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承応二年 (1223年)
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西暦・天皇・上皇
和暦・月日・史料
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1223年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応二年
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1月 1日 甲辰
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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陸奥守 北條義時が三寅 (後の四代将軍 藤原頼経) に椀飯を献じた。御剣は駿河前司三浦義村が持参した。

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   ※椀飯 (おうばん) : 饗応の献立、食事を摂る儀式や行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
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   ※駿河前司: 三浦義村が駿河守に任じたのは承久元年 (1219) 11月13日〜貞応二年 (1223) 4月10
日まで。以後は交代した 北條重時が嘉禎三年 (1237) 11月29日に 北條有時に代わるまで務めている。従って4月10日までの義村は 「駿河前司」 ではなく 「駿河守」。
1月24日などにも同様の混用が見られる。
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   ※年令: 三寅 (後の四代将軍 藤原頼経、元服は嘉禄元年 (1225年) 12月29日) 1/16で 5歳、
貞暁 36歳、 坊門信子 (実朝の正室、出家) 36歳、
竹御所 (故 頼家の娘、後の四代将軍 藤原頼経の正室) 20歳、
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北條政子 65歳 、 北條義時 59歳、 北條時房 47歳 、 北條泰時 39歳 、 北條朝時 29歳 、
北條重時 24歳 、 千葉胤綱 24歳 、足利義氏 33歳 、 三浦義村 65歳前後 、
三浦泰村 20歳 、 大江広元 74歳 、 安達景盛 52歳前後 、
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85代 後堀河天皇 9歳、 84代 順徳天皇 25歳 、 土御門上皇 26歳 、 後鳥羽上皇 42歳 、
九条道家 29歳 、 坊門忠信 37歳、 近衛家実 44歳、 藤原定家 59歳、
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定豪 70歳、 慈円 67歳 、 親鸞 48歳 、 親鸞 47歳 、 叡尊 21歳 、 忍性 5歳 、
日蓮 2月で 1歳 、      (全て1/1時点の満年令)
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安達景盛は生年不詳だが頼朝の伊豆配流 10年後に誕生と仮定して年齢を推定した。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応二年
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1月 2日 乙巳
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吾妻鏡
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椀飯あり。御剣は陸奥修理亮 北條重時が献じた。
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その後に若君 (三寅) の御所で手鞠の会、陸奥守 北條義時、駿河守 三浦義村、左衛門尉 後藤基綱、隠岐入道 二階堂行村、右衛門尉苅田義季らが参加し、若年の輩は加えなかった。
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   ※手鞠の会: 蹴鞠ではなく屋内で鞠を投げて楽しむ遊びが流
り始め、室町時代以後は庶民に広く定着する。
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   ※苅田義季: 北條重時の長男 為時 (後に改名して時継) の妻が
苅田義季の娘。八歳で疱瘡を病んだ為時は後遺症として精神を病み、母方の所領である陸奥国苅田郡を継ぎ 5人の子女を残して苅田流北條氏の祖となった。
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重時の家督は二男の 長時 (六代執権に暫定就任) が継ぎ赤橋流北條氏の祖となった (この手鞠会には重時の縁戚として参加) 。重時は兄弟の中の逸材である。
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右は陸奥国苅田郡、概ね蔵王町と七ヶ宿町と白石市)。クリック→ 別窓で拡大表示
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応二年
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1月 5日 戊申
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応二吾妻鏡
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椀飯の後に御弓始めあり。
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 射手
   一番 駿河次郎 三浦泰村   伊賀四郎左衛門尉朝行 (朝光の四男)
   二番 下河辺左衛門次郎 (下川辺行平の一族)   佐々木加地八郎 (加地信実の一族)
   三番 嶋津三郎兵衛尉忠義 (忠久の嫡子、後に忠時と改名 )   横溝六郎義行 (下記 資重の次弟)
   四番 横溝五郎資重 (承久四年1月7日を参照)  本間四郎光忠 (承久四年1月7日を参照)
   五番 武田六郎信長 (信光の嫡子)   原左衛門尉忠康 (遠州浅羽庄の武士)
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応二年
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1月 6日 己酉
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吾妻鏡
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若君 (三寅、後の四代将軍 藤原頼経) の御祈り始め。七日までに行なうべきか否かを周防守 中原親実から二品 (政子) に 問合わせた結果は「何も問題はない」とのことだった。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応二年
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1月18日 辛酉
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吾妻鏡
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戌刻 (20時前後) に西方向から雷鳴、しばらくして止んだ。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応二年
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1月20日 癸亥
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吾妻鏡
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酉刻 (18時前後) に雷鳴。今日、源実親 (進士、式部省の官吏登用試験合格者) の奉行として、奥州 北條義時が検討事項を提示した。これは若君 (三寅) 邸西側の土地の狭さを解消するため西大路の一部を庭に取り込み、築地で区切ったらどうかとの提案である。
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隠岐入道 二階堂行村 と駿河前司 三浦義村が賛成、大倉邸に陰陽師を呼んで諮問したが或る者は不吉、或る者は直ぐ広げれば多少の祟りがあるから今年以降に行うべきなど、一致が見られなかった。
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   ※西大路: 大倉御所の西門前を南北に通っていた大路。
西御門跡の碑は鎌倉小中学校 (1947年創建) のグラウンド外側にあるが、本来の西大路は来迎寺と筋替橋を直線で結ぶ線 (校舎東側) を通っていた。
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三寅邸はこのライン沿い、多分西御門の更に西北西にあったと、幾つかの材料から想像できる。
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筋替橋は大倉御所の排水を滑川に流す水路に架かっていたと伝わっているし、観光客が足を延ばさない西御門の北側には西大路沿いに報恩寺、保寿院、高松寺、来迎寺、太平尼寺が静かな佇まいを見せている。.
