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上: 鑁阿寺の2km西、臨済宗建長寺派の多宝山福厳寺(地図)。創建は寿永元年(1182)、 頼朝 が鎌倉に段葛を造成した年である。
開基は
足利忠綱(藤姓足利氏当主
俊綱 の嫡男)、開山和尚は鑁阿寺と同じく
伊豆山権現般若院(別窓)の理真上人が務めている。
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忠綱が父母の菩提と供養のために創建
※したと伝わり、源姓足利氏の当主
義兼 と正室
時子(
北條時政 の娘で
政子の同母妹)の持仏だった観音像を
祀っている。この寺では同じ時期に刃を交えた源姓と藤姓 二組の足利氏と北條氏が絡み合って併存していたのが面白い。
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また足利市の中心部から少し南寄りにある華厳寺(臨済宗建長寺派・
地図)の山門には何故か三つ鱗紋(北條紋)が付いていた。この時は何となく
通り過ぎてしまったが、足利氏の引両紋が主流の町で三つ鱗紋の存在は気になるので次回は関係を調べようと思っている。
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福厳寺創建の翌・寿永二年(1183)2月に頼朝の意を受けた
小山朝政
らが
野木宮合戦 (別窓)で忠綱と
源 (志田) 義憲の連合軍を追討した。
この数年で藤姓足利氏は急速に零落し、更に同年9月には父の俊綱も家臣の桐生六郎に殺害されている。
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今回の足利訪問では足利俊綱が本拠を置いた両崖山城址まで駆け足で回遊した。当初は融和していた源姓足利氏と藤姓足利氏の利益が相反して合戦
に至った経緯を少しづつ調べて見たい。福厳寺訪問は、取り敢えずそのスタートのような第一歩である。
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※忠綱が創建: 野木宮合戦で敗れた忠綱は後に投降して平家追討軍に加わった可能性がある。文治元年(1185)3月24日に壇ノ浦で平家が
滅亡し、
九郎義経 を含む多くの御家人が無断任官を受け頼朝を激怒させる事件が起きた。
その中の一人が忠綱と推定できるのだが、以後の消息は史料にも確認されていない。
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【吾妻鏡 文治元年(1185) 4月15日】.
関東の御家人が大した功績もないのに頼朝の推挙も受けず任官したのは実に奇怪である。(中略)。任官した輩は京都で官職に励むが良い。
墨俣川から東へ下るとなれば本領を召し上げ、場合によっては斬罪に処すと申し渡す。(義廉・佐藤忠信・師岳重経・渋谷重助・小河馬允・
後藤基C・波多野有経・梶原友景・梶原景高・馬允時経・海老名季綱・本間能忠・豊田義幹・兵衛尉政綱 たちを罵倒する言葉に続いて、
兵衛尉忠綱には本領の一部を返してやったのに無駄になった、どうしようもない奴だ。 と続けている。

