
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明王院僧正 公胤が京都に向け鎌倉を発った。将軍家は寒い時期の長旅を気遣って延期を勧めたが、長講堂 (現在の長講堂) 供養の導師を予定しているため帰りを急ぐとの事。相模守 北條義時と大官令 大江広元から多くの御家人に至るまで餞別に贈った品は数百種に及んだ。
更に道中の宿驛や労役の手配を行うよう相模国から西の諸国の守護に命令を下してある。
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   ※長講堂: 寿永二年 (1183) 頃に 後白河法皇が六条殿の敷地に建立した持仏堂が最初、とされる。
文治四年 (1188) 4月に最初の火災で焼け落ちて、頼朝の支援を受けて再建された。長講堂と六条殿の位置は吾妻鏡の文治四年 (1188) 4月20日の条に記載している。
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後白河法皇は所有した42ヶ国、89ヶ所の荘園を長講堂に寄進し、更にその全てを娘の覲子内親王 (生母は 高階栄子) に譲って翌 建久三年 (1192) に崩御した。
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この長講堂領は覲子内親王の死没 (建長四年、1252年) 後には紆余曲折の末に後深草天皇とその子孫 (持明院統、天皇家の系図を参照) が継承するのだが、それはいずれ、改めて。
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右は現在の長講堂を含む鳥瞰。クリック→ 別窓で拡大
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長講堂と六条殿は承元二年 (1208) に二度目の火災で焼失しているから、明王院僧正はその再建供養の導師に任じていたため長期の鎌倉滞在を避けた、という経緯になる。
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その後の長講堂は焼失と移転を繰り返し、天正十六年 (1586) に豊臣秀吉が現在地 (地図) に移転させた。現在の建物は元治元年 (1864) の 禁門の変 (Wiki) での焼失後に再建したもの。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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11月 1日 丁丑
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で神楽の奉納あり。将軍家 実朝は出御せず、遠江守 源親広が奉幣使として派遣された。
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   ※出御せず: 実朝の都合ではなく何か宗教上か儀礼上の理由がある、と考えるべきか。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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11月 4日 甲午
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吾妻鏡
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小御所東面の小庭で 和田新左衛門尉 常盛らの武士が勝ち負けを競う弓射を行なった。弓馬の鍛錬を欠かすべからずとの相模守 北條義時の諫めに従った催しである。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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11月 5日 乙未
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吾妻鏡
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相模国の大庭御厨にある大日堂の本尊は特に霊験のある仏像で故 頼朝将軍も深く帰依していたが、近年は荒れ果てているとの噂が届いた。これを惜しんだ将軍家 実朝は相模守 北條義時に修繕を加えるよう命じた。
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   ※大日堂: 藤沢市西俣野にある御嶽神社 (地図) が該当する。
新編相模国風土記稿 (Wiki) には次の記載がある。
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西俣野村の御嶽社 (別当寺は御嶽山神札寺) 、一尺一寸の御神体と本地仏 大日不動の二体は既に失われ今は堅牢な造りの地神を祀っている。
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大日堂に関しては建久六年 (1195) 11月19日付の吾妻鏡にも復旧と管理強化を命じた記載がある。
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俣野景久滅亡後に 鎌倉権五郎所縁の大日堂の荒廃を知った 三浦義澄が復興を願い出た。頼朝は護持を命じ、必要な田畑を寄進した。
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当事者の頼朝と義澄が死ねば責任の所在は不明確、管理は放棄し関係者が私腹を肥やしていた、という事だろうか。更に詳細は当日の条で確認を。
