
. . 89代 後深草天皇 |
. 1月 1日 丁卯 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 晴、風が静まった。相模守 北條時頼の沙汰による椀飯※の儀あり。献上の役人、前右馬権頭 北條政村が御剣を、秋田城介 安達義景が御弓箭を、出羽前司 二階堂行義が御行騰と沓※を献じた。 . 一の御馬(黒)は 北條六郎時定 と 諏方兵衛四郎盛頼 二の御馬(河原毛)は 武藤四郎北條時仲(北條朝直の子) と 尾張籐兵衛尉 三の御馬(黒駮)は 大曽祢太郎左衛門尉長泰※ と 同次郎左衛門尉盛経 四の御馬(白鴾毛)は 遠江次郎左衛門尉佐原 (蘆名) 光盛 と 同六郎兵衛尉時連 (盛連の六男) 五の御馬(鹿毛)は 城九郎安達泰盛 と 同四郎時盛(安達義景の四男で泰盛の次弟) . . ※椀飯 (おうばん) : 饗応の献立、食事を摂る儀式、行事も意味する。大判振る舞い、の語源。 . ※行騰 (むかばき) と沓: 乗馬の際に着ける袴カバーと靴。画像 (Wiki) を参考に。 . ※大曽祢長泰: 安達盛長-次男時長-安達長泰(大曽祢氏の祖)と続く安達氏庶流、美濃守。 建長元年 (1249) ~弘長二年 (1262) まで引付衆に任じている。 .※年令: 五代将軍は 九条道家の孫 藤原頼嗣 12歳 、 四代将軍 藤原頼経 (30歳) は京に追放済み、 五代執権 北條時頼 23歳、
連署は六波羅北方から転じた北條(極楽寺)重時 52歳、 .後任の六波羅北方は重時の嫡子で後に六代執権になる 北條(赤橋)長時 20歳、 後の七代執権 北條政村 45歳、後に評定衆として執権を援ける 北條(金沢)実時 25歳、 . 安達義景 40歳、 安達泰盛 19歳、 千葉頼胤 10歳、 足利義氏 61歳、 足利泰氏 34歳、 小山長村 34歳、 結城朝光 80歳、 結城朝広 59歳、 宇都宮泰綱 48歳、 . 浄土真宗 親鸞 77歳、 真言律宗 叡尊 49歳、 真言律宗 忍性 33歳、 法華宗 日蓮 28歳、 . 第89代 後深草天皇 は8歳、第88代 後嵯峨天皇 (29歳) は前々年1月に退位して院政へ、 姉小路顕朝 (39歳) と 中御門経任など若手の中堅公卿を軸にして幕府との協調を図りつつ院政を開始する。太政大臣は 西園寺実氏 56歳、関白は 二条良実 34歳。 . 単独の関東申次となった 九条道家 (55歳) は解任され、後任は西園寺家の世襲となる。 道家は建長三年 (1251) の宝治合戦残党による幕府転覆計画に関与した嫌疑で失脚。 翌 建長四年 (1252) 2月には将軍頼嗣も解任され京に追放、同年4月に後嵯峨天皇の皇子 宗尊親王が「宮将軍」として着任し、執権政治に対抗する勢力は壊滅する。 . 道家、頼経、三浦一族、名越流北條氏の没落によって執権独裁体制を堅持した幕府と、後嵯峨院政を軸にした五摂家 (近衛家、一条家、九条家、鷹司家、二条家) の合議分担体制になった朝廷、両者の関係は安定期に入る。 (全て1月1日基点の満年令で表示、下線付き は Wiki による解説) ※ 宝治合戦 (1247年) で三浦一族が滅亡した後に、執権 時頼は極楽寺流の祖 北條重時を六波羅 北方から復帰させ連署に任命、北方の後任は (赤橋) 長時。重時は建長八年 (1256) に出家して政界を退くが、この頃から真言律宗の僧 忍性の活動が活発になるのは前年初頭に紹介した通り。非人や病人の救済、土木作業、港湾の管理などに顕著である。 .. 強権を握った時頼は弘長三年 (1263) 11月に36歳で死没、5年後の文永五年 (1268) 3月に八代執権に就かせる時宗の道筋を見届けるような最期になる。時頼の後継は六代 (赤橋) 長時と七代 政村を経て八代 時宗 (建長三年、1251年誕生) に続く。 . それにしても 3代泰時 (58歳で病死) 以後の義時直系 (北條嫡流) 執権の寿命は驚くほど短い。 4代経時 23歳、5代時頼 36歳、8代時宗 33歳、9代貞時 40歳、10代師時 35歳。 激務の故か、繰り返した血族結婚の弊害か、怨みを抱きつつ滅びた人々の祟りだろうか。 . 嫡流以外の執権、そして鎌倉陥落と運命を共にした高時と貞顕と守時の没年は次の通り。 6代長時 34歳、7代政村 68歳、11代守宣 52歳、12代煕時 36歳、13代基時 46歳、14代高時 29歳、15代貞顕 56歳、16代 守時 37歳 、 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 1月 2日 戊辰 . 吾妻鏡 |
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足利左馬頭入道※の沙汰による椀飯の儀あり。 献上の役人、武蔵守 北條朝直が御剣を、宮内少輔 足利泰氏が御弓箭を、佐渡前司 後藤基綱が御行騰と沓を献じた。
. 一の御馬は 上野三郎畠山国氏(畠山泰国の嫡男) と 大平太郎左衛門尉 二の御馬は 弥次郎左衛門尉親盛 と 刑部次郎兵衛尉 三の御馬は 信濃四郎左衛門尉二階堂行忠 と 筑前次郎左衛門尉二階堂行頼 四の御馬は 出羽次郎左衛門尉二階堂行有 と 同、二階堂三郎行資 五の御馬は 足利太郎家氏(泰氏の長男で尾張足利氏の祖) と 同、足利次郎兼氏※ . . ※足利左馬頭入道: 足利義氏を差す。出家と共に正義に改名している。 . ※足利兼氏: 家氏の同母弟、後に改名して家顕。分家して渋川氏の祖となった。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 1月 3日 己巳 . 吾妻鏡 |
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陸奥守 北條重時の沙汰による椀飯の儀あり。献上の役人、尾張前司 北條時章が御剣を、出羽前司 足利泰氏が御弓箭を、出羽前司 小山長村が御行騰と沓を献じた。 . 一の御馬 陸奥弥四郎時茂 と 宿屋次郎忠義 二の御馬 越後五郎時長 と 浅羽次郎兵衛尉 三の御馬 出羽五郎左衛門尉波多野宣時 と 波多野五郎秀頼 四の御馬 上野弥四郎左衛門尉結城時光※ と 同十郎朝村※ 五の御馬 遠江六郎 北條教時 と 尾張次郎 北條公時 . . ※結城時光: 朝光の六男または七男で寒河氏の祖となった武士。祖母の 寒河尼が女地頭を務め ていた寒川郡 (小山市西南部、地図) を継承したのだろう。 .※結城朝村: 朝光の八男で弓の名手 (嘉禎四年 (1238) 5月16日を参照) 。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 1月13日 己卯 . 吾妻鏡 |
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下野国の結城郡で空から麦が降った。まるで焼いたような状態だった、と。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 1月16日 壬午 . 吾妻鏡 |
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晴。将軍家(藤原頼嗣)が鶴岡八幡宮に御参宮。今年の初、御束帯で御車による。
. 供奉人 . 前右馬権頭北條政村 尾張前司北條時章 武蔵守北條朝直 備前前司北條時長 陸奥掃部助北條実時 宮内少輔足利泰氏 遠江左近大夫将監時兼 佐渡前司後藤基綱 出羽前司小山長村 大蔵権少輔加藤景朝 新田参河前司頼氏 前太宰少弐狩野為佐 秋田城介安達義景 壱岐前司佐々木泰綱 安芸前司内藤親光 (安芸守護だった藤原親実じゃないかと思う) 能登左近大夫仲時 肥後前司盛時※ 薩摩前司安積祐長 城九郎安達泰盛 大曽祢左衛門尉長泰(1月1日を参照) 上野三郎左衛門尉結城広綱 (朝広の嫡子、結城氏三代当主) 左衛門尉武藤広頼 (景頼の系か) 出羽次郎左衛門尉二階堂行有 (系図で確認できず) 筑前次郎左衛門尉二階堂行頼 (同、左) 和泉次郎左衛門尉二階堂行章※ 遠江次郎左衛門尉佐原光盛 同六郎左衛門尉佐原時連(盛連の六男) 伊賀次郎左衛門尉光房 式部六郎左衛門尉伊賀朝長 大須賀左衛門尉朝氏(千葉胤信) の子孫 肥後次郎左衛門尉忠綱(?) 左衛門尉伊東次郎時光※ 新左衛門尉三村親時※ 弥左衛門尉康義 豊後四郎左衛門尉島津忠綱 伊東次郎左衛門尉 (早川祐朝か?) 籐内左衛門尉宇佐美祐泰 (祐茂の曾孫) 右衛門尉足立太郎直光 (遠元の子孫か?) 左衛門尉長谷部三郎朝連※ 常陸次郎兵衛尉二階堂行雄(?) 左衛門尉和泉五郎天野政泰(政景の三男) 新左衛門尉小野寺行通(通時の兄の子) 以上は布衣。 . 上野十郎結城朝村 (朝光の八男で弓の名手、嘉禎四年5月16日参照) 波多野小次郎宣経 (?) 遠江十郎佐原頼連(会津佐原氏の系か) 小野澤次郎時仲※ 摂津新左衛門尉 備後次郎兵衛尉 土肥四郎実綱 (小早川遠平曾孫) 隠岐新左衛門尉佐々木時清 (義清-次男泰清-次男時清) 加地五郎次郎章綱(信実-五男義綱-嫡子章綱) 左衛門尉梶原景綱(景茂-景俊-景綱) 以上は直垂に帯剣。 . . ※内藤盛時:内藤盛家の次男。嘉禄二年 (1226) 5月8日に 父の盛家が溺愛する次男盛時に功績を 譲って検非違使任官の宣旨を受けたが、幕府は不都合と判断し取り消している。 .※伊東次郎:建長二年 (1250) 1月16日の供奉人リストにある伊東次郎左衛門尉時光と同一人だ ろうが、この時光が系図に見当たらない。年代から考えると伊東祐時の息子か。工藤氏の系なら通字の「祐」を使う筈だが...。 .※二階堂行章:後に引付頭人に任じる和泉前司 二階堂行方の嫡子。五代将軍 頼嗣と六代将軍 宗尊親王の二人に仕え、文永七年 (1270) には引付衆に任じている。 .※三村親時:八田氏の嫡流が本拠を置いた常陸国筑波郡三村郷 (小田城址 、地図) の近くに本拠 を置いた一族らしいが、異説もあって詳細の確認はできない。 .※長谷部信連:朝連の子。朝連は治承四年 (1180) に 以仁王を 園城寺 (三井寺) に逃がして検非 違使と戦い後に 頼朝に仕えて能登国大家荘を得た元滝口武者 長谷部信連の嫡子。承久の乱でも幕府軍として入洛し、一族は能登の広い範囲に扶植した。 .※小野寺行通:奥州合戦で出羽に所領を得た小野寺通時の嫡子。出羽に土着したのは庶流か、 代官か。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 1月27日 癸巳 . 吾妻鏡 |
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雷鳴あり。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 1月28日 甲午 . 吾妻鏡 |
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晴。相模守 北條時頼が体調を崩している。黄疾 (黄疸) の症状と思われる。
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. . 89代 後深草天皇 |
. 2月 5日 辛丑 . 吾妻鏡 |
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諸国の守護、地頭、御家人に向け 六波羅の召喚に応じなかった場合の処分を定めた。 今後は同様の事例があれば罪人として処するように、との命令である。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 2月 8日 甲辰 . 吾妻鏡 |
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相模守 北條時頼が病気を我慢して大倉薬師堂※に参拝した。 夢のお告げにより信仰心を深めた結果である。 . . ※大倉薬師堂: 建保六年 (1218) 7月9日に 北條義時が建立を始めた堂で二階堂の覚園寺として 現存する (地図) 。 右下画像をクリック→ 拡大表示。 .. 三代将軍 実朝が右大将叙任に拝賀のため雪の八幡宮に参拝した夜に義時は突然の体調不良を称して 源仲章と供奉を交代し、自邸に戻って難を逃れた。「薬師十二神将の「戌神」が夢に現れて「来年の将軍参拝には供奉するな」と警告したために実朝の列から離れた」という白々しい嘘に神託を利用した事件。 .