左: 両崖山から裾野一帯の史跡鳥瞰図。天喜二年(1054)前後に藤原秀郷から七代後の淵名荘※を本領とする淵名成行が上野国から下野に進出して
両崖山城(足利城)を構えたのが藤姓足利氏の最初で、その後は五代・120年の長期間 足利地方を実質的に支配した。
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2014年11月末のハイキングは織姫神社北側の「もみじP」から両側が切り立った尾根道を1600m、帰りは道に迷って東の黄色い★印に下った。
往復で3.2kmの「散策」の予定が合計で6km以上、「猪に注意」の看板にヒビリつつ3時間近くも歩いてしまった。
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中: 足利市内の平坦部にある鑁阿寺(標高36m)の北1.5kmから両崖山を遠望。標高251mで麓からは約215m、頂上付近は岩場で、周辺には
土塁や堀切の痕跡もある。平安・鎌倉時代の遺構ではなく室町時代以後の、主として後北条氏に関わる攻防の跡らしい。
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右: 両崖山の山頂付近から東を展望。唐沢山と樺崎寺跡は概略を推定した方向、画像の更に左に鑁阿寺がある。両崖山頂の御嶽神社からは更に尾根道を
北に辿るハイキングコースが延びている。頼朝挙兵直後の源姓足利義兼は平家追討に参戦したが、ここに本拠を置いた藤姓の足利氏には挙兵を促す
以仁王の令旨が届かなかった。「同族の小山氏には届いたのに、何で」...そんな鬱憤もあって、旧主の平氏に従ったという。
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俊綱の嫡子忠綱(当時17歳)は京都守護のため在京しており、平家の軍勢に従って頼政追撃の宇治川合戦で功績を挙げた。確か平家物語も合戦の
様子を描いていた筈だから、いずれ追記しようと思う。
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寿永二年(1183)2月には野木宮合戦で志田義廣に与した忠綱が小山朝政と
下河邊庄司行平 の連合軍と戦って敗れた。藤姓足利氏棟梁の俊綱は
参戦せずに一族の温存を図ったが頼朝の許しが得られず、同年9月に頼朝の命令を受けた三浦義茂の軍勢が渡良瀬川まで進出した。
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総攻撃の前日に俊綱(60歳)の首を家臣の桐生六郎が三浦の陣に届けて合戦は回避されたが、これは俊綱が身を捨てて主人を救ったとも考えられる。
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その後の両崖山城は坂東八平氏の末流長尾氏が支配した。天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原攻めが勃発、小田原城に入って後北条氏と
共に籠城した長尾顕長は助命を得たが所領を失って浪々の身となり、両崖山城も廃城となった。

左: 今回は両崖山ハイキングの中で最もポピュラーな、駐車場から真っ直ぐ北へ尾根を歩く片道1.6kmルート。途中には手を使わなければとても
越えられない程度のアップ・ダウンが5ヶ所ほどあり、尾根伝いに攻撃する側は大変だろうな、と思わせる。左の画像は最も平坦な部分。
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中: 少し傾斜が厳しくなってきた、斜度30%程度の登り坂。石の角が矢鱈に突き出しているため底が厚くて硬い靴を履いてくれば良かったのだが、
アフター・フェスティバル(後の祭り)だった。今だから冗談言えるけど、結構辛かったね。
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右: これは相当厳しい傾斜部分、斜度60度ぐらいかなぁ。もっと厳しい場所もあったが、撮影する心の余裕がなくなっていた。