   右上は西御門周辺の鳥観図。 クリック→ 別窓で拡大表示
     西御門跡碑の画像は こちら周辺の詳細地図も参考に。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応二年
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1月23日 丙寅
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吾妻鏡
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二品 政子は農民と苦楽を確認したいと考えた。去年の合戦 (承久の乱) 以後の新補守護と地頭の所領管理について、前例と異なる処理を行なっている場合は文書で報告せよと畿内および西国の在庁 (国衙の官吏) に命令を下し、奥州 北條義時が御教書 (命令書) を発行した。
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   ※新補: 乱に関与した朝廷や公卿から没収した土地に補任した守護と地頭を差す。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応二年
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1月24日 丁卯
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吾妻鏡
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奥州 北條義時 が若駒10疋を若君 (三寅) に献上、御覧に入れた後に人々に分与した。
駿河前司 三浦義村 がこれを差配した。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応二年
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1月25日 戊辰
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吾妻鏡
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西大路 (の一部) を若君 三寅邸の庭に入れる事の可否について改めての議論があり、陰陽師らが呼ばれて陸奥守 北條義時邸中門の廊下に集まった。源実親 (1月20日参照) を介して「去る20日の占いの不一致は遺憾なので、改めて論議せよ」との指示が下された経緯である。
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安倍知輔と同 忠業は「昨日の未刻 (14時前後) には小吉、検討した結果は最吉」と答えた。一方で晴賢は「占いは最初の直感である。将軍として憚るとの卦があった以上は今年を避けるべき」とした。知輔、忠業、泰貞、宣賢らと晴賢、親職が論争となって結論が出ない。
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改めて犯土と造作について吉凶を占うと 「良くない」 との結果となり、京都の陰陽寮に尋ねるべきか。
また先日の雷鳴と22日に月が火星の軌道を犯した事に関し伊賀六郎右衛門尉光重に対応策を命じた。
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   ※伊賀光重: 朝光の子 (四男か) で名乗りは六郎、四代将軍頼経の近習。元仁元年 (1224) 6月の
伊賀氏の変 (政子による謀反捏造が定説) に連座する形で九州に流され、嘉禄元年 (1225) の政子の死没後に復権して頼経に仕えている。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応二年
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1月26日 己巳
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吾妻鏡
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肥田又太郎が奥州 北條義時の使者として上洛の途に就いた。
犯土 (土木工事) や建造について陰陽師の結論が纏まらないため陰陽寮の長官に尋ねて結論を得るのが目的である。
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   ※肥田又太郎: 伊豆北條郷北側の肥田原 (地図) を本領にし
ていた武士。治承四年 (1180) 8月17日の頼朝挙兵の際に 北條時政が率いる 平兼隆襲撃隊は北條邸から狩野川沿いに北へ、肥田原まで迂回してから山木館を目指して東に進路を改めている。
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肥田 ⇔ 日田 ⇔ 仁田に地名が転訛した可能性および日田原が仁田郷に隣接している関係から、肥田一族と 仁田忠常一族が縁戚関係にあったと考える説もある。
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   右画像は仁田忠常邸 (地図) の鳥瞰。画像をクリック→ 忠常邸の明細へ
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応二年
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2月 1日 甲戌
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吾妻鏡
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巳刻 (深夜0時前後) に地震あり。今日、二所詣でに関する神事が始められた。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応二年
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2月 8日 辛巳
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吾妻鏡
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奥州 北條義時が予定している大倉御所 三寅邸の拡巾工事に関し、武州 北條泰時が担当して京都朝廷の陰陽頭である安倍泰忠朝臣と在親朝臣と在継朝臣に問合わせた回答が鎌倉に届いた。
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泰忠の書状に拠れば 「占いの結果は半吉である。方角違えは、本来の所有者に禁忌の方角であれば、例え所有者が知らなくても使用者による土木と建造は憚られる...」 と。
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在親と在継の書状には 「占いは不吉。方違えも犯土も建造も全て不吉だが、他の事のついでに行なえば忌ではない。また所有者には関係なく、使用者にとって禁忌の方角であれば支障なし...」 と。
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これらについては更なる検討が行われた。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応二年
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2月27日 庚子
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吾妻鏡
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二位家 政子が勝長寿院の奥に新しい寺と住居を建てたいと希望し、今日二位家の屋敷で良い日取りを選ぶ打ち合わせがあった。
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(陰陽師の) 知輔、親職、晴賢、忠業、泰貞、宣賢、重宗が各々選び出したのは、事始め (木造りと地曳き) は2月29日壬寅、基礎工事は4月6日戊子、立柱上棟は同19日辛卯、御移転は7月26日丁卯、御堂供養は8月20日庚寅 に決した。
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これらは安倍親職が特に念入りに選んだ日程で、左衛門尉 伊賀光宗がこれを差配する。この地は現在の二位家邸から南方に当たる。
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   ※寺と住居: 老齢を迎え気力も体力が衰え始めた政子は死期が近付いていると感じたのだろう。
彼女の死没は 2年5ヶ月後の 元仁二年 (1225) 7月11日となる。
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政子が選んだ終の棲家は、謂わば源氏の菩提寺として 義朝 実朝を葬った勝長寿院であり、大姫 乙姫 (彼女の墓地は扇ヶ谷の可能性が高いが) をこのエリアに葬った可能性もある。比較的早くに開発が進んだ大御堂ヶ谷には何一つ遺構が残っていないが、のんびりと歩けば往時の雰囲気を感じることはできる。北向きに開いた谷でやや暗い雰囲気だが...。
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右画像は北側から見た大御堂ヶ谷。画像をクリック→勝長寿院の谷津 (別窓) へ。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応二年
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3月 3日 丙午
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吾妻鏡
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今日、勝長寿院の奥で土公御祭 (地鎮祭) を催した。二品 政子の御所願として寺を建てる計画に拠る。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応二年
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3月14日 丁巳
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吾妻鏡
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今夜の月蝕は明確には確認できなかった。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応二年
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3月28日 辛丑
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吾妻鏡
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二位家 政子 は御方違えのため民部大夫 二階堂行盛の山荘に遷った。新居造作の所替えの目的に拠る。
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   ※二階堂邸: 正確な位置は確認できないが、実朝の時代に頻繁な訪問があった事から考えると
永福寺の南側、滑川沿いにあったと思う。私ならこの辺 (地図) を選ぶけど...。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応二年
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4月 8日 庚辰
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吾妻鏡
