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天福二年 (1234年) 、11/5 に改元して文暦元年
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前年・天福元年 (1233年) の吾妻鏡 へ       翌年・文暦二年 (1235年) の吾妻鏡
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吾妻鏡 写本 (伏見本) の全ページ画像 を載せました。直接 触れるのも一興、読み解く楽しさも味わって下さい。
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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1234年
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87代 四条天皇
後堀河上皇
天福二年
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1月 1日 庚子
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴、風は静まった。相模守 北條時房の沙汰による椀飯の儀あり。将軍家 藤原頼経が出御し、八條少将が簾を挙げる役を務めた。出羽前司 中条家長が御剣を、左衛門尉 佐原三郎家連が御弓箭を、式部丞直 北條朝直が御行騰沓を携えた。
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   一の御馬(鞍置)   越後太郎北條光時  越後次郎北條時章
   二の御馬       相模六郎北條時定 (北條時房の六男)   本間三郎左衛門尉
   三の御馬       掃部助太郎 結城朝広  本間次郎左衛門尉
   四の御馬       佐原四郎光連 (蘆名)   同六郎兵衛尉佐原時連 (横須賀)
   五の御馬       本間左衛門尉(太郎忠貞か)  同四郎左衛門尉
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   ※椀飯 (おうばん) : 饗応の献立、食事を摂る儀式や行事も意味する。大判振る舞い の語源。
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   ※行騰 (むかばき) と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像 (Wiki) を参考に。
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   ※佐原家連: 義連の三男。承久の乱 (1221) の勲功で紀伊国南部 (みなべ) 荘 (和歌山県みなべ町)
の地頭となり、更に義連を継いで紀伊国の守護に任じた。みなべ町は南高梅の主産地として名高い。情報発信拠点 道の駅「みなべも参考に。
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   ※光連と時連: 光連 (光盛) は義連の嫡子 盛連の四男で会津葦名氏の祖。時連は盛連の六男で、
陸奥国の新宮荘 (福島県喜多方市) を本領とし新宮氏の祖となった。三浦系氏族だが兄弟 6人は宝治合戦で三浦氏には味方せず北條氏に与して戦うことになる。
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   ※本間左衛門尉: 本間氏は武蔵七党の横山党海老名氏流。本領は相模国愛甲郡依知郷 (厚木市の
中依知 (地図) 。北條被官として佐渡代官に任じ、分家の子孫から出羽の富豪 本間氏が現れる。
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吾妻鏡の嘉禄二年 (1226) 7月1日に 「本間太郎左衛門尉忠貞」 の記載がある。彼が惣領と思われるが系図には載っておらず、弟 (らしい) 二郎・三郎・四郎の本名も判らない。鎌倉~室町時代には同族内部の争いなどで栄枯盛衰を繰り返しており、系図にも錯綜が多いようだ。
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   ※年令: 四代将軍 藤原頼経 間もなく 満 17歳、
竹御所 (故 2代将軍 頼家の娘、寛喜二年 (1230) 12/9に将軍 頼経と婚姻、今年 7/2の死産後に病没する (享年32) 、 貞暁 (寛喜二年 (1230) 3月病没、享年46才) 、
坊門信子 (故 実朝の寡婦、出家) 47歳 、
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北條泰時 50歳、 北條時房 60歳、 北條朝時 41歳、 北條重時 36歳、 北條政村 29歳、
北條実泰 26歳、 三浦義村 65歳、 三浦泰村 50歳、 千葉時胤 15歳 、
安達景盛 51~59歳、 安達義景 23歳、 足利義氏44歳、 宇都宮頼綱 54歳、
二階堂行村 76歳、 二階堂行盛 52歳、
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87代 四条天皇 2歳8ヶ月 (貞永元年 (1232) 12/5即位)、
86代 後堀河天皇 21歳 (貞永元年10/4に譲位し後堀河院) 、
西園寺公経 61歳、 九条道家 40歳、 藤原定家 69歳、
退耕行勇 69歳、 親鸞 59歳、 叡尊 33歳、忍性 16歳、 日蓮 12歳、
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   三浦義村は仁安三年 (1168) 誕生 (史料に拠り 元暦元年 (1184) に満16歳だった と設定)。
   安達景盛は寿永元年 (1182) 誕生 (異父兄 島津忠久との年齢差≒ 5) 考えて年齢を推定した。
     (全て1月1日基点の満年令、下線付きはWiki)
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   安貞二年 (1228) 12月に 関白が 近衛家実 (Wiki) から鎌倉将軍 藤原頼経の父 九条道家に交替。
近衛家実 (通称を猪熊関白) は鎌倉幕府と協調して後鳥羽院政を否定し 「成功 (売官制度) 」 なども取り入れたが、将軍頼経+三浦一族+西園寺公経と組んで幕府への圧力を強めようと諮った九条道家との権力争いに敗れて政治力を失ってしまう。
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その九条道家も、建長三年 (1251) には将軍 頼経の失脚と共に没落してしまうのだが...
