鎌倉幕府の第五代執権
北條時頼
は職責を赤橋流の長時に継がせ
※、全国の守護地頭に不正や悪逆がないか見廻るため、旅の僧の姿で諸国行脚の旅に出た。
その途中の上野国佐野庄で雪に道を阻まれたため粗末な家に一晩の宿を頼んだが、主の佐野源左衛門は余りの貧しさを恥じて一度は断ってしまう。
しかし妻の言葉もあって思い直し、囲炉裏で燃す薪もないため大切にしていた鉢の木 (盆栽) を折って火をつけ、時頼をもてなした。
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佐野源左衛門は元々はこの地の旧家だったが親戚のために土地財産を奪われたこと、今は貧しい暮らしであるが「いざ鎌倉」となれば真っ先に駆けつける
気概を失っていないことなどを時頼に語った。もちろん、時頼が幕府の重臣なのは知らずに...。
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後に鎌倉に異変が起こり、時頼が全国の武士に召集をかけた際に佐野源左衛門は痩せこけた馬に乗って真っ先に鎌倉に駆けつけた、という。感動した時頼は
源左衛門の旧領を安堵し、更に「鉢の木」を燃した礼として木の種類にちなんだ加賀の
梅田、越中の
桜井、上野の
松井田の三ヶ荘を与えた。
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※執権の継承:・・・時頼の嫡子
時宗 は若年のため、二代を挟んだ後の第八代執権を務めた。五代時頼〜六代
長時〜七代
政村〜八代時宗の順となる。
【更に、
謡曲「鉢の木」について。 実際はどこで何があったのか?】
1.ど〜も佐野源左衛門常世は実在の人物ではなく、モデルもいなかった。謡曲の主人公として作り上げられた人物だった、らしい。
2.もともと「鉢の木」の舞台とされたのは栃木県の佐野ではなく 群馬県高崎市南部の烏川沿いにある下佐野町と上佐野町の一帯らしい。
3.高崎の佐野町には「常世神社」や「定家神社」がある。場所は
(高崎市佐野町一帯の地図) を参照。
4.「佐野」は群馬県の古碑にも刻まれている古い地名で、碑に残る「佐野の舟橋」は平安時代以降に上野 (群馬) を表す歌枕だった。
5.新古今集の歌人
藤原定家の名が付いた定家神社が佐野町にあるのも、歌枕の佐野から和歌を連想して造られたと思われる。
6.時頼は執権を辞して出家し、病床に就いてからも完全な独裁体制を敷いた。廻国伝説そのものが捏造である。
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要するに...佐野市にある佐野源左衛門の墓って何なんだ?どころか、要するに全てがフィクションの世界に過ぎなかった、という事。