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承久四年 (1222年) 、4/13に改善して 貞応元年
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西暦・天皇・上皇
和暦・月日・史料
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
承久四年
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1月 1日 庚戌
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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陸奥守 北條義時が次期将軍 (三寅、後の四代将軍 藤原頼経に椀飯を献じた。若君は南面 (公式の場) の妻戸の間に出御され、讃岐中将 (義時の婿 一条実雅) が前に進んで御簾を巻き上げて人々が拝謁した。
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まず武蔵前司 足利義氏が錦の袋に入れた剣を、駿河前司 三浦義村が御弓箭を、左衛門尉小山朝長 (朝政の) が御行騰と沓を献じた。続いて御馬五疋、一の御馬は駿河小太郎兵衛 三浦朝村 (泰村の庶兄) と 同じく 三郎光村が引いた。
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   ※椀飯 (おうばん) : 饗応の献立、その食事を摂る儀式や行事を差す。大判振る舞い、の語源。
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   ※行騰 (むかばき) と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。Wiki 画像を参考に。
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   ※年令: 三寅 (後の四代将軍 藤原頼経) 1/16で4歳、 貞暁 35歳、
坊門信子 (実朝の正室、出家) 35歳、
竹御所 (故 頼家の娘、後の四代将軍 藤原頼経の正室) 19歳、
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北條政子 64歳 、 北條義時 58歳 、 北條時房 46歳 、 北條泰時 38歳 、 北條朝時 28歳 、
北條重時 23歳 、 千葉胤綱 23歳 、足利義氏 32歳 、 三浦義村 64歳前後 、
三浦泰村 19歳 、 大江広元 73歳 、 安達景盛 51歳前後 、
加藤景廉 前年8月死没 (享年65) 、
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85代 後堀河天皇 8歳、 84代 順徳天皇 24歳 、 土御門上皇 25歳 、 後鳥羽上皇 41歳 、
九条道家 28歳 、 坊門忠信 36歳、 近衛家実 43歳、 藤原定家 58歳、
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定豪 69歳、 慈円 66歳 、 親鸞 47歳 、 親鸞 47歳 、 叡尊 20歳 、 忍性 4歳 、
日蓮 2月に誕生 、      (全て1/1時点の満年令)
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安達景盛は生年不詳だが頼朝の伊豆配流 10年後に誕生と仮定して年齢を推定した。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
承久四年
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1月 2日 辛亥
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吾妻鏡
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前武蔵守 足利義氏が 三寅君 (後の四代将軍 藤原頼経) に椀飯を献じた。御剣は駿河前司 三浦義村
御調度 (弓箭) は左衛門尉 後藤基綱、御行騰は右衛門尉 中條家長、御馬の献上は五疋。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
承久四年
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1月 3日 壬子
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吾妻鏡
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前大膳大夫入道覚阿 大江広元が椀飯を献じた。御剣は陸奥修理亮 北條重時、御調度 (弓箭) は左衛門尉 結城朝光、御行騰は次郎左衛門尉 伊賀光宗である。
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   ※皇帝紀抄の記事: 天皇 (後堀河) が御元服。加冠は太政大臣 西園寺公経、理髪担当は右大臣の
徳大寺公継 (Wiki、実定の嫡子) が任じた。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
承久四年
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1月 7日 丙辰
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吾妻鏡
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左衛門尉 結城朝光が椀飯を献じ蒲判官代佐房が御剣を運んだ。また今日御弓始めの儀が催された。
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   射手
      一番 駿河次郎三浦泰村   伊東左衛門次郎祐朝
      二番 小笠原六郎時長   横溝五郎資重
      三番 橘新左衛門尉公幸   横溝六郎義行
      四番 佐々木加地八郎信朝 本間四郎光忠
      五番 佐原太郎経連    工藤中務次郎長光 (行光の嫡子)
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   ※加地信朝: 加地 (佐々木) 信実の息子九人の九番目。秀忠、実秀、時秀、信重、資実、義綱、
時基、氏綱、信朝。系図が不明確だが、八郎は九の字の忌避か。
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   ※伊東祐朝: 工藤祐経の嫡子。祐経を殺した曽我兄弟頼朝が許そうとした際に泣いて身柄引
き渡しを求めた祐経の嫡子 犬房丸が成長して祐時を名乗り伊東の家督を継いだ。
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祐経の最初の妻 伊東祐親の娘)は離縁させられ 土肥遠平に再嫁、その娘が祐時に嫁して祐朝を産み、祐朝の子が早川氏、長門伊東氏、安芸伊東氏の祖となった。
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   ※遠平の娘: 血縁関係はないが、系図上では祐経の元妻が再嫁して産んだ娘が祐経の息子 祐時
に嫁して祐朝を産んだ、つまり系図上では兄と異父の妹が婚姻した事になる (別腹説あり) 。この経緯を嫌った北條氏 (義時か?) が祐朝の伊東嫡流継承を認めず、六男の祐光 (生母は後藤基綱の娘) が嫡子となった。
「曽我の仇討ち事件」 が引き起こした思わぬ結果の一つ なのかも。
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   ※小笠原時長: 長清の四男で平賀氏の旧領 平賀郷を含む信濃国伴野庄 (千曲川南岸、地図) を
本領とし 承久の乱で院に組した 大内惟信の任国 伊勢と伊賀も継承している。
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   ※蒲判官代佐房: 源通親の猶子となった 親広の長男。親広は 大江広元の長男で建保四年 (1216)
