
. . 89代 後深草天皇 |
. 1月 1日 乙卯 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴、風が鎮まった。左親衛 北條時頼の沙汰による椀飯※の儀あり。前右馬権頭 北條政村が御剣を、能登前司 三浦光村が御弓箭を、大隅前司 毛利季光が御行騰沓※を献じた。 . . ※椀飯 (おうばん) : 饗応の献立、食事を摂る儀式、行事も意味する。大判振る舞い、の語源。 . ※行騰 (むかばき) と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像 (Wiki) を参考に。 . ※年令: 五代将軍 頼嗣 (9歳) は前年4月に着任 、生母は同時期に退任した四代将軍 藤原頼経の 継室 大宮殿 (故 藤原親能の娘) 、正室だった 竹御所 (二代将軍 頼家の娘) は嘉禎元年 (1235) 7月の死産後に病没した (享年32) 、 .. 四代執権 北條経時は前年閏4月に病没 (享年21) 、五代執権 北條時頼 19歳、連署空席、 六代執権になる北條 (赤橋) 長時 18歳、 七代執権になる北條政村 43歳、 北條重時 48歳、 北條 (金沢流) 実時 21歳、 . 三浦泰村 63歳、 千葉時胤 28歳 、 安達景盛 64~72歳 、 安達義景 36歳、 安達泰盛 15歳、 足利義氏 57歳、 宇都宮頼綱 68歳、 宇都宮泰綱 48歳、 二階堂行盛 65歳、 二階堂行泰 35歳、 . 89代 は 後深草天皇 (5歳) 、 88代 後嵯峨天皇 (26歳) は前年1/29に退位して院政へ、側近で実務家の 姉小路顕朝 35歳 と 中御門経任 (今年は 14歳) を軸に幕府との協調を図りつつ院政を開始する。太政大臣は 西園寺実氏 53歳、関白は 二条良実 30歳。 . 幕府に追従した西園寺公経の死没 (前々年8月、享年73) により単独の関東申次に就いた 九条道家 (51歳) は解任され、以後は西園寺家の世襲となる。没落の流れが止まらない道家は頼経や三浦氏の滅亡 (今年6/5の宝治合戦) などにより失脚、後嵯峨院政によって幕府と朝廷の関係は安定期に入る。 . 西園寺公経 寛元二年 (1244) 没 (享年73) 、 九条道家 53歳、 親鸞 71歳、 叡尊 46歳、 忍性 29歳、 日蓮 25歳、 . (全て1月1日基点の満年令、下線付きはWiki) ※ 安達景盛は寿永元年 (1182) 誕生 (異父兄 島津忠久との年齢差を 5と設定) して年齢を推定した が、確信が持てないため誕生は安元元年 (1175) ~寿永元年 (1182) の間、と変更する。従って明年5/18死没の享年は 65~73の範囲になる。従来の年令記録は早急に訂正する。 .※ 時房の没後は後任の連署を置かず 空席。宝治合戦 (1247年) で三浦一族が滅亡した後に執権 時頼が極楽寺流の祖 北條重時を六波羅北方から呼び戻し連署に任命する。 .北方の後任は (赤橋) 長時。重時は建長八年 (1256) に出家して政界を退き、時頼の後継は六代 (赤橋) 長時と七代 政村を経て八代 時宗に続く。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 1月 3日 丁巳 . 吾妻鏡 |
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晴。五代将軍 藤原頼嗣の御行始め (外出初め) として左親衛 北條時頼邸に入御した。若君 (頼嗣の弟※) は毛利蔵人大夫入道西阿 (毛利季光) 邸に渡御した。 . . ※頼嗣の弟: 次弟の乙若 (後の道増、生年不詳は吾妻鏡が逸失した仁治三年か)で、生母は三位 中納言持明院 藤原家行の娘 大宮殿 (正室待遇) 。その他に寛元元年 (1244) に産まれた三男 (源恵、生母不明) があり、本覚寺門跡→ 日光山別当→ 勝長寿院別当を経て正応五年 (1229) に97世の天台座主に就任している。 .※百錬抄: 巻十六 正月12日、今夕雪。伊豆国で長さ12町×巾8町~10余町 (1.2km×1km前後) が (地震に因って) 失われ、その跡があたかも湖水の如くになった、との噂である。 .条里制 (Wiki) では一町≒約1,080m、従って 長さ 13km×巾 10km 前後になる。 .
この地殻変動が 熱海の伊豆山漁港沖で起きたと考える説があり、実際に伊豆山権現に関連する石造物が海底から発見されてダイビング・スポットになっている。伊豆山海底遺跡の詳細はネットにも幾つか公開されているが、中には程度の低い危険なサイトもあるらしいから十分な注意をお勧めする。 . 石橋山合戦の際に平家側による拘束を避けるため 頼朝の妻 政子が避難していた伊豆山神社の飛び地 阿岐戸郷 (崖の下で小舟で往来するのみ) の沖にあたる。海底の石造遺物が地殻変動で水没した伊豆山に関わる祭祀遺跡の可能性は高いと思うが百練抄に載った記事がこれに該当するのかは判らない。右は旧 阿岐戸郷周辺の鳥瞰図。 . 画像をクリック→ 伊豆山阿岐戸郷の詳細(別窓)へ。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 1月13日 丁卯 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 1月17日 辛未 . 百錬抄: |
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今夜亥刻 (22時前後) に関東の若宮神社 (鶴岡八幡宮) の前庭に螻 (羽蟻など小型の昆虫) が数十万匹も充満し、翌朝には消え去ったとのこと。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 1月26日 庚辰 . 吾妻鏡 |
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夕刻以後に雷鳴※が数回あり。 . . ※雷鳴: この時代は神仏や怨霊の意思だと考えられている。単純な自然現象なのだが。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 1月28日 壬午 . 百錬抄 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 1月29日 癸未 . 吾妻鏡 |
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羽蟻が群れをなして飛び鎌倉中に充満した。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 1月30日 甲申 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 2月 1日 乙酉 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 鶴岡八幡宮に御供 (神饌に同じ、祭神の食事) を備えようとした際に扉が数時間※開かなかった。 . . ※扉が開かず: 事件が起きる前に予兆を記載する吾妻鏡の通例。宝治合戦は6月だから取り合 えず早めの予兆を示したか。実際には間もなく鎌倉市内を封鎖し、安達勢を主力とした奇襲の準備を整えている。 平安時代末期まで何とか守られていた矢合わせ (開戦の礼儀) は失われ、敵の隙を狙った卑劣な奇襲さえ既に神意の範囲となっているから始末が悪い。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 2月 6日 庚寅 . 吾妻鏡 |
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申刻 (16時前後) に越後入道 北條時盛が体調不良。
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. . 89代 後深草天皇 |
. 2月20日 甲子 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 2月23日 丁未 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 2月28日 壬子 . 葉黄記 |
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雨。改元について協議あり。候補は式部大輔菅原朝臣らが上申した寛正と宝治で、勅定により宝治に決した。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 3月 2日 乙卯 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 今暁寅刻 (4時前後) に宮内少輔 足利泰氏の室が死去した。左親衛 北條時頼の御妹※である。 今日、不動明王と慈慧大師※像を摺写 (版木から刷る) よう政所に指示があった。 . . ※時頼の妹: 実際には姉。泰時の偏諱を受けた泰氏の正妻は 北條朝時の娘だったが、後に四代執権 北條 時氏の娘を正室に迎え、彼女が産んだ 頼氏が足利氏の五代当主なり、朝時の娘は側室待遇となった。この頃の足利一族はひたすら得宗家に従順な姿勢を保って縁戚関係の強化に腐心し、鎌倉期では最も安定した処遇を得ている。
.※慈慧大師: 第18代天台座主で延暦寺中興の祖となった 元三大師良源を差す。鬼の姿に変身し て疫病神を追い払ったことから絵像が護符となり厄除け大師として信仰を集めた。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 3月 3日 丙辰 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 3月11日 甲子 . 吾妻鏡 |
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由比浜の海水が血のように赤くなり※、諸人が群集してこれを眺めた。 . . ※天変地異: 只の赤潮でも吾妻鏡にとっては戦乱の前触れである。宝治合戦まで残り三ヶ月。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 3月12日 乙丑 . 吾妻鏡 |
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戌刻 (20時前後) に大流星が艮方 (北東) から坤 (南西) に音を立てて走った。長さは五丈 (約15m) 、円座のような大きさは比べ様のない現象である。 . . ※葉黄記: 今夜戌刻、落雷のような音を発して大流星があった。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 3月16日 己巳 . 吾妻鏡 |
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戌四点 (20時半過ぎ) に鎌倉中で騒動が起きたが特に何事もなく、暁になって静謐に戻った。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 3月17日 庚午 . 吾妻鏡 |
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黄蝶が群れをなして飛んだ。巾は一丈 (約3m) で三段ほどの列となって鎌倉中に充満した。これは兵乱の兆しであり、承平 (931~938年) の頃に常陸と下野で 平将門の戦乱が起きた際や、天喜 (1053~1058年) の頃に陸奥と出羽で 安倍貞任が戦乱 (前九年の役) を起こした際にも同様の現象があった。古老は東国で兵乱が起きる前兆だろうと疑っている。 . . ※前九年の役: 奥州の悲劇① 安倍一族の滅亡 (別窓) を参照されたし。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 3月20日 癸酉 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 3月27日 庚寅 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 3月28日 辛巳 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 4月 3日 丙戌 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 鶴岡八幡宮での恒例の神事が延期となった。 . . ※恒例の神事: 一応、過去三年の 4月上旬をチェックしたが 「恒例の神事」 の記録はなかった。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 4月 4日 丁亥 . 吾妻鏡 |
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今日、秋田城介入道覚地 (安達景盛※、籐九郎盛長の嫡子) が高野山※から下着し甘縄本家に入った。
. . ※景盛の出家: 建保七年 (1219) 1月の三代将軍 実朝の殺害の際に出家剃髪し高野山に入ったが 幕政への関与は続け、承久の乱 (1221年) の際にも鎌倉に戻り京都への出兵を主張していた。三代執権 泰時との関係が深く、泰時の嫡子 時氏に嫁がせた娘 (松下禅尼) が産んだ外孫の 経時が四代執権に、そしてその弟 時頼が五代執権に就任している。 .※高野山入り: 戦国武将や著名人が高野山奥の院に墓所を求める理由の、簡単な解説を。 .
釈迦の没後56億7千万年に救世主として弥勒菩薩が現世に再来し,その時は私が先導を務める。空海は、その様に遺言した。 .. 「弘法大師」 は空海の死没86年後に贈られた 諡 (おくりな) (Wiki) である。 敬虔な仏教徒 (特に真言宗徒) は空海の霊廟である奥の院近くで眠り弥勒菩薩と空海の再来に立ち会うという壮大な夢を持っている。
.. 信仰心がなくても名誉欲や財力のある輩は参道沿いに豪壮な墓所を造り、貧者は墓石の役目に小石を託して参道に置いて貰う。 . まぁ現実問題として、地球は56億年後まで残っていないだろうし生物も堂宇も墓地も絶滅するだろうから、所詮は嘘八百のフィクションなのだが、信じ込む人は結構多い。右上は弘法大師が今も修行を続けている奥の院遠景。 撮影が許されるのはこの橋まで。画像をクリック→ 別窓で拡大表示 . 景盛の墓所は既に不明。元々の表参道だった 九度山慈尊院 (地図) から大門まで 180基の石塔婆が一町毎に立ち、更に壇上伽藍から奥之院まで36基が並んでいる。当初は木製だった卒塔婆を 北條政子、安達景盛、義景、泰盛 の援助を得て石塔婆に建て替えたもの、と高野山は伝えている (真偽不明) 。 . 高野山の絵図 と 表参道案内(共に別窓)も参考に。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 4月11日 甲午 . 吾妻鏡 |
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最近は高野入道覚地 (安達景盛の法名) が再三に亘り左親衛 北條時頼邸を訪れており、今日は特に長時間滞在して密談を重ねた。 また子息の秋田城介 義景を激しく叱責※し、孫の 九郎泰盛を厳しく説教している。 . これは最近の三浦一族が武威を以て傍若無人の態度を繰り返している事への憤懣であり、安達一族が三浦の風下に甘んじている怒りである。 この有様は偏に義景や泰盛が武力による備えを怠っているためだ、と。 . . ※義景を叱責: 吾妻鏡には特に「三浦泰村が傍若無人な行為を繰り返した」如き記載は見られ ない。頼経更迭に不賛成だった 三浦光村ら強硬派と北條得宗との摩擦はあるが、これは 時頼の圧力を受け前年に「宮騒動」として決着している。 .. 「三浦の横暴」は40年前に「頼家は鎌倉殿には不適格」として失脚させたのと同じく、北條執権グループが対立軸の排除を正当化した詭弁に過ぎない。 . 高野山の景盛に「三浦の横暴」を刷り込んだのは執権時頼で、景盛は上手に操られた、いや、むしろ権力に従順ではない有力御家人を排除したい北條得宗と、幕政での既得権を失いたくない安達一族が結託したウィン・ウィンの計画、と考える方が正しい。 罪状など討伐後に列挙して済ませてきた、何の問題があろうか、と。 . 「三浦の武威」なんて問題にするレベルではない。宝治合戦の記録を見れば、一方的な虐殺だった事実が理解できる。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 4月14日 丁未 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 4月20日 癸卯 . 吾妻鏡 |
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御台所の病気は邪気 (風邪または軽い悪寒) らしい。左親衛 北條時頼は特に心を痛めている。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 4月25日 戊申 . 吾妻鏡 |
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巳一点 (朝9時過ぎ) に太陽に嵩 (かさ) が掛かった。 今日、後鳥羽上皇の御霊を鶴岡八幡宮の乾 (北西 ) の山麓に勧請した。これは上皇の怨霊を慰撫するための社壇建立※で、別当職として重尊僧都が任命された。 . .
