
. . 87代 四条天皇 |
. 1月 1日 戊申 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 雨。 匠作 北條時房の沙汰による椀飯の儀あり。宮内少輔 足利泰氏が御剣を、若狭守 三浦泰村が御弓箭を、大和守 伊東祐時が御行騰沓※を献じた。 . 一の御馬は 相模式部大夫北條時直 本間式部丞元忠 二の御馬は 相模六郎北條時定 橘右馬允公高(公長の孫? 公成の子?) 三の御馬は 上総介太郎※ 同次郎 四の御馬は 本間次郎左衛門尉信忠※ 同四郎※ 五の御馬は 越後太郎北條時定 吉良次郎※ . . ※椀飯 (おうばん) : 饗応の献立、食事を摂る儀式や行事も意味する。大判振る舞い の語源。 . ※行騰 (むかばき) と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像 (Wiki) を参考に。 . ※上総介太郎: 千葉成胤の嫡子で五代当主となった時胤か。同 次郎は系図が不明確。 . ※本間氏: 出自は武蔵七党の横山党海老名氏流。本領は愛甲郡依知郷(厚木市中依知 地図 )。 国道246号と129号が交差する渋滞で悪名高い 「金田交差点」のすぐ南側、妙純寺の一帯が本間氏の館跡と伝わり、見事な土塁が残っている。 .. 承久の乱 (1221年) 後に佐渡守護となった北條氏の被官として佐渡代官に任じた分家の子孫が地道な活動で勢力を蓄え、やがて出羽の富豪本間氏の系に続く。元忠と信忠は手元の系図では確認できないが同族だろう。 ※吉良次郎: 足利義氏の庶長子で三河吉良氏の祖 西条 吉良長氏(忠臣蔵の敵役 吉良上野介義央 の先祖の兄弟 (同じく義氏の庶子) で東条吉良氏の祖となった吉良義継以外に該当者はいない。 .. ※年令: 四代将軍 藤原頼経 間もなく 21歳、正室 竹御所 (二代将軍 頼家の娘、寛喜二年 (1230) に将軍 頼経と婚姻、嘉禎元年 (1235) 7月の死産後に病没する (享年32) 、 .坊門信子 (故 実朝の寡婦、出家) 51歳 、 . 北條泰時 54歳、 北條時房 64歳、 北條朝時 45歳、 北條重時 40歳、 北條政村 34歳、 北條実泰 30歳、 三浦義村 69歳、 三浦泰村 54歳、 千葉時胤 19歳 、 安達景盛 55~63歳、 安達義景 27歳、 足利義氏48歳、 宇都宮頼綱 59歳、 二階堂行村 2/16死没、享年81) 、 二階堂行盛 56歳、 . 87代 四条天皇 6歳8ヶ月 (貞永元年 (1232) 12/5 即位) 、 86代 後堀河天皇 は天福二年 (1234) 8/31に崩御 (享年23) し、上皇は不在、 西園寺公経 65歳、 九条道家 44歳、 藤原定家 73歳、 退耕行勇 73歳、 親鸞 63歳、 叡尊 37歳、忍性 20歳、 日蓮 16歳、 ※ 三浦義村は仁安三年 (1168) 誕生 (史料に拠り 元暦元年 (1184) に満16歳だった と設定)。 ※ 安達景盛は寿永元年 (1182) 誕生 (異父兄 島津忠久との年齢差≒ 5) 考えて年齢を推定した。 (全て1月1日基点の満年令、下線付きはWiki) . . ※政情: 安貞二年 (1228) 12月に 関白が 近衛家実 (Wiki) から鎌倉将軍 藤原頼経の父 九条道家に 交替。近衛家実 (通称を猪熊関白) は鎌倉幕府と協調して後鳥羽院政を否定し 「成功 (売官制度) 」 なども取り入れたが、将軍頼経+三浦一族+西園寺公経と組んで幕府への圧力を強めようと諮った九条道家との権力争いに敗れて政治力を失ってしまう。 .. その九条道家も、建長三年 (1251) には将軍 頼経の失脚と共に没落してしまうのだが。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 1月 2日 己酉 . 吾妻鏡 |
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. . 87代 四条天皇 |
. 1月 3日 庚戌 . 吾妻鏡 |
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. . 87代 四条天皇 |
. 1月 4日 辛亥 . 吾妻鏡 |
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将軍家 藤原頼経が二所詣に備えて精進潔斎を始めた。
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. . 87代 四条天皇 |
. 1月 9日 丙辰 . 吾妻鏡 |
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将軍家 藤原頼経が二所詣に御進発。 供奉人は右京兆 北條泰時、進発の読経供養の導師は大納言律師 隆弁※が務めた。 . . ※隆弁: 父は四条隆房 (正二位 権大納言) で生母は葉室光雅 (正二位 権中納言) の娘。将軍 頼経に 招かれて鎌倉に下った天台宗の高僧。北條得宗家の帰依を得て零落※していた 園城寺 (三井寺) の再興を成し遂げ、園城寺別当と鶴岡八幡宮寺の九代別当を務めた政商ならぬ政僧である。現在は
.※零落: 同じ天台宗でも 比叡山延暦寺 による焼き討ちや梵鐘の略奪など被害も受けているが、 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 1月10日 丁巳 . 吾妻鏡 |
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丑刻 (深夜2時前後) に駿河前司 三浦義村、玄蕃頭 後藤基綱、若狭守 三浦泰村らの家※が失火で焼失。 . .
※三浦邸: 旧 大倉御所 西御門の北西、現在の横浜国大付属
校とグラウンド周辺 (広域鳥瞰図を参照 ) にあったと考えられる。義村邸と泰村邸は同じ敷地、左の建物 (講堂) を含む一帯で後藤邸も至近らしいが、共に正確な場所は確認できない。 .. 近年になってグラウンド部分の発掘調査が本格化し、既に西御門の跡と門前を南北に通る西大路の痕跡が発掘調査で確認された。 . 貞応元年 (1224) 7月5日の吾妻鏡 補足に画像と資料を添付した。参照されたし。 . 右上画像をクリック→ 別窓で拡大表示。敷地を縦方向やや斜めに縦断するのが 来迎寺や八雲神社に続く西大路の跡、青いシートを含む楕円形が西御門の跡。 . 西大路は更に南下して筋替橋の交差点へ、発掘現場を中心にした地図 も参考に。 . 横浜付属校の創建は1947年で、鎌倉青年団の「西御門址 碑」の建立は1926年。開校のために西大路は東に付け替え、石碑も GHQの強権で移動させたのかも。 か。 . 三浦邸の位置には史料による裏付けはない。根拠としては、1247年の宝治合戦 (6月5日) で三浦一族が滅亡した攻防戦の際の両軍の動き、である。 . 攻め寄せた安達勢が「筋替橋の北に進んで (三浦邸に向け) 鳴り鏑を放った」こと (つまり、筋替鳩の北から三浦邸までは 200~300m程度) 、毛利入道季光が三浦側に加わったのを知った時頼が「三浦邸南側の民家に放火させて三浦勢を追い出した」こと、「煙に咽ぶ三浦勢が頼朝法華堂目指して逃げた」ことなどによる推定である。もしも三浦邸が現在のプールより更に北に離れていたら、法華堂に逃げる途中で横矢の餌食になっただろう、と思うからね。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 1月15日 壬戌 . 吾妻鏡 |
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晴。午刻 (正午前後) に将軍家 藤原頼経が二所詣から還御した。
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. . 87代 四条天皇 |
. 1月18日 乙丑 . 吾妻鏡 |
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晴。匠作 北條時房と左京兆 北條泰時が小侍所に入り、主計頭 中原師員、毛利蔵人大夫入道西阿(毛利季光)、玄蕃頭 後藤基綱、隠岐入道行西 (二階堂行光 を召集し、将軍家上洛についての評議があった。 . 康俊の奉行として、行程に関する細かい割り当てなどがあった。御家人のそれぞれが供奉に漏れる事のないよう、また信濃式部大夫入道行然 (二階堂行盛) は鎌倉の留守を守ることになる。続いて中原師員の奉行として陰陽師を呼び集め、次のように指示を下した。 . 来る20日に御出門の儀式を済ませ28日に御進発だが、この日は八龍※である。 .これは御出門に支障はないのか、別の日を選ぶべきだと言う者もあるから対応を検討せよ。 安倍晴賢朝臣がそれに答えて言上した。 . 御出門の儀式以後は既に旅の途中ですから特に日を選ぶ必要はありません。ただし吉日の出発が良いのはもちろんの事で、来月の 2日か3日がよろしいでしょう。それ以外は当直の陰陽師に御確認ください。 .泰時は後藤基綱を介して将軍家に決裁を求め、将軍家は「 (八龍であれば) 延期せよ」と命じられた。 . . ※八龍: 干支の組み合わせによる甲子と乙亥が春の悪日=八龍とされる、らしい。下らん! . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 1月19日 丙寅 . 吾妻鏡 |
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御所で心経会 (般若心経を読む法会) が行われた。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 1月20日 丁卯 . 吾妻鏡 |
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御弓始めあり。厄年に当たるため年末には中止も検討したが、あえて実施となった。 .射手については昨夕に将軍家 藤原頼経から 三浦義村に突然の仰せがあり、射手を招集する手配を陸奥太郎 北條実時に命じていた。 . 射手 一番は 小笠原六郎時長 藤澤四郎清親 二番は 横溝六郎義行 松岡四郎時家 三番は 岡辺左衛門四郎 本間次郎左衛門尉信忠 四番は 三浦又太郎左衛門尉氏村(義村の庶長子で泰村の庶兄) 秋葉小三郎 五番は 下河辺左衛門尉行光(系図にないんだよね) 山田五郎 . 午刻 (正午前後) に将軍家が御上洛に備え御出門の儀を行うため、秋田城介 安達義景の甘縄邸 (地図) に御輿で入御した。立烏帽子で御直垂を着し、供奉人も同じ装いである。 . 夜になって左京兆 北條泰時と室家 (安保実員の娘) が駿河守 北條有時邸に向かった。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 1月28日 乙亥 . 吾妻鏡 |
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晴。将軍家 藤原頼経の御上洛である。 寅刻 (朝8時前後) にまず安倍晴賢が参上して身辺の幣束 (お祓い) を行なった。八龍日 (1月18日を参照) を避けるべきと言う者もいたが 、(将軍家は) 「既に出門を済ませている。日取りの善し悪しを選ぶ必要はない。」として変更を許さず、巳刻 (10時前後) に輿で出発した。 . 護持僧は岡崎法印成源 (輿) 、御験者 (祈祷役) は少将僧都公覚と大納言律師 隆弁と丹後律師頼暁、医師は施薬院使の 丹波良基朝臣 (嘉禎元年 (1235) 11月18日を参照) と権侍医の丹波時長朝臣、陰陽師は前大蔵権大輔安倍泰貞と散位安倍晴賢朝臣である。 . 随兵を含む前後の供奉人が全て出発する際になっても匠作 北條時房だけが未だに出門せず、囲碁を打ち続けていた。左京兆 北條泰時が催促させると時房の家臣を介して「旅支度が整っていない」との返事があり、泰時が野箭 (狩猟用の矢、戦闘用は征箭) と行騰 (袴カバー) を届けさせ、時房は酉刻 (18時前後) に鎌倉を発った。 . 将軍家の一行は酉刻には既に酒匂の駅※に到着、護持僧、医師、陰陽師らも御所近くの宿舎に入った。同じく雑務担当や運搬人夫らは加賀前司 町野康俊が担当して差配した。 . .
※酒匂の駅: 鎌倉から約36km西、小田原市を流れる酒匂
川の東岸 (地図)。当時に比べると相模川など多くの河川が流路を東に移しているため正確な位置は確定できず、これは相模川橋供養 (別窓) でも記述した。 .右は広重の東海道五十三次 小田原酒勾川。 背後は箱根連山、右奥に富士山が見える。 ここまで行列の時速は4.5km、当時としては普通のペースなのだろう。酒勾駅は古くは治承四年 (1180) 8月23日に頼朝勢と合流を予定した三浦勢が増水で石橋山合戦に間に合わず衣笠に撤退、途中の由比ヶ浜で 畠山重忠軍と局地戦を交えている。 ..
その五年後の元暦二年 (1185) には 頼朝の不興を受け鎌倉入りを許されなかった 九郎義経が腰越逗留の後に酒勾での待機を命じられ京都に追い返された事によって兄弟の離反が決定的になった。自ら招いた不幸とも言える事件だが、義経の立場としては痛恨の恨みが残る場所だ。. 右は同じ酒匂川東岸から。クリック→ 別窓で拡大表示 神山 (Wiki) は箱根権現の御神体、酒匂宿から見た富士山は 神山のかなり右側になる。 . 天平宝字元年 (757) に万巻上人が駒ヶ岳と神山で三年間修行した後に芦ノ湖に棲む龍を折伏し箱根権現 (現在の 箱根神社)を開いた、と伝わる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 1月29日 丙子 . 吾妻鏡 |
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. . 87代 四条天皇 |
. 2月 1日 丁丑 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴天ながら強風。 (将軍家の御一行は) 申一点 (15時半) に車返※の牧御所に着御した。 . .
※車返: 裾野市から沼津市にかけての黄瀬川の流域は元々は
平頼盛の所領で、荘園の現地管理者が 北條時政の後妻 牧の方の兄 牧宗親。黄瀬川は右地図の更に東 (右方向) で狩野川に合流している。 .. 元久二年 (1205) 6月の時政失脚に伴って嫡男 義時の管理下に移り、得宗 (北條嫡流家) の私財になった。 . JR沼津駅から狩野川までの一帯 (右地図の三枚橋町、上土町、本町) が鎌倉時代の沼津驛で、江戸時代の東海道五十三次での沼津宿になる。ここは御殿場から南下した足柄道と、箱根を下り三島を過ぎた東海道が合流する要所だった。藍沢から車返まで約27km、ここから海沿いの千本街道で富士川河口に近い田子の浦を目指す。 . ちなみに、三枚橋とは「貉 (むじな) 川に架かる三枚の石板」が起源で、現在の旧東海道北側歩道の暗渠に「三枚橋」の橋柱が立っている。「牧御所」はこの宿驛付近らしいが痕跡は既に失われた。また吾妻鏡にある「車返」は沼津宿の南側、海岸に近い湿地帯に至る場所で地盤が軟弱なため馬車などを通行止めにしていた、その名残らしい。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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. 2月 2日 戊寅 . 吾妻鏡 |
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晴、強風が砂塵を巻き上げている。 (将軍家の御一行は) 今日は蒲原※に御宿泊。 . . ※蒲原: 現在の静岡市清水区、JR東海道線新蒲原駅の北側 (地図) で、車返~蒲原は約26km。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 2月 3日 己卯 . 吾妻鏡 |
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晴。(将軍家の御一行は) 手越※に御宿泊。左京兆 北條泰時の差配で宿館を設定した。泰時の室 (安保実員の娘) も今日鎌倉を発ち (将軍家の) 一行に続いて上洛の途に就いた。 . .
※手越: 安倍川の西岸 (地図) 。古代から中世以後の旧 東海道
は手越から日本坂に進む南側のルートと、丸子から 宇津ノ谷峠 (別窓の訪問記) を越えて西を目指す二つのルートがあった。 .. 手越から島田 (大井川の渡し) までは約 28km、宇津ノ谷ルートでも日本坂ルートでも距離に大差はないが、宇津ノ谷峠の方が (峠部分以外は) 平坦路が続いている。南側ルートはやや起伏が多いか。 . 右は蔦の細道 (宇津ノ谷峠古道) の岡部 (西側) の登り口。中世の「蔦の細道」は秀吉の の小田原征伐の際に軍道として整備され丸子宿の繁盛と共に利用頻度が高まった。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 2月 4日 庚辰 . 吾妻鏡 |
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晴。 (将軍家の御一行は) 嶋田※に御宿泊。. .