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右上は現在の大日堂。クリック→ 別窓で拡大。すぐ前の広い水田は俣野郷の風景だったか。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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11月 7日 丁酉
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吾妻鏡
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去る四日に小御所で行なった弓の勝負で負け方の者が酒肴を拠出して御所での御酒宴乱舞となり、公私上下を問わず羽目を外す大騒ぎとなった。武芸を本分とし朝廷を警護すれば関東が繁栄する基となる、相模守 北條義時と大官令 大江広元は御家人の本分に準 (なぞら) えて話をした。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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11月 8日 戊戌
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮に建立した神宮寺の常燈の燈油に供するため、駿河国益頭庄の年貢を充当せよとの命令が相模守 北條義時に下された。

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   ※益頭庄: かつての益津郡 (藤枝市東部)で、現在の藤枝市藤枝四丁目に御殿小路の地名 (地図) が残る。
ここが益頭庄の庄家で、後に今川氏家臣の藤枝氏が居館を構えていた。
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元久二年 (1205) 9月21日~承元元年 (1207) 1月14日の駿河守は北條時房、その後は大内惟信 (惟義の嫡男) が承久の乱の朝廷方として敗れるまで務めている。
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守護は 北條時政、徳正の失脚後は 義時泰時と世襲され、北條氏の財源の一部を支えた。
今回の燈油充当が義時に命じられたのはこの変遷に依拠している。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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11月14日 甲辰
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吾妻鏡
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相模守 北條義時が、以前からの郎従 (伊豆国の出身で主達 (おもだち) と呼ぶ) の中から功績のある者を選んで御家人に準じる扱いとする希望を述べていた。これについて内々 (非公式) の沙汰があり、将軍家 (実朝) の許しが得られず、厳しい仰せがあった。
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それを認めれば子孫の時代になった時に当初の経緯を忘れ幕府參昇 (幕政への関与) を企てるようになる。後世に禍根を残す恐れがあるから、将来も認めてはならない。
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   ※将来の危惧: 八代執権 時宗 (着任は文永元年、1264年)の時代になると得宗家 (北條嫡流) の権限
が巨大化し、連動して得宗被官の権限も拡大して御家人同様に幕政に関与し始める。
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九代執権 貞時が幼い頃には更に権力を掌握した御内人筆頭の 平頼綱 霜月騒動 (Wiki) を引き起こして有力御家人の 安達泰盛を滅ぼし執権や得宗家を上回る権限を掌握する。
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結果として平頼経は成長した貞時によって追討されるが、御内人が政治的&経済的に主導権を握る構図は生き残り、幕政の腐敗に従って倒幕勢力の台頭を招くことになる。
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話を冒頭に戻して...才能の乏しい傀儡将軍が満17歳で発した科白としては鵜呑みに出来かねる。これは御内人の平頼経らが駆逐された正応六年 (1293) 4月以降、つまり「後世に問題を残す恐れ」が現実化した後に 吾妻鏡の編纂者が実朝の言葉として追記した、そう考えないと辻褄が合わない、と思う。
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しかし...北條氏こそ元々が陪臣 (主君 (将軍) に仕える家臣) つまり御内人なんだよね。
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源姓の将軍や皇室出身の将軍に比べると何の貴種性も持たない「たかが陪臣に過ぎない」北條氏の決定的な弱点だ。私は五代執権の 北條時頼が退任後も権力を握り続けたのは朝廷同様の「院政」によって貴種性を得ようとした欲望の表れだと思っている。
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もし源家の血脈を持つ娘がいたら その貴種性を利用して神格化を図ったのじゃないか、と。もしかすると、三代執権の 泰時が四代将軍の妻として 竹御所を与えたのは...