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西暦1234年
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87代 四条天皇
後堀河上皇
天福二年
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1月 2日 辛丑
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吾妻鏡
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曇、夜になって小雨。武蔵守 北條泰時の沙汰による椀飯の儀あり。陸奥式部大夫 北條政村 (狩衣) が御剣を、越後太郎 北條光時が御弓箭を、駿河次郎 三浦泰村が御行騰沓を携えた。
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   一の御馬 (鞍置)   隠岐三郎左衛門尉 二階堂行義  同、四郎左衛門尉二階堂行久
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   ※二楷堂行義: 行村の次男で暦仁元年 (1238) ~文永五年 (1268) まで評定衆。
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   ※二楷堂行久: 行村の三男で宝治三年 (1249) ~文応二年 (1261) まで評定衆。
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西暦1234年
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87代 四条天皇
後堀河上皇
天福二年
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1月 3日 壬寅
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吾妻鏡
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椀飯後に将軍家 (狩衣、御車) が武蔵守 北條泰時邸に御行 (外出) 始め、剣持ちは上野介 結城朝光
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西暦1234年
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87代 四条天皇
後堀河上皇
天福二年
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2月14日 癸未
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百錬抄
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今日 未刻 (14時前後) に 北野天満宮 (公式サイト) の神殿、拝殿、廻廊などが焼亡した。火元は北側の在家信者宅と思われる。
神輿や御神体は退避できたが、朝日寺 (現在の 東向観音寺) は燃えてしまった。御輿は暫く林に遷座し、夜に入り宝蔵に安置した。余焔は外記庁などにも及んだが打ち消す事ができた。
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   ※外記庁: 内裏外廊の東門である建春門院の東側にあった庁
舎。北野天満宮からは直線で約 1.5km、延焼の危険があるエリアではない筈だと思うが...。
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吾妻鏡 2月24日 癸巳 の記録
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京都からの使者が鎌倉に到着して報告。去る14日の未刻 (14時前後) に北野聖廟 (北野天満宮、公式サイト) が焼失した。この社の火災は天延 (973~976年) と長徳 (995~999年) に続いて三回目である。
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      右は関連ポイントを落とし込んだ広域地図。 クリック→ 別窓で拡大表示。
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西暦1234年
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87代 四条天皇
後堀河上皇
天福二年
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3月 1日 己亥
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吾妻鏡
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今日、御台所 竹御所の御着帯、午刻 (正午前後) にその儀あり。
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   ※御着帯: 現代も続く安産を祈る習慣だがこの日は「亥」、
鎌倉時代は戌の日なんて無関係だったらしい。
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蛇足。我が家の犬が出産した時は私が産婆 (産爺か) を務めて10匹を取り上げた。
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私が胎盤を外して臍の緒を縛って切り離し、妻が体を拭いて呼吸を確認する流れ作業に なんと5時間を費やしてしまった。
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飼っていたペアは寿命を迎えて来世に旅立ち、各地に貰われて行った仔犬たちも老齢を迎えた13才前後で命を全うした。