※嶋田: 大井川の東岸 (地図) 。江戸時代には防衛上の理由で
架橋が許されず、増水時期の「川止め」が長い間 旅人を苦しめていた。 .. 鎌倉時代の正確な渡河地点も現場の状況も判らないが、相模川や浜名湖と同様に架橋されていたのか、あるいは臨時の浮き橋を利用した可能性もある。 . 右画像は手越~嶋田 (約26km) の概略行程図 画像をクリック→ 拡大表示 . 緑の線は現在の国道一号バイパス。古道はこのルートを南北に蛇行しながら付かず離れずに通っていた。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 2月 5日 辛巳 . 吾妻鏡 |
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. . 87代 四条天皇 |
. 2月 6日 午 . 吾妻鏡 |
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晴。早朝に諸人の乗替え馬の担当者らが忠義心を表すため 将軍家の出立以前に競って天龍河を渡ろうとした。浮橋が破損し制止しても聞き入れず奉行の横地太郎兵衛尉長直らが宿舎に駆け付けて報告した。 . 左京兆 北條泰時はすぐに懸河の宿から河辺に出て敷皮に着座した。泰時は一言も発しなかったが諸人は礼儀を糺して静まり、騒ぎは収まった。将軍家 藤原頼経が通過した後に、泰時は騎馬で供奉した。 . 河の水量は減っており、諸人の従者ら大半は浮き橋を渡る必要も船に乗る必要もなしに河を渡った。水は僅かに馬の下腹を濡らすほどで、将軍家は酉刻 (18時前後) に池田の宿※に入御した。 . .
※池田宿: 現在の磐田市池田 (地図) 。頼経の行列が渡河した
当時の天竜川本流は現在よりも数km東、御厨駅の東を流れる太田川 (地図) の辺りを流れていた。 .. 東から京都を目差す場合は池田宿を出てから天竜川を渡った江戸時代の東海道とは異なっていた。 . 鎌倉時代には池田荘 (興福寺一乗院領) の東端が天竜川で、その後に西に流路が変わったため荘園の概ね中央を流れ下るようになったらしい。 . 右上は懸川~池田間 (約20km) の概略行程図。 画像をクリック→ 別窓で拡大 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 2月 7日 癸未 . 吾妻鏡 |
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晴。橋本の駅※に着御した。左京兆 北條泰時が確認すると陸奥太郎 北條実時は舞澤松原※に野宿したとの事だった。泰時は 「小侍別当 (実時の職責で将軍近習の長) は将軍御所の近くに控えるべき重職、宿舎がないまま驛の近くで野宿など有り得ない話だ。私だけ民家で暖かく過ごすことはできぬ。」 と言って野宿の場所へ行こうとした。 . 宮内少輔 足利泰氏と駿河前司 三浦義村以下の人々も多くが宿舎を出て野宿する松原に向かったが御所近くの宿舎にいた大和守 加藤 (遠山) 景朝が 「却って事態が面倒になります」 と押しとどめ、宿舎を出て陸奥太郎を招き入れた。泰時もそれ以上は言わず宿舎に戻り実時も面目を保って景朝の宿舎に入った。 . .
※橋本の駅: 今の湖西市新居町浜名 (地図) 。室町時代の明応
七年 (1498) に起きた大地震までは今切の部分が陸続きで、現在も残る浜名川が東西の境界線だった。浜名湖が海と繋がって以後は今切と弁天島を結ぶラインが東西の境界となった。 .. 頼朝が初めて上洛した 建久元年 (1190) 10月には 頼朝も橋本宿で宿泊している。 . 右は今切と橋本宿(クリック→ 別窓で拡大) 池田~橋本の距離は約 27km。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 2月 8日 甲申 . 吾妻鏡 |
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寅刻 (朝4時前後) から小雨、日の出と共に晴、未刻 (14時前後) に再び雨になった。将軍家は豊河の宿※に着御、夜更けになって風雨が強まった。 . . ※豊河の宿: 豊川稲荷 (公式サイト) の門前、JR豊川駅東側 (地図) だろう。 橋本~豊川は約28km、当時は白須賀の潮見坂から二川を経て豊川に至る経路 (ルート地図、東関紀行※に記載) と、二川から豊橋を経て 「志香須賀の渡し」で豊川を渡る経路 (ルート地図、十六夜日記※に記載) の二つが利用されていたらしい。 .. 合流地点 (上洛の場合は分岐地点) の白須賀宿 (潮見坂※)についての情報は、 道の駅 潮見坂 (別窓) で少しだけ触れておいた。 ※潮見坂: 鎌倉または江戸を目指す場合は 白須賀宿 を背にした旅人が初めて東国の海 (遠州灘) を見る地点が潮見坂。当時も和歌に描かれた名所で、当時に近い姿で旧道が保存されている。坂の下から と 坂の上からの画像も参考に。観光施設 おんやど白須賀 を拠点に散策しよう。 (青文字は全て別窓に設定してある。) . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 2月 9日 乙酉 . 吾妻鏡 |
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晴。矢作の宿※に到着し、左馬頭 足利義氏※邸に入御した。昨夜の風雨で洲俣河 (現在の長良川) と足近河 (木曽川の古流路) の浮橋が流失した。 . .
※矢作の宿: 岡崎市の矢作川西岸 (地図) 、三河守護 足利義氏
※の管理下にあり、豊河の宿から矢作までの距離は約 29km。 .. 右は洲俣河周辺の地図。クリック→ 別窓で拡大 ※足利義氏: 生母は 政子の妹で、正室は 泰時の娘。承久の乱 の勲功により承久三年 (1221) ~建長四年 (1252) の長期間、三河守護に任じている。 .. 義氏は本拠を矢作に置き、同族の仁木氏と細川氏 (足利義康 の庶長子 義清 (源平合戦で戦死) の子孫) を北に、庶長子の長氏と三男の義継を南の吉良に配置して勢力を広げつつ三河を統治した。 . 墨俣は東山道の要所で治承五年 (1181) 4月に 平重衡率いる平家軍と 源行家と 義圓の連合軍が衝突した場所。義圓は戦死し源氏側は壊滅的な損害を受けた 墨俣川合戦 の史跡である。承久の乱の際にも戦場 (合戦場の概略地図、別窓) になった。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 2月10日 丙戌 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。萱津の宿※に到着。亥刻 (22時前後) に将軍家 藤原頼経が突然体調を崩した。霍乱※だろうか、諸人が驚き騒いだ。 (同行している) 権侍医丹波時長 (嘉禎元年 (1235) 11月18日を参照) が治療を担当して体調を戻され、褒美として御剣を与えられた。京兆 北條泰時からも馬が贈られた。 . . ※萱津の宿: 江戸時代には名古屋駅西の中村公園から庄内川を挟み甚目寺近くまで (地図) の広 範囲が宿場町だった。矢作の宿から萱津の宿まで約 40km、旅慣れていない頼経には少しハードだったか。 .※霍乱: 漢方では日射病を含み、吐き気や下痢を伴う急性の病気。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 2月11日 丁亥 . 吾妻鏡 |
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晴。昨夜の体調不良を勘案して今日は萱津の宿に御逗留となる。その間に両河 (2月9日に記載した洲俣河と足近河) の浮橋を修理する、と。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 2月12日 戊子 . 吾妻鏡 |
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晴。 (将軍上洛の行列は) 小隈の駅※に着御した。 . . ※小隈の駅: 羽島市小熊町西小熊 (地図) 、2月9日に記載した墨俣川合戦で源氏が布陣した所。 義圓はここから深夜に渡河して奇襲を狙ったが発見され、濡れた甲冑を怪しまれて討たれたと伝わる。萱津の宿から小隈の駅まで、約31km。
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. . 87代 四条天皇 |
. 2月13日 己丑 . 吾妻鏡 |
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. . 87代 四条天皇 |
. 2月14日 庚寅 . 吾妻鏡 |
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曇。(将軍上洛の行列は) 小脇※に着御した。 . .
※小脇: 現在の東近江市小脇町 (地図) 、拡大すると堀が囲ん
だ要塞状態の一郭なのが判る、近江佐々木氏の館跡で垂井から小脇までは約52km、京都を目指す頼経の一行は前日の三倍の距離を移動している。 .. 建久元年 (1190) 12月14日には鎌倉に戻る 頼朝主従の一行も小脇近くで宿泊している。 寛弘年間 (1004~1011年) に 佐々木秀義 の祖父 宇多源氏の佐々木経方が本拠を置いた父祖伝来の本貫地である。 . 頼朝は小脇の驛ではなく、東海道や東山道からは少し外れるが信頼を置いている定綱の小脇館に宿泊した可能性が高い。頼経の往路には「小脇」の記載のみだったが、10月13日の復路では「近江入道 佐々木信綱が建てた仮御所に宿泊して豪華な接待を受けた」との記載がある。 . 復路の頼経は早朝3時に京都を発って18時に小脇に入っている。往路の時からの予定通りだろう。 右上は堀に囲まれた小脇館跡の鳥瞰、平城の雰囲気もある。 画像をクリック→ 別窓で拡大表示 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 2月15日 辛卯 . 吾妻鏡 |
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晴。(将軍上洛の行列は) 野路※に着御。 . .
※野路: JR琵琶湖線 南草津駅西の土地区整理地 (地図、約 8万
㎡) のエリア内で鎌倉時代初期から中期と推定される大型の建物群跡が発見され、頼朝や頼経が宿泊した施設との推論がある。その場合は、小脇の集落は別の拠点と考えるべき、だろうか。 .. 小脇から野路までは約26km、旧東山道沿いの南草津駅病院敷地東側の遠藤医師宅 (地図) には 野路で斬首された平清宗(宗盛の嫡子) の胴塚 (右、クリック→ 別窓で拡大) がある。義経に連行され鎌倉を出た親子はまず宗盛が野洲篠原で斬られ(平家終焉の地 を参照)、次に野路で清宗が斬られた。 . 二人の首は京都で獄門に晒されたが、篠原の伝承では二人の胴はせめてもの哀れみで同じ穴に埋葬されたという。篠原の伝承と野路の伝承、果たしてどちらが真実か。 . 清宗の弟たちは幼児も嬰児も全て、頼朝の命令で無残に殺されてしまったのが哀れだ。 暴虐だった平氏でも幼い子女までは殺さなかった、それが人の道だろうに。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 2月16日 壬辰 . 吾妻鏡 |
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晴。従五位下行隠岐守藤原朝臣 二階堂行村法師 (法名行西) が死没 (84歳) 。先日伊勢国益田庄※に向かい、同所で死去した、と。 . 今日、将軍家 藤原頼経は野路の駅に逗留し、明日御入洛の予定である。随兵以下の行列明細を確認するため小侍所別当の陸奥太郎 北條実時が供奉人の名簿を持参し、匠作 北條時房と京兆 北條泰時が御前に於いて順列などを決め奉行人の実時に返却、将軍家が回覧する書状の端に花押を書き加えた。 . . ※益田庄: 現在の桑名市増田 (地図) 。暦仁元年 (1238) に九条家 (当主は 九条兼実の三男 九条良 平、Wiki) の祈願寺として成恩院領となり、二階堂一族が地頭職を世襲している。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 2月17日 癸巳 . 吾妻鏡 |
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晴。巳刻 (10時前後) に野路の宿を出御。最初に随兵以下の供奉人が庭から街道に出て二列に座し、輿を寄せて将軍家が乗った後に騎乗した。四条隆親卿 (正二位 権大納言) 以下の貴族が関寺※の近くで行列を見物、子刻 (深夜0時前後) に入洛し六波羅に新造した御所に入った。 . 行列 まず駿河前司 三浦義村の随兵 (三騎並列、家子36人) . 一番 大河戸民部太郎 大須賀八郎 佐原太郎兵衛尉 二番 筑井左衛門太郎 同次郎 皆尾太郎 三番 三浦又太郎左衛門尉 同三郎 山田蔵人 四番 武小次郎 同三郎 同又次郎兵衛尉 五番 秋葉小三郎 山田六郎 同五郎 六番 多々良小次郎 同次郎兵衛尉 青木兵衛尉 七番 安西大夫 金摩利太郎 丸五郎 八番 丸六郎太郎 三浦佐野太郎 石田太郎 九番 石田三郎 三原太郎 市脇兵衛次郎 十番 長尾平内左衛尉 同三郎兵衛尉 平塚兵衛尉 十一番 壱岐前司 駿河四郎左衛門尉 遠藤兵衛尉 十二番 駿河五郎左衛門尉 同八郎左衛門尉 三浦次郎 . 先陣 駿河前司 三浦義村 (騎馬、郎従二人が前に) 御所の随兵百九十二騎 (三騎に並ぶ。各々に弓袋差一人、歩走三人が前に) . 