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一昨年の合戦 (承久の乱) での恩賞は全て処理が終わった筈だが、取り扱う数が多かったために予期しなかった漏れもあり、追加して今日 追加してその処理を行なった。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応二年
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4月 9日 辛巳
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吾妻鏡
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女房(女官)の上野局を染殿の別当職に補任した。
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   ※染殿別当: 染殿は布の染色や縫製を担当する部署で別当は筆頭職。専門職のトップ女性だ。
建保七年 (1219) 2月2日に実朝殺害に伴う処分で「公暁の後見人備中阿闍梨から没収した家と土地を縫殿別当の三條局に与えた」との記事があった。三條局の異動か、褒章か、或いは退職か。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応二年
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4月11日 癸未
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吾妻鏡
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若君 (三寅) の御衣が鼠に喰い切られた。今日巳刻 (午前10時前後) に石山禅尼がこれを見付けた。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応二年
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4月13日 乙酉
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吾妻鏡
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若君 三寅 が南庭 (公式の場) に出御し手鞠の御会あり。
また駿河三郎 三浦光村、筑後九郎八田知氏、伊賀左衛門太郎宗義 (光宗の子) 、佐々木八郎信朝 (加地信実の九男) らが競馬を行ない、その後に相撲の勝負を決した。嶋津三郎兵衛忠義が行司を務めた。
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   ※八田知氏: 八田知家の七男で常陸国田中氏の祖。父から
継いだ田中郷、現在のつくば市田中 (地図) を本領とする。
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田中郷は筑波山の南西に位置し更に南東 8km圏内には知家の本拠 小田城跡 や、知家の尽力で 忍性が常陸布教の拠点にした 三村山清冷院極楽廃寺跡 平沢官衛遺跡 (観光ガイド) などの見所が徒歩圏内に何ヶ所も点在している。
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小田城跡のすぐ横には旧 筑波鉄道の軌道跡を利用したサイクリングロードが通っているし、城跡から極楽廃寺跡まで歩いても 2km弱、一日タップリ楽しめる。
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JR水戸線 岩瀬駅前には レンタサイクル基地や 乗り捨てOKの 広域レンタサイクル もある。  右は極楽廃寺跡の五輪塔 (高さ 3.2m)  クリック→ 極楽廃寺の頁へ
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数年前に訪問した小田城跡は整備工事中だったが、転居した我が家 (筑西市) から30km圏内、早々に再訪を果せた。
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   ※嶋津忠義: 初代 忠久を継いだ嫡子の初名で、後の忠時。生母は 畠山重忠の娘(異説あり)。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応二年
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4月16日 戊子
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吾妻鏡
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今暁、泰山府君祭が行われた。鼠が若君 (三寅) の御衣を喰い破った件を占ったところ、病気に注意が必要との卦が出されたためである。
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   ※泰山府君祭: 陰陽道祭祇の一つ。中国古代の神・泰山府君が仏教の閻魔大王と習合して寿命と
富貴を支配すると共に侍者の司命神が冥府の戸籍を管理すると信じられた。
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天台座主の 慈覚大師 円仁 が中国から比叡山麓に勧請した赤山明神が泰山府君でまた素戔嗚 (すさのお) 尊や大国主神などとも習合し、本地垂迹説によって地蔵菩薩となった。神仏の混然一体を主張するのは勝手だが明治維新には神仏分離を容認したのだから、最低限の論理的説明と懺悔が必要だと思うけどね。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応二年
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4月19日 辛卯
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吾妻鏡
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勝長寿院の奥に建造する事となった新しい堂と、その傍らの二品 政子邸の上棟式が催された。
隠岐入道行西 二階堂行村 と左衛門尉 伊賀次郎光宗がこれを奉行した。
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   ※勝長寿院: 生前の 頼朝は勝長寿院を源氏の氏寺として考えていたと思う。喪主を務めた 頼家
政子には勝長寿院の寺域に法華堂を建てて頼朝の墓所とする選択肢もあったと思うが、結果として生前の持仏堂 (現在の白旗神社の地) を選択した。氏寺を墓所と考えない時代だったのだろうか。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応二年
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4月28日 庚子
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吾妻鏡
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若君 (三寅) が西の坪庭に出御して通例の手鞠会を催し、この際に烏の糞を掛けられた。驚いて占わせた結果は病気の兆しである、との卦が出された。
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   ※烏の糞: 鳩の糞なら良かったのかも知れない。八幡宮の鳩は只の野鳥ではなく八幡神の使者
なので、鳩の変異は凶事の兆しとなる、らしい。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応二年
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4月29日 辛丑
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吾妻鏡
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駿河前司 三浦義村 が昨夜田村から鎌倉に帰着し、今日若君 (三寅、後の四代将軍 藤原頼経) の御所に盃酒を献上した。奥州 北條義時、隠岐入道 二階堂行村、左衛門尉 伊賀次郎光宗、苅田右衛門尉義季 (1月2日を参照) が参上、石山禅尼と女房少々が加わった。
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   ※田村: 平塚市の田村地区には 三浦義村の別邸 田村館が
あって将軍 頼経も再三訪れたと伝わる。市営団地の敷地 (地図) に田村館の碑があるが、実際は更に北側だったと思われ周辺を含めて遺構は全く残っていない。
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田村地区の八坂神社 (地図) には災厄を防ぐ功徳がある 牛頭天王 (Wiki) が祀ってあり、義村が祈祷奉幣の使者として田村に派遣されていた可能性もありそうだ。鎌倉から約 23km、当時は1〜2泊の行程か。 右上は田村館跡の碑。クリック→ 別窓で拡大表示
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応二年
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4月30日 壬寅
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吾妻鏡
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五座 (五人による) 百怪御祭 (魔除け) を催した。担当したのは知輔、親職、晴賢、忠業、泰貞、28日に起きた烏の糞の穢を払うのが目的である。伊賀六郎右衛門尉光重 (1月25日を参照) がこれを差配した。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応二年
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5月 4日 丙午
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吾妻鏡
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若君 (三寅、後の四代将軍 藤原頼経) 御方で御物忌、周防守 中原親実がこれを差配した。
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   ※物忌: 例えば肉食、飲酒、外出などを控えて自らの汚れを抑え神仏に廉直さを示す努力。
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   ※中原親実: 明経道の中原忠順の子、藤原氏系の文官で親能などの同族にあたる。
周防守護、安芸守護などを転任した後の寛元二年 (1244) には在京御家人として六波羅評定衆に赴任した。
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   ※評定衆: 鎌倉幕府が執権独裁の色を薄め、合議制を取り入れて 評定衆 (Wiki) を設置したのが
元仁二年 (1225) 12月。執権 北條義時が死に、大江広元が死に、尼将軍 政子が死んで執権職を継承した 北條泰時が政治の実権を掌握した年である。政権幹部を掌握する意味もあったか。
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幕府創建時代から続いていた巨頭三人が死んだ途端に将軍御所を含む幕府政庁を大倉から宇都宮辻子に移転し更に集団指導制っぽい政治体制を取り入れるのだから、泰時自身も政子&義時の独裁によるストレスが蓄積していたのだろうね。この気持ちは実に共感できる (笑) 。
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それは兎も角、六波羅が評定衆を取り入れたのは五代執権 時頼の宝治元年 (1247) 、幕府が採用した22年後だった。この時の連署 (執権補佐) は私の好きな 北條重時
穏和で優秀な政治家だ、たぶん彼の意見だと想像している。