※社壇建立: 後鳥羽院を祀ったのは現在の 今宮神社 (参考サ
イト、地図、別名を新宮) が該当する。鎌倉街道拡幅の際に移転したらしいのだが、旧蹟の位置は判然としない。 .. 祭神は承久の乱の敗北により配流地で落命した土御門上皇 (土佐→ 阿波)、後鳥羽上皇 (隠岐)、順徳天皇 (佐渡) の三柱である。 . 右は今宮神社の参道。クリック→ 別窓で拡大 . 小さな祠で参拝する観光客も少ない。鎌倉国宝館 や 鶴岡文庫 の見学と併せての参拝をお薦めする。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 4月26日 己酉 . 吾妻鏡 |
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御台所 (北條時頼 の妹 桧皮姫) 邸で千度の御祓いを行なうため陰陽師10人が集まった。この際に晴茂と晴長らが 「御軽服 (軽い服喪) の90日間は、除服を済ませても御祓いは憚られます。」と言上し、晴賢朝臣らは
「喪明けを済ませれば、日数の多少に拘わらず憚る必要はなく、90日の中でも同様です。」と主張した。 . その九人とは 晴賢、晴茂、宣賢、為親、晴長、広資、晴憲、泰房、晴成 (晴茂の子息) である。越後右馬助時親※と相模式部大夫時弘※が供応役に任じた。 . . ※除服: 喪明けの儀式。3月2日に実姉 (足利泰氏の室) が死没している。 . ※北條時親: 北條時房の長男 (庶長子説あり) で佐介流の祖となった 北條時盛の次男。和歌に熟 達し、父と共に在京した期間が長かった関係で朝廷との接点も多かったらしい。 .※北條時弘: 時広に同じ。北條時房の次男時盛の嫡子。父が22歳前後で早世したため祖父時房 の養子となり 引付衆、評定衆、四番引付頭人などの要職を務めた。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 4月28日 辛亥 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 5月 3日 乙卯 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 鶴岡八幡宮の神事あり。3月3日に予定していた上巳節句を二ヶ月延期して実施した分である。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 5月 5日 丁巳 . 吾妻鏡 |
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鶴岡八幡宮の神事は通例の通り。今日、秋田城介 安達義景が催した祈請が結願し、阿闍梨の退出に伴って布施の品を届けた。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 5月 6日 戊午 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 5月 9日 辛酉 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 5月13日 乙丑 . 吾妻鏡 |
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未刻 (14時前後) に御台所 (桧皮姫、18歳)が死去。先般からの病気に対応して治療や祈祷を行ったが効果がなかった。故 修理亮 北條時氏の息女で左親衛 北條時頼の妹にあたる。 .時頼は御軽服 (軽い服喪) により若狭前司 三浦義村邸に渡御した。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 5月14日 丙寅 . 吾妻鏡 |
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戌刻 (20時前後) に御台所を左々目谷の故武州禅室 (北條経時) の墳墓の傍らに葬った。人々は素服 (白の喪服) を着して供養した (参列の人々は下記) 。 . 備前前司 北條朝直 越後右馬助北條時親 (4月26日参照) 遠江左近大夫将監 (北條重時の子?) 甲斐前司春日部実景※ 美濃左近大夫将監時秀 能登右近大夫仲時 左衛門尉関政泰 常陸修理亮重継 城次郎頼景 左衛門尉大隅太郎重村 肥前太郎左衛門尉佐原胤家 左衛門尉後藤三郎基村 駿河九郎三浦重時 千葉八郎胤時 安積新左衛門尉 宇佐美七郎左衛門尉 左衛門尉宮内公景 弥次郎左衛門尉親盛 左衛門尉伊賀次郎光房 左衛門尉太宰三郎為成 小野澤次郎時仲 加地六郎左衛門尉佐々木氏綱 信濃四郎左衛門尉二階堂行忠 出羽次郎兵衛尉二階堂行有 摂津左衛門尉狩野為光 左衛門尉小野寺四郎通時 内藤四郎左衛門尉 左衛門尉押垂時基 左衛門尉紀伊次郎為経 左衛門尉海老名忠行 . . ※春日部実景: 本領は武蔵国浜川戸 (現在の春日部市 (地図) 、父の実平と共に幕府に仕えた御 家人。翌年の宝治合戦 (三浦合戦) で宇都宮氏や毛利氏らと共に泰村に与して敗れ、頼朝法華堂で自刃する。6月10日の条には「甲斐前司春日部実景の子息 (嬰児) が一人、武蔵国から鎌倉に入った。」と、また6月23日には「甲斐前司春日部実景の幼い息子一人が武蔵国から連行され鎌倉に入った。」との記載がある。 .. 6月22日の「自殺および討死した者」の名簿には春日部甲斐前司実景、同子息太郎、同次郎、同三郎の名が載っており、捕えた幼児も殺されたか。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 5月18日 庚午 . 吾妻鏡 |
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晴。今夕、光る物が西より東の空に飛び、その光は暫く消えなかった。その頃に秋田城介 安達義景の甘縄邸に一筋の白旗が現れるのを見たという人がいる、と。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 5月21日 癸酉 . 吾妻鏡 |
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「若狭前司 三浦泰村は幕府に従わず我儘勝手が過ぎるため近日中に討伐する沙汰※が下った。深く反省し謹慎すべきである。」 と書いた簡面 (竹の札) が八幡宮鳥居の前に立て掛けてあるのを多くの人々が確認した。 . . ※討伐の沙汰: この挑発の首謀者が 北條時頼か安達義景かは判らないが、この時点で北條執権 側の戦闘態勢が整っただろうことは容易に推定できる。 .. つまり宝治合戦は北條執権側の緻密な計画に基づいた殺戮で、和田合戦 より畠山重忠を殺戮した 二俣川合戦の姿に近い。和田合戦に際しては挙兵前に 和田義盛から相模国の横山党などとの合議があったため後半で援兵が駆け付けて勝敗の帰趨が遅れた。横山党の参戦が半日早かったら義盛逆転勝利も... . 北條執権側ではこの教訓を生かしたのだろう、今回は鎌倉に入る道の全てが封鎖され援軍も逃亡も望めない。性格は悪質だが学習能力は北條執権の方が格段に優れている。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 5月26日 戊寅 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 5月27日 己卯 . 吾妻鏡 |
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左親衛 北條時頼は御軽服 (5月13日の妹 桧皮姫死没に伴う軽い喪) のため若狭前司 三浦泰村邸に寄宿している。三浦一族が集まっている様子は窺えるが時頼に挨拶するため現れる気配はなく、饗応の準備をしているようにも見えるが他の準備に没頭しているのかも知れない、と思われた。
. 夜になってから甲冑や腹巻 (胴を守る部分) を準備する音※も聞こえていた。今回は三浦一族の叛逆を警告する意見を気に掛けずにいた時頼も流石に危険を感じて泰村邸から退去し、太刀持ちの五郎四郎だけを従えて自分の屋敷に帰った。 これを聞いた泰村は狼狽して陳謝の意志を伝える使者を派遣した。 . . ※武装の準備: 敵対する相手が立ち寄っているのに甲冑などの音を立てる武士がいたら馬鹿の 団体だ。吾妻鏡の編纂者も、恣意的に過ぎる記述を繰り返している事に気付かないほどの愚かさだとは... . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 5月28日 庚辰 . 吾妻鏡 |
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世の中が落ち着かない。三浦一族が謀反の心※を抱いているのを知った人々がこれを恐れているためである。三浦の一党は官位官職も所領も満ち足りている筈なのに、入道大納言家 (前将軍 藤原頼経)が京都に追放されたことを不満に思い、日毎に懐かしんでいる。 . 特に能登前司 三浦光村は幼少の頃から側近として仕え、日夜の起居や遊興も共にしてきただけに事毎に懐旧の思いを禁じ得ず、密約まで交わしている状態である。 . そもそも幕府の鬼門に当たるとして五大明王院を建立し、智徳に優れた高僧や陰陽師などを重用し、側近として長く侍っていた武士を引き立てるなどは乱世を招く基となる。 . 光村の考えは既に発覚しており、左親衛 北條時頼は今夜のうちに三浦泰村および親類や郎従の家に使者を派遣して様子を窺い、家中に兵具を整えているのを確認した。加えて安房や上総にある所領から船で甲冑などを※運び込んでいるのは隠れた企てに違いないと判断した。 . . ※謀反の心: 御家人筆頭の三浦一族が藤原頼経を擁して幕府の実権を握ろうとした、執権時頼 が安達氏と協力して先手を打ち三浦を追討した。吾妻鏡はそれが宝治合戦の実体だと主張する。
.. 北條氏が支配している鎌倉市内で幕府を転覆させるだけの軍事力を三浦氏は動員ない。三浦側が軍備を整えたと匂わせる吾妻鏡の記載は全く合理性に欠ける。 勝敗の帰趨は甲冑の数ではなく、実戦に加わる兵力の寡多 (多少) に左右される。 . そもそも「泰村討伐」の掲示まで出されたら防衛の準備をするのが常識。時頼と安達が協力した「騙し討ち、奇襲、殺戮」に近い事件に過ぎない。 . 三浦側の「主だった死者」は120人以上 (つまり郎従や小者を含めて数百人) 。和田合戦では 「北條側の 主だった死者 51名の姓名」 が載っていたが、宝治合戦では北條側の死傷者数の記載すらない。少な過ぎて書けなかったのだろう。 ※船で甲冑を: 原文は「剰自安房上総以下領所以船運取如甲冑縡更非隠密之企歟之由申之云々」 意訳...「その上、安房や上総の所領から船で甲冑などを運び込むなど、更に隠密の企てがあるのを思わせる。」 .. すると..「隠密の企て」なら甲冑を運び込むのも「隠密な行動」の筈だ。 浜から御所と幕府政庁の横を通って八幡宮の北東にある泰村邸まで武具を運んだことになる (笑) 。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 5月29日 辛巳 . 吾妻鏡 |
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三浦五郎左衛門尉 (三浦 (佐原) 盛時) が左親衛 北條時頼邸を訪れて次のように報告した。 去る11日に陸奥国津軽の海辺に死人のような姿の大魚が流れ着きました。先日 (3月11日の記載) 由比ヶ浜の海水が赤くなったのは、この魚が死んだ事と関わりがあるのかも知れません。同じ頃に奥州の海辺でも海水が紅の如くになりました。 .この件を古老に尋ねたところ、悪い先例があると語った。 文治五年 (1189) の夏に同じような事例があり、同年秋に 藤原泰衡が殺された。 .建仁三年 (1203) の夏にも再び流れ着き、同年の秋には左金吾 将軍頼家の事件が起きた。 建保元年 (1213) の4月に出現した翌月には 和田義盛の兵乱があった。全て大事件の予兆である。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 6月 1日 壬午 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 左親衛 北條時頼が近江四郎左衛門尉 佐々木氏信を使者として、若狭前司 三浦泰村に伝言を託したが、その内容は不明である。氏信は泰村邸に入り、まず案内を求めて侍所の上座に着した。 . 泰村を待つ間に傍らを見ると弓が数十張と征矢 (実戦用の矢) および鎧の唐櫃が数十本が置いてあった。氏信は郎従の友野太郎 (ここへ案内してきた供者) に命じて邸内の様子を窺わせたところ、屋敷の各所に積み置いた鎧の唐櫃が120~130本あるのを確認して氏信に報告した。 . 泰村は氏信を居間に招き入れて伝言を聞き、その後に雑談を交わして次のように語った。 . 世の中が騒がしいのは自分の責任だろう。私の兄弟は既に幕府の宿老を越えて五位の官位を得たし、その他の一族も五位に準じている。守護職は数ヶ国で荘園は数万町を掌握しているが栄華も窮まりつつあり、神仏の加護も測り難い上に讒訴まで受ける状態になっている。
※吾妻鏡の曲筆: 常識的に考えて、敵対する立場の時頼が派遣した使者に見られるような場所
. 氏信は時頼邸に戻り返答の仔細と泰村邸の様子を詳しく報告。時頼邸は更に警戒を強化した。 . . に武具を置く筈はないし、合戦の準備を整えている事と泰村が発した言葉は、明らかに整合性に欠ける。どちらも吾妻鏡の見え透いた曲筆と考えるべきだろう。 .. 鎌倉は封鎖されている。三浦側は補給を絶たれているし援軍も望めない状態で包囲されている。武具の準備云々を指摘するのは卑劣に過ぎる |
. . 89代 後深草天皇 |
. 6月 2日 癸未 . 吾妻鏡 |