楽しい思い出と悲しい思い出が交差する、それが人生だね。
  生後2ヶ月が過ぎた頃かな、多分2000年か、2001年の写真。
          左目次の「愛犬の思い出」には動画もあるよ。
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西暦1234年
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87代 四条天皇
後堀河上皇
天福二年
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3月 5日 癸卯
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吾妻鏡
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武蔵守 北條泰時の内孫 (北條時氏の嫡男、11歳) が御所で元服した。
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相模守 北條時房 (狩衣) 、泰時 (同じく) 、越後守 北條朝時、式部大夫 北條政村、前民部権少輔 源親広、摂津守 中原師員、駿河前司 三浦義村、出羽前司 中条家長・大夫判官後藤基綱・上野介結城朝光らが西の侍所に着座し、若公(水干姿)は同じく侍所の南に座した。暫くして籐内左衛門尉藤原定員(将軍家の近臣)を介して将軍 頼経 が若公を寝殿西側の簾中に招き、続いて泰時も招かれた。
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北條政村、源親広、左近大夫将監大江佐房、左衛門大夫長井泰秀、右馬権助伊賀仲能らがそれぞれの役目を務め、時房が理髪 (前髪を落す) し、(将軍の代理として)加冠して北條弥四郎経時と命名した。
続いて八條少将が御剣を取って経時に手渡し、経時はこれを受けて退出した。
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次に両国司 (時房と泰時) 以下の人々は庭に着座し将軍家 藤原頼経が南面に出御、八條少将実清朝臣が御簾を引き挙げ、引き出物として御剣、御鎧、御馬が下賜された。その後に御簾が降ろされ、人々は堂上での椀飯&酒宴となり、正月三ヶ日の如くになった。
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泰時は退出後に三郎左衛門尉 平盛綱を使者として龍蹄 (大型の駿馬) を時房に贈った。また左近将監入道 後藤基綱と兵衛尉 諏訪盛重を介して儀式に関わった人々に謝辞を伝えた。
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   ※北條時氏: 泰時の嫡男。次期執権として期待されていたが寛喜二年 (1230) 6月に27歳で早世、
二男の時実も (家臣とのトラブルで) 16歳で斬り殺された。三男公義は2歳だったため執権候補には成りえず、泰時は今回元服した時氏の長男経時に全ての夢を託すのだが...
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西暦1234年
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87代 四条天皇
後堀河上皇
天福二年
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3月10日 戊申
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吾妻鏡
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大蔵卿 菅原為長 (Wiki) が武蔵守 (Wiki) 北條泰時宛に送った書状が一巻の記録と共に届き、泰時が御所に持参した。中原師員が御前で読み上げた内容は次の通り。
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北野天神社の火事について評議がありました。私に長門国が与えられ、その年貢を宛てて来る8月までに宝殿を再建するよう帝から命じられました。また火災の翌日の夜に大宮中納言 (実有卿) が夢に現れて天神 (菅原道真、Wiki) が四韻の詩を作り、夢から醒めてもその七文字 「昨林中火扇凉風」を覚えております。
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また去る2月の頃に南都 (奈良) の天狗が怪異を現し 一晩で千戸以上の民家に三文字を書く、とか。
この現象は未だ現れておりませんが、実に奇異な事であります。
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   ※大宮中納言: 西園寺公経の次男で清水谷家の祖となった一条実有。公経の祖父で西園寺家の
祖だった通季が大宮を名乗った経緯に基づく。実有は他の兄弟に比べて出世も遅く地味な存在だったが孫の公経は激しい政争を巧みに生き抜き、朝廷の人事権を思いのままに操って「世の奸臣」と評されるほどの権勢を握っている。
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西暦1234年
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87代 四条天皇
後堀河上皇
天福二年
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3月22日 庚申
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吾妻鏡
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大納言阿闍梨 隆弁が初めて御所に参上し、将軍家 藤原頼経と面会した。去る6日に本寺の 三井寺 (圓城寺) を発って鎌倉に下着した人物である。
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西暦1234年
