
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 1月 1日 壬寅 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。武蔵守 北條経時の沙汰による椀飯※の儀あり。前右馬頭 北條政村 (狩衣) が御剣を、若狭前司 三浦泰村 (狩衣) が御弓箭を、秋田城介 安達義景 (狩衣、平礼) が御行騰沓※を献じた。 (以下、献上の馬) . 一の御馬 (鞍置き) 左近大夫将監北條時頼 右衛門尉梶原景俊 二の御馬 遠江次郎左衛門尉佐原 (蘆名) 光盛 同、左衛門尉三浦 (佐原) 五郎盛時 三の御馬 左衛門尉武藤景頼 同、左近将監兼頼 四の御馬 新左衛門尉平盛時 同、四郎胤泰 五の御馬 北條六郎時定 弥次郎左衛門尉 . 将軍家 藤原頼経並びに若君 (後の五代将軍 藤原頼嗣) と御台所 (大宮殿) と二棟の御方 (頼嗣の生母) が御行始め (外出初め) として武蔵守北條経時邸に渡御した。 . 今日、将軍家の御願として久遠寿量院 (頼経の持仏堂) で大納言法印 隆弁による如意輪法を修した。 他に初夜 (元旦前夜) には最勝王経の転読、日中には観音経、日暮れからは大般若経の精読を催した。 . . ※椀飯 (おうばん) : 饗応の献立、食事を摂る儀式、行事も意味する。大判振る舞い、の語源。 . ※行騰 (むかばき) と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像 (Wiki) を参考に。 . . ※年令: 四代将軍 藤原頼経は間もなく 27歳、4月に退任し五代将軍は嫡子 頼嗣、頼経の正室 だった 竹御所 (二代将軍 頼家の娘) は嘉禎元年 (1235)
7月の死産後に病没 (享年32) 、継室の大宮殿 (頼嗣の生母) は 藤原親能 (承元元年、1207年11月没) の娘だから、最も若いと計算しても 35歳、
坊門信子 (故 実朝の寡婦、出家) 57歳 、 .. 三代執権 北條泰時 は前々年6/15病没 (享年58) 、 後継執権は北條経時 19歳、連署は空席、泰時は弟の重時に経時の補佐を頼み、同年齢の北條 (金沢) 実時に経時への協力を委託した。 北條時頼 16歳、 北條朝時 51歳、 北條重時 46歳、 北條政村 40歳、 北條実泰 36歳、 北條実時 18歳、 . 三浦泰村 60歳、 千葉時胤 25歳 、 安達景盛 61~69歳※ 、 安達義景 33歳、 足利義氏 54歳、 宇都宮頼綱 65歳、 宇都宮泰綱 45歳、 二階堂行盛 62歳、 二階堂行泰 32歳、 . 87代 四条天皇前々年 1/9崩御 (享年10) 、88代 後嵯峨天皇 23歳 86代 後堀河天皇 は天福二年 (1234) 8/31に崩御 (享年23) し上皇は不在、 . 西園寺公経 8/29没 (享年73) 、 九条道家 50歳、 親鸞 68歳、 叡尊 43歳、忍性 26歳、 日蓮 22歳、 . (全て1月1日基点の満年令、下線付きはWiki) ※ 安達景盛は寿永元年 (1182) 誕生 (異父兄 島津忠久との年齢差は5) と仮定して推定。 . ※政情: 安貞二年 (1228) 12月に 関白が 近衛家実 (Wiki) から鎌倉将軍 藤原頼経の父 九条道家 に交替。近衛家実 (通称を猪熊関白) は鎌倉幕府と協調して後鳥羽院政を否定し 「成功 (売官制度) 」 なども取り入れたが、将軍頼経と三浦一族と西園寺公経と組んで幕府への圧力を強めようと諮った九条道家との権力争いに敗れて政治力を失ってしまう。 .※幕政: 時房の没後は後任の連署を置かず 空席。宝治合戦 (1247年) で三浦一族が滅亡した後 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 1月 2日 癸卯 . 吾妻鏡 |
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相模右近大夫将監 北條時定の沙汰による椀飯の儀あり。左近大夫将監 北條時定が御剣を、但馬前司 藤原定員が御弓箭を、石見前司能行(大江氏だが系図に記載なし)が御行騰沓を献じた。(以下、献上の馬と曳き手) . 一の御馬 (鞍置き) 相模七郎※ 小河右衛門尉 二の御馬 駿河式部大夫三浦家村 同、八郎左衛門尉三浦胤村 三の御馬 但馬左衛門大夫藤原定範 斎藤左近将監 四の御馬 山城前司本間元忠 対馬佐々木太郎重綱※ 五の御馬 越後次郎※ 同、三郎※ . . ※相模七郎: 北條時定が相模六郎だから次弟だと思うが...確信が持てない。 . ※佐々木重綱: 佐々木信綱の長男で大原氏の祖、昨年 (1243) 11月に弟 泰綱と所領を争った。 . ※越後次郎、三郎: 北條光時と次弟の時章かと思うが...これも確信が持てない。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 1月 3日 甲辰 . 吾妻鏡 |
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晴。遠江入道北條朝時の沙汰による椀飯の儀あり。兵衛大夫毛利広光が御剣を、遠江式部大夫北條時章が御弓箭を、備前守北條時長が御行騰沓を献じた。(以下、献上の馬と曳き手) . 一の御馬 (鞍置き) 遠江修理亮北條時幸 左衛門尉大見実景※ 二の御馬 新左衛門尉平盛時 同、四郎※ 三の御馬 左衛門尉広河五郎 同、八郎 四の御馬 左衛門尉佐原七郎政連※ 同、兵衛三郎 (盛連の子 蘆名光盛※) 五の御馬 左衛門尉遠江三郎北條時長 飯田五郎家重※ . . ※大見実景: 大見実政の系だと思うが宇佐美氏との系図が錯綜して確認できず。 . ※平四郎: 盛時は三郎だから四郎は息子か弟、霜月騒動で悪名高い長子の頼綱は仁治二年 (1241) 前後の誕生だから除外できるが、盛時の弟は記録に残っていない。 .※佐原政連: 佐原 (三浦) 義連の次男で盛連の弟 (本領は会津) だろう。光盛の生母は矢部禅尼。 . ※飯田家重: 頼朝と頼家の時代から仕えた御家人で本領は現在の横浜市泉区一帯。いずみ中央 駅近くにある 長福寺、地図)は家重が頼家の菩提を弔うため建立したと伝わるが 建暦三年 (1213) 2月下旬に勃発した 源頼家の遺児千寿丸を擁立して 北條義時の打倒を謀った泉親衡とも関連があるらしい。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 1月 4日 乙巳 . 吾妻鏡 |
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子刻 (深夜0時前後) になって将軍家 藤原頼経※が内々の使者を送って大納言法印 隆弁に伝えさせた。 . 今年の (私の) 本命宿※は月曜だが来る16日には月蝕がある。天文道の輩も陰陽道の輩も行動には慎みが必要だと言っているため、今回は月蝕が現れないよう祈ってもらいたい。と。 .隆弁は無理だと上申したが、重ねて求められたため領状 (了承) した。 . . ※本命宿: 古代中国で信じられた九星 (一白、二黒、三碧、四緑、五黄、六白、七赤、八白、 九紫) を産まれた年に当て嵌めて運勢を占う陰陽道の習慣。 .※頼経の行動: 月蝕制御を命じた記事には頼経が愚昧だった可能性と共に、吾妻鏡の編纂者が 意図的に頼経の資質を貶めた可能性 (頼家排斥の例あり) を考える必要がある。 .. この年、頼経の外祖父で関東申次※を兼任し北條氏との関係を比較的良好に保っていた 西園寺公経が実務から退き8月に死没する。 . 頼経の父で鎌倉と敵対的な関係だったもう一人の関東申次 九条道家と将軍頼経が協力して幕府に政治的な介入を試みる。道家は発言力を強めるため、北條一族の反得宗勢力を巻き込んで北條得宗の対立軸となる深刻な状況となった。 . 当然ながら頼経と執権 北條経時の関係は悪化し、4月22日の 藤原頼嗣の元服と将軍着任により、頼経は実権を失なう※結果を招いてしまう。 ※関東申次: 承元四年 (1210) に常設された朝廷の役職で 西園寺家の世襲職となっていた (一時 期は複数が着任)。幕府側の六波羅 (探題) と共に京都朝廷と鎌倉幕府の関係を調整する窓口となり、鎌倉中期から幕府の滅亡まで続いた。 .※将軍退位: 吾妻鏡は頼経の意思による息子頼嗣への譲位を匂わせているが、実際は執権経時 が頼経の退任を強要したと考えるのが妥当だ。私は「執権経時による決裁」と推定するが、幕閣の中でどんな論議が交わされたのかは記録にない。 .. いずれにしろ、寛元四年 (1246) 閏4月に勃発する 宮騒動 (Wiki、名越光時の反乱未遂および頼経の追放) の前哨戦である。 |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 1月 5日 丙午 . 吾妻鏡 |
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御弓始めあり。秋田城介 安達義景が取り次いで射手の名簿を持参、将軍家は御簾を上げ観覧された。 .. 射手 一番 武田七郎 vs 岡辺左衛門四郎 二番 桑原平内盛時 vs 早河太郎 三番 眞板五郎次郎経朝 vs 対馬太郎佐々木頼氏 四番 肥田四郎左衛門尉 vs 工藤三郎 五番 小野澤次郎時仲 vs 山内左衛門次郎 |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 1月 6日 丁未 . 吾妻鏡 |
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窮冬 (冬の終わり、陰暦の12月) に白虹が太陽を貫いた変異 (12月29日の事件) に対応して祈祷を行うよう仰せがあった。中原師員朝臣がこれを差配する。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 1月 8日 己酉 . 吾妻鏡 |
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天変に対応して祈祷が催された。 .. 内法(仏教) 八字文殊は卿僧正 北斗は常住院僧正 薬師は大蔵卿僧正 尊星王は信濃法印 金剛童子は如意寺法印円意 愛染王は大夫法印賢長 金輪は大弐法印 以上は護摩行 . 外典(陰陽道) 天地災変祭は泰貞朝臣 属星祭は晴賢朝臣 |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 1月11日 壬子 . 吾妻鏡 |
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同様の祈祷として、鶴岡八幡宮で大般若経の転読 (YouTube 動画) あり。 伊豆山権現と筥根 (箱根) 権現では本地仏※への祈祷を行なうため別当が参籠した。供料は政所の沙汰、三嶋大社でも禅暹※僧都邁進が本地供 (本地仏の供養) を行なった。 . . ※暹: 略字のない漢字で部首は「日」、太陽が昇る様子を意味する。 . ※本地仏: 本地垂迹説に基づ 「神は仏の化身であり本来は一体である」 と考える思想。 神仏を択一せず、併存を合理化するための抜け道として考え出された辻褄合わせ。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 1月12日 癸丑 . 吾妻鏡 |
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. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 1月16日 丁巳 . 吾妻鏡 |
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晴。朝から戌刻 (20時前後) まで雲一つない晴天だったが、月蝕の時間には未申 (南西) から一片の雲が現れて間もなく空に広がり小雨まで降り始めた。 月蝕が終わる時間になって雲が晴れ、月が鮮明に眺められた。 . 丑刻 (深夜12時前後) に将軍家 藤原頼経は御自筆の御賀札 (礼状) を添え、鞍を置いた御馬 (直山という名馬) と白造りに誂えた御剣などを 隆弁の壇所 (祈祷所) に贈った。 使者は肥後三郎左衛門尉為重 (父は前太宰小弐 狩野為佐)、現在は御厩別当に任じている者である。 . 隆弁法印は (1月4日に将軍家の仰せを受け) 去る8日から明王院 (現在の 五大堂明王院、公式サイト) ※の北斗堂 (仁治二年 (1241) 8月25日落慶供養) に参籠して祈願を続けていた。 . .