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近国の御家人が鎌倉に駆け付けて左親衛 北條時頼邸の周囲を固め、多くの武者が各々旗を掲げた※。 . 相模国の住人は南側に布陣、武蔵国と駿河国と伊豆国の住人は東西北の三方に軍陣を構えた。既に四方の門は閉鎖して誰も入れず、辻々は荷車を集めて封鎖し遠江守 佐原 (三浦) 盛連の子息全員が時頼邸に詰めている。 . 彼らは同族でありながら泰村に与していない。また 佐原 (蘆名) 光盛とその弟 (時連と 三浦 (佐原) 盛時) は故 匠作 (北條時氏) との旧交を大切にして二心を持たず、兄の二人 (広盛と盛義) も同様である。 . 佐原太郎経連、比田次郎広盛、次郎左衛門尉光盛、藤倉三郎盛義、六郎兵衛尉時連らは時頼邸の門を封鎖する前に参入したが、五郎左衛門尉盛時は遅れてしまい光盛らを慌てさせた。 . 時連は「門が閉じられても五郎盛時は必ず駆け付ける。」と言った言葉が終わらないうちに盛時は塀に手を掛け飛び越えて庭に立ち、兄弟を喜ばせた。人々はこれに感心し、時頼は兵衛入道蓮佛 (諏訪盛重) を介して嬉しさを伝え、御前に招いて甲冑を与えた。 . . ※北條勢、集結: 吾妻鏡は時頼側の臨戦態勢を語り、周到さでは三浦を上回っていると自慢し ている。この時代の合戦は準備した人と矢の数で勝敗の帰趨が決まり、周囲を封鎖され補給を絶たれた側が圧倒的に不利になる。人数に劣り、準備した矢の数も足りない三浦勢の勝ち目は皆無である。 .. 建仁三年 (1203) 9月に 時政が 将軍 頼家を追放した 比企の乱と、元久二年 (1205) 6月に 義時の軍勢が 畠山重忠を殺した 二俣川合戦を思わせる。北條氏が絡んだ粛清事件の中で、唯一のきわどい勝負が 和田合戦だった。 . そもそも、北條時政が主君頼家の妻子と比企氏一族を騙し討ちに近い形で皆殺しにしたのが「比企の乱」、軽武装の僅か134人の重忠主従を完全武装の5,000騎で皆殺しにしたのが「二俣川合戦」。吾妻鏡の編纂者は偽装を重ねている。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 6月 3日 甲申 . 吾妻鏡 |
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晴、風が静まった。左親衛 北條時頼の無事安穏を願う祈祷が始まり、大納言法印 隆弁が五穀を断ち御所での如意輪秘法だけに集中して行なった。 そして今日、若狭前司 三浦泰村邸の南庭に桧板の落書きが見つかった。 . 世の中が騒がしく落ち着かないのは貴方が討たれるべき立場にいるためだ。熟慮して心得よ。 .泰村は「私の滅亡を願っている者の所業だ」と言って直ぐに破却させ、左親衛時頼に申し入れた。 . 世間が騒がしく勝手な噂が流され、何が起きても不思議ではない雰囲気になっています。 .私は何の野心も持っていないにも拘わらず騒ぎを聞いた諸国の郎従が集まり※更なる疑念を招く結果になっています。 疑念があるのなら国元に帰らせる指示を下しますが、鎌倉の大事を支えるには衆の力も欠かせません。いずれにしろ、全ては貴方の命令に従うつもりでいます。 時頼からは「特に疑念はもっていない」との返事が届いた。先月27日の夜中に時頼が突然泰村邸から自宅に帰る事件があってから泰村の心配は募っており、既に寝食にも差し障る状態になっている。 . . ※郎従の集結: この日と翌日の記事では「泰村が近国の所領から戦力を集めている」と強調 している。不思議なことに、話題になるほどの動員を泰村が行なった割には6月22日の戦死と自殺者名簿には三浦一族の他には宇都宮氏、春日部氏、佐野氏の一部と 毛利季光や上総秀胤が単独に近い形で加わっているのみで、組織的な動員令例の裏付けは見られない。 .. 安達一族の奇襲によって三浦が決起した既成事実を作り、その後は既に集まっている圧倒的な戦力 (6月2日に記載のある相模、武蔵、伊豆、駿河の御家人) をつぎ込み波状攻撃で討伐するのが時頼の計算だった。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 6月 4日 乙酉 . 吾妻鏡 |
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曇。若狭前司 三浦泰村および一族の郎従と眷属が近国の所領から集まっている。泰村の西御門邸には甲冑を着けた士卒が列をなし、一方で他の御家人や左親衛 北條時頼の祇候人 (北條被官) も集まっている。日を追って人数が増えて鎌倉中に満ち溢れ敵味方の区別もできない、既に重篤な状態である。
. 幕府からは保々の奉行人 (町内の監督者) を介して解散せよとの指示が下され、更に兵衛入道 諏訪盛重と万年馬入道 (共に得宗被官) が使者として直接制止を命令した。ところが関左衛門尉政泰※が命令に従い所領の常陸国に帰る途中で泰村が追討されるとの噂を聞き助力するために鎌倉に戻ってきた。 . また子刻 (深夜0時前後) に入道西阿 (毛利季光、大江広元の四男) の妻 (白小袖に濃色の上衣を着して従女一人を同伴) が突然兄 泰村の西御門邸を訪れ、次のように語った。 . 今回の騒動は兄上の追討が目的と聞きましたが、何としても勝たねばなりません。 (夫の) 毛利入道は間違いなく味方するでしょう。もし躊躇うような事があれば私が諌めて必ず合流させます。 .. ※関政泰: 承久の乱では宮方に味方し、降伏して御家人に加わった武士。泰村の妹を妻にし、 三浦側の戦死者名簿に載っている。一方の毛利季光は武装して時頼勢に加わろうとしたのだが、妻から「それは武士の所業に非ず」と説得されて三浦方に加わり、子息四人と共に死を迎える。 .. 息子五人の中で四男の経光だけが関与なしと認められ、本貫の毛利荘 (神奈川県相模原市) は没収されたが越後 (柏崎市) と安芸 (広島県安芸高田市 の所領は温存できた。経光は四男の時親に安芸吉田荘を継承させ、その子孫から戦国大名として高名な毛利元就が現れる。 . 武士の気風が乱れ損得に流れる卑しさが多い中で、妻の実家との縁を重視して滅亡を選ぶ例が散見される。辛うじて残った美風だろうか。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 6月 5日 丙戌 . 吾妻鏡 |
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.. 晴、辰刻 (朝8時前後) に小雨。早暁から鎌倉の情勢が著しく緊張し、左親衛 北條時頼は万年馬入道 (御内人) を 泰村の許に派遣し郎従らの騒動を鎮めよと命じた。次に左衛門入道盛阿 平盛綱に命じて書状を届けた。 . 「この騒動は天魔が心の中に入ったためだろうか。幕府には貴殿を討伐する考えはなく、従来の如くに異心を抱いている訳でもない」との内容で、さらに誓詞まで書き加えたらしい。泰村が書状を開く際には入道盛阿は和平についての詳細を語った。泰村は非常に喜び、直ちに返答を申し述べた。 . 入道盛阿が退出した後に妻室が自ら湯漬けを運び、安堵の言葉を述べた泰村は湯漬けを一口食べて直ぐに嘔吐してしまった。その後に妻室が下若 (酒) を勧め、泰村は安堵の思いを述べた。 .
一方で甘縄の安達邸では高野入道覚地 安達景盛が時頼から泰村に使者が派遣されたと聞き、子息の 秋田城介 義景と 既に甲冑を着けた孫の城九郎 泰盛を呼んで声を励ました。和平の御書を若州 (泰村) に送ったのなら向後は彼の一族が驕りを極め、益々当家を蔑むようになる。そうなってから対決しても当家に禍を齎す結果になるだろう。
今こそ運を天に任せて今朝のうちに雌雄を決してしまおう、後日を期する必要はない。 . この言葉に従い 城九郎泰盛、大曽祢左衛門尉長泰、武藤左衛門尉景朝、橘薩摩十郎公義※などの一族が軍兵を率いて甘縄邸を出発、門前の小路を東へ進み、若宮大路の中の下馬橋を北に折れ、鶴岡八幡宮 赤橋を渡り入道盛阿が (御所に) 戻るより前に神宮寺の門外に出て鴇の声を挙げた。そして公義が五石畳紋※の旗を掲げ筋替橋の北に進んで (三浦邸に向けて) 鳴り鏑を飛ばした。 . 右上は甘縄の安達邸から三浦邸までのルート。(クリック→ 拡大表示)「門前の小路」は判然としないが由比ヶ浜通りの北側を併行していた小道と考えて良いだろう。 .常識的には六地蔵で今小路を北へ、巽神社手前を右折して中の下馬橋に抜けた。流鏑馬道に沿って源氏池の北側 (神護寺 (八幡宮寺) の横) を通り、筋替橋を北に進んだ (ルート地図) 。
※橘公義: 文治五年 (1189) 1月6日に勃発した 「大河兼任の乱」 に関連して
1月19日に記載のある 橘公成 (公業) の息子か孫らしいが系図では確認できず、公成の所領だった肥前か大隅 (鹿児島) の一部を継承したと思う。 .. 右は五石畳紋。参道の敷石を表す事から神官などが家紋にしたらしい。 この間に八幡宮に布陣していた軍兵の全てが安達勢に合流し、驚いた泰村は家の子郎党に命じて防戦させた。橘薩摩余一公貞 (甲冑を着けず狩装束) は一番乗りを狙って密かに牛車置き場に隠れ泰村邸近くの空家に潜んでおり、鴇の声に応じて進み小河次郎に射殺された。中村馬五郎も同じく泰村の郎党によって傷を負った。 . これに先立って盛阿は馬を飛ばして御所に戻り事の現状を報告したが、三浦一族が戦闘を始めた※以上は宥めようがない。まず陸奥掃部助 北條実時に幕府を警護させ、北條六郎時定を大手の大将軍に任命した。 . 時定は (三浦が構築した防御線の) 牛車などを撤去し旗を掲げて塔の辻※から三浦勢と衝突した。従う軍勢は雲霞の如く、兵衛入道蓮佛 諏訪盛重は抜群の勲功を挙げた。信濃四郎左衛門尉 二階堂行忠も奮戦して手柄を挙げた。泰村の郎従と精兵らは各所に拠点を設けて矢を放ち、攻撃側の御家人もまた身命を賭して戦った。 . . ※三浦一族が戦闘を始めた: 吾妻鏡は 「安達勢が筋替橋の北に進み鏑矢を射た」 と書いてるが? .
※塔の辻: 二つ以上の道の合流地点に建てた七ヶ所の石塔。
右上、二つ目の地図の範囲にある塔の辻には ★ を付けて置いた。北側から、窟屋小路入口の鉄の井、小町大路と六浦道の合流点、六地蔵、由比ヶ浜古道の四ヶ所である。 .. 吾妻鏡の文暦二年 (1235) 6月29日の条には「五大尊堂 (現在の 明王院) の落慶供養に赴く将軍 藤原頼経が「南門から御所を出て小町大路を北へ、塔之辻を東に向かった。」との記載がある。この塔之辻が筋替橋、北に進んだ場所が鏑矢の発射地点だ。 . 石塔は その他にも建長寺、円覚寺、浄智寺の前付近の三ヶ所にあったらしいが、現存しているのは由比ヶ浜通りから浜へ下る小道の分岐点にある残欠 (右画像) のみ、由比の長者 染屋時忠に関する悲しい伝承が残っている。 . 詳しくは 極楽寺坂から小町口へ移動 (別窓) の中段を参照されたし。 . 巳刻 (10時前後) に蔵人大夫入道西阿 毛利季光は甲冑を着け部下を率いて御所を目差したが、妻 (三浦泰村の妹) が鎧の袖にすがり、「以前からの約束なのに泰村を見捨てて時頼勢に加わるのは武士の所業でしょうか。後の世に恥を残しますよ。」と説得、季光は心を翻し泰村の陣に加わることを決めた。 .. ちょうどその時に隣に住んでいる甲斐前司 長井泰秀は御所に向かう途中で毛利季光※に出会ったが、 敢えて制止しなかった。これは誰に味方するのか云々ではなく、季光の決意を尊重して一ヶ所で (泰村と共に) 戦わせてやるのが武士の配慮と考えたからである。 . . ※毛利季光: 結果として、四人の息子と共に頼朝法華堂で自刃し本領の毛利荘 (現在の厚木市 西部) も没収され、所領のひとつ 越後にいた四男経光だけが無関係として処分を免れ、越後と安芸の領有を許された。経光の四男 時親が安芸国吉田荘を継承し、彼の子孫が中国地方屈指の戦国大名 毛利元就に繋がっている。言うなれば サンフレッチェの元祖だ。 .毛利氏の跡を継いだサンフレッチェは鎌倉一帯を本拠にしているベルマーレには負けちゃダメ、なんだよ。 . 万年馬入道は左親衛時頼邸の南庭に騎馬のまま駆け込んで「毛利入道季光殿が敵陣に加わった、これは一大事です。」と報告、これを聞いた時頼は午刻 (正午前後) に御所に入り、五代将軍 藤原頼嗣の御前で改めて作戦を練り直した。ちょうど北風が南風に変わったため、北條勢は泰村邸南側の民家に火を放った。 .
.風に煽られた煙が泰村邸※を覆った。三浦勢は煙に咽び屋敷から逃げて故 右大将軍 頼朝 の法華堂に立て籠った。 . 一方で、従兵80余騎を率いて永福寺の惣門内に布陣していた弟の能登守 三浦光村は兄の泰村に伝令を送り、「永福寺なら戦いやすい、ここに合流して共に討手を迎えよう」と勧めた。 . しかし泰村は「たとえ鉄壁の城郭でも生き延びられない。それよりも故将軍頼朝の絵像の前で最期を迎えよう、早く合流せよ」と答えた。 . . 右上画像は横浜国立大付属校を中心にした広域鳥瞰図。
頼朝法華堂から八幡宮の源氏池、筋替橋をマークしてある。筋替橋から攻め登ってくる安達勢の矢を防ぎながら頼朝法華堂に逃げる三浦勢の窮状が目に見えるようだ。 .右下画像は広域鳥瞰図の中心部を拡大したもの。 西御門の位置、西大路の跡、三浦邸の位置などを拡大マークした。吾妻鏡の展開を読みながら往時に想いを馳せる一助になれば嬉しい。 両方ともクリック→ 別窓で拡大表示。 ..
緊急事態なので使者の往来は一度のみ。光村は惣門から法華堂に向かい途中で遮ろうとした甲斐前司長井泰秀の家人および出羽前司 二階堂行義と和泉前司 二階堂行方の家人らと合戦になり、双方に負傷者が出た。. 光村は何とか法華堂に到着した。その後に毛利季光、三浦泰村、光村、家村、大隅前司重隆、美作前司時綱、甲斐前司実章、関左衛門尉政泰らが頼朝絵像の前に列座した。ある者は昔の思い出を語り合い、またある者は最後の述懐に及んだ。毛利季光はただ念仏を唱え皆に唱和を促して極楽浄土を願い、光村がそれに和した。 . ※泰村邸: 吾妻鏡の建保七年 (1219) 1月が三浦邸の初見。実朝の首を抱えた 公暁が備中阿闍梨 の房から八幡宮北の峯を越え「三浦邸に入ろうとした所」で討手の 長尾定景に討ち取られた。八幡宮の裏山を南に越えたら八幡宮に戻るから、東に越えて三浦邸を目差した事になる。 .. 厳密に書けば、実朝事件の際の三浦氏当主は先代の 三浦義村だが、更に30年近く前の養和二年 (1182) 2月14日には囚人として先々代の 三浦義澄が預かっていた 伊東祐親が三浦邸で自殺したのを郎党が大倉御所まで走って知らせ、義澄も駆け戻っている。つまり三浦邸は御所から走って戻れる距離にあった、遠くても4~500m程度だろう、と思う。 . また南の風に煽られて頼朝法華堂に「逃げられた」のは北條勢の横矢を受ける危険が少ない方角、つまり三浦勢は北條勢に近づく南東ではなく 東または北東に逃げたと考えるべきだ。その論拠により、地図上では三浦邸敷地の枠を少し南寄りに想定してある。 .
