
. . 84代 順徳天皇 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 1月10日 乙未 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 終日強風。夕暮れになって突然に雷鳴と降雨があった。 . . ※年令: 三寅 (後の四代将軍 藤原頼経) 1/16で 3歳、 源実朝 前々年 1/27死没 (享年26) 、
坊門信子 (実朝の正室、出家) 34歳、
貞暁 34歳、 公暁 前々年 1/27死没 (故 頼家の二男、享年18) 、 竹御所 (故 頼家の娘、後の四代将軍 藤原頼経の正室) 18歳、 . 北條政子 63歳 、 北條義時 57歳 、 北條時房 45歳 、 北條泰時 37歳 、 北條朝時 27歳 、 北條重時 22歳 、 千葉胤綱 22歳 、 足利義氏 31歳 、 三浦義村 63歳前後 、 三浦泰村 18歳 、 大江広元 72歳 、 安達景盛 50歳前後 、 加藤景廉 8月死没 (享年64) 、 . 84代 順徳天皇 23歳 、 土御門上皇 24歳 、 後鳥羽上皇 40歳 、 九条道家 27歳 、 坊門忠信 33歳、 近衛家実 42歳、 藤原定家 58歳、 . 定豪 68歳、 慈円 65歳 、 親鸞 46歳 、 叡尊 19歳 、 (全て1/1時点の満年令) . ※ 安達景盛は生年不詳だが頼朝の伊豆配流 10年後に誕生と仮定して年齢を推定した。 . |
. . 84代 順徳天皇 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 1月11日 丙申 . 吾妻鏡 |
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少々の降雪あり。昨年の暮以来、初めての雪である。 (西暦の 2/4 に該当する) . |
. . 84代 順徳天皇 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 1月22日 丁未 . 吾妻鏡 |
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去る10日の雷鳴の変異に対応して祈祷※を催した。天地災変祭は安倍泰貞、三万六千神祭は安倍晴吉、属星祭は安倍親職、泰山府君祭は安倍宣賢、天冑地府祭は安倍重宗。 また鶴岡八幡宮で供僧の大般若経の転読を行なった。 . . ※祈祷: いずれも陰陽道の祭紀。迷信、祈祷、予兆、予言なんて心の隙間を狙う嘘に過ぎない。 . |
. . 84代 順徳天皇 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 1月25日 庚戌 . 吾妻鏡 |
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丑刻 (深夜2時前後) に町大路の東※で失火し大夫属入道 三善善信の家が焼失、重要な書類と書籍および問註記 (訴訟関連の書類) などが失われた。 . .
※町大路の東: 町大路は 「大町大路」 の略称、今小路南端
にある六地蔵から下馬交差点を横切り大町と名越を経て小坪方面に続く。 .. 承元二年 (1208) 1月16日にも 「問柱所入道三善康信の名越邸が焼けた」 の記事があり康信は二度目の災難に襲われたらしい。 . 承元の際にも保管していた古い文書を焼いた事を悲しんでいた。朝廷の太政官書記を世襲していた下級貴族の出身である。 . また新編鎌倉志 (水戸光圀の指示で編纂された17世紀末の地誌) は大町の 安養院を 「名越の入口」 と表記している。 . 名越の範囲はかなり広く、北は現在の大町3丁目から6丁目、東は小坪7丁目、南は材木座4丁目 (弁ヶ谷、推定千葉常胤邸と 北條時政の名越邸があった) まで含まれていた。 右は名越地区と大町大路の略図 (クリック→ 別窓で拡大表示) . 資料を付け合せながら位置を推定するのって結構楽しい。 |
. . 84代 順徳天皇 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 1月27日 壬子 . 吾妻鏡 |
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今朝、二品 (二位に同じ、政子の略称) の沙汰により法華堂※に於いて故右大臣 実朝 三回忌の追善法要を修した。導師は 荘厳房律師行勇、百人の僧を伴っている。 . 布施は口別 (1人当り) に上絹一疋、被物一重、准布十端。導師には上絹百疋、被物二十重(色々)、砂金五十両、鞍馬三疋、加えて太刀一腰。伊予中将 一条実雅がこれらを配った。法会には右京兆 北條義時、相模守 北條時房を始め多くの人々が参列した。 . 次いで施行 (施し) として乞食千人に (一人当たり) 十疋 (20反) 、また犯科者 30人ほどに恩赦を与えた。 秋田城介 安達景盛入道と隠岐守 二階堂行村入道が今日の奉行である。 . .
※法華堂: 頼朝法華堂 (墓所) は今の白旗神社一帯 (地図) 。
吾妻鏡の記録から推定すると生存中の持仏堂をベースにした、現在の白旗神社と児童公園を含む広大な敷地だったらしい。数回の火災を経て、最終的には明治初期の神仏判然令発布の頃に破却された。 .. 右は頼朝の墓への参道と 頼朝法華堂の跡地。 画像をクリック→ 頼朝の墓の詳細 (別窓) へ。 . 吾妻鏡には 実朝の法華堂に関する記録がなく 「遺骸は (遺髪と共に) 勝長寿院の傍らに埋葬した」 と書き残されている。勝長寿院は室町時代に廃寺 (室町期) となり、政子の五輪塔と共に寿福寺裏山の 「やぐら」 に改葬された。 . 将軍実朝は只の 「埋葬」 で家臣に過ぎない 北條義時の墓所が結構立派な法華堂だったのも変な話だが、義時法華堂とやぐら (別窓) を参照されたし。 |
. . 84代 順徳天皇 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 1月29日 甲寅 . 吾妻鏡 |
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午刻 (昼12時前後) に地震あり。 . |
. . 84代 順徳天皇 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 2月10日 乙丑 . 百錬抄 |
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子刻 (深夜12時前後) 、三條烏丸七條の院御所※ (地図) が焼失した。 . . ※おまけ: 烏丸三条の御所跡標柱の画像 (別窓) を載せた。私如き田舎者には上品すぎる。 . |
. . 84代 順徳天皇 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 2月26日 辛巳 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 民部大夫 町野康俊が使節として上洛の途に就いた。 これは去る10日夜半に七條院※の三條御所が放火で焼失したとの情報が届き、放火犯の探索に尽力せよとの指示を (京都守護職の) 源 (大江) 親広入道 と 伊賀光季に伝えるためである。 . . ※七條院: 高倉天皇妃で 後鳥羽上皇の生母、坊門信清の同母姉。承久の乱では実子の後鳥羽院 と4人の孫 (土御門上皇、順徳上皇、雅成親王、頼仁親王) が流刑となり、厳しい後半生を迎える。 .※百錬抄の記事: 2月10日 子刻 (0時前後) に三條烏丸の七條院御所が焼亡した。 (2/10の追伸) . |
. . 84代 順徳天皇 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 2月28日 癸未 . 吾妻鏡 |
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未刻 (14時前後) に突然の曇天と雷鳴あり。 . |
. . 84代 順徳天皇 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 3月22日 乙未 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 波多野次郎朝定が二品 政子の使者として伊勢大神宮に向けて出発した。 今暁、二品の夢に二丈 (20尺、約6m) ほどの鏡が現れて由比ヶ浜に浮かぶと共に声が響いた。 「私は伊勢神宮の神である。現在の天下を眺めると戦乱が近いと思われるから熟慮して備えよ。 (夢の中で) 泰時が 「自分を重用すれば太平を得る」 と言ったのが聞こえた」 と。 . 二品は更に信仰心を深め、伊勢神宮神官の外孫である波多野朝定を使節に選んだ。 . . ※泰時が云々: 婆さんの夢で政策が決まるんじゃどうしようもない。波多野次郎朝定も 義通→ 義経→ 義職→ 朝定 と続く系図は確認できたが、人柄などが判らないのは残念。 「神官の外孫」 というのも神人 (雑事を担当する下級神職) の娘が先祖の誰かを産んだ、その程度の話らしいし。政子も義時も嘘と捏造を平然と繰り返す。 .安倍晋三夫婦みたいだ。 |
. . 84代 順徳天皇 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 4月 1日 己卯 . 吾妻鏡 |
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雷鳴が轟き、雹 (ひょう) が降った。 . |
. . 84代 順徳天皇 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 4月17日 辛未 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 波多野朝定が伊勢神宮から帰着し二品 (政子) の願書は祭主神祇大副の隆宗朝臣に届けた旨を報告した。 . . ※承久記の記述: 4月17日、勅命あり。趣旨は 「4月28日に 城南寺 (Wiki) で仏事を催す。警備の ため甲冑を着して参上せよ」 との内容である。 .. 4月20日、 (第84代順徳天皇の) 御譲位あり。申刻 (16時前後) に内大臣以下が天皇の大炊殿に参上。皇太子 懐成 (践祚 (継承) して仲恭天皇、満 2歳 7ヶ月)を閑院 (里内裏、転じて帝位) とする。劔璽が渡され、新摂政 九条道家ら諸卿はこれに従った。
※承久記の記述: 4月28日、一千騎が高陽院殿※に集結した。
上皇 (後鳥羽) 、中院 (土御門) 、新院 (順徳) 及び
六條宮 (雅成親王) 、冷泉宮 (頼仁親王) が集まり 諸国の兵が四方の門に警護した。 .※高陽院殿: 元 第50代 桓武天皇の皇子 賀陽親王の邸宅で治安 元年 (1021) に摂政の藤原頼通が敷地を広げて、寝殿造りの建物を造営し 第70代後冷泉天皇の里内裏となった。 .. 平安時代後期からは後鳥羽上皇の御所として更に250m四方の規模に拡大された。 院政の拠点としてこの場所で承久の乱が計画立案された、と伝わっている。 . 乱の終結後の貞応二年 (1223) には放火で焼失し、そのまま再建はされなかった。現在の堀川丸太町近く (地図) に跡地の案内表示がある。 関連記事として、承久元年 (1219) 7月25日末尾を参照されたし。 . 右画像は高陽院殿の復元図面 (画像をクリック→ 別窓で拡大表示) |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 4月29日 癸未 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 京都の使者が大官令禅門 大江広元の許に到着、去る20日に突然の譲位※があった、と。 (順徳天皇から 数え年四歳の仲恭天皇への譲位) . . ※突然の譲位: 簡単に書くと、第82代天皇だった 後鳥羽上皇は倒幕の主導者、第83代の土御門 天皇は穏和な性格が後鳥羽に疎まれて退位させられ、後継の第84代順徳天皇は倒幕賛成派 (むしろ父親の目を惹くのが目的) として自由な立場で計画に関与するために退位を選んだ。 .争乱が終結までは 天皇 (幼帝) 一人+上皇三人が併存する異様な事態である。 |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 5月 1日 乙未 . 史 料 |
. ※百錬抄の記述: 4月2日、三社 (伊勢神宮、石清水八幡宮、上賀茂神社、下鴨神社 (全て 公式サイ ト) に奉幣使を派遣した。宣命 (和文体の勅命書。漢文体なら詔勅) の形式は不審である。 .. 4月8日、夜になり洛中が騒がしく落ち着かない。重大な決裁があったようだ。 |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 5月15日 乙未 . 史 料 |
. ※百錬抄の記述: 5月15日未刻 (14時前後) に院から官兵を送り、大夫尉 伊賀光季を追討した。 これは勅命に背いて天下の政道を乱している陸奥守 北條義時朝臣を追討すべきとの結論に達し、まず彼の縁者である光季を誅したものである。 .. 光季の邸は高辻北 京極西角 (この辺か?) にあり、午刻 (正午前後) に合戦した末に宿館に放火して自害した。炎は数町を焼き、天下は騒然とした。 . 土御門院、新院、宮々は高陽院殿に渡御され、義時朝臣追討の宣旨は全国五畿七道に下された。 ※承久記の記述: 去る程に能登守 藤原秀康は御所で合戦の次第を報告、十善の君 (帝、後鳥羽を 差す) もお尋ねになった。秀康は 「1000騎の討手と光季の手勢 31騎が未の始め (13時頃) から申の終 (15時頃) まで戦って味方は 35騎が討たれ手負いは無数、敵は恥を知る郎党が少々討たれ、光季父子は自害しました。」 と奏上した。 .. 暫くして右大将 西園寺公経と子息の中納言実氏を拘禁した。これは関東に内通した嫌疑に基づいている。この間に伊賀判官光季の下人が (主人の命令を受けて) 15日の戌刻 (20時前後) に京都を脱出し、報告のため鎌倉を目指した。 . 一方で京都では (院に味方した) 検非違使の平判官 三浦胤義が宿所に帰って兄の 義村に勧誘の書状を書き、秀康が宣旨を受けて按察中納言 葉室光親卿の書き下した (義時追討の) 院宣を添えて院の下僕 押松に渡し、押松は16日寅刻 (早暁4時) に義村邸を目指して出発した。宣旨の内容は次の通り。 . 故右大臣 実朝薨去の後、鎌倉の御家人らは偏に聖断 (朝廷の判断) を求めた。 .この時に北條義時朝臣は 「三代将軍の遺跡を管領する人物が不在である」 と称して申請したため、摂政 九条道家の子息を次期将軍として下向させた。 . しかしまだ幼くて実務には就けず、義時朝臣が朝威を借りて思いのままに政治を専有している。従って義時朝臣の支配を停止し、併せて朝廷の判断に委ねるべきである。 . この決定に従わず更に反逆に与する者は命を落とす結果となり、命令に従って勲功を挙げた者には褒賞を与える。 承久三年 5月15日 按察使光親 奉る |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 5月16日 乙申 . 史 料 |
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官宣旨 案 (民間所蔵文書) .. 右弁官から 五幾内諸国 (東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、太宰府) に下す。 早く陸奥守 平義時朝臣の身を追討せしめ、院の廰に参り諸国庄園守護人と地頭等の裁断を蒙るべき事。 . 右、内大臣宣べ、勅を奉る。近合関東の成敗と称し、天下の政務を乱す。纔に将軍の名を帯すと雖も、猶以て幼稚の齢に在り、然る間彼の義時朝臣偏に仮言の詞を教命し、恣に都鄙に於いて裁断を致す。剰え己の威を燿かすこと皇憲を忘るる如し。政道を論ずるに謀反と謂うべし。 . 早く五幾七道の諸国に下知し彼の朝臣を追討せしめ、兼ねてまた諸国庄園守護人や地頭等、言上を経るべきの旨有らば、各々院の廰に参り、宜しく上奏を経て状の聴断に随うべし。国宰並びに領家等に仰せ、事を綸意に寄せ、更に濫行を致すこと勿れ。縡これ厳密なり。違越せざりてえり。諸国承知し宣に依ってこれを行なえ。 承久三年五月十五日 大史 三善朝臣 大弁 藤原朝臣 |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 5月18日 辛丑 . 吾妻鏡 |
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寅刻 (早暁4時前後) に太白星 (金星) ※が螢惑星 (火星) の軌道二尺を犯した。 . . ※太白星: 建保二年 (1214) 5月15日にも 「月が太白星の軌道を犯した」 との記載あり。 火星は初出か。金星は吉凶ともに関係するらしい。本来は吉兆なのだが、昼間現れる場合は凶兆になる。...馬鹿々しいけど記録を無視するのも憚られる。 . |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 5月19日 壬寅 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 午刻 (正午前後) に大夫尉 伊賀光季 が去る15日に派遣した飛脚が関東に着いて次の通り報告。 . 京都では官軍が院に集結し、前民部少輔 源 (大江) 親広入道は昨日勅喚に応じて加わりました。 (主人の) 伊賀光季は右幕下 西園寺公経からの連絡を受けて勅喚を拒み、勅勘を蒙る立場にあります。 .続いて未刻 (14時前後) 、右大将家 (公経) の家司主税頭長衡が15日に派遣した飛脚が到着して報告。 . 昨日 (14日) 、幕下 (公経) と黄門 (嫡子 実氏) が二位法印尊長※によって弓場殿 (4月17日の画像参照) に拘禁、15日午刻 (正午前後) には官軍を派遣して伊賀廷尉 光季を誅殺した。また按察使 葉室光親卿に命じて右京兆 北條義時 追討の宣旨を五幾七道に下した。 .右下は国宝 後鳥羽院像 (伝藤原信実筆、水無瀬神宮蔵) 隠岐配流直前の描写と伝わる。 画像をクリック→ 別窓で拡大表示。 .
関東の武士※に宛てた宣旨の使者も今日同じく到着したとの情報から葛西谷 (宝戒寺南の谷津、地図) の山里殿の付近で 藤原秀康の従卒 押松丸を捕獲。宣旨と大監物 源光行の添状および院方に加わった御家人の名簿などを没収し、二品亭 (政子邸、御堂御所) に主だった御家人を集めて公開した。. 同時に廷尉 三浦胤義 (義村の弟) からの私信が駿河前司 三浦義村の許に届いた。 「勅定に応じて右京兆 (義時) を誅殺せよ。その勲功に応じる恩賞は望み通りに与える。」 との内容である。 . 義村は返事をせずに使者を追い返し、その書状を携えて右京兆の許を訪れ 「私は弟の叛逆に同心せず、鎌倉方に味方して忠義を尽くす。」 と語った。その後に陰陽道の安倍親職、泰貞、宣賢、晴吉を呼び、午刻 (最初の飛脚が着いた正午前後) を占わせ 「関東は太平」 の一致を得た。 . 相模守 北條時房、武蔵守 北條泰時、前大官令禅門 大江広元、前武蔵守 足利義氏が集結、二品 (尼御台所政子) は御家人らを簾の下に招き、秋田城介 安達景盛を介して語りかけた。 . 全員が心を一つにして聞くように。これは、今回の事件について最後の言葉である※。 .. 故右大将軍 (頼朝) が朝敵 (平氏) を討伐し関東に幕府を草創してから、官位に関しても俸禄に関しても、受けた恩は既に山岳よりも高く海よりも深い。その恩に報いようとする志が浅い筈はないのに、逆臣の讒言により理屈のない綸旨が発せられた。 . 名を惜しむ御家人は早く秀康や胤義を討ち取って三代続いた将軍が築き挙げた幕府を守護せよ。ただし、院方に参加したい者は直ちに申し出るが良い。 群参した御家人※の全てがこの言葉に応じ、涙を流して命を惜しまず重恩に報いようと誓った。 「国の危機にこそ忠臣が現れる 」 と言われる通りである。 . そもそも御家人が朝廷の意向に背いたのは、後鳥羽上皇が寵姫亀菊の願い※と称す言葉を容れ、 「摂津国の長江庄と倉橋庄の地頭職を廃止せよ」 ※との院宣を二度も下したが右京兆 (義時) が拒絶した事から始まった。 . 「(両荘の地頭職は)故幕下将軍 頼朝の時代に彼らが挙げた勲功によって補任された者である。特に顕著な過怠がない限り更迭しない。」 と拒んで上皇の怒りを受けたのが発端である。 . 夕刻に右京兆 義時邸で相模守 北條時房、武蔵守 北條泰時、前大官令禅門 大江広元、駿河前司 三浦義村、秋田城介 安達景盛入道らが評議、意見は様々で足柄と箱根の関で迎え討つべきとの意見もあった。 . 大官令覚阿 大江広元は 「その考えは一応は尤もであるが、東国の御家人が一致団結しても長期間の防衛が続けば敗北を招く。運命を天に委ね直ちに京都を目指して軍兵を派遣すべきだ。」 と主張した。 . 右京兆 義時はこの両論を御堂御所※の二品 (政子) に言上した。 「上洛しなければ官軍を破るのは困難だろう。安保刑部丞実光ら武蔵国の御家人の集結を待って速やかに京都を目指すべきである。」 . 言葉に従って今日 遠江、駿河、伊豆、甲斐、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、信濃、上野、下野、陸奥、出羽などの諸国へ義時の命令書を持たせて飛脚を派遣した。一族を率いての参陣をそれぞれの家長に命じる内容である。 . 京都の官兵が東国を攻めるとの情報があり、相模守と武蔵守が軍勢を率いて上洛の途に就き、式部丞 北條朝時が北陸道の大将として出陣する。この旨を一族の人々に周知させ軍勢に加わるように、と。 . . ※関東の武士: 後鳥羽が義時追討の院宣を送ったのは 武田信光、小笠原長清、小山朝政、長沼 . ※尊長: 一条能保の四男で 後鳥羽上皇の近臣。承久の乱に敗れて逐電し嘉禄三年 (1227) に京都 で捕縛されたが自殺を図って重体となり、 「さっさと首を斬れ、さもなくば 義時の妻 (伊賀の方) が義時に飲ませた毒薬で私も殺せ 」 と叫んだと伝わる。ただし、この報告の信憑性は薄いらしい。 .※御堂御所: 最晩年の政子は勝長寿院 (南御堂、大御堂) の一角に居を構え、嘉禄元年 (1225) 7 月11日に死去。翌12日の吾妻鏡には 「戌刻 (20時前後) に御堂御所の地で火葬した」 とある。ただし7月8日には「二品は (危篤状態のため) 東御所に渡御」と書いており東御所と御堂御所の場所に関して厳密な特定ができないのは残念。 .※亀菊の願い: 建保七年 (1219) 3月9日の吾妻鏡を参照。 . ※政子の演説: 承久記や六代勝事記などは 「心に響く大演説」 と賞賛しているが安達景盛が伝達 した言葉を 「政子が御家人を説得した 」 と言い換えるのは屁理屈だ。 .それに、東国武士団が皇室の権威を恐れて出兵を躊躇したとは考えにくい。 . 天皇や上皇に反抗して幽閉する前例は 清盛や 義仲が既に実行している。 勅命に服従して既得権を奪われるか、朝廷と戦って領地を守るか、二者択一なら結論は決まっている。 . 後鳥羽上皇は朝廷の威光が衰退した事実を認識できず、東国武士の価値観の変化を読み誤った。政子の演説の有無よりも朝廷が招いた権威劣化が原因である。 ※御家人感動: 承久記だったかな。朝廷に兵を向けるのを躊躇う足利義氏、千葉胤綱、宇都宮 泰綱ら幕府中枢の御家人を大演説で説き伏せた政子が、黄金造りの太刀を義氏に与える場面があった。これは多分フィクションだったと思うけど。 .. 足利義氏に与えたその一振りこそが頼朝が遺した源氏の重宝 「鬚切」 で、足利家の家宝として今も古刹 鑁阿寺 (別窓) に保存されている、なんて噂まである。 . これが本当なら実に面白いんだが。トレジャー・ハンターっぽい話でもあるし、何しろ鑁阿寺は頼朝時代の建造物がほぼ無傷で残っているからね。天井裏かどこかから何が出てきても不思議じゃない、様な気がする。 |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 5月20日 癸卯 . 吾妻鏡 |
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. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 5月21日 甲辰 . 吾妻鏡 |
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午刻 (正午前後)、去る16日に京都を出た 一条大夫頼氏が鎌倉に着き、二品 尼将軍政子邸に入った。 宰相中将 一条信能ら一族の多くが院に与した中で、鎌倉との好誼を忘れなかった人物である。 二品は喜びつつ京都の情勢を尋ね、頼氏はそれに応じて詳細を報告した。 . 先月からの洛中は落ち着かない状態が続き人々の不安が鎮まらなかった。 .14日夜に 後鳥羽院が 源親広入道を仙洞 (院の御所) に呼び、更に右幕下父子 (西園寺公経と嫡子の中納言実氏) を拘禁した。15日朝には概ね1700余騎の官軍を招集して高陽院殿全ての門を警衛させ、内蔵頭清範がこれに加わった。 . 次に 藤原範茂卿を御使として新しく上皇となった順徳院を呼び迎えられた。続いて土御門院と六條の宮と冷泉の宮が各々密かに高陽院殿に入御された。 . 同日に大夫尉 大内惟信、山城守 佐々木広綱と高重 (経高の長男) 、廷尉 三浦胤義らが勅定を受け 800余騎の官軍を率いて 伊賀光季の高辻京極邸を襲撃。突然kため光季と息子 寿王冠者と光綱は自害して宿舎に放火した。南風が烈しく吹き、炎は数十町先の姉小路東洞院まで焼き払った。 . 申刻 (16時前後) に新帝 (仲恭天皇) が摂政の 九条道家を従え徒歩で高陽院殿に行幸、近衛府の将軍二名と公卿少数が賢所 (神鏡) を奉じて同行した。これは同じ頃に六角西洞院から広がった火災が閑院皇居 (里内裏) まで延焼する気配を見せたための避難である。また高陽院殿に於いて祈祷を催し、仁和寺宮道助並びに良快僧正らがこの業務に任じ、寝殿御所を祈祷の壇所とした。 今日、鎌倉では天下の重大事態について重ねて評議した。本領から離れて官軍との合戦に上洛する是非についての異議が出たためである。前大膳大夫入道 大江広元は次の通り主張を展開した。 . 上洛が決定したにも拘らず日が過ぎると共に異論が出される。ただ待っている間には武蔵国の御家人の中にも変心する者が現れるかも知れない。今夜中に武蔵守 北條泰時が例え単騎であっても出陣すれば、東国の御家人は龍が雲に従うように続くだろう。 .京兆 北條義時はこの言葉に心を打たれた。更に二品 尼将軍政子は病床にあった宿老の大夫属入道 三善康信を呼んで意見を求め、善信は次の通りに答えた。 . 関東の安否はこの瞬間の決断にあり、論議を巡らしても何の益にもならない。軍兵を京都に送るべきなのは今であり、ここで日数を費やすのは過怠だ。大将軍は単騎でも出陣すべきである。 .京兆 北條義時は 「議論は決した、直ちに出陣せよ 」 と泰時に命じた。これに従って武蔵守 北條泰時は今夜出発し、左衛門尉 藤澤清近の稲瀬河※宅に宿泊した。 . .