※明王院: 不動明王など五大明王を本尊に祀る鎌倉唯一の寺。
寛永年間 (1624~1644) の火災で全堂宇と仏像 (五大明王の 降三世、軍荼利、大威徳、金剛夜叉の四体) を焼失、不動明王像のみが辛うじて被災を免れた。
.. 不動明王像はその作風から 運慶の弟弟子 (実弟の弟子) の仏師 定慶 (肥後法橋、「仏師の系図」を参照) が造像を担当したと推定されている。 . 作風以外の傍証として 明王院の開基が藤原頼経である事、文暦二年 (1235) に頼経の正室 竹御所の一周忌追善供養のために彫らせた仏像の作者が肥後法橋と記載 (同年5月27日の吾妻鏡を参照) されている事で、共に頼経が概ね同時代に関与している事実が根拠となっている。 . 右上は明王院の本尊 不動明王像 (クリック→ 別窓で拡大表示) . ※百錬抄: 月蝕の全容が見えた。元に戻ってから踏歌節会※あり、但し帝の出御なし。 . ※踏歌節会: 宮廷の年中行事。正月14日か15日に男の、16日に女の踏歌 (群舞) を帝が紫宸殿で 観覧し、終了後に五位以上の朝臣に宴を賜わるのが通例だった。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 1月17日 戊午 . 吾妻鏡 |
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将軍家 藤原頼経が二所詣の精進潔斎を開始、潮に浴するため由比浦に出御した。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 1月20日 辛酉 . 吾妻鏡 |
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陰陽師の安倍業氏朝臣が敵により殺害※された。 . . ※敵による殺害: 安倍晴明 (Wiki) の活躍により陰陽道の本流となった安倍氏は内部告発と抗争 と衰退を繰り返し、晴明の直系子孫が嫡流に復活するのは足利幕府の時代を待つことになる。 .. 1月22日の記事 (百錬抄) では安倍業氏の殺害は京都での事件だが、寛元五年 (1247) にも後継者争いが原因で殺人事件を引き起こし双方が大きなダメージを負っている。利権は、信仰心よりも優先される。宗教団体も清廉潔白ではいられない、ということだ。 |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 1月21日 壬戌 . 吾妻鏡 |
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. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 1月22日 癸亥 . 吾妻鏡 |
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. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 1月23日 甲子 . 吾妻鏡 |
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. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 1月24日 乙丑 . 吾妻鏡 |
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暴風雨あり。将軍家 藤原頼経が 伊豆山 (走湯権現)に御参拝。激しい降雨のため供奉人は皆鼻を舐めるような有様だった。その後は伊豆山の衆徒を含めて終夜の歌舞演芸を楽しんだ。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 1月25日 丙寅 . 吾妻鏡 |
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夕刻まで雨。将軍家 藤原頼経が走湯山に御奉幣。昨日が坎日 (忌み日) のため今朝に延期していた。夜になって浜部の宿※に着御した。 . .
※浜部の宿: 嘉禎四年 (1238) 10月28日、京都の帰路に将軍の
頼経が宿泊した記録があり、新編相模国風土記稿 (Wiki) には 「東海道から北に折れた町並み、北側に土手の痕跡が残る付近を御所小路と称した」との記述がある。 .. 将軍頼経が宿所とした「伝 浜部御所」は西酒勾二丁目付近 (周辺地図) の可能性が高い。 . 右は伊豆山神社~浜部のルート図。 クリック→ 別窓で拡大表示 . 現在の地図との合成だから誤差はあるが、建久元年 (1190) 1月20日の頼朝ニ所詣の記録には以下の文言が残っている。 . . 現在と大差のないルートが通じていたと想像できる。与一らの討死は治承四年 (1180) 8月23日 (西暦の9月4日) 夜、台風に伴う豪雨の中での乱戦だった。 |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 1月26日 丁卯 . 吾妻鏡 |
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未刻 (14時前後) に将軍家 藤原頼経が鎌倉に戻り御所に入御した。
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. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 1月27日 戊辰 . 吾妻鏡 |
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御所で椀飯 (1月1日を参照) があり、人々は布衣 (狩衣、武士の略礼服) で参入した。 .終了後に二棟の御方 (後の五代将軍 藤原頼嗣の生母) の御所で酒宴あり。 |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 1月28日 己巳 . 百錬抄 |
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土御門の若宮 (後嵯峨天皇の第三皇子、後の宗尊親王、第六代鎌倉将軍) が立親王の宣旨を受けた。 .御名は宗尊、式部大輔為長卿の撰による。生母は後嵯峨天皇の内侍、 更に詳細は 宗孫親王 、Wiki) で。 |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 2月 3日 甲戌 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。故 前右京兆禅室 (北條泰時) の孫女 (富士姫公と号す) ※が駿河国富士郡※に下向した。 . .
※富士郡: 当時の得宗領、概ね現在の富士市と富士宮市を差す。
右画像をクリック→ 別窓で拡大表示 .※富士姫: 北條時氏 (泰時の長男、28歳で早世) の娘、後に 足利 泰氏の正室として嫁した。正室だった 北條朝時の娘は側室になり彼女が産んだ嫡子の 家氏は尾張足利氏に入って吉良氏の祖となり、足利宗家の四代当主 (泰氏の後継) は富士姫が産んだ 頼氏が継いでいる。 .. 得宗家との血縁を深め相互の関係を強化したのだろうが、泰氏の父 足利義氏も泰時の娘 (義時の娘説あり) を正室に迎えているから、少しやり過ぎだった感はある。 . 朝時は名越流で時氏は北條嫡流、家格は上だから当時は珍しくもなかったのだろうが、多少の遺恨を残した可能性はある。 . 更に遡れば 足利義氏の父 義兼も 北條時政の娘を正室に迎えたし、庶長子 義純は正室だった 新田義兼の娘と息子二人を離縁し、義時と 政子の意向を受けて 畠山重忠の寡婦 (時政の娘で政子の妹) を正妻に迎えて畠山の名跡を継いでいる。 . 正妻の座を奪われた元正妻の 足立遠元の娘は 重忠が戦死した二俣川で後追い自殺を遂げている。 . そして百年の時が流れ、「因果は巡る糸ぐるま」...の結果に至る。江の島の岩窟で龍の化身が参籠した時政に告げた言葉、「身を慎まないと子孫の破滅を招く」と。 . 元弘三年 (1333) に北條一族と鎌倉幕府を滅ぼしたのは新田義兼の子孫 義貞と、足利泰氏の子孫 高氏 (後の尊氏) 。 . 更に元弘三年 (1333) に幕命を受けて鎌倉から楠木正成追討のため西に向かった高氏が三河の吉良領に入り、その際に北條氏を見捨てて倒幕の挙兵を勧め高氏の決起を促したのが吉良長氏の孫 貞義だというのも一つの巡り会わせなのだろうか。 . 正妻の座を追われた女たちと、正嫡の座を奪われた息子らの怨みが招いた結果か。 |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 2月15日 丙戌 . 吾妻鏡 |
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晴。戌刻 (20時前後) に雷鳴あり。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 2月16日 丁亥 . 吾妻鏡 |
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今日評定衆による協議があり、数件の法令が定められた。 . 一.奴婢の養子について。 奴婢を支配する立場の者は売買に関与してはならない。 .一.寛喜の飢饉の際に認めた養子の売買について。 血縁ではない非人の身分には関与しない。血縁は一代のみ認めるが、子孫までは及ばない。 .一.売買された奴婢を買い戻すことについて。 この法令以前の事例は元の所有者に返還する。今後は人身売買に当たる犯罪であり認められない。
.一.六波羅による西国守護の管理範囲について。 鎮西 (九州) は右大将家 頼朝の時代※に準じて処理し、式目に拠る必要はない。その他の西国は式目に従って処理するよう、六波羅に指示を与える。
.. ※頼朝の時代: 鎮西は九州惣追捕使に任じた 天野遠景が行政権者だったが能力に問題があり、 鎮西の国人 (地侍) の反発を受けて建久元年 (1194) に解任された。 .. 身命を賭して源平合戦を戦った弱小御家人にとって、勲功を挙げる機会が少ない平和な時代では能力を活かせず、悲惨な後半生を送る例が多かったのもまた現実である。 |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 2月23日 甲午 . 吾妻鏡 |
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丑刻 (深夜2時前後) に若君 (間もなく将軍職を継ぐ 藤原頼嗣に体調不良の気配あり。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 2月24日 乙未 . 吾妻鏡 |
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若君 (頼嗣) の体調不良に対応して祈祷あり。霊気は安倍泰貞、二座の鬼気祭は国継と文元が任じた。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 3月 1日 辛丑 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 将軍家 藤原頼経が鎌倉中の諸堂を巡礼し各所の桜花を見物。天変地異により思いついた行動である。 |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 3月 2日 壬寅 . 平戸記 |
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晴。早朝に筑後前司孝行 (光行の三男) が来訪、父の光行法師 (源光行) が去る2月17日に鎌倉で死去、 .鎌倉には (長男の親行を始め) 何人かの猶子 (準 養子) や庶子がおり、在京する者たちと法事を相談している。両方で催すべきではなく、京都で行なうことになるだろう。在京の子息らは何も問題なく暮らしており法事には支障がない、と。 |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 3月 6日 丙午 . 平戸記 |