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87代 四条天皇
後堀河上皇
天福二年
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4月 5日 癸酉
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吾妻鏡
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武蔵守 北條泰時の所願として今日から鶴岡八幡宮で大般若経一部の書写を開始。左衛門入道道然 尾藤景綱と兵衛入道 齋藤浄圓がこの差配に任じた。
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   ※吾妻鏡の欠落: この年の 5月の記事は存在せず。欠落か、記録するような事件がなかったか。
1月~2月と 6月の記事が少なかった事と併せて、少し気になる部分ではある。
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西暦1234年
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87代 四条天皇
後堀河上皇
天福二年
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6月19日 丙子
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吾妻鏡
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左衛門少尉 狩野為光が評定衆に加えられた。
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   ※狩野為光: 茂光-三男行光 (宗茂の弟) -次男為光 と続く狩野氏の傍流。寛元四年 (1246) まで
評定衆を務め、同年の宮騒動に連座して解任される。建長五年 (1253) になって引付衆 (評定衆の下部組織で定員は3~5人。頭人、引付衆、引付奉行で構成) として幕政に復帰した。従五位に叙された嘉禎三年 (1237) に為佐と改名している。
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西暦1234年
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87代 四条天皇
後堀河上皇
天福二年
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6月30日 丁酉
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吾妻鏡
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陸奥五郎 北條実泰が病気のため小侍所別当を辞任した。実泰は「小侍所別当は重職だから若年の息子 太郎実時には重すぎる。」との申し出があったが、武蔵守 北條泰時 「重職や年少については私が補佐しよう」との意向を述べ、任命する結果となった。
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   ※実時: 元仁元年 (1224) 生まれの満9~10歳、に優れた政治家、文化人として実績を積む。
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   ※小侍所: 将軍に近侍して御家人の宿直や供奉を管理し、将軍と御所の警備を統括した職種。
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西暦1234年
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87代 四条天皇
後堀河上皇
天福二年
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7月 6日 癸卯
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吾妻鏡
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家司らに命じて起請文を提出させた。業務の執行に際しては親しいか否か、身分の高低などに関係なく、正義を基準として措置するとの内容である。提出したのは以下の17人。
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前山城守藤原秀朝、前山城守中原盛長、散位大江以康、散位三善康持、民部大丞三善康連、中務丞大江俊行、弾正忠大江以基、大膳進大江盛行、左衛門尉惟宗重通、兵庫允三善倫忠、藤原頼俊、沙弥行忍、惟宗行通、三善康政(康宗と改名)。
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   ※家司: 本来は公卿や大名の家政を司る役職だが、鎌倉時代の中期からは幕政への関与が頻繁
になり、北條被官 (御家人に対して 御内人と呼ぶ) が幕僚を兼ねる例が恒常化し本来の執事に近い職務の性格が薄れてしまう。
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承元三年 (1209) 11月14日の吾妻鏡には郎従を引き立てて御家人に準じる扱いをするよう願い出た執権 北條義時に対して将軍 実朝が許さず、「それを認めれば 子孫の時代になった時に当初の経緯を忘れ、幕政への関与を企てるようになるだろう。後世に問題を残す恐れがあるから、将来も認めてはならない。」と厳しく言い渡す記載があった。
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実朝の危惧が当ったのか、或いは後世に霜月騒動など陪臣の暴走を実体験した吾妻鏡編纂者による恣意的な付け足しだったのかは不明だが...
