甲斐大泉 深草館跡 

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逸見光長 は大治三年(1128)に 玄源太清光 の長男(一卵性双生児の兄)として産まれた。明確な資料がないことから異母兄弟だろうと考える説もあり、詳細の確認はでき兼ねる。
尊卑分脈に拠れば光長は正午よりも前、弟の 信義は正午頃に産まれた、という。武田氏の祖となり武田太郎を名乗った弟の信義)に比べると資料が少なく、吾妻鏡にも記載は殆ど見られない。清光本拠の谷戸城(逸見城)から南へ1100m下った深草館に住んで逸見太郎を名乗っている。
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深草館跡は北西〜南東に200m・北東〜南西に70mほど、谷戸城跡(逸見城、別窓)の横から流れ下る西衣川と深い水壕に囲まれ、内側と東側に1〜2mの土塁を巡らしている。平安末期の遺構は全く見られず、保存されている城址も武田氏が滅亡した天正十年(1570)以後の遺構と推定されている。
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甲斐国史には清光の家臣堀内氏の子孫・堀内下総守の子・主税の時に落城した」と記録されている。
信玄が没して天目山での武田勝頼自刃(別窓)した後の甲斐国は小田原北条氏と徳川氏の覇権争いの舞台になっており、この戦乱に巻き込まれて谷戸城と共に落とされた、と考えられる。


     

           左: 金生遺跡の南西、深草館跡の森を見る。背景右隅に聳える異形の山は甲斐駒ケ岳、中央山並みの陰に北岳(3194m)の頭が見える。
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           中: 西側の農道から館跡の森を見る。北側を空濠・残り三方向に西衣川を引き込み水濠としている。濠の深さは3〜5m、巾は7〜10mで
内側に1〜2mの土塁を巡らし、東西50m×南北130mの平城としては立派な防御施設を備えている。
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           右:振り返って北側の背景は八ヶ岳連峰(2800m前後)。農道の突当りが 金生(きんせい)遺跡(wiki)、背後右側の丘が谷戸城址(逸見城址)。


     

           上: ついでに金生遺跡も撮影した。縄文時代の住居跡が主体だが、南側には平安時代から17世紀(安土桃山時代)の生活痕や深草館の付属施設
と推測できる遺構も出土しているらしい。

この頁は2022年 8月 6日に更新しました。