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仁治四年 (1243年) 、2/26 に改元して寛元元年
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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
仁治四年
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1月 1日 戊寅
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。左馬入道 足利義氏の沙汰による椀飯の儀あり。前右馬権頭 北條政村が御剣を、若狭前司 三浦泰村が御弓箭を、壱岐前司 佐々木泰綱が御行騰沓を献じた。
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   ※椀飯 (おうばん) : 饗応の献立、食事を摂る儀式、行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
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   ※行騰 (むかばき) と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像 (Wiki) を参考に。
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   ※年令: 四代将軍 藤原頼経 間もなく 26歳、正室 竹御所 (二代将軍 頼家の娘) は嘉禎元年 (1235)
7月の死産後に病没 (享年32) 、継室の大宮殿は藤原親能 (承元元年 (1207年11月没) の娘だから、最も若いと計算しても 34歳、 坊門信子 (故 実朝の寡婦、出家) 56歳 、
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三代執権 北條泰時 は前年6/15病没 (享年58) 、 後継執権は北條経時 18歳、連署は空席、泰時は弟の重時に経時の補佐を頼み、同年齢の北條 (金沢) 実時に経時への協力を委託した。
北條時頼 15歳、 北條朝時 50歳、 北條重時 45歳、 北條政村 39歳、 北條実泰 35歳、
北條実時 17歳、
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三浦泰村 59歳、 千葉時胤 24歳 、 安達景盛 60~68歳 、 安達義景 32歳、
足利義氏 53歳、 宇都宮頼綱 64歳、 宇都宮泰綱 44歳、 二階堂行盛 61歳、
二階堂行泰 31歳、
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87代 四条天皇前年 1/9崩御 (享年10) 、88代 後嵯峨天皇 22歳
86代 後堀河天皇 は天福二年 (1234) 8/31に崩御 (享年23) し、上皇は不在、
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西園寺公経 70歳、 九条道家 49歳、
退耕行勇 前々年7/5死没 (享年79) 、 親鸞 67歳、 叡尊 42歳、忍性 25歳、 日蓮 21歳、
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      (全て1月1日基点の満年令、下線付きはWiki)
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   ※政情: 安貞二年 (1228) 12月に 関白が 近衛家実 (Wiki) から鎌倉将軍 藤原頼経の父 九条道家
に交替。近衛家実 (通称を猪熊関白) は鎌倉幕府と協調して後鳥羽院政を否定し 「成功 (売官制度) 」 なども取り入れたが、将軍頼経と三浦一族と西園寺公経と組んで幕府への圧力を強めようと諮った九条道家との権力争いに敗れて政治力を失ってしまう。
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政争に勝った九条道家も、建長三年 (1251) には将軍 頼経の失脚と共に没落してしまうのだが。
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   ※幕政: 時房の没後は後任の連署を置かず 空席。宝治合戦 (1247年) で三浦一族が滅亡した後に
執権 時頼 は極楽寺流の祖 北條重時を連署に任命した。重時は建長八年 (1256) に出家して政界を退き、時頼の後継は六代 北條長時と七代 政村を経て八代 時宗に続く。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
仁治四年
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1月 5日 壬午
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吾妻鏡
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晴。将軍家 藤原頼経が御車で秋田城介 安達義景の甘縄邸に入御、駿河守 北條有時、遠江馬助、備前守 北條時長以下が供奉し隠岐太郎左衛門尉佐々木政義 (義清の嫡男) が弓箭を携えた。
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御台所と乙若君は各々輿で前右馬権頭 北條政村邸に入御、若君 (後の五代将軍 頼嗣) と御母儀 (二棟の御方) も輿で若狭前司 三浦泰村邸に渡御。全て御行始め (外出初め) の儀で接待は豪華、引き出物も見事だった。
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   ※御台所と乙若: 乙若は頼経の次男で生母は三位中納言 持明院 (藤原) 家行 (Wiki) の娘大宮殿
(正室)。頼経の子は寛元元年 (1244) に産まれた三男 (源恵、生母不明) が本覚寺門跡→ 日光山別当→ 勝長寿院別当を経て正応五年 (1292) に97世の天台座主に就任する。
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   ※若君と御母: 将軍
藤原頼経の嫡子 頼嗣と、その生母で継室の大宮殿 (藤原親能 の娘 ) 。
素性の知れた頼経の側室は他に 上記した 持明院家行 の娘 がいる。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
仁治四年
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1月 9日 丙戌
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吾妻鏡
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晴。寅刻 (18時前後) に大夫判官 足利 (斯波) 家氏の亀谷邸筋向いの人家数軒が焼亡した。
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   ※足利家氏: 足利泰氏の長男で生母は 北條朝時の娘。嫡男だったが、父の泰氏が 時氏 (泰時
長男で早世) の娘を正室に迎えて産んだ男子 (頼氏) が五代当主を継いだため分家して尾張足利氏 (後の斯波氏) の祖となり、朝時の娘は側室に格下げされたのだから無茶な話だ。泰氏は泰時の偏諱を受けているのだから否応なし、弱い立場だ。
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有力御家人には名前の一字を与え (偏諱) 、婚姻関係と合わせて絆と忠誠心を確認しあう、北條氏による 「囲い込み作戦」 の代表例だが当時の一般的な風習だった。
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例えば、代々北條氏の嫡流と縁戚関係を結んでいた足利氏の代表的人物 又太郎は14代執権 北條高時 の偏諱を受けて 高氏 と名乗り、後に討幕の功績により 後醍醐天皇の諱 尊治から一字を与えれて尊氏と名乗っている。
数年後には後醍醐と尊氏は 皇統と覇権を賭けて戦うのだから、 (泰時や高時を含めて) 偏諱もクソもないのだけれど。
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源姓足利氏は 義兼の時代から北條氏に全面協力して (露骨に言えば隷属を続けて) 筆頭御家人の地位を守り続けた、その積年の恨みを晴らしたとも言える。
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元久二年 (1205) の事だが、足利義兼の庶長子 義純は正妻 (新田義兼の娘) と男児2人を離縁して 畠山重忠の寡婦 (北條時政の娘) を正妻に迎えて畠山の名跡を継いだし、義兼を継いだ三代棟梁の 義氏も時政の別の娘を正妻に迎えている。
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最終的に北條一族は足利一族の子孫 高氏 (尊氏) と新田一族の子孫 義貞に滅ぼされるのだから、まさに「禍福は糾える縄の如し」だ。
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   ※亀谷邸: 「偏諱」に引きづられて一気に幕末まで話が飛んで長くなってしまった...。
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亀谷坂切通しが山ノ内に下った地点、昔日の 巨福呂坂の延長線と 亀ヶ谷坂 の交差点の高台にある 長寿寺 (別窓 、地図) は 足利尊氏の屋敷跡に四男基氏が建立した一族の菩提寺で、鎌倉街道に面した石段の上が現在の山門である。
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  右上は長寿寺の山門。クリック→ 長寿寺境内、足利尊氏の鎌倉邸跡へ (別窓)
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建長寺伝 光圀が描かせた延宝図に拠れば 建長寺山門は当時の主要道 巨福呂坂に面していた。
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鶴岡八幡宮から北鎌倉へと続く現在の鎌倉街道の開削は明治19年 (1886) で、それ以前は荷馬車が辛うじて通れる程度の巨福呂坂 (既に廃道) が現在の切通し部分 (正式には今の半トンネル 巨福呂坂洞門 ) の尾根の上、当時で言えば山の上を越えて建長寺山門の近くに下っていた。
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長寿寺の敷地が元の足利家氏邸であり、家氏の弟の頼氏→ 嫡子家時→ 嫡子貞氏→ (長男) 高義→ 嫡子高氏 (後の 尊氏) に伝わった可能性は充分にあり得る、と思う。
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  右画像は現在は廃道の旧 巨福呂坂ルート(クリック→ 別窓で拡大表示)
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
仁治四年
