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承久二年 (1220年)
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西暦・天皇・上皇
和暦・月日・史料
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1220年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)

土御門は83代
後鳥羽は82代
の天皇.
承久二年
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1月11日 壬寅
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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(御所の) 対屋などの建築工事の明細が決まった。
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   ※対屋: 寝殿造りで寝殿の左右または背面に母屋と相対して建てた別棟。
渡り廊下で寝殿と結ぶ。前年9月22日の大火による被害の修復である。
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   ※年令: 三寅 (後の四代将軍頼経) 1/16で 2歳、
源実朝 前年 1/27死没 (享年26) 、 坊門信子 (実朝の正室) 33歳、 貞暁 33歳、
公暁 前年 1/27死没 (故 頼家の二男、享年18) 、
竹御所 (故 頼家の娘、後の四代将軍 藤原頼経の正室) 17歳、
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北條政子 62歳 、 北條義時 56歳 、 北條時房 44歳 、 北條泰時 36歳 、 北條朝時 26歳 、
北條重時 21歳 、
千葉胤綱 21歳 、 足利義氏 30歳 、 三浦義村 61歳前後 、 三浦泰村 16歳 、
安達景盛 49歳前後 、 大江広元 71歳 、
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84代 順徳天皇 22歳 、 土御門上皇 23歳 、 後鳥羽上皇 39歳 、
九条道家 26歳 、 坊門忠信 34歳、 近衛家実 41歳、 藤原定家 56歳、
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定豪 67歳、 慈円 64歳 、 親鸞 45歳 、 叡尊 18歳 、
        (全て1/1時点の満年令)
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安達景盛は生年不詳だが頼朝の伊豆配流 10年後に誕生と仮定して年齢を推定した。
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西暦1220年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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承久二年
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1月12日 癸卯
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吾妻鏡
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卯刻 (朝6時前後) に地震あり。
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西暦1220年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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承久二年
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1月14日 乙巳
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吾妻鏡
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亥刻 (22時前後) に相模守 北條時房の息子 次郎時村三郎資時が出家。時村は行念、資時は眞照を称した。突然の出来事なので人々はこれを怪しんだ。
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   ※出家: 時村はそのまま上洛し 親鸞に師事して幕政から去った。蹴鞠と和歌には長じていたが
政治的なセンスの欠如が指摘される。時村は幕臣に留まり 嘉禄三年 (1237) に評定衆、建長元年 (1249) に三番引付頭 (土地に関わる訴訟決裁の長) に任じた。
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二人の出家は家督争いからの脱落が原因らしく、最終的には五男 北條朝直が大仏流北條氏の家督を継承した (北條氏の系図を参照) 。
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承久元年には長男時盛が22歳 (生母は不詳) 、次男時村が21歳前後 (生母は 足立遠元の娘)、三男資時が19歳 (時村と同母) 、四男朝直が13歳 (時村と同母) 、五男 時直と六男 実政は幕臣として元寇の役を体験し、幕末近くまで騒乱の時代を生きぬいている。
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ただし年令面などの整合性が乏しく、系図の錯綜と誤記の可能性が指摘されている。
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   ※大仏流: 嫡男の朝直は深沢に屋敷を構えたと伝わる。
現在の深沢と言えばまず湘南モノレールを連想するが鎌倉時代には現在の長谷の一部まで深沢に含んでいたと推定される。
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元々の朝直邸は大仏切通し (現在の大仏隧道) の東側だった可能性を指摘する説もある。
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その後の大仏 (おさらぎ) 流北條氏の本拠は常盤邸跡 (地図) として保存されている。
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 右画像をクリック→ 文化遺産オンライン 北條氏常盤邸跡 を参照されたし。
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ちなみに、大仏がなぜ 「おさらぎ」 なのかは 諸説あって (Wiki) 、それなりに面白い。
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西暦1220年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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承久二年
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1月16日 丁未
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吾妻鏡
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丑刻 (深夜2時前後) に月が太微宮の中に入った。
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辰刻 (朝8時前後) に鶴岡八幡宮別当の三位僧都慶幸が死去した。去年8月21日に (公暁の後任として) 別当に任じてから間がないため、世間では 「一年別当」 と呼んだ。
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   ※太微宮: 獅子座 (Wiki) の西端を意味する。更なる意味は不明。
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西暦1220年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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承久二年
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1月21日 壬子
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吾妻鏡
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弁法印 定豪 (従来は勝長寿院の別当) を鶴岡八幡宮の別当職に、内大臣僧都 親慶を勝長寿院の別当職にそれぞれ補任した。