私の嫌いな強権志向の時頼はまだ19歳だった。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応二年
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5月 5日 丁未
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吾妻鏡
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二品 政子が若君 (三寅) の住居に渡御された。陸奥守 北條義時も加わって酒宴を催し、歌女らを招いて各々が芸を披露して楽しませた。義時は衣装を脱いで 纏頭し、駿河前司 三浦義村と次郎左衛門尉 .伊賀光宗以下の列席者もそれに倣った。
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   ※纒頭: 歌舞や芸能を演じた者に与えた褒美。衣服を受けた者は頭に纏った習慣が語源。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応二年
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5月12日 甲寅
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吾妻鏡
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申刻 (16時前後) に大地震あり。
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   ※百錬抄の記述: 5月8日、後堀河天皇が一條殿 (院の御所) に行幸。持明院宮が重体、と。
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   ※持明院宮: 第82代 後鳥羽天皇の同母兄で、第81代 安徳天皇の異母弟だった守貞親王 (法皇) の
院号。本来は安徳を継いで次期天皇になる筈だったが、寿永二年 (1163) 7月の平家都落ちに同行させられ、壇ノ浦合戦から救出された時には既に実弟の後鳥羽が 後白河法皇の意向で着位していた、実にアンラッキーな運命を辿った人物。
「天皇家の系図」を参照されたし。
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帝位は 82代 後鳥羽→ 83代 土御門 (後鳥羽の嫡子) → 84代順徳 (後鳥羽の次男) → 85代仲恭 (順徳の嫡子) と続き、承久の乱後には後鳥羽系を嫌った鎌倉幕府の意向によって後堀河が 86代の帝位を継ぎ、父の持明院宮 (守貞親王) は異例の太上天皇号を奉じられた。
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承久三年 (1221) 7月から法皇として院政を敷いていた...のだが天命は味方せず、18日には崩御の知らせが鎌倉に届く。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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5月14日 丙辰
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吾妻鏡
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若君 (三寅、後の四代将軍 藤原頼経) の御物忌である。物忌の字を札に記して御簾に下げ、護持僧の大進僧都観基が付き添って参籠した。
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三條蔵人親実は「朝廷に於ける手順は御物忌の札を置いた場合には人の出入は禁止しないのが習慣」と言ったが陸奥守 北條義時「厳格に物忌の手順に従うべきだろう。食事と大番 (警護担当) は参籠すべし。その他は全て出入りを禁止し、今後はこの方式を定める。」とした。
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   百錬抄太上法皇 (持明院法皇) が崩御、後高倉院と追号し北白川 (後清閑寺陵) に埋葬した。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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5月18日 庚申
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吾妻鏡
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相模守 北條時房 武蔵守 北條泰時の飛脚が京都から鎌倉に到着。去る14日の午刻 (正午前後) に太上法皇の持明院殿が崩御したと報告した。御腫物を患って数ヶ月の病床にあった。太上天皇の尊号を贈られてから三年が過ぎ、御年四十五歳と。義時は二品の御方 政子邸を訪れてこれを報告した。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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5月19日 辛酉
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吾妻鏡
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二品 政子邸で、駿河前司 三浦義村 「持明院殿の崩御により暫くの間は新邸と堂の建造を中止せよ」 との指示が下された。また伊賀三郎左衛門尉光資 (朝光の三男) が弔問の使者として上洛せよ、と。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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5月24日 丙寅
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吾妻鏡
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若君 (三寅、後の四代将軍 藤原頼経 が二品 政子邸に渡御された。駿河守 北條重時と駿河次郎 三浦泰村が供奉した。これは通常の訪問である。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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5月27日 己巳
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吾妻鏡
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土御門上皇の土佐国から阿波国への遷御の件、祇侯 (付き従う) 者を報告するように阿波国の守護小笠原弥太郎長経に指示を下した。長経からは 「既に4月20日に御迎えの者を土佐国に派遣した」 と連絡が届いた。
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今日 若君 (三寅、後の四代将軍 藤原頼経) の息災を願う祈祷を伊勢神宮の内宮と外宮の両方で催した。
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   ※土御門上皇: 温和な性格だったため武威による倒幕を願った父の後鳥羽上皇に疎んじられ、
順徳天皇への譲位を強制された。倒幕計画にも関与せず幕府は処罰しない方針を執ったが、父の後鳥羽と弟の順徳の流罪に準じて自らの土佐流罪を望み、幕府もそれを認めつつ優遇措置を与えた。阿波国遷御は 「少しでも都の近くに」 とした幕府の配慮があった。  詳細は承久三年 (1221) 閏10月10日の吾妻鏡で
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   ※小笠原長経: 甲斐源氏 小笠原長清の長男。二代将軍 頼家の側近を務め、建仁三年 (1203) 9月
の比企の乱では能員与党として拘束されたが特に罪には問われず、鎌倉を引き払って本領の甲斐 (または信濃) に蟄居、嫡流は弟の伴野時長が継承した。
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承久の乱 (1221年) では父に従って東山道を進み、乱の鎮圧後は父の跡を継いで阿波国守護に任じている。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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6月12日 癸未
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吾妻鏡
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伊豆国の走湯山 (伊豆山権現 ) の常行堂造営について、柱建ては既に完了し次の19日には上棟の予定との連絡が寺務方から届いた。二品 (政子) 邸で武蔵国目代の次郎兵衛尉惟忠を管理者とする指示があったが、陰陽道に問い合わせたところ安倍親職は 「土用中の上棟は良くない」 旨を答え、晴賢は7 「月11日壬子、12月2日庚子が良い」との意見である。
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行西(二階堂行村)は更に 「7月11日壬子は八専だが、堂舎を建てた先例の有無は? 」 と質問し、 「既に柱は建て終えた上での八専であり、仏閣を建てたり法要を行う例は多い。」 との答えを得た。従って上棟日程を占う際には、その旨を併記して提議する。
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   ※常行堂: 阿弥陀仏を本尊として般舟三昧経を勤修する
堂で一般的には阿弥陀堂と同じと考えられる。
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伊豆山権現には上と下の二堂があって、大姫の病気回復を願った政子が寄進した像と伝わるがその真偽は不明である。
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   ※般舟三昧経: 精神集中して仏の姿が現認できる程の境地
を得るための修行。更に詳細は Wiki で。
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   ※兵衛尉惟忠: 後に寺社の紛争を裁く引付衆に任じる得宗
被官の大瀬惟忠か。調べないと確信は持てないが。
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   ※八専: 日を選ぶ基準の一つ。更に詳細は Wiki で。
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右上は伊豆山の上常行堂本尊の宝冠阿弥陀如来坐像。
    詳細は画像をクリックして 伊豆山権現を参照されたし。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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6月20日 辛卯
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吾妻鏡
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今日、駿河国の 富士浅間宮 (公式サイト) の新社殿遷宮である。費用の負担は陸奥守 北條義時
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   ※遷宮: 北條九代記にも遷宮の記事が載っている。伊勢神宮などの様に定期的な建て替え行事
に伴う遷宮ではなく、老朽化による単純な建て替えらしい。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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6月26日 丁酉
