当サイトのトップ頁は http://kamakura-history.holy.jp/frame-000.html です。
.

宝治三年 (1249年) 、3/18に改元して建長元年
.
前年・宝治二年 (1248年) の吾妻鏡 へ       翌年・慶長二年 (1250年) の吾妻鏡
.
吾妻鏡 写本 (伏見本) の全ページ画像 を載せました。直接 触れるのも一興、読み解く楽しさも味わって下さい。
.
トップ頁は フレーム表示の 吾妻鏡を読む です。タグ記述を Google Crome に変更して誤字、脱字、行間を改善しました。

.
下線なしの青文字 はサイト内での移動です。下線付き青文字 は Wiki、公式サイト、参考サイト、地図 など、別窓での表示です。
.
西暦・天皇
和暦・月日
吾妻鏡に記載してある内容の意訳、関連する情報、補足事項など
西暦1249年
.
.
89代 後深草天皇
宝治三年
.
1月 1日
.
史料から
.
この年 吾妻鏡の記載なし、逸失と推定される。年間の主な事件のみを列挙する。
.

.
   ※年令: 五代将軍 頼嗣 (11歳) は寛元三年 (1245) 4月に着任 、生母は四代将軍 藤原頼経の継室
大宮殿 (故 藤原親能の娘) 。四代将軍 藤原頼経 (29歳) は寛元二年 (1244) 7月に将軍職を剥奪され京に送還済み。頼経の 正室だった 竹御所 (二代将軍 頼家の娘) は嘉禎元年 (1235) 7月の死産後に病没した (享年32) 。
.
五代執権は 北條時頼 22歳、宝治二年 (1248) 5/28に長男 宝寿 (後の時輔が誕生した) 、 連署は宝治元年 (1247) 7月に六波羅北方から鎌倉に転任した 北條(極楽寺)重時 51歳、後任の六波羅北方は、重時の嫡子で後に六代執権になる 北條(赤橋)長時 19歳、
七代執権になる 北條政村 44歳、
後に評定衆として執権を補佐する 北條(金沢)実時 24歳、
.
安達景盛は前年5月に 高野山で死没 (推定享年76) 、 安達義景 39歳、 安達泰盛 18歳、
千葉頼胤 30歳、足利義氏 60歳、 足利泰氏 33歳、 三浦泰村 は宝治年6月の宝治合戦で死没 (享年64) 、 小山長村 33歳、 結城朝光 79歳、 結城朝広 58歳、 宇都宮泰綱 47歳、
.
浄土真宗 親鸞 76歳、 真言律宗 叡尊 48歳、 真言律宗 忍性 32歳、 法華宗 日蓮 27歳、
.
第89代 後深草天皇 (7歳) 、第88代 後嵯峨天皇 (28歳) は寛元五年 (1247) 1/29に退位して院政を開始、姉小路顕朝 (38歳) と 中御門経任 (17歳) など若手の中堅公卿を軸として幕府と協調しつつ院政の安定化を図る。実務を担う太政大臣は 西園寺実氏 55歳、関白は 二条良実 33歳。
.
寛元二年 (1244) の 西園寺公経 死没 (享年73) により、単独の関東申次に就いた 九条道家 (54歳) は時頼の津陽要求で解任され、後任は西園寺家の世襲となる。
.
落ち目の道家は 宝治合戦残党による幕府転覆計画 (建長三年 (1251年12月) に関与した嫌疑で失脚、翌 建長四年 (1252) 2月には将軍 藤原頼嗣も解任され京に追放、同年4月に後嵯峨天皇の皇子 宗尊親王が 「宮将軍」 となり執権政治の対抗勢力は壊滅する。
.
道家、頼経、三浦一族、名越流北條氏の没落によって執権独裁体制を堅持した幕府と後嵯峨院政を軸にした五摂家 (近衛家、一条家、九条家、鷹司家、二条家) の合議分担体制になった朝廷、両者の関係は安定期に入る。
    (全て1月1日基点の満年令で表示、下線付き は Wiki)
.
   極楽寺重時は建長八年 (1256) に出家して政界を退くが、建長四年 (1252) に真言律宗の布教
のため関東に入った僧 忍性と接点を持ち、彼の布教活動と病人や非人の救済活動や土木工事や和賀江島の築港などに関与する事になる。
.
一方で権力者の時頼は...弘長三年 (1263) 11月に36歳で死没するまで権力を手放そうとはしなかった。六代執権長時と七代の政村を挟んで、いよいよ私が時頼よりも更に嫌いな時宗の異様な強権独裁政治が近付いてくる。
.
西暦1249年
.
.
89代 後深草天皇
宝治三年
.
1月23日
.
北條九代記
.
五代将軍 藤原頼嗣が正四位下に叙された。
.

.
   ※頼嗣の官位官職: 前年8月25日に従四位上に昇叙していた。右近衛少将と美濃権介
は従来と同じ。6月14日に左近衛中将に転任 (昇任) する。
.
西暦1249年
.
.
89代 後深草天皇
.
宝治三年
.
2月 1日
.
複数史料
.
.
子刻 (深夜0時頃) に閑院 (院の御所、仙堂御所) の富小路殿 (西園寺実氏邸) が焼失した。
.