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. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 3月12日 壬子 . 吾妻鏡 |
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. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 3月13日 癸丑 . 吾妻鏡 |
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若君 頼嗣を守護する祈祷に加えて陰陽道の祭祀を催した。泰山府君祭は安倍晴賢、土公祭は泰貞、鬼気祭は国継である。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 3月14日 甲寅 . 吾妻鏡 |
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若君 頼嗣の病気に対応する祈祷について、武州 北條経時から特に指示があった。
.. 今日、隆弁法印が御所に呼ばれ、不動呪による加持祈祷を行なった。更に重ねて安倍晴賢による泰山府君祭、文元による鬼気祭、国継による呪咀を催した。 |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 3月15日 乙卯 . 吾妻鏡 |
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. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 3月17日 丁巳 . 吾妻鏡 |
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申刻 (16時前後) に若君の体調不良が再発し、ふたたび祭祀が催された。七座 (七人) による招魂祭※は晴賢、文元、晴長、宣賢、国継、広資が、霊気祭は泰貞が努めた。奉行は但馬前司 藤原定員。 . . ※招魂祭: 生きている者から遊離した魂を呼び戻す陰陽道の祈祷。七座には泰貞を含むか。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 3月18日 戊午 . 吾妻鏡 |
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隆弁法印が御所で不動法を修した。若君の病気に対応する祈祷で、隆弁は最も霊力を有する人物。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 3月24日 甲子 . 吾妻鏡 |
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御所に於ける加持祈祷が結願終了した。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 3月27日 丁卯 . 吾妻鏡 |
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若君 頼嗣の病気が平愈。大納言法印 隆弁が二棟御所 (頼嗣の生母) から褒賞 (五衣一領) を下賜された。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 3月28日 戊辰 . 吾妻鏡 |
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. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 3月30日 庚午 . 吾妻鏡 |
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若君御前 頼嗣の病気が癒え、今日沐浴によって病の穢を払う儀式が行なわれた。 .. 御湯の加持祈祷は常住院大僧正坊、医師の以長も加わった。 儀式が終わってから鞠の中庭で以長に御剣と鞍置きの御馬が下賜され、武州左親衛 北條経時、前右馬権頭 北條政村、丹後前司 足利泰氏らが列席した。 . 今日若君の息災を祈るため大納言法印 隆弁を筥根山に派遣した。先ず精進潔斎の家に入り来月三日に出発するよう厳命があり、三七・二十一ヶ日の参籠を行なうことになる。 |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 4月 3日 癸酉 . 吾妻鏡 |
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. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 4月10日 庚辰 . 吾妻鏡 |
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晴。富士姫君 (2月3日参照)が駿河国から上洛の途に就いた。有棲河黄門※の御猶子となるためだ。 . . ※有棲河黄門: 富士姫は正室として 足利泰氏 (下野足利氏四代当主) に嫁する。 泰氏には既に正室 (北條朝時の娘) がおり、彼女を排除して正室に就く大義名分を得るためには「中納言 (黄門) の娘」の格式が必要だと考えたらしい。 .. 有棲河黄門の素性は正確には判らないが、大納言 藤原泰通 (Wiki) の次男 国通が該当すると思う。国通の妻は時政と牧之方の娘で、元久二年 (1205) 7月の 時政夫妻失脚に連座して京都で殺された 平賀朝雅に嫁しており、その後に国通に再嫁していた。そのコネから富士姫を国通の養女にする策が浮かんだ、と思う。 . ここまで露骨な策を弄したら朝時一族 (名越流北條氏 ) も「この屈辱は必ず晴らすぞ」と思うよね。反主流派を刺激して怒らせ排除するのが北條得宗の目的かも知れないが。 . 時政が没した建保三年 (1215) 1月以後の 牧の方は京都の娘 (権中納言藤原国通の妻) の元に身を寄せて贅沢に暮らしていたらしく、藤原定家は明月記でその様子を悪し様に批判している (嘉禄三年 (1227) 1月23日の明月記の項を参照)。 . そして定家の嫡子が 為家で、その正妻 宇都宮頼綱の娘が産んだ嫡男 (定家の摘孫) が二条為氏。和歌の縁から晩年の為家に愛されて 冷泉為相を産んだのが十六夜日記の著者 阿仏尼 (各々 Wiki) である。 . 為家の遺領 播磨国細川荘 (三木市、地図) の相続を巡って嫡子の冷泉為相+宇都宮氏 vs 庶子の二条為氏+阿仏尼が裁判で争うことになる。 . 十六夜日記は、阿仏尼が訴訟のため京都から鎌倉まで歩いた旅日記である。 十六夜 (いざよい) は満月 (十五夜) の翌日に (前日より50分ほど遅れて) 躊躇いながら昇る月を 「いざよう (ためらいつつ) 」 と表現したのが「いざよい」の語源だそうで。成程ねぇ! |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 4月21日 辛卯 . 吾妻鏡 |
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晴。今日将軍家の若君 (六歳、満年令 4歳4ヶ月、御名は頼嗣) が御元服。御母は中納言 (藤原) 親能卿の娘 大宮の局。嘉禄の例※に倣って前佐渡守 後藤基綱の差配により申刻 (16時前後) に執り行なった。 . ~ 元服の所作は煩雑のため略す。 ~ . 再三の儀式が長く続いたが、若君には特に緊張などは見られず偏に成人の如くで、貴賤は誰もが感嘆した。御任官については嘉禄の例に任せて後日とし、同時に将軍職継承の宣旨を受けることになる。 . これらは天変地異によって (将軍 頼経が) 突然譲位※を思い立ったもので、5月と6月は御慎み (新たな行動を慎む月) に当たるため今月に行なう事となった。御名字は兼ねて噂になっていた京都で選定した中の一つ兼頼ではなく、頼嗣と定めたのは将軍家の意向である。 . 次いで武州 北條経時が評定衆を伴って政所に入り吉書始めの儀。左衛門尉 清原満定が書記を務めた。終了後に武州経時が御所に運び、将軍 藤原頼経が寝殿南面 (公式の座) で摂津前司 中原師員朝臣が読み上げるのを聞いた。参席した評定衆も着座してこれを聞き、その後に政所に戻って献盃した。 . 信濃民部大夫 二階堂行泰、同 二階堂次郎行頼※、大夫判官 二階堂行綱、四郎左衛門尉 二階堂行忠らが(評定衆の)所役に就いた。 . 着座の次第 . 一方 前右馬権頭北條政村 若狭前司三浦泰村 秋田城介安達義景 下野前司宇都宮泰綱 能登前司三浦光村 上総権介千葉秀胤 備前守小笠原時長 民部大夫三善 (太田) 康連 外記大夫矢野 (三善) 倫重 . 一方 遠江守北條朝直 摂津前司中原師員 甲斐前司長井泰秀 佐渡前司後藤基綱 出羽前司二階堂行義 前太宰狩野為佐 左衛門尉清原清定 . 次に御元服が無事に終わった件と、新冠 (頼嗣) の任官叙位について京都朝廷に申し入れる件を書状に整え、征夷大将軍を冠者殿 (頼嗣) に譲る件を含めて新左衛門尉 平盛時を使節と定めた。すでに黄昏だが吉日であり急を要する事案でもあるため、行程六ヶ日の予定で上洛の途に就いた。 . . ※嘉禄の例: 嘉禄三年 (1227) 2月13日の吾妻鏡で「京都から戻った 佐々木四郎信綱 が「藤原頼 経を征夷大将軍に任じる旨の宣下があり、右近衛少将に任じ正五位下に叙位となった。」と報告している。頼経の元服 (八歳) は前年の12月29日、明けて1月11日には信綱が使節として上洛の途に就いた。 .※突然の譲位: もちろんこの譲位には伏線があり、1月4日の記事 (下記) を参照されたし。 . 頼経の外祖父で関東申次※を兼任し北條氏と朝廷の関係をやや良好に保っていた 西園寺公経が実務を退き (8月死没) 、頼経の父で鎌倉に敵対的だったもう一人の関東申次 九条道家と将軍頼経が協力して政治的な介入を強めるようになる。更に北條一族の反得宗勢力や三浦氏の一部を巻き込んで対立軸を作る、深刻な状況となった。 .ただし西園寺公経の退任時期と、道家と頼経による幕政介入についてを裏付ける具体的な史料が手元にないため、不本意ながら状況証拠に依拠している。 .※関東申次: 幕府との情報交換と調整を担当した朝廷側の窓口。元暦年代 (1184~1185年) に 頼朝側が後白河法皇の恣意的な関与を防ぐため権中納言 吉田経房を介して双方の立場を折衝し調整する事例を多用し、その後に部署として定着した。 .. 承久の乱 (1221年) 以後は朝廷の重要事項決定は関東申次を経て鎌倉の合意を求めるようになったが、大覚寺統(Wiki、天皇家の系図も参照)の 後醍醐天皇 が朝廷の実権を掌握して以後は無視される状態が多く急速に存在意義を失ない始める。 ※二階堂行頼: 行泰の嫡子で満14歳。建長二年 (1250) に近習番、文応元年 (1260) に従五位下 加賀守、弘長二年 (1262) に引付衆を経て政所執事に任じる。翌年12月に33歳で早世する。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 4月25日 乙未 . 平戸記 |
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晴。今年は旱魃の気配があり農地の乾燥が続いている。また疫病での死者も現れている。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 4月26日 丙申 . 吾妻鏡 |
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晴。今夜四角四堺※の鬼気祭※を行なった。 咳と発熱を伴う疫病が貴賤を問わず流行し、将軍家 (この時点では藤原頼経) の若君二人も罹病したことに対応している。乙若君※は未だに治癒する気配が見られない。 . .
