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仁治三年 (1242年)
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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1242年
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87代 四条天皇
仁治三年
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 月 日
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史 料
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この年は吾妻鏡の記載なし、散逸と推測される。 参考資料のみ添付する。以下は時代の流れ。
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第87代 四条天皇の崩御 (1月) 、執権 北條泰時の死没 (6月) 、佐渡院 (84代 順徳天皇の崩御 (9月) など。
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朝廷の実力者 九条道家は四条天皇の後継として 順徳の皇子で 85代 仲恭天皇の異母弟である 忠成王の擁立を図ったが 鎌倉側は承久の乱に関与した順徳の血筋を拒否し、中立的立場にあった 土御門上皇の皇子 邦仁王 (88代 後嵯峨天皇) の践祚を決定させ、更に関白は九条道家の娘婿 近衛兼経 から (道家の二男だが政治的立場は西園寺公経に近い) 二条良実 に交代させた。長く朝廷支配を続けた 九条道家にも落日の影が見え始める。そして 6月には泰時が病没し、執権が18歳の 北條経時へ。
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   ※年令: 四代将軍 藤原頼経 間もなく 25歳、正室 竹御所 (二代将軍 頼家の娘は嘉禎元年 (1235)
7月の死産後に病没 (享年32) 、継室の大宮殿は藤原親能 (承元元年 (1207年11月没) の娘だから、最も若いと計算しても 33歳、 坊門信子 (故 実朝の寡婦、出家) 55歳 、
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北條泰時 6/15病没 (享年58) 、 北條経時 17歳、 北條時頼 14歳、 北條朝時 49歳、
北條重時 44歳、 北條政村 38歳、 北條実泰 34歳、
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三浦泰村 58歳、 千葉時胤 23歳 、 安達景盛 59~67歳、 安達義景 31歳、
足利義氏 52歳、 宇都宮頼綱 63歳、 宇都宮泰綱 43歳、 二階堂行盛 60歳、
二階堂行泰 30歳、
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87代 四条天皇 1/9崩御 (享年10) 、88代 後嵯峨天皇 21歳
86代 後堀河天皇 は天福二年 (1234) 8/31に崩御 (享年23) し、上皇は不在、
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西園寺公経 69歳、 九条道家 48歳、 藤原定家 前年 8月死没 (享年77) 、
退耕行勇 77歳、 親鸞 66歳、 叡尊 41歳、忍性 24歳、 日蓮 20歳、
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     (全て1月1日基点の満年令、下線付きはWiki)
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   ※政情: 安貞二年 (1228) 12月に 関白が 近衛家実 (Wiki) から鎌倉将軍 藤原頼経の父 九条道家
交替。近衛家実 (通称を猪熊関白) は鎌倉幕府と協調して後鳥羽院政を否定し 「成功 (売官制度) 」 なども取り入れたが、将軍頼経+三浦一族+西園寺公経と組んで幕府への圧力を強めようと諮った九条道家との権力争いに敗れて政治力を失ってしまう。
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その九条道家も、建長三年 (1251) には将軍 頼経の失脚と共に没落してしまうのだが。
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   ※幕政: 執権 北條経時は若年だが敢えて連署は置かず、極楽寺流の祖 重時政村実時らが
経時を補佐し援助する体制を執った。寛元四年 (1246) 閏4/1に病没するまではやや強引に執権職を全うしたと言える。
もう少し長命だったら更に良い政治を進めたように思われるが...。
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西暦1242年
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四条天皇 崩御
仁治三年
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1月 9日 壬辰
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史 料
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   北條九代記丑刻 (午前2時前後) に帝 (四条天皇 12歳) が閑院 (里内裏) の清涼殿で崩じた。
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   ※崩御と即位: 五代帝王物語 「四条天皇は近習や女房が転ぶ様子を見て楽しもうと考えて、
御所の廊下に 滑石 (Wiki) を撒き誤って自らが転倒したのが直接の死因である」と書き、百錬抄 (共に Wiki) は 「崩御の数日前に起きた事故」と書いている。
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四条天皇には兄弟も皇子もなかったため皇位継承できる直系は絶え、九条道家ら有力な公卿は次期天皇に順徳上皇の第五皇子 (岩倉宮 忠成王 21歳) を推したのだが...。
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承久の乱を主導した 後鳥羽上皇と順徳上皇の系統を嫌った幕府 (執権 泰時) はそれを拒否、11日の空白期間後に (承久の乱が勃発した際に) 温厚な立場だった土御門天皇の皇子 邦仁王を 後嵯峨天皇として受け入れた。皇統について鎌倉から露骨な関与を受けた公卿の間には相当の不満が渦巻いたらしい。
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   ※私見の蛇足: 私は、女性天皇容認派。「女性天皇は皇室典範に依拠していない」との主義主張
には全く根拠がない。「男系男子による皇位継承」は明治期に皇系の権威を高めるために薩長政権が定めたもので、基本的に「天皇が複数の妻妾を持つ」階級社会を前提にしている。
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このルールには正当性もないし人権を尊重する現代社会にも適合していない。
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そもそも、男女の人権を等しく認めない時代の「決め事」を 現代に当て嵌める異常さに気が付かない無神経さは恐ろしい。