に父と共に中原から大江に復姓し、承久の乱では院側に与して幕府軍に敗北し、寒河江に逃れて隠棲した。佐房は幕府の東海道軍に加わり上田荘を得て幕閣に名を連ねたが、霜月騒動 (1285) 以後に没落している。
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   ※横溝資重: 現在の東近江市横溝町 (地図湖東三山付近) を本領とした武士で得宗家の被官。
鎌倉幕府滅亡の前哨戦となった元弘三年 (1333) 5月の 関戸河原の合戦で主人の北條泰家を助けるため踏み止まって新田義貞勢と戦い壮烈な戦死を遂げた横溝八郎の名が見える。鶴見の武士、たぶん横溝資重の縁戚だろう。
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   ※本間光忠: 鎌倉幕府滅亡の際に極楽寺方面の指揮官として壮烈な最後を遂げた大仏流の北條
貞直 (時房の子孫、北條氏の系図を参照) の家臣に本間山城左衛門 (泰宣) がいる。
系図での関連は確認できないが共に相模横山党系の武士なので同族だろう。
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山城左衛門の登場場面は太平記 本間の自害で、北條貞直の方は 太平記 長崎親子の武勇に記載した (共に別窓) 。
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   ※佐原経連: 三浦義澄の次弟 佐原義連が奥州合戦の恩賞として会津を与えられ、嫡子盛連の子
が猪苗代を継承して猪苗代経連を名乗っている。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
承久四年
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1月 8日 丁巳
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吾妻鏡
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右衛門尉 中條家長が椀飯を献じ、陸奥修理亮 北條重時が御剣を運んだ。
今日、御所で心経会 (般若心経を読む法会) を催した。導師と請僧は通例通り鶴岡八幡宮寺の供僧が務めた。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
承久四年
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1月10日 己未
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吾妻鏡
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昨夜からの積雪は五寸 (約15cm) 。今日、奥州 北條義時が大庭の野に出掛けた。駿河前司 三浦義村らが供として同行した。
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   ※陸奥守: 建保五年 (1117) 11月に 大江広元が重病のため
に出家して陸奥守を辞任、 相模守だった義時が兼任した。同年の末には時房が相模守、義時は貞応元年 (1223) 8月まで陸奥守を務めている。
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   ※大庭の野: 大庭一族は相模国の大庭御厨 (現在の藤沢市)
本領とした氏族で桓武平氏の末裔を称した。
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鎌倉権五郎景政と嫡子の景継が北部の荒地を開墾して伊勢神宮に寄進し、永久四年 (1116) に大庭御厨として立荘したのが最初。
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  右上は大庭御厨の概略エリア クリック→ 別窓で拡大表示
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天養元年 (1144) の源義朝による大庭御厨略奪事件の際には景政の孫に当る大庭景宗が下司職を務めており、伊勢神宮は義朝の不法行為を訴えたが事なかれ主義の朝廷は処罰できず、この事件以後の大庭一族義朝の武力への従属を強いられた。
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源平合戦以前は平家に臣従した 大庭景親と弟の 俣野景久の管理下にあり、頼朝が覇権を握ってからは頼朝に従った長兄の 懐島 (大庭) 景義が支配権を得たが、嫡子景兼が継承してからの和田合戦 (建暦三年、1213年) では 義盛に与して滅亡、北條氏が管理権を独占した。
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御厨の中心部と推定される 大庭城址と、景義の同母弟の豊田景俊が領有していた旧豊田郷に残っている 大庭塚の痕跡 (共に別窓) も参考に。
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小学校四年だったか、大庭先生と言う綺麗な担任がいて大好きだったのに同僚の鷹見先生と結婚しちゃって悲しい思いをしたのを覚えている。
もう名前も判然としない、半世紀を遥かに超えた昔の思い出。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
承久四年
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1月16日 乙丑
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吾妻鏡
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讃岐中将 一条実雅の室 (右京兆 北條義時の娘) の安産を祈り、義時亭で身を清める千度祓いを催した。
人数は去年の12月3日と同じく 主計大夫知輔、少輔大夫泰貞、陰陽大允親職、右京亮重宗、漏刻博士忠業の五人。終了後に一人当たり上絹三疋を若侍が配布した。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
承久四年
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2月 1日 庚辰
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吾妻鏡
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巳刻 (10時前後) に雷鳴が数発、激しい降雨あり。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
承久四年
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2月 6日 乙酉
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吾妻鏡
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御所の南庭で犬追物を催した。讃岐羽林 一条実雅が何度も推奨した犬追物は若君 (三寅、後の四代将軍 藤原頼経に特に喜ばれ、陸奥守 北條義時や前武蔵守 足利義氏ら多勢が見物した。
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犬は20匹で射手は4騎、本気で競うようにとの指示があり、各々が争って5匹づつ射た。最初の10匹は一匹毎に審判が射手を指名して確実に当て、後半の10匹は射手が自ら名乗り出て全てを射止めた。
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人々は見事な技に感嘆し、駿河前司 三浦義村が成績を確認し兵衛尉嶋津三郎忠義が報告した。射手は小山新左衛門尉朝長 (小山朝政の嫡子) 、氏家太郎、駿河次郎 三浦泰村、横溝六郎 (1月7日参照) 。