※四角四堺: 四角は御所敷地の四隅、四堺は鎌倉と外界と
を隔てる境界 (右図参照) 。 .小坪と稲村は判り易いが、山内は 建長寺の付近から 粟船山常楽寺の北 (横浜市の一部) までが含まれるから少し厄介だ。 . また 朝夷奈切通し (Wiki) を抜けた辺りから六浦に含まれるから、北側の山内と六浦の二ヶ所の正確な位置の確定はむずかしい。 . 嘉禎元年 (1235) 12月20日の吾妻鏡には「北の巨福呂坂、南の小坪、東の六浦、西の固瀬河」とあるから、厳密な位置指定ではなく多少の曖昧さがあったようだ。 ※鬼気祭: 疫病などの災厄を防ぐための陰陽道の祭祀。 . ※乙若君: 頼経の次男(詳細不詳)で生母は三位中納言 持明院 (藤原) 家行の娘 大宮殿(正室 扱い)。他に寛元元年 (1244) に産まれた三男 (源恵、生母不明) が本覚寺門跡→ 日光山別当→ 勝長寿院別当を経て正応五年 (1292) に97世の天台座主に就任している。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 4月27日 丁酉 . 平戸記 |
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晴。関東の飛脚が到着し将軍頼経の息子 (5歳) が先月22日に元服した旨を報告、将軍職を譲る事になる、と。また名前などについても殿下 (西園寺公経) から早く新将軍に補任する件と官位の叙目について非公式に申し入れがあった。今日の措置は延引され明日行なうことになる。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 4月28日 戊戌 . 史 料 |
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. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 4月29日 己亥 . 平戸記 |
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疫病が蔓延し、家毎に病人が臥せっている。こんな災厄は近年起きなかった事、恐るべし。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 5月 5日 甲辰 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 新左衛門尉 平盛綱が京都から帰還、先月28日の宣下と除書を持ち帰った。冠者殿 (藤原頼嗣) が征夷大将軍の宣旨を受けて右近衛少将に任じ従五位上に叙された。 (盛綱の息子) 盛時はこの件に関する使者として先月22日に鎌倉を出発していた。 . 武蔵守 北條経時は宣下と除書を携えて御所に赴き、前大納言家 (前将軍 藤原頼経) にこの書類を呈上した。また祝賀の儀式あり。盛時を召し出し、藤原定員を介して御剣を与えた。 . 夜に入り、御所に於いて端午節を祝う和歌の御会あり。源式部大夫親行 (光行の嫡子) 、能登前司 三浦光村、式部大夫入道光西 (伊賀光宗) らが参席した。 |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 5月11日 庚戌 . 吾妻鏡 |
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将軍私邸に於いて御酒宴あり。大殿 藤原頼経、武蔵守 北條経時、左親衛 北條時頼らが列席し、舞女祇光 (今出河殿 (西園寺公経) お抱えの白拍子、22歳) が見事な芸を披露した。 .. 大蔵権少輔 結城朝広、能登前司 三浦光村、和泉前司 二階堂行方、佐渡五郎左衛門尉基隆 (後藤基綱の四男) らが猿楽を演じてみせた。 |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 5月15日 甲寅 . 吾妻鏡 |
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. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 5月18日 丁巳 . 吾妻鏡 |
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. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 5月20日 己未 . 吾妻鏡 |
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. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 5月21日 庚申 . 吾妻鏡 |
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両所 (頼経と頼嗣) の病状には回復の兆しが現れている。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 5月26日 乙丑 . 吾妻鏡 |
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乙若君 (頼嗣の次弟) 御前の病状は相変わらず快方には向かわず、午刻 (14時前後) に参河前司清原教隆の奉行として陰陽師を呼び、護身 (の加持祈祷) を行なうべきかを尋ねた。
. 晴賢、文元、晴茂、国継、広資、泰房らが占ったところ 様子を見るべきとの結論に至った。 夜になって七座 (七人) の鬼気祭および四方四角の祭祀を御所の外で行なった。 . 艮方 (北東) は晴賢 東方は文元 巽方 (南東) は為親 南方は晴茂 坤方 (南西) は晴長 西方は国継 乾方 (北西) は晴貞 北方は泰房 如法 (規則に従って行なう) 泰山府君祭は広資 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 5月29日 戊辰 . 吾妻鏡 |
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若君御前 (五代将軍 藤原頼嗣) の祈祷として十壇の炎魔 (閻魔) 天供を行なった。 .. 一壇 大蔵卿僧正 一壇 宮内卿法印 一壇 大弐法印 一壇 宰相法印縁快 一壇 三位法印頼兼 一壇 播磨僧都厳懐 一壇 弁僧都審範 一壇 宮内卿僧都 一壇 大納言僧都 一壇 三位僧都 . この他に鶴岡八幡宮に於いて大般若経の転読を行なった。 また八幡宮の上宮と下宮および二所(箱根権現と走湯 (伊豆山) 権現)、三嶋大社に各々神馬一疋を献納。摂津前司 中原師員朝臣と前太宰小弐 狩野為佐が奉行である。 |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 5月30日 己巳 . 吾妻鏡 |
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若君 (頼嗣の次弟 乙若) の病気に対応して引き続き祈祷、広資が代厄祭 (災厄を避ける祈祷) に任じた。今年が太一定分の厄※に当たり、助法印珍誉から厄除けの祈祷が必要との上申があった結果である。 .. . ※太一定分の厄: 数え年で四歳、十歳、十四歳が子供の厄と言われてるらしい。その表示か。 |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 6月 1日 庚午 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 御台所※並びに新将軍 頼嗣の病気が平癒し、今日 病の穢を払う御沐浴の儀あり。医師は頼幸。 . . ※御台所: 頼経の継室で正室の 中納言 藤原親能の娘 大宮殿。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 6月 2日 辛未 . 吾妻鏡 |
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. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 6月 3日 壬申 . 吾妻鏡 |
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. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 6月 4日 癸酉 . 吾妻鏡 |
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前大納言家 藤原頼経は御願として後鳥羽院を追善供養するため兼ねて法華経百部の摺写を行なっている。この形木 (版木) は後鳥羽院の宸筆 (直筆) を彫ったもので、今日百部の供養を遂げられた。導師は大蔵卿僧正良信で請僧は七人、布施を配ったのは坊門少将清基と水谷左衛門大夫重輔。 . また一旬 (10日) を越えた日照りに対応して降雨を祈る十壇の水天供が始められた。任じたのは権僧正良信と良勝、法印賢長、承快、頼兼、定親、隆弁、僧都良全、定清、守海。 . この日、前対馬守従五位上の三善 (矢野) 倫重朝臣が死去した (55歳) 。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 6月 5日 甲戌 . 吾妻鏡 |
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申刻 (16時前後) に雷鳴と降雨あり。日照りに対応して雨乞いの祈祷を行なった結果の雨だが国土を潤せるほどの量ではなく、水天供は更に続けられる。
. 今日、千田判官代入道蓮性※と市村小次郎景家※の裁判が結審した。この事件は景家から蓮性が行なったという人拐い (誘拐) を訴え出たもので、その事実なしと判断され讒訴の過料として橋を一ヶ所補修する義務を課した。平内左衛門尉と鎌田三郎入道がこれを管理する。 . . ※千田と市村: 千田姓の一つは下総千田荘 (香取郡多古町、地図) を本領とした千葉氏庶流、 一つは長野市南部を流れる犀川北岸の稲葉千田 (地図) を本拠にした千田氏。 ..
一方で市村氏は 木曽義仲が初めて史料に現れた市原合戦 (吾妻鏡の治承四年 (1180) 9月1日) があった北国街道市村の渡し付近 (稲葉千田に隣接、市原は吾妻鏡の誤記か?) を本領とした在地の武士。. この地域が千田氏と市村氏の双方に共通しており、千田氏と市村氏の名は信濃国史にも現れている。 右上は旧 市村の渡し北側に建つ市村神社。 市原合戦の詳細は画像をクリックして→ 善光寺裏 (市原) 合戦で。 |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 6月 8日 丁丑 . 吾妻鏡 |
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御所の大納言家 藤原頼経の持仏堂 (久遠寿量院) に於いて八万四千基の泥塔供養※を行ない曼陀羅供を奉じた。導師は大阿闍梨三位法印猷尊、讃衆 (唱和する僧) は六口 (六人) 。 . .
※泥塔: 紀元前の五世紀前後に没した釈迦の遺骨を紀元前
三世紀の中盤にマガダ国のアショーカ王が取り出して八萬四千の舎利に分骨して新たな仏塔を造ったことに由来する。 .. この仏塔を模した土製の小塔を供えて供養する風習が平安中期以降には盛んに行われ、京都の六勝寺や鳥羽離宮跡から多数出土している。 右画像をクリック→ 別窓で拡大表示 . この円盤形はインド古代墳墓の形を模した、と伝わる。 |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 6月 9日 戊寅 . 吾妻鏡 |
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雨。これこそは甘雨と言うべきか。 .祈祷に任じた僧徒が読み上げた経巻数の数を書いて 中原師員朝臣に提出、水天供は延期となった。 |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 6月10日 己卯 . 吾妻鏡 |
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. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 6月13日 壬午 . 吾妻鏡 |
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五代将軍 藤原頼嗣が元服し任官して最初の吉書始めの儀があり、更に御行始め (外出初め) に秋田城介安達義景の甘縄邸 (地図) に入御した。 前大納言家 (前将軍 藤原頼経)が見物のため牛車を小町口 (現在の大町四ツ角、地図) の西に停め、供奉人 (上括りの布衣) が近くに控えた。岡崎僧正道慶も同様に牛車を停め、未刻 (14時前後) に将軍家が出御した。 . 行列 . 先ず随兵(三騎が並ぶ) 一番 壱岐前司佐々木泰綱 河越掃部助泰重※ 常陸修理亮重継 二番 大蔵権少輔結城朝広 駿河式部大夫三浦家村 左衛門尉大須賀七郎重信(胤信の孫?) 三番 遠江式部大夫北條時章 上野前司畠山泰国※ 陸奥掃部助北條実時 . 次いで(将軍の)御車 . 左衛門尉三浦資村 兵衛尉結城五郎重光※ 下総小太郎 河越五郎重員※ 左衛門尉佐々木次郎宗氏※ 氏家余三経朝※ 武田三郎政綱※ 相馬次郎兵衛尉胤継※ 幸嶋次郎時村※ 下河辺左衛門三郎 遠江左衛門尉三浦 (佐原五郎) 盛時 上野十郎結城朝村※ 小野澤次郎時仲 伊豆六郎左衛門尉 式部兵衛太郎伊東光政 土屋左衛門三郎 広澤三郎左衛門尉 左衛門尉小野寺四郎通時 武藤右近将監兼頼 波多野小次郎宣経 已上帯劔・直垂、御車の左右に候す。 . 次いで御調度懸け 梶原右衛門尉景俊 . 次いで五位六位(布衣、下括り) 一番 遠江守北條朝直 越後守北條光時 二番 宮内少輔足利泰氏 三番 左近大夫将監北條時頼 兵衛大夫毛利広光 四番 出羽前司二階堂行義 石見前司大江能行 五番 隼人正伊賀光重 六番 弥次郎左衛門尉親盛 肥前太郎左衛門尉佐原胤家 七番 遠江次郎左衛門尉佐原光盛 信濃四郎左衛門尉二階堂行忠 . . ※河越泰重: 当主の重頼と長男の重房は義経の縁戚として追討され、宗家は次男重時から三代 当主泰重へと続き、北條氏とは良好な関係を保っていく。 .※畠山泰国: 足利義純の三男。元久二年 (1205) に畠山重忠が追討され正室 (北條時政の娘)が 足利義兼の庶長子 義純に再嫁。義純は妻子 (新田義兼の娘と男児二人、後の岩松時兼と田中時朝、清和源氏の新田系図を参照) を離縁し畠山重忠の所領と名蹟を継承した。ただし実際に畠山を名乗ったのは義純ではなく息子の泰国が初代。 .※結城重光: 朝光の七男で山川氏の祖、朝村は八男で白戸氏の祖。 . ※河越重員: 重頼と長男の重房が義経の縁戚として追討され、家督は次男重時-泰重と続き、 三男重員は秩父氏から河越氏に相伝した名誉職の武蔵国惣検校職を継承した。 .これは北條氏による古参御家人の排除政策と考えられ、以後の河越氏は北條氏の思惑通りに零落し分裂していく。 ※佐々木宗氏: この名は鎌倉時代中期の佐々木氏系図には存在せず、この時代に左衛門尉だっ . ※氏家経朝: 宇都宮朝綱の三男公頼が氏家郷 (さくら市氏家、地図、鬼怒川東岸に 見事な城址 (Wiki画像あり) に土着して嫡男公信へと続く宇都宮氏の傍流。 .一族の一部は奥州探題となった斯波氏 (大崎氏) に従って奥州に入ったが氏家に残った宗家は南北朝時代 (当主は六代目の綱元) になって断絶した。 ※武田政綱: 武田 (石和) 信光-三男で嫡子の信政-次男の政綱。長男の信時は安芸国守護とし て赴任しし甲斐に残った政綱の孫が甲斐守護に任じたが南北朝時代には信時の子孫が甲斐に戻り室町時代に甲斐守護に任じて戦国大名武田信玄へと続いていく。 .※相馬胤継: 千葉常胤-千葉 (相馬) 師常-二代義胤-三代胤綱-長男胤継と続いたが、継母 (天野政景の娘) に義絶され、継母が産んだ胤村が四代目を継いでいる。 .※幸嶋時村: 下川辺氏の一族で現在の茨城県古河市新和田 (地図) を本拠にした武士。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 6月15日 甲申 . 吾妻鏡 |
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. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 6月16日 乙酉 . 平戸記 |
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干天が10日以上続いても降雨の気配はなく、祈祷も効果を現さない。政道の誤りのため人々の苦しみが続き、病人も日毎に増えている。私も暫く出仕していない。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 6月17日 丙戌 . 吾妻鏡 |
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新田太郎政義※は上野国の所役である大番勤務のため在京していたが、病気を称して突然出家してしまった。その間の事情を六波羅および (大番役を差配する) 番頭の城九郎 安達泰盛※にも通知していない旨の報告書が鎌倉に届いた。 . 評定衆による会議の場で、定めた規則に従って所領の一ヶ所を没収する沙汰が下された。また遠国からの訴訟については、西収(秋の収穫)の前に召喚の命令書を発行してはならない、と定めた。 . .