.
富小路殿は正嘉三年 (1259) に再び焼け落ちるのだが、再建されて継続して後嵯峨上皇の御所になった。現在の御所南小学校第二運動場の南側に内裏址の碑が建っている (地図)。
    右画像の左側の一画、クリック→ 別窓で拡大表示
.
元々この敷地にあった京都府中京庁舎は老朽化のため解体撤去され その工事に伴って一時的に避難した標柱は運動場の完成に伴って現在地に戻された (新しそうにも見えるので再建かも知れない) 。
   運動場北隅に仮設した時の画像も参考に。あまり意味ないが。
.
富小路殿の敷地は富小路通と柳馬場通に挟まれた一画、東西100m×南北140m (約) だったらしいから標柱の位置なんかどこに設定しても問題ないのだけれどね。
.
西暦1249年
.
.
89代 後深草天皇
.
宝治三年
.
3月18日
.
複数史料
.
.
宝治を改めて建長とした (出典は後漢書) 。天変と火災が重なったことによる。
.
西暦1249年
.
.
89代 後深草天皇
.
宝治三年
.
3月23日
.
複数史料
.
.
京都で大火。「三條から南、八條から北、西洞院から東、京極から西」と記録され被害は甚大だった。
.
火の粉は鴨川を越えて蓮華王院一帯まで焼き尽くし三十三間堂の千体仏像も200体しか救えなかった。
東に隣接する法花堂(法華堂、現在の法住寺)は辛うじて被災を免れたが、北に変った風が新熊野社 (地図) まで焼き払った。
公卿の屋敷だけでも10余軒、貴族の家を含めると被害は数え切れない。

.

.
   ※京都の火事:その後も火災が頻発し、頼朝挙兵から鎌倉幕府滅亡
までを描いた 増鏡 (Wiki、南北朝時代に成立した歴史物語) は 「三月末までに都の三分の二が焼けてしまった」と事態の深刻さをややオーバーに記録している。
三十三間堂の千体仏像が800体も焼けたのは悲劇だね。
.
西暦1249年
.
.
89代 後深草天皇
.
建長元年
.
3月27日
.
史 料
.
.
後嵯峨院の大宮女院 (太政大臣 西園寺実氏の娘) が皇子 (後の第90代 亀山天皇) を平産した。
.
西暦1249年
.
.
89代 後深草天皇
.
建長元年
.
4月 4日
.
百錬抄
.
.
鎌倉の飛脚が到着、閑院殿 (3月23日の件) の建造を担当する、と。
.
西暦1249年
.
.
89代 後深草天皇
.
建長元年
.
6月 
.
北條九代記
.
.
6月4日に北條重時が陸奥守、6月14日に 北條時頼が相模守、6月16日に藤原頼嗣が左近中将に任じた。
.
西暦1249年
.
.
89代 後深草天皇
.
建長元年
.
11月23日
.
北條九代記
.
.
永福寺で供養の法事あり。導師は若宮別当 隆弁法印
.
西暦1249年
.
.
89代 後深草天皇
.
建長元年
.
12月13日
.
北條九代記
.
.
引付頭人制度が始まった。北條政村が一番頭人、北條時直が二番頭人、眞昭 (北條資時) が三番頭人。
.

.
   ※引付頭人: 引付衆は評定衆を補佐して訴訟処理の迅速化を図るのが職務、頭人はその統括者
で評定衆一名が兼務した。人数は徐々に増強され、当初は有力御家人も多かった引付衆と奉行人も時と共に北條一門が大多数を占めるようになっていく。
.

.
.


2025年
.
12月11日
.
晴耕雨読
.
買い物が灯油とマグロの刺身だけになったので中身の少ない宝治二年 (1248年) が一時間で片付いた。昨日書き込んだ買い物予定の結果は以下の通り。
.
① ドラッグストア 「コスモス」 の備蓄米は入荷遅れで欠品中。
.
② 巾180cmのビニールは 1m 100円の切り売りか 100m巻き一本が厚さによって 4,500円 と 5,500円の
  二種類。これは高すぎるから別の方法を考えよう、となった。
.
③ 灯油は行きつけの農業資材店で 1L 税込 98円 (18Lで 1,764円を 3缶=税込み 5,292円) 。
  通常はエアコン暖房だけど、室内機の近くで灯油ストーブを25℃ぐらいにセットして15分ほど暖房
  するとエアコンの初期負荷が軽くなって電気代の節約になる。ついでに加湿器を近くで運転すると
  多少暖かく感じる、そうだ。現在は エアコン2台を適当に動かして、11月のトータルの電気代が
  税込み14,819円だった。12月の目標は 18,000円だね!
.

.
右画像は今朝の食事、油揚げとバラ肉と野菜煮込みうどん、大カブのキムチと 1/3御飯と自家製ミカン付き。入れる野菜によって片栗粉半スプーンでトロミを加えたり、味の濃さを増減しているらしい。
.
空腹気味だったら残り御飯の量で調節して、量が増えるようなら 「おとなの振り掛け」 という名のパックを添付する。味付けを少し変えたり材料を加減して変化させれば誤魔化せるって、私が教え込んだのさ。
.
西暦1249年
.
.
89代 後深草天皇
.
建長元年
.
 月 日
.
吾妻鏡
.
.
記事
.

.

   ※:
.
西暦1249年
.
.
89代 後深草天皇
.
建長元年
.
 月 日
.
吾妻鏡
.
.
記事
.

.

   ※:
.
西暦1249年
.
.
89代 後深草天皇
.
建長元年
.
 月 日
.
吾妻鏡
.
.
記事
.

.

   ※:
.

前年・宝治二年(1248)の吾妻鏡へ       翌年・建長二年(1250)の吾妻鏡へ