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1月10日 丁亥
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吾妻鏡
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晴。御弓始めあり。前太宰少弐 狩野為佐の差配で各々二射づつ五度的を射た。箭員 (当たった矢の数) に応じて殿上人を介して褒賞が与えられた。
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  射手
     一番 佐原七郎左衛門尉  渋谷六郎
     二番 伊達中村太郎    山内左衛門次郎
     三番 眞板五郎次郎    小河左衛門尉
     四番 神地四郎      対馬太郎
     五番 岡部左衛門四郎   肥田四郎左衛門尉
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   ※殿上人: 四位と五位の中で特に昇殿を許された資格のある者、および六位の蔵人。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
仁治四年
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1月19日 丙申
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吾妻鏡
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陰、日中以後雨。午刻 (正午前後) に将軍家 藤原頼経が鶴岡八幡宮に御参り。能登守 三浦光村が御剣を持ち駿河又太郎左衛門尉三浦氏村 (義村の庶長子、つまり泰村の庶兄である朝村の長男とされているが、詳細は不明) が弓箭を携えた。
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前右馬権頭 北條政村、駿河守 北條有時、遠江馬助、備前守 北條時長、大夫判官足利家氏 (1月9日参照) 摂津前司 中原師員、甲斐前司 長井泰秀、若狭前司 三浦泰村、秋田城介 安達義景、佐渡前司 後藤基綱、壱岐前司 佐々木泰綱、下野前司 宇都宮泰綱、太宰少弐 狩野為佐、大蔵権少輔 結城朝広、佐渡大夫判官 後藤基政、左衛門尉 小山長村、駿河五郎左衛門尉 三浦資村、上野五郎兵衛尉結城重光 (朝光の七男で 朝広の弟) 、近江四郎左衛門尉 佐々木氏信、左衛門尉大須賀重信 (胤信の四男で奈古谷氏 (本領は成田市奈古谷、成田市北部か) の祖) 、梶原右衛門尉景俊 (景茂の嫡男) らが供奉した。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
仁治四年
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2月 2日 己酉
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吾妻鏡
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晴。辰刻 (朝8時前後) 、故前左京兆 北條義時が崇敬していた大倉薬師堂が失火により焼亡、本尊の薬師如来は持ち出すことができた。
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   ※大倉薬師堂: 建保六年 (1218) 12月2日に 建立記録がある。
義時が建立を願った経緯は同年7月9日の吾妻鏡に丁寧な記載があり、吾妻鏡は翌年2月8日に更なる追加の情報を加えて「義時の欠席は薬師如来が戌神を派遣して警告を与えたからで実朝殺害には無関係」と仄めかしている (内容は以下を参考に)。
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右京兆 北條義時が大倉薬師堂 (建保六年の7月9日の条を参照) に詣でた。霊夢のお告げに依って創建した堂である。
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先月27日の戌刻 (20時前後) に八幡宮に供奉したとき傍らにまるで夢の様に白い犬が見え、急に悪寒がしたため御剣役を源仲章朝臣に譲り、伊賀四郎朝行 (朝光の四男) だけ伴って退去した。下手人の阿闍梨 公暁は義時が御剣役を務めるのを事前に知っており、剣役を狙った結果として仲章の首を斬ってしまった。ちょうどこの時間、薬師堂の中には戌神が居なかったという。
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義時は神仏を信じる習慣を利用して退去した理由を立証できたと思ったのだろうが、大切な事を忘れている。薬師如来が戌神を派遣して危険を知らせたのが事実なら、実朝に警告せず護衛も増やさず退去したのは何故か。直臣として主君の危険を放置した、それが最大の問題なのにね。要するに、義時はかなり卑劣な嘘吐きなのだ。
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   ※戌神:仏と信者を守る十二神将に十二支を当て嵌めた中の犬神将。上は京都木津川の 浄瑠璃
(Wiki) に伝来したらしい十二神将立像の戌神 (東京国立博物館 収蔵) 、鎌倉時代中期の慶派仏師作とされる。木造彩色、切金、漆箔、玉眼、像高 75.3cmである。
     クリック→ 別窓で拡大表示。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
仁治四年
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2月13日 庚申
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吾妻鏡
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天変に対応する祈祷が始められた。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
仁治四年
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2月15日 壬戌
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吾妻鏡
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申刻 (16時前後) から若君 (後の五代将軍 藤原頼嗣) が体調不良。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
仁治四年
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2月16日 癸亥
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吾妻鏡
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評定衆による決裁事項の記録について、特に重要な件は二ヶ月間、通常の件は一ヶ月間、小さな件は二十日間の公布を行なうよう問注所執事の加賀民部大夫 町野 (三善) 康持に通達した。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
仁治四年
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2月23日 庚午
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吾妻鏡
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晴。将軍家 藤原頼経の祈願として、絹糸と綿布を二所(走湯権現 (伊豆山神社) と箱根権現)に奉納。
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これは神主と社僧に向けた布施である。伊豆山への使者は左衛門尉本間 (海老名) 忠行、箱根への使者は駿河五郎左衛門尉 三浦資村 と 摂津前司 中原師員が務めた。
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また、今日の申刻 (16時前後) に御台所 (1月5日を参照) が今年最初の鶴岡八幡宮参拝に御車で参拝に出御、30余人が狩衣を着して供奉した。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
仁治四年
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2月25日 壬申
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吾妻鏡
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御家人の任官 (朝廷の官職に就く事) について、従来は内々に将軍家の認可を経ていたが今日の評議で決定事項があった。式部丞や所司の助に就任 (買官) を直接朝廷に申請するのは一切禁止、その両職については従来の靭負尉に準じて一万疋と定めていたが、昨今の世情に合わせて二万疋とするべきか。
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   ※一万疋:一疋を20文前後とすると一万疋は20万文で概算で米100石、約1トン程度になるか。
資料に依拠したとは言えない仮定の計算だから単なる推測、裏付けの根拠なし。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
仁治四年
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2月26日 癸酉
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吾妻鏡
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北條経時邸で決定があった。日程を定めて必要な人数の配置をする、と。
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   訴訟の日程と当番に関する定め。
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    一番 (3日、9日、13日、17日、23日)
       摂津前司 中原師員  若狭前司 三浦泰村  下野前司 宇都宮泰綱
       対馬前司 三善 (矢野) 倫重   大田民部大夫 三善 (太田) 康連
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    二番 (4日、8日、24日、28日)
       佐渡前司 後藤基綱  太宰少弐 狩野為佐  出羽前司 二階堂行義 右衛門尉 清原満定
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    三番 (6日、14日、19日、26日、29日)
       信濃民部大夫入道 二階堂行盛  甲斐前司 長井泰秀  秋田城介 安達義景
       加賀民部大夫 町野 (三善) 康持