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弘安八年 (1285) になって御内人 (北條被官) の平頼綱が満12歳の北條貞時を補佐する形で独裁体制を敷き、11月には徳政令の採用を進めていた政敵の古参御家人 安達一族を滅亡に追いやると共に行政権を掌握するクーデター 霜月騒動 (Wiki) が勃発する。
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結果として平頼綱は成長した九代執権貞時に見捨てられ、正応六年 (1293) に自害して生涯を閉じるのだが...肝心の吾妻鏡は文永三年 (1266) 7月20日で途絶しており、最も興味を惹かれる時代の北條嫡流側からの詳細記録は確認できない。
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肝心の吾妻鏡を喪失する本稿としては、ある限りの史料を掻き集めて空白を埋める必要に迫られるのだが、これはまだ30年も先の話。いずれ本気で問題と対峙する状況は確実に訪れる。
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いずれにしろ、権力を取り戻した貞時は元寇と徳政令が招いた経済の疲弊から脱却できず、北條氏の独裁が権力を振るった時代は数十年をかけて終焉に向かっていく。
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   ※蛇足: 頼綱の別邸が熱海にあったとの話がある。夢窓疎石
の弟子で臨済宗の僧 義堂周信 (共に Wiki) の日記が「熱海在住の僧から聞いた話」として、下記の内容を載せている。
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多くの悪行を重ねた頼綱の別邸が熱海にあり、再三の温浴を楽しむのが習慣だった。頼綱が殺されると共に館は熱湯が噴き出す地中に沈み、その跡は「平左衛門地獄」と呼ばれている。
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実際には 「清左衛門という名の百姓が馬に跨って暴走し湯壷に飛び込んで焼け死んだ」 との伝承が誤って伝わったらしい。現在は 「熱海七湯の一つ、清左衛門の湯」 として保存されている。  右画像をクリック→清左衛門の湯を別窓で拡大表示。
             詳細は当サイト 熱海七湯 (別窓) で、どうぞ。
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西暦1234年
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87代 四条天皇
後堀河上皇
天福二年
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7月12日 己酉
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明月記
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快晴。先月末の書状が鎌倉から到着した。将軍家の室の出産に対応する祈祷についての報告、また去る26日の朝に 北條義時 の五男 (生母は一条実有 (西園寺公経の次男) の娘)が誤って腹を突き破り意識を失なった。兼ねてからの狂気、との噂もある。
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   ※義時の五男: 北條実泰を差す。通説では生母は 伊賀の方、異説として一条実有の娘。
幕政の中で続く緊張に耐え切れず精神の安定を失なった、と伝わっている。
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西暦1234年
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87代 四条天皇
後堀河上皇
天福二年
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7月26日 癸亥
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吾妻鏡
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御台所 竹御所が供奉の数人と共に御産所 (北條時房邸) に移られた。渡御後の子刻 (深夜0時前後) になって産気づき、廷尉藤原定員が鳴弦役の者を呼び下記の10人が集まった (各々白の直垂と立烏帽子) 。
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左近蔵人 城太郎 安達景盛 上野七郎左衛門尉 結城朝広  駿河五郎左衛門尉 三浦資村 (義村の
七男)  近江三郎兵衛尉(?) 三浦又太郎  衛門尉伊東三郎祐綱 (祐時の三男)
葛西新左衛門尉清時 (清重の三男)  中條左衛門尉 (家長の嫡子家平)  和泉二郎左衛門尉景氏(?)
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   ※鳴弦: 邪気や魔物を払うため弓の弦を鳴らす。元は朝廷で、後に武家の病気や誕生の際などに
行われた。
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   ※左近蔵人: 左近衛府の官人で蔵人を兼ねた人物。文暦二年 (1235) 9月19日の吾妻鏡には
「毛利左近蔵人親光が使者を...」との記載があるから素性は判るのだが、毛利氏の系図には記載がない。大江親広の庶子か、とも思うが...。
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   ※三浦又太郎: 貞応三年 (1224) 1月1日の吾妻鏡に 「三浦又太郎氏村」 の記載がある。三浦氏の中
中で 「村」 の通字は 義村の系だけだが、ここにも氏村は見当たらない。
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西暦1234年
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87代 四条天皇
後堀河上皇
天福二年
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7月27日 甲子
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吾妻鏡
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寅刻 (早朝4時前後) に 竹御所が死産した。加持祈祷に任じたのは弁僧正定豪、産後の御台所は酷く苦しみ、末刻 (8時前後) に死去した (御歳32) 。正治将軍 (正治時代の将軍 頼家) の姫君である。
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   ※竹御所死没: 頼朝の血を継ぐ男子は 貞暁の死没 (寛喜三年、1231年 ) で断絶、女性は竹御所が
最後だった。河内源氏嫡流として武家全体の覇権握った頼朝の血筋は、没後のわずか 35年で完全に途絶した事になる。
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泰時ら北條氏としては、権力を握ったとは言え陪臣に過ぎない北條一門が源氏の血筋を将軍に推戴して貴種性を確保する絶好の機会と考えたのだろうが...
