
. . 87代 四条天皇 |
. 1月 1日 壬申 . 吾妻鏡 |
.
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。匠作北條時房の沙汰による椀飯※の儀は通例通り。周防右馬助北條光時(束帯)が御剣を、武蔵守北條朝直(狩衣)が御弓箭を、肥前守佐原家連が御行騰沓※を献じた。 . 一の御馬は (鞍置き) 相模式部大夫北條時直 本間次郎左衛門尉信忠 二の御馬は 相模右近大夫将監北條時定 横地太郎兵衛尉長直 三の御馬は 佐原太郎左衛門尉家胤 同四郎左衛門尉光連 四の御馬は 佐原七郎左衛門尉政連 同六郎助連 五の御馬は 相模七郎時弘 橘右馬允公高 . . ※椀飯 (おうばん) : 饗応の献立、食事を摂る儀式や行事も意味する。大判振る舞い の語源。 . ※行騰 (むかばき) と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像 (wiki) を参考に。 . . ※年令: 四代将軍 藤原頼経 間もなく 22歳、正室 竹御所 (二代将軍 頼家の娘、寛喜二年 (1230) に将軍 頼経と婚姻、嘉禎元年 (1235) 7月の死産後に病没する (享年32) 、 .坊門信子 (故 実朝の寡婦、出家) 52歳 、 . 北條泰時 55歳、 北條経時 14歳、 北條時頼 11歳、 北條時房 65歳、 北條朝時 46歳、 北條重時 41歳、 北條政村 35歳、 北條実泰 31歳、 三浦義村 12/5に病没、享年70、 三浦泰村 55歳、 千葉時胤 20歳 、 安達景盛 56~64歳、 安達義景 28歳、 足利義氏 49歳、 宇都宮頼綱 60歳、 宇都宮泰綱 40歳、 二階堂行村 前年 2/16死没、享年83、 二階堂行盛 57歳、 . 87代 四条天皇 7歳8ヶ月 (貞永元年 (1232) 12/5 即位) 、 86代 後堀河天皇 は天福二年 (1234) 8/31に崩御 (享年23) し、上皇は不在、 後鳥羽上皇が 2/22に配流地の隠岐で崩御 (享年60) 、 西園寺公経 66歳、 九条道家 45歳、 藤原定家 74歳、 退耕行勇 74歳、 親鸞 63歳、 叡尊 38歳、忍性 21歳、 日蓮 17歳、 ※ 三浦義村は仁安三年 (1168) 誕生 (史料に拠り 元暦元年 (1184) に満16歳だった と設定)。 ※ 安達景盛は寿永元年 (1182) 誕生 (異父兄 島津忠久との年齢差≒ 5) 考えて年齢を推定した。 (全て1月1日基点の満年令、下線付きはWiki) . . ※政情: 安貞二年 (1228) 12月に 関白が 近衛家実 (Wiki) から鎌倉将軍 藤原頼経の父 九条道家に 交替。近衛家実 (通称を猪熊関白) は鎌倉幕府と協調して後鳥羽院政を否定し 「成功 (売官制度) 」 なども取り入れたが、将軍頼経+三浦一族+西園寺公経と組んで幕府への圧力を強めようと諮った九条道家との権力争いに敗れて政治力を失ってしまう。 .. その九条道家も、建長三年 (1251) には将軍 頼経の失脚と共に没落してしまうのだが。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 1月 2日 癸酉 . 吾妻鏡 |
.
晴。前武蔵守 北條泰時の沙汰による椀飯の儀あり。右馬権頭 北條政村 (束帯) が御剣を、若狭守 三浦泰村 (狩衣) が御弓箭を、秋田城介 安達義景 (頂を折った烏帽子に帯剣) が御行騰沓を献じた。 . 一の御馬は 周防右馬助北條光時 (狩衣、帯劔) 同、修理亮北條時幸 二の御馬は 左近大夫将監北條経時 (狩衣、帯劔) 梶原右衛門尉景俊(梶原景茂の長男) 三の御馬は 陸奥掃部助北條実時 原左衛門尉忠康 四の御馬は 兵衛尉大曽祢太郎長経※ 同、次郎兵衛尉盛経 五の御馬は 兵衛尉北條五郎時頼※ 弥次郎左衛門尉親盛 . . ※大曽祢長経: 文面通りに読めば 安達盛長→ 次男時長 (景盛の弟、分家して大曽祢氏の祖) → 嫡男長泰→ 嫡男長経 (上総介) なのだが、長経は寛喜四年 (1232) 生まれ (多分元服前の満7歳) だから整合性は乏しいし、盛経は叔父 (長泰の弟) に当たる。この記事は間違いか。ちなみに北條時頼は満11歳、公式行事には初めての参席で 2年前の嘉禎三年 (1237) に元服している。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 1月 3日 甲戌 . 吾妻鏡 |
.
晴。遠江守 北條朝時 の沙汰による椀飯の儀あり。右馬権頭 北條政村 (狩衣) が御剣を、周防右馬助 北條光時が御弓箭を、内藤七郎左衛門尉盛継 (内藤盛家の息子) が御行騰沓を献じた。 . 一の御馬は (鞍置き) 遠江式部大夫北條時章 小見左衛門尉親家 二の御馬は 南條八郎兵衛尉忠時 同平四郎 三の御馬は 陸奥掃部助北條実時 梶原右衛門尉景俊 (1月2日参照) 四の御馬は 新左衛門尉平盛時 同四郎 五の御馬は 遠江五郎北條時兼(北條朝時の五男) 飯田五郎家重※ . 椀飯の後に将軍家 藤原頼経の御行始め (外出初め) があり、前武蔵守 北條泰時邸※に入御した。 . . ※飯田家重: 飯田氏の初見は治承四年 (1180) 8月24日の 堀口合戦では 渋谷重国の五男 家義と 書いたが、大庭景親 の郎党説や甲斐国の住人説や駿河国の住人説等があって釈然としない。 .. ※北條泰時邸: 現在の 宝戒寺 (公式サイト) を中心とする一帯 (地図) 。鎌倉幕府の滅亡まで代々 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 1月 5日 丙子 . 吾妻鏡 |
.
御弓始めを催した。 . 射手 一番 三浦駿河五郎左衛門尉 佐貫左衛門次郎 二番 同佐原四郎左衛門尉 大河戸太郎兵衛尉 三番 南條八郎兵衛尉 平左衛門四郎 四番 藤澤四郎 本間源内左衛門尉 五番 横溝六郎 原三郎 六番 小笠原三郎 神地四郎 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 1月11日 壬午 . 吾妻鏡 |
.
雨雪 (雨混じりの雪) 。将軍家 藤原頼経が鶴岡八幡宮に御参拝。午二点 (11時半前後) に御束帯と御車で出御、陸奥掃部助 北條実時が御剣を持ち、佐渡判官 後藤基政と上野判官 結城朝広らが供奉した。 . 今日、陸奥国郡郷の所当※についての検討があり、徴税する税吏も農民も布によって納付する決まりを忘れて銭貨を利用し、所定の納付額を守っていないとの噂がある。白河関から先へ下向する者以外は銭貨の所持を禁止し、同時に絹布の品質についても以前の通りに納付するよう定めた。 . 将軍家 藤原頼経の奉書 (決裁書) が匠作 北條時房を経て前武蔵守 北條泰時に命じられた。 . . ※所当: 国衙や領主に納付する物品や雑役。鎌倉幕府は貨幣経済の浸透に抵抗を続けている。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 1月17日 戊子 . 吾妻鏡 |
.
晴。ニ所詣にそなえて将軍家 藤原頼経の精進潔斎が始められた。
. | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 1月19日 庚寅 . 吾妻鏡 |
. | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 1月27日 戊戌 . 吾妻鏡 |
.
晴、夜になって雨雪、深夜になって晴。巳刻 (10時前後) に将軍家が二所詣から還御、一昨日 (25日) に三嶋大社と伊豆山権現に御奉幣した、と。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 2月 3日 癸卯 . 吾妻鏡 |
.
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 御所に於いて大般若経の真読※が始められた。権少僧都澄弁の担当である。 . . ※真読: 省略せずに経典を全部通して読むこと。「転読」の対語。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 2月 4日 甲辰 . 吾妻鏡 |
.
快晴、夜半になって雨雪、雷鳴が数回あり。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 2月 5日 乙巳 . 吾妻鏡 |
.
晴。酉刻 (18時前後) に強い雷雨あり。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 2月 7日 丁未 . 百錬抄 |
.
改元あり。世の中は 「暦仁は略人 (人を滅ぼす) を意味するから支障がある」 と噂していたため 延応に改めた。ただし改元の詔書には「天変に対応した」と書いてある。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 2月14日 甲寅 . 吾妻鏡 |
. | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 2月16日 丙辰 . 吾妻鏡 |
.
晴。京都朝廷の使者が到着。去る7日に暦仁二年を改め延應元年とした。藤原経範朝臣の撰進である。 .先月19日に侍従僧正信恵が入滅。去年9月24日の弁僧正 定豪の死没以後は東寺一の長者を務めていた。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 2月22日 壬戌 . 百錬抄 |
.