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   以上の予定を守り遅延や過怠なく参勤する事    仁治四年二月日
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   百錬抄代始 (新帝の着位) による改元あり。仁治四年を改め、寛元元年とする。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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2月27日 甲戌
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吾妻鏡
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晴。戌刻 (20時前後) 、若君 (後の五代将軍 藤原頼嗣) の体調不良が回復しないため摂津前司 中原師員の奉行による祈祷を行ない、合わせて占いも催した。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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2月29日 丙子
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吾妻鏡
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晴。恩賞に関する評議あり。闕所の決定前に場所を指定して要望する如き輩は恩賞対象から除外する、と。
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   ※闕所: 没収などで確保した恩賞の候補地。承久の乱から20年が過ぎ恩賞に使える土地が逼迫
している。宝治合戦 (1247年) で一息ついても、文永十一年 (1274) と弘安四年 (1281) の元寇に関する恩賞は支給する原資がなく、それなりの犠牲を払って従軍した御家人の不満は当然ながら深刻さを深めていく。
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   ※恩沢奉行: 鎌倉時代の初期には政所別当や問注所の執事が恩賞に関する事務を担当した。
嘉禎年間 (1235~1238年) 以後は後藤基綱、中原師員、清原満定らが恩沢奉行として記録されている。更に下って建治年間 (1275~1277) には安達泰盛が任じており、第一次元寇の文永の役 (1274) に伴う恩賞問題への対応を一本化したもの。
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右は 蒙古襲来絵詞 前巻 絵九、恩沢奉行の安達泰盛 (左) に軍功を訴える 竹崎季長 (Wiki、右)。
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この時期には官位の推挙を扱う官途奉行が恩沢奉行から分離 独立している。
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五代執権 時頼を筆頭とする得宗専制期になると恩沢を扱う職員の中に御内人 (得宗被官) が増え始めて、奉行に任じられたケースもあった。これは北條得宗が御家人の統制を強めるため恩賞決定権の独占を図ったと考えられている。
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安倍首相が内閣法制局長官に横畠裕介を任命して憲法解釈を恣意的に操作させたのと同じ事例だ。それに容認した創価学会と公明党も、憲法違反を許した戦犯として歴史に残る。
まぁ国家権力と癒着して甘い汁の味を覚えたら文字通り「坊主丸儲け」、止められないんだろうね。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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3月 2日 戊寅
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吾妻鏡
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亥刻 (22時前後) に若君 (後の頼嗣) に関する祈祷、御所で七座の泰山府君祭が行われた。定昌、泰貞、晴賢、宣賢等および 国継、広資、以平らの担当である。
秋田城介 安達義景、甲斐前司 長井泰秀、能登守 三浦光村、周防前司 中原親実らがこれを差配した。
今日、京都朝廷の使者が改元の詔書を届けた。先月の26日に 仁治四年を 寛元元年に改めた、と。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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3月12日 戊子
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吾妻鏡
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評定衆による臨時の会議が開かれ、鳩谷兵衛尉重元による庭先からの申し出があった。武蔵国足立郡内鳩谷の地頭職について、先日懸物の押書 (訴訟の裁決に従う保証) を提出して事態は既に明白なのだが奉行人の認可がない、と。その件について、問状が発行された。
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   ※問状: 原告の訴えを受理した後に 論人 (被告) や証人の答弁を求める書類。結審ではない。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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3月15日 辛卯
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吾妻鏡
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晴。御所に於いて泰貞朝臣による天地災変祭 (天変地異に対応する祈祷) が行なわれた。将軍家の御使 (代参) は水谷左衛門大夫重輔 (将軍 頼経の近臣) 、差配は蔵人入道西阿 毛利季光が務めた。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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3月19日 乙未
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吾妻鏡
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晴。午刻 (正午前後) に将軍家 頼経が駿河守 北條有時邸に設けた二所御精進屋に入御した。
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   ※御精進屋: 仁知元年 (1240) 12月16日に「二所詣の精進潔斎を行なう建物を御所の巽 (南東)
角に建てて」との記載があり、翌年2月4日にも関連記事が載っている。
これは御所に建てる予定が北條有時邸に変更された、という事だろうか。
有時邸の位置は不明、彼は 二代執権 義時の三男だが生母は側室の伊佐朝政の娘、継室が産んだ弟の政村や実泰より序列は下なのだが駿河守に任じ、評定衆の一人でもあった、バックが強いのは羨ましいね。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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3月23日 己亥
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吾妻鏡
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晴。将軍家が二所詣に御進発。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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3月27日 癸卯
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吾妻鏡
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曇。酉刻 (18時前後) に将軍家が二所詣から還御。往還中には降らず夜になって激しい降雨があった。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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4月 8日 甲寅
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吾妻鏡
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御所の御持仏堂に於いて仏生会 (釈迦の生誕祭) を催した。導師は岡崎僧正坊。
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   ※御持仏堂: 九条頼経の持仏堂は久遠寿量院の名で時折吾妻鏡に現れる。東寺か何かの調査資
料で見た事から「いつか知識を広げられたらいいな」程度にマークして、そのまま忘れていた。吾妻鏡の解釈に影響する様な情報ではないから取り敢えず調査資料の存在をマークしておこう。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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4月10日 丙辰
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吾妻鏡
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大甞會 (Wiki) の費用負担を未納の者に催促するよう政所に仰せがあり、直ちに実施された。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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4月20日 丙寅
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吾妻鏡
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奴婢などの処遇についての評議が行われた。本来の所有者の元から逃亡した奴婢だと知らないまま地頭が長い期間使役した場合は論議の対象とせず、10年以内の場合は元の所有者 (使役者) に返還することになる。
加賀民部大夫 町野 (三善) 康持がこの件の差配に任じる。
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   ※奴婢の処遇: 山椒大夫 (安寿と厨子王丸を含む物語) は平安時代の末期を舞台にした過酷な境