一番 小林小次郎 同小三郎 眞下右衛門三郎 二番 猪俣左衛門尉 荏原七郎三郎 河匂野内 三番 二宮左衛門太郎 同三郎兵衛尉 同四郎兵衛尉 四番 池上籐兵衛尉 小串馬允 多胡宮内左衛門太郎 五番 大井三郎 品河小三郎 春日部三郎兵衛尉 六番 高山五郎四郎 江戸八郎太郎 同高澤弥四郎 七番 大胡左衛門次郎 伊佐四郎蔵人 大胡弥次郎 八番 都筑右衛門尉 同左近将監 遠藤右衛門尉 九番 山内籐内 同左衛門太郎 西條與一 十番 後藤弥四郎左衛門尉 佐渡五郎左衛門尉 伊勢籐内左衛門尉 十一番 小野寺小次郎左衛門尉 同四郎左衛門尉 薗田弥次郎左衛門尉 十二番 紀伊次郎兵衛尉 豊田太郎兵衛尉 同次郎兵衛尉 十三番 片穂六郎左衛門尉 和田右衛門尉 同四郎左衛門尉 十四番 秩父右衛門太郎 倉賀野兵衛尉 那珂左衛門尉 十五番 中澤小次郎兵衛尉 同十郎兵衛尉 河原右衛門尉 十六番 小河左衛門尉 河口八郎太郎 立河兵衛尉 十七番 阿佐美六郎兵衛尉 塩屋民部六郎 福原五郎太郎 十八番 下河辺左衛門尉 新開左衛門尉 大河戸太郎兵衛尉 十九番 中野左衛門尉 俣野彌太郎 海老名四郎 二十番 四方田三郎左衛門尉 塩屋六郎左衛門尉 蛭河四郎左衛門尉 二十一番 本間右近将監 多賀谷太郎兵衛尉 松岡四郎 二十二番 本庄四郎左衛門尉 西條四郎兵衛尉 泉田兵衛尉 二十三番 中村五郎左衛門尉 同三郎兵衛尉 加治新左衛門尉 二十四番 阿保次郎左衛門尉 加治丹内左衛門尉 同次郎兵衛尉 二十五番 飯富源内 本庄新左衛門尉 那須左衛門太郎 二十六番 進士三郎 多賀谷左衛門尉 江帯刀左衛門尉 二十七番 本間次郎左衛門尉 佐野三郎左衛門尉 高田武者太郎 二十八番 小河三郎兵衛尉 平左衛門三郎 三村兵衛尉 二十九番 長掃部左衛門尉 長右衛門尉 長兵衛三郎 三十番 豊田彌四郎 秋元左衛門次郎 須賀左衛門太郎 三十一番 弥三郎 同弥四郎 矢口兵衛次郎 三十二番 薗田又太郎 木村弥次郎 同小次郎 三十三番 後藤三郎左衛門尉 同四郎左衛門 同兵衛太郎 三十四番 伊達八郎太郎 中村縫殿助太郎 伊達判官代 三十五番 佐竹八郎 結城五郎 佐竹六郎次郎 三十六番 大曽祢太郎兵衛尉 同次郎兵衛尉 武藤左衛門尉 三十七番 長三郎左衛門尉 長太右衛門尉 長内左衛門尉 三十八番 善右衛門次郎 弥善太右衛門尉 布施左衛門太郎 三十九番 得江蔵人 平賀三郎兵衛尉 得江三郎 四十番 笠間左衛門尉 出羽四郎左衛門尉 狩野五郎左衛門尉 四十一番 信濃民部大夫 同三郎左衛門尉 肥後四郎左衛門尉 四十二番 壱岐小三郎左衛門尉 足立木工助 壱岐三郎左衛門尉 四十三番 佐原太郎左衛門尉 下総十郎 伊賀次郎右衛門尉 四十四番 千葉八郎 相馬左衛門尉 大須賀左衛門次郎 四十五番 内藤七郎左衛門尉 押垂三郎左衛門尉 春日部左衛門尉 四十六番 近江四郎左衛門尉 豊前大炊助 加治八郎左衛門尉 四十七番 武田五郎次郎 仁科次郎三郎 小野澤左近大夫 四十八番 宇都宮新左衛門尉 氏家太郎 筑後左衛門次郎 四十九番 和泉次郎左衛門尉 同新左衛門尉 同五郎左衛門尉 五十番 佐原新左衛門尉 同四郎左衛門尉 同六郎兵衛尉 五十一番 大井太郎 南部次郎 同三郎 五十二番 宇佐美與一左衛門尉 弥次郎左衛門尉 関左衛門尉 五十三番 少輔左近大夫将監 同木工助 上総介太郎 五十四番 筑後図書助 安積左衛門尉 伊藤三郎左衛門尉 五十五番 佐渡二郎左衛門尉 同三郎左衛門尉 同帯刀左衛門尉 五十六番 宇都宮四郎左衛門尉 同五郎左衛門尉 梶原右衛門尉 五十七番 加藤左衛門尉 河津八郎左衛門尉 河越掃部助 五十八番 小山五郎左衛門尉 宇都宮上條四郎 宮内左衛門尉 五十九番 伊豆守森頼定 武田(一条)六郎信長 小笠原(伴野)六郎時長 六十番 左衛門尉薬師寺朝村 左衛門尉淡路四郎時宗 上野七郎左衛門尉結城朝広 六十一番 陸奥五郎太郎 毛利蔵人季光 那波次郎蔵人 六十二番 若狭守三浦泰村 修理亮宇都宮泰綱 秋田城介安達義景 六十三番 遠江式部丞北條光時 越後太郎北條親時 遠江三郎北條時長 六十四番 相模六郎北條時定 左近大夫将監北條経時 宮内少輔足利義氏 . 次いで御甲着け一人 次いで御冑持ち一人 次いで御小具足持ち一人 次いで御引馬一疋 次いで歩走(被召人、郎従三十人) 次いで御乗替二人(野箭 (狩猟用の矢) を持つ童が輿の右、征箭 (戦闘用の矢) を持つ童が輿の左) . 次いで御輿(御簾を上げ、御装束は御布衣。御力者(剃髪の従者・力士)三人) . 次いで水干を着す人々(各々野箭) 一番 駿河守北條有時 備前守北條朝直 右馬権頭北條政村 二番 淡路前司長沼宗政 大河戸民部大夫 大和守加藤景朝 三番 和泉前司天野政景 玄蕃頭後藤政景 肥前前司佐原家連 四番 肥後前司狩野為佐 江判官大江能行 伊賀判官光重 五番 出羽判官中条家平 壱岐大夫判官佐々木泰綱 因幡大夫判官 六番 左京権大夫北條泰時 随兵三十人、水干を着す侍十八人、その他の従う者は数えきれず。 . 後陣 修理権大夫北條時房 随兵二十人。水干を着す侍二十人、その他の従う者は数えきれず。 . . ※関寺: 現在の大津市逢坂二丁目 (地図) 付近にあって、五丈 (約15m) の弥勒仏を祀っていたと 伝わる大寺院 世喜寺 (Wiki) を差す。創建年代は不明、天延四年 (976) の大地震で倒壊し、再建後の慶長年間 (1600年前後) に徳川 vs 豊臣の兵火で廃絶状態になった。 .明治期に残った堂が 長安寺 (公式サイト) と改めて現在に至る。 . 「逢坂の関」の位置は未確認だったが、菅原孝標の次女が著した 更級日記 (Wiki) には彼女が 石山寺 (公式サイト) に詣でる際に逢坂を通り、13歳の寛徳四年 (1020) に受領 (上総介) の任を終えた父と共に都に帰る際に関寺が大仏造像の途中だった事を思い出す。 . 関寺 (に着いて) 關 (関所) のいかめしう造られたるを見るにも、そのをり荒造りの御顔ばかり見られしをり思ひ出でられて、年月の過ぎにけるもいとあはれなり」 .と、25年前を想って和歌を詠む。 . 相坂の 関のせき風 吹く聲は むかし聞きしに かはらざりけり .菅原孝標は従四位上の公卿。従五位下だった寛仁元年 (1017) に上総介として赴任し、寛仁四年 (1020) に帰京。正五位下の長元五年 (1032) に常陸介として赴任し長元九年 (1036) に任を終えて帰京した。娘の日記から、逢坂の関と関寺が至近距離にあった事が証明された、という話で。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 2月17日 . 玉蘂の記録 |
. ※2月17日: 今日、征夷大将軍 民部卿 藤原頼経が入洛した。太政入道 西園寺公経が三条北白河の 付近(地図)
に簾を備えた十二間の板桟敷を設け、東の三間は入道、次の三間は女房ら、次の三間は私 九条道家、次の三間は前の博陸 (関白、近衛家実を指す) の利用に備えてくれた。私は家実卿に謁して雑談、主として建久の時代に 頼朝卿が入洛※した頃の話題である。 .※2月18日: 今日、石山尼※が来訪。将軍頼経と共に上洛していた。 . ※2月21日: 藤原定員 が民部卿 (将軍頼経) の使者として来訪した。 . . ※頼朝上洛: 建久元年 (1190) 10月と、南都東大寺大仏の開眼供養に参席した建久六年 (1195) 4 月。建久六年は政子と頼家と大姫を同伴し後継の頼家を朝廷に披露する意味合いもあった。 .※石山尼: 詳細不明。九条道家と妻の綸子と親しい人物で頼経と共に鎌倉入りし今回頼経に従っ て上洛した尼とは誰だろう?一説には 中原親能の妻で頼朝の二女 乙姫 (三幡) の乳母だったとも言われるが、親能は大江広元の兄だから、年令的に適合しないか。 .中世の貴族社会に興味を持てない、したがって知識も乏しい私の、数多い弱点の一つだ。暫く苦しみそうだ。 ※玉蘂とは: 九条道家の日記で、1209~1238年の分が現存する。 「蘂」 は 「おしべ+めしべ」 の 意味で、祖父 九条兼実 が遺した日記 「玉葉」 に因んだ名を付けている。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 2月22日 戊戌 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。将軍家 藤原頼経が入洛して初の外出 (御直衣、公家以上の平常の略例服で形は衣冠と概ね同じ) 。 陰陽頭 安倍維範朝臣が身辺を祓い、まず大相国 西園寺公経邸へ、次に一條殿 九条道家邸を訪問した。 今日は前駈 (前触れ役) を用いず、右馬権頭 北條政村が御車の前で先導役を務めた。 .
行列は 先ず 右馬権頭北條政村. 次いで御車(八葉※) . 宇田左衛門尉 四方田五郎左衛門尉資綱 小宮五郎左衛門尉 本間次郎左衛門尉信忠 左衛門三郎平盛時 富所左衛門尉 若兒玉小次郎 小河三郎兵衛尉直行 参河三郎左衛門尉 飯富源内長能 以上十人、直垂を着し帯劔、御車の左右に列歩。 . 次いで衛府八人(各々布衣、帯剣して騎馬、列は年令順 ) . 一番 内藤七郎左衛門尉盛綱※ 左衛門尉安積六郎祐長 二番 河津八郎左衛門尉尚景※ 豊後四郎左衛門尉島津忠綱 三番 上野七郎左衛門尉結城朝広 駿河四郎左衛門尉三浦家村※ 四番 佐渡帯刀左衛門尉後藤基政※ 近江四郎左衛門佐々木氏信 . 次いで扈従の殿上人 左近中将藤原親季朝臣(蔵人頭、後に参議で二位) . . ※八葉の車: 右上画像は「小八葉」。クリック→ 別窓で拡大表示 花弁が八つある「八葉蓮華」の紋を付けた牛車。 .大型紋を付けた車は上位の公卿や皇族、小型紋を付けた「小八葉」にはそれ以外の貴族が乗る習慣だった。上の画像は平治物語絵巻に載っている小八葉の車。 大型紋を付けた車の画像は...残念ながら手元になかった。 ※内藤盛綱: 藤原秀郷の10代後の子孫に 内藤盛家の名がある。系図には盛綱の名は見当たらな いので庶子か孫の可能性がある。 .※河津尚景: 詳細は不明。伊東祐親 の嫡子河津祐泰の子孫説もあるが祐泰の系統は若年のまま 断絶しており信頼性は乏しい。伊東氏の系統が河津氏を仮称した可能性は有るが。 .※後藤基政: 後藤基綱の長男で将軍頼経の近習。正嘉元年 (1257) には引付衆に任じている。 . ※三浦家村: 義村の六男で 泰村と光村の弟。弓馬の術に優れ宝治合戦 (1247年) では遺骸が確認 できなかった。そう言えば、同じ三浦系の和田合戦 (1213年) では 朝比奈義秀の生存説も流れていたっけ。部名の高い武士 (もののふ) は生き残らせたいからね。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 2月23日 己亥 . 吾妻鏡 |
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雨。将軍家 藤原頼経が御参内。一條殿 九条道家が前駈 (前触れ役) 三人を派遣、昼過ぎに出御した。 . 行列 . 先ず前駈 右馬権頭北條政村 治部権大輔兼康(派遣された前駈) 宮内少輔足利泰氏 左馬権頭盛長(派遣された前駈) 備前守北條朝直 宮権大夫茂俊(派遣された前駈) . 次いで御車(八葉) 小河三郎兵衛尉直行 小宮左衛門次郎直義 本間次郎左衛門尉信忠 左衛門平三郎盛時 四方田五郎左衛門尉資綱 若兒玉小次郎 飯富源内長能 修理進三郎宗長 以上の八人は直垂で帯剣し御車の左右を警護。 . 次いで府(近衛府の任官者)十人、各々布衣で帯剣。 源左衛門尉 和泉次郎左衛門尉天野景氏※ 四郎左衛門尉宇都宮頼業 左衛門尉河津八郎尚景 (2月23日を参照) 肥前太郎左衛門尉佐原胤家※ 佐渡帯刀左衛門尉後藤基政 (2月23日を参照) 薬師寺左衛門尉朝村※ 左衛門尉三浦又太郎氏村 信濃三郎左衛門尉二階堂行綱 左衛門尉宇佐美籐内祐泰 . 次いで殿上人 左近中将藤原親季朝臣 . 夜になって小除目※あり。将軍家を権中納言に任じ、右衛門督を兼任とする。 . . ※天野景氏: 天野遠景-政景-景氏と続く。 . ※佐原胤家: 三浦 (佐原) 盛時か、その父・盛連の系累だと思うが系図には見当たらない。 胤が通字の千葉氏系の可能性もあるがこちらも同様、要するに判らない。 .※薬師寺朝村: 小山政光-朝政-朝長と続く小山氏嫡流 朝長の次男。現在の下野市薬師寺町 . ※小除目: 春秋に行なう定期の異動ではなく臨時の (小規模の) 除目。 . . ※玉蘂 23日: この日民部卿※始めて参内の日なり。 . ※玉蘂 24日: 午刻 (正午前後) に太政入道 西園寺公経が来訪され昨日の様子を語った。北條泰時 朝臣と面談し、昨日の引出物として連れて来た馬二疋と 三浦義村 が贈った馬を西の内庭で見た。頼経卿 (将軍) は権中納言に還任し右衛門督、別当兼任となった。 .※民部卿: 中納言以上の公卿が兼帯する例が多い事から頼経の官職を代名詞に利用している。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 2月26日 壬寅 . 吾妻鏡 |
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将軍家 藤原頼経が検非違使別当※に補任された。 . . ※検非違使: 京都の治安維持と民政を所管した役職だが、院政に伴う北面武士が設置されると 次第に弱体化し、承久の乱 (1221年) 後に六波羅 (探題) の設置以後は形骸化した。 .. 鎌倉時代以後に室町幕府の政庁が京都に置かれると、検非違使庁は幕府の侍所に 吸収される。 今回頼経が任じた別当は検非違使の長だが実質的には名目だけの名誉職だ。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 2月28日 甲辰 . 吾妻鏡 |
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晴。将軍家 藤原頼経が朝廷 (天皇家と高位の朝臣) に御馬を献上した。
. 一の御馬 大和前司伊東祐時 六郎左衛門尉安積祐長 二の御馬 大和守加藤景朝 河津八郎左衛門尉尚景 以上四人これを引く(各々布衣で帯剣) . 今日、中納言などに任じられた御拝賀 (礼詞の奏上) なり。御出立を眺めるため大殿 (九条道家) が六波羅殿を訪れ門外で牛車を降りた。これは異例のことである。すぐに前駈として五人を差し進じた。 . 御拝賀の行列 . 先ず一員 番長(衛府の下級幹部)安利 府生(検非違使の下級職)為末 大志 小志家平 (各、衛府の四等官) . 次いで前駈 (先触れ) 左馬権頭盛長 宮内少輔足利泰氏 刑部少輔家盛 備前守北條朝直 治部権大輔兼康 右馬権頭 皇后宮権大夫茂能 駿河守北條有時 中務権少輔時長 越後守北條時盛 . 次いで御車 . 丹治部左衛門尉 小河兵衛尉直行 同左衛門小川次郎 本間次郎左衛門尉信忠 平左衛門三郎盛時 四方田五郎左衛門尉資綱 立河三郎兵衛尉基泰 富所左近将監 池上籐七康親 飯富源内長能 以上十人直垂を着し、帯剣、御車の左右に候す。 . 先行 看督長(検非違使の下級職員)四人 火長四人(検非違使の下級職員、府生の下) 雑色が後に続く . 次いで衛府二十人(下臈(身分の低い者)が先) 大見左衛門尉実景 宇佐美與一左衛門尉祐村 宮内左衛門尉公景 宗宮内五郎左衛門尉 淡路四郎左衛門尉時宗 伊藤三郎左衛門尉祐綱(祐時の三男) 武藤左衛門尉景頼(頼茂の息子、評定衆) 加藤左衛門尉行景 上野七郎左衛門尉結城朝広 信濃三郎左衛門尉二階堂行綱 近江四郎左衛門尉佐々木氏信 出羽四郎左衛門尉伊賀光宗 肥前四郎左衛門尉光連 壱岐三郎左衛門尉葛西時清 関左衛門尉政泰(妻の兄が三浦泰村) 佐渡帯刀左衛門尉後藤基政 五郎左衛門尉小山長村 大曽祢兵衛尉長泰 遠江次郎左衛門尉三浦光盛 三浦駿河四郎左衛門尉家村 . 次いで官人 主馬大夫判官家衡 . 次いで随兵十人(三騎相並ぶ、最末一騎) 一番 左近大夫将監北條経時 相模六郎北條時定 足利五郎長氏 二番 若狭守三浦泰村 下野守宇都宮泰綱 秋田城介安達義景 三番 武田六郎信長 小笠原六郎時長 千葉八郎胤時 最後尾 上野五郎結城重光 . 次いで扈従の公卿二人 宰相中将実雄 三位中将公経 . 次いで殿上人五人(牛車) 左中将実光 二條少将教定 権中将親季 近衛少将実藤 左少将為氏 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 2月29日 乙巳 . 吾妻鏡 |
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. . 87代 四条天皇 |
. 2月30日 丙午 . 吾妻鏡 |
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当時の陰暦では季節感の差を埋めるため 3~4年に一度閏 (うるう) 月が入る (今年は 2月の次が閏 2月) 。西暦と陰暦には一ヶ月弱のズレがある事にも留意が必要、例えば頼朝が挙兵した治承四年 8月4日は西暦では 8月25日になる。また、2月は30日まであることも頭に入れておこう。 陰暦→ 西暦の確認や変換は こちらのサイトが利用できる。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 閏2月 3日 己酉 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。御招請があって将軍家 藤原頼経は大相国禅閤 西園寺公経 邸※に渡御した。接待の席は華美を極め、御贈物として風雅に誂えた棚を二脚 (其々を金銀で飾り和漢の書を置く) を御贈物として準備してあった。夜になってから六波羅に還御となった。 . .
