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寛元四年 (1246年)
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西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1246年
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88代 後嵯峨天皇
寛元四年
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1月 1日 辛卯
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吾妻鏡
同日の関連史料
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晴。夜になって武蔵守 北條経時の沙汰による椀飯の儀あり。
申酉の間 (18時前後~20時前後) に日蝕があると諸道 (司天と陰陽道) が報告していたが、前年末の決定は右大将家 頼朝時代の建久九年 (1198) 正月に起きた日蝕の例に倣い御所を覆う作業はしなかった。
結局日蝕は現れなかった。或いは他の地域だったのかも知れない。
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   ※椀飯 (おうばん) : 饗応の献立、食事を摂る儀式、行事も意味する。大判振る舞い、の語源。
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   ※年令: 五代将軍 頼嗣は前年の 4月に着任 、生母は同時に退任した四代将軍 藤原頼経の継室
大宮殿 (故 藤原親能の娘) 、正室 竹御所 (二代将軍 頼家の娘) は嘉禎元年 (1235) 7月の死産後に病没 (享年32) 、
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四代執権 北條経時 21歳、連署は空席、三代執権 泰時は弟の重時に経時の補佐を頼み同年齢の北條 (金沢) 実時に経時への協力を委託した。
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五代執権になる北條時頼 18歳、 六代執権になる北條 (赤橋) 長時 17歳、
七代執権になる北條政村 42歳、 北條重時 47歳、 北條 (金沢流) 実時 19歳、
北條 (名越流) 朝時は前々年5月に死没 (享年53) 、
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三浦泰村 62歳、 千葉時胤 27歳 、 安達景盛 63~71歳 、 安達義景 35歳、
足利義氏 56歳、 宇都宮頼綱 67歳、 宇都宮泰綱 47歳、 二階堂行盛 64歳、
二階堂行泰 34歳、
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88代 後嵯峨天皇 25歳、87代 四条天皇仁治三年 (1242) 1/9崩御 (享年10) 、
86代 後堀河天皇 は天福二年 (1234) 8/31に崩御 (享年23) し上皇は不在、
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西園寺公経 寛元二年 (1244) 没 (享年73) 、 九条道家 52歳、
親鸞 70歳、 叡尊 45歳、忍性 28歳、 日蓮 24歳、
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      (全て1月1日基点の満年令、下線付きはWiki)
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   安達景盛は寿永元年 (1182) 誕生と設定 (異父兄 島津忠久との年齢差を 5と仮定) して推定。
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   ※政情: 安貞二年 (1228) 12月に 関白が 近衛家実 (Wiki) から鎌倉将軍 藤原頼経の父 九条道家
に交替。近衛家実 (通称を猪熊関白) は鎌倉幕府と協調して後鳥羽院政を否定し 「成功 (売官制度) 」 なども取り入れたが、将軍頼経と三浦一族と西園寺公経と組んで幕府への圧力を強めようと諮った九条道家との権力争いに敗れて政治力を失ってしまう。
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   ※幕政: 時房の没後は後任の連署を置かず 空席。宝治合戦 (1247年) で三浦一族が滅亡した後
に執権 時頼が極楽寺流の祖 北條重時を連署に任命する。重時は建長八年 (1256) に出家して政界を退き、時頼の後継は六代 赤橋長時と七代 政村を経て八代 時宗に続く。
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第88代の 後嵯峨天皇 (25歳) は1月29日に退位し、89代は 後深草天皇 (3歳) 、後嵯峨上皇は側近で実務家の 姉小路顕朝 35歳 と 中御門経任 (今年は 13歳) を軸に幕府との協調を図りつつ院政を開始する。太政大臣は 西園寺実氏 52歳、関白は 二条良実 29歳。
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幕府に追従した西園寺公経の死没 (前々年8月、享年72) により単独の関東申次に就いた 九条道家 (52歳) は解任され、以後は西園寺家の世襲となる。道家は頼経や三浦氏と図って復権を企てるが...宝治合戦 (1247年6月) 以後は追い詰められて全てを失なう結果になる。
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   葉黄記前年末から三壇を設けて祈祷し、更に四ヶ寺 (延暦寺薬師寺興福寺東大寺) で
読経法会を催したが、推定時刻を過ぎても日蝕は現れなかった。安倍晴継は「日没の時間帯に現れるかも知れない」と述べたが、他の天文担当らは蝕は全くなかったと報告した。
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日蝕が起きる事は以前から全員が予告し、算道 (学問としての算術) の雅衡も「僅かの蝕が起きるかも」と語っていたが、遂に確認できなかった。信仰の効果である。
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   百錬抄日蝕が起きることは陰陽道の輩が既に報告していたが算博士の雅衡は日蝕は起きな
いと主張しており、遂に蝕の確認はできなかった。
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   ※日蝕の例: 建久九年の吾妻鏡は欠落しているため頼朝がどんな指示をしたのかは不明。守覚
法親王 (後白河法皇の子で仁和寺第六世門跡) の書跡に正月に日蝕の記載がある。
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西暦1246年
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88代 後嵯峨天皇
寛元四年
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1月 2日 壬辰
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吾妻鏡
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将軍家 (五代将軍 藤原頼嗣) が鶴岡八幡宮に御参宮。
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西暦1246年
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88代 後嵯峨天皇
寛元四年
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1月 4日 甲午
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吾妻鏡
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晴。入道 (前将軍 藤原頼経) 並びに将軍家 (五代将軍 藤原頼嗣) が御行始め (外出初め) として左近大夫将監 北條時頼邸に入御した。
御台所と若君 (頼経の次男道増) は若狭前司 三浦泰村邸に、将軍頼嗣の御母 (二棟局) と将軍の御台所 (武蔵守 北條経時の妹 檜皮姫、前年7月26日に婚姻) は秋田城介 安達義景邸に入御した。
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西暦1246年
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88代 後嵯峨天皇
寛元四年
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1月 6日 丙申
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吾妻鏡
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晴。御弓始めあり。
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   一番   大井太郎    対 平井七郎
   二番   小笠原六郎   対 長井彌太郎
   三番   波多野小次郎  対 工藤六郎
   四番   佐貫次郎兵衛尉 対 眞板五郎次郎
   五番   佐原七郎    対 春日部次郎
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西暦1246年
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88代 後嵯峨天皇
寛元四年
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1月10日 庚子
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吾妻鏡
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晴。入道大納言家 (前将軍 藤原頼経)と将軍家 (藤原頼嗣) が蔵人大夫入道西阿 (毛利季光)邸に入御。
明夜の立春節に対応しての御方違えである。
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今日将軍家が始めて御甲冑を着けた。寝殿西の簾中での非公式行事である。
出雲前司 波多野義重と弥籐次左衛門尉盛高の両人が補佐し、武蔵守 北條経時のみが立ち会った。
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西暦1246年
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88代 後嵯峨天皇
寛元四年
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1月12日 壬寅
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吾妻鏡
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大殿 (前将軍 藤原頼経) と将軍家 (五代将軍 藤原頼嗣) が毛利入道西阿 (毛利季光) 邸から御所に還御した。立春節の御方違えに加えて11日が東が太白方 (凶) のため、一昨日から昨日までの逗留である。
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今朝、毛利入道西阿が御引出物として各々に御剣、砂金、鷹羽、御馬一疋を献じた。
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西暦1246年
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88代 後嵯峨天皇
寛元四年
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1月17日 丁未
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吾妻鏡
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晴、風は鎮まった。
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西暦1246年
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88代 後嵯峨天皇
寛元四年
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1月19日 己酉
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吾妻鏡
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晴。入道大納言家 (前将軍 藤原頼経)が牛車で鶴岡八幡宮に参宮。大夫将監 北條時頼と若狭前司 三浦泰村らが供奉した。
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西暦1246年
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88代 後嵯峨天皇
寛元四年
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1月28日 戊午
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吾妻鏡
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主税頭雅衡 (算道、数学者) の書状が京都から到着、内容は以下の通り。
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今年正月の蝕については起きないと事前に上申し符合した賞として正四位下に叙された。宿曜道 (占星) の珍覚法眼も同様に上申して権少僧都に転じた。14日に行なった御斎会の除目のついでである。
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中原師員朝臣がその書状を読み上げ、殊に感動したとの返事を送るよう命じられた。
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   ※御斎会: 正月8日から7日間、高僧を集め金光明最勝王経を講義させ国家安泰と五穀豊穣を
祈願した法会。朝廷では結願の日に御前で内論議 (解釈の論争) が行われた。
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西暦1246年
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88代 後嵯峨天皇
寛元四年
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1月29日 己未
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葉黄記
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譲位あり。88代後嵯峨天皇 → 89代後深草天皇 (満2歳) へ。
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   後深草天皇西園寺公経の孫娘を中宮に迎えて立場の安定を図り、将軍 藤原頼経の京都更迭
に伴って朝廷の実力者 九条道家も失脚したため、高位の廷臣の関与を受けずに院政を指揮した。
政治的には幕府との協調を主軸として執権政治に協力し、宮将軍の実現により政情の安定化が実現している。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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2月 4日 甲子
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吾妻鏡
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晴。御台所 (五代将軍 藤原頼嗣の正室 檜皮姫北條時氏の娘) が病気となり、但馬前司 藤原定員が担当して祈祷が行われた。
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   ※檜皮姫: 今年の閏4月に執権 北條経時が死没し 時頼が執権職を継ぐと共に執権派と将軍派の
対立が深刻化する。一方で病床の檜皮姫は宝治合戦で三浦一族が滅亡する直前の翌年5月に病没。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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2月 9日 己巳
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吾妻鏡
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京都朝廷の使者が鎌倉に参着、先月29日に皇太子 (着位して後深草天皇、数え (四歳) が受禅 (先帝の譲位を受け帝位に就くこと) したと報告。丑刻 (深夜2時前後) に関白の 二条良実 (九条道家の次男) らが冷泉第から劔璽 (神器) を携えて春宮御所 (東宮御所) の冷泉富小路に徒歩で参上した、と。
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   後深草天皇在位中は後嵯峨上皇の院政により直接政務に関与せず、17歳の正元元年 (1259)
に至り後嵯峨上皇の求めにより90代亀山天皇 (後深草の弟で後嵯峨の第七皇子) に譲位した。
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更に文永五年 (1268) には再び後嵯峨の意思により、後深草の皇子熈仁ではなく亀山の皇子世仁親王が立太子し、後深草の退位後に91代後宇陀天皇)となった。
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この時点から後深草の系 (持明院統) と亀山の系 (大覚寺統) の対立が始まり、幕府の調停を受けて両統が交互に帝位を継ぐ形で合意を交わすのだが...