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吾妻鏡
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五仏堂で続けた千日御講の結願供養あり。導師は松殿法印で請僧十二人、二品 政子も臨席された。
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   ※五仏堂: 承元元年 (1207) 12月27日に仏師 運慶作の五大尊を安置し開眼供養を行なった。
場所は勝長寿院の寺域、実朝の追善供養のため建立した仏堂である。
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ふと考えたのだが、勝長寿院の寺域に五大尊堂を建てたのなら、実朝が建立した (七堂伽藍が軒を連ねた) 大慈寺に五大尊堂があっても不思議ではない。大慈寺は現在の明王院の東側に接していたのだから、頼経が創建した明王院は大慈寺の寺域にあった五大尊堂の後継版だった可能性もある。これ、もう少し詳しく調べてみよう。
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   ※五大尊: 密教の五大明王 (不動、降三世、軍荼利、大威徳、金剛夜叉) を差す。
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   ※請僧: 大規模な法会などの際に他の寺院から僧を招く事、およびその僧。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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6月28日 己亥
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吾妻鏡
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伊賀大夫判官光季の子息四人 (皆10歳未満) が二品 政子邸を訪れた。陸奥守 北條義時が近くに控える前を簾近くに招き 「どの子も光季に似ている。亡父の志を継ぎ忠節に励むように」 と涙を見せた
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今日、走湯山 伊豆山権現の常行堂上棟の日程について、7月11日の八専は選ぶべきではないか、との沙汰があった。陰陽師に尋ねると、 「11月2日より前は然るべき吉日がありません。何とか8月8日戊寅を使いましょう。」 と安倍親職と晴賢が言上した。
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   ※伊賀光季: 承久三年 (1221) 5月15日に記載あり。京都守護として在京した際に 後鳥羽上皇
ら義時追討宣旨への参加を命じられたが無視、更に勅命を下すと 「対面して聞くから来たれ。命令を受けて敵に向かうのは臣下の本分だが官閥に加わるのは本分に非ず。」 と拒み、追討に赴いた官兵と散々に戦ってから二男光綱と共に自害した。
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   ※政子の涙: ところが、翌年6月に義時が急逝した途端に 「義時の後妻 (光季の娘 伊賀の方) と兄
弟 (光季の弟 光宗、朝行、光重) らが結託して謀反を企んでいる」 と妄想する。
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要するに自分が作り上げた北條嫡流の権力基盤を、伊賀兄弟や伊賀の方や義時の娘婿一條実雅 や泰時の異母弟 北條政村 三浦義村 「結託して奪うつもりだ」、と思い込んでしまった。一度妄想が始まったら絶対に許せない意固地な年寄りって居るんだよね。
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これが 「伊賀氏の変」 、この始末は貞応三年 (1224) 6月の 義時死没後の吾妻鏡で。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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6月30日 辛丑
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吾妻鏡
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六月祓いを行ない、晴賢がこれを務めた。補佐は三條蔵人親実、周防前司中原親実 (5月4日の吾妻鏡を参照) がこれを差配した。
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   ※六月祓い:(みなづきばらえ) は旧暦の6月末に行なう祓いの行事で夏越 (なごし) の祓とも。
半年間に身についた罪穢を形代 (かたしろ) に移して流し捨てる行事。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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7月 6日 丁未
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吾妻鏡
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一昨年の合戦 (承久の乱) の恩賞として新たに補任した地頭の取り分について、水田十町について次の一町は国衙に納める税を免除し、また水田一反について五升の徴収を認める宣下が先月15日に下された。
その書類の到着に伴い内容通りの実行が決裁された。橘隆邦 判官代と 清原清定がこれを差配する。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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7月 9日 庚戌
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吾妻鏡
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薬師堂のある谷津に浄密と称する住僧の坊があり、その前庭で優曇花が咲いたとの噂が流れた。
鎌倉中の男女がこれを見ようとして群参し、二位 政子は左近将監遠藤為俊を派遣して確認させたところ「芭蕉の花と思われる」との報告があった。
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   ※薬師堂: 鎌倉の薬師堂なら二階堂の 覚圓寺 (公式サイト)
が該当する。吾妻鏡の建保六年 (1218) 7月9日と翌年2月8日に実朝殺害に関連する記載がある。
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北條義時は1月27日の 実朝殺害事件の直前に現場を離脱していた。事前に殺害計画を知っていた、あるいは殺害計画に関与していたのを誤魔化すために薬師堂の霊夢を捏造した、状況証拠として濃厚である。
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 右は薬師ヶ谷の鳥瞰画像、クリック→ 別窓で拡大表示。
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覚圓寺境内の裏手に薬師堂がある。薬師堂も十二神将も戦禍で焼かれ、幕府の滅亡後に 足利尊氏 (高氏) の援助で再建に至ったもので、歴史的にはさしたる意味を持たないし、極論すれば義時の嘘に協力した罪を問われる立場でもある。
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   ※優曇花: (うどんげ) には諸説あるが、ここでは 「インドの想像上の植物で三千年に一度花を咲
かせる時には転輪聖王 (求められる全ての要素を備えた王者の概念) が出現する」 と言う優曇花を差しているのだろう。 更に詳細は Wiki を参照されたし。
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   ※遠藤為俊: 摂津渡辺党の子孫で三寅 (後の四代将軍藤原頼経) の近習を務め政子にも近侍した
御家人。娘二人を北條氏に嫁がせて縁戚関係を結び、要職を世襲した。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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7月25日 丙寅
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吾妻鏡
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陸奥守 北條義時の所願として、鶴岡八幡宮の廻廊で一日百部の法華経を書写する法要を催した。供養の導師は八幡宮七代別当の定雅 、卯刻 (1〜3時) に開始し亥刻 (21〜23時) の一点まで続いた。
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   ※一点: 一刻 (2時間) を五等分した最初の24分。この場合は21時から21時24分までを差す。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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7月26日 丁卯
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吾妻鏡
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二位家 政子が (勝長寿院の奥に) 新築した御亭 (御堂御所と称す) への転居である。
水火の祈りは省略し、陰陽大允 安倍親職が反閇により先導、周防前司 中原親実 と判官代 大江佐房が御輿の横に付き添った。
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   ※水火の祈り: 洪水と火災の災厄を避けるための祈祷らしい。
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   ※反閇: (へんばい) は貴人の移動に際して祈りと共に独特の歩行を行なう陰陽道の作法。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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8月 3日 癸酉
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吾妻鏡
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今日、所領に関して訴訟を起こした者が武士による寺社などへの寄付を装って没収を逃れること、および出挙を行なって巨利を得ること、についての (幕府政所の) 評議が行われた。幕府では御家人の行為のみを取り扱い、それ以外は関与しないとの結論を六波羅に伝えた。
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   ※没収の回避: 一種の徳政令だったらしい。鎌倉時代では元寇 (1274年と1281年) 後に顕在化し
た御家人の窮状を助けようとした永仁五年 (1297) の 永仁の徳政令 (Wiki) が知られているが、一部の零細御家人には (貨幣経済導入に伴う) 家計の破綻が既に常態化しているのが現実である。
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貨幣経済の浸透と共に都市部での消費が活発化し、収支のバランスが崩れて借金が膨らみ破綻を招く...しわ寄せは全て低所得の御家人層に集中する。