※稲瀬河: 江ノ電長谷駅近く (地図) 。治承四年 (1180) 10月
には頼朝に合流するため伊豆山から鎌倉を目差した政子が吉日を待って一泊した場所である。 .. また寿永三年 (1183) 8月に頼朝は稲瀬河に桟敷を設けて平家追討に出陣する大軍を見送った。 . 鎌倉と外界を分ける狭義の境界であり、広義には極楽寺、更に広義には腰越が境界となる。 . 右は稲瀬河沿いに建つ石碑。 クリック→ 極楽寺坂方面の遠景 へ、別窓で拡大表示 . 鎌倉幕府滅亡の元弘三年 (1333) 5月18日には海沿いの稲村路を強行突破した新田勢の大館宗氏と北條勢の本間山城左衛門が血で血を洗う壮絶な死闘を演じる。 |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 5月22日 乙巳 . 吾妻鏡 |
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卯刻 (朝6時前後) に武蔵守 北條泰時が京都を目指して出発した。従う兵は18騎、子息の武蔵太郎 北條時氏、弟の 陸奥六郎有時、また北條五郎時房 (尾藤左近将監、平出弥三郎、綿貫次郎三郎が従う) 、関判官代、平三郎兵衛尉、南條七郎、安東籐内左衛門尉、伊具太郎、岡村次郎兵衛尉、佐久満太郎、葛山小次郎、勅使河原小次郎、横溝五郎、安藤左近将監、塩河中務丞、内嶋三郎である。 .. 京兆 北條義時は彼らを招いて武具を贈った。続いて相州時房、前武州 足利義氏、駿河前司 三浦義村、同次郎 三浦泰村らが (東海道へ) 出発、式部丞 北條朝時は北陸路の大将軍として出発した。 |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 5月23日 丙午 . 吾妻鏡 |
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. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 5月25日 戊申 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 去る22日から今朝までに名のある御家人は全て上洛の途に就き、京兆 (北條義時)が全てを名簿に記録した。各々が東海路、東山路、北陸路の三道に分かれ京都を目指す総勢は19万騎※である。 . 東海道の大将軍は相模守 北條時房 (十万余騎) 、従うのは武蔵守 北條泰時、同太郎 時氏、武蔵前司 足利義氏、駿河前司 三浦義村、千葉介胤綱 (成胤の嫡子で六代当主)、 . 東山道の大将軍は 武田五郎信光 (五万余騎) 、従うのは 小笠原次郎長清、小山左衛門尉朝長 (朝政の嫡男) 、結城左衛門尉朝光、 . 北陸道の大将軍は式部丞 北條朝時 (四万余騎) 、従うのは結城七郎朝広 (朝光の嫡男) 、佐々木信実。 . 今日の黄昏に 武蔵守 北條泰時は駿河国に入った。ここで過日に義時の命令に背いて駿河に蟄居していた陪臣の 安東兵衛尉忠家が武州泰時の上洛を知り、騎馬で駆け付けてきた。 泰時は 「主人の勘気を受けた者であるから同道は好ましくない」 ※と拒んだが、忠家は 「それは承知の上。命を捨てるためですから鎌倉に知られても構いません」 と答えて軍勢に加わった。 . .
※十九万騎: 軍記物語が描く軍兵の実数を推定する論拠
論拠を読んだ記憶がある。例えばその時代の武蔵国の穀物生産量を根拠に動員できる戦闘員の数を割り出す計算式で、明細は忘れたが結構面白かった。兵の実数は、表示の10%〜30%の範囲内だと書いてあった。 .. そんなもんだろうね。 十九万騎の軍勢を動かすのは千人の兵を動員できる御家人 200氏族が必要だ。兵站を含めれば 「超」 が付く大事業なのだ。右上は軍団別の進軍ルートの概略図。 画像をクリック→ 別窓で拡大表示 ※忠家の合流: この辺が杓子定規に判断する、真面目だが柔軟さに欠ける泰時の性格だ。 6月後半の宇治川合戦で強行渡河を繰り返し多くの犠牲を払い続けた際にも、泰時の融通の利かない弱点が露骨に見えた。別働隊を動かせば 、多くの兵が 「討ち死に」 ではなく 「溺死」 という無意味な消耗を減らして有利な展開に持ち込むのも可能だったのに、なぜ 「正面突破」 に拘泥するのか。 ひょっとして、実利よりも建前を尊重するこの男の限界か、と思わされた。 . |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 5月26日 己酉 . 吾妻鏡 |
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世の中の無事を願う祈祷が始められ、鶴岡八幡宮では仁王百講※ (関東では初の例) が催された。 講師は安楽坊法橋重慶、読師は民部卿律師隆修。招いた僧百人は八幡宮寺宮および勝長寿院と永福寺と大慈寺の供僧である。また若君 (五寅、後の四代将軍 藤原頼経 ) のための属星祭※と、右京兆 北條義時による百日の天冑地府祭が始められた。民部大夫 町野康俊および 清原清定がこれを差配した。 . 武州 北條泰時 は手越の驛※ (安倍川西岸) に到着。春日刑部三郎貞幸 (滋野氏傍流) ※が信濃国から参陣した。武田信光と小笠原長清の軍に合流の命令だったが、約束があると称して泰時軍に加わった、と。 . 夜になり、去る19日から要衝の墨俣※を固めている官軍の藤原秀澄※が飛脚を京に送り報告。鎌倉軍は官軍を破るため既に上洛の途上にある。軍勢は膨大で神仏の加護がなければ防げる規模ではない、と。 . 朝廷は徐々に混乱を深め、三人の上皇は五社※に祈願を命じるべきかと検討した。 . . ※仁王百講: 仁王経は仏教における国王の姿勢について述べた経典、百回唱えるのは百講。 . ※属星祭: 十二支に従って北斗七星の一つを本命属星としその星に寿命延長と招福を祈祷する。 . ※天冑地府祭: 十二座の神に供物を捧げ無病息災と延命長寿を祈る、陰陽道での最重要儀式。 . ※手越の驛: 現在の静岡市の安倍川西岸 (地図) 。この時期の東海道は焼津を経て大井川の下流 に向かう旧ルートと、丸子宿を経て宇津ノ谷峠を越える別ルートが併存しており、北條時房軍がどちらを選んだかは判らない。 .宇津ノ谷峠に関する詳細は 峠道のレポート (別窓) で。 ※春日貞幸: 6月14日の宇治川渡河作戦を強行した眞木嶋の中洲で奮戦した記録が残っている。 . ※墨俣: 木曽三川 (西から揖斐川、長良川 (墨俣川) 、木曽川) が 4〜8kmの間隔で南北に流れる 東海道の要衝 (地図) 。治承五年 (1181) には 頼朝の叔父 新宮行家と異母弟 義円の連合軍が 平重衡の率いる平家軍に惨敗し義円が戦死した 墨俣川合戦 (別窓) や、340年後の永禄九年 (1566) に木下藤吉郎が一夜城を築いた事で知られる。 .ただし、一夜城の方は史実ではなく単なるフィクションらしい。有名になると作り話で飾ってくれる取り巻きが現れるのが世の常で。 ※藤原秀澄: 藤原北家流 秀郷の子孫を称する藤原秀宗の三男で兄弟三人とも院に仕えた。長兄 の秀康は下野、河内、備前、能登の国司を歴任している。三浦胤義を計画に引き込んだのがこの秀康で、乱の終結後に出家して罪を減じられた。後鳥羽上皇に従って隠岐島に同行したのが次兄 秀能。末弟 秀澄は大将軍として墨俣に布陣した。 .. 軍陣の 山田重忠※は 「兵を集結させ尾張国府 (地図) を急襲して突破し、手薄になっている鎌倉を攻めるべし」 と進言したが、既に臆病風に吹かれていた秀澄は何の決断できず、結局は惨敗して京に逃げ帰った。武士の面目を重んじた歴戦の山田重忠は手勢の300騎で児玉党の 3000騎を迎撃、杭瀬川※で散々に戦って100騎ほどを討ち取った後に京に退いた。 . 後に鎌倉軍が入京した際に山田重忠は最後の一戦を交えようと御所に駆けつけたが後鳥羽上皇は門を閉ざして答えず、重忠は 「臆病者に騙された」 と口惜しがったと伝わっている。 ※山田重忠: 清和源氏満政流の末裔で出自は尾張、父重満は治承五年 (1184) 4月の墨俣川合戦で に行家軍に加わって戦死している。鎌倉幕府創設後は御家人に列し、本領の尾張国山田荘 (瀬戸市周辺) の地頭職を得た。 .一族は代々朝廷との関わりが強く、上皇挙兵と同時に参戦していた。 ※杭瀬川: 美濃国府跡の5km東を南に流れて揖斐川に合流する。少し上流には平治の乱の際に 頼朝の異母兄 朝長 所縁の 円興寺 (別窓) があり、朝長の死を悲しんだ異母妹の夜叉御前 (生母は青墓長者大炊兼遠の娘 延寿 ) が入水自殺した川でもある。 .. 吾妻鏡が合戦の状況を記述しているのは6月6日で、踏み止まった山田重忠は暫く戦ってから退却、共に戦った鏡右衛門尉久綱は 「臆病な秀康のため思った通りの合戦が出来なかった」 と口惜しがって自刃した。 . 380年後の慶長五年 (1600) 9月には関ヶ原合戦の前哨戦で西軍の島左近 (清興) が奇襲作戦によって東軍を撃破 (局地戦での西軍唯一の勝利) している (地図) 。 ※五社: 左京の中心 平安神宮、玄武が北を守る 上賀茂神社、白虎が西を守る 松尾神社、東を |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 5月27日 庚戌 . 吾妻鏡 |
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鎌倉で捕らわれていた勅使の押松丸に進士判官代隆邦が書き下した宣旨への返状※を渡して釈放した。 今日、鎌倉では再度の祈祷を催した。如意寺の法印圓意、弁法印 定豪、大蔵卿法橋良信、信濃法橋道禅がこれを行ない各々が供料を得た。 . . ※宣旨に返状: 吾妻鏡は上請文を記録していない。承久記の前田本 (加賀前田家の傍流で、徳川 幕府の大名となった尾張前田家の写本) にある27日着の義時上奏文は上段に、押松の報告内容はその下段に記載してある。 . 私は将軍後見を務め皇位を軽んじた事などないのに、尊長 (一條能保の息子で法勝寺執行) と 三浦胤義の讒言による突然の宣旨での朝敵扱いは実に不合理です。 . 但し上皇は合戦を好み武勇を嗜まれる由、海道の大将として弟の 時房と嫡子の 泰時、副将に 足利義氏、三浦義村、千葉胤綱 (六代当主) ら 19万8百余騎を派遣しました。東山道の 5万余騎、北陸道の次男 朝時が率いる 4万余騎で合戦を御覧に入れます。更に不足なら三男 重時を先陣に、私が大将として馳せ参じます。 老齢の古参御家人は鎌倉に残して関東勢の三分の一が急ぎ出発し、残りの三分の二は今日明日にも出陣いたします。 . 押松は6月1日酉の刻 (18時前後) に高陽院殿の中庭に辿り着いた。 上皇も公卿も「押松が何も言わぬのは疲れたのか、義時の首は誰が持参するのか」と口々に問いかけた。 暫くして押松は次の様に報告、上皇も公卿も全員が顔色を変え魂を失なった。 . 5月19日に片瀬河から鎌倉に入り三浦義村に見せたら拘束され、軍勢の出立後の27日早朝に追い出されました。義時の言葉は上奏文の通りですが本隊は21日に鎌倉を出陣し、後続を待って上洛を目指す様です。私は軍勢から5日遅れて鎌倉を出ましたが大変な事態なので夜も走って軍勢を追い越して参上しました。 鎌倉勢は百万騎もいるでしょうか、既に近江に入っていると思います。 . |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 5月28日 辛亥 . 吾妻鏡 |
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降雨の中、東海道を進んだ武州 北條泰時の軍勢は遠江国の天龍河※に到着。連日の雨で渡河に支障があるのを心配していたが意外にも水がなく、全員が徒歩で渡渉できた。 . . ※天龍河: 頼朝が最初に上洛した承久元年 (1190) の帰路では、12月21日に池田の渡し (地図) で 宿泊した記録があり、今回もこの近辺か。5月28日は西暦 6月19日、梅雨の最中だ。 .※防衛軍派遣: 鎌倉 の大軍に怯えても対策は欠かせない。後鳥羽上皇は北面の武士で藤姓足利 氏の能登守 藤原秀康を総大将に防衛軍を派遣した。 . 承久記に拠れば 東海道には藤原秀康の率いる7000騎、東山道には蜂屋入道父子率いる5000騎、北陸道には伊勢前司の率いる7000騎が防衛拠点に派遣された。こちらは三道併せて総勢19,326騎と (本当か嘘かは兎も角として) 端数まで省略せずに記述しているのが面白い。 . 兵力が遥かに上回る敵と戦うには兵力の一点集中が原則なのだが、合戦に不慣れな京方は兵力分散の愚策を冒し、この時点で敗北は決定的になった。まぁ身も蓋もない言い方をすれば、鎌倉が出兵を決めた時点で勝敗の帰趨は明らかだったけど、ね。後鳥羽の判断力は余りにも低レベルだもの。. |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 5月29日 壬子 . 吾妻鏡 |
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佐々木 (加地) 兵衛太郎信実 (兵衛尉盛綱法師の子) は北陸道の大将軍 北條朝時に従い京都を目指した。 . 今回の戦乱を起こした首魁の1人 阿波宰相中将信成卿の家人である深匂八郎家賢 (腰瀧口季賢※の後裔) が軍兵60余人を率いて越後国加地庄の願文山※に立て籠っており、信実がこれを攻め落とした。 関東の御家人が官軍を打ち破った、これが最初の戦果である。 . 今日、相模守 北條時房と武蔵守 北條泰時が大軍を率いて上洛を目指している事が上皇の耳に届き、院の中は身分の上下を問わず魂を消すような状態になった。 . . ※瀧口季賢: 八幡太郎義家の郎党として従軍した奥州後三年記に記載がある。概略は以下。 . 義家は兵士の奮起を求め、毎日 「剛勇の座」 と 「臆病の座」 を作って該当者を座らせた。兵は 「臆病の座」 に座りたくないと思って戦ったが、毎日 「剛勇の座」 に座る者は殆ど現れなかった。その中で瀧口季賢は一度も 「臆病の座」 に腰を降ろす事がなく仲間の兵士は 「腰瀧口 」 と呼んで彼を褒めた。新羅三郎義光の郎党である。 .尊卑分脈は梶原氏傍流 (景時の甥?) が酒匂川下流域に土着して酒匂氏を名乗り、子孫の一部が建久八年 (1197) に大隅と薩摩の守護に任じた島津忠久に従って九州に定着した、らしい。梶原氏の傍流なら越後平氏と接点で加治庄願文山に立て籠っても不思議はないが、この時点で信実が領有していた筈の加治庄で鎌倉勢に抵抗した経緯が理解できない。 .. ちなみに、山頂の願文山神社は家賢と家臣を祭神として祀っている。これは昭和天皇即位の際に勤王の功勲を賞して家賢に正五位が遺贈された事を記念して建立されたもの。戦前の史学は義時を朝敵として忌避していたから、北條勢に抵抗した家賢らは朝廷の忠臣として扱ったのだろう。 「後」 の付く上皇三人の方が〇〇だと思けどね (この〇〇は戦前なら不敬罪だ) ※加治庄願文山: 加治庄は新発田市の加治川流域 (地図)。願文山は7km北の標高248m (地図) 。 北陸道進軍ルートの北限だった越後国府から160kmも北、少し調べてみた。 .. 佐々木信実はこの功績により加地庄の地頭に任命されているが、信実の父 佐々木盛綱は既に加地氏を名乗っていた (尊卑分脈) 。 盛綱は建仁元年 (1201) に越後鳥坂 (胎内市で加地庄の10km北) で城資盛の乱を鎮圧しており (美形の女武者 坂額※が捕虜となった建仁元年 (1201) の攻城戦 ) この時点で加地庄を取り戻したのだろう。 . 加地庄が鎌倉に敵対した経緯は不明だが、今回の信実による家賢追討は私権の回復に絡む行動だった可能性が高い。 ※坂額: 「いずれが巴か坂額か」の美女系武者の代名詞的存在。甲斐源氏 浅利与一の妻となった 彼女の記録は 「浅利与一義成の本領と坂額について」 (別窓) で。 . |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 5月30日 癸丑 . 吾妻鏡 |
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相州 時房は遠江国橋本の驛※に到着。夜、10数騎の武者が密かに相州率いる大軍の先頭に進出した。 これを警戒して内田四郎に確認させたところ、軍勢に紛れ込んで仙洞 (院の御所) に加わろうとした下総前司 小野盛綱※の近親 筑井太郎高重※の一党だったためこれを誅伏した。 . . ※橋本驛: 現在の湖西市新居町浜名の宿駅で東海道が浜名湖を越えた西にあり 養和元年 (1181) には守護職の 安田義定が平家軍進出に備えて防衛施設を築いた要所。江戸時代には 新居関所 が設けられている。 .建久元年 (1190) 10月18日には上洛途上の頼朝主従が橋本の遊女を呼んで呑めや歌えの楽しい時を過ごしている。鎌倉では政子さんのチェックが厳しいから,ね。 ※小野盛綱: 成綱の子で尾張守護。承久記では 5月15日の 伊賀光季追討の官兵に加わった。 内田四郎は遠江の住人で、60余騎で筑井高重主従19騎を討ち取った。地元の資料では戦場は宮路山 (地図) の麓だったらしい。 .※筑井高重:現在の三浦市津久井 (地図) を領有した武士で 三浦義明の弟 津久井義行の曾孫。 . |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 6月 1日 甲寅 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . (勅使の) 押松が帰洛して仙堂 (院の御所) ※に参上し、関東の情勢について質問に答えた。「鎌倉に着いてから帰洛まで 心身を痛める日々でした。官軍を倒すため上洛を目指す東国の武士は幾千万とも判りません。」、と。院では上下を問わず全ての人が驚く以外になす術がなかった。 . . ※高陽院殿: 4月17日の記事を参照。発掘調査については 京都埋蔵文化財研究所のサイト で。 . |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 6月 3日 丙辰 . 吾妻鏡 |
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関東の大将軍が遠江国府※に入ったとの報告を飛脚が届けた。公卿らは会議を催して防戦のため官軍を各地に派遣し今暁にそれぞれが出陣した。
. 北陸道は宮崎左衛門尉定範、糟屋右衛門尉有久、仁科次郎盛朝ら、 .東山道大井戸の渡は大夫判官大内惟信、筑後左衛門尉有長、糟屋四郎左衛門尉久季ら、 鵜沼の渡は美濃目代帯刀左衛門尉、神地蔵人入道ら、 池瀬は朝日判官代、関左衛門尉、土岐判官代、関田太郎ら、 摩免戸は能登守秀康、山城守廣経、下総前司盛綱、平判官三浦胤義、佐々木判官高重、 鏡右衛門尉久綱、安芸宗内左衛門尉ら、 食渡は山田左衛門尉、臼井太郎入道、 洲俣は河内判官秀澄、山田次郎重忠、 市脇は伊勢守加藤光員らである。 .