※西園寺邸: 西園寺は、現在の金閣寺の地にあった。
鎌倉幕府滅亡後の建武元年 (1334) に公経から七代後の公宗が地位回復を図り 後醍醐天皇を西園寺に招き 謀殺を計画したのだが、思い通りには進まなかった。 .. 異母弟公重の密告で計画は露見、公宗は出雲に流される途中で殺され所領と財産は没収、後に荒廃した西園寺邸は応永四年 (1397) に室町幕府三代将軍足利義満に渡り、鹿苑寺 金閣 (Wiki) に改まった。 . ちなみに、西園寺邸は明和六年 (1769) に京都御苑に移り、明治維新になって東京に移転した。京都御苑の跡地には 白雲神社 (地図) が建っている。 . 右画像は鹿苑寺マップ クリック→ 別窓で 拡大表示 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 閏2月 7日 癸丑 . 吾妻鏡 |
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晴。戌刻 (20時前後) に佐女牛の東洞院※で失火、南北二町余 (単純換算で約140m四方) が焼失した。 . . ※火元は: 左女牛通は東西に走る現在の花屋町通、東洞院通は現在も同じ、両方の交差点は | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 閏2月13日 己未 . 吾妻鏡 |
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晴。午刻 (正午前後) に日重暈 (太陽に懸かる二重の傘) があった。陰陽頭の維範朝臣が絵図を携えて真っ先に六波羅殿に駆けつけ、特に心して慎み深くあるように申し入れた。 その後に権天文博士の季尚朝臣および三人の担当者が呼ばれて御所に参上、維範朝臣が提出した絵図を提示して所存を述べよとの仰せがあり、次のように答えた。 . 特に重大な変異ではなく、去る建保年間※に道昌朝臣が水無瀬殿※で「白虹が太陽を貫いている」と奏聞した際に孝重朝臣が「変異に非ず」と否定したのは今回の暈であります。 .今夜、維範朝臣が天地災変に対応する祈祷を行ない、伊勢前司 藤原定員がこれを差配した。 . . ※水無瀬殿: 後鳥羽上皇の離宮があった場所 (地図) 。隠岐に流され崩じた後鳥羽上皇の遺勅に よって仁治元年 (1240) に御影堂が建てられ、明応三年 (1494) には後土御門天皇が上皇の神霊を迎えて水無瀬宮とした。現在は 水無瀬神宮 (Wiki) となっている。 .※建保年間: 1213~1219年。吾妻鏡の建保五年 (1217) に次の記載がある。 . 山城廷尉 二階堂行村が京都より帰参、上皇の病状は7月10日から発作が頻発している。智識の深い高僧たちが各々の祈祷を行っても癒える気配が見えなかったが、25日になって前の陰陽博士道昌が 赤山修学院(公式サイト)に於いて泰山府君祭※を行なって翌日に平癒した。これにより道昌は勅勘を解かれ、旧職に復帰した。 .. 去る2月、広瀬殿 (御所の一角?) に白虹※が現れたと道昌が奏聞した際に同輩が同意せず「白虹ではない」と言上したため陰陽博士を停職となる処分を受けていた。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 閏2月14日 庚申 . 吾妻鏡 |
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終日雨。陰陽師の安倍泰貞朝臣は日頃から「重大な変異が起きても30日以内に雨が降れば (禍を) 消してくれるものです。」と語っている。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 閏2月15日 辛酉 . 吾妻鏡 |
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晴。戌刻 (20時前後) に維範朝臣が再び六波羅殿に参上し、「太白 (火星) が昴 (牡牛座のプレアデス星団) の軌道を犯し、歳星 (木星) が災星 (山羊座の星) の軌道を犯している。」と報告した。これに対応し将軍の祈祷として在衡朝臣による属星祭を催した。 戌四刻 (20時半過ぎ) に樋口町※の辺が焼失した。
. . ※樋口町: 六波羅から約3km西に樋口町の地名あり (地図) 、ここか否かは判らないが。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 閏2月16日 壬戌 . 吾妻鏡 |
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未刻 (14時前後) に 鞍馬寺が小堂からの失火が原因で焼失した。. 第五十代桓武天皇の延暦十五年 (796年) に藤原伊勢人が貴布禰 (貴船) 明神のお告げにより創建してから既に380余年も帝の都を護持し続けた寺である。 . . ※百錬抄: 鞍馬寺が焼亡。毘沙門霊像 (国宝の本尊) は救い出したが、 大治元年 (1126) 以後は百年以上も起きなかった事件だ。 .. 右は 鞍馬寺の国宝 毘沙門天像の上半身。 クリック→ 別窓で拡大表示 . 殆どの毘沙門天像は左手に宝塔を掲げているが この像は右手で鉾を持ち都の敵を睥睨する如く左手を翳している。 . 橡 (とち) 材の一木造りで像高は176cm、平安時代中期を過ぎた頃の作品と推定されている。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 3月 2日 丁丑 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 晴。丑刻 (深夜2時前後) に将軍家 藤原頼経がやや体調不良。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 3月 6日 辛巳 . 吾妻鏡 |
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寅刻 (早朝4時前後) に突然の雷雨あり。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 3月 7日 壬午 . 吾妻鏡 |
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晴。将軍家 藤原頼経が権大納言に昇叙し、督 (右衛門府の長官) と検非違使別当を辞任した。 . 今日体調不良から回復し (病気の穢を払う) 御沐浴、医師の丹波時長朝臣 (嘉禎元年 (1235) 11月18日を参照) が付き添って介助した。 . . ※玉蘂 8日: 早朝に聞書 (叙書の控え) を見た。権大納言に藤原頼経 (元 権中納言) 、権中納言に (藤原公相元 三位中将) 。午刻 (正午前後) に新大納言頼経卿が来臨し、寝殿北面 (私室) で面会した。行幸の前に拝賀する事、高位の貴族なのだから外出の際は殿上人と前駈を伴うように助言した。従者は日暮れになってから帰った。 .※頼経の位官: 貞永元年 (1232) 02月に 従三位、右近衛中将、備後権守、 天福元年 (1233) 01月に 権中納言、 .文暦元年 (1234) 12月に 正三位、権中納言は変わらず、 嘉禎元年 (1235) 11月に 従二位、 嘉禎二年 (1236) 07月に 正二位に昇叙、 嘉禎四年 (1238) 03月に 権大納言に昇叙、 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 3月18日 癸巳 . 吾妻鏡 |
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海老名左衛門大夫忠行が位記 (叙位の辞令) を取り消され、旧来の左衛門尉とする旨の宣下があった。 .関東の許可を受けず直接朝廷に昇叙を願ったのが理由である。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 3月19日 甲午 . 吾妻鏡 |
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. . 87代 四条天皇 |
. 3月22日 丁酉 . 吾妻鏡 |
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曇、夜になって雨。今日六波羅殿に於いて南北二京※の碩学 (この場合は学識の深い僧) を招き仁王八講※を行なった。大殿 九条道家と准后 (掄子、母方の伯母) が御聴聞のため入御した。 . . ※玉蘂の記事: 今日、新大納言藤原頼経が六波羅で仁王八講を催した。関東では以前から毎年 一度法華八講を催しているらしい。私 (九条道家) も亜相 (大納言 頼経を差す) に誘われ、八葉の車に准后 (妻の掄子=公経の娘=頼経の生母) と同乗し (非公式に) 参席した。 .. ※南北二京: 京都と奈良。この場合の北は比叡山延暦寺で、南は東大寺か興福寺、または両方 を差す。 .※法華八講: 八巻の経典を八座に分けて講じる法会。仁王八講は同様に仁王経を当て嵌める。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 3月23日 戊戌 . 吾妻鏡 |
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雨。未の三点 (概ね 14時近く) に東南東の強風が吹き人家の破損や樹木の折損などが多数発生した。 申刻 (16時前後) には晴れたが、再び西の強風が吹き荒れた。 . 今日、相模国 深澤里※の大仏堂の建設が始まった。僧浄光が尊卑の緇素 (身分や僧俗の区別なく) の勧進を募っての完成を計画している。 . . 原稿の片隅に 「上品上生 阿弥陀九品来迎印」 の言葉が添付してあった。 「ひたすらに祈れば阿弥陀仏が極楽浄土に迎えてくれる」 程度の意味だね。多分 20年以上前の私 (筆者) がなぜこんな言葉をメモしたか、全く記憶にない。何か悩んでいたのかしらね。 ..
※深澤里: 当時の深澤は大仏切通しの南、露座の大仏を祀っ
ている。大異山高徳院 (公式サイト) の一帯までを含んでいた。 .※大仏関連として、 . 吾妻鏡 仁治二年 (1241) 3月27日の記事。 . . 吾妻鏡 寛元元年 (1243) 6月16日の記事。右は鎌倉大仏周辺の地図。クリック→ 別窓で拡大 . 深澤村に建立した仏殿に八丈余 (約24m) の阿弥陀像を安置して落慶供養を催した。 .導師は卿僧正良信で讃衆 (供養に参加した僧) は10人。勧進聖人浄光房が六年間勧進に務めて落慶に至り、身分の尊卑や出家世俗の区別なく勧進に加わった。 同時代の仁治三年 (1232) に成立した紀行文「東関紀行」(筆者不詳) には、 「仁治三年に完成前の大仏殿に参拝した事、大仏と大仏殿が三分の二ほど完成していた事、そして大仏が木造だった事」 が記載してある。そして1243年から1251年の間に木造の大仏と大仏殿は失われ (火事か、地震か) 、その後に東大寺と同じく金銅の仏像鋳造が開始される。 .吾妻鏡 建長四年 (1252) 8月17日の記事。 彼岸の七日目に当たり、深澤里の金銅八丈の釈迦如来像※の鋳造を開始した。
.大仏鋳造に関する吾妻鏡の記述はこの (8月17日の) 一ヶ所だけで、工事の経過も開眼供養の様子も含めて全く記録が残っていないのが面白い。この謎を解き明かすかも知れない推論があるから話は更に面白くなってくる。 .以下、最初に言い出したのは誰だか判らないのだけれど。 宝治合戦 (1247年) で三浦の一族郎党 500余名の滅亡に大きく関与した安達氏は 三浦の怨霊を鎮めるため屋敷 (甘縄邸) の裏山に大仏を建立しようと思い立った。 ..
※釈迦如来: 鎌倉の大仏は釈迦如来ではなく 阿弥陀如来だ。
如来が死者を浄土に迎える印相 (手の位置と指の組み方) には九種類あり、簡単に書くと 「膝の上で両手を組み人差指の第二関節を曲げて親指と円を描く」 のが阿弥陀九品来迎印の「上品上生」。 右画像をクリック→ 別窓で拡大表示 .. 吾妻鏡の編纂者は何故釈迦如来と繰り返すか? . 与謝野晶子が 「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな」 と詠んだのは単純ミスか、五七五七七の枠を考えたのか、「阿弥陀仏」 よりも 「釈迦牟尼」 の発音に響きの美しさを感じたのか。これも同様に判らないが、小学校の遠足で高徳院へ行った際に引率の先生が 「かまくらや みほとけなれど 大仏は...」 と紹介したのは、ハッキリと覚えている。 . 中野区立多田小学校に勤務されていた畔上先生、御存命でしょうか? 大切な事はすぐ忘れる癖に、こんな事は何十年も覚えてるんだよね、私は (笑) 。 . 閑話休題。露座 以前の大仏が安置されていた大仏殿については 鎌倉手帳 寺社散策 が最も詳しい。参照されたし。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 3月24日 己亥 . 吾妻鏡 |
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晴、午刻 (正午前後) に雨となり雷鳴が数回あった。 . . ※ 旧暦の3月24日は西暦の5月9日、閏月が入ったため旧暦と西暦の差が広がった。雷鳴は春雷、 の範疇か、初夏が訪れた合図か。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 3月28日 癸卯 . 吾妻鏡 |
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晴。今日、四条天皇が春日大社に行幸※。 . . ※玉蘂は:「翌29日に行幸還御」 と書いている。京都御所~春日大社は片道約42kmだから、時速 4km前後の牛車での一泊旅行なら乗車が 20時間、結構ハードスケジュールだ。 .それとも鴨川~桂川~木津川の水路だろうか? | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 3月30日 乙巳 . 吾妻鏡 |
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下野守従五位下藤原朝臣 小山朝政法師 (法名 生西) が没した (81歳)。病床に伏して数日にも満たなかった。少し前には弟の上野入道日阿 (結城朝光※) と共に南都 (東大寺が該当) で登壇し受戒※していた。 . . ※登壇受戒: 尊卑分脈に拠れば、二人は天福二年 (1234) 3月29日に出家している。 . 朝政の宗教理念は知らないが、朝光は 法然に私淑した後に念仏宗に傾倒、更に 親鸞に師事し浄土真宗で出家している。現代人の感覚では彼の信仰と東大寺での受戒が結びつかないのだが、私は朝政も朝光も広い意味での念仏宗 (浄土宗か浄土真宗か、あるいは律宗か) に帰依していた、と考えている。 .. 明恵、叡尊、法然、親鸞 (全て Wiki) 、誰に帰依しようが世俗を生きた人にとって相容れないほどの理念の差なんか、ありはしない。 . 授戒→ 受戒とは単なる出家剃髪ではなく、戒壇に登って僧として守るべき戒を受ける事だ。大陸から伝来した仏教が定着し繁栄したが、戒律を守らない僧が増えるなどの社会問題が深刻化し、朝廷はこの状態を打開するため正式な授戒 (仏弟子となる道徳基準) を与える資格を有する高僧を唐から招き、僧を育てる統一した基準を構築しようと考えた。 . この招聘に応じたのが律宗の開祖 鑑真和尚 ( Wiki)。天平勝宝五年 (753) の来日と共に正式な授戒と受戒の儀式を催す権限を持つ三ヶ所の寺院 (三戒壇) を定めた。 .