女子が生まれたら得宗家の男と娶せて男子を産ませ、陪臣の地位から貴種の座に格上げしようと考えたのじゃないか、と。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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11月20日 庚戌
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吾妻鏡
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諸国守護人の職務遂行に緩怠の傾向があり、群盗の横行によって荘園や保 (土地管理の単位) の年貢徴収などに支障が起きている、との訴えが国衙から届いている。これについて検討を重ねた結果、将軍家 実朝からは次の通り仰せがあった。
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守護職が世襲となり故実に頼って怠慢の状態になっている。年数を決めて交代制を導入したらどうか。或いは国情をつぶさに調べて管理状態の悪い者を更迭させたらどうか。
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しかし尚も結論が纏まらなかったため言葉を続けて以下の仰せが下された。
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とりあえず最初に就任した時の命令書を確認しよう。その上で元々安堵されていた所領と勲功によって新たに得た所領とを分離してから検討すべきだろう。
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和田義盛中原仲業清原清定らがこの件を差配する。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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11月27日 丁巳
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吾妻鏡
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和田左衛門尉義盛が上総国司への着任を望んでいる件について内々の指示があった。「しばらく決裁を待つように」との内容で、義盛の喜びは特に大きかった。
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   ※上総国: 上総国と常陸国と上野国は 親王任国 (Wiki) で、国守には必ず親王が太守として補任される。
実質は現地に赴任しない「遙任」で、従って義盛の望む国司とは二等官の上総介となる。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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12月 1日 丁巳
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吾妻鏡
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将軍家の御台所 坊門信子の御方に仕える者および侍は将軍家の外出の際にも供として従うこと、また幕府から新領を得た者は既定の公務を務めるよう定められた。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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12月11日 辛未
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吾妻鏡
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美作蔵人朝親と小鹿嶋左衛門尉 橘公業が軽率にも合戦を計画し、共に親戚縁者を巻き込んだ騒ぎとなった。
三浦一族は朋輩を称して公業の側に加わり、武田と小笠原の一族が朝親を応援するために駆けつけた。
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将軍家はこれを聞いて驚いたが侍所別当の 和田義盛が既に公業の側に加わっているため、武蔵守 北條時房を派遣して取り敢えず双方を説得し騒ぎを鎮めた。
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朝親と公業の宿館は門が向かい合う目の前にあり、最近になって朝親の妻は急に行方不明になっている。
ところが夕暮れになって若い女が突然公業の家に入り、これが月明かりでも判るような美女だったので公業は前後の事情も考えずに同衾して数日を過ごしてしまった。
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ここで悪意を抱く者が妻を想っている朝親に「貴方の妻女は以前から公業と密通し、今は同居している。」と告げ、これを聞いた朝親は遺恨を晴らそうとした、これが事件の経緯である。
時房が実朝の仰せを受けて調べたところ朝親の妻女に間違いなく、夫の朝親に返すよう公業に命じた。
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公業にも言い分はあるだろうが、意図せずに起きた事件だから騒ぎを大きくしてはならぬ、と言い含めた。
公業は妻女を送り出したが、彼女は再び行方を晦ましてしまった。朝親はまだ合戦の準備をしているらしい。
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   ※密通事件: 時代が変わっても同じような事を繰り返すのが人間の愚かさ (楽しさ、かも) だね。
当時の共通認識 (実際は判らないけど) として、貞永元年 (1232) に三代執権 泰時が発布した御成敗式目に載ってる程だから珍しくもなかったのだろう。該当する項目を抜き出すと、結構笑える材料が見つかる。決裁した担当者のレベルも、かなり笑える。
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「第三十四条 人妻との密通禁止」
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強姦か和姦 (原文は和奸) を問わず、人妻と密通 (原文は密懐) した者は所領の半分を没収して出仕を禁じ、所領がない場合は遠流に処す。人妻の処分も同じ。
道路で女を拉致した御家人は百日の出仕停止、郎従以下の者は右大将の頃に準じて片側の頭髪を剃る。ただし法師の場合はその時々に判断を下す。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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12月13日 癸酉
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吾妻鏡
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尼御台所 政子と将軍家 実朝が故 頼朝の法華堂で恒例の仏事 (月違い命日) を催した。
導師は荘厳房 退耕行勇が務めた。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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12月15日 乙亥