※遠江国府: 磐田市の天竜川東岸 (推定位置) 。平安時代の
初期からの国府で、鎌倉時代には守護所も置かれていた。 .※防衛拠点: 大井戸渡は美濃加茂市太田本町、鵜沼渡は各 務原市の鵜沼、池瀬は同じく鵜沼大伊木、摩免戸は各務原市前渡東町、食渡は岐南町の下印食、市脇は羽島市市之枝が該当する。
.. 鎌倉軍は6月5日に一宮で軍議を開く計画だ。 東海道勢の総指揮官に任じた時房は本陣を数km南の尾張国府 (地図) に置いたのだろう。木曽川から国府までは 6kmほどだから 山田重忠が建策した尾張国府奇襲作戦は戦局を好転させる唯一の方策だったかも。 . 右は官軍の防衛拠点。クリック→ 別窓で拡大表示 |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 6月 5日 戊午 . 吾妻鏡 |
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辰刻 (朝8時前後) 、関東の両将 (時房と泰時) は尾張国一宮 の 真清田神社、 ( 地図)付近に到着。 ここで合戦の軍議を開き、軍勢を分けて攻撃目標を定めた。 . 鵜沼の渡は毛利蔵人大夫入道西阿 毛利季光、池瀬は武蔵前司 足利義氏、板橋は 狩野介宗茂入道、摩免戸は 武州泰時と駿河前司 三浦義村ら数輩、洲俣 (墨俣) は相州時房と城介入道 安達景盛、豊嶋、足立、江戸、河越などの御家人が攻める手筈を整えた。
.夜になって東山道から進んできた 武田五郎信光、同小五郎 (信政) 、小笠原次郎長清 (父子8人) 、小山新左衛門尉朝長 (朝政の子) らが大井戸を渡って官軍と戦い大将軍の大内惟信 (惟義の嫡子) らは逃亡した。筑後有長と糟屋久季 (有季の三男) は負傷、足利秀康※、佐々木広綱、三浦胤義らは防衛拠点を放棄して京都へ逃亡した。 . . ※足利秀康: 源姓足利氏系は全て鎌倉方だから藤姓足利氏だと思うが、藤姓の通字は 「綱」 だし 系図にも記載がないため詳細が把握できない (藤原秀郷の系図を参照) 。 .本姓は藤原、Wiki に拠れば 「和田義盛の弟 宗実 (宗妙) の子で藤原北家秀郷流の養子になった。」 と。〜中略〜 北面武士、西面武士として院に仕える畿内近国の武士の一族...」とのこと。 面倒だからそれ以上の追跡は中止する。 |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 6月 6日 己未 . 吾妻鏡 |
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早朝、武蔵太郎 北條時氏と異母弟の 陸奥六郎有時は軍を進め、少輔判官代佐房、阿曽沼次郎親綱、小鹿嶋橘左衛門尉公成、波多野中務次郎経朝、善右衛門太郎康知、安保刑部丞実光等を率いて摩免戸を渡った。官軍は抗戦も出来ず敗走し、山田次郎重忠だけが残って伊佐三郎行政と戦った後に逃亡した。 . その中で鏡右衛門尉久綱※は後退せず姓名を書いた旗を高台に立てて攻め寄せた少輔判官代と戦った。 久綱は 「臆病な能登守秀康に従ったため思い通りの合戦が出来なかった、無念だ 」 と叫んで自殺した。 . 武蔵太郎 北條時氏は筵田に進み、30数騎の官軍と戦った。矢戦を続けた後に先頭を進んだ 波多野吾郎義重は右目に矢を受けながらも返し矢を射た。官軍は逃げ去り 杭瀬河、洲俣、市脇などの防衛拠点は全て陥落した。 . ※鏡久綱: 頼朝流人時代から仕えた佐々木四兄弟 (父は秀義)の長兄 定綱の次男。兄の 広綱と 共に院の西面武士として官軍に加わった。 .敗戦後に広綱は斬首、捕虜になった広綱の四男 勢多加丸は若年のため許されたが、鎌倉方に属した広綱の弟 信綱は容赦せずに勢多加丸を殺した。敵か味方か云々ではなく、広綱の遺領を完全に独占するのが目的である。 . 信綱は軍功により佐々木一族の本領である近江国の大部分を相続し、それを分割相続した四人の息子は大原氏、高島氏、六角氏、京極氏を名乗り 戦国大名として歴史に名を刻む。久綱が鏡を名乗ったのは、牛若丸が自ら元服して義経を名乗ったかがみの里 (別窓) を領有した人物だろうか。 |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 6月 7日 庚申 . 吾妻鏡 |
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相州 泰時と武州 時房ら東海道の指揮官と 東山道を進んだ甲斐源氏の指揮官は野上宿と垂井宿※に入って軍議を開き、ここで 三浦義村が意見を述べた。 . 北陸道の軍勢が上洛するより前に東の軍を進めよう。勢多※は相州 (北條) 泰時、手山※は城介入道 安達景盛と 武田五郎信光ら、宇治※は武州 (北條五郎) 時房、芋洗※は毛利入道 季光)、淀渡※は左衛門尉 結城朝広と義村が攻撃を担当しよう。 . 時房はこれを承諾、他の指揮官にも特に異論はなかった。駿河次郎 三浦泰村は本来は父 義村に従って淀に向かうべきだが、時房に従っての進軍を望んだ。 . . ※垂井宿: 中仙道の宿駅で美濃国府 (地図) が置かれていた。
京に向って次の宿駅が3km西の野上宿、更に3km西が慶長五年 (1600) に徳川勢と豊臣勢が天下一の覇権を争った大合戦の舞台 関ヶ原宿である。 .※攻撃目標: 勢多は琵琶湖南端の瀬田、手山は供御 (くご) の瀬※とも呼ぶ浅瀬で 瀬田から5km上流の 大戸川 と瀬田川の合流点、宇治は平等院の建つ宇治川渡河地点、芋洗は伏見区宇治川南東にある一口※で、淀渡は南東5kmの淀川と宇治川と木津川の合流点になる。
.. 勢多攻め以外の鎌倉軍は南に迂回して攻め上り、北陸道の朝時勢が到着する前に京都を制圧して合戦を決着させようとする。 ※供御の瀬: 琵琶湖周辺から水産物を献上させるために設けた御厨の一ヶ所。瀬田川では 数少ない浅瀬があり、軍事上の要衝だったと伝わる (地図) 。 .※一口 (芋洗): 三方が巨椋池に囲まれていたので通称を一口。池は昭和初期前に埋め立て られて今では存在せず、「いもあらい」 と呼ばれた理由も不明。 .. 京に入る水上交通の入口だったため疫病や穢れ (穢瘡、えも) を落とす意味が転訛したと考える説が多いらしい。巨椋池は昭和初期の干拓事業によって完全に姿を消している (検索すると資料や画像など多数ある) 。 ※宇治平等院: 平安末期から三度の大きな合戦の舞台になった。最初は 治承四年 (1180) の5月に挙兵した 源三位頼政が南都へ敗走の途中で自刃した合戦、二度目は寿永三年 (1184) 1月に 義経率いる鎌倉軍が 義仲軍を壊滅させた合戦 (源平盛衰記が佐々木高綱と 梶原景季の先陣争いを描いた) 、三度目がこの承久の乱。頼政の合戦は「鎌倉時代を歩く 壱」のこちら、義仲討死についてはこちら、平等院の宝物などについてはこちらで。
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2014年3月に大改修が終った鳳凰堂 (この呼称は江戸時代以後で本来は阿弥陀堂である) 。. 藤原道長の子 頼通が道長の別荘 宇治殿を永承七年 (1052) に寺院に改築して平等院と名付け、翌 天喜元年 (1053) に極楽浄土を模した阿弥陀堂 (鳳凰堂) を建立した。 . 右画像をクリック→ 別窓で拡大表示 . この鳳凰堂を模したのが 藤原基衡が奥州平泉に建てた 毛越寺や 秀衡の建てた 無量光院、奥州合戦の際にそれらを見て感銘を受けた 頼朝が建てたのが二階堂の永福寺である。 . そして頼朝に従って奥州合戦に従軍した御家人らも凱旋後の本領に平泉を模したミニ浄土庭園を造った。足利義兼による樺崎寺(法界寺)、宇都宮朝綱による綱神社横の浄土庭園などが挙げられるが、いずれも既に痕跡が残るのみになってしまった。 . 多くの戦火に晒された鳳凰堂が960年を経て残っているのは驚異的だ。 |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 6月 8日 辛酉 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 寅刻 (早暁4時前後) に (鎌倉軍との合戦で) 傷を負った 藤原 (足利) 秀康と筑後有長が帰洛し、去る6日の摩免戸の合戦で官軍が敗北した旨を報告した。院に集まっていた公卿は顔色を変え、御所中の女房 (女官) や北面の武士や医師なども東西に走り回る騒ぎになった。 . 坊門忠信、藤原定通 (権中納言家通の三男) 、源有雅、藤原範茂など公卿も侍も 宇治、勢多、田原などに向かうよう仰せがあり、後鳥羽上皇は腹巻を着して比叡山に向かわれた。女御や女房らも全員が牛車に乗り、土御門院、新院 (順徳) 、六條親王、冷泉親王は騎馬である。 . まず専長法印の押小路河原邸 (泉房と称す) に入御されて各地の防戦についての検討を済ませ、黄昏になって山上 延暦寺 (公式サイト) に着座された。 .
内大臣久我通光、藤原定輔 (琵琶と蹴鞠の名手で後鳥羽と順徳の師匠)、親兼、信成、四条隆親、尊長は各々甲冑姿で、主上 (仲恭天皇) も女房用の輿を用いて密かに行幸された。
. 蔵人頭資頼朝臣と具実朝臣が帝に従い、劔璽 (三種の神器) は輿に載せ大納言局 (大相国三条公房の娘) が付き添っている。主上と上皇は西坂本の梶井御所※に入御、両親王は十禅師を宿舎とした。 右幕下 (右大将) 西園寺公経父子はまるで囚人の如く連行された。 . 右は比叡と日吉関連の豪邸が軒を連ねる町並み。 .坂本を歩くと堕落した一部の宗教者が貪っていた贅沢な暮らしを実感できる。 信長が焼き討ちにした気持ちが理解できるような気がするね。 画像をクリック→ 別窓で拡大表示 今日、式部丞 北條朝時 と 結城七郎朝光、佐々木太郎信実らは越後国の小国源兵衛三郎頼継、金津蔵人資義、小野蔵人時信らの御家人を伴って上洛を目指し、越中国般若野庄※で宣旨の書状を受け取った。 . 佐々木次郎実秀が (甲冑を着けず) 軍陣に立ってこれを読んだ。「士卒は勅旨に従い右京兆 北條義時を誅殺せよ」 と、今となっては笑止の内容である。 . その後官軍に遭遇し、宮崎左衛門尉、糟屋乙石左衛門尉、仁科次郎、友野右馬允が各々林、石黒など在国の武士を率いて合戦、結城七郎朝広(朝光の嫡男) が特に武功を挙げ、味方の乙石左衛門尉が討死。官軍は降伏し加賀国の住人林次郎と石黒三郎が李部 北條朝時と結城七郎の陣に連行された。武州 泰時は本陣を置いた野上 (関ヶ原の近く、地図) に留まっている。 . 鎌倉ではこの日の戌刻 (20時前後) に右京兆 北條義時)邸の釜殿 (浴室) に落雷し下人が1人感電死した。義時はこれを酷く恐れ、大官令禅門 大江広元を招いて相談した。 . 泰時らを上洛させたのは朝廷 (の過誤 ) を糺すのが目的なのに落雷で人が死ぬ怪異が起きた。 .これは運命が縮む兆しだろうか 。 . .
当時は誰もが知っていた、菅原道真の怨霊。道真を失脚させ、結果として死に追い込んだ公卿たちが落雷を受けて惨死したあの事件を義時も気にかけたのか。
※清涼殿落雷: 延長八年 (930) の6月26夕方近く、 南西の柱に落雷して大納言民部卿の藤原清貫ら10人近くが死亡、更には惨状を目撃した第60代醍醐天皇も体調を崩し三ヶ月後に崩御した。 .. 大宰府に左遷された菅原道真の動向を監視せよ、と藤原時平が藤原清貫に命じていた経緯から、道真の怨霊が雷神を操って復讐したとの伝説が生まれた。 吾妻鏡に落雷の記載が多く載っているのは落雷=怨霊の意識があったからだ。 . 右は北野天神縁起絵巻の清涼殿落雷事件。左隅で太刀を構えているのが清貫か。 画像をクリック→ 別窓で拡大表示。私の図鑑に細密画像がないのが残念だ。 .
義時から質問を受けた広元は次のように応じた。 .. 君臣の運命は全て天命に従うもので畏怖する必要はありません。ましてや文治五年 (1189) に故幕下将軍 頼朝が藤原泰衡を征伐した際に 奥州での軍陣に落雷があったのを考えれば関東には吉兆であります。先例は明らかですが、望むなら卜占をするのも良いでしょう。 .. 安倍親職、泰貞、宣賢らは 「最も吉の状態である」 と口を揃えた。 ※般若野庄: 富山県高岡市中田の庄川東岸 (地図) にあった大徳寺領の荘園で北陸道の要衝。 .
※梶井御所: 京都大原の 三千院門跡の僧 承雲が貞観二年
(860) に坂本の梶井に里坊を設け、以後はこの一帯が天台宗高僧らの住居となった。 .. 元永元年 (1118) に73代堀河天皇の皇子である最雲法親王が第14代の梶井門跡として入寺し、保元元年 (1156) には改めて天台座主に任じた。その頃からの別宅である。 . 以後は皇室や摂関家の子弟が歴代の住持を務めた経緯から後鳥羽院の非公式な宿舎として利用したのだろう。梶井御所の正確な位置は既に不明だが、比叡山の僧坊が集結している京阪の 坂本比叡山口駅 (地図) 周辺と推測するのが妥当か。豪壮華麗な邸が並ぶ一角である。 . なお初代承雲が住持していた三千院門跡 (地図) は貞永元年 (1232) に焼失、仁治二年 (1241) に法華堂を建立して配流地の隠岐で没した後鳥羽院の焼骨を埋葬した。 . 右上は苔庭を通して眺める三千院の往生極楽院。 クリック→ 別窓で拡大表示 |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 6月 9日 壬戌 . 吾妻鏡 |
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後鳥羽上皇は坂本 (日吉大社(公式サイト、地図)に滞在され、偏に山門 (比叡山延暦寺を差す) が頼りと仰せられているが、延暦寺としては衆徒の力を併せても鎌倉勢の軍事力は防げないと奏上した。 . 御所への還御を検討しているところに右京兆 北條義時が誅せられたらしいとの噂が届いた。人々は喜悦して右幕下 西園寺公経父子を斬罪にとも考えたが異論があって中止となった。 . 要するに戦況が悪化した状態で親鎌倉派を処刑したら自分にも危険が及ぶと考えて怯えたのだろう。 何とも情けない君主なのは勿論だが、古今東西を問わず落ち目の独裁者は哀れなものだ。 . この日の百錬抄は 「三院 (3人の上皇) と両宮 (2人の親王) が還御された」 と書いている。 . . ※斬罪を検討: 西園寺公経 (右近衛大将) は上皇挙兵に批判的な意見を述べ拘禁された廷臣。 優秀か否かではなく、幕府に擦り寄って権力を維持したいのが本音だった。 .. 本人は頼朝が懇意にしていた 平頼盛の曽孫だったし、妻の全子は頼朝の姉妹 坊門姫の娘だったし、四代将軍を継ぐ頼経は外孫だったし、朝廷の動きは以前から義時に連絡していた程の人物だったからね。 |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 6月10日 癸亥 . 吾妻鏡 |
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主上 (仲恭天皇) と3人の上皇 (後鳥羽、土御門、順徳) が梶井御所から高陽院殿 (4月17日参照 ) に還御。 .白河付近 (地図) から各々牛車を利用し土御門院と冷泉宮が同乗、新院 (順徳) と六條宮が同乗である。 また今日、右幕下 西園寺公経父子が勅勘 (後鳥羽院の怒り) を解かれた。 |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 6月11日 甲子 . 吾妻鏡 |
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. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 6月12日 乙丑 . 吾妻鏡 |
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京都朝廷は追加して官軍を各地の防衛拠点に派遣した。 . 三穂崎※には美濃堅者観厳の千余騎、勢多には 山田次郎重忠と伊藤左衛門尉および山僧 (比叡の僧兵) の三千余騎、食渡には前民部少輔入道と能登守足利秀康 (藤姓足利氏) と下総前司小野盛綱 (成綱の子) と平判官 三浦胤義の二千余騎、鵜飼瀬※には長瀬判官代と河内判官の千余騎、宇治には二位兵衛督 源有雅と甲斐宰相中将 源範茂と右衛門権佐藤原朝俊と伊勢前司清定と山城守佐々木広綱と佐々木判官高重と小松法印らの二万余騎、真木嶋には足立源三左衛門尉親長、芋洗には一條宰相中将と二位法印尊長、淀渡は大納言 坊門忠信である。 . 今日、相模守 北條時房と武蔵守 北條泰時は野路※の付近で休息をとった。 幸嶋四郎行時 (下川辺を称す) ※は小山新左衛門尉朝長 (朝政の子) らの親類と共に上洛を目指す途中であり、武州泰時と懇意にして長年を過ごしている。各地で合戦に加わり先駆けしての討死が武士の本懐であると考え、一門から離れ最前線を求めて守山 (野路の5km北) から野路の驛に駆け付け、泰時の軍陣に加わっている。 . 酒宴の際に行時を見つけた泰時は喜んで上座に招き盃酒を与え太郎時氏に命じて乗馬 (黒) を与えた。 加えて行時が伴っていた郎従や小舎童まで幕の近くに招き食事などを与えたため、この優しさを見た者は更に勇気を掻き立てられた。. . ※三穂崎: 現在の高島市安曇川に三尾崎 (地図) の地名あり。私は6km北の西近江路 (北国街道) と若狭街道の合流点を指していると思うのだが...いずれにしろ琵琶湖西岸から京都を目指す鎌倉勢を警戒したのだろう。鵜飼瀬は平等院の少し上流。
.※野路: 勢多橋まで約5kmの草津市野路 (地図) 。 . ※幸嶋行時: 下川辺行平の三男で茨城県古河市三和地区 (地図) を所領とし幸嶋氏を名乗った。 . |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 6月13日 丙寅 . 吾妻鏡 |
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総大将 北條時房以下の軍兵は野路の宿営地を出発し、各地の官軍拠点に向けて進軍した。時房勢はまず勢多に着き、官軍が勢多橋の中央二間分の板を外して盾を並べ弓箭を構えた官兵と比叡山の衆徒が待ち構えるのを確認してから攻撃を開始した。
. 一方で酉刻 (18時前後) には駿河前司 毛利季光入道が淀手上 (淀渡) を目指し、武蔵守 北條泰時は栗子山※に本陣を構えた。 . 武蔵前司 足利義氏と 駿河次郎 三浦泰村は武州泰時には知らせず宇治橋に迂回※して戦端を開いた。官軍は雨の如く矢を放ち鎌倉軍の兵の多くが矢を受けて平等院に退避した。 . . ※栗子山: この地名は現存しない。泰時の本陣は宇治橋から約2km南西の神明皇大神宮 (古名が 栗隈で通称が栗子天神 (地図) の一帯らしい。右上画像をクリック→ 別窓で拡大表示 .