竹御所は哀れな生涯だった。夫婦仲が良かったと伝わっているのがせめてもの救いだったか。
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西暦1234年
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87代 四条天皇
後堀河上皇
天福二年
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8月 1日 丁卯
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吾妻鏡
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北條弥四郎経時が小侍所別当 (6月30日を参照) に補任となった。これは陸奥太郎 北條実時が竹御所の御後事 (死没後の雑事) を担当する事による穢を避けるのが理由である。
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西暦1234年
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87代 四条天皇
後堀河上皇
天福二年
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8月 6日 壬申
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史 料
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後堀河上皇が崩御 (数え23歳) 。まだ院政の端緒未満の不幸だが、後堀河の退位 (つまり四条天皇の即位) は摂政関白左大臣の 九条道家が 「天皇の外祖父」 として実権を握るため強引に仕組んだ、と考える説もある。四条天皇の生母 竴子 (Wiki) は九条道家の娘であり、道家は 「天皇の父+鎌倉将軍の父+三浦一族のシンパ」 として幕政の主導権掌握を目差したのだろう。
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西暦1234年
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87代 四条天皇
天福二年
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8月
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明月記
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   ※8月2日 戊辰: 早朝に永光朝臣の使者が伝えた。関東の貴人が死産後に死去したとの飛脚が
鎌倉から 四日間で駆け付けた、と。故前幕下 頼朝の血筋が絶えたことになる。
平家の系累は嬰児まで探し出して殺した、その報いだろう。北條重時 (六波羅北方 ) が鎌倉に向けて出発した、と。
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   ※8月6日 壬申: 重時ら著名な武士が鎌倉に向かい、京都の警備が手薄になっている。
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   ※8月20日 丙戌: 昼過ぎに実家 (該当なし) 朝臣が来訪、去る10日に鎌倉を出発し上洛したと。
関東の葬送は29日、服者 (喪に服す者) なので凶事の後は出仕せず、それ以前は時々将軍家に出仕していた、との事だ。
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西暦1234年
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87代 四条天皇
天福二年
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8月21日 丁亥
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吾妻鏡
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武蔵守 北條泰時の家令 尾藤左近入道道然 (藤原景綱) が病気で辞職、左衛門尉 平盛綱が後任となった。
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西暦1234年
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87代 四条天皇
天福二年
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8月22日 戊子
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吾妻鏡
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左近将監藤原景綱 (藤原景綱法師、法名道然) が死去した。
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   ※吾妻鏡の欠落: この年の9月と10月は存在せず。7月29日に行なう筈の竹御所の葬儀と、9月20
に日前後は四十九日法要も催された筈。欠落は単なる散逸か?それとも何か理由があるか?
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西暦1234年
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87代 四条天皇
天福二年
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9月
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明月記
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   ※9月3日 己亥: 多くの武士が入洛、掃部助 北條時盛は特に群盗を取り締まる命令を受けた。
時盛は7月末日、北條重時は昨日入洛、その他にも多数の武士が続いている。
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   ※9月4日 庚子: 噂では重時朝臣の今回の入洛は郎従千騎と両人の他に武士十人を伴っている。
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   ※9月11日 丁未: 東大寺別当については御中陰 (竹御所の四十九日) 過ぎに決定するらしい。
また関東将軍家が突然に厳海法印を鎌倉に招いた、と。
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   ※9月13日 己酉: 厳海法印の来訪あり、鎌倉に向かう旨を報告した。
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   ※東大寺別当: 承久二年 (1220) の実朝殺害後、殺害犯の別当 公暁の後任に八幡宮別当に任じた
定豪は安貞二年 (1228) に東大寺別当を兼任した。
今回は 竹御所母子の死没による祈祷失敗の責任を取る形で東大寺別当と東寺長者 (二位) を辞任、後継の別当には頼恵が就任するのだが...頼恵は翌文暦二年 (1235) 6月に死没、東大寺の108代別当には親厳が就任する。
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   ※厳海法印: 誰だ?八幡宮別当は定豪-定雅-定親-隆弁と続くから該当しない。ま、いずれ
判るか。
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西暦1234年
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87代 四条天皇
天福二年
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11月 5日 庚子
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百錬抄