時頼の軍勢が法華堂の門内に攻め込み先を争って石橋を登り、三浦勢は (主人が自刃する時間を稼ぐため) 必死の防戦を続けた。
.. ここで武蔵蔵人太郎朝房 (朝直の長男) が大きな戦功を挙げた。彼は父から義絶されていた立場なので従える従卒もなく、甲冑も着けずに疲馬に跨って戦ったため討たれそうになったのだが、泰村方の金持次郎左衛門尉が見逃してくれて命を全うできた。 . 合戦は三刻 (数時間) ※も続き、矢が尽きた三浦勢の泰村以下の主な武者276人を含めて500人以上が自殺※した。 . 幕府の番張 (出仕記録簿) に載っている者はその中の260人である。 . ※三刻: 一刻は2時間~30分まで諸説があり、鎌倉時代の一刻が何時間なのかは正確には不明 らしい。私は 2時間だと考えているが、取り敢えず数時間としておく。一刻が2時間ならば戦闘は6時間続いたことになる。 .※三浦の自殺: 死骸は法華堂に近い 三浦やぐら (別窓) に投げ込んだともされるが内部の面積は 3~4坪程度、すぐ前に 北條義時の法華堂が建っている場所で多くの死体を処理したとは考えにくい。更に北の山中か由比ヶ浜に運んで埋葬したと考えるのが普通だろう。 右上は「三浦やぐら」の遠景(クリック→ 詳細頁へ。) .. 続いて壱岐前司 佐々木泰綱と近江四郎左衛門尉 佐々木氏信が命令を受け、平内左衛門尉景茂※を追討するため長尾の館に向かい鴇の声を挙げたが、景茂父子は既に法華堂で自殺していて防戦する者もなく、討手は子息の四郎景忠のみを拘束して鎌倉に帰還した。途中で甲冑の騎馬武者10数騎が前途を遮ったが泰綱が名乗りを求めても返答せず、合戦はせずに行き過ぎた。 .. . ※長尾景茂: 上記した長尾定景の嫡男。定景は治承四年 (1180) 8月の頼朝挙兵の際に平家軍を 率いていた 大庭景親や 俣野景久の従兄弟で、石橋山合戦では頼朝軍と戦った俣野の配下として 佐奈田義忠を討ち取っている。 .今回の宝治合戦で景茂と弟3人と息子3人が討死または自刃し、生き残ったのは四男の景忠のみ。その後の消息は不明である。 . 申刻 (16時前後) に死骸の実検が終わってから時頼は飛脚を京都に派遣し、書状二通を六波羅の相模守 北條重時に送った。一通は朝廷への奏聞 (報告) 、一通は近国の守護と地頭への通告で、詳細の経緯を記した一通を各々に添付してある。内容は次の通り。 若狭前司泰村、能登前司光村以下舎弟の一族は今日巳刻 (10時前後) 矢を射はじめて合戦となり、一族および加わった与党を討伐した。この旨を冷泉太政大臣殿 (久我通光) に申し入れされたし。 六月五日 左近将監 (時頼) 謹上 相模守重時 殿 .. 別紙追伸 毛利入道西阿 (毛利季光) が思いがけず三浦に与したため追討した。若狭前司泰村と能登前司光村および一族与党には以前から謀反の用意があり、今日 (5日巳刻) に矢を射て合戦となった。 三浦勢の討伐は完了しており鎌倉に駆け付ける必要はない。また近隣に周知させるよう西国の地頭と御家人に命令を下すように。 六月五日 左近将監 (時頼) 謹上 相模守重時 殿 . 事書として。 謀叛に加わった者は親類兄弟に至るまで拘束せよ。その他、在京の従卒や所領の代官および従者は命令に含まれていなくても厳しく取り調べて報告せよ。追って対処の指示を送る。 . ※保暦間記: 三浦駿河守 義村の息子で若狭守 泰村なる者は時頼の縁戚として驕を極めた。 秋田城介の安達義景も様々の経緯で権力に近い存在だった。この二人は仲が悪く義景は種々の謀略と讒言により結果として泰村を誅殺した。 .. 舎弟の能登守光村と式部丞景村および彼の一族と縁戚の毛利蔵人入道西阿 (季光) らが右幕下 (頼朝) の法華堂に引籠って自害したのは自らが招いた事件である。その後は義景法師の子息泰盛が権限を握り、人々はこの事件を宝治合戦と呼んだ。 . 保暦間記は南北朝時代に成立した歴史書。記事は参考程度に読む方が無難だ。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 6月 6日 丁亥 . 吾妻鏡 |
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三浦泰村の妹婿 上総権介 千葉秀胤の追討命令が大須賀左衛門尉胤氏※と東中務入道素暹胤行※に下された。また武蔵国六浦庄※に三浦の仲間多数が残っているとの噂があり、領主の陸奥掃部助 北條実時に命じて家人を派遣すると共に薩摩前司安積祐長※と小野寺小次郎左衛門尉通業※にも同様の追捕命令を与えて派遣したが、その事実がなかったため各々が鎌倉に帰還した。 . 今日遅くに謀反人らの首実検を行なったが 三浦光村と家村の首が頗る不審なので結論は出ていない。また大倉次郎兵衛尉が武蔵国に出発した。三浦残党の隠れ家搜索が目的である。 . . ※大須賀胤氏:千葉常胤の四男 大須賀胤信-嫡子通信-嫡子胤氏と続く。一方で討たれる側の 千葉秀胤は常胤-嫡子 胤正-千葉 (境) 常秀-秀胤と続く千葉氏本家筋で、縁戚関係にある。この時代は敵対した一族の追討を同族に命じて忠節を証明させるのが普通だった。五代執権時頼と八代執権時宗には特にその傾向が強いように思うが...嫌な話だね。 .※東胤行:大須賀氏と同様で千葉常胤-六男東胤頼-嫡子重胤-嫡子胤行と続く千葉一族。 .
※安積祐長:曽我兄弟に討たれた 工藤祐経の二男で 伊東祐
時の実弟。奥州合戦の恩賞に陸奥国安積郡 (右画像) を得て薩摩守に任じた。 .陸奥には子息の一部を下向させ惣領は鎌倉付近に定住していた可能性が高い。 ※小野寺通業:秀郷流下野小野寺氏の武士。本領などについ ては建保六年 (1218) 3月23日に記載あり。 .※六浦庄:現在の横浜市金沢区、八景島シーパラ の周辺は 和賀江島が本格稼働するまで鎌倉時代の重要な物流拠点だった六浦港 (地図) があり物資は朝比奈切通を経て鎌倉に入っていた。
.. 実時は父の北條実泰からこの地を相続して実質的に金沢流北條氏の祖となり、後に古典や文献、書籍類を集めて 金沢文庫 を創建している。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 6月 7日 戊子 . 吾妻鏡 |
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晴。大須賀胤氏と東素暹 (千葉常胤の六男で東氏の祖となった胤頼の嫡子 胤行、素暹は号 ) の軍勢が上総権介 千葉秀胤の上総国一宮の大柳館※を襲撃、上総国の御家人も大軍となって加わった。 秀胤は館の四方に積み上げた炭や薪に火を放ったため攻め手は門外に留まり鴇の声を挙げ遠矢を射るのみだった。秀胤の家人も馬場の近くに進み出て答矢を射返した。 . その間に上総権介秀胤、嫡男式部大夫時秀、次男修理亮政秀、三男左衛門尉泰秀、四男六郎景秀が心静かに念仏と読経を済ませて自殺した。その後に数十棟の家屋に火の手が挙がり、胤氏以下の寄せ手は煙を避けて敷地から退し、彼らの首を獲ることはできなかった。 . また下総次郎時常も昨夕からこの館に合流して共に自殺した。時常は秀胤の弟で、父の下総前司 千葉常胤の遺領である垣生庄※を相続し、これを秀胤に奪われて不満を持っていたが一族の危機に応じて共に死を選んだのは勇士の美談である。 泰村追討の情報は5日午刻 (正午前後) に上総国府※に届いていた。 . . ※大柳館:現在の睦沢町大八木の小山 (地図) が比定されているが遺跡は残っていない。これは 多分詰めの城で、居館は麓の平地にあったと思う。 .※垣生庄:大柳館の約50km北、現在の成田市郷部の 埴生神社 (地図) の社伝には「この地方を 領有した埴生次郎平時常が寛元二年 (1244) 6月に神輿を寄進」とあり、成田山新勝寺の近くらしい。 .父常秀の死没は1238~1241年の間と推定されているから、最短で6年の間に所領を相続して→兄に奪われて→自刃という、変遷の激しい後半生を送ったことになる。 ※上総国府:国分寺跡 (Wiki) や国分尼寺跡 (市役所のサイト) のある現在の市原市役所の付近 (地図) と
推定されるが、国府跡の正確な位置はまだ確認されていない。 .. 国分寺跡の 4km弱北の光善寺付近 (地図) で大量の土器と瓦が出土しており、この付近の可能性が高い、か。大柳館と国府の距離は約30km。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 6月 8日 己丑 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴。常陸国に於いて、 (6月5日に法華堂で自殺した) 関左衛門尉政泰の郎従らと小栗次郎重信※が合戦した。最終的には (関政泰の) 郎従側が敗北して周辺の家屋に放火、燃え広がった火が数町 (面積の場合は400坪前後) を焼き、村の南北には泣き叫ぶ声が響いた、と伝わる。 . 今日、頼朝法華堂に仕える法師が一人呼び出された。昨日この法師が花を供えるため仏前に入った際に泰村以下の軍兵が突然堂内に乱入して逃げ損ない、天井裏に隠れて泰村らの談話を聞いたのが判明したためである。平左衛門尉盛時と万年馬入道が僧侶の話を聞き取り、その大意を記録して山城前司中原盛時に提出した。 . 天井の隙間から窺っていると、若狭前司 三浦泰村らの大名は知った顔なので間違いないが、他の多くは初めて見る人物だった。堂内が騒がしくて全ての言葉は聞き取れず、主だった人物が一期の終わりと称して日頃の怨念を語っていた。殆どは「泰村や能登前司 三浦光村が権力を握りさえすれば一族は官位官職を極め、更に多くの所領を得られただろうに。」との内容だった。 .. その中で光村は言葉を励まし「入道頼経が将軍職だった頃に禅定殿下 九条道家が内々に仰せられた通り武家の実権を掌握すべきだった。泰村が決断を迷ったため子供と別れるのみならず一族が滅亡しつつある。この恨みは後悔しても余りある。」と語って刀で自分の顔を削り「私の顔だと判るか?」と尋ねた。 . その流血が 頼朝の絵像を汚し、「この法華堂を焼いて自殺した死体も焼いてしまおう」と言ったが、泰村が「両方とも不忠の極みになる」と押しとどめ、何とか焼失は避けられた。 . 泰村には何事も穏便に済ませようとする性癖があり、次のように語って涙を流したという。 . 数代で重ねた功績を考えれば子孫も罪を許されるものだ。ましてや義明から四代の家督を継いだ一族であり、北條殿の外戚として内外の政治を補佐したのに一部の讒言で長年の好誼を忘れ誅殺の恥を受けるとは恨みと悲しみが重なる、これは後日に思い知ることになろう。 .. ただし故駿河前司殿(父の三浦義村)は同族の和田義盛を他家の者も含めて多くを死罪にして子孫も滅ぼした、その因果が巡ってきたのかも知れぬ。いま死を前にして北條殿を恨むつもりはない。 声が震えて細かいところまでは不明だったが内容はこの通りだった、と。能登前司三浦光村の首については顔を削ったのが判明して不審点はなくなり、四郎式部大夫三浦家村※の首は行方不明となった。見聞した事を報告した法師は釈放して本所に戻し、もう一人の法師は去る5日に堂内に隠れられず床下に逃げ込み歩兵に首を斬られた、と。70歳を越えた老母 (尼) が嘆き悲しみ、僧の首は実検の際に確認した。 . ※吾妻鏡の曲筆: 頼家が 頼朝の跡を継いで鎌倉殿になったのが正治元年 (建久十年、1999年) 1月末。頼家は同年4月12日に訴訟の決裁権を剥奪され、宿老13人による合議制に移行している。その間の吾妻鏡には頼家に関する記録に「権限剥奪に値する不行跡」は見られず、失脚と幽閉に至る建仁三年 (1203) 9月までは綿々と 抽象的な 「我儘、独断、怠慢 」 を記録している。
.. 宝治合戦で滅亡した泰村の性癖については優柔不断など武家の棟梁に相応しくない部分が強調され、大部分の歴史家が「三浦一族は栄華に奢って我侭な振る舞いが多く」と評価しているが、その根拠は吾妻鏡の恣意的な記述のみに依拠している。 . 安倍晋三が民主党政権を「暗黒の時代」と評しているのと同じだ。確かに民主党の能力は低かったが、国費の盗用と公文書の意図的改竄はしていない。 . そもそも、せいぜい数百mほどの距離で合戦 (殺し合いと放火) が展開されている法華堂に献花しているなんてあり得ないし、民家に放火してから煙が回るまでの時間があれば屋根裏に隠れるより建物から離れる方が早い筈だ。天井裏に逃げ込んだのなら梯子か階段だろうが、三浦勢が階上を確認しなかった筈はない。 . 僧の供述を転載した (と書いた) 吾妻鏡を鵜呑みにし、泣き言に近い泰村の述懐を恰も史実の如くに受け止めて彼の性格的な欠陥の証左とする事そのものが不合理である。私はこの伝聞記事全体が吾妻鏡編纂者または合戦を記録した人物の捏造だと考える。 .
