右:千鶴丸の遺骸が流れ着いた富戸の宇根岬 画像をクリック→拡大表示
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【 産着岩の説明板に、曰く 】.
永暦元年(1160)伊豆に流された源頼朝は伊東祐親の三女八重姫と人目を忍ぶ仲となり男子が生まれた。
千鶴丸と名付けたが平家管領である祐親は清盛に知られては一大事と千鶴丸を八重姫から奪い家来に命じ伊東八代田の川に千鶴丸の腰に石を付け沈めて殺した(後に稚児渕と云う)。
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沈められた千鶴丸の腰の石がとれて川を下り海に出て富戸の海岸に着き、釣をしていた甚之右衛門が見付け引揚げた処高価な着物を身につけており、これは高貴な御子であると丁重に扱い遺体をこの石の上に安置し着物を乾かして懇ろに葬ったと云う。
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これによりこの石を産衣石と云うようになり、千鶴丸は若宮八幡・氏神となりここの三島神社の御祭神三島大明神の相殿として祀られ、御例祭には鹿島踊りが奉納され村人の平穏無事と五殻豊穣大漁が祈願される。
三島大明神と共に二年に一度神興の渡御があり、御旅所として此の石に据え暫時の御休憩をし、千鶴丸にも祈りが捧げられる。
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又甚之右衛門は千鶴丸が握っていた橘の枝が余りにも見ごとであったのでこれを三島神社の社殿の前に挿した処、千鶴丸の怨念で根付いたが数年にして枯れたので同じ物を植えたのが現在に至り毎年香り高い花を咲かせ当時を偲ばせてくれる。千鶴丸が握っていた橘は千鶴丸が稚児渕に連れて行かれる途中の鎌田神社境内に丁度香り高い匂いをつけた橘をせめてもの慰めにと家来が持たせたと云う。
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後にこれを知った頼朝は甚之右衛門を呼び出して賞賛の言葉と生川(うぶかわ)の姓と立派な茶器を授与されたと云う。生川(うぶかわ)の姓は今では生川(なまかわ)と云う屋号で、甚之右衛門の生家は現在の三好伍郎家である。
平成七年十二月吉日 富戸城ヶ崎観光会