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鎌倉幕府の滅亡後に大覚寺統の 後醍醐天皇が第96代天皇に就くのだが、交代を約束した持明院統に帝位を渡すのを拒んで息子の後村上天皇を擁立、以後56年間も続く南北朝の対立を招く結果となる。
「後」の付く帝 (後白河、後鳥羽、後醍醐) がトラブルを起こすのは単なる偶然で、もちろん祟りとか愚昧とか資質不足とかではない、かも知れない。 (天皇家の系図を参照)
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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2月10日 庚午
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吾妻鏡
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午刻 (正午前後) に鳶 (鳶職じゃなくて鳥のトビ、ね) が常の御所 (寝殿造りの居間) に飛び込んできた。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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2月13日 癸酉
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吾妻鏡
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晴。大殿 (前将軍 藤原頼経) が頻りに上洛を望んでいるが、様々な異論があって延期となっている。
そのため、今回は上洛を望む趣旨についての仰せがあった。
今日、頼経持仏堂の久遠寿量院で結縁の灌頂 (仏縁を結び継承者として認める密教儀式) を行なった。
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   ※異論: 朝廷の実力者で関東申次 (幕府との調整役) の任にある 九条道家は実子である元 鎌倉将
頼経と協力して幕政をコントロールしたい目的があり、北條執権側としては朝廷との関係悪化を防ぐため頼経の上洛を阻止したい思惑がある。既に道家の失脚は避けがたい情勢なのだが。
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   ※授戒: 奈良時代中期、仏教の繁栄と共に宗教者の腐敗や民心の離反により戒律を守らなくな
った僧や勝手に出家した農民が課税を逃れるなどの事件が常態化していた。
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朝廷はこの状態を打開するため正式な授戒 (仏弟子となるための道徳基準を授ける儀式) の権威を持つ高僧を唐から招き、統一したシステムを確立しようと考えて使者を唐に派遣した。
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そして天平時代、第45代 聖武天皇 (Wiki) は仏教の腐敗と堕落を是正するため 律宗 (Wiki) の高僧を唐から招聘した。腐った宗教者は、同様に腐った政治権力と結託して常に組織の拡大に腐心する。バチカンの腐敗も学会と公明党の腐敗も、その発生源は絵に描いたように同じだ。
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この招聘に応じたのが律宗の開祖 鑑真和尚 (Wiki) で、天平勝宝五年 (753) に来日し正式な授戒の権限を持つ三ヶ所の寺院 (三戒壇) が定められた。
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それが南都の 東大寺と筑紫の 観世音寺、そして東海道の足柄峠および東山道の碓井峠から東の授戒を受け持ったのが下野の薬師寺である。
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 右は下野市の 薬師寺記念館にある戒壇の模型。
    画像をクリック→ 別窓で拡大表示
    更に詳細説明と画像は 下野国庁跡と東山道の史跡 (別窓) で。

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授戒のシステムも時の流れと共に権威化と既得権化して、腐敗しつつ有名無実になっていく。1900年代の初頭以後はクソみたいな連中が 国立の戒壇を創るべき と本気で騒いでいた。精神世界から離れ、既得権の擁護と組織の拡大こそ正義だと思い込む狂信者の宿命だね。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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2月15日 乙亥
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吾妻鏡
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晴。御台所 (五代将軍 藤原頼嗣の正室 檜皮姫) の病状について占ったところ、深刻であるとの結果が出た。邪気の疑いはあるが、取り敢えずの措置として灸による治療を行なった。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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2月16日 丙子
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吾妻鏡
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晴。御台所の病気に対応して御所で千度の御祓いを行なった。晴茂、宣賢、晴貞、廣資、泰房、晴憲、晴成、以安らの担当である。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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2月17日 丁丑
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吾妻鏡
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晴。御台所には重ねて灸の治療を行なわれた。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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2月18日 戊寅
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吾妻鏡
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御台所の病状は、今日は特に悪化は見られなかった。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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2月22日 壬午
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吾妻鏡
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晴。入道大納言家 (前将軍 藤原頼経)が二所詣に備えて精進潔斎を始めた。七日間の御精進屋参籠で、特別な御願のためである。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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2月28日 戊子
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吾妻鏡
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晴。入道大納言家が二所詣に出発。越後守 北條光時、相模右近大夫将監 北條時定、相模八郎時隆、太宰少弐 狩野為佐、但馬前司 藤原定員、備後前司広将、能登前司 三浦光村ら数人が供奉した。
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   ※相模八郎時隆: 北條時房の孫。時房→ 時村→ 時隆と続く。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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2月29日 己丑
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吾妻鏡
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曇、未刻 (14時前後) に雷鳴あり。今日、萩原九郎資盛とその父遠直の所領を没収し身柄を拘束した。悪党を庇護し援助しているとの訴えが大胡五郎光秀から出され、調査の結果 罪科が明白となったためである。
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   ※萩原と大胡: 大胡氏は 藤原秀郷の子孫 藤姓足利成行の庶子 重俊が上野国大胡郷 (前橋市の
大胡、地図)に土着して大胡太郎を名乗ったのが最初。萩原氏の本領は15kmほど南西の上野国群馬郡萩原郷 (地図) だから、何らかの接点によるトラブルがあったと思われる。
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重俊は治承五年 (1181) 閏二月の 野木宮合戦で滅亡した藤姓の 足利俊綱 忠綱親子の近親で、俊綱の叔父に当たる。詳細は「藤原秀郷の系図」で。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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3月 3日 壬辰
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吾妻鏡
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暴風雨。入道大納言家 (前将軍 藤原頼経) が走湯山から直に還御、風雨のため早暁までを要した。
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   ※直に還御: 箱根権現と三嶋大社を巡る二所詣は平安時代から知られた人気の巡礼コースで、
源 頼朝は治承四年 (1180) の挙兵で大願成就を祈願した伊豆山権現を加え三社として崇敬した。
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最初の巡拝は文治四年 (1188) 1月、伊豆山→ 三嶋→ 箱根が予定ルートだったが石橋山合戦場に立ち寄った際に 佐奈田義忠 (与一) と郎党文三の墓に詣でて涙を流したため先達の僧が不吉を主張、二回目からは逆コースに変更した、と伝わる。
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走湯山は現在の 伊豆山神社。吾妻鏡の記録では最初の二所詣は文治四年1月、箱根権現→ 三嶋大社→ 伊豆山(走湯権現)の順路である。
  右下の地図画像を参照 クリック→ 別窓で拡大表示
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二度目の建久元年 (1190) 、鎌倉に帰還した1月20日の吾妻鏡に次の記載がある。
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頼朝は夜になって二所詣から鎌倉に帰着し、 今後の参詣は最初に箱根権現と三嶋大社に奉幣し伊豆山を経て鎌倉に戻る経路と定めた。
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伊豆山権現に参拝する途中で石橋山合戦場に立ち寄り、頼朝は 佐奈田義忠 (与一) と豊三 (与一の郎従) の墳墓で涙を流した。この両人が敵に討たれた辛い時代を思い出した涙だが、参拝の途上での不吉であり前途が憚られると先達が申し出て、二度目からは順路を逆廻りに変えたものである。
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その後に順路を戻した記載はないから寛元四年の頼経一行も同じ筈で、三泊か四泊の日程だった事を含め、原文の「自走湯山直御下向也」を「箱根と三嶋に寄らず伊豆山から直帰した」とは解釈し難い。
「直」とは「普通なら酒匂驛 (小田原市東部 ) か国府 (大磯) で一泊するのだが約60kmの伊豆山→ 鎌倉 (普通は10時間以上) を直帰した」の意味だろう。
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あるいは、頼経の正室 檜皮姫の病状が良くないために帰還を急いだ可能性もある、か。檜皮姫は 北條時氏の娘で生母は 松下禅尼、翌年五月に病没してしまう。
四代執権経時と 五代執権 時頼の実妹である。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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3月 6日 丁酉
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吾妻鏡
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海賊 渡辺党の仲間 柴江刑部丞源綱法師の本来の職務である摂津国榎上庄南方下司職名義の水田について、領家に没収されたと源綱入道が訴えている件の裁決が下された。
没収した海賊の占有地には関東から地頭を補任しており、領家の勝手な行為には根拠がないとの警告を下すことになった。追って地頭補任の沙汰がある、と。
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   ※榎上庄: 現在の吹田市江坂から豊中市小曾根の範囲 (ルート地図で表示した) は平安時代から
東寺 (公式サイト) を本家 (最上位の領主) とした荘園「榎坂郷」だった。
かつての渡辺津から約8km北側に位置し、この一帯が榎上庄だった可能性が高い。
本家に農地を寄進した次位の所有者 (領家) が六波羅南方の下級職員だった、か。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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3月12日 辛丑
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吾妻鏡
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評定衆による臨時の評議を催した。有間左衛門尉朝澄が提出した懸物押書について、明石左近将監兼綱を奉行として決裁が下された。この件を訴えた越中七郎左衛門次郎政員の主張は「押書にある串山郷については元々の持ち主の養母だった尼が有間朝澄一代限りとして相続させた土地で、押書に載せるのは不当である。」との内容だったが、審査の必要なしと却下された。
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また肥前国の御家人 安徳三郎右馬允政康の所領については兄の政尚と政家の例に倣い、地頭職および所領安堵の下文を受けた土地以外の私領である肥前国三根西郷のうち刀延名の三分の一を没収とする。これは越前兵庫助の奉行である。
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   ※懸物押書: 訴訟の濫発を防ぐため担保の提出を義務付けた制度。告訴人が敗訴したら自分の
所領を訴訟の相手または幕府を含む第三者に引き渡す事を約束する書類。
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   ※串山郷: 肥前国高木郡の東部 (現在の雲仙市小浜町西部 (地図)
元は平家没官領で本所は仁和寺、高木東郷の惣地頭が越中氏だったらしい。
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   ※三根西郷: 肥前国高木郡の東部(現在の三養基郡上峰町 (地図) 、吉野ヶ里遺跡の近くだ。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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3月13日 壬寅
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吾妻鏡
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信濃国善光寺の供養あり、導師は大蔵卿法印良信。 (名越流北條氏の) 故 遠江入道生西 (北條朝時) の息子たちが遺言に従って大檀越として催した。勧進上人 (寄付を集めを担当した僧) は親基である。
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   ※名越: 朝時の生母は 義時の正室だった 姫の前 (比企朝宗の娘で
離縁) 、更に権力の絶頂期にあった頃の祖父 時政から名越の屋敷を相続していた事などから北條嫡流の意識が強く、朝時の息子たち(名越流北條氏) は反執権のトラブルを数回起こしている。