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   ※犬追物: 流鏑馬、笠懸と並ぶ騎射三物の一つ。
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時代によって多少の変遷はあるが 、最も大きな催し物だと40間 (約772m) 四方を囲って馬場とし、12騎×3組の騎馬武者と2騎の判定者 (検見) が入場して150匹の犬を追い込み 所定の時間内に何匹射たかを競った。
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もちろん矢には鏑 (かぶら) を付けてダメージを減らしているが、命中すれば苦痛なのは間違いない。犬派の私としては断じて許容
できない蛮行だと思っている。
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右上は土佐光茂が六角氏の居城観音寺城本丸の障壁画として描いた 「犬追物図」 の模本を更に部分的に模写したもの。画像は明治時代の作で、原本の障壁画は弘治元年 (1555) 前後の作だったが、既に失われている。 画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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   ※嶋津忠義: 初代 忠久を継いだ嫡子の初名で、後に忠時に改めた。生母は 畠山重忠の娘 (異説
あり) 。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
承久四年
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2月 9日 戊子
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吾妻鏡
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讃岐羽林 一条実雅の室 (右京兆 北條義時の娘) の安産祈祷が行われた。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
承久四年
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2月12日 辛卯
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮での神事は通例のとおり。
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今日申刻 (16時前後) に一条実雅の室 (右京兆北條義時の娘) が女子を平産した。祈祷に任じたのは大進僧都観基、医師は権侍医頼経朝臣、祓いは陰陽権助 安倍国道朝臣と主計大夫安倍知輔と陰陽大允安倍親職ら、各々御衣を下賜された。陸奥守義時、式部丞 北條朝時、修理亮 北條重時、駿河前司 三浦義村らが集まった。
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   ※女子平産: 成長して 西園寺公経の子 西園寺 (一条) 実有 (Wiki、正二位 権大納言) に婚姻する。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
承久四年
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3月 3日 辛亥
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吾妻鏡
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相模守 北條泰時が伊勢国守護職の御下文を賜った。去年の合戦 (承久の乱) の功績として朝廷から拝領した書類だが焼失したための再発行を依頼していた。この他に同じ伊勢国内の16ヶ所と、匂御厨、丹生山、南堀江、永垣・黒田御厨、両金法師の遺領などを下賜された。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
承久四年
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3月 8日 丙辰
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吾妻鏡
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昨夜から若君 (三寅) が体調不良のため戌刻 (20時前後) に御所の南庭で月曜祭を催した。大夫泰貞が祈祷に任じ、左衛門尉 嶋津忠久が行事を差配した。
使者は駿河太郎兵衛尉三浦朝村 (三浦義村 の庶長子で泰村の庶兄)。
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   ※月曜祭: インド占星術による 9ヶの天体である九曜 (Wiki) が原型だが、陰陽道の場合は具体的
な天体の名 (太陽、月、火星) ではなく抽象概念として勢至菩薩に当て嵌めていた。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
承応元年
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4月13日 辛卯
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皇帝紀抄
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改元あり。代始に依る。
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   ※皇帝紀抄: 鎌倉時代中期の歴史書、筆者不詳。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応元年
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4月19日 丁酉
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吾妻鏡
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安芸国千與末の地頭職を厳島社 (厳島神社、公式サイト) 領として寄進した。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応元年
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4月26日 甲辰
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吾妻鏡
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評議あり。去年の兵乱 (承久の乱) 以後の守護と地頭の所務についての詳細決定があった。
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また酉刻 (18時前後) に前浜 (由比ヶ浜) で七座の百恠祭が催された。安倍国道朝臣、知輔、親職、忠業、重宗、文元 (いずれも陰陽師の安倍一族) が任じ、使者は勾当の藤原頼隆が務めた。
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最近前浜と腰越 (七里ヶ浜) で死んだ鴨が打ち寄せられる怪異が続いている事への対処である。
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   ※百恠祭: 「恠」 は変異、怪異、異様な事件に対応する祭祀を。七座は藤原頼隆を含め七人か。
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   ※勾当: 「事に当たる、処理する」 を意味する。本来は朝廷の内侍司で経理、総務、礼式などを
担当した部署をそのまま鎌倉幕府の職種にスライドさせたらしい。