※勢多: 勢多は湖東から畿内に入る唯一のルートだった
ため古来から何度も合戦の舞台になっていた。 .. 治承四年 (1180) 5月の 三位頼政 vs 平知盛と重衡軍、寿永二年 (1183) 1月の 義経軍 vs 木曽義仲軍の合戦が特に名高い。 . 宇治川合戦で義経に敗れた義仲は勢多(瀬田)へ逃げ橋を守った今井兼平と合流して北陸を目指したが 粟津原で 一條忠頼勢に討ち取られた。 . 中州を経由して渡る姿は今も変わらないが、中世の橋は約 65m南 (上流側、地図の右側) だったらしい。背景に聳える富士山っぽい姿は伊吹山 (1377m) 、こんなに急峻な姿じゃないのに思いっ切りデフォルメしている。瀬田橋から山裾までは直線距離で 50km以上ある。 右画像をクリック→ 唐橋の少し上流から描いた広重の 「勢多夕照」 と 現在の瀬田橋東端の風景の2枚を載せてある。 別窓で拡大表示。 .. 夜半になって前武州 足利義氏は兼仗六郎保信らを 武州泰時の陣に派遣し「夜明けを待って本格的な攻撃を始める計画だったが軍兵が先を争って矢戦を始め、多くの死傷者が出た。」と連絡した。驚いた泰時は激しい雨の中を宇治に向かったが合戦はその間も続き、更に24人の兵が負傷した。 官軍は勝ち誇り、泰時は 尾藤左近将監景綱を送って橋での戦いを中止せよと命じて撤退させた。その後に武州泰時は平等院に入って休息した。 .
※宇治に迂回: 琵琶湖を流れ出した瀬田川は途中で宇治川
となり、流路を北寄りに変えて宇治平等院の東側を過ぎて桂川と合流し淀川となる。 .. つまり瀬田から宇治へ行くには左岸に沿って進むのがセオリーなのだろう。 . 途中で渡河すれば宇治を守る官軍の背後を突けるが険しい山地が続き移動は厳しい。 . 今回の宇治川合戦は治承四年 (1180) 5月に 頼政が最期を迎えた平等院の対岸に官軍が防衛陣を構え平等院側岸から幕府軍が渡河するという正反対の攻防になった。 . 右画像は瀬田から宇治までの流路。クリック→ (別窓) で拡大表示 |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 6月14日 丁卯 . 吾妻鏡 |
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武蔵守 北條泰時は宇治川※を越えて戦わなければ官軍を打ち破れないと考え、芝田の橘六兼義を呼んで浅瀬を調べるよう命じた。 . . ※宇治川: 宇治川を含む淀川水系は古来から大規模氾濫を繰り返し、治水事業は流域自治体の 大きな課題として対策が求められていた。昭和28年 (1953) の13号台風で宇治川の堤防が決壊し流域に大きな被害が発生したのを契機に宇治橋上流3kmにアーチダムの建設が計画され、昭和39年 (1964) に天ヶ瀬ダムが完成した。 .. 通常の水量はダム完成以前より遥かに少なくなったと推定される。最古の宇治橋は大化二年 (646) の架橋 (Wiki 参照 ) で、現在の宇治橋は平成八年 (1996) に完成した。 ※眞木嶋: 宇治橋の下流約1kmに填島の地名が伝わり、対岸には 莵道稚郎陵がある。応神天皇 の皇子莵道稚郎子 (後の仁徳天皇の弟) が兄に皇位を譲るために自殺して葬られた陵 (日本書紀の記載だが場所は疑問) の向い側、中洲の付近 (地図) が合戦後の6月17日に芝田兼義と 佐々木信綱の間で一番乗りの手柄を巡る論争が起きる場所である。 .. 卯三刻 (朝5時半頃) になって橘六柴田兼義と春日刑部三郎貞幸らは泰時の命令に従い、宇治川伏見津瀬を渡るため前進した。四郎左衛門尉 佐々木信綱、中山次郎重継、兵衛尉 安東兵衛尉忠家らが兼義の後に従って下流に馬を進めた。信綱と貞幸は何度も浅瀬の位置を尋ねたが兼義は答えられず、数町 (数100m) 下ってから馬に鞭を入れ 信綱、重継、貞幸、忠家が続いて川に乗り入れた。 .
これを見た官軍は激しく矢を射掛けた。兼義と貞幸の乗馬は矢を受けて水に漂い、投げ出された貞幸は水底に沈み落命する寸前に諏方明神に祈り、脇差を抜いて甲冑の紐を切り落とし具足を捨てて味方の浅瀬に這い上がった。水に慣れた男なので生き延びることができた。. . 伏見津瀬の位置は特定できないが、 「数百m下流の浅瀬」ならば莵道稚郎陵の前の槇島 (眞木嶋) のある部分 (宇治橋から約600m) が該当すると思う。 画像をクリック→ 別窓で拡大表示 .. 武州泰時は自ら貞幸に数ヶ所の灸をすえて何とか正気を取り戻させたが共に渡ろうとした子息と郎従ら17人が溺死してしまった。その後も多くの軍兵が水面に轡を並べて乗り入れたが急流に押し流され戦う前に10人中2〜3人は水死、従軍800余騎のうち (水死者は) 関左衛門入道、幸嶋四郎、伊佐大進太郎、善右衛門太郎、長江四郎、安保刑部丞ら 96人を数えた。 . 佐々木信綱だけは何とか中嶋に生えていた柳の古木に辿り着いた。後続の武士が川に呑まれるのを見て動きが取れず、子息の太郎重綱を武州泰時の陣に派遣して 「援軍があれば対岸に渡って戦える」 と伝えさせた。報告を受けた武州泰時は 「勇士を派遣しよう」 と答えて食事を与えた。重綱は食事を済ませた後に父のいる中島に急いで駆け戻った。 .
卯刻 (6時前後) 、この中島から援軍を求めて重綱 (裸で衣類を頭に巻き渡渉) が往復する間に朝になった。泰時は駿河太郎 北條時氏、南條七郎ら六騎を率いて直ちに川に乗り入れた。
. . 右画像は左岸から見た現在の槇島(眞木嶋)部分。 .画像をクリック→ 別窓で拡大表示 . ダムが完成する前の流量は現在の数倍とも言われるから、武装兵の渡渉は命懸けだ。討死なら納得できるが、ここまで来て溺死じゃたまらない。 . 武州泰時は言葉を発せず前後を見渡し、駿河次郎 三浦泰村の主従五騎を始め数騎が続いて乗り入れた。鎌倉勢が渡河を始めたのを見た対岸の官軍は攻撃を始める気配を見せ、泰時は馬を進め川に乗り入れようとした。 . 春日貞幸は馬の轡 (くつわ) を押さえたが馬を縛り付ける場所がないため一計を案じ「甲冑のまま乗り入れた者は殆ど水死しています。まず甲冑を脱ぐのが良いでしょう」と勧めた。泰時が田の畝に降りて甲冑を外しているうちに貞幸が乗馬を引いて隠し、泰時は進む手段を失なってしまった。 . 佐々木信綱は一番乗りではあるが、中嶋で時間を費やしたため対岸に着いたのは時氏と同時になった。信綱は太刀を抜き川に張った太綱を切り捨てた。柴田兼義は乗馬を射られたが泳ぎの名手なので無事対岸に渡った。前武州 北條時氏は旗を揚げて矢戦を開始し、鎌倉勢と官軍は生死を争って合戦し、98人が傷を負った。 .
武州泰時と武蔵前司 足利義氏は筏に乗って川を渡った。尾藤左近将監と平出彌三郎に命じて民家を解体したものである。
. 泰時が渡河に成功してから武蔵と相模の御家人が勢いを得て奮戦した。官軍の大将軍二位兵衛督 源有雅卿、宰相中将 藤原範茂卿、安達源三左衛門尉親長らはこれを防ぎ切れず遂に退却した。 . 筑後六郎左衛門尉知尚、佐々木太郎左衛門尉高重 (経高の嫡男)、野次郎左衛門尉成時 らは退却せず、右衛門佐朝俊を大将軍として宇治川の近くに止まり抗戦を続け、全員が討ち死にした。 . その他の官兵は弓箭を持つのも忘れて敗走し、武蔵太郎時氏らが彼らを追い掛けて討ち取った。さらに宇治川北側にある民家に放火し、逃げ隠れていた官兵は火と煙に追われて逃げ回った。 . 武州泰時は屈強な武士16騎を率いて深草河原※に布陣した。 . ここに右幕下 (右大将) 西園寺公経の使者長衡が到着して、 「どこまで進軍されたか確認せよとの命令を受けました」 と尋ね、武州泰時は 「明朝には入洛する予定なので最初に案内を頂きたい。」 と答えて姓名を尋ね長衡の名乗りを受けた。南條七郎を長衡に同行させ西園寺公経の屋敷を警固する指示を与えた。右上画像は洛南周辺の記載ヶ所 画像をクリック→ 拡大表示 . ※深草河原: 伏見稲荷南西を流れる鴨川沿い。平安時代から貴族の遊興や別荘の地として利用 された江戸時代に拓かれた竹田街道 (伏見南部と京を結ぶ「京の七口」の一つ) が通っている。 平安時代以来の歌枕として多くの和歌や物語に登場している。 .. 深草の さとのまがきは あれはてて 野となる露に 月ぞやどれる 藤原定家 . 毛利入道 季光と駿河前司 三浦義村は淀と芋洗 (一口) ※の防衛拠点を突破し高畠※の近くに野営した。
武州泰時は使者を送って両人を深草に呼び寄せた。相州時房は勢多橋で官兵と合戦を繰り広げた。 . 夜になって官軍の 源親広と 藤原 (足利) 秀康と 小野盛綱と 三浦胤義 らは防衛拠点を放棄して帰洛し三條河原に野営。官軍の 源 (大江) 親広※は関寺※付近に逃げ、佐々木弥太郎判官高重らは捕らえた場所で斬首された。 . ※一口: これで 「芋洗 (いもあらい) 」 と読むから面白い。昭和中期に埋め立てるまでの伏見区か ら宇治市の一帯には広大な 巨椋池 (Wiki) があり、湿地帯に囲まれた村の出入り口は西側の一ヶ所だけだった事から 「一口」 と呼ばれ、更に疫病が流行した際に 「忌むを払う」 行事が転じて 「いむをはらう」 → 「いもあらい」 になった、と伝わっている。 .※高畠: 現在の京都駅南西1kmの南区西九条。深草河原から2〜3kmほどの南側は時房勢が制圧 し東側は勢多を突破した泰時勢が制圧したことになる。権力への執着と短慮と判断力の欠如から招いた災厄ではあるが、後鳥羽上皇 万事窮す!だ。 .. 壇ノ浦で平家が滅びた経緯から、三種の神器なしに 安徳天皇の跡を継いだ負い目がトラウマになって権力の強化を求め続け破滅に至った、との見方は正しいと思う。 だとすれば、悲劇の種を蒔いたのは 後白河法皇だ。 「後」 が付く天皇は災厄の素だね。 ※源親広: 大江広元の長男。源 (土御門) 通親 の猶子となり 伊賀光季と共に京都守護を務めた。 光季は後鳥羽上皇の命令を拒否して討手と戦い自刃したが、親広は招聘を受け入れ官軍に与して食渡 (岐阜市) で抗戦し敗北した。 .その後は逃亡して行方不明となり、祖父の多田仁綱が目代に任じていた出羽国寒河江荘 (摂関家の荘園) に隠れて生涯を全うしている。 ※関寺: 近江国逢坂関の近くで既に廃寺だが、時宗 長安寺 (公式サイト、地図) が関寺の跡と伝 わっている。創建年代は不明、一説に世喜寺 (関寺) とも称した、と。 . |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 6月15日 戊辰 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 寅刻 (早暁4時前後) 、敗残の 足利秀康と 三浦胤義が四辻殿 (院の御所 高陽院殿敷地内の寵姫 藤原重子邸) ※に参上、異口同音に奏上した。 . 宇治と勢多の合戦では官軍が敗北し、鎌倉勢は京都に入る街道を封鎖しながら入洛を目指しております。万が一にも死を免れる事はないでしょう。 .後鳥羽上皇 は大夫史国宗宿禰を勅使として武州 北條泰時の陣に派遣し、二人の上皇 (土御門と順徳) と二人の親王 (六條と冷泉) は賀茂と貴船の僻地に避難させた。 .
辰刻 (朝8時前後) に国宗が院宣を帯して樋口河原に於いて武州泰時に面会、これまでの事情を述べた。泰時は 「院宣を拝見します」 と言って下馬し、岡村次郎兵衛尉を介して院宣を読める者を尋ねた。. ここで勅使河原小三郎が学識のある者として推薦した武蔵国の住人藤田三郎を呼び出し、院宣を読ませた。内容は次の通りである。 . 今回の合戦は院の叡慮ではなく近臣の謀略※により勃発した。 .今は全て鎌倉の求めに従って命令を下そうと思う。 また、東国の武士による洛中での狼藉禁止を求める。 その後に、院の御所御随身 (近衛府の官人) 頼武が院への武士の参入を禁止する旨を重ねて仰せになった。 . 下総前司 小野盛綱と 足利秀康は逃亡、三浦胤義は東寺門内に籠り三浦と佐原の御家人と合戦を続け、双方の郎従多数が戦死した。 . 巳刻 (16時前後) に相州 北條時房と武州 泰時の軍勢が六波羅に入った。三浦胤義父子は西山木嶋※で自殺、胤義の郎従がその首を取って太秦の自宅に持ち帰り、三浦義村が没収して武州泰時の宿舎に届けた。 右上画像は東寺の鳥瞰。詳細は 公式サイト (別窓) で。 . 夕暮れになってから官兵の宿舎にそれぞれ放火し数ヶ所が焼け落ちた。都の繁栄も今夜で終わるのかと多くの都人が嘆いた。京都には東国の軍兵が満ち溢れ、逃亡した官兵を見つけ出しては首を斬った。 . 兵士は血塗られた白刃も拭う事もせず、人馬の死骸が道を塞いで歩くのも侭ならない。郷里には帰るべき家もなく、農業に励もうと考えても苗が残っていない。武勇を誇りにしていた西面の武士も北面の武士も滅亡し、近くに住んでいた近臣も寵臣も全て捕らえられた。悲しむべし、八十五代 (仲恭天皇 ) を末世として皇家が絶えようとするのだろうか。 . 今日、関東の祈祷が結願を迎えている。属星祭に捧げる誓文は民部大夫 二階堂行盛が清書した。官兵が敗れ去ったのは神仏の力が未だ地に堕ちていない印である。 . . ※四辻殿: 高陽院殿の発掘資料 と、敷地の概略範囲を提示した (ルート地図) を参考に。 四辻殿は高陽院殿の敷地内にあった 後鳥羽上皇の寵妃 藤原重子 (順徳天皇の生母) の屋敷で、後鳥羽上皇はここに避難していた。後に順徳天皇が流刑地の佐渡で産ませて (生母不明) 親王宣下した善統親王が四辻殿を相続し、成長して四辻宮家 (後に廃絶) となった。 .
※承久記: 官軍の残兵は 「犬死によりは同じ東国の敵と戦
って死のう」 との 三浦胤義の言葉に従って 東寺 (公式サイト) に籠り、三浦義村軍と戦った。 .. 胤義は嫡子胤連と二人になるまで奮戦した後に太秦邸を目差したが木嶋神社近くで包囲され境内で自刃、郎党が屋敷に運んだ首は義村が六波羅の時房に届けた。 ※西山木嶋: 蚕ノ社の名でも知られる木嶋神社 (右、地図) の一帯。元はここで催していた神事を下賀茂神社の 「糺の森」 に遷した経緯から 「元 糺の森」 、あるいは 「元 糺の池」とも呼ぶらしい。続日本紀に拠れば 木嶋神社 (Wiki) の創建は大宝元年 (701) より古く、平安遷都 (延暦十三年、794年) の100年以上前から続いている古社である。 .※近臣の謀略: 自分が首謀した兵乱なのに後鳥羽上皇は 「謀略を巡らす近臣 」 が原因と主張して いる。原発事故の根本原因は政治献金に汚染されていた自公政権なのに 「原子炉メルトダウンは想定外の自然災害が原因 だ」 と言い逃れする姿勢は後鳥羽の時代と変わらない。日本人は寛容だから、津波を過小評価して認可した自公政権を含め誰も責任追求されないし、何十万人が住み慣れた故郷や生活基盤を失なっても平然と政治家を続けられる。 .
※東寺: 創建は平安遷都直後の延暦十五年 (794) 。弘仁十四年
(823) に第52代嵯峨天皇が 空海 に運営権を与えて国家鎮護の寺院とし同時に真言密教の拠点となった。 .. 南北朝時代の文明十八年 (1446) に堂宇の大部分を焼失し創建当時の建物は残存しないが収蔵する仏像のうち十数体は平安遷都当初の作である。公式サイト を参考に。 . 宝物館の兜跋毘沙門天像 (国宝、Wiki画像) は東寺の約 600m西にあった羅城門 (地図) の楼上で都を守っていたもので、門が老朽化して倒壊した後に東寺に移された、と伝わっている。 . 京都駅から近い割に静かで落ち着けるし、京都で屈指の古刹なのに金堂や五重塔など主要堂塔以外の寺域散策が無料なのも嬉しいが... 最近の 「古都」 や 「有名観光地はオーバー・ツーリズムの影響」 などで静かな時を過ごすのが不可能になっている。このままではマズイ、ね。 . 羅城門を挟んで等距離の西側には 西寺の跡 (Wiki、地図) も保存されている。関西っぽくってザワザワして少し汚い公園だが、こちらの見学も忘れずに。 . 右上は東寺講堂の不動明王坐像 (国宝、木造彩色、像高 約123cm クリック→ 別窓で拡大表示 承久記は 「逆臣三浦胤義らを捕らえよ」との院宣を発した上皇の様子を描いている。 .藤原 (足利) 秀康と 三浦胤義と下総前司 小野盛綱 (成綱の子) と 少輔入道 大江 (源) 親広と
山田重忠らは各所の合戦に敗れて京に戻り、15日卯刻 (朝6時前後) に四辻殿に来て 「最後の御供をするべく参上しました。」 と申し出た。 .. 後鳥羽院は今後の対応で思い悩んでいた所に四人がやって来たものだから更に大騒ぎして、 「 (鎌倉の) 武士が来たら手を合わせて助命を懇願しようと思っているのに汝らが戦っては具合が悪い、何処へでも落ち延びよ。御所の近くに留まるべからず」と命じた。山田重忠は門を叩き大音声で「何のために戦い、何のために参上したのか。見損なったのが不覚の極みだ」と叫んだ。 . まぁ見損なったのは間違いないよね。 近代で言えば太平洋戦争の インパール作戦 を机上で立案し指揮した牟田口司令官だ。七万を超える戦死と戦病死 (大部分が餓死) を出しながら終生反省の言葉はなかった、と伝わっている。 無能な軍人、泥棒みたいな政治家が権力を握ると、こうなる。彼らを選んだのは国民だという悲しい事実も、一緒に覚えておこう。 |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 6月16日 己巳 . 吾妻鏡 |
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相模守 北條時房と武蔵守 北條泰時の両刺史 (国司の唐名) は六波羅の館に移った。
. 執権 北條義時の牙となり且つ耳目となって政治の安定を心掛け、乱の残党の刑も軽くして融和を図り、四面に張った網の三面を解き放つように (苛烈ではない) 事後処理を行なって世間の賞賛を受けた。 . 院で合戦計画に関与した 佐々木中務入道経蓮は官兵が敗走した後に鷲尾 (東山区北部の粟田口近く、地図) に逃れたとの情報を得た時房は使者を送り、 「鎌倉に連絡して厚免の措置を求めるから軽々しく命を捨てるな」 と伝えたが、経蓮はこれを自殺を勧める使者と受け取って自刃した。 . まだ息のあるうちに輿で六波羅に運ばれてきた経蓮を見た泰時は 「私が伝えたかったのは自殺させようとの趣旨ではない 」 と語り掛け、経蓮は両目を見開いて嬉しそうに声を挙げ、息を引き取った。 . 謀叛に関与した者が各地で捕縛される中で清水寺の住僧 敬月法師は特に勇士とも言えない人物だが、 藤原範茂卿に従って宇治に向かったのは許し難い事実である。しかし武州泰時に贈った和歌が心に響き、死罪を減じて遠流に処すると 長沼五郎宗政に命じた。 . 「勅なれば 身をばすててき ものヽふの やぞうち河の せにはたゝねど」 . 勅命を受ければ身を捨てて戦うのが筋だが、矢をうつ(射る)ために 宇治川の瀬には立たなかった、ほどの意味か。今日、武州泰時が鎌倉に飛脚を送った。合戦は無事に終結したとの報告である。 . . ※北條九代記は:「武蔵守 北條泰時は六波羅北方に、相模守 北條時房は六波羅南方に任じた。 これが二つの六波羅の創立である。」と書いている。 ..