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西暦1220年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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承久二年
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1月29日 庚申
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吾妻鏡
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定豪法印が別当に任じてから初めて鶴岡八幡宮に神拝を行なった。夜になって窟堂の付近が火災となり進士判官代 工藤右衛門尉の家などが焼失した。
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   ※窟堂: 現在の小町通り入口から扇ヶ谷に抜ける小道 (窟小路) にある。この時代はまだ山の上
だった可能性が高い。画像などは 寿福禅寺の3枚目前後で。
工藤右衛門尉は 工藤行光の末弟 重光が該当するが、当人か否かは判らない。
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西暦1220年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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承久二年
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2月16日 丁丑
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吾妻鏡
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丑刻 (深夜2時前後) に大町 (地図) の南から出火、強い北風に煽られて南の浜までが焼失した。
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西暦1220年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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承久二年
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2月21日 壬午
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皇帝紀抄
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天変地異や彗星の出現により 二十二社 (Wiki による解説) に奉幣使を派遣した。
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西暦1220年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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承久二年
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2月26日 丁亥
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吾妻鏡
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亥刻 (22時前後) に大町から北が失火により焼けた。武蔵守 北條泰時の前で延焼を食い止めた。
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   ※泰時邸: 現在の 宝戒寺の地にあり 執権 義時の執務場所を兼ねていた。将軍御所を含む幕府の
庁舎はこの時点では大倉 (鶴岡八幡宮の東側一帯) だが 嘉禄元年 (1225) には宇都宮辻子に移転、更に嘉禎二年 (1236) には泰時邸 (現在の宝戒寺々域) の筋向い、 若宮大路幕府の地に移転する。  段葛と二つの政庁 (別窓) を参照されたし。
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西暦1220年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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承久二年
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3月 9日 己亥
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吾妻鏡
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酉刻 (18時前後) 、窟堂 (1月29日を参照) 付近の民家数十棟が火災で失われた。
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   ※火災が連続: この日は西暦の4月3日、寒い季節が過ぎたのに大規模な火災が続く。
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西暦1220年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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承久二年
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4月 3日 壬戌
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吾妻鏡
史 料
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大夫尉 大内惟義の使者が京都から到着して次の通り報告した。
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先月22日に内裏造営の着工儀式を挙行。筆頭に任じた公卿、参議、弁官、大夫史らが仮屋で執行した。また同26日に 音羽山 清水寺 (公式サイト) の本堂が焼失した旨の報告があった。
桓武天皇の延暦十七年 (798) に大納言 坂上田村麻呂が私宅を解体して草創した寺である。
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   玉蘂3月22日、内裏の築造始め、まず仮屋で勧盃の儀、次に大工が殿舎で作業初めを。
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   百錬抄3月26日、亥刻 (22時前後) に清水寺の本堂および塔と釈迦堂が焼失した。
原因は放火だが、観音堂は被害を免れた。霊験は他と異なる名刹である。
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西暦1220年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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承久二年
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4月13日 壬戌
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吾妻鏡
史 料
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   ※百錬抄: 4月13日の丑刻 (夜2時前後) に祇園社 (八坂神社
差す、Wiki) が焼けた。御殿、東面廊、南大門、薬師堂など堂塔の全てが灰燼に帰した。
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   ※玉蘂: 寅刻 (22時前後) に祇園の一帯が焼亡した。
これほどの頻発は延久 (1069~1073) や 久安 (1145~1150) 以来の稀代の出来事である。八坂神社の堂塔も共に焼亡してしまった。
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右は明治初期の八坂神社絵図。神仏習合制が禁令となり、 薬師堂はまだ残っているが東の塔は既に破却されていた。
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  現在の絵図(公式サイト)と照合されたし。
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西暦1220年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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承久二年
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5月 7日 丙申