現存する法華堂の中では最大規模だと言われる 東大寺三月堂 (右画像、クリック→ 別窓で拡大表示) でも軒サイズは 32×25m。. 三月堂よりは小さいだろうと思われる頼朝法華堂に何人の武装兵が逃げ込めるか、矢が尽きた筈の三浦勢がどれ程の時間を稼げたのか、解消すべき疑問点は多い。 ※三浦家村: 木曽御嶽山の南麓にある王滝村 (地図) には鎌倉から逃げた家村が隠棲したとの 伝承がある。 .. 「三浦大夫」を名乗る人物に率いられた人々が王滝村と加子母村を結ぶ鞍掛峠経由でこの地に住み着いた。住民の多くが三浦姓だったことから大滝川の上流には三浦ダムまであろ。実に本格的な筋書きで同じ固有名詞が点在するのも面白い。 . なぜ木曽なのかと言うと、建暦三年 (1213) に追討された和田義盛の三男 朝比奈義秀が和田合戦で行方不明になった事に起因している。実は義秀の生母は 木曽義仲の側妾だった巴御前で、彼女が木曽の山奥に隠れるよう提言したらしい。 . ここまでは幾らか真実の匂いもするのだが...巴が義仲より5歳若いと仮定すると、彼女が寡婦になった寿永三年 (1184) には25歳前後、義秀は安元二年 (1176) 生まれだから、義仲が討死したときの義秀は8歳か9歳、和田義盛が如何にして木曽に住む巴を孕ませるのか知りたいね(笑)。 . 源平盛衰記はヨタ話の集大成だ。また宝治合戦を逃れた家村は蒙古へ渡ってフビライ・ハーンの家来となり、実情を探るため日本に密航したとか、元寇の蒙古兵の中に家村の姿を見たとか、武将の竹崎季長 (恩賞を求めて幕府に直訴した武士) は蒙古の軍船で家村と斬り合ったと主張している。 出典は蒙古襲来絵詞かな。 . 木曽にある道の駅 三岳から更に車で (県道 開田三岳福島線 ) 30分も山奥、2014年の噴火で死者+行方不明者63名を出した御嶽山の南東麓だ。余談だが、地元観光業者の要望で危険度ランクを一段下げた直後の悲劇...これを忘れた人のなんと多いことか。 . 明らかな人災を「想定外の自然災害」で処理する、羊の群れみたいに穏やかで、グループを守る術に長けた日本人。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 6月 9日 庚寅 . 吾妻鏡 |
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武蔵国で左衛門尉 武藤景頼※が左衛門尉金持次郎 (広綱?) ※を生け捕りにして連行した。泰村に与力し、去る5日には法華堂に籠って戦い (自殺の約束に背いて) 逃亡していた者である。
. 赤糸縅の鎧を着けて鴾毛の馬に跨り、甲冑で騎馬の郎従2人を伴って法華堂の裏山を登り逐電、6日に武蔵国河簀垣の宿に着いたところで景頼の郎従ら捕らえられた。 . . ※金持広綱: 伯耆国日野郡金持郷を本領とする武士。宝治合戦で三浦に味方して所領没収とな ったが、暫くして赦免され、所領安堵となったらしい。理由は不明。しかし法華堂の裏山を騎馬で逃げたというのは偉い!と言うか、嘘っぽい。 .100mで20~30mの標高差がある潅木帯だ。 河簀垣は調べても判らないが、一日で移動できる距離で河が付くなら川崎か。 ※武藤景頼: 宝治合戦後に引付衆、康元元年 (1256) に太宰権少弐、正嘉二年 (1258) に評定衆 に任じている。幕政の中枢で重用されるだけの能力を備えていた人物らしい。 .. ※葉黄記: 関東から (六波羅に) 飛脚が到着し、北條重時が仔細を報告してくれた。 去る5日に前若狭守 三浦泰村が兵を挙げ、北條時頼 が 五代将軍 藤原頼嗣の指示※を受けて討手を派遣した。合戦は立て籠った館に放火された泰村一族が 頼朝卿の墓堂に入って自害し巳、午、未の三刻 (5~6時間) で決着した。 .泰村と 光村以下の三浦一族が全滅、自害した者は300人に及んだ。元々 時頼側だった 毛利入道季光 は遂に泰村に味方して共に討ち取られた。 去年から高まっていた泰村の威勢だったが、このような結果に終わってしまった。 ※将軍の指示: 頼嗣は西暦1239年12月17日生まれ。6月5日には7歳5ヶ月なんですけど、葉室 定嗣 (葉黄記の著者) さん。和平を匂わせながら虐殺しても、執権の公式発表は「泰村の挙兵に対応して」となる。 .国益を守ると称して満州やビルマまで占領し、他国民に日本語教育まで強要する愚行を犯し、従軍慰安婦の存在なんて嘘だ、強制労働なんて捏造だったと強弁する。弱者の痛みには鈍感な日本人は、同胞であっても醜く感じる。 もう忘れたのだろうけど、約80年前の太平洋戦争の戦没者。 .軍人270万人、一般人85万人 (当時は日本人として軍部の支配下にあった朝鮮人と台湾人を含む) 。歴史学者の故 藤原彰 一橋大名誉教授は次のように結論づけている。 . 「戦没軍人の6割以上、160万人前後が戦病死。更に戦病死の大部分が戦場での餓死だった」 . 藤原彰教授の著書には同意でき兼ねる部分もあるが...「君が代と日の丸、愛国心と護国」、その美辞麗句の下で死んでいった360万人近い父祖同胞の無念から何を学ぶべきか、強く心に銘じて欲しい。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 6月10日 辛卯 . 吾妻鏡 |
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(泰村に与し
た) 甲斐前司 春日部実景の子息 (嬰児) が一人、武蔵国から鎌倉に入った。 .. 今日、合戦に加わった戦士からの勲功を所望する款状 (申請書) を受け付け、数十通が集まった。 また警備の任務に就いた武士らの勤務記録を確認し、左親衛 北條時頼の花押を書き入れて本人に返却した。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 6月11日 壬辰 . 吾妻鏡 |
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前刑部少輔の大江忠成※朝臣が評定衆を罷免となった。入道西阿 (毛利季光) に同意した処分である。 . 今日、東入道素暹が嘆きつつ訴え出た。上総五郎左衛門尉泰秀は素暹の娘を妻に迎え、ことし一歳の男子が産まれている。謀反の連座とすべきだが襁褓 (おむつ) の中で是非を弁える筈もない。 (6月7日に) 千葉秀胤を追討した恩賞に替えて私に預からせて頂きたい、と。北條時頼はこの願いを了承した。 . また越後入道勝円 北條時盛が申し出たのは、孫の掃部助太郎信時 (13歳) は泰村の外孫 (泰村の娘が時盛の長男時景 (別名を時朝) に嫁して信時を産んでいる。つまり時盛にとっては内孫) だが去る5日に起きた事件の経緯を知らず、ただ騒動に対応して駆け付けただけ。私に拘留させて頂けないか、と。 . . ※大江忠成: 大江広元の五男で毛利季光の次弟、別姓海東。熱田大宮司の養子として承元二年 (1208) に大宮司職を継ぎ、翌年には嫡男忠茂に継承させている。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 6月12日 癸巳 . 吾妻鏡 |
. .筑後左衛門次郎 (八田) 知定は去る5日に筋替橋※で若狭前司三浦泰村の郎従岩崎兵衛尉を討ち取った旨の書状を提出し恩賞を求めた。 . しかし知定は泰村の縁に連なる者として当日の朝まで三浦邸付近を歩き回り、合戦が終ってから自殺者の首を獲って申請している事が判明したため罪に問うべきとの沙汰が発せられた。 . これに伴って左衛門尉 平盛時を奉行として知定を問い質したところ 「一緒に戦っていた大曽祢左衛門尉長泰と左衛門尉 武藤景頼らに確 認すれば、私の言葉は必要ありません。」と答えた。 . . 右上は南側から見た筋替橋。歩道に石碑と古い橋柱が残る。 クリック→ 別窓で拡大表示 以前は奥の電柱横だったが民家の移転と共に駐車場入口となり、手前に移設されてしまった。 .
筋替橋の信号を北に入ってすぐの小道 (鎌倉時代の西大路入口) を左折すると100mで八幡宮の東鳥居、その先に流鏑馬道が伸びている。
. 安達勢の兵はこの道から西大路を北に入り、三浦邸に向けて鳴り鏑を飛ばしたのだが、現在は横浜国立大の正門で途切れてしまう。正門から三浦邸 (推定) までは約250m、鏑矢を射たのはもう少し先だろうか。 右画像は2022年秋、校門の手前から三浦邸の方向を。 クリック→ 別窓で拡大表示 . 左側のボードには 「埋蔵文化財発掘調査」 等の表示があり、 西御門跡の方向で工事中。もちろん、立ち入り禁止である。 発掘調査そのものは2023年秋で完了しているらしい。 . 吾妻鏡の養和二年 (1182) 4月24日に「八幡宮前の水田 (弦巻田) 三町歩余の耕作を停止させて池に改造、専光坊と大庭景義が工事を奉行した」旨の記載がある。治承四年 (1180) 10月6日に鎌倉に入った頼朝は .
① 10月9日に大倉御所の造営を指示し、② 同年10月12日に八幡宮の位置を決定、 ③ 治承五年 (1181) 7月8日に鶴岡八幡宮の造営を開始、 ④ 養和二年 (1182) 3月に参詣道 (若宮大路)を造成、 ⑤ 同年4月24日に八幡宮前の水田を池に改め道筋を変更、 などの基盤整備を進めた。水田の横を通っていた細道を拡幅して池の南を迂回させたから「筋替」で、後に大倉御所が完成して排水路を設置したから「筋替橋の塔の辻」になった。 .右画像は筋替橋周辺の拡大地図(クリック→ 別窓で拡大表示) 地図の茶色線は頼朝入府前にあった (かも知れない) 古い道筋。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 6月13日 甲午 . 吾妻鏡 |
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左親衛 北條時頼は続けて幕府に詰めて万事の報告を聴き決裁を下している。
.. 去る3日に始まった如意輪法の祈祷が結願し、大納言法印隆弁が読み上げた経文の巻数を報告し、時頼は深い信仰に従って謝礼の書状を渡し、「この度の合戦にも拘わらず関東が平穏だったのは偏に祈祷が齎した霊験である。」との言葉を与えた。 . 今日、 (泰村側に加わっていた) 大須賀八郎左衛門尉範胤が拘束され囚人となった。去る5日の法華堂の戦場から逃亡した罪を問われる。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 6月14日 乙未 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 今回の合戦で首謀者となった者の後家および嬰兒らを全て探し出した。 . 三浦泰村の後家は鶴岡別当法印 定親の妹で二歳の男子がいる。三浦光村の後家は 後鳥羽上皇の北面の武士だった医王左衛門尉 能茂法師の娘で並ぶ者のない美女である。光村の愛情は特に強く、最期を迎える前に互の小袖を取り替えていた。残り香が一層の悲しみを誘い今も嗚咽を漏らしている。泰村の後家と同じく赤子あり。 . 三浦家村の後家は大隅前司 嶋津忠時(嶋津忠久の嫡子)の娘、子女には妾腹を含め三人の嬰兒がおり、全て落飾出家となる。また今日、駿河三郎 三浦員村の息子 (少年) が囚人として伊豆守 河津尚景※に預けられた。 . 夕方になって六波羅の飛脚が鎌倉に到着、今回の合戦に関しての連絡である。以前に鎌倉から派遣した飛脚が9日に入洛して報告書を冷泉太政大臣 久我通光 に提出し、関白 近衛兼経を介して奏達 (後嵯峨上皇 に報告) した。争乱が静まり世情が平穏に戻ったのは喜ばしいとの仰せがあった、と。 . . ※百錬抄: 関東の飛脚が到着、去る9日に上総介 千葉秀胤が誅罰された。 . ※河津尚景: 加藤景廉の次男で、加藤景朝の次弟。詳細は未確認だが河津郷を得て河津姓を名 乗ったと推測される。河津を名乗った武士は他にもあり、伊東祐清※から七代後の河津貞重が九代執権 北條貞時から糟屋郡小中庄 (現在の尾仲町 (地図) を得た。後に筑前国宗像郡の西郷庄 (現在の福津市上西郷、地図)に移封となった、との情報もある。
.※伊東祐清: 「祐」は工藤や河津を含めた伊東一族の通字。土着した地名を姓にする事はあって も血族を表す「祐」の名乗りを捨てる事はない。貞時の偏諱を受けて名乗るなら祐貞か貞祐、河津貞重の名乗りは「河津を新領とした伊東一族以外」を意味する。
.. また伊東祐清の妻は 比企の尼の三女で、祐清の没後は平賀義信に再嫁したが子女の記録はない。従って河津を名乗る人物は祐清の直系である可能性は低い、筈。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 6月15日 丙申 . 吾妻鏡 |
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去る五日に平左衛門入道盛阿 (平盛綱) を介して若狭前司 三浦泰村に送った左親衛 北條時頼の書状※が求めに応じて後家から返却された。特に貴重なので紛失しないよう泰村に指示され、護符の紐に結んで保管していた。西御門三浦邸の炎上から逃れて走り出た際にも身に付けていたものである。時頼はこれを特に喜んだ。 . . ※時頼の書状: 吾妻鏡には「この騒動は天魔が心の中に入ったためだろうか。幕府には貴殿を 討伐する考えはなく、従来の如く異心を抱いている訳でもない」との内容で、更に誓詞まで書き加えたらしい。」と記載されている。これは騙し討ちの証拠になるから、時頼としては取り返したかっただろうね、週刊文春にでもリークされたら大変な騒ぎになる (笑) 。 .. 「時頼が直前まで和平を探った」との吾妻鏡の主張は嘘、という事だ。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 6月16日 丁酉 . 吾妻鏡 |
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左親衛 北條時頼は信濃民部大夫入道行然 (二階堂行盛の法名)に命じて今回の合戦で死んだ者の遺領等を書き出させた。主たる者の所領は既に把握しており、その他については惣地頭に確認した。 .. 今日、越後入道 北條時盛に (6月11日に申し入れのあった件の) 返答を送った。 . 孫の太郎信時については泰村の外孫で特に警戒する程の存在ではないし、去る5日には敵陣に対して矢を放っているから忠実でもある、時頼はむしろ褒め言葉を添えていた。これは祖父である北條時盛の申し入れが穏やかだったのも理由の一つである。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 6月17日 戊戌 . 吾妻鏡 |
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故上総介千葉秀胤※の末子 (一歳) と同修理亮千葉政秀 (秀胤の二男) の子息二人 (五才と三才) 、垣生次郎時常 (秀胤の弟) の子息一人 (四歳) が連行され、各々顔を確認した後に監督者に預けられた。
. . ※秀胤&2人: 共に6月7日に上総一ノ宮の館を同族の大須賀氏と東氏に攻められ滅亡した。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 6月18日 己亥 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 6月19日 庚子 . 吾妻鏡 |
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豊田源兵衛尉法師※の子息で太郎兵衛尉と次郎兵衛尉の兄弟二人が囚人となった。日頃は疎遠な関係だったが高麗寺※衆徒の通報によって生け捕られた。 . . ※豊田源兵衛尉: 大庭 (懐島) 景義の弟 豊田景俊、本領は相模国豊田庄 (大庭塚と豊田郷、大庭 御厨の範囲を参照) 。吾妻鏡の文治四年 (1188) 11月27日に「群盗が景宗の墳墓を掘り起こして中の財物を盗み取った、云々」の記載がある。 .. 豊田景俊は 後三年戦役で有名を馳せた 鎌倉権五郎景政の孫 大庭景宗の息子で、治承合戦の際は兄の景義と景俊は頼朝側で、異母弟の 大庭景親と 俣野景久は平家方として戦っている。家系の詳細は「秩父平氏の系図」の最下段を参照されたし。 . 大庭氏と豊田氏は建暦三年 (1213) 5月の和田合戦で 義盛に味方して全滅したと思っていたが、生き残りがいたんだね。 ※旧高麗寺: 現在は大磯の高来山 (地図) にある。元々は奈良時代以前から続く神仏習合の社寺 だったが明治維新の神仏判然令で 高来神社と高麗寺に分離した。高麗寺は間もなく廃寺となり、仏像などは大磯港に近い末寺の慶覚院に遷され、更に明治中期の大火に被災して高来神社の南に隣接する現在地に移り、慶覚院として現存する。 .. 近くには 六所神社など多くの見所があるのだが高来神社だけは未訪問のまま茨城県に転居してしまった。実に悔しいことの一つだ。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 関連記事を . 時系列で表示 |