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   ※出挙: 農民に種子や種籾を貸し収穫と共に利子を付けて回収する習慣。詳細は Wiki で。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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8月20日 庚寅
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吾妻鏡
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今日、南新御堂の落慶供養が行われた。本尊は弥勒菩薩像である。この堂は右大将家 頼朝の姫君 大姫が早世した際に追善供養のため (政子が) 建立を願ったのだが右大将家 崩御により実現できなかった。
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奉行は民部大夫 二階堂行盛と進士判官代橘隆邦、導師は弁僧正 定豪、布施は三十物百 (30種セットを百) 。陸奥守 北條義時、式部大夫 北條朝時、駿河守 北條重時以下、多数の人々が廊下に着座した。
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   ※橘隆邦: 現れる頻度の高い文官。承久三年 (1221) 5月27日に宣旨への返状 (上奏文) を執筆。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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8月27日 丁酉
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吾妻鏡
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二位家 政子の新しい御所の御持仏堂 (廊御堂) が完成し 仏師 運慶が彫った本尊を安置した。これは右大臣家 実朝が健在だった頃の御本尊で 今日改めての開眼供養を遂げられた。導師は内大臣僧都親慶
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   ※僧都親慶: 承久二年 (1220) 1月16日に鶴岡八幡宮別当の慶幸が死
没して勝長寿院別当だった 定豪が補任、彼の後任として勝長寿院別当に任じたのが親慶となる。
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   ※持仏堂本尊: 建保四年 (1216) 1月17日に京から届いた仏像。
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吾妻鏡には 「釈迦如来像」 の記載があり、運慶 晩年期の作品なのだが持仏堂と共に現存せず、像高など詳細も不明である。
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右上は 横浜 称名寺 (Wiki) の大威徳明王坐像が運慶作と確認されるまで 「運慶最晩年の作」 とされていた奈良の 興福寺 (公式サイト) 北円堂の国宝 弥勒仏坐像 (参考資料)木造漆箔、140.4cm 。
完成は建暦二年 (1212)) の春。(クリック→ 別窓で拡大表示)
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興味深い話としては、同じ建保四年に運慶が彫った大威徳明王坐像が横浜市金沢区の称名寺に保存されており、胎内文書から発注者は 頼家実朝の養育係を務めていた 大弐局 (加賀美遠光の娘)だったと確認されている。
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この像は大日如来像と愛染明王像の三体セットだった可能性も高いらしい。部分的欠損や傷などで殆ど残骸状態なのが何とも悲しいが。
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右は 大威徳明王坐像、クリック→ 別窓で拡大表示
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異説はあるが 現在は (胎内銘などから) 運慶作と判断する説の方が強い。高さは21cm、本来は六面六臂六足で水牛に乗った姿なのだが破損が激しく、腕の大部分と足の全て (もちろん水牛の部分も含めて) 失われている。
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金沢文庫で有名な称名寺は真言律宗の別格本山、大弐局が初出仕した文治四年 (1188) 7月4日の吾妻鏡にも詳細を記載してある。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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9月 1日 庚子
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吾妻鏡
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未の二刻 (15時前後) に日蝕が支障なく見られた。三分 (の一) ほどの蝕である。
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西暦1223年
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86代 後堀河天
貞応二年
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9月 2日 辛丑
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吾妻鏡
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戌刻 (20時前後) に太白 (金星) が歳星 (木星) の軌道を犯した (二尺七寸 (約82cm) の距離) 。
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    写本により、この項目が記載されていないケースあり。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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9月 3日 壬寅
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吾妻鏡
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戌刻 (20時前後) に月が太白(金星)の軌道を犯した(三尺 (約93cm) の距離)。
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    写本により、この項目が記載されていないケースあり。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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9月 4日 癸卯
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吾妻鏡
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月が心前星 (さそり座σ星) の軌道を犯した。
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    写本により、この項目が記載されていないケースあり。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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9月 5日 甲辰
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吾妻鏡
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横町付近に住む下女が三つ子を産んだ。「女性が三つ子を産んだ場合は国庫から必要な衣食が支給されていると国史に記載されている」 と有識者が話したため、二品 政子は雑色三人を送り、各々養育せよと言い付けた。その上で、母親の衣食も同様に配慮せよと命じた。
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午刻 (正午前後) に和賀江の付近に火が見られた。これについて陸奥守 北條義時から 「祈祷をせよ」 との指示が非公式に出され、 蔵人兼佐がこれを差配する。連夜の天変への対応である。
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   ※横町: 確定不可だが 「横大路沿い」 の意味なら宝戒寺前から寿福寺に至る一部窟小路と同じに .
西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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9月 6日 乙巳
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吾妻鏡
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下女が産んだ三つ子は皆死んでしまった。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
承久四年
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9月10日 己酉
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吾妻鏡
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天変に対応する祈祷を開始した。
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   愛染王護摩は弁僧正定豪    薬師護摩は大進僧都観基
   尊星王護摩は内大臣僧都親慶  北斗護摩は信濃法眼道禅
   七曜供は助法眼彌誉      属星祭は晴賢
   月曜祭は親職         歳星祭は知輔
   太白星祭は忠業        天冑地府祭は泰貞
   七座の泰山府君祭は 晴幸、信賢、右京亮重宗、文元、道寛、陰陽大夫重宗、家秀
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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9月16日 乙卯
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吾妻鏡
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若君 三寅 が讃岐中将 一条実雅邸に渡御された。
駿河守 北條重時、陸奥四郎 北條政村、駿河次郎 三浦泰村、周防前司中原親実 (5月4日を参照) 、少輔判官代佐房が供として従い、その後に小笠懸などを行なった。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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9月24日 癸亥
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吾妻鏡
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二品 政子の御持仏堂 (廊御堂) で地蔵菩薩絵像の開眼供養法会を行なった。導師は大進僧都観基、用意した布施は御衣一領と袋物である。
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   ※廊御堂: 気になっていた部分。もしかすると堂の四方、
或いは三方に外廊下を廻した建物の可能性か?