南都の 東大寺、筑紫の 観世音寺 (共にwiki)、そして東海道の足柄峠および東山道の碓井峠から東の授戒を受け持ったのが下野薬師寺である。. 下野薬師寺跡と龍興寺へ の中段で受戒の詳細を紹介してある。ここは政争に敗れた弓削道鏡が生涯を閉じた場所でもある。彼の巨根伝説は江戸時代の猥褻文学が捏造した話、らしい。 . 右は下野薬師寺記念館に展示してある戒壇模型 クリック→ 別窓で拡大表示) ※結城朝光: 少々書き添えると、晩年の朝光は 親鸞に帰依し浄土真宗の真摯な在家信者として 余生を送っている。この時代に奈良で戒壇を有しているのは東大寺だが、小山や結城から至近距離にあった下野薬師寺を選ばなかったのは何故か?などの疑問が残ってしまう。ひょっとして下野薬師寺が荒廃した時期だった可能性があるか? . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 4月 2日 丁未 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 若狭守 三浦泰村と出羽前司 二階堂行義を評定衆※に召し加える旨の仰せがあり、両名も了承した。 . . ※評定衆: 頼朝を継いだ将軍 頼家の権限制約を目的に、北條時政が主導して正治元年 (1199) に 設立した御家人 13人による合議制が原型で、当時の場合は実質的な時政の独裁定着が目的だった。 .. 元仁元年 (1224) と翌年にかけて、頼朝以後の幕政の中心を担った 義時と大江広元と北條政子が相次いで没し、義時を継承して執権に任じた 北條泰時は権力を維持強化するためにも執権を長にした集団指導体制を再構築する必要があった。 . この時点で司法、立法、行政の三権を掌握する事になったのが評定衆で、北條時房と泰時による二頭政治を翼賛する組織の色合いが強い。 . 鎌倉時代中期には政治権力の中心が執権をトップとする評定衆ではなく、北條一門の私的な長 (惣領) である得宗と得宗被官のグループに移動し、やがて得宗を中心にした「寄合衆」に権限が集約され、評定衆は徐々に形骸化してしまう。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 4月 6日 辛亥 . 吾妻鏡 |
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晴。将軍 藤原頼経が勅授※を受ける旨の通達があった。 . . ※勅授: 太政官の奏薦ではなく、勅旨で位勲を授ける事。五位以上の叙位と六等以上の叙勲が 該当する。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 4月 7日 壬子 . 吾妻鏡 |
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曇。将軍家 藤原頼経が大納言に叙された拝賀 (神仏や朝廷への御礼) あり。同行の公卿と殿上人が多数、前駈以下は中納言御拝賀 の例と同じ。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 4月 9日 甲寅 . 吾妻鏡 |
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晴。今日天台座主※ (慈源僧正、将軍頼経の同母弟) を拝堂。 . . ※天台座主: 天台宗総本山の比叡山延暦寺貫主 (住職) で、天台宗の諸末寺を統括する。比叡山 内には住まず、重要な儀式に際してのみ入山する座主が多かった。 .. 慈源は頼経 (満19歳) の同母弟。上限でも17か18歳、比叡山外の市内在住だろう。 また「拝堂」には新任の僧が本尊を拝する儀式の意味があり、慈源の座主就任が同じ嘉禎四年だった事と関係した表現かも知れない。
※大津坂本: 10数年前に、大津から湖西の 鯖街道 (Wiki) を
通って福井から能登へと足を伸ばした。 .. 右画像は坂本の町並みを撮った一枚。 クリック→ 「坂本の町並み」を集めた Wiki 画像 . その際に坂本の所謂「文化遺産の町並み」 を少しだけ歩いたのだが、文化遺産に触れる感動と共に「贅を尽くした暮らしを享受する宗教団体の非日常性」みたいなものを感じて辟易とした記憶がある。 . これは信仰なのか? 費用を惜しまぬ豪華さは心の平安とどんな関係なのか、と。 . 坂本の町並みは、様々な意味で実際に足を運ぶ価値を持っている。近くを通ったら是非とも足を運んでみよう。ひょっとすると、徹底した殺戮と焼き討ち を断行した 織田信長 (共に Wiki) の心が理解できるかも知れない。全くの私見であるが。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 4月10日 乙卯 . 吾妻鏡 |
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晴。一條殿 (九条道家) の御息若君 (福王公、将軍家舎弟) が道家の牛車に同乗し仁和寺御室 (法親王) として入った。兄の右府二条良実と幕下 (左大将) 一条実経と将軍家 藤原頼経が同行、多くの貴族が牛車で続いた。この若君(福王)は将軍家猶子だが今回立場を変更、皇族以外 (法親王として) の入室は特異な例である。 . 夜になって六波羅に還御。戌刻 (20時前後) に錦小路白河※ の火災で数十軒が焼失、その後に小雨あり。 . . ※道家の子: 長男 教実は九条家を継ぎ 従一位摂関 左大臣、次男良実は後に従一位関白 左大臣、 三男は将軍頼経。父に溺愛された四男実経は従一位摂関 左大臣、五男円実は興福寺別当となったが石清水八幡宮との紛争で丹波配流、六男慈源は天台座主、仁和寺御室となった七男の福王 (10歳) は臣下として初めて仁和寺第十世となった。 .. 九条家は教実の代で分裂し 次男良実が二条家、四男実経が一条家の祖となる。 ※錦小路白河: 八坂神社 (公式サイト) の北西辺り (地図) か? . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 4月11日 丙辰 . 吾妻鏡 |
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. . 87代 四条天皇 |
. 4月13日 戊午 . 史 料 |
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. . 87代 四条天皇 |
. 4月16日 辛酉 . 吾妻鏡 |
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. . 87代 四条天皇 |
. 4月18日 癸亥 . 吾妻鏡 |
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晴。将軍家 藤原頼経 が権大納言を辞した。
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. . 87代 四条天皇 |
. 4月24日 己巳 . 吾妻鏡 |
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雨。今日、一條大殿 九条道家が兵仗 (武官の官職) を辞任。准三后※の宣旨が下され、これも辞した。 . . ※准三后: 准后、准三后に同じ。太皇太后、皇太后、皇后の三后 (三宮) に准じた処遇及びその 処遇を受けた者。道家の辞任は明日の出家に備えたもの。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 4月25日 庚午 . 吾妻鏡 |
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雨。今日、一條大殿 九条道家が法性寺殿※で御素懐 (かねて願っていた願の出家) を遂げた。 戒師は飯室※の前大僧正良快 九条兼実の息子、唄師※は岡崎法印成源、剃り役は法印印圓。 摂政殿 (近衛兼経) を始め、将軍家 藤原頼経 を含む多くの人々が集まった。 . .
※百錬抄の記事: 一條太閤 九条道家が法性寺別邸で落餝。
長年の宿願である。戒師は飯室 前大僧正良快で御年 46歳、法名行恵を名乗った。保延の例※に倣った出家である、と。
.※法性寺: 現在の東山区今熊野の 大雲院南谷別院 法性寺の 跡地にあった、と伝わっている。参考に使えるような史料が見当たらないため、ここでは法性寺から少し離れて似た寺名のため取り違えの多い法勝寺 (最初の六勝寺) について書いてみたい、と思う。 .. 法勝寺は 山城国愛宕郡 (京都市左京区) にあった「勝」の字を含む 六山の勅願寺 (Wiki) の一つだが、現在は跡地に石碑が残るのみ。 . 右上の 所在地の地図 をクリック→ 別窓で拡大表示 . 六勝寺 (法勝寺、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺) は打ち続く災害と再三の戦乱で 応仁の乱 (Wiki) 前後には全てが廃寺となった。 . 法勝寺は承保三年 (1076) に第72代白河天皇による六勝寺最初の建立で規模も最大だった。従一位 摂関 太政大臣の 藤原師実 (Wiki) が一族の別荘を寄進し、高さ80mの壮麗な 八角九重塔 (復元推定画像) が建っていた、と伝わる。 .
右画像をクリック→ 別窓で拡大表示※飯室: 比叡山の飯室谷にあった寺院で現在の 不動堂 (公式 サイト) の古い姿だったらしいが詳細は不明だ。 .そもそも私は苦行なんか嫌いだし、肉体の鍛錬と精神の浄化は比例しない、と思っている。 . 両方とも多少清らか程度゛で構わないし、多少清らかな精神を収めた容器の形状など大きな問題ではないと思っている。醜いデブじゃなきゃ良い。 ※唄師: 音節を延ばし歌う如く唱える唱名。法会の最初などで厳粛な雰囲気を醸すのが目的。 . ※保延の例: 保延六年 (1140) に准三宮宣下を受けながら辞して出家した摂関太政大臣 藤原忠実 の行動 (wiki) を意味したのだろう。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 5月 4日 戊寅 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴、陰。夜になって将軍家 藤原頼経が金銀を鏤 (ちりば) め菖蒲を詰めた御枕と御扇を四条天皇に献上した。 この枕は六位定役※として調達するものだが、帝の求めに応じての献上である。 . . ※六位定役: 六位の者に課された賦役。菖蒲の香りを好んだのは確か枕草子にも載っていた。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 5月 5日 己卯 . 吾妻鏡 |
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戌刻 (20時前後) に太白 (金星) が軒轅大星 (獅子座の星) の軌道を犯した。これは希代の変異であり、延喜と天暦二代の記録※に見えるという。 今日、大納言入道坊門忠清※殿が左京兆 北條泰時に面談の希望を申し入れてきたが、風邪の気配ありとして辞退した。承久の兵乱の際に罪に問われた忠清を泰時が弁護し、結果として故二品 政子 並びに右京兆 北條義時 が罪に問わない配慮をしてくれた、忠清にはその恩に報いたい思いがあった。泰時はそれを知りつつ配慮したものである。 . . ※延喜と天暦: 60代醍醐天皇の治世 延喜 (901~923年) と 62代村上天皇の治世 天暦 (947~957) を神聖視した呼称。摂関政治が定着して 中流下流貴族が昇進を得難い体制が続いた中で、延喜と天暦は上級官位への昇進が幾分望める治世だったらしい。 .そのため中流や下級貴族の間では延喜天暦が理想の社会と考える風潮があったという。 ※坊門忠清: 内大臣 坊門信清の次男で兄が正二位 大納言の 忠信、姉妹が三代将軍 実朝の正室 . ※罪を減じて: 吾妻鏡の承久三年 (1221) 8月1日に 以下の記載がある。 . 忠信卿が (鎌倉に連行途中の) 遠江国から京都に帰還した。西八條禅尼 (坊門 .信子) から二品禅尼 政子への申し入れもあって罪を減じたものである。 . 赦免は得たが忠信も忠清も失脚して政治の舞台から消えており、ここで大納言の称号を付ける必要はないが...零落した忠信 (当時51歳) が泰時との接触を試みたのかも。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 5月11日 乙酉 . 吾妻鏡 |
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故 左衛門尉 坂上明定※の子息 左兵衛尉明胤が領掌している亡父の遺領に関し確実に安堵する決裁があった。石見国長田保 (島根県浜田市金城町長田、地図)と播磨国巨智庄 (姫路市夢前町古知之庄、地図) の地頭職、河内国の藍作りの奉行、近江国天福寺 (長浜市大光町に天福寺の字名あり、地図) の地頭職などである。 . 去年10月4日に父の明定がこれらを譲った後に死去した。明定は名人 (明法道の識者) だったことから、左京兆 泰時は遺児の明胤を特に気遣っていた。 . . ※坂上氏: 坂上田村麻呂を祖とする名家で、明法道 (Wiki) の識者。 初期の鎌倉幕府は既存の律令法や公家法を根拠にせず、武士の慣習や道徳に基づく裁判を行なったと考えられている。 .. ただし、政所や問注所を実質的に運営したのは京都出身の明法道や公家法に通じた中級貴族出身者、例えば 大江広元 や 中原親能 や 三善康信 らが主体だった。 彼らを引き継いだ一人である坂上明定が泰時の御成敗式目制定に関与しただろう事は容易に想像できる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 5月16日 庚寅 . 吾妻鏡 |
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今日、将軍家 藤原頼経 が右府 (右大臣 二条良実、Wiki) 邸に渡御した。 歓談の最中に若君 (福王公) ※が飼っている小鳥※が籠から飛び立って庭の橘の梢に止まった。若君は嘆き悲しんだが、近習や侍らも捕らえる方策がない。 . 同席した公卿の一人が若君に 「将軍家が連れている弓の名人を呼んで射取らせましょう」 と提案。若君は頼経にその旨を話し、頼経は敢えて若手の上野十郎朝村 (結城朝光の八男) を召し、鳥を殺さず捕らえよと命じた。 .
朝村は辞退できず、弓と引目の矢 (鏃のない鏑矢、蟇目とも、右画像) を持って橘の下に進んだが茂った葉の間から鳥の姿が僅かに見えるのみ、養由※でなければ無理だと思われた。朝村は庭に屈み小刀で引目の穴を削って広げ、橘の下を数度廻って状態を確認した。. 人々は瞬きもせず見守り、朝村は鏑矢を放った。鳥の声は止み、朝村は庭に落ちた鏑矢を持って御前に届けた。 鳥は削って広げた引目の中に取り込まれて少しの傷も負わず、籠に入れると尾羽を動かして囀った。 . 見ていた人々は感嘆の声を挙げた。将軍家は御衣を与え、二条良実は御剣を運ばせて朝村に与えた。 . . ※福王公: 九条道家 の五男 (10歳) で頼経の弟。後の仁和寺御室 (法親王) 法助 (4月10日の記事を 参照。良実は九条道家の次男で頼経の次兄 (26歳) 。 .※小鳥: 原文は「鳩皐于鳥」、籠で飼われ囀りを楽しめる小鳥で、直径が 6~7cmの鏑矢 (引目、 蟇目) のの中に入るのだから鳩の字を使っていても別種、十姉妹より小さい程か。 .※養由基: 中国春秋時代 (紀元前770~前453年) の楚の武将。彼の矢は甲冑七枚を射抜き、 百歩離れた柳の葉さえも射損じなかったと伝わる弓の名人。飼っていた白猿を楚王が射ても白猿は飛んでくる矢を空中で掴み戯れていたが、養由が弓を持っただけで柱にしがみつき泣き喚いた。まぁ白髪三千丈みたいな話だけどね。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 5月18日 壬辰 . 吾妻鏡 |
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相模国の深沢里に建設中の大仏の御頭を挙げた。周囲は八丈 (約 24m、坐像の周囲の寸法か) である。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 5月19日 癸巳 . 吾妻鏡 |
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小雨、申刻 (16時前後) から晴。最勝講※が始められた。 . . ※最勝講: 五月吉日を選び 清涼殿で五日間催した法会。東大寺、興福寺、延暦寺、園城寺から 高僧を招き、最勝王経 (功徳は国家鎮護) の十巻を朝夕に講じて天下太平と国家安穏を祈った。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 5月20日 甲午 . 吾妻鏡 |
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陰、晴。今日、将軍家 藤原頼経の御家人 左衛門少尉 笠間朝時 と 藤原 上野十郎結城朝村 (結城朝光の八男) を前右大臣家 西園寺実氏 (Wiki) の御簡 (近侍衆) として仕える任務を与えた。 . 朝村の着任は (16日に見せた) 弓箭の技に感心した二条家=良実の御所望による。 . . ※笠間朝時: 下野の塩谷から笠間に移った経緯が面白い。鎌倉時代初期の常陸中部では 正福寺 (地図) と徳蔵寺 (参考サイト、地図、離隔距離は約 11km) が同じ真言宗ながら激しく覇権を争っており、劣勢になった正福寺の僧兵が 宇都宮頼綱 に援軍を求め、頼綱は甥で養子の塩谷時朝に手勢を与えて派遣した。 ..