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吾妻鏡
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先月27日の未刻 (14時前後) に御門町で出火し大内裏の陽明門、左近府、上東門左脇、斎院御所が焼失した。また同月 13日は祇園社が焼失した。この件に関する有範 (詳細不明) の専使による報告である。
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   ※被災範囲: 御門町は嵯峨野線円町の北、陽明門は出水通と大宮通の交差点だから ルート地図
の範囲になる。西風を受けて直線距離なら約 2kmで南北の範囲は不明だが当時の内裏の中心は千本丸太町交差点一帯だから、その大部分が焼失した事になる。
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西暦1220年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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承久二年
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5月16日 乙巳
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吾妻鏡
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二品禅尼 (政子) の願いにより千日講を催して今日が結願。故 右府将軍 実朝の追善法要である。
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   ※千日講: 千日間、法華経を読み合わせして講話と解説を論ずる法会。
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西暦1220年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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承久二年
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5月20日 甲戌
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吾妻鏡
史 料
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右京兆 北條義時、相模守 北條時房、前武蔵守 足利義氏が大官令禅門 (大江広元) 邸で小弓の会を楽しんだ。
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   ※前武蔵守: 原文は「右京兆相州 前武州 會合干大官令禪門邸有小弓會 云々」
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右京兆は北條義時、相模守は時房、大官令禅門は大江広元。前武州が問題で、この時点で義時と時房と広元が集まれば残る一人は北條泰時に決まっているのだが...
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泰時は承久元年 (1219) 11月13日、つまり去年の11月から暦仁元年 (1238) まで武蔵守に任じているから 「前」 ではなく 「現」 だ。では 「前」 は誰かと言うと、
前年9月に泰時に武蔵守を譲って京都守護に転任した 在京中の 大江 (源) 親広だ。これは、絶対に有り得ない。
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今年の12月1日にも別件で 「前略...武蔵守泰時 足利武蔵前司義氏...後」の記述があるから素直に 「足利義氏」 と書いたけれど、疑問符を添付して置いた。泰時じゃないと筋が通らないから誤記だろう、と。
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   玉蘂の記事: 5月24日、延暦寺で千僧御読経、彗星出現の対応で、差配は左中弁資経朝臣。
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西暦1220年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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承久二年
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6月10日 戊辰
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吾妻鏡
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左大臣 九条道家の使者が鎌倉に入り、次の通りに伝えた。
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去年12月の彗星出現に対応して朝廷では祈祷を行なった。先月24日に延暦寺の根本中堂に於いての千僧御読経 (薬師経) には東塔から500人、西塔から300人、横川から200人の僧が集まりこれを奉仕したが、関東の司天 (天文担当) が 「彗星が見えなかった」 と言っているのは、疑義が無きにしも非ず。どんな理由で若宮 (鶴岡八幡宮 ) での祈祷を実施しなかったのか。
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   ※九条道家: 次期将軍として鎌倉に下向した三寅 (後の四代将軍 藤原頼経) の父であり、
朝廷の提携をバックアップする立場の最高権力者。これは明らかに抗議の意味を込めた申し入れだろう。そもそも京都で見えた北天の彗星が鎌倉では見えなかったなど、有り得ない。
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ただし、三寅は散々交渉し苦労の末に迎えた次期将軍となる貴族の幼児だから、取り敢えず凶兆 (彗星出現) は公表したくない、そんな意識があって司天を含めた幕閣が少し忖度を加えた可能性はある、かも知れない。
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西暦1220年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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承久二年
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6月12日 庚午
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吾妻鏡
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去年の彗星出現について祈祷を行なうべきか否か。 「関東では見えなかったのだから必要ない」 と司天の者は主張している。左大臣九条道家の申し入れについては入道前大膳大夫大江広元が決裁し、今日鶴岡八幡宮に於いて一日中三部大般若経の転読を催した。導師は別当法印 定豪、左衛門尉 伊賀光宗がこれを差配した。
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西暦1220年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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承久二年
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7月 1日 戊子
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百錬抄
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祇園神殿 (現在の 八坂神社、公式サイト)の廻廊と大門などを上棟、貴賤の見物が群を成した。
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   ※祇園神殿上棟: 4月13日の火災による被害からの復旧工事が始まった。
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西暦1220年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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承久二年
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7月30日 丁巳
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吾妻鏡