しかも当夜に危険を知らせたのは戌神に侍っている白い犬の像で、実朝殺害の時間帯には堂内には不在だった、との証言まで捏造する念の入れ方だ。
. 翌年2月8日の吾妻鏡と併せて読むと、実朝殺害に関与したと思われる義時の動きが浮かび上がる。そもそも実朝に供奉する義時が危険ならば将軍実朝も危険な筈だ。主人の実朝には危険を知らせず自分だけ回避した事実は幕臣として許されない行動だ。 . 大倉薬師堂については仁治四年 (1243) 2月2日にも詳しい記事を載せてある。参照されたし。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 2月12日 戊申 . 吾妻鏡 |
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相模守 北條時頼が鶴岡八幡宮で祈祷を催した。
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. . 89代 後深草天皇 |
. 2月18日 甲寅 . 吾妻鏡 |
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相模守 北條時頼が幕府政庁に出仕した。軽い病状が続いていたが、特に深刻ではなかったらしい。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 2月23日 己未 . 吾妻鏡 |
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鶴岡八幡宮の別当法印 隆弁※から、幕府として園城寺(三井寺) の興隆に助力を願いたいとの希望が出され、清原清定の奉行として検討が行われた。園城寺は関東としても代々将軍の帰依は他と異なる深さがあり、特別の助成を行なう旨が定められた。 . . ※戒壇について:間接的に関連する画像と情報を下に列記した。参考までに、どうぞ。 .
※隆弁:13歳で園城寺に入って出家。若年から頭角を現し、
天福二年 (1234) に 四代将軍の 藤原頼経に招かれて鎌倉を訪れてからは深い信頼を受け、鎌倉と園城寺と朝廷を頻繁に行き来する生涯を送る事になる。 .. 右は薬師寺歴史館に展示してある戒壇見本 クリック→ 別窓で拡大 詳細は 薬師寺歴史館の公式サイトで。 (地図) . 園城寺で修業した 公暁 (二代将軍 頼家の遺児) が建保七年 (1219) 1月に三代将軍 実朝を殺してからの園城寺は 幕府の援助を失って衰退、再び繁栄を取り戻すのが隆弁の宿願であり、優れた宗教指導者が必要だった鎌倉にとっても隆弁は欠かせない存在となった。 .
30年後、宝治合戦 (1247) に続く宮騒動などで四代将軍の藤原頼経が更迭されると頼経の父 九条道家の同母弟の慈円が座主を務める延暦寺では 僧侶の多くが執権 北條時頼を調伏する (呪い殺す) 祈祷まで催して反北條の姿勢を露骨に示した。道家の指示もあったのだろう。
. ここで隆弁は鎌倉に入って時頼勝利の祈祷を続け、結果として強力な後ろ盾だった朝廷の頼経と道家と座主の慈円を失った比叡山の天台勢力は後退を余儀なくされてしまう。 . 右は下野薬師寺跡の戒壇堂跡に残る六角堂 クリック→ 別窓で拡大表示 新装なった 下野薬師寺 (旧 安国寺) の公式サイトも参考に。 (地図) . 北條得宗家の篤い保護を受けた禅宗が勢力を広げる中で隆弁が園城寺復権の道を開き、正元二年 (1260) 1月には幕府の圧力を背景にした園城寺が戒壇設置の勅許を得ることになったが、延暦寺の激しい反発を受けて三日後に取り消しを余儀なくされる。 . 元々は天平勝宝五年 (741) に来日した 鑑真が 聖武天皇の勅許に従って南都の東大寺と筑紫の観世音寺と下野の薬師寺に戒壇を設置、天長五年 (828) には第52代 嵯峨天皇の勅許を得た延暦寺も戒壇院を設けていた。 . 園城寺に戒壇設置の勅許が下されれば、京都近辺で唯一の戒壇を持つ延暦寺の権威も低下してしまう。その危惧からの反発である。 .
200年後の白河院 (上皇になった 第72代白河天皇 ) の承保元年 (1024) には皇子誕生を祈る勅命を受けた園城寺の 頼豪阿闍梨 (Wiki) が祈祷して無事男子が産まれ、褒賞として念願の戒壇建立の勅許を得たのだが、延暦寺による反対の強訴を引き起こした結果 再び取り消しとなってしまった。. 右は延暦寺の戒壇院 クリック→ 別窓で拡大 (地図) 伝教大師1200年大遠忌記念事業も参考に。 . これに激怒した頼豪は21日間の護摩を焚き、その壇上で死没した。彼の怨念が八万四千匹のネズミになって比叡山に押し寄せて堂塔や仏像や経典を食い破ったと伝わる。園城寺の十八明神社は今も北 (比叡山の方向) を睨みつつネズミの霊を祀っている、という。 (出典は平家物語、および太平記)。 .
右は比叡山を襲ったネズミの霊を祀る三井寺の十八明神社 (地図) クリック→ 別窓で拡大表示 . これらの経緯から南北朝時代以後まで、同じ天台宗でありながら延暦寺 (山門)と園城寺 (三井寺、寺門) として憎みあい、焼いたり焼かれたりの抗争を繰り返すことになる。 . 戒壇 (僧になる資格を正式に授受する場所) の詳細と導入に関する歴史は 下野東山道の史跡の本文中段に載せた「下野薬師寺のコーナー」を参照されたし。 . 火種を撒いた白河法皇は初めて院政を行なった人物で女性関係も激しく決して褒められる人物ではない。この祈祷で産まれたのは第二皇子の覚行法親王(仁和寺門跡、承暦三年 (1075) 誕生)だろう。いずれにしろ、戒壇の設置は三井寺 (園城寺) が長年抱いていた夢、なんだね。いまはどうなってるか知らないけど . 十八明神社のすぐ近くには、京都の電力需要 (水力発電) と水源を支える目的で最初に通水した 琵琶湖第一疏水 (明治二十三年 (1890) 完成) の導入口もある。園城寺の見学と共に散策の足を伸ばして見るのも一興か。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 2月26日 壬戌 . 吾妻鏡 |
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五代将軍 藤原頼嗣が文武の稽古に励むよう、相模守 北條時頼が書状で将軍家に助言を献じた。
. 和漢の書を学ぶためには縫殿頭※と参河前司 新田 (世良田) 頼氏が、弓馬を学ぶためには秋田城介 安達義景と出羽前司 小山長村と遠江次郎左衛門尉 佐原 (蘆名) 光盛と 武田五郎 (信時) ※と三浦介 三浦 (佐原) 盛時らが常に御所に待機して召しに応じるよう定めた。 . また和泉前司 二階堂行方と左衛門尉 武藤景頼を奉行として御家人の師弟の中から素質の優れた者を選んで共に学ぶよう、指示を下した。 . . ※縫殿頭: 直接的には被服などを扱う部署の長だが、この場合は同職の 中原師連を差す。 . ※武田五郎: 武田信光-信政-五郎次郎信時または五郎三郎政綱。吾妻鏡の嘉祥三年 (1237) 6 月23日の大慈寺境内の後陣の随兵10人の最後尾に武田五郎次郎信時の名がある。 .. また建治元年 (1257) 5月20日の関東御教書 (案、東寺文書) には「長門国の異賊襲来 (元寇) を防ぐため周防と安芸と備後の武士を招集せよ」との指示が執権 北條時宗と連署 北條義政の連名で安芸国守護の武田五郎次郎に発せられている。 . 従って武田五郎=信時だと思うが、弓の名手だった弟の 五郎三郎政綱の可能性も捨てきれない。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 3月 1日 丁卯 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 閑院殿(前年二月に焼失した里内裏)の再建を担当する者を京都に提示するため、新旧の担当役を全て書き出して纏めた。 奉行は山城前司深沢俊平と山城前司中原盛時。 . 後日に書き足した分として、霜台東を備後前司三善(町野)康持、掃部寮戸屋を綱嶋左衛門入道。 . 閑院殿造営を担当する者(文中の「跡」は相続した者を意味する) . 紫宸殿を相模守北條時頼 清涼殿を甲斐前司長井泰秀と駿河入道 .仁寿殿を修理権大夫北條時房跡 宜陽殿を陸奥守北條重時 校書殿を筑後入道八田知家跡 春興殿を遠江入道北條朝時跡 五節所を秋田城介安達義景 小御所を左馬頭入道足利義氏 釣殿を前右馬権頭北條政村 記録所を隠岐入道二階堂行光跡 陣座と東屋を豊前前司古庄(大友)能直跡 軒廊を兵衛入道佐々木三郎盛綱跡 弓場殿を近藤中務丞跡 弓場殿渡廊を湯浅一族 宮御方東渡廊を淡路前司長沼宗政跡 同西渡廊を小澤の女房 北小廊を大和前司伊東祐時 北面御車寄を上野入道結城朝光 北対を壱岐入道葛西清重跡 北御台盤所(御湯殿に使用)を足助太郎(重朝か重方) 西対を千葉介(七代当主千葉時胤)跡 西二対を宇都宮入道頼綱 北対八間を信濃民部入道二階堂行盛 北弘御所を豊後前司嶋津忠久跡 同西屋を周防前司入道(朝業の嫡子) 御厨子所(出納小舎人座を付く)を出羽前司中条家長跡 西一対渡廊(御湯殿を含む)を常陸大掾跡 御台盤所を小栗次郎 清涼殿と一対造合御物宿を伊豆前司河津尚景跡 宮御方侍(渡屋を含む)を佐渡前司後藤基綱 本所を押垂齋藤左衛門尉跡 蔵人所を摂津前司(宇佐美) 釜殿(井屋を含む)を土屋入道跡 宮御方東屏中門と屏十四間を隠岐次郎左衛門尉佐々木泰綱 小御所北屏三間(屏門を含む)を那珂左衛門入道 蔵人町後屏(十五間・門三ヶ所含む)を伊達入道跡 同じく十間(門二ヶ所含む)を安積薩摩前司 日華門(左右廊各々一間・前小橋含む)を近江入道跡 月華門(南廊一間・前小橋含む)を矢野和泉前司跡 殿下直廬を豊前前司 同西対・西南渡廊・南上下門を下野入道跡 東四足左衛門陣を佐原遠江前司跡 西四足右衛門陣を足立左衛門尉跡 東棟門左兵衛陣を草野大夫跡 西棟門右兵衛陣を太宰少弐 縫殿陣土平門を但馬次郎左衛門尉 押小路面土平門を内藤左衛門尉跡 油小路面土平門を伊賀式部入道 池扉橋(火炬屋を含む)を大和入道跡 船一艘を安野中将 同一艘を中御門三位 樋二ヶ所を若狭兵衛入道跡 池掃除を陸奥左近大夫将監 橋一ヶ所(左兵衛陣前扉橋)を刑部大輔入道跡 橋一ヶ所(右兵衛陣前)を中條右馬助入道 橋一ヶ所(二條)を肥田次郎跡 橋一ヶ所(押小路)を白石太郎 行事所屋(五間二面)の三間を相馬次郎跡 同じく二間を土肥木工助跡 . 