遇の奴婢を描いていたが、鎌倉時代中期の待遇はやや改善されていたらしい。
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延応元年 (1239) 4月14日の吾妻鏡は「人身売買の禁止」を明記しているのに 次項では
「借金の場合は双方が協議して...」と補足する、実質はザル法だったか。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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4月21日 丁卯
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮に於いて最勝八講を行ない、将軍家が御参宮した。
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   ※最勝八講: 法華八講に同じ。法華経八巻を八座に分け、通常は朝夕二座を講じて四日間続け
る法会。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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4月28日 甲戌
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史 料
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   百錬抄佐渡院の御遺骨は康光法師が首に懸けて大原に渡御した。
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   ※佐渡院: 承久の乱後に佐渡に流された順徳天皇。仁治三年 (1242) 9月29日に佐渡で崩御。
佐渡と大原の御陵などは承久三年 (1221) 7月20日に記載してある。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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5月13日 戊子
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史 料
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   百錬抄佐渡院の御骨を今日大原の御墓所に納め、岡崎殿で中陰 (四十九日) の御仏事を始め
た。世人には30ヶ日の穢となる。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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5月23日 戊戌
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。子の一点 (23時過ぎ) に大地震。
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今日、左親衛 北條経時邸で摂津前司 中原師員と若狭前司 三浦泰村が集まり御家人の訴訟について検討した。次に経時は書状を加賀民部大夫 町野 (三善) 康持に送り、評定衆の会議で決定しても通告が遅れれば関係者が困惑する、今後は訴訟内容と通告内容を照合して内部で仮決定した後に決裁書類を清書するように定めた。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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5月28日 癸卯
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吾妻鏡
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晴。夕暮れに、将軍家 藤原頼経に赤痢の症状あり。丹波時長と広長朝臣が治療のため御所に入った。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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6月15日 庚申
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吾妻鏡
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晴。故 前武州禅室(北條泰時)の周関(一周忌)法事を山内の粟船御堂で催した。左親衛 北條経時および武衛 北條時頼が参席し 遠江入道 北條朝時、前右馬権頭 北條政村、武蔵守 北條朝直以下の多数が集まった。
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曼陀羅供の法要があり、大阿闍梨 信濃法印道禅と讃衆 (讚を唱える僧) 12人がこれを務めた。曼陀羅供は存命中だった頃の 北條泰時が深く信仰していたものである。
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   ※粟船御堂: 嘉禎三年 (1237) 12月13日 北條泰時の室が母親
の追善供養のため建立した 密教または浄土宗の寺院で 現在の粟船山常楽寺を差す。
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寛元四年 (1246) に宋から渡来した臨済宗の僧 蘭渓道隆を五代執権 時頼が鎌倉に招き、泰時が建て直していた寺院を臨済宗に改めたのが 宝治三年 (建長元年、1249年) 前後だ。
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右は常楽寺仏殿裏手に残る北條泰時の墓標。
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  クリック→ 別窓で拡大表示。 更に詳細は大船の 粟船山常楽寺 (別窓) で。
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   ※曼陀羅供: 大壇 (正方形の大型) を設け、前の礼盤 (導師の座) に登った導師が独自の修法を
行なう、密教では最も華やかな法要とされている。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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6月16日 辛酉
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吾妻鏡
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未刻 (14時前後) に小雨と雷鳴あり。深澤村に建立した仏殿に八丈余 (約24m) の阿弥陀像を安置して落慶供養を催した。導師は卿僧正良信で讃衆 (供養に参加した僧) は10人。勧進聖人浄光房が六年間勧進に務め、身分の尊卑や出家世俗の区別なく勧進に加わった。
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   ※深澤の大仏: 嘉禎四年 (1238) 3月23日に大仏殿の建造が始まったとの記事がある。今回落慶
供養に至った大仏は木造で、その後の火災または地震で失われてしまう。
木造の大仏、これはこれで、どんな姿だったか見たかった、と思う。
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建長四年 (1252) 8月17日の吾妻鏡に「今日は彼岸の第七日に当たり、深澤里の金銅八丈の釈迦如来像の鋳造作業が開始となった」との記載がある。
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これが現在の高徳院大仏 (釈迦如来ではなく、阿弥陀如来)。一説に宝治元年 (1247) に皆殺しにした三浦一族の霊を鎮めるために安達一族が屋敷の裏山に大仏の建立を提言した、とも伝わっている。宝治合戦後の数年間は天変地異や大火や飢饉が続いたていたから、三浦一族の祟りと考えたのだろう。
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今回 落慶した高徳院の大仏像は11.31m (台座を含めると13.35m) 、八丈は23.68m (当時の1尺は29.6cm) だが坐像は立像の縮尺だから2分の1で11.84m、概ね正しい。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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6月18日 癸亥
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吾妻鏡
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京都朝廷の使者が参着、去る10日の午刻 (正午前後) に皇子が誕生したと報告。この加持祈祷のため大納言僧都 隆弁が去年上洛しており、この褒賞として同20日に法印に叙された。外戚にあたる将軍家 藤原頼経にとっても慶事であり、御息災を祈る費用の拠出が命じられた。
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   ※外戚: このとき産まれたのは後の第89代後深草天皇で、生母の西園寺実氏 (公経の長男) の娘
七大宮院は年後に後の第90代亀山天皇になる男子も産んでいる。
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将軍頼経の父親は 九条道家で生母は 西園寺公経の娘だから、第89代後深草帝と将軍頼経と第90代亀山帝は従兄弟同士となる (「天皇家の系図」を参照) 。
鎌倉将軍と朝廷と北條一族の反主流派と有力御家人 (三浦一族) の接近は、北條得宗 (嫡流) にとって看過できない状況だ。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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6月20日 乙丑
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吾妻鏡
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来る八月の鶴岡八幡宮での放生会で任に就く役人などについての沙汰があった。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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7月10日 乙酉
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吾妻鏡
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御家人同士が関係する訴訟について、両方の証拠書類などが明白な場合は論争を省いての結審も認める旨を、問注所に指示した。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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7月15日 庚寅