隠岐の法皇 後鳥羽上皇が崩御した (60歳) 。去る承久三年 (承久の乱、1221年) 以後19年、誰もが悲しむ出来事である。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 2月30日 庚午 . 吾妻鏡 |
.
長く知行してきた御家人の所帯 (所領) について、自分が所有権者※だと称して訴えを起こす者がいる。 このような無法な訴訟を防ぐために定めたのが式條 (御成敗式目) であり、その様な訴えを取り上げる必要はないとの沙汰があった。 . . ※所有者: 分割相続による所領の細分化などが中小御家人の貧困化を招き、所領を担保に借金を する例が増えている。 .. 本領は担保に設定できるが、御成敗式目では恩賞で得た所領には抵当権や質権などの設定を認めていない。抵当流れによるトラブルの多発を防ぐのが目的である。 ただし、この類の徳政令は結果として貸し手の 「貸し渋り」 を招いて更に貧困を拡大させる。この時代、経済構造の「根本的変革」なんて発想は、勿論存在しない。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 3月 5日 乙亥 . 吾妻鏡 |
.
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。先月11日の巳刻 (10時前後) に京都で日暈※の変異があった。密奏※の者たちの意見が様々なので再度の勘文を命じ、大蔵卿菅原為長と大外記清原頼尚が勘状 (上申書) を提出した。 . 今日その内容が鎌倉に届き、中原師員が将軍家 藤原頼経の御前でこれを読み上げた。天文道の忠尚、良光、季尚朝臣らは 「重暈である」 と、家氏朝臣は 「交暈である」 と、晴継朝臣は 「白虹が太陽を貫いている」 と答えた。 . 大蔵卿菅原為長が後漢書を調べてその記述を引用し 「暈とは虹であり概ね白虹であると説明している」 と評価し、大外記は 「暈とは虹であるとの先例を確認したのみ」 と答えた。 . . ※日暈: 太陽の周囲に架かる傘。単純な光学現象なのだが、更に詳細は Wiki で。 . ※密奏: 内密の上奏。この場合は天体の異常が観測された際に観測状況と占星術による解釈の 違いを述べる意味の上奏なのだろう。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 3月11日 辛巳 . 吾妻鏡 |
.
内匠頭経長※が京都から鎌倉に到着した。 . . ※内匠頭経長: 内匠頭は中務省の内匠寮で備品や調度品を扱う責任者、官位は従五位上。 経長なる人物の詳細は不明、後鳥羽崩御に関して発生した調整業務か。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 3月15日 乙酉 . 吾妻鏡 |
.
司天の輩 (天文担当) が呼ばれて御所に参上し、2月11日の天変 (太陽の暈) に関する京都の勘文 (天文担当が提出した上申書) についての意見を求めた。 . 維範、泰貞、晴賢らは「重なった暈である」と述べ、中原師員朝臣は「晴継朝臣が勘文で「白虹だと考える」と述べた事には感心した。古い文書にも明確に述べられている。」と述べた。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 3月17日 丁亥 . 吾妻鏡 |
.
六波羅の使者が到着して報告。去る2月22日、隠岐の 後鳥羽上皇が遠嶋 (隠岐) で崩御 (60歳) し25日に埋葬した、と。. . ※ 右は 国宝の宸翰御手印置文 クリック→ 別窓で拡大 朱の手形を挿した宸翰 (自筆文書) の概略内容は以下。 .この病は大事ではないと思ったが日ごとに重くなるようで、往生も近いものと思われる。日頃の奉公に応える所領も少なく、力不足が無念である。
.. 摂津にある水無瀬と井口の両地を知行して私の菩提を後々まで弔って欲しい。また出雲の持田も親成に与えるから親成の父も遺志には背かないだろう。加賀は弟の信氏にとも思ったが一方に兄の親成がいて何の科もなく、弟に与える理由もないと考える。同じく親成が知行せよ。 . ただし親成が判断して信氏に与えるのならそれもよい。信氏は摂関家の家来にでもなれば官位の昇進もあろうし父も大切に思うだろうが、この押手 (手形) に背きこれらの領地を親成から奪ってはならない。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 3月29日 己亥 . 吾妻鏡 |
.
匠作 北條時房と前武蔵守 北條泰時が評定所に入り評定衆が集合した。 . 筥根山 (箱根権現、九頭竜神社) の別当興実と智蔵三郎法橋良実が対決を遂げた。これは2月 (14日) の読経法会の際に別当興実が桟敷を職衆 (法会の職務に任じる僧衆) の座前に設けた。職衆がこれを怒り、良実が指導して法会を中止させた、その責任を明確にするのが目的である。 . 双方とも罪を逃れることはできず、興実は花河戸橋※を架け、良実は廻廊22ヶ間 (スパン) の檜皮 (屋根) を葺き替えるよう命じられた。 . .
※花河戸橋: 回廊の檜皮 (屋根) を葺き替える罰は判るのだが
花河戸橋が判らない。回廊と同様の神域だろうから、二の鳥居前の川かも知れないし。 .. 箱根神社の約4km北西に現在地 (箱根神社本殿の右手) に鎮座する前の九頭龍神社、箱根権現の実質的な創設者である萬巻上人が芦ノ湖に棲む悪龍を鎮め祀った神社 (地図) がある。 . 専門家は、その湖畔側にある旧弁財天社 (現在は箱根神社宝物殿の横に遷座) に下る橋の可能性を考えているらしい。 興味があれば 山岳信仰の聖地から始まった箱根神社 (別窓) も参考に。右上は駒ケ岳山頂の元宮。クリック→ 別窓で拡大 ロープウェイなどの明細 も参考に。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 4月13日 壬子 . 吾妻鏡 |
.
今日評議を経て、六波羅に通知する数件の事項を決定した。 . 一.僧徒の武装禁止の件 朝廷の命令が再三発行されたにも拘らず更に勝手な行動が見られれば法に従って処理する。
.一.近年賭博を行なう者が増えている件 京中市内での賭博は検非違使別当に通知し、保管人※に命じてその家を破却させる。 .市外の場合は本所※に連絡して身柄を拘束し関東に連行する。 一.京都に拘留している犯罪人についての件 大番勤務の者が下向する際に関東に連行する。 .一.武士が捕縛した犯罪者の住居の件。 大理 (検非違使別当の唐名) に連絡し保管人の措置に任せ、市外の場合は本所の措置に任せる。
.一.篝屋 (市中警護のため篝火を焚く番所) に備える武器の件。 その場所の管理を担当する武士に任せる。 .一.諸社の神人らが在京の武士の宿舎に対して神宝や神輿などを振って狼藉を行なう場合の対処。 仲間に警告する意味を含めて首謀者を関東に連行させる。 .以上の事柄を文書にして御教書 (命令書) に記載する。 . . ※保管人: 行政単位としての「保」を管理する者。 . ※本所: 荘園に関する人事、年貢、公事の増減などについて最終的な決定権を持つ荘園領主。 式目抄※には「本所とは領家であり、元来の領主を差す」との記載があるのだが、荘園領主や知行国主などの上級管理者全般を含む場合や、現実に支配権を持っている者を差すケースもあるから面倒くさい。 .※式目抄: 室町時代後期の学者で公家でもある 清原宣賢 (Wiki) が著した御成敗式目の注釈書。 注釈書として評価は高いが、家柄などから 「実用的ではない 」 とする評価もある。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 4月14日 癸丑 . 吾妻鏡 |
.
信濃民部大夫入道 二階堂行盛、大和前司 伊東祐時、山城前司本間元忠※、甲斐前司 大江 (長井) 泰秀、民部大夫 太田 (三善) 康連、内記太郎らによる検討を経て以下の制度を発布した。 . 一.関東の御家人が京都に申す傍官所領上司※への補任を望む事。 . 一.惣地頭が所領内の名主が管理する土地を押妨 (不当に侵害) する事。 . 一.官位や官職を望む者が鎌倉幕府に推挙状を申請する事。 . 一.鎌倉に住む僧徒が勝手に官位を競って争う事。 . 以上の項目を禁止する。 . 一.勾引人 (誘拐、かどわかし) および人身売買を行なう者を逮捕拘禁する事。嘉禄元年 (1225) 10 :月29日の宣旨を遵守する事。 .一.奴婢 (奴隷として売買や寄進の対象とした男女) および雑人 (主家に隷属した庶民など) および 彼らが産んだ子に関しては、餓死者が多発した寛喜三年 (1230) の頃に 「飢えた者を救済するのは主人の責務である」 と定めた。これを借金の対価としたり、土地の所有権と交換する行為に根拠はない。 .双方が協議し和解して現行法による所有権の変更を行なう場合はその限りではない。 . ※本間元忠: この人物の詳細な情報は確認できないので本間氏の素性についての概略を書く。 元々は武蔵七党の一つ横山党系の一族で本領は武蔵国小野郷 (多摩市聖蹟桜ヶ丘、地図) 。吾妻鏡には嘉禄三年 (1227) 7月12日に元忠が 「伊勢国に派遣されて悪党と戦った」 旨の記載があり、系図に載っている位置が判らないのが実に残念だ。 .. 鎌倉幕府滅亡の際に極楽寺坂を突破した新田勢の大館宗氏主従と坂ノ下付近で死闘を展開した本間山城左衛門 (泰宣または有綱)の同族なのは間違いない。 . この項は 稲瀬川河口の碑 伝・大館宗氏討死の地 を参照されたし (別窓) 。 . .承久の乱後の貞応二年 (1223) に大仏流の 北條朝時が佐渡国守護に任じ、鎌倉中期には本間六郎左衛門重連が守護代として年に一度佐渡に訪れ、一族の何人かが代官として駐在していたと考えられる。この頃が本間氏と佐渡の関係が本格化した最初となる。 . 以前に書いた通り本間氏館跡は相模国神格依智郷 (厚木市金田) の 妙純寺 (Wiki) 一帯、地図) で、良く保存された土塁の状態などが確認できる。 (右画像 クリック→ 別窓で拡大表示) . 日蓮遺文にある「午の時ばかりに「えち」と申すところへゆきつきたりしかば 本間の六郎左衛門がいへに入りぬ」の場所で、日蓮はここから流刑地佐渡に向かっている。金田の近辺には日蓮の教化を受けて日蓮宗に改宗した数軒の寺院もある。 ※傍官所領上司: 御家人が在京の荘園領主により上級荘官 (上司) に任じるのを禁じる規定。 幕府が任命した地頭の荘官は下司または中司が多いため、同じ御家人の間に上下関係が生まれる事を防ぐ目的があった。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 4月15日 甲寅 . 吾妻鏡 |
.