※新田政義:新田義兼の孫。今回は大番役で勤務中の京都で
幕府を経由しての申請が定法である「昇殿と任官の許可」を朝廷に要求し、当然の事として拒絶された。腹を立てた政義は幕府に無届けで出家し、大番役を放棄して新田に帰国、更に幕府への出頭をも拒否した。 .. 結果として政義は所領の一部を没収のうえ隠居を命じられ、惣領権は同族の世良田 (得川) 義季 (義重の四男) と岩松時兼 (足利義純に離縁された来王姫の子) が引継ぎ、新田宗家は政義の愚行が原因で宗家としての権限まで失ってしまう。 (「源氏の系図」の中段、新田源氏を参照) . 宗家と世良田氏と岩松氏の分割相続での収入減に加えた失態で所領が激減した新田宗家は四代後の 新田義貞が決起するまで長い不遇の時代を過ごすことになる。 . その鬱屈と北條氏への遺恨が伏線となり、弘安三年 (1333) に 北條高時 が派遣した徴税使の強引な取立てに立腹した義貞が彼らを斬り殺し倒幕の兵を挙げた、とも言われる。 右上は政義が建立した新田宗家菩提寺の円福寺墓所。 累代の五輪塔が並んでいる。クリック→ 円福寺の詳細 (別窓) へ ※安達泰盛: 当時13歳、9年後に父の 義景が死没し満22歳で家督を継承する。この時点の上野 国守護職は安達氏が世襲しているのだが、現任の守護が先代の 安達景盛か 義景かは不明、嘉禄元年 (1225) に 政子が没してからの景盛は高野山に隠棲している。 .. 幕政の実務は義景を継承していたと思われるが、景盛と三代執権 泰時の関係は緊密で、嫡子の 時氏に娘 (後の松下禅尼) を嫁がせ、外孫の 経時と時頼が執権に就任している。 景盛にとって三浦一族は北條得宗と安達一族を軽んじる不倶戴天の敵。背後では時頼が三浦への締め付けを強めつつ安達の決起を煽るし、宝治合戦での衝突はどうにも避けられない方向へと進んでしまう。 |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 6月22日 辛卯 . 平戸記 |
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. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 6月27日 丙申 . 吾妻鏡 |
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有間左衛門尉朝澄が申し出た肥前国高木東郷の地頭職について懸物状(訴訟を起こす担保状)を提出した。 しかしこの件は故 北條泰時の時代に結審しており、特段の理由なしの変更はあり得ない。 .
遠江入道 北條朝時がこの件を議題に取り挙げた事から清原清定の奉行として臨時の評定を催したが、結果として廃案となった。. また今後は問注記 (原告と被告両方の主張記録) を読んで当事者と担当官が確認するべき日に奉行人 (裁判官) の出席が遅延するような事があれば正確に記録して提出せよ、との指示があった。 . . ※高木東郷: 高木郡の中の 現在の国見町一帯 (地図) 。 承久三年 (1221) 8月の関東下知状には平家没官領 (本所は仁和寺) と記録されている。 .右図 (クリック→ 別窓で拡大) を参照 . 寛元四年 (1246) 3月13日の吾妻鏡に有馬朝澄と越中政員が同じ高木郡内の串山郷について叉も争っている記録があり、要するに在地の土豪だった有馬氏と東国の御家人で高木郡の一部を恩賞として得た越中氏が利権を争ったらしい。 |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 6月29日 己亥 . 吾妻鏡 |
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山城国の平河兵衛入道は武威を振り翳して朝廷の政道に違背しているとの通達が (朝廷から) 届いた事について評議があり、今後の法令を定めた。
.. 御家人ではない者の違法行為に対応せよとの綸旨 (勅命) が下っても (幕府の権限範囲ではないとの) 理由を説明し、行動で対処してはならない。ただし刃傷や殺害狼藉などについては対応する範囲に含まれる。また、判決の前に没収地を望むなどの関与については幕府が判断する範囲ではない。 |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 7月 5日 癸卯 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。永福寺※並びに両方の脇堂 (北側の薬師堂と南側の阿弥陀堂) の修理に取り掛かった。今日が作事の開始となり、肥前前司久良と民部大夫中原元業が儀式の進行役に任じた。この寺は右大将軍 頼朝時代の文治五年 (1189) に特別な素願 (前からの願い) により建立したのだが、数十年の星霜を経て既に破損が進んでいた。 . .
※永福寺: 源頼朝が建立した三大寺社※ (鶴岡八幡宮、勝長
寿院、永福寺) の一つ。時代は少し遅れるが、個人的には実朝が建立した大慈寺も含めるべきだと思う。痕跡は概ね皆無だが史実は明確である。 .. 文治五年 (1189) 9月の奥州合戦で遠征した平泉の関山中尊寺で見た二階大堂(正式名称は大長寿院)に深い感銘を受けた頼朝が、同じ平泉にあった 無量光院を模して建造に着手し 三年の歳月を費やした建久三年 (1192) 11月25日に落慶供養を催している。 . 数回の火災を経て応永十二年 (1405年、室町幕府の将軍足利義満の頃) に全焼し、再建されずにそのまま廃寺となったと伝わっている。 . 右画像は2020年秋現在の鳥瞰図 (クリック→ 拡大表示) 。 . 明細を掴み切れない歴史的建造物として復元はせず、庭園や苑池を整備して歴史公園にするらしい。推定した復元画像などは 永福寺跡発掘調査のサイト (外部) で。 . 個人的には 三代将軍実朝が建立した巨刹 大慈寺を含めて四大寺社としたいが、これは痕跡も残っていない (あ、三大社寺の残り 大御堂寺 (勝長寿院) も痕跡なしだね) 。 . 鎌倉時代初期の遺跡は殆ど残っていないし、鶴岡八幡宮の最も古い建物さえ江戸時代の造営である。常識的に、現在のレベルでの世界遺産は無理だろう。 |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 7月13日 辛亥 . 吾妻鏡 |
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久遠寿量院 (前将軍 藤原頼経の御持仏堂※)で仏陀に供花する法要が行なわれ、大殿 (頼経) と将軍家 (五代将軍 藤原頼嗣) が供花した。女房 (女官) 数人が順番に補佐役を務めた。 . . ※御持仏堂: 御所敷地 (の東隅?) に建てられた久遠寿量院。名称が吾妻鏡に載るのは延應元年 (1239) の5月12日が最初となる。別当に任じていた教雅が書き残した 久遠寿量院別当次第 (Wiki、資料の紹介) は教雅を経由して東寺の別院が保存している。専門家がこの文書の詳細を調査中で、いずれネット上で公開されるのが楽しみだ。 .. 久遠寿量院に関して把握できている情報は 寛元元年 (1234) 7月15日と、建仁元年 (1238) 12月26日、延応元年 (1239) 5月12日に記載してある。 |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 7月14日 壬子 . 吾妻鏡 |
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晴。巳刻 (10時前後) に地震あり。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 7月15日 癸丑 . 吾妻鏡 |
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皆既月蝕の様子がはっきりと確認できた。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 7月16日 甲寅 . 吾妻鏡 |
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久遠寿量院で催した供花法会の結願日である。大殿 藤原頼経と将軍家 藤原頼嗣が入御し、岡崎僧正、内大臣法印、大蔵卿法印らが参集した。垂髪の稚児と僧徒および俗人が其々延年 (俗謡や歌舞) を演じ三浦光村と 三浦家村らもそれに混じって芸を披露した。 . 今日 評定があり、筑後国の御家人吉井四郎長広と同じく御家人矢部十郎直澄が争っている生葉庄※内の得安名にある屋敷と田畠について、虚偽によって発行した下知状を返却させ貞応の御成敗※に基づいて本所 (荘園の所有者) の判断に委ねる、とした。 . 次に日野六郎長用と平五郎季長法師 (法名妙蓮) が争っている伯耆国日野新印郷および下村得分物 (年貢として得た収益) の件は6月20日の御教書を虚偽によって得た罪科が明白なので、日野長用を出仕停止に処した。この二件は共に対馬前司 三善 (矢野) 倫重※が奉行に任じる。 . . ※平戸記: 今朝聞いた話では関東の飛脚が一昨夜六波羅に到着し遠江入道 北條朝時法師 (北條 泰時の弟で相模守 北條重時の兄) が痢病 (赤痢、疫痢など) ※のため緊急事態に及んでいる。これにより重時の息子が明日早暁に京都を発って鎌倉に向かう、と。 .※朝時発病: 朝時の死没は翌年4月、今回は大事に至らなかった。また在京していた重時の息子 . ※生葉庄: 現在の福岡県うきは市に吉井町生葉の地名 (地図) がある。得安名は確認できない。 . ※日野新印郷: 現在の鳥取県西伯郡伯耆町 (地図) 。長用と季長は共に日野一族で、文永二年 (1272) にも同族内部で再び所有権を争っている。 .※貞応の御成敗: 吾妻鏡の貞応二年 (1223) 8月3日に以下の記載がある。 「所領に関して訴訟を 起こした者が寺社などへの寄付を装って没収を逃れる事を禁じる。」 これに違背した例らしいが、両者とも御家人なのに本所の判断に委ねる理由が不明。 .※対馬前司: 三善 (矢野) 倫重の筈だが、6月4日に死没の記事がある。倫重は公事奉行 (恩沢や 寺社の紛争などを扱う) の家柄だが、叔父の 町野康俊 (祖父 三善康信の嫡子で問注所執事を世襲した)の系を誤記した可能性あり。 .. また建久七年 (1196) には康信が恩賞に筑後国生葉郡を得た記録もあり、康俊も一時期生葉郡に下向している。今回の紛争と何らかの関係があるか。 |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 7月20日 戊午 . 吾妻鏡 |
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別府左近将監成政による相模国の成松名の訴訟について懸物 (訴訟を起こす担保で敗訴の場合は没収) を提出させ、大江新民部丞の奉行により真偽を明らかにする。 この件は大殿 藤原頼経から式部大夫 三浦家村を使者として特に武蔵守 北條経時に仰せがあった。 . 加えて今日、落合蔵人泰宗と市河掃部助高光法師 (法名見西) の元妻 (藤原氏の娘) に対し 7日間 荏柄天神社に参籠した上で起請 (誓約書) を提出せよ、と奉行 対馬前司河匂平右衛門尉から命令が下った。 . その上で平右近入道寂阿と鎌田三郎入道西佛を派遣して結果を見届けよ、との事である。 これは市河掃部助高光法師 (法名見西) が藤原氏 (の娘) と落合泰宗の密通を訴え、女の方がそれを否定して訴えたためである。 . . ※事件の経緯: 市河氏は甲斐源氏の子孫。源頼義の四男 義光が甲斐守に任じた経緯から義光の 末子覚義阿闍梨が甲斐市河荘※に土着し、御崎神社 (現在の表門神社) の婿に入っていた。 .. 一方で義光の次男 義清と嫡子の 清光が常陸での無法行為を咎められて甲斐市河荘に流されて定住し、覚義の助力を得て甲斐源氏の基盤を築いていく。 . 石和信光の子孫が甲斐源氏の主流となった鎌倉中期の市河氏は信濃国船山郷 (現在の千曲市戸倉小舟山 (地図) の一帯を領有していた。 . 今回の訴訟は 藤原氏の娘と婚姻する際に市河高光が「離縁する事になれば 信濃、伊勢、甲斐の所領を譲る」と契約していた事が発端である。 . 彼女はこれを根拠に訴訟を起こし、それを何とか避けたい高光が彼女の密通を捏造したらしい。 . 結果として彼女の勝訴になるのだが、この頃から婚前契約があったとは実に面白い。