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吾妻鏡
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将軍家の御持仏堂 (久遠寿量院) で 盂蘭盆 (Wiki) 。導師は卿僧正良信、将軍家 藤原頼経の出御あり。
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   ※久遠寿量院: 御所の敷地に建てられた将軍頼経の持仏堂。建久六年(1195) 10月21日に記載の
ある 「頼朝御持仏堂」とは異なると考える説が主流である。
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久遠寿量院の名が吾妻鏡に載るのは建久六年が最初で、現在は東寺の古文書の中から久遠寿量院別当の覚書が発見され詳細が解明する今後に期待しよう。
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取り敢えずの予備知識は 歴史学者 永井晋氏による 鎌倉時代中期における鎌倉の密教 の5頁、10頁 (PDFファイル) を参照されたし。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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7月16日 辛卯
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吾妻鏡
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晴。戌刻 (20時前後) に安倍泰貞朝臣が命令を受けて由比浦で風伯祭を行なった。大和前司 春日部実平が祈祷の費用を負担し、左衛門尉宮内公景が代参の使者を務めた。
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   ※風伯祭: 東西南北の四方に存在する風の神を祀る祭事。
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   ※春日部氏: 紀氏一族の実直が国衙の官人として武蔵国に
土着したのが最初。当時の春日部は下河辺荘に含まれており、春日部実直も下川辺氏と同様に 八條院が所有する荘園で 源三位頼政の郎党として現地を管理する立場だった。
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平安末期に下川辺氏が開発した土地を頼政を経由して八條院に寄進、後に頼朝が管理権を安堵した。1200年代初期以後に北條氏の覇権が確立すると下川辺氏は北條得宗 (嫡流一門) の御内人 (陪臣) に組み込まれ、支配権をはく奪されている。
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  右上は宇治川合戦で自刃した頼政の首を郎党である下川辺何某が持ち帰って
   葬ったと伝わる古河の頼政神社。クリック→ 別窓で拡大表示  (地図)

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元々は下河辺行平が本拠を置いた古河城(絵図、別窓で拡大表示)の南端にあったが、大正期の渡良瀬川改修工事に伴って現在地に移転した。
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まぁ「誰々の首を何処々に葬った」という話は多いし、平家物語では「郎党の渡辺長七唱が自刃した頼政の首を落として石を括りつけ、平家に奪われぬよう宇治川の深みに沈めた」とあるから、あまり信頼できる由来ではない。
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実直の息子らは大井氏、品川氏、春日部氏、堤氏、潮田氏の祖となり、実春の弟実高は現在の春日部市浜川戸 (地図) 周辺を本領として春日部氏を名乗った。
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実高の嫡子 実平と嫡孫の実景は勢力を広げて有力氏族となったが宝治合戦 (1247年) では 三浦泰村に与して実景は自刃、嫡流は滅亡した。
実景の孫 実行の時代には元弘の乱 (後醍醐の第一次挙兵) で 新田義貞に従って功績を挙げ、討幕後に 後醍醐天皇から春日部郷の地頭職を安堵されたという。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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7月17日 壬辰
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吾妻鏡
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定例以外の将軍家出御の際に供奉人として加わるのか否かが判らず、毎回改めて決めるのが奉行人の負担となり更には遅延の原因になる。予め参加する順番と時刻が判っていれば昼夜を問わず対応できるだろうとの仰せが陸奥掃部助 北條実時に下され、現在祇候していない人数を基礎にして順番を定めた。
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前大蔵少輔 二階堂行方が小侍所で清書し台所に貼り出した。在国中の御家人は記載していないが、伺候していた場合は人数に加える事になる。予定の人数に欠員があれば他の番に予定した者を以て補填する。
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 供奉の結番告知(次第(順)不同)
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  上旬
    前右馬権頭北條政村   遠江馬助北條清時   遠江式部大夫北條時章
    大夫判官足利家氏   相模右近大夫将監北條時定   甲斐前司長井泰秀
    遠江修理亮北條時幸   能登守三浦光村   上総権介千葉秀胤   秋田城介安達義景
    周防前司中原親実   毛蔵人毛利経光   越後次郎   前大蔵少輔遠山景朝
    大和前司伊東祐時   大隅前司大河戸重隆   上総式部大夫千葉時秀
    甲斐守春日部実景   大夫判官宇都宮頼業   但馬左衛門大夫藤原定範
    判官笠間朝時   左衛門尉小山五郎長村   新田三郎   野弥四郎左衛門尉結城時光
    同十郎朝村   掃部助宇都宮時村   左衛門尉関政泰   左衛門尉宇都宮五郎泰親
    駿河五郎左衛門尉三浦資村   左衛門尉佐原五郎盛時   葛西三郎左衛門尉
    近江左衛門尉佐々木四郎氏信   和泉左衛門尉天野次郎景氏  左衛門尉天野七郎景経
    左衛門尉宮内公重   左衛門尉大須賀七郎重信   木内次郎胤家
    籐左衛門尉宇佐美祐時   左衛門尉小野寺四郎通時   信濃四郎左衛門尉二階堂行忠
    新左衛門尉後藤政景   左衛門尉多々良次郎通定   籐内左衛門尉山内通重
    渋谷次郎太郎武重   佐貫太郎時信   大和次郎宗綱   益戸三郎左衛門尉
    左衛門尉本間次郎信忠   左衛門尉大見実景
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  中旬
    武蔵守北條経時   備前守北條時長   相模式部大夫北條時直   摂津前司中原師員
    佐渡前司後藤基綱   下野前司宇都宮泰綱   遠江右近大夫将監北條時兼
    大蔵権少輔結城朝広   駿河式部大夫三浦家村   掃部助河越泰重
    相模七郎北條時弘   上総修理亮千葉政秀   美作前司宇都宮時綱
    江石見前司大江能行   前太宰狩野為佐   右衛門大夫水谷重頼   大炊助佐原経連
    能登左近蔵人仲時  隠岐大夫判官二階堂行久  信濃大夫判官二階堂行綱
    左衛門尉薬師寺朝村  佐竹八郎助義  駿河八郎左衛門尉三浦胤村  武田五郎三郎政綱
    梶原左衛門尉景俊  左衛門尉武藤景頼  淡路又四郎左衛門尉長沼宗泰   園田弥三郎
    左衛門尉塩谷四郎朝業   摂津左衛門尉大多和新左衛門尉  肥前太郎左衛門尉佐原胤家
    左衛門尉伊賀次郎光房   兵衛尉土肥次郎朝平   左衛門尉狩野五郎為広  常陸太郎
    千葉八郎胤時   長江八郎四郎景秀   弥善太左衛門尉三善康義
    左衛門尉内藤七郎盛継   左衛門尉後藤三郎基村   同、木幡三郎左衛門尉
    左衛門尉雅楽時広   豊田源兵衛尉   太宰三郎左衛門尉藤原為成
    左衛門尉安積六郎祐長  海老名忠行左衛門尉   源内左衛門尉飯富長能
    左衛門尉加藤行景
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  下旬
    丹後前司足利泰氏   陸奥掃部助北條実時   左兵衛尉北條五郎時頼
    若狭前司三浦泰村   越後掃部助北條時景   伊豆前司若槻頼定
    壱岐前司佐々木泰綱   少輔左近大夫将監大江佐房   陸奥七郎北條業時
    出羽前司二階堂行義   隠岐前大蔵少輔二階堂行方   美濃前司中原親実
    肥前前司佐原家連   前隼人正伊賀光重   伊賀前司小田時家   伯耆前司葛西清親
    加賀民部大夫町野(三善)康持   信濃民部大夫二階堂行盛   佐渡大夫判官後藤基政
    但馬前司藤原定員   淡路式部大夫   常陸修理亮重継  城次郎安達頼景
    小笠原六郎時長   判官河津尚景   上総左衛門尉千葉五郎泰秀
    上野兵衛尉結城五郎重光   駿河九郎三浦重時   兵衛尉大曽祢長泰
    駿河左衛門尉三浦又太郎氏村   隠岐次郎左衛門尉佐々木泰清   佐原六郎左衛門尉
    中務丞東胤行  左衛門尉伊東三郎祐綱   弥次郎左衛門尉親盛
    左衛門尉長掃部秀連   左衛門尉加地七郎佐々木氏綱   左衛門尉加地八郎佐々木氏朝
    大隅太郎左衛門尉大河戸重村   肥後四郎兵衛尉大見行定   左衛門尉紀伊次郎為経
    左衛門尉長尾三郎光景   左衛門尉広澤三郎実能   波多野六郎左衛門尉
    出羽次郎兵衛尉二階堂行有   左衛門尉伊賀四郎朝行  左衛門相馬五郎胤村
    海上五郎胤有   左衛門尉押垂基時
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   以上の順を守り参勤すること、仰せに依って定める。    寛元元年 七月 日
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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7月18日 癸巳
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吾妻鏡
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去る八日の除目の聞書 (記録の控え) が到着、親衛 北條経時が武蔵守に任ぜられた。前 武蔵守 北條朝直は遠江守に遷任である。