晴。月蝕は確認できず。対応する祈祷は助僧正厳海、宿曜道 (仏教に基づく天文道) は助法印珍誉。 蝕に関する争論がある。部分蝕との意見、蝕ではないとの意見、また他国の蝕と主張する者もいる。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 4月16日 乙卯 . 吾妻鏡 |
.
辰刻 (朝8時前後) に小さな地震があった。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 4月23日 壬戌 . 吾妻鏡 |
.
晴。戌刻 (20時前後) に乾方 (北東) に妖気があり光の帯が巽 (南西) を指した。長さは八尺で巾は一尺 (約240×30cm) で色は白赤、元になった星はなく、その光は空に映えて野火の如くである。 御所にいた人々はこれを怪しんだが一時 (2時間) ほど過ぎてから消えた。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 4月24日 癸亥 . 吾妻鏡 |
.
晴。辰一点 (朝7時過ぎ) に司天の者を呼び昨夜の奇雲に関し質問、維範と晴賢は見ていなかったと答えた。承和 (834~848) と元暦 (1184~1185) に現れた彗星は元の星と共に短時間で消えたが、今回は良く見極めるよう指示が下った。 . 今日評定衆の協議があり、諸社の神人 (神社の下級職) による狼藉について、六波羅からの連絡では本所 (荘園領主) に通知しても対処しないとの事、 将軍家の仰せとして「犯意が明確なら関東に連行せよ。また三度通知しても対処しなかった場合は文書で報告させ、将来の紛争により訴訟となっても取り扱わないとする。」と相模守 北條重時 (北方) と越後守 北條時盛 (南方) に通達した。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 4月25日 甲子 . 吾妻鏡 |
.
未刻 (14時前後) に前武蔵守 北條泰時が突然の急病、戌刻 (20時前後) には意識を失なう状態になった。 多勢が駆け付け、織部正伊賀光重 (光宗の弟で頼経の近習) が将軍の使者として訪れた。 . この頃に匠作 北條時房邸 (泰時邸の筋向い) では酒宴乱舞の最中で、 「泰時が急病」 と連絡しても宴会を止めず見舞いの使者も送らなかった。 古参の御家人らがこれを非難すると時房はこれに答えて . 「泰時が生きているからこそ酒宴を楽しめる。泰時の急病が大事に至れば二度と再び酒宴など楽しめず隠棲を続けることになる。これが最後の酒宴になるかも知れないのだから中座する訳にはいかないのだ。」 .と語った。諫めた人々は涙を流して感動した。 . . ※時房の言葉: 有名な挿話だが余り意味がない。吾妻鏡の編纂者は泰時の優秀さと、時房が寄 をせている信頼を描きたかったらしいが、私には意味のない単なる危機管理意識の欠如に見える。 ..
ちなみに北條時房邸は後の若宮大路幕府跡から段葛を隔てた西側、鎌倉彫の 「山水堂」 と酒の 「三河屋」 の間の路地 「小池小路」 の奥、私が最後に見た時は案内板と四層の石塔が置かれていた(地図)、最近の GoogleEarth では 「ラーメンの蓮」 と 「とよたクリニック」 の間の路地だが、この辺は入れ替わりが激しいから何とも言えない。. 黒子っぽい存在だが頼朝挙兵以来の要人、それなりに広い敷地だったと思う。「鉄の井」から小町通を100m歩いて左側のグリーンビル (鬼頭天薫堂の手前) 横の路地を入った突き当り付近 (地図) だとも。 . ずっと前に鎌倉彫の工房があったらしいが私が最後に歩いた時には何の表示もない古家だった。 まぁ小池小路の奥とは直線で50mあるかないか、ほとんど同じ場所ではある。 . 2015年頃に Tully'sコーヒーに模様替えし、更に2020年11月には閉店してしまった。店内には「建替えの際に出土した」と書いた素焼きの壷の破片やら陶磁器の欠片やらも展示してあったが、その後はどうなったやら、「そば処 峰本」の南隣、 GoogleEarth では 今は「SNRIO CAFE」 で 「小池小路」 から約 40m八幡宮寄りである 。 . 右上は当時の小池小路奥の標識と層塔。(画像をクリック→別窓で拡大表示) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 4月26日 乙丑 . 吾妻鏡 |
.
晴、寅刻 (早暁4時前後) から雨。少し前に妖気があり軸星の有無に関し天文方が論争した (23日の続きか) 。今日、前武蔵守 北條泰時の病状は未だ回復していない。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 5月 1日 庚午 . 吾妻鏡 |
.
今後は人身売買を禁止する、と定めた。飢饉の頃には食い繋ぐために妻子や従者を売り払ったり、富裕な家に雇われて生き延びた例も少なくない。庶民を救うため努めてきたが近年になって人身売買※に伴う訴訟が頻発し政道に支障が起きているためである。 . . ※人身売買: 売られた者ではなく、売買を業にする者または買った者が起こす訴訟だろう。 森鴎外の「山椒大夫」は平安時代末期を舞台にしているから時代は 100年ほど異なるが、世相に大きな乖離はない。 ただし森鴎外の小説では残酷な描写を避け、心を入れ替えて奴隷らの扱いを改善した山椒大夫が益々商売繁盛する結末になっている。民話にある安寿と厨子王が受ける拷問や、山椒大夫が天罰として受ける残酷な復讐の処刑などは省かれている。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 5月 2日 辛未 . 吾妻鏡 |
.
五十嵐小豊次太郎惟重※と遠江守 北條朝時の伺候人 小見左衛門尉親家が日頃から争っている越中国 国吉名※の所領について、前武蔵守 北條泰時邸で決裁が行われた。 . 泰時は病気が癒えないまま綿布を額に巻き脇息に凭れて論争の場に臨み、匠作 北條時房も出席、主計頭 中原師員と駿河前司 三浦義村以下の評定衆も列席した。 . 惟重の主張は「越中国の国吉名は承久の乱での勲功として拝領したものを親家が押領している」と訴え、親家は「惟重の知行分は国吉名の全体ではなく、私の知行分まで含んでいる」と主張した。 . 双方の主張を確認した結果は親家側の非が確実で、泰時は特に怒りその場で侍所司の 金窪左衛門大夫行親を呼び親家を拘禁せよと命じ、同時にその経緯を (主人の) 北條朝時に伝えさせた。朝時は恐縮※している。 . . ※五十嵐惟重: 建歴三年 (1213) の和田合戦、5月2日に以下の記載がある。 . 御所南門を突破した 朝夷名義秀は鬼神の如き武威を表し、敵対した五十嵐 .小豊次 (小文治とも)、葛貫三郎盛重、新野左近将監景直、礼羽蓮乗ら数輩が 討ち取られた。 . 御所を守っていたのは 北條泰時、次郎朝時、足利義氏 の軍勢で、朝時は下馬した義秀と斬り合って負傷している。ここに載っている五十嵐小豊次は惟重ではなく近親だろうがこの頃から北條氏の、恐らくは当時 30歳の泰時の被官だったと推測できる ※国吉名: 現在の高岡市国吉、小矢部川左岸 (地図) 。寿永二年 (1183) の倶利伽羅峠の前哨戦、 義仲の部将 今井兼平と平家の先鋒平盛俊軍が戦った場所の近くだ。同年5月9日に記載した平家物語を参照。越中と言えば平家の勇将 越中次郎兵衛盛嗣 (Wiki) を思い出すね。五十嵐氏は元々越後中越の武士で、現在の三条市にも館跡が残っている。 .※朝時の恐縮: 朝時は 北條義時の次男 (生母は姫の前) で執権泰時の弟。 名越流北條氏の祖となった朝時は嫡流の意識を持ちながらも特に露骨な反抗的態度は見せなかったが、息子らは反得宗の姿勢を強めて宮騒動や二月騒動など再三のトラブルを起こしている。
.. 朝時の伺候人小見親家の事件に朝時に対する無言の威嚇があったのか、あるいは吾妻鏡の編纂者に得宗家を持ち上げると共に名越流を貶めようとする意識があったかどうか。 . 吾妻鏡の嘘に触れ続けると北條氏の背後を疑う癖が...精神衛生上は良くない。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 5月 3日 壬申 . 吾妻鏡 |
.
