般若院は伊豆山権現の別当寺として繁栄した密厳院東明廃寺がルーツとなる。初代の院主は
頼朝 が帰依した文陽房覚渕(
加藤景廉 の兄)、頼朝が覇権を握ると共に密厳院の院主となって伊豆山全体を統率し代表する存在に抜擢された。
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【吾妻鏡 治承四年(1180) 10月11日】.
早朝、御台所政子 が鎌倉(の御所)に入った。昨夜のうちに伊豆阿岐戸郷 (伊豆山の海沿い) から到着したのだが日取りが良くないため稲瀬川
(長谷観音に近い由比ガ浜付近が河口) 近くのの民家に留まっていた。また、走湯山の住僧である専光坊良暹が以前の約束に従って共に鎌倉入りした。これは頼朝の仏典の師である。
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そして翌日には小林郷北山に萱葺きの社殿(現在の鶴岡八幡宮の地)を建て、専光坊良暹を別当に任命した。走湯権現の僧が鎌倉における宗教上の指導者に就任した、伊豆山にとっては実に悦ばしい厚遇である。
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般若院の現在の宗派は真言宗で
高野山 金剛峰寺(公式サイト)の末寺だが鎌倉時代初期は天台宗、典型的な神仏習合寺院だった。明治初期の廃仏毀釈を伴う神仏分離までは同じエリアに伊豆大権現(いわゆる土着の神・山岳信仰の拠点)と仏教寺院が互いに補完しつつ融合し等しく祀られていた。
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現在は伊豆八十八ヶ所霊場の24番を兼ね、本尊の阿弥陀如来の他に社宝の木造伊豆山権現立像 (神仏分離で般若院に遷され、現在は
奈良国立博物館(公式サイト)収蔵か?) の他にも国宝級の仏像があるらしいが、全て非公開である。残念!
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天正十八年(1590)の秀吉による小田原攻めの際に伊豆山の衆徒が北条氏に味方したため、密厳院も伊豆山権現と同様に焼き尽くされた。文禄三年(1594・秀吉死没の4年前)に徳川家康が高野山の僧快運を招いて再興、慶長十七年(1612・豊臣滅亡の3年前)まで、完成に18年を費やしたと伝わる。
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神宮寺だった密厳院は家康から走湯山般若院の称号を与えられて伊豆山権現と共に復活、神仏分離と廃仏毀釈の嵐が吹いた明治初期までは12の僧坊と7ヶ所の修験坊を擁して繁栄していた。今では特徴のない小さな寺院だが、別項で紹介の
伊豆山権現と走り湯 や
密厳院跡(共に別窓)と併せての拝観をお薦めする。
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右:今では廃止となった般若院共同湯 拡大画像なし
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古いデータを整理していたら懐かしい般若院共同湯の画像が見付かった。伊豆山神社の周辺を歩いた夕方には熱い湯を楽しめたのだが2005年4月に閉鎖。現在も利用できる浜浴場と同じ伊豆山観光協同組合の運営で、隣接する般若院の駐車場が使えたのも便利だった。
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昔ながらのタイル貼りの小判型浴槽と小さな上がり湯の浴槽だけで勿論露天風呂などなし、すぐ隣の源泉井から湧出温度63℃の、無色透明・薄い塩味のクセのない湯が湧いていた。
午後2時〜夜10時までの営業、料金は250円(浜浴場は350円)。温度調節用の蛇口はあるが、実質的にほぼ掛け流しの共同湯だった。
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どこの温泉地でもこのタイプの共同湯が減っている。施設の老朽化・不採算・地域コミュニティの衰退...寂しいけど時代の流れなんだろうな。