元久二年 (1205) に笠間に入った時朝は 正福寺に近い佐白山麓に徳蔵寺を攻める拠点として砦を構築、間もなく徳蔵寺の僧兵を鎮圧した。
. 時朝の勢力拡大を警戒した正福寺が敵対する姿勢を見せたため続けてこちらも鎮圧した。 . 時朝の子孫は以後の18代に亘って笠間を支配した。宇都宮氏の側に笠間を支配下に収める計画があったのかは不明だが、国境に近い益子付近まで勢力下に収めていた宇都宮氏が常陸国 (茨城県) に食指を伸ばしたとしても不思議はない。 . 右は城里町の徳蔵寺、見事な枝垂れ桜で広く知られている。約15km西には平家の忠臣 平貞能が主人 平重盛夫妻の遺骨を葬った 小松寺 (画像をクリック→ 別窓表示) がある、静かな田園地帯だ。機会があれば併せて見学を。 .元久二年には宇都宮頼綱が謀反を疑われて出家と蟄居に追い込まれている (8月7日~8月19日の吾妻鏡を参照) 。 これは笠間での兵乱と何らかの関係があったのかも知れない。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 6月 5日 戊申 . 吾妻鏡 |
. . 出御の行列 . 先ず 駿河前司 三浦義村配下の随兵が六騎 一番 長尾平内左衛門尉景茂 同三郎兵衛尉光景 二番 駿河四郎左衛門尉三浦家村 三浦次郎有村 三番 駿河五郎左衛門尉三浦資村 同八郎左衛門尉三浦胤村 . 先陣 . 次いで御所随兵三十騎 一番 河内守三浦光村 千葉八郎胤時 右衛門尉梶原景俊 二番 右衛門尉下河辺行光 左衛門尉関政泰 左衛門尉三浦又太郎氏村 三番 左衛門尉佐渡次郎後藤基親 佐竹八郎助義 壱岐三郎左衛門尉時清 五番 図書助筑後時家 左衛尉伊東三郎祐綱 左衛門尉宇佐美與一祐村 六番 遠江次郎左衛門尉佐原光盛 和泉次郎左衛門尉天野景氏 左衛門尉加藤行景 七番 武田六郎信長 大井太郎光長 近江四郎左衛門尉佐々木氏信 八番 若狭守三浦泰村 秋田城介安達義景 肥前前司佐原家連 九番 相模六郎北條時定 足利五郎長氏 掃部助河越泰重 十番 左近大夫将監北條経時 遠江式部大夫北條光時 陸奥掃部助北條実時 . 次いで御輿(御簾を上げている。御弓袋差以下は入洛時の際と同じ) 江戸八郎太郎景益 山内籐内通景 品河小三郎実員 各々交代で御剣を持つ。 池上籐兵衛尉康光 中澤十郎兵衛尉成綱 本間次郎左衛門尉信忠 小河三郎兵衛尉直行 阿保次郎左衛門尉泰実 猪俣左衛門尉範政 四方田五郎左衛門尉資綱 本庄新左衛門尉朝次 修理進三郎宗長 平左衛門三郎盛時 立河三郎兵衛尉基泰 荏原三郎貞政 . 以上十五人は直垂で帯剣し御輿の左右に列歩。五人づつ順番に、二里毎に交代して休息する。 . 次いで水干の人々 一番 相模守北條重時 武蔵守北條朝直 右馬権頭北條政村 宮内少輔足利泰氏 二番 越後守北條時盛 甲斐守長井泰秀 下野守宇都宮泰綱 三番 玄蕃頭後藤基綱 壱岐大夫判官佐々木泰綱 豊前大炊助親秀 宇都宮判官頼業 四番 肥後前司狩野為佐 江大夫判官大江能行 出羽判官中条家平 五番 大蔵少輔加藤景朝 左衛門大夫伊賀光重 後藤佐渡判官後藤基政 六番 和泉前司天野政景 大和前司伊東祐時 信濃民部大夫二階堂行泰 . 後陣 左京権大夫北條泰時 修理権大夫北條時房 この両名の後に騎馬の数百人が雲霞の如く続く。この他に人々の従者が前後に群を成している。 . . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 6月 6日 己酉 . 吾妻鏡 |
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晴、日中雷雨。今日、将軍家 藤原頼経が春日社から還御した。
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. . 87代 四条天皇 |
. 6月 7日 庚戌 . 吾妻鏡 |
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晴。遠江三郎 北條時長が蔵人に任じた。布衣 (狩衣) の侍五人と雑色一人 (如木、糊を強く効かせた装束) と童一人を伴って参内、併せて右衛門権少尉に任じた。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 6月 9日 壬子 . 吾妻鏡 |
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. . 87代 四条天皇 |
. 6月10日 癸丑 . 吾妻鏡 |
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加賀前司 町野康俊 が重体に陥り、問注所執事の辞任を申し出ている。子息の民部大夫町野康持を後任に充てるよう仰せがあった。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 6月14日 丁巳 . 吾妻鏡 |
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前加賀守で従五位上の 町野康俊朝臣が死去した (享年72) 。
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. . 87代 四条天皇 |
. 6月19日 壬戌 . 吾妻鏡 |
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洛中の治安を守るため町の辻々に篝 (かがり火を焚く鉄製の籠) を置いて灯す事が決まり、その役を御家人らに割り当てる事になった。
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. . 87代 四条天皇 |
. 6月23日 丙寅 . 吾妻鏡 |
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. . 87代 四条天皇 |
. 6月24日 丁卯 . 吾妻鏡 |
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一晩中雨。今日、土御門大納言通方卿 (源 (土御門) 通親の五男、50歳) が薨じ、左京兆 北條泰時が弔問した。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 6月25日 戊辰 . 吾妻鏡 |
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終日雨。丑刻 (深夜2時前後) に強風と霹靂 (落雷) と洪水があり多くの民家が倒壊した。栂尾の清瀧河※あたりに蛇が出た、と。
. . ※栂尾の清瀧河: 神護寺や 高山寺 は清瀧河流域で、蛇の10匹や20匹が出ても不思議じゃない。 蛇が出る=洪水を意味するのだろう。二寺の中間地点をマーキング した。 . | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
. . 87代 四条天皇 |
. 6月26日 己巳 . 吾妻鏡 |
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晴。今日予定していた摂政殿 近衛兼経 (Wiki) の宇治入りとなった。昨夜の雨での洪水による。 . . ※宇治入り: 旧暦の6月26日は西暦の8月7日、台風で宇治川か山科川 が増水したか。 近衛兼経は今年の6月18日に左大臣を辞しているが引き続き摂政に任じ、仁治元年 (1240)
12月から翌年12月まで太政大臣 (いわば名誉職) に任じているから完全に政界から引退したわけではなく、嘉禎四年の宇治入りは引退と休暇の中間程度か。
.. 兼経は6月18日に臣下としての最高位 左大臣を辞任している。建長四年 (1252) には異母弟に摂政を譲り、晩年は宇治の別邸 岡屋殿 (現在の 西方寺 (参考サイト、地図) に隠居して没した。 . . 87代 四条天皇 . 6月28日 辛未 . 吾妻鏡 . |
晴、夜が近づいた頃に雷雨。今日の大臣認証式予定が来月に延期となった。 .. . 87代 四条天皇 . 7月 2日 乙亥 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴、午刻 (正午前後) から雨。今日、大臣※の召仰 (帝による認証式) あり。 . . ※大臣: 左大臣より上位の太政大臣には功労者を処遇する名誉職 (代表権のない名誉会長っぽい) の傾向があり、特に決まった職務を持たない。常設の職位でもなく、実質は左大臣が最高位だった。 .今回の大臣任命は、右大臣が 二条良実→ 三条実親 に、左大臣が 近衛兼経→ 二条良実 に (いずれもWiki ) 交替したことに拠る。 . . 87代 四条天皇 . 7月 9日 壬午 . 吾妻鏡 . |
晴。今日、摂政殿 近衛兼経 が宇治入り (宇治の別邸 岡屋殿、6月26日を参照) した。 扈従は殿上人が数十人、公卿一人 (御弟の大納言殿 (異母弟の 鷹司兼平、Wiki) である。) . . ※百錬抄: 人々が見物する中で摂政が宇治入りした。また近日中に一条大路と大宮末大路の要 所に兵士が駐屯して篝火を 焚く事になった。目的は群盗対策で、諸人を安心を招く結果となる。 .. . 87代 四条天皇 . 7月10日 癸未 . 吾妻鏡 . |
晴。寅刻 (早暁4時前後) に螢惑 (火星) と鎮星 (土星) の動きに変異ありと司天の輩 (天文担当) が勘文 (諮問に対する上申書) を提出した。
.. . 87代 四条天皇 . 7月11日 甲申 . 吾妻鏡 . |
左京兆 北條泰時 が非公式に園城寺 (三井寺) を訪れた。. 去年が禅定二位家 政子 の十三回忌で、今日また命日を迎えるに当たりその恩に報いるため鎌倉で書き終えた一切経五千余巻を唐院※に納めるのが目的である。 . 園城寺は故人が深く帰依し、また施主の泰時も他とは異なる信仰を寄せている。経巻の一巻毎の奥書に花押を書き加えてある。 . . ※唐院: 智証大師 円珍 (Wiki) が貞観十年 (868) に内裏の仁寿殿を下賜され、唐から持ち帰った 経典や法具を納め伝法潅頂の道場とした。 .. 現在の建物 (右上、クリック→別窓で拡大表示) は秀吉に破壊され慶長三年 (1598) になって再建された国の重要文化財。 . . 87代 四条天皇 . 7月16日 己丑 . 吾妻鏡 . |
晴。将軍家 藤原頼経は元々の本座 (本来の官職、征夷大将軍) ※の宣旨を受けた。 . . ※官職の変更: 頼経は3月7日に権大納言に昇叙し、督 (右衛門府 長官) と検非違使別当を辞任し ている。官職の移動は手続きが煩雑で面倒くさい。 .. . 87代 四条天皇 . 7月17日 庚寅 . 吾妻鏡 . | . . 87代 四条天皇 . 7月20日 癸巳 . 吾妻鏡 . | . . 87代 四条天皇 . 7月23日 丙申 . 吾妻鏡 . | . . . 87代 四条天皇 . 7月25日 戊戌 . 吾妻鏡 . |
晴、陰。法性寺禅定殿下 九条道家が出家後初めての御参内。前駈が四人と僧官四人を伴い、その後に出家者用と在家者用の牛車各一輌が続く。 .. . 87代 四条天皇 . 7月27日 庚子 . 吾妻鏡 . |
六波羅で計
画している建物造営の負担の割り当てについて、納めていない国々は早急に完済するようにとの仰せがあった。 .. . 87代 四条天皇 . 8月 2日 甲辰 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 将軍家 藤原頼経 は兼ねてからの御願を果たすため 春日大社 (公式サイト、藤原氏の氏神) で一切経供養の献納を行なった。導師は東北院僧正円玄※、唱名を担当する僧は百人である。 . . ※百錬抄: 将軍家が春日社で一切経供養。願文作成は大蔵卿菅原為長 (Wiki)、百僧供養である。 . ※東北院僧正円玄: 興福寺 (公式サイト) の57代別当で東北院は号、権大納言正二位四条隆季の 息子である。 . . . 87代 四条天皇 . 8月18日 庚申 . 吾妻鏡 . | . . 87代 四条天皇 . 8月19日 辛酉 . 吾妻鏡 . |
雨が止み、再び時雨※などがあった。山城国の悪党 新平太を捕らえようとしたが取り逃がした。見掛けた場合は捕獲するよう、山城国 (概ね京都府) と大和国 (概ね奈良県全域と和歌山県北部) の住人に指示を下し、併せて双六の禁止を命じた。 . 今日、御霊祭 (京都観光チャンネルの紹介) 。将軍家 藤原頼経 は今出河殿※で見物した。渡物 (山車) などの風情が例年よりも豪華だったらしい。 . . ※時雨: 嘉禎四年8月19日は西暦の9月28日、時雨 (秋から冬の一時 的な降雨) の呼び名に辛うじて該当するか。 .※今出河殿: 西園寺家の別邸が今出川通にあった。頼経はそこで 「八所の 御霊祭の山車が上御霊神社と下御霊神社を結ぶ道を進むのを見た」、か。 右上は両御霊神社と今出川通の地図。クリック→別窓で拡大表示 .. . 87代 四条天皇 . 8月25日 丁卯 . 吾妻鏡 . | . . 87代 四条天皇 . 9月 1日 癸酉 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
. 雨。 (鎌倉では) 左京兆 北條泰時 による七夜繰り返す大土公祭※が始められた。今夜は安倍泰貞朝臣の担当で 清基、家氏、晴茂、国継、親職朝臣らが順番に担当する。 . . ※大土公祭: 土公神とは 春は竈、夏は門、秋は井戸、冬は庭にいる遊行神で その時期の犯土や 増改築は祟りを招く。今回は泰時邸の増改築に対応する陰陽道の祭祀、「大」は規模を示すか? .. . 87代 四条天皇 . 9月 9日 辛巳 . 吾妻鏡 . |
寅刻 (早暁4時前後) に太白 (金星) が大微の右執法星 (乙女座の星) の軌道を犯すと同時に螢惑 (火星) が軒轅 (獅子座の星) の軌道を犯した。更に戌刻 (20時前後) には月が歳星 (木星) の軌道一尺を犯し、亥刻 (22時頃) から丑時 (2時頃) まで、白または赤い流星が七~八尺または三~四尺の範囲を無数に流れた。 . 今日、兵衛入道 斉藤浄円 (長定) を奉行として地頭の権限※に関する評議があり数条の決裁があった。 まず、本司の跡 (父祖伝来の所領) であっても新補 (承久の乱の恩賞) であっても、収入は元々定めた割合での徴収を守るよう命じてある。 これを守らない場合は改易し、勲功に応じた恩賞を受けていない者に配分する。 . 次に、地頭に補任された者は先例を守らなかったり父祖の前例に違背しているとの訴訟が起きた際は、指示命令に従わなければ所領を没収し、忠勤を励んでいる者や所領の入替えに充当する。 次に、幕府の催す祭祀に任じている者であっても、同様の事例があれば他の者に分与する。 . . ※地頭取り分: 文治元年 (1185) 11月に 頼朝は 義経 探索を理由として諸国に守護地頭を置き、 公領か荘園かを問わず反当り五升の兵粮米徴収を朝廷に認めさせた。換算すると 領主にとっては実質 5%程度の減収になる。他に年貢として 11町当り1町分、こちらは領主にとっては実質 9%の減収になる。 .. . 87代 四条天皇 . 9月11日 癸未 . 吾妻鏡 . |
山城国 (京都府) の庄園、郷、保 (行政区分) に依拠している悪党を厳重に取り締まるよう沙汰が出た。 .. . 87代 四条天皇 . 9月13日 乙酉 . 吾妻鏡 . |
晴、十三夜の明月である。 左京兆 北條泰時は以前在京した頃の知人※と今も懇意にしている。名月を介して和歌一首を贈り懐旧の情を温めた。 みやこにて いまもかはらぬ 月影に むかしの秋を うつしてそみる . . ※昔の知人: 泰時より11歳年上の宇都宮氏五代当主 宇都宮頼綱を差す。 元久二年 (1205) に起きた北條
時政夫妻の失脚に関連して八月には謀反の嫌疑を受け、罪には問われなかったが出家して蓮生を名乗り京都嵯峨野に隠棲した。 .歌人としても著名であり、藤原定家とも親交があった。 . 一方で泰時は承久の乱 (1221年) の鎮圧後に京都に残り、新設の六波羅上席の北方 (南方は 北條時房) として、貞応三年 (1224) 6月に 北條義時が死没して鎌倉に戻って執権を継承するまでの約三年間は京都に駐留していた。この時に交際が深まったのだろう。 . そして定家の嫡子が 藤原為家で、その正妻が宇都宮頼綱の娘、女流歌人として為家と結ばれた側室が 十六夜日記を遺した 阿仏尼 (共にWiki) である。 . 為家の没後に正妻の産んだ 二条為氏 (Wiki) と阿仏尼の産んだ冷泉為相の間で為家の所領だった播磨国細川荘(現兵庫県三木市)の相続権を争う訴訟が起き、その主張を伝えるため 57歳前後ながら鎌倉に赴いた際に書いた旅日記が十六夜日記だ。 . 彼女は鎌倉で没したとも、京都に戻って没したとも言われるが生存中に結論は得られず、死没後に息子の 冷泉為相 (Wiki) が勝訴を得た。判決が遅れたのは訴訟の相手が譜代の御家人である宇都宮家の娘だったため、と考える説もある。 . その後の為相は鎌倉に土着して将軍を補佐し、歌壇を指導して鎌倉に骨を埋める生涯を送った。 墓所は五代執権 時頼と六代執権 長時の創建による泉ヶ谷の 浄光明寺にある。 . . 87代 四条天皇 . 9月18日 庚寅 . 吾妻鏡 . | . . . 87代 四条天皇 . 9月19日 辛卯 . 吾妻鏡 . | . . . 87代 四条天皇 . 9月20日 壬辰 . 吾妻鏡 . | . . 87代 四条天皇 . 9月22日 甲午 . 吾妻鏡 史 料 . |
晴。初斎宮※が野宮※に入御した。. . ※百錬抄: 初斎宮が東河 (一條末) ※で禊ぎをした後に野宮に 入御した。一月に二度の禊ぎを行なうのは天禄 (970~973年) の例に倣っている。 .. ※初斎宮: 斎王※が初めて潔斎する場所。その後に野宮に入 り、初斎宮から三年目の9月に野宮を出て禊を行ない、宮中で所定の儀式を済ませてから伊勢に向け出発するという順序を取る。 .