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ずっと前に立ち寄った秩父の 米山薬師堂 みたいな、その規模は別として あの姿を思い出した。
斜面の感じも勝長寿院の谷を思わせる雰囲気で
思い返すと只の妄想だったような気も (笑) 。
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秩父の北西部、延享年間 (江戸中期、八代将軍吉宗の頃) の建造だから特に古くはないが、躑躅が見事な公園の斜面にある (地図)
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 右画像 (米山薬師堂) をクリック→ 別窓で拡大表示
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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9月25日 甲子
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吾妻鏡
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奥州 北條義時の指示で若君 三寅邸の建造に着手する。
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日程は柱建てと上棟が来年1月3日の庚子と5日の壬寅、御遷居は4月19日の丙寅が吉日と安倍親職と晴賢が連署した勘文を提出した。左衛門尉 伊賀次郎光宗がこの件の差配を担当する。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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9月26日 乙丑
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吾妻鏡
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戌刻 (20時前後) に大地震あり。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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10月 1日 庚午
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吾妻鏡
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北陸道守護人による決裁について規定に背く事例があるとの風聞があり、問合わせの上で処理するよう式部丞 北條朝時に命令が下った。
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   ※北陸道の国と守護人: 若狭国は 嶋津忠久の嫡子 忠時 (4月13日参照) 、越前国は 嶋津忠久
加賀と能登と越中と越後と佐渡の五ヶ国の守護は 北條 (名越) 朝時が任じている。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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10月 4日 癸酉
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吾妻鏡
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奥州 北條義時が招待を受けて駿河前司 三浦義村の田村別邸 (4月29日を参照) を訪れた。右衛門尉 苅田義季 (1月2日を参照) 以下 多くの者が参会、駿河守 北條重時は人々を誘って若君の近くに伺候した。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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10月 5日 甲戌
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吾妻鏡
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若君 (三寅、後の四代将軍 藤原頼経) が坪庭に出御された。去る4月 (28日) に烏の糞を受けて以後は避けていたが今回は坪庭で遊びたいとの希望があり、二品 政子の許諾を得ての出御である。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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10月 6日 乙亥
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吾妻鏡
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奥州 北條義時が田村から鎌倉に戻った。駿河前司 三浦義村が義時に従い、直に若君 (三寅) の御方に参上して引出物の馬 黒駮 (黒ぶち一寸) を贈った。特にお気に召したようである。
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   ※馬のサイズ: 平安〜鎌倉時代初期の一般的な馬は南方系の四川馬で 体高 (首の根元で計測) は
平均して 4尺2寸 (130cm弱) 程度、4尺を越えると1寸づつ呼称が変わる。
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サラブレッドは165cm前後、現代ならば「ポニー (147cm以下) 」に分類されるサイズ。鎌倉時代中期には北方系の奥州産馬が多くなったらしい。
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平家物語は 「宇治川の先陣争いで佐々木高綱が跨った生月は4尺8寸 (145cm) 、極めて太く逞しい 」 と描いている。
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当時の奥州産馬は四川馬よりもはるかに大柄で、特に良い馬なら数百束もの稲 (現代に換算すると100万円近く) もの値が付けられた、と言う。
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頼義義家頼朝が奥州を手に入れたかった気持ちが判るなぁ...。
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 右は国宝の 「随身庭騎絵巻」 の一部。 画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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随身は皇族の警備兵で、謂わば朝廷のSPだ。絵師は藤原信実、隠岐流刑直前の後鳥羽の命令で似姿 (承久三年 (1221) 5月19日を参照) を描いた鎌倉時代中期の宮廷画家である。
それは兎も角として、乗り手に比べると馬とのバランスが如何にも悪い。
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描き方にも拠るとは思うけど、馬のサイズがそれなり正しかったのかも知れない。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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10月13日 壬午
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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駿河守(北條重時)が差配し、若君 (三寅) の近くに仕える者を選び (近習番と号す) 輪番制とした。
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     一番 駿河守     結城七郎兵衛尉    三浦駿河三郎
     二番 陸奥四郎    伊賀四郎左衛門尉   宇佐美三郎兵衛尉
     三番 陸奥五郎    伊賀六郎右衛門尉   佐々木八郎
     四番 陸奥六郎    佐々木右衛門尉三郎  信濃次郎兵衛尉
     五番 三浦駿河次郎  同四郎        加藤六郎兵衛尉
     六番 後藤左衛門尉  嶋津三郎兵衛尉    伊東六郎兵衛尉
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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10月21日 庚寅
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吾妻鏡
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佐々木兵衛太郎入道西仁 (加地信実) から 「児島宮の御所警固の任は三男時秀から二男の実秀に変更を」との申し出があった。これは以前に指示した事で、北條義時から 「対応が遅いのは筋が通らぬ」 との怒りを受けた。

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   ※児島宮: 後鳥羽上皇の皇子 冷和泉宮頼仁親王 (承久三年 (1221) 7月25日を参照) を差す。
生母は後宮の坊門局 (坊門信清の娘) 。承久の乱後は備前国児島 (倉敷) に配流となり別名を児島宮とした。京に戻ることは終生 許されず、43年後に配流地で没した。
頼仁親王は南朝の忠臣として名高い 児島高徳 (Wiki) の先祖だと考える説もある。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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11月 1日 己亥
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吾妻鏡
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戌刻 (20時前後) に歳星 (木星) が辰星 (彗星) の軌道を犯した。また螢惑 (火星) が大徴 (天球の位置で、北斗七星の南) に入ったと司天の輩 (天文担当) が報告した。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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11月 7日 己巳
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吾妻鏡
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天変に対応する祈祷を開始した。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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11月19日 丁巳
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吾妻鏡
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戌刻 (20時前後) に太白星 (金星) が哭星 (山羊座 第一星) の軌道を犯した。前右京亮 重宗の報告である。