上: 約30m四方ほどの山頂部分には神社の他に小さな祠が数ヶ所、ここが両崖山城址と伝わる。天喜二年(1054)に伊勢崎淵名から足利に入った
藤原成行(
藤原秀衡 の子孫)が築いたと伝わるが、明らかに麓に館を設けた「詰めの城」(緊急用最終防御基地)だろう。
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永承六年(1051)に
源頼義 が陸奥守として奥州に赴任し、天喜四年(1056)2月には阿久利川事件を契機として前九年の戦役が勃発している。
(
陸奥話記(前九年戦役の後半)を参照されたし)。藤原成行の足利進出は、奥州平定に伴う補給機能を負担させる頼義の意図かも知れないし、
頼義・義家親子が足利支配の尖兵として淵名成行を利用した可能性も考えられそうだ。
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頼義を継いだ
八幡太郎義家 は下野守に任じて足利に地盤を確保している。この頃に上野介だった
※だった
平直方 は頼義の舅であり、義家から
見ると外祖父に当たる。藤姓足利氏を下野から排除して源氏の勢力下に置く環境は整っていた。
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※淵名荘: 伊勢崎市南東部の法金剛院領。新田荘の西に隣接するエリア(
地図)で、淵名の地名が今も残っている。
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※上野介: 親王任国(常陸国・上総国・上野国)の一つ。親王が国司(守)に任じるため上野国の実質的支配者は上野介となる。
藤原秀郷から藤姓足利氏・小山氏・結城氏・佐野氏に続く系図
鎮守府将軍 鎮守府将軍 鎮守府将軍
武蔵守 美濃守 下野国押領使 下野守
藤原秀郷─┬─千常─┬─文脩──┬─文行───公行─┬─公光─┬─公清───(佐藤氏)───
│ │ │ │ │
│ │ │ │ ├─経範───経秀───
│ │ │ │ │
│ │ │ │ └─公季───公助─┬─公宗 ↓妻は二階堂行政の娘
│ │ │ │ │ ↓伊賀守 ↓京都守護
│ │ │ │ └─文郷───光郷───朝光─┬─光季─┬─光綱───
│ │ │ │ │ │
│ │ │ └─脩行───行景───(近藤氏)─── │ └─季村───
│ │ │ │ ↓評定衆 ↓山城守 ↓土佐守
│ │ │ ├─光宗─┬─宗義───光政───兼光───
│ │ │ │ │ ↓評定衆
│ │ │ │ └─宗綱─┬─光氏───光益───頼益───
│ │ │ │ │
│ │ │ │ └─光泰───頼泰─┬─光貞─┬─盛光───光政───光隆───
│ │ │ │ ↓評定衆 ↓伊勢守 │ │
│ │ │ ├─光資───光房───光有───光之 │ └─貞長───
│ │ │ │ │
│ │ │ ├─朝行 └─光長───兼長───頼兼───
│ │ │ │ ↑伊賀守
│ │ │ └─光重───光範───光盛───
│ │ │
│ │ │ ↓上野国(伊勢崎市南部)に土着
│ │ │ 鎮守府将軍 鎮守府将軍 下野守 ↓足利大夫(両崖山城に土着)
│ └─千万 ├─兼光───頼行─┬─兼行─┬─成行─┬─成綱
│ │ │ │ │ ↓足利孫太郎 ↓出羽守
├─千時 └─条方 │ │ ├─家綱─┬─俊綱─┬─康綱───宗綱
│ │ │ │ │ │ ↓足利又太郎
├─千晴───久頼 │ │ ├─成実 ├─高綱 ├─忠綱
│ │ │ │ │ │
├─千国 │ │ └─重俊 ├─成俊 └─綱元
│ │ │ │ ↓足利七郎 ↓佐野太郎
└─千種 │ ├─行房───成綱 └─有綱─┬─基綱─┬─景綱─┬─秀綱
│ │ │ │ │ 安房権守
│ └─孝綱 ├─広綱 │ └─宗綱───頼綱───師綱
│ │ │ ↓安房守 ↓左衛門尉 ↓越前守
│ └─信綱 └─国基─┬─実綱─┬─成綱
│ │ │
│ └─景綱 ├─景綱
│ ↓太田 (太田郷・加須市一帯) │
└─行尊───行政─┬─行方───行基 ├─時綱 関口三郎
│ │
│ ├─宗綱 戸奈良五郎
│ │
│ ├─行綱 鹿沼六郎
│ │
│ ├─親綱 閑馬七郎
│ │
│ └─親綱
│ ↓小山 (久安年間(1145〜1151)に太田郷から移って小山氏を名乗る)
├─政光─┬─朝政───朝長─┬─長村───時長───宗長───貞朝───秀朝───朝郷───氏政───
│ │ │ ↑新田義貞に従って鎌倉攻めに参加し下野国司と守護を兼任、建武二年(1335)の中先代の乱で北條時行軍に敗れ戦死。
│ │ ├─時長───宗長───貞朝─┬─秀朝───朝氏───氏朝───義政
│ │ │ │
│ │ ├─宗光 ├─高朝─┬─朝郷
│ │ │ │ │
│ │ ├─長綱 └─秀政 └─氏朝───義政
│ │ │ ↓薬師寺
│ │ └─政村─┬─経泰
│ │ │
│ │ ├─政氏─┬─政盛───貞光
│ │ │ │
│ │ └─政義 └─朝氏
│ │ ↓中沼(長沼)
│ ├─宗政─┬─宗泰─┬─宗秀─┬─秀行
│ │ │ │ │
│ │ └─時村 └─宗員 └─宗朝
│ │ ↓結城 ↓筥村
│ └─朝光─┬─時光
│ │ ↓下総結城
│ └─朝広─┬─広綱───時広───貞広───朝祐───直朝───
│ │ ↓白河結城
│ └─祐広───宗広───親朝───
│ ↓下川辺 (安元年間(1175〜1177)より前に頼政を介して八条院領として下川辺を立荘)
└─行義─┬─行平───行時───
│ ↓野本
└─政義───時員───時秀─── 政義の子孫には長谷川宣以(火付盗賊改役で知られた鬼の平蔵)がいる。
足利南部の簗田御厨と、三ヶ所の御厨神社について
源義家 から四男の 義国 を経て源姓足利氏の祖 足利義康 が地盤を継承し、やがて藤姓足利氏との対立も鮮明になる。一般的には「一国之両虎」
として同じ 藤原秀郷 の子孫小山氏と下野の覇権を争い滅びたとされているが、野木宮の小規模な合戦だけが雌雄を決したとは考えにくい。
鎌倉の武威と 新田義重 の強い勢力基盤を背景にした源姓足利氏の圧力が流れを決めたのだろう。
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足利(藤姓)俊綱 の父・家綱が寄進して成立させた簗田御厨(伊勢神宮内宮領)※の権益を康治二年(1143)に義国が強引に奪った事、足利から
新田地域に移住した 源義国 と義重親子が広大な荒地を開墾し保元二年(1157)に新田荘を拓いて上野国東部を支配した事、早世した 足利義康
を継いだ義兼をバックアップした叔父の新田義重が足利荘南部に触手を伸ばした事、足利 (藤姓) 俊綱が仁安年間(1166〜1169年)に女性を
殺めた罪で足利荘の管理権が義重に換えられた事(俊綱の愁訴で中止)などを経て、比較的平和に住み分けていた両足利氏は対立を深めて行く。
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ただし保元の乱(1156)での俊綱は八田知家(宇都宮氏庶流・本領は茂木郡)らと共に源義朝の郎党として参戦しており、この時点での両者の
対立はまだ深刻ではなかったらしい。
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※簗田御厨: 館林市に隣接した小曽根町一帯が南端か。御厨神社(地図 )が当時の名残を伝えている。