悠仁殿下は適任には見えないし、愛子さんは優れた象徴天皇になる、と思う。
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西暦1242年
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88代天皇 未定
仁治三年
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1月14日 丁酉
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史 料
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   ※北條九代記秋田城介 安達義景と出羽前司 二階堂行義が使節として上洛の途に就いた。
建仁時代 (1201~1204) の聖主 (土御門上皇) の第五皇子 邦仁王による皇位継承が (鎌倉の意向として) 定まったためである。
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   ※邦仁王: 土御門上皇は承久の乱には全く関与しなかったが 父の後鳥羽上皇が隠岐へ、弟の
順徳天皇が佐渡へ流された処遇の中で自ら同様の処遇を申し出て、土佐配流となった。その経緯により流刑としては有り得ない相当の厚遇を受けていたらしい。
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また鎌倉の強引な人選の背景として、土御門の配流後に邦仁王は 土御門定通 (Wiki) の養育を受けており、定通の側室が六波羅北方の 北條重時の同母妹 竹殿だった (つまり北條氏とは縁戚関係) ことや、当時の鶴岡八幡宮の別当 定親が土御門定通の弟だった事なども影響していた。有力なコネは時代を問わず優先される、だね。
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西暦1242年
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88代 後嵯峨天皇
仁治三年
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1月20日 癸卯
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史 料
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   皇代記(皇子が) 御元服 (23歳) の後に践祚 (帝位を継承) 。四條天皇が崩御して関東との調整
が片付くまで12日間の空位があった。
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西暦1242年
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88代 後嵯峨天皇
仁治三年
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3月18日 庚子
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史 料
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   玉蘂今日新帝 (後嵯峨) が即位した。
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西暦1242年
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88代 後嵯峨天皇
仁治三年
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5月 9日 庚寅
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史 料
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   北條九代記前武蔵守北條泰時が体調悪化により出家。法名を観阿房上聖、戒師は信濃法
印道禅。
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   ※出家: この場合は死期が迫っている事を前提にした、臨終に備えての出家である。
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西暦1242年
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88代 後嵯峨天皇
仁治三年
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5月11日 壬辰
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史 料
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   北條九代記遠江守 北條朝時 が出家した。
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   ※朝時出家: 泰時の死没前後の京都には「鎌倉で合戦が起きる」あるいは「鎌倉に通じる街道
の全てが封鎖され、御所を厳重に警護した」との情報が伝わっており、次期執権と将軍の処遇を巡って朝時を軸にした動きがあったと推定される。
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結果として朝時が死没する寛元三年 (1245) 4月まで何事も起きず、死没翌年の閏4月には将軍 藤原頼経を擁した朝時の嫡男 北條 (名越) 光時が反乱未遂事件 (宮騒動) を起こす。
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西暦1242年
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88代 後嵯峨天皇
仁治三年
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5月17日 戊戌
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史 料
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   平戸記四條大納言、吉田中納言、大蔵卿、新宰相が集まって情報交換。泰時朝臣が出家
した際に彼の従者50人ほどが出家した。翌10日夜になって遠江守 北條朝時 (泰時の舎弟) が出家した。日頃は仲の良い兄弟ではなかったのに、と世間は噂している。
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   ※朝時出家: 兄弟の中で出家したのは朝時のみ。泰時と親しい関係にあった次弟の 北條重時
含めて誰も出家はしていない。朝時が 「北條嫡流に恭順を強要された」 と考えるべきだろう。真面目過ぎる泰時の不人気を指摘するべきだろうか。
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西暦1242年
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88代 後嵯峨天皇
仁治三年
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6月15日 丙寅
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史 料