※甲斐市河荘: 甲斐源氏武田一族の甲斐での最初の基盤。
周辺には義清の館跡と伝わる平塩の岡や、覚義が本拠とした表門神社など、数多くの史跡が点在している。甲斐源氏の最初の聖域だ。 .. 右は常陸から甲斐に流された義清親子が 最初に定住した市河荘の源氏館遺跡。 詳細は画像をクリックして、 常陸武田郷から甲斐市河荘(別窓)で。 . 源 義清の時代から武田氏滅亡までの物語は 甲斐源氏の興隆と滅亡(別窓)で。 |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 7月23日 辛酉 . 吾妻鏡 |
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. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 8月 3日 辛未 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 市河女子藤原氏 (7月20日に記載のある市河掃部助高光法師の元妻) の件、荏柄社で落合蔵人泰宗と密通していないとの起請文を書いて参籠させ、その状態を寂阿と西佛に確認をさせた。 . 七日七夜の間、神仏から叱責などの様子はないとの報告があった。これにより市河掃部助入道見西が訴え出ていた信濃国船山内の青沼村、伊勢国光吉名、甲斐国市河の屋敷等などは彼女が所有する結果となった。 . ただし市河の屋敷に限り彼女の一代限りとし、その後は見西の子孫に与えるよう決裁が下された。 彼女は見西の旧妻であり、嫁いだ際に 「もし離別させられる事があれば上記の土地などを譲渡する」 との契約を交わしていたと彼女が訴え、見西は泰宗との密通を主張して譲渡を免れようとした。確認する術がなかったため起請文の提出と参籠を命じたものである。 . また領家 (荘園の所有者) と地頭の関係について、御家人が代々継承している場合は失態などがない限り領家であっても改易は許されない。既に発布した御教書に従って仔細の報告が必要との指示を六波羅に下した。 |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 8月 8日 丙子 . 吾妻鏡 |
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先月26日に後嵯峨天皇の閑院※への遷幸が無事完了との連絡が京都から届いた。 . . ※閑院: 里内裏に同じ。内裏の外に仮に設けられた御所。多くは外戚の摂関家の邸宅で、今の 京都御所も元々は里内裏、長承二年 (1133) に藤原忠実 (Wiki) の娘 泰子が第74代鳥羽天皇に入内する際に建てた土御門東洞院殿の御所が原型になっている。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 8月 9日 丁丑 . 百錬抄 |
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在京の武士が南都に馳せ向かった。興福寺の衆徒が高齢者と若者に分かれ各々陣地を構えて戦いに備え、これを制止する目的である。ただし、間もなく高齢者側が解散したらしい。 . ※平戸記: 10日に南都で合戦があり制止するため武士を派遣しが今朝早くに鎮まったらしい。 1日には比叡山延暦寺でも合戦があった。南北 (奈良と京都) がこの有様とは実に嘆かわしい。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 8月15日 癸未 . 吾妻鏡 |
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晴。鶴岡八幡宮で放生会。大殿 (前将軍 藤原頼経および将軍家 藤原頼嗣が参宮し、まず御祓いあり。坊門少将清基が陪膳 (給仕役) を、水谷左衛門大夫重輔が役送 (運ぶ役) を務めた。 舞楽を御覧の後、酉刻 (18時前後) になって御所に還御した。 . 供奉人の行列 . 先陣の随兵※ 河越掃部助泰重※ 上総修理亮千葉政秀(秀胤の次男) 肥前太郎左衛門尉佐原胤家 隼人太郎左衛門尉光義 上野弥四郎左衛門尉結城時光※ 和泉次郎左衛門尉天野景氏 (遠景-政景-景氏と続く) 兵衛尉大曽祢長泰 千葉七郎太郎師時 遠江式部大夫北條時章 相模左近大夫将監北條時定 . 次いで(将軍家の)御車 佐竹八郎助義 式部兵衛太郎光政 千葉次郎泰胤千葉成胤の子で千田氏の祖 海上五郎胤有(東胤頼の孫?) 木村太郎政綱 六郎左衛門尉伊東祐盛(祐時の孫で稲用氏の祖) 右近将監武藤兼頼 渋谷十郎経重※ 立河兵衛尉基泰 葛山次郎 新左衛門尉平盛時 以上の十一人、直垂に帯剣で御車の左右に列す。 . 御後に五位と六位(足首で括った狩衣) 前右馬権頭北條政村朝臣 遠江守北條朝直 北條左近大夫将監北條時頼 越後守北條光時 宮内少輔足利泰氏 陸奥掃部助北條実時 甲斐司長井泰秀 若狭前司三浦泰村 摂津前司中原師員 能登前司三浦光村 秋田城介安達義景 下野前司宇都宮泰綱 上総権介千葉秀胤 駿河式部大夫三浦家村 佐渡前司後藤基綱 出羽前司二階堂行義 前太宰少弐狩野為佐 兵衛大夫毛利広光(毛利季光の次男) 大蔵権少輔結城朝広 石見前司大江能行※ 壱岐前司佐々木泰綱 伯耆前司葛西清親(清重の嫡子) 民部大夫大河戸俊義 甲斐前司春日部実景※ 淡路前司薗田俊基 壱岐前司完戸家周 但馬前司藤原定員 隼人正伊賀光重※ 加賀民部大夫町野(三善)康持 伊賀前司小田時家 但馬兵衛大夫藤原定範 常陸修理亮重継 左衛門尉小山五郎長村※ 右衛門尉梶原景俊(景茂の嫡子) 駿河五郎左衛門尉三浦資村 壱岐左衛門尉佐々木六郎朝清 弥次郎左衛門尉親盛 遠江次郎左衛門尉佐原 (蘆名)光盛 同六郎兵衛尉佐原時連※ 佐渡五郎左衛門尉後藤基隆(基綱の次男で基政の弟) 六郎左衛門尉安積祐長 肥前太郎左衛門尉佐原胤家※ 左衛門尉伊賀次郎光泰 左衛門尉大須賀胤氏(胤信-通信-胤氏と続く嫡流) 左衛門尉宇佐美祐泰(祐茂-祐政-次男祐泰と続く) 左衛門尉加藤行景(景廉-三男景長-嫡子行景と続く) 出羽四郎左衛門尉中条光家(家長-時泰-次男光家と続く) 新左衛門尉薬師寺政氏 右衛門尉関政泰 淡路左衛門尉長沼又四郎宗泰 (宗政-時宗-宗泰と続く) 左衛門尉相馬五郎胤村(師常-義胤-胤綱-胤村と続く相馬氏嫡流) 左衛門尉武藤景頼(資頼-資能-頼茂-景頼と続く) 信濃四郎左衛門尉二階堂行忠 左衛門尉後藤次郎基親(基清の子か孫と思うが系図になし。基成のことか?) 一宮右衛門三善次郎康有※ 左衛門尉小野寺四郎通時※ 左衛門尉内藤七郎盛継※ 出羽兵衛尉二階堂次郎行有※ 佐竹六郎次郎 上野三郎国氏 阿曽沼小次郎光綱 木内次郎胤家 . 後陣の随兵 上野前司畠山泰国※ 三河守新田頼氏※ 遠江左衛門尉佐原五郎盛時 左衛門太郎梶原景綱※ 下野四郎小山長政※ 新左衛門尉宇都宮朝基(泰綱の弟、石見守宗朝の次男) 城次郎安達頼景※ 土屋次郎時村※ 武田五郎三郎政綱※ 小野澤次郎時仲※ 山内籐内通景 廷尉 (検非違使) . . ※随兵: 外出する将軍を護衛する武装騎馬武者。通常は鎧を着用し兜を従者に持たせて従った らしい。若宮大路幕府から放生会の源平池まで僅か300m、本殿までも500mほどなのに...。 .※河越泰重: 当主 重頼と長男の重房は 義経の縁戚として追討され、宗家は次男 重時から三代 当主泰重へと続き、北條氏とは良好な関係を保っていく。 .※結城時光: 結城朝光の六男で嫡子 朝広の弟、寒河氏の祖。 . ※渋谷経重: 渋谷嫡流 高重 (重国の嫡子) は和田合戦で義盛に与して討死した。経重は傍流か。 . ※春日部実景: 本領は武蔵国浜川戸 (現在の春日部市中心部、地図) 。 幕父 実平が頼朝に仕えて 以来の臣だが、宝治合戦では三浦一族に与して息子3人と共に討死し、美濃国にあった一族の地頭職も没収された。許されて御家人に復帰した実景の孫 重行は後に新田義貞に仕えて鎌倉の合戦で戦功を挙げ、本領春日部郷の一部と上総国山辺郷 (現在の東金市付近) の地頭職を得ている。 .※大江能行: 初出は嘉禄三年 (1227) 8月18日に「兵衛尉大江能行」として仁治二年 (1241) 8月 25日には 「石見前司大江能行」とあり、順調に出世している。承久の乱の後に京から鎌倉に入った実務官僚らしいが大江氏系図には見当たらない。 .※伊賀光重: 将軍頼経の側近。朝光の三男または四男で伊賀光宗の弟。貞応三年 (1224) に兄ら と共に謀反の冤罪を受、政子死没後の嘉禄元年 (1225) に幕政に復帰している。 .※小山長村: 小山政光 → 朝政 → 朝長 → 長村と続く小山氏四代当主 (建保五年 (1217) 生れ) 。 . ※佐原時連: 佐原盛連の六男で通称は遠江六郎。宝治合戦 (1247) では兄弟と共に執権北條時頼 に味方し康元元年 (1256) には時頼の出家に従って出家し観蓮を名乗っている。 .※三善 (太田) 康有: 三善康連の七男。弘長二年 (1262) に病気で引退した康宗 (問註所執事、評 定衆) の跡を継ぎ、その後21年間を幕政の実務に任じている。 .※二階堂行有: 二階堂行義の次男で武芸も堪能な文官。文永二年 (1265) に引付衆、文永七年 (1270)に評定衆に任じている。 .※小野寺通時: 下野国都賀郡小野寺 (地図) を本貫とした武士。始祖義寛の子道縄は足利忠綱 (藤姓の足利氏) と共に平家の郎党として宇治川合戦で源三位頼政と戦った。 .その後関東に戻って 頼朝挙兵当初から転戦、奥州合戦の恩賞として出羽国に所領を得て一族の一部が土着した。義寛-秀通-通時と続く。小野寺氏に関しては建保六年 (1218) 3月23日に関連記事を載せておいた。 ※内藤盛継: 藤原秀郷の子孫で頼朝に仕えた内藤盛家-盛親-盛継と続く。系図は盛家の三男 が盛継としている。「内舎人 (皇族や貴族の警備雑用に任じる) 藤原」が内藤姓になったらしい。
.※畠山泰国: 元久二年 (1205) に北條氏に謀殺された畠山重忠の正室(北條時政の娘で政子の異 . ※新田頼氏: 新田義重の四男世良田義季の次男。実質的な世良田氏の祖で、新田氏棟梁 政義の 叔父。世良田氏は新田一族の中では宗家よりも大きな財力を保った(清和源氏の系図を参照)。 .※梶原景綱: 景時景時の三男景茂-嫡子景俊-嫡子景綱と続く。 . ※小山長政: 小山朝政を継いだのが長男の 小山朝長、その跡が長男の 小山長村で、長政は長村 の弟。朝政から常陸国下妻の地頭職を継承した。 .※安達頼景: 安達義景を継いだ泰盛の庶兄。六波羅評定衆を経て文永九年 (1272) の二月騒動に 連座し所領二ヶ所を没収された。弘安八年 (1285) の霜月騒動で内管領平頼綱により安達一族は滅亡したが、頼景は泰盛に与しなかったため難を逃れた。 .※土屋時村: 中村宗平-土屋宗遠-次男宗光(長兄の義清は岡崎義實からの養子)-光時- 次男宗長-時村と続く相模中村党の武士。武田氏が甲斐天目山で滅亡した際、当主勝頼が自刃する時を稼ぐため奮戦した土屋惣蔵昌恒は中村党土屋氏の子孫とされるが、正確な系図は確認できない。 .武田氏滅亡に関しては 武田勝頼終焉の地に詳細を記述した。 ※武田政綱: 武田 (石和) 信光-三男で嫡子の信政-次男が政綱。長男の信時は安芸国守護とし て赴任し甲斐に残った政綱の孫が甲斐守護に任じたが、南北朝時代には信時の子孫が甲斐に戻り、室町時代に甲斐守護に任じて戦国大名武田信玄に続いていく。 .※小野澤時仲: 氏祖で父親の仲実の時代から 得宗被官として藤原頼経、頼嗣、宗尊親王の三代 の将軍に近侍した。一族の本領は埴科郡坂城町の上平地区 (地図) 。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 8月16日 甲申 . 吾妻鏡 |
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晴。鶴岡八幡宮放生会に伴う馬場での行事があり、将軍家の宿願により特に豪華な催しとなった。 内容は去年と同様で五位と六位の者が十列※と的立※と競馬※の役人を務め、昨日供奉した者でこの役に就いた者は今日の供奉の任務から除外した。 午一刻 (12時過ぎ) に将軍家が御参宮、出御に当たっての祓などは昨日と同様である。 . 馬場の儀 . 十列 一番 左衛門尉長掃部秀連 二番 左衛門尉飯高弥次郎 三番 左衛門尉紀伊次郎為経 四番 大多和新左衛門尉 五番 左衛門尉遠江六郎時連 六番 左衛門尉狩野五郎為広 七番 伊勢五郎左衛門尉 八番 弥善太右衛門尉三善康義 九番 兵衛尉肥後四郎行定 十番 兵衛尉土肥次郎朝平 . 流鏑馬 一番 入道長江八郎師景 射手は 子息八郎四郎 的立は 能登前司三浦光村