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吾妻鏡
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関東近国の守護補任に関する御下文が発行された。
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まず 千葉介成胤が言うには、先祖の千葉大夫元永 (常胤の祖父 常兼、秩父平氏の系図参照) 以来は千葉庄の検非違使 (警察、司法) に任じ、右大将 頼朝の時代には 常胤が下総一国の守護職に補せられた。
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また 三浦兵衛尉義村が言うには、祖父の 義明が天治 (1124~1125)の頃から相模国衙で行政に携わり、同じく右大将家の時代に警察権と司法権を行使するよう 義澄が承った。
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また 小山左衛門尉朝政が言うには、御下文は持っていないが先祖の下野少掾豊澤が下野国の押領使として裁決など全てを行なってきた。藤原秀郷朝臣が天慶三年 (940) に (平将門討伐の恩賞として) 官符を受けてから十三代 数百年 (正確には270年間)の間に途絶えた事はない。右大将家の建久年間に亡父の 政光入道が朝政に相続させる際に安堵の御下文を受けているから新恩の職ではないとして、官符などの書類を提示した。
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その他の国々も同様に右大将家の御下文を持っており、小さな罪を犯したとしても安易に改補すべきでない。今後とも心を引き締めて任務を果たすよう其々に仰せがあった。この件の差配は 大江広元である。
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   ※下野少掾豊澤: 藤原鎌足→ 不比等→ 房前→ 魚名→ 藤成→ 豊澤→ 秀郷 と続く。
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   ※実朝の仰せ: 満16歳の実朝による独自の判断ではない、だろう。この時期の決裁は全て義時と政子が
関与している筈だ。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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12月17日 丁丑
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吾妻鏡
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美作朝親橘公業の喧嘩について、将軍家 実朝が改めて慰撫するため武蔵守 北條時房を派遣した。
朝親は今となっては特に確執はないと語り、公業も元より不満は持っていないと答えた。
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   ※確執なし: ところで争いの元になった美人の妻女はどうなったか気になるね。元の鞘に戻ったのか、
それとも離縁か、それとも...。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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12月19日 己卯
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吾妻鏡
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佐々木兵衛太郎入道西仁が硯一面を将軍家 実朝に献じた。三位 平通盛卿が愛用したという重宝で、将軍家も特に喜ばれた。

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   ※佐々木西仁: 建久元年 (1190) 7月20日に工藤祐経を石で傷付けて出奔した当時15歳の信実 (佐々木盛綱
の長男) 。翌21日に出家して西仁を名乗り暫くして加地荘を継承した。越後国加地荘の地頭を経て承久の乱 (122年) の勲功で備前国守護となった。承元三年にはまだ弱冠33歳。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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12月22日 癸未
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吾妻鏡
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将軍家 実朝が勝長寿院と永福寺と頼朝法華堂などに御参り。供奉人多数が従った。
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2025年
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6月21日
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晴耕雨読
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庭のブルーベリーが採れ始めた。数日前に採取が終わった梅の樹の下で、やや陽当たりが良くないのに今年も頑張って実を付けている。
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夕食後に二人で10数粒づつは食べられるから、オレンジかバナナと組み合わせればまぁまぁのデザートになる。
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去年は大部分を冷凍にして、妻がヨーグルトと一緒に丸々一年間食べ続けていた。枝でスズメが遊んでいるのを見て「食べられちゃうからネットを掛けて!」と言われたけど、特に実害がないと判って今年は面倒な作業から免除された。スズメは食べないと思うし、少しぐらい食べたって多寡が知れているからね。
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残念ながら一昨年は10リットルのバケツに三杯も採れたプラムが二年続けて不作である。剪定も弱めにしたし冬には油粕を撒いてやったのに、なぜだろう?
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 右はこれから紫に色づくプラムの小枝。完熟したら摘まみ食いだ。 画像をクリック→ 別窓で拡大標示
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園芸日誌を整理して 2025年10月の情報を載せました。左目次の 晴耕雨読 園芸日誌 でどうぞ。
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西暦1209年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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承元三年
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83代 土御門天皇
後鳥羽上皇
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