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二ヶ月後の閏4月に勃発する宮騒動では長男の 光時が所領没収と 伊豆流罪、次男 時章は文永九年(1272)の二月騒動で殺害、三男 時長は許されたが四男 時幸は出家して降伏 (自害説あり) 、六男教時は二月騒動で追討など、厳しい処分を受けてしまった。
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このような背景から今回の善光寺法要はクーデターの下準備だった、或いは執権側がそう判断したと考えられている。
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   ※大檀越: 大檀那に同じ。寺院の維持に必要な経済的援助を担った者。
善光寺は治承三年 (1179) の火災で失われ、吾妻鏡の文治三年 (1187) 7月27日には「頼朝が全国の御家人に善光寺再建に尽力せよ、と下命した」と記録している。
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頼朝は善光寺にとって感謝し切れないほどの功労者だった。後世、上杉謙信との合戦による被害を恐れた 武田信玄 (共にWiki) が 信濃善光寺 (公式サイト) から甲斐善光寺に財物を避難させた。その中には頼朝の姿を伝える絵や像があり、 (没後120年の作だが) 肖像は最も古い頼朝の絵像である。
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 右上は 文保三年 (1319) の銘がある 甲斐善光寺 (別窓) 収蔵の頼朝坐像。
 更に詳細は 画像をクリック→ 頼朝の実像に関する様々な情報 (別窓) の参照を。
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   ※下準備: 葉黄記 (権中納言 葉室定嗣 の日記) など複数の史料には前将軍 藤原頼経 と関東申次
だった父親の 九条道家 が今後の対応を内密に連絡し合っていた事を示す情報が残っている。
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   ※北條嫡流: 義時の長男 泰時の生母に関しては吾妻鏡に記載がなく、鎌倉年代記 (Wiki) などに
載っている「御所の女房 (女官) だった阿波局」 (立場は側妾) が概ね定説となった。
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吾妻鏡が頼朝 が泰時を特別に寵愛していた」事例を頻繁に載せているため「生物学上の父親は頼朝だ」とか、極端なケースは「実は 伊東祐親 の娘で頼朝の最初の妻、後に義時に再嫁した 八重が産んだ」と主張する能天気な学者 (創価大学の教授だってさ) もいる。
曽我物語と伊豆伊東の伝承に少しだけ触れて物語の世界に迷い込んだらしい (笑)
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閑話休題。当時の習慣として嫡男の資格は「生母の実家の家格」が「長男か否か」よりも優先される。例えば 源義朝の長男 義平の生母は橋本の遊女か 三浦義明の娘、二男 朝長は相模の土豪 波多野義通の妹、三男の頼朝は熱田神宮の大宮司で藤原南家末流 藤原季範の娘、である。頼朝誕生後の義朝は、義平や朝長を嫡子として考慮すらもしなかった。
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五代執権 北條時頼の長男 時輔の生母は出雲国の御家人の娘で側室、二男の 時宗を産んだ 葛西殿は 北條重時の娘。時頼にとって三歳年長の時輔は常に時宗の郎党扱い、である。
自分は嫡子でもない癖に、幼いとはいえ執権 経時の男子二人は出家させて後継から排除している。ダブル・スタンダードを濫用する政治家 (玉木が好例だ) を信用してはならない。
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二男ではあるが朝時は当時の筆頭御家人 比企朝宗の娘で正室の姫の前、泰時は義時が手を出した (手じゃないけどさ) 御所の女房 阿波局である。この序列が逆転した理由は何か、本腰を入れて考えてみるのも面白い。
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   ※姫の前 離縁: 彼女は絶世の美女で、女官としての能力も高かったらしい。片思いの義時は一
年余りも恋文を送り続けたが相手にされず、最終的には頼朝が「何が起きても離縁しない」との起請文を義時に書かせて建久三年 (1192) 9月25日の婚姻に漕ぎつけた。
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義時は寿永二年 (1183) に御所の女房だった側妾の阿波局に泰時を産ませたが吾妻鏡が欠落している年なので誕生月日は不明、姫の前は翌 建久四年 (1193) に義時の二男 朝時を、建久九年 (1198) 6月に三男重時を産んだ。
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建仁三年 (1203) 9月に比企の乱が勃発して比企一族の姫の前は離縁となり、藤原定家の日記 明月記の嘉禄二年 (1226) 11月5日には源具親の息子 輔通は北條朝時の同母弟で、鎌倉から任官の推挙があった」と書かれている。輔通は元久元年 (1204)産まれだから、 遅くとも元久元年初頭までには離婚していたのは間違いない。
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更に同じ明月記の承元元年 (1207) 3月30日には「源具親の妻が産後に死没」とある。この時に産まれたのが具親の二男 輔時で、朝時は天福元年 (1233) に26歳の異父弟の輔時を猶子 (通常は相続権を持たない養子) に迎えている。
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姫の前と義時の離婚時期には異説もある。正治二年 (1200) 5月25日の吾妻鏡には以下の記載があるのだ。
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江間殿 (北條義時) の側妾 (伊達氏の祖、伊佐朝政の娘) が男子 (後の北條有時) を平産。安産を祈祷するため若宮別当が昨夜から義時の大倉亭に詰めていた。今朝 羽林 (頼家) が祝賀の御馬を、尼御台所 政子が産着を贈った」
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いくら鎌倉時代でも正妻が暮らしている義時邸で側室の出産は有り得ない だろうから、この時は既に離縁していたのではないか、との発想だ。 これに従えば、離縁の時期は比企の乱より数年早まってしまう。
謎がまた一つ、増えてしまったという悩みの種だ。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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3月18日 丁未
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吾妻鏡
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讃岐国の御家人 藤原左衛門尉が海賊を捕縛し連行したとの報告が同国の守護人能登前司 三浦光村の代官から六波羅を経て鎌倉に届いた。五代将軍 藤原頼嗣からは感心な功績であるとの言葉が六波羅を経て伝えられた。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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3月20日 己酉
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吾妻鏡
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評定衆による臨時の会議あり。市河次郎左衛門尉が強盗や海賊を再三捕縛した功績に対して感状の御教書が与えられた。御恩 (恩賞としての所領) の沙汰の際には (この功績を) 書類に書き加えよとの仰せがあった。
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   ※市河次郎: 山梨県市川三郷町 (地図) にあった院領の市河
荘に本拠を置いた甲斐源氏の子孫と思われる。
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源義光の次男 義清が常陸での濫行のため嫡子の 清光と共に常陸から甲斐に流された。
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市河荘に土着していた末弟 覚義阿闍梨の勢力範囲に定住したのが市河荘平塩館とされる。
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甲斐守に赴任していた義光の縁故を利用した、流刑ではなく 軽微な配置転換と思うべきか。
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義清はここで「いととしく 埴生の小屋のいぶせきに 千鳥なくなり 市河の森」(みすぼらしい我が家の姿に 千鳥さえ鳴いている 市河の森) との和歌を詠んでいる。
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右上は平塩館に隣接した平塩寺 (開山は 行基と伝わる) の跡地。
 クリック→ 義清と甲斐市河荘 (別窓) へ。
甲斐源氏の源流をたどるのも面白い。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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3月21日 庚戌
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吾妻鏡
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武蔵守 北條経時の病状が深刻で、治療と共に逆修 (生前に死後の冥福を祈る仏事) を営む様になった。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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3月23日 壬子
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吾妻鏡
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武蔵守北條経時邸で部外秘の協議があり執権職を舎弟の大夫将監 北條時頼朝臣に譲る事が決まった。
既に存命の見込みがなく、二人の息子も幼いため政務の牢籠 (停滞、行き詰まり) を防ぐため、執権として 真実本心からの決断である。時頼は直ちに了承した。
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   ※二人の息子: 庶長子は満5歳、後に 隆弁の元で出家 (法名を隆政) して23歳で病死する。
次子は正室腹で満 2歳、同様に出家 (法名を頼助) した後に鶴岡八幡宮別当を経て東寺長者などを歴任、東大寺別当に任じた後に 53歳で死没している。
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吾妻鏡の原文では、経時の言葉は「真実趣出御意云々」、この書き方は実に不愉快だ。「経時は心からそう言ったんだよ」って、普通は念押しの強調なんか載せないからね。この書き方は明らかに真実を隠蔽している。正当な決議に言い訳を添付してはダメだ。
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時頼自身も若干20歳、背後に生母 (松下禅尼) の実家安達氏や 北條実時もいる。頼助を後継指名し成長を待っても支障はない筈だが...時頼の権力への執着は強い。時頼の生涯には「良い政治への執心」よりも「権力を握り続ける執心」が満ちている。
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仁治二年 (1241) 11月29日に下馬橋の近くで三浦一族と結城一族の乱闘未遂事件があり、翌30日には当時の執権 北條泰時が事件に対応した経時の軽率を叱咤し、時頼の判断を賞賛している。吾妻鏡に特有の、勝者に阿 (おもね) る後付けの曲筆だろう。泰時に続いて時頼も英傑にしたい、ひたすら愚かな忖度。世襲なんて所詮はこのレベルだからね。
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根回しを済ませた時頼が執権継承を強硬に主張し、病床の経時を抑え込んだ。
吾妻鏡はこの会議を「於武州御方有深秘御沙汰」と書き遺している。正当な継承ならそんな美辞麗句は必要ない筈。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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3月24日 癸丑
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吾妻鏡
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晴。京都朝廷の使者が着いて去る13日に新帝が閑院に転居された、と報告。
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   ※閑院: 一般的には里内裏、今回は冷泉富小路殿 (御所南小学校の運動場横に石柱 (地図)
当初は西園寺実氏の所有で、後嵯峨天皇の中宮となった娘 (大宮院) の御所となり、皇子 (後深草天皇) が産まれると東宮御所となった。
後深草は3月11日にここで即位の礼を催している。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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3月25日 甲寅
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吾妻鏡
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雨。左親衛 北條時頼が将軍家 (藤原頼嗣) および入道大納言家 (藤原頼経) の両御所を訪問、執権相続に祝賀を受けた事に礼を述べた。
将軍家への取り次ぎは摂津前司 中原師員、大納言家への取り次ぎは但馬前司 藤原定員
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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3月26日 乙卯
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吾妻鏡
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雨。今日、左親衛 北條時頼の執権継承に伴う評定が始められ、評定衆が参席した。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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3月27日 丙辰
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吾妻鏡
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雨。武蔵守 北條経時の素懐 (出家) について、内々に大殿 (藤原頼経) に報告した。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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3月30日 己未
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吾妻鏡
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評定衆による評議あり。甲斐国一宮 (浅間神社) の権祝 (神職) 守村が申請している鷹狩り禁止に伴う鳥の献納許諾についての沙汰が下され、神社への供祭が認められた。
摂津前司 中原師員朝臣を介して通達した。
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   ※鷹狩り禁止: 前年11月10日に記載のある諏訪大社に準じた禁止の例外許可だろう。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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4月 3日 壬戌
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。戌刻 (20時前後) に月が大奎 (星座の一つだろうが、不明) の軌道を犯した。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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4月 5日 甲子