二番 左近大夫将監北條時頼 射手は 武田五郎三郎政綱
的立は 宗左衛門大夫
三番 佐渡前司後藤基綱 射手は 孫の弥四郎
的立は 摂津左衛門尉狩野為光
四番 上総介千葉秀胤 射手は 子息六郎秀景
的立は 弥次郎左衛門尉親盛
五番 城介安達義景 射手は 子息次郎頼景
的立は 押垂左衛門尉時基
六番 出羽前司二階堂行義 射手は 子息次郎兵衛尉行有
的立は 左衛門尉狩野五郎為広
七番 左衛門尉小山五郎長村 射手は 上野十郎朝村
的立は 武藤左衛門尉景頼
八番 和泉次郎左衛門尉景氏 射手は 阿曽沼七郎
的立は 出羽四郎左衛門尉伊賀光宗
九番 壱岐六郎左衛門尉葛西朝清 射手は 子息左衛門次郎
的立は 和泉六郎左衛門尉
十番 甲斐守春日部実景 射手は 子息次郎兵衛尉
的立は 左衛門尉小野寺四郎通時
十一番 近江壱岐前司佐々木康綱 射手は 舎弟左衛門尉佐々木四郎氏信
的立は 左衛門尉淡路四郎時宗
十二番 伯耆前司葛西清親 射手は 子息五郎
的立は 能登四郎左衛尉
十三番 信濃民部入道二階堂行盛 射手は 子息六郎左衛門尉
的立は 左衛門尉宇佐美與一祐時
十四番 上野入道結城朝光 射手は 子息兵衛尉五郎重光
的立は 左衛門尉大須賀七郎重信
十五番 右馬権頭北條政村 射手は 左衛門尉伊賀四郎朝行
的立は 薗田淡路守俊基
十六番 若狭前司三浦泰村 射手は 舎弟五郎左衛門尉資村
的立は 完戸壱岐前司家周 .競馬 一番 左は 左衛門尉雅楽時広 右は 秦次郎府生兼種 二番 左は 富田次郎兵衛尉 右は 渋河次郎 三番 左は 下條四郎 右は 秦三郎清種 四番 左は 河村小四郎 右は 高橋六郎兵衛尉 五番 左は 浅羽左衛門四郎 右は 河村三郎 . . ※十列: 馬を10頭並べて走る、20人が2騎ずつ走る、などの説があるが八幡宮の狭い馬場じゃ 対応できない筈だ。実際にどんな姿だったのか判断できない。 .※競馬: 一騎が先行し、ひと呼吸を置いて一騎が追走するマッチレース。逃げ切るか捉えるか で勝負が決まる。八幡宮境内を東西に横切っていた馬場は200m強なので片道だけでは短か過ぎるから往復だった可能性もある。競走中の打擲や妨害が認められ、組み打ちや落馬もあったというのが実戦っぽくって面白い。 .※流鏑馬: 番の代表者と射手と的立ての姓名を全て記録した流鏑馬は鎌倉草創以来初の例。 神事と勝負、両方の意味合いが強調されていて面白い。 .※的立: 文治三年 (1192) 8月4日に 頼朝から流鏑馬の的立て役を命じられた 熊谷直実が断固 拒否し所領の一部を没収される事件があった。直実には徒歩の役=身分が低いとの固定観念があったらしい。固定観念の塊みたいな男だからね。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 8月17日 乙酉 . 吾妻鏡 |
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. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 8月19日 丁亥 . 吾妻鏡 |
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同じく御所に於いて今日から五壇法※を行なって国家鎮護を祈る。 . . ※五壇法: 中央に不動明王を祀る壇を設けて 東に降三世、南に軍茶利、西に大威徳、北に金剛 夜叉を祀る壇を設ける、主として密教の祈祷。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 8月22日 庚寅 . 吾妻鏡 |
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晴。御所の御持仏堂 (久遠寿量院) で法要あり。導師は竹中法印、七僧による法会である。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 8月24日 壬辰 . 吾妻鏡 |
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伊勢国の阿曽山 (現在の度会郡大紀町、地図) および熊野山で悪党 (犯罪者、反逆者) が蜂起している件について臨時の評議があった。悪党討伐に出動せよとの命令が地頭の御家人に下され、加わった者には相応の配慮があるが参加しなかった者は姓名を書き出して報告せよと守護に指示があった。 . また今出河殿 (西園寺公経、この年8月29日に死去する) から申し入れのあった検非違使の職分などに関して、摂津前司 中原師員朝臣と佐渡前司 後藤基綱の奉行の立場で検討した。 . 鎮西守護代の兵庫大夫資範による違法行為については右大将軍家 頼朝の時代から別枠の対処※を定めており、代々将軍家の御下文に依拠して決裁しているから、他の国の守護に倣う必要はないとの結論に達した。ただし細かい違法行為については必要な措置を行なう事も結論に含まれている。 . . ※別枠の対処: 平家滅亡後の文治元年 (1185) 、頼朝は義経探索を名目にして守護地頭の設置を . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 8月29日 丁酉 . 吾妻鏡、史料 |
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. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 9月 1日 己亥 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 晴。京都朝廷の使者が参着。先月25日に五代将軍 藤原頼嗣が正五位下に叙された。前の将軍家 藤原頼経が閑院 (里内裏、8月8日を参照) を修造した功績に拠る。 |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 9月 2日 庚子 . 吾妻鏡 |
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晴。戌刻 (22時前後) に六波羅の飛脚が鎌倉に参着し、先月29日に今出河相国禅閤 西園寺公経が薨御した (御年74) 旨を報告した。 . . ※政局: 鎌倉幕府との融和政策で権勢を維持し続けた西園寺公経の死去により長く頭を抑えら れ続けた政敵の 九条道家が朝廷の支配権を取り戻し、関東申次の職を介して幕政に干渉し始める。 .. 単純な関与ではなく、息子の前将軍頼経や 反得宗家の北條一族 (名越流 北條朝時の息子など) を抱き込む動きを強めたため 寛元四年 (1246) の 北條経時死没に伴って五代執権に就任した 北條時頼との対立が深まってくる。 . この動きが寛元四年の宮騒動と、同年の 北條光時らの陰謀と、宝治元年 (1247) の三浦氏滅亡 (宝治合戦) を招き、更に建久三年 (1251) には五代将軍 藤原頼嗣と足利氏まで巻き込んだ倒幕計画への道家の関与疑惑が濃厚になり、頼嗣追放と共に九条道家も完全に失脚、鎌倉と朝廷の関係は単独の高級公卿ではなく 五摂家 (Wiki) が朝廷を動かすという新しいフェーズに入る。 |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 9月 3日 辛丑 . 吾妻鏡 |
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. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 9月 5日 癸卯 . 吾妻鏡 |
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. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 9月 8日 丙午 . 平戸記 |
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晴、曇。群盗事件が頻発し、連夜のように上下の区別なく人家を襲っている。先夜は中将実直朝臣邸の旧私邸と備中入道信阿宅に押し入った挙句に放火し焼き払った。辻々を警備する武士も役に立たない。これは関東の威勢が衰えているためだろうか。 . . ※著者: 民部卿 平経高 (Wiki) はかなり強硬なアンチ幕府派で手厳しい推測記述が散見される。 敵意もこれほど厳しく書いてくれれば、確認する方も適当な反論などできなくなる。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 9月11日 己酉 . 吾妻鏡 |
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亥刻 (22時前後) に小さな地震あり。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 9月13日 辛亥 . 吾妻鏡 |
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明春の前大納言家 (前将軍藤原頼経) 上洛が先月の評定で決定、今日関連する諸般の担当奉行などを定めた。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 9月15日 癸丑 . 吾妻鏡 |
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後鳥羽上皇 追善供養のため摺写※した法華経を (頼経の) 御持仏堂で読み始め、定親法師が担当した。 . . ※摺写: 版木を用いた法華経の複写らしい。上皇が書写した法華経を元にして彫った版木か。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 9月19日 丁巳 . 吾妻鏡 |
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晴。来春の大殿 (前将軍藤原頼経) 上洛について但馬前司 藤原定員の奉行として決定あり。 日程は2月1日の出発を希望されているが四不出日 (出立には縁起の悪い日) と考える向きもあり、維範と晴賢朝臣を呼んで確認した。各々の意見は以下の通り。 . 四不出日なのは確かだが、賀茂家ではこれを問題としない。賀茂保憲による暦書には丙寅と丙午を選んで書き込んであるから禁忌とは言えず、吉日の2月9日に入洛を予定すれば良いでしょう。1日に出発して16日に入洛すると厭対日 (忌み日) ですから、いずれにしろ9日を予定すべきです。 .. ※賀茂保憲: 安倍晴明と同時代を生き、陰陽道宗家を二分した陰陽師。更に詳細は Wikiで。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 9月20日 戊午 . 吾妻鏡 |
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大膳権大夫維範朝臣の担当による天地災変祭※を行なった。 . . ※天地災変祭: 陰陽道で行われる祭祀。天変地異や怪異、厄年などに対応して行なう。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 9月28日 己未 . 吾妻鏡 |
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. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 10月 2日 己巳 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
.. 西園寺公経卿の死去に伴って弔問のため上洛していた近江前司 佐々木氏信が京都から帰参した。 |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 10月 3日 庚午 . 吾妻鏡 |
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. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 10月 9日 丙子 . 吾妻鏡 |