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が激しくなった。鎌倉中の人家が倒壊あるいは洪水で流出し、川沿いに住んでいた多くの人が死没した。近年には起きていなかった惨状である。
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   ※激しい風雨: 建保七年7月30日は太陽暦の9月10日に該当、台風の可能性が高い。
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西暦1220年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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承久二年
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8月 6日 癸亥
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吾妻鏡
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終日降雨が続いた。子刻 (深夜0時前後) に中将 一条実雅朝臣の室 (右京兆 北條義時の娘) が男子を平産した。祈祷の担当は大進僧都寛喜、医師は頼経、陰陽師は権助安倍親職ら 4人が百ヶ日の泰山府君祭を行なっており、今夜が96日目に当たる。
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   ※泰山府君祭: 陰陽道祭祇の一つ。中国古代の神 泰山府君が仏教の閻魔大王と習合し、寿命と
富貴を司ると共に侍者の司命神が冥府の戸籍を管理すると信じられた。
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天台宗の円仁が中国から比叡山麓に勧請した赤山明神が泰山府君で、また素戔嗚 (すさのお) 尊や大国主神とも習合し、本地垂迹説により本地地蔵菩薩となった。
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西暦1220年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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承久二年
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9月25日 辛亥
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吾妻鏡
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西の強風あり。酉刻 (18時前後) に大野右近入道と工藤八郎左衛門尉の家が失火で焼失、右京兆 北條義時邸は辛うじて延焼を免れた。
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西暦1220年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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承久二年
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10月11日 丁卯
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吾妻鏡
百錬抄
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亥刻 (22時前後) に町 (小町か) の辺りで火災、南北二町 (200m) 余が被災した。相模次郎入道行念 (北條時村) と大夫尉大内惟信 (大内惟義の嫡男) らの家がその中に含まれる。
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   ※町=小町: 出典は不明だが 大内惟信の家は確か義時小町邸 (現在の宝戒寺) の南にあった筈。
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   ※相模次郎: 北條時房の次男 時村。1月14日に弟 資時と共に突然出家し行念を名乗っている。
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   百錬抄の記事: 10月18日 甲戌、大内裏の殿舎と門廊などの立柱と上棟式。権大納言通具
(Wiki) 、参議の公頼卿、右中弁頼資朝臣、右少弁光俊已らが立ち会った。
(前年7月の源頼茂事件で焼損した部分の復旧か)
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西暦1220年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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承久二年
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11月21日 丁未
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吾妻鏡
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寅刻 (早暁4時前後) に雷鳴が数回あり。
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西暦1220年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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承久二年
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11月23日 己酉
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吾妻鏡
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若君 (三寅、後の四代将軍 藤原頼経) の着袴の儀 (男児5歳の儀式、民間の七五三に該当) を催すため、日取りについての勘文 (朝廷の諮問に応じた上申) および使用する道具類が京都から届いた。
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西暦1220年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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承久二年
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12月 1日 丁巳
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吾妻鏡
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午刻 (正午前後) 、大倉御所の南面 (公式の場) に御簾を下げて若君着袴の儀が催された。
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武蔵守 北條泰時、武蔵前司 足利義氏、駿河守 三浦義村、左衛門尉 小山朝政、千葉介胤綱 (五代当主成胤の嫡子で六代当主) 、小山朝政らが小侍 (の間) に着座した。次いで中将 藤原実雅朝臣 (束帯) 、右京兆 北條義時 (布衣) 、相模守 北條時房 (布衣) らが東面の弘廂 (広い軒) に控えた。
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定刻を迎えて左衛門尉後藤基綱 (後藤基清の嫡男) が広い蓋の箱に収めた着袴の装束を持って前に進み、義時が袴の紐を結んだ。二品 (政子) が若君を補助し、次いで兵具の献上が行われた。
剣は北條泰時、弓箭は前武州足利義氏、刀は三浦義村、兜 (鎧を収めた唐櫃の蓋に載せる) は結城朝光長沼宗政がこれを運んだ。
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馬は三疋、一匹目 (銀鞍、絲鞦) は 小山朝政結城朝光中条家長が引き、二匹目 (鞍は同上) は 三浦泰村と 同三浦光村が、三匹目 (裸) は波多野経朝と同朝貞がこれを引いた。
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西暦1220年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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承久二年
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12月 2日 戊午
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吾妻鏡
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寅刻 (早暁4時前後) に地震あり。同じ頃に永福寺内の僧坊三棟が焼失した。