従来の京都守護を廃止して北方と南方に分け、後鳥羽に与した公卿や在京御家人から没収した所領を再分配して朝廷への監督を強化した。
. これが 六波羅探題だが 探題の名称が使われ始めたのは鎌倉時代末期でそれまでは六波羅北方 (上位) と南方を称していた。 . 当初は北條一族の若年層には栄達の道の一つとして憧れる職責だった 「六波羅」 も得宗体制の強化などに伴って 「決裁権のない不人気な出先機関」に変わってしまったらしい。 . 跡地の中心である市立開睛小学校 (地図) のグラウンド横にあった石柱は校舎の建替えに伴って 六波羅蜜寺 (公式サイト、地図) に移設された。かつては 「驕る平家」 のシンボルだったエリアである。 此付近、平氏六波羅第跡 六波羅探題府跡 |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 6月17日 庚午 . 吾妻鏡 |
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六波羅に於いて今回の勲功に関する評価を行なった。宇治川渡河の先駆け※については 佐々木信綱と芝田兼義の主張が食い違って、泰時と時房の前で争論する事態となった。 . 信綱の主張は、 「先駆けとは敵陣に入った時を差す。馬を川に乗り入れたのは確かに芝田が先だが、乗馬が射られたため着岸した時には見えなかった。」 と。 . これに対して兼義は 「佐々木が渡河できたのは私が先導した結果である。川底の様子も知らずに先駆けなど出来る筈がない。」 と主張した。 . 二人が争っても結論を得られないまま (同行していた) 春日刑部三郎貞幸に当時の状況を質問した。貞幸が起請を以て (誓紙を書いて) 述べた内容は次の通り。 . 去る14日の渡河の際に岸から乗り入れたのは芝田兼義が先だが佐々木も続いて乗り入れた。芝田は佐々木の馬の弓手 (左、上流側) にあり、私 (貞幸) は佐々木の妻手 (右、下流側) に乗り入れた。 .佐々木の馬は二人 (兼義と貞幸) の馬の頭より鞭の長さほど先行し、中山次郎重綱も私の馬に並んでいたがこれは川中の島までであり、貞幸が水没した後のことは判らない。 武州は報告書を見てから更に近くにいた者の話を聞き、概ね同じなのを確認してから兼義を説得した。 「争論は望ましくない。貞幸の話を併せて鎌倉に報告するから恩賞は考え通りに得られるだろう。」 と。 . しかし兼義は 「たとえ膨大な恩賞であっても、この件に関する限り承服はできません」 と答えた。 . . ※宇治川先駆け: 信綱としても一番乗りの栄誉は譲れなかっただろう。元暦元年 (1184) 1月に 義仲勢と義経軍が戦った第二次宇治川合戦では叔父の 佐々木高綱が 梶原景季と一番乗りを争って堂々の勝利を手中にしている。 .父子ではないが、同じ宇治川での合戦で一族二代に亘る勲功は捨てがたい。結局どうなったのか、吾妻鏡には載っていない。 |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 6月18日 辛未 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 武蔵太郎 北條時氏 秘蔵の馬が宇治川で敵の矢を受け、体内に鏃 (やじり) が残ったまま取り出せない。 死にはしないが苦しみが続き、誰に頼んでも治療は無理との答が返ってくる。 . 捕虜の西面武士の中に馬の飼育に長けた名伯楽として知られた友野右馬允遠久がおり、この話を聞いて 「治療しよう」 と申し出た。武州 北條泰時は興味を惹かれその馬を連れて行かせたところ、直ちに鏃を抜いて治癒を終えた。人々は珍しい事だと感心しきりだった。 . 今日使者を関東に派遣し 今回の合戦で官兵を討ち取った者、傷を被った者、官兵によって討ち取られた者の姓名を調べ 関判官代、後藤左衛門尉、金持兵衛尉がその名簿を記録して武州泰時に提出※した。 彼らは勲功の恩賞を行なう資料のために派遣された者である。鎌倉への飛脚は中太弥三郎が任じた。 . . ※泰時に提出: 事務処理の流れは書記 → 泰時 → 鎌倉。六波羅の序列は北方泰時が上で南方時房 が下。強調しておくけど 泰時は無能だよ。下記 軍忠状 の末尾を読めば判るが、渡河の際の従軍800余騎で96人が溺死 (4人が戦死) とある。 .. 足利勢らが民家を壊して筏を組み渡河したのを知りながら状況に応じた作戦を考えず、強引な渡河命令を続けた結果がこれだ。 偉そうなセリフを吐くけど泰時はクズだ。政治家で言えば 菅義偉の レベル。 . 6月14日の宇治川合戦で敵を討ち取った人々と、その相手。 .
秩父平五郎(一人、名は不明) 小笠原次郎(一人、弦袋に付く) 横溝五郎(一人) .佐々木又太郎右衛門尉(一人、弦袋) 同、奈良五郎(一人) 佐竹六郎(二人、内一人手討ち) 押垂三郎兵衛の尉(一人、郎等が討つ) 戸村三郎(三人、捕虜一人、一人は勅使大夫入道) 富田小太郎(一人) 浦太郎(三人) 島津三郎兵衛尉(七人、内僧一人、捕虜二人) 若狭兵衛入道の手の者(三人) 宮木小四郎(一人、野次郎左衛門尉) 大井左衛門三郎(一人) . 品川小三郎(二人) 品川四郎太郎(一人) 於呂左衛門四郎(二人、内生虜一人) 於呂五郎(四人、内一人捕虜) 葛山太郎(一人、弦袋) 並木彌次郎兵衛尉(一人、法師) 伊具六郎(二人、内深草六郎が一人、染屋刑部七郎が一人を討つと) 佐竹別当の手(二人) 天野右馬太郎(五人、内二人手打ち) 黒田三郎入道(一人、郎等これを討つ) 梶原平左衛門太郎の手の者(一人) 四宮但馬允(二人) 香河小五郎(二人、大刀長伏輪) . 豊嶋九郎小太郎(二人、郎等これを討つ) 信乃彌太郎(一人) 塩尻彌三郎(出雲国小三郎と) 庄四郎(一人、捕虜) 庄五郎(一人、捕虜) 潮田四郎太郎(一人) 大貫の三郎(一人) 蒼海平太(二人、首は宇治に梟す) 大和太郎左衛門尉(一人手打ち、二人郎等これを討つ) 大和籐内(一人) 山田八郎(二人、手打ち) 山田次郎(二人、手打ち)) 河越三郎(一人、手打ち) 小野寺左衛門入道(五人、内一人手打ち) 渋谷三郎(二人手討ち、一人は萩野三郎) 渋谷権守太郎(二人、内一人手打ち、一人捕虜) 渋谷又太郎(一人、手打ち、出雲国神西庄司太郎) 懸左近将監(二人) 神保與三(一人) 多胡宗内(一人) 椎名彌次郎 善右衛門四郎(三人、手討ち) 小平左近将監(二人、内一人捕虜) 渋谷六郎(一人、郎等これを討つ) 以上98人(この内、衛府五人、生虜り七人) 関判官代実忠の日記に拠る。 . 長布施四郎(三人、内一人萩野太郎ら、一人佐々木判官親者、一人捕虜) 猪俣右衛門尉(一人) 佐貫右衛門十郎(四人) 金子太倉太郎(二人) 金子右近将監(二人) 金子の三郎(一人) 須久留兵衛次郎(一人) 岩田七郎(一人) 豊田四郎(一人) 豊田五郎(四人) 佐貫七郎(一人) 小代右馬次郎(二人) 河村四郎(一人) 於呂小五郎(一人、西面の手) 小越の四郎(一人) 松田小次郎(二人、内一人甲斐中将侍刑部の丞) 松田九郎(二人、内一人西面平内、一人熊野法印親者) 秩父次郎太郎(一人、上臈と) 瓶尻小次郎(一人) 藤田兵衛尉(一人、手打ち、佐々木判官手の者と) 内嶋三郎(二人) . 小越四郎(二人) 大井太郎(二人) 小越右馬太郎(二人) 中村の四郎(二人) 河原田四郎三郎(一人) 人見八郎(一人) 木内次郎(一人) 風早四郎(一人) 甘糟の小次郎(一人) 山城左衛門尉(十六人) 児玉刑部四郎(一人) 河村太郎(三人、郎等が討つ) 同三郎(一人、手打ち) 同五(一人、手打ち、西面) 勅使河原五郎兵衛の尉(一人、郎等が討つ) 勅使河原四郎(一人手討ち) 太田五郎(一人、手打ち) 香河三郎(一人、手討ち) 河匂小太郎(一人手討ち) 小代與次郎(一人) 波多野彌籐次(一人、手討ち、宇治に梟す) 小澤太郎入道(二人、宇治に梟す) 佐田太郎(一人、手討) 沼田小太郎(一人、手討ち、熊野法印子) 糟屋三郎(一人、手討ち) 同四郎(一人、手打ち) 以上84人、金持兵衛尉の日記に拠る。 . 佐加良三郎(一人、渡部彌次郎兵衛尉、北面。直垂綾) 長布施三郎(一人) 二宮三郎(二人、名は不明) 曽我八郎(一人、宰相中将格勤の者) 曽我八郎三郎(一人、同格勤) 泉八郎(二人) 泉次郎(三人) 安東兵衛尉の手伊豫玉井四郎(一人) 肥前房(一人、山口兵衛尉小舎人童生取り) 権守三郎(一人、甲斐中将中間と) 工藤太三郎(一人、佐々木判官近親者) 荒巻籐太(一人、三郎法師捕虜) 清久左衛門の尉(二人) 曽我太郎(四人) 成田の五郎(一人) . 成田籐次(一人) 奈良兵衛尉(一人、山法師) 別府次郎太郎(一人) 荏原六郎太郎(一人、下総前司郎等) 荏原七郎(一人、郎等が討つ) 岩原の源八(一人) 弓削平次五郎(一人) 河平次郎の手(四人、二人熊野法師、一人弦袋) 宇津幾十郎(一人) 佐貫右衛門尉十郎(一人、弦袋) 宿屋太郎の手(五人) 土屋三郎兵衛の尉(一人) 興津左衛門三郎(二人、手打ち) 15日以後に京都に於いてこれを記す。 . 植野次郎(一人) 角田太郎(一人、平九郎判官郎等美六美八) 内記左近将監(二人、熊野法師郎等) 波多野中務次郎(一人、熊野法印、長伏輪太刀) 内藤右近将監(二人、熊野法師郎等) 荻窪六郎(二人、内一人肥前国佐山十郎) 西條四郎手(一人、郎等手討ち) 天野平内次郎(一人) 古郡四郎(一人、瑠璃王左衛門尉が西面を捕虜) 山田蔵人(三人、生取り、下総前司郎等) 仁田次郎太郎(五人、内一人捕虜、宮分刑部丞) 金持兵衛尉(五人、二位法印家人) 豊嶋十郎(一人、金を付くと) 中村小五郎兵衛尉(一人、捕虜、中七左近) 荏原の小太郎(一人) 佐々木四郎右衛門尉(一人、手討ち、佐々木太郎左衛門尉) 以上73人 併せて255人 . 6月13日と14日の宇治橋合戦で手負いの人々 13日 富部五郎兵衛尉 同町野兵衛尉 松田小次郎 松田の三郎 同五郎 同平三郎 同右衛門太郎 波多野中務次郎 同五郎 牧右近太郎 同中次 小津太郎入道 同籐次太郎 椎名小次郎 横田右馬允 阿曽沼六郎太郎 香河小五郎 豊田平太 同五郎 保土原三郎 今泉彌三郎兵衛尉 同五郎 同須河次郎 同五郎 同提五郎 世山三郎 河田七郎 甘糟小太郎 藤田新兵衛尉 須賀彌太郎 安保右馬允 目黒小太郎 井田四郎太郎 沼田小太郎 沼田佐籐太 以上35人 . 14日 小代小次郎 行田兵衛尉 古庄太郎 曽我太郎 源内八郎 女景太郎 宇津幾平太 同十郎 山口兵衛太郎 須黒兵衛太郎 加世左近将監 同彌次郎(死没) 仙波太郎 同左衛門尉 相模国分八郎 興津左衛門三郎 同四郎 同六郎 同紀太 同八郎太郎 同十郎 河村籐四郎 岩原源八 吉香左衛門次郎 大内十郎 同彌次郎 源七刑部次郎 同三郎太郎 小嶋三郎同六郎 同七郎 矢部源次郎 内記四郎 屋代兵衛尉 葛山小次郎 波賀小太郎 古谷八郎 同飯積三郎 同十郎 岡村次郎兵衛尉 . 岩手小四郎 同五郎 同與一 河原次郎 皆河太郎大江兵衛尉 同四郎 井田四郎 岩田八郎五郎 大倉小次郎 高井小太郎 同小次郎 長澤又太郎 佐加江四郎(大事) 同五郎(大事) 矢田八郎 妻良五郎 西郷三郎 新開彌次郎 布施左衛門三郎(渡河中に負傷) 奈良左近将監(同上) 宇治次郎(同上、波多野とも) 佐貫右衛門六郎(同上) 肥前房(同上、安東の手) 松野左近将監 志水右近将監(同上) . 平河刑部太郎 同又太郎 蛭河刑部三郎 同三郎太郎 佐野七郎入道 渋谷平太三郎 渋谷権守六郎 同七郎 品河四郎 阿曽沼次郎 高橋九郎 塩谷左衛門尉 同太郎 同六郎 塩谷彌四郎 同奥太 塩谷小三郎 同五郎 富田太郎 同五郎 玉井小四郎 俣野小太郎 河平三郎 寺尾又太郎 鷲四郎太郎 天野平内太郎 安東籐内 廣原仲次 魚沼工藤三郎 熊井小太郎 鎌田平三 以上97人 併せて132人 . 神保太郎 高井五郎 江田兵衛尉 江田五郎太郎 高井彌太郎 同室三郎 屋嶋次郎 小串五郎 . 6月14日の宇治橋合戦で渡河の際に死んだ人々の記録 . 布施右衛門次郎 懸佐藤四郎 高野小太郎 武蔵女影四郎 内嶋七郎 荏原六郎 荏原彌三郎 太田六郎 今泉七郎 片穂刑部四郎 飯田左近将監 志村彌三郎 同又太郎 善右衛門太郎 安保刑部丞 同四郎 同左衛門次郎 同八郎 塩屋民部大夫 関左衛門入道 金子大倉六郎 春日刑部三郎太郎 同小三郎 渋谷四郎 谷権守五郎 潮田六郎 志水六郎 於呂七郎 若狭次郎兵衛入道 綱島左衛門次郎 大舎人助 . 飯沼三郎 同子息一人 大河戸小四郎幸嶋四郎(下河辺とも) 梶原平左衛門次郎 成田兵衛尉 同五郎太郎 玉井兵衛太郎 佐貫右衛門五郎 同八郎 同兵衛太郎 長江余一(討れる) 長江小四郎(同上) 相馬三郎 同太郎(討れる) 同次郎 小田切奥太 小野寺中務丞 石河三郎(討れる) 古庄次郎(同上) 麻続六郎 中村九郎 左近将監 同三郎 鮫嶋小四郎 新開兵衛尉(橋で討れる) 大山彌籐次(同上) 山内彌五郎 千竈四郎 同新太郎 金子小太郎 籐次(横溝の親類)五郎 . 寺尾左衛門尉(橋上で討れる) 庄三郎(討ち取られる) 大河戸六郎(同上) 佐野八郎 佐貫太郎次郎(疵を被り河に於いて死す) 同次郎太郎 品河次郎 同四郎三郎 同六郎太郎 信乃大塩次郎 浦四郎 江戸四郎三郎 安東平次兵衛尉 安東籐内左衛門尉 町野次郎(13日に橋上で死す) 仙波彌次郎(疵を被り三日後死す) 新太郎 桜井次郎(浦太郎手の者) 平次太郎(寺尾四郎兵衛尉手の者) 高井三郎 嶋名刑部三郎 屋嶋六郎 神保刑部少輔 道智三郎太郎 麻彌屋四郎 同次郎 . 武蔵守 泰時殿の手の者 平六 少輔房 五郎殿 石河平五 佐伯左近将監 片穂刑部四郎 飯田左近将監 足洗籐内 中三入道 後平四郎 . ※渡河の際に: 14日の吾妻鏡には 「従軍800余騎の96人が水死」 とあり、16日の 「渡河の 際に死んだ人々」 に記載された99人 (討たれた者4人) 名簿と一致する。 .戦死なら兎も角、強行渡河で一割が溺死では 「指揮官の作戦ミス」 を問われても不思議ではない。 . 以前から気になった事だが、泰時は指揮官としても政治家としても小物だったのではないか。吾妻鏡の編纂者が再三に彼の才気を讃えているのを見ると「泰時の能力不足を周辺が必死でカバーしている 」 と感じてしまう。 . 兵を分けて瀬田から舟を利用するか、増水している宇治での渡河を避けて一口か淀へ迂回するか、寡兵の敵をさらに分散させて弱体化する方法があった筈だが、泰時がそれを選ばなかった理由が判らない。 |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 6月19日 壬申 . 吾妻鏡 |
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六波羅に於いて (出頭してきた) 錦織※判官代を生け捕りにした。弓射と相撲の達人であり、抜きん出た剛力の武士である。院に参内していた際に官兵は (迫ってくる鎌倉勢に) 怖気付いて逃亡し、逃げ切れぬと判断した錦織は堂々と六波羅に現れた。鎌倉勢は錦織と組み合える武士を選び、佐野太郎忠家※と同次郎入道と同三郎入道を立ち合わせたが錦織を押えられず、更に佐野の郎従が加わって何とか捕らえる事ができた。 . 今日、武蔵太郎 北條時氏が去る14日に宇治川を渡る際に従った6人を招いて盃酒を勧め贈物を与えた。 . . ※乱か、変か: 江戸時代中期までは殆どの史料が 「承久の乱」 と表記したが、いわゆる皇国史観 が台頭した大正時代には国定教科書まで 「承久の変」 と表記し始め、第二次大戦の終結までこの風潮が続いた。これは義時=逆臣で 後鳥羽は被害者だ。 .. そもそも 「治天の君である上皇が反乱を起こす」 のは道理に外れているとの発想から、らしい。右翼とか軍人とかの発想って実に貧困で幼児っぽいね。言葉を変えれば本質が変わる、と思っている。 ※錦織氏: 前九年の役の後に 源頼義は滋賀郡錦織郷(現在の大津市錦織町 (地図) に館を構え、 息子の 義光も園城寺一帯と深く接点を持ち 子孫が山本、柏木、錦織、箕浦の各氏として続いた。 .※佐野忠家: 籘姓足利氏 (藤原秀郷の末) の傍流が佐野氏。系図では忠家を確認できないが、 . ※百錬抄の記事: 一院 後鳥羽上皇は四辻殿に移られ (鎌倉方の) 武士が警護に任じた。 新院 (土御門と順徳) は大炊殿※に還御され、両宮 (六條親王と冷泉親王) は本所 (内裏の東宮?) に渡御された。 .また今日 「秀康以下の徒党を早く追討せよ 」 との宣下があった (恥知らずの後鳥羽の発言。まだ 「秀康らの発案だ」 と主張している) 。 ※大炊殿とは: 直接的には貴族などの屋敷で調理を行う建物。一般的には下鴨神社で神饌 (神様 の食事) を準備する場所。緊急事態中だと考えると、どちらに該当するかは判断できない。 . |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 6月20日 癸酉 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
. 後鳥羽上皇は高陽院から四辻殿に御幸され、土御門院と新院 (順徳) と六條宮と冷泉宮は各々本所に還御された。主上 (仲恭天皇) だけが御所に留まっておられる。夜になって、本間兵衛尉が貴船(下鴨神社の近く、地図) の付近で美濃源氏※の神地蔵人頼経入道と同仲間の10余人を生け捕った。また多田蔵人基綱※を斬首した。 . .