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吾妻鏡
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晴。将軍家 (五代将軍 藤原頼嗣) が天変の連続に驚き、陰陽道に勘文 (諮問に対する上申書) を求めた。
三河前司教隆がこの件を奉行する。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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4月 8日 丁卯
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吾妻鏡
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晴。入道大納言家 (前将軍 藤原頼経) が御持仏堂 (久遠寿量院) で供花供養が始まった。常の御所 (居間) から御持仏堂の庇まで階段を設けて通路とし女房 (女官) や当番衆らが交替で献花を続けた。
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   ※久遠寿量院: 頼経持仏堂の位置が初めて記載された。「居間と棟続き」程度の情報も貴重だ。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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4月14日 癸酉
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吾妻鏡
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大殿 (藤原頼経) と将軍家 (五代将軍 藤原頼嗣) の意向による祈祷が始まった。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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4月17日 丙子
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葉黄記
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晴。山門 (比叡山) の衆徒が蜂起し、昨日制止の院宣を下された。今日は更に六波羅から両門跡にも (騒動を防ぐよう) 警告が発せられた。
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   ※両門跡: 奈良興福寺の門跡寺院 一乗院 大乗院 (共にWiki) 。僧兵を擁して再三の紛争を起
こす。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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4月19日 戊寅
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吾妻鏡
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晴。武蔵守 北條経時の病状が悪化。既に執権職を (時頼に) 譲っており、今日剃髪して法名安楽を号した。大蔵卿法印良信が戒師を務めた。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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4月23日 壬午
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葉黄記
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若宮 (後深草) が御着袴の儀式を行なった。高雅の奉行である。経時は去る19日に出家したらしい。.

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   ※高雅: 葉室 (藤原) 光親の嫡子 定嗣の養子 (承久の乱で失脚した長兄光俊の遺児) で後深草の
近臣。この二人も人名録に載せたいのだが、手が廻らない。「そろそろ終活を始めようかな」と思う毎日だからね (八割は冗句) 。朝廷関連の情報は極力スポイルしている。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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閏4月 1日 己丑
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吾妻鏡
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晴。今日、入道正五位下 武蔵守平朝臣 北條経時 が死去した。法名を安楽、享年33
行程3日を指定された飛脚が京都に向かって出発した。
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   百錬抄の記事: 関東の前武蔵守経時が病没。後日、京中三十ヶ日の触穢 (死の穢れ) が定めら
れた。
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   ※経時の事: 吾妻鏡は享年 33と記録しているが、数え年で 23歳に間違いない。執権を辞職し
て時頼に移譲したとされる件については様々な説があり、私の考えもその一つに過ぎない。記録の過程をを見ながら判断しよう。
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執権としては執務期間18年の 三代泰時と 在職10年+実権7年の 五代時頼に挟まれて印象が薄く、執務期間も4年に満たない実績は乏しいように見えるが...
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訴訟制度の改革や将軍頼経解任、更に妹を頼経の正室にして将軍外戚の地位を確保し反執権勢力を押さえ込むなど、短い執務期間の中で次期執権の時頼が動きやすい体制の確立に大きな役割を果たしている。22歳で早世しなければ更に実績を積んだだろう、と思う。
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吾妻鏡には時頼を偉大に見せるため経時を恣意的に貶めている部分が多く、歴史の真実を後世に伝える気概には著しく欠如している。
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嘆いても意味はないが、紀元前でさえ権力者の意を諾々とせず自らの意思で史記を著した司馬遷のように、堂々たる信念で権力と向き合う人物は実に少ない。安倍晋三程度のコソ泥に羊の如く盲従する小物だけが次々に現れるのは島国の悲しい伝統か。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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閏4月 2日 庚寅
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吾妻鏡
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禅室 北條経時を葬送。佐々目山麓に葬った。
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   ※佐々目山麓: 現在の笹目町 (地図) を差すが本来の墓所は不明。
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仁治元年 (1240) に経時が創建した蓮華寺に葬った或いは蓮華寺は寛元元年 (1243) に材木座に移転して光明寺に改めた、或いは蓮華寺は建長三年 (1251) に時頼が経時の菩提を弔って建てた、など様々な伝承が残っている。
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蓮華寺の旧蹟として現在の鎌倉税務署の筋向かい (地図) に鎌倉青年団による石碑が建っているが、これは県道の工事で動かされたため正確な位置は既に不明である。
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光明寺 (公式サイト) の創建時期に関しても1259年説があるなど、不確定要素が多い。光明寺の裏山、中学校北の飛び地 (地図) にある宝篋印塔 (上画像、クリック→ 別窓で拡大表示) には正確な刻銘が確認できるため、本来の墓所である佐々目山麓から移設したのは間違いなさそうだ。
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光明寺の門前には600円/一日の駐車場 (2015年現在) があり、周辺の散策に利用できるのは実に有難い。
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   葉黄記の記述: 関東の経時入道が去る1日の酉刻 (18時前後) に逝去した。去年6月からの病気
で先月に出家、病の様子は様々な噂もあったが実態は不明である。
今朝鎌倉の飛脚が到着し、私も参院して書状と共に (六波羅北方の) 北條重時を弔問するよう指示を受け、為康法師を使者として派遣した。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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閏4月 8日 丙申
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吾妻鏡
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六波羅 (からの使者を含めて) 各所から弔問の使者が鎌倉に到着。鎌倉の飛脚が去る4日申刻 (16時前後) に京都に入り、北條経時死没の報は洛中に知れ渡ったようだ。
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   ※鎌倉の飛脚: 葉黄記には 「1日酉刻 (18時前後) に死没」 とあり 指示通り3日弱で到着した。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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閏4月18日 丙午
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吾妻鏡
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亥刻 (22時前後) に鎌倉中で騒動。甲冑姿の武士が町に集まり、明け方に沈静化した。様々な噂あり。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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閏4月20日 戊申
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吾妻鏡
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鎌倉周辺に本拠を置く御家人が数知れず鎌倉に集結し、連日の騒動が鎮まらない。
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   葉黄記四月末から閏四月末まで、延暦寺と鞍馬寺の周辺で戦闘など騒動が続いている。
鎌倉の執権交代との直接的な因果関係はないが、同時に勃発した 九条道家の関東申次罷免に続く失脚と関係があるのかも知れない。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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5月 5日 壬戌
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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鶴岡八幡宮の神事は通例の通り。戌刻 (20時前後) に月が軒轅大星の軌道を犯した。
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   ※軒轅大星: 獅子座の頭部から北の山猫座に伸びて龍の姿を現す星列が軒轅、大星はその頭部
の一等星レグルスだそうな。天文の知識が皆無なので情報は寄せ集めだ、間違ってたらゴメン。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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5月 7日 甲子
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吾妻鏡
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晴。巳刻 (22時前後) に地震あり。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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5月14日 辛未
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吾妻鏡
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晴。天変および月蝕に対応して慎みが求められていると判断され、祈祷が催された。
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    入道大納言家 (前将軍 藤原頼経) の分として
       薬師護摩 を 岡崎僧正成源が、
       愛染王供 を 按察法印賢信が、
       月曜祭  を 安倍文元朝臣が、
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    将軍(五代将軍 藤原頼嗣)の分として
       月曜供  を 助法印珍誉が、
       羅喉星祭 を 安倍国継が、
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    将軍御台所の分として
       羅喉星供 を 安倍晴賢が、
       月曜祭  を 安倍定賢が執り行なった。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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5月16日 癸酉
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吾妻鏡
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晴。月蝕は現れず、概ね満月の状態である。ただし夜半を過ぎてから雲に隠された。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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5月22日 己卯
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吾妻鏡
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晴。寅刻 (早暁4時前後) に秋田城介 安達義景の屋敷および屋敷のある甘縄周辺が騒がしくなり、騒動は周辺まで広がった。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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5月24日 辛巳
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吾妻鏡
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鎌倉中の騒がしさが静まらず、家財を運び隠す姿が少なくない。すでに辻々を武士が警護し、渋谷氏一族は左親衛 北條時頼の命令を受けて中の下馬橋 (地図) を封鎖している。
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太宰少弐 狩野為佐が御所に向かおうとしたが、橋を封鎖している警備兵に阻止された。警備兵が北條執権邸に行く場合は通って良いと通告したため小競り合いとなり、一層の騒ぎとなった。
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夜半には全員が甲冑を着して旗を挙げ、各々の判断により幕府へ駆け付ける者や時頼邸に集まる者など様々である。
故遠江入道生西 (北條朝時) の子息 光時時幸時長らによる謀反の計画が発覚したとの事だ。
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   ※狩野為佐:この時は評定衆の一人だが、今回の宮騒動
連座して解任された。ただし数年後に引付衆として幕政に復帰しており、関与の程度は軽かったらしい。