※野宮: 嵯峨野宮町に造営された斎王の殿舎で、一代で取り
壊す習慣だった。野宮神社 の一帯が跡地とされているが正確には確認できていない。 .※東河 (一條末) :帝の禊にも使われた鴨川西岸らしいが... . ※斎王: ここで述べるのは賀茂祭 (葵祭) の行列に加わる斎王 ではなく、伊勢に駐在して神宮の祭神に奉仕した未婚の内親王または女王 (当時は帝の直系で六親等まで) を差す。
..
任務から解放されるのは帝の崩御か退位、父母近親の死没、当人の密通 (実際にあったらしい) など様々で、退任後の入内や婚姻するケースもあるが 大部分は独身のままで生涯を過ごしていた。
. 今回の斎王は後堀河天皇の第三皇女で延応元年 (1239) の9月に伊勢群行、仁治三年 (1242) 1月の四条天皇崩御により退任、寛元四年 (1246) 8月に16歳で死没する。 . 斎王に関する諸行事は鎌倉時代の中期から徐々に衰退し後醍醐天皇 の建武三年 (1336) 頃に廃絶した。伊勢旅行の際には 斎王歴史博物館 (公式サイト) と斎宮の遺跡を歩いて王朝の歴史に触れてみよう。 .右画像は歴史公園として整備が進む、近鉄山田線斎宮駅から歴史博物館周辺の地図と鳥観図を掲載した。 .. 画像は全て、クリック→ 別窓で拡大表示。 上から... ● 近鉄山田線斎宮駅から歴史博物館周辺の地図。 .. ● 同じく、史跡の広域図。 . ● 同じく、発掘調査が進む建物群の詳細図。 . ● 全体の鳥瞰画像。 斎宮跡から伊勢外宮まで約11km、内宮までは約15km。 . . 87代 四条天皇 . 9月24日 丙申 . 吾妻鏡 . | . . 87代 四条天皇 . 9月27日 己亥 . 吾妻鏡 . |
晴。御家人の任官について、所望する者が成功※を値切る相談 (談合) をしている旨の情報があり、今日協議の末に中止の命令が発せられ、成功 (売官) の規定を守らない者は推挙しないと定めた。 . 将軍家の京都滞在の折に官位を望む者が多く、従って推挙の例も増えている。今後の方針を明確にするための評議である。詮勾勘者 (推挙の是非を判断する担当) は相模三郎入道眞昭 北條資時である。 . . ※成功: 国費の不足を補うため、朝廷に私財を献じた者に官職を授与する売官制度。平安時代 の中期以降頻繁に行われた。昔は五位に昇って検非違使に任官するのが東国武士の夢だったが...。 .. . 87代 四条天皇 . 10月 3日 甲辰 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 陰、晴、夜になって激しい雨。今 、鞍馬寺の上棟。将軍家 藤原頼経も御奉加(寄進)として馬三疋、御剣、砂金などを贈り、河越掃部助泰重※が使者を務めた。 今夜、北白河院 (禁裏御母※) が崩御、日頃から脚気を病んでいた、と。 . . ※河越泰重: 義経の舅 河越重頼と嫡男重房は 頼朝に粛清され (文治元年 (1185) 11月12日を参照) 次男の重時が家督継承を許された。重時の長男が 泰時の偏諱※を受けた泰重。 .※偏諱: 烏帽子親として一字を与え、親族に近い関係を構築する北條得宗家の御家人支配策の 一例。例えば河越氏は御家人として鎌倉殿 (将軍家) との間に主従関係を結んでいるのだが、偏諱を受け入れる事によって実質的に北條氏との主従関係を深めている。 .. 泰重の嫡子経重は四代執権 北條経時の、その嫡子宗重は八代執権 北條時宗の、その弟で家督を継いだ貞重は九代執権 北條貞時の、その嫡子高重は十四代執権 北條高時の偏諱を受けた。 . 貞重は元弘三年 (1333) の六波羅探題配下として 足利高氏軍の攻撃を受け自刃したが、嫡子高重は武蔵七党と共に 新田義貞の挙兵に加わり、倒幕軍として転戦している。 . 鎌倉時代末期が近付くと同族であっても様々な生き残り戦略が入り乱れ始める。 もちろん同族が敵味方に分かれて血脈の断絶を防ぐ打算的な手法も少なくはないが。 ※北白河院: 後高倉院 (高倉天皇の第二皇子)の妃で後堀河天皇の生母藤原陳子 (享年66) 。 . . . 87代 四条天皇 . 10月 4日 乙巳 . 吾妻鏡 . |
雨。松殿禅定殿下が 天王寺 (現在の 四天王寺、公式サイト) で死去。. 今日、南都東大寺別院の住僧武蔵得業隆円※を東大寺別当職に補任した。これは一昨年の奈良衆徒蜂起の際に関東のため忠節を顕した際に交わした 「抜擢しよう」 との約束があったことに拠る。 . 前任の別当 頼暁得業は承久の乱で首謀者の一人だった 藤原秀康 子息を匿い、更に山辺庄※の押領にも関与する罪を犯している。更迭せよとの要求を東大寺別当僧の指導部に申し入れたところ、 . 山辺庄は頼暁が私的に相続したもので本所 (東大寺) が関与する範囲ではない、彼の罪によって没収するのであれば直接命令されたし。
との回答があり、この措置となった。
. . ※松殿師家: 本姓は藤原、関白 松殿基房の三男で 正二位内大臣、摂政。治承と寿永の動乱期に 振り回された、または振り回した) 公卿とも言えるが それは兎も角として、 .. 天王寺 (現在の四天王寺) で息を引き取った事と、晩年に天王寺を名乗った意味が不明だ。何らかの縁があったのだろうか。 .
松殿家は摂関家として創設された一族で、藤原北家 (鎌足の二男不比等の次男 房前を祖とする) 嫡流の家格である。. 別業 (別邸) の宇治の松殿山荘は紆余曲折を経て 豪壮な和風邸宅 (文化遺産オンライン) となり、定期的な茶会などに使われている。庶民の知らない、上級国民が味わう美しい世界だ。 ※得業隆圓: 鎌倉の南都社寺対策に協力した興福寺の僧。嘉禎二年 (1236) 3月21日、10月2日と5日に関連記事あり。 .※山辺庄: 正確な位置は確認できないが中世の山辺郡は現在の天理 と奈良市の南西部の山添村を含む。 .. 記録に残る最古の官道 山の辺の道 (桜井市観光協会の紹介) は現在の天理駅付近から桜井駅付近まで文字通り 「山並みの西辺」 伸びている。もう一度歩きたい道の一つだ。 . 右画像の緑線のルートより更に東、崇仁天皇陵や景行天皇陵の東側を通る「歴史の道」が整備されている。 右画像を参照 クリック→ 別窓で拡大表示 . 山辺郡から宇陀市北部のどこかに山辺庄があったのだろうか。 . . 87代 四条天皇 . 10月 7日 戊申 . 吾妻鏡 . |
前武蔵守 北條泰時※は弔問の使者として小野沢左近大夫仲実※を 松殿師家邸に派遣した。 . . ※官位官職: 泰時は3月18日に従四位下から従四位上に昇叙した。4月6日に武蔵守、12月7日に 左京権大夫を辞任している。 .※小野沢仲実: 吾妻鏡の建長三年 (1251) 12月3日に姓名が載っている、実務担当の北條被官。 この時の執権は四代の 北條経時を挟んで五代 北條時頼が任じている。 .彼が担当した指示文書を載せて置く。 .
鎌倉各所の小町屋 (商人や職人の店) を設ける事には、以前から禁制を加えている。今日以後は次の各所のみを認め、その他は一切禁止を厳命する。佐渡大夫判官基政と 小野沢左近大夫入道光蓮がこれを差配する。 . 認可ヶ所は 大町、小町、米町、亀谷辻、和賀江、大倉辻、気和飛坂山上。また牛を小路に繋いではならず、小路は掃除して清潔を保つこと。 建長三年 12月3日 . 町屋を落とし込んだ地図を右に載せた。詳細情報は改めて別項で。 . . 87代 四条天皇 . 10月 9日 庚戌 . 吾妻鏡 . |
晴。亥刻 (22時前後) に女院 (10月3日を参照) を北白河殿※に葬送した。 . . ※北白河殿: 現在の北白川久保田町 (地図) と考える説が有力。山州名跡志 (元禄年間編纂の地 誌) は更に 「西の後二条天皇陵」 だと書いている。 .. . 87代 四条天皇 . 10月11日 壬子 . 吾妻鏡 . | . . 87代 四条天皇 . 10月12日 癸丑 . 吾妻鏡 . |
将軍家 藤原頼経が御直衣 (公卿の平服) と八葉車で御参内。左馬権頭盛長、刑部少輔家盛らが供奉し、後車には藤原親季 (参議) 朝臣が乗っている。 . その後一條の 九条道家邸と今出河の 西園寺公経邸に渡御。明日関東に向けて出発する挨拶を済ませ、一條殿では多数の贈物を受けた。拾遺納言 藤原行成卿 (Wiki) 、著名な書家) 真筆の古今和歌集、丹波雅忠※朝臣が父祖から受け継いでいた医書などが含まれている。 . 今日、畿内と西国の庄園、郷、保 (土地の行政単位) の武士で強竊 (強盗と窃盗) 、博奕、刃傷、殺害を常習している者は社寺や身分の高さやなどを問わず即刻捕縛するか、居住地を報告するよう守護人に通達した。 . . ※丹波雅忠: 平安時代中期の医師で典薬頭、施薬院使。後冷泉天皇や関白藤原頼通を治療して いる。 .. . 87代 四条天皇 . 10月13日 甲寅 . 吾妻鏡 . |
晴。寅の一点 (深夜1時過ぎ) に将軍家 藤原頼経が鎌倉に向け出発した。護持僧は岡崎僧正成源、医師は良基と時長、陰陽師は泰貞、晴賢。朝廷からは陰陽頭の維範朝臣が付き添い、安倍忠尚、安倍季尚、賀茂在直らの朝臣が護持の祈祷を行なった。 前後陣の供奉人と随兵の構成は御入洛の際と同様だが、装いは今回の方が華美である。 .
大相国禅閤 西園寺公経 が四宮河原※で御見物。堀河大納言 堀川通具卿 (Wiki) は大津浦に車を停めて見送った。その他 公卿や殿上人の牛車は数知れず、見物人は垣をなした。. 酉刻 (18時前後) に小脇の駅に到着、近江入道虚仮 佐々木信綱が設けた御所 (2月14日を参照) に入御した。 接待は素晴らしい豪華さだった。 . . ※四宮河原: JR山科駅の南、東海道が四宮川を渡る一帯を差す。 . 右画像は起点をを六波羅、着点を膳所に設定した。クリック→ 別窓で拡大表示 .平家物語 「六代」の条の次の記載がある。 .最後の御供で候らへば、苦しうも候らはず」とて、血の涙を流して、足にまかしてぞ下りける。 .若君は、さしも離れ難くおぼしける母上、乳母の女房にも別れ果て、住み慣れし都をば、雲井のよそに顧みて、今日を限りの東路におもむかれけん心のうち、推し量れてあはれなり。 . 駒を速むる武士あれば、我が首切らんかと肝を消し、物を言い交わすもの有れば、すは今やと心を尽くす。四宮川原と思へども、関山をもうち過ぎて、大津の浦にもなりにけり。粟津の原かとうかがへば、今日もはや暮れにけり。国々宿々うち過ぎうち過ぎ下りたまふほどに、駿河の国にもなりしかば、若君の露の御命、今日を限りとぞみえし。 六代は小松三位中将 平惟盛の嫡子。この時は沼津の千本松原で斬られる間際を 文覚上人の尽力で助命されたが、10年後の 頼朝死没により文覚も庇護者を失って隠岐流罪、神護寺で出家していた六代も 連座して斬首となった。 詳細は 伝・平惟盛の墓と沼津の六代松碑 (別窓) の後段部分で。 .※行程: 深夜に出発して17時間の少しハードな行程、約47km。今夜は佐々木邸で宴会だ! . . . 87代 四条天皇 . 10月14日 乙卯 . 吾妻鏡 . | . . 87代 四条天皇 . 10月15日 丙辰 . 吾妻鏡 . |
晴。未刻 (14時前後) に垂井の宿 (2月13日を参照) に入った。 . . ※行程: 箕浦から垂井まで、約 23km。 . . . 87代 四条天皇 . 10月16日 丁巳 . 吾妻鏡 . |
晴。申刻 (16時前後) に小隈の宿 (2月12日を参照) に入った。 . . ※行程: 垂井から小隈まで、約 17km。 . . . 87代 四条天皇 . 10月17日 戊午 . 吾妻鏡 . |
晴。萱津 (2月10日を参照) の宿に入った。 . . ※行程: 小隈から萱津まで、約 32km。 . . . 87代 四条天皇 . 10月18日 己未 . 吾妻鏡 . |
晴。熱田社 (熱田神宮、公式サイト) への御奉幣を経て酉の一点 (17時過ぎ) に矢作の宿に近い左馬頭 足利義氏邸 (2月9日を参照) に入御。 . . ※行程: 萱津から足利義氏邸 (当主は家氏) まで、約40km。熱田神宮訪問記 (別窓) も参考に。 . ※足利邸: 江戸時代に子孫の吉良氏が整備した西尾城 (地図) が足利邸の位置とされる。伝承で は庶長子だったため足利本家を継げなかった 家氏を哀れんだ 政子が源氏の重宝だった太刀「髭切」を家氏に与え、父の 義氏は源氏の象徴である白旗を与えた事になっている、らしい。 .. 宗家を継いだ 泰氏を産んだのは三代執権 泰時の娘で政子の妹 時子の孫だからバリバリの北條氏直系、家氏を産んだのは赤の他人の家女房 (使用人) だ。 話としては面白いが、政子の性格じゃ 「源氏の重宝」 なんか絶対に渡さないよ。 . . 87代 四条天皇 . 10月19日 庚申 . 吾妻鏡 . |
夜になって雨。戌一刻 (19時過ぎ) に豊河の驛 (2月8日を参照) に着御。 . . ※行程: 足利義氏邸 (吉良足利氏) から豊川まで、約 29km。 . . . 87代 四条天皇 . 10月20日 辛酉 . 吾妻鏡 . |
風雨。辰刻 (8時前後) に出御、本野原 (豊川市、地図)付近で暴風雨に遭遇したが御輿の前後を警護する武士は笠を差さず、鼻から垂れる雨水を舐めるが如くだった。午刻 (正午) 過ぎに雨が止み、酉刻 (18時前後) に橋本の宿 (2月7日を参照) に入った。 . . ※行程: 豊川から橋本まで、約 28km。旧暦の10月20日は西暦の11月27日、豪雨は辛かろう。 . . . 87代 四条天皇 . 10月21日 壬戌 . 吾妻鏡 . |
晴。池田の宿 (2月6日を参照) に入った。 . . ※行程: 橋本から池田まで、約27km。 . . . 87代 四条天皇 . 10月22日 癸亥 . 吾妻鏡 . |
晴。未刻 (14時前後) に懸河の宿 (2月6日を参照) に入った。 . . ※行程: 池田から懸河まで、約 20km。 . . . 87代 四条天皇 . 10月23日 甲子 . 吾妻鏡 . |
晴。申刻 (16時前後) に嶋田の宿 (2月4日を参照) に入った。 . . ※行程: 懸河 (現在の掛川市) から嶋田 (現在の島田市 まで、約 18km。 . . . 87代 四条天皇 . 10月24日 乙丑 . 吾妻鏡 . |
晴。手越の宿 (2月4日を参照) に入った。 . . ※行程: 嶋田から手越まで 約 26kmだが、翌日の記事に「体調不良のため蒲原の宿に御逗留」 とある。嶋田から蒲原までは 54kmだから前後の行程と頼経の体調不良を考えれば間に1~2日を挟む筈で、中間地点の手越に宿泊するのが常識的。日程か行程のどちらかに誤記がある、と思う。 . . . 87代 四条天皇 . 10月25日 丙寅 . 吾妻鏡 . |