今夜戌刻 (20時前後) に安倍泰貞朝臣が天変に対応する祈祷を行なった。将軍家の使者は式部次郎蔵人、補助者は河野左衛門入道。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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7月20日 乙未
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吾妻鏡
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佐藤民部大夫業時が赦免を受けて鎮西から鎌倉に戻った。
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   ※佐藤業時: 評定衆を組織した嘉禄元年 (1225) 12月から、落書の罪で流罪になった仁治二年
(1241) 5月50日まで評定衆に任じた実務官僚で別称は相模大掾。
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有能な人材だったが些細な落書が尾を引いて幕政復帰は出来なかった。ただし嫡子の業連は建治二年 (1276) に評定衆、翌年には寄合衆に任じて幕政の中枢を担っている。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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7月29日 甲辰
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吾妻鏡
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将軍家 藤原頼経に上洛の意向があり、六波羅の御所を修理するよう仰せがあったが王相方のため新築も修理も支障があり、この節が過ぎてから手配するよう相模守 北條重時に命令があった。
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   ※王相方: 陰陽道で祀る王神と相神で節毎に所在の方角が変わる。その方向は移転や建築など
を忌む。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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閏7月 2日 丙午
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吾妻鏡
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御持仏堂に供花を続けた結願日にあたり、将軍家 藤原頼経が兼ねてから手書きで書写した法華妙典の献納供養を行なった。導師は岡崎僧正、布施は諸人が刮目するほどの見事さである。
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   ※供花: 期間を定めて仏に花を捧げる法要。法華八講に伴って行なったのが最初らしい。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
 
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陰暦では季節とのギャップ調節のため3~4年に一度閏(うるう)月が入る(ここでは 7月の次が閏 7月)。西暦と陰暦には一ヶ月前後のズレがある事にも留意が必要、例えば頼朝が挙兵した治承四年8月4日は西暦では 8月26日になる。陰暦→西暦の変換や確認は こちらのサイト が利用できる。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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閏7月 6日 庚戌
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吾妻鏡
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洛中の辻々各所に篝屋を設けて警備の要員を定めたが、土地の確保が遅れた数ヶ所が未完成である。今日沙汰があり、その土地については承久の乱での没収地から交換するなどで設定するよう六波羅に通達した。
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   ※篝屋: 六波羅の指揮下に置かれ運営は御家人に割り当てた。常駐した守護人は盗賊を警戒し
て京都の市街を巡回し、冬は篝火を焚き夏は灯火を点して警備した。洛中48ヶ所に設けたという。
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篝屋の初出は嘉禎四年 (1238) 6月19日、「洛中の治安を守るため町の辻々に篝 (かがり火を焚く鉄製の籠) を置いて灯す事が決まり、その役を御家人らに割り当てる事になった。」との記載がある。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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閏7月 7日 辛亥
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吾妻鏡
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所属する土地から逃亡した下人について、重ねての沙汰があった。地頭の下人と百姓の下人を差別しては根本的な解決が遠ざかってしまう。済んだことは特に追求せず、今後は逃亡した全ての下人を元の所有者に受け入れさせるよう、加賀民部大夫 町野 (三善) 康持に申し付けた。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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8月15日 戊子
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で放生会、将軍家 藤原頼経の出御は通例通り御車、御剣は越後守 北條光時、御調度 (弓箭) は梶原左衛門尉景俊が携えた。
信濃大夫判官 二階堂行綱と河津大夫判官尚景が家の子を伴って供奉した。
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   ※家の子: 一族の惣領と主従関係を結んだ (主として) 同族の庶流。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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8月16日 己丑
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吾妻鏡
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将軍家 藤原頼経の御参宮は昨日と同じ。御立願があり今年から三年間は馬場の催事を豪華に催した。
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十列は左衛門尉 武藤景頼、加藤左衛門尉行景、加地七郎左衛門尉佐々木氏綱、紀伊次郎左衛門尉為経、左衛門尉長掃部秀連その他による騎乗、信濃大夫判官 二階堂行綱小笠原六郎 (伴野) 時長、駿河左衛門尉 三浦五郎資村、上野十郎結城朝村、加地八郎左衛門尉佐々木信朝その他が流鏑馬の射手に任じた。
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同じく的立ては能登前司、但馬前司、隠岐前大蔵少輔、上野大蔵権少輔、大隅前司、上総権介らが行ない、競馬は雅楽左衛門尉時広、左府生兼見、左衛門尉本間信忠、中村三郎らが勝敗を決した。
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   ※十列: 本来は「儀礼的な飾り馬の一種」らしいが具体
的な様式は不明。飾り立てた騎馬の練り歩き (馬長、うまのおさ) とする説もある。
馬長と書かずに十列と書いた理由が判らない。単なる習慣か?
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右画像は祇園祭の花傘巡行での「馬長稚児」。
   画像をクリック→ 別窓で拡大表示
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   ※競馬: 単純な競走ではなく先行スタートした騎馬に追
い付いて捕らえるか、それとも逃げ切るかの勝負。疾走中の打擲や妨害も許されたのが実戦的で面白い。文治五年 (1189) 4月3日に記念切手の画像と共に記載した。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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8月24日 丁酉
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吾妻鏡
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晴。御所の廊下に於いて千度御祓いを行なった。泰貞、晴茂、泰守、晴長、国継、晴憲、晴貞、以平、泰房、泰兼 (各々衣冠束帯) がこれを担当した。この順序を決めたにも拘らず安倍宣賢が泰守の下座は容認できないと称して息子の資宣を推薦したため出仕停止の処分を受け、泰兼を代理とした。
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陪膳 (接待役) は相模右近大夫将監 北條時定、遠江式部大夫 北條時章 (布衣、狩衣) 、摂津前司 中原師員朝臣がこれを差配した。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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8月26日 己亥
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吾妻鏡
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三嶋大社の神事があり、(鶴岡八幡宮の) 放生会で流鏑馬に任じた射手以下の役に任じた者がこれを代行した。将軍家 藤原頼経に特別な祈願があった事に拠る。
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今日、武蔵守 北條経時が書状を問注所に送った。これは武州禅門 泰時の時代に結審した件で、原告が懸物の押書 (敗訴の場合は没収を容認する念書) を提出しなければ、互いに問答せよとの御書があっても再審を認めないとの内容である。、こす。執事の加賀民部大夫 町野 (三善) 康持が請文 (諮問に対する請書) を提出した。
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夜になって将軍家が前右馬権頭 北條政村に移られた。小御所および御持仏堂などを解体して建て直すまで45日の方忌 (方角を忌む、方違え) の転居である。<あこす>.