国吉名の件、五十嵐惟重に所領安堵の御下知状が与えられた。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 5月 4日 癸酉 . 吾妻鏡 |
. . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 5月 5日 甲戌 . 吾妻鏡 |
. | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 5月11日 庚辰 . 吾妻鏡 |
.
今日、将軍家 藤原頼経 の病が癒えて (穢を落とすための) 御沐浴を行ない、医師の 丹波良基朝臣※ が治療を受け持った褒美として御馬と御剣を下賜された。また再度の祈祷が催され、如意輪護摩を安祥寺僧正が、 御湯加持と天地災変祭を陰陽頭安倍維範朝臣が執り行なった。 . . ※丹波良基: 関連記事が嘉禄元年 (1225) 7月6日にもあり、コメントを記載しておいた。 . 嘉禄二年 (1226) 1月の四代将軍頼経就任と共に朝廷の 施薬院 (Wiki) から丹波良基が鎌倉に派遣されて頼経の主治医に任じ京都の最先端医術が鎌倉に導入された。
.. 建長四年 (1252) には頼経の嫡子で五代将軍の 藤原頼嗣 が廃された。後嵯峨天皇の皇子 宗尊親王が皇族出身の六代将軍になり、朝廷の最高医官だった典薬頭の丹波長忠と玄蕃頭の丹波長世が鎌倉に派遣され、朝廷が独占していた最高レベルの医術が北條氏にも提供され始める。 まぁ最高レベルと言っても鎌倉時代中期じゃ多寡が知れているが。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 5月12日 辛巳 . 吾妻鏡 |
.
将軍家が大納言僧都 隆弁に指示し、久遠寿量院※に於いて最勝王経※の転読を行わせた。 . . ※久遠寿量院: 御所の敷地に建てられた将軍頼経の持仏堂。前年の12月26日にも記載があり、 建久六年 (1195) 10月21日に記載のある「頼朝御持仏堂」とは異なると考える説が主流らしい。いづれにしろ、久遠寿量院の名が吾妻鏡に載るのはこれが最初である。現在は東寺の古文書の中から久遠寿量院別当の覚書が発見され詳細が解明する今後に期待しよう。 .. 取り敢えずの予備知識は 歴史学者 永井晋氏による 鎌倉時代中期における鎌倉の密教 の5頁、10頁 (PDFファイル) を参照されたし。 ※最勝王経: 正式には金光明最勝王経。国を豊かにするため王が守るべき心得を説いた経文。 読誦して正法を施せば諸天善神が国を守護する、などの内容が載っている。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 5月14日 癸未 . 吾妻鏡 |
.
現在訴訟を提起している者は勧農※が済んでから当事者双方が立ち会いの上で裁決に臨むよう定めた。
. . ※勧農: 農業を奨励する意味の他に灌漑事業や耕地の配分、収穫、徴税などの意味も含まれて いた。 「勧農が済んで」は「秋の収穫と納税が済んで」の意味らしい。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 5月15日 甲申 . 吾妻鏡 |
.
前武蔵守 北條泰時の病気は完治せず未だ (穢れを祓う) 沐浴も済んでいないが、御下知の書類に御判 (花押) を入れる作業は連日行なっている。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 5月16日 乙酉 . 百錬抄 |
.
隠岐法皇 (後鳥羽上皇) の遺骨は左衛門尉能茂法師※が首に懸け、今日大原に運んで禅院に納めた。 . .
※能茂法師: 9年後の宝治合戦 (1247年) で三浦一族が滅亡す
る 6月14日の吾妻鏡に次の記載がある。 .三浦光村 の後家は後鳥羽院の北面医王 (院の僧) 左衛門尉能茂法師の娘で当世無双の美人である。光村は哀惜の念が強く、(頼朝法華堂で) 最期の時を迎える際に妻と小袖を取り替えていた。妻は夫の香りが未だ残る悲しさに嗚咽を漏らしていた。 .左衛門尉能茂法師は光村の舅にあたる人物だった。大原で昔の知人に出会ったような気がするね。 右画像は大原三千院門跡隣地の後鳥羽と順徳の陵 (地図) 。 .クリック→ 別窓で拡大表示 後鳥羽上皇の火葬骨を葬った 隠岐海士陵も参考に。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 5月23日 壬辰 . 吾妻鏡 |
.
小雨。申刻 (16時前後) に六波羅の飛脚として赤木右衛門尉平忠光※が鎌倉に到着、20日未刻 (14時前後) に京を発ち僅か4日※で駆け付けたのは飛ぶ鳥の如くである。前武蔵 北條泰時邸の庭で下馬し、去る13日法性寺禅閤 (将軍頼経の父、九条道家) が体調を崩し容態が悪化している旨を報告した。 . 将軍家 藤原頼経は狼狽して陰陽頭維範朝臣以下七人を呼んで占いを行わせた。各々は特に心配は不要と申し述べ、維範は重病と考えるべきと述べた。前弾正大弼 藤原 (三条) 親実がこれを差配した。 . . ※赤木忠光: 松本市南部の寿小赤赤木 (地図) を本貫地とした武士で、秩父平氏良文流の忠兼が 信濃に入って白河氏を称し、息子の親忠が赤木郷を所領として赤木を名乗った。 .. 親忠の嫡子忠長は承久の乱による恩賞で得た備中穴田郷 (現在の高梁市宇治町穴田、地図) の地頭として土着、一部の親族が松本に残って赤木を継承したらしい。 ※僅か4日: 記載の通りなら4日ではなく3日と2時間 (74時間)になる。 これで約440kmを走り抜けば平均時速約 61km、1日間違えても 98時間だから時速 45km、これは信じがたい。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 5月24日 癸巳 . 吾妻鏡 |
. . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 5月26日 乙未 . 吾妻鏡 |
.
前武蔵守 北條泰時は禅定二位家 政子 の御得脱 (悟りを得て菩提に向かう事) のため毎年怠らずに追善供養を行っている。その一つに法華堂 (勝長寿院※敷地内の廟所) の近くに温室※を建て、薪などを担当する当番を決めて毎月の六齋日※に僧徒が浴すように定めた。 . また後の世までこの積善を続けるよう、左衛門尉 平盛綱に命じて次の通りの置文 (書置き) とした。 . 南新法華堂で六齋日に施す湯に使う薪の費用について。 . もしも規定を10日過ぎても滞納する者がいれば、担当する責任者が挙銭 (相手に貸し付けてある銭) を回収して寺家に納めた後に、滞納している者から延滞日数の多少に拘らず倍額を徴収すること。更にその支払いも怠る場合には担当している責任者から報告を上げ、所領を没収して他の者への戒めとする。
.. ただし責任者が公共の利益を軽んじ、個人の判断を優先して滞納への対処をせず寺家の訴訟となった場合は、滞納している者の処分を保留にして責任者の所領を没収する。 温室運営についてこの様に定めた後は混乱を防ぐため一切の異論は許さず、従わなければ同様の罪に問い更に責任者は追放処分とする。 . そもそも、関東の御家人が身分の上下を問わず一郷一村の所有を認められているのは二品禅定 (政子) の恩徳なのは誰もが知っていること、この程度の義務を忌避するのでは木石の類に過ぎない。木石の類であれば恩恵を与える値打ちはなく、所帯を没収しても何ら支障はない。 . 早々にこの御下知状を書写して各々が座右に置き、恩顧を忘れぬよう務めるべきである。 . 延應元年五月二十六日 左衛門尉 盛綱 . ※勝長寿院: 頼朝が文治元年 (1185) 9月3日に落慶供養を行なった大寺。源氏の氏寺に近い存在 であり、義朝 の遺骨を初め 実朝や政子も埋葬されたが、享徳四年 (1445) に鎌倉公方の 足利成氏 (Wiki) が古河に退去した後は庇護者を失い廃絶 荒廃したらしい。 .. 康元元年 (1256) 、永仁三年 (1295) など数回の火災で焼けた記録があり、政子と実朝の五輪塔が 寿福寺に移設 (或いは新設) された時期は不明、享徳四年以後と考えるべきか。 ※温室: 当時の「温室」が浴槽を差したか蒸し風呂を差したかは確証がない。 湯浴みと信仰を結びつけた記録は光明皇后(第45代聖武天皇妃、701~760年)が最初で、千人の垢を洗う願を立てた、その千人目が癩病 (ハンセン氏病) だった。 .. 光明皇后は心を決めて病人の垢を洗い流した結果、病人は阿閦 (あしゅく) 如来の化身だったという寓話で、光明皇后は阿閦寺 ※ (奈良の 法華寺 (公式サイト) の近くにあったらしい)を建てた、と伝わる。吾妻鏡の建久三年 (1192) 3月20日には次の記載がある。 ここでは取り敢えず 「蒸し風呂」 と訳しておいた。 . ※阿閦寺: (あしゅくじ)、天応元年 (781) に奈良時代後期の公卿 石上宅嗣 (Wiki) が平城京近くの 私邸を寺に改めたもの。邸内に日本初の図書館 芸亭 (うんてい) を設けて学問を志す者の使用に供した。奈良左京二条、法華寺 (公式サイト) の南東 (周辺地図) にあり、天長年間 (824~834) に廃絶した。 .光明皇后との関わりは只の伝承に過ぎない、らしい。 ※六齋日: 在家の者が八戒を守るべき 6ヶ日。この日は四天王 (または悪鬼) が人間の行動を見張 るという。具体的には 8日、14日、15日、3日、29日、30日を差す。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 5月29日 戊戌 . 百錬抄 |
.