上: 足利市南部には三ヶ所の御厨神社※があり、小曽根町と島田町の御厨神社は約5km、島田町と福富町の御厨神社は共に直線で約2kmの距離。
地勢を考慮すれば簗田御厨の規模は東西6km・南北3kmほど、灌漑用水に恵まれた平坦で肥沃なエリアだった。
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特に南部の矢場川左岸には前方後円墳二基と七基の円墳が集中する「小曽根古墳群」があり、古くから拓かれた地域と確認されている。
中でも御厨神社に隣接する永宝寺古墳は全長48m・高さ5.4mで西側の浅間山古墳と共に古墳群の主墳と推測され、現在は石室内部まで見学
できるよう整備が進んでいる。この項のテーマからは逸脱するが、近くを通ったら一見する価値はある。

上: 最もメインの役割を果たしていた御厨神社※はここではなく、福富町に現存する御厨神社が近隣の38郷を統括していたらしい。小曽根町の社は
無人で、隣接する永宝寺敷地の一部に付属している雰囲気がある。
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上野国東部の新田荘を開発した新田義重は武力と経済力を背景に甥の足利義兼を補佐し、元々は籘姓足利氏が管理権を掌握していた簗田御厨を
奪い取った。本来は足利の開発領主だった籘姓足利氏は徐々に駆逐され、寿永二年(1183)2月には嫡男の忠綱が志田義廣軍に加わって
野木宮合戦で敗北し逐電、9月には当主の俊綱が両崖山城で自刃し滅亡
※してしまう。
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※足利俊綱自刃: 吾妻鏡は編纂のミスで治承五年(1181)9月の条に載せているが実際には野木宮合戦後の寿永二年(1183)9月。
詳細は「吾妻鏡を読む」の当該個所を参照されたし。
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※御厨神社の位置: 小曽根町238(永宝寺に隣接)と島田町795(八坂神社の筋向い)と福富町2033(渡良瀬川堤防南)、共にPあり。