※百錬抄の記録: 仲恭天皇 (満2歳7ヶ月) が閑院 (現在の二
.※多田基綱: 頼朝の意図的な粛清で本領の多田荘 (猪名川町 . ※美濃源氏: 源頼光→長男頼国→五男頼綱→三男国直が美濃国の山県郡 (現在の山県市) に土着 したのが最初、とされる (共に清和源氏の系図を参照) 。 . |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 6月23日 丙子 . 吾妻鏡 |
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去る16日に京を発った相模守 北條泰時と武蔵守 北條時房の飛脚が丑刻 (深夜2時前後) 鎌倉に到着した。合戦が無事に終結し天下が鎮まったとの詳細が記載してあり、人々が喜びあったのは無論である。 .. 直ちに 後鳥羽上皇の近臣や公卿殿上人の罪名や洛中の治安についての決定を行なった。大官令禅門 大江広元が文治元年の決定事項と先例と沙汰を確認して箇条に書き出し、進士判官代橘隆邦が清書した。 |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 6月24日 丁丑 . 吾妻鏡 |
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相州泰時と武州時房が申請した通り、合戦を首謀した公卿が六波羅に引き渡された。按察卿 葉室光親は 武田五郎信光の預かり、中納言藤原宗行※卿は小山新左衛門尉朝長 (朝政の嫡子) の預かり、入道二位兵衛督 源有雅卿は 小笠原次郎長清の預かり、宰相中将 藤原範茂卿は式部丞 北條朝時の預かりとなった。 . 今日寅刻 (早暁4時前後) に安東新左衛門尉光成※が昨日の決定内容を持って鎌倉から京都に向かった。 京都で処理すべき内容を右京兆 北條義時から直接光成に指示した内容である。 . . ※藤原宗行: 権中納言正三位。父は後鳥羽院の側近 宗頼で生母は同じく後鳥羽院腹心の女官公 二位。院の近臣となり、有能な実務官僚として院の雑務処理を管理していた。 .※安東光成: 有能な御内人 (北條嫡流の家臣) として義時と泰時の腹心に任じた 尾藤景綱の甥。 . |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 6月25日 戊寅 . 吾妻鏡 |
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合戦の首謀者が引き続いて六波羅に引き渡された。 大納言 坊門忠信卿は千葉介胤綱 (成胤の嫡子で六代当主) の預かり、宰相中将 一条信能は左衛門尉 遠山 (加藤) 景朝※の預かり、刑部僧正長賢と観厳は 結城左衛門尉朝光の預かりとなった。 二位法印尊長 (一条能保の四男) と能登守 藤原秀康らは逐電して行方不明、また熊野法印 (小松を称す) と天野四郎左衛門尉は斬首となった。 . . ※遠山景朝: 加藤景廉の長男。美濃国遠山荘 (現在の恵那市、本拠は岩村城北嶺の富田地区、地 図) の地頭を継承して遠山氏の祖となった。分家の子孫か徳川時代の江戸町奉行 遠山金四郎景元が現れる。 . |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 6月28日 辛巳 . 吾妻鏡 |
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伊予国の住人 入道 河野通信※は領内の武士を動員し京方に与して戦った首謀者の一人である。武州泰時は河野入道に与しなかった伊予国内の武士に河野の追討を命じた。. . ※河野通信: 治承四年 (1180) 8月の頼朝挙兵に呼応し伊予で平家 追討の兵を挙げた最古参の御家人 (65歳) である。 .河野家に伝わる 「六波羅下知状」 に以下の記載あり。 伊予国の住人河野四郎通信は院宣を帯すと称し、一族と伊国の勇士を率いて合戦した一方の張本である。一揆の力を合わせて忠戦の功を励まし、身柄を拘束して連行せよ。河野に与して謀反を図る輩は軍兵を送り征伐する事になる。鎌倉殿の仰せに従って命令する。 承久三年 六月二十八日 武蔵守(花押) .右上は伊予水軍の総帥 河野通信着用の 国宝 紺糸威鎧。クリック→ 別窓で拡大表示 .大三島の 大山祇神社が収蔵する源平合戦時代の代表作である。
※通信の墓: 通信の嫡子通政は西面の武士として朝廷側で
戦い、敗北後は所領の伊予国で父と共に翌年まで抵抗した後に投降し斬首となった。
.. 通信は積年の勲功により死罪を免れ、陸奥国江刺郡に流された翌 承応元年 (1222) 5月に 国見山極楽寺 (岩手県観光協会サイト) で死没。 . 通政の弟 通広の子が、時宗の開祖 一遍上人。諸国を布教に歩いた姿を載せたのが国宝の 一遍聖絵、その一部に弘安三年 (1280) に祖父通信の墓を訪れた様子が描かれている。この絵が通信の墓所 「ひじり塚」 (北上市稲瀬町水越471、地図) を発見する端緒となった。 . 右上は 「一遍聖絵」 に描かれた、一遍上人が祖父通信の墓に詣でる光景。 クリック→ 別窓で拡大表示 |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 6月29日 壬午 . 吾妻鏡 |
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. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 7月 1日 癸未 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 今回の合戦を首謀した公卿の面々を断罪すべきとの宣下があった。武州時房は 「彼らを預かっている御家人は早急に関東に連行せよ」 との命令を下した。 . . ※関東に連行: 実際には 「京都で殺さず、関東に送る途中で殺せ」 との命令である。 それにしても自らが立案し主導した倒幕作戦なのに、加わった公卿に罪を着せて 「断罪せよ」 と宣下した後鳥羽上皇の卑劣さは目を覆うようだ。自分の行動が歴史に残るという自覚が皆無だもの。 .. 集団的自衛権の行使を容認した公明党や創価学会も同じ轍を踏んでいるのを見れば 「彼らが全く歴史を学ばず 権力に媚びる愚か者」 だと判る。 世界情勢を分析して、本当に必要であれば憲法を改定すれば良い。憲法の解釈変更で責任を曖昧に済ませるのはあまりにも杜撰だ。 . 20年も連立政権を組んで 統一教会との癒着や金権政治を許しながら 「知らなかった」 なんて卑劣な言い訳だ。仲間の腐敗がバレたら平然と知らん顔、それでも宗教者か! |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 7月 2日 甲申 . 吾妻鏡 |
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西面の武士を四人、引き回して斬首し首を晒した。武士に関する極刑の掟は朝廷の判断に左右されない、その考えに基づく措置である。この四人は、検非違使従五位上行左衛門少尉 藤原朝臣後藤基清 (命令を受けた子息の左衛門尉 基綱による斬首) 、五條筑後守従五位下行平朝臣 五条有範、山城守従五位下源朝臣 佐々木広綱、検非違使従五位下行左衛門少尉 九大江能範朝臣らである。
. 彼らは関東の御家人であり、右大将家 頼朝の恩を受け数ヶ所の荘園の地頭職に任じていた。更に右府将軍 実朝の推挙を受けて五位の位階に昇る事ができた。例え勅命を重く考えたとしても、将軍の心に対して恥じる思いもなく遺志を踏みにじるのは武士の道に背く行為である。 . . ※資料: なにごとも、思いに拠らぬ事ばかりで、〜 中略 〜 各々が迂闊に動かず長い目で見る ように。深い志は理解している。この文は間違っても披露してはならない。あなかしこ 7月3日
.. 上記は原財閥の創始者 原善三郎 (Wiki) 収蔵の古文書で、後鳥羽上皇の宸筆とされる。 真贋は不明だが毀誉褒貶 感情の起伏が激しくて能力が低い事を物語っている。 この評価は歴代の内閣総理大臣にも当て嵌まる。少なくとも自分の過誤で多くの臣下を殺し、国民を苦しめた自覚は見られない。 |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 7月 5日 丁亥 . 吾妻鏡 |
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宰相中将 一條信能は遠山左衛門尉景朝 (6月25日を参照) に連行され美濃国に下着、直ちに当国遠山庄で首を刎ねられた。今回の合戦を首謀した公卿は全て洛中で斬罪に処すのが鎌倉の命令だったが、洛外の方が良いだろうとした武蔵守 北條泰時の判断である。 . . ※一條信能: 後白河院の寵臣だった 一條能保の二男。能保の正室は 頼朝の同母妹 (姉説あり) の 坊門姫。坊門姫の息子だったら殺されずに済んだだろうが、信能は異腹だった。 .. 信能は 後鳥羽上皇の近臣として 源有雅と共に承久元年 (1219) 1月の前将軍 実朝の右大臣拝賀に同席して 公暁による殺害を目撃した人物。 今回の戦乱では芋洗 (伏見方面) の守備隊を指揮して 三浦義村の部隊に惨敗した。 ※遠山景朝: 古参御家人 加藤景廉の嫡男。父が数多くの勲功で得た美濃国遠山荘 (恵那市〜中津 川市の一帯) の地頭を務め、美濃遠山氏の祖となった。当時の本拠は岩村城址北麓の大円寺跡から富田一帯の平地 (地図) 。 .遠い子孫に江戸町奉行に任じた遠山金四郎がいる。 ※遠山荘: 三州街道 (三河 (岡崎) 〜信州 (塩尻) を結ぶ現在の国道153号) の平谷と中仙道をつな ぐ要衝で、50km東の三州街道阿智村駒場は元亀四年 (1573) 4月に甲斐へ撤退する途中の信玄が病没した地と伝わっている。 .. 恩賞としてこの地を得た加藤景廉は現地に赴任せずに後半生を鎌倉で過ごし、承久の乱後に景朝が土着して遠山氏を名乗ったらしい。遠山荘の知行権(≒管理権)は近衛家だが、遠山氏が地頭請※として実質的な支配権を握る事となった。 ※地頭請: 荘園領主 (この場合は近衛家) に毎年一定額を納め、地頭が荘園の管理権と支配権と 徴税権を握る不在地主制度。領主は毎年定額を得る事ができるし管理者も能力次第で利益を増やせる仕組みだ。 .
※斬首の地: 吾妻鏡では7月5日だが公卿補任 (朝廷の歴代
職員録では8月14日。連行の命令通達が 7月1日で藤原光親の甲斐での斬首が12日、最後の処刑となった 源有雅の甲斐稲積庄での斬首が29日だから、京から最も近い (約200km) 遠山での処刑が5日でも変わらない。
.. わずか32歳で斬首された信能を哀れんだ遠山荘岩村相原の村人は処刑地に祠を建てて霊を弔い続け、明治十三年 (1880) の明治天皇中山道巡幸の折に岩村 神社、正式には巌邨)神社と称するようになった。鳥居の左手に「終焉の地」の案内板が建っている。 . 右画像は岩村神社の社頭 クリック→ 別窓で拡大表示。 . 巌邨神社の地番は恵那市岩村町若宮750 (地図) 、使い馴れている MapFan の地図は細かいスポットを表示してくれないのが欠点だ。 |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 7月 6日 戊子 . 吾妻鏡 |
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後鳥羽上皇が四辻仙洞から鳥羽殿に遷られた。大宮中納言西園寺実氏と左宰相中将藤原信成と左衛門少尉藤原能茂の三人が各々騎馬で御車の後に従った。洛中の屋敷は主人を失なって扉を閉ざし、離宮 (鳥羽殿) の柴垣には兵士が列を成している。君臣共に、後悔で断腸の思いだろう。 . .
※上皇の移動: 6/20に高陽院 (地図) から四辻殿 (地図) へ、
7/6には更に鳥羽殿 (地図) へ移動したことになる。三ヶ所を地図にマークした。 .※百錬抄: 7月7日、鎌倉からの使者が参洛した。天下を 騒がすような事件が重なるのだろうか。 .※六代勝事記: 太上天皇 (仲恭) は鳥羽殿に遷った。東国 の軍勢が道を挟んで旗を飜えす中、後鳥羽上皇は大宮中納言と左宰相中将と左衛門尉能茂だけを供にして四辻殿を出られ八日には出家された。 右画像は鳥羽離宮跡一帯の鳥瞰図 .画像をクリック→ 別窓で拡大表示。 鳥羽殿の敷地は東西1.5km×南北1km、西は鴨川の天神橋東詰から東は東高瀬川までの1.5km、南は津知橋通りから北の鴨川南岸に至る1kmの広大なエリアである。 .当時の姿を再現した想像図は (Wikiによる画像紹介) を参照されたし。 . このエリアは徳川幕府の命運を決した 鳥羽伏見の戦い (Wiki) の舞台でもある。徳川勢がもう少し上手に戦っていれば会津の悲劇もなかったし、越後長岡藩の 河井継之助も無駄死にしないで済んだし、長州の田舎侍に大きな顔をされる事もなかったし、安倍晋三ごとき嘘吐きが首相になる事もなかっただろう、そう考えると実に無念だ (笑) 。 . 私は東京生まれだが、母方の先祖は福島の貧乏侍レベルだった、らしい。個人的には 「たそがれ清兵衛」の真田広之を連想している (笑)。1868年の会津戦争の恨みや福島原発事故の恨みがあるから、薩長や自公政権やカルト学会とは決して手など握ることはない! |
. . 85代 仲恭天皇 順徳上皇 (新院) 土御門上皇(中院) 後鳥羽上皇(本院) . |
. 7月 8日 庚寅 . 吾妻鏡 |
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新しい帝には持明院入道守貞親王※の継承が望ましい、それが鎌倉の意向※である。また摂政の九条道家※は退任し、前関白の近衛家実 (基通の長男) が摂政の詔を受けた。
. 今日、後鳥羽上皇は御室道助 (後鳥羽院の息子で生母は坊門信清の娘。仁和寺第八代門跡に任じた法親王) を御戒師として出家され、落飾に先立って信実朝臣を召して似顔絵を描かせた。 後鳥羽院の生母七條院殖子は警固の勇士を伴って鳥羽殿に御幸して対面、ただ涙を抑えて還御された。 . . ※鎌倉の意向: 土御門上皇は倒幕計画に関与せず幕府も処罰しない方針だったが、土御門は 父の後鳥羽と弟 順徳の流罪に準じて土佐流罪を望み、幕府もそれを認めつつ優遇措置を呈した。 .. 幕府は後鳥羽の系統が帝位に就くのを許容せず、幼い仲恭天皇も退位させ直系の全員を出家または臣籍降下させる措置を取ったが、男子皇族は守貞親王の三男茂仁王のみとなった。やむを得ず第86代後堀河とし、違例ながら守貞親王を法皇として院政を認めた。 運良く復権を得た守貞は不幸にして二年後に逝去し「後高倉院」を追贈された。 ※守貞親王: 第82代 後鳥羽天皇の同母兄で、第81代 安徳天皇の異母弟。本来は安徳の次期天皇 になる筈だったが、寿永二年 (1183) 7月の平家都落ちに同行させられ、壇ノ浦で救出された時には実弟の後鳥羽が着位していた、実にアンラッキーな人物(「天皇家の系図」を参照)。 .. 哀れといえば仲恭天皇も同様で、満 2歳6ヶ月で着位し 2ヶ月半後の満 2歳 9ヶ月で廃位、後に復位を求める動きもあったらしいが 生母の実家である摂政 九条道家 (鎌倉四代将軍 藤原頼経の父) 邸に引き取られ軟禁に近い状態のまま17歳で崩御。 |
. . 86代 後堀河天皇 仲恭天皇 順徳上皇 土御門上皇 後鳥羽上皇 は 全て退位 |
. 7月 9日 辛卯 . 吾妻鏡 |
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今日践祚 (天子の交代) である。仲恭天皇は高陽院皇居で退位し密かに九條院に行幸した。 戌刻 (20時前後) に新帝の後堀河天皇※ (持明院の二宮、数え10歳) が軍兵の警護の中を持明院殿※から禁裏に入った。 .
※後堀河: 第85代仲恭天皇は2歳9ヶ月で 「廃位」 され後堀河
天皇 ( 9歳 4ヶ月) が践祚した。 .「践祚」 は天子の位に着くことで、その事実を内外に告知するのが 「即位」 である。 後堀河の即位は 12月1日になるのだが、左隅の欄には 86代後堀河天皇のみを記載しておく。 ※持明院殿:京都御所北西に 光照院門跡 (京都観光サイト) として残っている (通称を常磐御所) 。 .右画像をクリック→ 別窓で拡大表示。 . 常磐御所は元の藤原基頼 (Wiki) の屋敷で 彼の孫娘が守貞親王妃となり、その後数代の上皇が仙洞 (上皇の御所) とした。鎌倉幕府の滅亡後、足利高氏 (尊氏) らが擁立した持明院統 (89代後深草天皇系) の光明天皇を擁立した北朝と、摂津を本拠とした大覚寺統 (90代亀山天皇系) 後醍醐天皇の南朝 (吉野朝廷) が皇位を巡って争う、私の好きじゃない南北朝時代が到来する。 |
. . 86代 後堀河天皇 . 上皇は不在 |
. 7月10日 壬辰 . 吾妻鏡 |
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中御門入道前中納言の藤原宗行卿は新左衛門尉 小山朝長に連行されて鎌倉を目指した。今日遠江国菊河の驛に宿泊したが一晩中眠れず、一人窓に向かって法華経を唱え宿の柱に漢詩を書き残した。. 昔南陽縣菊水 汲下流而延齡 今東海道菊河 宿西岸而失命 . . ※詩の意訳: 昔人は南陽県 菊水の下流を汲んで齢を延ばし 今は東海道菊川の西岸に宿して命を失なう。 .. 南陽縣の菊水は中国河南省内郷県の白河支流で鞠水は崖上に咲く菊の露が滴り落ちた甘い水、これを飲めば長生きできるとの伝説があった。宗行は菊と 菊川の古名 (コトバンク) を引用したらしい。 . 国道一号菊川IC に近い旧東海道沿いに宗行が詩を書いた宿驛跡と記念碑がある。 ただし宗行はここでは殺されず更に東の浮嶋ヶ原で斬られた、と伝わっている。 . 右上は「菊川の里会館」の記念碑(画像をクリック→ 別窓で拡大表示、地図) |
. . 86代 後堀河天皇 . 上皇は不在 |
. 7月11日 癸巳 . 吾妻鏡 |
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相州 北條泰時以下への恩賞が行われ、後鳥羽上皇に加わった輩の所領を没収して分与した。 . 今日、山城守 佐々木広綱の子息 (勢多伽丸、満12歳) を仁和寺から六波羅に呼び出した。御室 (道助) ※の御寵童であるため芝築地の上座に座らせた。真昭※が武州 北條時房に申し出た内容は次の通り。 . 日綱 (広綱の法名) の罪が重い事に疑問の余地はありませんが、この子供は門弟として長く務め、合戦への関与もありません。十余歳で一人残された者に悪行の恐れもなく、今までと同様 (御室に) 預け置くのが良いと考えます。 .母親もまた六波羅で助命を嘆願した。武州時房は御室の使者と面会し 「申し入れを尊重して処分を猶予します。容姿の華麗さと母親の嘆きが共に哀れですから。」 と答えて仁和寺に戻した。 しかし勢多伽の叔父 佐々木四郎右衛門尉信綱が強く抗議したため再び出頭させて信綱に引き渡したところ、斬首※してしまった。 . . ※御室道助: 後鳥羽上皇の息子で生母は坊門信清の娘。仁和寺第八代門跡に任じ、7月8日には 法親王として後鳥羽出家の戒師を務めている。 .※真昭: 時房の三男資時の法名。前年の1月に兄の次郎時村と共に出家、幕府に留まっている。 . ※勢多伽丸斬首: 没収した広綱の遺領は親族の継承が当時の習慣で、勢多伽丸を殺せば信綱が 独占できる。斬首した結果、佐々木氏所領の大部分が信綱の所有となり近江国は 4人の息子が分割相続して各々大原氏、高島氏、六角氏、京極氏として繁栄することになる。
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. . 86代 後堀河天皇 . 上皇は不在 |
. 7月12日 甲午 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 按察卿 葉室光親 (先月出家して法名を西親) は 武田五郎信光の預かりとして鎌倉に向かっていた。 駿河国車返の近くで鎌倉からの使者が到着して斬首の命令を伝え、加古坂※で梟首となった。 年は46歳、後鳥羽上皇無双の寵臣であり、葉室一族の当主として優れた才能を備えた人物である。 . 今回の挙兵に関しては特に思い悩み、上皇には正しい判断をされるよう諫言を繰り返していた。最終的には叡慮に背き続けられず、不本意なまま義時追討の宣旨を書き下す結果となったのは 「忠臣とは諌めた後に従う 」 と言われる通りの行動である。葉室光親を斬首した後に上皇を諌めた書状数十通が仙洞 (院の御所) に残っているのが見つかり、武州 北條泰時は光親を斬ったことを酷く後悔した。 . .