侍従中納言 藤原為家 (定家の長子) が到着、大外記師兼を召して隠岐院 (後鳥羽上皇) を顕徳院と号す旨を伝えた。 .治承の 崇徳院の例に倣って勅書はなく外記が承ったのみ、謚号は式部大輔為長卿が勘じたもの。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 6月 3日 辛丑 . 吾妻鏡 |
.
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 今暁に京都の飛脚が到着、禅定殿下 九条道家の病気は問題になるほど重くなかったとのこと。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 6月 6日 甲辰 . 吾妻鏡 |
.
武蔵国の年貢として地頭から京都に納入する荘園別の明細を定めた。国務 (国司) は匠作 (北條時房) 。 . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 6月12日 庚戌 . 吾妻鏡 |
.
晴。前武蔵守 北條泰時の病気が癒え、今日 (穢れを祓う) 御沐浴を行なった。 .医療を担当した施楽院使の丹波良基朝臣 (5月11日を参照) 父子と典薬頭の丹波時長朝臣は御衣と御剣および各々に一村を拝領した。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 6月19日 丁巳 . 吾妻鏡 |
. . | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 7月 2日 己巳 . 吾妻鏡 |
.
陰陽道の七人を御所に呼び、各々に御剣一振りを下賜した。禅定殿下 九条道家の病気に対応した御祈祷を行ない、更に去る5月23日に病気を知らせる飛脚が下着した際に「重篤な病気に非ず」と占ったのが理由である。 司天 (天文担当) を含めた陰陽師らについては既に内々のお褒めが伝えられていた。 .
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 7月15日 壬午 . 吾妻鏡 |
.
御所の御持仏堂 (5月12日に記載した久遠寿量院) で盂蘭盆経を賛嘆する法会を催した。 導師は信濃法印道禅、大江佐房と広時らが布施の配布に任じた。 . 今日、前武蔵守 北條泰時 が所領の田地から徴収する年貢を念仏料所とし、期限を定めず信濃国の善光寺に寄進すると決定した。泰時は以前から善光寺に帰依しており、更に今回の病気の際には阿弥陀如来の加護を願った経緯もあってこの寄進に至り、円全法橋が寄進状を起草した。 . 右下画像は信濃善光寺の本尊 阿弥陀三尊像の前立仏 (要するに、創建当初のレプリカ) 。 本尊は絶対秘仏で永遠に開帳されず、前立仏のみ七年に一度の開帳となる。 . 詳細は 画像をクリック→ 拡大表示を含めて 善光寺の由来と変遷 (別窓) へ。 .
寄進信濃国善光寺の不断念仏用途の件、水田陸町陸段 (六町六反) の 所領は武蔵国小泉庄室賀郷※。念仏衆12人は期待に値すると考 える。 . 一.田疇 (うね) の配分について。 前記した六町六段の中で六町は念仏僧侶の免給 (免税) 地で 六段は灯明の油を賄う費用に充当する。免田六町は12に区分して一人当り五段を12人に分与し、他の六反を灯明の費用として分与し長く仏への奉仕に充てるように。すなわち、灯油として仏に奉仕する分が三斗六升である。ただし肥沃な田畑と荒れた田畑の差異を考慮して配分するように。
.
一.免税を中止せず継続すること。小泉庄を知行する者は北條一門以外であっでも寄付の約束を変更してはならない。子々孫々までこの契約を守らなければ仏の加護を受けず更に本願施主 (泰時) の恨みを受ける結果となる。 .
一.担当者の順番を定める件。信仰の深さを考え悪口を言わず争いを避け仏縁を重んじれば極楽浄土との結縁も得られる。
.
一.僧侶の席次に関する件。長年の修行を積んだ高齢の僧であっても上位であると考えてはならない。 .才能豊かであっても目下の者への礼節を忘れなければ争いも起きず、覚樹の花報 (菩提樹の下で悟りの果報) に入れるだろう。 一.僧侶の意見を集約する件。 担当は12人の僧侶で、7人以上の意見集約を結論とせよ。5人以下の意見は異議であり 学識経験者であっても衆議には従わねばならない。ましてや愚者が異議を挟むなどありえない事だ。 .
一.連日の参加ができない場合。如何なる場合でも二ヶ月に亘って欠席する場合は代官を定めて勤めを果たすべし。重病であっても服喪の期間であっても不参加が百日以上になった場合は衆議に従うこととする。 .
一.僧としての所職を譲る場合について。師の僧からの継承であっても衆議を経なければならない。推挙ではなく衆議に拠り補任すべきであり、継承した後に任期の短縮などを行なう事を禁じる。
.各々が七ヶ條の式目を守り心を一つにするように。特に則ち二品禅尼 (政子) を始めとする数人の先君を敬って先祖を供養し早世した息子や孫を慈しみ、現世と彼岸の仏縁と御利益を願うように。 云々
.
. 延應元年七月十五日 正四位上行前武蔵守平朝臣 (泰時※) . ※盂蘭盆経: 死者の菩提を弔う思想に基づく法会。更に詳細は Wiki を参照されたし。 .
※小泉庄室賀郷: 武蔵国と書いているが、小泉庄は現在の
長野県上田市西部の浦野川流域 (地図) が中心で室賀郷は北西の支流室賀郷の流域を差す。 .
. 小泉庄は建暦三年 (1213) に謀反を計画した咎で追討軍を派遣され逐電して行方不明になった泉小次郎親平 (泉親衡) から没収した所領である。 . まぁ本当に謀反だったのか信憑性が疑われる、和田合戦の前哨戦だ。吾妻鏡の2月15日と16日と18日、20~3月2日を参照されたし。 . 青木村 (公式サイト) には 道の駅 あおきもある。50代後半の頃に本気で移住を検討した場所だ。 右上は青木村山裾にある 国宝 大宝寺の三重塔。 画像をクリック→ 信州青木村 大法寺 (別窓) と周辺の風景へ。 . 南の山並みの更に南は塩田流北條氏 (家祖は 北條重時の五男 義政) の本領で 「信州の鎌倉」 とも呼ばれる塩田平。塩田流北條氏は 新田義貞 に攻め込まれた元弘三年 (1333) には一族が鎌倉の北條得宗家に合流して共に滅亡している。 . ※ この時代の為政者が仏門に帰依するのは別に珍しくないが、御家人や僧侶の精神世界まで踏み 込んで行動の規範や罰則まで示すのは珍しい。泰時 (56歳) の余命は三年、俗世を離れて宗教の範疇に入ろうとしている様だ。北條一族としては珍しく生真面目だったらしいが、熟視すると中身は凡庸だ。 .
. 国費を盗んだ政治家 安倍晋三が人間としてあるべき姿を説いている様に見えて後味が悪い。 . . 87代 四条天皇 . 7月20日 丁亥 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 深夜、風の鎮まった月明りの中を将軍家 藤原頼経が突然に牛車で佐渡前司 後藤基綱邸※に渡御した。 . 従者は丁度伺候していた周防右馬助 北條光時、陸奥掃部助 北條実時、蔵人 毛利季光、河内守 三浦光村、兵庫頭 藤原定員、織部正伊賀光忠 (光宗の異母弟) 、駿河四郎左衛門尉三浦家村 (義村の六男) 、同五郎左衛門尉三浦資村 (義村の七男) 、上野判官 結城朝広 のみ。 一同は後藤基綱邸に勝長寿院の稚児を呼び寄せて管弦舞曲を楽しんだ。 . . ※後藤基綱邸: 父の基清の家は大倉郷だったと伝わっているが、当時の大倉は実朝 が建保二年 (1214) の 7月に建立した大慈寺 (明王院の東側、地図) まで含んでいたから特定はむづかしい。 .