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吾妻鏡から宝治合戦の記事だけを抜き出して 時系列で一覧(別窓)にしてある。ご参考に。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 6月20日 辛丑 . 吾妻鏡 |
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奥州に滞在していた駿河八郎左衛門尉 三浦胤村※は一族の滅亡を聞いて出家し、大夫判官 小山長村の囚人として鎌倉に入り惣領家の遺領の多くを書き出した。その中に駿河九郎重村 (三浦光村の次弟) が相続した数ヶ所の領地が含まれていた。これは重村が八幡宮別当 定豪の稚児として仕えていた頃に可愛がられ、相続したり買い取ったりした土地などを与えた分も含まれている。 買い取った土地は没収の対象外となるが、その他の所領を併せた処理は評定を経てから決定する事になる、と左親衛 北條時頼が定めた。 . . ※三浦胤村: 三浦義村の八男で 泰村の異母弟。乱に関与なしと判断で助命された後は 親鸞に 帰依して常陸国下妻に 光明寺 (地図) を開いたと伝わる。 .寺伝では「開基は明空、俗名 三浦義忠」 だがこの名は系図には見えず、親鸞に帰依していた胤村と義忠は同一人物かも知れない、なんて。 . 奥州にある三浦一族の所領で思い出すのは建暦三年 (1213) 初夏の 和田義盛の乱の後に、陸奥国名取郡 (宮城県名取市と岩沼市一帯、地図)の義盛遺領を同族の 三浦義村が獲得していた事で、胤村がいたのは名取郡だったかも。 . また乱の発端に絡んだ 和田平太胤長が流されたのも陸奥国岩瀬郡 (現在の福島県天栄村と鏡石町の一帯) だったっけ。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 6月21日 壬寅 . 吾妻鏡 |
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留守介※が幕府に駆け付け、佐原十郎左衛門尉三郎秀連を奥州で討ち取ったとの知らせが届いたと報告した。 . ※留守介: 平安時代末期に葉室大納言 藤原光頼の家司として仕えていた 伊沢家景の管理能力を 認めた北條時政が抜擢し頼朝が文官として重用した。 .奥州合戦および直後の大河兼任の乱鎮圧後に陸奥国留守職に任じられ、葛西清重と共に奥州総奉行として能力を発揮した。 . 子孫が陸奥国留守職を世襲し、家景の嫡男家元以後が留守氏を名乗っている。該当の留守介が家元なのか (家景は承久三年 (1221) に死没) 、その息子か或いは別人か、確認できない。 . ちなみに鎌倉時代中期以後の留守氏は奥州での北條氏支配地が拡大するに従って徐々に衰退し、秀吉の頃から後は伊達氏の家臣として吸収されていく。 ※佐原秀連: 三浦 (佐原) 義連は奥州合戦の勲功で会津の周辺を与えられ、嫡子 盛連の時代には 系累の多くが会津、会津葦名、猪苗代を相続していた。 .. 盛連は、北條泰時の正室として 時氏を産んだ後に離縁となった 三浦義村の娘 (後の矢部禅尼) を妻に迎え三人の男子 (蘆名光盛、加納盛時、新宮時連) を産んだ。 兄弟三人は宝治合戦では母の前夫だった執権泰時から続く北條氏に味方して勝利し、滅亡した三浦本家の名跡は盛時が継承した。 佐原氏の中で北條側に与したのは盛連の系だけで、盛連の弟 政連と景連の系は三浦泰村に味方して滅亡している。佐原秀連は政連の息子にあたる。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 6月22日 癸卯 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
. 去る五日の合戦で死亡した主な者の記録が寄合の座で披露された。 . 自殺および討死した者 . 若狭前司三浦泰村 同子息次郎景村 同駒石丸 能登前司三浦光村 同子息駒王丸 .駿河式部三郎 同五郎左衛門尉 同弟九郎重村 三浦又太郎式部大夫氏村 同次郎 同三郎 三浦三郎員村 蔵人大夫入道毛利季光 同子息兵衛大夫光広 同次郎蔵人入道 同三郎蔵人 同子息吉祥丸 大隅前司重隆 同子息太郎左衛門尉重村 同次郎 平判官太郎左衛門尉義有 同次郎高義 同四郎胤泰 同次郎 高井兵衛次郎実茂 同子息三郎 同四郎太郎 佐原十郎左衛門尉泰連※ 同次郎信連 同三郎秀連 同四郎兵衛尉光連※ 同六郎政連 同七郎光兼 同十郎頼連 肥前太郎左衛門尉胤家 同四郎左衛門尉光連※ 同六郎泰家 佐原七郎左衛門太郎泰連※ 長江次郎左衛門尉義重 下総三郎 佐貫次郎兵衛尉 稲毛左衛門尉 同十郎 臼井太郎 同次郎 波多野六郎左衛門尉 同七郎 宇都宮美作前司時綱 同子息掃部助 同五郎 春日部甲斐前司実景 同子息太郎 同次郎 同三郎 関左衛門尉政泰 同子息四郎 同五郎左衛門尉 能登左衛門大夫仲氏 宮内左衛門尉公重 同太郎 弾正左衛門尉 同弟十郎 多々良次郎左衛門尉 石田大炊助 印東太郎 同子息次郎 同三郎 平塚左衛門尉光広 同子息太郎 同小次郎 同三郎 同土用左兵衛尉 同五郎 得富小太郎 遠藤太郎左衛門尉 同次郎左衛門尉 佐野左衛門尉 同子息太郎 佐野小五郎 榛谷四郎 同子息弥四郎 同五郎 同六郎 白河判官代 同弟七郎 同八郎 同式部丞 上総権介千葉秀胤 同子息式部大夫時秀 同修理亮政秀 同五郎左衛門尉泰秀 同六郎秀景 垣生次郎時常 武左衛門尉 同一族 長尾平内左衛門尉景茂 同新左衛門尉定村 同三郎為村 同次郎左衛門尉胤景 秋庭又次郎信村 同三郎左衛門尉光景 同次郎兵衛尉為景 同新左衛門四郎 岡本次郎兵衛尉 同子息次郎 橘大膳亮惟広 同子息左近大夫 同弟橘蔵人 生死不明 . 駿河式部大夫三浦家村 .生け捕りになった者 . 駿河八郎左衛門尉胤村 (出家) 金持次郎左衛門尉 毛利文殊丸 豊田太郎兵衛尉 .同次郎兵衛尉 長尾次郎兵衛尉 美濃左近大夫将監時秀 大須賀八郎左衛門尉 逃亡した者 . 小笠原七郎 大須賀七郎左衛門尉 方右衛門次郎 .. ※一部重複: 佐原四郎兵衛尉光連の重複、佐原七郎左衛門太郎泰連の重複など多少の記載ミス あり。三浦氏は無論のこと 佐原氏、長江氏、佐貫氏、稲毛氏、波多野氏、宇都宮氏、佐野氏、榛谷氏、長尾氏、武氏、豊田氏、小笠原氏、大須賀氏など 頼朝挙兵時代から慣れ親しんだ一族の武士が滅亡するのって肉親を失うようで寂しいね。 .※ 勝った側は?: 通常の合戦では勝利した側の戦死や負傷の名簿も載せるのが普通だが、宝治 合戦では全く載っていない。つまりリストに載せる程の損害がなかったことを意味する。圧倒的多数による奇襲と虐殺である事実は隠し難い。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 6月23日 甲辰 . 吾妻鏡 |
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甲斐前司春日部実景の幼い息子一人が武蔵国から連行され鎌倉に入った。 . 今日、神社仏寺に新たな領地が献じられた。対象は鶴岡八幡宮および右大将家 (頼朝) の法華堂などである。また去る五日の合戦に関する恩賞が既に数十人に及んだが、筑後左衛門次郎知定は若狭前司 三浦泰村の郎従岩崎兵衛尉を討ち取ったにも関わらず選に漏れた。一時期の知定が泰村に与力していた疑惑による。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 6月24日 乙巳 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 6月25日 丙午 . 吾妻鏡 |
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若州 (若狭守だった 三浦泰村) 以下、落命した者の後家らに生活の手立てを配慮せよとの御沙汰があった。併せて鎌倉での居住は禁じると伝えよ、と。信濃民部大夫入道行然 (二階堂行盛) と左衛門尉 平盛時がこれを担当する。
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. . 89代 後深草天皇 |
. 6月26日 丁未 . 吾妻鏡 |
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今日内々の御寄合※があり、京都朝廷との関係は特に円満を心がけるよう沙汰があった。左親衛 北條時頼、前右馬権頭 北條政村、陸奥掃部助 北條実時、秋田城介 安達義景が参集、兵衛入道 諏訪盛重が奉行に任じた。 . . ※寄合 (衆) :寛元四年 (1246) 閏4月の 宮騒動以後の得宗専制体制の中で執権を核とした少数の 幕府重臣による密室会合が更に重要な政策決定を担い始める。 .それまでの「評定衆」は自然消滅となったが、最も大きな変化は北條嫡流の陪臣が政権運営に参画した事だろう。 . 宝治合戦後は泰村に替えて諏訪盛重が加わり、元寇期 (1264年以後) には佐藤業連、諏訪盛経、平頼綱などの御内人 (得宗被官) が追加され徐々にその勢力を広げていく。 . 私は古参御家人に置いていた信頼を子飼いの陪臣に切り替えたのは執権時頼の度量の浅さだと考えている。度量の浅さが更なる執権独裁を招き、統治組織の変容が結果的に八代執権 時宗による元寇対策の暴走を招き、弘安八年 (1285) の 霜月騒動を引き起した、と。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 6月27日 戊申 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 6月28日 己酉 . 吾妻鏡 |
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(6月20日に奥州から連行された) 駿河八郎左衛門尉 三浦胤村入道から上申、「亡父 三浦義村は多くの勲功により忠義を尽くしました。その息子として全く謀反など考えておりません。」との内容を左衛門尉 平盛綱が取り次いだ。北條時頼は「評定の序でに尋ねて検討しよう。」とのこと。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 6月29日 庚戌 . 吾妻鏡 |
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上野入道日阿 (結城朝光) が下総国※から鎌倉に入った。駿河前司 三浦義村と若狭前司 三浦泰村とは二代に亘る知音 (親しい友) だった。北條時頼に面会した際に涙を拭って懐旧の言葉を述べた。「私が鎌倉に居たら泰村を討伐の恥辱には会わせなかったのに」と。時頼は自分の立場など考えない無我の心情に心を打たれた。 . .
※下総国: 資料によって下野国と記載しているケースなど
あるが、原文の 「下総」 が正しい。 .朝光の本領である結城は現在は茨城県 (常陸国)) だが、鎌倉時代中期までの行政区分では下総に含まれていた筈だ。 . また晩年の朝光 (この年は満79歳) は家督を嫡子 朝広に譲って既に剃髪し、現在の下妻市 (ここも当時は下総国) 周辺を拠点にして布教活動を行なっていた 親鸞に深く帰依し、信仰の世界に生きている。下野国または上野国にいたとは考えにくい。 右上は結城の称名寺に伝わる結城朝光の墓標。 朝光の生涯については右画像をクリックして 結城朝光の旧蹟 (別窓) の参照を。 ※朝光の心情: 理解はできるが、同様の事件があったのが記憶に残っている (その記憶を辿って いる) 。やはり知人が執権の追討を受けた際に朝光は「私が知っていたら云々」と語っていた。個人的に結城朝光の生き様は好きなのだが、何回も重なると執権の方針に対する疑義があった筈なのに、なぜ提言などを避けたのか、と疑ってしまう。。思い出したらすぐに追記しようと思う。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 6月30日 辛亥 . 吾妻鏡 |
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御所での六月御祓い※は中止となった。去る五日の合戦による触穢が理由である。 . . ※六月祓い: 半年が過ぎたら心身に積もった穢を払う行事、夏越祓え (なごしのはらえ) とも。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 7月 1日 壬子 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 御所中の番帳 (勤務割) を改めた。三浦泰村の一族および与党の数人が欠員となり、(小侍所別当の) 陸奥掃部助 北條実時を奉行として新しく加える人物を厳選し清書した。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 7月 2日 癸丑 . 吾妻鏡 |
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鶴岡八幡宮の九月九日 (長陽節) の神事を実施するか否かの評議があり、放生会を催した後に決めると定めた。清左衛門尉 清原清定がこれを奉行する。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 7月 3日 甲寅 . 葉黄記 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 7月 4日 乙卯 . 吾妻鏡 |
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夜になってから大納言法印 隆弁が鶴岡八幡宮の別当坊に移った。別当再任※の件は再三辞退したが、重ねての仰せを承諾する結果となった。 . . ※別当再任: 原文は当職事再任雖辞申、「当職への再任を辞退したけれど」だが... 建保七年 (1219) 1月に八幡宮別当の 公暁が 実朝を殺して追討された、その跡を継いで 定豪が就任し翌年9月に辞任。その後は弟子の定雅→ 定親→ 隆弁 (1247~1283年) と続いているが、隆弁は再任ではなく八幡宮寺別当に就くのは初任である (鶴岡八幡宮 (別窓) の末尾、「歴代別当の名と任期」を確認されたし) 。隆弁は祈祷や仏事などで八幡宮とは再三の接点を保っていた経緯から「再任」の言葉が出たのではないか、と思う。
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. . 89代 後深草天皇 |
. 7月 7日 戊午 . 吾妻鏡 |
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左親衛 北條時頼が評定衆と奉行人 (実務担当の中堅管理職か) を招き飲食で饗応し引出物まで贈った。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 7月10日 辛酉 . 吾妻鏡 |
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相模国一宮 (寒川神社) の杉数本が焼けた。神の火かとの報告があり、幕府は何らかの対処を命じた。 . . ※相模国一宮: 上古の相模は東の相武 (さがむ) と西の磯長 (しなが) に分かれていた。 大化の改 新 (646年) の際に相模に統一された、と伝わっている。その際に相武の寒川神社と磯長の川匂神社が一之宮を争い、寒川神社に決まった、と。 .それとは別に 平安末期に国衙が置かれた大磯には相模国の総社として 六所神社 (別窓) がある。 .