晴。蒲原の宿に御逗留。将軍家 藤原頼経の体調不良による。
. . ※行程: 手越から蒲原まで、約29km。 . . . 87代 四条天皇 . 10月26日 丁卯 . 吾妻鏡 . |
晴。未刻 (14時前後) に車返の牧宿 (2月1日を参照) に入った。 . . ※行程: 蒲原から車返まで、約 26km。 . . . 87代 四条天皇 . 10月27日 戊辰 . 吾妻鏡 . |
晴。鮎澤竹下※の宿に入った。 . . ※鮎澤竹下: この地名は現存しないが、鮎沢川東岸の竹之下 (嶽之下、地図) が該当すると考え て良いと思う。文字通り足柄峠の麓で、往路で宿泊した藍澤 (1月29日を参照) からは約7km北西 (足柄峠寄り) になる。車返から竹下までは約 35km。
.. . 87代 四条天皇 . 10月28日 己巳 . 吾妻鏡 . |
晴。酒匂の駅 (1月28日を参照) の浜部御所※に入った。 . . ※行程: 竹之下から酒匂まで、約26km。「新編相模国風土記稿」に拠れば 「東海道から北に折れ た町並みで北側に土手の痕跡が残る付近を御所小路と称した」 との記述がある。 .将軍家が宿所とした 「伝 浜部御所」 は西酒勾二丁目 (地図) か? 往路と同様に復路も箱根路ではなく、足柄路を利用している。 . 蛇足だが、藤原定家の嫡男で、伯父である 西園寺公経の猶子でもあった藤原為家の側室 (愛人というべきか) になったのが阿仏尼。為家との間に二人の男子を産み、為家の没後に相続権を争って弘安二年 (1279) に京都から鎌倉に下り、幕府に直訴している。 .. この時の阿仏尼は 57歳前後、道中の様子と鎌倉滞在の見聞を記録した「十六夜日記」の中で 彼女は 「伊豆の国府に着いた。まだ夕陽が残っているので三島の明神に参詣し和歌を詠んだ」 と書いているから、健脚とは言えない 老女が選んだルートは足柄路ではなく箱根路だった。 . つまり、1238年から1279年の間に東海道の主要ルートは足柄峠経由から箱根峠経由に移り、忍性上人 所縁の石工たちが 箱根精進池の石仏群 を刻む、鎌倉時代の後半が近付いてくる。 . 箱根峠を経由して三島と酒勾を結ぶルートはニ所詣で再三利用している。こちらを利用するのがノーマルだと思うのだが...まだ整備が進んでいなかったという事なのだろうか。 . 更に蛇足。訴訟の結審が出ないまま弘安六年 (1283) に阿仏尼は鎌倉で没した (66歳、京都で死没説あり)。息子の藤原 (冷泉) 為相は数回の鎌倉下向を経て勝訴し、八代将軍 久明親王を補佐しつつ鎌倉で没した。墓所は 浄光明寺(Wiki、地図)、200m西の山裾には伝 阿仏尼の墓 (別窓) もある。 . もう一つ、蛇足。藤原 (冷泉) 為相の父は和歌を極めて正二位 権中納言まで昇った 藤原定家である。その嫡男 為家の遺産を 正妻の子 二条為氏と愛人の子 冷泉為相が争ったのだが、為家は故 西園寺公経 の猶子である上に正妻は定家の和歌友達で鎌倉御家人の大物 宇都宮頼綱 の娘。普通では勝ち目がないと思うのだが...なぜか財産分与を勝ち取った、らしい。 . . 87代 四条天皇 . 10月29日 庚午 . 吾妻鏡 . |
寅刻 (14時前後) に小雨、巳の三点 (10時過ぎ) に晴。酉の一刻 (17時半) に鎌倉御所に着御した。 . . ※行程: 酒勾から鎌倉まで、約 36km。 . . . 87代 四条天皇 . 11月14日 乙酉 . 吾妻鏡 . |
昨夜から雨、申の斜め (16時過ぎ) に乾方 (北西) で数回の雷鳴があった。天変に対応する祈祷として安倍維範朝臣が天地災変祭を催した。 .. . 87代 四条天皇 . 11月17日 戊子 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 夜になって降雪。御所に於いて和歌の御会あり。前武蔵守 北條泰時が参上、眞昭 (北條資時) 、後藤基綱、基政※、源親行※らが同席した。接待担当の甲斐守 長井泰秀 が酒肴を取り揃えた。 . . ※後藤基政: 基綱の嫡子で引付衆。後に六波羅評定衆となり、息子もその職を世襲している。 . ※源親行: 著名な歌人であり承久の乱以前まで政所別当に任じた 光行の息子。京都に戻る父と 交代する形で鎌倉に入り、承久の乱で院方に与して斬られる筈だった父の助命を嘆願して許された。源実朝、藤原頼経、宗尊親王の三代将軍に仕えて歴代の和歌奉行を担当している。 .. . 87代 四条天皇 . 11月23日 甲午 . 改 元 . | ※百錬抄: 暦仁元年に改元。天変への対応である。 .. . 87代 四条天皇 . 11月28日 己亥 . 吾妻鏡 . | . . . 87代 四条天皇 . 11月29日 庚子 . 吾妻鏡 . |
晴。今暁、太白星 (金星) を祀る祈祷が行われた。今日、将軍家 藤原頼経 が鶴岡八幡宮に御参拝。 未刻 (14時前後) に御束帯と御笏の装束で御所を出発、安倍維範朝臣が反閇※を務め、周防守 北條光時 が御剣を持った。 夕刻になって地震あり。 . . ※反閇: 陰陽師が邪を祓うため呪文を唱え大地を踏みしめ千鳥足に歩む呪法。 . . . 87代 四条天皇 . 12月 2日 癸卯 . 吾妻鏡 . |
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.. 雪が降った。(旧暦の12月2日は太陽暦の1月8日に該当する) . . 87代 四条天皇 . 12月 3日 甲辰 . 吾妻鏡 . |
夜半をすぎて雪、午刻 (正午前後) になって晴。明け方に左親衛※ 北條経時 は鳥を狩るため大庭野※へ。若狭守 三浦泰村、駿河四郎左衛門尉 三浦家村、駿河五郎左衛門尉資村、左衛門尉下川邊行光、 遠江三郎左衛門尉北條時長、武田六郎信長、小笠原六郎時長ら多数 (の弓の名手) が同行した。 . . ※左親衛: 近衛府四等官の三等官、判官の左近衛将監。経時は天福二年 (1234) 8月に任官した。 . ※大庭野: 藤沢市にあった大庭御厨。この時期の獲物は渡り鳥の鴨など、引地川流域の湿原 (地 図) での狩りだろう。 .※同行者: 家村は 三浦義村の六男、資村は七男、北條時長は 北條朝時の三男、武田信長は武田 (石和) 信光の次男で 頼朝が謀殺した 一條 (武田) 忠頼 の名跡を継承している。 .. . 87代 四条天皇 . 12月 7日 戊申 . 吾妻鏡 . |
晴。今日評議の際に諸堂の供僧についての規則を定めた。病気などに対応して祈祷を依頼を受ける場合、非器 (資格や能力のない) の弟子や代理人を立てて利潤を貪る例があり、以後の停止を命じる内容である。 .. . 87代 四条天皇 . 12月 9日 庚戌 . 吾妻鏡 . |
晴。午刻 (正午前後) に地震。今日、京都朝廷の使者が到着し先月23日に改元※の詔勅があり嘉禎四年を改めて暦仁元年となった。藤原経範朝臣の撰進で、螢惑の変 (火星の変異) が改元の理由である。 . . ※改元: 通常は一週間程度で鎌倉に届く改元の詔勅に16日を要しているのは異例である。 百錬抄は「暦仁=略人=人を消す、の意味だとの噂が起きて発布が遅れた」と記録している。
.. . 87代 四条天皇 . 12月12日 癸丑 . 吾妻鏡 . |
大雪。夜明け近くに左親衛 北條経時は若狭守 三浦泰村以下の人々を伴って山内の辺※に出掛け、雉や兎など多くの獲物を捕らえた。 . .
※山内の辺: 亀ヶ谷切通しを抜けた北鎌倉手前から横浜市
栄区を東西に流れる 「いたち川」 までが広義の山内として扱う例が散見される。 .この場合は桂台から 「いたち川」 までの広野 (地図) だろうか。 . これも蛇足なのだが二階堂の永福寺から大平山とゴルフ場の桂台に下る、ハイキングコースと間違えるような細道が現在も通じている。 . 最終的には六浦から北上した鎌倉街道 (下の道) と磯子の近くで合流するのだが、鎌倉時代には利用頻度の高い道だった可能性もあり、ひょっとすると経時一行はこのルートで「いたち川」を目指したのかも、などと思わせる。 右、鳥瞰図を参照 (クリック→ 別窓で拡大表示) . 新田義貞の鎌倉攻めの際に戦闘があった記録もないし勿論「太平記」にも載っていないのだが、いつか全体を歩いてみたいと思う。まさか熊と遭遇するなんて事もないだろうし。 . . 87代 四条天皇 . 12月14日 乙卯 . 吾妻鏡 . |
天変に対応する祈祷を内外典 (内典は仏教、外典は仏教以外) で始められた。 .. . 87代 四条天皇 . 12月16日 丁巳 . 吾妻鏡 . | . . 87代 四条天皇 . 12月18日 己未 . 吾妻鏡 . |
毎月の六齋殺生禁断※について仰せが下ったが、川や海で漁業を生業とする者はその限りではない。 . . ※六齋殺生禁断: 仏教思想による斎日 (戒律を守り精進する日) 。 毎月8日、14日、15日、23日、29日、30日が該当する。ところで、この「仰せを下した」のは頼経か、几帳面な泰時か。 .. . 87代 四条天皇 . 12月19日 庚申 . 吾妻鏡 . |
吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 節分の御方違えに関して御所から命令が発せられた。前武蔵守 北條泰時からは「遠江守北條朝時の名越邸を」との意見があり、清右衛門大夫季氏は「名越邸は天一遊行※の方向だから支障あり」との意見が出た。 . 陰陽頭安倍維範朝臣に確認すると「天皇家以外は支障なし」との回答があり、名越邸に決定した。 . . ※天一遊行: 方角神の一つで、十二天将の主将。更に詳細は Wiki で。 . ※北條朝時: 祖父 時政の存命中に名越邸の贈与を受けた。義時の正室 (姫の前) が産んだ長男で あり、時政が嫡流として 泰時ではなく朝時を想定していた可能性は高い。 .. 朝時の子孫が得宗家と再三の紛争を起こしたのは「我々こそが北條嫡流」との自負があったからだと思う。 . 元久二年 (1205) 閏7月に時政と 牧の方が計画したのは娘婿の 平賀朝雅を鎌倉将軍に据え、執権を朝時に譲る壮大な計画だった。牧の方が産んだ若年の政範(早世)は官位で既に義時を越えていたし、時政と牧の方が描いた夢と、政子と義時が描いていた夢は、絶対に共存できるものではなかった。 . . 87代 四条天皇 . 12月22日 癸亥 . 吾妻鏡 . |
去る20日から今夜まで御所で安倍晴賢朝臣による属星御祭を行ない、将軍家 藤原頼経は束帯姿で毎夜その庭に出御し神拝された。御祭の物具は全て炊き上げ、能登守中原仲能がこれを差配した。 . . ※属星祭: 陰陽道の祭祀。生年の十二支で決まる北斗七星の一つを属星とし長寿招福を祈る。 . . . 87代 四条天皇 . 12月23日 甲子 . 吾妻鏡 . |
晴。戌刻 (20時前後) に将軍家は御方違えのため遠江守 北條朝時の名越邸に入御した。ここが今後の御本所(移動の正式な基点) となる。 .今日、匠作 北條時房は所領の全てを書き出して子息らに配分した。概略は前武蔵守 北條泰時との相談を済ませており、一部を交換して調整してある。 . . 87代 四条天皇 . 12月24日 乙丑 . 吾妻鏡 . |
晴。将軍家 藤原頼経は 北條朝時の名越邸に逗留している。 .これは今日が帰亡日 (帰宅に適さない日) とされており、陰陽師は「特に支障なし」と言上したのだが父親の法性寺殿 九条道家が忌避していた例に倣った行動である。 . . 87代 四条天皇 . 12月25日 丙寅 . 吾妻鏡 . | . . 87代 四条天皇 . 12月26日 丁卯 . 吾妻鏡 . |
将軍家 藤原頼経が御持仏堂※の東僧坊に出御した。匠作 北條時房と前武蔵守 北條泰時が参上し、恩沢の件について御前での決裁を得た。仏像開眼の後に東の縁に出御し、陰陽師を呼んで来年の二所御奉幣の日時などについて直接の下問があり、決定となった。 . . ※御持仏堂: 御所の敷地に建てられた久遠寿量院を差す。 この呼び名が吾妻鏡に初めて現れるのは延應二年 (1239) 5月12日が最初だが、鎌倉将軍の持仏堂として建久六年 (1195) に建造されていた。 .嘉禎二年 (1236) に若宮大路御所に移築されて久遠寿量院と呼ばれ、寛元三年 (1245) 7月5日には四代将軍藤原頼経がここで出家している。 . 久遠寿量院の別当を務めていた教雅が記録した文書が東寺の別院に移って収蔵され最近になって調査が進められている。 いずれネット上でも詳細が公開されるだろう。 . . 87代 四条天皇 . 12月28日 己巳 . 吾妻鏡 . | . . 87代 四条天皇 . 12月29日 庚午 . 吾妻鏡 . |
晴。戌刻 (20時前後) に周防前司 中原親実の家が失火により焼失した。 . . . . 8月15日 . 晴耕雨読 . |
野鳥の餌台のそば、スズメの砂浴び場。 08/15 15時 右下をクリック→ 別窓で拡大表示 .
餌台と言っても素焼き鉢の上に古いガラスの果物皿を置いただけで風情もセンスもないし、夕飯の残り飯に備蓄米を少し足して、毎朝スズメが集まるだけの粗末な食卓なのだけれど。. 妻が夏の小カブ栽培に挑戦してほんの少ししか収穫できずに撤退した畑を片付けて綺麗になった土で数日前からスズメが10匹ほど集まって大騒ぎで砂浴びを楽しんでいる。 . 朝食を済ませて出勤前のシャワー、そんな感覚なんだろうな。 土を撒き散らしているのをリビングの窓から見るのは結構楽しいが、時々庭を徘徊している近所のバカ猫には注意が必要だ。 . 今日の穴の数は五ヶ、直系は概ね 10cm前後で、交替で使った最も深い穴は 5~6cmもある。 . 園芸日誌を少し整理して 2025年10月の情報を載せた。左目次の 晴耕雨読 園芸日誌 でどうぞ。 . . . . 11月27日 . 校正作業 . |
18時半、暦仁元年 (1238) の校正作業が終了。ちょうど夕食の時間になった .
昨日、自家製の干し柿を二ダースほど、掛かりつけの医院に届けた。昼食のデザートにナースの皆さんが喜んでくれれば、それがベストだ。妻は半分乾いた段階の干し柿を冷凍にして、毎朝一個を食べている。半分ゼリー状の干し柿を食べるのがベストらしいが、専門家の話では数週間が限度らしい。今年の柿は概算で 180ヶほどの収穫だった。さて、来年はどこまで伸びてくれるだろうか。 . 11/28 15時、今年最後のミカン 40個を収穫した。これで合計 200個近い数を食べる事になる。小さな樹なのに良く頑張ってくれた、タップリ冬の肥料をやって感謝しよう。 . . . 87代 四条天皇 . 月 日 . 吾妻鏡 . |
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