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今日、左衛門尉 小山朝政が使節として上洛の途に就いた。着袴の儀が無事に済んだ旨の報告である。
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西暦1220年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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承久二年
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12月 4日 壬申
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吾妻鏡
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戌刻 (20時前後) に火災、民部大夫二階堂行盛 (二階堂行光の嫡男) と左衛門尉 内藤盛家らの家が焼失。
去年から鎌倉中で火事が続き、同様の被害を受けても逃げる場所がない、これは普通の事態ではない。
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西暦1220年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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建保七年
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12月15日 癸未
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吾妻鏡
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大慈寺での舎利会 (仏舎利を供養する法会) は通例の通り。二品 政子並びに京兆 北條義時が参堂した。
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西暦1220年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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承久二年
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12月20日 戊子
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吾妻鏡
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大内惟信の使者が鎌倉に着いて次の通り報告した。
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去る8日に大内裏の殿舎の建立が始まった。上卿 (筆頭公卿) の源大納言通具、参議公頼、右中弁頼資、
右少弁光俊らが立ち会い、大夫史国宗、六位史、検非違使章重らがこれを差配した。
これは (前年7月の) 頼茂朝臣を追討する際に焼失した建物を新築する作業である。
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西暦1220年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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承久二年
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12月27日 乙未
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吾妻鏡
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(12月2日に京都に向かった) 左衛門尉 小山朝政が京都から帰着した。
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西暦1220年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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承久二年
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12月29日 丁酉
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吾妻鏡
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快晴で静かな夜だが、この三ヶ月は地を潤すほどの降雨がなく、また雪も降っていない。
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2025年
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7月17日
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晴耕雨読
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何日も雨が続いて、その間にポットの日々草もすっかり成長してしまった。やや殺風景な仕上がりだが、花と葉が増えれば花壇らしくなりそうだ。 右画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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私は 「庭のあちこちに繁殖している多年草の苧環 (おだまき) を植えて、7月頭にポットで育てた日々草 (赤系統を多めに) を植えたらどうか?」 と伝えてあるのだが多分無視されると思う。
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自分で色々考えて、自分なりの花壇をレイアウトできればベストだ。リビングの前にネットを張って日除けを兼ねて植えたキュウリもそろそろ終期を迎えるから、概ね奥行1m×巾4mほどの花壇スペースも使える事になる。
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「使いたければ費用は出すからプランの提出を」と言ってあるけど、どうなりますかねぇ。 7/17 8時
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園芸日誌を少し整理して 2025年10月の情報を載せた。左目次の 晴耕雨読 園芸日誌 でどうぞ。
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西暦1220年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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承久二年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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   ※:
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西暦1220年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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承久二年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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   ※:
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西暦1220年
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84代 順徳天皇
土御門上皇(中院)
後鳥羽上皇(本院)
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承久二年
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 月 日
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吾妻鏡
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記事
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   ※:
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前年・建保七年・承久元年 (1219) の吾妻鏡へ       翌年・承久三年 (1221) の吾妻鏡へ