中の下馬橋を固めた渋谷氏には時頼から敵味方の区分が知らされていた、と考えるべきか。
 右は中の下馬橋(クリック→ 別窓で拡大)
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本来は扇ガ谷から流れる扇川に架かる橋なのだが現在は暗渠となり、辛うじて橋桁だけを残している。
すぐ右に段葛が始まる二の鳥居が建っている。
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   ※宮騒動: 皇族ではない頼経の事件を「宮騒動」と呼ぶのは鎌倉時代末期に成立した 鎌倉年代記
(Wiki) の裏書に「宮騒動と呼ぶ」とあるのが初見。この騒動以後の幕府が摂関家出身の将軍下向を求めず、六代将軍に 宗尊親王 (後嵯峨天皇の第一皇子) が就任する遠因になったため、と考えられている。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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5月25日 壬午
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吾妻鏡
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晴。騒動が続いている。左親衛 北條時頼邸の警固は続けられ、甲冑の軍士が周囲を囲んでいる。
卯一点 (朝5時過ぎ) に但馬前司 藤原定員が前将軍 藤原頼経の使者と称して時頼邸を訪れたが邸内に入るのを許されず、諏方兵衛入道と尾籐太平三郎左衛門尉らによって退去させられた。
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将軍御所に宿直していた越後守 北條光時は家人に呼び戻されたが自邸には戻らず剃髪し、髪を時頼に届けた。これは時頼追討を目指して心変わりしない事を署名した起請文を書き、その中心になったのが名越流北條一族であるとの噂があったためこのような措置になった。
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光時の舎弟 尾張守 北條時章、備前守 北條時長、右近大夫将監 北條時兼 (朝時の五男、光時らの弟) らは以前から野心を持っていない旨を言上していたため特に処分を受けることはない。
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その後に但馬前司定員が出家剃髪、秋田城介 安達義景が彼を拘束し息子の兵衛大夫定範も連座した。
昼過ぎ、群参していた武士らが再び旗を揚げて騒いだ。今日、遠江修理亮 北條時幸が病気のため出家した。
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   保暦間記江間越後守光時 (朝時の嫡子) は将軍の近習として寵臣の立場にあったが驕る心を
持ち、自分は 義時の孫であり時頼は彦 (曽孫) であると称して将軍の権威を取り戻そうと企み、将軍も光時に心を寄せてこの結果になった。
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   ※宮騒動: 光時の弟らが「野心を持っていない」と事前に告げているのを考えると情報は筒抜
けだったらしく、今回の騒動にクーデター未遂の実態があったのかは疑わしい。
解任された前将軍頼経は元々実権を持たず、光時が動員できる兵力も多くはない。
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幕政からスポイルされた不満分子が集まって愚痴を語り合った程度ではなかったか、或いは時頼が不満分子を早めに排除しただけではないか、と思う。
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頼朝の死没後に政敵を滅ぼした北條氏の争乱でまともに合戦の様相を見せたのは建暦三年 (1213) の 和田合戦だけだった。
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正治二年 (1200) の 梶原一族滅亡 も、建仁三年 (1203) の 比企の乱 も、元久二年 (1205) の 畠山合戦 も、元久二年 (1205) の宝治元年 (1247) に起きる 三浦合戦 も、 全て合戦ではなく概ね無防備な集団を圧倒的な動員力で殲滅する「虐殺」または
「騙し討ち」である。
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吾妻鏡が主張する「謀反を企んだ」は史実の捏造であり、しかもその間には二度の主殺し (頼家と実朝) も実行したのだから、不条理さは桁違いに恐ろしい。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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5月26日 癸未
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吾妻鏡
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晴。左親衛 北條時頼邸に於いて内々の評議があった。
右馬権頭 北條政村、陸奥掃部助 北條実時、秋田城介 安達義景 が参席者である。
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   ※参席者: 時頼は19歳、北條実時は22歳、北條政村は41歳、安達義景は36歳。評定衆の中でも
この事件で罷免される 後藤基綱千葉秀胤町野 (三善) 康持 はもちろん加わっていないし、既に敵対勢力としてマークされている三浦一族も呼ばれていない。
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   ※評定衆: この時のメンバーは 北條時頼北條資時北條朝直北條政村三善 (太田) 康連
町野 (三善) 康持、矢野倫長 (三善 (矢野) 倫重の嫡子) 、二階堂行盛二階堂行義中原師員後藤基綱三浦泰村三浦光村清原満定毛利季光、毛利忠成(広元の五男)、安達義景長井泰秀伊賀光宗宇都宮泰綱
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北條実時は評定衆ではないが時頼の側近として引付衆に任じ、建長五年 (1253) に評定衆に昇格している。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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6月 1日 戊子
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。今日、入道修理亮従五位下 平朝臣 北條時幸が死去した。
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   葉黄記先月22日以後、関東で大きな騒乱ありとの連絡が入った。
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   ※時幸死去:名越流北條氏の中では最も強硬なアンチ執権派だった。自刃の強要か。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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6月 6日 癸巳
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吾妻鏡
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深夜になり、駿河四郎式部大夫 三浦家村が密かに諏方兵衛入道蓮佛 (諏訪盛重) を訪れ相談を申し入れた。蓮佛はすぐに左親衛 北條時頼に報告し、家村を座敷に待たせて御所を数回往復したのは何かの交渉があったと思われる。明け方になって家村は退出した。
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   ※家村の相談: 諏訪盛重は 泰時の時代から北條嫡流の家司を務めた得宗被官の長老クラスで、
家村は 三浦泰村の実弟、本音で解決を探ったのだろうか。家村は翌年の宝治合戦で行方不明 (死骸が確認できず) になる。家村の消息を含め、何が話されたのか気になる部分だ。
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   葉黄記関東の飛脚が到着。入道将軍 藤原頼経の御所が封鎖されて、近習の 藤原定員が拘束
された。越後守 北條光時は出家して伊豆国に配流、その舎弟 修理亮 北條時幸は自害。また上総権介 千葉秀胤を領国に追放し、降伏した者は拘禁した。
これらは時頼の命令であり、様々の噂が流れている。
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   ※光時配流: 韮山の北條邸近くか、頼家範頼 が幽閉された修禅寺だろうか。吉川本は 江間郷
(地図) と書いている。江間は二代執権 義時が部屋住みだった頃の本領だ。
伊豆に20年近く住んでいた私としては頗る残念だが、光時の墓所どころか消息すら確認できない。
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   ※秀胤追放: 若年の時頼としては、取り敢えず千葉氏との決定的な対決を避けたらしい。
ただし、翌年の宝治合戦での秀胤は同族の大須賀氏と東氏の軍勢に攻められて滅亡しているから時頼の予定通りの結末を迎えたか。北條氏に限らず、当時は討手に同族 (例えば兄弟や従兄弟など) を派遣する例が多い。忠誠心の確認を兼ねているのだろう。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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6月 7日 甲午
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吾妻鏡
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前佐渡守 後藤基綱、前太宰少弐 狩野為佐、上総権介 千葉秀胤、前加賀守 町野 (三善) 康持 らは事件への関与により評定衆を罷免、康持は問注所執事を解任となった。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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6月 8日 乙未
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百錬抄
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関東騒動の情報が届いた。明日飛脚が入洛の予定、入道将軍 藤原頼経が叛逆を企てた、と。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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6月10日 丁酉
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吾妻鏡
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左親衛 北條時頼邸に於いてまた極秘の評議があった。時頼、右馬権頭 北條政村、陸奥掃部助 北條実時、秋田城介 安達義景に加えて今回は若狭前司 三浦泰村も同じ考えを述べる予定で参席している。
他に諏訪入道 盛重と太平三郎左衛門尉 尾籐景氏も同席した。
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   葉黄記の記述:日を追って世間が騒がしく噂が飛び交っている。今朝は東山殿の御所付近で
変異の情報があり、確認したが特に異常はなかった。天狗の所為だろうか。
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   ※泰村参席: 事件の決着後に、当初の会議に呼ばれなかった泰村が呼ばれたのは牽制に加えて
恫喝する意味が含まれる。優柔不断な泰村は決起する準備もできず、頼経に近い立場だった弟 光村を慰撫して服従を約束する程度が関の山か。
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   ※尾籐景氏: 得宗家の初代家令として貢献した 尾藤景綱の養子。時頼側近として政務の中心を
担った。宝治合戦 (1247年6月) で三浦氏が滅亡した後は、諏訪盛重と共に寄合衆 (鎌倉時代後期の実質的な政治の中枢) に任じている。
能力の秀でた得宗被官が実力を発揮し執権の手足となって御家人を支配する時代になる。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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6月13日 庚子
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吾妻鏡
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出家した越後守 北條光時 (法名蓮智) が伊豆国に配流となり、越後国務 (守護職) などを含めた公職と所領などは没収となった。また上総権介 千葉秀胤は光時との共謀が露見し、上総国に追放となった。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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6月15日 壬寅
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葉黄記
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晴。東山殿 (院の御所) に参内。(六波羅北方の) 北條重時の使者が来訪。鎌倉からの使者として 安達泰盛が昨日上洛、入道将軍 藤原頼経が来月11日に上洛の予定との事。噂は様々だが、騒動は決着したのだろうか。
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   ※安達泰盛: この時が吾妻鏡での初見で満15歳、鎌倉時代の後半に欠かせないキーパーソンの
一人。翌年には父の 義景と共に 三浦泰村を滅ぼし、執権時頼の外戚として御家人筆頭の地位を確立するのだが...好事魔多し。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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6月20日 丁未
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮の臨時祭で神事あり。ただし将軍家の御参宮も奉幣使の派遣もなく、八幡宮寺単独の行事である。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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6月27日 甲寅
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吾妻鏡
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入道大納言家 前将軍 藤原頼経が入道越後守 北條時盛の佐介邸に渡御した。御上洛を控えた御門出の儀で、近習ら多くが供奉した。道中の宿舎や雑事などについて手配の指示が下された。
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   ※時盛: 北條時房の嫡子。時房を継いで貞応三年 (1224) ~
仁治三年 (1242) まで六波羅南方に任じた時盛が佐介谷 (現在の佐助ヶ谷、地図) に住み、佐介流北條氏と呼ばれた。
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谷の奥にある佐助稲荷神社が語源で、更に源典は祭神の化身が佐殿 (兵衛府四等官の次官が佐 (すけ) で頼朝の若い頃の官職) を助けたとか 上総介、三浦介、千葉介の三人が屋敷を構えていたため「三人のすけ」から転訛したなどの説があるが、どこまで信用できるやら。
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  右は 佐助稲荷神社 (Wiki) の鳥居を臨む参道。クリック→ 別窓で拡大表示
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鎌倉駅から約1kmの徒歩圏内だから鶴岡八幡宮本殿までの距離と大差ないのだが、境内は深山幽谷の趣がある。参道を少し戻って北に入ると 銭洗弁財天 (Wiki) に至る。
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30年ほど前に財布にあった万札 数枚を洗ってみたが何の効果もなかった。「信仰心の欠片もない癖に現世の功徳を求めてもダメ」との託宣を受けたのだろうかね。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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7月 1日 丁巳