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頼朝の女官だったか、勾当内侍の表記があったっけ。初めて見たときは匂い (香木など) を管理する職責だと思い込んでしまった。無知蒙昧は恐れを知らない (笑) 。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応元年
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4月27日 乙巳
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吾妻鏡
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鳥居禅尼 の所領である紀伊国佐野庄の地頭職は尼の死没後は子息の長詮法橋の相続と定められた。
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鳥居禅尼は六條廷尉禅門 源為義の妹 (実際は娘) で、故右大将家 頼朝の叔母 (「清和源氏の系図」を参照) に当たるため、数ヶ所の地頭職を得た。にも拘らず子息の法橋行忠 (長詮の兄) が母の遺命に背いて押領した上に去年の兵乱の際は院に味方して合戦に加わり、更に零落して荘園に立ち戻ったとの訴えが長詮から提出された。長詮は関東の為に祈祷の忠義を果たした事実も考慮しての決裁である。
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   ※佐野庄: 現在の和歌山県新宮市佐野 (地図) 。その他、湯橋 (和歌山市岩橋、地図) 、但馬国の
多々良木庄 (兵庫県朝来市多々良木、地図) などが含まれる。
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   ※母の遺命: 承元四年 (1210) 9月14日の吾妻鏡に 「熊野の鳥居禅尼から申請があった、禅尼が所
有する地頭職を養子に譲補する件について、故 将軍 頼朝 の御避状があるため支障なしとの仰せがあった。大江広元がこれを差配する。」との記載がある。
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御避状は 「自分の所有権を放棄する」 意味の証書。禅尼は実子行詮の息子 (行忠または長詮) を養子として相続させた後に没し、結果として行忠から長詮に所有権が移った。本来の所有は行忠だったのかも知れないが。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応元年
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5月 2日 己酉
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百錬抄
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今夜、土御門万里小路にある源大納言定通卿の屋敷が焼け落ちた。放火とのこと。
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   ※土御門定通: 源 (土御門) 通親の四男。承久の乱に直接の関与はなかったのだが後鳥羽院政の
関係者で土御門上皇の叔父という 立場から官職を失い、政治的に失脚した。
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20年後の仁治三年 (1242)、87代四条天皇崩御の際に土御門定通が三代執権 北條泰時宛に密使を派遣して邦仁王 (土御門天皇の皇子。母は源 通宗 (共に Wiki) の娘 通子) の天皇擁立を働きかけ、88代後嵯峨天皇として即位させる。
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定通は官職に復さずに天皇親政に伴う後見人として権勢を取り戻し、幕府との協調関係を保つ成果を挙げる結果となる。
今回の放火は土御門家に反発した承久の乱 残党の行為だった可能性あり、か。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応元年
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5月 4日 辛亥
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吾妻鏡
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地震あり (時刻の記載なし) 。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応元年
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5月18日 乙卯
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関東御教書
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4月26日に続いて、諸国の守護と地頭に向けて詳細に亘る禁止事項と責務を通知した。
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殺傷事件が起きた場合は検非違使などの職権を尊重すること、権限外の横領行為などの禁止、新補地頭が没収地に関与することの禁止、私領への過剰な関与の禁止、各国に代官一人を派遣する、など。陸奥守 北條義時 の押印あり)。承久の乱に伴う院や公卿からの没収領でのトラブルを防ぐ意図と思われる。

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   ※関東御教書: 幕府の公式命令書。御教書と下知状は執権と連署が署名して関東御教書、関東
下知状とした。六波羅が発する命令書はこの時から、南北両方の長が連署して六波羅御教書、六波羅下知状と称された。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応元年
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5月24日 辛酉
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吾妻鏡
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天地災変御祭 (陰陽道に基づく災厄避けの祭祀) を催した。安倍泰貞がこれを奉仕し 御使は藤原勾当頼隆 (4月26日を参照) 、関わる経費は壱岐入道定蓮 葛西清重の手配による。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応元年
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5月25日 壬申
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吾妻鏡
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陸奥守 北條義時が三浦の海辺を遊覧、駿河前司 三浦義村が豪華な接待を催した。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応元年
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6月14日 辛卯
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吾妻鏡
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終日雨。30余日も日照りが続いたため、鶴岡八幡宮寺の供僧らが雨乞いの祈祷を始めて三日目の慈雨であり、人々は霊験に感嘆した。
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   ※6月14日: 西暦の7月24日に該当する。稲の生育には豊富な水が必要な時期、日照りは辛い。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応元年