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   ※特別な祈願: 関白 九條道家には鎌倉幕府の権限を狭め朝廷の管理下に置きたい夢があった。
息子の将軍 頼経、有力御家人の三浦一族、北條内部の不満分子 (名越流 朝時の息 時長光時時幸、他) 、その他の不満御家人などを抱き込んで支配権を奪い昔通りに朝廷の栄華を取り戻す夢。寛元二年 (1244) 閏4月に勃発する 宮騒動 (Wiki) がその結果となる。
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   ※北條政村邸: 鎌倉駅西口から真っ直ぐ西へ、隧道を二つ抜けた先の北に開いた谷津 (地図)
政村流北條氏の常盤亭跡、である。詳細は 文化遺産オンライン (外部サイト) で確認を。昔は奥まで入って見学できたのだが現在は閉鎖されたらしい。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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9月 5日 戊申
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吾妻鏡
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晴。将軍家 藤原頼経が佐渡前司 後藤基綱の大倉邸に入御した。
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武蔵守 北條経時および 左近大夫将監 北條時頼、前右馬権頭 北條政村、遠江守 北條朝直、越後守 北條光時、丹後前司足利泰氏、備前守北條時長、陸奥掃部助北條実時、遠江式部大夫北條時章、相模式部大夫 北條時直、若狭前司 三浦泰村、秋田城介 安達義景、能登前司 三浦光村、下野前司 宇都宮泰綱、壱岐前司 佐々木泰綱、上総権介 千葉秀胤らが供奉し、隠岐次郎左衛門尉 佐々木泰清が御調度 (弓箭) を携えた。
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基綱邸では和歌と管弦の会が催され 能登前司三浦光村 と 壱岐前司佐々木康綱が琵琶を奏で、二條中将教定、壬生侍従、相模三郎入道 北條資時、河内式部大夫源親行 (源光行の嫡子で和歌奉行) らが座に加わった。この家は閑静な山の陰にあるのみならず紅葉に混じる松の緑が美しく、黄色の菊や青い苔が露を帯びるの姿も一層の趣を感じさせる。薄暮を迎える頃に舞女三人が加わって廻雪の袖を翻し、人々は猿楽を楽しんだ。将軍家は明け方になって還御、基綱は御贈物を献じた。
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   ※廻雪の袖: 舞を意味する。風に吹き上げられた雪が舞う様に袖が翻る舞姿を想像しよう。
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   ※猿楽: 能狂言の源流とされる古典芸能で、鎌倉中期までは滑稽が主体。更に詳細は Wiki で。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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9月19日 壬戌
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吾妻鏡
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晴。亥刻 (22時前後) に若君 (後の五代将軍 藤原頼嗣) が疱瘡に罹病、安倍泰貞朝臣が里亭 (将軍の逗留場所) で如法 (規則通りの) 泰山府君祭を行なった。これは武州 北條経時の命令に拠るもので、信濃大夫判官 二階堂行綱を祭祀の使者として派遣した。
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   ※泰山府君祭: 仏教の護法善神「天部」の一人 焔摩天に従う眷属で陰陽道の主祭神、生命を司
る神でもある。天曹と地府を中心とした十二座の神に金幣、銀幣、素絹、鞍馬、撫物などを供えて無病息災と延命長寿を祈祷する。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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9月20日 癸亥
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吾妻鏡
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戌刻 (20時前後) に散位従五位下清原眞人季氏 (嘉禎二年 (1236) から評定衆) が死去、65歳。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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9月25日 戊辰
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吾妻鏡
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御家人の訴訟に関して評定衆による会議があった。訴訟の経緯と結審の書類を将軍家に提出して決裁の許可を得てから実施するのが順序だが、施行の遅れは避けられない。
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今後は訴訟を担当する者が判断し、結審書類の内容に従って命令書を作成する。問注所で結審書類と命令書の内容を照合して相違がなければ施行する。そう決定して加賀民部大夫 町野 (三善) 康持に指示が下された。
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   ※決裁手順: 従来の手順から将軍の決裁を省く画期的なシステム変更。執権 経時の英断だが、
将軍 頼経の周辺と北條執権の齟齬が深まり、寛元四年 (1246) に勃発する宮騒動の伏線にもなった。特に名越流北條氏と頼経の関係が緊密だった事が執権側の警戒感を助長させた。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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9月27日 庚午
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吾妻鏡
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正六位上の越後掃部助平朝臣北條時景が死去、38歳。
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   ※北條時景: 北條時房の孫。時房-庶長子時盛-長男時景と続く。時盛は分家して佐介流北條 .
西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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10月 1日 甲戌
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吾妻鏡
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晴。若君 (後の五代将軍 藤原頼嗣の病気が回復した。今日の午刻 (正午前後) に穢れを流す御沐浴の儀を行ない医師の丹波頼行および広長朝臣に報賞を与えた (各々御剣一腰と御衣一領) 。
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   ※丹波頼行: 丹波氏は医師 典薬の家系だが、頼行が系図のどこに位置するのか不明。丹波氏と
鎌倉との関係は嘉禄元年 (1226) 1月の四代将軍頼経就任に伴って朝廷の 施薬院 (Wiki) から 丹波良基が鎌倉に派遣されて将軍 頼経の主治医に任じたのが最初となる (ただし、翌 嘉禄二年11月の頼経の病気の際には良基の名前がなく、空白期間があったのかも)。
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いずれにしろ朝廷限定だった「先進的な医学知識」が鎌倉に定着したのは頼経の鎌倉下向と同時期で、仁治元年 (1240) に死没した良基の跡を頼行と広長が継いだらしい。
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建長四年 (1252) には頼経の嫡子で五代将軍 頼嗣が廃されて後嵯峨天皇の皇子 宗尊親王が皇族出身の六代将軍になり、朝廷の最高医官だった典薬頭の丹波長忠と玄蕃頭の丹波長世が鎌倉に派遣され、医術の知識は陪臣に過ぎない北條一族にも提供され始める。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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10月 7日 庚辰
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吾妻鏡
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晴。今日 (頼嗣の) 小御所建築に伴う作事始めあり。奉行は佐渡前司 後藤基綱と出羽前司 二階堂行義
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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10月21日 甲午
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吾妻鏡
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大納言法印 隆弁が京都から鎌倉に戻った。去る6月10日の皇子誕生の加持祈祷のみならず同21日の今出河入道相国 西園寺公経の瘡病の祈祷も行ない、直ちに治癒させたという。
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   ※瘡病: 一般的にはできものや腫れものを差すが、後の安土桃山時代には伝播した梅毒の意味
もあったらしい。鎌倉時代は除外して良いのだと思うが、念のため記載しておく。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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11月 1日 癸卯
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吾妻鏡
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壱岐前司 佐々木泰綱が相伝してきた近江国に散在する所領を没収し同族の人々に分け与えた。これは左衛門尉 佐々木太郎重綱法師 (泰綱の長兄) からの訴えに拠る。
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泰綱は守護の権威を振り翳して近江国内に散在していた土地を奪って専有した。また式目 (貞永式目) の趣旨に背いて所領を没収された犯罪者を管理者として配置している。その結果として今回の処分になったのだが、佐々木泰綱から今日父祖や兄弟の勲功を載せた嘆願書の提出があった。
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この中には 承久の乱での 佐々木信綱の功績や 嘉禎元年 (1235) に高野山に蟄居した事、仁治二年 (1241) 6月8日に隠居した際に「子孫については配慮を加えるから憂慮の必要はない」との将軍家の御教書などを得て心置きなく往生できたことなどが記してある。
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これらの領地は父の信綱入道が承久の恩賞や父祖伝来の所領について本主 (元の権利者) の譲渡書類を得た上で個別の御下文を受けて知行していた、或いは本所が所有する土地の和与状 (管理を預託する委任状) に基づいて領掌していたものである。式目を制定した貞永元年以後に報告せず領有するのは犯罪だが、この散在領地の殆どは式目以前の承久の頃に知行を開始している。
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(兄の) 重綱法師は私 (泰綱) を陥れるため不忠不幸を企み、死骸 (死んだ父親信綱) に敵対しているのは重科に問うべきである、と。
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   ※佐々木重綱: 理由は不明だが信綱は生存中に三男泰綱を後継
として惣領権と本領を譲った事になっている。
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長男重綱が坂田郡大原荘を (子孫は大原氏) 、次男高信が高島郡田中郷を (子孫は高島氏) 、三男泰綱が宗家を継いで江南の神崎郡、蒲生郡、野洲郡、栗太郡、甲賀郡、滋賀郡を (子孫は六角氏) 、四男 氏信が江北の高島郡、伊香郡、浅井郡、坂田郡、犬上郡、愛智郡を (子孫は京極氏) を分割継承した。
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信綱は承久の乱で院方に味方した長兄 広綱の遺児 勢多伽丸 (13歳) を殺し兄の遺領を独占した人物。息子たちも泰綱の独占相続には各々不満がある事から、後世には佐々木氏の分裂と弱体化がスタートする。
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   ※嘉禎元年:7月29日に信綱の次男 高信が比叡山衆徒による神輿の入洛を阻止して神人を死傷