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   ※百錬抄の記事: 熊野の 那智大社 (公式サイト) が焼亡。再三の火災で、復旧の目処は立ってい
ない。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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11月27日 乙丑
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吾妻鏡
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勝長寿院の鎮守神社の在所 (寺奥) の移転命令あり。隠岐入道行西 二階堂行光がこれを差配する。
今日、豊前守従五位下藤原朝臣 大友能直が京都で死去した (52歳) 。鎮西の管理を担当した二人の一方である。万一の際には子息の次郎親秀が跡を継いで業務に任じるよう兼ねて鎌倉からの指示があった。
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   ※鎮守の移転: 勝長寿院から見て裏鬼門 (南西) に位置するためか或いは 政子の新邸 (御堂御所)
との位置関係が理由か。その指示を出したのが政子か 義時かも不明確。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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11月29日 丁卯
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吾妻鏡
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来年に若君 (三寅、後の四代将軍 藤原頼経) の御所を建てる事について、奥州義時邸で評議があった。
ただし義時からは 「最近頻発する天変や今日の雷鳴などの変異も考慮が必要」 との意見があり、陰陽師を呼んで意見を求めた。
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未刻 (14時前後) に卜占があり、 「最吉とは言えないが悪くはない」との結論を得た。天変と雷鳴についての諮問に安倍知輔朝臣が委細の説明を述べたものである。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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11月30日 戊辰
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吾妻鏡
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子刻 (深夜0時前後) に雷鳴、風雨が特に激しかった。今日、御所造営について更に評議し、陰陽師を呼んで結論を求めた。安倍国道朝臣、知輔、親職、晴賢、泰貞、信賢、晴茂の七人が参上し各々 「良くない」 旨を言上した。以下が (筆頭の) 国道安孫が纏めた意見である。
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近日の天変頻発が示すのは歳星 (木星) が房星 (さそり座頭部の四星) の軌道を犯している。本文の載せる所、五星 (木星、火星、土星、金星、水星) が房星の軌道を犯すときは失策の例が多い。
明年の若君は七歳で 計都星 (要するに悪い運勢) に当たり、建築などは勧められない。
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この件については更に六波羅に指示し朝廷の陰陽寮に問い合わせることになった。
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   ※義時の逡巡: 残り半年強の寿命を感じたのか、少し弱気で占いなどを気にする例が多い。
姉の政子は一度決めたら逡巡しない、他人の意向なんか完全に無視するのに。
政子さんは私の母方の叔母 (故人。懐かしく想いつつ、笑いつつ、名前を秘す) と同じタイプだね、天上天下 絶対に私が正しい、と堅く信じている人だった。
「あの馬鹿な甥 (私のこと) はどうしてるやら」 なんて思い出している、かも。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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12月 3日 辛未
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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丑刻 (深夜2時前後) に奥州 北條義時邸に光る物体が現れた。
直ちに大倉の薬師堂 (後の覚園寺、建保六年 (1218) 7月9日を参照) で祈祷を催し、神馬 (片岡と名付けた名馬) を鶴岡八幡宮に寄進した。更に七座の招魂祭 (七人による祭祀) を行なった。
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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12月20日 戊子
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吾妻鏡
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未刻 (14時前後) に奥州 北條義時)が若君 (三寅、後の四代将軍 藤原頼経の御方に参上、駿河前司 三浦義村、隠岐入道行西 二階堂行村、出羽守 中条家長および陰陽師六人を呼び集めた。 (若君の) 御所を造営する件を京都に問合わせた返状を持った飛脚が前夜到着し、もう一度検討するのが目的である。
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返状の内容に拠れば11月29日の未刻 (14時) が最吉の日取りで、七人 (泰忠朝臣、定平、宣俊、廣俊、泰基、忠光、在友) が同意し連署している。
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鎌倉の使者が入洛したのは今月10日の申刻 (16時前後) だが、11月29日に定めた場合の吉凶を問うたのが問い合わせの趣旨である。ここで再び陰陽師に占わせた結果は、信賢が最吉、知輔と泰貞が半吉、安倍国道朝臣と親職と忠業が不吉を申し立て、義時は明確な返答を求めた。
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国道らは 「言葉で説明できない部分があり (陰陽寮の) 七人が占った詳細を精査してから報告します」 と答えて退出した。この件は民部大夫 町野康俊 (三善康信の息子) と籐内所兼佐が担当する。
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2025年
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7月24日
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晴耕雨読
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嫁に食わせぬほど美味しい秋ナス (Wiki) を狙って。7/24 05時 右下をクリック→ 別窓で拡大表示
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少し実付きが衰えたナスの主幹と主枝を三割〜半分ほど切り詰めて追肥をタップリ与えて、植物の再生を促す菜園の秋対策。
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個人的には、この一ヶ月ほどはトマト、ナス、キュウリをそれこそ顔が緑色になったかと思うほど食べたので少し胃と腸を気分転換させてやりたい気分もある。
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涼しい時期がメインのリーフレタス、夏でも栽培できるとの話を聞いた妻が初めて挑戦したのだが、これは暑さ対策が不十分だったらしく、株の傷みが早くて少ししか食べられなかった。調べてみたら、決して不可能ではない、らしい。
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来年は柿の木の日影辺りを狙って一畝を耕してみようか。
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園芸日誌を少し整理して 2025年10月の情報を載せた。左目次の 晴耕雨読 園芸日誌 でどうぞ。
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2025年
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11月10日
16時30分
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晴耕雨読
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朝には雨が降り止んでいたので、思い切って富有柿を全部採取して干し柿造りをスタートした。皮を剥いて、1個づつ 5秒ほど熱湯を潜らせて、6〜8個づつポリ紐で縛ってベランダの物干し竿 (屋根の下) にぶら下げた。サイズは 6〜7cm、ついでに同サイズの次郎柿も 20個加えて、総数は 100を少し超えた。
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次郎柿はまた枝に 50個前後残っているので、全体では 150個前後の干し柿が出来上がる計算になる。
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富有柿も次郎柿も完全な甘栗なのだが、甘でも渋でも干し柿にの素材としては問題ない、とのこと。
あとは湿気に注意する事と、時々焼酎を霧吹きで吹き付けて殺菌する事が管理マニュアルになる。
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採取の時間は別にして、水洗い→ 皮剥き→ 熱湯消毒→ 紐付け→ 物干し竿掛け まで、二人で約 3時間を消費した。疲れたから早めの晩酌にする。明日にでも画像を追加しようと思う。
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   ※: 右画像はベランダに干した柿の一部 (クリック→ 別窓で拡大表示)
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西暦1223年
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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 月 日
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吾妻鏡
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86代 後堀河天皇
貞応二年
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86代 後堀河天皇
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