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7月 2日 戊申
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百錬抄
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今夜子刻 (深夜0時前後) 、承明門院御所 (土御門万里小路) が焼亡した。放火である、と。
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   ※承明門院: 後鳥羽上皇の後宮で 討幕派 83代土御門天皇の生母 源在子、51歳。土御門万里小路
は現在の花園小学校 (地図) の辺り、この放火も承久の乱絡みだろう、と思う。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応元年
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7月 3日 己酉
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吾妻鏡
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讃岐中将 一条実雅が大倉の屋敷で百日連続の小笠懸を始めた。毎日の日の出前、あるいは涼しくなった頃に集合するよう数人と約束を交わした。
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今日の射手として 結城七郎朝広駿河次郎泰村同四郎家村小笠原 (伴野) 六郎時長佐々木太郎兵衛尉重綱、同 (加地) 八郎信朝、兵衛尉伊東六郎祐長 (工藤祐経の二男) 、嶋津三郎兵衛尉忠義、原左衛門尉忠康、岡辺左衛門尉時綱、横溝五郎、同六郎、伊具右馬太郎盛重らが参加した。
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   ※小笠懸: 遠笠懸 (約 40cm四方の的を射た後に馬場を逆走して再び射る競技) から簡易版として
独立したらしい。馬場から一丈 (約2.3m) 離して置いた的 (12〜24cm) を射る (馬場の片路) 。競技としては鎌倉時代中期以後は衰退した。 Wiki の画像 を参考に。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応元年
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7月11日 庚申
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百錬抄
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准后の院号付与あり。北白川院と。
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   ※准后: は太皇太后 (先々帝の皇后) を差す。皇太后 は先帝の皇后 、今上天皇の后は皇后。
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   ※北白川院: 後高倉院の妃 持明院陳子 (後堀河天皇の生母) を差す。後高倉院 (守貞親王) は安徳
天皇の異母兄で、後堀河天皇の父。詳細は承久三年7月8日を参照)。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応元年
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7月23日 己巳
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吾妻鏡
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未刻 (14時前後) に大地震あり。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応元年
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8月 2日 丁丑
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吾妻鏡
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戌刻 (20時前後) に彗星が戌方 (西北西) に現れた。大きさは半月ほど、色は白で赤系色の尾、長さ 一丈七尺余り (17尺、5m強) 。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応元年
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8月13日 戊子
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吾妻鏡
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2日から昨夜 (12日) まで毎晩彗星が現れている。対応して今暁から百日間の泰山府君祭を開始した。
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   ※泰山府君祭: 陰陽道祭祇の一つ。中国古代の神・泰山府君が仏教の閻魔大王と習合して寿命と
風紀を支配すると共に侍者の司命神が冥府の戸籍を管理すると信じられた。
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天台宗の円仁が中国から比叡山麓に勧請した赤山明神が泰山府君で、素戔嗚 (すさのお) 尊や大国主神とも習合し、本地垂迹説によって本地地蔵菩薩となった。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応元年
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8月15日 庚寅
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で放生会、舞楽と御経供養は通例通り。今夜の彗星の尾は一尺余、二日から毎夜の出現である。

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   ※彗星: 貞応元年に現れたのは76年周期で地球に接近するハレー彗星。近代の出現は昭和61年
(1986) で次回は2061年夏だそうな (詳細は Wikiで)。
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   ※一尺余: 腕を一杯に伸ばした掌との間隔で測定するのが定例、と聞いた。真偽は不明。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応元年
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8月16日 辛卯
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吾妻鏡
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(放生会に続いて) 流鏑馬。射手は16騎、一人として的を外す者なし。次いで競馬と相撲が奉納された。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応元年
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8月20日 乙未
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吾妻鏡
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先月23日の地震に対する祈祷に今回の彗星の祈祷を加えて祭祀あり。三万六千神祭は 安倍国道朝臣、天地災変は安倍親職。その他天冑地府と七座の泰山府君 (いずれも陰陽道の祈祷) などを行なった。
また鶴岡別当法印が七ヶ日の不動護摩供養を修した。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応元年