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   北條九代記入道 (前武蔵守) 正四位下 平朝臣 北條泰時が死去した (60歳) 。新善光寺
智導上人が知識 (悟りに導く徳の高い僧) として臨終に立会い、念仏を勧めた。
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   ※新善光寺: 現在は葉山町上山口 (地図) にある 新善光寺
(紹介サイト) だが 頼朝没後の建仁年間 (1201~1204) に 北條政子が信濃の善光寺如来を名越に勧請したのが創建当初の姿と伝わる。
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信濃善光寺の大檀那として再建に尽力した頼朝の遺志を継いだのだろう。新善光寺は戦国時代の弘治二年 (1556年、戦国時代末期、織田信長の頃) に戦火を避けて葉山に移転したらしい。  右は名越 弁ヶ谷の鳥瞰図。クリック→ 別窓で拡大
この一帯には 北條時政千葉常胤の屋敷があったと伝わっており、新善光寺も時政が権力を握っていた時代に、政子が名越邸の近くに建てたと推測できる。
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西暦1242年
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88代 後嵯峨天皇
仁治三年
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6月16日 丁卯
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史 料
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   尊卑分脈 他:北條経時 (満17歳) が四代執権に着任。泰時の嫡男ながら早世した故 時氏の長男
で生母は 安達景盛の娘 矢部禅尼。後の五代執権 北條時頼の同母兄である。
連署は置かず重鎮の 重時が補佐に任じ、同じ満17歳の 北條 (金沢) 実時が力を合わせる。
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西暦1242年
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88代 後嵯峨天皇
仁治三年
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6月19日 庚午
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史 料
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   百錬抄深夜に関東の飛脚が (朝廷に) 到着し、泰時朝臣が去る15日に死没したと報告した。
後継は嫡孫の左近大夫将監 北條経時(満18歳)、天下は30日間の喪に服す、と。
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西暦1242年
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88代 後嵯峨天皇
仁治三年
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9月29日 戊申
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史 料
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   増鏡佐渡院 (順徳上皇)が特に病気などのないまま46歳で崩御した。
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   ※順徳上皇: 佐渡配流の詳細は承久三年 (1221) 7月20日を参照されたし。
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2025年
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8月22日
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晴耕雨読
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テラスのキュウリが絶好調で...。   08/23 6時 右下をクリック→ 別窓で拡大表示
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少し疲れ気味だったため二日ほど野菜の見廻りをサボったら三本が25cm以上まで巨大化してしまった。糠みそかサラダかオイキムチにしても食べ切れず、ご近所に配るしかない。
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トマトは少し物足りなかったし、切り戻しにしたナスはこれからが美味しい秋ナスになるし、スイカは絶好調で終わりつつあるし、トウモロコシは少しメンテナンスのミスがあったため8株を育てて8ヶしか収穫できなかった。強い暑さの影響だろうか。
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体力を温存して秋野菜の準備を始める季節になってきた。キッチンで妻が「ブロッコリー、キャベツ、白菜、カブ、ネギ、サヤエンドウ...」と言っております。
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園芸日誌を少し整理して 2025年10月の情報を載せた。左目次の 晴耕雨読 園芸日誌 でどうぞ。
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2025年
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12月03日
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晴耕雨読
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5時、仁治三年 (1242) の校正作業が終了。
スケジュールが少し遅れ気味だったが、幸か不幸か吾妻鏡が散逸している年にぶつかって...、喜ぶのは不謹慎だけど遅れは何とか取り戻せた。天気は下り坂、茨城県は冷え込みそうだ。積雪になって野菜のトンネルが潰れたら困るし、悩みは尽きないね。
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去年は60ヶ近く収穫できた玄関横のレモン、今年は半分程度だ。手押しの搾り器で汁を製氷皿で凍らせて冷凍保存している。黄色く熟しているから早く採らなければ、残りは20ヶほどか。
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西暦1242年
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88代 後嵯峨天皇
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仁治三年
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 月 日
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予備
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