基清は承久の乱 (1221年) で後鳥羽院に味方して息子の基綱に斬られ、基綱が父の家を相続したと思われる。 . . 87代 四条天皇 . 7月25日 壬辰 . 吾妻鏡 . |
越中国の東條、河口、曽祢、八代など※の保は、請所として朝廷が定めた米百斛 (一斛は石と同じで=10斗=180リットル)を準備して送る旨を去年11月に地頭が連名で禅定殿下 九条道家 に書類を提出していた。これにより国衙の干渉や院の賦役などの要求を停止する、と同年12月に国司の廰宣 (公示) に書き加えられた。 . 去る1月には国司の廰宣と地頭の寄進状の内容に従い 東福寺※ (公式サイト) 領として全ての国役などを停止し、地頭の請所※として年貢百石を納付する決まりになった。その中で当家領の宮嶋保を国領に返却する旨の禅定殿下政所の御下文が下された。これは東福寺に寄付する分として相続した所領である旨を将軍家に連絡し、相互に了解した結果である。 . . ※地名: 東條は射水市の庄川右岸 (地図) 、河口は射水市の庄川河口右岸 (地図) 。 寿永二年 (1183) 5月10日に 義仲が主力軍を率いて2日後の倶利伽羅峠合戦に備えた六渡寺 (地名) の近く。曽祢は河口の東に隣接したエリアで八代は氷見漁港の北側に八代と箭代の地名がある (地図) 。宮嶋は小矢部市の子撫川中流域 (地図) か。 .
※請所: 現地を管理する地頭、荘官、名主などが領主に対して
毎年一定額の年貢納入を請け負い、それ以外の権限を全て委任されることを差す。 .
※東福寺: 九条道家 が祖父 九条兼実 の屋敷跡地に建てた寺。
. 越中の場合、地頭は道家の権力に依存して国衙の干渉を拒み代償に幕府領の宮島保を国衙に引渡し、将軍頼経は父の利益とするため譲渡を了解したというウィンウィンの構造だ。 東大寺の 「東」 と興福寺の 「福」 の字を併せて京都最大の伽藍建立を目指し、絶大な権力を掌握した嘉禎二年 (1236) に着工して建長七年 (1255) に完成するまで19年を費やした (地図) 。 .
. ただし道家の栄華も寛元四年 (1246) の宮騒動※で失墜し 将軍頼経の失脚 追放と共に権限は急速に衰退する。 . 更に建長三年 (1251) の12月には 第五代将軍の 藤原頼嗣 (道家の孫、頼経の嫡子) らによる幕府転覆計画が露見、道家の関与が疑われる中で翌年2月には失意の中で死没した。道家念願の東福寺が落慶供養を催すのは没後9年が過ぎてからになる。 . 右上は東福寺収蔵の 仏鑑禅師 無準師範 絵像、巾55×125cm、国宝、絹本着色。 画像をクリック→ 別窓で拡大表示。 . 無準師範は中国五山の一位 径山万寿寺の第34世として、東福寺を開山した 円爾 (Wiki) や、円覚寺 (公式サイト) を開山した 無学祖元 (Wiki) の師で、日本の禅宗に深い影響を与えた。 . . 87代 四条天皇 . 7月26日 癸巳 . 吾妻鏡 . |
評定衆による評議あり。犯罪者について、軽微な犯罪については恩赦として赦免の措置を執る場合もあるが、重い罪科の場合は赦免を適用しないと定めた。また強盗などの重大犯罪で拘禁された者は検非違使に申し出て関東に連行するよう、六波羅に指示した。 .
次に今後は地頭の命令に従わないとの理由で庄官や百姓を拘束せず、居住地に退去させよと命じた。 . . 87代 四条天皇 . 7月28日 乙未 . 吾妻鏡 . |
去る11日から連夜の天変が続いている。 .
. . 87代 四条天皇 . 8月 8日 乙巳 . 吾妻鏡 . | . . 87代 四条天皇 . 8月11日 丁未 . 吾妻鏡 . |
天変に対応する祈祷を催した。北斗護摩は大蔵卿法印良信、鎮星供は助法印珍誉、御祭は維範朝臣。 . また将軍家 藤原頼経は以前から抱いていた所願により、御持仏堂 (久遠寿量院、5月12日参照) に於いて百部の金光明経供養を行なった。導師は三位法印頼兼、称名を唱える僧は10人 (僧綱と凡僧が混在) 、布施を渡す役は皆諸大夫 (仲能、親実、佐房、親光、広時)。 . 御願文に云く、 (以下、省略。儒教の世界観と中国の古典を引用した内容で記載の意味なし。) . . . 87代 四条天皇 . 8月15日 壬子 . 吾妻鏡 . | . . 87代 四条天皇 . 8月16日 癸丑 . 吾妻鏡 . | . . 87代 四条天皇 . 8月22日 己未 . 吾妻鏡 . |
晴。二棟の御方 (頼経の継室 大宮殿、8月8日を参照) が初めて大倉の御産所に (出産に備え) 渡御した。 .
. . 87代 四条天皇 . 9月11日 丁丑 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
. 諸国の地頭が山僧や商人ら 「借上げ※の輩」 を代官に補任する事を全面的に禁止する。彼らは利潤のみを求めて結果がどうなるかなど配慮しない。この様な輩を代官に任命すれば納税の備えを忘れて自分の蓄財だけを考える、その情報が聞こえているのが禁止の理由である。 . . ※山僧や借上:「山僧」 は比叡山衆徒の指導的立場の者で大部分が妻帯者。延暦寺と公家や武家 の間を調整する役を請け負いつつ高利の貸金業を営み、いざ合戦の際には衆徒を指揮して利得を狙う例が多かった。 .
. 「借上」 は平安時代末期から出現した高利の金融業者で、商人として通常の商いを営みつつ金融を兼業する者、の意味だろう。800年前の鶴岡八幡宮の住僧も比叡山も、現代の宗教団体も内部の腐敗は凄まじい。織田信長の全山焼き討ちも、過剰な殺戮を除いて部分的には理解できる。 . 資金と権力を手にした宗教団体は更なる資金と権力を欲し、「平和を守り武力行使に反対」なんか忘れて政権と手を握る。愚者は愚かな歴史を繰り返す。 . . 87代 四条天皇 . 9月16日 壬午 . 吾妻鏡 . |
京都で道々の輩※が武士を称し権限外の仕事に手を出す噂がある。六波羅に停止の措置を命じた。 . . ※道々の輩: 職人、芸能、念仏者、医師、陰陽師など様々な職種の者、武士や官人を除く自由 業の者。 .
. . 87代 四条天皇 . 9月20日 丙戌 . 百錬抄 . |
武士が洛中を駆け巡っている。天王寺別当職の任命権を山門 (比叡山延暦寺) に与えるよう衆徒が要求し、日吉社の神輿を中堂 (延暦寺の総本堂) に入れて洛中に出動する準備をしている噂に対応しての警護である。 .
. . 87代 四条天皇 . 9月21日 丁亥 . 吾妻鏡 . |
尾張の国の住人中嶋左衛門尉宣長※は承久の乱の際に官軍 (後鳥羽院側) に味方して所領を没収された。 現在は将軍 藤原頼経の御所に伺候してこの処遇を頻りに嘆いているため、屋敷と付属する田畠に限って返還する旨を錦織中務丞を介して通達した。 . .
※中嶋宣長: 第52代嵯峨天皇の12番目の子 源融 (Wiki、源氏
物語のモデルの一人) の子孫で 嵯峨源氏。 渡辺氏、松浦氏、蒲池氏などが派生している。 . 貞和四年 (1348) 創建の臨済宗 巨刹 長嶋山 妙興報恩禅寺 (Wiki、地図) の寺伝に「尾張国中島城主中島蔵人の次男 滅宗宗興 (コトバンク) が亡き父母の報恩に感謝するために創建した」とあり 敷地の一部には 一宮市博物館 (公式サイト) を併設している。 右上は参考として、国の重文 妙興寺の勅使門。 貞治五年 (1336) に北朝の第四代 後光厳天皇の勅願により建立したと伝わる禅宗様式の四脚門。 画像をクリック→ 別窓で拡大表示 .
. . 87代 四条天皇 . 9月30日 丙申 . 吾妻鏡 . | . . . 87代 四条天皇 . 10月 8日 甲辰 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .
. 晴。卯刻 (朝6時前後) に前武蔵守 北條泰時が二所詣に出発、去る4日に精進潔斎を始めていた。 左親衛 北條経時 (故 時氏の長男、泰時の摘孫) も同道している。 . . 87代 四条天皇 . 10月 9日 乙巳 . 吾妻鏡 . |
強い風雨、夜になって落雷あり。 .
. . 87代 四条天皇 . 10月10日 丙午 . 吾妻鏡 . |
天変に対応して、内典 (仏教) と外典 (仏教以外、この場合は陰陽道) による祈祷が数人で催された。 .
. . 87代 四条天皇 . 10月11日 丁未 . 吾妻鏡 . |
晴。斎藤左兵衛尉藤原長定法師 (斉藤長定、法名浄円) が死没した (43歳) 。
.
. . 87代 四条天皇 . 10月12日 戊申 . 吾妻鏡 . | . . 87代 四条天皇 . 10月13日 己酉 . 吾妻鏡 . |
兵庫頭 藤原定員による堂供養※あり、導師は岡崎僧正成源。
. . ※堂供養: 将軍頼経の側近である定員が久遠寿量院 (頼経の持仏堂) で法事を執り行なった、と の事か。定員は7月15日の同所での法会でも布施の配布役を務めている。 .