相模の国衙に赴任した国司が有力神社に巡拝する費用と手間を省くため 一之宮寒川神社、二之宮川匂神社、三之宮比々多神社、 四之宮前鳥神社、五之宮平塚八幡宮 の五社を大磯の国衙近くに合祀して六所神社を建立した。. 毎年5月5日には六所神社から約 1km北の神揃山で一之宮神官と二之宮神官が虎の敷皮 (神座の意味) を薦め合う無言の神事「座問答」があり、三之宮神官の「いずれ明年まで」の言葉で神事の幕を閉じる。祭事次第は「相模国府祭」で検索すると動画も確認できるが、大混雑に耐える根性があれば一見を薦めたい。 右画像は神官が座る神体石の標識。 画像をクリック→ 六所神社の詳細 (別窓、神揃山の画像は末尾に) 。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 7月14日 乙丑 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 7月16日 丁卯 . 吾妻鏡 |
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大納言法印 隆弁が鶴岡八幡宮別当職に補任されてから初めての拝賀を行ない、また宮寺領の武蔵国矢古宇郷※にある別当の取り分を読経料として提供し、不断の大般若経転読を始めさせた。 . . ※矢古宇郷: 承久三年 (1221) 8月7日の吾妻鏡に「(承久の乱に伴う合戦が無事に終わった謝礼 として)鶴岡八幡宮には武蔵国の矢古宇郷 (五十余町) の管理権を寄進した」との記録があり、その一部が別当の取り分らしい。明治二十二年 (1889) まで草加市にあった矢古宇村の名は綾瀬川に架かる橋 (地図) だけに残されているのも面白い .※大般若経転読:百聞は一見に如かず、動画の中から実態の確認を。信仰と言うよりは形式の 世界だ。表題の部分と末尾の部分を開く (通過する) 事により一巻を読謡したと看做される。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 7月17日 戊辰 . 吾妻鏡 |
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六波羅から相模守 北條重時が参着した (去る三日に出京) 。故入道武蔵守 (地図) か?)を住居とした。 .. ここは武州禅室北條泰時から経時が相続した屋敷で、去る寛元二年 (1244) 12月26日に焼失した (該当日に記事あり) 後に再建してある。経時はこの屋敷で臨終を迎え、その後は住む人がいなかった。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 7月18日 己巳 . 吾妻鏡 |
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六波羅 (鎌倉時代末期まで「探題」の呼称なし、単に六波羅と呼ばれた) の後任として相模左近大夫将監 北條長時※が任命された。長時に従って赴任する部下は既に選出を終えている。 . .
※北條長時: 父の 重時は得宗家に次ぐ家格だった極楽寺流
の祖。正元元年 (1259) に 極楽寺を開基し、引退後はここに隠棲したのが極楽寺流北條氏の語源となった。 .. 長時はその嫡流として赤橋流 (八幡宮赤橋 (太鼓橋) の前に住んだとの経緯) の祖となり、康元元年 (1256) 11月には時頼の跡を継承して第六代の執権に任じるのだが... . 五代執権から引退した時頼は死の直前まで実権を手放さず、六代執権 長時と七代執権 政村は 時頼の嫡子 時宗が成長して執権職に就くまでの繋ぎ役を務めることになる。 右画像は現在の太鼓橋(画像をクリック→ 別窓で拡大表示)。 鎌倉時代は朱塗りの木橋で、ここが「上の下馬橋」だった。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 7月19日 庚午 . 吾妻鏡 |
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叛逆者の縁者および従者などについて、事件の処理に便乗して所領や財物の横領を企てる者がいるのは甚だ遺憾であり早急の防止策が求められる。指示に従わない場合は姓名を書き出して報告せよと六波羅に命じた。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 7月24日 乙亥 . 吾妻鏡 |
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将軍御所を移転※すべきとの沙汰があった。来る10月14日に土木に関わる工事を始めるよう関連する御家人に通告する奉書を発行した。筑前前司 二階堂行泰と大曽祢左衛門尉長泰※がこれを担当する。
. . ※御所移転: 別の敷地に移った記録はなく若宮大路幕府の敷地内での建物移転と推定される。 . ※大曽祢長泰: 安達盛長の次男 時長 (安達景盛 の弟) が分家して大曽祢荘 (山形市西部 (地図) を 領有して大曽祢氏を名乗ったのが最初。長泰は時長の嫡子で、建長元年 (1249) ~弘長二年 (1262) まで引付衆に任じた。 .. 引付衆は主として御家人の所領に関係する訴訟の迅速化を図るため設けた評定衆の下部組織で、幕政のトップには時頼が指揮する寄合衆 (得宗被官を含む) 、その下に評定衆、その下に実務を担う引付衆が位置する、時頼による独裁体制の整備である。しかし 「将軍家別当」 という表現は確か初出だと思う。将軍家別当=執権なんだね。 . 北條嫡流による独裁の常態化が組織の脆弱を招き、硬直した元寇対応を経て経済の破綻を招き、霜月騒動を招き、幕府体制の崩壊を招いた。組織の欠陥を是正しなかった元凶は 時頼と 時宗だ、と私は考えている。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 7月26日 丁丑 . 吾妻鏡 |
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左親衛 北條時頼邸で祈祷が始められた。
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. . 89代 後深草天皇 |
. 7月27日 戊寅 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 8月 1日 辛巳 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 習慣的になっていた贈答の遣り取りを禁じる命令を発布した。五代将軍 藤原頼嗣への贈り物も、二人の御後見 (執権と連署) からの場合以外は禁止となった。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 8月 5日 乙酉 . 吾妻鏡 |
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京都大番役について、規則に従って精勤せよとの沙汰が下った。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 8月 8日 戊子 . 吾妻鏡 |
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辰の一点 (7時過ぎ) に大曽祢左衛門尉長泰が使節として上洛の途に就いた。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 8月 9日 己丑 . 吾妻鏡 |
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左親衛 北條時頼が従来の住まいを修理するため桧皮で葺いた寝殿に移転した。
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. . 89代 後深草天皇 |
. 8月13日 癸巳 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 8月14日 甲午 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 8月15日 乙未 . 吾妻鏡 |
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恒例の放生会は延期となった。去る6月の合戦の死者による穢 (けがれ) に加えて、兵火により流鏑馬の厩舎が焼失したためである。京都では関東の飛脚が入洛した去る6月9日 (つまり穢を持ち込んだ日) から7月5日までを触穢としている。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 8月17日 丁酉 . 葉黄記 |
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晴。関東の使節として大曽祢左衛門尉※が入洛、4~500騎を率いている。 . . ※大曽祢左衛門尉:8月8日に鎌倉を発った 安達盛長の孫 長泰 (7月24日を参照)。 葉黄記は荘園の帰属や 三浦泰村の遺領を後嵯峨上皇に寄進するなど事務処理の他に「審議あり」と書いている。 .. 朝廷側は 藤原頼経→ 頼嗣と続いた摂家将軍を廃して天皇家から親王を迎え将軍に擁立する事を認め、執権 時頼側は後嵯峨院政に全面的な協力を約束する、そして双方にとって邪魔な存在となった九条家を完全に排除するという内容の基本的な合意が取り交わされたのだろう、と (個人的には) 考える。 . 一般的には時頼が頼嗣の勉学に尽力したとされるが、頼嗣の温存は鎌倉にも朝廷にもメリットがない。建長四年 (1252) 2月、後嵯峨天皇の第一皇子 宗尊親王 (満9歳) が鎌倉に下向して六代将軍となる。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 8月18日 戊戌 . 吾妻鏡 |
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(絵師に) 千手観音像を描かせた。将軍家 (藤原頼嗣) の体調不良に対応した施業である。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 8月20日 庚子 . 吾妻鏡 |
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鎌倉中の保々 (行政の最小単位) に対し、各保の管理者は浪人 (武士に限らず定住や定職のない浮浪者) を追放せよとの命令を下した。
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. . 89代 後深草天皇 |
. 8月22日 壬寅 . 吾妻鏡 |
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五代将軍 藤原頼嗣の体調不良が平癒した。
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. . 89代 後深草天皇 |
. 8月23日 癸卯 . 葉黄記 |
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晴、曇。関東の使節が京都を発って鎌倉に向かった。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 9月 1日 辛亥 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 亥一刻 (21時過ぎ) から丑四点 (4時過ぎ) まで大風※が吹き仏閣や人家の多くが倒壊や 破損の被害を受けた。 . . ※大風: 旧暦の9月1日は新暦の10月1日、少し遅い台風か。翌日深夜までとは長すぎるが。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 9月 2日 壬子 . 吾妻鏡 |
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子刻 (深夜12時前後) も大風がおさまらず、多くの樹木が吹き倒された。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 9月 9日 己未 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 9月11日 辛酉 . 吾妻鏡 |
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筑後左衛門次郎知定※が和字 (ひらがな) の上申書を提出、三浦合戦の恩賞に漏れた事の嘆きである。 一族累代の勲功 (平将門による天慶の乱) などを例に挙げて主張の正当性を綿々と述べた。 . 左親衛 時頼は何回も読み返し「獲麟の一句(絶筆を意味する) を述べているのに対応しないのは残念だ。」と語り、勲功奉行に調べさせ評定の際に検討せよとの沙汰を諏方兵衛入道盛重に指示した。 . . ※筑後知定: 八田知家の三男で茂木郷 (栃木県東部、地図) を継承した三郎知基の孫か曾孫か。 6月12日の合戦で「三浦泰村の郎従 岩崎兵衛尉を討ち取った」として恩賞を求めたが死人の首を切った疑いありとして勲功が保留になっていた武士である。 .. 先祖の 藤原 (北家) 忠文は天慶三年 (940) に坂東で反乱を起こした 平将門の討伐に派遣されたのだが、現地に到着する前に将門は 藤原秀郷と 平貞盛の連合軍に討たれていた。更に翌 天慶四年 (941) には瀬戸内海で反乱を起こした藤原純友の討伐を命じられたのだが、こちらも 大蔵春実らに先を越されて活躍の場はなかった。 . 二度の出動に関して忠文が主張した恩賞は見送られた上に辞任も許されず天暦元年 (947) に死没、その後に関係者の死亡が相次いだため怨霊の祟りと噂され、鎮魂に 末多武利神社が創建されたと伝わる。 知定の主張は「努力したんだから評価してくれ」という事なのだろうか? .
閑話休題<栃木県はイチゴの名産地。休日には客数も多い 道の駅もてぎの「おとめミルク」(右画像)は特に人気が高い。 . 栃木県 (南西部の佐野市) で生まれた妻の意見は、同じ栃木でも少し南に離れた 道の駅にのみや で扱っているスイーツ各種(公式サイト)の方が「絶対に楽しめる」らしい。 . 特に「にのみや」では品種改良を重ねて開発した美味しいイチゴ (なつおとめ) が夏でも食べられる。私の家から約11km、15分で行けるよ。羨ましいだろ! . 近くを通った際には是非ご賞味を。中でもイチゴのロールケーキは特に甘党でもない私でもお薦めできる逸品、だと思う。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 9月13日 癸亥 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 9月16日 丙寅 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 10月 8日 丁亥 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 卯四点 (朝6時過ぎ) に大地震あり。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 10月14日 癸巳 . 吾妻鏡 |
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御所を他の場所に移転する意見が従来からあったが実施しないと決まり、その旨が告知された。 これは嘉禎二年 (1236) に武州前史禅室 北條泰時が特に検討した上で現在の幕府を新造してから長い年月が過ぎており、今頃に更に良い土地を選ぶ理由はないとの有識者の意見が重視された結果である。 . . ※幕府の移転: 大倉から宇都宮辻子に移転したのが嘉禄元年 (1225) 、これは建久十年 (1199) 1 月に 頼朝が没して以来の幕府を支え続けた 義時、政子、大江広元が相次いで死没したため、執権を継承した泰時が人心を一新して執権を軸にした合議制を軌道に載せたいとの意向から実施された。 .. 「あの三人の影が背後霊みたいに残ってる大蔵から離れたい」のが本音だろうけど(笑)。この移転は根拠が薄弱だったし、得る物の無い失敗だった、と思う。 . 更に11年後の嘉禎二年 (1236) 8月には敷地の北 三分の一が重なる形で北に拡張移転して若宮大路幕府となり、元弘三年 (1333) の鎌倉陥落まで98年間政庁が置かれ続ける。 . 宇都宮辻子から若宮大路に移転した理由は諸説あって明確ではないが、天変地異が続いた事や寛喜年間 (1229~1232年) の飢饉や、成長した摂家将軍 藤原頼経の幕政関与などが重なった結果の、やや必然性の乏しい移転だった。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 10月18日 丁酉 . 吾妻鏡 |
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今日、左親衛 時頼の寝殿 (私邸部分) を隣接した土地に曳き移した。概ね新築と同様である。 . .
※鎌倉仏教: この時代に二人の著名な宗教者が関東で胎動を
始めている。一人は法華宗を開いた 日蓮、一人は律宗の指導者として鎌倉の貧民救済と行政に関わる土木事業などに大きな足跡を残す、真言律宗の 忍性である。 .. 法然と 親鸞について語る必要はあるが、この二人にはいずれ別項を割こうと考えている。 . 嘉禎三年 (1237) に安房の 清澄寺 (公式サイト) で出家した日蓮は寛元三年 (1245) に比叡山、翌年に 三井寺、宝治二年 (1248) に 薬師寺と 仁和寺、更に 高野山を経て建長二年 (1250) には 天王寺と 東寺 に遊学、同 五年 (1253) に清澄寺に戻り 法華の信者として初の説法を行なった。 (寺院の名は全て別窓の公式サイト) . そして建長六年 (1254) には鎌倉で政治の改革を求めつつ他宗を激しく攻撃する辻説法を始める。「真言は亡国、禅は天魔、念仏は無間 (地獄) 、律は国賊」だ、と。 . 右上画像は小町大路の日蓮辻説法跡 (クリック→ 別窓で拡大表示) 。 更に詳細は 二つの政庁跡と辻説法の跡で。 . .