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改元あり。天福二年を改めて文暦元年、天災の凶事を断ち切るために行われた(災異改元)。
「百錬抄」は 「天福の字は最初から否定的な意見が多かった」 と書いている。まぁ語感は確かに軽薄だ。

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西暦1234年
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87代 四条天皇
天福二年
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11月 9日 甲辰
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百錬抄
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中納言入道 (藤原定家家卿) が前の関白家で新勅撰の和歌を披露、前の院も共に観覧し取捨選択に加わった。百首ほどを切り棄てられた、と。逆に選ばれた歌も少なからずあった。
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西暦1234年
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87代 四条天皇
天福二年
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11月28日 癸亥
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吾妻鏡
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前伊賀守で従五位下の源朝臣義成が死去 (78歳、名乗りは里見) 。彼は幕下将軍家 源頼朝の寵臣で、親しいか否かを問わず惜しまない者はいなかった。
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   ※源朝臣義成: 頼朝挙兵当時の源氏の長老だった 新田義重の庶長子 里美義成
義重の遺言で新田宗家は四男の 世良田義季が継ぎ、義成は上野国碓氷郡里見郷 (地図) を継承して分家した。
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系図の錯綜はあるが、義成の子孫は後に房総半島一帯を領有して安房里見氏となり 江戸時代末期に 曲亭(滝沢)馬琴が書いた 南総里見八犬伝 (共に Wiki) のモデルになった。荒唐無稽なフィクションで、家名を使われた里見一族は不愉快だったと思うけど。
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新田義重の相続に関わる事は 新田義重置文 長楽寺文書が詳細を紹介している。
ちなみに、徳川家康は征夷大将軍として源氏の末裔を称するため、義季の息子で新田荘の得川郷 (地図、江戸時代に得川から徳川に地名を変えているから笑える) を相続した頼有を徳川の氏祖と僭称している。僭称=図々しく偽称すること。
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西暦1234年
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87代 四条天皇
天福二年
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12月28日 壬辰
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吾妻鏡
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去る21日に決まった除目の聞書 (聞き書きした書類) が届いた。将軍家 藤原頼経が正三位に昇叙され、それに伴って同日中に中納言を辞任した。
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2025年
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8月09日
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晴耕雨読
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三食全て、自家製スイカのデザート付き! 08/09 12時半 右下をクリック→ 別窓で拡大表示
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ブロックにカットして貰ったらそれなりに食べやすくて良い気分だ。まだまだ好きなだけ食べられるから奥さんも文句を言わずに手間を掛けてくれる。これ、結構イケます!
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今日で最初の一個を食べ終わり、明日からは冷蔵庫に入らずレジャークーラー+保冷材で冷やしている次の一個だ。
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畑に残してある生育中の奴は6/29の受粉なので、ちょうどお盆の中日辺りが食べ頃になる。もう一つ自然受粉の赤ちゃんスイカ (安貞元年、1227年の末尾に記載) は7/30に10cmだったからうまく育ってくれれば八月末~九月の初旬が賞味時期か。
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ブロッコリー、リーフレタス、ほうれん草、チンゲン菜、白菜、さやえんどうの季節がやってくる。
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園芸日誌を少し整理して 2025年10月の情報を載せた。左目次の 晴耕雨読 園芸日誌 でどうぞ。
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2025年
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11月22日
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校正作業
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朝 8時半、天福二年 (1234) の校正作業が終了。字数も記事も少なかったから早く終わった。
引き続き、文暦二年 (1235) の校正 (フォントサイズと行間の適正化、内容の再確認) を進める予定。
この調子で進められれば年内の終了が実現できるような気が.....
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西暦1234年
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87代 四条天皇
天福二年
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 月 日
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吾妻鏡
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西暦1234年
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87代 四条天皇
天福二年
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吾妻鏡
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西暦1234年
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87代 四条天皇
天福二年
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吾妻鏡
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記事
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