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8月23日 丁酉
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吾妻鏡
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彗星は猶も坤方 (南々西) に見える。長さは五尺 (150cm強) 。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応元年
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8月29日 甲辰
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吾妻鏡
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司天 (天文の担当) から報告、彗星が見えなくなった、と。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応元年
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9月21日 丙辰
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吾妻鏡
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巳刻 (午前10時前後) に籐民部大夫 二階堂行盛の妻が男子を平産した。
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   ※男子を平産: 後に評定衆や政所執事を務める 二階堂行忠
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応元年
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9月22日 丁卯
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吾妻鏡
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戌刻 (21時前後) に陸奥守 北條義時邸の寝殿の坤 (南西) 角に放火があった。これを見付けた工藤右馬允の郎従が叩き消し、 褒美として御剣が与えられた。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応元年
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10月 5日 己卯
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吾妻鏡
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申刻 (16時前後) に地震あり。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応元年
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10月15日 己丑
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吾妻鏡
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大慈寺で一切経の法会あり。
二位家 政子 と陸奥守 北條義時が参席され、他にも多数が参列した。今日は二位家の御本尊である釈迦如来像の開眼供養があり、導師は近弘聖人実禎が務めた。布施は砂金十両と唐綾三反。
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   ※大慈寺: 三代将軍実朝が建てた大倉新御堂。建保二年 (1214) 7月27日に落慶供養を催した。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応元年
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10月25日 己亥
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吾妻鏡
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辰刻 (8時前後) に地震あり。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応元年
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10月26日 庚子
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吾妻鏡
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内大臣 西園寺公経卿の昇進について、二品 政子が内々に朝廷に申し入れた。
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   ※公経の昇進: 吾妻鏡には記載がないが公経は年内に太政大臣への昇進を実現している。
能吏ではあるが幕府に密着して得た権力で朝廷の人事を独占した奸臣との評価あり。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応元年
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11月 1日 乙巳
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吾妻鏡
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子刻 (深夜0時前後) に大地震。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応元年
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11月 4日 戊申
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吾妻鏡
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酉刻 (18時前後) に地震。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応元年
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11月25日 己巳
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吾妻鏡
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前陸奥守北條義時の室の出産が近づいて千度祓いが行われ、安倍親職、泰貞、重宗・宣賢、大和大夫が祈祷に任じた。お祓いの後に食事で饗応し、報奨として各々上絹二疋 (四反) を与えた。
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   ※前陸奥守: 記録では義時が陸奥守を辞任したのは貞応二年 (1223) 8月としている (実際に同年
2月8日の吾妻鏡には 「陸奥守が御所の造作について泰時に云々」 の記載がある) 。
義時の後任は半年ほど間を置いてから 足利義氏が赴任しているから、この時点で
「前陸奥守」と書いているのは記述の間違い。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応元年
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11月30日 甲戌
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吾妻鏡