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御所での祈祷が始められた。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 10月13日 庚辰 . 吾妻鏡 |
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備後守の奉行として博奕などについての決裁があった。双六は侍が行なう場合は許可するが侍以外の低い身分の者には禁止、四一半銭や目勝などの骰子 (さいころ) 博奕は身分を問わず禁止する。
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. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 11月 3日 庚子 . 吾妻鏡 |
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終日雨。丑刻 (深夜2時頃) に大洪水※となり道路の大部分が水没した。家屋と家財の流失などの被害は近年にないほどの惨状である。 . 今日、御台所 (藤原頼経の正室 権中納言藤原親能の娘) が春日大明神の御神体の供養を行なった。導師は大納言法印 隆弁、布施は百物 (百種の詰め合わせ) と南廷 (銀の延べ板) 二つである。 . . ※鎌倉の洪水: 現在の鎌倉市街地の標高は 一の鳥居で13m、警 察署の前で 9m、下馬交差点で 8m、二の鳥居で11m、三の鳥居 (八幡宮社頭)で13m。海水面は時代により異なるが各地点の標高差は大差がないから、警察署の付近から二の鳥居までが明らかに低地となっている。 .. 下馬付近は佐助川が滑川に合流する地点でもあり、この辺で洪水が多発していた可能性が高い。 . 右は概略標高を記した地図 (google earthを利用、多少の誤差はご容赦を) 。 画像をクリック→ 別窓で拡大表示 |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 11月12日 己酉 . 吾妻鏡 |
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晴。早暁に螢惑 (火星) が庫門星 (?) の範囲を犯したと司天 (天文担当) が報告した。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 11月16日 癸丑 . 吾妻鏡 |
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評定衆の会議での経営 (接待饗応) に関し今後は倹約を心掛けよ、と雑掌人 (担当者) に改めて指示した。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 11月22日 己未 . 吾妻鏡 |
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晴。今暁に歳星 (木星) が大微宮 (北斗七星の南、しし座) の範囲に入ったと司天 (天文担当) が報告した。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 12月 1日 丁卯 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 晴。卯刻 (朝6時前後) に地震あり。 |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 12月 7日 癸酉 . 吾妻鏡 |
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. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 12月 8日 甲戌 . 吾妻鏡 |
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察署の前
晴、風は鎮まった。 今日申刻 (16時前後) に寝殿で大納言家 (前将軍 藤原頼経) の乙若君御前※が御着袴および魚味※の儀式を行なった。 人々は布衣 (狩衣、下括り) を着して参集し、武蔵守 北條経時が椀飯を献じた。まるで正月三が日の如くである。経時が若君の腰紐を結び、また大殿 頼経が魚を食べさせる役を務めた。これらの給仕は左親衛 北條時頼が務め、儀式が終わってから御引出物を献じた。 . 大殿 (前将軍藤原頼経) への献上は 御剣を 陸奥掃部助 北條実時 一の御馬 (鞍を置く) を 佐原肥前太郎左衛門尉と同、四郎左衛門尉 二の御馬 (鞍を置く) を 弾正左衛門尉と同、十郎 . 将軍家 (藤原頼嗣) への献上は 御剣を 越後守 北條光時 一の御馬 (鞍を置く) を 小山四郎と同五郎 二の御馬 (鞍を置く) を 大隅太郎左衛門尉と同、次郎 . 乙若君への献上は 御馬 (鞍を置く) は 甲斐太郎 (時秀) ※ . . ※乙若君: 頼経の次男 (詳細不明) で生母は三位中納言 持明院 藤原家行の娘大宮殿(正室扱い)。 他に寛元元年 (1244) に産まれた三男 (源恵、生母不明) が本覚寺門跡→ 日光山別当→ 勝長寿院別当を経て正応五年 (1292) に第97世の天台座主に就任している。 .※着袴と魚味: 共に平安時代からの通過儀礼。着袴は五歳になった際に初めて袴を着ける朝廷 の儀式、魚味は動物性食品を食べ始める儀式で標準は生後20ヶ月、地域や時代により様々な形がある。 .. 乙若の誕生は記録にないが、長男 頼嗣が延応元年 (1239) 11月生まれで 三男の源恵が寛元元年 (1244) 生まれだから、その中間の年令なのは間違いない。 ※甲斐太郎: 大江広元→ 二男長井時広→ 三男泰秀→ 嫡男時秀と続く。父が甲斐守に任じてい た関係で甲斐太郎を名乗っている。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 12月12日 戊寅 . 吾妻鏡 |
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幕府に仕える公務については、特に指示命令のない限り父祖から継承したものは各々協力し合い分担して勤めを果たすこと。また継承以外の勲功などで得た所領に付帯した公務は継承分に加えて果たすのが務めである。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 12月18日 甲申 . 吾妻鏡 |
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晴。子刻 (深夜0時前後) に月が歳星 (木星) の軌道を犯したと司天 (天文担当) が驚いて報告した。 .今日、大殿 (前将軍 藤原頼経) の指示による祈祷が始められた。 |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 12月20日 丙戌 . 吾妻鏡 |
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. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 12月24日 庚寅 . 吾妻鏡 |
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晴。大殿 (前将軍 藤原頼経) の指示による祈祷を継続して催している。天変に対応した祈祷である。 . |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 12月26日 壬辰 . 吾妻鏡 |
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晴。卯刻 (朝6時頃) に武蔵守 北條経時邸と左親衛 北條時頼邸が失火により焼失、政所まで延焼した。
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※北條邸: 執権執務場所と北條得宗邸と若宮大路幕府とは、
若宮大路から小町大路を挟んで滑川までの範囲を占めていた。 .. 元弘三年 (1333) 5月に鎌倉幕府が滅亡してから 後醍醐天皇が崩御した延元四年 (1339) までの6年間に、勅命を受けた 足利尊氏が北條邸の跡に建立した慰霊の寺が現在の 金龍山宝戒寺 (公式サイト) と伝わっている。 . 小町大路は大倉幕府の時代からあった幹線道路で、得宗私邸と御所および幕府の公邸が小町大路を挟んで東西に分かれていた可能性が高い。また旧 宇都宮辻子幕府敷地の北部は若宮大路幕府の南部と重複していたと考えられている。 . 右画像は三ヶ所の鎌倉幕府政庁の概略地図(クリック→ 別窓で拡大表示) |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 12月27日 癸巳 . 吾妻鏡 |
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晴。今日の評定衆による協議により大殿 (前将軍 藤原頼経) 御上洛※について延期する決定があった。 これは兼ねての希望に従って明春2月9日に必ず出発すると定めていたが、政所の火事 (26日) によって上洛に必要な機材が全て焼失したのが原因※である。 . . ※頼経上洛: 結局実現せず、翌年7月に出家する事になる。将軍職を罷免されても父 九条道家 の後ろ盾を受けて北條得宗家との暗闘を続けたが...寛元四年 (1246) には京都に送還され、六波羅若松殿に軟禁同様に拘束された。同時に九条道家も関東申次を罷免されて失脚、朝廷のアンチ幕府派は一掃されてしまう。 .. アンチ幕府の立場から多くの資料を含んだ日記 平戸記 (Wiki) を書いた正二位民部卿 平経高も、九条道家の失脚と鎌倉幕府の支援を受けた後嵯峨上皇の院政開始に伴って朝廷から排斥され、政界から退去となった。 ※延期の原因: 火災は幕府が命じた放火と考える説がある。 このタイミングで頼経を上洛させたら道家が朝廷を巻き込んだクーデターを企てると警戒した北條得宗の所業だろう、と。 .. 更に現在 大納言の頼経が上洛に伴って大臣 (左大臣 (最高位) と右大臣) の官職に昇った場合は、鎌倉一存での処遇が困難になる、そんな危惧もあったらしい。もちろん具体的な裏付けはないが、これは最後の一発逆転の手段として有り得た、かも。 |
. . 88代 後嵯峨天皇 |
. 12月30日 丙申 . 吾妻鏡 |
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晴。今暁、歳星 (木星) が大微宮※の右、執法上将星を犯した (離隔距離は一寸、と) 。 . . ※大微宮: 北斗七星の南に位置するエリア。古代中国では天帝の座は北極星を中心にした紫 微宮で、大微宮は行政府を司ると考えられていた。執法上将星はその一つだろうが、明細は不明。離隔距離は、腕を伸ばした指の間で計測するのが基準らしい。 . |
. . | . 12月06日 . 晴耕雨読 |
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3時に目が覚めた (笑) 。昨日18時に寛元二年の校正が終了、順調だ。. 山茶花 (サザンカ) がそろそろ散り始めた。我が家の花は少し早めに咲くので花後の剪定は...一月末、かな。 . 園芸店ではシクラメンやパンジーを先頭に様々な鉢植えが並んでいるが、個人的には地植えの植物が好きなのでクチナシや金木犀や沈丁花が咲き始めるまでは少し寂しい季節になる。門の横に移植した沈丁花 (そもそも移植向きの灌木じゃないしね) も心配だし。 . 日々草の刈り込みも済ませなきゃ。これ、耐寒性が弱い筈なのだが、我が家では毎年芽を出してくれる。妻が余った種をあちこちに撒いたため今年も結構楽しめたが、もう大部分が倒れかけている。刈り込んだ跡を花鉢で飾ってくれると良いのだが...。 . |
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. 月 日 . 吾妻鏡 |
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