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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晴。左親衛 北條時頼が入道大納言家 前将軍 藤原頼経の御旅宿 (北條時盛の佐介邸) に酒肴を届けた。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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7月 2日 戊午
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吾妻鏡
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晴。午刻 (正午前後) に地震あり。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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7月 5日 辛酉
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吾妻鏡
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晴。巳刻 (10時前後) に地震あり。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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7月11日 丁卯
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吾妻鏡
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晴。入道大納言家 藤原頼経が今朝早くに御帰洛の途に就いた。
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  供奉人
   前讃岐守中原親実   前石見守能行
   前隼人正光景     山城入道元西
   信濃権守       隼人太郎左衛門尉光盛
   信濃右馬允      高橋右馬允光泰
   彌五郎右馬允盛高   齋藤左衛門尉清時
   籐四郎左衛門尉秀実  十郎兵衛尉
      以上は、京都に滞在して仕える。
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   相模右近大夫将監北條時定 前佐渡守後藤基綱
   前太宰少貳狩野為佐    前能登守佐原 (蘆名) 光盛
   前大隅守忠時       前筑前守二階堂行泰
   主計頭頼行        毛利蔵人経光
   下妻四郎長政       大曽祢左衛門尉長泰
   上野弥四郎左衛門尉時光  宇都宮五郎左衛門尉泰親
   駿河五郎左衛門尉資村   肥前太郎左衛門尉胤家
   武藤左衛門尉景頼
      以上は、道中の供奉のみ。
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  この他に三室戸大僧正、宰相僧正以下の高僧が数人および陰陽道の輩少々が同行する。
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   ※供奉人: 上洛ではなく帰洛、要するに強制送還である。後藤基綱と狩野為佐は共に評定衆だ
が頼経に連座する形で罷免された。後に幕政復帰しており、関与は軽微と判断されたのだろう。三浦資村を含めて頼経に近かった幕臣を供奉人に加えたのは制圧に成功した余裕か、或いは無条件服従を受け入れたとも考えられる。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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頼経の
行程記録.
吾妻鏡
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7月12日 72km、鮎澤   7月13日 19km、木瀬河   7月14日 32km、蒲原
7月15日 29km、手越   7月16日 25km、嶋田    7月17日 19km、懸河
7月18日 20km、池田   7月19日 27km、橋本    7月20日 28km、豊河
7月21日 29km、矢作   7月22日 42km、萱津    7月23日 30km、墨俣
7月24日 15km、垂井   7月25日 24km、馬場    7月26日 35km、
7月27日 17km、野路   7月28日 27km、入洛・若松
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   地名をクリック→ ルート地図へ(厳密ではなく概略)。全体の日程は従来の将軍上洛の場合
と大差はないが、初日に足柄峠を越えて鮎澤まで 72kmの移動はかなりの強行軍だった。
頼経に与する御家人の関与を防ぐため相模国での宿泊を避けた、と推測できる。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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7月27日 癸未
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吾妻鏡
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野路に着御し昼の宿舎としたがここで日暮れとなり、夜半の出発となった。未の日 (27日) は御衰日 (運気の弱まる日) である。
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   百錬抄関東の前将軍入道 大納言頼経が上洛。謀反による追放である。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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7月28日 甲申
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吾妻鏡
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寅刻 (16時前後) に (藤原頼経が) 粟田口 (蹴上) を経て御入洛。
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   葉黄記今日寅刻、入道将軍が重時朝臣が提供した若松宅に入った。
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   ※若松宅: 「中央区若松町にあった重時の家」の意味と思っていたが、北條九代記の建長元年
(1249) 4月18日には「 (解任された) 五代将軍 藤原頼嗣が若松殿に入った。護送の武士20人」との記載がある。六波羅の敷地にあった若松殿、と解釈すべきだろうか。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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8月 1日 丁亥
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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民部大夫太田 (三善) 康連が問注所執事 (長官) に就任、加賀前司 町野 (三善) 康持と交替である。
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   ※康連と康持: 三善氏は帰化系の氏族で本姓は錦宿祢、実務能力を認められて朝廷の官僚とな
った。平安時代中期に四代目 (?) の茂明が三善への改姓を許され、更に五代後の康信 (出家後の善信、保延六年 (1140) 生まれ) の生母が頼朝の乳母の妹だった関係から伊豆流人頼朝に京都の情勢を知らせ続けていた。
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治承四年 (1140) 5月の頼政挙兵後に清盛による諸国の源氏追討令を知らせ「奥州へ逃げるように」と勧めた (吾妻鏡 6月19日の条) 。
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平家滅亡後の元暦元年 (寿永三年、1184年) 4月14に鎌倉に下り翌日には政務の補佐役として定住、新設された問注所 (訴訟事務を扱う) の初代執事に任じた。
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康連は康信の四男で太田氏の祖、康持は康信の長男 康俊の嫡子で共に問注所勤務、三善氏は鎌倉時代と室町時代を通じて問注所の執事を世襲している。
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   ※康持と交替: 前将軍頼経に連座した康持の罷免だが、暫く後には引付衆として幕政に復帰し
ている。加担の程度が軽微だったか、訴訟関係の人材として不可欠だった可能性もある。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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8月12日 戊戌
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吾妻鏡
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入道大納言家 (前将軍 藤原頼経)の帰洛に供奉していた相模右近大夫将監 北條時定が京から戻り、付き従っていた人々も鎌倉に帰還した。
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先月27日 (28日の早暁) に祇園大路を経て六波羅の若松殿に入り供奉人も1日には京都を出発したのだが、能登前司 三浦光村だけは御簾の前に残って数時間退出せず涙を流していた。光村には20余年も将軍家に仕えた思いがあったのか、「何とかして再び鎌倉にお迎えしたい」と人々に語っていたという。
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   葉黄記入道将軍 藤原頼経 が密かに東山殿に入った。
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   ※東山殿: 九条道家邸。嘉禎三年 (1237,年) に道家が自身で
建立した 東福寺 の奥で、翌年には道家自身も ここに隠棲した光明峯寺 (推定地) を差す。
応仁の乱(室町時代、1467~1477) に焼失し、そのまま廃寺となった。
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  右は粟田口から六波羅へのルート、若松町の
  位置 (中央上の鴨川沿い) 、光明峯寺 推定地
  (中央下)を記載した。  クリック→ 別窓で拡大表示
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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8月15日 辛丑
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吾妻鏡
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鶴岡八幡宮で放生会があり、将軍家 (五代将軍 藤原頼嗣、満 6歳7ヶ月)が出御した。
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  供奉の行列
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    先陣の随兵
       足利次郎兼氏           上野三郎畠山国氏
       遠江六郎兵衛尉佐原時連      右衛門太郎梶原景綱
       右衛門尉田中知継         壱岐次郎右衛門尉宍戸宗氏
       遠江右近大夫将監北條時兼     城九郎安達泰盛
       越後右馬助時親          相模式部丞北條時弘
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    次いで諸大夫
    次いで殿上人
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    次いで御車
       左衛門尉佐原七郎政連       左衛門尉雅楽時景
       佐貫次郎兵衛尉          大胡五郎光秀
       阿曽沼小次郎光綱         長井弥太郎
       那須次郎             江戸六郎太郎
       山内中務三郎           波多野小次郎宣経
         以上の10人は直垂を着して帯剣し御車の左右に続く。
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    次いで御後五位六位(布衣を着して裾を括る)
       遠江守北條時直          尾張守北條時章
       相模右近大夫将監北條時定     備前守北條時長
       上総介千葉秀胤          甲斐前司長井泰秀
       若狭前司三浦泰村         上野前司畠山泰国
       参河守新田頼氏          秋田城介安達義景
       佐渡前司後藤基綱         掃部助河越泰重
       下野前司宇都宮泰綱        壱岐前司佐々木泰綱
       伊賀前司小田時家         前太宰少弐狩野為佐
       大蔵権少輔結城朝広        淡路前司園田俊基
       壱岐前司宍戸国家         肥後前司内藤盛時
       伯耆前司清原清親         駿河式部大夫三浦家村
       越中守              長門守
       筑前前司             伊勢前司二階堂行綱
       内藤豊後前司           長沼淡路守
       上総式部大夫千葉時秀       城次郎安達頼景
       駿河五郎左衛門尉三浦資村     下野宇都宮七郎経綱
       遠江次郎左衛門尉佐原(蘆名)光盛  肥前太郎左衛門尉佐原胤家
       遠江五郎左衛門尉三浦(佐原)盛時  左衛門尉関政泰
       近江四郎左衛門尉佐々木氏信    和泉次郎左衛門尉天野景氏
       佐渡五郎左衛門尉後藤基隆     加治七郎左衛門尉佐々木氏綱
       同八郎左衛門尉佐々木信朝     大隅太郎左衛門尉
       信濃四郎左衛門尉二階堂行忠    豊後十郎左衛門尉
       春日部次郎兵衛尉         石戸左衛門尉
       太宰次郎兵衛尉          兵衛尉相馬次郎胤綱
       出羽次郎兵衛尉二階堂行村     左衛門筑後次郎知定
       鎌田籐内左衛門尉         左衛門尉飯富源内長能
       兵衛尉本間三郎元忠        下野木内次郎胤家
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    後陣の随兵
       甲斐前司春日部実景        左衛門尉長江三郎義景
       左衛門尉大曽祢太郎長経      左衛門尉壱岐六郎朝清
       淡路弥四郎宗員          左衛門尉足立太郎直光
       左衛門尉伊東六郎祐盛       佐々木孫四郎泰信
       河越五郎重家           千葉八郎胤時
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    参会の廷尉(検非違使)
       大夫判官薬師寺(小山)朝村     大夫判官小山長村
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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8月16日 壬寅
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吾妻鏡
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八幡宮放生会に続く馬場の神事あり。流鏑馬が16騎と揚馬を催したが、射手の一人が体調を崩して出場ができない旨を申し出た。神事の例に倣うため、桟敷の将軍家 (五代将軍 藤原頼嗣)から雅楽左衛門尉時景を介して「射手を務めよ」と駿河式部大夫 三浦家村に仰せが下った。家村はこれに答えて、
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亡父 義村の時代には壮年でしたから二度ほど射手を務めましたが、長い年月が過ぎ普段練習していてさえ実際にできるものではありません。まして当日に突然の出場はとても無理です。
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時景がその旨を言上すると将軍家は 泰村を呼び「どうしても射手を務めさせよ」と命じた。泰村は座を立って家村の前に行き仰せに従うよう伝えたが、馬の用意がないと答えた。
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泰村は何かの支障に対応するため名馬「深山路」に鞍を付け流鏑馬舎近くに用意していた。逃げ道を失った家村は敷き皮を持って下手の垣沿いに馬舎へと歩み、全ての観衆は馬場の下手に目を向けて家村を待ち受けた。