. . 87代 四条天皇 . 10月17日 癸丑 . 吾妻鏡 . |
二棟の御方 (頼経の継室 大宮殿 、8/8を参照) の安産を願う祈祷として七人による呪咀祭 (災厄を祓う祈祷) を行なった。 .
維範、親職、資宣、晴貞、晴平、広資、範定 (いずれも安倍氏の陰陽師) がこれを催した。 . . 87代 四条天皇 . 10月20日 丙辰 . 吾妻鏡 . |
晴。午刻 (正午前後) に陰陽師の広経が御所に参上し、今日の巳刻 (10時前後) に太陽に両耳が付くと称して描いた絵を提出、兵庫頭 藤原定員を介して将軍の御前に持参した。 .
. . 87代 四条天皇 . 10月21日 丁巳 . 吾妻鏡 . |
晴。昨日広経の申し出た変異について司天 (天文担当) に問い合わせた。維範朝臣は「暈 (かさ) や虹が日蝕や月蝕の際に (何かの現象が) 現れればその都度に報告する。耳が付く件のみで奏聞するのは京都朝廷では前例がない。」と答えた。 .
. . 87代 四条天皇 . 10月28日 甲子 . 吾妻鏡 . |
二棟の御方の安産祈祷があり、属星祭を維範朝臣が催した。 .
. . 87代 四条天皇 . 11月 1日 丙寅 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 寅刻 (早暁4時前後) に西の方角で雷鳴が数度、午刻 (正午前後) 以後に震動があり風雨も激しくなった。 . 近日中に着任する信濃国司による初任検注※について沙汰があった。そんな時に諏方 (諏訪大社) の五月会※の主催者および御射山※の指導者らが訴訟を検討している。神事を担当する当番の者にはその年に限って免税される通例があり、それ以後の年には恩恵を受ける事はないらしい。 . この件に関して評議があり、免税の先例を諏訪大社大祝※信濃権守諏訪信重※に問い合わせた。 . . ※初任検注: 赴任した国司が前任者から引き継いだ課税台帳に基づき確認の検地を行なう事。 . ※五月会: 5月2日から三日間の御射山での狩猟後に饗宴を催し流鏑馬などを行なう恒例神事。 . ※御射山: 諏訪上社 (公式サイト) の境外摂社で現在の富士見町原村 (地図) にある御射山神社。 ここは狩猟の生贄を神前に捧げるための狩場で、鷹狩が禁止された時代も特例の神事として許されていた。上社大祝らが宿泊参籠して神事を行なう場所でもあった。 .
※大祝: 神社の宮司に当たる神職。諏訪大社の場合は一帯のかなり広い範囲を支配する領主を
兼ねた。 .
※諏訪信重: 諏訪社大祝職で北條得宗の被官として活躍した 諏訪盛重の嫡男。. . . 87代 四条天皇 . 11月 2日 丁卯 . 吾妻鏡 . |
北條五郎時頼 (満12歳) の嫁取り※の儀あり。蔵人大夫入道西阿 毛利季光の息女である。時頼は今夜西阿の宿所 (大倉幕府の前) に入った。 . . ※時頼婚姻: 三浦義村の娘を妻にしていた毛利季光は 8年後の宝治合戦 (1247) で妻の意向と 義弟泰村との信義を重んじて三浦側に味方して自刃、当時20歳の時頼は毛利季光の娘を離縁とする。 .
. 建仁三年 (1203) の比企の乱で恋女房だった 比企朝宗の娘を離縁した 義時と同じ轍を踏んだことになる。恋女房かどうかは別にして、吾妻鏡を読むまでの私は 「鎌倉武士は信義を重んじる武士の鑑」 だと思っていたのに。 . その後の時頼は大叔父 (祖父 泰時の弟) である 重時の娘を継室とし、彼女は後に八代執権となる 時宗を評定衆 筆頭引付人として補佐する 宗政を産む。 . 時頼の長男は幕府の女房 (女官) だった讃岐局が産む庶長子 時輔、苛烈な政争 二月騒動 (Wiki) の中で 時宗により誅殺される。 宝治合戦で最後の大物御家人 三浦一族を滅ぼした北條一族は身内の同族に刃を向け始める。飢えた蛸が己の足を食うのと同じだね。 . . 87代 四条天皇 . 11月 5日 庚午 . 吾妻鏡 . |
薩摩與一公員※と伊豆前司頼定 (8月15日を参照) が争っている出羽国秋田郡湯河湊について、今日御前で決裁を得た。散位 三善 (太田) 康連 がこれを奉行し、公員の勝訴となった。頼定 妻女の父の遺領であると確認できたことになる。 . . ※薩摩與一公員: 橘 (小鹿嶋) 公成 の嫡子。秋田郡湯河湊は南秋田郡井川町 (地図) 、文治六年 (1190) の初頭に奥州藤原氏の遺臣大河兼任が決起した場所の近くだ (同年1月6日を参照) 。史料には 「父から湯河、澤内、湊の地頭職を譲られた」 とあるから、橘 (小鹿嶋) 公成の遺領なのだろう。澤内と湊の位置は確認できない。 .
. . 87代 四条天皇 . 11月 6日 辛未 . 吾妻鏡 . |
二棟の御方 (8月8日を参照) の安産を祈って霊所祭を催した。安倍維範朝臣の差配である。 .
. . 87代 四条天皇 . 11月 9日 甲戌 . 吾妻鏡 . |
信濃国司による初任検注について諏方大祝信重が請文 (諮問に対する上申書) を提出した。 .
諏訪大社の五月会と御射山などの役職者が国司検注について、当番の年に限らず役職に任じている間は税を免除するのが先例、との内容である。 この請文を受けて改めて協議し、先例に従うとの決裁を行なった。 (詳細は11月1日を参照) . . 87代 四条天皇 . 11月12日 丁丑 . 吾妻鏡 . |
子刻 (深夜0時前後) に大地震。 .
. . 87代 四条天皇 . 11月20日 乙酉 . 吾妻鏡 . |
晴。巳刻 (10時前後) に二棟の御方 (大宮殿、藤原頼経の側妾。詳細は8月8日) に御産の気配があり、 (8月22日に産所としていた) 大倉から施薬院使 丹波良基朝臣の薬師堂※の家に移って御産所とした。 . 加持祈祷を担当する御験者の助僧正厳海らは全て同行し、鳴絃※の役人が進み出た。兵庫頭 藤原定員が奉行として祈祷その他の行事を差配した。 . .
※薬師堂: 鎌倉で薬師堂なら 大町の辻の薬師堂 (地図) だが、
元は名越切通し近く (この辺?) にあった医王山長善寺が元禄期の地震で地震で倒壊して大町辻に近くに移り、更に幕末期の火災で廃寺となった。 .
※丹波良基: 正四位上 施薬院使の丹波良基。将軍頼経の主治医を務めた典薬の家柄である。
. 焼け残った薬師堂がここに移転した、と伝わる。 . もう一つの薬師堂は 後藤基綱が 実朝の追善供養のため永福寺近くに建立した大倉堂が原型で、後に医王山東光寺※ を経て理智知光寺に変った。 . 建武二年 (1335) に理危険人物として智知光寺の土牢に幽閉されていた 後醍醐天皇の皇子 大塔宮護良親王 (Wiki) が殺されるのだが... . 首を斬る太刀に噛み付いた護良親王の凄まじい形相に怯えた討手の 淵辺義博 (Wiki) が親王の御首を門前の藪に捨て、住僧がその首を葬った場所が現在の護良親王陵石段前 (地図) 、だと伝わっている。 . それは兎も角として、この大倉堂旧跡と伝わる付近に 丹波良基の家があった可能性は捨てがたい。詳細は貞永元年 (1232) 12月27日の吾妻鏡を参照されたし。 . 私の頭の中では辻の薬師堂と大倉堂が混線したままで、しばらく時間を置いてから整理し直す必要がありそうだ。 良基は延応二年 (1240) に死没するが、建長四年 (1252) に宗尊親王が鎌倉に下り六代将軍に就くと共に、最先端医術 (と言っても低レベルだが) をマスターしていた典薬頭 (典薬寮の長官) 丹波長忠と玄蕃頭 (寺院の管理と対外の接待を担う玄蕃寮の長官) の丹波長生が後任として鎌倉に入った。 .