延応元年 (1239) に 西大寺 再建の勧進聖として働いた忍性は真言律宗に加わり 叡尊の下で受戒、そして翌仁治元年 (1240) には 額安寺 近くの非人宿で貧者の救済と真言律宗の布教に専念する。. 以後数年間の非人救済活動の合間に関東に赴いて仏教事情を調査、建長四年 (1252) には本格的な関東布教を目指して常陸に移った。小田知重の庇護を受けて三村寺 (三村山極楽寺) を建立し、常陸内陸の水運を利用して布教を続けながら鎌倉進出の機会を待った。 . 正元元年 (1259) には 北條重時に招かれて鎌倉極楽寺地域に定住、弘長元年 (1261) には執権 北條時頼の信頼を得て布教と非人救済活動を本格化し、翌 弘長二年には律宗と念仏宗の中心的な存在となる。文永四年 (1267) には鎌倉に 極楽寺を開く。 . 右上は当初の忍性が拠点を置いた常陸国小田の三村山極楽廃寺跡に残る巨大な 五輪塔。 画像をクリック→ 極楽廃寺の明細(別窓)へ。 . 頼朝死没の翌 正治二年 (1200) に 政子が 栄西を招いて開いたのが 金剛寿福禅寺で、北條泰時が栄西の弟子 退耕行勇に開かせたのが 粟船山常楽寺。 . ただし政子の信仰対象は基本的に清水寺で常楽寺も泰時の妻が創建した時は密教寺院だったから、泰時の頃までは密教や真言に臨済宗を含む渾然一体の仏堂だった。 . 建仁二年 (1202) に栄西が建立した京都の 建仁寺でさえ 「禅、天台、真言の三宗兼学」 で、鎌倉に下向したのも京都での禅宗布教に行き詰ったのが主な理由だったが、泰時以後の鎌倉幕府支配階級の信仰 (謂わば国教) は臨済禅に集約されていく。 . 栄西には 実朝を筆頭に幕府要人らが帰依し、蘭渓道隆に帰依して 建長寺を建てた 時頼、無学祖元 に帰依して円覚寺を建てた八代執権 時宗、渡来僧 一山一寧に帰依した九代執権 貞時など、幕府中枢を含む武士階級は 禅宗 (臨済宗) を心の拠り所にしていた。 . 一方で被支配階級の庶民は 律宗、念仏宗、法華宗に分化して勢力を競い続ける。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 10月20日 己亥 . 吾妻鏡 |
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来月の放生会に将軍家が御参宮、供奉人について今日沙汰があった。担当は陸奥掃部助 北條実時※。 . . ※北條実時: 7月1日に 「小侍所別当として御所中の番帳 (勤務割) を改め人物を厳選した」との 記載あり。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 10月21日 庚子 . 吾妻鏡 |
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(曳き家して工事中だった)左親衛 北條時頼の私邸が上棟した。
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. . 89代 後深草天皇 |
. 11月 1日 庚戌 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 午刻 (正午前後) 、去る6月の三浦合戦で焼失していた鶴岡八幡宮馬場の流鏑馬厩舎を建て直した。 また今日の評定衆の会議で五代将軍 藤原頼嗣から仰せがあり 「地頭の管理下にある土地であっても名主 (土地の開拓者) から異議が出れば状況により検討すべし」 との指示があった。 . . ※将軍の指示: 満 8歳でその発言はムリだ。素直に「評定衆の合議で」と書けば良いのに。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 11月 7日 丙辰 . 吾妻鏡 |
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丑刻 (深夜2時頃) に失火が原因で金剛寿福寺 (現在の 金剛寿福禅寺) の仏殿から惣門まで全焼※した。 . . ※寿福寺の火災:10年後の正嘉二年 (1258) 1月17日にも 「甘縄からの延焼で惣門、仏殿、庫裏、 方丈などを全焼、寺域には一宇も残らず」との記載がある。現在の建物は全て南北朝以後の建築らしい。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 11月11日 庚申 . 吾妻鏡 |
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筑後左衛門次郎八田知定※が恩澤に浴した。去る6月5日の合戦で挙げた勲功であり、疑義があって保留になっていたものである。当人の嘆願により再調査した結果、武藤左衛門尉景頼が証人として起請文を提出 「知定は須知替橋 (筋替橋) で合戦し岩崎兵衛尉を討ち取った事に間違いなし」と報告したためこの結果になった。今度の勲功の中では珍事であると評判になった。 . 今日、地頭の管理地に関する名主および百姓の訴訟について規則を定めた。「開拓した領主に過失が認められない場合は道理に依拠して決裁せよ」との内容である。 . . ※八田知定: 恩賞の求めについては9月11日に記載あり。地頭の管理地に関わる訴訟の件は11 月1日に将軍 藤原頼嗣の指示だが、時々ダミーに「将軍の意向」を利用するから始末が悪い。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 11月14日 癸亥 . 吾妻鏡 |
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相模守 北條重時が新造の屋敷※に転居した。評定所※および訴訟人らの控え室や東の小侍詰所などが今回初めて増築されている。 . . ※重時邸:7月17日に「故 北條経時の小町上の旧宅 (御所北面の若宮大路沿い) を住居とした」 との記載がある。記述通りなら三の鳥居の真ん前の角地、凄い一等地だ。 .※評定所: 訴訟全般を扱っていたのは問注所。処理案件の増加に伴い建長元年 (1250) に引付衆 を新設して御家人の所領に関する訴訟を扱う部署、民事訴訟全般は問注所の扱いに変更となった。 .. ここに記載のある 「評定所」 は 「評定衆が政務を協議する場所」 を意味する。政所の一部署だった問注所がこの時点ではまだ評定所の権能に含まれていた可能性あり。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 11月15日 甲子 . 吾妻鏡 |
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晴。鶴岡八幡宮の放生会。去る6月5日の三浦泰村追討での触穢と流鏑馬厩舎の焼失により延期されていた。五代将軍 藤原頼嗣が御束帯と御車で出御し卿相雲客 (公家、殿上人) も参席、五位以下の供奉人は通例通り。 . 先陣の随兵 . 出雲前司波多野義重 左衛門尉三浦(佐原)五郎盛時 壱岐次郎左衛門尉※ 籐内左衛門尉宇佐美祐秀 (宇佐美祐茂-祐政-祐秀-祐泰へ) 信濃四郎左衛門尉二階堂行忠 左衛門尉和泉次郎景氏 武藤四郎頼隆 下野七郎経綱(宇都宮泰綱の次男) 北條六郎時定 越後五郎北條時員 . 後陣の随兵 . 前大蔵権少輔結城朝広 城九郎安達泰盛 長井太郎(長井康秀の嫡子時秀) 上野三郎(足利泰氏の孫で上野義弁の子・時秀) 佐渡五郎左衛門尉後藤基隆(基綱の子。評定衆基政の弟?) 摂津左衛門尉狩野為佐 伊豆太郎左衛門尉実保 伊賀加藤左衛門尉※ 伊賀次郎左衛門尉光房(伊賀朝光-光資-光房と続く) 江戸七郎太郎重光(系図が錯綜) 大須賀左衛門尉胤氏(6月6日を参照) 梶原右衛門尉景俊(梶原景茂の子) . . ※壱岐次郎: 寛元二年 (1244) 8月16日の放生会流鏑馬九番の射手として「壱岐六郎左衛門尉 葛 . ※伊賀加藤: 多分伊勢の間違いで加藤光資か。吾妻鏡の建保六年 (1218) 9月29日に「加藤兵衛 尉光資 (光員の息子、後に加藤新左衛門尉と号す) が日吉大社 八王子の神輿を担ぐ男の腕を斬り落とした」云々の記載がある。年齢の面ではギリギリ整合の範囲内だろうか。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 11月16日 乙丑 . 吾妻鏡 |
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晴。申刻 (16時前後) から強い南風あり。 .今日、左衛門尉 三浦 (佐原) 五郎盛時が状を献じて訴え出た。多くの中で特に強調したのは次の通り。 . 昨日の随兵序列に関し、盛時の名を出雲前司 波多野義重の下に載せるのは承服できない。代々の当家は他から特に遺恨を受ける理由もないのに片眼の人物と同じ組になった上にその名の下に記録されている。面目を失なうため供奉は辞退したい。 .これを聞いて激怒した出雲前司波多野義重は次のように答えた。 . 家格が違うなど誰も考えていない事だ。片眼なのは承久の兵乱で抜群の軍功を挙げた際に受けた名誉の印である。今さら盛時の嫌がらせを受ける筋合いはない。 .陸奥掃部助 北條実時の奉行として、相模守 北條重時と 左親衛 北條時頼が相談して双方を宥めた。ただし五位である義重を上に書く事に変更はない、と。 . 午刻 (正午前後) に将軍家 藤原頼嗣)が出御、馬場の儀などは通例の通り。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 11月17日 丙寅 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 11月20日 己巳 . 吾妻鏡 |
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鶴岡八幡宮の臨時祭あり。九月九日 (重陽節) の神事を延引していた分の挙行である。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 11月23日 壬申 . 吾妻鏡 |
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従五位上 伊豆守藤原朝臣加藤尚景が死没 (25歳) 。大夫尉 加藤景廉※の息子である。 . . ※加藤景廉: 承久の乱 (1221) では鎌倉で留守役を務め同年8月に死没している。 死ぬ直前に仕込んだ子供が尚景だとしても少し計算が...ま、嫡男加藤 (遠山) 景朝の子を養子にした可能性もあるから深く疑わないでおこう。 .血脈を保つため死を賭して (笑) 子作りに励んだのかも知れないし。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 11月26日 乙亥 . 吾妻鏡 |
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曇。丑一点 (深夜1時過ぎ) に大地震。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 11月27日 丙子 . 吾妻鏡 |
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畿内諸国に於ける守護と地頭の所領管理に関する権限が統一されていないとの苦情があり、今日それに対応する決裁を六波羅に通達した。内容は以下の通り。
. 諸国の守護と地頭が勝手な検地を行なって規則以上の年貢を徴収し農民を苦しめる事に関し、国司や領家 (所有権者) が定めた目録に依拠して業務を行なうよう命令を下す。 .. 宝治元年十一月二十七日 左近将監 北條時頼 連署 相模守 北條重時 相模左近大夫将監 (北條長時) ※殿 併せて、主従が敵対する訴訟については、理非の評価などの関与をしないよう付け加えた。 . . ※北條長時: 連署に就いた父 北條重時の後任として六波羅に着任した赤橋流北條氏の祖 (7/18 の吾妻鏡を参照されたし)。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 12月 1日 庚辰 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 相模守 北條重時と左親衛 北條時頼が会合。遊興と酒宴である。 . . ※重時と時頼: 幕政は基本的に執権と連署の二頭体制、会合を記事にする必要など特に意味は ない。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 12月 3日 壬午 . 吾妻鏡 |
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左親衛 北條時頼による祈祷が始められた。
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. . 89代 後深草天皇 |
. 12月 5日 甲申 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 12月 8日 丁亥 . 吾妻鏡 |
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評定衆による会議あり。諸国の地頭と雑掌 (国庁に勤務する下級官人) の訴訟に関する基本を定めた。 . 地頭の側は、通常の年貢以外の荘官や農民が開墾した私有の農地についても徴税を要すると主張し、雑掌の側は荘園管理者ではなく荘園領主に納付すべきだと主張している。今後は従来行われていた命令に従って比率などを守る※よう決裁が下された。 . . ※従来の、とは:要するに定率などの規則ではなくケース・バイ・ケースか?曖昧な判定だ。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 12月10日 己丑 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 12月12日 辛卯 . 吾妻鏡 |
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評定衆による会議あり。その次いでに諸国の地頭の所領管理についての法を定めた。 . たとえ押領 (法に拠らない占拠) してから20年が経過しても時効とはならない。本地頭 (承久以前から任じていた地頭) は先例に従い、新地頭 (承久以後の恩賞で任じた地頭) は定められた収入の定率を守るよう (改めて) 命令を下した。また今日、訴訟を提起した者が着座する場所を次の通り定めた。 . 一.訴訟人の座席について 侍は客人の座に着す (奉行人に呼ばれた場合以外は後座に来てはならない) .郎等は広庇 (呼ばれた場合以外は南の広庇に来てはならない。~ 以下省略 ~) 雑人は大庭 (呼ばれた場合以外はその位置。~ 以下省略 ~) . 右、奉行人が審査してから20日が過ぎても被告人が呼び出しに応じない場合は、理非に関係なく原告の主張通りに決裁する。 宝治元年十二月十二日 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 12月16日 甲午 . 吾妻鏡 |
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評定衆による会議後に御所で酒宴あり。左親衛 北條時頼以下の御家人数名が参席した。去る10日に催した御笠懸の慰労と祝勝の宴である。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 12月29日 丁未 . 吾妻鏡 |
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恩澤の沙汰あり。去る六月の三浦合戦の勲功も含まれている。 . 上野入道日阿 結城朝光は鎮西小鳥庄を拝領した。泰村追討の件での過言を咎めるべきとの意見もあったが、廉直な性格から発した無私の言葉である。長年関東の古老として尽くした者に対して言葉を咎めて恩賞から外すのは政道の恥になるとの左親衛 北條時頼の考えに拠る。 . また京都大番役の勤務表を決め各々三ヶ月を勤務期間に在京し各所を警固するよう指示した。 . 一番 大夫判官小山長村 二番 前大蔵少輔遠山(加藤)景朝 三番 大隅前司嶋津忠時 四番 伯耆前司葛西清親(清重)の嫡子 五番 中條籐次左衛門尉 六番 隠岐出羽前司二階堂行義 七番 上野大蔵権少輔結城朝広 八番 千葉介※ 九番 完戸壱岐前司家周 十番 左衛門尉足立遠元の裔 十一番 佐渡前司後藤基綱 十二番 大和前司伊東祐時 十三番 隠岐前司佐々木義清 十四番 壱岐前司佐々木泰綱 十五番 三浦介三浦(佐原)盛時 十六番 名越尾張前司北條時章 十七番 秋田城介安達義景 十八番 豊前前司大友能直の裔 十九番 足立左馬頭入道 二十番 和泉前司天野政景の裔 . . ※千葉介: この時点での千葉介は八代当主の頼胤、元服前の8歳なので頼胤を名乗って いない。頼胤の名が初めて現れるのは建長五年 (1253) 8月15日の放生会、後陣随兵の二番目になる。
.. 建長二年 (1250) 11月28日には「陸奥国留守所兵衛尉、常陸国完戸壱岐前司、下総国千葉介 (頼胤の名は載っていない) に対して賭博禁止の沙汰が下された。」 との記載があり、1250年~1253年の間に元服したらしい。 後に元寇に出陣して負傷し、建治元年 (1275) 8月に死没している。 | . . | . 12月10日 . 晴耕雨読 |
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朝4時半、予定より少し遅れたが寛元二年の校正が終了。 . 鎌倉時代の範疇に含まれる治承四年 (1180年)から元弘三年 (1333年) の中でも最も大きな事件である宝治合戦 (三浦合戦) が記録された年、要するに北條政権が内部と外部の全ての敵を掃討し終わった年になる。体制の内部では幾つかの事件が更に続くのだが、北條得宗の独裁に敵対する顕著な勢力を倒すという意味では 最大で最後の勝利である。 . 時系列で考えれば、独裁体制の完成は体制が崩壊に向かう第一歩になる。つまり頼朝が挙兵した治承四年 (1180年) から三浦氏を滅ぼした宝治元年 (1247年) までの 67年間は昇り続けた運命が以後の 86年間は破滅に向かって落ち続ける。 . 我々は吾妻鏡が途絶する文永三年 (1266年) までしか北條体制に拠る内部の歴史記録を見られないのだけれど、成功と失敗を記録し続ける吾妻鏡の中身は実に面白い。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 月 日 . 吾妻鏡 |
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