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家村は狩衣を射手の衣装に改めて深山路に跨り、四番目の射手として馬場に乗り入れた。その姿は昔の名人に劣らないと人々は賞賛し、家村は見事に弓射を終えてから狩衣に着替えて元の座に戻った。将軍家からは感動の言葉があり、三浦一族も他家の者も家村の美技を褒め讚えた。
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   ※揚馬: 流鏑馬などの際に騎手が最後に乗って走る馬を差す。ちなみに、家村は生年不詳だが
兄の光村と弟の胤村の年齢から推し測ると概ね35~40歳ほど、壮年の範囲内だ。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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8月17日 癸卯
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吾妻鏡
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将軍家 (五代将軍 藤原頼嗣)が突然の体調不良となり諸人が群参した。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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8月20日 丙午
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吾妻鏡
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将軍家の病気が平癒し 医師、護持僧、陰陽師らが褒賞を受けた。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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8月25日 辛亥
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吾妻鏡
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晴。寅刻 (早暁4時前後) に月が軒轅女御星 (5月5日の記事を参照) の軌道を犯した。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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8月26日 壬子
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吾妻鏡
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晴。寅刻 (早暁4時前後) に月が太白 (金星) の軌道を犯した。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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8月27日 癸丑
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葉黄記
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晴。病気ではあるが、輿で (六波羅の) 相模守 北條重時朝臣を訪ね、暫く待たされた後に面談した。
重時からは「世間の噂では仙堂 (院の御所) 周辺で不穏な動きがある。鎌倉から私に届いた書状 (左近大夫将監 北條時頼から重時に宛てたもの) を内々に御覧に入れよう」との事だった。
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は「その書状を頂戴して奏覧に呈すべきか」と尋ねたが重時は「私信であり、奏覧は恐れ多い」と答え、私は「では書写ならよろしいか」と尋ねた。重時は「それも恐れ多い」と答え、私は「内容を箇条書きにしよう」と言って承諾させた。
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私は二枚を書いて後日のため重時に一枚を渡した後に参院し、噂を聞いた円満院宮 (後嵯峨天皇の皇子円助法親王) 、大相国 (西園寺実氏) 、前内府 (九条忠家) も同様に参院した。
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私は院の御前に進んで余人を混じえず箇条書きの内容を奏上した。
特別な内容ではなく、大納言入道 (前将軍 藤原頼経) が上洛して出家引退した件、将軍 (五代 藤原頼嗣) は通常通り家人が守護している件、謀反を企てた者に多少の処分を下し関東は静謐である件、天下の政道は仰せに従って徳政に務め叡慮に背かず優れた者を重用する件、関東申次の人事は追って申し入れるとの件、などがその内容である。

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   ※私、とは: 日記 葉黄記を書き遺した正三位権中納言 葉室定嗣 (Wiki) を差す。
幕府の史料である吾妻鏡に対して、葉黄記は公家の立場から書かれた史料、その意味で貴重な存在とされる。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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9月 1日 丙辰
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吾妻鏡
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   吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
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左親衛 北條時頼が若狭前司 三浦泰村を招き、政治の方向性などについて話し合った。その中で「知恵も十分ではない若輩でありながら武士の政治を預かっており、自分勝手な動きに陥るのも防ぐ必要がある。六波羅から相模守 北條重時を鎌倉に呼んで万事を話し合おうと思うが、どうだろうか。」と尋ねた。泰村は「それには賛成できません。」と答え、時頼はこの件を暫く実施しない事にした。
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   ※重時の件: 重時の合流によって執権体制が強化されるのを泰村が警戒したか、あるいは時頼
が泰村の考えに探りを入れたか。もちろんこの面談が吾妻鏡編纂者の捏造で、 (謀反の心を抱く) 泰村が執権体制の強化を嫌っていたと匂わせた可能性もある。
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宝治合戦について「時頼が三浦氏との対決を避けたいと考えていた」とか、「安達氏の単独行動に引きずられて時頼も踏み切った」などの話は信頼に値しない。
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元久二年 (1205) の6月に10倍以上の完全武装兵力で僅か137騎の (軽武装) 畠山重忠主従を殺戮した北條義時が凱旋して語った台詞 (下記) を読みなおそう。
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未刻 (14時前後) に相州 (北條義時) らが軍勢を率いて鎌倉に帰参した。遠州 北條時政が合戦の詳細を質問し義時は次のように報告、時政は言葉を発し得なかった。
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重忠の弟や親類の殆どは同行せず、合戦に加わったのは僅かに百余名でした。重忠が讒訴で落命したのは明らかで、実に残念です。本陣で重忠の首を見た時には旧交を思って涙を禁じられませんでした。  これが、完全武装の3,000騎で軽武装の137人を皆殺しにした卑怯者のセリフだ。しかも、同程度の予備軍が重忠一行の退路を塞いでいる。
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吾妻鏡の編纂者が「時政に命じられた義時の弱い立場」を恣意的に弁護した可能性もあるが、この件に並行して義時による時政追放の計画が進んでいた事実を忘れてはならない。
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建仁三年 (1203) には御家人連合軍を派遣して寡兵の比企館を奇襲し、頼家の嫡子と比企一族を皆殺しにした。元久二年 (1205) には同じ作戦で重忠一族を殺し同族の榛谷氏と稲毛氏も始末した。
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ところが元暦三年 (1213) の和田合戦では些細な手違いから苦戦し将軍御所まで攻め込まれたが、相模国の和田氏応援部隊の到着が遅れたために辛うじて勝利を手にした。
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二度と同様のミスは犯さないのが北條氏の狡猾で計算高い性癖、敗戦のリスクが少しでもあったら無理はしない。有力御家人を味方にし陪臣の直属部隊を指揮できる鎌倉域内なら絶対に勝てる。
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しかし、元弘三年 (1333) の鎌倉陥落は寿永三年 (1184) の一の谷合戦の裏返しになった。
鎌倉は全て北條一族を憎む敵の大軍に囲まれていたからね。しかも逃げ道なしの詰め将棋だった。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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9月 9日 甲子
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吾妻鏡
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晴。今暁に太白 (金星) が微執法皇星 (不明) の軌道を犯した。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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9月12日 丁卯
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吾妻鏡
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将軍家 (五代将軍 藤原頼嗣) の近習を六組の勤番制とし左親衛 北條時頼が自筆で勤番の名簿を書いた。
理由のない欠勤が三回あった場合は罪科に処すとの附則が載っている。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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9月16日 辛未
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吾妻鏡
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晴。寅刻 (早暁4時前後) に太白 (金星) が太執法皇星 (不明) の軌道を犯した。離隔は九寸。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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9月27日 壬申
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吾妻鏡
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晴。左親衛 北條時頼が兼ねてからの所願に従って薬師如来像の造立に取り掛かった。
今日、大納言法印 隆弁に材料にする木材の加持祈祷を委ねた。隆弁は去年から在京しており、時頼の護持僧としての下向を再三求めたため一昨日 (25日) に鎌倉に入っていた。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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10月 6日 辛卯
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吾妻鏡
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曇、夜になって雷鳴あり。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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10月 8日 癸巳
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吾妻鏡
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左親衛 北條時頼が盃酒を将軍家 (五代将軍 藤原頼嗣)に献じ、舞女が廻雪の袖を翻した。
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   ※廻雪の袖:舞姿を修飾する定形語。文治二年 (1186) 4月8日に白拍子 静が八幡宮で舞った際に
も 「憖廻白雪之袖」 (不本意ながら白雪の舞う如く袖を翻す) との記載がある。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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10月 9日 甲午
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吾妻鏡
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晴。左親衛 北條時頼が宿願により私邸に於いて今夜から如意輪の秘法 (祈祷) および大般若経の信読 (経典の全てを省略せず読む) を催した。両方とも大納言法印 隆弁の担当である。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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10月13日 戊戌
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吾妻鏡
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左親衛 北條時頼が右大将家 頼朝の法華堂を訪れ恒例の御仏事 (13日は頼朝の月違い命日) を聴聞した。
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   葉黄記関東から時頼の使者として安藤左衛門光成 (得宗被官) が上洛した。関東申次
九条道家から相国 (西園寺実氏) に交替させ徳政に努めるよう、申し入れがあった。
また故 泰時朝臣の発案により最近の8~9年は洛中の要所に守護の武士を置き篝火を焚いていたため人々は安眠できたのだがこれらは停止するらしい。理由は不明。
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   ※関東申次: 鎌倉との窓口が一本化されたとする説もあり、また上皇や道家から直接鎌倉に申
し入れがあったとの記録が残っている事から 必ずしも一本化とは言えない、と考える説もある。
いずれにしろ道家が失脚または失脚に近い状態になったのは間違いない。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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10月16日 辛丑
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吾妻鏡
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御所の馬場殿で笠懸が催され、将軍家 (五代将軍 藤原頼嗣、満6歳) を特に楽しませた。射手は12騎、その中で左親衛 北條時頼は工藤六郎と横溝五郎資重の好成績を予想した。
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 射手は 北條六郎時定      城九郎安達泰盛   遠江六郎北條時連  上野十郎結城朝村
武田五郎三郎政綱    薩摩七郎祐能    工藤六郎祐光    横溝五郎資重
左衛門尉三浦五郎資村  若狭前司三浦泰村  相模八郎北條時隆  小笠原余一長経
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   ※射手は: 他のメンバーは古参御家人の子孫だが、横溝資重と工藤六郎は鎌倉時代初期からの
得宗被官 (御内人) で共に伊豆工藤氏の系。時頼の時代には得宗被官が御家人と並んで公式行事や幕政に関与し始めている。
