日蓮 が随身佛として大切にした仏像は伊東松原海岸の沖に現れた、と伝わっている。周辺の海が三日三晩も異様に光り輝いたため誰も近寄れなかったが、伴左衛門という漁師が
小舟で網を入れて仏像を引き上げ、地頭である伊東家に預けた。後に当主の伊東八郎左衛門朝高が原因不明の重病に罹り危篤になったため、家臣の綾部正清が川奈の岩屋に幽閉
した日蓮を訪ね、平癒祈願を懇願した。
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日蓮は「法華経を信じない者に功徳などあり得ない」として断ったが、正清に信仰の兆しを見て朝高の館へ移り、祈祷を続けて平癒させた。奇跡を見て感激した朝高と一族は
海から引き上げた釈迦佛立像を日蓮に献上、日蓮は随身佛として生涯離さなかった、と伝わる。
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朝高は邸内の毘沙門堂に日蓮を迎え、自らの法名を日預として一寺の建立を約束し、妙法華院の名を与えられた。日蓮は弘長三年(1263)2月に赦免されて鎌倉に帰還した。
朝高は北條時宗の命を受けて謀反人の
北條時章 を討った時の傷が元で三浦に隠棲し、建治元年(1275)に91歳で死没。伊東に戻った家臣の正清は館の一部を寺に改めて
妙法華院とし、朝高の菩提を弔った。
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後に日印上人が巡行を機に開堂供養を行い、妙法華院日預(朝高)を開山・日印上人をニ祖・正清を三祖として海上山佛光寺と改めた。ただし...日蓮と地頭と仏像に関する
内容は隣接する海光山佛現寺にもほぼ同じ形で伝わっており、もう少し関係を調整する必要あり、だね。
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日蓮随身佛だった立像釈迦像は京都の
本圀寺 (wiki) の寺宝となっている。この寺は元は京都六条にあったが放漫経営に加え寺有地売買に絡む醜聞で京都山科へ移転を余儀なく
され現在に至る。寺宝の勝手な売却や暴力団の関与、更に当時の大蔵大臣で門徒総代だった竹下登の関与も喧伝されたという。:権力が腐敗する時代が終わるといいね。