左&中: 小曽根の御厨神社に隣接する永宝寺。創建年代は記録に残っていないが開山和尚圓翁正眠の無縫塔(墓石)には文永六年(1269)の
没年が刻まれ、鎌倉時代前〜中期の創建と推定される。宗派は臨済宗建長寺派、明治の神仏分離までは御厨神社の別当寺と推定される。
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右: 永宝寺古墳は古墳時代後期(6〜7世紀)の前方後円墳で墳丘全体の全長は約48m×高さ5.4m、周辺に点在する群集墳の主墳とされる。

上: 教育委員会による古墳調査は2002年に完了、永宝寺にお願いすれば内部の見学も可能。不定形の石で積み上げた玄室の長さは425cm。

左: 探し回ってやっと辿り着いた島田町の御厨神社(の前の八坂神社)。御厨神社は筋向いなのだが、地元の人に聞いても判らなかった。
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中&右: 島田御厨神社は鳥居と小さな社があるだけ。豊かだった荘園の面影は残念ながら見られない。 まぁ一つの荘園に御厨神社が三ヶ所あるのは
荘園の規模を表すものでもあり、やや珍しいと言えそうだ。

左: 福富町の御厨神社鳥瞰。渡良瀬川の対岸には上杉氏と古河公方が攻防を繰り返した岩井城址が見える。広い駐車場を備えている。
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中: 足利市福富町の御厨神社。創建は康平年間(1058〜1064年)、奥州に向かう八幡太郎義家が戦勝を祈願したのが端緒と伝わっている。
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右: そして、奥州から凱旋する途中の義家が伊勢神宮を勧請して社殿を創建した。前九年戦役の終結は1062年だから、康平年間の創建であれば
前九年戦役からの凱旋に合致する。建久八年(1197)に至り頼朝が新たに社殿と神領を寄進している。
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義家は足利太夫成行に命じて創建した、と伝わっている。源姓足利氏ではなく藤原秀郷の子孫であり、天喜年間(1053〜1057年)に両崖山に
居城を構えた人物。義家が下野守に任じたのは延久二年(1070)だが、それより前に足利に土着していた籘姓足利氏に命令できる立場にあった
事になる。源義国が足利に土着したのは久安六年(1150)、つまり源氏が土着する100年前の足利は籘姓足利氏の支配下にあった。

左: 福富町の御厨神社から小曽根町の御厨神社までは東西8km前後で南北4〜5km、平安時代の末期には梁田十八郷が伊勢神宮御厨だった。
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中: 全国に点在する御厨神社と同じく足利市の御厨神社の神領も絹布や綿や供米を献納するための存在だった。福富町の御厨神社は梁田十八郷の
総鎮守であり、明治八年(1875)の神仏分離(正確には神仏判然令)に伴って御厨神社と改称し、翌年に郷社に列した。
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右: 毎年1月14日には「御筒粥神事」が行われている。筒の中に入れた米や麦を茹でて農作物の豊凶を占う、諏訪大社などでも行われる神事である。

左&右: 広い境内には石祠が点在し、歴史の古さを物語る。少し残念なのが朝夕の交通事情で、前面道路が工業団地への抜け道になっているため
かなり混雑すること。さらに加えて結構飛ばす車が多いのは不愉快で、残念でもある。
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右: 北側を流れる渡良瀬川の土手に登ると良く整備された河川公園が広がっている。上流の足利市街地の背後に遠く、赤城蓮山が見える。