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まぁ来年の宝治合戦で三浦一族が滅びた以後は御家人の全てが北條氏を主人と仰ぎ従っているから御内人と御家人の区別はないのと同じだが、弊害は起きる。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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10月22日 丁未
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葉黄記
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晴。大甞會に備えた御禊ぎあり。後嵯峨上皇は二條東洞院 (地図) の桟敷で見物された。
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   ※大甞會: 新嘗祭は天皇がその年に収穫した五穀を献じて収穫に感謝する宮中祭祀で、現代は
11月23日に開催する。鎌倉時代は旧暦の11月13日~24日の卯の日の開催で、この年は24日だった。
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一方で大嘗祭 (だいじょうさい=大甞會) は新たに即位した天皇が最初に行なう新嘗祭、即位が7月までならその年、8月以後なら翌年に開催する。
明治以前は大嘗祭を済ませてから正式な天皇の資格を得る、とされていた。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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10月29日 甲寅
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吾妻鏡
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左親衛 北條時頼が (10月9日から催していた) 如意輪法の祈祷が結願の日を迎えた。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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11月 3日 戊午
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吾妻鏡
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京都朝廷の使者が鎌倉に到着し、先月24日に (大甞會に備えた 後深草天皇 (Wiki、満三歳) による御禊行幸が無事に完了した旨を報告した。今回は先例にない閑院殿 (里内裏) からの出御となった。
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   ※閑院殿: 天皇が皇居の火災などに伴って高位の公卿や外戚
の屋敷を内裏として利用するようになった。
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平安時代の中期に天皇家との外戚関係などを利用して摂関政治の基礎を作った正二位左大臣 藤原冬嗣の屋敷を第52代 嵯峨天皇 が里内裏としたのが始まり。
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冬嗣の時代から正元元年 (1259) 5月に焼失するまでの約90年間 九代の天皇が里内裏とした冬嗣邸跡は現在の二条城東、西福寺の門前 (地図) に石柱が建っている。
   右上画像をクリック→ 別窓で拡大表示。
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ただし宮中の公式行事が皇居ではなく里内裏から出御する例は今回が初めてで、以後は里内裏も公式の皇居の概念に含むと考える習慣になったらしい。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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11月 9日 甲子
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吾妻鏡
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晴。今暁に螢惑 (火星) が房的星 (蠍座の星) の軌道を犯し、同じく太白 (金星) が建閇星(同じく蠍座の星)の軌道を犯した。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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11月10日 乙丑
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吾妻鏡
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将軍家 (五代将軍 藤原頼嗣) が再び体調を崩し、近習らが周章てて祈祷などを手配した。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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11月14日 己巳
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吾妻鏡
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由比ヶ浜での犬追物観覧は延期となった。将軍家の病状が好転していないためである。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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11月27日 壬午
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吾妻鏡
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寅刻 (早朝4時前後) に大地震あり。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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12月 2日 丁亥
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吾妻鏡
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(大甞祭に伴って) 先月23日の除目の内容が鎌倉に届き、将軍家 藤原頼嗣が従四位下に叙された。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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12月 6日 辛卯
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吾妻鏡
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将軍家 (五代将軍 藤原頼嗣) の病状は特に問題なく回復した。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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12月 7日 壬辰
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吾妻鏡
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先月27日の除目聞書が鎌倉に届いた。将軍家 藤原頼嗣の少将は従来通り。
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   ※聞書: 除目の叙位任官に関する協議の内容を聞き書きした文書。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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12月12日 丁酉
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吾妻鏡
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入道大納言家 (前将軍 藤原頼経) の書状が左親衛 北條時頼に届いた。
色々と申し入れが書かれており、了承の返事を出すべきか否かを周囲の者に質問し、詳細には触れずに返信を書くべきとの結論に達した。
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   ※頼経の書状: 内容は不明だが、幕府への影響力を多少とも維持したい 九条道家と頼経親子の
気持ちと、本気で相手にする意思がない鎌倉の思惑が見て取れる。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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12月17日 壬寅
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吾妻鏡
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悪党を庇護し援助する輩を厳重に規制するよう普段から命令が下されており、今日改めて御教書が諸国の守護と地頭に下された。その内容は次の通り。
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   悪党および四一半 (サイコロ賭博) を行なう者を庇護した場合の所領没収について。
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最近は諸国から夜討ちや強盗事件の情報が報告されているのは、偏に各地の地頭が悪党や賭博の常習者を匿ったり放置しているのが原因である。そのような地域がある場合は所領没収の措置を執るから、知行している地域内にその旨を周知させるように。
以上、将軍家の仰せに従って通告する。  寛元四年十二月十七日   左近将監  某殿
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   ※悪党: 幕府の統治システムや荘園制度に反発し徒党を組んだ在地領主、新興商人、有力農民
などの集団。ここでは山賊や海賊と異なり、反執権勢力と連携した動きに発展する事を差している。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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12月25日 庚戌
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葉黄記
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前相国 (頼経の実兄 一条実経 (Wiki) が関東に派遣していた使者の友景が昨夜帰洛した。何らかの極秘の協議があったと思われる。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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12月27日 壬子
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吾妻鏡
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今暁、将軍家 藤原頼嗣の御息災を願う祈祷が催された。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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12月28日 癸丑
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吾妻鏡
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追われた者が幕府の台所に逃げ込み、追い掛けてきた者も続いて参入した。昼の当番として詰めていた松田弥三郎常基が双方を捕縛し、御所が大騒ぎになった。
相模守 北條重時が左衛門尉 平盛時と兵衛入道 諏訪盛重を派遣し、各々に経緯を問い質した。
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追われていたのは紀伊七郎左衛門尉重経の従者で、重経の所領である丹後国の年貢を運送する役目に任じながら持ち逃げした人物である。追い掛けた方の者は各地を探し回った末に米町の辺りで見つけて追い掛け、夢中になって御所に入り込んでしまった、と申し述べた。
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主人の行為ではないが、この郎従の行為は主人の命令を受けてである。該当する丹後の所領を没収するとの沙汰が下された。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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12月29日 甲寅
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吾妻鏡
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左馬権頭入道昇蓮 (足利義氏の法名) と上野入道日阿 (結城朝光の法名) が下総国松岡庄 (現在の常総市豊田 (地図) の田久郷と安両郷) について訴訟で争っている。
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去る文歴元年 (1234) に未納となっている年貢は当給人 (管理者、地頭) だった上野入道日阿に弁済する義務がある、と言うのが預所 (上級の荘官) 入道昇蓮の主張である。
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これに対して日阿の主張は、この土地を (地頭として) 拝領したのが文暦元年 (1234) 12月16日であり、年貢の徴収と納付には関与せずとの内容である。
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今日この件が決裁され、入道日阿の前任者である忠幹が弁済を命じられた。
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   ※結城朝光: 晩年の朝光は笠間を拠点に布教に専念していた 親鸞に深く帰依し、本領の結城に
称名寺 (関連サイト) を開き、家督を嫡子の 朝広に譲り出家して信仰の世界に生きている。結城に於ける朝光の生涯は 結城七郎朝光の旧跡 に詳細を述べた。
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   ※忠幹: 下総国豊田郡は桓武平氏常陸大掾氏の勢力範囲で「幹」は大掾氏の支族多気氏の通字
である。筑波の 小田城址三村山極楽廃寺 を歩いた時に 偶然にも忠幹の父親 多気太郎義幹 (Wiki) の墓所に行き着いて嬉しかったのを覚えている。これは小田城址の中盤に記載して置いた。  青字に下線 の項目は全て別窓として紹介してある。
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2025年
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12月08日
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晴耕雨読
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朝6時半、寛元二年の校正が終了、少し予定から贈れたが、概ね順調。
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切り倒したニチニチソウを一日乾燥させてゴミ袋に詰め込んだ。全部で30株ほどが何とか一袋に収まった。合計2袋、食事が済んでから集積所 (徒歩3分) に運ぶ。
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プラムの樹二本の周囲に花ニラが見事に増えてきた。全て自然繁殖で三月の半ばから四月まで一面に薄いブルーの花を開く。丈夫だし花季も長いし、手入れをしなくても楽しめるのが嬉しい。右は去年の三月末の画像だが、今年は更に広いスペースの開花が載せられると思う。表通りに面したレンギョウを大きく切り詰めた、その代替えになってくれるかも。
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西暦1246年
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89代 後深草天皇
寛元四年
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 月 日
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