※加古坂: 現在の国道138号の近くを通る籠坂峠の古名。
甲斐の酒折から河口湖の西を経て山を越え須走に下る御坂路 (後の鎌倉街道) が通っていた。 .. 光親は国道沿いの加古坂神社から斜面を300mほど登った先(地図) で斬られた、と伝わる。 . 処刑に立ち会った真言宗の山尾山普両庵、今の日蓮宗 実成山久成寺 ( 公式サイト、地図)の僧が庵の墓地 (御殿場市) に埋葬、大御神 (おおみかみ) と呼ぶ五輪塔が墓石らしい (右画像のリンク先末尾に記載) 。右上は国道から処刑地への登坂地点。クリック→ 別窓の詳細へ . 但し 「駿河国車返 」 は現在の沼津なので御坂路からは大きく外れるのが気にかかる。 東海道を進んだ信光が沼津の車返「S地点」 → 籠坂峠「@地点」 → 足柄峠「A地点」 → 鎌倉「B地点」 と進み (ルート地図) 、籠坂峠から10km南の普両庵から僧を呼んで後事を託してから足柄峠経由で鎌倉を目指した、と考えれば、一応の辻褄は合うのだが...。 . ※御殿場: この地名は元和二年 (1617) に没した徳川家康の遺骸を 久能山東照宮から 日光東照宮 に遷す際に 「仮に安置する御殿を建てた場」 を設けたのが発祥で足柄峠を越えて日光を目指したらしい。念のため 家康の柩の搬送ルート (参考サイト) を確認してみた。 .. 久成寺 (くじょうじ) 寺伝に拠れば普両庵の創建は光親死没と同じ承久三年、これは光親の菩提を弔うため創建したのだろう。日蓮宗に改めたのは南北朝時代の暦応元年 (1338) 9月、鎌倉幕府滅亡から 5年後で日蓮没後からは60年近くが過ぎている。 . 改宗した際の開山和尚は 北山本門寺 ( (公式サイト) ) を開いた日興上人に師事した日済、同じ富士宮の 西山本門寺 (サイト内、別窓) とは同じ法華宗ながら宗派を別にする巨刹である。 |
. . 86代 後堀河天皇 . 上皇は不在 |
. 7月13日 乙未 . 吾妻鏡 |
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後鳥羽上皇が鳥羽離宮から隠岐国に遷御された。 甲冑姿の武士が御輿の前後を囲み、供は女房三人と内蔵頭清範入道だが清範入道は途中から急に呼び戻され、施薬院使長成入道と左衛門尉能茂入道が供に加わった。 . 今日、入道中納言宗行が駿河国の浮嶋原※を通る際に泣きながら歩く荷物運びの疋夫に行き逢った。 話を聞いてみると按察卿 葉室光親の従者で、昨日斬首された主人の遺骨を拾って帰洛する途中である。 . 京都を出た時から死罪になるとは思っていたが、同じ境遇だった按察卿の最期を知って死を待つだけの思いを改めて噛みしめた。黄瀬河※の宿に休息した際に筆と硯があったので傍らに和歌を書き付けた。 . けふすぐる 身をうき嶋の 原にてぞ 露の道とは きヽさだめつる . 菊河の駅では優れた漢詩を残して後世に詠み伝えられ、黄瀬河では和歌を詠じて一時の愁いを散じた。 . . ※浮嶋原: 富士山南麓の湿地帯 (地図) 。約1.5km東には阿野全成の館跡 大泉寺がある。当時の 東海道の本道は現在の沼津千本松原を通っていたと思われるが (維盛の墓と六代松碑を参照)、サブとして大泉寺ルートも頻繁に使われていた、らしい。 .※黄瀬河: 狩野川と黄瀬川の合流点に近い宿駅。近くには富士川合戦の直後に奥州平泉から駆 . |
. . 86代 後堀河天皇 . 上皇は不在 |
. 7月14日 丙申 . 吾妻鏡 |
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藍澤原※で黄門 (中納言) 藤原宗行は護送の役に任じた 小山朝長の手で斬首となった。年令は47歳、読経を続けつつ最期の時を迎えた。 . .
※藍澤原: 足柄峠の西麓、御殿場駅に近い藍沢五卿神社が
が宗行斬首の地 (地図) だ。社殿左手に墓の痕跡と思われる小さな塚の上に石碑が建っている。 .. 五卿とは、7月5日に遠山荘で斬られた一条信能卿、7月12日に加古坂で斬られた藤原光親卿、7月14日に藍澤原で斬られた藤原宗行卿、7月18日に足柄峠東麓で入水した藤原範茂卿、7月29日に甲斐稲積庄で斬られた源有雅卿の五人を弔って合祈した社である事を示している。 . 右は御殿場市新橋の五卿神社。 画像をクリック→ 五卿神社の明細 (別窓) へ |
. . 86代 後堀河天皇 . 上皇は不在 |
. 7月18日 庚子 . 吾妻鏡 |
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式部丞 北條朝時の預かりとして鎌倉に向っていた甲斐宰相中将 源 (藤原) 範茂※は足柄山の麓※で早河の底に沈められて没した。 「五躰不具では成仏に支障あり」 として水死を望んだ結果である。 . . ※源範茂: 範茂は後鳥羽上皇の寵臣であり、4姉の重子 (修明門院) が産んだ順徳天皇の近臣でも あった。鎌倉幕府に対してやや批判的な立場だった父の影響に加えて、後鳥羽と順徳が幕府打倒を計画して承久の乱を起したのだから、範茂 (享年は37) が積極的に関与したのはごく自然な結論である。 .懐疑的だった 葉室光親に比べると、むしろ積極的に倒幕計画に加わっていた。 .
範茂の正妻は 平知盛の娘 中納言局。治承五年 (1181) 生まれの彼女は寿永三年 (1184) 2月に一ノ谷の合戦で同母兄の知章を討たれ、翌年3月には壇ノ浦で父の知盛を失ったが、母と共に生き延びて都に戻っていた。
. 承久の乱では当時16歳の嫡子範継も参加していたが彼は 泰時の配慮で死罪を免れている。 ※承久記: 甲斐宰相中将 (源範茂) は式部丞北條朝時と共に 下向し、「五体不具の者は往生に支障あり、入水を」 と申し出た。 .朝時は「どの様にも計らいましょう」として籠を組み石を積んでその上に据え、左右の膝を縛り付けて淵に沈めた。 ※足柄山の麓: 南足柄市怒田 (地図) の史跡公園にある宝篋印塔が範茂卿の墓。 早河は現在の貝沢川で、深みを作るために川を堰き止め袂 (たもと) に石を入れて入水した。哀れに思った朝時主従が北の高台に葬ったとの伝承が残っている。 右画像をクリック→ 別窓の史跡公園へ。 .. 辞世 思いきや 苔の下水 せきとめて 月ならぬ身の やどるべきとは |
. . 86代 後堀河天皇 . 上皇は不在 |
. 7月20日 壬寅 . 吾妻鏡 |
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新院 (順徳上皇) が佐渡国に遷御。花山院少将 一條能氏朝臣、左兵衛佐範経、北面の武士左衛門大夫康光が供奉し、女房二人が同様に付き添った。国母 (順徳の生母 修明門院 藤原重子) 、中宮の東一條院 (九条立子) 、一品宮 (諦子内親王 (明義門院) か?) 、前帝の仲恭 (九条廃帝、全てWiki)らは別離の嘆きを交わす他になす術なし。 . 羽林 花山院能氏は体調が優れず途中で帰京、武衛 (左兵衛佐範経) も重病のため越後国の寺泊浦※に留まった。両院 (後鳥羽と土御門) も臣下たちも二度と会えない別離と思い、悲しみは尽きなかった。 . . ※寺泊浦: 新潟港の50km手前、一時期の買い物ツァーで人気の高かった寺泊港 (地図) 。 佐渡流罪の出航地は正確には判らないが現在のフェリーターミナル近辺だと思う。 .
※順徳上皇: 温和な兄の土御門天皇より性格が強く、父の
後鳥羽上皇の強い期待を受けて皇位に就き、更に挙兵に備え退位して上皇となっていた。 .. 新院となった順徳は流刑地の佐渡で21年間を過ごした後の仁治三年 (1242) ※に真輪寺の阿弥陀堂 (現在の真野宮) で崩御した。 . 佐渡の伝承は 「京に戻れる望みがないなら存命しても意味なし」 として自殺に近い最期だった、と伝えている。 . 父の後鳥羽上皇がその三年前の延応元年 (1239) 2月に隠岐で崩御、その影響もあったか。順徳の亡骸は荼毘に付され、遺骨は阿弥陀堂東に松と桜を植えて葬られた。後に真野御陵として整備され現在は宮内庁の管理下にある。 . 陵は佐渡市真野461 (地図) 。遺骨は翌年に掘り出されて都に運ばれ大原の後鳥羽院陵近くに改葬された。右上は順徳の真野御陵 クリック→ 別窓で拡大表示 ※仁治三年: この年6月15日には三代執権 泰時も死没するが、吾妻鏡にはこの年の記事がない。 何か意味があるのか、それとも単なる偶然の散逸あるいは脱落か。 . |
. . 86代 後堀河天皇 . 上皇は不在 |
. 7月24日 丁未 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 . 上皇は不在 |
. 7月25日 戊申 . 吾妻鏡 |
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冷泉宮 (後鳥羽の皇子) を備前国豊岡庄児嶋に遷した。佐々木太郎信実法師 (加地信実7) が武州泰時の命令を受け、子息に警護と護送を担当させた。またこの日、阿波宰相中将信成と右大弁光俊朝臣が流刑地に出発した。 . .
※親王の消息: 雅成親王は 嘉禄二年 (1226) に配流地で出家され、
後鳥羽上皇の崩御後に赦免されて寛元二年(1224) 以後は京で生母の修明門院と暮らしている。 .. その二年後に 九条道家が息子の四代将軍 藤原頼経と協力して後嵯峨天皇を廃し雅成親王を次期天皇に擁立する動きを見せた (頼経は寛元二年 (1244) に退位し、息子の 頼嗣が五代将軍を継承した)。 . その結果、執権 時頼の圧力を受けた道家は失脚、頼経は京へ送還され※、雅成親王も再び但馬国に送り返され建長七年 (1255) に配流地で死没する。 . 備前国の豊岡庄児嶋に流された 異母弟の頼仁親王も文永元年 (1264) に配流地で死没している。 . 南朝の忠臣で 後醍醐天皇に尽くした 児島高徳※ (Wiki) は頼仁親王の子孫と主張する説もあるのだが信頼性は乏しいらしい。 親王の遺恨を継いで鎌倉幕府打倒に尽力した展開になるから話としてはそれなりに面白いのだが...。 ※頼経送還: 後に 三浦一門を継承した 三浦泰村は四代将軍 頼経との関係を深めて発言力を伸ば し、更に弟の 光村は五代将軍 頼嗣との関係を強化して幕政への関与を求めた。
.. 頼経の送還には三浦氏の勢力拡大を抑える執権 北條時頼の意図があり、これによって深まった両者の溝が宝治元年 (1247) に全面衝突して三浦一族が滅亡に至る引き金になる。承久の乱で怨みを残しつつ死んだ 三浦胤義の怨念、かも知れない。 ※児島高徳: 太平記のみに記載され他の史料では (太平記からの引用以外は) 確認できないため 実在は疑問視されている人物。桜の幹を削って後醍醐天皇への忠誠を誓い零落の境遇を励ます漢詩を記した逸話から、戦前は忠臣の鏡とされていた (右画像) 。 .画像をクリック→ 高徳が隠棲した (と伝わる) 高徳寺のレポート (別窓) へ。 . 太平記の編者として実在する人物の小島法師がモデル、あるいは児島高徳の存在自体が小島法師のフィクション、と考える説もある。 . 備前国児島郡 (倉敷市周辺) 出身の武士で、後醍醐天皇が隠岐を脱出して挙兵した際から参戦し数々の功績を挙げたとされているのだが倒幕に成功した後の論功行賞記録には高徳の名は存在しない。後醍醐が彼の存在を忘れたのか(笑)。 . 新田荘に近い群馬県大泉町には児島高徳の墓所がある。実在以上に眉唾みたいな気もするが、上州新田荘の伝承では 新田義貞の実弟で同じく後醍醐の忠臣として転戦した義助の息子 義治と共に戦ったと伝わるから、荒唐無稽とも言えない、かも知れない。 |
. . 86代 後堀河天皇 . 上皇は不在 |
. 7月26日 己酉 . 吾妻鏡 |
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幕府に於いて今回の合戦に関して勲功の賞および畿内西国の守護職など※についての任命が行われた。 . . ※守護職など:7月24日に記載の常陸房昌明の但馬国守護着任はこの日の正式発令か。. 確認できる範囲では、 .. 越前国が大内惟信→ 島津忠久、 若狭国が津々見忠季→ 島津忠時、 近江国が佐々木広綱→ 佐々木信綱、 伊賀国が大内惟信→ 不明、 長門国が惟信→ 北條時房、紀伊国が後鳥羽→ 三浦義村、 和泉国が後鳥羽→ 逸見氏、播磨国が後藤基清→ 小山朝政、 備前国が佐々木広綱?→ 佐々木信実、 石見国が佐々木広綱→ 小鹿島公業、 淡路国が佐々木経高→ 長沼宗政、阿波国が佐々木高重→ 小笠原長清、など。 |
. . 86代 後堀河天皇 . 上皇は不在 |
. 7月27日 庚戌 . 吾妻鏡 |
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後鳥羽上皇が出雲国大浜湊※に到着し乗船。警護の武士は概ねここから帰京した。 上皇は御歌を七條院 (後鳥羽上皇の生母) と修明門院 (寵妃で女院、共に同行は許されず) らに贈った。 . たらちめの きえやらでまつ 露の身を 風よりさきに いかでとはまし しるらめや うきめをみほの 浦千鳥 なくなくしほる 袖のけしきを . .
※大浜湊: 13日に都を離れた 後鳥羽上皇は14日を費やして
隠岐に渡る風待ちの大浜湊 (今の美保関、地図)に着いた。出航を待つ御座所は美保の真言宗の古刹である三明院、天正年間 (1573〜1592年、織田信長の頃) に改宗して現在は浄土宗の 竜海山仏谷寺 (宗派の公式サイト) となっている。 .. 隠岐島までの距離は直線にして60km、当時でも1日の船旅に過ぎないが、順風を待つ必要があって隠岐島に到着したのは8日後になった。 . 上皇は出航の前に和歌を詠み、ここから都に帰る者に託している。 . われこそは 新島守よ 沖の海の 荒き波風 こころして吹け . つい半月前には上洛した鎌倉武士を恐れて協力した公家や在京御家人の追討令を出した愚物が何を偉そうに、なんて書くと戦前なら不敬罪だ。罰金を取られたら不経済ってか (笑) 。隠岐での暮らしなどに関しては 後鳥羽院資料館のサイト も参考に。 |
. . 86代 後堀河天皇 . 上皇は不在 |
. 7月29日 壬子 . 吾妻鏡 |
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入道二位兵衛督 源有雅※ (先月出家、46歳) が 小笠原次郎長清の預かりとして甲斐の国に下着した。 . 多少の縁がある二品禅尼 尼将軍政子に助命を嘆願し、返事が来るまで暫く待つように願ったが長清は許さず、当国の稲積庄小瀬村で斬首した。その後に刑を免除するとの二品の書状が届いたが間に合わず、急ぎ過ぎての決断は恨みを残すものであった。 . .
※源有雅: 宮廷歌謡を司る家柄、堂上楽家 「郢曲源家」 の嫡
流で父は宇多源氏の通家、母は伊予守藤原信経 (紫式部の従兄) の娘で崇徳天皇の中宮 皇嘉門院 (摂政藤原忠通の娘) の雑仕女を務めた真木屋。 .. 従二位権中納言 藤原範光の娘で順徳天皇の乳母を務めた憲子を娶って出世を重ね、後鳥羽上皇の側近として建暦二年 (1212) には権中納言に昇進していた。 . 軍事経験が皆無なのに官軍を率いて宇治に出陣して惨敗、実務能力には乏しかったのだろう。吾妻鏡は 「二品禅尼 政子と聊かの因縁あり」 と書いているが、接点の内容は不明である。政子上洛の際の交流か、実朝を介しての知己か、実朝の妻だった 坊門信子にでも頼ったか。 ※処刑の猶予: 有雅を葬った場所から200mほど南に「有雅幽閉の地(浄福廃寺跡)」と伝わる 場所があり、暫くの猶予があった可能性も考えられる。 .右上は有雅の供養塔。画像をクリック→墓所の詳細(別窓)へ . |
. . 86代 後堀河天皇 . 上皇は不在 |
. 8月 1日 壬子 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 大納言 坊門忠信卿が遠江国舞沢※から京都に戻った。彼は今回の合戦で (官軍の) 大将軍に任じ、千葉介胤綱 (6月25日の記載を参照) 預かりとして下向の途上にあった。しかし右府将軍 実朝の正室だった忠信卿の妹 西八條禅尼 信子から二品禅尼 政子への申し入れもあり、その罪を減じた結果である。 . . ※遠江国舞沢:六代勝事記 (鎌倉前期編纂の歴史物語) は「はまなの橋よりぞかへりにし」と記述。 現在の浜松市西区舞阪町の観音堂跡一帯 (地図) に舞沢の地名が残り、江戸時代には浜名川を挟んで東側が舞阪宿、西側が新居宿 (昔日の橋本驛) に分かれていた。 .. 現在の地形は大きく変ったが元慶八年 (884) 改修の浜名橋は 長さ56丈 (166.9m) 、巾13尺 (3.9m) で高さ16尺 (4.8m) と記録されている。架橋の場所や当時の地形などは こちらのサイト に詳細説明が載っている。 |
. . 86代 後堀河天皇 . 上皇は不在 |
. 8月 2日 癸丑 . 吾妻鏡 |
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大監物 源光行※は清久五郎行盛※に連行され鎌倉に下向し今日巳刻 (10時前後) に金洗沢※に着いた。 行盛は子息 太郎を派遣して前右京兆 北條義時に処分を問い合わせ 「その場で処刑せよ」 と命じられた。 関東から様々の恩沢を受けながら東国御家人の名簿を提出、更に宣旨に添え書きするなど罪科は重篤である。光行の嫡男 源民部大夫親行※は鎌倉で功績を重ねた者で、涙を流して死罪の減刑を願ったが許容されず、更に伊豫中将 一条実雅に頼み込んで遂に助命が認められた。 . 親行は金洗沢に駆け付けて父の命を救い、左衛門尉 小山朝政から引き渡された。光行は平家に与した父 豊前守光秀の助命を 頼朝に懇願して許された事があり、その善行が息子の助けを招いたのだろう。 . 今日の夕刻、陸奥六郎 北條有時など (合戦に伴って) 上洛していた多くの御家人が鎌倉に帰還した。 . . ※光行の減刑: 他の公卿などはごく簡単に斬首されたのに、光行は特例の扱いを受けている。 光行親子が二代の将軍 (頼朝と実朝) に仕えた関係か、「後鳥羽に味方したのは弟の光時で、兄の光行は鎌倉側に加わっていた」との異説もあり、どれが正しいのか判らない。 .※清久行盛: 清久郷 (現在の埼玉県久喜市清久 (地図) を本拠とした藤原秀郷流の御家人。 6月18日の宇治川合戦で敵の二人を討ち取ったとの記載がある。 .
※金洗沢: 腰越の1.5km東、江ノ電 七里ヶ浜駅付近。
平家物語異本では鎌倉に入ろうとした 九郎義経は金洗沢の関所で 頼朝の命令を受けた 梶原景時に阻止され腰越に追い返されたと書いてある。 .. また五代執権 時頼 の頃 (1250年頃か) の相州の刀工 五郎政宗 (Wiki) は金洗沢の砂鉄を鍛錬して作刀した、との話も伝わっている。 . 鎌倉に入った 日蓮が 忍性と雨乞いの祈りを競った池 (参考サイト) も近い (地図) 。 . 砂浜と江ノ電に沿って走る国道134号に架かるのが 「行合橋」 、龍ノ口刑場での日蓮斬首刑が江ノ島の方向から差した強烈な光のため執行できず、それを幕府に報告する使者と 赦免を知らせる幕府の役人がここで出会った偶然から金洗沢は行合川、橋を行合橋と呼ぶようになったと伝わる。 ※源親行: 政所別当だった父の光行と交替する形で鎌倉に下向し 実朝、藤原頼経、宗尊親王の 将軍三代に仕えて和歌奉行に任じていた人物。 . |
. . 86代 後堀河天皇 . 上皇は不在 |
. 8月 3日 甲寅 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 . 上皇は不在 |
. 8月 5日 丙辰 . 吾妻鏡 |
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後鳥羽上皇は隠岐国阿摩郡の刈田郷※に着御した。仙宮 (上皇の御所) の様子は今までの翠帳紅閨 (煌びやかな宮殿の比喩) が柴扉桑門 (粗末な住居の比喩) に変ってしまった。雲海と波濤が続く僻地である。 都を離れた悲しみが上皇の心を悩ますばかりだった。 . . ※吾妻鏡の記録: 暦仁二年 (1239) 3月15日、六波羅の使者が鎌倉に到着して報告。 去る2月22日、隠岐遠島の法皇が崩御 (60歳) 。25日に葬り奉った、と。 .
※刈田郷御所: 正確な場所は不明だが 火葬塚 (隠岐海士町
陵) のある海士町の周辺 (地図) で、地元の伝承に拠れば... .. 「元は隠岐神社の北側にあった源福寺が行在所だったが明治初期の廃仏毀釈運動に伴って現在地に移転した 」 と伝わっている。 . 配流から18年後の延応元年 (1239) 2月に崩御した上皇は荼毘に付されて火葬塚に葬られ、遺骨の一部が京都大原に埋葬された。 . また明治維新になって上皇の御霊は都に遷すべきだとの議論が起こり、陵墓を掘り返して正式に遺灰を運んだという。 右上は火葬骨を葬った隠岐海士町陵 クリック→ 拡大表示。 . 実際には只の土だったとか、後に廃仏毀釈運動で寺を取り壊した際に墓を掘ったら三重に封印した甕が出た、中間の青磁の壷の中は明らかに周辺と異なる土で更に最下層の壷の中は確認せず埋め戻したとか、そんな話も伝わっている。 . 明治政府は「上皇は大原陵に遷したのだから火葬塚などは破却せよ」と命じたが、島民は陵墓を大切に保存し守り続けたらしい。 . 仁治二年 (1241) に建てた法華堂は享保二十一年 (1736) に焼失、安永七年 (1778) に再建して落慶法要が行われた。明治になって大原陵 (後鳥羽と順徳の合葬) を築造し、法華堂にあった遺骨は陵墓に遷されている。 右下は京都大原の法華堂 画像をクリック→ 拡大表示 .