築地八十八本(垣形十八本)のうち、十本(左衛門陣南、垣形二本あり)を武田伊豆入道跡 同十本(同北、垣形二本あり)を小笠原入道跡 同四本(左兵衛陣北、垣形二本あり)を菊池入道跡 同三本(押小路面土平門東、垣形一本あり)を大内介 同三本(同門西、垣形一本あり)を佐貫左衛門跡 同三本(同西)を武石入道 同二本(同西)を畠山上野前司 同二本(同西)を伊賀判官四郎跡 同三本(同西)を越中左衛門次郎 同五本(同、垣形一本あり)を東兵衛入道跡と木内下総前司跡と風早入道 同五本(油小路面土平門南二本・同北三本、垣形二本あり)を大井太郎 同五本(右衛門陣南、垣形一本あり)を平賀兵衛尉と松葉次郎入道 同六本(同北、垣形一本あり)を阿曽沼民部跡 同二本(同北)を角田入道 同一本(同北)を鎌田入道跡 同三本(左兵衛陣南、垣形一本あり)を平左衛門入道跡 同二本(右兵衛陣北、垣形一本あり)を土持入道 同五本(二條西油小路角、垣形一本あり)を加藤左衛門尉 同六本(同東、縫殿陣西、垣形一本あり)を新田入道跡 同五本(同東、垣形一本あり)を河越次郎跡 同三本(同東)を佐竹入道跡 . 裏築地百九十二本(垣形十七本)と二條に面した二十本のうち、二本(垣形一本)を益戸左衛門尉 三本を大須賀四郎跡 三本を土岐左衛門跡 三本を小窪太郎跡と同次郎跡 三本を池上左衛門尉 二本を曽賀入道跡 二本を美作蔵人入道跡 二本(垣形一本あり)を大井左衛門尉 . 油小路に面した三十一本のうち、 五本(垣形一本)を広澤左衛門入道跡 三本を善右衛門尉跡 二本を河越三郎跡 二本を高鼻和左衛門尉跡 三本を豊嶋左衛門尉跡 三本を塩屋民部大夫跡 二本を中村縫殿助跡 二本を大多和次郎跡 二本を品河三郎入道跡 三本を塩屋兵衛入道跡 二本を小代の人々 一本を籐肥前前司 . 押小路に面した二十本のうち、 一本(垣形一本)を那須肥前前司 二本を越中大田次郎左衛門尉 二本を土屋弥次郎跡 二本を進三郎入道 三本を長右衛門入道跡 一本を石見前司 二本を工藤中務丞 二本を渋谷三郎入道 二本を眞壁太郎跡 二本を長兵衛入道跡 一本(垣形一本)を勝田兵庫助 . 二條面西洞院東二十本のうち、 二本(垣形一本)を柘杜左衛門跡 二本を岩原源八入道 二本を二宮左衛門跡 二本を七郎左衛門入道跡 二本を成田入道跡 二本を紀伊刑部入道跡 一本を渋谷左衛門跡 一本を原宗三郎跡 一本を本庄四郎左衛門尉 二本を玉井左衛門跡 一本を内嶋三郎跡 二本(垣形一本あり)を甲斐二宮次郎跡 . 二條に面して南油小路西十六本のうち、 二本を船越右馬允跡 三本を吉河左衛門跡 二本を相良の人々 二本を西部中務入道跡 二本を泉田兵衛尉 一本を波多野中務跡 一本を四方田五郎跡 一本を臼井入道跡 一本を長江四郎入道跡 一本(垣形一本)を久美左衛門跡 . 同、北十六本のうち、 二本(垣形一本)を芦原原左衛門入道 一本を古郡左近跡 一本を勅使河原後四郎跡 一本を平子左衛門跡 一本を三田入道跡 一本を木村五郎跡 一本を若兒玉次郎 一本を柏間左衛門入道 一本を中村馬允跡 一本を別府左衛門 一本を原左衛門跡 一本を浅羽の人々 一本を中村八郎馬入道跡 一本を国分五郎跡 一本(垣形一本)を岩田三郎跡 . 二條から北油小路に面した二十本のうち、 一本(垣形一本)を日野平五入道 二本を石黒太郎 二本を河尻太郎 二本を須恵太郎 一本を佐志源次 一本を豊福五郎 二本を神澤次郎左衛門尉 二本を広田馬允 一本を中津河入道 一本を八木三郎と同四郎 一本を伊東三郎跡 一本を岩国次郎 三本(垣形一本あり)を佐伯入道 . 押小路より南で西洞院より西の十八本のうち、 一本を安藤太郎跡 一本を志賀七郎跡 一本を臼間野太郎 一本を悪三郎丸入道 一本を藤澤四郎跡 一本を小平の人々 一本を飯高五郎跡 二本を波賀太郎跡 一本を波多野弥籐次郎左衛門尉 二本を布施左衛門跡 二本を越生の人々 一本を合子太郎 二本を金持兵衛入道跡 一本を山名の人々 . 押小路より南、油小路より西の十一本のうち、 一本(垣形一本あり)を吉敷三郎入道跡 一本を神田三郎 一本を井上太郎 一本を石手十郎兵衛尉跡 一本を八坂右馬允 二本を高橋刑部入道 一本を枝兵衛入道 二本を眞保次郎左衛門尉 一本(垣形あり)を清久左衛門尉跡 . 三本を益田権介跡 二本を近藤七跡 二本を印東太郎入道跡 一本を細川宮内丞 一本を吉河籐太兵衛尉 一本を横地の人々 一本を小野寺中務跡 一本を岡部兵衛尉跡 一本を近藤太郎左衛門跡 二本を加治の人々 一本を高橋十郎跡 一本を安西三郎 一本(垣方一本あり)を安芸前司 河堰二百三十八丈(堰、堤防約721m) . 西側 五丈を揚井左近将監跡 十丈を平子次郎入道跡 十丈を源雅楽左衛門 .十丈を厚東左衛門 五丈を佐々木六郎法橋跡 十丈を朝山右馬大夫跡 五丈を都筑右衛門跡 六丈を伊志良左衛門跡 六丈を蛭河刑部丞跡 六丈を日田四郎跡と伊美太郎兵衛尉 六丈を望月四郎兵衛尉 六丈を豊田太郎 四丈を進次郎左衛門尉跡 十丈を江戸入道跡 八丈を白河判官代入道跡 七丈を鹿嶋中務跡 五丈を忍入道跡 東鰭 四丈を市河六郎別当跡 十二丈を海老名籐左衛門尉跡 四丈を上嶋次郎 .六丈を高知丸太郎 四丈を逸見三郎 六丈を藤田兵衛尉跡 六丈を菅名太郎 十丈を吉河三郎 六丈を本庄三郎左衛門入道 十二丈を多久平太跡 六丈を市河庄司跡 十二丈を※海野左衛門入道 八丈を新開荒次郎跡 四丈を沼田太郎跡 五丈を秋元左衛門入道 五丈を下河辺左衛門跡 五丈を安西大夫跡 五丈を西條の人々 橋河堰 一所(二條堀河)を小早河美作前司入道 一所を宇佐美左衛門入道跡 .裏築地用意分 二本を安保刑部丞跡 二本を氏家五郎跡 一本を大胡太郎跡 二本を春日刑部丞跡 一本を鮎澤六郎跡 一本を葛浜左衛門尉跡 一本を高山の人々 一本を佐野太郎跡 . 建長二年三月日 . . ※愚痴: ここまで細かく書かれると改行のミスをチェックするだけでも苦痛だ。再建 工事の内容が朧気ながら理解できるのが僅かな楽しみではある、けれど。 .. 再建工事の対象となった閑院跡は中央区古城町の西福寺を囲む一画 (地図) 、更に詳細は寛喜四年 (1232) 1月23日と 寛元四年 (1246) 11月3日の参照を。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 3月 3日 己巳 . 吾妻鏡 |
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鶴岡八幡宮の神事 (上巳節句) は通例通り。将軍 藤原頼嗣は参宮せず相模式部大夫時弘※が奉幣使を務めた。今日、諸国守護の検断 (職務権限) についての協議があった。 . 殺害事件についての守護人の主張は「犯人の身柄拘束は守護人の職掌範囲であり、郡や郷の地頭が六波羅に連行するのは根拠に欠ける。」、それに対して地頭の主張は「守護所に引き渡しても事件の仔細を調べずに放免する例が多く、解決に結びつかない上に煩雑なので六波羅に送っているのだ。」と。 . この問題について六波羅に次の通り通告した。 . 守護の決裁権範囲は既に諸国に出した通達通りとして対応せよ。ただし地頭に違法行為があれば守護人の主張については詳細を調べて記録を送付し、幕府で判断を下す。
. . ※相模時弘: 系図に見当たらないため、北條時房-次男時村-次男時広 (相模七郎) じゃないか と思う。父が早世したため祖父時房の養子として引付衆、評定衆、四番引付頭人の要職に任じた。官職は式部太夫、和歌の名手で北條一門でトップクラスの風流人だったらしい。 .男子がなく、甥 (早世した兄 時隆の子) が養子として跡を継いでいる。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 3月 5日辛未 . 吾妻鏡 |
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今日の評定により幾つかの決定事項があった。 . 一.寄せ沙汰※を禁止する件。 権力者の権威を利用して勝手な行為を行なった者はその主人に通告して重科に処する。 .一.山門 (比叡山延暦寺の異名) の僧徒による寄せ沙汰の件。 衆徒の蜂起は諸人に迷惑が及ぶ。禁止通告について内々富小路殿※に申し入れるよう六波羅に伝える。 .一.大和国の悪党に関する件。 先日六波羅を介して一乗院※と大乗院に申し入れたが対処していない。今後は武装兵を派遣して身柄を拘束することになるから、彼らを保護しているなら報告せよ。狼藉をなくすため地頭を改補する場合もある事を含めて通告すると共に、六波羅にも通達する。 .. ※寄せ沙汰: 訴訟物件を権力者や有力寺社に寄進したり、訴訟の当事者を委託して解決を有利 に導こうとする行為。法廷だけでなく背後の圧力をも含む。改めての公布は同様の事件が常態化していることを示す。創価学会が公明党を介して給付金のバラ撒きを強行している。 「公明党が頑張りました!」って、税金を使った票集め。 .いつの世も宗教者の腐敗は深刻だ。
※富小路殿: 二条富小路内裏を差す。太政大臣 西園寺実氏
邸で昨年の閑院内裏焼失後に 後深草天皇 (共にWiki) の皇居となった。 .その後も長く利用され里内裏として再建もされたが、後醍醐天皇による建武新政の崩壊 (建武三年、1336年) に伴う戦火で焼失した。 ※一乗院: 興福寺塔頭の一つで門跡寺院 (皇族の子弟が住職 を務めるのが通例) 。興福寺は大和国守護を兼任した一大武装勢力で多くの大衆 (僧兵) を擁して再三の紛争を引き起こしていた。大乗院も同じく門跡寺院で、鎌倉幕府が排除したかった九条家との関係が深かった。 ..