させて豊後配流になった事件。高信は後に赦免を受けて復帰し信綱はしばらく高野山に蟄居していたと思われる (吾妻鏡には記載なし) 。
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翌嘉禎二年 (1236) 9月5日には「今日、近江入道虚仮 (佐々木四郎信綱) が評定衆を辞して俄かに上洛の途に就いた。以前から隠居の希望を抱いていたらしい。」との記載があり、この時点では鎌倉に戻っていた。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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11月 2日 甲辰
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吾妻鏡
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晴。将軍家 頼経の持仏堂と小御所および御室戸大僧正坊と (修法の) 壇所の立柱と上棟を行なった。
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   ※御室戸: 現在の宇治 三室戸寺 (公式サイト) の古名、大僧正は頼経の叔父 九条良経の息子 (頼
経の父九条道家の弟の息子)。弘長三年 (1263) に 宇治 平等院 (公式サイト) の執事に任じる。坊と壇所の双方が必要な理由は不明だが鎌倉来訪の際の対応だろうか。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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11月10日 壬子
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吾妻鏡
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在京御家人の大番勤務免除についての評議を行なった。
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例えば西国の所領に常駐しながら時々上洛する者は、京都に常駐する御家人に準じた扱いをしてはならない。
六波羅に勤務するのは幕府への奉公だから、大番役を免除される。また大谷中務入道は六波羅に伺候せず所領に下向している。早急に大番役に復帰するよう命令が下された。
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   ※大番役: 平安末期までは手弁当の3年勤務、頼朝の時代に半年に短縮され 鎌倉時代中期に3ヶ
月勤務となった。貞永式目には「召集の権限は守護にある」と明文化されている。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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11月18日 庚申
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吾妻鏡
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天変に対応し 将軍家の意向を受けて安倍泰貞朝臣による天地災変祭を催した。差配は陸奥掃部助北條実時、水谷左衛門大夫が将軍家の使者として派遣された。 .

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   ※天地災変祭: 陰陽道で行われる祭祀のひとつ。天変地異や怪異、厄年などの時に行なう。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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11月26日 戊辰
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吾妻鏡
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摂津国渡部の海賊の罪状について、太田民部大夫 三善康連の奉行により評定を行なった。この海賊事件により、刑部丞源綱法師の所領を管理する下司職が領家により没収となった。
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   ※摂津国渡部: 現在の北浜駅に近い天神橋 (地図) 付近にあった港湾施設が渡辺津。摂津国府直
轄の港として繁栄した。この地域に本拠を置いたのが摂津源氏 源頼光に仕えた渡辺党で、後に 源三位頼政の郎党として宇治川合戦を戦っている。
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頼朝と同じ時代を生きた僧 文覚も元は渡辺党 遠藤氏の出身で、北面武士として鳥羽天皇の皇女 統子内親王(上西門院)に仕えていた。
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元暦二年 (1185) 2月18日に屋島の平家を攻めるため 義経が阿波に向け強行船出したのも渡辺津からで、後に京都を脱出した義経が文治元年 (1185) 11月6日に鎮西を目指して出航したのは淀川北岸の大物浦 (地図) だった。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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12月 2日 甲戌
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吾妻鏡
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晴、風は鎮まった。未刻 (14時前後) に将軍家 藤原頼経の小御所への転居に際し、武州 北條経時が整えた酒宴の席に入った。評定衆も同様に参席した。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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12月10日 壬午
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吾妻鏡
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晴。丑刻 (深夜2時前後) に新造の壇所 (修法の場所、御所の巽 (南東) にある) の大僧正坊 (将軍頼経の叔父 大僧正房道慶、11月2日に記載) が移設された。
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佐渡前司 後藤基綱、能登前司 三浦光村、但馬前司 藤原定員、出羽前司 二階堂行義らが加わり、毛利蔵人大夫入道 毛利季光が豪華な宴席の準備を整えた。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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12月22日 甲午
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吾妻鏡
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奴婢および雑人の息子や娘の処遇について評議あり。10歳までは父母の保護下とし、10歳を過ぎれば年令に応じた処遇とする。京都朝廷の管理下にある者には関与しない。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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12月25日 丁酉
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吾妻鏡
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晴。信濃法印道禅が南御堂 (勝長寿院) の廊下で (仏との) 結縁を結ぶ 灌頂 (Wiki) を行なった。
将軍家 藤原頼経)および御台所と同御母が臨席し、併せて人々も群参した。
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   ※御台所と乙若: 頼経の次男 (詳細不詳) で生母は三位中納言 持明院 (藤原) 家行の娘 大宮殿 (正
室扱い)。他に寛元元年 (1244) に誕生する三男 (源恵、生母不明) が本覚寺門跡→ 日光山別当→ 勝長寿院別当を経て正応五年 (1292) に97世の天台座主に就任する。
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
寛元元年
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12月29日 辛丑
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吾妻鏡
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晴。午一点 (11時過ぎ) に白虹が太陽を貫いた様子を将軍家 頼経が視認され人々も同様に確認した。
太陽が中天を過ぎて傾き始めた未申刻 (14時~16時) にかけてこの変異は終わり、将軍家は司天 (天文担当) を呼んでこの変異について直接質問した。
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まず上席にある安倍泰貞が「この虹に関しては以前から論争があり、今回まで意見の一致はありませんが、雲が太陽を遮っている際には確認できません。」と語り、安倍晴賢は「明らかに日を貫いています。」と語り、国継、晴茂、広資らは「白虹に間違いありません。」と述べた。
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武州 北條経時が参上し、その後に御所南庭で七座の泰山府君祭が催された。
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   ※白虹の変異: 霧などの際に見られる白色の虹で兵乱の兆しとされた。延応元年 (1239) 3月5日
と15日にも白虹に関する議論で一応の結論が出たのだが、再び同じ論争を繰り返している。
兵乱の兆しだとしても三浦 (宝治) 合戦は4年後だから、予兆云々は早過ぎる。
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2025年
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12月04日
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晴耕雨読
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今朝、「この年からフォントサイズと行間の調整は許容範囲だから修正しない」と書いたが、これは撤回する。苦しくなると妥協するのは恥だ。今まで通り、最後までやり遂げる。
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と言うことで、15時30分に このページ 寛元元年が終了した。
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時間の余裕を見つけては手直しを続けてきた庭と菜園は整理が進んで、見栄え (花壇) も収穫 (果樹と野菜) も良くなった。まぁ家庭菜園と花壇は妻の既得権 (笑) 、肉体労働を伴う場合は私の担当になる。だから、しょっちゅう体のあちこちが痛い。
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右は紅葉したベニカナメモチの下で門方向を警戒する四匹の瀬戸焼き犬。クリック→ 拡大表示
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
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寛元元年
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 月 日
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吾妻鏡
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予備
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
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吾妻鏡
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予備
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西暦1243年
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88代 後嵯峨天皇
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寛元元年
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吾妻鏡
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予備
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