※鳴弦: 弓の弦を鳴らし邪気や魔物を払う。元は朝廷、後に武家の病気や誕生の際に行われた。. 長生は正治元年 (1199) に院宣を受け 乙姫を治療するため鎌倉に入った丹波時長 (同年5月7日と8日、6月14日を参照) の息子で、吾妻鏡の記事では時長も共に下向している。長忠は宗尊親王専属として、時長と長生は (高位の) 北條一族まで治療の対象を広げ、京都の先端医術が鎌倉にも広がる契機となったという。 . 弘長三年 (1263) 11月22日の 北條時頼葬送の記事に「医師の長世朝臣らは (時頼が死去した) 去る22日の夜に至るまで、最明寺禅室 (時頼) のために祈祷と医術を巡らした」と記載されている。 . ※医王山東光寺: 一説には頼朝が建立したとも伝わる。既に廃寺で、詳細は全く不明らしい。 . . . 87代 四条天皇 . 11月21日 丙戌 . 吾妻鏡 . |
晴。辰刻 (朝8時前後) に二棟の御方が男子※を平産した。先ず御験者三人、民部卿僧都、宰相僧都、大夫僧都に褒賞として (五衣 (男子の正装) で単衣も含むが、御衣の意味もある ) と鞍を置いた御馬、次に女医博士※丹波頼行に水干袴と三枚重ねの衣を庭に於いて与えた。 . 次に陰陽道の大膳権大夫安倍維範朝臣に絹二枚重ねの衣と馬、次いで御祓衆の資宣と広資には二枚重ねの衣と馬、これらは佐渡前司 後藤基綱 の差配である。 . 出産の (宿星などに関する) 明細報告は維範、最初は巳刻 (10時) と書いたが助法印珍誉の申し出によって辰刻の終わり (9時前) に改めた。 . . ※男子出産: 誕生は6歳で五代将軍となる 藤原 (九条) 頼嗣。14歳の建長三年 (1247) に解任され 生母と共に京都に追放、康元元年 (1256) 8月の頼経死没に続き、翌月に18歳で病死する。 .
※女医博士: 典薬寮に所属して女性の病気治療を担当する。婦人科医 (当時は全て男性) だね。. . . 87代 四条天皇 . 12月 5日 庚子 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .
. 酉刻 (14時前後) に前駿河守 正五位 三浦義村が頓死した。大中風 (脳梗塞の類か ) で没したとのこと。 夜になって武蔵守 北條泰時が三浦邸に入って息子らを弔問した。多くの人々が集まり、左馬助 北條光時が将軍家 藤原頼経の使者として三浦邸を訪れた。 . . 87代 四条天皇 . 12月13日 戊申 . 吾妻鏡 . |
将軍家若君 (後の頼嗣) の御行始め (外出初め) に関し将軍家から検討して良い方角を選べとの指示があった。安倍維範朝臣が東または坤方 (南西) が吉である旨を答え、頼経は次のように命じた。 . 東方は吉であっても21日には太白方 (木星の方角) となる。坤方 (南西) は吉方だから、御産所の施薬院使良基朝臣の大倉邸から坤方※の方向に然るべき家を選び出すように。 .
これを受けて左衛門尉 平盛綱が調査し、加賀民部大夫 町野 (三善) 康持※と武田入道信光の名越の家が方角に合うと報告、頼経は 「康持の家を手配せよ。信光は遁世者 (隠居し出家、77歳) だから適していない。」 と答えた。. . ※良基邸の南西: 11月20日に記載した大倉堂は名越から見て北西になる。良基邸が二階堂近辺 だったのは確実だと言えそうだ。 .
※町野康持: 町野 (三善) 康俊の子で、三善康信の孫にあたる。問注所の執事や評定衆を務めた
実務官僚だが、寛元二年 (1244) の将軍頼経の失脚に連座して任を解かれる。 .
. . 87代 四条天皇 . 12月15日 庚戌 . 吾妻鏡 . |
御所に於いて年始の行事日程などについて協議、安倍維範と安倍時賢朝臣が連名で勘文 (諮問に対する上申書) を提出、その中には「丙寅の日を吉書の日とする」とあった。 安倍国道朝臣に拠れば選定経緯は以下。 . 去年国道がこの日を撰んだ際に 中原師員朝臣が「丙寅の日に吉書を行うべきではない」と異議を申し立てたため、国道は丙寅の例を挙げて上申した。将軍家がその例を示すよう仰せがあり、各々が丙寅の日を吉書とした例を上申して決裁を得た。 .
. 貞観十二年 (870) 1月13日丙寅、藤原朝臣氏宗 (64歳) と源朝臣融 (74歳) と源朝臣多 (57歳) 承平五年 (836) 6月3日丙寅、藤原朝臣実頼 (小野宮殿、71歳) 同日、藤原朝臣師輔 (九條殿) 天禄三年 (972) 2月5日丙寅、藤原朝臣兼家 (法興院殿、62歳) 治安元年 (1021) 8月23日丙寅、藤原朝臣実資 (90歳) . . 87代 四条天皇 . 12月21日 丙辰 . 吾妻鏡 . |
晴。輿を利用して将軍家若君の御行始め (外出初め) あり。午刻 (正午前後) に御産所から町野加賀民部大夫康持の宿所 (吉の方角) に入御した。供奉人は立烏帽子で直垂、康持からの御引出物が多数あり。 .
申刻 (16時前後) になって御所に渡御となった。 . . 87代 四条天皇 . 12月27日 壬戌 . 吾妻鏡 . |
晴。未刻 (14時前後) に前武蔵守 北條泰時邸の南側※で失火があり民家数軒が焼失した。 . .
※泰時邸南側: (地図) 、東勝寺橋で滑川を渡った奥の山裾。
元弘三年 (1333) に幕府崩壊と共に北條一族が滅亡した 東勝寺の跡 が空地で保存されている。史跡に関するレポートを参考に。 .
. この寺の開基は泰時で 開山和尚が 退耕行勇 なのは判っているのだが、完成した年月の記録がない。 . 泰時の死没が仁治三年 (1242) 6月で退耕行勇の没年が仁治二年 (1241) 7月、それより前の開山なのは間違いないのだが... . . 87代 四条天皇 . 12月29日 甲子 . 吾妻鏡 . |
丑刻 (深夜2時前後) に武蔵大路の下※にある隠岐入道 佐々木義清邸を含む数十軒が焼失、失火らしい。 . .
※武蔵大路の下: 北は亀ヶ谷坂と化粧坂に分岐する扇ヶ谷から寿福
寺の山門前~巽神社~今小路を経由して~六地蔵~塔之辻~旧道を海岸へ~星の井通りを極楽寺へ~稲村ヶ崎に下る、約4kmの総称が武蔵大路。
.
※極楽寺坂: 切通しを現在の状態まで切り下げたのは昭和元年 (1926) 、それまでは荷馬車が
.
. ただし鎌倉時代の1270~80年代に真言律宗の僧 忍性 が 極楽寺坂※を整備するまでは海沿いの磯際 (現在の坂ノ下埋立地) を辿る途中から山道を登り稲村ヶ崎に至る小道が主要道の稲村路だ。 . 部分的には狭いエリアの名称が使われ、名称の重複区間 (例えば六地蔵~塔之辻を大町大路に含む場合など ) もある。また 「下」 が亀ヶ谷や化粧坂など坂の下「」なのか、単純に 「南側」 を意味するのかも判断できない。. 右画像をクリック→ 別窓で拡大表示。 現代の地図に書き込んだため正確ではない。 . . . 8月17日 . 晴耕雨読 . |
今年は柿の実が凄い豊作で。 08/17 06時 右下をクリック→ 別窓で拡大表示 .
熱海に住んでいた頃、北陸を旅した帰り道に通った本巣市の道の駅で 「この辺は富有柿の特産地」 だと知った。なにしろ道端の屋台で手のひらサイズの柿を 五ヶ百円 (当時の画像) で売っていたし、道の駅では宝石を並べた様な 数千円の富有柿贈答品セットもあった (当時の柿売場の画像) 。 . それまでは干し柿だけ食べていた妻が 「富有柿フリーク」 に変身し 「庭に植えよう!」 と言い始めたのだがスペースが折り合わず、筑西市に転居した記念に植えた三年物の富有柿と次郎柿が今年は全部で百個を超える豊作になった、というお話。 . 今週は防疫にベンレート水和剤を噴霧した。今のサイズは 6cm前後、楽しい秋を迎えられそうだ。 . 園芸日誌を少し整理して 2025年10月の情報を載せた。左目次の 晴耕雨読 園芸日誌 でどうぞ。 . . . . 11月29日 . 晴耕雨読 . |
延応元年 (1239) の校正作業が終了。雑用を済ませてから延応二年の再校正に入る。 . 干し柿つくりの画像とレポートが (手が廻らなくて) 後回しになってしまった。 妻は自分一人で食べるつもり (笑) だったのか、公開には及び腰だったが、試しに食べた方の評価はなかなか良かった。遅くなってしまったが、今日中には 「園芸日誌」 で報告できそうだ。 . 正確な収穫数は 188個、富有柿が 100個で残りが次郎柿ほどの比率だと思う。生のまま食べたのが 20個ほどで、半分柔らかい状態で冷凍して妻が食べ続けている分が 30個前後、その残りから数か所に配った合計が 60個ぐらいだから、冷凍状態で残っている干し柿は 80個前後だと思う。 ベランダで干していた画像を一枚、とりあえず載せて置く。 . . . 87代 四条天皇 . 月 日 . 吾妻鏡 . |
記事
※: . . . . . 87代 四条天皇 . 月 日 . 吾妻鏡 . |
記事
※: . . . . . 87代 四条天皇 . 月 日 . 吾妻鏡 . |
記事
※: . . . |