今でこそ世界遺産として南都仏教を代表するような顔をしている興福寺だが歴史の長期間では宗教を基盤にした権力行使と暴力の代名詞だった。
. 明治初期の神仏分離令によって全ての子院は廃絶され一乗院の敷地跡は現在の奈良地方裁判所、大乗院の敷地跡は奈良ホテルになった。 昔は僧兵、今は不動産運用と観光で稼いでいる。 . 右は興福寺周辺の地図(クリック→ 拡大表示) 奈良ホテルには 旧大乗院庭園 が保存されている。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 3月13日 己卯 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 3月16日 壬午 . 吾妻鏡 |
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鎌倉中の保々奉行人に命じて無益の輩 (無宿者) の名を記録し田舎に追放して農業に従事させよと指示した。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 3月20日 丙戌 . 吾妻鏡 |
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先月四日の大神宮 (伊勢神宮) 祈年祭※の例日により相模守 北條時頼が奉幣と供物の献上を行なった。 東條次郎大夫が奉幣使として参宮した際には御裳濯河※の水が紅色に見え一昼夜の後に元に戻った。 . 今回の奉幣は通例の通り占部の神官を奉行として行なったにも拘らずこの様な怪異があり、祭主に渡す際には去る承久三年 (1221) の戦乱にも同様の事例があったそうだ。 . .
※祈年祭れる: 五穀豊穣などを祈る祭祀で、現在では2月に
開催される。秋の収穫に感謝する11月の新嘗祭と祈りの対になる祭祀である。 .※御裳濯川: 伊勢内宮に入る木橋の下を流れる現在の五十鈴 川。倭姫命 (Wiki、やまとひめのみことの解説サイト) が天照大神を伊勢に祀る際に伊勢内宮に入るときに裾の汚れを濯いだ伝説から御裳濯川とも。 .. 伊勢神宮の神域 (五十鈴川を渡る宇治橋から先) にはもちろん犬は入れないが、以前の伊勢旅行の際には宇治橋の少し下流で水浴びを楽しませてやった。 右は宇治橋から見た五十鈴川上流(クリック→ 拡大表示)。 .. 中洲の少し上流には心身を清めるための御手洗場がある。我が家の犬が泳いだのは撮影場所の下流 (この辺) ではあるが、恐れ多くも (笑) 神域の近くで水浴した数少ない犬の一匹だ。 . 参拝した際のその他画像は 伊勢神宮参拝記(別窓)で。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 3月25日 辛卯 . 吾妻鏡 |
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晴。将軍家 藤原頼嗣が御方違えのため相模守 北條時頼邸に入御した。供奉の人々は裾を括った布衣 (狩衣、略礼装) である。
. 前右馬権助北條政村 武蔵守北條朝直 尾張前司北條時章 備前前司北條時長 .宮内少輔足利泰氏 遠江守北條時直 相模右近大夫将監北條時定 陸奥掃部助北條実時 相模式部大夫北條時弘(3月3日参照) 北條六郎時定 越後五郎時家 (時房-時親-時家) 武蔵四郎北條時仲 (北條時房-四男、嫡子 朝直-時仲) 尾張次郎公時 (朝時-時章-公時、名越流三代当主) 武蔵五郎北條宣時 (大仏流朝直 嫡子) 相模八郎時隆(北條実時-時直-時隆らしい) 遠江太郎北條清時(時直の嫡子) 上野前司畠山泰国 那波左近大夫(大江広元-三男那波宗元-政茂(引付衆)) 秋田城介安達義景 同、次郎頼景(義景の庶長子) 同、九郎長景(義景の七男) 佐渡前司後藤基綱 前大蔵権少輔結城朝広 出羽前司小山長村 下野前司宇都宮泰綱 新田参河前司頼氏 (世良田 (新田) 義季の次男で嫡子) 前太宰少弐狩野為佐 内蔵権頭(藤原親家説あり、彼の鎌倉下向は建長四年 (1252) に宗尊親王に同行した筈だが) 和泉前司二階堂行方 肥後前司内藤盛時 (1月16日を参照) 安芸前司? 能登左近大夫? 壱岐前司(宍戸氏・宝治二年 (1248) 4月30日を参照) 大隅前司嶋津忠時 筑前前司二階堂行泰 薩摩前司安積祐長 左衛門尉大曽祢長泰 (宝治二年 (1248) 1月3日を参照) 遠江次郎左衛門尉佐原 (蘆名) 光盛 同六郎左衛門尉佐原時連 同新左衛門尉佐原経光 左衛門尉武藤景頼 左衛門尉大須賀朝氏 和泉次郎左衛門尉二階堂行章 幸嶋小次郎時村 上野十郎(結城朝光の八男で弓の名手、嘉禎四年5月16日を参照) 薩摩九郎祐朝 武田五郎七郎(2月26日を参照) 小笠原余一? 加地五郎次章綱(加地信実-五男(倉田)義綱-嫡子章綱と続く) 土肥四郎実綱 大曽祢五郎 本間次郎兵衛尉信忠 左衛門尉小野寺四郎通時 伊東三郎祐綱 三浦介 (佐原) 盛時 東中務少輔胤重 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 3月26日 壬辰 . 吾妻鏡 |
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晴。将軍家 藤原頼嗣が旅御所(方違えの北條時頼邸) で遊宴。まず弓射との仰せがあり、小侍所に控える武士を呼ばずその場に居た時頼の供奉人から射手を選んだ。このため逃れる事ができず、一射づつ五度的を射た。 . 続いて蹴鞠が催され、二條 (春日井) 侍従が仰せを受けて人数を整え、秋田城介 安達義景の奉行として巳一点 (朝9時過ぎ) に招集し、午下刻に教定朝臣以下の蹴り手が参集した。将軍家は左衛門尉 武藤景頼、塩飽左近入道信貞に命じて上鞠 (蹴り始め役) について教定朝臣に質問し、上鞠は兼教朝臣が任じる旨を答えた。 . その後に大夫雅有 (10歳) が鞠を中央に置き、教定朝臣が蹴り手を呼びながら位置を定めた。蹴り数の確認役は時頼の指示により右近大夫塩飽信貞と後藤左衛門尉説尚。 . 御的の射手 一番 遠江太郎北條清時 城次郎安達頼景 二番 遠江六郎左衛門尉佐原時連 小笠原余一長隆 三番 幸嶋小次郎時村 薩摩九郎伊東祐朝 四番 上野十郎朝村 加地五郎次郎章綱 五番 武田五郎七郎政平 土肥四郎実綱 . 御鞠の衆 尾張少将(清基朝臣) 二條少将(兼教朝臣) 兵衛佐忠時 大夫雅有 陸奥掃部助北條実時 (已上布衣) 熊王丸 行久 行信 資能 (已上直垂 葛袴) 仁俊(等身衣) . 見證(立会人、判定者) 陸奥守北條重時 相模守北條時頼 前右馬権頭北條政村 尾張前司北條時章 刑部大輔入道道成 秋田城介安達義景 佐渡前司後藤基綱 信濃民部大夫入道二階堂行成 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 3月28日 甲午 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 4月 2日 丁酉 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 所領に関する訴訟は引付衆が文書 (証拠書類) を調べて理非を判断し、内容が明確であれば訴訟人の対決を行わず先例通りに決裁して良い。また訴訟事務の開始は巳刻 (10時) 以前として頭人も奉行人も遅参せず、更に受付時刻を記録して報告するよう、三方 (三組) の引付※に通告した。この奉行は秋田城介 安達義景。 . . ※三方引付: 建長二年の引付構成は確認不可、翌三年 (1251) 6月の記録では引付は一~六番。 責任者 (評定衆) の正副は下記、その下に2~3人の引付衆と奉行人が配置される。 .. 一番が北條政村と二階堂行久、二番が北條朝直と三善 (太田) 康連、 三番が北條時章と三善 (矢野) 倫重と清原清定、四番が中原師員と二階堂行義、 五番が伊賀光宗と安達義景、六番が二階堂行盛と長井泰秀。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 4月 3日 戊戌 . 吾妻鏡 |
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鶴岡八幡宮の神事あり。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 4月 4日 己亥 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 4月 5日 庚子 . 吾妻鏡 |
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評定の次いでに式部兵衛太郎光政が昨夜将軍家の御前で無礼を態度を見せた件の処分が検討され、将軍家は罪を不問とした。ただし今後の行動を戒めるよう祖父の式部大夫入道光西 (伊賀光宗) に向けて仰せがあった。
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. . 89代 後深草天皇 |
. 4月16日 辛亥 . 吾妻鏡 |
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山ノ内の證菩提寺※住持から申請のあった堂宇の修理に関し左衛門尉 清原満定の奉行により決裁があり、早急に損色 (見積り) を取って工事に取り掛かるよう仰せがあった。
. この寺は右大将家 頼朝の時代である建久八年 (1197年、吾妻鏡の記載脱落の年) に佐那田余一義忠の菩提を弔うために建立したもので、風雨にさらされ損傷が激しかったにも拘らず修理を加えていなかった経緯がある。 . . ※證菩提寺: 現在の横浜市栄区上郷町 (地図) にある古刹。開創は文治五年 (1189) か、建久八年 (1197) とも言われ開基も頼朝説と義忠の父親 岡崎義実説があって判然としない。 .. そもそも證菩提寺から約3km西の平塚 金目川流域 (地図) が 義実の館跡、無量寺だし義忠が相続した土地も更に約2km西の真田神社一帯 (地図) 、證菩提寺との接点は見当たらない。単純に鎌倉の鬼門 (北東) を守るため建てた寺に義忠を当て嵌めた可能性もある。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 4月20日 乙卯 . 吾妻鏡 |
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保々を管理する奉行人および地下凡卑の輩 (身分の卑しい者) に命じて太刀の携帯および夜間外出の際は弓箭携帯を禁止した。明石右近将監兼綱 (建長三年 (1251) に引付奉行人として記載あり) を介して各方面に告知させた。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 4月25日 庚申 . 吾妻鏡 |
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御家人の任官について、官職を持たない者はすぐに左衛門尉か右衛門尉※に任じたいと希望する。 今後は同様の求めを禁止するとの仰せがあり、この件は 清原清定が奉行する。 . . ※衛門尉: 元々は皇居の門および周辺を警護した組織である衛門府の四等官 (督、佐、尉、志) の三位を差す。鎌倉時代初期には職掌が検非違使に移り、更に六波羅 (探題) が設置された承久以後は有名無実の存在に変貌し、鎌倉幕府の御家人に与えられるのが通例となった。 .. 平安時代から武名の高い武官の官職として源頼親、源為義、源義経、宇都宮頼綱など著名な武士が任じた経緯もあり、経済力を手に入れた武士にとっては検非違使 (判官) と共に憧れの対象になった官職である。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 4月29日 甲子 . 吾妻鏡 |
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雑人 (身分の低い者) が訴訟する際、鎌倉以外に住む者はその地を管轄する地頭の挙状 (添え書き、承認状) が必要で、鎌倉に住む者の場合は地主の推薦状を必要とする。その提出がない場合は訴訟を受け付けないよう、問注所と政所に通告があった。これは安易な訴訟の濫発を防ぐのが目的である。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 5月 1日 丙寅 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 鶴岡八幡宮上宮※の破損修理について検討があり、宮寺が抱える工匠らを呼んで様々の指示を与えた。筑前前司 二階堂行泰、左衛門尉 清原清定、深澤山城前司が奉行を務める。 . . ※八幡宮上宮:大石段の上、現在の本殿を差す。小林郷北山の裾 (大石段の下) にあった本宮は 建久二年 (1191) 3月4日の大火で失われた。民家からの類焼を防ぐ目的もあり同年11月に北山の中腹を切り開いて再び石清水八幡宮を勧請、元の位置には若宮※が再建された。 .※若宮とは:一般的にはその神社の祭神の子を祀った神社。鶴岡八幡宮の祭神は 応神天皇、 神功皇后、