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今朝、初雪が降った。

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   ※初雪: 11月30日は太陽暦の1月3日に該当するが、初雪は年初ではなく 「冬一番」 を意味する。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応元年
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12月 2日 丙子
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吾妻鏡
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大外記中原師季朝臣の書状が到着、先月22日の大甞会は無事に済ませられた、と。また除書 (叙任目録の書写) が添えられていた。
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   ※大外記: 外記は少納言の下に置かれ、中務省が作成した詔勅を 校勘し 太政官から帝に上げる
奏文などを作成した職種、大外記はその中で五位に昇進した者。
中原氏 (押小路家) は大外記を世襲していた。
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   ※大甞会: 天皇が即位後に初めて皇祖と全ての神に新穀を供えて食する 一世一度の儀式。平安
時代以後は即位が7月までなら年内、8月以降なら翌年開催が定例になった。現在の 大嘗祭の原型である。平成二年の先帝陛下の大嘗祭は録画が許可され、YouTube に公開された。興味があれば こちら で。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応元年
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12月12日 丙戌
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吾妻鏡
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子刻 (深夜0時前後) に奥州 北條義時 室が男子を平産した。加持祈祷は弁法印定豪、修験者は大進僧都観基、医師は頼経朝臣、陰陽師は 安倍国道朝臣以下六人である。
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   ※男子: 陸奥七郎時尚か。寛元元年 (1243) 7月17日の吾妻鏡 「欠番 下旬」 の 9番目に陸奥七郎の
名と、更に下の弟 小四郎時経の名もあるが、時経の生母は 伊賀の方ではないらしい。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応元年
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11月13日 丁亥
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吾妻鏡
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辰刻 (朝8時前後) 、昨夜の平産に立ち会った修験者らに御衣と御馬を与えた。
験者分の御馬は安東左衛門尉光成が、医師と陰陽師の分は原左衛門尉忠康と大野新右近将監が引いた。加持僧の分は中野五郎に宿坊へ届けさせた。
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   ※安東光成: 義時泰時時頼 の三代執権に仕えた御内人 (陪臣) 。
原忠康の名は7月3日の小笠懸にも載っている。大野将監は素性不明、中野五郎は 頼家の側近だったが 北條時政の命を受けて頼家の行動を監視し内通していたと思われる武士 (本領は信濃、建仁三年 (1203) 9月4日を参照)。
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2025年
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7月22日
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晴耕雨読
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もうすぐ収穫できそうな我が家のスイートコーン。7/22 9時
  右画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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今年のトウモロコシは最初の種蒔きに失敗して急遽ポット苗を購入しての栽培に切り替えたのだが、結果として時期遅れや暑さの影響などもあって不調のまま終わりそうだ。それでも10本植えた中の8本を収穫して7〜8本程度の収穫か。
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近くのスーパーでは結構なサイズの奴が税込み90円で売っていたから、栽培する費用対効果を考えると実に面白くない。
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一株で三つぐらい収穫できればまぁまぁだが、うまく育っても一株とヤングコーン二つ程度じゃ労働の成果にも足りない。
トマトでもナスでも枝豆でも、同じスペースならもっと楽しめるし、買った方がずっと安いからね。。
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園芸日誌を少し整理して 2025年10月の情報を載せた。左目次の 晴耕雨読 園芸日誌 でどうぞ。
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2025年
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11月9日 朝
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追 記
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貞応元年の最終校正とフォントサイズ&行間の適正化は、約 2時間で終了。慣れてきたとも言えるが、承久の乱があった前年に比べると原稿の総量が桁違いだったからね。文字数や説明する項目が多ければ苦しくて不満だし、少なければ物足りなくて不満が溜まる (笑) 。
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今日の午前中は妻の手伝いで日用品と食材の買い物につきあって、午後からは (天気が大丈夫だったら)リビング前のネット沿いに (やっと芽を出した) インゲン苗を植える 畝を作る。消石灰の細部は済んでいるから、堆肥と腐葉土と化成肥料を漉き込んで耕すだけだから 2時間もあれば済む、平和な日曜日。
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週明けから干し柿作りが本格化する。 20ヶのテストが完了、次は一日で 100ヶの追加が目標だ。
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西暦1222年
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応元年
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吾妻鏡
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記事
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持明院法皇
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86代 後堀河天皇
持明院法皇
貞応元年
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