当時の出雲と隠岐の守護は 佐々木義清。佐々木四兄弟 (生母は 源為義の娘) から見ると異母弟 (生母は渋谷重国の娘) に当る。 . 義清は承久の乱での功績により守護として下向し 嘉禄元年 (1225) に出雲守、安貞元年 (1227) に隠岐守を兼任している。 . 元々は近江源氏で朝廷とも縁の深かった武士だから流刑地の後鳥羽上皇にとって地獄に仏の様な存在だった。更に在地の土豪 村上氏も義清の意向を受けて衣食住に最大限の配慮を尽したらしい。 . もちろん愚痴を言えばきりがないし多くの臣下が落命したのを考えれば当然過ぎる帰結なのだが、贅沢三昧に加えて我侭放題に暮らした人物に彼らを思い遣る心などは皆無、ただ我が身の不遇を嘆くばかりだった。 . ちなみに、この村上氏一族は後鳥羽上皇の火葬塚を明治維新まで守り続けたとと伝わっている。 |
. . 86代 後堀河天皇 . 上皇は不在 |
. 8月 6日 丁巳 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 . 上皇は不在 |
. 8月 7日 戊午 . 吾妻鏡 |
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(合戦および事後処理が終わって) 世の中が静謐となり、二品禅尼 政子の夢想 (3月22日の記事、「夢の中で、伊勢神宮の神が言った。「自分を重用すれば太平を得る」 との泰時の言葉を聞いた」 と。) に符合する結果となった※。この結果に感謝する目的で、所領を二所大神宮 (伊勢神宮) に寄進した。 . 内宮には後院 (土御門) 領の伊勢国安楽村※と井後村、外宮には同領の葉若と西園両村である。祭主神祇大副隆宗朝臣に処理を委ねるため藤原朝定が寄進状を携えて使節を務めた。 . その他の諸社にも同様の寄進が行われた。鶴岡八幡宮には武蔵国の矢古宇郷※ (五十余町) の管理権を、諏方宮 (諏訪大社) には越前国の宇津目保※を寄進した。叛逆に関与した公卿、殿上人、御家人の所領についての明細を武州 北條泰時に書き出させた結果は約3000ヶ所を数えた。 . 二品禅尼はこの没収地を合戦での勲功に応じて御家人に分与したが、差配した右京兆 北條義時)※は針を立てるほどの土地も得ようとせず、人々はこれを美談とした。 . . ※神託に符合: 政子も義時も、自分の決裁に神仏の合意を加えている。独裁者は常に不安だ。 . ※伊勢神宮に: 安楽村は三重県亀山市安坂山町一帯 (地図) 、井後村は亀山市井尻町一帯 (地図) . ※矢古宇郷: 現在の埼玉県草加市栄町の一帯。矢古宇橋 (地図) などの名前が残っている。 . ※宇津目保: 現在の福井県丹生郡越前町宇須尾の一帯。長岡神社 (地図) が鎮守だったらしい。 . ※義時の無欲: 今更遠隔地に新たな領地を得るよりも御家人に分与する方がメリットが大きい と判断しただけの話。こんな北條贔屓を重ねるから吾妻鏡は史料としての信憑性を疑われる。 . |
. . 86代 後堀河天皇 . 上皇は不在 |
. 8月 9日 庚申 . 吾妻鏡 |
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丑刻 (深夜2時前後) 、問註所散位従五位下 三善朝臣康信法師※法名善信 が死没、81歳。 . . ※三善康信: 治承四年 (1180) の挙兵前から京の情勢を頼朝に伝えた最古参の文官。 合掌... . |
. . 86代 後堀河天皇 . 上皇は不在 |
. 8月10日 辛酉 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 法橋昌明※は幕下将軍 頼朝の時代に功績を挙げ、今回の戦乱勃発 (5月15日の記事) に際して 後鳥羽上皇から参加の勅喚があっても断固として鎌倉に背こうとしなかった。 . これは既に二品禅尼 政子の耳に届いており、まだ昌明からの報告は届かないうちに但馬国 (兵庫県北部。南部は播磨) 守護職への補任と庄園などを与える下文を先月中に発行 (7月24日の記事) した。 これと入れ違いに実績を報告した同月23日付けの書状が届き、二品禅尼を感嘆させた。 . 去る5月15日の洛中合戦 (勅命を受けた官兵が京都守護 伊賀光季親子を追討した事件) の後に軍勢の参加を命じる院宣が但馬国の昌明邸にも届けられた。 昌明はその使者五人の首を斬り、院方に加わろうとした国内の軍兵の襲撃を受けたが防戦した後に深山に籠り、武州 北條泰時の上洛を確認してから駆け付けた。 . 「朝廷軍と鎌倉軍の合戦に当たり、命令を受けて上洛を目指した者の多くが矢を受け、或いは水死 したのは戦場の常である。しかし勝敗の帰趨さえ判らない時に (参入を命じた) 院の使者を斬ったのは関東を重く考えている姿勢が明らかで、他とは異なる勲功である。」 .北條義時はそのように判断した。 . ※法橋昌明: 7月24日に相州時房と武州泰時の命を受け六條宮 (後鳥羽院の皇子) を但馬国に遷し た。前の守護は官軍に与した安達親長、この時点で但馬守護に補任されていた、と思われる。 . |
. . 86代 後堀河天皇 . 上皇は不在 |
. 8月15日 丙寅 . 吾妻鏡 |
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合戦によって天下に穢 (けがれ。読みは「あい」) が満ちており、鶴岡八幡宮に於ける恒例の放生会は延期となった。また、祈祷などによる功績で僧および陰陽師の多くが恩沢を得た。
. . ※承久記8月16日: 持明院宮 (後鳥羽の同母兄で後堀河天皇の父) は異例の太上天皇号 (譲位後の 天皇) を奉られ治天の君となったのは目出度いことである。 .※持明院宮: 後鳥羽の同母兄で、壇ノ浦で没した 安徳天皇 の異母弟 守貞親王。壇ノ浦で救出さ れた時には既に後白河の独断で後鳥羽が帝位に就き、約2年が過ぎていた。 .. つまり後鳥羽は 「後白河の院宣を受け 先帝 (安徳) の退位も譲位もなく、践祚 (帝位継承) に必要な三種の神器もないまま着位」した。 . このコンプレックスが後鳥羽の心に深い影を落とし、強引な実績を求めた結果として承久の乱を引き起こす遠因になった、とされる。 経緯の詳細は本年7月8日からの吾妻鏡で。 |
. . 86代 後堀河天皇 持明院法皇 |
. 8月23日 甲戌 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 持明院法皇 |
. 9月10日 壬辰 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 叛逆者の処分に関して追加の沙汰が下された。 刑部僧正長賢 (後鳥羽上皇の護持僧) は陸奥国配流、賀茂禰宣大夫は甲斐国配流、同神主は鎮西配流※。先月22日に権中納言定高卿が出向いて官符を受け取ってきた。 . . ※配流の人々: 全て院側で祈祷に任じた僧と神官。 . |
. . 86代 後堀河天皇 持明院法皇 |
. 9月15日 丙申 . 吾妻鏡 |
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鶴岡八幡宮で放生会を開催した。合戦によって天下が大きく穢れたため延期された神事の挙行である。 . |
. . 86代 後堀河天皇 持明院法皇 |
. 9月16日 丁酉 . 吾妻鏡 |
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馬場での (流鏑馬など) 神事は通例通り催され、右京兆 北條義時が奉幣を行なった。神事の後に (今回の合戦で) 軍忠を挙げた者への沙汰と右京兆からの感状発行があった。勲功の明細に従う措置である。 .. また高陽院殿 (4月17日の記事を参照) を警護するよう畿内の御家人に指示を下し、今日六波羅で当番の順序を定めた、と。 |
. . 86代 後堀河天皇 持明院法皇 |
. 9月17日 戊戌 . 吾妻鏡 |
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六波羅の使者が到着して報告。去る9日夜半に大炊殿※が焼亡し法皇は賀陽院※に遷幸、放火である。 . . ※大炊殿: 内裏の厨房を示すらしい。賀陽院は高陽院殿 (4月17日の記事を参照) に同じ。 . |
. . 86代 後堀河天皇 持明院法皇 |
. 9月29日 庚戌 . 吾妻鏡 |
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大蔵卿僧都定雅 (教雅を改名) が師範である 定豪法印から譲られて鶴岡八幡宮寺の別当職※に補任、今日赴任を報告する神拝を行なった。 . ※八幡宮寺別当: 圓暁−尊暁−帝暁−公暁−慶幸−定豪−定雅−定親・・・と続く。 . |
. . 86代 後堀河天皇 持明院法皇 |
. 10月 2日 壬子 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 戌刻 (20時前後) に地震あり。 |
. . 86代 後堀河天皇 持明院法皇 |
. 10月12日 壬戌 . 吾妻鏡 |
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六波羅からの飛脚が到着して次の通り報告。 . 先月25日、今回の合戦の張本人 能登守 足利秀康と 河内判官 藤原秀澄が南都 (広義は奈良、狭義は興福寺と東大寺) に隠れているとの情報があり、相州 北條時房の立案で家人を派遣し搜索させた。 .. 両人は既に逃げ去っていたが衆徒は夜討ちと勘違いして取り囲み合戦となって衆寡敵せず、大部分が討ち取られた。僅かに残った僕童3人が六波羅に逃げ帰って事件の経緯を報告、相州と武州 北條泰時)は協議して翌 26日午刻 (正午前後) に在京と近国の武士数千騎を率いて南都に兵を進めた。 . これを聞いて狼狽した衆徒は木津川近く※まで出向き、まず使者を介して「軍兵が南都に入れば、平家が (東大寺と興福寺の) 伽藍を焼き払った時と同じになってしまいます。今回の犯人らは必ず捕らえて引き渡しますので御猶予を」と懇願したため、猶予を与えて帰洛した。 .
そして今月2日に南都から秀康の後見人が六波羅に渡された。また3日夜半に殿下 (太政大臣近衛家実 (基通の嫡子) 邸と右幕下 (右大将西園寺実氏、公経の嫡子) 邸が焼け落ちたt (放火) 。 . 前殿下 (前太政大臣 九条道家)邸も同時に放火されたが、これは消し止めた。叛逆の余韻は未だに続いている。 . ※木津川近く: 山城国 (京都府南部) と大和国 (奈良) を結ん で幾多の歴史を彩った奈良街道 (奈良からだと京街道) の国境だったのが木津川 (地図) である。約 5km南には元暦元年 (1184) 6月に斬首された 平重衡を埋葬したと伝わる塚がある。 右画像をクリック→ 別窓で拡大表示 .. 川を渡って7km北の旧道沿いには治承四年 (1180) 5月に追討された 以仁王終焉の地、阿弥陀寺と 高倉神社 (木津川市観光ガイド、地図) がある。 |
. . 86代 後堀河天皇 持明院法皇 |
. 10月13日 癸亥 . 吾妻鏡 |
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洛中の警固および叛逆に与した者の罪科についての決裁があり、六波羅からの使者を呼んで具体的に指示を与えた。担当は進士判官代隆邦である。 . 武州 北條泰時は京都に新しく塔舎を草創した。関東の若公 三寅 (後の四代将軍 藤原頼経)と二品禅尼 政子の息災を祈り、更には今回の合戦で落命した人々の菩提を弔うためである。 今日 青蓮院宮※ (公式サイト) に申し入れ、門徒の中で叛逆に関与しなかった僧による唱導を求めた。 . . ※青蓮院宮: 粟田口にある天台宗の門跡寺院。創建は久安六年 (1150) 、開山は最澄。 . ※北條九代記: 武州泰時は二品 (政子) の健康を祈って東山高橋南の近くに塔舎を建立し、今日 供養を遂げた。この塔は大阿闍梨眞性僧正が二十日間で建造した事から二十日塔と呼ばれた。 . |
. . 86代 後堀河天皇 持明院法皇 |
. 10月16日 丙寅 . 吾妻鏡 |
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六波羅からの飛脚が到着して次の通り報告した。 .. . 今回の戦乱の根源は彼らの謀略から始まったものであり、その罪科には責めても余りある重さがある。 |
. . 86代 後堀河天皇 持明院法皇 |
. 10月23日 癸酉 . 吾妻鏡 |
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当時の陰暦では季節感の差を埋めるため 3〜4年に一度閏 (うるう) 月が入る (今年は 6月の次が閏 6月) 。西暦と陰暦には一ヶ月弱のズレがある事にも留意が必要、例えば頼朝が挙兵した治承四年 8月4日は西暦では 8月25日になる。また、2月は30日まであることも頭に入れておこう。 .陰暦→ 西暦の確認や変換は こちらのサイトが利用できる。 | ||
. . 86代 後堀河天皇 持明院法皇 |
. 閏10月 1日 辛巳 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 弁法印 (僧の官位) 定豪が刑部僧正長賢の跡を継いで熊野三山の検校職 (運営を監督する役職名) に補任された。関東の合戦勝利を祈祷した褒賞として推挙した結果である。暫くは軽服※ によって蟄居していたが既に日数が過ぎ、今日 右京兆 北條義時に拝謁して推挙についての礼を述べた。 . . ※軽服: 遠縁の死没に伴う軽い服喪。父母の服喪の場合は対語の 「重服」 を使う。 . |
. . 86代 後堀河天皇 持明院法皇 |
. 閏10月10日 庚寅 . 吾妻鏡 |
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土御門上皇※が土佐国に遷幸し、後に阿波国に移った。女房四人と少将雅具、侍従の俊平らが従った。穏やかな性格の上皇だったが 後鳥羽上皇の叡慮に殉じて南海に遷る結果となった。 . 天照大神から第85代の現在に至るまで、三人の帝と二人の親王が配流の恥辱を受けるなど誰が想像しただろうか。 . .
※土御門上皇: 三歳で後鳥羽天皇を継いだ第83代天皇。
長男 土御門の温和な性格が不満だった後鳥羽は承元四年 (1210) に退位を強制し、異母弟の順徳 (14歳) に譲位させた。
.. 承久の乱には全く関与してなかったため処分対象には含まれなかったが、父が隠岐島遠流で自分が何の不足もなく京で暮らすのは耐え難いと願ったため土佐に流された。 . 後に鎌倉幕府の配慮を受け、多少とも都に近い阿波国 (徳島県) に遷った。現在の鳴門市大麻町大谷 (地図) 、現在も火葬塚が残っている場所である。(右画像、クリック→ 別窓で拡大表示) . 優れた廷臣だった 藤原光親と同様に承久の乱で不本意な運命を辿った一人だ。 土御門上皇は配流11年後の寛喜三年 (1231年、35歳)に配流地で崩御。火葬塚に葬られ、後に長岡京市金ケ原の金原陵 (地図) に改葬された。 . 天福三年 (1233) に生母の承明門院が建てた法華堂の落慶供養が行われた記録があるから、改葬までの期間は比較的短かった。 |
. . 86代 後堀河天皇 持明院法皇 |
. 閏10月29日 己酉 . 吾妻鏡 |
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日吉社 (現在の 日吉神社、公式サイト) 祢宜の祝部成茂は今回の叛逆に与した疑いがあって関東に呼び出したのだが許されて帰洛し、左衛門尉 伊賀次郎光宗を介して礼状を右京兆 北條義時に送った。その状が今日鎌倉に届き、厚免を得た喜びと併せて武家の繁栄が続くよう祈る旨が記載してあった。 . 祝部成茂は左衛門尉 筑後知重が預かった囚人として神社を出てから起居のたびに状況を嘆いて祈りを繰り返し日吉七社※に向いて一首の和歌を詠んだ。 . すてはてず ちりにまじはる かげそはば 神もたひねの 床や露けき . 鎌倉に下着した翌日の夜、義時の妻 伊賀の方の夢に鉄鎖を付けられた猿 (日吉神社の神使) が現れ、彼女の髪を掴んで手に巻きつけ怒りの気配を示した。夢から覚めても茫然とした状態が続き、女房を送って大官令禅門 大江広元に詳細を伝えた。 広元は特に驚き、「祝部成茂の罪を早く許すべきです。神道に関する事は人力の及ぶ範囲ではありません。」と義時に申し入れた。義時夫妻も共に日吉神社を信仰しており、「早く日吉社に戻って神事に務めるように。また今夜中の出発が望ましい。」と伝えるよう命じて餞別を手配した。 . . ※日吉七社: 日吉大社の本社、摂社、末社を併せた21社を上と中と下に七社ずつ分ける呼び名 で、特に上の七社 (大宮、二宮、聖真子、八王子、客人、十禅師、三宮) を差す。 . |
. . 86代 後堀河天皇 持明院法皇 |
. 11月 3日 壬子 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 右京兆 北條義時の室 伊賀の方に出産の気配あり。出産の穢などを配慮し場所を移した方が良いかどうかを陰陽師に問合わせたところ、権助国道朝臣ら五人が相談し、三条局※宅が望ましいとの結論を得た。現在の住居からは東、大倉亭からは乾(西南)の方角になる。 . 現在の住居は武州 北條泰時に譲った家だから、本来の住まいの大倉亭に一泊して、45日以内に産所に移れば支障がない事になる。伊賀四郎左衛門尉朝行※がこの件を差配する。 . . ※三条局: 御所の女房を務めた法橋範智の娘で 頼朝の母方の従姉妹 (範智=由良御前の兄祐範 か?)に当たるらしい。縫殿別当を務め、承久元年 (建保七年、1219年) 2月4日に公暁を後見していた備中阿闍梨邸と土地 (雪ノ下) を下賜されている。 「宝戒寺の東で義時大倉亭西南の雪ノ下、冷水が湧き出る土地」なら、この辺 (地図) か。 .※伊賀朝行: 系図には載っていないが 伊賀朝光の四男。実朝殺害事件直後の2月8日に次の記載 がある。 . (義時は) 先月27日の戌刻 (20時前後) に八幡宮に供奉した時、傍らにまるで夢の様に白い犬が見えてから急に気分が悪くなり、御剣役を源仲章朝臣に譲り、伊賀四郎朝行 (朝光の四男) だけを伴って退去した。 . |
. . 86代 後堀河天皇 持明院法皇 |
. 11月13日 壬戌 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 持明院法皇 |
. 11月23日 壬申 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 持明院法皇 |
. 12月 1日 庚辰 . 史 料 |
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7月9日に仲恭天皇が廃位となり同日に後堀河天皇が践祚 (せんそ、天子の位を受け継ぐこと) 、12月1日に86代 後堀河天皇として即位 (天子の位に就いた事を内外に示すこと) した。 . |
. . 86代 後堀河天皇 持明院法皇 |
. 12月 3日 壬午 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 讃岐中将 一条実雅※の室 (右京兆 北條義時の娘) が懐妊、大倉亭の廊下で身を清める千度祓を催した。主計大夫知輔、少輔大夫泰貞、陰陽大允親職、右京亮重宗、漏刻博士忠業 (各々衣冠を着す) が儀式を務め、進士判官代隆邦 (布衣) が陪膳 (食膳の給仕) を、工藤右馬允が手順を差配した。 . . ※一条実雅: 四代将軍 藤原頼経を廃して実雅の将軍擁立を画策した伊賀氏の変 (安貞二年、1228 年) で失脚するのだが、これは義時没後に伊賀一族排除を狙った政子の捏造と見るのが定説。政子は (義時の死没直後に) 義時の後妻とその兄弟と娘婿を配流し、娘は離縁させた。 .. これが義時の没後は 「義時の後妻一族を一人残らず排除したい」 ための冤罪計画なのだから強権を握ったまま年老いた偏屈女は恐ろしい。 結果として妻 (義時の娘) と離縁させられた実雅は4年後に流刑地越前で死没する。 |
. . 86代 後堀河天皇 持明院法皇 |
. 12月11日 庚寅 . 吾妻鏡 |
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. 7月18日 . 晴耕雨読 |
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暑さや雨のため昨日は収穫をサボった妻による今朝の収穫。右画像をクリック→ 別窓で拡大表示 . キュウリとナスは食べ切れないから半分を御近所さんに提供、トマトは米飯を減らして朝は全てパン食に切り替えた事もあって概ね食べ切っている、オクラは嫌いだから (私は) 食べない、シシトウの天ぷらは好き、インゲンは結構美味しい。 . キュウリはまだ暫くはこの程度の収穫が続く、ナスはあと10日くらい過ぎたら切り戻して秋ナスの収穫に...などの計画だ。 . 陽除け用を兼ねたキュウリのネットは、来年は 「小玉スイカ」 にしようか、と思っている。 リビングの前に 20cmほどのスイカが幾つもぶら下がってるなんて、素晴らしいじゃないの! . 園芸日誌を少し整理して 2025年10月の情報を載せた。左目次の 晴耕雨読 園芸日誌 でどうぞ。 . |
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. 11月07日 . 晴耕雨読 |
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読みにくいまま放置していた全ページのフォントサイズと行間を訂正している。殆どのページは概ね二日前後で済むのだが、記事量が特に多い承久三年は丸々四日を費やした。 .まぁ校正作業は一日三時間前後に限定しているからこんなものだろう、と思うが...疲れる。 |
. . 86代 後堀河天皇 持明院法皇 |
. 月 日 . 吾妻鏡 |
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. . 86代 後堀河天皇 持明院法皇 |
. 月 日 . 吾妻鏡 |
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