比売神 (各、別窓 Wiki) の三柱 (八幡神) 、若宮は頼朝の先祖 頼義が京都の石清水八幡宮を由比に勧請した 由比若宮 (別窓) を小林郷 (現在地) に遷座した社である。 .. 念のため、付記。天皇家の先祖や神道の理論の説明は、必要だから書き込んでいるだけで個人的な信念とは全く別、所謂 国粋系や右派系の理念は持ちません。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 5月 9日 甲戌 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 5月10日 乙亥 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 5月14日 己卯 . 吾妻鏡 |
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罪科人から没収して所有者がなくなった土地について、奉行人の過怠により処理しないまま年月が過ぎた分の年貢は新しく決まった領主の取分として良い、との決定があった。
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. . 89代 後深草天皇 |
. 5月20日 乙酉 . 吾妻鏡 |
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将軍家 藤原頼嗣が帝範※の講義を受け、相模守 北條時頼も参席した。講師は清原教隆眞人※。 . ※帝範: 帝王が心得るべき規範を記した古典で、唐の二代皇帝太宗が648年に撰した。 . 時頼が帝王学の習得を頼嗣に受けさせようとしている事、去る宝治二年 (1248) 3月11日には「一芸に秀でた者、特に和漢の書に詳しい者を頼嗣の近習に」と指示している事、そして今年の2月26日には「和漢の書の学習と弓馬の習得のため数人の優れた御家人を御所に待機させる」などの記述があることから、時頼が鎌倉将軍としての頼嗣の成長に期待を寄せていたと推測する説が結構多い。一方の側面だけを見て本質を判断するのは愚かなのに...。 .. 基本的には「朝廷と幕府の両方から九条家を排除する」のを目指す 後嵯峨上皇と時頼の意思は共通している。背後では宮将軍実現を目指していたのだから、この評価は妥当とは言い難い。 ※清原教隆: 明経道の家を継いだ儒学者でこの時は51歳。五代将軍 藤原頼嗣と六代の宮将軍 宗尊親王の侍講を務め、北條 (金沢) 実時にも影響を与えて金沢文庫の創立に寄与している。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 5月22日 丁亥 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 5月25日 庚寅 . 吾妻鏡 |
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晴。鶴岡八幡宮上宮の修理工事が始まった。奉行人は予め現地で待機している。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 5月27日 壬辰 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 5月28日 癸巳 . 吾妻鏡 |
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讃岐国法勲寺※の地頭に任じている壱岐七郎左衛門尉時重※が本補と新補の両方を兼帯して不当な利益を得ている旨の訴えが雑掌※から届いている。この件についての評定が行われた。地頭の時重は長年の習慣と主張したが根拠に乏しく、一方を停止するから希望を述べよと申し渡した。 . . ※法勲寺:白鳳時代 (673~710年) に建立され室町時代に廃寺となったらしい。丸亀市飯山町に 法軍寺の地名が残り、讃留霊王神社 (地図) の北側に礎石などが保存されている。 .※壱岐時重: 初代の奥州総奉行だった壱岐守 葛西清重の四男または六男の一関市。磐井郡黒沢 邑 (現在の黒沢、地図) を本貫とする黒沢氏の祖となった。 .※本補と新補: 本補は承久の乱 (1221年) 以前から任じていた地頭、新補は承久の乱で没収した 朝廷側の領地に補任された地頭。地頭得分の率が異なるため、時重は利益が増えるよう使い分けたのだろう。幕府は兼任 (両様兼帯) を禁じているが鎌倉中期以後は区分の曖昧化と共に広く横行したらしい。 .※雑掌: 一般的には貴族や武士に仕えて雑務を担当した者。この記事の場合は荘園領主の代理 人として荘園の管理や訴訟事務を担当した荘官を差す。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 6月 3日 丁酉 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ . 山内並びに六浦※などの道路について、鎌倉に入る利便性を確保するため難路の整備※を実施したが、土石により通行が困難になっている。以前のように改修せよとの仰せが下された。< br>. . ※山内と六浦: 山ノ内に抜ける巨福呂坂切通し (亀谷坂の可能性もある) と、六浦に通じる朝比 奈切通しを差す。難路の整備は「仁治元年 (1240) 10月10日に三代執権 北條泰時の指示で決定があった」との記載と、翌月30日には「朝比奈切通しの着工決定」の記事がある。画像などは当日の吾妻鏡で。 .. 朝比奈の方は工事が遅延し、翌 仁治二年4月5日にも再び記載されている。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 6月10日 甲辰 . 吾妻鏡 |
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評定衆による協議があり、雑人 (武士と僧を除く一般庶民) の訴訟についての規則を定めた。 .. 農民と地頭の間での訴訟で農民側の主張が正しい場合は妻子および所従 (下働き) の財産や道具類は農民側に返却し、農地と住居の所有を認めるか否かは地頭の判断に委ねる。 また妊娠後に離別となった場合、産まれた男子の親権は父親に属する、と。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 6月15日 己酉 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 6月19日 癸丑 . 吾妻鏡 |
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相模守 北條時頼が三浦介 (佐原) 盛時邸に渡御し、前左馬権頭 北條政村も合流した。 . . ※三浦介盛時: 佐原(三浦)義連-酒乱の 佐原盛連-三浦 (佐原) 盛時と続く。 三浦宗家の泰村一族が滅亡した宝治 (三浦) 合戦直前の5月29日に時頼邸を訪れた盛時は「去る11日に陸奥国津軽の海辺に死人のような姿の大魚が流れ着きました」と合戦の前兆を伝えている。 . 無論、宝治合戦は泰村の謀反ではなく北條時頼と安達景盛と佐原盛時が事前の計画通りに泰村を追い詰めた。時頼は既に盛時を北條嫡流の所領である陸奥国糠部五戸郡の地頭代に任命し得宗被官として懐柔していた。 . 時頼が凄いのは抜け目のない狡猾さと躊躇う事のない冷酷さなんだね、多分。その意味で評価すれば、図抜けた傑物ではある。 . 時頼の祖母 矢部禅尼は 北條泰時に嫁して 時氏を産んだ後に離縁 (理由不明) し酒乱男の 佐原盛連に再嫁して光盛、盛時、盛連を産んだ。 . つまり盛時の母 矢部禅尼は執権時頼の祖母なのだから、彼女を介して同族で本家の三浦宗家を見捨てる筋書きが出来ていたのは容易に想像できる。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 6月24日 戊午 . 吾妻鏡 |
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今日、佐介ヶ谷に住んでいる男が突然自害し、それを聞いた者が聞く者が競い集まってその死骸を眺めた。この男には同居している娘婿があり、その婿が急に田舎へ行く用事で出掛けた隙に実の娘を口説き始めた。驚いた娘は許そうとしなかったが、父親は娘の居所に忍び寄って屏風の上から櫛を投げ入れ、不意の出来事に娘はその櫛を受け取ってしまった。投げ櫛※を女が受け取れば肉親であっても他人に変わるという。 . 父親が思いを遂げようとしたところに突然娘婿が帰ってきたため父親は慙愧に耐えず自害し、驚いた婿は嘆き悲しみその妻を離縁してしまった。父親の思いに従わなかった妻女の不孝が原因なので婚姻を続けることは出来ないと考えたためで、出家して舅の菩提を弔うとのこと。 . . ※投げ櫛: 櫛が霊力を持つと考えた俗信の一つ。妻のイザナミを連れ戻そうと黄泉国(死後の 世界)に入ったイザナギが「振り返ってはならない」のに逃げる途中で振り返ってしまった。 .. 追い掛けて来た黄泉醜女(イザナミ)に投げた櫛がタケノコに変わり、イザナミがそれを食べている隙にイザナギは人間世界に逃げ延びたという、後味の悪い神話。 . 櫛(苦死)を拾うとか、投げ櫛を受けるのは不吉とか、凶に繋がるとされているらしい。まぁ神話は神話で構わないが、下らない事件を書き残す吾妻鏡編纂者の意図は理解できない。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 7月 1日 乙丑 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 来月の鶴岡八幡宮の放生会に将軍家 藤原頼嗣が臨席されるため供奉人について御前で協議があった。既に挙がった名簿からは取捨選択せず全員を参加させよ、供奉人の装いは詳細を定めて遵守させよ、とのこと。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 7月 5日 己巳 . 吾妻鏡 |
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評定衆による協議あり。貸した銭が三百文でも質流れさせてしまう者 (金融業者) に関して法を定めた。 貸し付けた銭が二貫文※以上の場合は利息が同額になった時点で質流れさせて良い。二貫文以下の場合は文書 (借用書) の内容に拘らず元金を返済すれば無利子で質入れした品を返却する、と。 . . ※物価の参考: 時代や収量の多少で異なるが、鎌倉時代中期の物価の目安は玄米一石 (100kg) が一貫文 (1000文) 前後だったらしい。そのまま換算なら現代は 3~4万円か。 .. 利息の免除は徳政令の一種で、金融業者は小口の貸付に応じなくなるから貧者の困窮は更に深まる。本質的な解決に取り組まず対症療法だけでは何一つ解決しないのは、800年が過ぎようとしている現代も同じ、何とも情けないと嘆くしかない。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 7月 8日 壬申 . 吾妻鏡 |
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承久の乱 (1221年) の際に 後鳥羽上皇に味方した者が所有していた京都の家屋敷について、本来の没収※から漏れたまま現在に至っている件の協議が行われた。 . . ※没収漏れ: 約30年が過ぎた時代になって再検討云々する意味は何だろう。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 7月11日 乙亥 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 7月15日 己卯 . 吾妻鏡 |
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故二位家 (政子) の御本尊※に白檀の釈迦如来像を加えて供養の法要を催した。導師は法印道禅、相模守 北條時頼の発願である。
. . ※御本尊: 政子の持仏の意味であれば、如意輪観音。元々は頼朝法華堂に祀られた像で 現在は 西御門の 来迎寺 (公式サイト) が収蔵しており、来迎寺 如意輪観音で Wiki 検索 すると画像も色々と見られるのだが、実際には南北朝時代の様式とされている。
.. 来迎寺の創建年代が正応年間 (1288~1293年) らしいから、仏像が南北朝時代なら不自然ではない。頼朝法華堂にあった、とか由比の長者 (染谷時忠、奈良時代初期の人物) 関連などの話には根拠の提示が皆無で、無視するしかない。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 7月18日 壬午 . 吾妻鏡 |
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申刻 (16時前後) に大地震があり、余震が16回も続いた。今日、秋田城介 安達義景に男子が産まれた。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 7月22日 丙戌 . 吾妻鏡 |
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都鄙 (全国各地) で荒廃している神社を復興するための協議が行われた。朝廷の勅願所に関しては奏聞して対応を任せるとして、まず関東の管理下にある神社については決められた手順に従い修理する。 . 大きな破損なら直ちに報告すれば必要な措置を講じるとの結論を得た。昨今は寺社の別当や神主に復興の志がなく、神仏に献じるべき土地や資産を勝手に浪費※している。再三の評議を重ねた上での決裁である。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 8月 1日 甲午 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 常陸国鹿嶋社 鹿島神宮 (公式サイト) の神宮寺本尊が汗を流したとの報告があった。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 8月 7日 庚子 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 8月15日 戊申 . 吾妻鏡 |
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鶴岡八幡宮で放生会があり将軍家 藤原頼嗣が出御した。
. 随兵 . 先陣 . 相模三郎太郎北条時成※ 武蔵四郎北條時仲 (北條時房-四男で嫡子の朝直-時仲) 三浦介 (佐原)盛時 梶原左衛門尉景俊 (景茂の嫡子) 上野五郎兵衛尉結城重光 (結城朝光の七男で山川氏の祖) 常陸次郎兵衛尉行雄 足利三郎家氏 (足利泰氏の庶長子で尾張足利氏初代) 城九郎安達泰盛 北條六郎時定 遠江太郎北條清時 (北條朝直の長子で六代将軍 宗尊親王の近臣) . 後陣 . 越後五郎時家 (北條公時 嫡子、名越流4代当主) 相模八郎北條時隆 (時房-次男時村-時隆) 武田五郎三郎政綱 (信時の弟。2月26日を参照) 江戸七郎太郎重光 (重長-忠重-重行-重光と続く嫡流) 出羽三郎二階堂行資 (行義の子?) 大泉九郎長氏※ 橘薩摩余一公員 (公成 (公業) の次男で出羽に土着し小鹿島を名乗る) 土肥次郎兵衛尉? 葛西新左衛門尉清時 (清重の子または孫だが系図が錯綜している) 千葉次郎胤泰 (千葉氏九代当主宗胤の次男で肥前千葉氏の祖。) . . ※北条時成: 北條資時の長男 (物狂い) が三郎太郎だと思うが北條時盛にも同名の男子がいる。 . ※大泉長氏: 武藤資頼が奥州合戦の功績で得た大泉庄(現在の山形県鶴岡市から酒田市) を弟 の氏平に譲り、太宰少弐に任じて鎮西に下った。氏平は大泉庄地頭として大宝寺 (現在の鶴ヶ岡城、観光サイト) に土着し大泉氏→後に大宝寺氏を名乗った。 .長氏は氏平の景累と思われるが系図に記載なし。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 8月16日 己酉 . 吾妻鏡 |
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将軍家 (五代藤原頼嗣) が鶴岡八幡宮上宮と下宮に奉幣、その後に馬場の儀 (流鏑馬など) あり。
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. . 89代 後深草天皇 |
. 8月18日 辛亥 . 吾妻鏡 |
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将軍家 (五代藤原頼嗣) が由比浦で遊覧。前後を守る供奉人は直垂を着して弓箭を持ち、40歳以上の者は征矢 (戦闘用) を、40歳未満の者は野箭 (狩猟用) を携えた。年齢の上下で各々六騎づつ射手が分かれて犬追物※が催され、上が44疋、下が47疋の成績だった。 越後五郎北條時家と武蔵太郎北條朝房の二人も射手に選ばれていたが今回は辞退を申し出た。 . 御出の行列 . 先行十騎(三騎づつ並列) . 陸奥四郎北條時茂 遠江六郎北條教時 相模三郎太郎時成(8月15日を参照) .武蔵四郎北條時仲(北條時房-四男で嫡子の朝直-時仲) 足利三郎利氏(4代当主頼氏の初名) 長井太郎時秀 城九郎安達泰盛(一騎) 陸奥七郎時尚(北條義時の七男か八男) 尾張次郎北條公時 越後五郎北條時員(北條時盛の子) 次いで将軍家(御水干)御騎馬 . 佐渡五郎左衛門尉後藤基隆 (基綱の次男) 肥後次郎左衛門尉天野忠綱 肥次郎兵衛尉朝平 太郎左衛門尉三善康定 摂津新左衛門尉 筑前四郎二階堂行佐 .江戸七郎太郎重光(重長の孫) 武石四郎胤氏 出羽三郎二階堂行資 伯耆新左衛門尉 鎌田左衛門尉(以上は徒歩、御駕の左右) 次いで御後 . 備前前司北條時長 遠江守北條時直 相模左近大夫将監北條時定 .陸奥掃部助北條実時 宮内少輔足利泰氏 遠江左近大夫将監北條時兼 北條六郎時定 遠江太郎北條清時 相模八郎北條時隆 武蔵太郎? 武蔵五郎北條宣時 上野前司畠山泰国 那波左近大夫政茂 小山出羽前司小山長村 壱岐前司佐々木泰清 筑前前司二階堂行泰 伊勢前司二階堂行綱 佐渡大夫判官後藤基政 遠江次郎左衛門尉佐原時連 左衛門尉梶原景俊 三浦介(佐原)盛時 上野十郎結城朝村 阿曽沼小次郎光綱 千葉次郎泰胤 城次郎安達頼景 同三郎景村 同四郎時盛 大曽祢左衛門尉 大曽祢次郎左衛門尉 隠岐次郎左衛門尉盛経 遠江六郎左衛門尉三浦時連 式部六郎左衛門尉伊賀朝長 左衛門尉武藤景頼 遠江新左衛門尉佐原経光 左衛門尉小野寺三郎通時 出羽次郎左衛門尉 小野寺四郎左衛門尉 左衛門尉足立太郎直元 出羽四郎左衛門尉中條光宗 信濃四郎左衛門尉二階堂行忠 伯耆四郎左衛門尉葛西光清 和泉次郎左衛門尉二階堂行章 右衛門尉三善康長 弥次郎左衛門尉親盛 常陸次郎兵衛尉二階堂行雄 土肥四郎実綱(下記) 薩摩七郎左衛門尉伊東祐能? 同九郎祐綱(下記) 武田五郎三郎武田政綱 犬追者射手 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 8月26日 己未 . 吾妻鏡 |
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雑人 (庶民、武士と僧以外) が武士を訴える訴訟についての規則を定めたが、これは既に発布した御下知 (雑人が武士を訴える事の禁止) に背くため直ちに停止する。ただしこの御下知の決まりに従っての訴訟であれば制限の限りではない、と。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 8月27日 庚申 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 9月 4日 丁卯 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 9月10日 癸酉 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 9月18日 辛巳 . 吾妻鏡 |
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久遠寿量院※で般若房律師が門弟等を率いて 一日千巻の観音経転読※を行なった。将軍家 藤原頼嗣が催した御祈祷で、布施などは政所が手配した。 . 今日、雑人 (武士 僧侶など以外の庶民) の訴訟に関し、訴えが筋の通らない内容だった場合は十貫文※の罰金を徴収して橋の維持補修の費用に充当する、と定めた。予め誓約書を提出させてから裁判を始める、と。 . . ※久遠寿量院: 前将軍 藤原頼経の持仏堂。まだ詳細は不明だが 九条道家に仕えていた教雅とい う人物が別当を務め、彼が残した 「久遠寿量院別当次第」 が京都の 東寺 の別院に保存されている。いずれ詳細が判明する時期が来るだろう。 .※転読: 経典を正確に詠むのが真読で転読は一種の飛ばし読み。動画 (別窓) を見る方が早い。 . ※十貫文: 米の価格で単純換算では30~40万円、物価の基準が現代と異なるから参考程度に。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 9月19日 壬午 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 9月26日 己丑 . 吾妻鏡 |
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亥刻 (22時前後) に相模守 北條時頼邸で失火あり。
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. . 89代 後深草天皇 |
. 9月28日 辛卯 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 10月 7日 己亥 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ
. 京都大番役についての評議が行われた。諸国の御家人が惣領を軽んじたり※、或いは守護人の指示に背いたりして、別の権力者に従っての大番役勤務を希望する例が多発している。これは規律が乱れる元であり、今後は守護の招集命令に従うか一門の惣領にって行動する。自分の意思による選択は許可しない事を通達する。 . . ※惣領制の崩壊: 弱小御家人の間では既に経済的な意味での崩壊が始まっている。幕府は御恩 と奉公の基幹システムを維持するために惣領制を維持したいのだろうが、弱小御家人の嫡男以外だって自らの生き方を選びたい。貨幣経済が浸透する中で選択肢の強要が可能か、否か。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 10月14日 丙午 . 吾妻鏡 |
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前周防守で従五位下の藤原朝臣朝親※法師が没した。 . . ※藤原朝親: 宇都宮 (横田) 朝業の嫡子塩谷親朝を差す(吾妻鏡では名前が入れ替わっている ) 。 死亡記事を載せるほど歴史に残る人物ではないと思うが... . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 10月16日 戊申 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 11月 1日 壬戌 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 将軍家 藤原頼嗣が三島神社の神事期間中の精進潔斎を開始した。今年は特に祈願することがあるため心を込めて祈り、共に精進潔斎の参籠に加わると決まっている者以外は加わってはならない、と周知させた。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 11月11日 壬申 . 吾妻鏡 |
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夜になって若宮大路で大きな騒動が勃発した。 (10月14日に死没した) 故 塩谷周防前司入道 (塩谷親朝) の郎従らが論争の挙句に喧嘩となり、下野前司 宇都宮泰綱※の郎従が応援に集まって更に大騒ぎとなった。 . 主人の親朝法師が他界して 未だ忌景 (喪) が明けておらず、将軍家も御精進の最中である。 普段から宗教心に欠ける輩とはいえ、幕府および主家への配慮に欠ける行動は重科に処するとの通告が発せられ、指示を受けた宇都宮泰綱が現地に赴いて鎮静させ、大きな問題にはならなかった。 . .
※泰綱と塩谷: 宇都宮氏の五代当主 宇都宮頼綱の三男泰綱
が家督を継承したのは生母が 北條時政の娘だったため。 .. 稲毛重成の娘が産んだ長男 (次男説、三男説あり) 頼業は横田郷 (宇都宮市の南部) 千余町を相続して横田氏の祖となった。 . 元々 源義家の弟 義親の子孫で源姓塩谷氏を名乗ったが平安時代末期に喜連川塩谷氏と藤姓塩谷氏に分かれ、更に宇都宮氏や足利氏とも血脈を通じているため煩雑だから特に詳しく触れたいとは思わない。 . 頼綱の父 朝綱の屋敷は元々二の鳥居から東に入った小路 (辻子) にあり、北條泰時が大倉から移転させた幕府政庁と将軍御所はこの小路に面していたため「宇都宮辻子幕府」と呼ばれていた。若宮大路で喧嘩が起きたのは宇都宮氏が継続して辻子の屋敷を使っていたのが発端とも考えられる。 右は宇都宮邸の跡と伝わる宇都宮稲荷神社。 画像をクリック→ 宇都宮辻子と若宮大路の紹介ページ (別窓) へ。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 11月20日 辛巳 . 吾妻鏡 |
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左衛門尉宇佐美祐泰※の廷尉 (検非違使) 任官について推挙を認める旨の決裁があった。 . .
※宇佐美祐泰: 工藤祐経の弟祐茂が父の祐継から久須美荘※
北部を相続して宇佐美 (美しい砂の海、が語源らしい) を名乗り、祐政→ 祐秀→ 祐泰と続いている。 .. 熱海から伊東に向かう国道135号沿いに居館の跡が残り、城山の中腹には多数の五輪塔や宝篋印塔が集められている。この地は全国の宇佐美氏発祥の根源である。 . 右は宇佐美氏の墓所。実際には津波で崩れた周辺の墓石を集めて並べ直した 霊地らしいが。 クリック→ 城山と宇佐美氏の墓所 (別窓) へ ※久須美荘: 久須美荘現在の伊東市から河津町に至る伊豆半島東部と、内陸部の大見 (伊豆市東 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 11月28日 己丑 . 吾妻鏡 |
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遊び人の如く暮らしている武士らが四一半の骰子博奕を生業にしている。特に陸奥、常陸、下総の三ヶ国でこの傾向が甚だしいとの噂が届いた。 . 今日これに対応し、今後は囲碁以外の博奕は全て禁止するとの布告を発した。陸奥国留守所兵衛尉、常陸国宍戸壱岐前司、下総国千葉介らには特に禁制を徹底させよとの命令を含んでいる。 . . ※留守所など: 伊沢家景が奥州藤原氏の滅亡後に留守所 (奥州統括の責任者) として赴任、子孫 はこの職掌を継いで留守氏を名乗った。ここでの該当者は曾孫の恒家か。 .. 宍戸壱岐前司は 八田知家の孫 家周か、曾孫の家宗だろう。千葉介は元服前(満10歳)の亀若丸 (翌年か翌々年に時頼の偏諱を受け元服して頼胤を名乗る) 。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 11月29日 庚寅 . 吾妻鏡 |
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多くの武士が禁制に背いて日頃から鷹狩りを常習しているのは喧嘩や狼藉沙汰の原因になっている。 このため諸国の守護人に改めて布告を発した。内容は次の通り。 . 鷹と鶻 (はやぶさ) の件 . 右大将家 頼朝の時代から、神社の神事として生贄にするための鷹狩り以外は禁止しているが、近年諸人が好んで行なっているのは実に不届きである。今後は改めて神事以外の鷹 (猛禽類全て) を使った狩りなどは一切禁止する。この内容を承知し、守護として管理している国内での禁制を徹底せよ。 不承知の者がいれば申し出ること。 以上、将軍家 藤原頼嗣の仰せに従って通告する。 .. 建長二年十一月二十九日 相模守 北條時頼 陸奥守 北條重時 某殿 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 12月 3日 甲午 . 吾妻鏡 |
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吾妻鏡 この日の写本画像を別窓で表示 → 前後に移動して目的のページへ .. 晴。今日、壱岐前司 佐々木泰綱の子息小童 (9歳) が相模守 北條時頼邸で元服し三郎頼綱を名乗った。 引出物を含む運営は豪華で実に見事だった。一門の者も多数出席してそれぞれの役目を務め、陸奥守 北條重時と秋田城介 安達義景も参席した。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 12月 5日 丙申 . 吾妻鏡 |
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今日相模守 北條時頼が飛脚を京都に派遣した。これは室家 (正室は重時の娘) の妊娠に関して着帯と安産祈祷を (三井寺に駐在している) 若宮別当法印 隆弁に依頼するのが目的である。 .. 秋田城介 安達義景も同じく使者を送り、「去る5月に女房 (女官) から届いた妊娠との報告は間違っていたが隆弁は「8月なら確実」と予告し、その正しさは明らかになった。」と伝えた。 . 時頼の支配地では明年5月までの殺生を禁じた。出産に備えた祈祷で、重時も同様の命令を下した。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 12月 7日 戊戌 . 吾妻鏡 |
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召文 (召喚状) に従わない罪に関する協議があり、三回応じなければ使者を送って催促し、更に守らない場合は記録して罪科に問う旨が決定された。三番の引付衆 (訴訟担当の事務官) 以下にこの内容を周知させた。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 12月 8日 己亥 . 吾妻鏡 |
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相模守 北條時頼が室家の安産を祈るため大倉薬師堂 (今年の2月8日を参照) に参堂し、願書を内陣 (本尊を安置する内殿) に奉じた。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 12月 9日 庚子 . 吾妻鏡 |
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野本次郎行時が名国司※着任を望んでいる。父の野本 (斎藤) 基員が能登守に任じた時には成功※を介さず直接任官した、その例に準じて臨時の沙汰を求めている。左衛門尉 清原満定を奉行として今日決裁があった。 . 時員の場合は越後入道勝圓(北條時盛)に従って在京していた際に時盛の推挙を得て任官した。 幕府が法を定めた現在では名国司に関してこの例に倣う事はできない、との結論である。 また臨時の沙汰について、三分官※については内容により朝廷への申し込みを受け付けるが、名国司以上の官職の希望は受け付けない、と。 . . ※名国司: 実権を伴わない名目だけの国司で幕府の御家人が私財の献納と引き換えに任じた例 が多い。 .※野本基員: 能登守に任じたのは下河辺政義の実子で、基員の養子に入った時員。今回任官を 行希望した時は時員の二男、つまり基員の孫にあたる。 .※成功: 私財の献納や造営などの奉仕で官位官職を得る買官制度。平安時代中期以降は国費の 不足を補う目的のためかなり頻繁に行なわれた。 .※三分官: 衛府の四等官(督、佐、尉、志)の督を除く下の三階級。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 12月11日 壬寅 . 吾妻鏡 |
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幕府の南庭で連夜に狐の声がするため、今夜の宿直を務めていた筑後左衛門次郎知定の代官が引目の矢※でこれを射た。狐は東の唐門から走り出て鳴き声は比企ヶ谷※の方向へ去った。 . .
※引目: 矢の先端に付ける鏑の一種 (右画像例) 。
音を出すために開けた穴が蟇蛙の目に見えるため蟇目または蟇目鏑とも言う。正式な造りは四つ穴、殺傷目的ではない。
.※比企ヶ谷: 建仁三年 (1203) に 北條時政が滅ぼした比企 能員の館があった谷津 (地図) で、現在の妙本寺々域が該当する 。修善寺で殺された二代将軍 頼家の娘 竹御所 (四代将軍 藤原頼経の正室) もこの谷に居を構えていた。 .. 若狭局の配慮により能員の遺児 (比企の乱当時は2歳) で出家していた大学三郎能本は鎌倉帰還を許され、天福二年 (1234) に没した竹御所の菩提を弔うため館跡に法華堂を建立、これが現在の比企ヶ谷 妙本寺 (法華宗) の原型である。 . 能本は建長五年 (1253) に 日蓮に帰依し、翌年には鎌倉で辻説法を始めた日蓮に比企氏の館跡を寄進することになる。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 12月13日 甲辰 . 吾妻鏡 |
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晴、風が静まった。 今日 相模守 北條時頼の室家が着帯の儀を行ない、鶴岡八幡宮の別当法印 隆弁が加持祈祷を担当した。 法印隆弁は去る9月から住持する三井寺に移っていたが、法印を招請するため時頼が派遣した飛脚と萱津の駅※で行き逢い、寸暇を争って今夕鎌倉に到着した。 . 着帯後に再び祈祷を始め、安達義景の負担による薬師護摩、陸奥守 北條重時 の負担による如意輪護摩、時頼の負担による北斗供の三壇の加持を法印一人で催した。 . . ※萱津の駅: 江戸時代には名古屋駅の西、中村公園から庄内川を挟んで甚目寺近くまで (地図) の広い範囲が宿場町だった。鎌倉時代の将軍の上下向にも再三宿泊地として利用され、嘉禎四年 (1238) 2月10日には四代将軍 藤原頼経がこの宿で体調不良に陥った記録がある。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 12月15日 丙午 . 吾妻鏡 |
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幕府小侍所 (将軍の身辺を世話する側近の詰所) の担当に苦労している者の多くが新たな恩賞を受けた。精勤を心掛けている者には勤務年数を論せずに配慮せよとの仰せ※である。 . . ※仰せ: これも主語が不明なんだよね。常識的には将軍家の発言だとは思うが、僅か満10歳だ し執権の指示も意図的に「仰せ」と書くことがあるから...。原文は「被仰出云々」。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 12月18日 己酉 . 吾妻鏡 |
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相模守 北條時頼が室家 (妻) の御願として七観音堂※の前で誦経を行なった。担当は各観音堂の別当、 奉行は塩飽※左衛門大夫信貞。 . . ※七観音堂: 七観音は衆生 (生きとし生けるもの) を救うため七種類に姿を変える (千手、馬頭、 聖、十一面如意輪、准胝、不空羂索) 観音菩薩を差す。 .. 当時の鎌倉で 「七観音之堂前」 が何を差すのか断定し難いが、かつて 光明寺 (公式サイト) の支院だった 千手院 (外部サイト) が該当する、と思う。 . 本尊は千手観世音、光明寺本堂の西側 (地図) に位置する。光明寺の開基は四代執権 北條経時、寛元四年 (1246) 閏4月2日に記載したように、裏手には笹目ヶ谷から移設した (と伝わる) 経時の墓石も残っている。 ※塩飽: 読みは「しわく」、讃岐国那珂郡塩飽荘 (地図) から出た一族で、得宗被官を多く輩出 した。太平記には、鎌倉滅亡の際に塩飽入道聖遠と嫡子三郎左衛門忠頼と弟の四郎が揃って自刃する壮絶な姿が描かれている。 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 12月20日 辛亥 . 吾妻鏡 |
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御所が無人の状態になった。小侍所からは出勤の催促が何回も出されたが対応がないため、相模守 北條時頼に報告し将軍家 藤原頼嗣への奏上を促されて今日その沙汰が下った。 .. 規則を破った者は出仕停止に、真面目な勤務を続ける者を補任して勤番を組むように、との命令である。左衛門尉 清原満定が新しく組んだ勤番を読み上げた。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 12月21日 壬子 . 吾妻鏡 |
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来年正月の御弓始めを務める射手を検討し、まず射た的を確認する役目の人数を定めた。 .該当者には早急に連絡するよう、朝夕 (常勤者) の雑色の長である湯浅次郎国弘、本田太郎宗高、和海三郎家眞に指示を下した。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 12月23日 甲寅 . 吾妻鏡 |
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. . 89代 後深草天皇 |
. 12月27日 戊午 . 吾妻鏡 |
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将軍家近習の勤番を定めた。今後に勤怠があった輩は名簿から削除し無期限に出仕停止の処分を課す旨を厳しく告知した。番帳の清書は山城前司中原盛時。
. 定 結番の事(順不同) . 一番 子午 備前前司北條時長 遠江左近大夫将監北條時兼 遠江六郎北條教時 武蔵五郎北條時忠 城九郎安達泰盛 出羽前司小山長村 能登右近大夫北條仲時 左衛門尉武藤景頼 出雲五郎左衛門尉波多野宣時 隠岐次郎左衛門尉佐々木泰清 筑前次郎左衛門尉二階堂行頼 式部六郎左衛門尉伊賀朝長 同兵衛太郎伊賀光朝 佐貫弥四郎広信 山内三郎太郎 平賀新三郎惟時 . 二番 丑未 遠江守北條時直 相模式部大夫北條時弘 遠江太郎北條清時 長井太郎時秀 壱岐前司佐々木泰綱 内蔵権頭資親 左衛門尉大曽弥次郎盛経 左衛門尉大須賀胤氏 薩摩七郎左衛門尉伊東祐能 左衛門尉足立太郎直光 左衛門尉足立太郎直光 阿曽沼小次郎光綱 大曾弥五郎 土肥四郎実綱 新左衛門尉三村親時 加藤三郎景経 . 三番 寅申 相模左近大夫将監北條時定 武蔵太郎北條朝房 相模八郎北條時隆 左近大夫那波政茂 安芸前司藤原親光 城次郎安達頼景 出雲次郎左衛門尉波多野時光 左衛門尉伊東八郎祐光 千葉次郎泰胤 隠岐新左衛門尉佐々木時清 左衛門尉伊賀次郎光房 籐内左衛門尉宇佐美祐泰 左衛門尉壱岐太郎宍戸家宗 加地太郎実綱 武藤八郎 兵衛尉本間次郎信忠 . 四番 卯酉 宮内少輔足利泰氏 上野前司畠山泰国 足利三郎家氏 参河前司新田頼氏 下野七郎宇都宮経綱 佐渡大夫判官後藤基綱 左衛門尉梶原景綱 梶原太郎 信濃四郎左衛門尉二階堂行忠 出羽次郎左衛門尉二階堂行有 新左衛門尉小野寺行通 上野十郎結城朝村 波多野小次郎宣経 左衛門尉中條出羽四郎光家 伊賀四郎高野景家 兵衛尉鎌田次郎行俊 . 五番 辰戌 北條六郎時定 尾張次郎北條公時 武蔵四郎北條時仲 城三郎安達景村 近江大夫判官佐々木泰綱 遠江次郎左衛門尉三浦光盛 左衛門尉三浦六郎時連 摂津新左衛門尉 伯耆左衛門尉葛西四郎光清 善太左衛門尉三善康定 備後次郎兵衛尉 出羽三郎 波多野五郎行俊兵衛尉 伊賀三郎 筑後左衛門次郎茂木知定 土屋新左衛門尉 . 六番 巳亥 陸奥掃部助北條実時 陸奥四郎 越後五郎北條時員 上野三郎畠山国氏 佐渡五郎左衛門尉後藤基隆 和泉次郎左衛門尉二階堂行章 肥後次郎左衛門尉天野景氏 和泉七郎左衛門尉天野景経 弥次郎左衛門尉 常陸次郎兵衛尉二階堂行清 薩摩九郎安積祐朝 小野澤次郎時仲 筑前四郎二階堂行佐 大泉九郎長氏 渋谷次郎太郎武重 長江七郎景朝 . 以上の結番次第を守り昼夜を問わず懈怠無なく勤めること。将軍家の仰せに従いこれを定める。 建長二年十二月日 相模守 北條時頼 陸奥守 北條重時 . |
. . 89代 後深草天皇 |
. 12月28日 己未 . 吾妻鏡 |
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出羽前司 小山長村からの訴えがあった。
. 下野国の大介職※は伊勢守 藤原藤成※朝臣 (Wiki) から十六代目の小山長村に至るまで途切れることなく続いてきたが、伊勢神宮雑掌 (下級荘官) の訴えによって解任されてしまった。 .訴訟そのものは米や銅などの賠償により和解したが、大介職と所領の二つを失なう結果になったのは全く痛恨の極みである。 長村からの再三の愁訴を評議した結果、返却するとの結論が出された。 . .
※大介職: 国司または国司に準じる実力を持つ者が名乗る
名誉職。署名の際に書き加えて権威を誇示するのを通例とした。 .. 伊勢神宮とのトラブルの詳細は調べても確信を持てる結果が見えない。宇都宮氏または那須氏が絡む土地の権利云々との話はあるがそれ以上の情報が掴めない。 ※藤原藤成: 藤原鎌足→ 次男不比等→ 次男で北家の祖房前 → 五男魚名に続く四男の藤成が秀郷流藤原氏の祖となった。 .. 藤成の孫が武名の高い藤原秀郷、佐野市郊外に唐沢山城を築いて本拠とし、天恵三年 (940) には坂東を突風の如くに走り抜けた平将門を追討している。 . 右は唐沢山城址の古い石垣。大部分は戦国時代から江戸時代初期の遺構だが一部には秀郷時代の痕跡が見られるという。 . 画像をクリック→ 「唐沢山城址と伝 秀郷の墓所と周辺の史跡」(別窓)へ。 |
. . 89代 後深草天皇 |
. 12月29日 庚申 . 吾妻鏡 |
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陸奥守 北條重時と相模守 北條時頼が右大将家 頼朝、右大臣家 実朝、二位家 政子および右京兆 北條義時の墳墓堂※に巡拝した。佐渡前司 後藤基綱、出羽前司 小山長村、三浦介 (佐原) 盛時、出羽前司 二階堂行義、刑部大輔入道※らが同行した。今日、幾つかの政令が発布となった。 . 焼失した閑院 (里内裏) の完工の際に付き従う滝口衆※を関東から派遣せよとの仰せがあり、寛喜二年 (1230) 閏1月の例に倣って然るべき御家人の子息を選ぶと決まったが、人数等の詳細が不明である。当時の命令書を探し出し、派遣された者の子孫に確認を命じたところ、押垂齋藤左衛門尉の子孫から申し出があった。 . 「滝口に伺候した経験はありますが、今回は造営も担当しているため追加の人数を認めて欲しい」 とのこと。奉行の 清原満定からは「既に人数を決定した、後日改めて申し出るように」との返答があった。 . また、隠岐前司 佐々木義清の嫡男で幕府の近習を勤め、既に出家した隠岐太郎左衛門入道心願 (佐々木泰清) の請願があった。 . かつて若狭前司 三浦泰村は北條殿の縁戚として権勢を極め、御家人の上役であるかの如き態度だった。私はそれが承服できず着座の上下などで再三の喧嘩口論を重ねたが、遂に馬鹿馬鹿しくなって所領を弟の次郎左衛門尉泰清に譲り出家を遂げた。その後に息子が生まれ、更に泰村も滅亡して出家を後悔するようになり、息子を養うため所領の少々を割譲してくれるよう願ったが泰清は承諾してくれない。 .. 泰清の息子らからも上訴があり再度の検討を加えたが許容せずとの結果になった。奉行は山城前司中原盛時。 . ※墳墓堂: 頼朝の墳墓堂は現在の白幡神社一帯にあった法華堂で、宝治元年 (1247) 6月には 三浦一族ががここで自刃している。現在の頼朝廟所は江戸時代に頼朝の子孫を名乗る嶋津家が造成し、勝長寿院 (廃寺) の廃墟から素性不明の五層石塔を回収して墓石にした、と伝わっている。 .. 実朝と政子の墳墓堂は元々は勝長寿院にあり、鎌倉時代末期か南北朝時代の焼失後に寿福寺に移した。「やぐら」の五輪塔が死没当時のものか再建したものかは不明。 .
義時の法華堂は頼朝廟所の東、三浦一族の遺骸を葬ったと伝わる「三浦やぐら」前の平場に建っていた。. 更に東の中腹にある通称「よしときさん」が墓所との伝承もあるが、薮を掻き分けて登った結果は素性不明の「やぐら」で、その後に法華堂跡が発掘調査された。 . 右は義時法華堂周辺地図 クリック→拡大表示 . 頼朝法華堂の跡 と 寿福禅寺 と 義時法華堂の跡 跡を併読されたし (各、別窓表示) 。 ※刑部大輔入道: 吾妻鏡には(あまり重要ではない場面で)数回現れる名前なのだが素性が 判らない。田村刑部大輔仲能の可能性が考えられるが、そのうちゆっくり調べるとしよう。 .※寛喜二年の例: 吾妻鏡の記載は以下の通り。 . 「瀧口武者※が不足しているため経験のある武士の子孫に命じて出仕
させよとの院宣が下された。今日その件に関し 小山、下河辺、千葉、秩父、三浦、鎌倉、宇都宮、氏家、伊東、波多野ら一族から各々子息一人を派遣するよう沙汰があった。鎌倉殿 (将軍) の命令として、相模守 北條時房と武蔵守 北條泰時連名の下文である。」 .※瀧口武者: 蔵人所の配下に置かれた警護の武士組織。ここに任じるのは東国武士の栄誉でも あった。名称の由来や画像については吾妻鏡の承元四年 (1210) 5月11日の条に概略を記載してある。 . |
. . | . 12月12日 . 晴耕雨読 |
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ほぼ順調に、建長二年 (1250年) が終了。宝治合戦 (三浦合戦) で手間取ったのが夢の様だ。 .
土を耕したり肥料を運んだり、汚れて疲れる仕事は私が担当した冬の家庭菜園がどうやら出来上がったようだ。小松菜の苗みたいに古い種を使った (らしい) のが原因で育ちが良くない奴もあるけど、その他は順調に育っているらしい。. 妻が結構苦労してカバーを掛けて、しかも裾の部分を洗濯バサミで固定して、簡単に手入れができる構造になっている。ブロッコリー、ミニ白菜、小カブ、ネギ、ニラ、サニーレタス、ホウレン草、春菊、サヤエンドウ、チンゲン菜、その他。準備が遅かったので収穫は年明けになる、と。 . 巾が80~90cm、畝の長さは全体で 15mぐらいあるのかな、なかなか立派なもんです! . |
. . 89代 後深草天皇 |
建長二年 . 月 日 . 吾妻鏡 . |
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. . 89代 後深草天皇 |
建長二年 . 月 日 . 吾妻鏡 . |
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建長二年 . 月 日 . 吾妻鏡 . |
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